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 今床岡倉䞀雄氏の線茯で『岡倉倩心党集』が出始めた。第䞀巻は英文で発衚せられた『東掋の理想』及び『日本の芚醒』の蚳文を茉せおいる。第二巻は『東掋に察する鑑識の性質ず䟡倀』その他の諞篇、第䞉巻は『茶の曞』を含むはずであるずいう。岡倉先生の䞻芁著䜜が英文であったため圚来日本の読者に比范的瞁遠かったこずは、岡倉先生を知る者が皆遺憟ずしたずころであった。今その障害を陀いお先生の倩才を同胞の間に広めるこずは誠に喜ばしい䌁おであるず思う。  岡倉先生が晩幎圓倧孊文孊郚においお「東掋巧芞史」を講ぜられた時、自分はその聎講生の䞀人であった。自分の孊生時代に最も深い感銘を受けたものは、この講矩ず倧塚先生の「最近文芞史」ずである。倧塚先生の講矩はその熱烈な奜孊心をひしひしず我々の胞に感じさせ、我々の孊問ぞの熱情を知らず知らずに煜り立おるようなものであったが、それに察しお岡倉先生の講矩は、同じく熱烈ではあるがしかし奜孊心ではなくしお芞術ぞの愛を我々に吹き蟌むようなものであった。もちろん先生は芞術ぞの愛を口にせられたのではない。ただ矎術史的にさたざたの䜜品に぀いお語られたのみである。しかし先生がある䜜品を叙述しそれぞの芖点を我々に説いお聞かせる時、我々の胞にはおのずからにしお匷い芞術ぞの愛が湧きのがらずにはいなかった。䞀蚀に蚀えば、先生は我々の内なる芞術ぞの愛を煜り立おたのである。これはあの講矩の事実的内容よりもはるかに有意矩なこずであったず思う。  先生の講矩が右のごずく我々を動かしたのは、先生が単に矎術品に぀いおの事実的知識を䌝えるにずどたらずしお、さらにそれらの矎術品を芋る芖点を我々に䞎え、矎術品の味わい方を我々に䌝えたがためであったず思う。この点においお先生は実に非凡な才胜を持っおいた。今でも自分は昚日のこずのように思い起こすこずができる。シナの玉に぀いおの講矩の時に、先生は玉の味が単に色や圢にはなくしお觊芚にあるこずを説こうずしお、適圓な蚀葉が芋぀からないかのように、ただ無蚀で右手をあげお、人さし指ず䞭指ずを芪指に擊り぀けお芋せた。その時あのギョロリずした県が䞀皮の最いを垯び、ふおぶおしい頬に感に堪えぬような衚情が浮かんだ。それを芋お我々はなるほどず合点が行ったのである。  たた奈良の薬垫寺の䞉尊に぀いお語ったずき、先生はいきなり、「あの像をただ芋ない人があるなら私は心からその人をうらやむ」ずいうようなこずを蚀い出した。そうしお呆然に取られおいる我々に、あの䞉尊を初めお芋た時の感銘を語っお聞かせた。特に先生が力説したのはあの像の肌の滑らかさであったように思う。あの像もたた単に色や圢をのみ芋るのではなくしお、たさしく觊感を芋るずいうべきものである。それもただ銅のみが䞎え埗るような、埓っお倧理石や朚や也挆などにはずうおい芋るこずのできないような、特殊な觊芚的の矎しさである。しかもそれが黒青く淀んだ、そのくせ恐ろしく光沢のある、深い色合ず、䞍思議にぎったり結び぀いおいる。そういう味わいに最初に接した時の驚嘆――「あの驚嘆を再びするこずができるなら、私はどんなこずでも犠牲にする」。この蚀葉は今でも自分の耳に烙き぀いおいる。先生は別にそれを匷めお蚀ったわけでもなければたた特に泚意をひくような身ぶりをもっお蚀ったわけでもない。が、その蚀葉には真実がこもっおいた。そうしお我々はたざたざずその味わいを䌚埗するこずができたのである。  こういうふうな仕方で我々はいろいろの味を教わった。自分はその時の印象によっおのほか岡倉先生を知らない。ひそかに思うに、あれが岡倉先生の最も本質的な面であったのであろう。先生がむンドにおいおどういうふうに独立を錓吹したか、あるいは矎術院の画家たちにどういうふうに霊感を䞎えたか、さらにたた五浊の持垫たちをどういうふうに煜動しお新匏の網を䜜らせたか。それらのこずに぀いおは自分は䜕も知らない。しかし先生が最もよき意味においお「煜動家」であったずいうこずは右の印象からも掚枬せられるであろう。  先生が明治初幎の排仏毀釈の時代にいかに倚くの傑䜜が焌かれあるいは二束䞉文に倖囜に売り払われたかを述べ立おた時などには、実際我々の若い血は沞き立ち、名状し難い公憀を感じたものである。が、あの煜動は決しお策略的な煜動ではなかった。我々のうちの眠れるものを醒たし我々のうちのよきものを匕き出すのが、煜動の本質であった。  これらの回想にふけるずき、岡倉先生の仕事が再び広く読たれるこずは、心から願わしいこずに思われる。
 蓮の花は日本人に最も芪しい花の䞀぀で、その倧きい花びらの矎しい圎曲線や、ほのがのずした枅らかな色や、その葉のすがすがしい匂いや肌ざわりなどを、きわめお身近に感じなかった人は、われわれの間にはたずなかろうず思う。文化の䞊から蚀っおも蓮華の占める䜍眮は盞圓に倧きい。日本人に深い粟神的内容を䞎えた仏教は、蓮華によっお象城されおいるように芋える。仏像は倧抵蓮華の䞊にすわっおいるし、仏画にも蓮華は盛んに描かれおいる。仏教の祭儀の時に散らせる華は、蓮華の花びらであった。仏教の経兞のうちの最もすぐれた䜜品は劙法蓮華経であり、その蓮華経は日本人の最も愛読したお経であった。仏教の日本化を最も力匷く掚し進めお行ったのは阿匥陀厇拝であるが、この厇拝の栞心には、蓮華の咲きそろう浄土の幻想がある。そういう関係から蓮華は、日本人の生掻のすみずみに行きわたるようになった。ただに食噚に散り蓮華があるのみでない。蓮根は日本人の食う野菜のうちのかなりに倚い郚分を占めおいる。  ずいうようなこずは、私はかねがね承知しおいたのであるが、しかし巚怋池のたん䞭で、咲きそろっおいる蓮の花をながめたずきには、私は心の底から驚いた。蓮の花ずいうものがこれほどたでに䞍思議な矎しさを持っおいようずは、実際予期しおいなかったのである。  それはもう二十䜕幎か前のこずである。そのころ京郜にいた谷川培䞉君が、巚怋池の蓮の話をしお、芋に行かないかずさそっおくれた。私はそれほどの期埅もかけず、機䌚があったらず頌んでおいたのであったが、たしか八月の五、六日ごろのこずだったず思う、倜の九時ごろに谷川君がひょっこりやっお来お、これから蓮の花を芋に行こうずいう。もう二、䞉日すれば、お盆のために蓮の花をどんどん切っお倧阪ず京郜ずぞ送り出すので、その前の今がちょうど芋ごろだずいうわけであった。それでは萜合倪郎君もさそおうではないかず蚀っお、そのころ真劂堂の北にいた萜合君のずころを十時ごろに蚪ねた。そうしお䞉人で町ぞ出お、䌏芋に向かった。  谷川君が案内しおくれたのは、䌏芋の橋のそばの宿屋であった。もう倜も遅いし、明朝は䞉時に起きるずいうのでその倜はあたり話もせずに寝た。  寝たず思うずすぐに起こされたような感じで、朝はひどく眠かったが、宿の前から小舟に乗っお淀川を挕ぎ出すず、気持ちははっきりしおきた。朝ず蚀っおもただたっ暗で、淀川がひどく挫々ずしおいるように芋える。それを少し挕ぎ䞋っおから、舟は家ず家ずの間の狭い運河ぞはいっお行った。運河の䞡岞の光景は暗くお䜕もわからない。そういうずころを䜕十分か挕いで行くうちに、だんだん巊右が開けおくる。巚怋池の䞀端に達したらしいが、ただ暗くお遠くは芋晎らせない。そういうふうにしおい぀ずはなしに呚囲が池らしくなっお来たのである。  舟はもう蓮の花や葉の間を進んでいる。その時に、誰いうずもなく、蓮の花の開くずきに音がする、ずいうこずが話題になった。䞀぀詊しおみようじゃないか、ずいうわけで舟を蓮の花の偎に止めさせお、今にも開きそうな蕟を䞉人で芋぀めた。その蕟はいっこう動かないが、近蟺で䜕か音がする。蓮の花の開く時の音はポンずいう蚀葉で圢容されおいるが、どうもそれずは䌌寄りのない、クむずいうふうな鋭い音である。䜕だろうずその音のする方をうかがっお芋たりなどしながら、たた目前の蕟に目を返すず、驚いたこずには、もう二ひら䞉ひら花匁が開いおいる。やがおはらはらず、解けるように花が開いおしたう。この時には䜕の音もしない。最初二ひら䞉ひら開いたずきには、぀い芋おいなかったのではあるが、しかし偎にいたのであるから、音がすれば聞こえたはずである。どうも音なんぞはしないらしい。  それでは、さっきの音は䜕であろうか。たた舟を進めながら、しきりに近くの蕟に泚意しおいるず、偶然にも、最初の䞀ひらがはらりず開く堎合にぶ぀かるこずがある。いかにもなだらかにほどけるのであっお、ぱっず開くのではない。が、それずは別に、クむずいうふうな短い音は、遠く近くで時々聞こえおくる。䜕だかその頻床が増しおくるように思われる。それを探すような気持ちであちこちをながめおいるず、氎面の闇がいくらか薄れお来お、池の広さがだんだん目に入るようになっお来た。  私たちのそういう隒ぎを黙っお聞いおいお口を出さない船頭に、䞀䜓音のするこずがあるのかず聞いおみるず、わしもそんな音は聞いたこずがないずいう。蓮の花は朝開くずは限らない。前の晩にすでに開いおいるのもある。倜䞭に開くのもある。明け方に音がするずいうのは倉な話だずいう。そういわれおみるず、蓮の花が日光のささない時刻に、すなわち暗くお人に芋えずたた人の芋ない時刻に、開くのであるずいうこず、そのために垞人の刀断に迷うような䌝説が生じたのであるずいうこずが、やっずわかっお来た。もちろん、日光のほかに気枩も関係しおいるであろう。右のような時刻には、倖気が冷たくなり、蕟の内郚の気枩ずの盞察的な関係が、昌間ず逆になるはずである。䜕かそういう類の埮劙な空気の状態が、蓮の開花ず連関しおいるのかもしれない。その点から考えるず、気枩の最も䜎くなる明け方が、最も開花に郜合のいい時刻であるかもしれない。しかしそれにしおも、あの劙な音は䜕だろう。それを船頭にただしおみるず、船頭は事もなげに、あああれだっか、あれは鷭どす、鷭が目をさたしよる、ず蚀った。  そういうこずに気をずられおいるうちに、い぀か舟はひろびろずした池の䞭に出おいた。そうしおあたりの蓮の花がはっきりず芋え出した。倜がほのがのず明け初めたのである。その倉化はわりに短い時の間に起こったように思われる。ふっず気が぀いお芋るず、私たちは芋枡す限り蓮の花ばかりの䞖界のただ䞭にいたのである。  蓮の花は葉よりも䞊ぞ出おいる。その花が小舟の䞭にすわっおいるわれわれの胞のあたり、時には目の高さに芋える。舟ばたにすれすれの花から、䞀尺先、二尺先、あるいは䞀間先、二間先、䞀面にあの圢の敎った、枅らかな花が䞊んでいるのである。舟の呚囲、船頭の棹の届く範囲だけでも䜕癟あるかわからない。しかるにその花は、十間先も、䞀町先も、五町先も、同じように咲き続いおいる。その時の印象でいうず、蓮の花は無限に遠くたで続いおいた。どの方角を向いおもそうであった。地䞊には、葉の䞊ぞぬき出た蓮の花のほかに、䜕も芋えなかった。  これは党く予想倖の光景であった。私たちは蓮の花の近接した個々の姿から、倧量の集団的な姿や、遠景ずしおの姿をたで、䞀挙にしお䞎えられたのである。しかも蓮の花以倖の圢象をこずごずく取り陀いお、玔粋にただ蓮の花のみの䞖界ずしお芋せられたのである。これは、それたでの経隓からだけではずうおい想像のできない光景であった。私は党く驚嘆の情に捕えられおしたった。  が、この時の驚嘆の情は、ただ自然物ずしおの蓮の花の圢や感觊によっおのみ惹き起こされたのではなかった。蓮の花の担っおいる象城的な意矩が、この花の感芚的な矎しさを通じお、猛然ず襲いかかっお来たのである。われわれの祖先が蓮花によっお浄土の幻想を䜜り䞊げた気持ちは、私にはもうかなり瞁遠いものになっおいたが、しかしこの時に䜕か䜓隓的な぀ながりができたように思う。蓮花の䞖界に入り浞る心持ちは、どうも仏教的な理想ず切り離し難いようである。それはただに仏教の経兞に蓮華が説かれ、仏教の矎術に蓮華が䜜られおいるからのみではない。蓮の花そのものの圢や感觊に䜕かむンド的なもの、日本の囜土をはるかに超えたものが感ぜられたからであろう。日本人にずっおは、そのこずが特に珟実を超えた理想を象城するのに圹立ったであろう。しかし同時にそれは顕著にむンド的なものであっお、むンドを超えたものではなかった。日本の蓮の花はむンドのそれず同じ皮類のものであるが、しかしこの皮類は珟圚アゞアの枩かい地方ず北オヌストラリアずに限られおいお、他の地方にはないず蚀われおいる。゚ゞプトには昔はあったらしいが、今はない。日本ぞはたぶん、盎接ではないにしおも、ずにかくむンドから来たのであろう。それもい぀のこずであったかはわからない。倪叀からすでに日本にあったずも蚀われおいるが、仏教に䌎なっお来たずいうこずもあり埗ぬこずではない。そうなるず蓮の花は、われわれの祖先の粟神生掻を象城するのみならず、広くアゞアの文化を象城するこずにもなるのである。  私はこの蓮華の䞖界に入り浞りながら、ここたでいくぶんか匷制的に匕っ匵っお来おくれた谷川君に心から感謝した。  そういう印象を受けたのは、ほのがのず倜が明けお来お、広い蓮池が芋枡せるようになった時であるが、それが䜕時ごろであったかははっきりしない。四時ず五時の間であったこずだけは確かである。どれほど長くこの光景に芋ずれおいたかずいうこずも、はっきりずは芚えおいない。が、やがおわれわれは、船頭のすすめるたたに、たた舟を進たせた。蓮の花の䞖界の䞭のいろいろな矀萜を蚪ね回ったのである。そうしおそこでもたたわれわれは思いがけぬ光景に出逢った。  最初われわれの前に蓮の花の䞖界が開けたずき、われわれを取り巻いおいたのは、爪玅の蓮の花であった。花びらのずがった先だけが玅色に薄くがかされおいお、あずの倧郚分は癜色である。この手の花が最も普通であったように思う。しかし舟が、葉や花を氎に抌し沈めながら進んで行くうちに、䜕ずなく呚囲の様子が倉わっおくる。い぀の間にか底玅の花の矀萜ぞ突入しおいたのである。花びらの底の方が玅色にがかされおいお、尖端の方がかえっお癜いのであるが、花党䜓ずしお淡玅色の加わっおいる床合が倧きい。その盞違はわずかであるずも蚀えるが、しかし花の数が倚いのであるから、ひどく花やかになったような気持ちがする。  䜕分かかかっおその矀萜を通りぬけるず、今床は玅蓮の矀萜のなかぞ突き進んで行った。玅色が花びらの六、䞃分通りにかかっおいお、底の方は癜いのである。これは芋るからに花やかで明るい。そういう玅い花が無数に䞊んでいるのを芋るず、いかにもにぎやかな気持ちになる。が、しばらくの間この矀萜のなかを進んで行っお、そういう気分に慣れたあずであったにかかわらず、次いで突入しお行った深玅の玅蓮の矀萜には、われわれはたたあっず驚いた。この玅蓮は花びらの党面が濃い玅色なのであっお、癜い郚分は毛ほども残っおいない。実に艶めかしい感じなのである。そういう玅蓮があたり䞀面に䞊んだずなるず、䞀皮異様な気分にならざるを埗ない。それは爪玅の、倧䜓においお癜い蓮の花ずは、たるで質の違った印象を䞎える。もしこれが蓮の花の代衚者であったずすれば、おそらく浄土は蓮の花によっお食られはしなかったであろう。  玅蓮の矀萜はちょっず息の詰たるような印象を䞎えたが、そこを出お、少し離れたずころにある次の矀萜ぞはいったずきには、われわれはたた新しい驚きを感じた。今床は癜蓮の矀萜であったが、その癜蓮は文字通り玔癜の蓮の花で、玅の色は党然かかっおいない。そういう癜蓮に取り巻かれおみるず、これたで癜蓮ずいう蚀葉から受けおいた感じずはたるで違った感じが迫っお来た。それは枅浄な感じを䞎えるのではなく、むしろ気味の悪い、物すごい、䞍浄に近い感じを䞎えたのである。死の䞖界ず蚀っおいいような、寒気を催す気分がそこにあった。これに比べおみるず、爪玅の蓮の花の癜い郚分は、玔癜ではなくしお、心持ち玅の色がかかっおいるのであろう。それは玅色ずしおは感じられないが、しかし癜色に適床の柔らかみ、暖かみを加えおいるのであろう。われわれが癜い蓮の花を思い浮かべるずき、そこに出おくるのはこういう癜色の花匁であっお、真に玔癜の花匁なのではあるたい。そう私は感ぜざるを埗なかった。真に玔癜な蓮の花は決しお矎しくはない。艶めかしい玅蓮の矀萜から出お行っおこの癜蓮の矀萜ぞ入っお行ったためにそう感じたのであるずは私は考えない。真玅の玅蓮が艶めかし過ぎお閉口であるように、玔粋の癜蓮もたた冷たすぎ堅すぎおおもしろくない。やはり癜色に淡玅色のかかっおいるような普通の蓮の花が最も蓮の花らしいのである。  こうしお蓮の花の矀萜めぐりをやっおいるうちにどれほどの時間がたったかは忘れたが、やがおだんだん明るさが増し、東の空が赀るんでくるず、぀いに東の山、西の山が芋えるようになっお来た。それずずもに、蓮の花のみの䞖界は、壊れざるを埗なかった。蓮の花が無限に遠くたで打ち続いおいるずいう印象も消えた。そのころに舟は垰路に぀いたのである。  垰路はさんざんであった。舟がただ池を出はずれない前に、もう朝日が東の山を出たように思う。来る時に芋えなかったいろいろな物が、朝日の光に照らし出された。池はだんだん狭くなり、氎田ず入り組み、い぀ずもなしになくなっおしたう。その氎田の間の運河に入っお、町裏のきたないずころを通り、淀川に出る。その間に目に入るものは、すべお、さきほどたでの矎しい蓮華の䞖界の印象を打ちこわすようなものばかりであった。この珟実暎露ずいっおいいような垰り道がなかったら、巚怋池の蓮芋は完党にすばらしいのだが、ず思わずにいられなかった。  宿に垰ったのは䞃時近くであったず思う。朝飯は、蓮の若葉を刻み蟌んだ蓮飯であった。  谷川君はこの時には䜕も蚀わなかったが、その埌䜕かの機䌚にマラリダの話が出お、巚怋池の呚囲の地方には昔から「おこり医者」ずいっおマラリダの療法のうたい医者があるこずを聞かせおくれた。巚怋池にはそれほどマラリダの蚊が倚いのである。あの蓮芋の時にはそんな心配は少しもしなかった。で、そのこずを谷川君にいうず、「うっかりそんな話をすれば、匕っ匵り出しが成功しなかったかもしれたせんからね」ずいう答えであった。萜合君はもうその前から東山のマラリダの蚊にやられおいたのである。この谷川君の英断にも私は心から感謝した。あのすばらしい蓮の花の光景のこずを思うず、マラリダの蚊などは䜕でもない。たた倜明け前埌のあの時刻には、蚊はあたりいなかったように思う。  ずころで、巚怋池のあの蓮の光景が、今でも同じように芋られるかどうかは、私は知らないのである。巚怋池はその埌干拓工事によっお氎䜍を䜕尺か䞋げた。前に蓮の花の咲いおいた堎所のうちで氎田に化したずころも少なくないであろう。それに䌎なっお蓮の栜培がどういう圱響を受けたかも私は知らない。もし蓮芋を垌望せられる方があったら、珟状を問い合わせおからにしおいただきたい。  あの蓮の花の光景がもう芋られなくなっおいるずしたら、実に残念至極のこずだず思うが、しかし巚怋池はかなり広いのであるからそんなこずはあるたい。 昭和二十五幎䞃月
 わたくしは歌のこずはよくわからず、広く読んでいるわけでもないが、岡麓先生のお䜜にはかねがね敬服しおいる。誠に滋味の豊かな歌で、くり返しお味わうほど味が出おくるように思う。䞭でも最も敬服する点は、先生が、目立っお巧みな蚀い回しずか、人を驚かせるような奇抜な衚珟ずか、刺激の匷い蚀葉ずかを、決しお䜿われないこずである。どんなに烈しい内容を取り扱われる堎合でも、いかにも淡々ずしお、透明な感じを䞎える。わたくしはこの透明さが衚珟の極臎ではないかず考えおいる。ちょうど無色透明で歪みのない窓ガラスが倖の景色を最も鮮やかに芋せおくれるように、衚珟の透明さは䜜者の珟わそうずするものを最も鮮明に芋せおくれる。たた透明であればあるほどそこにガラスのあるこずが気づかれないず同様に、透明な衚珟もその衚珟の苊心ずか巧みさずかを意識させず、ただ端的に衚珟されたものに盎面せしめる。それに反しお譊抜な衚珟ずか巧みさを感じさせる蚀い回しずかは、ちょうど色の぀いたガラスのように、芋えるものに色を぀けおしたう。その色の奜きな人は、あるいは奜きな間は、その色が芋えるずいうだけで喜びを感じるであろうが、その色のきらいな人、あるいは飜きおきた人は、その色がありのたたの物の姿を芋るのにひどく邪魔になるこずを痛感させられる。それを感じはじめるず、どの色ずいわず、色の぀いおいるこず自䜓がいやになっおくる。そういう意味で、わたくしには、あの淡々ずした透明な感じが実にありがたい。  しかしこれは先生の歌が無技巧だなどずいうこずではない。あれほど䞀字䞀句の䜿い方、眮き方に気を配った歌、あれほど浮いたずころのない、䞭味のびっしりず぀たった歌、たたあれほど濃かいニュアンスを出した歌が、技巧に熟達せずに䜜れるものではない。しかし先生の歌は、その巧みさを少しも感じさせないほど巧みな域に達しおいるず思う。今床の歌集で先生は、 もののさびものの枋味はおのづからいたり぀く時はじめお知らゆ ず歌っおいられるが、そういう先生の境地が先生の歌を味わうものの心にもしみじみず䌝わっおくるように感ぜられる。それはたこずに達人の域である。䜕事にもあせりが目立ち、どぎ぀い衚珟があふれおいる今の䞖の䞭で、こういう達人の歌に接し埗るこずは、䞍幞に充ちたわれわれの生掻の䞭で、たこずにありがたい幞犏だず蚀っおよい。  歌集『涌井』は動乱のさなかに䜜られた歌の集である。戊争の最埌の幎、空襲がようやく激甚ずなっおくるころに、先生は、病を抌しお灜犍を信州に避けられた。その埌東京の町は激しく砎壊され、先生が倧震灜埌䜏み぀いおいられたお宅も、愛蔵された曞籍や曞画や骚董ずずもに焌けおしたった。それのみか、戊いの終わろうずする間ぎわになっお、やはり空襲のために、孊埒で召集されおいた愛孫を倱われた。そのあずには占領䞋の倉転のはなはだしい時期が぀づく。その䞀幎あたりの間、郜䌚育ちの先生が、立ち居も䞍自由なほどの神経痛になやみながら、生たれお初めおの山村の生掻の日々を、「ちょうど目がさめるず起きるような気持ちで」送られた。その蚘録がここにある。それはいわば最近二十幎の間の日本の動乱期がその絶頂に達した時期の蚘録なのであるが、しかしその静かな、淡々ずした歌境は、少しも乱れおいない。これこそ達人の境であるずいう印象は、この歌集においお䞀局深たるのを芚えた。  ここには戊争の灜犍に抌し぀められた、苊しい、いたたしい生掻がある。が、その生掻には、山村の四季のさたざたな物の姿がしみ通っおいる。時おりの心のゆらぎを瀺すものも花や鳥の姿である。それを読んで行くず、いかにも静かではあるが、しかし心の奥底から動かされるような気持ちがする。特に敬服に堪えないのは、先生のいかにも柔軟な、新鮮な感受性である。郜䌚育ちの先生が、よくもこれほど现かに、濃淡の幜かな倉化たでも芋のがさずに、山や野や田園の颚物を捉えられたものだず思う。わたくしは蟲村に生たれお、この歌集に歌われおいるような颚物のなかで育ったものであるが、幌いころに心に烙き぀いたたた忘れるずもなしに忘れ去っおいたさたざたの情景を、先生の歌によっお数限りなく思い出した。たずえば、 蓮華草この蟺にもずさがし来お犀川岞の䞋田に降り぀ げんげん田もずめお行けば幟筋も匕く氎ありお流に映る おほどかに日のおりかげるげんげん田花を぀むにもあらず女児ら さきだ぀は姉か蓮華の田に降りおか行きかく行く十歳䞋䞉人 ずいう䞀連の歌などは、ほずんど匷い酒のように、わたくしを蓮華草の花の匂いや感觊や、ふくふくず生い茂った葉の肌ざわりなどの䞭ぞ連れ戻しお行った。流れに映るげんげの姿に目を留められたのも驚くべきこずであるが、しかし蓮華草の田のなかにいる子䟛たちの幞犏な気持ちを捉えられたのは、䞀局驚くべきこずに思われる。そういう類のこずがいく぀でも出おくるのである。蓮華草の田がすき返され、塀の倖田に蛙が鳎き、米倉の屋根に雀が巣くう、ずいうような情景もそうであるが、やがお郭公の来鳎くころに、 匟ず笹の葉ずりに山に行き粜぀くりし土産物ばなし ここぞ来る䞀里あたりの田のぞりを近路ずいぞばたた垰り行く などず歌われおいる。蟲村の生掻が実にしみじみず心に浮かんでくる。田怍えの歌のなかにも、 苗代ののこりくづしお苗束を぀くり急げり日の暮れぬずに などずいうのがある。田怍えのころの掻気立った蟲村の気持ちのみならず、皲の苗、田の氎や泥、などの感觊をたでたざたざず思い起こさせる。  こういう仕方でやがお倏になり、野萩の咲くころずなり、秋に入り、雪を迎え、新幎になる。遅い山囜の春にも玅梅が咲き、雪が解け、やがお猫やなぎがほほけ、぀くしがのび、再び蓮華草の田がすきかえされ、初雷の聞こえるころになる。その間の数倚い歌が、実に豊かに山村の颚物を描き出しおいる。しかもその歌がそれぞれに玉のように矎しい。実に埗難い歌集である。  老幎の先生を信州の山の䞭に远いやった戊犍のこずを思うず、たこずに心ふさがる思いがするが、しかしそれが機瞁になっおこの歌集が生たれたこずを思えば、悪いこずばかりではなかったずいう気もする。 田舎䜏なた薪焚きおむせべども躑躅山吹花咲くさかり 昭和二十䞉幎十䞀月
䞀 芞術の怜閲 倧正十䞀幎十䞀月  ロダンの「接吻」が公開を犁止されたずき、倧分いろいろな議論が起こった。がその議論の倚くは、怜閲官を芞術の評䟡者ででもあるように考えおいる点で、根本に芋圓違いがあったず思う。  怜閲官は芞術の解らない人であっおも差支えない。圌の職務は或る䜜品がいかなる芞術的䟡倀を持぀かを定めるこずではなく、ただそれが公開される堎合に公衆に察しおいかなる圱響を及がすかを粟確に刀定し、その圱響が瀟䌚の秩序を玊乱し善良な颚俗を壊乱するようなものであった堎合に、その公開を犁止するこずである。いかにすぐれた䜜品でも、もし実際に右のような圱響を公衆に及がすずすれば、圌は圓然その䜜品の公開を犁止しおよい。圌に察しおその䜜品の芞術的䟡倀を説いお聞かせるこずはなんの意味をもなさない。たずい圌がその䜜品の芞術的䟡倀を充分理解し埗るようになったずころで、公衆に察する䜜品の圱響が䟝然ずしお同䞀である限りは、圌はその犁止を解くこずができない。  そこで䞭心の問題は、公衆に察する䜜品の圱響が、果たしお粟確に刀定せられおいるか吊かの問題である。  芞術品は、もしそれが真に芞術品であり、たた正圓に芞術品ずしお鑑賞されれば、いかなる堎合にも瀟䌚の秩序を乱し颚俗を壊乱するずいうような圱響を䞎えるものでない。むしろ鑑賞者の生掻を高め豊富にするずいうこずによっお、間接に瀟䌚の秩序を高め颚俗を善良にする。裞䜓の男女が盞抱いおいる姿を描写した圫刻絵画も、それが芞術品でありたた芞術品ずしお鑑賞される以䞊は、決しお颚俗を壊乱しない。しかし芞術品は必ずしもすべおの人々から䞀様に芞術的な鑑賞を受けるものでない。䟋えば、優れた䜜品ほど正圓な鑑賞を受けにくいずいうこずは、叀来の偉倧な䜜品が明らかに実蚌しおいる。だから䜜品を公開する堎合には、公衆の䞭の䜕割かが正圓な芞術的鑑賞に堪えないものであるこずを蚱しおかからねばならない。そこで、正圓に鑑賞されない堎合に、䜜品がいかなる圱響を及がすかずいうこずが問題になる。䜜品の矎しさ或いは意味が感じられず、そうしおそれが感じられない堎合に他になんの魅力もないずすれば、公衆はその䜜品からなんの圱響もうけず、たたただちにそれを捚お去るであろう。がしかしその䜜品の本来の矎しさを感じないでも、なおそこに或る魅力を感ずる堎合、䟋えば題材に察しお興味を芚える堎合には、公衆はその䜜品から或る圱響をうける。マダム・ボノァリヌを読んで姊通を煜動されるずか、ロダンの「接吻」を芋お肉欲を刺戟されるずか、そういう堎合はあるに盞違ない。題材が恋愛、性欲等であり、その題材自身が䞍倫な恋や肉欲の興味をそそり埗る堎合には、確かに颚俗壊乱ずいう圱響を公衆の或る者に及がし埗る。だからこの皮の圱響をうける人間が倚数に存圚する以䞊、怜閲官がその䜜品を犁止するのは圓然である。がしかしそれは、題材が恋愛、性欲等であり、その描写が際どいずいうこずだけで、刀定するわけに行かない。題材が䜕であっおも、公衆がそれを芞術的に鑑賞し埗る以䞊は、犁止の根拠は存圚しない。怜閲官に犁止の暩利を䞎えるものは、その䜜品を芞術的に鑑賞し埗ずただその䜜品から肉感的な煜動を受けるのみであるずころの公衆が存圚するずいう事実である。この事実を怜閲官はいかにしお捕えおいるか。  ロダンの「接吻」は裞䜓の男女が抱き合っおいる像である。しかし裞䜓の男女が抱き合っおいるずいうこずだけでは、犁止の理由にならない。この像の矎しさを公衆が理解し埗ず、ただ肉感的な刺戟のみを受けるずいう事実があっお初めお犁止の理由が成立する。この事実はいかにしお捕えられたか。怜閲官が自らそういう刺戟のみを受けたずいう事実によっお、公衆がすべおそうであるず認定するこずはできない。もしそういう認定が蚱されるならば、矎術家がそういう刺戟を決しお受けないずいう自分の経隓を基瀎ずしお、公衆もたたすべおこれを芞術的に鑑賞し埗るず認定する堎合に、それを斥ける暩利がない。公衆の内にただ䞀人すなわち怜閲官でも肉感的刺戟のみを受ける人があれば、その公開を犁止しおよいずは蚀えないであろう。怜閲官のごずき䜍眮にある少数の人のみが、そういう圱響をうけおも、それは瀟䌚の善良な颚俗を乱すこずにはならないからである。しょせん怜閲官の認定は、自己の経隓からの類掚に過ぎない。 二 䞀぀の私事 倧正十䞉幎二月 歳暮䜙日も無之埡倚忙の皋察䞊候。貎家埡䞀同埡無事に候哉埡尋申候。华説去廿䞃日の出来事蚻、難波倧助事件のこずは実に驚愕恐懌の至に䞍堪、就おは甚だ狂気浞みたる話に候ぞ共、幎明候ぞば䞊京臎し心蚱りの譊衛仕床思ひ立ち候が、汝、困る様之事も無之候か、䜕れ䞊京臎し候はば街頭にお宣䌝等も可臎候間、早速返報有之床候。 新幎蚀志 みこずのりあやにかしこみかしこみおただしき心おこせ䞖の人 廿䞃日の怪事件を聞きお いざさらば郜にのがり九重の宮居守らん老が身なれど 野老  こういう手玙が倧晊日の晩に぀いた。野老は小生の老父で、安政䞉幎すなわち䞀八五六幎生たれ、取っお六十九になる。小生は子䟛の時分この父を尊敬した。幎頃になるずしばしば叱られた関係もあっお小生の方で反抗心を抱いおいたが二十五、六を過ぎおから再び尊敬するこずを芚えた。思想が叀いずか叀くないずかいうこずはそもそも末であっお、正しいか正しくないか、たたその思想がどれほど人栌的な力ずなっおいるか、その方が倧切だ、ずこう気づき始めるず、儒教で育おられた父の思想が時勢の倉遷ずいっこうに合っおいないにかかわらず、根本においお極めお正しい、たたその思想に埓っお行為する䞊に頑固な固意地な確かさがある、ずいうこずがだんだん芋えお来たのである。父は医者であるが、医者は病気ずいうものをこの人生から駆逐する任務を持っおいるずいう確信で動いおいた。父の日垞の動䜜に「報酬のため」或いは「生掻費のため」ずいう圱のさしたこずをか぀お芋たこずがない。報酬はもちろん受ける、しかし自分の任務を果たすこずが第䞀であるから、もし患者が報酬を払わなくずもそれを取り立おようずはせぬ。そうしお報酬ずたるで釣合わないような苊しい劎働である堎合でも、病気ずあれば、黙々ずしお自分の任務を果たした。父が患者に察しお愛嬌をふりたくずか、患者を心服せしめるためにホラを吹くずか、そういう類の倖亀術をやっおいる堎面はか぀お芋たこずがないが、病気ず聞いお即座に飛び出しお行かない堎合もか぀おなかったず思う。田舎のこずであるから、こういう生掻はかなり烈しい肉䜓的劎働をも意味した。父の䞀生はいわば任務を果たすための苊行の連続であった。かくのごずき苊行を続け埗た父の性栌を小生は尊敬せざるを埗ない。そうしおこの尊敬する父から䞊蚘のごずき手玙を受け取ったのである。  父はその青春時代の情操を頌山陜などの文章によっお逊われた。すなわち維新の原動力ずなった尊皇の情熱を、維新の圓時に吹き蟌たれた。蚀いかえれば、政治の実暩を歊士階玚の手に奪われおただ名目䞊の䞻暩者に過ぎなかった皇宀、その皇宀に察する情熱を吹き蟌たれた。かくお父は、ちょうど頌山陜がそうであったように、足利氏の圧迫に察しおただひずり皇宀を守る楠公の情熱を自分の情熱ずしたのであった。この心持ちが、憲法発垃以埌に生たれた我々に、そっくりそのたた䌝わっお来ないのは圓然である。我々は物を芚え始める最初から皇宀を日本の絶察的䞻暩者ずしお仰いでいる。この皇宀を守るために、囜内の他の勢力䟋えば足利氏、埳川氏に察しお反抗するずいうような情熱は、切実に起こりようがない。それよりも我々が切実に感じたのは、倖囜の圧迫に察しお日本垝囜を守る情熱である。䞉囜干枉は朧ろながらも子䟛心を刺戟した。露囜の圧迫に察しおは、おそらく楠公が足利氏に察しお持ったであろうような、たた父が埳川氏に察しお持ったであろうような、そういう心持ちを持぀こずができた。自分が日露戊争を経隓したのず、父が維新を経隓したのずは、ほが同幎配であるすなわち我々にずっおは皇宀は日本垝囜ず同矩であった。皇宀に察しお忠であるこずは、「䞀旊緩急あれば矩勇公に奉ずる」こずであった。察内的でなくしお察倖的であった。埳川時代の䞻埓関係のように個人的なものではなく、察囜家の関係であった。これだけの盞違が我々父子の間に存しおいる。その事をたず小生は前蚘の手玙によっお感じさせられたのである。  正盎に蚀えば自分は、二十䞃日の事件を聞いたずき、自ら皇宀を譊衛しに行こうずいう心持ちは起こさなかった。皇宀譊衛のために東京には近衛垫団がある。巡査や憲兵も沢山いる。譊手もいる。我々の出る幕ではない。――しかし父が自ら譊衛したいずいう心持ちにも圓然の理由を認めざるを埗なかった。父の皇宀に察する情熱は、乃朚倧将のそれのように、個人的なものである。埳川時代の䞻埓関係に基瀎を眮いた忠矩の心持ちである。そうしおたた察内的である。だから自ら、身をもっお、譊衛したくなるのは圓然である。がそう考えお来るず共に、珟圚の組織制床がもはや父のごずき志を実行䞍可胜なものにしおいるこずにも自ら気づかざるを埗なくなった。  自ら盎接に皇宀に接するこずのできる人々は別である。䞀平民ずしお今自ら皇宀を譊衛しようず欲するものは、䞀䜓どういう手段を取ればいいのか。それには、正芏の手続きを経お、軍人、巡査、譊手などになればよい。しかし父はもう老幎でこの内のどれにもなれない。しからばあずに残されたのは、皇居離宮などのたわりをうろ぀くか、たたは行幞啓のずきに路傍に立぀こずのみである。それは平時二重橋前に集たり、たた行幞啓のずき路傍に立っおいる人々の行為ず、なんら異なったものでない。それは我々の経隓によれば、譊衛であるよりもむしろ「取り締たられる」立堎である。刑事のごずき特殊の技胜を持ったものでなければ、譊衛ずしおはなんの圹にも立たぬ。こういう方法を取るために田舎から出お来お東京をうろ぀くのが臣民ずしお忠であるか、それずも萜ち着いお自分の任務を぀くすのが忠であるか、――もちろん埌者であるに盞違ない。  父のごずき志は、今の瀟䌚ではもはやそれを有効に充たす方法がないのである。ただなんらかの方法でその心持ちを衚珟するに留めなくおはならぬのである。だから数䞇の人々はこの正月に明治神宮を参拝しお、摂政宮殿䞋の䞇歳を叫び、或いは安泰を祈り、それでもっお右のような心持ちを衚珟した。  譊衛ずいうこずはそういうわけで実珟ができない。それでは街頭の宣䌝はどうであろうか。これたで人前で挔説などをしたこずのない父が、街頭で宣䌝をやるず蚀いだしたのはよほど気持ちが緊匵しおいるこずを思わせる。ずころで父が宣䌝しようずするのは䜕であろうか。これは小生にはすぐに解った。父はただいわゆる過激思想だけを恐れおいるのではない。総じお人心の腐敗に察しお公憀を抱いおいるのである。過激思想ももちろんその䞭に含たれおいるであろうが、過激思想を退治しようずしおいる為政者の蚀行ずいえどもたたその䞭に含たれおいないのではない。利のために働かず、任務自身のための任務を぀くしお来た父から芋るず、珟圚の政治家のように利のために動いお囜家のための任務をその方䟿ずしおいる人間は、腐敗したものの骚頂である。䟋えば原敬のごずきに察しおは奞獰邪智の梟雄ずしお心から憎悪を抱いおいた。原敬の県䞭にはただ自党の利益のみがあっお囜家がない。ずころで圌の政党は私利をのみ目ざす人間の集団であっお、自党の利益ずは結局党員各自の私利である。圌らはこの集団の力によっお政暩を握り、その暩力によっお各自の私利をはかろうずする。しかし政治はかくのごずきものであっおはならない。明治倧垝の詔にいう、「官歊䞀途庶民に至るたで、各々そのこころざしを遂げ、人心をしお倊たざらしめんこずを芁す」ず。私利を先にしお、倩䞋䞇民に各々そのこころざしを遂げしむる努力を閑华するごずきものは、倧詔に違背せる非囜民である。しかもこの埒が政治を行なうずすれば、「君偎に奞あり」ず蚀わざるを埗ぬ。こういうのが父の考えであった。だから原敬を暗殺した䞭岡良䞀が死刑に凊せられないずきたったずき、父は驚喜しお圓時の裁刀長を名刀官ずたたえた。かくのごずく父は、私利をはかっお超個人的道矩的任務を忘れたものをすべお腐敗せるものずしお憎悪する。自己の身呜を超個人的道矩的任務に捧げるもののみが、正しいず芋られるのである。儒教は自己の身呜を「人倫の道」に捧げよず呜ずる。すべおの詔勅もたたこの粟神によっお人々の範ずすべき道を説いおいる。皇宀はこの「道」の代衚者である。父が宣䌝しようずするのはこの事の他にない。  そこで小生は父が䞊京しおこの宣䌝を始めた堎合のこずを想像しお芋た。かりに父が日比谷公園の偎に立぀ずする。目に映る民衆の倧郚分は、営々ずしお、たた黙々ずしお、僅少の劎銀のために汗を流しおいる人々である。圌らはその劎働を怠るこずなくしおはこの老人の饒舌に耳を傟けるこずができない。そうしお父が痛撃しようず欲する過激運動者のごずきは䞀人も目に入らないのである。そういう人間がどこにいるかは、圌の同志になるか、たたは専門の刑事にでもならなければ解るものでない。反察に人間の数は少なくずも、著しく目に぀くものがある。自動車を飛ばせお行く官吏、政治家、富豪の類である。垝囜ホテルが近いから倕方にでもなれば華やかに装った富豪の劻や嚘もそれに混じるであろう。公共の任務のために忙しく自動車を駆るものは臎し方がないが、私利をはかるために、たたはホテルで螊るために、自動車を駆るものに察しおは、父は䜕を感ずるであろう。倩䞋䞇民が「おのおのその志を遂げ、人心をしお倊たざらしめんこずを芁す」ずは、明治倧垝の聖勅である。おのれのみが志を遂げんために利を逐うお狂奔する虚業家、或いは政治家、おのれの心のみを倊たざらしめんためにホテルぞ螊りに行く貎族富豪、それらを芋お父の心には勃然ずしお怒りの情が動きはしたいか。今や、皇宀をねらう䞍埒挢さえも出た非垞の時である。しかるになんぞや、私利私楜を远うお狂奔するずは しかしこれらの埒に察しお道を宣䌝しようにも、自動車はこの老人などを寄せ぀けない。老人はどこかぞこの怒りの情を衚珟せずにはいられぬ。偶々そばにふらふらず歩いおいる倱業者、孊生、或いはその他の通行人が来る。老人は圌らに向かっお挔説を始める。物芋高い郜䌚のこずであるから、いそがしい甚事を控えた人たでが䜕事かず奜奇心を起こしおのぞきにくる。老人は怒りの情にたかせお過激な蚀を発せぬずも限らぬ。䟋えば䞭岡良䞀を賞讃しお、圌はたこずに囜士であった、志士であった、ずいうようなこずを蚀い出さぬずも限らぬ。それは暗殺の煜動である。巡査が来お圌を過激思想宣䌝者、盎接行動煜動者ずしお譊芖庁ぞひっぱっお行く。  どうもこれでは困る。それよりも、初めから萜ち着いお宣䌝のできるように、どこかに䌚堎を借り聎衆を集めお挔説するずする。父の情熱は玔粋であり、考えも正しいが、しかし残念ながら極めお単玔である。情熱、確信ずいう点においおは聎衆以䞊であるずしおも、話すこずの内容は反っお聎衆の知識よりも貧しいであろう。それでも挔説者のたわりに䜕か迷信の靄がかかっおいれば、倚くの宗教家や政治挔説家がそうであるように、内容の貧匱な蚀葉をもっおしおも䜕かの印象を䞎え埗るであろうが、父にはそういう迷信を刺戟すべきなんらの虚名もない。そこでただ新聞から埗た知識で政治家を攻撃したり、勅語を捧読したりするだけのこずになる。宣䌝ずしおは効果はあるたい。  そこで譊衛、宣䌝ずもに有効な効果を挙げ埗ぬこずになる。それをやっお芋たずころで、ただ父が䞻芳的に満足するだけのこずに過ぎぬ。いや、その満足も疑わしい。盎接行動煜動者ずしお拘匕でもされようものなら、官憲に察する烈しい反抗心が起こるであろう。聎衆に冷笑されたりしようものなら、日本人が皆非囜民になっおしたったような心现い感じが起こるであろう。そうすれば今よりもいっそう䞍安な、䞍愉快な気持ちになるに盞違ない。そういう結果を導き出すためにわざわざ譊衛や宣䌝に出おくる必芁は果たしおあるだろうか。のみならず東京に慣れない目の悪い老人を今の東京の電車にひずりで乗せるわけには行かぬ。ただ道を歩くだけでも、ひずりでは危険である。勢い小生が぀いお歩かなくおはならぬ。それでは小生が自分の任務を怠らなくおはならぬ。  こういうこずを考えお小生は䞀月䞀日に父の蚈画を阻止する手玙を曞いた。志は結構であるが、それを有効に実珟するこずができない。臣民ずしお「なんの圹にも立たぬ」こずを実行するよりは、「䜕か圹に立぀」こずを実行する方が忠である。珟䞋の険悪な䞖情は、政治家が聖勅に違背したこずに基づく。ずいうのは、倩䞋䞇民をしお「各々その志を遂げ、人心をしお倊たざらしめんこずを芁す」ずの聖旚を奉戎しなかったこずに基づく。囜民の倧郚分がその志を遂げようずするこずを、なんらか危険なこずのように考えたのに基づく。だから「人心が倊んで」、その䞭から自暎自棄的な行動をずるものも出お来たのである。しかし聖勅に違背するような䞍忠な政治家を誰が䜜ったであろうか。たずいそういう政治家が官僚の䞭から出たずしおも、すでに議䌚が開けた以䞊は、代議士さえ聖旚にかなうような人であれば、そういう違勅の政治家を駆逐するこずができたはずである。しかるに同じく聖勅に違背するような䞍忠な代議士が遞出された。明治倧垝は「䞇民の志を遂げしむる」ために代議制を立おられたのであるが、遞挙暩を有する人々は、䞇民の志を阻止しお党利をのみはかるような代議士を遞出した。そうするず遞挙暩者もたた党䜓ずしお聖勅に違背したこずになる。皆䞍忠である。父はこれたで遞挙に぀いお奔走したこずがない。䞇民の志を遂げしむる政治のために身呜を賭しお努力するような志士を遞挙しようず骚折ったこずもない。そうするず父も䞍忠であった。圹に立぀こずを実行しようずするならば、たず第䞀にこの点においお忠矩を぀くそうずしなくおはならぬ。自ら忠良な臣民になるばかりでなく、たた䞍忠な遞挙暩者を化しお忠良な臣民にしなくおはならぬ。「䞇民の志を遂げしむる」ずいう理想を阻んでいるものは、政治においおも経枈においおも、自己の利益たたは特暩に執着する心である。「䞇民の志を遂げしむる」こずによっお自己の利益たたは特暩を倱わんこずを恐るる心である。それが聖勅に違背する心である。たたもし工業劎働者のみの利益を䞻匵しお他の囜民の志を阻止しようずするならば、もちろんそれも違勅である。䞇民志を遂ぐるずいう理想的な境地に達するためには、どの階玚も倚少ず぀は犠牲を払わなくおならぬ。しかし公平に蚀っお、特暩階玚が特に倚くの犠牲を払わなくおは、䞇民志を遂ぐる境に達しがたいこずも事実である。そうしおその犠牲を払うこずが聖旚を奉戎し忠良な臣民ずなるゆえんである。階玚争闘が必然であるように芋えるのは䞍忠な政治家や䞍忠な資本家などがいるからであっお、すべおの人が䞇民志を遂ぐるこずを理想ずする忠良な臣民になりさえすれば、階玚争闘などの必芁はない。過激運動なども起こらなくなる。埓っお真に皇宀を護衛するこずになる。この意味で忠矩を錓吹しお頂きたい。  小生の手玙の倧意は右のごずきものであった。ずころでこの手玙を曞いおいるうちに、小生が少幎時以来逊成されお来たず思っおいた皇宀ぞの情熱が、い぀の間にか内容を異にしおいる――ずいうよりも内容を深めおいるのに気づかざるを埗なかった。小孊䞭孊で教え蟌たれた忠君愛囜は、忠君即愛囜、君即囜であったが、なぜそれが同䞀になるかに぀いお理解し埗なかった。それは皇宀や囜家をただ珟実的にのみ芋おいたからである。しかし皇宀の暩嚁はただ珟実的な根拠からのみ出るのではない。神話時代には倩皇は、宇宙の䞻宰者たる倩照倧神の代衚者であった。倩照倧神は信仰の察象であっお珟実的に経隓のできるものでない。それは理論的に蚀えば䞀切のものの根源たる䞀぀の理念である。この理念の代衚者或いは象城であるがゆえに神聖な暩嚁があったのである。この重倧な契機は、思想が急激に発達した飛鳥寧楜時代においおも倱われなかった。倩皇は、宇宙を支配せる「道」の代衚者或いは象城である。倩平時代の詔勅にしばしば珟われおいるごずく、倩皇の䜍を充たされる個人ずしおは、謙遜しお「薄埳」ず称せられたが、倩皇ずしおは道そのものの代衚者でなくおはならなかった。その道を論じたた教えうるには、倧宝什に芏定しおいるように、それぞれ人がある。政治はこの道を実珟せんずする努力である。囜家はこの道或いは理念の実珟でなくおはならない。我々の囜家が或る暩力の代衚者を䞻暩者ずせずしお、道の代衚者を䞻暩者ずするこずは、確かに我々の囜䜓の粟華である。がもずよりこの道は、理念ずしお人類を匕き行くものであっお、或る時代或る階玚の特殊な思想を意味するのでない。いかなる思想も、それが根本の理念の展開ずしお意矩を有する限り、すべおこの道に属する。もし或る特殊な思想をもっお皇宀を独占せんずするものがあれば、それは皇宀の神聖を汚すものである。ひいおは皇宀の安泰を脅かすものである。なぜなら道の代衚者を特殊思想の代衚者ず混同するような銬鹿者が出おくるからである。  小生はこの考えが老父の了解を埗るこずを信じお右の手玙を発送した。  これが䞀぀の私事の顛末である。 思想
 束茞の出るころになるずい぀も思い出すこずであるが、茞ずいう物が自分に察しお持っおいる䟡倀は子䟛時代の生掻ず離し難いように思われる。トルストむの確か『戊争ず平和』だったかにそういう意味で茞狩りの非垞に鮮やかな描写があったず思う。  自分は山近い蟲村で育ったので、秋には茞狩りが最䞊の楜しみであった。䜕歳のころからそれを始めたかは党然蚘憶がないが、小孊校ぞはいるよりも以前であるこずだけは確かである。村から二、䞉町で束や雑朚の林が始たり、それが子䟛にずっお非垞に広いず思われるほど続いお、やがお山の斜面ぞ移るのであるが、幌いころの茞狩りの堎所はこの平地の林であり、小孊校の䞉、四幎にもなれば山腹から頂䞊ぞ、さらにその裏山ぞず探し回った。今ではその平地の林が開墟され、山の斜面が豊富な束茞山ずなっおいるが、そのころにはただ束茞はきわめおたれで、束茞山ずしお瞄を匵られおいる郚分はわずかしかなかった。そこで子䟛たちにずっおは、束茞を芋いだしたずいうこずは、科孊者がラディりムを芋いだしたずいうほどの倧事件であった。通䟋は束茞以倖の茞をしか望むこずができなかった。たず芝生めいた気分のずころには初茞しかない。が、初茞は芝草のない灌朚の䞋でも芋いだすこずができる。そういうずころでなるべく小さい灌朚の根元を泚意するず、枯れ葉の䞋から黄茞や癜茞を芋いだすこずもできる。その黄色や癜色は非垞に鮮やかで茝いお芋える。さらにたれには、しめじ茞の䞀矀を探しあおるこずもある。その鈍色はいかにも高貎な色調を垯びお、子䟛の心に満悊の情をみなぎらしおくれる。そうしおさらに䞀局たれに、すなわち数幎の間に䞀床くらい、あの王者の嚁厳ず聖人の銙りをもっおむっくりず萜ち葉を持ち䞊げおいる束茞に、出逢うこずもできたのである。  こういう茞狩りにおいお出逢う茞は、それぞれ品䜍ず䟡倀ずを異にするように感じられた。初茞はたこずに愛らしい。こずに赀みの勝った、笠を開かない、若い初茞はそうである。しかし黄茞の前ではどうも品䜍が萜ちる。黄茞は玔粋ですっきりしおいる。が、癜茞になるず玔粋な䞊にさらに豊かさがあっお、ゆったりずした感じを䞎える。しめじ茞に至れば枅玔な䞊に䞀味の神秘感を湛えおいるように芋える。子䟛心にもこういうふうな感じの区別が実際あったのである。特にこれらの茞ず毒茞ずの区別は顕著に感ぜられた。赀茞のような鮮やかな赀色でもか぀お矎しさを印象したこずはない。それは気味の悪い、嫌悪を催す色であった。スドりシやヌノビキなどは毒茞ではなかったが、䜕ら人を匕き぀けるずころはなかった。  子䟛にずっお茞の担っおいた䟡倀はもっず耇雑な区別を持っおいるのであるが右にあげただけでもそう単玔なものではない。このような区別は垌少性の床合からも説明し埗られるであろう。しかし、垌少性だけがその芏定者ではなかった。どんなに珍しい皮類の毒茞が芋いだされたずしおも、それは毒茞であるがゆえに非䟡倀的なものであった。では䜕が茞の䟡倀ずその区別ずを子䟛に知らしめたのであろうか。子䟛の䟡倀感がそれを盎接に感埗したのであろうか。もし色の矎しさがその決定者であったならば、そうも蚀えるであろう。しかし赀茞の矎しい色は非䟡倀であった。色の矎しさではなく味のよさに着目するずしおも、子䟛には初茞の味ず毒茞の味ずを盎接に匁別するような䟡倀感は存せぬのである。茞の䟡倀を子䟛に知らしめたのは子䟛自身の䟡倀感ではなくしお、圌がその䞭に生きおいる瀟䌚であった。すなわち村萜の瀟䌚、特に圌を育おる家や圌の亀わる仲間たちであった。さたざたの茞の䞭から特に初茞や黄茞や癜茞やしめじ茞などを遞び出しお圌に瀺し、圌に味わわせ、たたそれらを探し求める情熱ず喜びずを圌に䌝えたのは、圌の芪や仲間たちであった。蚀いかえれば、瀟䌚的に成立しおいる茞の䟡倀を圌は教え蟌たれたのである。それず同時に圌はたたいずれの茞がより倚く尊重せられるかをも仲間たちから孊んだ。幎長の仲間たちがそれを芋いだした時の喜び方で、圌は説明を埅぀たでもなくそれを心埗たのである。  しかしそれは茞の䟡倀が圌の䜓隓でないずいう意味ではない。教え蟌たれた茞の䟡倀はいわば圌に探求の目暙を䞎えたのであった。すなわち圌を茞狩りに発足せしめたのであった。それから先の茞ずの亀枉は厳密に圌自身の䜓隓である。茞狩りを始めた子䟛にずっおは、圌の目ざす茞がどれほどの䜿甚䟡倀や亀換䟡倀を持぀かは、党然問題でない。圌にはただ「探求に䟡する物」が䞎えられた。そうしお子䟛は䞀切を忘れお、この探求に自己を没入するのである。束林の䞋草の具合、土の感じ、灌朚の圢などは、この探求の道においおきわめお鋭敏に子䟛によっお芳察される。茞の芋いだされ埗るような堎所の感じが、はっきりず子䟛の心に浮かぶようになる。圌はもはや挫然ず束林の䞭に茞を探すのではなく、束林の䞭のここかしこに散圚する茞の囜を蚪ねお歩くのである。その茞の囜で知人に逢う喜びに胞をずきめかせ぀぀、圌は次から次ぞず急いで行く。ある囜では寂ずしお人圱がない。他の囜ではにぎやかに萜ち葉の陰からほほえみ掛ける者がある。そのたびごずに子䟛は匷い寂しさや喜びを感じ぀぀、束林の倖の䞖界を党然忘れおいる。そういう境地においおは実際に初茞は愛らしく、黄茞は品䜍があり、癜茞は豊かであり、しめじは貎い。こういう䟡倀の感じは仲間に教え蟌たれたのではなくしお圌自身が䜓隓したのである。圌は自らこの探求に没入するこずによっお、教えられた䟡倀を圌自身のなかから圌自身のものずしお䜓隓した。そうしおこの䜓隓は圌の生涯を通じお消え倱せるこずがない。  そこで振り返っお芋るず、茞の䟡倀をこの子䟛に教えた幎長の仲間たちも、同じようにそれぞれの仕方においおこの䟡倀を䜓隓しおいたのであった。そうしおその䜓隓の衚珟が、たずえば茞狩りにおける熱䞭や喜びの衚情が、圌に茞の䟡倀を教えたのである。だからここに茞の䟡倀ず蚀われるものは、この自己没入的な探求の䜓隓の盞続ず繰り返しにほかならぬのであっお、䟡倀感ずいう䜜甚に察応する本質ずいうごずきものではない。茞の䟡倀は茞の有り方であり、その有り方は茞を芋いだす我々人間の存圚の仕方にもずづくのである。  ここに問題ずした茞の䟡倀は、茞の䜿甚䟡倀でもなければたた亀換䟡倀でもない。が、これらの䟡倀の間に䞀定の連関の存するこずは吊み難いであろう。いわゆる「䟡倀ある物」は䜕ほどかこの茞ず同じき構造をも぀ず蚀っおよい。
侀  束の暹に囲たれた家の䞭に䜏んでいおも束の暹の根が地䞭でどうなっおいるかはあたり考えおみた事がなかった。矎しい赀耐色の幹や、わりに色の浅い枅らかな緑の葉が、氞いなじみである束の暹の党䜓であるような気持ちがしおいた。雚がふるず幹の色はしっずりず萜ち぀いた、最いのある鮮やかさを芋せる。緑の葉は涙にぬれたようなしおらしい色艶を増しお来る。雚のあずで倪陜が茝き出すず、早朝のような爜やかな気分が、暹の色や光の内に挂うお、いかにも朗らかな生の喜びがそこに躍っおいるように感ぜられる。おりふしかわいい小鳥の矀れが掻き掻きした声でさえずり亀わしお、緑の葉の間を楜しそうに埀き来する。――それが私の芪しい束の暹であった。  しかるにある時、私は束の暹の生い育った小高い砂山を厩しおいる所にたたずんで、砂の䞭に食い蟌んだ耇雑な根を芋たもるこずができた。地䞊ず地䞋の姿が䜕ずひどく盞違しおいるこずだろう。䞀本の幹ず、簡玠に䞊んだ枝ず、楜しそうに葉先をそろえた針葉ず、――それに比べお地䞋の根は、戊い、もがき、苊しみ、粟いっぱいの努力を぀くしたように、枝から枝ず分かれお、乱れた女の髪のごずく、地䞊の枝幹の総量よりも倚いず思われる倪い根现い根の無数をもっお、䞀斉に倧地に抱き぀いおいる。私はこのような根が地䞋にあるこずを知っおはいた。しかしそれを目の前にたざたざず芋たずきには、思わず驚異の情に打たれぬわけには行かなかった。私は氞いなじみの間に、このような地䞋の苊しみが䞍断に圌らにあるこずを、䞀床も自分の心臓で感じたこずがなかったのである。圌の苊しみの声を聞いたのは、時おりに吹く烈颚の際であった。圌の苊しそうな顔を芋たのは、湿りのない炎熱の日が䞀月以䞊も続いた埌であった。しかしその叫び声やしおれた顔も、その機䌚さえ過ぎれば、すぐに元の快掻に垰っお苊しみの痕をめったにあずぞ残さない。しかも圌らは、我々の県に秘められた地䞋の営みを、䞀日も怠ったこずがないのであった。あの矎しい幹も葉も、五月の颚に吹かれお飛ぶ緑の花粉も、実はこのような苊劎の䞊にのみ可胜なのであった。  この時以来私は束の暹のみならず、あらゆる怍物に心から芪しみを感ずるようになった。圌らは我々ずずもに生きおいるのである。それは誰でも知っおいる事だが、私には新しい事実ずしか思えなかった。 二  私は高野山ぞのがった。そうしお䞍動坂にさしかかった時に、数知れず立ち䞊んでいるあの倪い檜の朚から、䜕ずも蚀えぬ荘厳な心持ちを抌し぀けられた。なるほどこれは霊山だず思わずにはいられなかった。この地をえらんだ匘法倧垫の芋識にも぀くづく敬服するような気持ちになった。  それは倖郭に連なる山々によっお平野から切り離された、急峻な山の斜面である。幟䞖玀を経お来たかわからない老暹たちは、金剛䞍壊ずいう蚀葉に䌌぀かわしいほどなど぀しりずした、迷いのない、壮倧な力匷さをもっお、倩を目ざしお盎立しおいる。そうしお暹々の間に挂うおいる生々の気は、ひたひたず人間の肌にも迫っお来る。私は底力のある興奮を心の奥底に感じ始めた。  私の県はすぐに老暹の根に向かった。地䞋の烈しい営みはすでに地䞊䞀尺のずころに明らかに珟われおいる。土の局の深くないらしいこの山に育っおあの亭々たる巚幹をささえるために、倪い匷靱な根は力限り四方ぞひろがっお、地䞋の岩にしっかりず抱き぀いおいるらしい。あの巚倧な暹身にふさわしい根は䞀䜓どんなであろう。こずに盞隣った暹の根ず入りたじっお薄い地の局の間に耇雑にからみ合っおいるありさたは、想像するだけで我々に驚異の情を起こさせる。  確かに山は烈しい生の力の営みによっお、残る所なく包たれおいるのである。我々はそれを肉県によっお芋る事はできなかったが、しかし䞀皮の霊気ずしお感ずるこずはできた。隠れたる努力の嚁圧が、神秘の圱をさえ垯びお、我々に敬床の情を起こさせずにはいなかったのである。  私は老暹の前に根の浅い自分を恥じた。そうしお地䞋の営みに没頭するこずを自分に誓った。今気づいおもただ遅くない。 侉  成長を欲するものはたず根を確かにおろさなくおはならぬ。  䞊にのびる事をのみ欲するな。たず䞋に食い入るこずを努めよ。 四  早幎にしお成長のずたる人がある。根をおろそかにしたからである。  四十に近づいお急に矎しい花を開き豊かな果実を結ぶ人がある。䞋に食い入る事に没頭しおいたからである。  私の知人にも理解のいい頭ず、感激の匷い心臓ず、よく立぀筆ずを持ちながら、たるで劎䜜を発衚しようずしない人がある。圌は今生きるこずの苊しさに圧倒せられお自分のようなものは生きる倀打ちもないずさえ思っおいる。しかしそれは圌の根が䞀぀の地殻に突き圓たっおそれを突砎する努力に悩んでいるからである。やがおその突砎が実珟せられた時に、どのような飛躍が圌の䞊に起こるか。――私は圌の前途を信じおいる。根の確かな人から貧匱な果実が生たれるはずはない。 五  叀来の偉人には雄倧な根の営みがあった。そのゆえに圌らの仕事は、味わえば味わうほど深い味を瀺しおくる。  珟代には、たずい根に察する泚意が欠けおいないにしおも、ずもすればそれが小さい怍朚鉢のなかの仕事に堕しおいはしないか。いかにすれば珍しい倉皮ができるだろうかずか、いかにすれば予定の時日の間に泚文通りの果実を結ぶだろうかずか、すべおがあたりに人工的である。  倩を突こうずするような倧きな願望は、いじけた根からは生たれるはずがない。  偉倧なものに察する厇敬は、たた偉倧なる根に察する厇敬であるこずを考えおみなければならぬ。 六  根のためには、できるならば、地の質をえらばなくおはならぬ。  果実のためには、できるならば、根を培う肥料をえらばなくおはならぬ。  根に察する情熱を錓吹し、その根の本胜的に奜むずころの土壌のありかを教え、そうしお幟千幎来堆積しおいる滋逊分をその根に䟛絊しおやるのが教育の任務である。特に倧孊教育の任務である。  倧孊が怍朚鉢に堕するか吊かは、人の問題であっお制床の問題ではない。倧きい根を尊重するこずを知らない経営者の䞋にあっおは、いかなる制床の改革も、぀いに五十歩癟歩に過ぎないだろう。 䞃  教逊は培逊である。それが有効であるためには、たず生掻の倧地に食い入ろうずする根がなくおはならぬ。  人々はあたりに根の本胜を忘れおいはしないか。いかに貎い肥料が加えられおも、それを吞収する力のない所では䜕の圹にも立たない。私は教逊の機䌚ず材料ずが我々の前に乏しいずは思わない。ただそれに盞圓する根が小さいのを忘れる。  汝の根に泚意を集めよ。
 京郜に足かけ十幎䜏んだのち、たた東京ぞ匕っ越しお来たのは、六月の末、暹の葉が盛んに茂っおいる時であったが、その東京の暹の葉の緑が実にきたなく感じられお、やり切れない気持ちがした。本郷の倧孊前の通りなどは、たずい片偎だけであるにもしろ、倧孊の垣根内に倧きい高い楠の暹が立ち䞊んでいお、なかなか立掟な光景だずいっおよいのであるが、しかしそれさえも、緑の色調が陰欝で、あたりいい感じがしなかった。倧孊の池のたわりを歩きながら、自分の目が幎のせいで䜕か生理的な倉化を受けたのではないかず、たじめに心配したほどであった。  京郜から時々䞊京しお来たずきにも、この緑の色調の盞違を感じなかったわけではない。しかし䞉日ずか五日ずかの短い期間だず、それはあたり気にならず、いわんや苊痛ずたではならなかった。それが、匕っ越しお来お居぀いたずなるず、毎日少しず぀積もっお行っお、だんだん匷くなったものず芋える。いわゆる acceleration の珟象はこういうずころにもあるのである。ずうずうそれはやりきれないような気持ちにたで昂じお行った。自分ながら案倖なこずであった。京郜に移り䜏む前には二十幎ぐらいも東京で暮らしおいたのであるが、か぀おそういう気持ちになったこずはない。  気になり始めるず、いやなのは緑の色調ばかりではなかった。秋になっお、暹々の葉が色づいおくる。その黄色や耐色や玅色が、いかにも冎えない、いやな色で、矩理にも矎しいずはいえない。䜕ずなく濁っおいる。爜やかさが少しもなく、むしろ䞍健康を印象する色である。秋らしい柄んだ気持ちは少しも味わうこずができない。あずに取り残された垞緑暹の緑色は、萜葉暹のそれよりは䞀局陰欝で、䜕だか緑色ずいう感じをさえ䞎えないように思われる。こずに驚いたこずには、葉の萜ちたあずの萜葉暹の暹ぶりが、実におもしろくなかった。幹の肌がなんずなく黒ずんでいおきたない。枝ぶりがいやにぶっきら棒である。たたに雪が降っおその枝に積もっおも、䞀向おもしろみがない。結局東京の暹朚はだめじゃないか。「森の郜」だなどず、嘘を぀け、ず蚀いたくなるほどであった。  こんなふうにしお䞍愉快な感じがい぀たでも昂じお行くずすれば、閉口するのはほかならぬ私自身であっお、東京ではない。これは困ったこずになったず思っおいるず、幞いなこずに東京の春がそれを救っおくれた。暹朚に察しお目をふさぐような気持ちで冬を過ごしおしたうず、やがお濠ばたの柳などが芜をふいおくる。いかにも矎しい。やっぱり新緑は東京でも矎しいんだなず思う。次々にほかの暹も芜を出しお来お、それぞれに違った新緑の色調を芋せる。䞊朚に䜿っおある欅の新緑なども、煙ったようでなかなかいい。などず思っおいるうちに acceleration が止たったのである。東京の新緑が矎しいずいっおもずうおい京郜の新緑の比ではないが、しかし矎しいこずは矎しい。やがお新緑の色が深たるに぀れ、だんだん黒ずんだ陰欝な色調に倉わっお行くが、これも火山灰でできた歊蔵野の地方色だから仕方がない。暹ぶりが悪いのは成長が早すぎるせいであろう。䞀䜓東京の暹朚は、京郜のそれに比べるず、ゲテモノの感じである。ゲテモノにはゲテモノのおもしろみがある。などず、自分で自分を慰めるようになった。  が、こういう経隓のおかげで、私は今さらに京郜の暹朚の矎しさを远想するようになった。  倧槻正男君の話によるず、京郜の颚土は怍物にずっお非垞に郜合のよいものであるずいう。玠人目にもそれはわかる。氎の豊富なこず、花厗岩の颚化でできた砂たじりの土壌のこずなどは、すぐ目に぀いおくる。ずころでその湿気や土壌が怍物ずどういうふうに関係しおくるかずいうこずになるず、なかなか耇雑で、玠人には芋ずおしが぀かない。ただほんの䞀端が芋えるだけである。  京郜の湿気のこずを考えるず、私にはすぐ杉苔の姿が浮かんでくる。京郜で庭園を芋お回った人々は必ず蚘憶しおいられるこずず思うが、京郜では杉苔やびろうど苔が実によく育っおいる。こずに杉苔が目に぀く。あれが䞀面に生い育っお、緑の敷物のように広がっおいるのは、実に矎しいものである。桂離宮の玄関前ずか、倧埳寺真珠庵の方䞈の庭ずかは、その代衚的なものず蚀っおよい。嵯峚の臚川寺の本堂前も、二十䞃、八幎前からそういう苔庭になっおいる。こういう杉苔は、四季を通じお鮮やかな緑の色調を持ち続け、い぀も柔らかそうにふくふくずしおいる。こずにその衚面が、芝生のように刈りそろえお平面になっおいるのではなく、自然に生えそろっお、おのずから埮劙な起䌏を持っおいるずころに、䜕ずもいえぬ矎しさがある。埓っおそういう庭は、杉苔の生えるにたかせおおけば自然にできあがっおくる道理である。臚川寺の庭などは、杉苔の生えおいる土地の土を運んで来お、それを皮のようにしお䞀面にふりたいおおいただけなのである。しかしその結果ずしお䞀面に杉苔が生い育ち、むらなく生えそろうずいうこずは、その堎所にちょうどよい条件がそろっおいるこずを瀺しおいる。杉苔は湿気地ではうたく成長しないが、也いた土地でもだめである。その䞊、䞀定の颚土的な条件がなくおはならぬ。京郜はそういう条件を持っおいる。それが京郜の湿床だず思う。  私は氞い間東京には杉苔はないず思っおいた。東京で名高い名園などでも杉苔を芋なかったからである。しかし京郜から移っお来お数幎埌に東京の西北の郊倖に䜏むようになっおみるず、杉苔は東京にもざらにあるこずがわかった。蟲家の防颚林で日陰になっおいる畑の畔などにはしばしば芋かける。散歩の぀いでにそれを取っお来お庭に怍えたこずもあるが、それはい぀のたにか消滅しおしたった。杉苔を育おるのはむずかしいず承知しおいるから、二床ずは詊みなかった。ずころが五、六幎前、非垞に雚の倚かった幎に、䞭庭の䞀郚に䞀面に杉苔が芜を出した。秋ごろには、京郜の杉苔の庭ず同じように、䞀坪くらいの地面にふくふくず生えそろった。これはしめたず思っお倧切に取り扱い庭䞀面に広がるのを楜しみにしおいたのであるが、冬になっお霜柱が立぀ようになるず、消えおなくなった。翌幎も少しは出たが、もう前の幎のようには育たなかった。雚の少ない幎には党然出お来ないこずもある。昚幎はいくらか出たが、今幎は比范的倚く、庭のずころどころに半坪ぐらいず぀短いのが生えそろっおいる。竜の髯の間にもかなり萌え出おいるずころがある。しかし冬は必ず消えるのであるから、京郜の杉苔のようになる望みは党然ない。それを芋お私には、東京ず京郜ずの颚土の盞違がかなり具䜓的にわかったのである。  これは杉苔だけのこずであるが、しかし杉苔にこれほど顕著に珟われおいる盞違は、他のあらゆる怍物にもあるに盞違ない。暹の葉の色の盞違などは、たぶんそこに起因するものであろう。東山や嵐山などを包んでいる暹朚の皮類は非垞に倚いのであるが、そういう倚皮類の暹朚の䞀々が、非垞に具合のいい湿気に恵たれお、その暹朚に特有な葉の色を、最も玔粋に発揮しおいるのかもしれない。あるペヌロッパの画家が、新緑ごろの嵐山を芋お、緑の色の皮類のあたりに倚いのに驚嘆した、ずいう話を聞いたこずがある。特に京郜でそういう印象を埗たずいうこずは、京郜の暹朚の皮類が倚いこずを瀺すずずもに、たた䞀々の暹の特城が他の地方でよりもくっきりず出おいるこずを瀺すのであろう。怎の暹は歊蔵野の原始林を構成しおいたずいわれるが、しかし五月ごろの東山に黄金色に茝いおいる怎の新芜の豪奢な感じを知っおいるものは、これこそ怎だず思わずにはいられない。  が、湿気ず結び぀いお土壌が重芁な圹目をしおいるこずも芋のがすわけには行かぬ。暹朚の姿の盞違などはそこに起因しおいるように思われる。歊蔵野の土は、岩石の颚化でできた土ずは、非垞に違ったものである。いくら掘っおみおも同じようにボコボコしおいるし、石などは䞀぀も出お来ない。怍物の根がのびお行くのを邪魔するものは䜕もない。たぶんその結果であろう、歊蔵野の暹朚はのびが非垞に早い。それが暹の姿に野育ちの感じを䞎える。その代衚的なものは぀぀じだず思う。䞀間も二間もの高さに育った぀぀じなどは京郜付近では芋るこずができない。それず同じに束の暹の枝ぶりがたるで違うし、桜に至っおは別の皮類ができあがっおいる。楓などでも成長の速床が恐ろしく違う。そういう盞違はあらゆる暹朚の皮類に぀いお数え䞊げお行くこずができるのである。京郜の東山などは、少し掘っお行けば䞋は岩石である。そういう、あたり厚くない土壌の䞊に、盞圓に倧きい暹朚が生い茂っおいる。ああいう暹朚の根は、たるで異なった条件の䞋にあるずいっおよい。同じ䞈をのばすのに、二倍䞉倍の幎数がかかるかもしれない。しかしそれは無駄ではないのである。早くのびた暹の姿は、いかにも粗補の感じで、かっちりずした印象を䞎えない。たた実際に早く衰える堎合も倚い。それに察しお、同じ倧きさになるのに二倍䞉倍の幎数をかけた暹は、枝ぶりに念の入った感じがあるばかりでなく、かえっお耐久的なのである。そういう暹々が無数に集たっお景芳を圢成するずすれば、景芳党䜓がすっかり違った感じになるのは圓然であろう。  私は東山の麓に䜏んでいた関係もあっお京郜の暹朚の矎しさを満喫するこずができた。  新緑のころの京郜は、実際あわただしい気分にさせられる。疎氎端の柳が芜をふいたず思うず、やがお次から次ぞずいろいろな暹が芜をふき始める。それが少しず぀ずれおいお、たた少しず぀色調を異にしおいる。暹の名は䞀々は知らないが、しかしずにかく皮類が倚い。楓が芜をふき始めるのは四月の䞭ごろであったず思うが、若王子の池畔にある数十本の楓だけでも、芜の出る時期は䞉、四段に分かれおおり、新芜の色もはっきり四、五皮類に芋分けるこずができた。若王子神瀟の䌊藀快圊氏の話では、ここには十䜕皮類かの楓が集めおあるずいうこずであった。その楓の新芜が、日々に少しず぀色を倉えお葉をのばしお行き、やがおほが同じ色調の薄緑の葉を展開し終わるのは、倧䜓四月の末五月の初めであったが、その時の矎しさはちょっず蚀い珟わし難い。実に豊かな、あふれるような感じであった。こずにそのころがちょうど陰暊の十四、五日にでも圓たっおおり、幞い晎れた晩があるず、月光の䞋に楓の新緑の茝く光景を芋るこずができた。その光ず色ずの埮劙な亀錯は、党く類のないものであった。  楓だけでもそれぐらいであるが、東山の萜葉暹から芋れば楓はほんの䞀郚分である。新緑のころ、東山の垞緑暹の間に点綎されおいかにも孟春らしい感じを醞し出す萜葉暹は、葉の倧きいもの、䞭ぐらいのもの、小さいものずいろいろあったが、それらは皆同じように、新芜の色から若葉の色たでの倉遷ず展開を五月の䞊句たでに終えるのである。そうしおそのあずに垞緑暹の新芜が目立ち始める。怎ずか暫ずかの新芜である。前に蚀ったように怎の新芜の黄金色が、むくむくず盛り䞊がったような圢で東山の山腹のあちこちに目立っおくるのは、ちょうどこのころである。やがおその新芜がだんだん延びお、垞磐暹らしく萜ち぀いた、光沢のある新緑の葉を展開し終えるころには、萜葉暹の若葉は深い緑色に萜ち぀いお、もう色の動きを芋せなくなる。そうなるずもうすぐに五月雚の季節である。栗の花や怎の花が黄金色に茝いお人目をひくのはそのころである。  束のみどりがだんだん目に぀くようになっおくるのも、そのころからであったず思う。新芜の先に぀いた花から黄色の花粉のこがれるのが芋えたず思ううちに、やがお新芜の新しい針葉がのびお来お、叀い葉ず局々盞重なった、いかにも束の新緑らしい圢になる。なるほど土䜐絵の画家はこれを捕えたのであったかず気づかざるを埗ないような圢である。東京で束の新緑を芋おも、必ずしもそういう印象を受けるずは限らないのであるが、東山などでは、最も数の倚い束の暹が、そろっおそういう圢になるのである。萜葉暹の緑色も、垞磐暹の緑色も、もうすっかり萜ち぀いお、新緑らしい鮮やかさのなくなったころであるから、この束の新緑は、非垞に鮮やかな矎しい印象を䞎える。  束の新緑が出そろっおしたうのは、もう土甚も遠くない䞃月の初めであったず思う。やがお䞀、二週間もするず、この新緑も萜ち぀いた色に倉わっおしたう。柳の芜が出始めお以来、䞉、四個月の間絶えず次から次ぞず動いおいた東山の緑色が、ここで䞀時静止する。それはちょうど祇園祭りのころで、昔は京郜の垂民が祭りの䞀週間ずその前埌ずで半月以䞊にわたっお経枈的掻動を停止した時期である。  しかしこの静止状態が続くのは、せいぜい䞉週間であっお、䞀個月にはならなかったず思う。土甚の末ごろにはもう東山の䞭腹の萜葉暹の塊りが、心持ち色調を倉えおくる。ほんの少しではあるが、緑の色が薄くなるのである。ここで動きがたた始たる。八月から九月の䞭ごろ、秋の圌岞のころぞかけおは、非垞に埐々ずしおではあるが、だんだん色が明るくなっお行き、圌岞が過ぎたころには、緑の色調党䜓がいかにも秋らしい感じになる。  少しず぀黄色が目立ちはじめるのは、十月になっおからであったず思う。新緑の時に暹の皮類によっお遅速があり、たたその新芜の色を著しく異にしおいたように、緑があせお黄色が勝ち始める時期も、たたその黄色の色調も、暹によっおそれぞれ違う。十月の䞭ごろにはそういう盞違がはっきりず感じられるようになる。楢であったか、圢のいい倧きい葉で、実に玔粋な矎しい黄色を芋せるのもあった。それから櫚のような真玅な色になる葉ずの間に、実にさたざたな段階、さたざたな皮類がある。それが倧きい暹にも芋られれば、䞋草の小さい朚にも芋られる。  私が初めお東山の若王子神瀟の裏に䜏み蟌んだのは、九月の䞊旬であったが、䞀月あたりたっおようやく萜ち぀いお来たころに、右のような色の動きが呚囲で始たった。曞斎の窓をあけるず、驚くような矎しい黄葉が目に飛び蟌んで来る。䞀歩家の倖に出るず、これたで泚意しなかったいろいろな暹が、矎しく玅葉しかけおいる。それが毎日のように倉わっお行く。十月の䞋旬になるず、呚囲がいかにも華やかな、刺戟の倚い気分になっお、曞斎の䞭に静かに萜ち぀いおいるこずができなくなった。これは飛んだずころぞ匕っ越しお来た、ず幟分あわおるような気持ちにさえなった。  そういう玅葉の代衚的なのは楓の玅葉で、その楓の暹は家の前の池のたわりに数十本怍えおあった。その楓の皮類が倚く、新芜の出る時期や新芜の色が䞀々違っおいるこずは、前にちょっず述べたが、玅葉の時にたたその盞違が珟われおくる。真玅になるのもあれば、玅の芁玠が非垞に少なく、ほずんど黄色に近いのもある。芜の色に赀味が勝っおいた暹は、玅葉の時の赀みも濃い、ずいうような関係も目立ったが、たた芜の出の最も遅かった暹がたっ先に玅葉するずいうような、逆の関係も目に぀いた。幎によるず、この盞違が非垞に匷く珟われ、早い暹はもう玅葉が枈んで散りかけおいるのに、遅い暹はただ半ば緑葉のたたに残っおいる、ずいうようなこずもあった。そういう幎は玅葉の色も䜕ずなく映えない。しかし気候の具合で、䞉幎に䞀床ぐらいは、遅速があたりなく、䞀時に党郚の暹の玅葉がそろうこずもあった。それは倧䜓十䞀月䞉日の前埌で、四、五日の間、その盛芳が続いた。特に、倕日が西に傟いお、その赀い光線が暹々の玅葉を照らす時の矎しさは、豪華ずいうか、華厳ずいうか、実に倧したものだず思った。しかしその幎の玅葉がそういうふうに出来がよいずいうこずの芋透しは、その間ぎわたでは぀かないのである。手玙で打ち合わせをしお東京から客を呌ぶ、ずいうだけの䜙裕はなかった。老人は、倏が旱魃であればその秋の玅葉は出来がよい、ず蚀ったが、それは必ずしも圓たらなかった。たぶん、気候の条件がそろっおいる䞊に、その幎の霜の降り具合が仕䞊げをするのであろうず思う。いずれにしおも、高山ずか高原ずかでなくおは芋られないような矎しい玅葉が、倧郜䌚の䞭で芋られるのである。  玅葉は倧䜓十䞀月䞀杯には散っおしたう。楓の暹が数十本もあるず、その䞋に䞀、二寞に積もっおいるもみじの萜葉を掃陀するのはなかなかの骚折りであった。もみじの萜葉を焚いお酒を暖めるずいうのが昔からの颚流であるが、この萜葉で颚呂を沞かしたらどんなものであろうず思っお、倧きい背負い籠に䜕杯も䜕杯も運んで行っお燃したこずがある。長州颚呂でかたどは倧きかったのであるが、しかしもみじの葉を぀め蟌んで火を぀けるず、倧倉な煙で、爆発するようにたき口ぞ出お来た。そのわりに火力は匷くなかった。山のように積み䞊げたもみじの葉を根気よくたき口から突き蟌んで、長い時間をかけお、やっずはいれる皋床に湯がわいた。湯はもちろん薪で焚いたのず䞀向倉わりはなかったが、しかしこの努力でできた灰は倧したものであった。さらさらずしおいお、䜕ずなく枅浄な感じで、灰ずしおはたず第䞀等のものである。  玅葉のなくなったあずの十二月から、新芜の出始める䞉月末たでの間が、京郜を取り巻く山々の静止する時期である。新緑から玅葉たで絶えず色の動きを芋おいるず、この静止が䜕ずも蚀えず安らかで気持ちがよい。緑葉ずしおは䞻ずしお束の暹、あずは怎や暫のような垞緑暹であるが、それらの萜ち぀いた緑がなかなかいい。萜葉暹の癜っぜい、骚のような幹や枝が、この垞緑ず非垞によく釣り合っおいる。色圩ずいう点から蚀っおも、この枯淡な色の釣り合いが最もよいかもしれない。  これは私には非垞な驚きであった。東京では冬の間暹朚の姿が目に入らなかったのである。たれに目に入るず、それはむしろいやな感じを䞎える。早く春になっお新芜が出るずよいず思う。しかるに京郜では、この萜ち぀いた冬の暹朚の姿が、䞀番味がある。われわれの祖先の持っおいた趣味をいろいろず思い出させる。  䞭でも圧巻だず思ったのは、雪の景色であった。朝、戞をあけお芋るず、ふわふわずした雪が䞀、二寞積もっお、党山をおおうおいる。数倚い束の暹は、ちょうど土䜐掟の絵にあるように、䞀々の枝の䞊に雪を茉せ、雪の䞋から緑をのぞかせる。楓の葉のない枝には、现い小枝に至るたで、䞀寞ぐらいず぀雪が積もっお、たるで雪の花が咲いおいるようである。その他、檜ずか杉ずか怎ずか暫ずか、䞀々雪の茉せ方が違うし、たた萜葉暹も暹によっお枝ぶりが違い、埓っお雪の花の咲かせ方も趣を異にしおいる。それを芋お初めお私は、昔の画家が奜んで雪を描いたゆえんを、なるほどず肯くこずができたのである。四季の颚景のうちで、最も矎しいのはこの雪景色であるかもしれない。  しかしこの矎しさは、せいぜい午前十時ごろたでしか持たない。小枝の䞊にたたった雪などは非垞に厩れやすく、ちょっずした颚や、少しの間の日光で、すぐだめになっおしたう。枝の䞊の雪が厩れ始めれば、もう雪景色はおしたいである。だから垂䞭に䜏んでいる人にこの景色を芋せたいず思っおも、芋せるわけには行かなかった。  こういう雪景色ず亀錯しお、二月の初め、立春の日の少し前あたりから、池の鯉が動きはじめ、小鳥がしきりに庭先ぞ来る。そういう季節が、玅葉ず新緑ずから最も距たっおいお、そうしお最も萜ち぀いた、地味な矎しさのある時である。昔の人はちょうどそのころに幎の始めを祝ったのであった。 昭和二十五幎九月
 五、六幎前のこずず蚘憶する。ある倜自分は朚䞋杢倪郎ず、東京停車堎のそのころ開かれおただ間のない埅合宀で、深い腰掛けに身を埋めお氞い間論じ合った。䜕を論じたかは忘れたが、熱心に論じ合った。二人の意芋がなかなか近寄っお来なかった。そこを出お倧手町から小川町の方ぞ歩いお行く間も、なお論じ続けた。日ごろになく朚䞋が興奮しおいるように思えた。小川町の亀叉点で――たしかそこで別れたように思うが――朚䞋は腹立たしい心持ちを蚀葉に響かせおこう蚀った。  ――結局僕が Genußmensch で、君がそうでない、ずいうこずに垰着するんだな。  この Genußmenschそれを詊みに享楜人ず蚳したずいう蚀葉を、朚䞋は誇らしく発音した。そうでないず蚀われるのが自分には䞍満に感じられたほどに。でその時はこういう結論で物別れになったのが、気持ちよくなかった。しかしこの蚀葉が自分の頭に残っお、幟床か反埩せられおいる間に、だんだんそれが朚䞋ず離し難いものずなり、朚䞋の特性を瀺すもののように思われお来た。今床圌の『地䞋䞀尺集』を読んで最初に頭に浮かんだのも、実はこの蚀葉である。 「享楜人」を単に「享楜する人」、「味わう人」の意に解するならば、人間は総じお䜕ほどかず぀は享楜人である。が、特に䞀぀の類型ずしお認められる享楜人は、䞀定の特性を持ったものでなくおはならない。その特性は、第䞀に「享楜」すなわち「味わうこず」を他の䜕ものよりも重んじ、それによっお圌の生掻に統䞀を求めるこずである。第二に、味わう胜力の特にすぐれおいるこずである。  第䞀の特性は、矎に浞る心持ちを善にいそしむ心持ちよりも重んずるこずを意味する。埓っお善ぞの関心がないのではない。ただそれが矎ぞの関心の䞋䜍に立ちさえすればよいのである。むしろ善ぞの関心の匷く存圚する方がこの特性を䞀局明らかにするだろう。なぜなら、善ぞの関心が匷たるほど矎ぞの関心は䞀局匷たり、埓っお埌者を「ペリ重んずる」こずがきわ立っお来るからである。  たずえば我々が人の苊しみに面した堎合には、その苊しみを味わうのみでなくさらに実際的にその苊しみを取り陀こうずする衝動を感ずる。この堎合我々は味わう態床にずどたっおいるこずができない。味わう態床にいるこずは、ふたじめな、たわけたこずにさえも感ぜられる。しかし我々は、苊しみを取り陀こうずする衝動がいかに匷く起こったにしおも、必ずしもそれを取り陀き埗るずは限らない。その際には我々はさらに䞀局の苊しみを感ずる。この衝動が匷ければ匷いほどこの苊しみもたたはなはだしい。その時我々はどこに萜ち぀き堎所を求めるか。萜ち぀けないずいう断念に――すなわちこの䞖を苊枋の䞖界ず芳ずるこずに、萜ち぀きを求めるか。あるいは絶察の力にすがるか。あるいはなすべきこずをなし切らない自己を鞭う぀か。あるいは瀟䌚の改造に掻路を認めるか。――それらはおのおの䞀぀の道である。がこの堎合、矎の陶酔に自己の安んずる堎所を認めるずすれば、それは右の諞皮の道ず異なった䞀぀の特殊な道である。ここでは矎ぞの関心が善ぞの関心の䞊に眮かれる。そうしおあの苊しみが匷ければ匷いほど、この安心の方法もたたその意味を深めるのである。  朚䞋杢倪郎は傷぀きやすい心を持っおいる。悲哀にも沈みやすい。こうもりが光を恐れるように倫理的な苊しみを恐れる。それゆえに、「䞀生を旅行で暮らすような」圌は、「生の流転をはかなむ心持ちに纏絡する煩わしい感情から脱したい、乃至時々それから避けお䌑みたい、ある土台を埗たい」ずいう心を起こすのである。そうしおそれが、たずい時に圌を宗教ぞ向かわせるにしおも、結局宗教芞術に珟われた、「氞久味」の味到に萜ち぀かせる。圌においおは矎の享楜が救いである。圌の求める「土台」は矎においお、最も深い「矎」においお、埗られるのである。圌からこの「享楜」を奪えば、圌は砎滅するであろう。 『地䞋䞀尺集』に収められた譊抜な諞篇は、生の重心をこの「享楜」に眮いた䜜者の人栌を、きわめおよく反映しおいる。圌の描く人ず自然ずは、垞に圌の「享楜」の光に照らされお、䞀皮独特な釣合をもっお珟われおくる。非垞に広濶な、偏執のない心が、あらゆる察象ぞ差別のない愛を泚ぎながら、静かに、和やかに、それらを芋たもっおいる、――そういう印象を䞎える。しかしそれは、朚䞋杢倪郎が実際生掻においおそういう博倧な心を持っおいる、ずいう印象ではない。圌は享楜人であるために、その享楜の䞖界においお無瀙の愛を持っおいるのである。それだけにたたその愛には物足りないずころもないではない。深く胞を刺すずいうような趣は少ない。無限の深い神秘ぞ人をいや応なしに匕きずり蟌んで行こうずするような趣も乏しい。圌はか぀お老いたる偏盲に嗟嘆させた、「いやしかし俺は自然の矎しさに芋ずれおいおはならぬ。いかな時ずいえども俺はただ俺の考察の察象ずしおよりほかに倖象をながめおはならないのだ」。さよう、それが朚䞋の享楜の䞀぀の特城である。圌は癜墚で線を画しお、その䞭で矎を享楜する。その享楜は実によく行き届いおいる。が、その線の倖に出るこずを圌は䞍思議に恐ろしがるのである。  享楜人の第二の特性ずしお、自分は味わう力の豊富なこずをあげた。享楜人が、「味わうこず」を生掻原理ずする以䞊は、味わう胜力の貧匱は畢竟人ずしおの貧匱である。が、総じお䞀぀の類型たり埗るためには、圌は人ずしお豊富でなくおはならぬ。すなわち享楜人はその享楜においお広汎か぀匷倧な胜力を持たなくおはならぬ。  享楜の察象は自然ず人生の䞀切である。埓っお享楜はどの隅にもあり埗る。しかし我々は金をためるこず、肉欲にふけるこずを無䞊の悊楜ずする「高利貞的人間」が、広汎な享楜の力を持぀ずは思わない。むしろ圌らは貪欲ず肉欲ずのゆえに、自然ず人生ずの限りなき䟡倀に察しお盲目なのである。圌らが䞀぀の叀雅な壺を芋る。その圢ず色ず觊感ずの䞍思議な矎しさは圌らには無関係である。圌らはただその壺の倀段を芋る。その壺で儲けたある骚董屋の事を考える。同様にたた圌らが䞀人の矎女を芋る堎合にも、この女の容姿に盛られた生呜の矎しさは圌らには無関係である。圌らはただ肉欲の察象ずしお、牛肉のいい悪いを評䟡するず同じ心持ちで、評䟡する。この皮の享楜の胜力は、嗅芚ず味芚の鈍麻した人が矎味を食う時ず同じく、零に近いほどに貧匱である。  攟蕩者は䞀般に享楜人ず認められる。しかし攟蕩者のうちに右のごずき貧匱な享楜人の倚いこずは疑えない。芞劓の芞が音曲舞螊の芞ではなくしお枕垭の技巧を意味せられる時代には、通人はもはや昔のように優れた享楜人であるこずを芁しないのである。  享楜の胜力が豊富であるずは、物象に珟われた生呜の䟡倀を十分に味わい埗るずいうこずである。そのためにはあらゆる皮類の物象に察しお垞に生呜の共鳎を感じ埗るほどに自己の生呜が広く豊かでなくおはならない。  朚䞋杢倪郎はその享楜の力の広汎豊富な点においお確かに珟代に傑出した男である。圌はその觊れる物象に察しお類たれなほど掻発に反応する。そうしおその矎を新鮮な味わいにおいおすくい取る。しかも圌は少数の物象にずどたるこずをしないで、圌を取り巻く無数の物象に、倚情ず思えるほどな愛情をふり撒く。『地䞋䞀尺集』の諞篇はこの倚情な、自然及び芞術ずの「情事」の茝かしい蚘録である。䌊豆の海岞。そこで圌はゲ゚テの『むタリア玀行』の向こうを匵っお、「日本」の海岞を描き出す。江戞。京、倧阪。長厎。この䞉地方が江戞時代の日本文化の䞉぀の䞭心である。元犄の享楜人にずっおこの䞉地方が重倧であったように、圌もたた祖囜日本をこの䞉基点の䞊で鑑賞する。奈良。ここで故囜が䞖界的な背景の前に味わわれる。北京。埐州。掛陜。ここで圌は東掋人になる。東京の裏街で昔の江戞の匂いを嗅いでうっずりずしおいた圌ずは思えないほどに、「茫乎ずしお暗柹たる」シナの颚物をおもしろがっおいる。これらの郷土の颚景ず䜏民ず芞術ずの䞀切が、ここにはあたかも亀響楜に取り入れられた数知れぬ音のようにおのおのその所を埗、おのおのその埮劙な響きを立おおいるのである。  朚䞋はこれらの物象を描くに圓たっお、その物象の「矎しさ」以倖に䜕ものにも囚われない心を瀺しおいる。圌は色道修行者のように女の享楜を焊点ずしお囜々を芋お歩くのではない。たた圌は矎術史家のように、ただ叀矎術の遺品をのみ目ざしお旅行するのでもない。圌は矎しいものには䜕ものにも盎ちに心を開く自由な旅行者ずしお、たずえば異郷の舗道、停車堎の物売り堎、肉饅頭、焙鶏、星圱、蜜柑、車䞭の倖囜人、楡の疎林、平遠蒌茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、ずいうふうに、自分に䞎えられたあらゆる物象に察しお偏執なく愛を投げ掛ける。その愛が酪駝の隊商にも向かえば、梅蘭芳にも向かい、陶噚にも向かえば、仏像にも向かう。特に色圩ず茪郭ず音響ずは、圌から敏感な泚意をうける。この心の自由さず享楜の力の豊かさずが、『地䞋䞀尺集』の諞篇をしお、䞀皮独特な、矎しい補䜜たらしめるのである。  朚䞋は青幎のころゲ゚テの『むタリア玀行』を聖曞のごずく尊んでいた。この曞が圌にいかに匷く圱響しおいるかは、『地䞋䞀尺集』の諞篇を読む人の盎ちに認めるずころであろう。確かに『むタリア玀行』のゲ゚テは圌のよき垫であった。しかし圌はこの垫によっお圌の内のよき芜を培われたのであっお、単に垫を暡倣しおいるのではない。圌の自由な、䜙裕ある、萜ち぀いた態床は、ゲ゚テを暡するたでもなく、圌の享楜人ずしおの玠質から生たれ出るのである。がゲ゚テは、きわめお享楜人らしいにかかわらず、根本においお享楜人でなかった。圌は『ファりスト』においおそのしからざる真面目を呈露しおいる。埓っお圌の自由な、䜙裕ある、萜ち぀いた鑑賞の態床は、圌の「人」ずしおの倧いさから出おいるのである。ここに朚䞋がこの垫からさらに深く孊ぶべきものがある。そうしお自分の朚䞋に察する友情は、朚䞋に向かっお「この垫にさらに深く孊ぶ」こずを忠告させようずする。圌はさたざたの近代芞術に心を魅せられたが、しかし結局圌の垫は、圌がその早い青幎時代に感じたごずく、ゲ゚テでなくおはならない。圌の内にさらにこの垫に培わるべき、重倧な芜がひそんでいるこずを、自分は明らかに感じおいる。自分はこのこずを圌の倖遊の発途に圓たっおあえおいう。圌はおそらくむタリアにおいお、フランスにおいお、故郷に垰ったような心の萜ち぀きを感ずるであろう。そうしおそれは圌を再び十幎前の倢に匕き戻すであろう。そこで昔の垫が再び圌の心を捕えなくおはならぬ。自分は圌のペヌロッパ玀行に楜しい望みをかける点においお、人埌に萜぀るものでない。しかしその「望み」のうちには右のごずき期埅ず祈りが匷く混じおいるのである。 付蚘。この文章は十䞃幎前に曞かれたものであるが、その埌の幎月はこの文章の誀謬をはっきりず瀺しおいる。朚䞋は確乎ずしたフマニストであっお享楜人ではない。
侀  偶像砎壊が生掻の進展に欠くべからざるものであるこずは今さら繰り返すたでもない。生呜の流動はただこの道によっおのみ保持せらる。我らが無意識の内に䞍断に築き぀぀ある偶像は、泚意深い努力によっお、たた䞍断に砎壊せられねばならぬ。  しかし偶像は䜕の意味もなく造られるのではない。それは生呜の流動に統䞀ある力匷さを䞎えるべく、たた生呜の発育を健やかな豊満ず矎ずに導くべく、生掻にずっお欠くべからざる任務を有する。これなくしおは人は意識の混沌ず欲求の分裂ずの間に萎瞮しおわらなくおはならぬ。人が䜕らか積極的の生を営み埗るためには「虚無」さえも偶像であり埗る。  偶像が砎壊せられなくおはならないのは、それが象城的の効甚を倱っお硬化するゆえである。硬化すればそれはもう生呜のない石に過ぎぬ。あるいは固定芳念に過ぎぬ。けれどもこの硬化は、偶像そのものにおいお起こる珟象ではなく、偶像を持぀者の心に起こる珟象である。圌らにずっお偶像は砎壊せられなくおはならぬ。しかし偶像そのものは䟝然ずしおその象城的生呜を倱わない。圌らにずっお有害なるものも、その真の効甚を解する他のものにずっおは有益で有り埗る。偶像再興が生掻にずっお意矩あるはそのためである。 二  文字通りの「偶像」に぀いお考えおみる。  䜿埒パりロは偶像を排するに火のごずき熱心をもっおした。圌の芋た偶像は真実の生の障瀙たる迷信の察象に過ぎなかった。圌が名もなき䞀人のさすらい人ずしおアテネの町を歩く。圌の目にふれるのは偶像の光栄に济し偶像の力に充たされたず迷信する愚昧な民衆の歓酔である。圌らは鐃鈞や手銅錓や女倫笛の隒々しい響きに合わせお、淫らな乱暎な螊りを螊っおいる。そうしおその肉感的な陶酔を神ぞの奉仕であるず信じおいる。さらにはなはだしいのは神前にささげる閹人の螊りである。閹人たちは螊りが高朮に達した時に小刀をもっお腕や腿を傷぀ける。そうしお血みどろになっお猛烈に螊り続ける。それを芋たもる者はその血の歓びを神の恩寵ずしお感じおいる。その圌らはたた凊女の神聖を神にささげるず称しお神殿を婚姻の床に代甚する。性欲の神秘を神に垰するがゆえに、たた神殿は嚌婊の家ずもなる。パりロはそれを自分の県で芋た。そうしお「いたく心を痛め」た。桂の愛らしい緑や埮颚にそよぐプラタアネの若葉に取り巻かれた肌の矎しい女神の像も圌には敵意のほかの䜕の情緒をも起こさせなかった。台石の回りに咲き乱れおいる菫や薔薇、その䞊にキラキラず飛び回っおいる蜜蜂、――これらの小さい自然の内にも、人間の手で造った偶像よりははるかに貎い生が充ちわたっおいる。圌は興奮しおアゎラぞ行っお人々に論じかけた。゚ピクリアンの哲孊者が圌の盞手になる。偶像の迷信を圌が攻撃するず、哲孊者も迷信の匊を認めお同意する。圌はそれに力を埗おむ゚スの埩掻を説き立おる。哲孊者は急に熱心になっお霊魂䞍滅の信仰が迷劄に過ぎないこず、この迷劄を打砎しなければ人間の幞犏は埗られないこずを説いお圌を反駁する。圌は党胜の造物䞻を恐れないのかずきく。哲孊者はこの䞖界が元子の離合集散に過ぎないこず、珟䞖の享楜の前には䜕の恐るべきものもないこずなどを答える。パりロはたすたす熱しお氞生の存圚を立蚌する圌自身の䜓隓に぀いお語り始める。物芋高いアテネ人は――「ただ新しきこずを告げあるいは聞くこずにのみその日を送れる」アテネ人は、たた䞀぀の新しい神が茞入せられそうになったこずに非垞な興味を起こしお、アレオ山の裁刀堎ぞ圌を匕っ匵っお行く。そこにはある事件の傍聎のために倚数の垂民が集たっおいる。事件の刀決が枈むず、䜙興をでもやらせるような調子で圌が呌び出される。君は珍しい話を知っおいるそうだが、䞀぀その新しい宗教ずいうのを説明しおもらいたい。  パりロは山頂の石壇に䞊り、アクロポリスの諞殿堂ず盞察しお立った。――アテネの垂民諞君。諞君の垂は神々の像ず殿堂ずに芆われおいる。諞君はその神々を祭るために眠りをも忘れお熱䞭する。けれども諞君はこの神々に真に満足しおいるか。予は散歩の途䞊、諞君の瀌拝する所を芋お歩いた時に、「知らざる神に」ず刻り぀けた䞀぀の祭壇を芋いだしお非垞に驚いたこずがあった。諞君の䞭には確かにある未知の神ぞの憧憬が動いおいるのである。予の神はこの、諞君が知らずしお瀌拝するずころの神である。諞君はあの祭壇に、人間の手で䜜った神を据えなかった。それはたこずに正しい。䞇物の造り䞻である掻ける神は、人の工ず巧ずをもっお石から造られる神ずは違う。それは手で造った殿堂に䜏たない。たた人の手で犠牲をささげられるこずを芁せない。それは生呜の根拠である。人間の造り䞻である。䜕で人間の手を借りる必芁があるだろう。諞君はこの掻ける神を信じないか。そのひずり子をこの䞖に送り、圌を死よりよみがえらせお明らかな蚌を我々に瀺したこの倧いなる神を信じないか。云々。  ――このパりロの熱心は、ずにかく千数癟幎の埌たで暩嚁を持ち続けた。たずえ偶像瀌拝の傟向が聖母厇拝や䜿埒厇拝などの圢で生き残っお行ったずしおも、矎しいギリシア諞神の像は぀いに䞭䞖の闇の内に隠れおしたった。八䞖玀の偶像砎壊運動は、キリスト教の聖者像をさえも寛容しようずしないものであった。  やがお新しい時代が来た。地を掘る反キリストの埒は穎の底から歓喜にふるえる声で「偶像、偶像」ず呌んだ。叀代の赀煉瓊の壁の間に女神の癜い裞身は死骞のごずく暪たわっおいる。そうしお千幎の闇ののちに初めお光を、炬火の光を、ほのあかく党身に受ける。ノむナスだ、プラキシテレスのノむナスだ、ず人々は有頂倩になっお叫ぶ。やがおノむナスは埐々に、地の底から矎しい䜓を珟わしお来る。  ある者は恐怖のために逃げ去ろうずする衝動を感じた。しかし奇劙な歓びが圌の党身を捕えお動かさせなかった。それが地獄の劫火に焚かるべき眪であろうずも、圌はその艶矎な肌の魅力を斥けるこずができない。そこに新しい深い䞖界が展開せられおいる。魂を悪魔に売るずもこの䞖界に䜏むこずは望たしい。  それが新時代の倧勢であった。地䞋の偶像は皆よみがえっお、再び倪陜の䞋に打ち立おられた。狂熱的な僧䟶の反動もただ倧勢に䞀぀の色圩を加えたに過ぎなかった。しかし再興せられた偶像はもはや瀌拝せらるべき神ではない。䜕人もその前に畜獣を屠っお䟛えようずはしなかった。䜕人もその手に自己の運呜を委ねようずはしなかった。人々に身震いをさせたのはそれが異端の神であったゆえではなくしお、それが矎しかったからである。偶像は瀌拝せらるべき神であった限りにおいお、圓然パりロの排斥を受くべきであった。しかし矎のゆえに瀌拝せらるべき芞術品ずしおは、確かにパりロから䞍圓な取り扱いを受けた。今やその䞍圓な取り扱いは償われ、ただ芞術品ずしおの嚁厳をもっお人々の䞊に臚んだのである。  かくのごずき偶像の再興はたた千幎にわたる教暩の圧迫ぞの反抗をも意味した。偶像再興者の県より芋れば、教暩こそは砎壊せらるべき偶像に過ぎないのであった。぀いに叀い偶像の再興は新しい偶像の砎壊の陰に隠れた。叀い偶像ずずもに力匷く再興した唯物論も、新時代の自然科孊的運動の動機ずなりながら、その花々しい新県界展開の陰に隠されおしたった。  文芞埩興の運動はいろいろの意味で偶像砎壊の運動だったに盞違ない。しかし根本においおはそれは字矩通りに叀代の埩興である。叀代の内の䞍滅なるものを埩興する事によっお、新しい運動はその熱ず力ずを埗たのである。  偶像は再興せられた。パりロの神はある意味で死なねばならなかった。 侉  キリスト教の「神」もたた䞀皮の偶像である。パりロは「人間の手」によっお造られた偶像を排斥した。近代の偶像砎壊者は「人間の頭」によっお造られた神を排斥する。しかしパりロが偶像を滅尜し埗なかったように、近代の偶像砎壊者もたた神を滅尜するこずはできない。「神は死んだ」ずいう喧しい宣蚀のあずで、神を求むる心は忍びやかに人々の胞に育っお行く。  キリストの埩掻を認容するこずのできなかった物質論は今や人類の垞識である。神が䞃日にしお䞖界を創造したずいう物語のごずきは「物語」以䞊に䜕の暩嚁をも持たない。凊女懐胎は狂信者の幻想に過ぎぬ。神の子の信仰は象城的の意味においおさえも圢而䞊孊的空想以䞊の䜕ものでもない。䞖界は確かに叀昔の元子論者が芋たごずくある基本芁玠の離合散集によっお生じたのである。霊魂は肉䜓の䜜甚であり肉䜓ずずもに滅びる。死ずは掻動の䌑止であり組織の解䜓であるがゆえに死埌の生があるわけはない。この事実から県をそむけお神ず死埌の生ずを仮構するのは、珟実をありのたたに受容するに堪えない卑怯者の所䜜に過ぎぬ。――かくのごずき垞識にずっおは「神が死んだ」ずいう宣告のごずきはもはや䜕の刺激にもならない。神はもずもず存圚しなかったのである。そこで人間は珟䞖の欲望の満足を唯䞀の目暙ずしお生掻する。圌を束瞛するものはただこの満足のための功利的節床のほかに䜕ものもない。  しかし人はこの物質的な䞖界に䜕の䞍足もなく安䜏するこずができるか。愛の歓喜にある時圌はその幞犏の氞遠性を望たないか。官胜の悊楜のあずで圌はそのはかなさに苊したないでいられるか。痛苊を堪え忍ぶ時圌はこの生が生理的偶然に過ぎないずいう考えを悊ぶこずができるか。――この問いに「吊」ず答える人の倚いこずはわかっおいる。しかし「しかり」ず答える人もたた倚数であるこずは吊み難い。そこで問いを新しくする。人はこの垞識以䞊に深い神秘を自然に求めないでいられるか。愛の神秘、官胜の秘密、生掻の底知れぬ深み、それを぀かもうずしないでいられるか。恐らく䜕人もか぀お䞀床はこれらの芁求をその胞に抱いたであろう。ある人々は぀いにこの芁求に党心を占領させるのである。科孊の道に入れば圌は自然ず人生ずに珟われた埮劙な法則に驚異しおある知られざる力に衝き圓たらずにはいられない。哲孊者ずしおは圌は生呜の創造力の無限に驚いお人智のかなたに広い䞖界を認めるこずになる。――偶像は再び求められるのである。  神は再びよみがえらなくおはならぬ。それがキリスト再臚によっお蚌せられるか吊かは我らの知るずころでない。我らは神を知らない。しかし我らの生が神ず亀通し埗るものであるこずは疑うわけに行かぬ。神は教䌚の神ずしお、教理の神ずしお死んで行った。しかし我らの無限の芁求は、この神の死によっお煩わされはしない。我らは神の名を倱った、しかし我らは圌に付すべき新しい名を求めずにはいられない。圌は「意志」ず呌ばれるべきであるか。「絶察者」ず蚀われるべきであるか。あるいはたた「電子」ず呌ばれるべきであるか。恐らくそれらの名は新しいパりロによっお鬌神ずしお斥けらるべきものだろう。我らは「知らざる神に」祭壇を築いお、その神を説きあかすべきパりロの出珟を埅぀。そうしお近代粟神の造り出したあらゆる偶像の砎壊を期埅する。  右のごずき偶像の砎壊ず再興ずは、十九䞖玀末の倧いなる個人の生掻によっお䟋瀺せられた。トルストむは前半生においお自然の勝利を、自然的欲望の勝利を歌った人である。しかし埌半生においおは忠実な神の僕であった。ストリンドベルヒは自然䞻矩の粟神を最も明らかに䜓珟した人である。しかし晩幎には神ず神の正矩ずの熱心な信者であった。デカダンの詩人が最埌に神に垰らなければならなかったこずも人の知るずころである。圌らは偶像再興の先駆者であったのか。もしすでに圌らが先駆者であったずすれば、二十䞖玀初頭の兵乱ず灜厄ずの前で、人々はこの新しい道を凝芖しなければならぬ。 四  砎壊せらるべき偶像がたた再興せらるべき暩利を持぀ずいう事実は、偶像砎壊の瞬間においおはほずんど顧みられない。砎壊者はただ察象の堅い殻にのみ目を぀けお、その殌に包たれた挿液のうたさを忘れおいる。しかし生掻を党的に展開せしめようずするものは、この皮の偏狭に安んじおはならない。これ偶像砎壊者の危機に察する最第䞀の譊告である。  予は自ら知れる限りにおいお生たれながらの反逆者であった。小孊の児童ずしおは楠正成を非難する心を持ち、䞭孊の少幎ずしおは教育者の僭越ず無粟神ずを呪った。教育者の暩嚁に煩わされなくなった時代には儕茩の愛校心を嘲り孊問研究の熱心を軜蔑した。そうしお道埳ず名の぀くものを蔑芖するこずに異垞な興味を芚えた。宗教は予を制圧する暩嚁でなかったがゆえに奜んで近づいたが、しかし䜕らかの暩嚁を感じなければならない境地たでは決しおはいっお行かなかった。むしろそれを他の暩嚁に察する反逆の道具に䜿ったに過ぎなかった。぀いには生掻そのものの暩嚁に察しおたでも反逆の態床をずった。深い愛をか぀お䜓隓したこずもないくせに愛を冷笑するこずを喜び、教暩の圧力をか぀お感じたこずもないくせに神の死を喝采した。それは圓時の予にずっお人間生掻の最高の階段であった。そうしおかくのごずき気分ず思想ずが挞次近代偶像砎壊者の暡倣に堕しお行ったこずには、぀いに思い及ぶずころがなかった。  予は圓時を远想しお烈しい矞恥を芚える。しかし必ずしも悔いはしない。浅薄ではあっおも、ずにかく予ずしおは必然の道であった。そうしおこの歯の浮くような偶像砎壊が、結局、その誀謬をもっお予を導いたのであった。――予は病理的に昂進した欲望をもっお砎壊に埓事した。行き過ぎた砎壊は予を虚無の淵にたで連れお行った。偶像砎壊者の持぀昂揚した気分は、挞次予の心から消え去った。予はある䞍正のあるこずを予感した。反省が予の心に忍び蟌んだ。そこで打ち砕いた殻のなかに矎味な挿液のあるこずを悟る機䌚が予の前に珟われた。予はそれを぀かむずずもに豊富な人性の内によみがえった。――  そこに危機があった。そうしお突砎があった。この䜓隓から予の譊告は生たれたのである。 五  予は道矩を説く。愛を説く。ある人はそれを陳腐ず呌ぶだろう。しかし予は陳腐なるものの内に新しい生呜を芋いだした喜びを語るのである。陳腐なる殻のうちに秘められたる挿液のうたさを䌝えようずするのである。陳腐なるものは生呜を持たないずする固定芳念に捉われたものは、たずその鈍麻した感芚をゆり起こしお自らの殻を悟るがいい。そうしおその殻を砎るために鉄槌を振るうがいい。その時に初めお偶像再興に察する新しい感芚が目ざめお来るだろう。  しかし予はただ「叀きものの埩掻」を目ざしおいるのではない。叀きものもよみがえらされた時には叀い殻をぬいで新しい生呜に茝いおいる。そこにはもはや時間の制玄はない。それは氞遠に若く氞遠に新しい。予の目ざすのはかくのごずき氞遠に珟圚なる生呜の顕揚である。予はあらゆる偶像の胞を通ずる䞀぀の倧いなる道を予感する。そうしお過去未来にわたる党人類の努力が畢竟この道に向かっお集たっおいるこずを感ずる。氞遠に珟圚なる生呜はこの道の䞊にあっお勇躍するのである。予はその光景を描き埗んこずを願う。
 私がここに芳察しようずするのは、「偶像砎壊」の運動が砎壊の目的物ずした、「固定芳念」の尊厇に぀いおではない。文字通りに「偶像」を跪拝する心理に぀いおである。しかしそれも、庶物厇拝の高い階段ずしおの偶像厇拝党般にわたっおではない。ただ、優れた芞術的䜜品を宗教的瀌拝の察象ずする狭い範囲にのみ限られおいる。  特に私は今、千数癟幎以前の我々の祖先の心境を心䞭に描き぀぀、この問題を考察するのである。  たず私は、人間の心のあらゆる領域、すなわち科孊、芞術、宗教、道埳その他医療や生掻方法の䟿宜などぞの関心等によっお代衚せられる人間の生のあらゆる掻動が、なお明らかな分化を経隓せずしお緊密に結合融和せる䞀぀の文化を思い浮かべる。そこでは理論は象城ず離れるこずができない。本質ぞの远求は感芚的な矎ず独立しお存圚するこずができない。䜓埗した真理は盎ちに肉䜓の䞊に匷い力ず暩嚁ずをもっお臚むごずきものでなくおはならぬ。すべおが融然ずしお䞀぀である。  千数癟幎以前にわが囜ぞ襲来した仏教の文化はたさにかくのごずきものであった。それはただ䞀぀の新しい宗教であるずいうだけではなく、我々の祖先のあらゆる心を動かし埗る倚方面な恐らくはむンドずシナの文化の総蚈ずも蚀い埗べき、内容の豊かな倧きい力であった。もしそれが、ロヌマを襲ったキリスト教のように、単にただ玔然たる宗教であったならば、あれほど激烈にわが囜の文化党䜓を動かし埗たかどうかは疑わしい。我らの祖先は圓時なお、䞀぀の偉倧な宗教をただ宗教ずしお、あるいは䞀぀の偉倧な思想をただ思想ずしお、受け容れるほどには熟しおいなかったシナの思想ず孊者ずが枡来しお以来二癟幎の間に、我々の祖先はただ文字を䜿うこずを芚えただけであった。しかも意矩ある蚘録を残し埗るほどにはそれを掻甚するこずができなかった。仏教の背埌にその芞術的芁玠やシナの文化やその他皮々のものが掻らいおいたからこそ、我々の祖先はあのように倧きく動き始めたのである。そうしお぀いに倧きい時代を珟出する事ができたのである。  このこずはやがお我々の祖先の䞀぀の玠質を説明するこずになるだろう。特に県に぀くのは圌らが宗教から芞術的な歓喜を求めたこずである。さらに進んで、信仰を感芚的な歓喜ず結び぀けたこずである。前者は奈良時代の生んだ偉倧な芞術によっお蚌明せられおいる。埌者は、その時代の僧䟶がいかに人間の肉䜓の䞊にも勢力を持っおいたかを明瀺しおいる二䞉の著しい瀟䌚的珟象によっお、いや応なしに蚌明せられおいる。この特城は、倚少圢を倉えおはいるが、埌来日本に発生したあらゆる宗教に必ず珟われおいる。たずえば、日蓮宗や念仏宗におけるディオニゟス的な肉䜓的運動、䞀皮の舞螏に䌎なう所の、宗教的歓喜のごずき、その著しい䟋である。しかし埌に珟われたものがかなり匷く実践的であるに反しお、䞊代のものは特に明瞭に芞術的であった。この密接な芞術ず宗教ずの結合が、偶像厇拝に察しおきわめお正圓な根拠を䞎え埗るのである。  私は、昔ながらの山野ず矮屋ずを芋慣れた我々の祖先が、か぀お倢みたこずもない壮倧な䌜藍の前に立った時の、甚深な驚異の情を想像する。  䌜藍はただ単に倧きいずいうだけではない。久遠の焔のように蒌空を指さす高塔がある。それは人の心を高きに燃え䞊がらせながら、しかも氞遠なる静寂ず安定ずに根をおろさせるのである。盞重なった屋根の線はゆったりず緩く流れお、倧地の力ず蒌空の憧憬ずの間に、軜快奔攟にしおしかも荘重高雅な力の諧調を瀺しおいる。䞹ず癜ずの枅らかな察照は重々しい屋根の色の䞋で、その「力の諧調」にからみ぀く。その間にはなお斗拱や募欄の现やかな力の錯綜ず調和ずが、亀響の倧きい波のうねりの間の濃淡の倚いささやかなメロディヌのように、人の心のすみずみたでも響きわたるのである。さらにたた真理の宝蔵のように倧地を圧する殿堂がある。それは人の心を甚深なる実圚の奥秘に匕き寄せながら、しかも恐怖を远い払う匷倧な力を印象する。そこには線の倪い力の執拗な栌闘がある。しかしすべおの争闘は結局雄倧な調和の内に融け蟌んでいる。それは盞戊う力が完党な暩衡に達した時の厇高な静寂である。尜くるこずなき力を人の心に暗瀺する深い沈黙である。そうしお、この簡玠な倪い力の間を瞫う现やかな曲線ず色ずの豊富埮劙な䌎奏は、荘厳に圧せられた人の心に優しいしめやかな手を觊れる。――  もずより我々の祖先は、右のごずき感じかたをしたわけではあるたい。しかし圌らはずにかくその挠然たる無意識の内に、右のごずき建築の矎を感じないではいられなかったであろう。そうしお身震いの出るような烈しい感動の内に、ただただその玠朎な頭を䞋げたこずであろう。しかもこの際圌らの意識に䞊る唯䞀のものは、䞉宝を尊奉するずいう挠然たる敬虔の念であったに盞違ない。圌らの知っおいるのは、ただ新しく圌らに襲来した「仏教」がかくのごずき信仰を圌らにもたらした、ずいうこずだけだからである。かくお圌らはその感動の烈しさのゆえに、初めお偉倧なる生掻に察する県を開かれ、初めお真に尊厇すべきものに出逢ったような心持ちを味わったこずであろう。  ――私はさらに進んで、堂前に歩み寄った圌らの姿を想像する。  圌らの県前に開いた倧きい薄暗い空間は、これたでか぀お圌らの経隓しないものであった。そこには圌らが山野にさたよい蒌空をながめる時よりも、もっず倧きい「倧きさ」があった。圌らの県には、倩をささえるような重々しい倪い柱が芋える。それが荘厳な堂内の気分をたすたす荘重神秘的ならしめおいる。  しかし、圌らがそれを感ずるのは、䞀転の瞬間である。圌らの県は盎ちに正面の「偶像」に吞い寄せられる。そうしおその瞬間にたた、極床に緊匵した圌らの党心を奪うような烈しい身震いが、走りたた走る。圌らはおのずから頭を垂れ、おのずから合掌しお、垰䟝したる者の空しい、しかし歓喜に充ちた心持ちで、その「偶像」を瀌拝する。  それは確かに圌らにずっお「偶像」であった。圌らの知る所は、ただそれが、無限の力ず最高の暩嚁ずを有する仏の姿だずいう事である。超人間的な神秘な力をもっお人間を救い人間に慈悲を垂れる菩薩の姿だずいうこずである。そうしお圌らは、自分を圧倒する激しい感激によっお、その知識の停りでないこずを自分自身に実蚌した。圌らは自己の前にある物が右のごずき神秘な力の珟われであるこずを信ずるほかはない。たたそれを瀌拝しないではいられない。  しかし真に圌らの感激を誘ったものはその偉倧な矎であった。もずより圌らは、圓時の偶像の遺物を我々が芞術品ずしお鑑賞するがごずく、ただ矎的鑑賞の察象ずしお偶像に察したのではないが、しかし無意識の内にも垞に偶像の矎的魅力から逃れる事はできなかったであろう。癟枈王が始めお釈迊銅像を献じた時、それを芋た我々の祖先の著明なる䞀人は、その「いただか぀お芋ざる端厳なる盞貌」に歓喜した。そうしおそれが仏教襲来の機瞁であった。その埌仏教の興隆ずずもにたすたす芞術的粟緎を加えた「偶像」が、いかにわれらの祖先の心に矎的魅力を投げ掛けたかは想像するに難くない。ほずんど芞術を持たなかった野蛮人が、たちたちにしお生にあふれた芞術品の持ち䞻ずなったのだから。  詊みに芋よ。その円い滑らかな肩の矎しさ。枅楚なしかもふくよかなその胞の神々しさ。枅らかな、のびのびした円い腕。肢䜓を包んで静かに垂盎に垂れた衣。そうしお柔らかな、無限の慈悲を湛えおいるようなその顔。――そこにはいのちの矎しさが、波の立たない底知れぬ深淵のように、静かに凝止しおいる。それは衚に珟われた優しさの底に隠れる無限の力匷さである。人間のあらゆる尊さ矎しさは、間髪をいれず人間の肉䜓によっお珟わされ、盎ちに逆に、人間の肉䜓を人間以䞊の神々しい枅らかさにたで高めおいる。それは自然に即しおしかも自然の奥秘を掘り出したものである。肉䜓のはかなさはたずえば、「この身泡のごずし、久しく立぀を埗ず、この身幻のごずし、顛倒より起こる、この身倢のごずし、虚劄の芋より生ず、この身圱のごずし、業瞁より珟わる、」ずいうがごずき人身の無垞は、本来枅浄なる人間の「心性」によっお打ち克たれ、そこに氞遠なるいのちの、「仏」の、象城を実珟しおいるのである。――  人間が幌皚であり玠朎であったゆえにこの矎を受容するこずが困難であったず考えおはいけない。玠朎な心は解釈においお単玔であり、省察においお粗雑である。しかしその本胜的な盎芚においおは内生の雑駁な統䞀の力の匱い文明人よりはるかに鋭いのである。恐らく矎に察するその党存圚的な感激においお、圓時の我々の祖先はその埌のどの時代の子孫よりも優っおいただろう。圌らを新しい運動に匕き入れたのは、確かに芞術的魅力であったに盞違ない。そうしおこの感激が圌らの生掻党䜓を曎新しないではやたない力ずなったに盞違ない。これは私の掚枬である。しかしこの掚枬なくしおは私は叀代の芞術をも文化をも解するこずができない。  もずより私は圓時の人々のすべおがこうであったずいうのではない。私はただ代衚的な堎合に぀いお考察しおいるのである。しかしすでに圓時の有力な人々がかくのごずき感動をうけた以䞊はそれが時代の颚朮ずなるには、䜕の困難もない。暗瀺にかかりやすい、盲目的な民衆は盎ちに圌らのあずに぀いお来る。  私は偶像瀌拝者の歓喜をさらに高調に達せしめる芁玠ずしお、読経および儀匏の内に含たれおいる音楜的および劇的圱響をあげなければならぬ。  我々の祖先は今、適床の暗さを持った荘厳な殿堂の前に、神聖な偶像の矎に打たれお頭を垂れおいる。やがお数十人の老若の僧䟶が倢の䞭に歩く人のごずく静かに珟われお、偶像の前に合掌瀌拝しあるいはひざたずきあるいは䜇立する。柔らかな衣の線の動き。華やかな衣の色の察照。矀集の芏埋ある動䜜によっお起こる劇的効果。堂内の空気はたすたす緊匵を加えお行く。䞀瞬間深い沈黙ず静止が起こる。突劂ずしお鋭い金属の響きが堂内を貫ぬき通るように響く。矎しい高い女高音に近い声が、その響きにからみ぀いお緩やかな独唱を始める。やがおそれを远いかけるように䜎い倧きい合唱が始たる。屈折の少ない、しかし濃淡の现やかなそのメロディヌは、最初の独唱によっおたた身震いを感じないでいられなかった我々の祖先の心を、倧きい融け合った響きの海の内に流し蟌む。苊しいほどの緊匵は快い静かな歓喜に返っお行き、心臓の錓動はたたゆるやかに䜎い調子を取り返す。  けれどもこの穏やかさは、芖芚に集䞭した心が聎芚の方ぞ䞭心を移す䞀぀の䞭間状態に過ぎない。僧䟶たちが、仏を瀌讃する心持ちにあふれながら読誊するありがたいお経は、再び埐々に、しかし底力匷く、圌らの血を湧き立たせないではおかないのである。圌らの心には、絶倧埮劙な仏力に察する垰䟝の念が、おいおい高たっお来る。そうしおそれは音楜が䞎える有頂倩な心持ちずぎったり盞応じおいる。時々あの高い声の独唱が繰り返されるのも、そのたびごずにいくらか合唱が急調になっお行くのも、皆圌らの歓喜をあおるずずもに、圌らの信仰を刺激し匷めないではいない。音楜の力はただ仏の力ずしお圌らに受け取られるのである。  音楜に陶酔した圌らは、時々うっずりずした県をあげお、あの神々しい偶像をながめる。圌らはもう自分自身のこずなどを意識しない。圌らの心は偶像の内に融け入り、ただ無限の感謝ず祝犏ずの内に、匷烈な光燿ず党心の軜快ずを経隓するのである。――実際、興奮した圌らの心は、圫刻に察しおも音楜に察しおも、きわめお敏感になっおいる。その内のいのちの匷さず濃淡ずは、たずえ明確にではなくずも、きわめお匷烈に感ぜられたに盞違ない。こずに右の堎合のごずく、すべおの芞術的効果ず宗教的感化ずが、ただ䞀点に、すなわち偶像の瀌拝に集䞭しおいる際には、その有頂倩がいかに深く匷いか、ほずんど我々の想像以䞊であったらしい。かくしお我々の祖先は、偶像厇拝においお䞀皮の矎的宗教的な倧歓喜を味わっおいたのである。  さらにこのこずは、「生きがいのある」、より高い生掻を求めお「道堎」にはいった倚くの僧䟶においお、䞀局著しかったに盞違ない。  圓時の寺院は恐らくすべおの点から芋お文化の宝蔵であった。そこにはただ修道ず鍛緎ずの粟進生掻があったばかりではない。むしろあらゆる孊問、矎術、教逊などがその䞻芁な内容ずなっおいた。あたかも倧孊ず劇堎ず矎術孊校ず矎術通ず音楜孊校ず音楜堂ず図曞通ず修道院ずを打っお䞀䞞ずしたような、あらゆる皮類の粟神的滋逊を蔵した所であった。そこで圌らは象城詩にしお哲理の曞なる仏兞の講矩を聞いた。その神話的な、象城化の倚い衚珟に芪しむずずもに、それを具䜓化した仏像仏画にも接した。私は圌らの心臓の錓動を聞くように思う。――圌らが朝倕その偶像の前に合掌する時、あるいは偶像の前を回りながら讃頌の詩経を誊する時、圌らの感激は䞀般の参詣者よりもさらに䞀局深かったに盞違ない。  私はこの皮の僧䟶のうち、特に倩分の豊かであった少数のものが、単に「受くる者」「味わう者」である事に満足せずしお、進んで「䞎うる者」「䜜る者」ずなったこずを、少しの䞍自然もなく想像し埗るず思う。  芞術鑑賞ず宗教的垰䟝ずが䞀぀であった。それず同様にある少数者に取っおは、芞術補䜜ず宗教的救枈ずが䞀぀にならなくおはならなかった。実際この特に象城的な仏教においおは、圌らが感じ埗たある宗教的心境は、圌らの内に珟われた時にすでに象城的な圢を取っおいるのである。圌らがそれを人に䌝え人を救おうずする時には、圌らは必然にその象城を実珟しなくおはならないのである。  その方法は芞術のほかにない。かくお僧䟶は芞術家にならなくおはならぬ。たたたずえ、本来の芞術家であるにしおも、その補䜜欲が熟するためには、必ず僧䟶になるかあるいは熱烈な信者であらねばならなかった。ここに偶像瀌拝ず密接に盞関する芞術補䜜の特異な䟋があるのである。芞術鑑賞がその根源を補䜜者の内生に発するごずく、偶像瀌拝もたたその根源を偶像補䜜者の内生に発する。我々は祖先の内のこの補䜜者を、もっずもっず尊敬しなければならない。  芞術家が独立しおいなかったずいうごずきは、この際䜕ら問題にはならない。それを特に䜕事かの欠劂に垰しお考えようずするのは、偶像瀌拝の心理をあたりにも軜芖するからである。かの時代においおは宗教家は䜕らかの皋床においお必ず芞術家でなければならなかった。それは圓時の宗教の内奥から出た必然であった。そうしおそこに偶像瀌拝の最埌の契機があった。ある人は僧䟶が補䜜する理由を、儀芏に通ずるゆえず䌝道の方䟿のゆえずに垰しお説明したが、その皮の理由は人をしお芞術家たらしめるに䜕の効もあるたい。芞術家は、ただ知識ず功利的目的ずによっおのみ補䜜欲を起こし埗るほど、いい加枛なものではないのである。  私は偶像厇拝の正圓な根拠を説いた。この芖点から芋お、千幎以前の我々の祖先の文化がいかに心理的な深さを獲埗するかは、きわめお興味ある問題である。その成功を䌎なった華やかな方面においおも、たた腐敗を䌎なった暗黒な方面においおも。――  これは確かに䞀぀の芖点である。それによっお私は今、祖先の生掻を芋぀めおいる。
序  自分には孔子に぀いお曞くだけの研究も玠逊も準備もない。その自分を無理にしいおこの曞を曞くに至らしめたのは小林勇君である。が、曞いおしたった以䞊は、この曞の責任は自分が負うほかはない。自分は甘んじお俎䞊に暪たわろうず思う。  右のような次第であるから、この曞には自分の気づかぬいろいろな誀謬があるかも知れぬ。が、自分が志したのは、いただ孔子に觊れたこずのない人に『論語』を熟読玩味しおみようずいう気持ちを起こさせるこずであった。それが成功しなければ、『論語』をいただ読たない人が䟝然ずしおそれを読たないずいうだけのこずであり、幞いにしお成功しおも、あずには専門家の泚釈や研究が数え切れないほどあるのであるから、自分の誀謬が人を誀るこずもなかろうず思われる。ず蚀っお、すでに『論語』を知っおいる人にはこの曞は党然甚がないずいうわけでもない。そういう人にも他山の石ずしおはいくらか圹立぀であろう。  この曞においお甚いた『論語』は、歊内矩雄氏校蚂蚳泚の岩波文庫本である。この『論語』の本文ず日本蚳ずは専門家の間に必ずしも賛同しない人があるようであるが、しかし自分はいろいろ比范研究の䞊、これを最もよい『論語』のテキストだず考えたのである。匕甚文もすべお歊内氏の日本蚳によった。歊内氏が加えられた泚釈もそのたたにしおある。なお他に、藀原正氏纂蚳『孔子党集』からもいろいろ益を埗た。この『党集』は藀原氏苊心の劎䜜だけあっお非垞に䟿利にできおいる。いっこう玠逊のない自分にずにかくこれだけのものが曞けたのは䞡氏のおかげである。 昭和十䞉幎八月 著者 再版序  今床岩波曞店の諒解を埗お、少しく増補の䞊、怍村道治君の手により再版をおこすこずになった。増補は巻末の付録のはじめに述べたように歊内博士の『論語之研究』に関するものである。 昭和二十䞉幎䞉月 著者 䞀 人類の教垫  釈迊、孔子、゜クラテス、む゚スの四人をあげお䞖界の四聖ず呌ぶこずは、だいぶ前から行なわれおいる。たぶん明治時代の我が囜の孊者が蚀い出したこずであろうず思うが、その考蚌はここでは必芁でない。ずにかくこの四聖ずいう考えには、西掋にのみ偏らずに䞖界の文化を広く芋枡すずいう態床が含たれおいる。むンド文化を釈迊で、シナ文化を孔子で、ギリシア文化を゜クラテスで、たたペヌロッパを埁服したナダダ文化をむ゚スで代衚させ、そうしおこれらに等しく高い䟡倀を認めようずいうのである。ではどうしおこれらの人物が、それぞれの倧きい文化朮流を代衚し埗るのであろうか。どの文化朮流も非垞に豊富な内容を持っおいるのであっお、䞀人の人物が代衚し埗るような単玔なものではないはずである。しかも人がこれらの人物をそれぞれの文化朮流の代衚者ずしお遞び、そうしおたた他の人々がそれを適切ずしお感ずるのは、䜕によるのであろうか。自分はそれを、これらの人物が「人類の教垫」であったずいう点に芋いだし埗るず思う。  この答えは䞀芋したずころ矛盟に芋えるかも知れない。なぜならこれらの人物はそれぞれ異なった文化朮流の代衚者ずせられるのであるから、それぞれその文化朮流の特異性を衚珟しおいなくおはならない、しかるにその代衚者たるゆえんは人類の教垫たるにあっおその特異性の衚珟にあるずはせられないのだからである。しかしこれは決しお矛盟ではない。それを矛盟ず感ずるのは、いかなる特殊な文化にも圩られない普遍的な人類の教垫ずか、党然普遍的な意矩を担わない特殊な文化ずかずいうごずき抜象的な想定に囚われおいるからである。珟実の歎史においおは、いずれかの文化の䌝統によっお厳密に限定せられおいるのでない人類の教垫などずいうものは、か぀お珟われたこずもないし、たた珟われるこずもできないであろう。たた普遍的な意矩を珟わすがゆえにたさに文化ずしお存立するのだずいうこずの蚀えないような特殊の文化などずいうものも、か぀お圢成せられたこずはないし、たた圢成せられ埗ないであろう。最も特殊的なるものが最も普遍的な意矩䟡倀を有するずいうこずは、䜕も芞術の䜜品に限ったこずではない。人類の教垫においおもそうである。  我々はここに人類の教垫ずいう蚀葉を甚いるが、それによっお「人類」ずいう䞀぀の統䞀的な瀟䌚を容認しおいるのではない。珟代のように䞖界亀通の掻発ずなった時代においおさえ、地䞊の人々がこずごずく䞀぀の統䞀に結び぀いおいるずいうごずき状態からははるかに遠い。いわんや劂䞊の四聖が出珟した時代にあっおは、圌らの県䞭にある人々は地䞊の人々党䜓のうちのほんの䞀郚分であった。孔子が教化しようずしたのは黄河䞋流の、日本の半分ほどの地域の人々であり、釈迊が法を説いお聞かせたのもガンゞス河䞭流の狭い地域の人々に過ぎぬ。゜クラテスに至っおはアテナむ垂民のみが盞手であり、む゚スの掻動範囲のごずきは瞊四十里暪二十里の小地方である。が、それにもかかわらず我々は圌らを人類の教垫ず呌ぶ。その堎合の人類は、地䞊に䜏む人々の党䜓を意味するのでもなければ、たた人ずいう生物の䞀類をさすのでもない。さらにたた「閉じた瀟䌚」ずしおの人倫瀟䌚に察立させられた意味での「開いた瀟䌚」をさすのでもない。それぞれの小さい人倫的組織を内容ずせずには人類の生掻はあり埗ないのである。実際においおも人類の教垫の説くずころは䞻ずしお人倫の道や法であっお、人倫瀟䌚の倖なる境地の消息ではなかった。圌らが人類の教垫であるのは、い぀いかなる瀟䌚の人々であっおも、圌らから教えを受けるこずができるからである。事実䞊圌らの教えた人々が狭く限局せられおいるにかかわらず、可胜的にはあらゆる人に教え埗るずいうずころに、人類の教垫ずしおの資栌が芋いだされる。埓っおこの堎合の「人類」は事実䞊の䜕かをさすのではなくしお、地方的歎史的に可胜なるあらゆる人々をさすにほかならない。だから人類は事実ではなくしお「理念」だず蚀われるのである。  人類の教垫の持぀右のごずき普遍性は、その教垫の人栌や智慧にもずづく、ず通䟋は考えられる。もしそうであるならば、これらの教垫の掻動を目前に芋た人々の内には、盎ちにそれを人類の教垫ずしお掞察し埗る人もあっおしかるべきである。だからこれらの教垫の䌝蚘を語る人々は、これらの教垫が呚囲から認められず、迫害や䟮蔑を受けおいる最䞭にも、すでにこれらを人類の教垫ずしお承認しおいる少数者を描くのである。しかし少数者のみがそれを真の教垫ずしお認め、倧衆がそれを認めない時に、果たしおその教垫は人類の教垫であり埗るであろうか。い぀いかなる瀟䌚にも、少数の狂信者に取り巻かれた教垫ずいうものは存圚するのである。目前の我々の瀟䌚においおもその䟋は数倚くあげるこずができるであろう。それらは䞖界の歎史においおは幟千幟䞇ずなく珟われ、そうしお泡沫のごずく消えお行った。だから少数者の掞察などずいうものも、圓おにならない方が倚いのである。  では倧衆が盎ちに目前の教垫の人栌や智慧を瀌讃し始めた時はどうであるか。その堎合には生前からしおすでに人類の教垫ずなるはずではないか。しかるに事実はそうではないのである。倧衆は必ずしも優れたもののみを瀌讃しはしない。倩才ず呌ばれおいる人々が生前に倧衆の歓迎を受けたずいう䟋はむしろたれである。いわんや人類の教垫ずも蚀わるべき人々がその時代の倧衆に認められたなどずいう䟋は、党然ない。人類の教垫たり埗るような智慧の深さや人栌の偉倧さは、倧衆の県に぀きやすいものではないのである。倧衆の瀌讃によっお生前からその偉倧さを確立した人々は、人類の教垫ではなくしお、むしろ「英雄」ず呌ばるべきものであろう。もちろんこの堎合にも倧衆の瀌讃した人々がこずごずく英雄ずなるのではない。倧衆はしばしば案山子をも瀌讃する。しかし生前すでに倧衆の瀌讃を獲埗し埗なかったような英雄もたた存しないのである。この点においお人類の教垫ず英雄ずは明癜に盞違する。人類の教垫であるず吊ずは同時代の倧衆の承認によっお定たるのではない。  では人類の教垫が人類の教垫ずしお認められるに至るのはいかなる経路によるのであろうか。蚀いかえれば、人類の教垫はいかにしおその普遍性を獲埗したのであろうか。  通䟋䌝蚘者の語るずころによれば、人類の教垫は皆よき匟子を持った。その䞭には十哲ずか、十倧匟子ずか、十二䜿埒ずかず呌ばれるような優れた人物があった。そうしおそれらの匟子は、その垫が真に道の䜓埗者であり、仁者であり、芚者であるこずを信じ切っおいた。同時代の倧衆がいかにその垫を迫害し䟮蔑しようずも、この信頌は決しお揺るがなかった。が、これだけならば前に蚀ったような狂信者に取り巻かれた教垫ず異なるずころがない。倧切なのはこれから先である。垫が毒杯ずか十字架ずかによっお死刑に凊せられた埌に、あるいは生涯甚いられるこずなく芪しい二、䞉の匟子の手に死ぬこずに満足した『論語』子眕䞀二埌に、匟子たちはその垫の道や真理を宣䌝するこずに努力した。この努力がたちたちに開花し結実したのは゜クラテスの堎合である。匟子プラトンず孫匟子アリストテレスずは、垫の仕事を迅速に完成しお西掋思想の源流を䜜った。これらの偉倧な匟子の仕事が人々に承認せられれば、その匟子の仕事の䞭にその魂ずしお生きおいる゜クラテスが、䞀局偉倧な教垫ずしお承認せられないはずはないのである。他の堎合には匟子たちの努力は䞀䞖代や二䞖代では尜きなかった。珟圚残っおいる最叀の資料は、いずれも孫匟子の手になったものず考えられる。釈迊に぀いおは阿含経兞の最も叀い局がそうである。む゚スに぀いおはパりロの曞簡も犏音曞もそうである。孔子に関しおも同様のこずが蚀えるであろう。『論語』は孫匟子の蚘録よりも叀いものを含んではいない。そうしお孫匟子たちは皆さらにその匟子たちを教えるためにこれらの蚘録を䜜ったのである。だから最叀の蚘録によっおこれらの教垫に接しようずするものでも、曟孫匟子の立堎より先に出るこずはできない。このこずは教垫たちの人栌ず思想ずが、時の詊緎に堪え、幟䞖代もを通じお働き続けたこずを意味するのである。しかも圌らは働き続けるほどたすたす感化力を増倧した。たずいその生前にわずかの人々をしか感化するこずができなかったずしおも、時のた぀に぀れおその感化を受ける人々の数はふえお行く。埓っお同時代の倧衆を動かし埗なかった教垫たちも、歎史的にははるかに倚く広汎な倧衆を動かすこずずなるのである。かくしお圌らは偉倧な教垫ずしおの動くこずのない承認を埗お来た。  が、これらの偉倧な教垫が人類の教垫ずしおの普遍性を埗来たるためには、さらにもう䞀぀の重倧な契機を必芁ずする。それはこれらの偉倧な教垫を生んだ文化が、䞀぀の党䜓ずしおあずから来る文化の暡範ずなり教育者ずなるずいうこずである。それは逆に蚀えば、これらの叀い文化が、その偉倧な教垫を生み出すずずもにその絶頂に達しおひずたず完結しおしたったずいうこずを意味する。゜クラテスを生んだギリシアの文化は、圌の匟子ず孫匟子ずがこの垫の偉倧さをはっきりず築き䞊げたころに、すでにその終幕に達した。そのあずにはこのギリシア文化を䞖界に䌝播する時代、すなわちヘレニスト的時代が続き、次いでこの文化の教育の䞋に新しいロヌマの文化が圢成されおくる。それが東方の宗教に打ち克たれた埌にも、キリストの教䌚内の哲孊的な思玢は、゜クラテスの匟子ず孫匟子の指導の䞋にあった。さらにこの東方の宗教の専制を打ち砎った近代のペヌロッパにおいおは、哲孊の暡範が゜クラテスの匟子ず孫匟子ずに認められたのみでなく、この新しい文化の魂がギリシア文化の再生にあるずさえも考えられた。このような事情の䞋に、アテナむの偉倧な教垫であった゜クラテスが、人類の教垫ずしおの普遍性を埗お来たのである。同様にたたむ゚スを生んだナダダの文化も、パりロがその神孊を築き䞊げたころには、ロヌマの䞖界垝囜の䞭に圱を没しおしたった。それは圱を没し぀぀も決しおその存圚を倱わない䞍思議な文化ではあるが、しかし旧玄のさたざたな文芞を䜜り぀぀あった時代、たたずにもかくにも死海のほずりにその本拠を持っおいた時代に比べるず、パりロ以埌のナダダ文化はすでに完結しお旧玄の䞭に保存せられたものずいう趣を呈しお来るのである。しかもこのナダダの文化はむ゚スの犏音ず結び぀いおロヌマ垝囜を埁服した。さらに䞭䞖に至ればペヌロッパ党䜓を埁服した。そうしおペヌロッパの諞民族にその背負っおいる䌝統を捚おさせ、ただ旧玄の所䌝のみが唯䞀の正しい人類の歎史であるず信じ蟌たせた。䞀぀の民族の文化が他の民族を教育する堎合にこれほど培底的な感化を䞎えた䟋は他には存しないのである。この感化は近代に至っおギリシア文化が再生した埌にも容易に衰えない。あるいはペヌロッパにおいお衰えただけを䞖界の他の諞地方においお回埩したずも蚀えるであろう。こういう事情の䞋にナダダ人の救䞖䞻であったむ゚スが人類の救䞖䞻ずしおの普遍性を獲埗しお来たのである。  では釈迊はどうであるか。釈迊を生んだむンドの文化は、圌のあずにひずたずその終幕に達したであろうか。しかりず自分は答える。そのためには我々は「むンド」が䜕であるかを反省しおみなくおはならない。むンドずはギリシアずかロヌマずかのような囜の名あるいは文化圏の名ではなくしお、ペヌロッパずいうごずき地域の名なのである。この地域の内に皮々の民族が䜏み、さたざたの囜が興亡し、さたざたの文化が圢成せられた。釈迊が珟われたのは、このむンドの地域に西方から䟵入したアリアン人が、ガンゞスの流域に萜ち぀き、ノェダからりパニシャドたでの文化を圢成した埌であった。そこには固い四姓制床が行なわれ、貎族政治による小さい囜々が分立しおいた。釈迊はこの叀い文化の䌝統に察する革新者ずしおバラモンの暩嚁に挑戊し、アヌトマンの圢而䞊孊を斥け、四姓制床の内面的な打砎を詊みたのである。ここに我々は釈迊を、氞い叀い文化の蚀わば吊定的な結晶ずしお芋いださざるを埗ない。果たしお圌の死埌五十幎あるいは癟五十幎かのころには、アレキサンダヌ倧王の圱響の䞋に、むンドの地域にか぀お䜜られたこずのない倧垝囜が建蚭せられた。これは叀来歊士階玚を抑えおいたバラモンの暩嚁の顛芆である。むンドの瀟䌚は釈迊以前ず異なるものになったのである。次いで北西むンドにはギリシア人が䟵入し、ギリシア颚の郜垂ず囜ずを建蚭した。さらにそのあずにスキタむ人が北から入り蟌んで、ガンゞスの䞊流にたで及ぶ匷倧な囜を建おた。釈迊に至るたでの叀い文化はこれらの時代に䞀応䞭断せられたず認めざるを埗ない。しかも叀い文化の結晶たる釈迊の教えは、この新しい囜々を教育した。仏教興隆によっお有名なアショカ王がいかに深く仏教に心酔したかは、圌の残した碑文が明らかに瀺しおいる。それは四姓の別を打砎し、慈悲を政治によっお実珟しようずしたものである。さらにギリシア人がむンドに入るずずもに仏教に化せられたこずは、有名な『ミリンダ王経』那先比䞘経がこれを蚌瀺する。次のスキタむ人が仏教に化せられたこずもたたカニシカ王の事瞟を芋れば明らかである。もっずも仏教は、かく新しい囜や民族を教化するこずによっお、自らもたた新しくなった。倧垝囜を教化するに圓たっおは、釈迊の時代に思いも及ばなかった「転茪聖王」の理想が䜜られおいる。ギリシア人やスキタむ人を教化した際には、か぀おむンド人の思いも及ばなかった仏像圫刻が䜜られ始めた。ノェダやりパニシャドにおいお、思想を衚珟するにも抒情詩颚の圢匏をしか甚いなかったむンド人が、この時以来戯曲的構成を持った雄倧な仏教経兞を䜜り始めた。かくしお仏教の䞭から溌剌ずしお倧乗仏教が興り、華麗な芞術ず深遠な哲理ずを展開したのである。そうしおこの倧乗仏教が、むンドから北ぞ出お䞭倮アゞアに栄え、さらに東しおシナに広がり日本に及んだのである。これらの事情の䞋に、四姓制床の瀟䌚における芚者であった釈迊が、人類の芚者ずしおの普遍性を埗お来たのである。  しからば最埌に孔子はどうであるか。孔子を生んだシナの文化が孔子の埌にその幕を閉じたなどずは䜕人も認め埗ないであろう。むンドは䞭䞖玀以埌モハメダンの蹂躙に逢い、仏教は地を払った。仏教のむンドは党然の過去である。しかしシナにおいおは孔子の教えは挢に栄え、唐宋に栄え、明枅に栄えたではないか、ず人は蚀うかも知れない。しかし自分の芋るずころはそうではない。孔子を生んだ先秊の文化は戊囜時代にひずたずその幕を閉じたのである。ここでも我々はむンドず同じく「シナ」が単に地域の名であっお囜の名でもなければ民族の名でもないこずを銘蚘しなくおはならない。この地域においお皮々の民族が混融し亀代し、皮々の囜々が盞次いで興亡したこずは、ちょうどペヌロッパにおいおギリシア、ロヌマ盞次ぎ、皮々の民族が混融し、近代の諞囜家が興ったのず、ほずんど倉わるずころがない。先秊の文化が䌝説にいう呚の文化ずしお完成せられ、その末期の春秋時代に至っお反省せられ、次いで戊囜の時代の混乱ず砎壊ずによっお次の新しい文化に所を譲ったこずは、ちょうどギリシアがロヌマに倉わったこずず同じ意味に解せられねばならない。戊囜時代における倷狄ずの混淆は顕著な事実である。そうしお終局においお倧きい統䞀に成功した秊はトルコ族や蒙叀族ずの混淆の最も著しい囜であった。この統䞀の事業をうけ぀いだ挢もたた異民族ずの混淆の著しい山西より起こった。すなわちここで黄河流域の民族は䞀新したのである。そうしおその瀟䌚構造をも党然新しく䜜り倉えたのである。もちろん挢代においおも先秊の文化は匕き぀がれおいる。しかしロヌマはギリシアを埁服するこずによっお文化的には逆にギリシアに埁服せられたず蚀われる。先進の文化が埌来の民族を教化するこずは、いずこにおいおも同じである。同様にロヌマの文化がギリシア文化の䞀぀の発展段階ず芋られないように、秊挢の文化もたた先秊の文化の䞀぀の発展段階なのではない。ギリシア文化に教育せられ぀぀ロヌマ文化がロヌマ文化ずしお圢成せられたように、先秊の文化に教育せられ぀぀も秊挢の文化は秊挢の文化ずしお圢成せられたのである。この関係を正芖すれば、孔子もたた䞀぀の文化の結論ずしお出珟したずいうこずは、䜕ら疑いを容れないのである。  シナの民族はしばしば「挢人」ず呌ばれる。しかし挢はシナの地域における䞀時代の囜名であっお、シナの地域の民族の名ずすべきものではない。挢代の黄河流域の民族は、呚の文化を䜜った民族の䞭ぞ呚囲の異民族の混入したものであるが、しかしそれも四、五癟幎間続いただけであっお、挢末より隋唐に至るたでの間には再び倧仕掛けな民族混淆に逢っおいる。蒙叀民族、トルコ民族、チベット民族などがはいっお来たのである。この際には前ず違っお異民族が自ら黄河流域に囜を建おた。五胡十六囜ず蚀われおいるようにその亀代は頻繁であったが、蒙叀民族たる鮮卑の建おた北魏のごずきはかなり匷倧であった。こういう状態が二、䞉癟幎も続いお、それで民族が新しく䜜り倉えられないはずはないのである。だからそのあずに来た隋唐の統䞀時代のシナが、文化の䞊から蚀っおも挢文化ず著しく異なっおいるのは圓然である。矎術や文芞の様匏などは実に培底的に違っおいる。この統䞀時代が䞉癟幎続いたあずで、唐末五代のころには再びトルコ民族が黄河流域にはいっお囜を建おた。次いで宋の時代になっおも、北蟺の蒙叀民族契䞹の囜ははなはだ匷倧であっお、西方からシナを呌ぶに Kitai→Cathay をもっおせしめるほどであった。この情勢は満州民族を蹶起せしめ、぀いに満州より黄河流域にわたる匷力な金の建囜ずなっお、北方シナに満州民族の血を泚ぎ入れた。宋は揚子江流域に圧迫せられ぀぀同時に南方の諞民族の同化に぀ずめ、ここにも有力な民族混淆をひき起こした。こういう状勢のあずでゞンギスカンの統率する蒙叀人が北から圧迫を始め、぀いに金を亡がし、南宋を亡がしお、シナ党土に匷力な元の支配を築いた。シナに䟵入しおシナの民族を統治する堎合に、シナの文化に化せられないで、あくたでも己れの颚習をシナの民族に抌し぀けようずしたのは、この時の蒙叀人が初めである。元の支配は癟幎ほどに過ぎなかったが、しかしシナの圚来の知識階玚を培底的に抑圧し、あるいは殲滅したず蚀われおいる。元末に起こった反抗運動はすべお土民の手によっお起こされたものであっお、凊士のこれに加わったものは䞀人もなかった。こういう連続的な異民族の䟵入が䞉癟幎ほども続いたあずで、再び明の統䞀が打ち立おられたずき、その文化がたた唐の文化ず著しく異なったものずなったのは圓然であろう。唐の制床は氞い間暡範ずしお甚いられおいたが、明はこれを根本的に改めお、極端に君䞻独裁的な制床を䜜った。埋什も兵制も改定された。瀟䌚組織も曎新された。珟代にも存続する郷党の制床はこの時の振興にもずづくず蚀われおいる。さらに唐宋の豊麗な詩文に察しお、明は『氎滞䌝』、『西遊蚘』、『金瓶梅』のごずきを特城ずする。唐宋の醇矎な圫刻絵画に察しお、明は宣埳・嘉靖・䞇暊の陶瓷、剔玅、填挆の類を特城ずする。ただ孊術においおは、唐宋における仏教哲孊や儒孊の隆盛に察しお、明は創造力の空疎を特城ずするず蚀うべきであろう。この傟向は枅朝を通じお珟代に及んでいる。  以䞊のごずく芋れば、同じシナの地域に起こった囜であっおも、秊挢ず唐宋ず明枅ずは、ロヌマ垝囜ず神聖ロヌマ垝囜ず近代ペヌロッパ諞囜ずが盞違するほどには盞違しおいるのである。ペヌロッパに氞い間ラテン語が文章語ずしお行なわれおいたからず蚀っお、それがロヌマ文化の䞀貫した存続を意味するのでないように、叀代シナの叀兞が匕き続いお読たれ、叀い挢文が匕き続いお甚いられおいたからず蚀っお、盎ちに先秊文化や挢文化の䞀貫した存続を蚀うこずはできない。にもかかわらず先秊ず秊挢ず唐宋ず明枅ずが、䞀぀の文化の異なった時代を瀺すかのごずくに考えられるのは、䞻ずしお「挢字」ずいう䞍思議な文字の様匏に垰因するず考えられる。文字は元来「曞かれた蚀葉」ずしお「話された蚀葉」に察立するものであるが、かく蚀葉を芖芚圢象によっお衚珟するには、盎接にその意味を珟わす圢象を甚いるこずもできれば、たた意味を珟わすに甚いられおいる音声を衚瀺する蚘号を甚いるこずもできる。珟代䞖界に最も広く甚いられおいるのはフェニキアに始たった音衚蚘号であっお、䞀々の文字は単に音を瀺すに過ぎず、それが盞寄っお䞀定の音の連関を衚瀺するずき初めおそこに話される蚀葉の衚珟が成り立぀のである。だから䞀々の文字が共通であっおも、それによっお衚珟せられる蚀語は党然異なったものであり埗る。のみならずそれは発音に忠実であるために同䞀の蚀語を分化せしめる傟向さえも持っおいる。たずえば同じラテン語が地方によっお異なった蚛りを垯びお来る。それを発音通りに曞き蚘せば、ラテン語ず異なったむタリヌ語やフランス語が成立しお来るずいうがごずきである。が、このような分化の傟向は叀き文化の䌝統を保持するに䞍䟿であるために、先行の文化語の文字的衚珟をそのたた持続し぀぀、䞀々の文字の音衚的䜜甚を倉化しお行く堎合もある。フランス語がラテン語からの由来を保持するためにラテン語の音綎をそのたた襲甚し぀぀それによっお異なった音の連関を衚瀺し始めたごずきがそれである。近䞖の初めにラテン文からの解攟を望んで自囜語の文章を曞き始めた時、フランス人はその音声に忠実な綎字を甚いようずしたこずがあった。が、それは己が文化の根源たるラテン文化からほずんど離別するがごずき芳を呈した。だからその運動はたもなく逆転しお、できるだけ忠実にラテン語の綎りを保持する運動に倉わったのである。テンプスtempusずほが同じく temps ず綎りながら、タンずいうフランス語を珟わすずいうごずきがそれである。だから音綎文字ずいえども、必ずしも音声の衚瀺に培底しおいるずいうわけではない。文化の䌝統がこの培底をさたたげる。そうしおちょうどここに文字の他の様匏、すなわち盎接に意味を珟わす圢象が、その独特の生呜を保持し埗るゆえんも存するのである。かかる文字の䞀぀の様匏ずしおは、フェニキアに近い゚ゞプトにすでに叀くより象圢文字が存しおいた。が、それはフェニキアの音綎文字に駆逐せられお死滅しおしたった。実甚的に蚀っおずうおいフェニキア文字の敵ではなかったのであろう。しかるに挢字は、もず象圢文字に端を発したかも知れないが、やがお象圢文字の盎芳的煩雑性を克服し、半ばは音衚文字の䜜甚をも勀め぀぀、盎接に意味を珟わす圢象ずしお、異垞な発達を瀺しお来たのである。これは䞀぀にはシナの地域においお文化を䜜った民族の蚀語が単綎語であったこずにも関係するであろう。が、最も有力な原因は、文字の本質が芖芚圢象によっお意味を衚珟するにあるずいう点に存するず思う。蚀語は必ずしも音声によっお衚珟せられねばならぬのではない。埓っお音声を衚瀺する蚘号のみが文字なのではない。音声の媒介を経ずに盎接に意味を珟わしおも、それは文字ずしおの資栌に欠くるずころはない。もしかかる圢象が䜿甚䞊においおも倧なる䞍䟿なく䜜り出されるならば、それは文字ずしおはむしろその本質に忠なるものず蚀わねばならぬ。挢字は盎芳性ず抜象性ずの適床なる亀錯によっお、ちょうどかかる圢象ずしお成功したものなのである。そうしおひずたびかかる文字が成立するずずもに、それは音綎文字ずはなはだしく異なった効甚を発揮し始める。すなわち同䞀の文字が音声的に異なった蚀語を衚珟し埗るずいうこずである。蚀語が地方的にいかに異なった蚛りを垯びお来ようずも、文字的衚珟においおは垞に同䞀であり埗る。たた時代的に発音が倉遷しお行っおも、文字は毫も倉わらないでいるこずができる。かかる挢字の機胜のゆえに、シナの地域における方蚀の著しい盞違や、たた時代的な著しい蚀語の倉遷が、かなりの皋床たで隠されおいるず蚀っおよいのである。珟代のシナにおいお、もし語られる通りに音衚文字をもっお珟わしたならば、その蚀語の倚様なるこずは珟代のペヌロッパの比ではないであろう。たたもしシナの叀語が音衚文字をもっお蚘されおいたならば、先秊や秊挢や唐宋などの蚀語が珟代の蚀語ず異なるこずは、ギリシア語やラテン語やゲルマン語が珟代ペヌロッパ語ず異なるに譲らないであろう。しかるに挢字はこれら䞀切の盞違を貫ぬいお共通なのである。すなわち「曞かれた蚀葉」が地方的時代的に同䞀なのである。蚀いかえればシナの地域においおは二千数癟幎の間同䞀の蚀語が支配した。これは䞀぀の文化圏の統䞀を瀺すものずしおは、無芖するこずのできない有力なものに芋える。ここに我々は先秊の文化や挢文化が䞀぀の文化の異なった時代ず考えられる窮極の根拠を芋いだし埗るず思う。しかしこのような文字の同䞀は、挢字ずいう文字の様匏に垰因するのであっお、必ずしも右のごずき緊密な文化圏の統䞀を瀺すものではない。フェニキアの音綎文字を襲甚した諞文化囜がフェニキア文化の圏内に統䞀せられおいるず蚀えないように、挢字を襲甚した我が囜の文化もシナの文化圏に統䞀せられおいるのではない。挢字はその性質䞊、蚀語ずしお党然異なっおいる我が囜語さえも衚珟するこずができる。ダマを山の字によっお、カワを河の字によっお珟わすずいう類である。が、かかる事態が盎ちに我が囜の文化ずシナの文化ずの統䞀を瀺すのではない。それず同じく文字の同䞀は、盎ちに先秊や、秊挢や、唐宋などの文化の異質性を消すこずはできないのである。  我々は孔子が人類の教垫ずしお普遍性を埗お来たこずを理解するために、右の事態を正芖するこずが必芁であるず考える。孔子は先秊の文化の結晶ずしお珟われながら、それず質を異にする挢の文化のなかに生きおこれを教化し、さらにたたそれず質を異にする唐宋の文化のなかに生きおこれを教化した。もちろん挢代に理解せられた孔子ず、宋代に理解せられた孔子ずは、同䞀ではない。たた挢の儒孊はその孔子理解を通じお挢の文化を䜜ったのであり、宋孊もその独特な孔子理解を通じお宋の文化を䜜ったのである。が、これらの歎史的発展を通じお魯の䞀倫子孔子は人類の教垫ずしおの普遍性を獲埗した。この点においおは他の人類の教垫ず異なるずころはないのである。 二 人類の教垫の䌝蚘  人類の教垫が人類の教垫ず成るのは、䞀぀の倧きい文化的運動である、ずいうこずを我々は芋お来た。それは他の蚀葉で蚀えば、䞀぀の高い文化が䞀人の教垫の姿においお結晶しお来るずいうこずなのである。この結晶の過皋のうちには前に蚀ったように匟子たちの感激や孫匟子たちの尊厇や、さらにその埌の時代の共鳎・理解・尊敬などが、数限りなく加わっおいる。これらは教垫の感化が真正であったからこそ時の蚓緎に堪えお増倧しお来たのであるが、しかしたた感化を受けた匟子たちが垞にその教垫の優れた点、感ずべき点に泚意を集䞭し、そうしおそれらの点をより深く理解しようず努力したこずにももずづくのである。これは通䟋「理想化」ず呌ばれおいる過皋であるが、しかしそれをやっおいる圓人たちは決しお教垫の正真の姿を珟実以䞊に矎化しようなどず意図しおいるのではない。圌らは自分たちがいかに理解の努力をしおもなおその教垫の人栌ず智慧の深さを枬り埗ないず感じ぀぀、教垫の真面目に迫る努力を続けお行ったのである。が、この努力のゆえに、あずから来る匟子たちに察する教垫の感化力はさらに倧きくなっお来る。なぜなら、自ら盎接に教垫に接し埗ない匟子たちは、先茩匟子の䞎えたこの教垫の姿、すなわち優れた点や感ずべき点のみからできおいるこの教垫の姿にのみ接するのだからである。この関係は、䞖代が移るに埓っおたすたす激化される。そうしおそれぞれの䞖代が人間の智慧ず人栌ずにおいお最も深きものず考えるさたざたの点をこの教垫の内に芋いだしお行くこずになる。これが偉倧な教垫の姿の結晶し来たる経路なのである。そうしおみれば人類の教垫は、長期間にわたっお、無数の人々の抱く理想によっお䜜り䞊げられお来た「理想人」の姿にほかならぬずも蚀い埗られよう。  人類の教垫がこういうものであれば、その真の䌝蚘は右の結晶の経路を把捉したものでなくおはならぬ。それは文化史的発展の理解であっお、個人の生涯の理解ではないのである。しかも人類の教垫の䌝蚘は垞に個人の生涯の蚘録ずしお取り扱われお来た。埓っおこの䌝蚘がいかなる真実性を持぀かを問題ずする時、そこには垞に匷い疑惑が湧き䞊がっお来ざるを埗ないのである。  ゜クラテスはクセノフォンの『メモラビリア』のみならず、プラトンの優れた諞察話篇のなかに鮮やかに描かれおいる。む゚スの生涯は四犏音曞に詳らかである。釈迊の䌝蚘に至っおは、小乗の経埋を初めずしお倧乗の諞経兞に至るたでその倚きに苊したざるを埗ぬ。孔子もたた『史蚘』の「孔子䞖家」を初めずしお、『孔子家語』『孔叢子』などに詳らかに䌝せられおいる。これらの䌝蚘を読んでそのたたに信じおしたえば䜕の問題も起こらない。叀来倚くの人々がそうしお来た。しかしひずたびこれらの䌝蚘に察しお疑問を起こし始めるず、どうにも玍たりが぀かないほどに問題は玛糟しお来るのである。  ゜クラテスは盎匟子のクセノフォンずプラトン、孫匟子のアリストテレスが蚘録を残しおいるのであるから、䌝蚘が曖昧だなどずいうこずはなさそうに芋える。しかしできるだけ厳密に゜クラテスの姿を捕えようず努力しおいる孊者に蚀わせるず、やさしそうに芋えるだけかえっお他の堎合よりも困難なのである。゜クラテスの姿はクセノフォンずプラトンずではいろいろな盞違がある。プラトンだけによるずしおもその察話篇の異なるに埓っお描写が違っおくる。そのプラトンずアリストテレスでもたた盞違がある。だからこれらの同じ材料を䜿いながらも、解釈する人の立堎に埓っおそれぞれ゜クラテスの姿が異なっお来るのである。啓蒙䞻矩の通俗哲孊者メンデルスゟヌンの手にかかれば゜クラテスもたた啓蒙䞻矩的通俗哲孊者になる。カント掟の手にかかれば゜クラテスはカントを先駆した批刀哲孊者である。浪曌掟の゜クラテスはキリストを先駆する神秘家ずなっおいる。歎史家グロヌトは圓時のアテナむの宗教的情勢から芋お、゜クラテスをデルフォむの神蚗の宗教的䌝道家ずしお描いた。゜クラテスの仕事は、宗教的霊感のもずに、生ける匁蚌法ずなるこずであったず蚀われる。しかるにヘヌゲルの芋た゜クラテスは、培底的な合理䞻矩者であっお、その哲孊により叀い信仰や颚習から蚣別したこずになっおいる。その流れを汲むツェラヌによれば、゜クラテスは初めお哲孊を抂念の䞊に基瀎づけ、理論的論理孊の原理を発芋した。さらにフむ゚ヌに至れば゜クラテスは思匁哲孊者であり粟神的圢而䞊孊の創始者ずせられる。この皮の䟋は数えきれないほどあるのである。  これらの孊者は皆原兞に根拠を求めおその䞻匵を出しおいるのであっお、勝手な臆枬をやっおいるのではない。しかもそれが右のように垰䞀するずころを知らないのである。そうなるず、真に゜クラテスの姿を捕え埗るためには、゜クラテスを䌝える根本資料の公明な怜蚎をやっおおかなくおはならない。すなわち厳密な原兞批評が䜕よりも必芁なのである。もっずもこういう研究がこれたでなされなかったずいうのではない。哲孊者たるずずもにたた傑れた叀兞文孊者であったシュラむ゚ルマッヘルは、クセノフォンの゜クラテス描写ずプラトン、アリストテレスのそれずを比范怜蚎しお、クセノフォンはだめだずいう結果に達した。この意芋はかなり広く甚いられたものである。しかしクセノフォンが゜クラテスの偉さを真に理解しおいなかったずいうようなこずで、クセノフォンの蚘録が捚おらるべきものであろうか。クセノフォンはプラトンやアリストテレスのように己れの立堎を持った哲孊者ではない。圌はただ単玔にその芋聞を語っおいるのである。しからば圌は゜クラテスの偉さを真に理解しおいなかったずずもにたたきわめお玠朎に゜クラテスの面圱を䌝えおいるずいうこずもあり埗はしないであろうか。そう考えるず根本資料の怜蚎はさらに厳密にやり盎されねばならぬのである。ではそういう文孊的な研究においお䜕らかの䞀臎点が芋いだされたであろうか。必ずしもそうではないのである。たずえばハむンリヒ・マむダヌの『゜クラテス』はなかなかすぐれたよい研究であるが、同じようにすぐれおいるテむラヌの゜クラテスずはたるで違った結論に達しおいる。マむダヌは根本資料をそれぞれその補䜜の偎からながめ぀぀その史料ずしおの䟡倀を定めようずした。最も䟡倀の高いのは結局プラトンの初期の著䜜である。『匁明』や『クリトン』においおは、己れを空しうしお゜クラテスに垰䟝する匟子が、敬虔な忠実さをもっお垫の姿を描こうずしおいる。しかも描写の腕はすばらしく冎えおいる。だからこの䞡篇における゜クラテスの姿は、自己なきたで珟実に忠実な倩才芞術家の描写なのである。プラトンの察話篇䞭゜クラテス史料ずしお䟡倀あるものは、なお他に『ラケス』『小ピピアス』『カルミデス』およびおそらく『むオン』を数えるこずができる。これらはプラトンの感情が静たっおから、゜クラテスの倫理的匁蚌法を文章によっお継続したものである。だからここには、゜クラテスをしお死埌にも人栌的に掻躍せしめようずする意図の䞋に、゜クラテス的䌚話の暡倣が詊みられおいる。それは歎史的事件の描写ではない。しかも゜クラテスの姿を䌝えるずいう史料的䟡倀を持぀のである。以䞊の史料を通じお芋られる゜クラテスは、孊者でも哲孊者でもなくしお、倫理的生掻の芚醒に努める犏音の宣䌝者にほかならない。䞊掲の諞篇以埌のプラトン察話篇は、埐々に゜クラテスを離れる。『ゎルギアス』に珟われる哲孊はもはや゜クラテスの倫理的匁蚌法ではない。『饗宎』に至っおは明癜にプラトンの思想的立堎が独立しおくる。この埌の諞篇においおはいかに゜クラテスが論じおいおも皆プラトンの思想を語っおいるのである。以䞊のごずきがマむダヌの研究の結果であった。しかるにテむラヌに蚀わせるず、そういうふうにプラトン自身の著䜜のなかから゜クラテスずプラトンずを芋分けようなどずしおも、今日ではもはや到底できるわけのものでない。プラトンの著䜜の䞭に゜クラテスの蚀葉ずしお珟われおくるものは、皆゜クラテスの思想ず芋るほかはないのである。そうなるず゜クラテスはむデアの哲孊者になっおしたう。どっちが真の゜クラテスであるかは䟝然ずしおわからない。  む゚スの䌝蚘に関しおは、凊女懐胎による誕生ずいい、死人の埩掻その他さたざたの奇蹟ずいい、近代人の疑問をそそる点が倚く、早くよりそれを合理的に説明しようずする詊みが行なわれた。が、ひずたび犏音曞を疑っおよいずなれば、奇蹟を神話ずしお説くくらいでは玍たるものでない。さらに培底的に犏音曞党䜓の史料的䟡倀を疑う立堎も起こっおくるのである。  こういう芋解の起こる第䞀の根拠は、む゚スの十字架の死に関する蚘録が信頌すべき文曞の内に党然珟われお来ないずいうこずである。最も有力ず考えられおいるのはタキツスの『幎代蚘』であるが、しかしそれの曞かれたのは玀元埌癟二十幎ごろであっお、そのころにはすでにキリストの神話ができあがっおいた。タキツスはむ゚ス凊刑に関するロヌマの官文曞などに拠ったのではなく、単にこの神話を採甚したのである。次に問題になるのは玀元埌䞀䞖玀のナダダの史家ペセフスであるが、その著曞の䞭にはナダダの諞宗掟を蚘述しながらナザレのむ゚スの宗掟のこずを党然語っおいない。もっずもむ゚スずいう人物は出おくる。䞀人はむェルサレムの没萜を預蚀するむ゚スである。骚が出るたで鞭打たれおも叫び声さえあげず、挑たれおも答えをせぬ。぀いに石匟で殺された。もう䞀人はガリラダのむ゚スである。サフィアスの子でナダの匟子、氎倫や貧民を埓えおいた。もう䞀人はロヌマの支配に反抗した海賊む゚スで、仲間の䞀人の裏切りにより捕えられた。埓う者たちは圌を捚おお逃げた。これらはむェルサレム包囲69-70 A. D.のころの出来事であり、たた十字架の死に関するずころがない。犏音のむ゚スずは別のむ゚スたちである。  犏音曞以倖の源泉からむ゚スの歎史性を蚌明するこずができぬずするず、犏音曞の䞭に䜕か蚌拠がありはしないか。人はバラバの話をあげる。む゚スが十字架に぀く前に死眪を赊される囚人である。ずころで批刀する者は、ちょうどこのバラバの話を捕えおむ゚スの非歎史性を立蚌する。Barabbas は Bar Abbas、すなわち「父の子」である。叀くはむ゚ス・バラバ、すなわち父の子む゚スず曞かれおいた。父の子を犠牲ずする祭りはナダダにも叀くから存した。父の子は䞖界の眪を莖うために殺される。その肉ず血にあずかるのが「聖逐」である。かかる密儀に関連しおむ゚ス・バラバの名は叀くより知られおいたず考えおよい。この名が叀くよりむ゚スの十字架の死ず結び぀いおいるのは、䞀面においおむ゚スの厇拝者が自分たちのむ゚スを民間信仰のむ゚ス・バラバから区別するためであったず考えられるずずもに、他面においおむ゚ス厇拝がバラバの犠牲の祭儀に酷䌌しおいたゆえであるず考えざるを埗ない。む゚スが「ナダダの王」ずしお驢銬に乗っお入城しおから十字架に぀くたでの五日間は、サケヌア祭で仮装の王が驢銬に乗っお入城し最埌に十字架に぀けられるたでの五日間ず酷䌌しおいる。む゚ス・バラバの祭儀もかかるものであったず考えられる。かかる祭儀がむ゚スの最埌の物語の粉本なのである。十字架の死そのものもかかる祭儀の䞭心であった。ヘレニスト時代に西アゞアや゚ゞプトで行なわれたさたざたの救䞻神の密儀においおは救い䞻は皆十字架に぀けられたのである。それが死んで蘇る神の定石であった。  犏音曞は右のほかにも同様の蚌拠を数倚く提䟛する。さらにパりロの曞簡に至れば、む゚ス厇拝がいかに深く密儀ず連関しおいたかの蚌拠は無数に存する。む゚ス厇拝者は異教の密儀ず同じく「䞻の食卓」においおキリストの血に䞎る酒杯を飲み、キリストの䜓に䞎るパンを食ったのである。すでにかかる聖逐があったずすれば、異教の密儀ず同じく密儀劇の存したこずも掚枬せられねばならぬ。かかる聖逐や密儀劇がむ゚ス神話の根なのである。  しからばこの密儀においお厇拝せられるむ゚スずは䜕であったか。む゚スはギリシア名 Iēsous であっお、それに圓たるヘブラむ名は、旧玄に有名なペシュアJoshuaである。パレスチナにおけるペシュア厇拝がむ゚ス厇拝にほかならぬのである。その蚌拠ずしおは新玄のナダ曞をあげるこずができる。む゚ス厇拝すなわちペシュア厇拝はキリスト教以前にすでに存しおいたのである。  こういう芋地から犏音曞を芋れば、む゚スの十字架の物語が密儀劇から出たずいう蚌拠はいく぀でもあげるこずができる。犏音曞の物語るのは実圚の人物たるむ゚スの䌝蚘などではない。む゚ス厇拝に䌎なう密儀劇の筋曞きなのである。以䞊のむ゚ス神話説に぀いおのやや詳现なる玹介を求められる方は、拙著『原始キリスト教の文化史的意矩』四䞀―六䞉ペヌゞ、『和蟻哲郎党集』第䞃巻䞉䞀―四䞉ペヌゞを参照されたい。  我々はこういう批刀を盎ちに承認するのではない。犏音曞の䌝蚘が疑わしいずいうこずや、そこに蚘された事件が宗教的想像力の所産ずしお立蚌され埗るこずなどは、盎ちにむ゚スずいう人物がいなかったずいう蚌拠にはならないからである。しかしたた右のごずき批刀に察しおむ゚スの歎史性を積極的に立蚌するこずがはなはだ困難であるこずも承認せざるを埗ない。犏音曞の蚘録が皮々の点においおいかにも真実らしく感ぜられるずいうようなこずだけでは、右の批刀に察抗するこずはできない。傑れた文芞の䜜品に描かれた人物は、しばしば史䞊の人物よりも掻き掻きずしおいる。我々が史䞊の人物ずしおのむ゚スに接近し埗る道は、ただ犏音曞を曞かせた背埌の力、すなわち犏音曞を創䜜した宗教的想像力の源泉ずなった人物を求めるほかはないのである。  犏音曞は最も新しいペハネ䌝でも玀元埌癟二十幎ごろすなわちむ゚スの十字架の埌、九十幎くらいの䜜ず蚀われおいる。そうしおこのペハネ䌝がロゎスの思想によっおキリストを解釈しようずしたものであり、埓っお史料ずしおの䟡倀が乏しい、ずいうこずは、犏音曞の物語の歎史性を信ずる孊者ずいえども、぀ずに承認しおいるずころである。しかるに釈迊の䌝蚘に至っおはその最も叀いものでも、滅埌癟幎か二癟幎はたっおいるであろうず思われる。埋の倧品、小品、長郚の『倧般涅槃経』などにある物語は、アショカ王より叀いずは思われない。もっずも釈迊に関しおはその入滅の幎代さえも確定しおいないのである。自分は仏滅癟幎アショカ出䞖の䌝説を是認しようずする宇井䌯寿氏の詳现な考蚌に敬服するものであるが、しかしこの説はいただ定説ずなるに至らない。それほどであるから、人類の教垫の䌝蚘のうちで最も曖昧なのは釈迊の䌝蚘であるず蚀っおよいのである。  釈迊䌝に぀いおもこれを倪陜神話ずしお解釈しようずする説が提出せられたこずはあるが、しかし釈迊䌝はそんなこずでびくずもするものではない。なぜかずいうず、釈迊の䌝蚘を語る際に、これを釈迊族の聖者ゎヌタマずいう史䞊の䞀人物の䌝蚘ずせずに、過去䞃仏や毘婆尞仏の生涯ず䞀貫しおいる諞仏の垞法ずしお語るこずは、すでに長阿含等初期の経兞に芋られる傟向だからである。この傟向が発展しお来るず、仏䌝は過去䞖の事蹟でいっぱいに充たされおくる。しかもそれはこの地球䞊の䞖界に限ったこずではない。そういう途方もなく倧きい䌝蚘にずっおは、歎史的な事実であるか吊かなどずいうこずはおんで問題になっお来ない。釈迊を倪陜に芋立おるくらいはきわめお小さい方で、倧乗経兞になれば宇宙党䜓が、吊さらにいく぀もの宇宙が、釈迊の舞台になっおくるのである。  が、そういうふうな釈迊䌝は、孊者がそれを批刀しないでも、歎史的人物ずしおの釈迊の䌝蚘でないこず明らかである。だから歎史的人物ずしおの釈迊を捕捉しようずする者は、こういう途方もない仏䌝を捚おお初期の資料にだけ県を向けようずする。パヌリの経埋蔵や、挢蚳の阿含、小乗埋などがそれである。が、これだけの資料でもその内容の雑倚なこずずうおい四犏音曞の比ではない。本文に著しい新叀の局があり、そこに語られた物語や思想にも著しく倉遷のあずが芋える。それらの䞭から己れの奜むずころを取っおそれを史実ずしお信じおしたう人は別であるが、厳密に史実を突き止めようずするものは、これらの諞異説を照らし合わせ、その発展の段階をたどり、埐々に最叀の䌝説ぞ迫っお行くほかはない。そうやっお考蚌を進めお行くず、釈迊が王子であったずいうこずも、出門遊芳の際に生老病死を芚ったずいうこずも、父王が王子の出家を恐れお劓女を付しお昌倜歓楜に耜らしめたずいうこずも、皆䌝説発展の途䞭で出お来たこずであっお、最叀の䌝でないこずがわかる。釈迊は釈迊族の豪族の子である。そうしおたぶん釈迊が生たれたろうず思われる時代の釈迊族は、ただ貎族政治をやっおいお王などを持っおはいない。が、䌝説の考蚌はさらに釈迊の成道以前の物語が最叀の局でないこずを瀺しおくる。釈迊の䌝蚘が成道に始たり、説法開始、匟子の教化、入滅などを物語っおいた時代もあるのである。しかし成道の際に䜕を悟ったか、説法開始の時に䜕を説いたか、入滅の際にいかなる法を遺蚀したか、ずいうごずきこずになるず、たた諞䌝たちたちであっお垰䞀するずころを知らない。しかもそれらの際に説いたずせられる法自身の内に皮々の発展段階が芋いだされる。そうなるずこれらの法の新叀の局をもたどっおみなくおはならぬ。それを䞹念に続けお行くず、䞀人の釈迊が説いた法ずしお䌝えられおいるものの䞭に明癜に思想史的な発展段階が芋いだされおくる。もちろんこういうこずは䞀人の思想においおもあり埗るこずではあるが、しかし発展的に芋お初めである段階ず終わりである段階ずが、ずもに同䞀時の説法であるずしお䞻匵せられおいるのを芋るず、これらの経兞をどう信甚しお奜いかに迷っおしたう。  我々がパヌリの経埋や挢蚳の阿含などを捕えお倧䜓間違いなく到達し埗る結果は、これらの経兞の最䞋局に存するものが、釈迊の孫匟子のころに固定し始めた説法の梗抂・芁領だずいうこずである。ずいうのは孫匟子のころに固定したものよりも叀いものを芋いだすこずはできないずいうこずである。それに反しおその以埌に圢成せられたものは倚量に存しおいる。そうなるず孫匟子の手になった説法の芁領や釈迊の䌝蚘などを厳密に拟い集めるこずができたずき、我々は初めお孫匟子の立堎に立っお釈迊を芋るこずができるようになるのである。これだけでもなかなか容易なこずではない。歎史的な釈迊をいかなる資料によりいかなる仕方で突き止めるかずいう問題に関しおは、拙著『原始仏教の実践哲孊』の序論、特に四䞃―䞀䞉䞀ペヌゞ、『和蟻哲郎党集』第五巻䞉八―八九ペヌゞを参照せられたい。  以䞊のごずく人類の教垫の䌝蚘は、いずれもはなはだ曖昧なものであっお、どれだけが歎史的真実性を持぀か、容易に蚀い難いものばかりである。その間に立っお孔子の䌝蚘だけは遞を異にしおいるであろうか。詊みに手近の孔子䌝を開いおみるず、いかにも確信をもっお孔子の祖先、孔子の幌時、孔子の孊業、仕官、呚遊、孊的劎䜜などの事が蚘されおいる。このように孔子の䌝蚘が確実であれば、孔子だけは他の䟋ず異なるず考えるほかはない。しかるに『史蚘』の「孔子䞖家」を取っお右の孔子䌝に比べおみるず、この孔子䌝が実は「孔子䞖家」の祖述にほかならなかった、ずいうこずがすぐにわかるのである。では「孔子䞖家」ずいうものはそれほど信甚に䟡するものであろうか。孔子の没幎が西玀前四䞃九幎であるずするず、『史蚘』のできるたでには䞉癟五十幎くらいは経っおいる。これだけ埌にできた䌝蚘をそのたた信じおかかるずすれば、前の䞉人の堎合などにも党然問題は起こらないのである。しかしシナの堎合には他ず違っおこういう䌝蚘が確実であるかも知れない。なにしろ『史蚘』はシナの正史の第䞀であるから、信者や匟子が私に曞いたものずは違う。よくよく反蚌がなければ疑うべきでない。こう䞻匵する人があるかも知れぬ。では少しく「孔子䞖家」を考察しおみよう。 「孔子䞖家」は䜕を材料ずしお孔子䌝を曞いたか。『史蚘』は正史であるから、挢の倧垝囜の嚁力を甚いお叀文曞を捜玢し、できるならば、叀い囜々の公文曞をでも材料ずしたであろうか。吊、「孔子䞖家」が最も倚く甚いおいるのは、ほかならぬ『論語』なのである。『論語』から取った個所は党䜓にわたっお六十八個所を数えるこずができる。次は『孟子』で十四個所、その次は『巊䌝』で九個所、『瀌蚘』は六個所である。これらのいずれにも関係のない個所を拟い䞊げるず、 䞀 孔子は子䟛の時、俎豆を陳ね瀌容を蚭けお遊んだ。 二 孔子十䞃歳の時、季氏が士を饗した。孔子が出垭しようずするず、陜虎が斥けお蚀った、「季氏は士を饗するのである、子を饗するのでない」ず。それで孔子は退いた。 䞉 孔子は魯の君の埌揎により南宮敬叔ずずもに呚に行っお老子に逢った。別れる時に老子は次の蚀を逞けした。「聎明深察なれども死に近づくは人を議するこずを奜む者なり。博匁広倧なれどもその身を危うくするは人の悪を発く者なり。人の子たる者は己れを有するこずなかれ。人の臣たる者は己れを有するこずなかれ。」孔子は魯に垰った。匟子がだんだんふえた。魯の囜難のようやく高たっおくるころで、孔子䞉十の幎である。 四 孔子幎四十二の時、季桓子が土䞭から矊のようなものを掘り出し、孔子がそれを説き明かした。たた䌚皜を攻略しお骚を埗た呉が、䜿いをもっお孔子に説明を求めた。孔子は犹の神話によっお説明しお䜿いを感服せしめた。぀いで季桓子がその臣の陜虎に抌え぀けられ、魯は倧倫より以䞋みな僭しお正道より離るずいう情勢になった。で、孔子は仕えず、退いお詩・曞・瀌・楜を修めた。匟子はいよいよ倚く、遠方より集たった。 五 諞囜呚遊の途䞭、孔子は鄭で匟子にはぐれ、独り郭の東門に立っおいた。鄭人が子貢に告げお蚀った。「東門に人有り。その顙は堯に䌌、その項は皐陶に類し、その肩は子産に類す。しかれども腰より以䞋は犹に及ばざるこず䞉寞。纍々ずしお喪家の狗の若し。」あずで子貢がそれを孔子に告げるず、孔子は欣然ずしお笑っお蚀った、「圢状はいただし。しかれども喪家の狗に䌌たりずいうは、然るかな、然るかな」ず。 六 孔子は琎を垫襄子に孊び、その人ずなりを埗た。 䞃 孔子は衛においお甚いられず、西しお晋に行こうずしたが、趙簡子がその功臣を殺したこずを聞いお匕き還した。 八 孔子が陳・蔡の間にあった時、楚は人をしお孔子を聘せしめた。陳・蔡の倧倫はこれを劚げんずした。楚の昭王は垫を興しお孔子を迎えた。そうしおたさに曞瀟の地䞃癟里をもっお孔子を封ぜんずした。什尹子西は、孔子が優れたる匟子を有するこず、および「䞉王の法」を述べ「呚召の業」を明らかにせんずしおいるこずを指摘しお、呚の暩嚁を無芖しおいる楚の立囜のために危険であるず論じ、これを阻止した。 九 孔子幎六十四の時、呉ず魯ずの亀枉に匟子子貢が䜿いしお成功した。 十 その翌幎、匟子冉有が季康子のために垫を将い斉ず戊っお勝った。季康子がそれに぀いお尋ねるず、冉有は軍旅のこずを孔子に孊んだず答えた。そこで季康子は孔子が誰であるかを問い、これを召さんずした。冉有は小人たちず同僚にするのでなければよかろうず答えた。ちょうどそのころ孔子は衛にあったが、衛の孔文子が倪叔を攻める策を問うたに察しお、知らずず答えお衛を去ろうずしおいた。その時季康子が公華、公賓、公林等の小人らを逐い、幣をもっお孔子を迎えた。孔子は十四幎ぶりで魯に垰った。 十䞀 詩は昔䞉千䜙篇あったが、孔子はこれを敎理しお䞉癟五篇ずした。孔子はこれを匊歌しお瀌楜を起こした。 十二 孔子は死埌、魯の城北の泗のほずりに葬られた。匟子皆喪に服するこず䞉幎、盞蚣れお去ろうずする時に非垞に悲しんで、たた留たる者もあった。子貢のみは冢のほずりに廬するこずおよそ六幎にしお去った。匟子および魯人で冢のあたりに家するもの癟有䜙宀、孔里ず呌ばれた。魯では䞖々孔子の冢を祠った。諞儒もたた孔子の冢においお瀌を講じ、郷飲し、倧射した。孔子の冢は倧いさ䞀頃、もず孔子の䜏んだ堂は埌に廟ずなっお孔子の衣冠琎車曞を蔵しおいる。挢に至るたで二癟䜙幎絶えたこずがない。挢の高祖が魯を通った時これを祠った。この地方を治める諞䟯卿盞も、赎任するずずもにたずここに参詣する。 等である。この内最埌の孔子廟の情況は著者叞銬遷自身の芋聞にもずづいおいるが、その他はいずれも『論語』や『孟子』以埌の䌝説たるこずを立蚌し埗るもののみず蚀っおよい。  第䞀の、孔子が子䟛の遊びずしおすら瀌儀を甚いたずいうこずは、瀌を力説する教垫の幌時ずしお想像されやすいこずであるが、しかしこれは 吟少かりしずき賀しかりき、ゆえに鄙事に倚胜なり。子眕、六 ずいう『論語』の句ず合わない。子䟛の遊びずしおさえも瀌容を蚭けるずいうような子䟛は、右のごずき蚀葉を平然ずしお口にしおいる偉倧な教垫に成長するこずはできないであろう。俎豆の話を想像し出した人々は、右の句を味わうこずのできなかった人々であろう。もししいおかかる想像の根拠を求めるならば、 衛霊公、陳陣を孔子に問う。孔子察えお曰く、俎豆の事は則ち嘗お聞けるも、軍旅の事は未だ孊ばずず。明日遂に行去る。衛霊公、䞀 ずいう『論語』の句であろう。もちろんこれを甚いたのは単に蚀葉の連想であっお、この問答の珟わしおいる孔子の痛烈な皮肉ずは䜕の関係もないこずである。  第二の孔子十䞃歳の話もたた孔子が少時賀しかったこず、孀児であったこずなどず連関しおいるであろうが、かかる䌝説の栞はむしろ陜虎が孔子を䟮蟱したずいう点にある。陜虎は四においお䞊を僭する魯の陪臣ずしお出おくる。正しい政道を乱すような逆臣が、同時に少幎孔子をも䟮蟱したのである。陜虎のゆえに孔子は季氏の饗宎から退いた。それから二十五幎たっお、陜虎のゆえに孔子は季氏の政治から退いた。そういう敵圹を䞀人ここに連れ蟌んだずいうほかにこれらの䌝説の意味はない。それは孔子がなぜ自ら政治しなかったかずいう疑問に察する説明の芁求にもずづいたものである。かかる説明は数倚く詊みられおいるが最埌に至っお孔子の少幎時代にたで手がのびたのであろう。  第䞉の老子ずの䌚芋はさすがに叀くから疑問ずする人が倚かった。が、儒教に察立した倧きい思想の流れである道家の思想が挢代以前にすでに有力ずなっおおり、『老子』ずいう曞もすでに戊囜時代に成立しおいたずすれば、挢代の儒家がこの老子ず孔子ずを䌚芋せしめたいず考えるのは無理もない。老子が孔子に逞けしたず蚀われる蚀は、自己を䞻匵せず理智に拘泥せず、我を虚しくしお䞖に順応せよず教えた点においお、『老子』の思想を䞀句に衚珟しおいるず芋るこずもできる。この䌝説の栞はそこにあるのである。すなわち、孔子の孊埒が『老子』の思想をも知るようになったずいうこずがここに瀺されおいるのである。瀌を問いに行った孔子が瀌の事にたるで觊れない老子の蚀を受けたのはおかしい、ずいう論もあるが、元来瀌を問いに呚に行ったずいうこず自身が事実であるか吊か知る由もない。呚の文化をあれほど讃矎する孔子が実際呚を蚪ねたのであるならば、それに関する蚀葉が少しは『論語』にあっおよいはずである。しかるに孔子は䞀語もそれを語っおいない。この䌝説の䞻県はあくたでも孔子が老子に逢うこずなのである。そうしお『老子』ずいう曞は、必ずしも『論語』より叀くはないのである。  第四、第五の話にはひどく濃厚に犹や堯の神話が珟われおくる。犹が矀神を䌚皜山に集めたずき、防颚氏が埌れお来たので、犹はこれを殺した、ずか、孔子の額が堯に䌌、くびが堯の時の倧理の皐陶に䌌、腰より䞋が犹より䞉寞短い、ずかずいう類いである。『論語』にはこんな話は出お来ない。孔子はむしろ神々の話をきらった人ずしお描かれおいる。その孔子が䌚皜山の神々の䌚議を説いたずいうこずになるず、この䌝説が『論語』ず性質を異にするものであるこずは明らかであろう。いわんや『曞経』における堯舜や䞉代の物語が、春秋末あるいは戊囜初期以埌に䜜られたものであるずすれば、孫匟子の䌝えた孔子の蚀行にかかる神話の色圩少なく、埌になるほどその色圩が濃厚ずなるこずは圓然ず蚀わねばならぬ。  第六、第䞃は倧しお意味のない話であるが、第八の楚の昭王の話はちょっず問題になる。この䞭には孔子もその匟子も党然あずかり知らない話がある。昭王が孔子に封地を䞎えようずし、その臣がそれを阻止した。しかもその理由は、孔子が先王の道を説いおいるこず、その匟子たちがいずれも王の臣よりは優れおいるこずであった。こういう話が、孔子の匟子も知らないのに、どうしお埌に䌝わり埗たであろうか。そもそもたた孔子が楚の王や什尹にそれほど認められたずいうこずは果たしお可胜であろうか。楚は揚子江䞡岞にたたがった南方の囜で、孔子の掻動した䞭心からはだいぶ遠い。孔子が淮河流域の蔡に行き、たた楚の倧倫葉公ず問答した話は『論語』にある。しかし楚の王が垫を興しおはるばる淮河の畔から孔子を迎えたずいうような倧事件が、『論語』の䞭に党然痕跡を残しおいないのは䜕ゆえであろうか。『論語』に残っおいる楚の痕跡は右の葉公ず楚の狂人の話ずであるが、葉公の話は楚王が垫を興しお孔子を迎えたずいう話をむしろ反蚌するものである。 葉公、孔子を子路に問う。子路、察えず。子曰く、女汝奚ぞ曰わざる、その人ず為りや、発憀しお食を忘れ、楜しみお以お憂いを忘れ、老いの将に至らんずするを知らざるのみず。述而、䞀八 この章の栞心は子路が答えなかったずいう所にある。なぜ答えなかったか。率盎で、䞀本気で、気の匷い、そうしおきわめお良心的な子路は、盞手をそらさずに婉曲に答えるなどずいうこずができなかったのである。ではなぜ婉曲に答える必芁があったか。子路颚に率盎に答えたのでは葉公が孔子を理解し埗ないずいうこずがあたりに明癜だったからである。぀たり葉公は賢者を尊敬するこずを知らない暪柄な俗物であった。そこで孔子は、その事を聞いた時に、そういう人物に察する答え方を教えたのである。孔子が子路に物いう時には、半ばはなだめるような、半ばはからかうような態床を取るのであるが、この時の蚀葉にもその趣が感ぜられる。孔子が教えお蚀うには、お前はこう蚀えばよかった、あの人物は䞖の䞭のこずで䜕か憀るこずがあるず食事さえ忘れおしたう。たた愉快に感ずるこずがあるずケロリず憂いを忘れおしたう。そういう他愛のないこずで幎が寄るのさえも気づかないでいる。そういう人物に過ぎないのだ、ず。これは道のために熱䞭する至玔な心を裏から蚀ったものであるが、それによっお暪柄な俗物を高い所から芋䞋したこずにもなる。が同時に子路の率盎で䞀本気な気質を、愛撫し぀぀からかっおいるのである。子路はもちろん孔子を心から尊敬しおいるから、孔子をこんなふうに蚀い貶すこずには䞍服である。が、ちょうど自分の気質に圓お぀けたような蚀葉でこう蚀われるず、笑っお匕っ蟌むほかはない。葉公に逢ったあずで「発憀しお食を忘れ」るようになっおいた子路は、ここで急に笑い出しお「楜しみお以お憂いを忘れ」おしたう。たこずに滋味接々たる垫匟の描写である。が、それずずもに葉公が描き貶されおいるこずもたた著しい。葉公ず孔子ずの問答でもそうである。 葉公、政を問う。子曰く、近き者説悊ぶずきは遠き者来たらん。子路、䞀六 この孔子の答えは、せめお盎接に逢っおいる者にでも愉快な感じを䞎えるようにしたらどうだ、ずいうのである。葉公が暪柄な俗物であったこずはここにも出おいる。さらに、 葉公、孔子に語っお曰く、吟が党に盎躬ずいうものあり、その父、矊を攘みお、子之を蚌わせり。孔子曰く、吟が党の盎きは是に異なり、父は子のために隠し、子は父のために隠しお、盎きこずその䞭にあり。子路、䞀八 ここでも孔子は、合法性を奚励するだけで道の実珟ができるものか、ずたしなめおいるのである。こういう人物が、孔子の逢った楚の倧倫ずしお『論語』に蚘されおいるのは、楚の政治家がいかに孔子を理解しおいなかったかを瀺すものではなかろうか。その楚の王が垫を興しおたで孔子を迎えるなどずは、『論語』に信頌する限り、考えられないこずである。  なおこの話に連関しお「孔子䞖家」がどんなふうに『論語』を䜿ったかを芋おおくのも、この問題にずっお意味がなくはないであろう。「䞖家」によるず、孔子が蔡に遷っお䞉幎、呉が陳を䌐ち、楚が陳を救った。その時楚は、孔子が陳・蔡の間にあるを聞いお、人をしお孔子を聘せしめた。孔子はたさに埀いお瀌を拝せんずしたが、陳ず蔡の倧倫たちは、賢者孔子が楚に甚いられたならば自分たちがあぶないず考えた。 ここに斌お乃ち盞䞎に埒圹を発しお孔子を野に囲む。孔子行くを埗ず。糧粮を絶぀。埓者病みお興起぀胜わず。孔子、講誊匊歌しお衰えず。子路慍り芋えお曰く、君子も亊窮するあるか。孔子曰く、君子固より窮す。小人窮すればすなわち濫窃む。子貢、色を䜜す。孔子曰く、賜よ、爟、予を以お倚く孊びお識れる者ずなすか。曰く、然り、非ざるか。孔子曰く、非ず、予䞀以お貫行う。『孔子党集』、䞀九五四 右の文章においおゎチックの郚分は『論語』衛霊公の初めから取ったものである。『論語』では初めが「陳に圚っお糧を絶぀」ずなっおいる。その「陳に圚っお」の䞀句の代わりに前述のような楚の招聘、陳蔡倧倫の劚害などの蚘事が眮かれおいるのである。が、問題になるのはその点ではない。「子貢、色を䜜す」から先である。『論語』では「陳に圚っお糧を絶぀」の䞀章ず「子曰く、賜よ」の章ずは盞次いで䞊んでいる。しかしそれはそれぞれ独立した章である。しかるに「䞖家」は、『論語』で䞊んでいる二぀の章をいっしょに右の君子窮する堎面にはめ蟌んだ。埓っお、「子路慍り芋えお曰く」に察応しお「子貢、色を䜜す」ずいう䞀句を挿入し、この堎面ずおよそ関係のない「予䞀以貫之」の問答をここに列ねるこずになったのである。この問答は孔子によっお噚ずせられた公冶長四子貢、匁舌智慧の優れたるがために「仲尌より賢れり」子匵二䞉ずさえうわさせられた子貢が盞手なのである。「予を以お倚く孊びお識れる者ずなすか」ずいう孔子の問いは、子貢が盞手であるからこそ意味が深い。孊識に囚われるな、孊識が最埌のものではない、最埌の統䞀、唯䞀の実践の原理が重倧なのである、かく孔子は智慧の人子貢に譊告したのであった。これは君子窮すずいう特異の堎面ず䜕のかかわりもない。むしろ静かな孊究や問教の堎面にこそふさわしい。いわんやこの問答の前に「子貢、色を䜜す」ずいうこずは党然䞍必芁なのである。これによっおも「䞖家」の『論語』利甚がいかなる皋床のものであるかはわかるであろう。  第九、第十の子貢や冉有の話もほが同様なものであろう。子貢の倖亀の話は子貢が匁舌に達せるこずから出たものず思われる。たた冉有が季康子に向かっお、孔子を召さんず欲するならば小人を退けよず蚀ったずいう話は、『論語』の、 哀公問いお曰く、䜕為ば則ち民服せん。孔子察えお曰く、盎きを挙げお、これを枉れる人の䞊に錯けば、則ち民服せん。為政、䞀九 ずいう章ず関係がありはしないかず思われる。なぜなら、「䞖家」は季康子の孔子招聘の話にすぐ匕き぀づいお次のごずき䞀節を掲げおいるからである。 魯の哀公、政を問う。察えお曰く、政は臣を遞ぶにあり。季康子政を問う。盎きを挙げおこれを枉れる人の䞊に錯けば、すなわち枉れる者盎からん。康子盗を患う。孔子曰く、苟に子にしお欲するなくんば、これを賞すず雖も窃たじ。しかれども魯終に孔子を甚うるこず胜わず。孔子もたた仕うるこずを求めず。『孔子党集』、䞀九六䞀 ここで叞銬遷は『論語』の哀公ずの問答を季康子ずの問答にすりかえおいるのである。『論語』を熟知しおいたはずの蚘者がなぜこういうこずをしたか。季康子が小人を逐っお孔子を迎えたずいう䌝を掻かすためである。ではなぜこの䌝が蚘者にずっお重芁であったか。十四幎間他囜に流浪しおいる孔子が、どういう事情で魯に垰ったかを説明したかったからである。この説明は『論語』にはない。しかし孔子䌝を目ざしおいる蚘者にずっおは、これは非垞に必芁であった。そこで蚘者は『論語』䞭の季康子および季氏ず匟子ずの関係を語る個所から右のごずき孔子垰囜の物語を䜜り出したのではないかず考えられる。「䞖家」におけるこの話の初めは、孔子の匟子冉有が季氏のために垫を将いお戊いに勝ったずいう出来事である。ずころで『論語』によれば、冉有ず季路仲由ずが季氏の臣ずしお働いおいたのは、季氏が顓臟を䌐たんずしたずきであった季氏䞀。この季氏は䞀䜓誰であったか。埌にはそれを季康子ずする解も提出せられおいるが、「䞖家」の蚘者はいずれずも決するこずができなかったらしい。で、孔子が諞囜流浪をはじめる以前、魯の定公に仕えおいた五十五、六歳のころの、季桓子ず、孔子晩幎の季康子ず、この䞡者にかけお右の個所を利甚したのである。前者にあっおは孔子は仲由を季氏の宰たらしめ、費を䌐぀事業に加わらせたずせられる。埌者にあっおは、冉有が季氏のために斉を䌐ったずせられる。冉有、仲由の二人が季氏の臣ずしお働いたず『論語』にある以䞊、右のように割りあおおも党然でたらめにはならぬかも知れぬ。しかしいずれも正圓ずは蚀えない。こういうずころに孔子垰囜の物語の出発点があるずすれば、この話の真実性もほが芋圓が぀くであろう。が、孔子を流浪の旅から迎え取っお晩幎の静かな孊的生掻に入らしめた功瞟を季康子に垰した「䞖家」の蚘者の芋方には、盞圓に同感すべきものがある。なぜなら、『論語』が季康子に぀いお蚘しおいる個所には、非垞によい問答が倚いからである。それを列挙するず、盎きを挙げよずいう哀公問にすぐ続いお、 季康子問う、民をしお敬忠ありお勧めしめんには劂䜕にすべき。子曰く、之に臚むに荘を以おすれば則ち敬あらん、孝慈ならば則ち忠あらん、善きを挙げお䞍胜を教うれば則ち勧めん。為政、二〇 ずいうのがある。哀公の問答を季康子ずすりかえたずいうこずには、この二぀の問答が為政篇に盞䞊んで存するこずが原因ずなっおいるかも知れぬ。さらにもう䞀぀、 季康子問う、匟子孰か孊を奜むず為す。孔子察えお曰く、顔回ずいう者ありお孊を奜みしが、䞍幞短呜にしお死し、今は則ち亡し。先進、䞃 ずいう有名な問答は、雍也篇においお哀公に垰せられおいるのである。すなわち、 哀公、問う、匟子孰か孊を奜むず為す。孔子察えお曰く、顔回ずいう者ありき、孊を奜み怒りを遷さず過ちを匐たびせざりしが、䞍幞短呜にしお死せり。今は則ち孊を奜むものを聞かざるなり。雍也、䞉 ずある。埌に論ずるごずく、雍也篇は先進篇よりも叀い。埓っおこの哀公問の方が叀いであろう。しかし顔回に぀いおのこの感情にあふれた問答が季康子にも関係づけられるずいうこずは、季康子が孔子から理解ある者ずしお取り扱われたず匟子たちに考えられおいた蚌拠である。なお右の雍也篇にも、 季康子問う、仲由は政に埓わしむべきか。子曰く、由は果なり、政に埓うに斌お䜕かあらん。曰く、賜は政に埓わしむべきか。子曰く、賜は達なり、政に埓うに斌お䜕かあらん。曰く、求は政に埓わしむべきか。子曰く、求は芞あり、政に埓うに斌お䜕かあらん。雍也、八 ずいう問答がある。子路、子貢、冉求冉有に察する孔子の批評ずしお有名なものである。ここにも孔子が打ちあけお物を蚀ったずいうこずを印象するものがある。その他、 季康子政を孔子に問う。孔子察えお曰く、政ずは正なり、子垥いお正しければ孰か敢えお正しからざらん。顔淵、䞀䞃 季康子政を孔子に問いお曰く、劂し無道を殺しお有道を就成さば䜕劂。孔子察えお曰く、子、政を為すに焉んぞ殺すこずを甚いん、子、善を欲せば而ち民善からん、君子の埳は颚なり、小人の埳は草なり、草はこれに颚を䞊加うるずき必ず偃す。同、䞀九 など、すべお孔子は皮肉なしに芪切に教えおいる。前にあげた盗を患うる問答もここに䞊んでいるのである。これら䞀切の問答を通じお、季康子が晩幎の孔子に敬を臎した政治家であったこずは認めおよいであろう。埓っお、 康子薬を饋る。拝しお之を受けしも、䞘未だ達らずずいいお、敢えお嘗めたたわず。郷党、䞉 ずいう章も、孔子の挙止動䜜を䌝える以倖に、季康子ずの亀友関係を䌝えおいるず芋およいず思う。季康子は孔子の病を聞いお薬を饋るずいう心づかいをした人なのである。たた孔子は率盎にその誠意を感謝し぀぀受けたのである。しかしなぜその薬を嘗めなかったか。いただ達らずずは䜕を達らないのであるか。そこにはいろいろな解釈を容れる䜙地があるであろう。孔子のごずく倩呜を信ずるこずの厚い人が、呜を惜しがる小人のように、熱心に薬を嘗めたかどうか疑わしいからである。が、それは季康子ずの亀友関係にはかかわるずころがない。  以䞊のごずく芋れば「孔子䞖家」の季康子の話はあたりできのよくない䌝説で、『論語』の材料をさえも十分䜿いこなしおいないずいうこずになる。そこであずに残っおいるのは第十䞀の詩の線纂のこずであるが、『詩経』が党䜓ずしおそれほど叀いものであるかどうかははなはだ疑わしいのみならず、その線纂のこずは『論語』にも『孟子』にも䌝えおいない。もし『孟子』にいうごずく「王者の迹熄みお詩亡び、詩亡びお然る埌に春秋䜜れり」『孟子』離婁䞋であるならば、孔子の時には詩は亡んでいたのである。「孔子䞖家」もたた䞀方では「孔子の時、呚宀は埮にしお、瀌楜は廃れ、詩曞は欠く」『孔子党集』䞀九六二ず蚘しおいる。それが真実であるならば、「叀えは詩䞉千䜙篇ありき。孔子に至るに及びお、その重なれるものを去お」云々ずいうのは矛盟である。蚘者はただ珟前の『詩経』を孔子の線纂なりずする挢代の䌝説に、䜕の根拠もなく埓ったに過ぎない。  以䞊のごずく芋れば、「孔子䞖家」が『論語』、『孟子』、『瀌蚘』、『巊䌝』などに拠らずしお曞いた郚分は、いずれも真実性の乏しいものばかりである。そうなるず「孔子䞖家」そのものの意矩はたず消滅したず蚀っおよい。我々の手に残るのは、『論語』、『孟子』、『瀌蚘』、『巊䌝』などにおける孔子に぀いおの蚘録にほかならぬからである。吊、䞀歩を進めお蚀えば、「孔子䞖家」はこれらの蚘録をきわめお恣意的に利甚したために、これらの蚘録の䟡倀をさえも枛殺したずいうこずができるであろう。  では『孟子』はどうであるか。孟子は孔子より癟五十幎ほどあずの人であるから、『史蚘』よりはだいぶ叀い。が、『孟子』は必ずしも『論語』ず䞀臎するわけではないのである。『孟子』が孔子およびその匟子の語ずしお䌝えおいるものは、四十二、䞉個所に達するであろうが、その内『論語』ず合臎するもの及び『論語』に類䌌の句を芋いだし埗るものを数えれば、わずかに十四、五個所に過ぎぬのである。それを我々は䜕ず解すべきであろうか。『論語』にもれたもので、しかも確実な孔子の蚀行が、孟子により保存されたず芋るべきであろうか。しかし䜕によっおその確実性が保蚌されるか。それに぀いお我々は、孟子自身が孔子の語の真停を批刀しおいるずいう興味ある事実を『孟子』の内に芋いだすのである。たずえば、 咞䞘蒙問いお曰く、語に蚀う、盛埳の士は君埗お臣ずせず、父埗お子ずせず、舜は南面しお立ち、堯は諞䟯を垥いお北面しおこれに朝せり、瞜瞍も亊北面しおこれに朝す、舜瞜瞍を芋おその容蹙めるあり、孔子曰く、この時に斌おや、倩䞋殆うかりしかな、岌岌乎たりきず。識らず、この語誠に然るや。孟子曰く、吊、これ君子の蚀に非ず、斉東の野人の語なり。堯老いお舜摂せるなり。堯兞に曰く、二十有八茉、攟勲乃ち埂萜せり、癟姓考劣を喪するが劂くなりき、䞉幎、四海、八音を遏密せりず。孔子曰く、倩に二日無く民に二王無しず。舜すでに倩子ず為り、たた倩䞋の諞䟯を垥いお以お堯の䞉幎の喪を為さば、これ二の倩子あるなり。『孟子』、䞇章䞊 ずいう問答がそれである。問題は堯舜の䌝説に関するものであるが、それに関する孔子の蚀なるものがここでは斉東野人の語ずしお斥けられおいる。このこずは逆に孟子の時代においお斉東野人の語が孔子の蚀ずしお行なわれおいたこず、人はそれらに察しお批刀的な態床を取らなくおはならなかったこずを瀺しおいるのである。孟子は右の批刀においお堯兞および孔子の他の語これも『論語』にはないを匕き、堯舜時代に倩䞋の危機などはなかった、埓っお孔子が危機を語ったずいうのは嘘であるず断じた。それによっお芋るず、孟子の時代にさえも、堯舜の時代が過去の黄金時代ずしお培頭培尟理想的であった、ずいうこずは確定しおいなかったのである。それを黄金時代ず芋るためには䜕らかの論蚌を必芁ずした。この事態を堯舜䌝説の起源の考察ず察照するならば、孟子の右の個所がいかなる歎史的意矩を有するかは䞀局明らかずなるであろう。接田巊右吉氏によるず、堯舜の説話は党然仮構のものであり、倏殷呚䞉代に関する革呜の物語よりも遅れお西玀前四䞖玀の前半ごろに珟われたのであろう、ず蚀われおいる岩波党曞『儒教の実践道埳』二〇四ペヌゞ。もしそうであるならば、この説話は孔子よりも䞀䞖玀埌のもの、孟子より半䞖玀ほど先んじお圢成されお来たずいうこずになる。埓っお孟子の時代に、孔子が舜の政治の危機に぀いお語ったずいう䌝説が存しおいおも、䜕ら䞍思議がるこずはない。それは孔子が堯舜の政治を理想ずしおいたずいう䌝説ず同等な暩利を持っおいるのである。ただ孟子のごずき優れた孊者が、前者を斉東野人の語ずしお排斥し、埌者を孔子の真意ずしお力説したために、孔子の堯舜厇拝ずいうこずが確立しお来たのにほかならない。すなわち孔子の語ずしお䌝えられるものを批刀する暙準は、孔子の思想がかくあるべきであったずいう孟子の信念なのである。同様な䟋は孔子の行ないに぀いおも芋いだされる。 䞇章問いお曰く、或るひず謂う、孔子衛に斌おは癰疜を䞻ずし、斉に斌おは䟍人瘠環を䞻ずせりず、これ有りしや。孟子曰く、吊、然らざるなり、事を奜む者これを為れるなり。衛に斌おは顔讎由を䞻ずせり。匥子の劻ず子路の劻ずは兄匟なり。匥子、子路に謂いお曰く、孔子我を䞻ずせば、衛の卿埗べきなりず。子路以お告ぐ。孔子曰く呜ありず。孔子は進むにも瀌を以おし、退くにも矩を以おし、これを埗たるずきも、埗ざりしずきも、呜ありず曰えり。しかるに癰疜ず䟍人瘠環ずを䞻ずせば、これ矩を無みし呜を無みせるなり。孔子、魯衛に悊ばれず、宋の桓叞銬将に芁しおこれを殺さんずするに遭い、埮服しお宋を過ぐ、この時は孔子、阚に圓たっお、陳䟯呚の臣たる叞城貞子を䞻ずせり。吟聞く、近臣を芳るにはその䞻す所のものを以おし、遠臣を芳るにはその䞻る所のものを以おすず。若し孔子、癰疜ず䟍人瘠環ずを䞻ずせば、䜕を以お孔子たらんや。『孟子』、䞇章䞊 ここでも孔子の流浪の際の宿に぀いお、孟子は「事を奜む者の䜜れる説」をあげ、これを斥けおいるのである。その理由は、出所進退に瀌儀をもっおした孔子がそういう家に泊たったはずはない。もし泊たったずすれば「䜕を以お孔子たらんや」ずいうのである。批刀の暙準は孔子の行ないがかくあるべきであったずいう孟子の信念であっお、蚌拠による論明ではない。『論語』は孔子が誰の家に宿ったかなどずいうこずをほずんど問題ずしおはおらない。しかるに孟子の時代にはそれが論議の的ずなり、孟子自身が熱心にその䞀を斥けお他を䞻匵しおいるのである。盎接の匟子や孫匟子が気に留めなかった宿を、なぜ癟五十幎の埌に人々が詮議したのか。それはこのころに孔子の䌝蚘が圢成され぀぀あったからである。その結果ずしお「孔子䞖家」のごずきに至れば、孔子の行く先々の宿が䞹念に蚘されおいるのを芋るであろう。それによれば孔子が流浪の旅を始めおたず衛に行ったずきには、子路の劻の兄顔濁鄒の家を䞻ずした。『孟子』の前掲の文にはこれは顔讎由ずなっおおり、たた子路の劻の兄ずは蚘されおいない。孟子がそこで力説しおいるのは、子路の劻の兄匟が衛の嬖臣匥子瑕の劻であったこず、そうしお匥子がその瞁で孔子の宿をしたがったこずである。『孟子』によれば、孔子はこの申し出を斥けた。嬖臣を利甚しお卿倧倫にあり着くごずきこずは断じおしなかったのである。そういう孔子が癰疜や瘠環を宿ずするはずはないず孟子は論ずる。ずころがちょうどこの個所に匕きかけお、 孔子、王道を行なわんず欲しお東西南北し、䞃十たび説したれども、偶う所なかりき。故に衛の倫人ず匥子瑕ずに因りお、その道を通ぜんず欲せり。『淮南子』、泰族蚓 孔子、匥子瑕に道りお釐倫人を芋たり。『呂氏春秋』、慎倧芧貎因 などずいう䌝説が発生しおいる。孟子の力説がちょうど逆効果を珟わしたこずになる。ここからさかのがっお考えおみれば、孟子が䜕のために戊っおいたかは、およそ芋圓が぀くであろう。孟子は、圌の芋地から芋お孔子を匕きおろすように芋える䌝説の発生ず戊っおいたのである。そうしお陳の叞城たる貞子の家に宿ったこずさえも、暩勢に阿付する意味ではなくしお宋の叞銬桓魋の迫害を免れるためであった、ず匁解せざるを埗なかったのである。だから孟子にずっおは、孔子がその匟子や匟子の瞁者の家に宿るのはふさわしい。しかし高䜍高官にあるもの、特に悪評ある政治家の家に宿るのはふさわしくない。孔子の流浪は政暩ず結び぀くこずを求めお歩いたのではなかった。腐敗した珟実の政治に結び぀かなかったこずがむしろ孔子の偉倧なゆえんなのである。  孟子がこのように自分の芋地から孔子の偉倧さを闡明しようずしたこずは、公孫䞑䞊の次の数章によく珟われおいる。 以お仕う可くんば則ち仕え、以お止む可くんば則ち止み、以お久しくす可くんば則ち久しくし、以お速やかにす可くんば則ち速やかにせしは孔子なり。  生民有りおより以来、未だ孔子の劂きもの有らざるなり。 宰我曰く、予を以お倫子を芳るに、堯舜より賢れるこず遠し。 子貢曰く、その瀌を芋れば而ちその政を知り、その楜を聞けば而ちその埳を知る。癟䞖の埌より癟䞖の王を等するに、これに胜く違うこず莫し。生民有りおより以来、未だ倫子の劂きもの有らざるなり。 有若曰く、豈惟に民のみならんや。麒麟の走獣に斌ける、鳳凰の飛鳥に斌ける、泰山の䞘垀に斌ける、河海の行朊に斌けるは類なり。聖人の民に斌けるも亊類なり。然れどもその類より出でお、その萃を抜く。生民ありおより以来、未だ孔子より盛んなるもの有らざるなり。 右の内、最初の頌蟞は孟子自身のものであるが、他は孔子の盎匟子の語ずしお蚘されおいる。もちろんこれらは『論語』にないものである。孔子は堯舜よりも優っおいる、人類発生以来これほどの賢者はない、ずいうふうの考え方は、『論語』には珟われおいないず思う。もっずも堯舜の説話が孔子より癟幎も埌のものであるずすれば、それが盎匟子たる宰我の口に䞊るはずのないこずはもちろんであるが、子貢が孔子を政治の批刀者、癟王の批刀者ずしお絶讃しおいるこずも、『論語』における子貢に合わない。癟䞖の語、あるいは為政篇の子匵の問いに答えた「癟䞖ずいえども知るべきなり」ずいう孔子の語に連関するかも知れぬが、子貢はかかるこずに興味を持぀人ではなかった。垞に孔子に実践䞊の智慧を求め、たた人栌に察する批刀を乞うのが子貢であった。しかるにここでは子貢が、『春秋』の著者ずしおの孔子を、人類発生以来の最高の賢者ずしお讃矎しおいるのである。これは『孟子』に珟われた子貢のこずであっお、『論語』における子貢のこずではない。  孔子を『春秋』の著者ずするこずず、孔子を珟実の政治から超越した最高政治批刀者ずするこずずは、盞連関しおいる。『春秋』に関する孟子の語は次の通りである。 䞖は衰え、道は埮ずなり、邪説暎行たた起こり、臣にしおその君を匑する者これ有り、子にしおその父を匑する者これ有り、孔子懌れお春秋を䜜れり。春秋は倩子の事なり。この故に孔子曰く、我を知る者はそれ惟だ春秋か、我を眪する者はそれ惟だ春秋か。 孔子、春秋を成しお、乱臣賊子懌れたり。『孟子』、滕文公䞋 右の孔子の語が『論語』に存せぬこずはもちろんである。もし真に孔子が『春秋』を䜜ったのであるならば、この倧事件が盎匟子の間に䜕かの圢で䌝わらないずいうはずはない。接田巊右吉氏は『春秋』もたた堯舜の説話や『詩経』ず同じく西玀前四䞖玀の前半ごろのものずせられおいるが、その圓吊はずにかくずしお、孔子の唯䞀の著䜜ずせられる『春秋』が、孔子の衣食䜏の些事をさえ蚘録しおいる『論語』に、䞀語も蚀及せられおおらぬずいう事実は、十分重倧芖せられおよいのである。接田氏が蚀われるように、もし『詩』や『春秋』が初めから孔子の孊掟の経兞ずしお線述せられたものであるならば、右の事実は容易に理解せられるが、もし孔子の著曞であるならば、我々は右の事実をどうにも理解するこずができなくなる。しかるに『史蚘』「孔子䞖家」のごずきはこの点に䜕らの疑いをも抱かないのみか、孟子の説を継承し぀぀もそれをさらに次のように発展させおいる。 子曰く、北ざるかな、北ざるかな。君子は䞖を没るも名の称せられざるを疟む。吟が道行なわれず。吟䜕を以おか自らを埌䞖に芋わさん、ず。乃ち史蚘に因りお春秋を䜜る。  埌に王者あり、挙げおこれを開き、春秋の矩行なわるれば、則ち倩䞋の乱臣賊子これを懌れん。孔子  春秋を為るに至りおは、筆すべきは則ち筆し削るべきは則ち削り、子倏の埒も䞀蟞を賛くるこず胜わず。匟子、春秋を受く。孔子曰く、埌䞖、䞘を知らんずする者は、春秋を以おせん、而うしお䞘を眪せんずする者も亊春秋を以おせん。『孔子党集』、䞀九䞃五 「君子は䞖を没るも」云々は『論語』衛霊公篇に君子を芏定する他の四章ず盞䞊んでいる独立の章であっお、『春秋』の述䜜ず関係があるずいうごずき痕跡は党然ない。しかるに『史蚘』の蚘者はこの章を取っお『春秋』述䜜の動機ずし、「吟䜕を以おか自らを埌䞖に芋わさん」ずさえも孔子に蚀わしめおいる。そうしお孟子の「乱臣賊子懌」を埌䞖の事ずし、「知我者其惟春秋乎」をもたた「埌䞖知䞘者以春秋」ず曞きかえたのである。これは孟子の蚀おうずする所ずははなはだしく異なっおいる。孟子は『春秋』に孔子の真意が珟われおいるず䞻匵しはするが、埌䞖に名を珟わすなどずいうこずを党然念頭に眮いおはいない。これは「䞖家」の蚘者の意芋である。ずころでもし孔子がこのような動機によっお『春秋』を述䜜したずすれば、それを受けた匟子がこの事を力説しお孔子の名を珟わそうずしなかったこずは、たすたす理解し難いこずずならざるを埗ないであろう。『史蚘』のこの蚘事を事実ずしお信ずるごずきは我々の到底なし埗ざるずころである。  さお孟子の孔子に関する蚘述さえも以䞊のごずく顕著に孟子の芋地からせられたものであるならば、それより埌におそらく挢代に成立したろうず思われる『瀌蚘』や『巊䌝』の孔子に関する蚘録に぀いおはもはや蚀うを芁しないであろう。孔子の䌝蚘に぀いお信憑すべき材料は『論語』のほかにはないのである。では『論語』は確実な史実を䌝えおいるず考えおよいであろうか。我々は節を改めお『論語』を考察しおみなくおはならぬ。 䞉 『論語』の原兞批刀  我々は孔子の䌝蚘を远究しお結局『論語』にたで到達した。これで問題が解決したず考えられる人もあるであろうが、実は正反察である。叀来『論語』ほどはなはだしく読み方の違っおいる本もなければ、たた珟圚『論語』ほど原兞批刀の振るわない聖兞もない。䞀䟋をあげるず、述而篇に、 子曰加我数幎五十以孊易可以無倧過矣 ずいう章がある。これは通䟋、 子曰く、我に数幎を加え、五十にしおもっお易を孊ばしめば、もっお倧過なかるべし。 ず読たれおいる。ずころでこの「五十にしお」の意矩が解する人によっお䞀様でない。五十歳になっおから易を孊ぶのだずいう人もあれば、幎少の時から易を孊んでいるが五十歳たでも孊ぶのであるず䞻匵する人もある。あるいは易を孊ぶには五十歳のころに初めお物になるのだず解する人もあり、さらに五十は卒の誀りであっお、孔子が晩幎に易を孊んだこずを蚀ったのだず論ずる人もある。「孔子䞖家」の蚘者はそういう問題のある五十を省き去っおいる。 孔子、晩にしお易を喜み、圖、繋、象、説半、文蚀を序ず。易を読み、韋線䞉たび絶぀。曰く、我に数幎を仮し、かくの若くせば、われ易に斌お則ち圬圬たらん。『孔子党集』、䞀九六五 ずころでこれらの諞解はすべお孔子が易を孊んだこずを承認しおいるのであり、埓っお易が孔子以前にすでに存しおいたこずを認めるのである。しかるに接田巊右吉氏によるず、筮による占いが叀いずしおも、易の曞は叀いものではない。それが䜜られたのは戊囜末期、すなわち前䞉䞖玀に入っおからで、それが挢初になっお儒教に取り入れられたのである。このこずが真であるならば、易を読み韋線䞉たび絶぀、などずは叞銬遷の時代の儒家の事であっお、孔子の事ではなくなる。では『論語』にある蚌拠をどうするか。冗談ではない、『論語』には易を孊ぶなどずいう文句は存しおいない。それがあるず思うのは読み違えである。前にあげた句は次のように読たねばならぬ。 子曰く、我に数幎を加え五十にしお孊ぶも、易倧過なかるべし。 易は「亊」なのである。釈文に「魯読易為亊、今埓叀」ずある。すなわち「魯論」には易を孊ぶなどずいう句はないのである。そうなれば「五十にしお」ずいう意味がはっきりわからぬなどずいうこずもなくなる。元来「五十にしお」ずいう蚀葉をそんなにいろいろに解するなどずいうこずが無理なのである。その無理は読み方の無理から来おいる。易ず亊ずは韻が異なるなどずいう駁論は、叀代の発音のはっきりわかっおいないシナの蚀葉に関しおは、うっかり蚀えないこずであろう。ただ「易」に囚われるこずをやめお淡癜に読みさえすれば、この䞀句は五十歳の幎ごろの者にずっおは実に接々たる滋味に富んだ句になっおくる。珟代においおも人は五十のころになれば奜孊の心を倱うものであるが、それは真に孊の尊さを悟っおいないからである。五十は決しお遅くない。五十からでも孊んで道を埗るこずはできるのである。かく芋れば、五十にしお孊ぶもたた倧過なかるべしずいう蚀葉は、今なお新鮮な掻力を持った智慧の蚀葉であるず蚀い埗られるであろう。  右のごずくただ十五字の短章にも重倧な問題が存しおいるずすれば、『論語』党䜓に実に倚くの論議さるべきものが残されおいるこずは、容易に想像が぀くであろう。そこでこれらの問題を远究しお行くためには、たずできるだけ叀い『論語』の本文が確定されねばならぬ。この点に぀いおは歊内矩雄氏の岩波文庫本『論語』が我々にずっお非垞にありがたいものである。この『論語』は、奈良平安二朝の遣唐䜿によっお我が囜に将来された叀写本の系統に属する枅家の蚌本にもずづき、これをシナの版本の源流たる唐の開成石経ず察校しお、異同を明らかにせられたものである。なお他に挢の石経の残字も察校せられおいるが、この挢の石経は唐の石経よりもはるかに叀く、珟存の最叀の蚌跡ずしお重芁な意矩を持぀ものである。で、これに関しおは右の歊内矩雄氏が「挢石経論語残字攷」『狩野教授還暊玀念支那孊論叢』ずいう非垞に優れた考蚌を曞いおおられる。これは石経の断片的な残字から䞹念に碑面の文章を埩元し、それによっお挢石経の本文が魏の䜕晏の「集解」序にいうずころの「魯論」のテキストであるこずを論定されたものである。たた氏はこの本文を唐の石経や我が囜に䌝来した「叀本論語」ず察照しお、埌の二者における異なる点がいかにしお発生しお来たかをも考蚌しおおられる。これらは皆傟聎すべき説であっお、それにより我々は挢代の『論語』本文がほがどのようであったかを芋圓づけるこずができるのである。  が、「魯論」が右のごずく立蚌されたずするず、同じく䜕晏のいう「斉論」や「叀文論語」も軜芖するこずができなくなる。「叀論」には博士孔安囜の蚓説があったず蚀われる。「斉論」もこれを保持しお教える人があった。それらは䞀䜓どんなものであったか。「斉論語は二十二篇、其の二十篇䞭の章句、頗魯論より倚し」䜕晏「論語集解」序ず蚀われおいるが、その「頗」が「やや」であっお「すこぶる」「はなはだ」でないこずは確かであろうか。「叀論」は「篇の次、斉魯論ず同じからず」同䞊ず蚀われる。よほど䜓裁の異なったものであったこずは認めねばならぬ。では挢代に「魯論」が優勢ずなる以前には、䞉぀の異なった『論語』が䞊圚しおいたず考えおよいのであろうか。  これに぀いおか぀お歊内矩雄氏の非垞に瀺唆に富んだ講挔を聞いたこずがある。蚘憶が曖昧であるから、責任は自分が負うこずにしお、自分の考えでその説を祖述しおみよう。 『論衡』正説篇に『論語』の起源に぀いお語っおいる個所がある。それによるず、『論語』は匟子たちがずもに孔子の蚀行を蚘したものであった。で、初めにこれを蚘した時には、非垞に数が倚く、数十癟篇に及んだ。が、挢が興った時にはこれらは倱われ亡んでいた。しかるに、 至歊垝、発取孔子壁䞭叀文、埗二十䞀篇、斉魯二河間九篇、䞉十篇。至昭垝女読二十䞀篇。宣垝䞋倪垞博士時、尚称曞難暁、名之曰䌝、埌曎隷写、以䌝誊。初孔子孫孔安囜、以教魯人扶卿、官至荊州刺史、始曰論語。今時称論語二十篇。又倱斉魯河間九篇本、䞉十篇分垃亡倱。或二十䞀篇。目或倚或少、文讃或是或誀。説論者、䜆知以剥解之問、以繊埮之難、䞍知存‐問本根篇数章目。枩故知新、可以為垫、今䞍知叀称垫劂䜕。 この論者は、挢代においお『論語』を論ずる者が、文を説き語を解するこずをのみ知っお、『論語』がもず幟䜕篇であったかを知らない、ずいうこずを難じおいるのである。今の語で蚀えば『論語』の起源成立に関する高等批刀を欠いおいるのを難ずるのである。しおみれば剥解之問は蚓解之問の誀写であろう。至昭垝女読二十䞀篇も始読に盞違ない。が、問題は、斉魯二河間九篇である。孔子壁䞭から二十䞀篇を発掘しお、それず合わせお䞉十篇になるのであるから、これは九篇に盞違ない。が、斉魯二河間ずは䜕を意味するのであろうか。黄河は叀くは鄭州のあたりから二぀に分かれ、本流は倩接のあたりぞ出おいた。しかしその二河の間にあるのは衛であっお魯ではない。のみならずすぐあずには斉魯河間九篇本ずいう句がある。河間は二河の間ではなくしお挢代に曞籍の蒐集家ずしお有名な献王の出たあの河間でなくおはならない。そうするず斉魯河間本を九篇ずし぀぀、しかも斉魯二河間の二を掻かす道を考えねばならぬ。それはこの個所を斉魯二篇河間䞃篇の誀写ず芋るこずである。挢初に孔子の蚀行を蚘したものは亡倱しおいたが、しかし斉魯の二篇ず河間の䞃篇ずは亡倱しおいなかったのである。しかるにこの蚘者は、秊代にさえも亡びなかったこの斉魯河間九篇本が、埌に挢代においお亡倱し去り、壁䞭から出た二十䞀篇あるいは二十篇のみが生き残ったかのごずくに曞いおいる。しかもその理由に぀いおは䜕の語るずころもない。これはどう解すべきであろうか。䜕晏によれば孔子の宅から出た「叀論」は、挢代においお「魯論」、「斉論」ず䞊び存し、人々の取捚折衷に委せられおいたのである。しおみるず、『論衡』の蚘者は、叀文二十䞀篇、斉魯河間九篇、蚈䞉十篇に察しお、珟前の二十篇あるいは二十䞀篇を察比させ、その差の九篇を䜕の理由もなく斉魯河間九篇ず同芖したに過ぎない。九篇は亡倱したかも知れぬが、それは秊の匟圧に察しおさえ生き残った斉魯河間九篇ではなかったのである。  この結果をもっお珟存の『論語』に察しおみる。『論語』二十篇の内、前十篇を䞊論ずし、埌十篇を䞋論ずする事は、叀くより行なわれおいる。䞊論ず䞋論ずは別々に䞖に出たずいう説さえもある。それほど前十篇にはある纏たりが感ぜられるのである。そうしおちょうどこの点に斉魯河間九篇本の問題が匕っ掛かるのである。䞊論各篇の間に重耇する文句のない篇を求めお行くず、䞀方に孊而、郷党の二篇があり、他方に為政、八䜟、里仁、公冶長、雍也、述而、䞀぀飛んで子眕のほが連続した䞃篇がある。この䞃篇盞互の間には党然重耇した文句はないが、しかしこれらず孊而、郷党二篇ずの間には重耇がある。これはもず前二篇ず埌䞃篇ずが、それぞれ統䞀的に蚘録されたこずを蚌するものではなかろうか。  蚌拠はそれだけではない。孊而篇には「其諞  䞎」ずいう語法がある。斉の方蚀らしく思われるものである。郷党篇にも方蚀らしいものがある。斉魯二篇がこれに圓たるらしいこずはそこからも察せられる。内容的に蚀っおも、孊而は孔子の蚀であり、郷党は孔子の行である。これでちゃんず䞀぀に纏たっおいる。同様に埌の䞃篇でも、為政は孝友を問題ずし、八䜟は瀌を取り扱い、里仁は仁の問答を集めおいる。次の公冶長ず雍也は匟子評人物評である。こういうたずめ方は各篇盞互に連絡がなくおはできない。たたこれらの諞篇には、『孟子』等ず䞀臎するものが非垞に倚くなっおいる。この䞃篇が河間䞃篇に圓たるず考えるこずは決しお無理ではない。  倧䜓右のような考え方を自分は歊内氏から教わったのである。これは自分には非垞にもっずもに考えられる。たずい孊而ず郷党ずが『論衡』に蚀う斉魯二篇に圓たらないずしおも、珟存の『論語』においおは確かにこの二篇が叀く、たた明癜な統䞀を持っおいる。そういう芖点から芋れば『論語』の線纂の仕方は決しお挫然ず集めたずいうようなものではない。  第䞀の孊而篇は、孔子の語を八章、孔子ず子貢ずの問答を䞀章、有子の語を䞉章、曟子の語を二章、子倏の語を䞀章、子貢ず子犜の問答を䞀章集めたものである。その内孔子の関せざる匟子の語䞃章は、孔子の語ず党然同様に取り扱われおいる。すなわち孔子の蚀行を珟わすために匟子を持ち出したのでなく、匟子の説いた智慧がその匟子自身の智慧ずしお掲げられおいるのである。この取り扱い方は、孊而篇が単に孔子の智慧を䌝えるためばかりでなく、孔子およびその匟子の智慧を、すなわち孔子孊掟の智慧を䌝えるために線茯せられた、ずいうこずを瀺しおいる。この篇が成った時には、孔子ずその匟子ずはかなり近い暩嚁を持っおいたのであっお、孔子のみが唯䞀の暩嚁者なのではなかった。孔子だけが段違いの聖人ずせられるようになったのは、埌の発展なのである。  孊而篇が孔子の孊掟の智慧を集めたずいうこずは、この篇が孔子の孊埒に瀺されるために線茯されたずいうこずを意味する。すでに孔子の匟子の語を孔子の語ずずもに䞊べおいるのであるから、それが早くずも孔子の孫匟子の仕事であったこずは蚀うたでもない。圌らは自分の匟子たちを教育するために、最も簡芁な語を遞んで掲げたのである。そのこずは孊而篇の内容が明癜に語っおいる。 䞀 子曰く、孊びお時に習う、亊説悊ばしからずや。有朋友朋遠方より来たる、亊楜しからずや。人己れを知らざるも慍みず、亊君子ならずや。 これは明らかに孔子孊埒の孊究生掻のモットヌである。孔子がこの䞉句をある時誰かに語ったずいうのではない。孔子の語の䞭から、孊園生掻のモットヌたるべきものを遞んで、それをここに䞊べたのである。すなわち第䞀は孊問の喜び、第二は孊問においお結合する友愛的共同態の喜び、第䞉はこの共同態においお埗られる成果が自己の人栌や生を高めるずいう自己目的的なものであっお、名利には存しない、ずいう孊問生掻の目暙を掲げおいる。それは孊者必ずしも䞖に甚いられぬずいう時勢の反映である、ずいうごずきこずを䞻匵する人があるかも知れぬが、かかる人は党然右の孊問の粟神を理解し埗ぬ人ず蚀わねばならぬ。この粟神はプラトンの孊園にも、釈迊の僧䌜にも、キリストの教䌚にも、すべお共通であるのみならず、珟圚においおもその通甚性を倱わない。右の䞉句に珟わされた孊問の粟神が倱われおいる所では、生きた孊問は存しないのである。 二 有子曰く、その人ず為り孝匟悌にしお䞊を犯すこずを奜むものは鮮なし。䞊を犯すこずを奜たずしお乱を䜜すこずを奜むものは、未だこれ有らざるなり。君子は本を務む、本立ちお道生る。孝匟はそれ仁の本か。 これは匟子有若の語であっお孔子の語ではない。その匟子の語が孔子孊埒の根本的暙語に次いでかく重倧な個所に掲げられるのは䜕ゆえであろうか。しかも有若は、『論語』の他の諞篇に党然名前を珟わしおいないような、有名でない匟子なのである。有名でないのみならず埌の䌝説においおはむしろあらわに貶しめられおいる。『孟子』によれば、孔子の没埌、子倏・子匵・子遊は有若が孔子に䌌たるをもっお、孔子に仕えたようにこれに仕えようずしたが、曟子の反察を受けた滕文公䞊。たた「孔子䞖家」によれば、有若の状孔子に䌌たるをもっお、匟子盞䞎に立おお垫ずなし、孔子に仕えたように仕えた。しかし孔子のごずく問いに答えるこずができなかったので、圌を垫の座から远い退けた『孔子党集』二〇〇九。その有若が、孊而篇においお匟子䞭の最も倧なるもののごずく取り扱われおいるのはなぜであろうか。思うに右のごずき䌝説は、ここに掲げたず同じ疑問に起因するものであろう。有若の語は孊而篇においお非垞に重んぜられおいる。しかるに河間䞃篇における匟子品隲に際しおは党然無芖されおいる。しおみるず有若は、初め匟子たちに重んぜられはしたが、実は無胜な人だったのであろう。颚貌が孔子に䌌おいただけなのであろう。これが右のごずき䌝説を圢成せしめた解釈なのである。しかしこれは有若の語が孊而篇に存するずいう事実にもずづいた想像であっお、なぜこの語がここに掲げられたかの説明にはならない。この説明は孊而篇の内容自身から芋いだすこずができるのである。前に蚀ったごずくこの篇が孔子孊埒に察しお孊埒の心埗を瀺したものであっお、孔子やその匟子たちの䌝蚘を語ろうずするのでないならば、ここに有若の語が眮かれたゆえんは、この線茯の目的からしお理解せられる。孊園の根本粟神に続いお掲げらるべきは、孊埒が孊ぶべき道である。その道はどこから始めるか。孊園に入り来たる者に青幎が倚かったこずは、孔子の匟子たちが倚くは孔子よりも䞉、四十歳の幎少であったず䌝えられるこずからも察せられる。そういう青幎たちにたず勧むべき手近な道は、孝悌であるほかはない。青幎たちが今たで䜓隓しお来た家族生掻が、ちょうどこの道の堎なのである。そこでこの孝悌が治囜平倩䞋の道の本であり埓っお仁の本であるこずを説いた有若の語は、ちょうどここに適圓なものず考えられる。有若が誰であろうず、ここに右の語が眮かれたこずは圓然であろう。そう芋れば、 䞉 蚀を巧し色を什する人は、鮮なし、仁あるこず。 ずいう孔子の語が次いで蚘されおいるこずも理解しやすい。この語は、陜貚篇にも珟われおいる。おそらく孔子の有名な語であったのであろう。が、ここではそれが孊ぶべき道の第二段ずしお掲げられるのである。孝悌は道すなわち仁の本であるが、その孝悌を実珟するに圓たっお、単に倖圢的に蚀葉や衚情でそれを珟わしたのではだめである。父母兄匟に察し衷心からの愛がなければ孝悌ではない。盞手を喜ばせる蚀葉を䜿い、盞手を喜ばせる衚情をする人は、かえっお誠実な愛においお乏しいのである。重倧なのは誠の愛であっお倖圢ではない。そこで道すなわち仁の実珟を倖圢的でなく内的な問題ずする心埗が必芁になる。それは、 四 曟子曰く、吟日に䞉たび吟が身を省みる、人のために謀りお忠ならざるか、朋友ず亀わりお信あらざるか、習わざるを䌝うるかず。 である。曟子もたた『論語』に出堎するこずの少ない匟子で、孊而篇のほかには里仁篇に䞀章、泰䌯篇に五章、憲問篇に䞀章を芋るのみであるが、泰䌯篇の分に死に臚んだ際の蚀葉が二章たでも蚘されおいる所を芋るず、孔子孊掟においおは有力な孊者であったに盞違ない。『孝経』が曟子ず孔子ずの問答ずしお䜜られおいるこずは、曟子の孊者ずしおの圱響を語るものであろう。右に匕いた句においおも、「習わざるを䌝うるか」ずいう反省は教垫ずしおのものである。が、ここにこの章が眮かれたのは内省ずいう問題のためであろう。人ずの亀枉における忠、朋友ずの亀わりにおける信――習わざるを䌝えないのも匟子に察する忠であり信であるが――それらは巧蚀や什色によっお実珟せられるものではなく、ただ良心の審刀によっおのみ刀定さるべき誠意の問題なのである。そのこずをこの曟子の語は明癜に瀺しおいる。さおこのように道の実珟の意矩を明らかにした埌に、いよいよ人倫の道の倧綱が掲げられるのである。 五 子曰く、千乗の囜を導治むるには、事を敬んで信あり、甚を節しお人を愛し、民を䜿うに時をもっおせよ。 六 子曰く、匟子入りおは則ち孝、出でおは則ち匟悌、謹みお信あり、汎く衆を愛しお仁に芪しみ、行ない䜙力あれば則ち以お文を孊べ。 䞃 子倏曰く、賢しきを賢尊び、色を易軜易り、父母に事えお胜く其の力を竭し、君に事えお胜く其の身を臎げ、朋友ず亀わり蚀いお信あらば、未だ孊ばずずいうず雖も、吟は必ず之を孊びたりず謂わん。 この人倫の道が家族生掻における孝のみでなく治囜を第䞀に掲げおいるこずは特に泚目されねばならぬ。孔子孊掟における道の実珟は前述のごずくあくたでも衷心の誠意をもっおすべきものであるが、しかしそれだからず蚀っお人倫の道を単に䞻芳的な道埳意識の問題ず芋るのではない。人倫の倧いなるものは治囜である、囜ずしおの人倫的組織の実珟である。そうしおそれはただたじめで「信」があるこず、人を愛し衆を愛するこずによっおのみ実珟されるのである。もちろんこのような人倫的組織の実珟には、その现郚ずしお孝や悌が含たれねばならぬ。家を捚おるこずによっお道を実珟するずいうのは孔子孊掟の道ではない。しかし孝を䜕よりも重倧芖するずいうのもたたこの初期の孔子孊掟の思想ではなかったのである。五ず六ずに分ける孔子の語は、明らかに信ず愛ずを人倫の道の䞭枢ずするのであっお単に家族道埳を説くのではない。䞃の子倏の語に至るずよほど五倫の思想に近づいお来る。賢を尊ぶのは長幌の序に圓たるであろう。色をあなどるのは倫婊の別に近いであろう。あずは父母に仕え、君に仕え、朋友に信あるこずである。子倏によればこの五倫が孊なのであった。が、たた長であるがゆえに尊ぶのでなく長者が賢であるがゆえに尊ぶのであり、単に倫婊を差別するのでなく色をあなどるがゆえに倫婊間に瀌儀を正しくするのであるならば、子倏の思想はいただ圢匏化した五倫思想ではないずも蚀える。埓っお賢を尊ぶのも色をあなどるのも、家族道埳よりは広い䞀般的な意矩を担うのである。家族道埳は五項の内のただ䞀項に過ぎない。以䞊が孔子孊掟の人倫の倧綱ず芋られるならば、初期の孔子孊掟は家族道埳を特に重んじたずいうわけではないのである。  人倫の倧綱を説くこずによっお孊ぶべき道が瀺された。そこで次にはこの道を孊ぶ孊埒の心がけが瀺される。 八 子曰く、君子重からざれば則ち嚁あらず、孊べば則ち固ならず。忠信の人に䞻しみ、己れに劂かざる者を友ずするこずなかれ、過おば則ち改むるに憚るこずなかれ。 この心がけはもちろん孊埒に限ったこずではなかろう。が、もし䞀般の䞖間においお、「己れに劂かざる者を友ずするこず」がなければ、友人関係はきわめおたれにしか成り立ち埗ぬであろう。我はたずい己れに優る者を友ずしようずしおも、その優る者は己れに劂かない我を友ずするこずはできないからである。埓っお人はただ己れに等しいもののみを友ずし埗る。その堎合に人を導きたた導かれるずいうこずはあり埗ない。しかるに孊埒は導かれる立堎にある。垞に己れより高い者優れた者に接しなくおは、有効に導かれるこずはできない。だからこの心がけは孊埒の心がけずしお最もふさわしいのである。過おばすなわち改むるずいう心がけも、孊問における進歩のために必須である。そういうしなやかな、匟力ある心構えを逊成するこずによっお、人は頑固になるずいう危険を防ぐこずができる。軜々しく意芋を倉えないずいうような態床も君子ずしおは必芁であるが、頑固に陥っおは取り柄がなくなるのである。  以䞊によっお孊園の根本粟神ず、孊ぶべき道ず、道を孊ぶ心がけずが説かれた。次に来るものはかくしお修逊し埗た者の暡範的な姿である。 九 曟子曰く、終わりを慎み遠きを远えば、民の埳厚きに垰せん。 十 子犜、子貢に問いお曰く、倫子のこの邊に至るや必ずその政を聞けり。倫子之を求めたるか、抑或は人君之を䞎えたるか。子貢曰く、倫子は枩良恭倹譲もお之を埗たり。倫子の求むるは其諞人の求むるに異なるか。 十䞀 子曰く、父圚すずきは其の志を芳、父没するずきは其の行ないを芳、䞉幎父の道を改むるなき、孝ずいうべし。 「終」は通䟋油断するものである。「遠」は通䟋忘れるものである。が、道を埗たものはちょうど逆に終わりを慎み遠きを远うずいうようになる。そうなれば、かかる人の率いる民はおのずから埳化されおくる。孔子がその枩良恭倹譲の埳のゆえに至るずころ政治の盞談を受けたのはよき䟋である。民衆や政治においおそうであるが、さらに孝に぀いおも同様なこずが蚀える。父の生前にはその志を遂げるように努め、父の没埌にはそのやり方を尊重しお䞉幎の間改めない、ずいうごずきは誠に孝の至れるものであるが、道を埗た者はこういう行き届いた孝行をなし埗るのである。もちろんこれらの解釈は孊而篇線茯の目的から掚枬したのであっお、これらの語が初めからそういう意味で蚀われたずいうのではない。もずもず独立した䞉぀の章がこの篇のこの個所に䞊んでいるゆえんは右のごずく解するほかはないずいうたでである。しかしこれらの章を独立したものずしお解釈しおも、意味の䞊に倧差はないず思う。曟子の語を喪祭の意に解するのは、曟子を『孝経』の著者ずする先入芋に囚われるからである。この語は『孝経』より叀いのであるから『孝経』ず離しお理解しなくおはならない。  以䞊は䞀に掲げた䞉぀の綱領のうち第䞀の孊問の喜びを、孊の内容、方法、目的などに展開しお䞊べたのであるが、次には第二の孊問における共同態に関しお䞉぀の章が䞊べられおいる。 十二 有子曰く、瀌の甚は和を貎しず為す。先王の道もこれ和を矎ずなす。小倧の事、之に由るも行なわれざる所あるは、和を知っお和せんずするも、瀌を以お之を節せざれば、亊行なうべからざればなり。 十䞉 有子曰く、信、矩に近きずきは、蚀、埩むべきなり。恭、瀌に近きずきは、恥蟱に遠ざかる。因むずころ其の芪を倱わざるずきは亊宗ぶべきなり。 十四 子曰く、君子は食飜かんこずを求むるなく、居安からんこずを求むるなく、事に敏くしお蚀を慎み、有道に就いお正す。孊を奜むずいうべきなり。 ここに有子の語が二章たで掲げられおいるこずは、有若が初期の孔子孊園ず䜕らか特殊の関係を持っおいたこずを思わせるものであるが、それはずにかくずしお、有子の語が特に共同態の秩序に関するこずは明癜である。和が䜕よりも重倧であるがその実珟は瀌の共働をたたねばならぬ。信も盲目的な情愛ずしおでなくしお矩に近いもの、恭も人に媚びるようなものではなくしお瀌に近いもの、したしみもただ感情的なものではなくしお「芪」の道にはずれないものでなくおはならぬ。この泚意は孊問の共同態においお青幎たちが殉情的な結合に奔るこずを譊めたのである。孔子の食、居等に぀いおの泚意をここに掲げたのは、青幎孊埒に察しお寄宿舎のごずき蚭備があったろうこずを思わせる。  最埌は第䞉の孊問修逊の自己目的性に぀いおの二章である。 十五 子貢曰く、貧しくしお諂うこずなく、富みお驕るこずなきは䜕劂。子曰く、可なり、然れども未だ貧しくしお道を楜しみ、富みお瀌を奜むものには若かざるなり。子貢曰く、詩に「切するが劂く、磋するが劂く、琢するが劂く、磚するが劂し」ず蚀えるは、それこの謂いか。子曰く、賜や始めお䞎に詩をいうべきなり、これに埀ぎにしこずを぀ぐれば来たらんこずをも知るものなり。 十六 子曰く、人の己れを知らざるを患えず、人を知らざるを患えよ。 孊而篇初章の第䞉句、「人知らざるも慍みず」ず同じ意味の蚀葉が、この篇の末尟に眮かれおいるこずを軜芖しおはならない。それはこの第䞉のテヌマがここに展開せられたこずを瀺すのである。そうしおこの、知らるるこずに心を劎せず、ただ知るこずにのみ努めるずいう粟神ほど、孊問の自己目的性をあらわにするものはない。いわんや貧富のごずきは、孊を奜む者の県䞭にあっおはならない。貧しき者が諂わないこずに努め、富める者が驕らないように甚心するのは、ただ貧富に囚われおいるのである。孊者は貧富を超えお道を楜しみ瀌を奜むのでなくおはならない。この道は無限の修逊である。切磋琢磚はこの停たるずころのない無限の道の合い蚀葉にほかならぬ。すなわち孔子孊埒においおも道の远究の無限性は把捉せられおいたのである。孊の実益性などは圌らの党然説かないずころであった。  以䞊のごずく孊而篇は、䞀定の目的をもっお纏められたものである。もちろんそれは元来独立しおいた蚀葉を集めたのであるから、たた各章がそれぞれ独立の蚀葉ずしお理解せられおよい。しかし独立の蚀葉ずしお深い意味が汲み取られるずいうこずは、毫もこの䞀篇の党䜓的構図を吊認する理由にはならない。孔子の語の最初の線纂の背埌に、孔子の孫匟子あるいは曟孫匟子の経営する孊園が存したずいうこずは、吊定するこずができないのである。  孊而篇が孔子孊埒に孊問の方針を瀺すものであり、埓っお孔子の思想を䌝えるこずを䞻県ずしおいないのに反しお、斉魯二篇の他の䞀篇たる郷党篇は党然孔子の面圱を䌝えようずしたものである。その点においおこれは最初の孔子䌝ずも蚀えるが、しかしそれはいかなる時に誰に向かっおいかなる事をしたかを䌝えるのではなく、ただ日垞的な孔子の行為の仕方あるいは動䜜の仕方を、類型的に描いおいるに過ぎない。䟋倖をなすのは、前にあげた康子薬を饋るの䞀節のみであろう。  郷党篇が最初にあげおいるのは孔子が公的生掻においおどういうふうにふるたったかである。郷党の人々ず぀きあう時には恭順朎蚥であった。宗廟朝廷では閑雅で蚀葉を謹んだ。䞋倧倫ず話す時には和楜の態床、䞊倧倫ず話す時には謹敬の態床、君いたす時には恭敬にしお安舒たる態床であったずいうごずき。そのほか公の儀瀌の堎の挚拶の仕方ずか、公門に入る時の歩き方ずか、君前における挙止動䜜ずかがこたごたず曞かれおいる。  次は孔子の私的生掻の状態である。衣服はどういう物をどういうふうに甚いたか。食事はどういう物をどういうふうに食ったか。それが现かに蚘述されおいる。䞭に、「酒量なしずいえども乱に及ばず」ずか、「倚く食わず」ずか、「食するずきは語らず」ずかずいうごずく、衣食の様匏を超えお理解しやすい句も亀じっおいる。  そのあずには、孔子の人物を髣髎ずせしめるような生掻の断片が列挙せられおいる。 厩焚けたり。子、朝より退き、人を傷えるかずのみいいお、銬を問いたたわず。 ずいうごずきがそれである。これは孔子でなければできないこずではない。しかしこの態床が人ずしお圓然あるべき態床であっお、銬を問うごずき人物は小人に過ぎない、ずいうこずがほずんど垞識ずしお通甚するに至っおいるのは、孔子の感化だず芋るこずもできる。぀たり孔子は、最も平凡な日垞的態床でもっお、ヒュマニティヌの急所を瀺しおいるのである。  ここに列挙せられる他の諞䟋も同様な孔子の心づかいを瀺すものが倚い。郷党の人々に察する心づかいずしおは、 郷人の飲酒するずき、杖者老人出づれば斯ち出づ。郷人の儺するずきは、朝服しお阌階に立぀。 などず蚘されおいる。孔子は郷人ずずもに酒を飲んだのであり、そうしお郷党の老人を敬い劎ったのである。たた郷人の行なう祭儀にはたじめに共感を衚明したのである。そこには村萜共同態ぞの埓順な態床が芋られる。知識人ずしお己れを郷人から区別するような距離感はそこにはなかった。たた朋友に察する心づかいずしおは、 朋友死しお垰る所なければ我がもずにおいお殯せよずいう。 ずある。殯は、庶人であれば、死埌䞉日目に行なう。本葬ではないが、しかし葬匏には盞違ない。朋友のためにはそれを匕き受けるのである。すなわち朋友を己れの家の者ず同様に取り扱うのである。たた䞀般に䞍幞なるものに察する心づかいずしおは、 子、斉衰者を芋るずきは、狎れたりず雖も必ず容を倉ず。  凶服者は之を匏す。 ずいうごずきをあげるこずができる。喪服を぀けた者に逢えば、たずい芪しい者でも、容を改めお察したずいうのである。喪服は悲しみの衚珟ずしお瀟䌚的に䜜られた颚習であるから、孔子の態床はこの颚習の意矩を最も率盎に生かせたものにほかならない。これも非凡人をたっお初めお行なわれ埗るずいうわけではないが、ヒュマニティヌの急所に圓たっおいるずいう点では前ず同様である。  郷党篇は以䞊のごずき孔子のふるたい方や心づかい方を叙したあずで、次のごずき興味ある句をもっお結んでいる。 色斯きお挙がり、翔っお埌集る。曰く、山梁の雌雉、時かな時かなず。子路之に共えば䞉たび狊げお䜜぀。 これは孔子が子路ずずもに山に行いお雌雉を芋た時の話である。孔子が近づくず、䞀床は驚いお飛び䞊がったが、少し翔っおからたた孔子のあたりぞおりおくる。それを芋お孔子が善いかな善いかなず蚀ったのである。ずころで子路がその雉のそばぞ寄ろうずするず、雉は飛がうずしおやめ、たた飛がうずしおやめたが、結局䞉床目に飛び䞊がっおしたった。この情景は、鳥さえも孔子だけにはな぀いたずいうこずを語っおいる。孔子の仁は鳥にさえも通じるくらいであったずいうのである。こういう描写を郷党篇の最埌に眮いたこずは、線者に察しお幟分の心憎さをさえも感ぜしめるであろう。  孔子の孊埒は、孔子の面圱を䌝えようずする最初の詊みにおいお、䞊述のごずき孔子の姿を描いた。そこには異垞な事件や非凡な胜力は描かれおいない。このこずは孔子を考えるに぀いお特に留意せらるべき点である。  孊而、郷党二篇を斉魯二篇ずしお『論語』の最も叀い局ず芋れば、河間䞃篇に圓たる諞篇もたた同様に叀い局に属するず芋るべきであろうか。孊而篇が孔子孊埒ぞ瀺された孊園の綱領であっお、孔子の思想を叙述しようず目ざしたものでないこずは、すでに芋お来たずころであるが、しかしこの孊園そのものが孔子の人栌ず思想を栞ずしお生成したものである以䞊、その孔子に぀いお詳しく知ろうずする芁求は、初めより孊埒の間にあったず芋なくおはならぬ。それに察しお孔子の匟子も孫匟子もその知れる限りを答えたに違いない。だから孊而や郷党が線纂された時に、それ以䞊詳しい孔子の蚀行が孊埒の間に知られおいたこずも、もちろんであろう。しかし孊而篇は、その線纂の䞻旚にもずづき、孊問の粟神や人倫の倧綱に関する孔子の語を、きわめお簡略に採録したに過ぎず、孔子の人ずなりを䌝えようずする郷党篇は、匟子ずの問答や孔子の思想などにほずんど觊れるこずなく、ただ仁者ずしおの孔子の面圱を語ったに過ぎぬ。すでに孔子の蚀行が蚘録され始めた以䞊、かかる簡単なもので右の芁求が充たされるはずはない。匟子や孫匟子によっお語られお来たさたざたの孔子の蚀行は、蚘録されるこずを芁求する。これがおそらく河間䞃篇の成立しお来たゆえんではなかろうか。そう芋ればここに蚘録された材料は決しお斉魯二篇のそれより新しいものではないが、この䞃篇ずしお蚘録され線纂せられたのは斉魯二篇よりも新しいであろう。すなわち個々の孔子の語ずしおは斉魯二篇ず同じき局に属し、河間䞃篇ずしおはそれより新しい局に属するのである。  右のごずく河間䞃篇は孊而篇ず異なっお孔子の蚀行を䌝えるこずを䞻県ずする。その点では郷党篇ずほが動機を同じくするのであるが、しかし郷党篇が孔子の思想を䌝えようずしないのに察しお、ここではその点をも目ざしおいる。そこで河間䞃篇は、孊而篇から匟子の語を排陀しお孔子の語をのみ残し、これを郷党篇の䞭に流し蟌んだような䜓裁ずなるのである。もちろん匟子の語も、孔子に぀いお語り孔子を䌝えるに圹立぀限りは取り入れられおいる。しかし孊而篇においおのように匟子自身の思想を蚀い珟わした匟子の語は、為政、八䜟、里仁、公冶長、雍也、述而、子眕の䞃篇を通じお、ただ䞀぀の䟋倖を陀くほか、党然珟われお来ないのである。その䟋倖は里仁篇末尟の、 子枞曰く、君に事えお数責むれば斯則ち蟱められ、朋友に亀わりお数むれば斯ち疏んぜらる。 であるが、しかしこの語はすぐ前にある孔子の語、「埳孀ならず、必ず鄰あり」を反駁した圢になっおいる。䜕か由ありげである。ただ䞀぀の䟋倖がこういう状態であるから、河間䞃篇がいかに孔子に集䞭しおいるかがわかるのである。  孊而ず郷党ずの䞡篇の間に挿たった八篇の内から、泰䌯篇を排陀しお䞃篇を残し埗るゆえんも、同じくここに存する。この篇には曟子の語が五章、誰の語かわからない議論が䞀章加わっおいるのである。たた埌に説くごずき河間䞃篇の構図の䞊から蚀っおも、この䞀篇だけは独立しおいる。さらにこの篇においおは堯舜犹の物語を採甚した孔子の語がひどく目立っおいる。これは他の䞃篇ずずもに論ずべきものではない。  さお為政、八䜟、里仁、公冶長、雍也、述而、子眕の䞃篇を通芳するず、八䜟篇は瀌を䞻題ずしおこれに関する問答を集め、里仁篇は仁ず君子ずに関する孔子の語を録し、公冶長、雍也の䞡篇は匟子およびその他の人物月旊ずなり、述而、子眕の䞡篇は孔子自身の述懐や孔子の人ずなりに぀いおの匟子の語やあるいは郷党ず同様な孔子の生掻描写など、孔子に぀いおの䌝蚘的なものを集めおいる。すなわち孔子の思想、匟子ずの関係、および孔子の䜓隓・行路の䞉぀の䞻題が、それぞれ二篇ず぀を占めおいるのである。それに察しお最初の為政篇のみは、特にどの䞻題を持っおいるずも蚀えない。孝に぀いおの問答が四぀ほど䞊んでいお目立぀ずころから、これを取り立おお蚀うこずもできようが、しかし孝ず関係のない倚くの問題も取り䞊げられおいる。それを少しく泚意深く芳察するず、この篇が前掲の䞉぀の䞻題をこずごずく含んでいるこずがわかるのである。぀たり為政篇はあずの六篇の総論ずなり、孔子の䌝蚘、匟子ずの関係、孔子の思想の党面にわたっお、孔子の語を録しおいるのである。かく芋れば河間䞃篇の持぀党䜓的な構図が、䞀目にしお芋枡せるものずなるであろう。  為政篇は第䞀章に政治は埳をもっおすべきであるず蚀い、次に詩の本質が「思無邪」であるず喝砎し、第䞉に教化が埳ず瀌ずによるべきであっお政ず刑ずによるべきでないこずを蚀っおいる。いずれも事の䞭栞に圓たった名蚀であり、今になお通甚する智慧である。が、そのあずで突劂ずしお孔子の生涯が掲げられる。 子曰く、吟十有五にしお孊に志し、䞉十にしお立ち、四十にしお惑わず、五十にしお倩呜を知る、六十にしお耳順う、䞃十にしお心の欲する所に埓っお矩を螰えず。 これはもし真に孔子の語であるならば、明らかに孔子の自䌝にほかならぬ。孔子ずいえども幌幎の時から孊を奜んだのではない。十五のころに初めお孊に醒めたのである。たた青幎時代にすでに事を成そうずしたのではない。䞉十にしお初めお立ったのである。䞖に立っおも惑いがなかったのではない。四十にしおようやく確固ずした己れの道を芋いだしたのである。が、それを実珟するのに焊らなかったのではない。五十にしおようやく倩呜を知り、萜ち぀きを埗たのである。萜ち぀いおいおも䞖人の蚀行に察する非難や吊定的な気持ちがなくなったずいうのではない。六十に至っおようやく寛容な気持ちになれたのである。しかし他に察するこの寛容な是認の境地においおも己れの蚀行をこずごずく是認するたでには至らない。遣憟や埌悔はなお存した。それがなくなったのは䞃十になっおからである。孔子が没したのは䞃十二歳ないし䞃十四歳ず蚀われおいるから、右の述懐は死に近いころのものであろう。孔子は䞀生を回顧しお晩幎の二、䞉幎のみを自ら蚱したのであった。  この孔子の自䌝は、時ずずもに䞀般的な人生の段階ずしお広い共鳎を受けるに至った。人はそれぞれその䞀生に志孊の幎、而立の幎、䞍惑の幎、知呜の幎、耳順の幎等を持぀ず考えられる。もちろん人によっおは而立の幎に至っおも立ち埗ず、䞍惑の幎に至っおなお惑溺の底にあり、知呜の幎に焊燥しお道を螏みはずし、耳順の幎に我意をもっお人ず争うこずもあるであろう。しかし立ち埗ないでも圌は而立の幎に達しおいるのであり、たた惑溺の䞭にあっおも圌は䞍惑の幎に達しおいるのである。だからこそその立ち埗ないこずや惑溺を脱し埗ないこずが、圓然為すべきこずの欠劂ずしお非難せられる。青幎の惑溺は寛容せられるが、䞍惑の霢に達したものの惑溺はその人の信甚を芆しおしたう。壮幎の焊燥は同情せられるが、知呜の霢に達したものの焊燥はその人ぞの尊敬を消倱せしめる。しおみるず、右の段階は垞人の生涯の段階ずしお圓然螏たるべきものず芋られおいるのである。ただ矩を螰えざる段階のみは垞人の生涯に適甚せられない。そうしおその適甚せられないこずにも深い味がある。が、その最埌の段階のみを陀いお、孔子自身の生掻の歎史であったものがあらゆる人に通甚する人生の段階ずせられお来たずころに、人類の教垫ずしおの孔子の意矩が炳乎ずしお珟われおいるず蚀っおよかろう。  この章は孔子を聖人化する痕跡を含たない点においお確かに孔子自身の語であったろうず掚枬せしめるものであるが、それにもかかわらずこの章においお孔子を聖人化しようずする努力が詊みられおいるこずはもちろんである。いわく、孔子が倩呜を知るず蚀ったのは己れのなし埗べき事の限床を知るずいうくらいの浅い意味ではない。先王の道を埩興するずいう倩よりの䜿呜を芚ったのである。この時以来孔子は先王の道の䜿埒ずしお掻動を始めた。有名な匟子が぀いたのもこの時以埌であり、諞囜の為政者に説いお回ったのもこの時以埌である。倩呜を知るの䞀語は孔子の生涯にずっおは甚深の意矩を蔵する。これがそれらの人々の䞻匵である。が、これは他の材料から知られる孔子の䌝蚘にもずづいた解釈であっお、「五十而知倩呜」ずいう語句そのものがかかる解を必然ならしめおいるのではない。ずするず、知呜の意矩は五十のころの孔子の生掻の倉化に最もよく珟われおいなくおはならない。しかるに䌝蚘によれば孔子は五十の時に公山䞍狃に仕えんず欲し、五十䞀から五十六たで魯の定公に仕えお官吏ずなった。孔子がその生涯においお実際に政治に関䞎したのはこの五十代の前半だけなのである。このこずが果たしお右のごずき䜿呜の自芚を立蚌するであろうか。論者のいうごずき諞点、すなわち諞囜の為政者に説き、有胜な匟子を逊成したずいうのは、むしろ六十耳順に関係ある時代五十䞃歳―䞃十歳であっお、五十知呜に近いころではない。しおみれば五十知呜に右のごずき解を付するのは無理ではないか。孔子は四十代の理想䞻矩的な焊燥を脱したからこそ、五十に至っお劥協を必芁ずする珟実の政治にたずさわったのである。そうしおその䜓隓が耳順うの心境を準備したのである。文句通り玠盎に解するに䜕のさたたげがあろう。前掲のごずき解釈によっお孔子を偉倧化しようずするよりも、孔子の自䌝が䞀般的に人生の段階ずしお通甚したずいう事実の意味を明らかにする方が、はるかに孔子の偉倧さを発揮するゆえんではなかろうか。  さお為政篇は、政治ず詩ず教化ずの本質を説いたあずで右のごずき孔子の自䌝を掲げ、そのあずに孝に぀いおの四぀の問答を䞊べおいる。これらの問答は孝の意矩を明らかにするよりも䞀局倚く孔子の説き方を明らかにしたものである。同じく孝を説くにも、瀌なき者には父母に瀌をもっお仕えよず答え、父母病匱なる者には父母の疟を憂えよず蚀い、敬なき者には父母を敬せよず説き、愛嬌なきものには色を和らげお仕えるのが第䞀だず教える。これらはむしろ自䌝に続いお教垫ずしおの孔子の面圱を描いたず芋るべきであろう。  そのあずに孔子の最も愛した匟子顔回に察する批評の蚀葉がくる。顔回は䞀日話しおいおも反問するずいうこずがない。ばかのようである。しかるに陰ではちゃんず道を実行しおいる。ばかどころではない。この匟子評に続いお人栌の問題や君子の問題が五章にわたっお䞊べられる。人の行為・態床には吊応なしにその人栌が珟われる、隠すこずはできない。たた人の垫ずなり埗る人物はただ叀いこずを尚ぶのみでも新しいこずに走るのみでも䞍可である、䞡者を兌ねなくおはならぬ。たた君子ずしお尊敬せられるような人物は、ただ才胜があるのみの者ではない。うわべはばかのように芋える。が、蚀葉で珟わすよりもたず行為においお実珟する人、人にしたしむがしかしおもねらない人、それが君子なのである。  人栌の問題に぀ぐのは孊問の問題四章である。他から孊ぶのみで自ら思玢しなければほんずうには悟れない、が、自ら思玢するのみで他から孊ぶこずをしなければ危険である。己れず正反察に異なった䞻匵がある堎合に、それをただ攻撃するだけでは孊問の進歩にならない。それを機ずしお自ら省みれば異説もたた益になる。真に知るずいうこずは、「知れるを知るずなし、知らざるを知らずずする」こずである。正しく認識する道は、「倚く聞きお疑わしきを闕き  倚く芋お殆わしきを闕く」こずである。  次に政治に関する章が䞉぀䞊ぶ。これは政治の本質を埳ずする考えを展開したものである。最埌に「信」の重芁性を説いた章ず、䞉代の「瀌」の恒久性を説いた章ず、「其の鬌に非ずしお祭るは諂うなり、矩を芋お為ざるは勇なきなり」ずいう章ずが眮かれおいる。これは祭りさえも道をもっおしなければ諂いずなるこず、たた為ないずいうこずも道をもっお為ないのでなければ非難に䟡するこずを蚀ったのであろう。この最埌の個所だけには䜕の連絡もない。䞀々別個の問題が掲げられたず芋なければならぬ。  以䞊によっお芋るず、䞀芋したずころいかにも雑然ずしおいるような為政篇が、案倖に敎然ず䞊べられおいるこずに気づかざるを埗ない。このあずに続く六篇がこの総論に察する各論であるずいう芋方は、必ずしも無理ではなかろうず思う。  八䜟以䞋の六篇は前述のごずく䞻題が明癜であるから、構図䞊の問題ずしおここに取り䞊げる必芁はないず思うが、䞋論の諞篇ずの比范研究䞊泚目すべき点を二、䞉あげおおきたいず思う。  匟子たちの人物月旊を集めた公冶長・雍也の䞡篇および匟子ずの亀枉を倚く語っおいる述而・子眕の䞡篇は、孔子の生掻が匟子ず密接に連関しおいるずいう理由で、孔子䌝の重倧な芁玠ずなるものを含んでいるのであるが、しかし同様な資料を集録しおいるものは䞋論にも倚い。そこで䞡者の間の異同が䞀぀の泚目すべき点ずなるのである。 『論語』党篇を通じおおそらく揺るぎのない声䟡を保っおいる匟子は、前に為政篇に぀いお問題ずした顔回であろう。そこでは孔子が、愚なるがごずき顔回の真䟡を声蚀した。今ここで問題ずなる公冶長篇では、 子、子貢に謂っお曰く、汝回ず孰れか愈れる。察えお曰く、賜は䜕を敢えお回を望たん、回は䞀を聞いお以お十を知る、賜は䞀を聞いお以お二を知るのみ。子曰く、劂かざるなり、吟も汝ずずもに劂かざるなり。 ずある。この孔子の語は最倧玚の讃蟞ず芋およいであろう。さらに雍也篇では、 哀公、問う、匟子孰か孊を奜むず為す。孔子察えお曰く、顔回ずいう者ありき、孊を奜み、怒りを遷さず、過ちを匐たびせざりしが、䞍幞短呜にしお死せり、今は則ち孊を奜むものを聞かざるなり。 ずいう。孔子の回に察する愛情を衚珟しお䜙蘊がない。たた同じ篇に、 子曰く、賢なるかな回や、䞀箪の食、䞀瓢の飲、陋巷にあり。人は其の憂いに堪えざらんも、回は其の楜しみを改めず。賢なるかな回や。 ずある。顔回の生掻の状は躍劂ずしお描かれおいる。さらに孔子の䜓隓を䞻題ずする述而篇においおも、 子、顔淵に謂っお曰く、甚いらるれば則ち行み、舎おらるれば則ち蔵るずは、唯我ず爟ずのみこれあるかな。 ずいう深い共感を珟わし、さらに子眕篇においおは、 子、顔淵を謂っお曰く、惜しいかな、吟その進むを芋たるも、未だその止むを芋ざりき。 ず讃嘆しおいる。ちょうどこれに答えるように子眕篇では顔淵の孔子讃矎の蟞を録しおいるが、それを「子疟病し」の章ず䞊べおいるのも倉であるし、顔淵の語にも痛切に響くものがない。甚心しお読むべき個所ず思われる。  以䞊に掲げた孔子の諞語は䞀貫しお顔淵ぞの愛情を吐露しおいる。そうしおこの傟向は䞋論に至っお䞀局匷床を増すのである。䞋論初頭の先進篇においおは、顔回孊を奜みしが䞍幞短呜にしお死せりの句を重耇しお掲げた埌に、「顔淵死す」ずいう蚀葉に始たる四぀の章を䞊べおいる。いずれも孔子が顔淵の死を痛惜し慟哭したずいう蚘録であっお、内容䞊前になかったものは珟われおおらぬ。前掲の孔子の語においお内に朜めお衚珟せられおいるものが、ここでは衚面に露出せられたずいうだけである。が、それによっお顔淵に察する孔子の愛情が䞀局匷調せられお来たずいうこずはわかるのである。そのほか顔淵篇では顔淵をしお孔子に仁を問わしめ、克己埩瀌を仁ずなすずいう有名な答えを匕き出させおいる。衛霊公篇では邊を治める仕方に぀いおの顔淵の問いに察しお、孔子が倏の暊、殷の車、呚の冠、舜の楜などをもっお答える。いずれも陋巷に䜏む顔回ず䌌合わない問題であるが、瀌を重芖する孔子孊掟はこれらの問題を顔回に結び぀けずにいられなかったのであろう。ここにも孔子孊掟における䞀臎した顔回尊敬が芋いだされる。  この顔回尊敬に察比しお著しく目立぀のは、子路の取り扱い方である。子路が顔淵ずずもに孔子に䟍し孔子ず問答したこずは、公冶長、述而などに芋える。孔子は子路を顔回のように讃めはしなかった。しかし子路を愛するこずは決しお顔回を愛するに劣らなかった。子路は前にも蚀ったように五䞉ペヌゞ参照、率盎で、䞀本気で、気の匷い、そうしお良心的な男であった。公冶長篇の、 子路聞けるこずありお、いただ行なう胜わざるずきは、唯聞くあらんこずを恐る。䞀四 ずいう蚀葉は、圌がいかに䞀本気で良心的であったかを瀺すものである。が、単玔に過ぎお理解の行き届かない所がある。同じく公冶長篇の、 子曰く、道行なわれずんば桎にのりお海に浮かばん、我に埓わん者はそれ由か。子路之を聞きお喜ぶ。子曰く、由は勇を奜むこず我に過ぎたり、然れども桎の材を取るずころなからん。䞃 ずいう孔子の批評はその点を指摘しおいるのであろう。子路の献身的な忠実、死を恐れない勇気は明らかに認める。しかし圌は桎で海に出ようず欲しおもその桎を䜜る材料を工面しお来るこずのできない男である。それでは事をずもにするこずができない。同様の意芋は述而篇にも述べられおいる。 子路曰く、子䞉軍を行らんずきは則ち誰ず䞎にかせん。子曰く、虎を暎埒搏にし、河を憑埒枉りお、死すずも悔ゆるなきものは、吟䞎せざるなり、必ずや事に臚みお懌れ謀を奜みお成す者に䞎するなり。䞀〇 が、この欠点は孔子にずっおは本質的なものでなかった。子路の玔粋な気持ちや道における勇敢は䞀局貎いものである。だから孔子は子路を愛する。 子曰く、匊れたる瞕袍を衣お、狐貉を衣たる者ず立ちお恥じざるものは、それ由か。子眕、二䞃 孔子はこの気抂を愛するずずもにたた尊重する。埌の䌝蚘者によっおさたざたに増広せられた次の䞀章、 子、南子を芋る。子路説ばず。倫子之に矢いお曰く、予吊ずころあらば、倩之を厭おん、倩之を厭おんず。雍也、二八 のごずきは、それを明らかに瀺したものである。南子は衛の霊公の倫人でずかくの評刀のあった人であるが、この章はそれよりも子路悊ばずずいう点に重点を眮いおいる。孔子は子路のこの感情を尊重し、それをなだめおいるのである。ここに子路の忠実が孔子にずっおいかに重芁な意矩を持っおいたかが瀺される。かく芋れば孔子の疟はなはだしずいうこずが子路ず連関しおのみ語られおいるゆえんも明らかずなるであろう。 子疟む。子路祷らんこずを請う。子曰く、これ有りや。子路察えお曰く、あり、誄に爟を䞊䞋の神祇に祷るずいえり。子曰く、䞘の祷るこず久し。述而、䞉五 子、疟病し。子路葬るに倧倫の瀌を備えんず欲し門人を臣たらしむ。病間あるずき、曰く、久しいかな、由の詐りを行なえる。臣なきに臣有る為しお吟誰をか欺かん。倩を欺かんか。䞔぀予は、その臣の手に死なんよりは、無寧二、䞉子の手に死なんか。䞔予瞊い倧葬を埗ずずも、予道路に死なんや。子眕、䞀二 この二぀の堎合、子路の目ざしたこずはいずれも孔子に察する理解の欠劂を瀺しおいる。が、いずれも孔子を思う情の切なるこずを珟わしたものである。孔子の重病を語る際には、子路の忠実な看護を結び぀けるのが最もふさわしかった。これが以䞊の諞篇の瀺しおいる態床である。  なおこの孔子の重病に぀いおは、埌の議論にも関係があるから、䞀蚀付加しおおきたい。我々がこの二章を読んで受ける印象は、これが孔子の死の床であるずいうこずである。孔子は己れの葬儀を問題ずし、たた己れの死に方に぀いお垌望を述べおいる。これは『論語』党篇の䞭で特に目立぀点である。しかるに埌の蚘録は皆これを孔子の死の床ず認めおいない。『巊䌝』は孔子没する前幎に「孔子、衛の乱を聞きお曰く、柎やそれ来たらん、由や死せんず」ずいう語を録し、『瀌蚘』檀匓には「孔子、子路を䞭庭においお哭せり」云々ず蚘しおいる。おそらくそれらによっお、『史蚘』の孔子䞖家も仲尌匟子列䌝も、子路が孔子より先に死んだこずを明癜に曞いおいるのである。子路が孔子を死の床においお看護したず認めるならばそういう䌝説の起こるはずはない。だからこれほど目立぀蚘録さえも孔子の死に関するものずは芋られなかったのである。  さお右のごずき子路の面圱を念頭に眮いお䞋論に臚むず、ここでは事情が顔回の堎合ずはなはだ異なっお来る。もちろん䞀方では䞊述の子路の面圱をさらに拡倧しお、「是れあるかな、子の迂なる」などず孔子に突っ掛かりながら、しかも孔子から愛撫包容せられる子路が描かれおはいる。しかし他方ではこれず正反察に孔子から眵倒せられる子路が描かれおいるのである。その著しい䟋ずしお先進篇をあげるこずができる。この篇は前述のごずく顔淵の死に察しお孔子が慟哭したずいう章を掲げおいるのであるが、あたかもそれず察照するかのごずくに、子路、冉求らに察する孔子の酷評を蚘した章をも掲げおいるのである。そのはなはだしいのを拟えば、 子曰く、由の瑟雅頌に合せず、奚為ぞ䞘が門に斌おせん。門人子路を敬わず。子曰く、由は堂に升れるも、未だ宀に入らざるなり。䞀五 季子然問う、仲由ず冉求ずは倧臣ず謂うべきか。子曰く、吟子を以お異他事を問うならんず為いしが、曟で由ず求ずのこずをしも問えるか。所謂倧臣ずは道を以お君に事え、䞍可なるずきは則ち止む、諫めお可かれずば則ち退く。今由ず求ずは諫むべくしお諫めず、具臣いたずらに臣の数に備わるものずいうべし。二四 子路、子矔をしお費の宰たらしむ。子曰く、倫人の子を賊わん。子路曰く、民人あり、瀟皷あり、䜕ぞ必ずしも曞を読みお、然しお埌孊びたりず為さん。子曰く、是の故に倫䜞者を悪む。二五 のごずきをあげ埗るであろう。ここに珟われた子路は、単玔で怒りっぜく情愛の深いあの䟍者子路ではない。もし子路がこういう人物であったならば、どうしお孔子が「由よ、汝に知るこずを誚えんか」ず呌びかけお、䞍知の知の深矩を語り、あるいは道の行なわれぬ憀りを打ちあけお「我に埓わん者はそれ由か」などずいうこずができよう。民人あり、瀟皷ありず称えお曞を読むこずを斥ける具臣は、砎れたる瞕袍を着お平然たる由ではない。先進篇は顔回の讃矎を雍也篇以䞊に誇匵するずずもに、子路の欠点を公冶長篇の䜕倍かに拡倧したのである。子路に察するこの芋方は、䞋論にあっおはさらに季氏篇においお匕き぀がれおいる。しかるに同じ䞋論の䞭でも、子路、衛霊公、陜貚の諞篇はこれず異なり、前に蚀った前者の䟋に属しおいるのである。こういう所から我々は河間䞃篇以埌の新しい局を芋いだしお行くこずができるであろう。  匟子の取り扱い方に぀いおはなお他に倚くの泚意すべきものがあり、それによっお我々は䞋論の性質を最も容易に知り埗るのであるが、䞀々の匟子を取り䞊げるのは煩瑣でもあるから、ここには右の顔回ず子路ずの堎合をもっお代衚させるこずにしよう。なお右のごずき仕方で河間䞃篇の䞭から䞋論が発生し来たる経路を理解するために、ここにはただ䞀぀䟋を掲げおおくこずにしよう。巊蚘の䞀二は公冶長篇、䞉は先進篇に存しおいる章である。 䞀 孟歊䌯問う、子路仁なるか。子曰く、知らず。又問う。子曰く、由は千乗の囜其の賊を治めしむべし、其の仁を知らざるなり。求は䜕劂。子曰く、求は千宀の邑、癟乗の家、これが宰たらしむべし、其の仁を知らざるなり。赀は䜕劂。子曰く、赀は束垯しお朝に立ち、賓客ず蚀わしむべし、其の仁を知らざるなり。 二 顔淵、季路䟍る。子曰く、なんぞ各爟の志を蚀わざる。子路曰く、願わくは己れの車銬衣裘を、朋友ずずもにしお之を敝るも憟みなからん。顔淵曰く、願わくは善に䌐るこずなく劎を斜すこずなからん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者には安んぜられ、朋友には信ぜられ、少者には懐したれん。 䞉 子路、曟皙、冉有求、公西華赀䟍坐せり。子曰く、吟䞀日爟に長ぜるを以お察えずしお已むこずなかれ、なんじたち居に則ち人皆吟を知らずずいう、劂し爟を知りお甚うるあらば則ち䜕をか以さん。子路率爟ずしお察えお曰く、千乗の囜倧囜の間に摂たりお加うるに垫旅を以おし因ぬるに饑饉を以おせんずき、由これを為めば、䞉幎に及ばん比、勇あり䞔぀方を知らしめん。倫子之を哂う。求よ爟は䜕劂。察えお曰く、方六、䞃十、劂しくは五、六十里の囜、求之を為めば䞉幎に及ばん比、民を足らしむべし、その瀌楜の劂きは以お君子を俟たん。赀よ爟は䜕劂。察えお曰く、これを胜くすずいうにあらざれども、願わくは孊びがおらにせん、宗廟の事、劂しくは䌚同のずき、玄端を衣章甫を冠り願わくは小盞ずならん。点よ爟は䜕劂。錓瑟垌ずだえ鏗爟ずしお瑟を舎きお䜜ち、察えお曰く、䞉子者の撰に異なり。子曰く、䜕ぞ傷たん、亊各その志をいうなり。曰く、暮春春服既に成り、冠者五、六人、童子六、䞃人を埗お、沂氎の䞊に沿济い舞雩の䞋に颚り詠じお垰らん。倫子喟然ずしお嘆じお曰く、吟は点に䞎せん。䞉子者出でお曟皙埌る。曟皙曰く、倫の䞉子者の蚀は䜕劂。子曰く、亊各その志を蚀えるのみ。曰く、倫子䜕ぞ由を哂える。子曰く、囜を為むるには瀌を以おし、瀌は譲を貎ぶ、而うしおその蚀譲ならず、是の故に之を哂えり。求ず唯も則ち邊に非ずや、安んぞ方六、䞃十劂しくは五、六十にしお邊にあらざるものを芋ん。赀ず唯も則ち邊に非ずや、宗廟ず䌚同ずは諞䟯にあらずしお劂䜕せん。赀これが小盞たらば孰か胜くこれが倧盞ず為らん。 右の䞀ず二を䞉に察照しおみるず、䞉の問答の構図は二ず同じく孔子を取り巻いお各自の志を蚀うにある。しかるに孔子に䟍するものの顔ぶれは䞀ず䞉ずが類䌌し、ただ䞉においお曟皙が加わっおいるだけである。そうしお各自の志を蚀うに圓たっおは、䞀における子路、冉有、公西華の特性づけがそのたた各自の気焔ずなっお珟われおいる。ただ䞀においお簡単に蚀われおいるこずが、䞉においおは泚釈的に詳しくされおいるだけである。すなわち子路は䞀においお千乗の囜に賊を治めしめる力があるず蚀われおいるが、䞉においおは、その千乗の囜が戊争ず饑饉の艱難に逢っおいる時でさえも、なお䞉幎の間に勇敢な䞔぀法に遵う囜に仕䞊げお芋せるず、自ら高蚀するこずになっおいる。そうしお子路であるから勇ありずいう䞀語を甚いしめるこずを忘れず、たた前段で説いたように孔子が子路を哂うずいうこずも泚意深く付加されおいる。冉有に぀いおも同様である。癟乗の囜は広さで蚀いかえられ、その囜の宰たるこずは民を足らしめるずいう蚀い方に倉えられおいる。瀌楜のごずきは冉有の柄ではないのである。さらに公西華に至っおは、束垯しお朝に立぀のがその柄であるこずを玄端章甫や宗廟の祭りで巧みに蚀い倉えおいる。蚀葉は党郚違うが、蚀おうずするこずは党然同䞀なのである。しおみるずここたでの所においおは、先進篇のこの章は䞀以倖の䜕らかの資料を基瀎ずしたずいう蚌跡を党然瀺さない。すなわち䞉は䞀を螏んでいるのである。  では曟皙の答えは劂䜕。それは党然䞀にはない。しかし二の孔子の答えこそ、ここに比范さるべきものなのである。初めに蚀ったようにこの問答の堎の構図は二ず䌌おいる。ねらい所は最埌に出る答えなのである。孔子はそこにきわめお平凡な、安らかな共同生掻をあげた。それず同じ気分のものが、いくらか隠遁生掻の色圩を加えお、曟皙によっお蚀い出されるのである。孔子の答えは人間生掻に密着しおいる。曟皙の答えはむしろ自然を味わう方に重点を移しおいる。が、それにもかかわらず、「朋友には信ぜられ、少者には懐したれん」ずいう孔子の語ず、「冠者五、六人、童子六、䞃人」ずいう曟皙の語ずの間には、䜕らかの぀ながりが感ぜられる。この個所ずいえども、決しお二以倖に特別の資料を持っおいたわけではないであろう。元来曟皙なるものは、この個所以倖には、斉魯二篇河間䞃篇はもずより、『論語』党篇を通じお珟われお来ない匟子なのである。『孔子家語』にはこれを曟子の父ずしおいるが、『史蚘』の「孔子䞖家」はいただそういう䌝説を蚘しおいない。そういう無名の匟子がここに突然珟われお、孔子の有名な匟子の䞉人たでを蹎萜ずしおしたう。そうしお問答のあずで孔子がただ曟皙だけに子路を哂った理由を打ち明けるこずになっおいる。こういう蚘録が埌出のものであるこずは、他の人類の教垫の䌝蚘ず照合しお考えおも、ほが断定しおよいこずなのである。  もちろん䞉が新しい局に属するずいうこずは、この章の䟡倀が枛ずるずいうこずではない。「暮春者春服既成、冠者五、六人、童子六、䞃人、济乎沂、颚乎舞雩、詠而垰」の句は、叀来倚くの人に愛せられた。そうしおたた確かに愛せられるに䟡する句である。が、それは『論語』の内のどの郚分が叀いかずいう問題ずは党然別のこずである。おそらくこれは孔子孊掟の運動ずは独立に生じた民謡の類で、先進篇の線者が孔子の䌝蚘の䞭に取り入れたものであろう。 『論語』の原兞批刀に関しおはなお倚くの問題が残されおいるが、孔子の䌝蚘を考えるに぀いおは、以䞊の芋透しでほが甚は足りるであろう。 四 孔子の䌝蚘および語録の特城  我々は二においお孔子の䌝蚘の信憑すべき材料が『論語』のほかにないこずを芋いだした。そうしお次に䞉においお『論語』の内の叀い局ずしお孊而・郷党の二篇および為政・八䜟・里仁・公冶長・雍也・述而・子眕の䞃篇を芋いだした。これらは孔子の孫匟子あるいはそれよりも埌のものである。ではここに芋いだされた孔子の䌝蚘は、他の人類の教垫のそれに比しお、どういう特城を持っおいるであろうか。  この問いに察しお即坐にあぐべきは孔子の死に関する蚘録だず思う。右の九篇䞭、ここに幟分関係があるず思われるのは、ただ䞀䞀二ペヌゞにあげた二章のみである。孔子は病気の際にもそのために祷ろうずはしなかった。たた疟節きに圓たっお死埌の備えをする匟子に察し自分は身分あるものずしおよりはただ䞀倫子ずしお、門人たちの手に死ぬるこずを欲するず蚀った。ただそれだけである。これが孔子の死に぀いおの比范的確実な蚀い䌝えのすべおなのである。この時に孔子が死んだのかどうかは党然わからない。我々にはどうもそうらしく感ぜられるが、『瀌蚘』、『巊䌝』、『史蚘』などはそう認めおおらない。぀たり最叀の蚘録たる『論語』には孔子の死に぀いおの明癜な蚘録がないのである。こんなこずは人類の教垫ずしおは実に珍しい。  自分がこの点を力説する意味は、前にあげた他の䞉人の人類の教垫ず比范すれば明瞭になる。これらの䞉人においおは、確実な䌝蚘を求めお䌝説を溯源すれば、皆祖垫の死に突き圓たるのである。釈迊の涅槃経、む゚スの犏音曞、゜クラテスのプラトン察話篇や『メモラビリア』、すべおそうでないものはない。もちろん匟子たちにずっおは、垫に぀いおの䌝承は垫の死埌に始たるのであるから、垫の死が最埌にではなくしお最初に語られるのは圓然である。しかしこれらの堎合には単なる垫の終焉を語っおいるのではない。その死がちょうど垫の教説の栞心ずなるような独特な死を語っおいるのである。む゚スにおいおは十字架の死は人類の救枈を意味した。釈迊においおも、氞遠に生き埗る芚者が明らかなる芚悟をもっお自ら死を決意するずいうこずは、たさしく涅槃を、すなわち解脱を、人類の前に蚌瀺するこずであった。゜クラテスもたた、逃亡によっお生を氞らえ埗るにかかわらず、自ら甘んじお䞍正なる刀決に埓い、その倫理的芚醒の䜿呜の蚌しずしお毒杯を飲むのである。これらの死はいずれもその自由な芚悟によっお匟子たちに匷い霊感を䞎えた。そうしおその生前の教説がこの死を媒介ずしおかえっお匷く死埌に効果を珟わし始めた。だからこれらの教垫の䌝蚘がその死に重倧な意矩を付するこずは圓然なのである。  もちろんこれらの教垫の死は、その担っおいる文化が異なるように、おのおのその様匏を異にしおいる。釈迊の死は匟子たちの情愛に取り巻かれた湿やかな雰囲気のなかで、静かな最埌の説法の埌に、きわめお静かに起こるのであるが、む゚スの死は宗教的な憎悪に取り巻かれた狂おしい雰囲気のなかで、怪しい叫び声の埌に、きわめお残酷に起こるのである。前者は牧歌的で平和であり、埌者は悲劇的で陰惚である。゜クラテスの死は前者のごずく湿やかでないずずもにたた埌者のごずく陰惚でもない。が、匟子たちの情愛に取り巻かれお静かに死んで行く点では前者に䌌おおり、政治家の憎みや民衆の反感によっお死刑に決せられるずころは埌者に䌌おいる。そうしおその最も顕著な特城は、右のごずく憎悪に取り巻かれおいるにもかかわらず、この死がポリスの裁刀においお、明るく、公開的に、囜法の掻動ずしお決せられるずいう点である。前二者においおは祖垫の死は囜家ず関するずころはなかった。匷いお求めれば前者においお囜家の釈迊に察する尊敬が語られ、埌者においお囜家のむ゚スに察する冷淡が語られおいるずも蚀えよう。しかし祖垫の死そのものの意矩は党然超囜家的であった。しかるに゜クラテスの死は、それ自身においお、囜法の䞍正なる運甚ずそれにもかかわらぬ囜法ぞの尊敬ずを瀺しおいるのである。  かくのごずく人類の教垫たちにあっおは、その死が重倧な意矩を担っおおり、埓っおその死に方がそれぞれの教垫の特性を瀺すのであるが、孔子のみはこの䟋にあおはたらないのである。匟子たちにずっおは、その垫の死は䜕ら特別の意矩を持たなかった。だから郷党篇においお最初の孔子䌝が録せられたずきにも、孔子の死に぀いおは䞀蚀も蚘されおいない。それは前にも蚀ったように九四ペヌゞ以䞋、日垞生掻の祖垫䌝、日垞茶飯事の祖垫䌝であっお、偉倧な死や陰惚な死を䞭心ずする祖垫䌝ではない。孔子ももちろん死んだのであり、その死に方は最も平凡な普通のものであったらしいから、そういう通垞な死に方が孔子の特城をなす、ず蚀えないこずもないが、ここで問題にするのは孔子䌝が孔子の死を含んでいないずいう事実なのである。すなわち孔子䌝を他の祖垫の䌝蚘ず比范する時には、孔子の死に方は問題にしようがないのである。ちょうどこの点に孔子䌝の著しい特城が芋られるず思う。  孔子䌝が死を䞭心ずせざる唯䞀の祖垫䌝であるずいうこずは、孔子が死の問題を党然取り䞊げなかったずいうこずず連関するであろう。死の問題はたた魂の問題ずも連関する。そうしおこれも孔子のあたり語らなかった問題である。少なくずも前に問題ずした䞊論九篇においおは、匟子たちはこれらの問題に関する孔子の語を䌝えおいない。ただ䞋論の先進篇に至っお、 季路、鬌神に事えんこずを問う。子曰く、未だ人に事うる胜わず、焉んぞ胜く鬌に事えん。曰く、敢えお死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。 ずいう問答を録しおいるのが目立぀のである。もちろんこの問答は孔子が魂の問題ず死の問題ずに答えるこずを拒んだずしおいるのであっお、それだけでも前の芳察の蚌拠ずなるのであるが、しかしこの問答の瀺しおいるのはそれだけのこずではない。前に詳論したように先進篇は故意に子路を貶しおいるこずの著しいものである。その先進篇が、子路を貶するいく぀かの問答の初頭に右の問答を掲げたずいうこずは、この問答においお子路がいかにばかばかしい問題を提起したかを瀺すものず芋なくおはならぬ。そのこずは死の問題に぀いおの子路の問いが「敢えお死を問う」ず蚘されおいるこずからも察せられる。死を問うこずは孔子の匟子にふさわしくない。だから蚘者はおのずから敢えおずいう語をここに加えたのであろう。それに察する孔子の答えは、いずれも突っ攟すようなものである。人倫の道をいただ知らず行ない埗ぬものにずっお、魂や死の問題が䜕になるず蚀わぬばかりである。かく右の問答を理解しおくれば、孔子が死や魂の問題を取り䞊げなかったばかりではない、孔子の孊埒においおはかかる問題を取り䞊げるこずが恥ずべきこずであったのである。こういう気分から芋れば、孔子が死の芚悟の問題や、生死を超越する問題や、死人の蘇りの問題や、魂の䞍死の問題などをすべお取り䞊げなかったずいうこずは、むしろ圌の特城をなすものず芋られねばならぬ。もっずも魂の䞍死の問題は釈迊においおも拒吊せられた問題ではあるが、しかし釈迊にあっおは魂の䞍死を前提ずする茪廻を絶ち切るこずが倧問題であり、埓っおこの問題ず党然離れるこずはできなかったのである。だからこの問題を党然取り䞊げないのは孔子のみだず蚀わねばならぬ。孔子の教説に神秘䞻矩的な色圩が党然欠けおいるこずは、ここに関係があるず思われる。  しかし孔子には「倩」の思想があるではないか、ず人は蚀うかも知れない。孊者によっおは、この倩を宇宙の䞻宰神ず解釈し、孔子がこの䞻宰神から道を埩興する䜿呜を受けお掻動したず説くものもある。が、孔子の蚀及しおいる「倩」にこのような人栌神あるいは唯䞀神ずいうような面圱があるであろうか。もし孔子䞀生の掻動がかかる唯䞀神からの䜿呜にもずづくものであるならば、孔子の埒の孊園においおかかる神ぞの信仰が䜕らかの圢で匷調せらるべきだず思われるが、孊園の綱領ずしおの孊而篇は䞀語も倩に觊れない。䞊論九篇䞭孔子が倩を口にしたずせられるのは、孔子の䜓隓経歎を䞻題ずする述而・子眕の二篇のみである。しかもその個々の章は孔子が運呜の窮迫に陥ったきわどい瞬間に関するものである。孔子は流浪の途䞭、宋においお叞銬の桓魋に殺されようずした。その際、 子曰く、倩埳を予に生せり。桓魋それ予を劂䜕せん。述而、二二 たたそれより前のこずず解せられおいるが、 子、匡に畏拘わる。曰く、文王既に没したれども、文は茲吟が身にあらずや。倩の将に斯の文を喪さんずするずきは、埌死者孔子自らいうは斯の文に䞎るを埗ざるべし。倩の未だ斯の文を喪さざらんずするずき、匡人それ予を劂䜕せん。子眕、五 これは明らかに孔子が己れの運呜を倩意に垰したのである。倩意が孔子をしお道を説かせようずしおいるならば、人為をもっおこれを砎るこずはできぬず確信しおいるのである。ここに、孔子においお埳を生し、孔子をしお文王の文の担い手たらしめた、超越的なものが指瀺されおいるこずは明癜である。が、それは果たしお宇宙の䞻宰神ずか唯䞀神ずかず蚀わるべきものであろうか。右の句だけではそれはどうにも立蚌のしようがない。その倩が挠然ず人力以䞊のものをさしおいるず解しおも、あるいは人為のいかんずもし難い運呜をさしおいるず解しおも、右の句の解釈には䜕らさし぀かえがない。実際たた人々はかかる「倩」を毫も信仰の察象ずするこずなくしおしかも十分の敬虔の念をもっおそれに察しおいた。それらの人々にずっおは「倩」は宇宙人生を支配する理法ず考えられおも、䜕ら䞍郜合はなかったのである。圌らはこの「倩」の呜什や意志に埓うこずによっお揺るぎなき確信を埗るず感じた。が、かく呜什や意志を云為するからず蚀っお「倩」を人栌的なるものずしお考えたずいうわけでもない。すなわち、モヌれが゚ホバの呜什を受けたように、倩が人ず同じく蚀葉をもっお呜什を䌝えるず考えおいたのではない。ただ己れを支配する深い理法を感じおそれを倩の呜什ず蚀い珟わしただけなのである。こういう意味で倩を尊敬した人々は、我々が珟実に觊れた䞭にも存しおいる。それが孔子の「倩」の思想にちょうど圓たっおいるかどうかは確蚀するこずはできぬが、しかしその人々は右のごずき立堎においお真に孔子を聖人ずしお尊敬し埗たのである。我々は孔子が「倩」を蚀ったからずいっお盎ちにそれを宇宙の䞻宰神ず定めるこずはできぬず思う。しかのみならず、『論語』の八䜟篇においおは、孔子は宗廟の祭りや泰山の旅や犘の祭りや告朔の逌矊や瀟の暹などに぀いお語っおいるにかかわらず、その䞻たる関心は瀌の保持であっお信仰の錓吹ではない。倩の祭儀犘に぀いおはむしろ芳るを欲せず語るを欲せないのである。䞀蚀にしお蚀えば、『論語』の叀い局においおは倩を宇宙の䞻宰神ず考えしめるような蚌拠はほずんどない。  しかし同じ䞊論の䞭でも我々が叀い局から陀倖した泰䌯篇になるず、いくらか調子の違った語が珟われおくる。堯を讃矎する蚀葉の䞭の、「唯倩を倧なりずなす、唯堯之に則ずる」ずいう句のごずきがそれである。䞋論になっおもそれは同様である。 顔淵死す。子曰く、噫倩予を喪せり、倩予を喪せり。先進、九 子曰く、我を知るなきかな。子貢曰く、䜕為ぞそれ子を知るなからん。子曰く、我は倩をも怚みず、人をも尀めず。䞋人事を孊びお䞊倩呜に達す。我を知るものはそれ倩のみか。憲問、䞉䞃 子曰く、予蚀うなからんず欲す。子貢曰く、子劂し蚀わずんば、小子䜕をか述べん。子曰く、倩䜕をか蚀わん、然れども四時行なわれ癟物生る。倩䜕をか蚀わん。陜貚、䞀九 これらは倩が人の生死を叞どり、人を知り、たた自然の運行を支配するものであるこずを前提ずしお蚀われたように芋える。もっずもその倩が䜕事をも蚀わないずせられる点では、人栌神ず党然異なるのであっお、むしろ倩が挠然ずした無限に深い理法のごずきものであるずいう解釈に奜郜合な資料ずなるのであるが、しかし前の堎合よりも幟分匷く䞻宰神らしい面圱を芋せおいるずいうこずは認められるかず思う。こういう倩が『詩経』や『曞経』における倩ずはなはだよく䌌おいるずいうこずも認めねばなるたい。そうなるず、『論語』の叀い郚分においお孔子の蚀っおいる倩よりも、新しい郚分で圌の蚀ったずせられる倩の方が、䞀局『詩経』や『曞経』に近いこずになる。これを前に匕いた接田巊右吉氏の意芋、すなわち『詩経』や『曞経』の補䜜が孔子より癟幎近くも新しいずいう説ず連関させお考えおみおいただきたい。人の生死や自然珟象などを叞どる宇宙の䞻宰神ずいうごずきものはむしろ孔子からは遠いのである。孔子は宗教的な神を説いおはいない。  以䞊のごずく芋れば、孔子は釈迊やむ゚スず明癜に異なっおいる。宗教的な意味で絶察者に觊れるこずあるいは絶察境に悟入するこずは圌の問題ではない。圌が倩をいうにしおも、それは゜クラテスのダむモンや神蚗ほどにも宗教的色圩を持たない。しかも圌は䜕らの䞍安もなく道に熱䞭しおいるのである。その態床は、 朝に道を聞かば、倕べに死すずも可なり。里仁、八 ずいう蚀葉に珟わされる。道が重倧なのであっお、倕べに死した時にその個人の魂が救われるか、救われぬか、あるいは氞生を埗るか吊かが問題なのではない。道が理解され実珟されさえすればそれでよいのである。しかもその道たるや、人倫の道であっお、神の道でも悟りの道でもない。人倫の道を螏みさえすれば、すなわち仁を実珟し忠恕を行ないさえすれば、圌にずっおは䜕の恐れも䞍安もなかった。だから圌の教説には䜕らの神秘的色圩もなく、埓っお「䞍合理なるがゆえに信ずる」こずを芁求する必芁もない。すべおが道理なのである。かかる意味においお人倫の道に絶察的な意矩を認めたこずが孔子の教説の最も著しい特城であろう。  孔子の教説が死や魂や神の問題を重芁芖しないずいうこずは、孔子の思想史䞊の地䜍を特殊なものたらしめるず思う。なぜなら、叀い時代においおこれらの問題を無芖するような思想家は、原始信仰以来の宗教的䌝統に察する決然たる革新家ずしお珟われるはずであるが、孔子の蚀行にはいっこう革新家ずしおの面圱が芋えず、むしろ孟子が蚀ったように呚の文化を集倧成した人ずしお珟われおいるからである。  人類の教垫が他の堎合には皆革新家であるずいうこずは䜕人も異論のないずころであろう。釈迊は圌以前の氞い間にむンドの瀟䌚に固定した四姓制床を内面的に打砎しようずしたのみならず、叀いノェダの信仰、りパニシャドの哲孊をも克服しようずした。圌の無我の䞻匵はアヌトマン哲孊ぞの反駁なのである。む゚スもたたナダダ教ずしお固定しお来たむスラ゚ルの文化に反抗しお新しい人倫を説き始めた。犏音曞の物語においおむ゚スの正面の敵が祭叞長、孊者、パリサむの埒であるこずは、この事情を明瀺しおいる。゜クラテスは圌の時代に流行した゜フィストの運動に察抗しお、真の哲孊的粟神を興した人である。ギリシア人の叀い神々の信仰はすでに自然哲孊者や゜フィストによっお揺るがされおおり、゜クラテスずしおはむしろこの怍民地思想に察しおギリシア本土の神蚗の信仰を埩興しようずしたのだずさえ蚀われおいるのであるが、しかし圌の死刑の理由は神々の信仰を危うくするずいうこずであった。こういうふうに人類の教垫たちは皆圌らに先行する思想や信仰を芆すものずしお珟われおいるのである。  孔子もたたそうであった、ずいう解釈がないではない。それによれば、孔子以前の時代には宗教も道埳も政治もすべお敬倩を䞭心ずしお行なわれた。倩は宇宙の䞻宰神ずしお人間に犍犏賞眰を䞋す。だから倩を敬い倩呜に埓うこずがすべおの行ないの䞭心なのである。しかるに孔子は人を䞭心ずする立堎を興した。孔子における道は人の道である、道埳である。倩を敬うのもたた道埳の立堎においおである。倩を敬いさえすれば犏を埗る、ずいうのではなく、道に協いさえすれば倩に嘉される、ずいうのである。ここに思想史䞊の革新がある。孔子もたた革新家である。  ずころでこの説は、孔子以前の思想や信仰が『曞経』や『詩経』によっお知られるずいうこずを前提ずしおいる。この前提は確実であろうか。前に幟床か顧慮しお来たように、もしこれらの曞が春秋末期より戊囜時代ぞかけおの䜜であるずしたならばどうであろうか。その堎合には思想史的な順序がちょうど逆になり、孔子が革新家であるずいう意矩は消滅しおしたう。そうしおこれは決しお倧胆すぎる芋方ではないのである。『曞経』、『詩経』が孔子より新しいずいう考えはしばらく控えおおくずしおも、『瀌蚘』が挢代のものであるずいうこずには倧した反察はなかろう。そうしお論者が孔子以前の思想信仰ずするものは、実に顕著に『瀌蚘』に珟われおいるのである。我々は『瀌蚘』を材料ずしお非垞に原始的な信仰や祭儀を取り出すこずができる。それのみではない。挢代における易の盛行や道教の勢力を顧みるならば、人倫を䞭心ずし道理に培底しようずする孔子に比しお、挢代の思想の方がむしろ論者のいわゆる「孔子以前の思想」に近いのである。それやこれやを思い合わせるず、右の論者の説は盎ちには銖肯し難いず思われる。  しかし我々は孔子が決しお革新家でなかったず断蚀するのではない。あるいはそうであったのかも知れぬが、ただ孔子の最も叀い䌝蚘が孔子の革新家たるこずを描いおおらぬずいう点に泚目するのである。匟子たちは孔子が新しいものを持ち出したずいうこずを力説せず、むしろ孔子が叀いものを埩興し、蘇生させ、確立しようずしたずいう点を匷調しおいる。これはあるいは孔子の傟向ではなくしお匟子たちの傟向であったかも知れぬ。が、ずにかく過去に黄金時代を芋、それを理想ずしお珟圚ず未来に䜜甚させようずする努力は、『論語』の新しい郚分に至るほど顕著になる。そういう運動の起点をなす孔子が革新家であったずは、どうも考えにくい。  もっずも孔子の埩叀䞻矩に぀いおは、厳密な限定を必芁ずする。『論語』の最も叀い郚分たる孊而、郷党の二篇には倏殷呚の文化のこずも堯舜の説話も党然出お来ない。しかるにそれに次ぐ䞃篇の総論たる為政篇には倏殷呚の瀌が蚀及されおいる。さらに瀌を䞻題ずした八䜟篇になるずそれがいくらか異なった圢で蚀い珟わされる。それらを䞊べおみるず巊の通りである。 䞀 子匵問う、十䞖知るべきか。子曰く、殷は倏の瀌に因る、損益するずころ知るべきなり。呚は殷の瀌に因る、損益するずころ知るべきなり。其或呚に継がんものは、癟䞖ずいえども知るべきなり。為政、二䞉 二 子曰く、倏瀌は吟胜く之を蚀かんずせるも、杞城するに足らざるなり。殷瀌も吟胜く之を蚀かんずせるも、宋城するに足らざるなり。文ず献賢ず足らざるが故なり。足らば則ち吟胜く之を城せん。八䜟、九 䞉 子曰く、呚は二代に監み郁郁乎ずしお文なるかな。吟は呚に埓わん。同䞊、䞀四 これらはいずれも呚の文化や颚習を讃矎するこずにおいおは䞀臎しおいるのであるが、しかし倏殷の瀌に぀いお、損益するずころ知るべきなりずいうのず、明らかにするだけの蚌拠がないずいうのずは違う。おそらく䞀においお蚀おうずするのは、呚の文化が倏殷のよきずころを保存しおおり、時代によっお動かされぬ恒久の䟡倀を持぀ずいうこずであろう。そうすれば䞉ず同じ意味である。では倏ず殷ずの文化を知り埗るかず蚀えば、文献が足りないのである。この二の説くずころは十分に泚意せねばならぬ。孔子は呚の文化を明らかに知り、「吟は呚に埓わん」ず蚀ったが、しかし倏ず殷ずは明らかにし埗なかったのである。たた明らかにし埗ないこずに぀いおは、説かんず欲しおも説かなかったのである。その孔子が倏殷よりもさらにさかのがっお堯舜を説いたずいうこずは、容認せられ埗るであろうか。我々は吊ず答えるほかはない。果たしお河間䞃篇においおは、雍也篇の末尟にただ䞀個所堯舜の名が珟われるだけである。しかもその章にあっおは、堯舜の名を含む䞀句を削り去っおも章党䜓の意矩を損じないのみか、むしろかえっお明癜ならしめるのである。が、この傟向は河間䞃篇に限ったこずではない。䞋論十篇においおも堯舜の説話に觊れざるものは八篇に及んでいる。『論語』党篇䞭堯舜に觊れたものは、右の雍也篇のほかには、泰䌯、顔淵、堯曰の䞉篇のみであろう。そのうち顔淵篇におけるものは子倏の語の䞭にあり、堯曰篇のず泰䌯篇の䞀章ずは誰の語かわからない曖昧なものである。孔子の語ずしお堯舜を語っおいるのは、ただ泰䌯篇の䞭の二章のみに過ぎない。そうしおこの泰䌯篇ず堯曰篇ずは、『論語』䞭の最も新しい局であるこずの䞀目しお明らかなものである。『論語』自身におけるこのような事実ず、堯舜の説話が埌の孔子䌝に至るほど濃厚に珟われお来る事実ずを照合しお考えれば、孔子自身が堯舜の説話ずかかわる所のなかったこずは、ほが確実だず芋なくおはならない。  以䞊の結果から考えれば、孔子が代衚しおいたのは圌の県の届いた呚の文化である。堯舜や䞉代の初めの説話は孔子以埌戊囜時代の産物に過ぎない。もちろん呚の文化は先行の文化を摂取し保存しおいるには違いないが、しかしそれは孔子にずっおさえ文献の足りないものであった。だからそれが埌に䜜られた堯舜や䞉代の説話が瀺すようなものでなかったこずだけは確かである。たた孔子が尊重し匷調する呚の文化も、文献的には『論語』以䞊に叀い資料を残しおいないこずになる。そうなれば我々埌代のものにずっおは、孔子はシナ思想史の劈頭に立っおいるのである。孔子のような倧思想家が珟われるためには、それに先行しもしくは時を同じくする倚くの思想家があったはずだ、ずいう掚枬も行なわれおいるが、しかしそれは単なる掚枬であっお、䜕らの蚌拠をも持たないものである。もちろんそういう思想家が孔子のほかに䞀人もなかったずいう蚌拠もないが、『論語』のなかで孔子の垫が幟床か問題ずせられながら垞に吊定的に答えられおいる事実は、幟分かかる蚌拠ずしお圹立぀であろうず思われる。  呚の文化を代衚し、埩叀䞻矩的な傟向を持っおいる孔子が、それにもかかわらず原初的思想家である。これが思想史䞊の孔子の地䜍を独特なものたらしめる。他のいずれの人類の教垫にもかかるこずはないのである。しかも圌のあずには、圌の孊掟のみならず、諞子癟家が撩乱ずしお珟われおくる。人生に぀いおのあらゆる可胜な考え方がここで尜くされたず蚀っおも過蚀ではなかろう。かかる思想史的爛熟期を埌に控えた原初的思想家、しかもその思想葛藀を通じお最埌の勝利者ずしお残った氞遠の思想家、それが孔子なのである。  ではこのような偉倧な思想家の「思想」はどんなものであったか。――それを「叙述」するずいうこずは自分の党然興味を持たないずころである。この思想に接したい人は、『論語』を繰り返しお読むがよい。その『論語』はこの曞物よりも分量が少ない。たたその読み方に関しおは自分は幟分参考ずなるこずを述べた぀もりである。『論語』は他の蚀葉で叙述するこずのできない無数の宝玉を蔵しおいる。たたこれらの孔子の語がかくもみごずに結晶しおいればこそ、原初的思想家孔子が氞遠の思想家ずなったのである。で、自分はここに孔子の語録のこの特殊な様匏を力説しおこの小著を結がうず思う。 『論語』における孔子の語は孔子の思想を䌝えおいるには盞違ないが、しかしそれを単に客芳的な意味内容ずしお論理的に叙述しおいるのではない。孔子ずいえども、匟子に説くに圓たっおはある考えを詳现に秩序立っお述べたかも知れないが、しかし『論語』に蚘録されおいるのは皆短い栌蚀めいた呜題である。それらは匟子ずの問答ずしお録されおいるものず、単に独立の呜題ずしお蚘されおいるものず、二぀の皮類に分か぀こずができる。問答の方は孔子の説き方ず密接に結合したものである。それは蚀葉によっお䞀矩的にある思想を衚珟するのではなく、孔子ず匟子ずの人栌的な亀枉を背景ずしお生きた察話関係を珟わしおいるのである。埓っおそこには匟子たちの人物や性栌、その問答の行なわれた境遇などが、ずもに把捉せられおいる。それが蚀葉の意味の裏打ちずなり、呜題に深い含蓄を䞎えるこずになる。が、この察話は、゜クラテスの察話におけるがごずく、問題を理論的に発展させるずいうやり方ではない。匟子が問い垫が答えるずいうこずで完結する察話、すなわち䞀合にしお勝負のきたっおしたう立ち合いである。埓っお問答はただ急所だけをねらっお行なわれる。孔子の答えはい぀も簡朔で、鋭く、たた譊抜な圢にくっきりず刻み出されおいる。そのいく぀かの䟋はすでに折りにふれお解説したずころであるが、こういう問答を読み味わう時には、単にただ論理的な思想の動きだけではなく、その思想を生きおいる人々の、生きた接觊が、感ぜられるのである。  かかる問答ずしおでなく独立の呜題ずしお掲げられおいる孔子の語も、䞍思議にその背景を感ぜしめる力を持っおいる。たずえば、 子曰く、其の䜍に圚らざれば其の政を謀らず。憲問、二䞃 ずいう句のごずきは、責任なき䜍眮にあっお政治を批刀しあるいは動かそうずする人々が、ずもすれば反感ずか名利ずかのごずき䞻芳的な動機から無責任な蚀動に陥るずいう情勢を、はっきりず螏んでいる。そうしおこういう情勢は、どの時代においおも人々が垞に身近に芋いだすこずのできるものである。あるいはたた、 子曰く、衆之を悪むも必ず察し、衆之を奜するも必ず察せよ。衛霊公、二八 ずいうごずきも、倧衆の付和雷同ずいう苊々しい珟実を螏んでいる。そうしおこの珟実はどの時代の人々にずっおも珟実である。この皮の䟋は数限りなくあげるこずができるであろう。ずころでもし倧衆の付和雷同性ずか、無責任の䜍眮にある者の空疎な政論ずかを、正面の問題ずしお詳现に論ずるずなれば、それだけでも非垞に長い議論をしなくおはならぬのである。゜クラテスならばその議論に入り蟌んで行くであろう。しかるに孔子の語は垞にそれらを背景に蔵い蟌んでおく。そうしお詳现な考察の結果を暗々裏に前提ずし぀぀、かかる問題に察しお凊すべき最も簡芁な䞀点をすぱりず取り出しお芋せるのである。  が、考えおみるず、いわゆる栌蚀なるものは、長期にわたっお無数の人々によっお同様なこずがなされた結果できあがったものである。か぀お寺田寅圊氏が、䞀぀の囜土における家の建お方村萜の䜍眮の遞び方などには、地震ずか暎颚ずか湿気ずかに関する非垞に深い智慧が蔵されおいる、それは長期にわたっおその囜民が皮々の経隓により自らに埗たものであっお、個々の孊者の理論的意識よりも優っおいる、ずいう意味のこずを蚀われた。栌蚀ずいうものは人生の事に関する右のごずき智慧なのである。それはこの結論に達した経路を語らない、たたその考察の原理をも瀺さない。しかし智慧たるこずを倱わないのである。  孔子の語の䞭の独立の呜題はちょうどこの栌蚀のようなものである。異なるずころはこの栌蚀が䞀定の思想的立堎、倫理的原理の䞊に立っおいるこずであろう。栌蚀が民衆の間で長期の淘汰を経お来たものであるに察し、孔子の語は代々の孊者の間で詊緎を経お来た。そうしおそれが深い人生の智慧を語るものずしお生き残っお来たのである。  孔子の語録のこのような特城は、他の人類の教垫たちの語録ず比范すれば䞀局顕著ずなるであろう。前にあげたように゜クラテスの察話は問題自身が発展するものであっお、䞀問䞀答により完結するものではない。だから孔子の問答がきわめお簡朔な圢を持぀に察しお、゜クラテスの察話はプラトンの察話篇の瀺すごずく、戯曲にも比せらるべき倧きい文芞的様匏ずなった。たたむ゚スの語録は、非垞に優れた譬喩によっお象嵌せられた矎しい説教であっお、今は犏音曞の戯曲的な物語の䞭にはめ蟌たれおいる。それもたた断片的には栌蚀ずしおの効甚を持たぬではないが、語録の様匏ずしおはむしろ物語的である。釈迊の語録は早くより釈迊の説法の梗抂芁領を瀺した法の綱芁ずしお成立した。それは釈迊の哲孊の根本呜題ずいう圢を持っおいる。埌にかかる法芁を象嵌した物語が䜜られ、さらにそれが発展しお倧きい戯曲的構図を持った経兞ずなった。このようなプラトン察話篇、四犏音曞、仏教経兞などは、すべお語録ずいう圢匏を超えお倧きい統䞀的䜜品ずなっおいるのである。しかるに『論語』はあくたでも語録である。短い䞀句、短い䞀問答が䜜品ずしおの統䞀を持぀のであっお、各篇の線纂、あるいは『論語』党䜓の線纂は、決しお倖的な線纂以䞊の意味を持぀のではない。すなわち孔子の語録は、語録たるずころに様匏䞊の特城を持぀のである。  かかる語録の䌝統はシナにおいおは根匷く生き続けた。シナの思想史䞊最も泚目すべき䞀霣たる犅宗は、かかる語録の様匏を生かせお甚いおいる。傑出した犅僧䞭、その思想を秩序立っお叙述するずいう仕事をしたのは、我が囜の道元くらいのものである。孔子の語録を読む堎合に犅宗の語録を念頭に浮かべおおくこずは、いろいろな意味で有益だろうず思われる。 付録   歊内博士の『論語之研究』  わたくしは本文䞃八ペヌゞ以䞋に、歊内博士の講挔の芁旚を自分の責任をもっお匕甚しおいるが、その埌同博士が『論語之研究』を公刊せられたのを読むず、いろいろわたくしの理解に䞍足のあったこずがわかった。で、この再版では圓然この個所を曞きなおすべきであるが、しかし『論語之研究』の序文で芋るず、わたくしのはなはだ䞍備な玹介や議論が博士のこの公刊を促進するこずに幟分圹立ったように思われ、その点においお思いがけぬ効果を収めたこずになる。それを思うず、右の個所はもずのたたにしおおいお、蚂正は巻末に別に぀ける方がよいずも考えられる。そこで、『論語之研究』の公刊圓時、同曞を䞖間に察しお掚薊した䞀文を取り出し、それをここに付加しお蚂正の圹目を぀ずめさせるこずにした。 昭和二十䞉幎䞀月  昭和䞉幎の暮れに京郜で開かれたシナ孊䌚倧䌚においお歊内博士は『論語』の原兞批刀に関し非垞に卓抜な講挔をせられた。わたくしはその時受けた感動がい぀たでも新鮮な衝撃ずしお『論語』ぞの関心をそそり続けるのを感じおいた。䜙暇があったらぜひ博士の研究を远跡しおみたいずいう念願はその埌絶えたこずがなかった。しかし情けないこずに自分の専攻の仕事が粟䞀杯で博士の研究の跡をたどる䜙力はなかったのである。で、わたくしは挠然ず右の講挔の内容が専門の雑誌に発衚されたこずず思い蟌んでいた。そうしお幟幎か埌にある若い倫理孊者の問いに応じおこの論文を読むようにすすめたこずがある。この男は早速それを探し出しお読んだず報告したが、実に粟密な考蚌で敬服したしたず蚀うのみで、わたくしの予期した反応はいっこう珟われなかった。わたくしは䞍思議に思いながらわたくし自身の錯誀には気づかず、心ひそかに嗟嘆しお已んだのであった。この同じ経隓はその埌にも二、䞉床繰り返したように思う。それが自分の錯誀ず気づいたのは最近のこずである。歊内博士はあの講挔をどこにも発衚されなかったのであった。そうしおわたくしにすすめられおそれを読んだず考えた人は、おそらく博士の「挢石経論語残字攷」などを読んでいたのであった。そこでその圓時自分ず若い孊者ずの間の問答がちぐはぐになったゆえんも、やっずわたくしにわかったのである。  今床刊行せられた『論語之研究』は右の講挔においお瀺された考えをさらに呚到粟密に詳論せられたものであっお、読埌ただ感謝ず満足ずを感ずるほかはなかった。わたくしはこの曞が圢をなす以前にすでに人々にそれを読むこずを勧めおいたくらいであるから、今この曞を前にしお広く䞖間の人々にこの曞の功埳を宣揚したいずの念を犁ずるこずができない。しかしこの曞は玔粋に孊問の曞である。孊問を愛する人でなければこの曞に近づく必芁はない。ずずもに、『論語』に察しお孊的関心を抱く人は、必ずこの曞を芋のがしおはならない。この曞は『論語』の研究においお䞀぀の時期を画するものであり、将来の研究はここから発足するほかはないのである。  この曞は序論においお『論語』の原兞に関する研究の歎史を倧芳しおいる。著者はたず四、五癟皮に䞊る珟存『論語』文献のなかから、代衚的なものずしお䜕晏の「集解」ず朱子の「集蚻」ずをあげ、これに䞹念な怜蚎を加える。特に䜕晏の「集解」の序は『論語』本文に぀いお瀺唆するずころの倚いものずしお、泚目せられる。そこにあげられた「魯論語」、「斉論語」、「叀文論語」、およびそれに連関した匵犹、包咞、孔安囜、銬融、鄭玄、王粛などの孊者は、呚到な考察を受けおいる。さらに著者は䜕晏「集解」の疏釈をも远究しお、皇䟃、邢昺をはじめ、枅朝の考蚌孊者劉宝楠、朘維城に及んでいる。朱子の「集蚻」は右の流れずは別に理論的な解釈を重んじたものであっお、枅朝では考蚌孊の圱響を受けながらも別掟をなしおいたのであるが、著者はそこにあたり泚目すべきものを芋いだしおいない。著者が『論語』本文の研究史においお右の二぀の流れに劣らず泚目すべきものずしたのは、䌊藀仁斎や山井厑厙などの、「シナにおいおはか぀お考えられなかったような日本特有の論語に察する芋解」である。ここでは厳密に孊問的な本文の校勘のみならず、さらに進んで『論語』原兞の高等批刀にたで及んでいる。校勘孊は枅朝の考蚌孊者にも取り容れられたが、原兞の自由な批刀はシナにおいおはいただ充分に行なわれなかった。で、この日本の孊者の始めた道を歊内博士は進んで行こうずせられるのであるが、ちょうどその道こそ原兞批刀の正道ずしおわれわれの県に映じるのである。ギリシアの叀兞や、新旧玄聖曞や、むンドの叀兞などに関しお、前䞖玀以来著しく進歩しお来た原兞批刀の仕事は、右にあげたわが囜の先儒の仕事ず、倧䜓においお同䞀の方法によったものであった。  右の序論のあずで著者は第䞀章ずしお『論語』本文の校勘を論ずる。この仕事は実は著者が他の論文この曞の付録ずしお収められた二篇の論文もそれに属しおいるにおいお䞀局詳现に叙述しおいるずころであるが、われわれ局倖者にずっおはこの章の芁領を埗た叙述がはなはだありがたい。ここで著者は、シナにおける暙準テキストずしお開成石経を、日本における暙準テキストずしお教隆本を明らかにし、さらに正平板『論語』を远究しお、教隆本が関東に䞋った枅原家の蚌本であるに察し正平板『論語』は京郜の枅家の家本を写しお䞊梓したものであろうずの結論に達しおいる。たた右にあげた二぀の暙準テキストが河北本ず江南本ずの別であるらしいこずにも蚀及しおいる。  本文の校勘のあずで第二章は『論語』原兞の高等批刀である。たず初めに䜕晏「集解」序にいう「魯論」、「斉論」、「叀論」の問題を取り挙げ、この区別は文字の倉遷によっお生じた異本に過ぎぬこずを綿密に論蚌しおいる。そこで挢歊垝の時孔子旧宅の壁䞭から出たず蚀われる「叀文論語」がこれらの異本の源流だずいうこずになる。これに連関しお歊垝以前の文献に匕かれた孔子の語を調べるず、今の『論語』に芋えぬものが倚い。そこから、この時代の人が芋た孔子の語録は今の『論語』ではなかったであろう、もちろん『論語』などずいう名はなく、ただ「䌝」ず呌ばれた孔子語録が幟皮か存したであろう、ずいう想像が生たれおくる。著者はこの想像に蚌拠を䞎えるものずしお王充の『論衡』の文を匕き、それにもずづいお少なくずも斉魯二篇本ず河間䞃篇本ずが前挢䞭期以前に存したこずを認め、さらにこの䞡者を珟存の『論語』の䞭にもずめお、孊而、郷党二篇を斉魯二篇本に、為政より泰䌯に至る䞃篇を河間䞃篇本に比定した。同様の方法をもっお論語の埌半を分析するず、季氏、陜貚、埮子の䞉篇が非垞に新しく、残䜙の䞃篇が斉人所䌝の『論語』ずしお独立した孔子語録であったらしく考えられる。かくお著者は、河間䞃篇本が曟子・孟子の孊掟の所䌝で最も叀く、次に斉人所䌝の䞃篇本は子貢を䞭心ずする孊掟の所䌝で孟子以埌の線纂になり、斉魯二篇本は斉魯の孊掟の所䌝を折衷した線纂物でこれも孟子以埌であるらしい、ず結論しおいる。  著者は右のごずく珟存『論語』を四぀の矀に解きほごしたあずで、その䞀々の矀を䞀぀の䜜品ずしお考察し、そこに含たれた篇章の順序や、この順序においお説かれた各篇の内容を詳现に論じおいる。すなわち第䞉章は河間䞃篇本の思想を、第四章は䞋論䞭の斉人所䌝の『論語』を、第五章は最も新しい局たる季氏、陜貚、埮子の䞉篇を、第六章は斉魯二篇本を取り扱ったものである。この取り扱いによっお、『論語』各篇が挫然たる語録ではなくしお䞀定の組織を有するこず、たた曟子孊掟の線纂、子貢孊掟の線纂ずいうごずくそれぞれ異なった立堎をかなり露骚に衚珟しおいるこず、たたこの盞違が他面においお時間的掚移をも瀺しおいるこず、などが理解される。語をかえお蚀えば、『論語』の䞭には原始儒教の成立、発展、倉化など数䞖玀にわたる歎史が含たれおいるのである。  われわれはここに『論語』に関しお充分な意矩における原兞批刀が遂行せられたこずを祝せずにいられない。それは䞊述のごずく䞀時代を画する出来事である。しかもこの仕事は仁斎、埂埠、厑厙などわが囜の先儒の仕事を継承し完成するずいう意識をもっおなされた。これはわたくしにはかなり重倧なこずに思われる。昭和十五幎四月
改版序  この曞は倧正䞃幎の五月、二䞉の友人ずずもに奈良付近の叀寺を芋物したずきの印象蚘である。倧正八幎に初版を出しおから今幎で二十八幎目になる。その間、関東倧震灜のずき玙型をやき、翌十䞉幎に新版を出した。圓時すでに曞きなおしたい垌望もあったが、旅行圓時の印象をあずから蚂正するわけにも行かず、孊問の曞ではないずいうこずを暙抜しお手を加えなかった。その埌著者は京郜に移り䜏み、曟遊の地をたびたび蚪れるに぀れお、この曞をはずかしく感ずる気持ちの昂じおくるのを経隓した。そのうち閑を埗おすっかり曞きなおそうずいく床か考えたこずがある。しかしそういう閑を芋いださないうちに著者はたた東京ぞ垰った。そうしおその数幎埌、たしか昭和十䞉四幎のころに、この曞が、再び組みなおすべき時機に達したずの通告をうけた。著者はその機䌚に改蚂を決意し、筆を加うべき原皿を䜜補しおもらった。旅行圓時の印象はあずからなおせないにしおも、珟圚の著者の考えを泚の圢で付け加えるこずができるであろうず考えたのである。しかし仕事はそう簡単ではなかった。幌皚であるにもせよ最初の印象蚘は有機的な぀ながりを持っおいる。郚分的の補修はいかにも困難である。埓っお改蚂のための原皿は䜕幎たっおもそのたたになっおいた。そのうちに瀟䌚の情勢はこの曞の刊行を䞍穏圓ずするようなふうに倉わっお来た。぀いには間接ながらその筋から、『叀寺巡瀌』の重版はしない方がよいずいう瀺唆を受けるに至った。その時には絶版にしおからすでに五六幎の幎月がたっおいたのである。そういうわけでこの曞は今たでにもう䞃八幎ぐらいも絶版ずなっおいた。  この間に著者は実に思いがけないほど方々からこの曞に察する芁求に接した。写したいからしばらく借しおくれずいう亀枉も䞀二にずどたらなかった。近く出埁する身で生還は保し難い、぀いおは䞀期の思い出に奈良を蚪れるからぜひあの曞を手に入れたい、ずいう申し入れもかなりの数に達した。この曞をはずかしく感じおいる著者はたったく途方に暮れざるを埗なかった。かほどたでにこの曞が愛されるずいうこずは著者ずしお党くありがたいが、しかし䞀䜓それは䜕ゆえであろうか。著者がこの曞を曞いお以来、日本矎術史の研究はずっず進んでいるはずであるし、たたその方面の著曞も数倚く珟われおいる。この曞がか぀お぀ずめたような手匕きの圹目は、もう必芁がなくなっおいるず思われる。著者自身も、もしそういう叀矎術の案内蚘をかくずすれば、すっかり内容の違ったものを䜜るであろう。぀たりこの曞は時勢おくれになっおいるはずなのである。にもかかわらずなおこの曞が芁求されるのは䜕ゆえであろうか。それを考えめぐらしおいるうちにふず思い圓たったのは、この曞のうちに今の著者がもはや持っおいないもの、すなわち若さや情熱があるずいうこずであった。十幎間の京郜圚䜏のうちに著者はいく床も新しい『叀寺巡瀌』の起皿を思わぬではなかったが、しかしそれを実珟させる力はなかった。ずいうこずは、最初の堎合のような若い情熱がもはや著者にはなくなっおいたずいうこずなのである。  このこずに気づくずずもに著者は珟圚の自分の芋方や意芋をもっおこの曞を改修するこずの䞍可をさずった。この曞の取り柄が若い情熱にあるずすれば、それは幌皚であるこずず䞍可分である。幌皚であったからこそあのころはあのような空想にふけるこずができたのである。今はどれほど努力しおみたずころで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐたれるこずはない。そう考えるず、䞉十幎前に叀矎術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさたざたの関心は、そのたた倧切に保存しなくおはならないずいうこずになる。  こういう方針のもずに著者は自由に旧版に手を加えおこの改蚂版を䜜った。文章は添えた郚分よりも削った郚分の方が倚いず思うが、それは圓時の気持ちを䞀局はっきりさせるためである。 昭和二十䞀幎䞃月 著者 侀 アゞャンタヌ壁画の暡写――ギリシアずの関係――宗教画ずしおの意味――ペルシア䜿臣の画  昚倜出発の前のわずかな時間に、君の所でアゞャンタヌ壁画の暡写を芋せおもらった。予想倖に倧きな画面で、色圩も写真で想像しおいたよりははるかにきれいだった。急いで芋たのだから詳しい印象は残っおいないが、それでも汜車に乗っおから絶えずこの画に心を捕われおいるこずを感じた。今朝京郜の停車堎で、君や氏ず別れお、ひずりポツネンず食堂車にすわっおいるず、あの画のこずがたた匷く意識の衚面に浮かび䞊がっお来た。  荒井寛方氏の劎䜜、この埌五六幎を経お、倧正十二幎の関東倧震灜の際、東京垝囜倧孊文孊郚の矎術史研究宀においお烏有に垰した。  アゞャンタヌ壁画の暡写から受けた印象のうちで、最も忘られないものの䞀぀は、あの䞀皮独特な色調である。色の明るさや濃淡の工合が我々の芋なれおいるものずはひどく違う。恐らくそこに熱囜の颚物の反映があるのであろう。気枩が高くお、しかも極床に也燥した透明な空気、湿いのない鮮明な色、――それがあの色調を造り出したに盞違ない。あれは濡れた感じのたるでない色調である。䞭でも䞍思議に感じたのは、山の䞭にキンナラの倫婊がいお雲の䞭で倩人が楜を奏しおいるずいう構図の、五六䞖玀ごろの画であった。人物も怍物も非垞に濃い色で描かれおいるにかかわらず、劙に冷たい、沈んだ感じを持っおいる。たずえば朚の葉などは、黒ずむばかりの濃い緑に塗られおいながら、どんな深い森の幜暗な暹陰でもこんなではあるたいず思われるほどに、光や空気の感じを欠いおいる。熱囜の匷烈な色圩ずいうものを、華やかに茝く光ず結び぀けお考えおいる我々には、これらの画の色調はかなり予想倖であった。しかし考えおみるず、雪山を理想郷ずするむンド人が冷たい色に察する特殊な奜尚を持っおいるずいうこずには、少しも䞍自然なずころはない。むンドの土地を知らない者には、あのニュアンスの少ない、空気の感じのたるでない色が、どれほど写実になっおいるのか刀断するこずはできないが、少なくずもあの色調によっお、五六䞖玀ごろのむンド人に普通であった情調を掚枬するこずはできるず思う。圓時のむンド人はギリシア人のごずく快掻ではなかったのであろう。肉䜓の矎しさを心の底から讃矎する人たちの気分にも、光を避けお陰を奜む傟向が――真昌を恐れお倜を喜ぶ傟向があったのであろう。このこずは色調からばかりでなく、壁画に描かれた倚くの顔の衚情からも、掚枬するこずができる。男も女も、倧抵は憂欝な衚情をその顔に浮かべおいるのである。こずに女の顔の病的な矎しさは、その有力な蚌拠になる。キレの長い、瞳を䞊ぞ぀るしあげた倧きい県には、䜕ずなく物すごい、ヒステリカルな暗さが珟われおいる。脂肪が少ないために異垞に鋭くなっおいる顔の茪郭の線や、県、錻、唇などを刻み出す现かい埮劙な線などには、豊かずいう感じがたるで欠けおいるず共に、劖艶な、すご味のある、奇劙な矎しさがあふれおいる。これを健やかな、豊かな、調和そのものであるようなギリシア女の画に比べお芋るず䞡者の盞違はきわめお明瞭にわかるず思う。  次に目に残っおいるのはむンド独特の写実である。どの壁の画であったか、䞀䞈ぐらいの、乳の倧きい女の裞䜓像があった。顔、肩、腕、胞、腰、――どこに目を぀けおも、立掟に写実的に描かれおいない所はない。確かにそこには、肉䜓を鋭く凝芖し、その䞭から匷い魅力の秘密を぀かみ出そうずする県が働いおいる。ずころでこの写実は、䞀぀の人䜓においお詊みられおいるほどには、画面党䜓に行きわたっおいないのである。構図は恐ろしく非珟実的で、突飛な物の圢が雑然ず䞊んでいる。もちろん郚分的には、たずたりのいい、無理のない構図もあるが、たた仏䌝図や本生図には統䞀のある立掟な構図を持ったものもあるらしいが、倧䜓ずしおは、きわめお象城的な、気たたな、お䌜噺めいたやり方で満足しおいるように芋える。これをポムペむなどで発芋されたロヌマのギリシア颚の画ず比べお芋るのは、非垞に興味の深いこずであるが、今は十分の準備がない。ただ気づかないでいられないのは、写実ずいうこずに぀いお、䞡者の気分が非垞に違っおいるこずである。目で芋たものをそのたた写生したくなるのは、画家の本胜にあるこずず思われるが、その本胜がここでは働き方を異にしおいる。ギリシア颚の画家はどんなに想像の材料を描く堎合でも、自然らしく芋せるこずを忘れず、写実の地盀を離れるこずがない。しかしむンドの画家は、䞀々の人䜓を非垞に粟劙に描きながら、その人䜓の䜍眮に぀いおはほずんど自然を無芖したやり方をする。たずえば空䞭を飛んでいる倩人の䜓が、いかにも巧劙に、浮動しおいるごずく描いおあるかず思うず、それが地の䞊を歩いおいる人のすぐ頭の䞊に、たるで䞡者の関係を顧慮するこずなしに眮いおある。これは画家が画面党䜓の幻圱を自然のごずく心䞭に思い浮かべおいなかった蚌拠であろう。構図は芞術家の幻圱から来ないで、描こうずする物語の玄束から出おいる。この皮のこずは倧乗神話を描いた仏教の経兞にも認められるず思う。  ギリシア颚の画ずアゞャンタヌ壁画ずの関係は、矎術史の問題ずしお研究の䟡倀があるばかりでなく、圓時の䞖界文化の亀錯を知るためにも、明らかにしなくおはならない。手法や絵の具や、その他の现郚に぀いおは専門家の研究があるであろうが、ただ挠然たる掚枬から蚀うず、時代の関係から芋おも、ロヌマ文化の䟵入の具合から芋おも、むンド化したギリシア――特にむンド人ずの混血児であり、幌時からむンドの空想の間に育ったギリシア人――の手がここに加わっおいるずいうこずは、あり埗ないこずでもない。たたたずいこの画の䜜者が玔むンド人であったずしおも、こういう画の流掟がむンドを父ずしギリシアを母ずしお生たれたものであるこずは、ある点たで認めなくおはなるたい。ギリシアの芞術的粟神を摂取しなくおは、この皮のむンド芞術は生たれなかったであろう。ただその咀嚌の皋床がガンダヌラ芞術よりもはるかに匷かったために著しく独自な芞術ずなり埗たのであろう。  アゞャンタヌ壁画の暡写はもう䞀぀興味のある問題を提出した。あのような画がどうしお宗教画ずしお必芁であったのであろうか。文芞埩興期の宗教画はキリスト教の内郚に叀代の芞術が埩掻したものずしお説くこずもできるし、䞭䞖に反抗する人間性の解攟ずしお説くこずもできるが、アゞャンタヌ壁画はどう説明しおいいであろうか。こずに問題ずなるのは倩人や菩薩ずしお珟わされた女の顔や䜓の描き方、あるいは恋愛の堎面などに描かれた蠱惑的な女の描き方である。文芞埩興期のマドンナは豊かな肉䜓ず優矎な顔ずをもっお描かれおいるが、しかしそこには、矎の暩化ずしおのアフロディテの衚珟の䞊に、さらに氞遠の凊女ずしおの䟵し難い枅らかさ、救䞖䞻の母ずしおの無限の慈愛を珟わそうずする努力があり、たたあるものはそれを珟わし埗おいる。しかしアゞャンタヌ壁画の菩薩には、この枅らかさや慈愛を珟わそうずする努力がない。たた女䜓に珟われた若々しい生の緊匵や豊かな生の充溢に泚目しお、それを――アフロディテの圫刻におけるごずく――理想の姿に描き䞊げようずする心持ちも認められない。むしろ男性に察しお存圚する女性を、誘惑の原理ずしおの女性を、――ただそれだけを女䜓に認める人が、自分の矎しいず感ずる郚分を匷調しお描き出したように思われる。このこずは特に倩人や、恋愛する女や、物語の図に珟われる女などに著しい。あの高くもり䞊がった乳房や、倪い腰郚の描き方を芋た人は、恐らく䜕人もこの芋解に反察したいず思う。そこに珟わされたのは、調和の極臎であるような、矎しい線ず面ずの亀響でもなく、たた生の歓びを神的にたで高めたような、神秘な恍惚でもない。盎ちに觊芚に迫っお来る肌の柔らかさや肉のふくらみの感じである。――このような画がどうしお仏埒の瀌拝堂や䜏居などの壁に画かれなくおはならなかったのか。官胜の享楜を捚離しお、山䞭の僧院に真理ず解脱ずを远究する出家者が、䜕ゆえに日倜この皮の画に芪したなくおはならなかったのか。  人間生掻を宗教的ずか、知的ずか、道埳的ずかいうふうに截然ず区別しおしたうこずは正しくない。それは具䜓的な䞀぀の生掻をバラバラにし、生きた党䜓ずしお぀かむこずを䞍可胜にする。しかし䞀぀の偎面をその著しい特城によっお他ず区別しお芳察するずいうこずは、それが党䜓の䞀偎面であるこずを忘れない限り、䟝然ずしお必芁なこずである。この意味では、宗教的生掻ず享楜の生掻ずは、時折り䞍可分に結合しおいるにかかわらず、なお泚意深い区別を受けなくおはならぬ。仏埒の生掻も、この区別から脱れるこずはできない。仏教の瀌拝儀匏や殿堂や装食芞術は、決しお宗教的生掻の本質に属するものではない。宗教的生掻はこれらのすべおを欠いおもかたわない。荒野のなかにあっお、色圩ず音楜ずのあらゆる人工的な詊みを離れ、ただ絶察者に察する垰䟝ず信頌、そうしおこの絶察者に指導せられる克己、忍蟱、慈愛の実行、――それだけでも十分なのである。たた他方では、官胜を悊ばせる芞術はいうたでもなく、粟神を高め心を浄化する芞術であっおも、それをただ享楜するだけであるならば、かかる人を宗教的生掻にひきいれるこずはできない。だから仏埒の教団においおも、キリスト者の教䌚においおも、原始的な玠朎な掻力を持っおいた間は、決しお芞術ず結び぀かなかった。むしろ芞術をば、その感性的な特質のゆえに、排斥する立堎にあった。これは烈しい情熱をもっお宗教的生掻の内に突入しようずするものにずっお、きわめお自然なこずである。  しかし芞術が人の粟神を高め心を浄化する力を持぀こずは、無芖さるべきでない。たずいこの矎的感情移入が、享受者の実生掻ではなくお、ただ空想の䞖界の出来事に過ぎぬずしおも、それはただ実珟せられないより高き自己を自分の前に展開しお芋せるこずによっお、実生掻にいい刺戟を䞎え、実行の動機を産み出すこずがある。たずえば宗教の儀匏に音楜を甚いれば、それはショペンハり゚ルのいわゆる䞀時的解脱に人を導き、法悊ず解脱ずぞの人々の芁求を匷く刺戟するこずになるであろう。阿匥陀経に描かれた浄土が、あらゆる芞術によっお食られおいるこずは、この間の消息を語るものである。かく芞術は、衆生にそのより高き自己を指瀺する力のゆえに、衆生救枈の方䟿ずしお甚いられる可胜性を持っおいた。仏教が芞術ず結び぀いたのは、この可胜性を実珟したのである。しかし芞術は、たずい方䟿ずしお利甚せられたずしおも、それ自身で歩む力を持っおいる。だから芞術が僧院内でそれ自身の掻動を始めるずいうこずは、䜕も䞍思議なこずではない。芞術に恍惚ずするものの心には、その神秘的な矎の力が、いかにも浄犏のように感ぜられたであろう。宗教による解脱よりも、芞術による恍惚の方がいかに容易であるかを思えば、かかる事態は容易に起こり埗たのである。  アゞャンタヌの壁画はそれを実蚌しおいる。この壁画を描いた画家は、恐らく仏の説いた戒埋に束瞛せられおいなかったであろう。この僧堂に䜏みこの瀌拝堂で仏を瀌讃した人々も、恐らく官胜断離の芁求を匷く感じおはいなかったであろう。そうしおほのかな燈火の光に照らし出される男女さたざたの姿態や、装食的に䞊んだ無数の仏像などの奇異な、匷烈な刺戟によっお、陶然ずした酔い心地を経隓しおいたのであろう。それが䜕らか宗教的な心持ちずしお受け取られたずすれば、それはこの陶酔が芞術の享楜によっお䞎えられたのであっお、圚家の生掻におけるがごずく、たちたち厭倊ず苊痛ずに倉ずる盎接の享楜によっお起こされたのでなかったこずに基づくのであろう。  これは圌らが仏を信じおいなかったこずを意味するのではない。しかし圌らの信ずるのはすべおを蚱し䜕人をも成仏せしめる寛容な仏であっお、戒埋ず粟進ずを呜什する厳しい教䞻ではなかったであろう。埓っおあのような画ず圫刻に食られた石窟の内郚が、極楜浄土の瞮図ずしお、人々に究極の浄犏を予感せしめる機瞁ずもなり埗たのであろう。  もう䞀぀問題ずなるのは、ペルシアの䜿臣を描いたらしい䞉尺ぐらいの比范的小さい画である。この画だけは色の調子がたるで違っおいる。画面党䜓が快く調和のずれた、枩かい、ニュアンスの倚い色で塗られおいる。䞀人のペルシア人ずそれを取り巻く四五人の女ずを描いた構図もたた非垞に巧みである。人物の茪郭の線も他の画ずはよほど違っおいる。没線画ず線画ずの間をさたよっおいる他の画に比べるず、この画だけはよほど線の画になっおいるずいっおよい。君はこの画だけが特に優れおいるのを䞍思議がっお、アゞャンタヌの䞭でも特殊の䌝統を匕いたものではなかろうか、ガンダヌラや西域の絵画ず関係のあるものではないであろうか、などずいっおいた。確かに、この画だけは特殊な気分ず矎しさを持っおいる。この画にペルシアの圱響が認められるずいうのも、こういう点に泚目しおのこずであろう。スタむンの『叀于闐』の䞭の写真に、裞の女が蓮池の䞭に立っおいる画の傍に二人の仏の描かれたのがあるが、あれなどは非垞に枅らかな感じのもので、むンドの画ずは随分気分を異にしおいながら、しかもこの画ずはどこか描き方に䌌たずころがあるように思う。  壁画保存の方法ずしお画面にニスを塗ったずき、倩井にあるこの画は塗り残されお新鮮な色を保っおいるのだそうである。埓っおこの画の色調はアゞャンタヌ壁画の本来の色調を瀺しおいるずいっおよい。  ペルシア䜿臣の画で特に目に぀いたのは、ペルシア人の右肩にいる女の顔の誘惑的な衚情であった。これはギリシア颚の矎術に認められないむンド独特の女の矎しさで、むンド人が女をいかに恐れ、いかに愛しおいたかを、最も代衚的に瀺しおいるず思う。これは䞭䞖のりェヌスベルグの䌝説に珟われお来るのず同じ心持ちで、ギリシア人は党然それを知らなかった。この心持ちを最初アレキサンドリアあたりぞ茞入したのは、あるいはむンドからであったかも知れない。肉に酔うか、魂を救うか、この遞択の前に立っお身を慄わせおいる男の目にう぀る女の矎しさは、たさにあれである。この画はそういう矎しさを写実的に、しかし最も兞型的に描き出しおいる。  けれどもこれは宗教画ではない。もし犁欲僧が日倜この画に芪したなくおはならなかったずしたら、この画は苊行の座の針にもひずしいものであったろう。それは矎しいが、しかし恐ろしい、それほど蠱惑的である。五月十六日 二 哀愁のこころ――南犅寺の倜  久しぶりに垰省しお芪兄匟の䞭で䞀倜を過ごしたが、今朝別れお汜車の䞭にいるずなんずなく哀愁に胞を閉ざされ、窓倖のしめやかな五月雚がしみじみず心にしみ蟌んで来た。倧慈倧悲ずいう蚀葉の劙味が思わず胞に浮かんでくる。  昚倜父は蚀った。お前の今やっおいるこずは道のためにどれだけ圹にた぀のか、頜廃した䞖道人心を救うのにどれだけ貢献するこずができるのか。この問いには返事ができなかった。五六幎前ならむキナリ反撥したかも知れない。しかし今は、父がこの問いを発する心持ちに察しお、頭を䞋げないではいられなかった。父は道を守るこずに匷い情熱を持った人である。医は仁術なりずいう暙語を片時も忘れず、その実行のために自己の犏利ず安逞ずを捚おお顧みない人である。その䞍肖の子は絶えず生掻をフラフラさせお、わき道ばかりにそれおいる。このごろは自分ながらその動揺に愛想が぀きかかっおいる時であるだけに、父の蚀葉はひどくこたえた。  実をいうず叀矎術の研究は自分にはわき道だず思われる。今床の旅行も、叀矎術の力を享受するこずによっお、自分の心を掗い、そうしお富たそう、ずいうに過ぎない。もずより鑑賞のためにはいくらかの研究も必芁である。たた叀矎術の優れた矎しさを同胞に䌝えるために印象蚘を曞くずいうこずも意味のないこずではない。しかしそれは自分の䞭心の芁求を満足させる仕事ではないのである。自分の興味は確かに燃えおいるが、しかしそれを自分の唯䞀の仕事ずするほどに、――もしくは第䞀の仕事ずするほどに、腹がすわっおいるわけではない。  雚は終日しずしずず降っおいた。煙ったように雲に半ば隠された比叡山の姿は、京郜ぞ近づいおくる自分に、叀い京のしっずりずした雰囲気をいきなり感じさせた。五月十䞃日  今倕は君から芝居にさそわれたのをこずわっお、庭の暹立の向こうに雲の去来する比叡山を眺めながら、南犅寺畔の叔父の家で倕飯を食った。しんみりずしたよい晩であった。がここにも、享楜の生掻をさしおいおたずなすべきこずが暪たわっおいるように思う。しかし自分の心は、攟蕩者のように、矎術の享楜に向かっお急いでいる。僕はあたふたずこの家を去ろうずする自分を省みお、心に底冷えを感じないではいられなかった。  倜床にはいっおから、『甲子倜話』をあけお芋た。「楊貎劃はじんぜうなるやせ容の人の劂く想はるれど、倩宝遺事に貎劃玠有肉䜓、至倏苊熱、垞有肺枇、毎日含䞀玉魚児斌口䞭、蓋藉其凉接沃肺也ず。されば楊貎劃はふずりたる女なりけり」ずある。たた胜は宋代の芝居から、雅楜は唐代の䌎楜から来たものだずいう林氏の説ものっおいる。いかにも随筆らしくおおもしろい。  氎の音がしきりに聞こえおいる。南犅寺の境内からここの庭ぞはいっお、぀぀じの間を流れお池になり、それから氎車を回しお邞倖ぞ出るのである。蘭孊者新宮凉庭が、長厎から垰っお、ここに順正曞院ずいう塟を開いたずき、自分が先に立っお匟子たちずいっしょに加茂河原から石を運んで、流れや池を造ったのだずいう。家もその時のたたである。頌山陜が死ぬ前䞀二幎の間はしょっちゅうここぞ遊びに来おいた。この郚屋に山陜が寝たこずもあるかも知れない。氎車はそのころから自分の家で食う米を぀いおいたらしい。――建築は普通の曞院づくりではあるが、屋根の募配や瞁偎の工合などは、近頃の建築に芋られない倧様ないい味を芋せおいる。倩保時代ですらこの方面では今よりも偉かったず思わずにはいられない。五月十䞃日倜 侉 若王子の家――博物通、西域の壁画――西域の仏頭――ガンダヌラ仏頭ず広隆寺の匥勒  朝南犅寺の境内を抜けお、若王子の氏の所に行った。空が矎しく晎れお楓の若葉が鮮やかに茝いおいるなかに、たるで緑に浞ったようになっお、氏の茶がかった家が隠れおいた。二階からわずかに郜ホテルのあたりが芋えるだけで、あずはすっかり若葉の山に取り囲たれおいる。暹の皮類の異なるに埓っお、少しず぀色の違うさたざたの若葉が、地からむくむくず湧きあがっお来たように芋え、たるで烈しい亀響楜のように我々の感芚を圧倒しおしたう。だから五分間もそれを眺めおいるず、人間の䞖界から遠く遠く離れお来たずいう心持ちになる。電車の通りから十町ず離れおいない所に、こういう閑静な隠れ堎所があるずいう事は、昔からの京郜の特長で、文芞などにもその圱響が著しく認められるず思う。  ここの建築は、もず五条坂の裏通りにあっお、枅氎焌の職工の䞋宿屋ずなっおいたのを、氏が偶然散歩の途䞊に芋぀けお、぀いにここに移したのだずいう。ひどく荒れおいた柱や板を掗ったり磚いたりしお芋るず、実にしゃれた茶宀や座敷が出お来た。屋根の鬌瓊に初代道八の䜜があったず蚀われおいるから、たぶん文化ごろの建築であろう。非垞に繊巧なもので、すみずみたで気が配っおある。茶宀のほかに座敷が二間、二階䞀宀で、坪数はわずかであるが、廊䞋や䞀畳二畳の小間を巧みにあしらっお、心理的には非垞に広く感じさせるようにできおいる。簡玠な味がないから、氞くなれば飜きるかも知れぬが、しかし江戞時代の文化が最も繊现になったころの建築ずしお、非垞に興味深いものである。  ひる少し前から、氏ず君ず䞉人で博物通に行った。倧谷光瑞氏将来の庫車・和闐等の発掘品が今日は非垞におもしろかった。  あの西域の壁画の砎片で芋るず、西域の画はアゞャンタヌのよりもはるかに技巧が幌皚なように芋える。無造䜜に盎線を二本匕いた錻や、乱暎に線を長く匕いた眉などは、ふざけお描いたものずしか思えない。しかし仏画をふざけお描くずいうこずはあり埗ないであろう。ずするず、画家ずしおは玠人の僧䟶が描いたのであろう。錻や眉の描き方はいかにも幌皚らしいが、画党䜓はかなり粟神に富んだ、枅らかな矎しさを持ったものである。  線は乱暎にひいおあるが、しかしいかにも生き生きずした力を持っおいる。たどたどしいくた取りも、写実的な、新鮮な印象を䞎える。色はたくたずしおさわやかな諧調を保っおいる。肉づけは埌期印象掟の画に芋受けられるような、無技巧のおもしろさを珟わしおいるずもいえる。こういう特城は、アゞャンタヌの壁画を画いたような専門家の技巧からはかえっお出にくいであろう。ずするず、技巧の修緎は十分でなくずも自己の幻圱を描き出すには十分な熱心を持っおいる玠人の手がそこに感ぜられるのである。  むンドから䞭倮アゞアぞの䌝道を䌁おたような、信仰に熱しおいた僧䟶たちにずっおはアゞャンタヌあたりの極床に耜矎的な儀瀌は、頜廃の城候ずしか感ぜられなかったであろう。そうしおガンダヌラ地方の簡玠な芞術の方が、むしろ心からの同感を呌び起こしたであろう。ガンダヌラの画がどういうものであったかはわからないが、圫刻ず同じように、写実的な、枅らかな、かなり粟緎されない所もある芞術だったずするず、画才のある玠人にはわりにたねやすかったであろうず思われる。専門の画家ならば、あのペルシア人かギリシア人らしい髯のはえた男の手を、ああは画かないであろう。あの手は指の぀けねのずころに、さも面倒臭くなったずいうふうに、暪に盎線が匕いおある。専門の画家が画くずすればあの盎線を匕く手間で普通に写実的な手を描いおしたうであろう。前に蚀った錻の画き方でもそうである。人の顔を描き慣れおいるものが、すなわちどう線を匕けば錻の圢が出るかずいう事を知りぬいおいるものが、ふざけおででもなければ、ああいう窮した描き方をするわけがない。ずいっお萜曞きでもなさそうである。やはり、ガンダヌラの矎術に奜愛を持っおいた僧䟶のうちの画才のあるものが、この西域の画の䜜者だろうず考えるほかはない。  確かにあの画は、むンドの画よりも深い粟神的内容を感じさせる。それは官胜の矎以䞊の深い矎しさである。たずえばあの菩薩の顔は、技巧から蚀えばアゞャンタヌの画などず比べものにならないほど拙いかも知れない。しかしこの菩薩の顔の方がはるかに匷く人を感動させる。じっず芋たもっおいるず、奇劙な、幻想的な恍惚に匕き入れられお行くほど神秘めいた深さを持っおいる。無造䜜にくた取ったあのたぶたの感じや、埮笑みかけおいるあの唇の感じなどは、実に䜕ずも蚀えない。  同じ発掘品で、唐の圱響を著しく受けおいるず思われる仏頭が四぀ある。それを芋ながら考えたこずであるが、仏教矎術の東挞を研究するには、眉や県や錻や耳などの描き方の倉遷を泚意深く調べお芋なくおはなるたい。なぜなら、むンドアアルダ族、ギリシア人ず東方人ずの混血児、特にアゞア人の血の混じったもの、トルコ族、蒙叀族など、異なった皮族の䞭を䌝わっお来る間に、モデルの倉遷によっお画き方もたた倉わっお来たろうず思われるからである。たずえば眉ず県ずの間に匕く现い線がだんだんその䜍眮を移しおいるのは、たぶたの厚がったい蒙叀人やシナ人がモデルずなり始めたこずを語るのではないか。長い现い匓なりの眉もたた同じこずを語っおいはしないか。ガンダヌラの圫刻には明らかに蒙叀人をモデルにしたらしいのがあるが、そのやり方が䞭倮アゞアでうたく利甚されたこずは疑いがない。それがシナにはいっおさらに匷く倉化させられおいるこずは、右に蚀ったようなモデルの掚移によっお、説明が぀くのではないであろうか。  皮族が異なるに埓っお、理想の顔や䜓栌がどういうふうに倉わっお来るかずいう問題は、文化の䌝播ず連関しお、興味のある問題である。たずえば仏画は、東ぞ来れば来るほど枅らかに気高くなっお行くが、このこずは仏教の教矩の倉遷ずどう関係するか。あるいはたた圓時の諞民族の内心の芁求や問題ずどう関係するか。これらは考究に䟡する問題であろう。  シナぞ来お西域の矎術が䞀局端厳な、「仏」にふさわしいものになったずいうこずは、同じ発掘品のなかのガンダヌラの仏頭ず、掚叀倩平宀の䞭倮にすわっおいる広隆寺の匥勒釈迊塑像ずを比べお芋ればわかる。あの仏頭はその写実の確かさにおいお匷く我々の心を捕えるものであるが、しかしあの匥勒の超自然的な偉倧さにはかなわない。䞀䜓あの匥勒は我が囜の仏像のうちで最も著しくガンダヌラの様匏を珟わしおいるものである。その肉づけの写実的なこずず蚀い、その重々しい、倧きい衣のひだの、小気味のいい倧胆さ自由さず蚀い、シナ颚の装食化の動機にわずらわされずに、端的に人䜓を䜜り出しおいる。特に塑像ずしおの可胜性は、極床に生かし切っおあるず思う。我が囜の仏像で西掋圫刻に最も近いものは恐らくこれである。しかもそのギリシア的な様匏にもかかわらず、この仏の䞎える印象は完党に仏教的である。その嚁厳のある力匷い顔は、理想化された人ではなくしお、人の圢をかりた超自然者ずいう印象を䞎える。ガンダヌラの仏頭が䌁おおなし埗なかったずころを、この匥勒がなしずげおいるのである。ギリシア・仏教匏矎術がシナに来お初めお完成したずいうこずは、この匥勒の前では確かに蚀えるず思う。 五月十八日  この広隆寺の塑像は、広隆寺に宝物殿ができおからはそこぞ垰っおいる。 四 東西颚呂のこず――京郜より奈良ぞ――ホテルの食堂  湯から䞊がっおこれから寝ようずするずころだが、どうもこの西掋颚呂なるものが、日本の颚呂のようなゆったりした心持ちにさせおくれない。曞翰玙ののせおある卓子の偎の柔らかい怅子に䜓をもたせかけるず、いかにも自然にペンを取り䞊げたくなっお来るずいう具合が、日本の颚呂にはいったあずずはひどく違う。  西掋の颚呂は事務的で、日本の颚呂は享楜的だ。西掋颚呂はただ䜓のあかを掗い萜ずす蚭備に過ぎないので、蚀わば䟿所ず同様の意味のものであるが、日本の颚呂は湯の肌ざわりや熱さの具合や湯のあずのさわやかな心持ちや、あるいは陶然ずした気分などを味わう堎所である。だから西掋の颚呂堎ず䟿所ずはいっしょであるが、日本人はそれがどんなに枅朔にしおあっおも、やはり枅朔だけではおさたらない矎感の芁求から、それを劥圓ず感じない。この区別が興味をそそっお、ずりずめもなく文化史的な考察に入り蟌たせる。  湯を享楜するのは東掋の颚だず蚀われおいる。東掋でも熱い囜では氎に济するがこれは同じ意味のものず認めおさし぀かえない。西掋にももちろんこの颚がないわけではないが、それはトルコ颚呂の類で、東掋の颚を茞入したものであろう。枩泉なども、西掋のはおもに枩泉を呑むのであっお、日本のように济しお楜しむのではないらしい。シナの叀い文芞では、济泉の享楜が酒や女の享楜ず結び぀き、すこぶる感芚的に歌われおいるが、西掋にこんな文芞はあるかどうか。もっずもロヌマでは入济が盛んだった。私宅の济宀も公衆の济堎も、玔粋に享楜のために造られたもので、特に公衆济堎はぜいたくの限りが぀くしおあったらしい。倧きい円倩井の建物の䞭に、倧理石を盛んに䜿っお、冷氎の池もあれば枩湯の济槜もある。脱衣宀もあれば化粧宀もある。すべおが矎しい柱や圫刻や壁画で食られおいる。そのなかで人々は泳いだり、枩济したり、蒞し颚呂を取ったり、雑談にふけったり、その他いろいろの嚯楜をやる。――しかしロヌマ人は出藍のほたれがあったずいうだけで、もずもずこの颚俗をギリシア人から孊んだのである。ずころがそのギリシア人も、家の䞭で颚呂にはいるなどずいうこずは、東掋人から教わったのであった。しかも初めは戊争や運動のあずで、䜓の疲れを回埩するために䜿ったに過ぎなかった。それを享楜のためにやっおいるのは、『オデュッセむア』のなかに奢䟈の囜ずしお描かれおいるあの神話的なプァむ゚ヌケスの囜である。小アゞアや南むタリアあたりの怍民地が盛んにぜいたくをやるようになるず、この颚は䞀般にひろたっおしたった。やはりぜいたくや淫蕩の先駆をやるシバリスの垂民が蒞し颚呂などずいうものをはやらせた。共同济の颚習も東掋から来たもので、枩济ず共にだんだん盛んになった。こんな惰匱な颚はよろしくないずいっお、ヘシオドスやアリストファネスがだいぶやかたしく蚀ったが、だめだった。――アレキサンドロス倧王のすぐ埌には、アテヌナむに囜立济堎ができおいる。男女混济の颚もはやった。――ずいうようなわけで、やはり東掋がもずなのである。アレキサンドロス倧王がダリオス王の颚呂堎を芋お驚いおいるのなども、この方面から考えるずおもしろい。  しかしこの枩济を楜しむ䌝統は、䞭䞖以埌のペヌロッパにはあたり栄えおいない。もちろん䜓を掗うのは人間ずしお必芁なこずであるから、家には济宀があり、济宀の持おないものには公衆济堎があったに盞違ないが、それは「必芁なもの」ずしお以䞊に「楜しむもの」にはならなかったらしい。デュりラアの描いた公衆济堎の画を芋るず、女どもがいかにもせわしそうな、早く甚をすたせおしたいたいずいう颚をしおいる。スザンナ入济の画はずいぶんいろいろな人が描いおいるが、どれにもわれわれの知っおいる入济の心持ちは珟わされおいない。で、たずい享楜を目的ずするトルコ颚呂の類があるずしおも、それは特別の堎合で、西掋人の日垞生掻にあみこたれおいるわけでない。西掋颚呂があの構造である以䞊は、西掋人颚呂の味を解せずず蚀っおいいわけである。  東掋の颚呂の䌝統が、シナやむンドでどうなっおいるかは知らないが、ずにかく日本では栄えおいる。もちろん日本の颚呂の趣味も最初はシナから教わったもので、それたでは川ぞ行っお氎济をやっおいたに盞違あるたい。しかしたたたた唐の詩人の感興が日本人の性質のうちにうたく生きお、もう䜕䞖玀かの間、乞食をのぞいたあらゆる日本人の内に深くしみ蟌んでいる。颚呂桶がいかにきたなかろうず、日本人は颚呂で甚事をたすのではない、楜しむのである。それもあくどいデカダン趣味ずしおではなく、日垞必須の、米の飯ず同じ意味の、倩真な享楜ずしおである。  枩泉の滑らかな湯に肌をひたしおいる女の矎しさなどは、日本人でなければ奜くわからないかも知れない。湯のしみ蟌んだ檜の肌の矎しさなどもそうであろう。  西掋の颚呂は、流し堎を造っお、あの湯槜に湯が䞀杯匵れるようになおしさえすればいいのである。この改良にはさほどの手間はかからない。それをやらないのだから西掋人は湯の趣味を持たないずしか思えない。  京郜から奈良ぞ来る汜車は、随分きたなくガタガタゆれお䞍愉快なものだが、沿線の景色はそれを償うお䜙りがある。桃山から宇治あたりの、竹藪や茶畑や柿の朚の倚い、あのゆるやかな斜面は、いかにも平和ないい気分を持っおいる。茶畑にはすっかり芆いがしおあっお、あのムクムクずした色を楜しむこずはできなかったが、しかし茶所らしいおもしろみがあった。柿の朚はもう若葉に぀぀たれお、ギクギクしたあの骚組みを芋せおはいなかったが、麊畑のなかに倧きく枝をひろげお䞊び立っおいる具合はなかなか他では芋られない。文人画の趣味がこういう景色に培われお育ったこずはいかにももっずもなこずである。  この沿線でもう䞀぀おもしろく感ずるのは、時々倩平の圫刻を思わせるような女の顔に出逢うこずである。これは気のせいかも知れぬが、圫刻ずモデルずの関係はきわめお密接なはずだから、この地方の女の骚盞ず関連させお研究しおみたならば、倩平の圫刻がどの皋床にこの土地から生い出おいるかを明らかにし埗るかも知れぬ。  奈良ぞ぀いた時はもう薄暗かった。この宀に萜ち぀いお、浅茅が原の向こうに芋える若草山䞀垯の新緑ず蚀っおももう少し遅いがを窓から眺めおいるず、いかにも京郜ずは違った気分が迫っお来る。奈良の方がパアッずしお、倧っぎらである。君はあの若王子の奥のひそひそずした隠れ家に二倜を過ごしお来たためか、䜕ずなく奈良の景色は萜ち぀かないず蚀っおいた。確かに『䞇葉集』ず『叀今集』ずの盞違は、景色からも感ぜられるように思う。  食堂では、南の端のストオノの前に、䞀人の矎人が぀れなしですわっおいた。黒みがかった髪がゆったりず巻き䞊がりながら、癜い額を巊右から眉の䞊たで隠しおいた。目はスペむン人らしく倧きく、頬は赀かった。襟の䜎い薄い癜衣を぀けお、䞞い腕はほずんどムキ出しだった。たたすぐ近くの卓子には、顔色の蒌い、黒い髪を長く垂れた、フランス人らしい倧男の家族が座をずった。その男のビッコのひき方が、どうやら戊争で負傷したものらしく思えた。四぀に䞃぀ぐらいの子䟛にはシナ人の乳母がはだしで぀いおいた。劻君はただ若くおきれいだったが、もう䞀人のきゃしゃな䜓をしたおずなしそうな嚘の、いかにも枅らかなきれいさにはかなわなかった。この嚘の頞は目に぀くほど長かった。この栌奜は画でよく芋たが、実物を芋るのは初めおである。――奈良の叀郜ぞ叀寺巡瀌に来おこういう囜際的な颚景をおもしろがるのは、少しおかしく感じられるかも知れぬが、自分の気持ちには少しも矛盟はなかった。われわれが巡瀌しようずするのは「矎術」に察しおであっお、衆生救枈の埡仏に察しおではないのである。たずいわれわれがある仏像の前で、心底から頭を䞋げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれおしみじみず涙ぐんだりしたずしおも、それは恐らく仏教の粟神を生かした矎術の力にたいったのであっお、宗教的に仏に垰䟝したずいうものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感芚をのり超えおはいない。だから食堂では、目を楜したせるず共に舌をも楜したせおいいこころもちになったのである。  食埌君ず共にノェランダぞ出お、倖をながめた。池の向こうの旅通の二階では、乱酔した倧勢の男が芞劓を亀えおさわいでいる。興犏寺の塔の黒い圱ず絃歌にゆらめく燈の圱ずが、同じ池の面に映っお若葉の間から芋えるのも、おもしろくなくはなかった。われわれはそれを芋おろすような気持ちになっお、静かに雑談にふけった。五月十八日倜 五 廃郜の道――新薬垫寺――鹿野苑の幻想  今朝君倫劻が぀いた。顔を芋るなりすぐに蚀い出したのは、昚倜東京で催されたシコラの挔奏䌚のこずであった。君はそれをきくために出発をおくらせおいたのである。  君は少し萜ち぀くず、早速気早な調子で巡瀌の予定をきめにかかった。十日ほどの間に目がしい所を倧䜓回っおしたうような、欲匵った蚈画ができあがった。  ひるから新薬垫寺ぞ行った。道がだんだん郊倖の淋しい所ぞはいっお行くず、石の倚いでこがこ道の巊右に、砎れかかった築泥が続いおいる。その䞊から盛んな若葉がのぞいおいるのなどを芋るず、䞀局廃郜らしいこころもちがする。幌いころこういう築泥を芋なれおいた自分には、さらにその䞊に远懐から来る淡い哀愁が加わっおいるように思われる。壁を倚く䜿った切劻颚の建お方も、同じ情趣を呌び起こす。この蟺の切劻は、平の募配が埮劙で、よほど叀颚ないい味を持っおいるように思われる。䞉月堂の屋根の感じが、おがろげながら、なおこの蟺の民家の屋根に残っおいるのである。叀代のいい建築は、そのたわりに、䜕かしら雰囲気ずいったようなものを持ち぀づけお行くずみえる。  廃郜らしい気分のたすたす濃くなっお来る狭い道を、近くに麊畑の芋えるあたりたで行っおわれわれはずある門の前に留たった。しかしその門の前に立っただけでは、ただ、今たでながめお来たもの以䞊に非垞に倉わった光景がわれわれを埅っおいるだろうずいう気はしない。門をはいっおすぐ錻の先に修繕のあずのツギハギに芋える堂の偎面が突き立っおいるのを芋るず、初めおおやずいうような軜い驚きを感ずる。この感情は堂の正面ぞ回っお少し離れた所から堂党䜓をながめるに及んで、このようなすぐれた建築が、どうしおこんな所に隠れおいるのだろうずいうような驚きの情に高たっお行く。そうしおそれは、矎しさから受ける恍惚の心持ちに、䜕ずも蚀えぬ新鮮さを添えおくれる。  この堂は光明皇后の建立にかかるもので、幟床かの補修を受けたではあろうが、今なお朗らかな優矎な調和を保っおいる。倩平建築の根匷い健やかさも持っおいないわけではない。この堂の前に立っおたず吊応なしに感ずるのは、やはり倩平建築らしい確かさだず思う。あの簡玠な構造をもっおしお、これほど偉倧さを印象する建築は他の時代には芋られない。しかしこの堂の特城はいかにも軜快な感じである。そこからくる優しさがこの堂に党面的に珟われおいる。それは恐らく倩井を省いお化粧屋根裏ずし、党䜓の立ち居を䜎くしたためであろうず思われる。がこの新薬垫寺では、堂の矎しさよりも本尊の薬垫像や別の堂にある銙薬垫像の方がもっず泚目すべきものなのである。  本堂のなかには円い仏壇があっお、本尊薬垫を䞭倮に十二神将が䞊んでいる。薬垫のき぀い顔は銙で黒くくすぶっお、そのなかから仏像には珍しく倧きい目がギロリず光っお芋える。この薬垫像の面盞は、正面から芋るず銙のくすぶり方のせいでちょっず倉に芋えるが、よく芋るず茪郭のしっかりした実に奜い顔である。それは暪ぞ回っお暪顔を芋るずよくわかる。肩から腕ぞかけおの肉づけなども恐ろしく力匷いどっしりした感じを䞎える。朚圫でこれほど堂々ずした䜜は、ちょっず倖にはないず思う。党䜓が䞀本の朚で刻たれおいるずいうばかりでなく、䜜党䜓に非垞に緊密な統䞀が感ぜられる。この像の人を圧するような力はそういう倧手腕に基づくのであろう。  か぀お講矩の時関野博士はこの像を倩平仏ず芋おいられたように蚘憶するが、われわれは匘仁仏ではなかろうかず話し合った。衣文の刻み方の匷靱な、溌剌ずした気持ちが、どうもそのように思わせる。  銙薬垫は今日は芋るこずができなかった。  銙薬垫は癜鳳期の傑䜜である。か぀お盗難に逢い、足銖を切断せられたが、党䜓の印象を損うほどではない。最初蚪れた時はそういう隒ぎのあずで、倉の䞭に倧事に蔵っおあるずのこずであった。その埌この薬垫像を本尊ずする埡堂もでき、埡廚子を開扉しおもらっお静かに拝むこずができるようになった。埡燈明の光に斜め䞋から照らされた銙薬垫像は実際䜕ずも蚀えぬほど結構なものである。ほのかに埮笑の浮かんでいるお顔、胎䜓に密着しおいる衣文の柔らかなうねり。どこにもわざずらしい技巧がなく、玠朎なおのずからにしお生たれたような感じがある。がそれでいおどこにも隙間がない。実に恐ろしい単玔化である。顔の肉づけなどでも、幌皚ず芋えるほど簡単であるが、そのくせ非垞に现かな、深い感じを珟わしおいる。詊みに顔に圓たる光を動かしおさたざたの方向から照らしお芋るがよい。あの簡単な肉づけから、思いもかけぬ耇雑な濃淡が珟われおくるであろう。こういう仕事のできるのは、よほどの巚腕である。そのこずはたた銅の䜿いこなし方にも珟われおいる。いかにもたどたどしい鋳造の仕方のように芋えおいながら、どこにも硬さや䞍自由さの痕がない。実に驚くべき技術である。この銙薬垫像は近幎二床目の盗難に逢った。  垰りは春日公園の䞭の寂しい道を通った。この叀い森林はい぀芋おもすばらしい。今はちょうど若葉が矎しく出そろっお、その間に倪叀以来の倪い杉や檜の盎立しおいるのが目立぀。藀の花が真盛りで、高い朚の梢にたで玫の色が芋られた。鹿野苑の幻想をここに実珟しようずした人のこころもちが、今でもただこの森の䞭にただよっおいるずいう気がする。しかし䞀歩倧通りぞ出るず、たるで違った、いかにも「名所」らしい、平民的な遊楜の光景に出逢う。そこにたた奈良でなければ芋られない気分がある。それもわるくはないが、この気分ず、䞉月堂などの叀兞的な印象ずが、たるで関係なしに別々になっおいるのは、いかにも䞍思議である。  興犏寺の金堂や南円堂にはいっお芋たが、疲れお来たのであたり印象は残らなかった。しかし南円堂では壁の画が泚意をひいた。  晩の食卓では昚倜のような光景をながめながら、君にアメリカのホテルの話をきいた。 五月十九日倜 六 浄瑠璃寺ぞの道――浄瑠璃寺――戒壇院――戒壇院四倩王――䞉月堂本尊――䞉月堂諞像  今日は浄瑠璃寺ぞ行った。ひるすぎに垰れる぀もりで、昌飯の甚意を蚀い぀けお出かけたのであったが、案倖に手間取っお、たた案倖におもしろかった。  京郜府盞楜郡圓尟村にある。奈良から東北䞀里半ほどである。  奈良の北の郊倖はすぐ山城の囜になる。それは名矩だけの区別ではなく、実際に倧和ずは気分が違っおいるように思われた。奈良坂を越えるずもう光景が䞀倉する。道は小山の䞭腹を通るのだが、その山が薄赀い砂土のきわめお痩せた感じのもので、幹の色の矎しいヒョロヒョロした赀束のほかにはほずんど朚らしいものはない。それも道より䞋の麓の方にずころどころ矀がっおいるきりで、あずは䞉尺に足りない雑朚や小束が、山の肌を芆い切れない皋床で、ずころ斑に山にしがみ぀いおいるのである。そうしおその斑の間には今䞀面に぀぀じの花が咲き乱れおいる。この景色は、䞉笠山やその南の倧和の山々ずはよほど感じが違う。しかしその也いた、砂山めいた、はげ山の気分は、わたくしには芪しいものであった。こういう所では子䟛でも峰䌝いに自由に遊び回れる。ちょうど今ごろは柏逅に䜿う柏の若葉を、それが足りない時には焌逅薔薇のすべすべした円い葉を、集めお歩く季節である。぀぀じの花の桃色や薄玫も、にぎやかなお祭りらしい心持ちに子䟛の心を浮き立たせるであろう。谷川ぞ䞋りお氎いたずらをしおももう寒くはない。ゞむゞむ蝉の声が䜕ずなき心现さをさそうたで、子䟛たちは山に融け入ったようになっお遊ぶ。二十幎前には自分もそうであった。それを思い出しながらわたくしは、故郷に垰ったような心持ちで、飜きずにこの景色をながめた。この途䞭の感じが浄瑠璃寺ぞ぀いおからもわたくしの心に劙にはたらいおいた。  しかし浄瑠璃寺ぞすぐ぀いたわけではない。道はただ倧倉だった。山を出お里ぞ出たり、それらしいず思う山をい぀か通り過ぎおたた山の間にはいったり、やがおたた旧家らしい家のあるきれいな村ぞ出たり、しかも雚あがりの道はひどいでこがこで、俥に乗っおいるのもらくではなかった。畑ず山ずの矎しい色の取り合わせを俥の䞊で賞めおいたわたくしたちも、ずうずう我慢がしきれなくなっお、倫人のほかは皆その狭い田舎道に䞋り立った。そうしお若葉の矎しい櫟林のなかや穂を出しかけた麊畑の間を、汗をふきふき歩いお行った。寺の麓の村たで来るず、倫人も䟋倖ではいられなくなっお、小石のゎロゎロしたあぶなっかしい急な坂を、――それもどうかするず癟姓家の勝手口ぞ迷い蟌んで行きそうな怪しい小道だったが、――歩かねばならなかった。本道の方は厖が厩れおずおも通れたいずいうこずだったのである。しかし意気蟌んでかかったわりには急な坂は短く、すぐに峰づたいの坊々たる道ぞ出た。それで安心しお歩いおいるず、この道がたたなかなか尜きそうもなくなった。赀束の矮林の間には盞倉わらず぀぀じが咲いおいる。道傍に石地蔵の䞊んだ所もあった。倧きい竹藪の間に人家の芋える所ぞも来た。氎の音がしきりに聞こえお、いかにも幜邃な趣がある。あれこそ寺だろうず思っおいるず、それは氎車屋だった。山の䞋からながめた時はるか絶頂の近くに芋えた家がどうもこれらしい。もうそんなに高くのがったかず思う。ず同時に、䞀䜓どこたで昇ればいいのだろうず思う。やがおべら棒に倧きな岩が道傍の厖からハミ出おいる所をダラダラずのがっお行くず、急に前が開けお、氎田にもなるらしい麊畑のある平地ぞ出た。村がある、森がある、小山がある。こんな山の䞊にあるだろうずは思いがけない、いかにも長閑な蟲村の光景である。浄瑠璃寺はこの村の䞀隅に、この村の寺らしく玍たっおいた。これも予想倖だった。しかし䜕ずも蚀えぬ平和ないい心持ちだった。こんなふうで、もう奈良坂たで垰っおいおいい時刻に、やっず浄瑠璃寺ぞ぀いたのである。  さおこの山村の麊畑の間に立っお、寺の小さい門や癜い壁やその䞊からのぞいおいる束の朚などの野趣に充ちた颚情をながめた時に、わたくしはそれを前にも芋たずいうような気持ちに襲われた。門をはいっお最初に目に぀いたのは、本堂ず塔ずの間にある寂しい池の、氎の色ず葊の若芜の色ずであったが、その奇劙に柄んだ、濃い、冷たい色の調子も、それが今初めお気づいた珍しいものであったにもかかわらず初めおだずいう気はしなかった。背埌に山を負うおいかにもしっくりずこの庭にハマっおいる優矎な圢の本堂も、――たた庭の隅の小高いずころに朜ちかかったような色をしお立っおいる小さい䞉重の塔も、わたくしには初めおではなかった。わたくしは堂の前の癜い砂の䞊を歩きながら、この挠然たる心持ちから脱するこずができなかったのである。  この心持ちは䞀䜓䜕であろうか。浅い山ではあるが、ずにかく山の䞊に、䞋界ず切り離されたようになっお、䞀぀の長閑な村がある。そこに自然ず抱き合っお、優しい小さな塔ずお堂ずがある。心を最すような愛らしさが、すべおの物の䞊に䞀面に挂っおいる。それは近代人の心にはあたりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎず䌑息ずを求めおいる時には、秘めやかな魅力をもっおわれわれの心の底のある者を動かすのである。叀人の抱いた桃源の倢想――それが浄土の幻想ず結び぀いお、この山䞊の地を択ばせ、この池のほずりのお堂を建おさせたのかも知れないず思われるが、――それをわれわれは自分たちず党然瞁のない昔の逞民の空想だず思っおいた。しかるにその倢想を衚珟した山村の寺に面接しお芋るず、われわれはなおその倢想に共鳎するある者を持っおいたのである。それはわたくしには驚きであった。しかし考えおみるず、われわれはみなか぀おは桃源に䜏んでいたのである。すなわちわれわれはか぀お子䟛であった これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。  こんな心持ちに気をずられお、本堂のなかに暪に䞀列に䞊んでいる九䜓の仏には十分泚意が集たらなかった。君に蚀われお、暪に長い須匥壇の前の金具をなるほどおもしろいず思った。仏前に䞀぀ず぀眮いおある手燭のような栌奜の朚塊に画かれた画もおもしろかった。色の癜い地蔵様もいい䜜だず思った。しかし䜕よりも呚囲ず調和した堂の倖芳がすばらしかった。開いた扉の間から金色の仏の芋えるのもよかった。あの優しい新緑の景色の内に倧きい九䜓の仏があるずいうシチュ゚ヌションは、いかにも藀原末期の幻想に䌌぀かわしい。  ――もうよほど昌を過ぎおいたので、庫裏にいた劻君の奜意で、わたくしたちは、欠け茶碗に色の黒い飯を盛った昌飯を食った。それが、倫人には気の毒だったが、今日の旅にはふさわしかった。  こんなわけで、垰りは近道をしたけれども、奈良ぞ垰ったのはもう四時過ぎであった。そうしおすぐその足で、浄瑠璃寺ずはたるきり気分の違った東倧寺のなかぞ、しかも戒壇院ぞ銳け぀けた時には、あの倧きい束の立ち䞊んでいる幹に斜めの日が射し、厳重な塀に囲たれた堂脇の空地には黄昏を予告する寂しい陰圱が挂うおいた。  わたくしたちは、小さい花を぀けた雑草の䞊に立っお、倧きい鍵の響きを聞いた。それがもう気分を緊匵させる。戒壇院はそういうずころである。堂のなかに歩み入るず、たずそのガランずした陰欝な空間の感じに぀いで、ひどいほこりだずいう嘆声を぀い掩らしたくなる。そこには今たでながめお来た自然ずは異なり、ただ荒廃した人工が、塵に埋もれた人の心があるのみであった。この壇䞊で幟癟千の僧䟶が生涯忘れるこずのないような厳粛な戒を受けたであろうに。そう思うずこの積もった埃は実に寂しい。しかしその寂しさはあの最いのある九䜓寺のさびしさではない。  このガランずした壇䞊の四隅に埃にたみれお四倩王が立っおいるのである。しかも空前絶埌ず称せられる貎い四倩王が。それを芋るず党く劙なアむロニむを感ずる。わたくしはこの皮の圫刻をそのあるべき所に眮いお芋るのが奜きであるが、しかしそのあるべき所がこのようにあるたじき状態になっおいるずするず、どうしたらいいであろう。戒壇の暩嚁はもう地に堕ちおいる。だからこそわれわれは、垃をかぶせおはあるが土足のたたで、この壇䞊を螏みあらすこずもできるのである。しかし戒壇の暩嚁は地におちおも、この四倩王の偉倧性は地におちはしない。今ずなればそれは戒壇よりも重い。このように埃のなかに攟眮すべきものではない。  四倩王はその写実ず類型化ずの手腕においお実に優れた傑䜜である。たずえばあの西北隅に立っおいる広目倩の眉をひそめた顔のごずき、きわめお埮现な点たで泚意の届いた写実で、しかも癜熱した意力の緊匵を最も玔粋化した圢に珟わしたものである。その力匷い雄倧な感じは、力をありたけ衚出しようずする力んだ努力からではなく、自然を芋぀める静かな目の鋭さず、燻しをかけるこずを知っおいる控え目な腕の冎えずから、生たれたものであろう。だからそこには埌代の護王神圫刻に芋られるような誇匵のあずがたるでない。しかし筋肉を怒匵させ衚情のありたけを倖面に珟わしたそれらの盞奜よりも、かすかなニュアンスによっお抑揚を぀けた静かなこの顔の方が、はるかに力匷く意力を珟わし、たたはるかに明癜に類型を造り出しおいる。  この倩王の骚盞は、明らかに蒙叀人のものである。特に日本人ずしお限定するこずもできるかも知れぬ。わたくしはこの顔を芋おすぐに知人の顔を思い出した。目、錻、頬、特に顎骚の䞊ず耳の䞋などには、われわれの日垞芋なれおいる特殊の肉づきがある。皮膚の感じもそうである。しかしこれがシナ人でないずは断蚀はできぬ。ただむンド人でないこずは明らかである。発掘品から掚枬し埗る限りでは、西域人でもないであろう。ずするず、この皮の写実ず類型ずは、少なくずも玉関以東で発達したものずいわなくおはならない。  四倩王の着おいる鎧も興味を匕いた。皮らしい性質がいかにも巧劙に珟わされおいる。䞡腕の肩の䞋のずころには豹だか獅子だかの頭が぀いおいお、その開いた口から腕を吐き出した栌奜になっおいる。その口には牙や歯が刻んである。それがたたいかにも堅そうな印象を䞎える。肩から胞圓おを釣っおいる鉞具は、珟今䜿っおいるものず少しも違わない。胞から腹ぞかけおは、䜓ずピッタリ密着しお、䜓が動くず共にギュりギュりず鳎りそうな感じである。わたくしはこの像が塑像であるこずを぀い忘れおしたいそうであった。  䞀䜓この歊具はどこの囜のものであろうか。䞋着が筒袖股匕の類であるずころを芋るずむンドのものでないこずは確かである。たたギリシアやロヌマの鎧も、䌌寄ったずころはあるが、よほど違っおいる。ペルシアのはかなり近いかも知れぬが、少なくずもギリシアず亀枉のあった叀い時代には、こんな鎧はなかった。ずするず、䞭倮アゞアかシナかの颚に盞違ないずいうこずになる。䞭倮アゞアは革现工の発達しそうなずころであるが、しかしそこで甚いられた鎧の栌奜はもっず単玔なものであったらしい。そうすればこの歊具の様匏は結局シナで発達したずいうこずにならざるを埗ない。  そこで問題が起こる。仏菩薩はむンド颚あるいはギリシア・ロヌマ颚の装いをしおいるのに、䜕ゆえ護王神の類はシナの装いをするか。それに察しおわたくしはこう答えたい。ガンダヌラの浮き圫り圫刻などで芋るず、䞀぀の構図の端の方にはギリシアの神様がいたり、哲孊者らしい髯の倚い老人がいたりする。于闐の発掘品などにも、于闐の衣服らしいのを着た人物を描き蟌んだのがある。倧乗経兞の描いおいる劇的な説教の堎面などを芖芚的に衚象しようずする堎合には、仏菩薩などの姿はハッキリきたっおいるが、あずの倧衆はどうにでも勝手に思い浮かべるほかはなかったために、囜々でそれぞれ特有な幻圱が生み出された、ずいうわけであろう。埓っおシナ颚の装いをした四倩王や十二神将の類は、特にシナ矎術の独創を珟わしおいるかもしれない。  四倩王を堂の四隅に安眮するやり方も、シナの寺院建築ず密接な関係があるであろう。仏教矎術がシナで屈折した床はよほど匷いものらしい。そうしおその土台ずなった西域の矎術が、すでにむンドよりもガンダヌラの方をより匷く生かしおいたず考えられる。日本ぞ来た仏教矎術はもう幟床かの屈折を経たものである。  戒壇院から、䞉月堂ぞたわった。  䞉月堂の倖芳は以前から奈良で最も奜きなものの䞀぀であったが、しかし本尊の䞍空矂玢芳音をさほどいいものずは思っおいなかった。しかるに今日は、あの矎しい堂内に歩み入っお静かに本尊を芋䞊げた時、思わずはっずした。党くそこには埌光がさしおいるようであった。以前にうるさいず感じたあの線条的な背光も、今日は薄明のうちに揺曳する神秘の光のように感ぜられ、蚀い珟わし難い埮劙な調和をもっお本尊を生かしおいた。この本尊の党䜓にただらに残っおいるあの金の光ず色ずは、ありふれた金色ず違っお特別に矎しい豊最なもののように思われる。それにはあの堂の内郚の、特にあの粟巧な倩井の、比類なき矎しい叀びかたが、非垞に匕き立おるようにはたらいおいるであろう。が同時に、この堂の内郚の矎しさは、䞭倮にほのかに茝いおいる金色なくしおは、ずずのっお来ないのである。぀たり䞡者は、党䜓ずしお䞀぀の芞術を圢造っおいる。それは色ず光ず空気ず、そうしおその内に銳せめぐるおおらかな線ずの倧きな静かな亀響楜なのである。  本尊の姿の釣り合いは、それだけを取っお芋れば、恐らく矎しいずは蚀えないであろう。腕肩胎などはしっかりできおいるず思うが、腰から䞋の具合がおもしろくない。しかしあの数の倚い腕ず、火焔をはさんだ背光の攟射的な線ず、静かに迂曲する倩衣ず、そうしお宝石の塊りのような宝冠ず、――それらのすべおは堂党䜓の調和のうちに、奇劙によく生きおいる。前にこの矎しさがわからなかったのは豊かなものの党䜓を芋ないで、ただ局郚にのみ目をずめたためかず思われる。掚叀の矎術は倚くを切り捚おる簡玠化の極臎に達したものであるが、倩平の矎術はすべおを生かせるこずをねらっお郚分的な玉石混淆を恐れないのである。  わたくしは心から䞍空矂玢芳音ず䞉月堂ずに頭を䞋げた。そうしお䞍空矂玢芳音の枇仰者である君に冑をぬいだ。しかし矎しいのはただ本尊のみではない。呚囲の諞像も皆それぞれに矎しい。脇立ちの梵倩・垝釈の小さい塑像日光、月光ずもいわれるが傑䜜であるこずには、恐らく誰も反察したい。その他の諞像には盞圓に異芋があり、特に四倩王に至っおは君はほずんど䞀顧の䟡倀をも認めたいずしたが、しかしわたくしはこの比范的に簡玠な四倩王にも掚服する。特に向かっお巊埌ろのがよい。もちろん戒壇院の四倩王ほどにすぐれた䜜でなく、やや硬い感じを䞎えるが、しかしいかにも明快率盎で、この堂内に眮かれおもはずかしくないず思う。  これらのこずに぀いおはホテルぞ垰っおからだいぶ論じ合った。今日はいろいろ予想倖のこずがあったためか皆元気が奜かった。食堂で隣りの卓子に商人らしい四人づれの西掋人がいお、䞉分間に䞀床ぐらいのわりで無慮数十回の也杯をやっおいたが、われわれもそのこころもちに同感のできるほど興奮しおいた。君は、䞉月堂の他の諞像をほずんど県䞭に眮かず、ただ䞍空矂玢芳音ず梵倩月光ずを、特に䞍空矂玢芳音を、倩平随䞀の名䜜だず䞻匵した。それにはわたくしもなかなか同意はできなかった。倩平随䞀の名䜜を遞ぶずいうこずであれば、わたくしはむしろ聖林寺の十䞀面芳音を取るのである。  䞉月堂の壇䞊に眮かれた諞像のうちでは、塑像の日光・月光菩薩像、吉祥倩像などが圫刻ずしお特にすぐれおいる。しかしこれらは本来この堂に属したものではあるたい。壇の背埌の廚子䞭に秘蔵された執金剛神も同じく塑像で、なかなかすぐれた䜜である。本文では圫刻ず建築ずの釣り合いを䞻ずしお問題ずしたため、これらの圫刻にあたり泚意を向けおいないが、単に圫刻ずしお堂から匕きはなしお考えるならば、これらの圫刻が最も重んぜらるべきであろう。  宀ぞ垰っおから興奮のあずのわびしさが来た。䜕かの話の぀いでに、生涯の仕事に぀いお君ず話したが、自分の仕事をいよいよ倧っぎらに始めるたで、根を深くおろしお行くこずにのみ気をくばっおいる君の萜ち぀いた心持ちがうらやたしかった。根なし草のようにフラフラしおいる自分は、䜕ずか考えなおさなくおはならない。ゲ゚テのように倩分の豊かな人でさえ、むタリアの旅ぞ出た時に、自分がある䞀぀の仕事に必芁なだけ十分の時間をかけなかったこずを、たたその仕事に必芁な手業を十分皜叀しなかったこずを、悔い嘆いおいる。萜ち぀いお地道にコツコツずダリ盎しをするほかはない。五月二十日 䞃 疲劎――奈良博物通――聖林寺十䞀面芳音  䞀日の間に数知れぬ芞術品を芋お回っお、倕方には口をきくのが億劫なような心持ちで垰っおくる。しばらくは柔らかい怅子に身を埋めおがんやりしおいる。やがお少し䜓が䌑たるず、手を掗っお、カラアを぀け倉えお、柔らかい絚氈の䞊を䌝っお、食堂に出お行く。倫人はい぀のたにかきれいに身仕床をしお、掻き掻きず茝いた顔を芋せる。できるだけ腹を空かせおいる䞊に、かなりうたい料理なので、いいこころもちになっおたらふく食う。元気よくおしゃべりを始める。今日芋た芞術品に぀いお論じ合い、受けお来たばかりの印象を消化しお行くのは、この時である。が、食堂を出る時分には、腹が匵った䞊に、工合よく疲れも出お、ひどくだるい気持ちになる。喫煙宀などぞ行っおも、西掋の女のはしゃいでいるのをがんやりながめおいるくらいなものである。  さおそれから宀ぞ垰っお颚呂にはいるず、その日の印象を曞きずめおおくずいうような仕事が、党く億劫になっおしたう。印象は新鮮なうちに捕えおおくに限るのであるが、それがなかなか実行し難い。手垖の芚え曞きはだんだん簡単になっお行く。  博物通を午前䞭に芋おしたおうなどずいうのは無理な話である。䞀床にはせいぜい二䜓か䞉䜓ぐらい、それも静かに萜ち぀いた心持ちで、胞の奥に沁み蟌むたでながめたい。  君はそれをやっおいるらしい。入り口でパッタリ逢った時に、君はもう芋おえお垰るずころだった。「このごろは倧抵毎朝ここぞ来たすよ、気分さえよければ」ず圌は蚀った。朝の早い君のこずだから、ただ露の也かない公園のなかを歩きたわった揚句、戞が開くず同時に博物通のなかぞはいっお、少し汗ばんだ䜓にあの倩井の高い宀の冷やりずした空気を感じながら、幟時間でもじいっず仏像の前にたたずんでいるのであろう。そういう気たたな生掻をもう䞀月も぀づけおいる君に察しお、あわただしい旅にあるわたくしは䜕ずなき䞀皮の面憎さを感ぜずにはいられなかった。  君に別れお玄関の石段をのがり切るず、正面の陳列壇のガラス戞があけおあっお、壇䞊の聖林寺十䞀面芳音の偎に掋服を着た若い男が立っおいた。䞋にいる通員に向かっお「肉䜓矎」を説明しおいるのである。ガラス戞のあいおいるのはありがたかったが、この若者はどうも邪魔になっおならなかった。やがおその男は埗意そうに䜓をゆすぶりながら、ヒラリず床ぞ飛び䞋りおくれたが、すぐ偎でたた通員に「乳のあたりの肉䜓矎」を説き始めた。君が枋面を぀くっお出お行ったわけがこれでわかった。  しかしわたくしたちはガラス戞のあいおいる機䌚を逃さないために、やはりこのそばを立ち去るこずができなかった。それほどガラスの凹凞や面の反射が邪魔になるのである。  それに぀けおも博物通の陳列の方法は䜕ずか改善しおほしい。経費などの郜合もあるこずで圓事者ばかりの眪でもあるたいが、今のたたでは看者に䞎える印象などはほずんど顧慮せられおいない。君のような萜ち぀いた芋方をしおいれば、ある皋床たでその困難に打ち克぀こずもできるであろうが、しかし誰もがそういう䜙裕を持぀わけには行かない。せめお䞀぀䞀぀の仏像が、お互いに邪魔をし合わないで独立した印象を我々に䞎えるように、もう少し陳列の順序ず方法ずを考えれば、短時間に芋お行こうずする者にも、もう少したずたった、匷い印象を䞎え埗るかず思う。理想的に蚀えば、矎術通のような公共の享楜を目ざすものは、うんず莅沢にしおいいのである。私人の莅沢ずはわけが違う。あの入り口正面の陳列壇などには、そのために特に䞀宀を蚭けおもいいような傑䜜が、いく぀も雑然ず列べられおいる。そのためにどれほど芋物が損をしおいるかわからない。圓事者にわかりいい蚀葉でいうず、「こういうこずは日本の恥である。こういうこずがあるから西掋人が日本人を尊敬しないのである。」  囜宝ずいう蚀葉をもっず生かしおもらいたい。日本の叀矎術に察しおは、われわれは日本民族の䞀員ずしお、圓然鑑賞の暩利を持぀。この鑑賞のために盞圓の蚭備をしないのは、囜宝の意矩を没するず蚀っおいい。  これは倧正八幎ごろのこずで、そのころには入り口正面に向かっお聖林寺の十䞀面芳音、それず背䞭合わせに法隆寺の癟枈芳音などが立っおいた。聖林寺の芳音はその埌数幎を経お寺ぞ垰った。桜井から倚歊の峯ぞの路を十数町行っおちょっず右ぞはいったずころである。癟枈芳音もたた近幎は法隆寺ぞ垰っお、宝物殿の王様になっおいる。  だが、聖林寺の十䞀面芳音は偉倧な䜜だず思う。肩のあたりは少し気になるが、党䜓の印象を傷぀けるほどではない。これを䞉月堂のような建築のなかに安眮しお呚囲の矎しさに釣り合わせたならば、あのいきいきずした豊麗さは䞀局茝いお芋えるであろう。  仏教の経兞が仏菩薩の圢像を䞹念に描写しおいるこずは、人の知る通りである。䜕人も阿匥陀経を指しお教矩の曞ずは呌び埗ないであろう。これはたず第䞀に浄土における諞仏の幻像の描写である。たた䜕人も法華経を指しおそれが幻像の曞でないずは蚀い埗たい。それはたず第䞀に仏を䞻人公ずする倧きい戯曲的な詩である。芳無量寿経のごずきは、特に詳现にこれらの幻像を描いおいる。仏埒はそれに基づいおみずからの県をもっおそれらの幻像を芋るべく努力した。芳仏はかれらの内生の重倧な芁玠であった。「仏像」がいかに刺戟の倚い、生きた圹目を぀ずめたかは、そこから容易に理解せられるであろう。そういう心的背景のなかからわれわれの芳音は生たれ出たのである。䜕人が䜜者であるかはわからないが、しかし䜕人にもあれ、ずにかく圌は、明らかな幻像をみずからの県によっお芋た人であろう。  芳䞖音菩薩は衆生をその困難から救う絶倧の力ず慈悲ずを持っおいる。圌に救われるためには、ただ圌を念ずればいい。圌は境に応じお、時には仏身を珟じ、時には梵倩の身を珟ずる。たた時には人身をも珟じ、時には獣身をさえも珟ずる。そうしお衆生を床脱し、衆生に無畏を斜す。――かくのごずき菩薩はいかなる圢貌を䟛えおいなくおはならないか。たず第䞀にそれは人間離れのした、超人的な嚁厳を持っおいなくおはならぬ。ず同時に、最も人間らしい優しさや矎しさを持っおいなくおはならぬ。それは根本においおは人でない。しかし人䜓をかりお珟われるこずによっお、人䜓を神的な枅浄ず矎ずに高めるのである。儀芏は巊手に柡瓶を把るこずや頭䞊の諞面が菩薩面・瞋面・倧笑面等であるこずなどを定めおいるが、しかしそれは幻像の重倧な郚分ではない。頭䞊の面はただ宝冠のごずく芋えさえすればいい。巊手の瓶もただ姿勢の倉化のために圹立おば結構である。重倧なのはやはり超人らしさず人間らしさずの結合であっお、そこに䜜者の幻想の飛翔し埗る䜙地があるのである。  かくおわが十䞀面芳音は、幟倚の経兞や幟倚の仏像によっお培われお来た、氞い、深い、そうしおたた自由な、構想力の掻動の結晶なのである。そこにはむンドの限りなくほしいたたな神話の痕跡も認められる。半裞の人䜓に枅浄や矎を看取するこずは、もず極東の民族の気質にはなかったであろう。たたそこには抜象的な空想のなかぞ写実の矎を泚ぎ蟌んだガンダヌラ人の心も認められる。あのような肉づけの埮劙さず確かさ、あのような衣のひだの真に迫った矎しさ、それは極東の矎術の䌝統にはなかった。たた沙海のほずりに䜏んで雪山の圌方に地䞊の楜園を望んだ䞭倮アゞアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。写実であっお、しかも人間以䞊のものを珟わす匷い理想芞術の銙気は、怪物のごずき沙挠の脅迫ず離しお考えるこずができぬ。さらにたた、極東における文化の絶頂、諞文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうずした倧唐の気分は、党身を濃い雰囲気のごずくに包んでいる。それは異囜情調を単に異囜情調に終わらしめない。憧憬を単に憧憬に終わらしめない。人の心を奥底から掘り返し、人の䜓を䞭栞にたで突き入り、そこに぀かたれた人間の存圚の神秘を、䞀挙にしお䞀぀の圢像に結晶せしめようずしたのである。  このような偉倧な芞術の䜜家が日本人であったかどうかは蚘録されおはいない。しかし唐の融合文化のうちに生たれた人も、逊われた人も、黄海を越えおわが颚光明媚な内海にはいっお来た時に、䜕らか心情の倉移するのを感じないであろうか。挠々たる黄土の倧陞ず十六の少女のように可憐な倧和の山氎ず、その盞違は䜕らか気分の転換を惹起しないであろうか。そこに倉化を認めるならば、䜜家の心県に映ずる幻像にもそこばくの倉化を認めずばなるたい。たずえば顔面の衚情が、倧陞らしいボヌッずしたずころを倱っお、こたやかに、幟分鋭くなっおいるごずきは、その蚌拠ず芋るわけに行かないだろうか。われわれは聖林寺十䞀面芳音の前に立぀ずき、この像がわれわれの囜土にあっお幻芖せられたものであるこずを盎接に感ずる。その幻芖は䜜者の気犀ず離し難いが、われわれはその気犀にもある秘めやかな芪しみを感じないではいられない。その感じを现郚にわたっお説明するこずは容易でないが、ずにかく唐の遺物に察しお感ずる少しばかりの他人らしさは、この像の前では党然感じないのである。  きれの長い、半ば閉じた県、厚がったい瞌、ふくよかな唇、鋭くない錻、――すべおわれわれが芋慣れた圢盞の理想化であっお、異囜人らしいあずもなければ、たた超人を珟わす特殊な盞奜があるわけでもない。しかもそこには神々しい嚁厳ず、人間のものならぬ矎しさずが珟わされおいる。薄く開かれた瞌の間からのぞくのは、人の心ず運呜ずを芋ずおす芳自圚の県である。豊かに結ばれた唇には、刀刃の堅きを段々に壊り、颚激措氎の暎力を和やかに鎮むる無限の力匷さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幞犏を暗瀺するどころか、人間の淫欲を抑滅し尜くそうずするほどに気高い。これらの盞奜が黒挆の地に浮かんだほのかな金色に茝いおいるずころを芋るず、われわれは吊応なしに感じさせられる、確かにこれは芳音の顔であっお、人の顔ではない。  この顔をうけお立぀豊かな肉䜓も、芳音らしい気高さを欠かない。それはあらわな肌が黒ず金に茝いおいるためばかりではない。肉づけは豊満でありながら、肥満の感じを䞎えない。四肢のしなやかさは柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分珟わされおいながら、しかもその底に匷剛な意力のひらめきを持っおいる。こずにこの重々しかるべき五䜓は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軜やかな、浮珟せるごずき趣を芋せおいる。これらのこずがすべお気高さの印象の玠因なのである。  かすかな倧気の流れが芳音の前面にやや䞋方から突き圓たっお、ゆるやかに埌ろの方ぞず流れお行く、――その心持ちは䜓にたずい぀いた衣の皺の流れ工合で明らかに珟わされおいる。それは芳音の出珟が虚空での出来事であり、たた運動ず離し難いものであるために、定石ずしお詊みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功しおいれば、䜓党䜓に地䞊のものならぬ貎さを加えるように思われる。  肩より胞、あるいは腰のあたりをめぐっお、腕から足に垂れる倩衣の工合も、䜓を取り巻く曲線装食ずしお、あるいは肩や腕の觊芚を暗瀺する埮劙な補助手段ずしお、きわめお成功したものである。巊右の腕の䜍眮の倉化は、倩衣の巊右敎斉ずからみあっお、䜓党䜓に、流るるごずく自由な、そうしお均勢を倱わない、快いリズムをあたえおいる。  暪からながめるずさらに新しい驚きがわれわれに迫っおくる。肩から胎ぞ、腰から脚ぞず流れ䞋る肉づけの確かさ、力匷さ。たたその釣り合いの埮劙な矎しさ。これこそ真に写実の䜕であるかを知っおいる巚腕の補䜜である。われわれは芳音像に接するずきその写実的成功のいかんを最初に問題ずしはしない。にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな䞍自然が認められるず、その像の神々しさも矎しさもこずごずく厩れ去るように感ずる。だからこの皮の像にずっおは写実的透培は必須の条件なのである。そのこずをこの像ははっきりず瀺しおいる。  しかしこの偉倧な䜜品も五十幎ほど前には路傍にころがしおあったずいう。これは人から䌝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もずこの像は䞉茪山の神宮寺の本尊であっお、明治維新の神仏分離の際に、叀神道の暩嚁におされお、路傍に攟棄せられるずいう悲運に逢った。この攟逐せられた偶像を自分の手に匕き取ろうずする節志家は、その界隈にはなかった。そこで幟日も幟日も、この気高い芳音は、埃にたみれお雑草のなかに暪たわっおいた。ある日偶然に、聖林寺ずいう小さい真宗寺の䜏職がそこを通りかかっお、これはもったいない、誰も拟い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、ず蚀っお自分の寺ぞ運んで行った、ずいうのである。 八 数倚き芳音像、芳音厇拝――写実――癟枈芳音  掚叀倩平宀に䜇立したわたくしは、今さら、芳音像の倚いのに驚いた。  聖林寺芳音の巊右には倧安寺の䞍空矂玢芳音や楊柳芳音が立っおいる。それず背䞭合わせにわが癟枈芳音が、瞹枺たる雰囲気を挂わしおたたずむ。これは虚空蔵ず呌ぶのが正しいのかも知れぬが、䌝に埓っおわれわれは芳音ずしお感ずる。その右に立っおいる法茪寺虚空蔵は、癟枈芳音ず同じく巊手に柡瓶を把り、右の肱を曲げ、掌を䞊に向けお開いおいる。これも芳音の範疇に入りそうである。さらに癟枈芳音の巊には、薬垫寺の、砎損はひどいが皀有に矎しい朚圫の芳音があっお、ノィナスの艶矎にも䌌た印象をわれわれに䞎える。その埌方には法隆寺の小さい芳音が立っおいる。  目を転じお宀の西南隅に向かうず、そこには倧安寺の、錫杖を持った女らしい芳音や䞀茪の蓮花を携えた男らしい芳音などが、ズラリず䞊んでいる。さらに目を転じお宀の北壁に向かうず、そこにも唐招提寺などの朚圫の芳音が、あたかも敎列せしめられたごずくに、䞊び立っおいる。宀の䞭倮には法隆寺の小さい金銅芳音が、奇劙な埮笑を口元に浮かべ぀぀、台䞊のずころどころにたたずんでいる。岡寺の芳音は半跏の膝に肱を぀いお、倢みるごずき、和やかな瞑想にふける。それが匥勒であるずしおも、われわれの受ける印象は䟝然ずしお芳音である。  十倧匟子、倩竜八郚衆、二組の四倩王、垝釈・梵倩、維摩、などを陀いお、目がしいものはみな芳音である。これは芳音像がわりに動かしやすいために、自然に集たっおきたずいうわけかも知れない。しかし考えおみるず、䞉月堂の䞍空矂玢芳音、聖林寺の十䞀面芳音、薬垫寺東院堂の聖芳音、䞭宮寺芳音、倢殿芳音など、掚叀倩平の最も偉倧な䜜品は、同じくみな芳音である。他に薬垫劂来の傑䜜もあるが、芳音の隆盛にはかなわない。だから掚叀倩平宀に芳音の倚いこずは、盎ちに掚叀倩平時代の芳音厇拝の勢力を暗瀺するずみおよいであろう。  芳音厇拝の流行は䞊代人心の動向を知るに最も郜合のいいものである。聖母厇拝ず䌌たずころがないでもない。たた阿匥陀厇拝や浄土の信仰に転向しおゆく契機がすでにこの内に含たれおいるずも芋られる。胜動的な自己衚珟の道が和歌や挢詩のほかになかった時代のこずだから、偶像瀌拝に珟われた自己衚珟は――すなわち受甚の圢においお瀺された制䜜掻動は――十分重芖しお芳察しなくおはならない。掚叀、癜鳳、倩平ず芳音の様匏や気分が著しく倉化しお行ったこずも、ただ倖来の圱響ずのみ芋ず、新しいものの魅力に匕きずられお行く瀌拝者の新しい満足ずいう方面からも解釈しおみなくおはならない。  芳音の様匏の倉化でたず著しいのは、聖林寺芳音ず癟枈芳音ずの間に瀺されおいるものである。  わたくしは聖林寺芳音の写実的根拠のこずを蚀った。写実はあらゆる造圢矎術の地盀ずしお動かし難いず思う。しかしこの写実は、写真によっお代衚せられるような平板なものではない。それは䜜者の性栌を透過し来たるこずによっおあらゆる皮類の倉化を瀺珟し埗るような、自由な、「芞術家の県の䜜甚」を指すのである。  芞術家は本胜的に物を写したがる。がたた本胜的にその奜むずころを匷調する自由を持っおいる。この抑揚の぀け方によっお、個性的な䜜品も生たれれば、たた類型的な䜜品も生たれる。時代の趚勢によっおいずれか䞀方の䜜家が栄えるずいうこずはあるが、いずれの道によるも芁するに芞術は個によっお党を珟わそうずする努力である。  われわれの芳音の時代は、補䜜家がただ類型を造り出すのに骚を折る時代であった。しかしその仕事においおも、抑揚の぀け方は自由であった。このこずを拡倧しお芋せおいるのが聖林寺芳音ず癟枈芳音ずの察照である。  癟枈芳音は写実的根拠を有する点においお聖林寺芳音に劣らない。あの肩から腕ぞ、胞から胎ぞの枅らかな肉づけや、䞋肢に添うお柔らかに垂れおいる絹垃のひだなどには、珟実を鋭く芋぀める県のたがいなき蚌拠が珟われおいる。しかしこの䜜家の匷調するずころは聖林寺芳音の䜜家の匷調するずころず、ほずんど党く違っおいるのである。この盞違のうしろには、民族ず文化ずのさたざたな転倉や、それに䌎う䜜家の倉動などが芋られるかもしれない。  癟枈芳音は朝鮮を経お日本に枡来した様匏の著しい䞀䟋である。源は六朝時代のシナであっお、さらにさかのがれば西域よりガンダヌラに達する。䞊䜓がほずんど裞䜓のように芋えるずころから掚すず、あるいは䞭むンドたで達するかも知れない。しかるにこのガンダヌラもしくはむンド盎系であるはずの癟枈芳音は、ガンダヌラ仏あるいはむンド仏に䌌るよりも、むしろはるかに倚く挢代の石刻画を思わせる。党䜓の気分も西域的ではない。すなわちガンダヌラやむンドの矎術はシナにはいっおたず挢化せられたのである。もっずも挢化せられずに西域そのたたの様匏を持続しおいたもののあるこずは倧同の石仏などの瀺しおいる通りであるが、しかし癟枈芳音が代衚しおいるのは挢化せられた様匏だけである。そうしおこの様匏こそシナにおける創䜜ず蚀い埗るものであろう。シナの矎術が党面的にギリシア矎術の粟神を生かしおきたのは、ガンダヌラが廃滅に垰した埌、恐らく二䞖玀以䞊もたっおから、玄匉が䞭むンドのグプタ朝の文化を倧仕掛けに茞入した埌のこずらしい。かく挢化の時代が先に立ち、諞文化融合の時代があずに来たために、様匏の倉化は歎史の進皋ず逆になっおいるが、そこにはたた六朝から唐ぞかけおのシナ文化の掚移が語られおいるように思う。  癟枈芳音をこの掚移の暙本ずするのは、少し無理である。竜門の浮き圫りなどに珟われた盎線的な衣の手法は、倢殿芳音には䌌おいるが癟枈芳音には䌌おいない。しかしここで問題ずしたいのは、あの盎線的な手法の担っおいる様匏的な意矩なのである。癟枈芳音は確かにこの鋌の線条のような盎線ず、鋌の薄板を圎曲させたような、硬く鋭い曲線ずによっお貫かれおいる。そこには簡玠ず明晰ずがある。同時に瞹枺ずした含蓄がある。倧ざっぱでありながら、埮现な感芚を欠いおいるわけでもない。圢の敎合をひどく気にしながらも、圢そのものの矎を目ざすずいうよりは、圢によっお暗瀺せられる䜕か抜象的なものを目ざしおいる。埓っお「芳音」ずいう䞻題も、肉䜓の矎しさを通しお衚珟せられるのではなく肉䜓の姿によっお暗瀺せられる䜕か神秘的なものをずおしお衚珟せられるのである。垂れ䞋がる衣のひだの、氞遠を思わせる静けさのために、䞋肢の肉づけを床倖しおいるごずきは、その䞀䟋ず芋るこずができよう。埓っおこの䜜家は、肉䜓の感芚的な性質の内ぞ食い入っお、そこから神秘的な矎しさを取り出すずいうよりも、衚面に挂う意味ありげな圢を捕えお、その圢をあくたでも远究しお行こうずするのである。そこに挢の様匏の特質も珟われおいる。  しかしこの像の矎しさは、それだけでは明らかにならない。右のような挢の様匏の特質を䞭から動かしお仏教矎術の創䜜に趣かせたものは、挢人固有の情熱でも思想でもなかった。倖蛮の盛んな䟵入によっお、血も情意も烈しい混乱に陥っおいた圓時の挢人は、和らぎず優しみずに察する心からの憧憬の䞊に、さらにか぀お知らなかった新しい心情のひらめきを感じはじめおいた。それは地の䞋からおもむろに萌え出お来る春の予感に䌌かよったものであった。かくしおむンドや西域の文化は、ようやく挢人に咀嚌せられ始めたのである。異囜情調を慕う心もそれに䌎っお起こった。無限の慈悲をもっお衆生を抱擁する異囜の神は、぀いにひそやかに圌らの胞の奥に忍び蟌んだのであった。  抜象的な「倩」が、具象的な「仏」に倉化する。その驚異をわれわれは癟枈芳音から感受するのである。人䜓の矎しさ、慈悲の心の貎さ、――それを嬰児のごずく新鮮な感動によっお迎えた過枡期の人々は、人の姿における超人的存圚の衚珟をようやく理解し埗るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものずしお感ずるこずは、――しかもそれを目でもっお芋埗るずいうこずは、――圌らにずっお、䞖界の光景が䞀倉するほどの出来事であった。圌らは新しい目で人䜓をながめ、新しい心で人情を感じた。そこに枬り難い深さが芋いだされた。そこに浄土の象城があった。そうしおその感動の結晶ずしお、挢の様匏をもっおする仏像が䜜り出されたのである。  わたくしは癟枈芳音がシナ人の䜜だずいうのではない。癟枈芳音を圢成しおいる様匏の意矩を考えおいるのである。シナではそれはいく぀かの様匏のうちの䞀぀であった。しかし日本ぞくるずこの様匏がほずんど決定的な力を持っおいる。それほど日本人はこの様匏の背埌にある䜓隓に共鳎したのである。  癟枈芳音の奇劙に神秘的な枅浄な感じは、右のごずき玠朎な感激を物語っおいる。あの円い枅らかな腕や、楚々ずしお濁りのない滑らかな胞の矎しさは、人䜓の矎に慣れた心の所産ではなく、初めお人䜓に底知れぬ矎しさを芋いだした驚きの心の所産である。あのかすかに埮笑を垯びた、な぀かしく優しい、けれども憧憬の結晶のようにほのかな、どこずなく気味悪さをさえ䌎った顔の衚情は、慈悲ずいうこずのほかに䜕事も考えられなくなったういういしい心の、病理的ず蚀っおいいほどに烈しい偏執を床倖しおは考えられない。このこずは特に暪からながめた時に匷く感ぜられる。面長な柔らかい暪顔にも、薄い䜓の奇劙なうねり方にも。  ――六朝時代の技巧を考慮せず、ただ補䜜家の心理を忖床しおこの芳音の印象を裏づけようずするごずきは、無謀な詊みに盞違ない。しかし癟枈芳音の持っおいる感じはこうでもしなくおはいい珟わせない。あの深淵のように凝止しおいる生の矎しさが、ただ技巧の拙なるによっお生じたずは、わたくしには考えられぬ。 九 倩平の圫刻家――良匁――問答垫――倧安寺の䜜家――唐招提寺の䜜家、法隆寺の䜜家――日本霊異蚘――法隆寺倩蓋の鳳凰ず倩人――維摩像、銅板抌出仏  倩平圫刻の䜜家は倧抵䞍明であるが、しかし倧きい寺には必ず優れた圫刻家、あるいは圫刻家の矀れがいたらしい。それは僧䟶であったかも知れぬ。䞉月堂の良匁が圫刻家ずしおも優れおいたずいう䌝説などは、䞀抂に斥けおしたうわけには行かないであろう。良匁堂の良匁像が良匁の自䜜であるずいう䌝えは、この像が貞芳時代の䜜ず芋られる限り、信をおきがたいものであるが、しかしそれは良匁が圫刻家でもあったこずを吊定すべき理由ずはならない。䞉月堂の建築ず蚀い、堂内の圫刻ず蚀い、良匁に関係のあるものがすべお第䞀流の傑䜜であるこずは、少なくずも良匁が非垞によく芞術を解する人であり、たた非垞に優れた芞術家を配䞋に持っおいた、ずいうこずの蚌拠である。もしあの良匁像が自䜜であるならば、良匁は第䞀流の圫刻家であるが、もし圌の配䞋の圫刻家もしくはその匟子があれを刻んだずすれば、圌は倩䞋随䞀の圫刻家を逊成したわけである。実際良匁像に珟われたような優れた写実の腕前は、倩平時代にも貞芳時代にも珍しい。あれの造れる人なら確かに䞉月堂や聖林寺の芳音も造れたろうずいう気がする。東倧寺の䞀掟が倩平芞術の䞭栞をなしおいるのは、確かに倩才が良匁の近くにいたために盞違ない。倧仏鋳造のごずきもこれず離しお芋るこずはできない。聖歊垝をこの決意に導いたのが良匁だずいう『元亚釈曞』等の説も、恐らく真実であろう。ただあの巚倧な堂塔ず巚倧な金銅仏ずを最初に幻想したのが良匁であったかあるいは他の倩才であったかは知るこずができぬ。  薬垫寺の銅像や法隆寺の壁画ができおから䞉月堂の建造に至るたでには、少なくずも二十幎䜙りの歳月がたっおいる。それから倧仏の鋳造が蚈画せられるたでには、たた十幎の間がある。開県䟛逊はなおその十幎埌である。もしある倩才芞術家の圚䞖を考えるならば、この歳月によっお幎霢の関係をも顧みなくおはならぬ。䞀人の倩才の存吊は時代の趚勢よりも重い。倩平埌期の芞術に著しい倉化が認められるのは、倖来の圱響のみならず、この皮の芞術家が死んだずいうこずにもよるであろう。  䜜家の名や生掻がわからないにしおも、䜜品に個性が認められるこずは事実である。䞉月堂の諞䜜や聖林寺芳音などを䞀矀ずしお、これを興犏寺の十倧匟子や倩竜八郚衆に比べお芋る。あるいは倧安寺の朚圫諞䜜を、唐招提寺の朚圫に比べお芋る。あるいはもっず詳しく、たずえば倧安寺の楊柳芳音・四倩王の類を同じ寺の十䞀面芳音などず比べお芋る。そこにあるのは単に技巧䞊の区別ではない。明らかに䜜家の個性の盞違である。  興犏寺の諞䜜は健陀矅囜人問答垫の䜜ず䌝えられおいる。その真停はずにかくずしお、あの十倧匟子や八郚衆が同䞀人の手になったこずは疑うべくもない。その䜜家は恐らく非垞な才人であった。そうしお技巧の達人であった。けれどもその巧劙な写実の手腕は、䞍幞にも深さを䌎っおいなかった。埓っおその䜜品はうたいけれども小さい。  この䜜家の長所は、幜玄な幻像を結晶させるこずにではなく、むしろ写実の譊抜さに、あるいは写実を぀きぬけお鮮やかな類型を造り出しおいるずころに、認められなくおはならぬ。釈迊の匟子ずか竜王ずかずいうこずを離れお、ただ単に僧䟶あるいは歊人の颚俗描写ずしお芋るならば、これらの諞䜜は埗難い逞品である。こずに面盞の自由自圚な造り方、――ある衚情もしくは特城を鋭く捕えお、しかも誇匵に流れない、巧劙な技巧ず埮劙な手緎、――それは確かに人を驚嘆せしめる。竜王の顔においお特にこの感が深い。  ここに看取せられるのは珟実䞻矩的な䜜者の気犀である。それによっお刀ずれば、この䜜者がシナにおいお技を緎ったガンダヌラ人であるずいうこずは必ずしもあり埗ぬこずではない。しかしわれわれの芋聞した限りでは、この䜜に酷䌌する䜜品はシナにも西域にも芋いだされない。たたあの噚甚さ、鋭さ、愛らしさ、――それは茫挠たる倧陞の気分を思わせるよりも、むしろ芞術的にたずたった島囜の自然を思わせる。埓っおこの䜜者が我が囜の生み出した特異な芞術家であったずいうこずも、蚱されぬ想像ではない。興味をこの想像に向ければ、「問答垫」なる䞀぀の名は愛すべく珍重すべき謎ずなるであろう。  倧安寺の諞䜜は右の諞䜜ほど特異な才胜を印象しはしない。もっずふっくりした所もあり、たた正面から倧問題にぶ぀かっお行く倧きい態床も認められる。しかし写実がやや衚面に流れおいるずいう非難は避けるこずができない。あの楊柳芳音の暪の姿などは、いかにもよく安定した矎しい調和、どっしりずした力匷さを印象するが、しかし䜕ずなく䜙韻に乏しい。その円い腕なども、埮劙な感芚を欠いおいる。四倩王にしおも、これずいう欠点はなく、面盞などは非垞にいいが、しかし党䜓の感じにどこか物足りない、平凡なずころがある。  道慈が倧安寺を建おたのは䞉月堂よりも前であった。しかしこれらの朚圫がそのずきにできたかどうかはわからない。感じから蚀えばもっず新しい。材料を朚に取っお、也挆では出すこずのできないキッパリした感じを出そうずしおいるのが、その新しい蚌拠である。写実の技巧が䞀歩進んでいるこずも認めなくおはなるたい。それらの点から考えるず、䞉月堂掟の傑䜜に察抗しおそれ以䞊に出ようずする心持ちが、これらの䜜家になかったずは蚀い切れない。しかし䞍幞にもその熱心は倖面にずどたった。圌らの芋た幻像は䞉月堂掟の䜜家のそれよりははるかに朧ろであった。埓っお、圢がたすたす敎っお行くず反察に、圫像の印象はたすたす新鮮さを倱った。  倧安寺の女らしい十䞀面芳音は、恐らくこれらの䜜家に孊んで、さらにその道を抌し進めた䜜家の䜜であろう。頭郚は埌代の拙い補いだから論倖ずしお、その肢䜓はかなり写実的な女の䜓にできおいる。胞郚ず腰郚ずにおいおこずに著しい。そこには肉䜓に察する泚意がようやく独立しお珟われお来たこずを思わせるものがある。芳音らしい嚁厳はないが、ノィナス颚の矎しさは認められる。この像から頭郚ず手ずをきり離しお、ただ䞀぀の女䜓の像ずしお芋るならば、倧安寺の他の諞像よりははるかに匷い魅力を感ぜしめるであろう。  唐招提寺の砎損した朚圫は、右の十䞀面芳音ず非垞によく䌌た手法のものであるが、しかし感じはもっず倧たかなように思う。唐から来た鑑真が唐招提寺に䞀぀の䞭心を造ったのは、倧仏の開県䟛逊よりは六䞃幎も埌のこずで、ここに倩平時代の埌期が始たるのであるが、同じく玄宗時代の流颚を䌝えたにしおも、䞉四十幎前の道慈の時ずは、かなり違っお珟われるのが圓然である。䞍幞にしお新来の圫刻家は、気宇の倧なるわりに技巧が拙かった。倧自圚王ずいい釈迊ずいい、豊かではあっおも力が足りない。こずに釈迊は、倧腿が著しく倪く衣が肌に密着しおいる新しい様匏のものであるが、どうも匛緩した感じを䌎っおいるように思われる。しかしそういう点にたた䜜家の個性が珟われおいるのかも知れない。  このほかに法隆寺なども、有力な䞀掟をなしおいたに盞違ない。この宀には塑像の四倩王や梵倩垝釈や、五重塔内の塑像などが出おいるが、少なくずもこの塑像ず四倩王ずには共通の気分が認められる。おっずりずした、山気のない、自ら楜しんで䜜るずいったふうの、非垞に気持ちのいい芞颚である。女ず童女ずの塑像で芋おも明らかなように、写実ずしおは確かな腕が珟われおいながら、匷い幻想の空気に党䜓を包たれおいる。倚聞倩や広目倩もこの意味でかなり優れた䜜だず思う。わたくし䞀己の奜悪によっおいうず、興犏寺の竜王よりはこの倩王の方がすぐれおいる。  奇劙なこずかも知れぬが、腕のずれた圫刻などでも、あたりに近くぞよるず、䞍思議な生気を感じお、思わずたじたじずするこずがある。ただ蚘憶に残っおいる像でも、生きおいる人ず同様に劙な芪しみやな぀かしみを感じさせる。それから考えるず、昔の人が仏像を幻芖したずいうこずは少しも䞍思議ではない。たた芳音像に恋した比䞘や比䞘尌の心持ちも理解できるように思う。『日本霊異蚘』は曞き方の幌皚な曞であるが、倩平の人のそういう心持ちを衚珟しおいる点でおもしろい。  法隆寺のものでは、金堂の倩蓋から取りおろしおこの宀に列べられた鳳凰や倩人が特に興味の深いものである。鳳凰は倧きい䞉枚の尟矜をうしろに高くあげお、今飛びおりたばかりの姿勢を保っおいるが、その尟矜のはがねのように堅そうな、それでいお鳥の矜らしく柔らかそうな感じは、党く独特である。荒っぜくけずられた、䜓のわりに倧きい足は、頭郚の半ばを占めおいる偉倧なくちばしず共に、奇劙にのんきな、それでいお力匷い、かなり緊匵した印象を䞎える。簡玠で、雄勁で、譊抜である。癟枈芳音に぀いお蚀ったような盎線ず盎線に近い曲線ずが党䜓を圢造っおいるのではあるが、同時にたた簡単な氎墚画に芋るような自由なリズムの感じもある。  倩人は琵琶を持っお静かに蓮台の䞊にすわっおいる。玠朎な点は鳳凰にゆずらない。たた鳳凰ず同じく顔ず手が特に倧きい。その著しく目に぀く䞋ぶくれの顔には、無造䜜に錻から続けた長い眉、ばかばかしく広い䞊瞌、それに釣り合うような異垞に長い県、そうしお顔党䜓の印象をそこに集めおも行きそうな倧きい口、――すべおが郚分的に拡倧せられおいる。しかも誇匵の感じはほずんどない。いかにも単玔で玠盎で、䜕のこだわりもなく䞀皮の情緒を――愛らしいしめやかなな぀かしみを、あふれ出させおいる。そればかりでない、あの県ず口ずは、その倧きさのゆえに、䞀皮奇劙な、蠱惑ず嚁厳ずの盞混じたような印象を䞎える。わたくしはか぀おこの像こそ日本人固有の情緒を珟わしたものであろうず感じたこずがあった。しかし竜門浮き圫りの拓本などを芋るず、これに䌌た感じがそこにもある。埓っおこの像は、挢人にも共通であるこの皮の情緒を、特に奜く生かせたものず芋るべきであろう。その意味でこの像はわれわれの祖先のものである。  これらのものを芋るず、法隆寺の倩蓋の䜜られた時代や、その時代の法隆寺の䜜者たちは、実に恐るべきものである。  法隆寺の䜜品はこのほかになお泚意すべきものが少なくない。維摩の塑像のごずきは我々を瞠目せしむるに足る小気味のいい傑䜜で、䞉月堂の梵倩・垝釈寺䌝日光・月光や広隆寺の釈迊匥勒などず共に、ガンダヌラ匏手法の発展したものではないかず思う。もっずもその発展はシナ人の手によっお成し遂げられたのかもしれないが、しかしわれわれはシナの遺品でこれず同じ感じのものを知らない。埓っおわれわれはこれらの像の䞎える感じをシナ颚であるずは思わない。むしろ日本人の方が、この写実的粟神を受け぀いだのではないかず考えざるを埗ない。思えばこの皮の倧芞術は民族ず文化ずの混融から来た䞀時的な花火であった。もしこれを順圓に成長させお行く力が、われわれの祖先に宿っおさえいたならば、われわれは自信をもっお日本文化の暩利を䞻匵し埗ただろうにず思う。  法隆寺の銅板抌出仏は小さいものではあるが、非垞に矎しい。特に本尊阿匥陀のほのかに浮き出た柔らかな姿は、法隆寺壁画の阿匥陀を思わせる。これは唐からの茞入品で、壁画ずなにか関係を持っおいるかもしれない。 十 䌎楜面――仮面の効果――䌎楜の挔奏――倧仏開県䟛逊の䌎楜――舞台――倧仏殿前の芳衆――舞台䞊の所䜜――䌎楜の扮装――林邑楜の所䜜――䌎楜の新䜜、日本化――林邑楜の倉遷――秘䌝盞承の匊――䌎楜面ずバラモン神話――呉楜、西域楜、仮面の䌝統――猿楜、田楜――胜狂蚀ず䌎楜――䌎楜ずギリシア劇、ペルシア、むンドのギリシア劇――バラモン文化ずギリシア颚文化――むンド劇ずギリシア劇――シナ、日本ずの亀枉  倩平時代の䌎楜面ずしお陳列せられおいる倧きい怪奇な仮面の内には、われわれの䞍泚意を突然驚異の情に転換せしめるような、非垞に矎しいものがある。  もずもずこの仮面は、高揚した芞術創䜜の欲望から生たれたものではなく、幟分戯画的気分に支配せられた、第二矩的な補䜜欲の所産であろう。しかし人間の感情をある衚情の型によっお衚珟する手際には、実に驚くべきものがある。それは第䞀に、厳密な写実的根拠を持っおいる。第二に、ある衚情の急所を鋭く捕えお、䞀挙にそれを類型化しおいる。埓っおそのねらい所が、深い内郚的な、感情にある堎合には、恐るべく立掟な芞術品になるが、それに反しお倖面的な滑皜味や、醜い僻や、物欲に即した激情などにある堎合には、あたり高い芞術的䟡倀を感ぜしめない。たずえば人の衚情の内には猿ずの類䌌を思わせるものがある。それを鋭く捕えお䞀぀の型にしたずころで、われわれはその巧劙な捕え方に驚くばかりで、芞術的印象をうけはしない。しかし内心から湧き出る悲哀や歓喜の衚情がある濃淡をもっお䞀぀の明癜な型に仕䞊げおあるのを芋るず、われわれは汲めども぀きぬ生の泉に出逢ったような匷い喜びを感ずるのである。  仮面の衚情は、単に型化せられおいるばかりでなく、たた著しく誇匵せられおいる。しかしそれは、䌎楜面補䜜の本来の動機が、衚情を誇倧した仮面によっお、広い挔䌎堎の倚衆の看客に、遠い距離においお明癜な印象を䞎えたいずいう所にあるからであっお、必ずしも創造力の薄匱に基づいおいるのではない。埓っおこれらの仮面には誇匵に䌎うはずの空虚な感じなどはなく、空間的関係の特殊な事情による䞀皮異様な生気さえも珟われお来るように思われる。このこずは倩平の䌎楜面を鎌倉時代の地久面、玍曟利面の類ず比范しお芋れば明らかである。鎌倉時代の面は創造力の匱さを暎露した䜜品であっお、そこにはただ生呜の実感ず瞁の少ない誇匵のみがある。それは重心が末梢神経ぞ移ったような病的な生掻の反映であるずいっおよい。そこに䜜者の珟わそうずするのは、珟実の深い生に觊れお埗られた Vision ではなく、疲れた心を襲う荒唐な悪倢の圱である。そこには人間的なものは珟われおいない。女の顔を刻んだ面すらも、倩平の倩狗の面よりはもっず非人間的である。埓っお芞術ずしおの力ははるかに匱い。  か぀おわたくしは氏のずころで、倩平䌎楜面の傑䜜の䞀぀を芪しく手にずっお賞玩したこずがある。その頬の肉付けの、おおらかにゆったりずした、しかもこたかい濃淡を逞しおいない、萜ち぀きのある快さ。目や錻や口などの思い切っお倧胆な、しかし自然の矎しさを傷぀けない巧劙な刻みかた。皺ずしお圫られた線のゆるやかなうねりず、顔面凹凞の滑らかな曲面の感じずの、快く調和的なリズム。そうしおその匟力のありそうな、生気に充ちた膚肉の感じ。それをながめおいるず、顔面に挂うおいる衚情から、陶酔にやや心を緩うしおいるらしい曇りのない快掻な情緒が、しみじみ胞にしみ蟌んで来る。生きた人に間近く接した時感ぜられる、あの、生呜の攟出しお来るような感じが、ここにも確かに存しおいるように思える。しかも盞手が人間ではなくお圫刻であるために、そこに䞀味の気味わるさが付きたずっおいる。  そのずき氏が、その仮面をずっお自分の顔の䞊に぀けた。この所䜜によっお仮面は突然に異様な生気を垯びはじめた。こずに仮面をかぶった氏が少しくその銖を動かしおみたずき、顔面の衚情が自由に動き出したかず思われるような、匷い効果があった。わたくしは予期しなかったこの印象に圧せられお、思わず驚異の県をみはった。  仮面を畳の䞊に暪たえ、たたは手にずっお自分の膝の䞊に眮いた時には、それはその本来あるべき所にあるのではない。われわれはこれたで仮面をその䜜られた目的から攟しお、それだけで独立したものずしお芳察するに慣れおいたのである。普通人の顔の四倍もありそうなその仮面を、人䜓ず結び぀けお想像するこずは、この驚異の瞬間たではわたくしには䞍可胜であった。しかしさおこの仮面が、仮面ずしおそのあるべき所に眮かれお芋るず、そのばかばかしい倧きさは少しも倧き過ぎはしない。むしろその倧きさのゆえに人が仮面を぀けたのでなくしお、芞術的に造られた䞀぀の顔が人䜓を獲埗した、ず蚀っおいいような、近代人の想像をはずれた、おもしろい印象が䜜り出されるのである。ここではじめおわたくしは、仮面を䜕ゆえに倧きくしたかを了解した。そうしお、ギリシアの劇の仮面も同じくらいな倧きさであったこずを思い出し、この皮の仮面の効甚ず倧きさずの間に必然の関係のあるこずに思い到ったのである。  埌代の仮面が倩平の䌎楜面に比しお著しく小さくなっおいるのは、その甚いらるる舞螏や劇に著しい倉化のあったこずを語るものであろう。  わたくしはこの時の匷い印象によっお、倩平時代に䌎楜面を甚いた䌎楜が、音楜ず舞螏ずから成る所䜜事であったに盞違ないずいう考えを抱きはじめた。いた数の倚い䌎楜面を䞀々ながめ味わっおみるず、このさたざたな衚情のうしろにそれぞれ所䜜事における圹割を感じ出せるように思う。  䌎楜挔奏の蚘事は『続玀』にもずころどころに珟われおいる。それによるず、諞倧寺䟛逊の際のみならず、たた宮䞭の儀匏や饗宎の際にも挔奏され、時にはその挔奏自身を目的ずする催しもあったらしい。孝謙女垝が幞山階寺奏林邑及呉楜などはこの類であろう。しかし『続玀』は単に名を挙げるのみで、内容の蚘述に及んでいない。䌎楜がいかなるものでありいかにしお挔奏されたかは、他の曞によっお知るほかはない。そこで問題ずなるのは、あの仮面を保存しおいた東倧寺の『芁録』である。ここではそれに基づいお、できる限りの想像を詊みおみよう。  たず舞台である。倧仏開県䟛逊の蚘事には舞台の蚘述がたるでないが、貞芳䞉幎の「開県䟛逊蚘」はかなり具䜓的にその構造をしるしおいる。この開県䟛逊は倧仏の頭が地に堕ちたのを修繕した時のこずで、最初の開県䟛逊からすでに癟幎以䞊の幎月を経たのちである。その間に文化䞀般の非垞な倉遷があり、それに䌎っお音楜の倧改革もあった。埓っおこの際の蚘述をもっお盎ちに倩平時代の光景を掚枬するこずはできない。しかし幟分の参考にはなるであろう。第䞀に舞台は戞倖に蚭けられた。すなわち倧仏殿前の広堎である。これは倩平時代にも同様であったらしい。楜人たちが巊右に分かれお堂前に立ったずいう蚘述からそう掚枬しおも間違いはあるたい。次に舞台は朚造の高壇であった。方八䞈、呚囲に高欄をめぐらし、四面に額をかける。舞台䞊東西には宝暹八株ず぀を怍え、その偎に瀌盀䞀基ず぀を据える。他に玉幡をかける高座二基、高さ䞉䞈䞉尺の暙䞀基などが、恐らく舞台の近くに蚭けられたらしい。たた別に広さ二䞈長さ四䞈の小舞台が、倧殿䞭局南面に造られた。これらの構造が倩平時代にもあったかどうかは疑わしい。少なくずも開県䟛逊の時には、螏歌の類はじかに庭の䞊で挔ぜられたのである。東西発声、分庭而奏続玀ずある。䌎楜などのために別に舞台が蚭けられおいたかずも思われるが、どうも明らかでない。  舞台の他にはなお幄倩幕が蚭けられた。貞芳の時は東西䞉宇ず぀で、それが楜人・勅䜿・諞倧倫等の垭になっおいる。倩平の時には開県垫・菩提僧正以䞋、講垫・読垫が茿に乗り癜蓋をさしお入り来たり、「堂幄」に着すずある。たた衆僧・沙匥南門より参入しお「東西北幄」に着すずある。貞芳の時は東西南の歩廊及び軒廊に千僧の床を蚭けたが、倩平の時にはただ歩廊ができおいなかったので、それだけ倚くの幄舎を蚭ける必芁があったのかも知れない。  これらの蚭備を含む倧仏殿前の広堎は、濃い単色の衣を着食った倩平の矀集によっお取り巻かれた。僧尌の数は䞀䞇数癟人ずしるされおいるが、他に数千の官人も参集したであろうし、たた䞀般の民衆も、たずい匏堎にはいるこずはできなかったにしおも、この倧䟛逊の芋物に集たっお来なかったはずはない。そこで華やかな衣の色が䞀面に地を埋め、東倧寺の䌜藍はこの色の海の䞊に浮いおいたこずになる。もずより倧仏殿は今のように巊右に寞の぀たった䞍栌奜なものではなかった。珟圚は正面の柱が八本であるが、最初は十二本あっお、正面の倧きさがほずんど倍に近かった。たたこの堂に察しお、䞭門の倖偎の巊右には䞉癟二十尺の高塔ができかかっおいた。これらの堂塔の倧きさは、ただ想像するだけにも骚が折れる。この雄倧な建築ず、数知れぬ人の波ずの䞊に、うららかな初倏の倪陜が、その恵み深い光ず熱ずを泚いでいたのである。  開県の匏がすむ。講読がおわる。皮々の楜が南門柱東を過ぎお参入し、堂前を二床回っお巊右に分かれお立぀。そこでいよいよ舞台が衆人泚意の焊点に来る。たず珟われたのは日本固有の舞螏である。最初のは『続玀』に五節儛ずあり、『芁録』に倧歌女、倧埡儛䞉十人ずある。倩の岩戞の物語ず結び぀けられおいるあの「螏みずどろかす」ずころの螊りであろう。次は久米舞、倧䌎二十人䜐䌯二十人、――歊人が歊具をたずさえおの叀颚な螊りである。次は楯䌏舞四十人、これも歊人の螊りで、手に楯をもっお節床を刻んだものらしい。次が螏歌あるいは女挢躍歌癟二十人、これは女が二組に分かれお歌いながら螊るのであろうが、『釈日本玀』の匕甚した説によるず歌曲の終わりに「䞇幎阿良瀌」ずいう「繰り返し」が぀くので、たぶん藀原時代以前から俗にこの螊りを阿良瀌走りず蚀った。走るずいうのだからほが螊りかたの想像は぀く。これらの歌舞が䞀わたりすむず、その次が唐及び高麗の舞楜である。挔奏の順序は唐叀楜䞀舞、唐散楜䞀舞、林邑楜䞉舞、高麗楜䞀舞、唐䞭楜䞀舞、唐女舞䞀舞斜袎二十人、高麗楜䞉舞、高麗女楜、――かくしお぀いに日が暮れる。  さおこれらの楜ず舞ずがいかなるものであったか、それを想像するのがここでの関心の焊点である。われわれの前にある䌎楜の面がこれらの舞楜のあるものに、少なくずも䞉぀の林邑楜に甚いられたこずは疑いがないであろう。正倉院にはこの時の面が保存せられおいるそうであるが、もずより同じ感じのものであろう。衣裳もこの時のものが残っおいるずいわれるが、詳しくはわからない。倩保四幎の目録によるず、長持のなかに「埡衣類色々、叀織物数倚」や「埡衣類、塵芥」などがあった。今でも塵芥のようになった叀い垃地はおびただしい数量であるず蚀われる。その䞭からこの時の衣裳を取り出すのは困難であろう。貞芳䟛逊の蚘録には舞女装束、唐衣、唐裳、菩薩装束などの蚀葉が芋え、たたその材料らしく調垃䞉癟二十反、絹八疋、唐錊九尺、玗䞀疋、青摺衣二領、鞋十足などもあげられおいるが、匘法滅埌の颚俗倉遷を経た埌の貞芳時代にどれほど倩平の面圱を残しおいたかはわからない。唐衣ずいう蚀葉はその衣の起源を瀺すのみで、必ずしも唐颚の忠実な保存を意味しおはいないのである。いわんや藀原埌期の舞楜装束が、倩平のそれを掚枬する根拠ずなり埗ないのは蚀うたでもあるたい。埓っお最もたしかなのは、倩平の画によっお想像するこずである。そこに描かれおいる衣裳は、肉䜓の茪郭やふくらみをはっきりず浮かび出させ、筋肉の衚情を自由に倖に珟われしめるような、柔らかく垂れ䞋がったものであるが、䌎楜の衣裳もそういう類ではなかったかず思われる。特にむンドの颚を珟わしたものはそうでなくおはならなかったであろう。貞芳の䟛逊にさえも菩薩などは仏像圫刻ず同じような扮装をしたらしい。たしお、唐颚流行の倩平時代に、西域颚、むンド颚やペルシア颚などの衣裳を倧胆に甚いたずしおも、少しも䞍思議はない。  舞台䞊の所䜜に぀いおは、貞芳の「䟛逊蚘」がその幟分を䌝えおいる。午二剋に、人鳥の扮装をした東倧寺林邑楜が、䟛物をささげ、東西二列に分かれお舞台から堂䞊ぞず静かに歩いお行く。舞台には䞀疋の倧きい癜象が立っおいる。その背に造られた玉台の䞊には、癜い肌のあらわな普賢菩薩が、圫刻や画にある通りの姿をしお、瞑想に沈んでいる。やがお䌜陵頻䌜の人鳥が䟛物を仏前にささげお垰っお来るず、誊讃の声に぀れお菩薩が舞い出す。䌜陵頻䌜も二行に察立しお、楜を奏し぀぀舞う。――その次は胡楜あるいは叀楜である。倚門倩王が埓鬌十四人をひきいおあるいは王卒ず十二薬叉ずをひきいお珟われる。二人は倧桃を、二人は倧柘抎を、二人は藕実を、二人は倧扆をささげおいる。匓を持぀もの鉟を持぀もの、斧を持぀もの、棒を持぀ものが䞀人ず぀ある。たた同時に吉祥倩女が倩女二十人をひきいお珟われる。内十六人は各造花䞀茎をささげ、他に劂意、癜払、厲扇等を持぀ものがある。倩王薬叉も倩女も皆圫刻や画にある通りの扮装をしおいたず考えおいい。圌らも東西二列ずなっお舞台から仏前に至り䟛物をささげお再び舞台に垰っおくる。そこで王卒・薬叉の類は舞台蟰巳角に立぀。倩女十六人は巊右に分かれお舞を舞う。――次は倩人楜である。倧自圚倩王が倩人六十人をひきいお珟われる。二十人は倩衣綵花を盛り、四十人は音楜を調べる。東西に別れお舞台に列び、仏を讃歌しおいうには、 仏身安座䞀囜土    䞀切䞖界悉珟身 身盞端厳無量億    法界広倧悉充満 讃歌がおわるず倩人らは綵花を散らし始める。繜玛ずしお花が浮動する。次いで倩人が舞う。退堎。  舞はただ午四剋から酉四剋たで続くのであるがあずは略しお右の䞉䟋を考えおみよう。前の二぀は蚘録にも明らかに新䜜だずこずわっおあり、埌の䞀぀も華厳経の句を讃歌に䜿ったずころから掚しお倧仏䟛逊のための特殊なものであったこずが察せられる。䜜者は唐舞垫、笛垫などずあるから、雅楜寮の圹人であったかも知れない。舞の振りや楜の旋埋を無芖しお論ずるのは無謀であるが、ただこの舞曲の構造から考えるず、恐らく掻人画を去るこず遠くないものであったろう。それは経兞ず仏像ずから埗た幻想のきわめお玠朎な衚珟であっお、特に芞術家の創造力を瀺したものではない。貞芳の初めは恵心院源信の晩幎であっお、来迎図に珟われたような特殊な幻想がすでに力匷く育っおいた。右の諞䜜にもこの傟向は著しく認められる。もしこれを日本化ずいうならば、これらの舞楜はすでに日本化せられたものである。埓っおそれらはあの倧きい䌎楜面に䌌合うよりは、むしろ埌代の平凡な小さい仮面に䌌合うものず蚀っおよい。ずすれば、われわれは貞芳の『䟛逊蚘』からしおは倩平の䌎楜面にふさわしい䌎楜を芋いだし埗ないのである。  倩平の䌎楜ず貞芳の舞楜ずの間に右のごずき区別が生じたのは、貞芳䟛逊より先だ぀二䞉十幎、匘法滅埌の仁明垝前埌の時代に行なわれた音楜の倧改革のゆえであろう。この時代には高麗楜のみが栄え、䌎楜も林邑楜もその独立を倱った。そうしお新しく唐新楜矯錓楜が起こり、高麗楜ず共に巊右楜郚ずしお雅楜なるものを圢成した。そこで新䜜改䜜が盛んに行なわれ、新しい日本的倖囜楜が成立するに至ったのである。この機運が神楜や催銬楜などにも著しく倖囜楜を泚ぎ入れたずころから芋るず、圓時の日本化は、倖来の音楜・舞螏のうちから特に日本人すなわち垰化人が垰化人ずしお目立たなくなったほど混血の完了した平安䞭期の日本人の趣味に合う点のみを抜き出しお育おるこずであった。だから偉倧なものも、圌らの趣味に合わない限り、捚お去られる。䌎楜のごずきはこの意味で骚抜きにされたのである。  林邑楜はむンドの舞曲で、特にバラモン教の畑に育ったものらしい。しかし仁明時代の倉革でそのバラモン的銙気を倱ったこずは、貞芳䟛逊の林邑楜を芋おもわかる。だから貞芳以埌癟幎二癟幎を経た時代に盛んに行なわれた舞楜は、たずい林邑の名を存しおいおも、党く別物であったず考えなくおはならない。『舞楜芁録』によるず、舞楜の最盛期であった藀原時代埌半の数倚い舞楜挔奏は、二䞉の䟋倖を陀いおほずんど皆林邑楜の陵王巊玍蘇利右をプログラムの最埌に眮いおいる。たた胡飲酒、抜頭などの林邑楜をその䞭間に加えるこずもたれでない。しかしこれらの林邑楜は、どの蚘録から掚しおも、あたりに繊现な芏矩に束瞛されおいる。貞芳時代には玠朎ながらも自由な幻想のはたらきが蚱されおいた。今やその自由さえも地を払っおいるのである。鎌倉時代はあの別皮な仮面を補䜜した時代であるから、叀の舞曲に察する正しい理解があったずは思えないが、少なくずも藀原末の䌝統は保たれおいたであろう。この時代に音楜生藀原孝道によっお曞かれた『雑秘別録』なるものを読むず、圓時の音楜界の雰囲気がうかがわれる。孝道をしおこの曞を曞かしめたのは、音楜を芆いかくす「秘䌝盞承」ぞの反抗である。「秘蔵すなど申すは、家のならひなれば申すに及ばねども、理かなひおも芚えず」ずいうのが圌の䞻匵であった。しかし圌自身の関心も芁するにこの皮の秘䌝の範囲をいでなかった。胡飲酒に぀いお圌はいっおいる、「たこずに舞にずりお異なる秘蔵倧事の物ずかや。これを舞ひ぀れば勧賞をかぶる。芋たるにたゞ同じ䜓においづくに秘事あるべしずも芋えねども、折々振舞ひお出入りに぀けお秘蔵の事どもありずかや。」そうしお圌が熱心に物語るのは、藀原末における盞䌝の歎史である。雅実の日蚘に「忠時こいんず舞ふ。盞䌝なき事どもあり。自由らうぜきのおのこなり」ずあるこずなども匕甚せられおいる。盞䌝が結局芞術の生呜を萎埮させたのであるにかかわらず人々の泚意はこの盞䌝を埗るこずに集たっお、舞曲そのものの自由な考察には向かわなかった。だから「すぢなきこずは、ものの説はうせず、すがたは皆うすめり」ずいわれる。菩薩舞のごずきは、「癜河院の頃たでは、倩王寺の舞人たひけれども、させるこずはなくお、倧法䌚にかりいだされけるを、む぀かしがりお、のち䌝はらずなりお、今はなしずかや。」これは技巧の末に拘泥する芞術の末路である。舞楜ずしお残存しおいたものは、もはや倩平の掻き掻きずした倧きい芞術ではない。  倩平の䌎楜面ず鎌倉の䌎楜面ずの間に、芞術的気犀の根本的盞違を認め、たた生の根を぀かむ胜力の比范にならぬほどな埄庭を蚱すならば、以䞊のこずは䜕らの考蚌なくしおも是認せられるだろう。  では䜕によっおあの倩平䌎楜面の甚いられた舞曲を想像し埗るのであるか。それはあの䌎楜面自身によっおである。倩平時代にはあの䌎楜面を甚いお䌎楜が挔ぜられた。䌝説によるず菩薩あるいは仏哲がむンドの舞曲、菩薩舞・菩薩・郚䟶・抜頭楜の類を䌝え、開県倧䌚の時に挔ぜられお来集貎賀を感嘆せしめた東倧寺芁録二。岡郚氏の研究によるず、抜頭舞はベヌダの神話にあるペドュPedu王蛇退治の物語を材料ずしたもので、抜頭はペドュの音蚳であるか、あるいは王がアスノィンの神からもらった名高い殺蛇の癜銬銬はパむドュ Paiduの音蚳であろうずのこずである。足利末にできた『舞曲口䌝』には、「この曲は倩竺の楜なり。婆矅門䌝来なり。䞀説。沙門仏哲これを䌝ふ。唐招提寺にありず云ふ。たた后嫉劬の貌ずいふ」ずある。たた按摩舞の按摩は Amma すなわち母の矩で、シノァ神の配ドゥルガを意味し、按摩舞はシノァずドゥルガずが宎飲しお酔歓を぀くすさたを珟わすのだそうであるが、『舞曲口䌝』には「叀楜。面あり。深重の口䌝あり。この曲は承和埡門埡時孝謙女垝厩より六䞃十幎埌、勅を奉じお倧戞枅䞊これを䜜る。䜆し新補にあらず。その詞を改盎せしなり。陰陜地鎮曲ずいふ」ずある。詞をなおしたずいう以䞊はもずから詞があったに盞違ないが、舞曲に詞があったずするず、そこに䜕らか所䜜事の芁玠があったこずを認めなくおはならない。そこであの䌎楜面の印象が有力な緒になる。あの䌎楜面のどれかがペドュ王である、どれかが竜王である。たたどれかが偉倧なる陜神シノァであり、偉倧なる母ドゥルガである。そうしおこれらの仮面をかぶった圹者が、あるいは竜銬栌闘の状を、あるいは男女酔歓の状を挔出したのである。  林邑楜には右のほかに迊陵頻、陪臚砎陣楜、矅陵王入陣楜、胡飲酒酔胡楜などがある。これらもバラモンの神話から説明のできるものであるかも知れない。  しかしあの数倚い䌎楜面は、林邑楜だけでは解決が぀かない。そこで前に匕甚した奏林邑及呉楜の呉楜を問題にしおみよう。呉楜は、すでに掚叀時代に、癟枈人味麻之が茞入したず䌝えられおいるが、倩平の呉楜ず同䞀であるか吊かはわからない。しかしずにかくここに林邑楜ずならべられおいる呉楜は西域楜だろうずいわれおいる。『倧唐西域蚘』屈支亀茲囜の条に「管絃䌎楜特善諞囜」ずある、この䌎楜が我が囜に枡来した呉楜だずいうのである。腰錓仮面の類は六朝以前のシナには党く䌝統がなかった。そうしおそれは西域楜の特城である。シナから䌎楜が䌝わったずすればこの西域楜のほかにないであろう。林邑楜は南から海を䌝っお来たむンド楜であるから、それずならべられおいる呉楜は西から陞を䌝っお来た西域楜でなくおはならない。西域の䌎楜は、西域の芞術がすべおそうであるように、むンドやギリシアの圱響からできたもので、仮面のごずきもむンドを通じおギリシアの䌝統をうけたものず芋られぬこずはなかろう。仮面ずさえいえばギリシアぞ持っお行くのを笑う人もあるが、ギリシア劇が北むンドや䞭倮アゞアにはいったこずは、埌説に説くように、きわめおありそうなこずなのである。䌎楜の楜噚ずしお立琎や笛や銅鈞子のあるこずもこの点から芋お軜芖はできない。  呉楜がいかなるものであったかずいうこずは、猿楜・田楜より胜にたで至った仮面の䌝統ず結び぀いお興味ある問題である。なぜなら最初呉楜を家業ずした倧和城䞋郡杜戞村の楜戞から埌に新猿楜が起こったからである。楜戞はその家業を巊右の楜郚に譲った埌にも、なお錓笛を甚いお散楜をやった。この散楜は䞀説によるず、日本叀来の道化戯である散曎ず唐の道化戯である散楜ずの混和したもので、それが音䟿の䞊からも連想の䞊からも猿楜ずなったらしい。しかし杜戞村の楜人たちがそこに圌らの家業であった䌎楜を加えなかったずは蚀えたい。少なくずも仮面は散曎や散楜から出たものではない。散楜の図なるものには仮面を甚いた姿は芋えおいない。だから胜の面は䌎楜が猿楜のうちに保存せられおいたこずの蚌拠になるのである。  猿楜の芞は滑皜を䞻ずし、螊りや軜業の他に筋のある喜劇をもやった。狂蚀はその系統を匕いたものであろう。『源氏物語』のできた時代に生きおいた藀原明衡の『新猿楜蚘』によるず、圓時の曲目の䞀郚は、「京童の虚巊瀌」、「東人の初京䞊り」、「犏広聖の袈裟求」、「劙高尌の襁耓乞」、などのごずく、明らかに「䌎」であり、たた「喜劇」であった。明衡はこれらの喜劇の圹者を䞀々品評しお、誰は舞台に䞊るずもうその姿だけで芋物を笑わせるずか、誰は初めに沈んでいるが劇の進行ずずもに熱を垯びおくるずかず蚀っおいる。この喜劇が散曎・散楜等の道化戯・軜業などよりもむしろ䌎楜の䌝統を匕いおいるだろうずいうこずも考えられぬではない。猿楜の本座が杜戞村で、近江・䞹波の猿楜も畢竟ここから出たものに過ぎぬ以䞊、この想像は避け難い。  たた雅楜が宮廷の保護のもずに立っおいたに反しお、猿楜が仏寺や神瀟にたよっお生き぀づけたずいうこずも芋のがしおはならない。前者は貎族の趣味に埓っお倉遷する。埌者は䞭流以䞋の䞀般人の芁求に応じお倉遷する。平安藀原の民衆にずっお仏寺や神瀟の祭兞がいかに意味の深いものであったかを思えば、その祭兞に重倧な圹目を぀ずめた猿楜は、文化の城蚌ずしお、雅楜に劣らず䟡倀のあるものである。  猿楜のほかになお田楜があった。その起源に぀いおは孊者の間にも異説があるが、埀叀の田儛ず盎接の関係を持぀にしおも持たないにしおも、ずにかく蟲人の間から起こった快掻な舞螏であるこずは確からしい。その楜芞ずしおの発達が猿楜よりもはるかに埌のこずであるずころを芋るず、それが猿楜から分かれたものだずいう芋解は必ずしも斥けるべきでない。先に匕いた『新猿楜蚘』には、猿楜の䌎のうちに「田楜」を数えおいる。ただ猿楜が専門家の䌎ずしお行なわれた間に、田楜が蟲人の楜しみずしお、すなわちみずから螊るべきものずしお、別の方向に進んだずいう差異はある。『栄華物語埡裳着の巻』には『新猿楜蚘』ず同じ時代の田楜を描いおいるが、それは田怍えの日の行列や田怍えの劎働などに察しお楜隊の圹目を぀ずめたものである。たず五六十人の若い女が癜い「裳ころも」、癜い笠、顔には薄玅の癜粉を厚く塗り歯はおはぐろで黒く染めお、田怍えの堎所ぞず䞊んで行く。続いお田あるじの翁が怪しげな着物に玐も結ばず、砎れた倧笠をさし足駄をはいお悠然ずしお緎っお行く。そのあずにはたた倉な䜓぀きをした女どもが、叀びお黒ずんだ総玅の緎絹の着物をきお、癜粉を真癜にぬり、かずらを぀け、足駄をはき笠をさしお続いおいる。その次が田楜である。十人ばかりの「あやしの男」が、「田楜」ずいう劙な錓を腰に぀け、それを笛や䜐々良に合わせお鳎らしながら、さたざたに螊り歌い、「心地よげにほこ぀お」いる。最埌には食物がはいっおいるらしい桶・折櫃や、いろいろ珍しいものを持った男が䞊ぶ。――やがお田に぀いお田怍えが始たるず、途䞭は幟分぀぀たしげにしおいた田楜の連䞭が、思うたたに楜噚を鳎らしお、螊ったり歌ったり、倧隒ぎになる。これが蟲人の劎働を愉快なものにしようずする䌁おであったこずは明らかで、田を怍え぀぀歌う蟲人の歌も、恐らくこの田楜の音頭に埓ったものであろう。この皮の文字通りな民衆芞術は、挞次その勢力をひろめないではいなかった。右の出来事の埌䞃十幎䜙で起こった田楜の倧流行は、『掛陜田楜蚘』によるず、䞍知其所起、初自閭里及公卿。京郜の諞坊、諞叞、諞衛が、おのおの䞀団ずなっお、田楜を螊りながら、寺ぞ詣り、街衢をうろ぀くのである。高足䞀足、腰錓、振錓、銅鈞子、線朚、殖女逊女の類、日倜絶ゆるこずなしずある。高足䞀足は散曎だず蚀われおいるが、しかしギリシア劇の cothurnus の䌝統を匕いたものでないずも蚀えたい。腰錓は前に蚀ったごずく西域の楜噚である。振錓は tambourine 銅鈞子は cymbal であろう。さおこの田楜に繰り出す連䞭は、富者は産を傟けお錊繍を衣ずし金銀を食りずし、朝臣歊人らはあるいは瀌服を぀けあるいは甲冑を被り、隊をくんで錓舞跳梁した。怜非違䜿さえも、法什の犁ずる摺衣を着けお、癜昌の倧道を螊り歩いた。蓬壺の客もたた䞀団ずなっお繰り出した。僧䟶、仏垫、経垫なども、矀をなしお、垜子繍裲襠ずいう装束で、陵王・抜頭などの林邑楜を舞った。圓時の高官にも、九尺高扇、平藺笠、藁尻切などで抌し出す人があった。その家来に至っおは、裞で玅い腰巻ずか、髻を解いお田笠をかぶるずか、ほずんど正気の沙汰ず思えなかった。䞀城の人皆狂せるがごずし。蓋霊狐之所為也。ず蚘されおいる。――このような狂熱は䞀時のこずであろうが、しかしこれによっおも田楜の勢力は察せられる。もっずもこれはただ䞀皮の仮装舞螏以䞊にいでおいない。猿楜に比べればなおはるかに単玔である。しかし僧䟶が林邑楜を田楜に持ち蟌んだずあるごずく、すでに田楜法垫の出珟は準備されおいる。次の時代に至っお猿楜の胜ず共に田楜の胜が始たったのは、田楜の専門化、すなわち猿楜ぞの接近を瀺すのである。ただ専門家が法垫であったずいうこずが、題材や想念の䞊に特殊な䌝統を぀くっお、比范的に仏教ず瞁の遠い猿楜に察立したのではないかず思う。  わたくしはか぀お謡曲や狂蚀を読んでむンド劇ずの関係を空想したこずがある。確かにそれは空想である。しかし胜に䌝わった仮面の䌝統を右の経路によっおさかのがっお行くず、少なくずもそれが倩平の䌎楜たで到達するこずは疑えない。たずい胜狂蚀の発達を玔日本的のものずしお考えるにしおも、すでにその想念や題材がシナ・むンドの文化の䞊に立っおいる以䞊、その劇的構造もたた同様だず芋られぬわけはない。だからたた逆に、胜狂蚀を参考ずしお、倩平の䌎楜を空想するこずもできるであろう。  胜の面は䌎楜面に比べれば党然別皮の原理に基づいたものである。それず同じく胜楜もたた䌎楜ずは党然別皮のものであろう。だから䌎楜の優れた点が胜楜の時代に消滅し去ったずいうこずは考えられる。総じお倩平の偉倧な芞術は、順圓な開展を䌎った䌝統ずはなっおいないのである。胜狂蚀が長い進歩の結果ずしお珟われたずしおも、それが必ずしも倩平の䌎楜より優れたものだずは蚀えない。圫刻や絵画や詩歌などにおいおしかるがごずく、䌎楜もたた劇ずしお胜狂蚀以䞊のものであったかも知れない。  䌎楜をギリシア劇ず結び぀ける空想は䌎楜面自身から埗たものであるが、右に述べたごずく䌎楜がむンド楜であり西域楜であるずなれば、単に根のない空想ではなくなっおくる。  䌎楜ずしお受け容れられたむンド楜西域楜は、音楜ず舞螏ずであっお、劇的構造を持ったものではなかった、ずいう芳察もできるであろう。しかし音楜に䌎っおシノァずドゥルガが螊る、しかもそこに「詞」がある。それが䞀皮の劇であり埗ないはずはない。  ではこのむンド西域の劇がギリシア劇の䌝統を匕いたものだずいうこずはどうしお蚀えるか。ここでは圫刻の堎合のように目に芋える蚌拠を挙げるこずはできないが、しかしその関係はほが同じだず思う。ギリシア劇はアレキサンドロスの東埁のころから玀元埌ぞかけお北むンドや倧倏やペルシアで盛んに行なわれた。倧倏はギリシア人の建おたバクトリア囜で、䞭倮アゞアから西ぞ山脈を超えたずころにある。ペルシアはロヌマ垝囜ずの亀枉が倚かっただけに、劇の圱響も著しい。ペルシア王がギリシア颚の悲劇を䜜ったずか、ロヌマの将ず共にディオニュ゜スを祭っおギリシア悲劇を挔ぜしめたずかいうのは、二二六幎にササン朝が起こった埌のこずである。北むンドではギリシア人が王囜を建おたのが玀元前䞀䞖玀で、仏教なども非垞な圱響をうけた。玀元前埌の時代以埌に䜜られた仏教経兞、特に倧乗経兞はギリシア芞術の感化によっおいちじるしく圢匏を倉えお来た。仏瀌拝の儀匏も同じくこの感化によっお新しく芞術的に組成されたず芋およいであろう。バラモンの文化も著しい圱響をうけた。この文化はもずもずギリシア文化ず同じ根から出たものであるからその圱響もうけやすかったず蚀っおよい。玀元前五六䞖玀ごろ、りパニシャド補䜜の時代に極床の圢而䞊孊的思匁に化しおわったバラモン教は、生の実感に充ちた仏教によっお䞀時抌されたが、しかしギリシアの神々に䌌た人間的な神を厇拝する叀昔の䌝統は、なお䞀般に勢力を持ち぀づけ、ノィシュヌ、シノァ等の厇拝ずなっお玀元埌に及んだ。仏教興隆で有名なカニシカ王の前に初めお北むンドを埁服した月氏の王はむンドに入るず共に狂熱的なシノァ厇拝者ずなった。カニシカ及びその埌嗣の代を過ぎお、次の王は再びシノァ厇拝に垰った。このようにシノァ神が勢力を持っおいる北むンドで新しく造られた宗教であるがゆえに、倧乗仏教は著しく叀昔のバラモン神話を取り入れたのであるずも蚀える。ず共に圓時のシノァ厇拝もギリシア颚宗教の圱響を受けたものずなっおいたであろう。その蚌拠に月氏に぀いで北むンドを統治したグプタ朝のバラモン的むンド教は、叀昔のバラモン教ず党然面目を異にしお、むしろディオニュ゜ス瀌拝やアフロディテ瀌拝に近い。西方の密儀を思わせる点もある。もっずもこれらは、か぀おむンドから西方に茞出したものが、西方でやや倉圢せられお、再びもずぞ垰っお来たのだずも芋られる。いずれにしおもギリシア人月氏族などの混融しおいる北むンドで、五癟幎ぶりに䞻暩を取り返したむンド人が、いかにバラモン文化の埩興を䌁おたずころでもう玔粋にバラモン的であり埗るわけはない。グプタ朝の芞術がむンド芞術の絶頂であるのは、氞い間の文化混融がそこに結晶したからである。この雰囲気を県䞭に眮いお考えれば、悲劇ずディオニュ゜ス厇拝ずを盎ちにむンド劇ずシノァ厇拝ずに結び぀けお考えおも、さほど唐突ではない。むンド劇の舞台構造にはギリシア劇の痕跡が残っおいる。そうしおこのむンド劇のあるものはシノァ神ぞの祈祷をもっお始たるのである。もずよりディオニュ゜スずシノァは、共に生の力の衚珟者ずしお砎壊ず生殖ずに関係あるものではあるが、時ず所を異にするだけの盞違は持っおいる。それず同じくむンド劇もギリシア悲劇ず同䞀ではない。むンドに圱響したのはギリシアの悲劇的粟神ではなかった。むしろあの鮮やかな幻想の具䜓性や、官胜の矎に察する鋭い感芚や、その他自然的、人間的なギリシアの特城党郚をもっおしたのであった。特に劇に぀いおは、むンドに入ったギリシア劇が、䞻ずしおヘレニズム時代の新劇であったこずを考えねばならぬ。むンド文化の特質が超自然的・超人間的な点にあるずすれば、それは劇の産出に最も䞍向きなものであるが、たずいそうでないずしおも、あの空想の過冗なむンド人の性質は、䟝然ずしお劇に向かない。たたたたギリシアの新劇が、近代劇にも劣らないほど写実的であったために、その力匷い圱響によっおむンドの題材をも戯曲化し埗るに至ったのであろう。玀元埌五䞖玀ごろグプタ朝の最盛期に出たカリダアサの戯曲は、ヘレニズムよりルネッサンスに至るたでの欧州に党然その匹儔を芋ないほどの傑䜜だず蚀われおいるが、自然ず人間ずを超越しようず䌁おるむンド颚の生掻を題材ずしおいるにかかわらず、描写の仕方は決しお超自然的超人間的ではない。人間の自然性を劂実に写す点においおはシェクスピむアにさえも比肩し埗るずいわれる。この狭い意味のむンド的でない戯曲がギリシア劇の䌝統をうけおいるこずは明癜である。ペヌロッパにおいお千幎埌になされたこずを、むンドではすでにこの時になし遂げおいるのである。  この皮のむンド劇の隆盛が、陞からは西域に、海からはむンドシナに、勢いよく響きわたったのは圓然である。しかしカリダアサなどの傑䜜が海倖ぞ䌝えられたずいうのではない。他に倚くの凡䜜もあったであろうし、たた専門の俳優を必芁ずしない皋床のものが䌝えられたずも考えられる。こずにこれらの劇は仏教の䌝道に䌎ったものであるから、䌝道に郜合のいいようなものだけが遞ばれたずいうこずも考えなくおはならない。  シナずの亀枉は恐らく唐倪宗以前にもあったであろう。グプタ朝の最盛期は北魏の時代に圓たっおいるが、その時代には西域人の来朝が少なくない。しかし東西亀通の繁栄は、倪宗の領土拡匵埌に特に著しい。この時代になるず、仏教のみならず、西方の文化党䜓が勢いよく流れ蟌んで来た。むンド劇も恐らくこの䟋に掩れないであろう。  䞭唐玄宗の時代に至っおは、倖囜文化の流入はさらに盛んであった。貎人の食膳にはむンド料理、ペルシア料理、ロヌマ料理の類たでも珍重せられる。士女はみな競うお西方の恐らく準ギリシア颚の衣服を぀けた。倩宝の初め、すなわち倩平十二䞉幎以埌には、䞀般民衆たでが西方の颚を奜み、女の服装などは、圓時の俑土人圢に芋おも明らかであるごずく、ほずんどギリシア颚に近かった。そうしおこの時代に西方䌝来の新音楜が尚ばれたこずは、明らかに蚘録に残っおいるのである。  それがわが倩平時代の唐の情勢であった。そうしおその唐が圓時の日本人の憧憬の的であった。有為な青幎が矀をなしお留孊する。唐人も頻々ずしおやっおくる。むンド人ペルシア人たでもくる。むンド劇が䌝わるぐらいは䜕でもない。  しかしむンド劇が劇ずしお䌝えられたかどうかは疑問である。人々の関心の察象は仏教であった。仏教はむンドではもう䞋り坂でより熱心な仏教囜ぞ流れお行こうずしおいた。それをちょうどシナが迎え取った。有為な僧や矎術家はそれに䌎っお東挞したのである。しかしバラモン文化は䌝道の傟向を持たないのみならず、たた囜倖に出る必芁もなかった。だから本栌的なむンド劇が囜倖に抌し出しおきたずは考えられないのである。恐らくそれは仏教の儀匏に摂取せられた限りのむンド劇の芁玠に過ぎなかったであろう。䌎楜はだから十分な意味で劇ずは蚀えないであろう。しかしたずいペヌゞェント匏のものであったずしおも、その背埌には十分に発達したむンド劇が控えおいたこずを忘れおはならない。 十䞀 カラ颚呂――光明后斜济の䌝説――蒞し颚呂の䌝統  法華寺の境内に光明皇后斜济の䌝説を負うた济宀がある。いわゆるカラ颚呂である。わたくしはこれたでこの「カラ颚呂」なるものの存圚をさえ知らなかったが、先日奈良坂の途䞭で車倫から初めお教わったのである。谷を距おお倧仏殿が倧きく芋えおいる坂の䞭腹に歩廊のような现長い建物のあるのがそれだった。倧仏鋳造や倧仏殿建立の倧工事の時に、病を埗た工匠・人倫の類がそこで湯治をしたず蚀われおいる。その「カラ颚呂」に今日突然法華寺で出逢ったのである。  济宀は本堂の東方に圓たる庭園のなかにあっお、䞉間四方ぐらいの小さなものであるが、内郚の構造は党然わたくしの予期しないものであった。床は瓊を敷き぀め、䞭倮にはさらに䞉尺ほどの高さの板の床を䜜り、その䞊に屋根もあり板壁もある小さい家圢が構えられおいる。蚀わば入れこにした箱のように、济宀のなかにさらに济宀があるわけである。その偎面は西掋建築の窓扉ず同じやり方のもので、党䜓の栌奜が枬候所などの寒暖蚈を入れる箱に䌌おいる。だから䞭は暗い。それぞはいるには、䞉四段の梯子をのがり、身をかがめお、狭い入り口から這い蟌んで行くのである。䞭には五六人ぐらいなら、さほど窮屈でもなくしゃがんでいられるらしい。これが぀たり济槜であっお、そのなかぞ、床板の䞋から湧出する蒞気が、充満する仕掛けになっおいる。玔然たる蒞し颚呂である。  この構造が倩平時代のものをそのたた䌝えおいるのかどうかはわからない。東偎のたき口は西掋竈颚に煉瓊を積んで造っおあったし、北偎の隅には珟圚の尌僧が垞甚するコンクリヌト造りの長州颚呂が蚭けおあった。この皮の改良が千幎にわたっお少しず぀詊みられたずすれば、これによっお原圢を想像するのは危険な話である。しかしこの「蒞し颚呂ずしおの構造」だけは昔の面圱を䌝えおいはしたいか。少なくずもこれに䌌寄った蒞し颚呂が光明皇后の時代に存圚したずいうこずは確かではなかろうか。  この济宀の楣間に光明皇后斜济の図が額にしお掲げおある。珟圚の銭湯ず同じ構造の济宀に偏䜓疥癩の病人がうずくたり、十二ひずえに身を装うた皇后がその偎に䜇立しおいる図である。光明皇后の十二ひずえも時代錯誀でおかしいが、この蒞し颚呂の蚭備ず盞面しお銭湯颚の济宀が画いおあるのは、愛嬌を通り越しおむしろ皮肉に感ぜられた。しかし実のずころわれわれは光明皇后斜济の䌝説を、挠然ずこの図のように想像しおいたのである。斜济が蒞し颚呂であるずするず、われわれも考えなおさなくおはならない。  蒞し颚呂が医療に圹立぀こずは叀くから知られおいた。今でも䞀皮の物理的療法ずしお存圚の意矩を持っおいる。倩平時代に著しいヒステリむ颚の病気や、その他党身の衰匱を起こすさたざたの病気が、蒞し颚呂によっお幟分治療せられたろうこずは想像するに難くない。ずするず、蒞し颚呂を民衆に斜すこずは、慈善病院を経営するのず同じ意味の仕事になる。慈悲を理想ずした皇后がこのような蒞し颚呂の「斜济」を行なわれたずいうこずは、きわめおありそうなこずである。その際皇后が呚囲の人々に諫止せられる皋床の熱意を瀺しお、自らこの济堎に臚んで䜕事かをされたずいうこずもあり埗ぬこずではない。しかし䌝説は単にそういう「斜济」を語るだけにずどたっおはいないのである。『元亚釈曞』などの䌝える所によるず、――東倧寺が完成しおようやく慢心の生じかけおいた光明后は、ある倜門裏空䞭に「斜济」をすすむる声を聞いお、恠喜しお枩宀を建おられた。しかしそればかりでなく同時に「我芪ら千人の垢を去らん」ずいう誓いを立おられた。もちろん呚囲からはそれを諫止したが、后の志をはばむこずはできなかった。かくお九癟九十九人の垢を流しお、぀いに最埌の䞀人ずなった。それが䜓のくずれかかった疥癩で、臭気充宀ずいうありさたであった。さすがの后も躊躇せられたが、千人目ずいうこずにひかされお぀いに蟛抱しお玉手をのべお背をこすりにかかられた。するず病人が蚀うに、わたくしは悪病を患っお氞い間この瘡に苊しんでおりたす。ある良い医者の話では、誰か人に膿を吞わせさえすればきっず癒るのだそうでございたす。が、䞖間にはそんな慈悲深い人もございたせんので、だんだんひどくなっおこのようになりたした。お后様は慈悲の心で人間を平等にお救いなされたす。このわたくしもお救い䞋されたせぬか。――后は倩平の矎的粟神を代衚する。その官胜は銥郁たる熱囜の銙料ず滑らかな玉の肌ざわりず釣り合いよき物の圢ずに慣れおいる。いかに慈悲のためずはいっおも癩病人の肌に唇を぀けるこずは堪えられない。しかしそれができなければ、今たでの行はごたかしに過ぎなくなる。きたないから救っおやれないずいうほどなら、最初からこんな䌁おはしないがいい。信仰を捚おるか、矎的趣味をふみにじるか。この二者択䞀に抌し぀けられた后は、䞍埗已、癩病の䜓の頂の瘡に、倩平随䞀の朱唇を抌し぀けた。そうしお膿を吞っお、それを矎しい歯の間から吐き出した。かくお瘡のあるずころは、肩から胞、胞から腰、぀いに螵にたでも及んだ。偏䜓の賀人の土足が女のなかの女である人の唇をうけた。さあ、これでみな吞っおあげた。このこずは誰にもおいいでないよ。――病人の䜓は、突然、端厳な圢に倉わっお、明るく茝き出した。あなたは阿閊仏の垢を流しおくれたのだ。誰にもいわないでおいでなさい。  これは誠にありがたい話で、嘘にもこういう䌝説を負うた皇后のあるこずはわれわれの誇りである。『元亚釈曞』の著者虎関和尚はこの話を批評しお、枩宀を造るのはいいが、垢を流したり膿を吞ったりするのはよけいなこずだ、そんな些现なこずをしなくおも、堅誠あるものは造次顛沛みな阿閊を芋るずいっおいるが、これはどうも承服し難い。去垢吞膿の類は埌䞖の仏家の仮構であろうずいうのならばわかるが、この話を真実ずしおおいお、その䞊で、そんなこずはよけいなこずだ、女のくせに千人の垢を流すなどは女の道にはずれおいる、ずいうのは、この話に珟われた宗教的興奮を無芖するものずいわなくおはなるたい。生枩い心持ちで癩病人の膿などが吞えるものではない。  が、もずよりこれは䌝説である。しかも宗教的䌝説ずしお型にはたったずいっおいいほどのものである。しかしそういう䌝説が蒞し颚呂の知識の䞊に立っお語られたずするず、逆に䌝説の方から蒞し颚呂のやり方を掚枬するこずもできるであろう。あの狭い暗い济槜ぞはいっお蒞気に蒞されながら民衆の垢を流しおやるなどずいうこずは、ずおもできるはずのものでない。埓っお垢を流すのは、济槜の倖の流し堎においおであろう。十分に蒞気にむされお、䜓じゅうの垢がこずごずく倖に流れ出たような気持ちになっお、济者が济槜から出おくる。しかし济者はむされたためにぐったりずなっおいる。その䜓をたずえばギリシアの Strigil のような、朚か銅かで造った道具でもっお、ぬぐっおやるずいうようなやり方であったかもしれない。そういうやり方でならば、皇后が济宀に入っお民衆の垢を取っおやるずいう堎面を想像したずしおも、さほど驚くに圓たらない。  しかし重倧なのはこの時の济者の心持ちである。自ら蒞気济を詊みおみたら、その芋圓が぀くかも知れないが、もしそこに奇劙な陶酔が含たれおいるずするず、事情ははなはだ耇雑になる。人の話によるず、珟圚倧阪に残っおいる蒞し颚呂はアヘン吞入ず同じような官胜的享楜を䞎えるもので、その垞甚者はそれを欠くこずができなくなるそうである。もし蒞気济がこのような生理的珟象を造り出すならば、济槜から出たずきの济者は、特別の感芚的状態に陥っおいるずいわなくおはならない。ちょうどそこぞ慈悲の行に熱心な皇后が女官たちを぀れお入堎し、济者たちを型通りに凊眮されたずするず、そこに蒞気济から来る䞀皮の陶酔ず慈悲の行が䞎える喜びずの結合、埓っお宗教的な法悊ず官胜的な陶酔ずの融合が成り立぀ずいうこずも、きわめおありそうなこずである。倩平時代はこの皮の珟象ず芪しみの倚い時代であるから、必ずしもこれは荒唐な想像ではない。こういう想像を蚱せば「斜济」の䌝説は民衆の偎からも起こり埗たこずになるであろう。  斜济が行なわれるためには、もっず芏暡の倧きい、宀の広い、堂々たる枩宀が倩平時代にあったのでなくおはならない。圓時の技術からいえばそういう物を造るのはわけのないこずである。この倧枩宀の想像の根拠ずなるものはさしずめ東倧寺の湯屋であろう。わたくしは埌に筒井英俊君の奜意によっお倧仏殿の北東にある湯屋を芋るこずができた。これはさほど叀いものではないが、しかしかなり倧きい、堂々たる建物である。前宀ず埌方の济槜ずに別れおいお、その前宀は数十人の人を容れるこずができる。そこは脱衣堎にでも、あるいは蒞济者の凊理堎にでも、䜿われ埗るであろう。济槜はやはり蒞し颚呂で、これも建物に盞応しお倧きかった。これは恐らく叀い湯屋の䌝統を䌝えたものであろう。これから掚枬するず、倩平時代にはかなりの倧枩宀があり埗たのである。  法華寺の蒞し颚呂が珟代たでも蒞し颚呂ずしお存続したずいうこずは、この寺の本尊が珟代たでそこなわれずに残存したずいうこずほど重倧ではないが、しかし些现なこずながらも䜕ずなく興味が深い。颚呂の方が肉䜓に近く、肉䜓の方が昔ず今ずを結び぀けるに生々しい効果をもっおいるずいうせいでもあろうか。自分でこの蒞し颚呂を詊みお、その枩たり工合や、肌の心持ちや、䜓のグッタリずする様子や、たたありたけの汗を絞り出したあずのいい心持ちなどを経隓しおみたら、䞀局その感じがあるだろうず思う。こういう官胜的な珟象で昔を想像するのはあたり気のきいたこずではないが、しかし最も容易な道である。  ――あずで君に西掋の蒞し颚呂の話をきいた。快く暖たっおいる倧理石の腰掛けのすべすべずした肌ざわり、蒞気にむされおグッタリずしたからだ、流るる汗、汗を拭き萜ずす道具、そうしお爜快なシャワア、いかにも気持ちが奜さそうで、法華寺の济宀ずは倧倉な違いである。しかしこのトルコ颚呂も、もずはアゞアから出たもので、あるいは倩平の枩宀ず同䞀の源泉を持っおいるのかも知れない。ただそれが䞀぀の民族の生掻の内に䞍断に生かされお来たか吊かで、これほど著しい盞違を造り出したのかも知れない。 十二 法華寺より叀京を望む――法華寺十䞀面芳音――光明后ず圫刻家問答垫――圫刻家の地䜍――光明后の面圱  湯殿の前の庭に立っお東の方をながめるず、若葉の茂った果暹の間から、䞉笠山䞀垯の山々や高台の䞊に点々ず散圚しおいる寺塔の屋根が、いかにものどかに、半ば色づいた麊畑の海に浮かんで芋える。その麊のなかを小さい汜車がノロノロず銳けおゆくのも、わたくしには淡い哀愁を起こさせる。たたしおも幌い時の心持ちがよみがえっお来たのである。庭の砂の、かすかに代赭をたじえた灰癜の色も、それを螏む足の心持ちも、すべおな぀かしい。滑らかな蚀葉で愛想よく語る尌僧の優しい姿にも、今日初めお逢ったずは思えぬ芪しさがある。  䜕ずはなくしめった心持ちになっお、麊の間から倧仏殿をながめおいるず、盞倉わらずたた倩平の面圱が、想像の額瞁のなかにもりあがっおきた。  法華寺、詳しくは法華滅眪之寺は倧倭の囜分尌寺で、光明皇后の熱信から生たれたものらしい。倩平十䞉幎に詔が出おいるから圓時すぐ造営がはじたったずしおも皇后はもう四十を超えおいられた。それから二十幎の間、皇后の特別な愛着がこの寺に集たった。埓っお尌寺ず埌宮ずの亀枉が倚く、埌には孝謙䞊皇が䜏たれお仙掞埡所のようになったこずもあった。そのころは䞊皇ももう埡幎が四十六䞃であった。再び垝䜍に即かれた埌にもなおしばらくこの寺は埡所ずなっお、盛んに造営が行なわれた。造法華寺叞は光仁垝の時代にもただ残っおいたそうである。  われわれの立っおいる所に立っおいれば、倩平時代埌半の倧事件は倧抵手に取るように芋るこずができたであろう。遷郜隒ぎがあっお倧宮人がぞろぞろず北の方ぞ行っおしたう。近江では倧銅像の鋳造などがはじめられおいる。叀き郜は「道の芝草長く生い」䞖の䞭の無垞を思わせるほどに荒れお行く。そうかず思うずたた倧宮人がぞろぞろ奈良ぞ垰っおくる。そうしお倧仏の原型などを造るので倧隒ぎがはじたる。䜕千ずいう倧工や金工や人足がいそがしそうに働きはじめる。毎日毎日奈良坂の方に材朚や銅塊などを運ぶ人の圱が芋える。足堎には土がもられ、その䞊には鋳銅のすさたじい焔がひらめいおいる。それが幟幎か続く。やがお䟛逊の日になるず䞀䞇五千の灯で東倧寺䞀円の森の䞊が赀くなる。歌唄讃頌する数千の沙門の声が遠雷のように倧きくうねっお聞こえおくる。――東の方が少し静かになっお来たかず思うず、今床はたた西の方で唐招提寺や西倧寺や西隆寺などの造営がはじたる。奈良遷郜の際すでに四十八箇寺あったずいう奈良の寺々は、このころはもう倍にはなっおいたであろう。いかにも仏教の郜らしい寺の倚さである。  郜を取り巻く諞寺の梵鐘が䞀時にずどろき出た情景を想像しおみる。我々は正午に工堎の汜笛が斉鳎する感じを知っおいるが、あれを音波の長い鐘の音に眮き換えるずどんな心持ちのものになるだろう。長閑な響きではあっおも、やはり生き生きずした華やかな心持ちではなかろうか。奈良の昔の鐘は諞行無垞の響きを持っおいたずは考えにくい。  䌎楜の類は非垞な勢いで流行した。皇宮の近いこの土地ではその物音を耳にする機䌚も倚かったであろう。螏歌の類も朝堂の饗宎に盛んに行なわれた。すべおこれらの歓楜の響きを尌寺にあっお聞いおいた人々の心には、実際はどんな情緒があったのか。歓楜の過冗な時代には、歓楜から目をそむけお真に枅浄な生を芁求する女が出おくるものである。わが滅眪の寺にもこれらの心からな尌たちが䜏んでいたのか。あるいは䌎楜や読経や芳仏やなどによる矎的法悊ず真に解脱によっお埗られる宗教的法悊ずを合䞀しお考えおいる圓時の「新しい女」が䜏んでいたのか。それはわれわれには興味の倚い問題である。が、しかしそれを知る手がかりがない。  法華寺の本尊十䞀面芳音は二尺䜕寞かのあたり倧きくない朚圫である。幜かな燈明に照らされた暗い廚子のなかをおずおずずのぞき蟌むず、銙の煙で黒くすすけた像の䞭から、たずその光った県ず朱の唇ずがわれわれに飛び぀いお来る。豊艶な顔ではあるが、䜕ずなく物すごい。この最初の印象のためか、この芳音は䜕ずなく「秘密」めいた雰囲気に包たれおいるように感ぜられた。胞にもり䞊がった女らしい乳房。胎䜓の豊満な肉づけ。その柔らかさ、しなやかさ。さらにたた奇劙に長い右腕の円さ。腕の先の腕環をはめたあたりから倩衣を぀たんだふくよかな指に移っお行く間の特殊なふくらみ。それらは実に鮮やかに、たた鋭く刻み出されおいるのであるが、しかしその矎しさは、倩平の芳音のいずれにも芋られないような䞀皮隠埮な蠱惑力を印象するのである。  芳心寺の劂意茪芳音に密教颚の神秘性が遺憟なく珟われおいるずすれば、あの芳音に䌌た感じのあるこの像も密教芞術の優秀なものに数えおいいであろう。密教芞術には特に著しく肉感性があらわれおくるように思われるが、あらゆるものに唯䞀真理の衚珟を芋ようずする密教の立堎から蚀えば、女の䜓の官胜的な矎しさにも仏性を認めおしかるべきである。しかしこの皮の矎しさの底に無限の深さを認めるこずは、女䜓の圫刻に神秘的な「暗さ」を添えるずいう結果を導き出した。この芳音像がそのすぐれた蚌拠である。そこには肉感性を敵ずする意識ず共に、肉感性に底知れぬ嚁力を認める意識がある。倩平芞術の豊満な調和のなかには、かかる分裂は芋られなかった。  わたくしは右のような印象のためにこの像を貞芳時代の䜜ずする近来の説に同ずるものであるが、君はこの像に倩平の気分の著しいのを指摘しお、倩平末より埌のものではないずいう䞻匵をたげなかった。なるほどそう芋れば芋られぬでもないのである。この像の豊満味が密教芞術のそれよりも朗らかであるずいうこずは、いっおよいであろう。確かにこの像は正倉院の暹䞋矎人図や薬垫寺の吉祥倩女画像などの方に近い。右腕の異様に長いのがいかにも密教臭いが、しかし倧安寺の女らしい十䞀面芳音なども同じ皋床に長い。倩平の芳音のように盎立の姿勢を取らないで、こころもち前かがみになり、右足をたげ、右手で軜く倩衣を぀たんでいる柔らかい態床も、倩平のものでないずいう蚌拠にはなり兌ねる。倩平末にできた吉祥倩女の画像も同じような柔らかい姿勢で立っおいる。衣王の刻み方などには確かに関野氏の説のごずく倩平颚の円さがある。瓔冠や腕環や髪食などがどうであるにしおも、たた貞芳の刀法がずころどころに珟われおいるにしおも、それだけで決定的に時代をきめるわけには行くたい。暗牛のごずくこの像の円満特殊な盞奜が倩平時代の特性を珟わしおいるず蚀い切るのは考えものであるが、この像を倩平から党然切り離しおしたうのも同様に考えものである。  この像が貞芳時代の䜜であるこずには疑いの䜙地はないず思うが、しかし倚くの専門家がか぀おこの像を倩平時代のものずしたこずには、盞圓に同情すべき根拠があるのではなかろうか。  それに぀いおはこの像に関する䌝説がわれわれの興味をひく。『興犏寺濫觎蚘』ずいう本は信甚のできるものではあるたいが、その䞭に次のようなこずを䌝えおいる。――北倩竺也陀矅囜の芋生王は生身の芳䞖音を拝みたくお発願入定䞉䞃日に及んだ。その時に、生身の芳音を拝みたくば「倧日本囜聖歊王の正后光明女の圢」を拝めずいう告げがあった。倧王倢さめお思うに、䞇里蒌波を枡っお遠囜に行くずいうこずは到底実珟しがたい。そこで再び䞀䞃日入定しお祈った。今床は、巧匠をやっお圌女の圢像を暡写させお拝むがいいずあった。王は歓喜しお、工巧垫を掟遣した。それが倩竺囜毗銖矯磚二十五䞖末孫文答垫であった。文答垫は難波接に着いおこの由を官を経お奏䞊した。皇后が仰せられるに、功は倧臣の少女、皇垝の后宮である。どうしお異囜倧王の賢䜿などに逢えよう。しかしわたくしの願いをかなえおくれるならば逢っおもいい。文答垫は答えお䜕でもいたしたしょうずいった。ちょうどそのころ皇后は亡き母橘倫人のために興犏寺西金堂を建おおおられたので、文答垫にその本尊阿匥陀劂来の補䜜を䟝頌せられた。文答垫は、母公埡報恩のためならば釈迊像がよろしゅうございたしょう、昔忉利倩で摩耶倫人に恩を報ぜられた䟋がございたす、ず奏䞊した。そこで釈迊像にきたった。本朝小仏垫䞉十人が助手になった。脇士も圌によっお造られた。皇后は圌の補䜜堎ぞ行かれたこずもある。文答垫が芋るず、后のからだは女䜓の肉身ではなくしお十䞀面芳音の像に珟われおいる。でそれをモデルにしお䞉躯の芳音を぀くり、䞀぀は本囜ぞ持ち垰った。あずの䞀぀は内裡に安眮したが今は法華滅眪寺にある。もう䞀぀は斜県寺に安眮せられおいる。  この䌝説が事実を䌝えるものでないこずはいうたでもなかろうが、われわれにずっお問題ずなるのは、なぜ光明后をモデルずしたずいうごずき䌝説が生じたか、たたその䜜家がなぜ文答垫ずされたか、ずいうごずき点である。  問答垫は興犏寺の珟存八郚衆十倧匟子の䜜者ずしお䌝えられおいる人である。「問答垫」ずいう名であったか吊かはずにかくずしお、あの諞䜜がある特異な才胜を持った人の䜜であるこずは疑いがない。特にその䜜家が肖像圫刻を埗意ずしたろうこずも、あの諞䜜を䞀芋した人は蚱すであろう。ずころでこの䜜家が、西金堂の諞像の補䜜にあずかったずいうこずは、確かであろうか。珟存の諞像が問答垫の䜜ず称せられ、西金堂の諞像も同じく問答垫が䜜ったず䌝えられるにしおも、埌者は残存しおいないのであるから、果たしお同䞀人の手になったかどうかはわからない。西金堂に十倧匟子や神王の像が安眮せられたこずは『扶桑略蚘』『元亚釈曞』等のひずしく䌝えるずころであるが、しかし埌代に存しおいた十倧匟子八郚衆が額安寺の叀像を移したものであっお、建立圓時よりこの金堂に安眮せられおいたものでないこずも、『濫觎蚘』等に䌝えられおいる。『䞃倧寺巡瀌蚘』には、この八郚衆はもず額田郚寺の像であっお西金堂に移した埌毎幎寺䞭に闕乱のこずがあるため長承厇埳幎䞭に本寺ぞ垰したはずだが、今ここにあるのは䞍思議だずある。いずれにしおも珟存の諞像ず同䞀の手になったものが圓初西金堂の内郚を食っおいたかどうかは知る由がない。しかし䌝説は興犏寺の最も重倧な仏像が問答垫の䜜であるこずを芁求するのである。それは興犏寺の残存仏像䞭の最もすぐれたものが問答垫の䜜でなくおはならないのず同様である。぀たり問答垫ずいうのは、倩平時代の興犏寺の最もすぐれた圫刻家のこずなのである。ずすればこの圫刻家は圓然西金堂の本尊を造った人である。光明后は亡き母に察する情熱のために西金堂の建立に぀いお特に熱心な泚意を払われたに盞違ない。だから䌝説にあるように、みずから補䜜堎に臚たれたずいうようなこずもないずは限らない。そこでたたこの芞術家が光明后を芋お創䜜欲を刺戟せられたずいう仮定も可胜になる。圓時䞉十二䞉歳ぐらいであった光明后は、芳音像のモデルずしおもふさわしい。――かく考えれば、興犏寺の䌝説は䞀瞷の生呜を埗お来るであろう。それらのこずは少なくずも、「あり埗た」こずである。「あった」か「なかった」かの問題よりも、「あり埗た」か「あり埗なかった」かの問題に興味を抱く人に察しおは、これらのこずも䜕ほどかの意味を持぀に違いない。  しかし光明后を圫像のモデルに䜿うようなこずが果しお圓時の瀟䌚においお蚱されたであろうか。仏工は造仏叞に䜿圹せられる䞀皮の劎働者で、われわれの考える芞術家ずは党然異なった地䜍にあるものではなかったろうか。わたくしはそうは思わない。なるほど叀蚘録には仏工の功皋も他の劎働者の功皋ず同じように数えられおいる。しかし止利仏垫におけるごずく、有名な芞術家が特に垝王の眷顧をうけた䟋もないではない。ちょうど倩平の初めは倧唐文化に察する憧憬が絶頂に達したころで、この文化を深く䜓珟した者ほど時代の英雄であるこずができた。阿倍仲麿が玄宗の眷顧を埗、王維・李癜等ず芪しかったのに芋おも唐の文化を咀嚌する胜力は、少なくずも優秀な少数者においおは、さほど幌皚であったずは思えない。仲麿ず同道した吉備真備や僧玄昉が、十九幎の留孊の埌、倚量の芞術品や孊問芞術宗教の曞籍を携えお垰っお来たずきには、圌らに察する宮廷の歓迎はすさたじかった。宮廷の人々の心的生掻はたちたち圌らの圱響に服した。垝の生母宮子倧倫人の幜欝症さえも圌らの手によっお癒された。未来に垝䜍を぀ぐべき阿閉皇女の教育は真備の手に委ねられた。かくのごずき珟象はただ倖圢的な唐颚暡倣欲のみから説明するこずはできない。恐らく宮廷の人々はこれらの新人物ず接するこずによっお心情の芁求を満足させたのであろう。それほど人々の心は広い掻き掻きずした䞖界に察する憧憬に充たされおいたのである。そういう敏感な心が、圌らの垰朝の䞀二幎前に、あの巧劙な圫刻を造ったガンダヌラ人もしくは䌝説的にガンダヌラ人ずされおしたった無名の日本人に察しお少しも動かなかったずは考えられない。恐らく宮廷の人々はこの圫刻家をいく床か匕芋したであろう。それは「あり埗る」こずである。ずするず、この圫刻家は幟床か女の䞭の女なる人を芋た。圌の補䜜欲がそこに動いた。そうしお手ごろの倧きさの十䞀面芳音が、補䜜それ自身を目的ずする歓喜の内に造られた。これも「あり埗る」こずである。それを誰に献じたかは知らない。しかしこうしお造った䞉躯の芳音像のうちの䞀぀を、圌が故囜ぞ持ち垰ったずいう䌝説は、圌の補䜜動機に぀いお䞀぀の暗瀺を投げおいる。その補䜜動機もたた「あり埗る」こずである。  が、以䞊にのべたのは光明后をモデルにしたずいうこずに察する興味であっお、法華寺の芳音に光明后の面圱を認めるずいうのではない。われわれは光明后の顔に粟緎せられた感情のひらめきを期埅する。その目には怜悧な光を、その口には敏感な心の埮かな慄動を、その頬には消ゆるこずなき情熱のこたやかな陰圱を。しかしこの十䞀面芳音の面盞はそういう期埅に応ずるものではない。それは豊かではあるが、掗緎せられた感じがない。情熱的ではあるが、柔らかみがなく、あらっぜい。問答垫䜜の竜王像がわれわれに期埅させる光明后の面圱は、もっず醇矎なものでなくおはならない。だからこの十䞀面芳音が貞芳時代の䜜であっお光明后をモデルずしたものではないずいう説の方がわたくしには望たしいのである。  ではこの像が倩平時代ずある関係を持っおいるずいうこずはどこから蚀えるか。光明后をモデルずした芳音はあり埗た、しかしこの像はそれではない、――ずすれば、䞡者の関係は絶えおいるではないか。  その間を぀なごうずするのは、単に空想にすぎない。すでに光明后をモデルずした芳音があり埗た以䞊は、それが内裡に安眮せられたずいうこずもたたあり埗たであろう。内裡に安眮せられたこずが可胜であるならば、宮廷ず特殊の関係を持っおいた法華寺が、この芳音ず関係するに至ったこずもたた可胜であろう。『続玀』の蚘する所によれば、光明后厩埡の時には党囜の諞寺が䟛逊を営んで阿匥陀浄土の画像などを造ったが、特に䞀呚忌の営みのためには、党囜の囜分尌寺に阿匥陀䞈六像䞀躯・脇䟍菩薩二躯を造るず共に、法華寺に阿匥陀浄土院を新築しお忌斎の堎所にあおた。この際光明后の面圱を䌝える芳音が䜕らか重倧な圹目を぀ずめたこずはあり埗ぬこずではない。そうなるずこの芳音は圓然法華寺に移らなくおはならないのである。  すでにこの芳音が法華寺にあり埗た以䞊は、光明后に察する特殊の尊敬のゆえに、特に顕著に衆尌の尊厇をうけたこずもたたあり埗たであろう。そうしお䜕かの理由で同じような芳音像が造られなくおはならなかった時に、衆尌がこの像に䌌るこずを望んだずしおも䞍思議はない。貞芳時代は暡䜜などの行なわれた時代ではないのであるから、䜜家自身は原䜜以䞊に優れた芳音を䜜る芚悟で仕事をしたであろうが、呚囲のものにずっおはこれもたた光明后の面圱を䌝えた芳音ずしお通甚したであろう。  そこで珟圚の十䞀面芳音は光明后をモデルずした原䜜を頭に眮いお埌代の人が新しく造ったものだずいう想像説が成り立぀。あの䌝説は火のないずころに起こった煙ではなく、この十䞀面芳音に倩平の痕跡を認めるのも根拠のないこずではないずいうこずになる。 十䞉 倩平の女――倩平の僧尌――尌君  倩平の時代の代衚的婊人の肖像を持たないこずはわれわれの䞍幞である。そのためにわれわれは倩平の女に察しお極端に同情のない芳察ず著しく理想化の加わった芳察ずの間を圷埚しなければならぬ。  しかし婊人の地䜍や質の問題は男の状態から掚察せられる。良匁のようにキビキビした衚情を持った男が生存した時代には、われわれの想像するような敏感な女がいなかったはずはない。『続玀』に蚘されおいる婊人の掻動は、単に倖面的で、われわれの掚枬を裏づける圹には立たないが、『䞇葉集』を詳しく芳察すれば、よほど有力な蚌拠が出お来るかも知れぬ。しかしこの時代の特殊な文化状態を考えるず、圓時の文芞は必ずしも人心の十分な衚珟ずはいえないであろう。新しい文化によっお人々の心は急激に成長した。しかしそれを珟わすべき固有の蚀語はただ貧匱であった。ずいっお自己衚珟に圹立おるほど倖囜語に習熟するこずも容易ではない。䞡者を混融しお新しい様匏を぀くるこずは、われわれの時代においお困難であるごずく倩平時代においおも困難であった。そこで耇雑な情緒の持ち䞻の間からも単玔な文芞しか生たれ埗ないずいうこずは可胜であった。のみならず䞇葉の恋歌には恋人の間の莈答が倚い。それは盎接に盞手を動かすこずを目ざすのであっお、客芳的な描写を意図するのではない。だから䞇葉の歌が圓時の女の心を残る所なく珟わしおいるず芋るわけにはゆかぬ。もし䞇葉の歌のみをもっお圓時の人心を説明するずすれば、仏教や仏教芞術はその意矩の倧半を倱うであろう。  しかし䞇葉の恋歌は、䞀々の歌の内容は単玔であっおも、それの詠たれた境䜍が必ずしも単玔でなかったこずを思わせるものがある。婊人たちはただその情熱を蚎えるこずに急であっお、その情緒の耇雑さを分析し描写する䜙裕を持たなかったが、しかしそれは耇雑な心の葛藀を経隓しなかったずいうこずではない。新来の文化の圧倒的な圱響のもずにあっおも、圌らの生掻の䞭心は恋愛であった。身ず心ずを同時に燃焌せしめるような玔粋な恋愛であった。しかし恋愛がすなわち結婚であり、情人がすなわち劻であっお、䞡者を区別する意識の皀薄であった圓時には、愛の衰うるずころに別離があり、愛あるずころにのみ運呜の安定があったず考えられる。埓っお圓時の婊人には、芪和力の向かうたたに倫を倉える自由があるず共に、たた身を委ねた男からい぀捚おられるかわからない危険もあった。制床の束瞛のために芪和力を無芖せしめられる悲劇は起こらなかったが、匕力ず拒力ずの亀錯によるさたざたの悲劇は起こらなくおはならなかった。埓っお女はその恋愛の幞犏を持ち続けるために、ただその官胜の魅力のみに頌っおいるこずはできなかった。䞇葉の女の歌が男の歌に劣らず優れおいるのは、そのためでないずは蚀えない。  倩平時代は他の時代もそうであるが倚劻を怪したなかった。光明后を配ずする聖歊垝にすら他に倫人があった。女はそれに慣らされおいたかも知れぬ。東囜の女が郜にある倫を恋うる歌に、倧和女の膝を枕にする時にも私を忘れおくれるななどずいうのもある。しかし恋愛が独占を芁求するのは昔も今も倉わるたい。男がそれを芁求したごずく女もたたそれを望んだであろう。こずに倫劻が別居しお時々逢うに過ぎなかった圓時の事情では、この感情は特に匷たりやすかったに盞違ない。倫恋しさに死を思うほど熱しお行く劻の情緒は、それでなくおは解し難い。わたしばかりがあなたを恋しおいる、あなたがわたしを恋するずいうのは口先の気䌑めに過ぎぬずいう倧䌎坂䞊郎女の恚みも、そこから解せられなくおはなるたい。男の恋が女よりも自由であったずすれば、この苊しみが女の方にはるかに匷かったずいうこずも想像せられる。  たた芪和力の向かうがたたに行動するこずのできた時代であったずは蚀っおも、そこに䜕らの拘束もないわけでなかった。「ひずごず」に察する恐れのごずきがそれである。人蚀の繁きをいずうお逢うのを避けおはいたが、それを深い意味にずっおくれるなずか、あなたがこの恋を遂げようずいう匷い意志を持぀なら、人蚀がいかに繁くずも逢いに出ようずか高田女王、あるいは、あの倜でなくおも逢えたものを、なぜたたあの晩に逢っお人に評刀せられるこずだろうずか倧䌎坂䞊倧嬢、明らかに恋は拘束せられおいる。しかしこの「人蚀」の内容は䜕であったか。兄効の恋や人劻の恋が非難せられるのはわかっおいるが恋を卑しいずしない時代に単なる恋が䞖間の非難をうけるずいうのは解し難い。恐らくそこには嚘の運呜を芋たもる芪の愛が意倖に匷い暩嚁を持っおいたのであろう。母にさえ秘めおいる心をあなたに委せるずいう歌がある。この堎合「人蚀」が恐れられるずすれば、その奥底には母の暩嚁が控えおいるに盞違ない。たた、事があらば小泊瀬山の墓ぞも共に埋められよう、それほどにしおも離れたい、心配するなずいう歌がある。もしこれが䌝にいう通り、芪に隠しお恋をする女から、女が芪に呵責せられるのを恐れおためらっおいる男ぞ莈ったものであるずすれば、芪の暩嚁はかなり匷かったず芋なくおはならぬ。もずよりこの歌にそういう背景を぀ける必芁はないのであるが。――しかしそれだけではただ足りない。恋を重んずる時代には、他人の恋に察する嫉劬が匷かったろうずいうこずも考える必芁がある。矎しい女を独占する者の䞊には、その女に察しおある感情を持ったあらゆる男の敵意が集たっおくるに盞違ない。恋愛の幞犏に酔う矎しい女の䞊にも、その幞犏に薄いあらゆる女の敵意が集たるであろう。それはやがお悪意に倉じ呪詛に倉ずる。人々はその恋人たちの䞍幞を願う。自然人であった倩平の人の間にこのこずのあるのは䞍思議でない。かくお恋愛は恋を重んずる心のゆえに迫害をうけるのである。――人蚀の恐れられる理由はこれだけではただ尜きないであろう。が、ずにかく人蚀は過床に恐れられた。恋はきわめお秘密でなくおはならなかった。そうしおこの秘密が女の心の最も深き教育者であった。  たた倩平の女は恋においお受身であったばかりではない。笠女郎のごずく男に恋を迫る歌も䞇葉には倚い。確かに倩平の女は男にたけおはいなかった。詩歌においおも政治においおも宗教においおも、倩平時代ほど女の掻躍した時代はほかにない。そのごずく恋においおも勇敢であった。そうしお男が倚劻であるごずく、女も、぀ぎ぀ぎにではあるが、倚倫に芋ゆるこずを蟞せなかった。䞇葉の女詩人鏡女王は、もし額田姫ず同人であるならば、癜鳳期の代衚的人物を䞉人ずも自分の倫ずした。倧仏鋳造時代の執政者橘諞兄の母である橘倫人は、埌に藀原䞍比等の劻ずしお光明后を生んだ。  このような倩平の女がただ単玔な抒情詩的な心持ちばかりでその日を送っおいたずは思えない。人生ず文化ずの広濶な海面を芋わたす胜力が圓時の男にあったずすれば、女にもたたあったであろう。むンドずシナずの爛熟した文化生掻が圓時の男に感染しおいたずすれば、女にもたた感染しおいたであろう。  この方面のこずに぀いおは『䞇葉集』は蚌拠を芋せおくれない。光明后宮の維摩講に唱われた仏前唱歌「しぐれの雚間無くな降りそ玅ににほぞる山の散らたく惜しも」のごずきは、仏に察する感情が党然衚珟せられおいない点でわれわれを驚かすのである。しかし『䞇葉集』の䞖界ず仏教芞術の䞖界ずは党然食い違っおいる。それは単に抒情詩ず造圢矎術ずの差違ではない。趣味や芁求や願望や、芁するに心情の根本をなすものの差違である。䞀぀の時代にかくのごずき二぀の䞖界があるずいうこずは、珟圚目前に倚くの䞖界の分立を芋るこずのできるわれわれには、少しも驚くに圓たらない。倖来文化の咀嚌がほずんど『䞇葉集』のうちに認められないからず蚀っお、倩平時代の人々が倖来文化を咀嚌しなかったず断ずるのは早蚈である。たずい少数の専門家のこずに過ぎなかったずしおも、仏教哲孊の理解はすでにはじたっおいる。いわんやあの巚倧な堂塔・仏像の造立は、䞀般の人心を刺戟せずにはいない瀟䌚的な出来事である。この倧きい出来事が人心の奥底にたで沁み蟌たなかったずは考えられぬ。なるほど仏教芞術の補䜜や受甚はシナの暡倣であっお日本人固有のやり方ではなかった。それに比べれば『䞇葉集』には日本人固有の感じ方が出おいる。しかし西掋の様匏を孊んだ日本人の油絵が日本人の芞術であり、しかもある者は固有の日本画よりもよき芞術品たり埗たごずく、唐颚を暡した日本人の仏像・寺塔もたた日本人の芞術であっお『䞇葉集』の歌以䞊の䟡倀を持っおいるずいうこずは蚀えないだろうか。固有の日本人の「創意」などにこだわる必芁はない。倩平の文化が倖囜人の共働によっおできたずしおも、その倖囜人がたたわれわれの祖先ずなった以䞊は、祖先の文化である点においお倉わりはない。『䞇葉集』の歌は貎い芞術であるが、しかし倩平文化の䞀郚を瀺すものであっお、党郚を瀺すものではない。われわれは仏教芞術においおもたた倩平時代の人の心を読み埗るのである。  そこで考えられるのは倩平の尌僧の生掻である。圌らの内生もたた盞圓の深味を持っおいたのではなかろうか。  圓時の仏教が囜民の内生ず深いかかわりを持たなかったこずを『䞇葉集』の蚌拠によっお䞻匵するのは、右に説いたごずく䞀面的な芋方にすぎない。たた日本人は楜倩的であるゆえに厭䞖芳を根柢ずする仏教を咀嚌し埗るはずはなかったずいう䞻匵も、奈良の六宗に察しおは通甚するずは思えない。あの芞術的・哲孊的な宗教ぞ近づく道は、厭䞖芳のみではないからである。たた宗教ずしお人間苊の䜓隓が必須の条件であるずいうならば、饑饉ず疫病ずの頻発する圓時の生掻には、人生の惚苊は欠けおいないず答えるこずができる。  行基の起こした宗教運動に察しおは圓時の官暩は同情を持たなかった。「小僧行基及びその埒匟等、街衢にお劄りに眪犍を説き、朋党を構えお指臂を焚剥せしめ、諞家を歎蚪仮説しお匷いお䜙物を乞い、聖道を詐称し癟姓を劖惑する。ために道俗擟乱し四民は業を棄おる。進んでは釈教に違い退いおは法什を犯す。」これが埌に菩薩ずたで蚀われた行基の五十近いころ逊老元幎に受けた非難である。この運動は官暩の犁戒にもかかわらず存続した。「近ごろ右京の僧尌が戒埋を緎らずただ浅薄な知識をもっお因果を説き民衆を誘惑する。人の劻子にしお、仏教ず称しお芪や倫を捚お家を出るものがある。経を負い鉢を捧げお道途に食を乞うものがある。邪説を停称しお法を村邑の間に広めるものもある。この皮の矀衆は初めは修道に䌌るも぀いには奞乱をなすに至るだろう。」これが五幎埌逊老六幎の官奏である。さらにその埌九幎を経お、行基の事業はようやく官暩に認められ、圌の远随者は、男は六十䞀、女は五十五以䞊ならば、正匏に僧尌ずなるこずを蚱された。しかしなお自䜙の持鉢行路者は捕瞛せられなくおはならなかった倩平䞉幎詔。寺に寂居しお教えを受け道を䌝うるのが僧尌の垞道であるずする圓時の官暩には、これらの宗教運動は過激に芋えたのであろう。しかし官暩が認容しなかったからずいっお、この運動を盎ちに䜎玚な迷信ず芋おしたうのは考えものである。行基の埒が因果を説いた。これは仏埒ずしお正しい。乞食に生きた。それもたた同様に正しい。それだけでは聖道を詐称するこずにはならない。行基の䌝道に興奮しお四民が業をすお家を出た。それは行基がその教説を実感によっお説いた蚌拠である。癟姓を劖惑したのではない。たた出家者が愛欲を断぀のは、その出家が内的必然から出た蚌拠である。しかし官暩はこのような宗教的培底を喜ばなかったのである。  思うに圓時の民衆の䞀郚には、䞊流瀟䌚におけるよりもはるかに匷い宗教的芁求があったのであろう。しかし出家の教えが倧衆の間に文字通りに実行されれば、瀟䌚の組織は厩壊するほかないであろう。なぜならそこには食物を生産する者はなく、ただ食物を乞うもののみずなるからである。この矛盟のために出家の制限が必芁ずなった。そこで僧尌の資栌ずしお浄行䞉幎、法華経諳誊ずいうごずきこずが課せられるに至った。これはいわば各人の宗教的芁求を制限するこずである。  しかしこの矛盟を解決しようずする詊みはやがお䌁おられなくおはならなかった。行基が圓代の英雄ずしお認識せられるず共に、仏寺の興隆が瀟䌚問題の解決策ずしお珟われお来たのである。瀟䌚の䞍安を激成する倩倉地異は仏法によっお打ち克たれねばならぬ。そこで数知れぬ寺々、特に囜分寺の造営が始たる。僧尌の需芁も倚くなる。行基の远随者のごずき持鉢行路者の倚数は、この時に手ぎわよく凊理せられた。倩皇が䞍予だずいっおは䞉千八癟人の僧尌が぀くられる。倪䞊倩皇の陵を祭るずいっおは僧尌各䞀千が床せられる。倧仏ができたずいっおは宮䞭で千人の僧尌の埗床匏をやる。もずよりそこには䞊流階玚の人もあったに盞違ないが、倚数は䞭流及びそれ以䞋の瀟䌚の求道者であった。  浮浪人はかくしお尊むべき䞉宝の䞀に化し、行基が民衆の間に根匷く育おおおいたものは぀いに倩平文化の有力な支持者ずなった。  これらの僧尌数の少なくずも䞉分の䞀は尌であった。そのうちにはもはや珟䞖に望みをかけない老婆もあったであろう。しかし人の劻や嚘が少なくなかったこずも、前掲の官奏の蚀に明らかである。そこでこれらの尌が真実に珟䞖を捚離しお枅浄な生掻を営んでいたかどうかが問題になる。  確かに圌らのうちには、人生の惚苊に刺戟せられお真に出離の人ずなったものもあったに盞違ない。しかしよりよき生掻ぞの絶えざる憧憬のために珟圚の状態に満足し埗ない倚くの女がその珟䞖ぞの匷い執着に远われおかえっお尌ずなったこずもないずはいえたい。圌らは生きがいのある生掻を求めたのであっお、必ずしも出離を志したのではない。たた芪の意志によっお、あるいは流行の嚁力に圧せられお、うかうかず尌になったものもあったであろう。そこには真実の宗教的決意があったわけではない。この皮の尌は最初の狂熱が醒めた時䜕を感じなくおはならなかったか。圌らは囜家の暩力によっお物質的生掻を保蚌せられた。仏教芞術によっお心の糧を䞎えられた。しかし圌らの愛欲がそれで充足させられたろうずは考え難い。あるものは぀いに䞍犯の誓いを砎ったであろう。あるものは数幎の埌に還俗したであろう。それは自然のなりゆきである。そうならなければ倩平の女が愛においお勇敢であったずはいえない。  けれどもこのこずは、圌らの内の珟䞖捚離の芁求が匷力でなかったずいう蚌拠にはなっおも、圌らが仏教文化に察しお無感動であったずいう蚌拠にはならない。愛欲から解脱し切るこずは宗教的に遞ばれたものにのみ可胜である。しかし絶察者である仏の慈悲を感ずるこず、矎しい偶像ず音楜ずのもたらす法悊に浞るこずは、愛欲に駛る倚くのものにも䞍可胜ではない。圌らは尌寺の束瞛を砎ったにしおも、仏の前には涙を流したのである。  しかし倩平の尌の品行が尌らしくなかったずいう確蚌はない。僧尌に察する蚓什の倚くは孊業の匛廃を譊むるにあった。たずえば「転経唱瀌は芏矩に埓うべきであるに近ごろの僧尌は我流の調子を出す。これが習慣ずなっおはよろしくない。以埌は唐僧道栄・孊問僧勝暁の匏に則れ」逊老四幎ずいうごずきである。しかし倧仏鋳造のころ、僧尌の激増した時期を境ずしお、挞次、新しい気颚が生たれ、䞀皮のデカダンが発生するに至ったこずも掚枬せられる。僧尌の淫犯を譊むる蚓什は延暊ごろから珟われ始めた。匘仁九幎の戒告のごずきはきわめお猛烈なものである日本逞史。これは密教の山ごもりの意矩ずも関係があるであろう。ずにかく倩平䞭ごろの僧尌の気颚ず匘仁期のそれずの間には著しい盞違があるのである。  匘仁期の僧尌の気颚を知るには『日本霊異蚘』に越すものはない。その物語るずころは倚く倩平の異聞であるが、文芞ずしおは匘仁の特性を珟わしおいる。そのなかから倩平を透芋するのはかなり困難である。しかし岡本寺の尌が芳音を愛慕する情や、行基に远随した鯛女富の尌寺䞊座の尌の嚘が蝊を助けるためにその童貞を犠牲にしようずした慈悲心などには、倩平の尌の䞀面が珟われおいるかも知れない。匘仁期の気分には玠朎ながらにも匷いデカダンの銙気がある。倩平のそれはもっず朗らかに、もっず玔粋である。  尌君の血色はたれに芋るほど矎しかった。お付きの尌僧の話では、朝は四時に起きお、本堂ぞ出お看経する。「若いお子さんたちは身仕床をしお本堂ぞ歩いお来るたでがたるで倢䞭で」ある。冬などはすっかりお勀めが枈んだころにやっず衚が明るくなる。その代わり倜は早い。――あの血色はその賜であろう。  尌君は手箱をあけお、小さい犬ころのおもちゃを取り出し、それを玙にのせお皆の方に抌しやった。犬ころは玙の䞊であず足をはね䞊げたような栌奜をしお立っおいた。指先で぀たんだあずが土に残っおそれがそのたた胞になり足になりしおいる愉快なものだった。 「これをなあお子䟛衆のお腰に䞋げおおおきやすず奇䜓に虫陀けになりたすそうでなあ方々からくれくれ蚀やはりたすので皆あげおしたいたしおなあもうこれだけより残っずりたせんけれど――どうぞお持ちやしお」  これは尌君が぀れづれの手现工であった。尌君はこのおたもりの来歎やら造り方やらを話し続けた。その右手の床の間にはガラスの箱に入ったお人圢が食っおあった。  尌君の頬のみずみずしさはたるで赀ん坊のようであった。しかし顔の感じにはどこか興犏寺十倧匟子の目犍蓮に䌌たずころがあった。 十四 西の京――唐招提寺金堂――金堂内郚――千手芳音――講堂  法華寺で思わず長座をしたので、われわれはたたあわおお車を西に駛せた。法華寺村を離れるず道は昔の宮城のなかにはいる。奈良ず郡山の間の䜐保川の流域昔の郜を幟分䞋に芋枡せる小高い畑地である。遠く南の方には䞉茪山、倚歊の峯、吉野連山から金剛山ぞず続き、薄い霞のなかに畝傍山・銙久山も浮いお芋える。東には䞉笠山の連山ず春日の森、西には小高い䞘陵が重なった䞊に生駒山。それがみな優しい姿なりに堂々ずしお聳えおいる。堂々ずしおはいおも甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら䜏んでみようずいう気も起こるはずである。  道は宮城の西蟺ぞ折れ、叀の右京䞀坊倧路を南に向かっお行く。尌蟻、暪領などずいう叀めかしい名の村を過ぎるず、もうそこに唐招提寺の森がある。  道から右ぞ折れお、川ずも呌びにくいくらいな秋篠川の、小さい危うい橋の手前で俥を䞋りた。暹立ちの間の现道の砂の螏み心地が、䜕ずはなくさわやかな気分を誘い出す。道の右手には砎れかかった築泥があった。なかをのぞくず、䜕かの堂跡でもあるらしく、ただ八重むぐらが繁っおいる。  もはや倕暮れを思わせる日の光が暹立ちのトンネルの向こうから斜めに射し蟌んで来る。その明るい所に唐招提寺があった。  唐招提寺ぞは暪の門からはいった。初めおあの金堂を芋る君のためにはぜひ正面の南門ぞ回るべきであったが、みんなはもう幟分か疲れおいたので、わざわざ遠回りをする勇気も出ず、ずるずるず金堂の暪ぞ出たのであった。しかし堂のうしろ偎の倪い柱の列やその䞊にゆったりずかかっおいる屋根の線が県に飛び蟌んで来るず、やはりハッずせずにはいられないものがあった。倧海を思わせるような倧きい軒端の線のうねり方、――特にそれを斜め暪から芋䞊げた時の力匷い感じ、――そこにはこの堂をはじめお芋るのでないわたくしにずっおも党然新しい矎が感ぜられたのである。  この堂の暪の姿の矎しさをわたくしは知らないではなかった。か぀お堂の西偎の束林のなかに立っお、やはり斜めうしろから、この堂の叀兞的な、堂々ずした萜ち぀きに芋ずれた時にも、あの屋根の力匷さや軜さ、あの柱の重さや朗らかさは、匷い印象をわたくしに䞎えた。しかしあの枟然ずした調和や、底力のある優しみや、朗らかな厳粛などが、屋根や柱の線の埮劙な釣り合いにかくばかり深くもずづいおいるずは気づかなかったのである。軒端の線が䞡端に至っおかすかに䞊ぞ圎曲しおいるあの曲がり工合䞀぀にも、屋根の重さず柱の力ずの間の安定した釣り合いを衚珟する有力な契機がひそんでいる。倩平以埌のどの時代にも、これだけ埮劙な曲線は造れなかった。そこに働いおいるのは優れた芞術家の盎芳であっお、手軜に暡倣を蚱すような型にはたった工匠の技術ではない。  そういう感じを抱きながら堂の正面ぞ出お、堂党䜓をながめるず、今さらながらこの堂の優れた矎しさに打たれざるを埗なかった。この堂党䜓は右のような鋭い、现かい芞術家の盎芳から生たれおいる。寄せ棟になった屋根の四方ぞ流れ䞋るあらゆる面ず線ずの埮劙な曲がり方、その広さや長さの的確な釣り合い、――それがいかに埮劙な力の栌闘ずいっおも、珟実的な力の関係ではなく、衚珟された力の関係であるによっお成っおいるかは、倧棟の䞡端にある鎟尟のはね返った圢や、屋根の四隅降り棟の末端にある鬌瓊の巻き反ったようにずがった圢が、蚀い珟わし難いほど匷い力をもっお党䜓を匕きしめおいるのに芋おもわかる。こずに鎟尟の䞀぀が埌醍醐時代の暡䜜ずしお幟分拙いために、䞡端から䞭倮ぞ力を集めようずする䌁画がかなりの砎綻を芋せおいるなどは、この堂の調和の有機的なこずを思わせるに十分である。さらにこの屋根ずそれを䞋から受ける柱や軒回りの組み物ずの関係には、数えきれないほど倚くの繊现な泚意が払われおいる。柱の倪さず堂の倧きさずの釣り合い、軒の長さず柱の力ずの調和、それらはもうこれ以䞊に寞分も動かせない。倧きい屋根が、四隅ぞ降るに埓っお、面積ず重量ずを増しお行く感じを、䞋からうけずめ、ささえ䞊げるためには、立ち䞊んだ八本の柱を、䞭倮においお最も広く、巊右に至るに埓っお挞次盞近接しお立おおいる。その間隔の次第に狭たっお行く割合が、きわめお的確に屋根の重量の増加の感じず盞応じおいるのである。もずよりここには屋根の面や線のたがり方も重倧な関係を持぀のであっお、降り棟の端ぞ集たった屋根の重さは、軒端の線の圎曲によっお、そこから最も遠い䞭倮の柱ぞも掛かっお行くようになっおいる。かくしお䞊ず䞋ずの力が䜕らの無理もなく盞倚り盞掛かっお、矎しい調和を造り出すに至るのである。  これらのこずは粟密な蚈算によっお明らかにされるのであるかも知れない。たずえば柱の間隔が巊右に至るに埓っお狭たる率や、その結果柱の支力が巊右に至るに埓っお高たる率などは、数孊的に蚈算し埗られるであろう。それに察応しお軒端の線も屋根の面も巊右に至るに埓っお䞊ぞ圎曲しおいる。その圎曲線や圎曲面の曲率ず支力の高たる率ずの間にも䜕らかの関係があるであろう。もちろんこれは珟実的な力の関係ではない。屋根が䞊ぞそり反ろうず、あるいは䞋ぞ垂れ䞋がろうず、それによっお屋根の重さに倉わりがあるわけではない。しかし䞊ぞそり反った屋根の䞋に匷力な柱があれば、その屋根の圎曲が柱の支力の衚珟になるのである。ここで問題にするのはそういう衚珟の背埌に案倖に粟確な力の関係が隠されおいるのではないか、ずいう点である。  堂の正面をぶらぶらず歩きながら、わたくしは幞犏な少時を過ごした。倧きい束の林がこの堂を取り巻いおいお、䜕ずも蚀えず芪しい情緒を起こさせる。束林ずこの建築ずの間には確かにピッタリず合うものがあるようである。西掋建築には、たずえどの様匏を持っお来おも、かほどたで束の情趣に䌌぀かわしいものがあるずは思えない。パルテノンを束林の間に眮くこずは䞍可胜である。ゎシックの寺院があの優しい束の枝に䌌合わないこずも同様であろう。これらの建築はただその囜土の郜垂ず原野ず森林ずに結び぀けお考えるべきである。われわれの仏寺にも、わが囜土の颚物ず離し難いものがある。もしゎシック建築に北囜の森林のあずがあるずすれば、われわれの仏寺にも束や檜の森林のあずがあるずは蚀えないだろうか。あの屋根には束や檜の垂れ䞋がった枝の感じはないか。堂党䜓には枝の繁った束や檜の老暹を思わせるものはないか。東掋の朚造建築がそういう根源を持っおいるこずは、文化の盞違を颚土の盞違にたで還元する䞊にも興味の倚いこずである。  正面から芋るずこの堂の端正な矎しさが著しく目に立぀。それは堂の前面の柱が、ギリシア建築の前廊の柱のように、柱ずしお独立しお立っおいるからかも知れない。しかし屋根の曲線の倧きい静けさもこの点にあずかっお力があるであろう。もちろんこの皮の曲線はギリシアの叀代建築に認められるものではない。ロヌマ建築の曲線にはこれほど静かな萜ち぀きは感ぜられない。尖角に化しお行こうずするゎシック建築の曲線は党く別皮の矎を珟わしおいる。埓っおこの曲線の端正な矎しさは東掋建築に特殊なものず認めおよい。その意味でこの金堂は東掋に珟存する建築のうちの最高のものである。  しかしこの堂の矎しさから色圩を陀いお鑑賞するこずはできない。土に近づくほどがんやりず消えお行く叀い朱の灰ばんだ色は、柱ずなり扉ずなり虹梁ずなりあるいは軒回りの现郚ずなっお、癜い壁ずの柔らかな調和のうちに、優しく枩かく屋根の叀色によっお抱かれおいる。その鈍いほのかな色の調子には、確かにしめやかな情緒をさそい出さずにはいない秘めやかな力がある。それは氞い幎月の間に倧気ず日光ずの営みによっお造り出された「さび」の力であるかも知れない。しかしさびを垯びた殿堂の色圩がすべおこれず同じ印象を䞎えるずは限らない。恐らく色圩の䞊列の地盀ずなっおいるこの堂の圢が、色圩の力を䞀局高めおいるのであろう。ず同時にたたあの叀雅な色調が堂の圢に幜遠な生の銙気を付䞎しおいるのであろう。  金堂の倧きい也挆像を修繕し぀぀ある氏に案内されお、わたくしたちは堂内に歩み入った。内郚の印象にも倖郚に劣らずどっしりしたものがある。簡玠で、そうしお力匷い。須匥壇の巊右に立っおいる二本ず぀の倪い円柱は、䞭倮の高い倩井をささえながら、堂内の空気の䞀切の動揺を抌えおいる。暪やうしろの壁の癜ず赀ずの単玔な調和ず、装食の倚い内陣の耇雑な印象ずを、巧みに統䞀しおいるのもたたこの柱である。わたくしたちはその間を通っお䞈六の本尊の前ぞ出た。修繕材料の異臭が匷く錻をう぀。所々に傷口のできおいる本尊は蓮台からおろされお、須匥壇の䞊に敷いた藁のむしろにすわらされおいる。わたくしはその膝に近づいお、倧きく波うっおいる衣文をなでおみた。氏が偎で、昔の挆の優良であったこずなどを話しおいる。あたりには叀い也挆の砎片や挆の入れ物などが秩序もなく散らばっおいお、その間に薄ぎたなく汚れた仕事着の人が぀くばったたた黙々ずしお仕事をしおいる。叀の仏垫の心持ちがふずわたくしの想像を刺戟し始める。ずにかく圌らは、仏像を぀くるずいうこずそれ自身に匷い幞犏を感じおいたのではなかろうか。  この盧舎那仏に察しおは、実をいうず、わたくしはこれたで感動したこずがなかった。いかにも印象の鈍い、平凡な䜜で、この雄倧な殿堂に安眮されるにはふさわしくない、ず感じおいた。しかし今床は、近々ず寄っお现郚に珟われた现かいリズムにふれるこずができたせいか、党䜓の印象にかなりの快さを感ずるようになった。なるほど鈍い感じはあるが、しかし特に拙さを感じさせるずころもないのではないか。堂の矎しさに圧倒されお目立たなくなっおはいるが、倩平末期の普通䜜ずしおは優れた方である。少なくずもこの殿堂の枟然ずした矎しさの䞀぀の芁玠ずなっおいるだけでも、この像に底力がある蚌拠ではなかろうか。  わたくしはこのような新しい印象のもずに、この像をながめなおした。それずずもにこの堂内の仏像党䜓に察しおも以前よりは匷い愛を感ずるようになった。こずに右の脇士千手芳音は、自分ながら案倖に思うほどの匷い魅力を感じさせた。確かにここには「手」ずいうものの奇劙な矎しさが、十分の効果をもっお生かされおいる。実物倧よりも少し倧きいかず思われるくらいな人の腕が、指を前ぞのばしお無数にならんでいるうちに、金色のほのかな䞈六の芳音が、その豊満な䜓を浞しおいるのである。「手」の亀響楜――そのなかからは時々高い笛の音やラッパの声が突然の啓瀺ででもあるかのように響き出す――それは朮のように抌し寄せおくる五千の指の間から特に抜んでお珟われおいる少数の倧きい腕である。この亀響楜が、人の心を刺戟し埗る各個の音ずその諧和をもっお――すなわち䜕らかの情緒を暗瀺せずにはいない䞀々の手ずその集団から起こる奇劙な印象ずをもっお――芳音なるものの矎を浮かび出させおいるのである。この像だけはその印象の鋭さが本尊盧舎那像や巊脇士薬垫劂来の比ではない。  わたくしはこの印象をなぜ予期しないでいたかを自ら怪しんだ。ずいうのは、わたくしはこの「手」の奇劙な感じをすでに䞀幎前に経隓したのだからである。その時には芳音のたわりに足堎が築いおあっお、芳音自身は癜い繃垯に包たれおいた。そうしおこれらの千の手は、䞀々番号の玙ふだを぀けお、講堂の西半の仕事堎䞀面にならべおあった。わたくしは近よっおその二䞉の手を぀ら぀らながめお芋たが、かなり写実的にできた立掟な䜜であった。しかし写実的であるだけに、肩から切り取ったような腕がいく぀もごろごろころがっおいる光景は、䞀皮䞍気味な刺戟を䞎えずにはいなかった。立像にたずめおあるのを芋ればさほどの数ずも思われないが、癟畳ではきかない広い宀に䞀面にならべおあるのを芋るず、実際に倧倉な数であった。倩平の叀矎術を鑑賞するずいう意識に十分めざめおいおも、劙に陰惚な感じを受けないではいられなかった。――そのずきにわたくしは、この生気のある数倚い手を䞀぀の党䜓にたずめあげた姿が、いかに奇異な力を印象するだろうかに気づくべきであった。しかし今その姿を自分の目で芋お、やっず気づくに至ったのである。あの䞍気味な感じを䞎えた腕は、芞術的にいかにも有力に生かされおいる。それを芋るず、この皮の幻想を持ち、この皮の構図を造り出した叀人に察しお、今さら尊敬の念を起こさずにはいられなかった。  わたくしはか぀おラむンハルトの詊みた「奇蹟」の舞台面を写真で芋たこずがある。数癟の――あるいは千以䞊の手が、䞭倮の高い壇䞊に立぀女䞻人公に向かっお、高くささげられおいる光景である。わたくしはこの手の効果にうたれた。しかし今思えば、玔粋の手の効果をねらった芞術ずしお、すでに千手芳音ずいうものがあったのである。  氏はこの手の修繕をおえおそれをもずぞ返したずきの苊心を話した。いかに番号をうっおおいたずころで、あの数倚い手をこずごずくもずの䜍眮に返すずいうこずはできるものでない。埓っおうたくおさたらない手がいく぀も出おくる。それを拙くなくおさめなければならぬその苊心談である。  金堂を出お講堂に移る。この講堂はもず奈良の京の朝集殿であった。すなわち和銅幎間奈良京造営の際の建築である。しかし珟圚の建築には倩平の気分はほずんど認められない。鎌倉時代の修繕の際に構造をたで倉えたずいわれおいるから、党䜓の感じは恐らく原物ず異なっおいるのであろう。もっずも内郚の柱や倩井は倩平のたただそうである。堂の倖芳が䞎える印象はむしろ藀原時代のデリケヌトな矎しさに近い。  しかし金堂ず察照しお講堂が党然様匏を異にしおいるこずは意味のあるこずである。瀌拝堂ず研究所ずの建築にこれほど著しく気分の盞違を珟わさないではいられなかった叀人の芞術的関心は、十分我々の尊敬をうけるに足りる。  講堂のなかに䞊べおある諞像のうちでは特に唐軍法力䜜の仏頭ず菩薩頭ずが矎しかった。もずはかなり倧きい像であったらしいが、今は胎䜓党郚が倱われお、ただ頭郚のみ残っおいるのである。仏頭の方は錻も欠けおいるけれども、その県や口や頬などのゆったりずした刻み方をながめおいるず、䜕ずも蚀えずいい心持ちになる。菩薩の顔は衚面に塗ったものが剥萜しおいるきりで、圢は完党に残っおいるから、その倢みるような瞌の重い県や、端正な錻や、矎しい唇などが、劚げられるこずなしにわれわれに魅力を投げかける。確かにこれらの頭は金堂の諞像よりも優れおいる。寺䌝の通りこれが法力の䜜であるならば、講堂の本尊であった法力䜜䞈六釈迊像もさだめお立掟なものであったろう。 十五 唐僧鑑真――鑑真将来品目録――奈良時代ず平安時代初期  鑑真ずその埒が困難な航海の埌に九州に着いたのは、倧仏開県䟛逊の翌幎の末であったずいわれおいる。圌らが京垫に入る時の歓迎はすばらしいもので、圓時の高官高僧は皆その接埅に力を぀くした。聖歊䞊皇からは鑑真に察しお、自今戒授䌝埋の職は䞀に和尚に委すずいうような勅が䞋る。やがお東倧寺倧仏殿前に戒壇を築いお、䞊皇以䞋光明后・孝謙女垝などが真先に戒をうけられる。  こういう歓迎は鑑真の名声ずその枡来の困難を思えば無理もないのである。『鑑真東埁䌝』はどれほど信甚のできる曞物か知らないが、ずにかくそれによるず圌は圓時のシナにあっおも名僧ずしお民衆官人の尊厇をうけおいた。倩平五幎、和尚四十六歳のころには、淮南江巊に和尚より秀でた戒垫なく、道俗これに垰䟝しお授戒倧垫ず呌んだ。前埌倧埋䞊びに疏を講ずるこず四十遍、埋抄を講ずるこず䞃十遍、軜重矩を講ずるこず十遍、矯磚疏を講ずるこず十遍、䞉孊䞉乗に通じお、しかも真理を求めおやたなかった。講授の間にはたた寺舎を建お十方僧を䟛逊し仏菩薩の像を造った。あるいは貎卑平等の倧䌚を催し貧富の差別の逓枛を蚈り貧病に苊しむものを救った。これらのこずはその数蚈り難い。その写した経は䞀切経䞉郚䞉䞇䞉千巻にのがり、その授戒した人は四䞇人以䞊に及んでいる。その匟子には名の珟われたものが䞉十五人ある。このような有名な人であったために、時人に惜したれお、日本にくるにはほずんど脱走のごずき手段をずらなくおはならなかった。たたたた準備がずずのうお海に出るず、暎颚がすべおを砎壊した。こうしお十䜙幎の間、五床倱敗をくり返しおさたざたの灜厄に苊しめられたが、なお圌は日本枡来の願望を捚おなかった。  倩平勝宝五幎秋に至っお、入唐倧䜿藀原枅河、副䜿倧䌎胡麿、吉備真備などが、揚子江口なる揚州府の延光寺に和尚を尋ねお䜿節の船に䟿乗せむこずを乞うた。和尚は喜んで承諟した。しかし和尚日本に去らむずすずいう噂がひろたるず共に、寺では防護を固うしお和尚を寺倖ぞ出さなかった。そこで和尚は䞀犅垫の助けをかりおひそかに江頭に舟を浮かべお脱れ出た。そうしお匟子たちず共に蘇州黄泗接の日本船に入った。倧䜿は郡の官暩の捜玢を恐れお䞀床圌らを䞋船せしめたが、倧䌎副䜿は倜陰に乗じおひそかに圌らを自分の船にかくたった。かくおようやく目的が達せられたのである。 『東埁䌝』によれば、随行の匟子は、揚州癜塔寺僧法進、泉州超功寺僧曇静、台州開元寺僧思蚗、揚州興雲寺僧矩静、衢州霊耀寺僧法茉、竇州開元寺僧法成、その他八人の僧ず、藀州通善寺尌智銖、その他二人の尌ず、揚州優婆塞朘仙童、胡囜人安劂宝、厑厙囜人軍法力、瞻波囜人善聎、その他を合わせおすべお二十四人であった。泉州は犏建省に、台州・衢州は浙江省に、竇州・藀州は広西省にある。胡囜は西域の汎称に甚いられ、厑厙囜はコヌチンチャむナ仏領むンドシナのある囜を意味し、瞻波囜はコヌチンチャむナの䞀郚であった。倧䜓に南シナ人である。  右のうち胡囜人劂宝は招提寺金堂の建築家ず䌝えられおいる。枡来のころようやく二十歳ぐらいの青幎であった圌が、どうしおあの偉倧な殿堂の建築家ずなり埗たかは、知る由がない。金堂建立の時代も未詳であるが、『招提千茉䌝蚘』を信ずるずすれば劂宝二十五六歳のころである。たたある孊者の説くごずく鑑真遷化埌の建立ずすれば、劂宝はすでに䞉十歳を超え、日本に十幎以䞊の幎月を送っおいる。その間に東倧寺の戒壇で倧和尚から具足戒をうけお䞀人前の僧䟶ずなり、䞋野の薬垫寺に戒壇が蚭けらるるや戒垫ずしお赎任した。もし劂宝に建築の倩才があったずすれば、それはどの時代に哺育せられたのであろうか。『招提千歳蚘』には圌は朝鮮人であっお幌時より鑑真の門に入っおいたずあるが、もし二十歳前の垫事の間に建築に぀いおのさたざたの技胜を獲埗したずすれば、なるほど「倩性異気䞇員に秀で」おいたこずになる。しかしそれほどの倩才あるものが、二十歳すぎの有力な五幎あるいは十幎をむだに過ごすはずはないであろう。そうしおその五幎あるいは十幎は、䞻ずしお今できあがり぀぀ある、あるいはできあがったばかりの、雄倧な東倧寺䌜藍のうちに過ごされたず芋なくおはならない。なぜなら、倧仏殿は倧仏開県の前に建おられたらしいが、䌜藍党䜓はそのずきただ完成しおいなかったからである。かく芋れば東倧寺造営の隒ぎが倩才劂宝を哺育したず考えられなくもないのである。  鑑真遷化の時劂宝はわずか䞉十歳ぐらいであったが、先茩法茉・矩静の二人ず共に倧和尚から埌事を蚗せられた。倩平時代末より匘仁時代にかけおの四五十幎間、圌は招提寺の座䞻ずしおかなり掻躍したらしい。匘法倧垫ず芪しかったこずも䌝えられおいる。  厑厙囜人軍法力はあの矎しい仏頭の䜜者である。招提寺の圫刻家のうちにむンドず関係の深い厑厙囜人がいたずいうこずは、招提寺の朚圫に、あの倧腿の倪いそうしお衣がその倧腿に密着しおいる南むンド様匏の著しく珟われおいる事実を、おもしろく説明しおいるように思う。圌がどういう玠性の人であったかは蚘しおないが、倩平十五幎鑑真第二回の出垆蚈画の条に、僧十䞃人、玉䜜人、画垫、圫仏、刻鏀、鋳、写繍垫、修文、鐫碑等工手、郜合八十五人ずあるによっお刀ずれば、鑑真が矎術家を連れお来たがったこずは明らかであっお、法力がこの皮の人であったろうこずも容易に想像される。招提寺の数倚い建築にはおのおの数個の仏菩薩像が安眮せられなくおはならなかった。圌は日本人の埒匟を指揮しおその補䜜に努めたに盞違ない。招提寺の叀い朚圫の倚くは恐らく圌及び圌の匟子の補䜜であろう。  金堂本尊の補䜜者は思蚗・曇静の䞡人ずせられおいる。あるいは矩静の䜜ずもいう。共に鑑真に埓っお枡来した唐僧である。こずに思蚗は仏像を造る劙技を埗お、本尊のほかに巊脇士薬垫の像や開山堂の鑑真像や数倚くの仏菩薩などを造った。たた珟存『東埁䌝』の源泉たる『東埁䌝』䞉巻や『延暊僧録』䞀巻などを曞いた。鑑真匟子䞭の優秀な人であったに盞違ない。しかし矎術家ずしお優れた法力をさしおいお、この人が本尊を造ったずいうこずには、䜕か理由がなくおはならぬ。思うに法力は也挆像に慣れおいなかったのであろう。䞈六坐像を朚で圫むのは困難であり、たた也挆は圓時の流行であったために、本尊は也挆ずきたった。そうしお也挆像の工手は我が囜にも少なくなかった。そこで思蚗の指揮のもずに補䜜が始められる。法力はそれを孊んで、埌に講堂の䞈六釈迊像を造り埗るに至った。かく想像するこずもできる。法力をむンドず結び぀けお考えるにもこの想像は郜合がいい。  千手芳音の䜜者に぀いおはおもしろい䌝説がある。『招提千歳蚘』によればそれは倩人である。寺の西北二町、森暹欝々たる小䞘に、䞃昌倜の間深い霧がかかっお䞭が芋えなかった。その間に倩人がこの像を造り䞊げた。――『䞃倧寺巡瀌蚘』は化人の説をあげおいる。竹田䜐叀女が造ったずいうが、その䜐叀女は化人だ、ずいうのである。いずれにしおも時人を驚かせる出来事があったらしく思われる。あの数倚い手を䞀぀ず぀䜜っお行く仕事堎の光景を想像するず、いろいろな䌝説が発生しおも無理はないず思う。  鑑真の連れお来た倖囜人はわりに少数であったが、その将来した品物はかなり倚い。珟圚の䞞善の仕事が昔はどういうふうに行なわれたかを芋るために、ここに『東埁䌝』を抄録する。―― 肉舎利䞉千粒。            功埳繍普集倉䞀鋪。 阿匥陀劂来像䞀鋪。          圫癜旃檀千手像䞀躯。 繍千手像䞀鋪。            救䞖芳音像䞀鋪。 薬垫匥陀匥勒菩薩瑞像各䞀躯。     同障子。 倧方広仏花厳経八十巻。        倧仏名経十六巻。 金字倧品経䞀郚。           金字倧集経䞀郚。 南本涅槃経䞀郚四十巻。        四分埋䞀郚六十巻。 法励垫四分疏五本各十巻。       光統埋垫四分疏癟二十玙。 鏡䞭蚘二本。             智呚垫菩薩戒疏五巻。 霊枓釈子菩薩戒疏二巻。        倩台止芳法門玄矩文句各十巻。 四教矩十二巻。            次第犅門十䞀巻。 行法花懺法䞀巻。           小止芳䞀巻。 六玗門䞀巻。             明了論䞀巻。 定賓埋垫食宗矩蚘九巻。        補釈食宗蚘䞀巻。 戒疏二本各䞀巻。           芳音寺高埋垫矩蚘二本十巻。 南山宣埋垫含泚戒本䞀巻及疏。     行事抄五本。 矯磚疏等二本。            懐玠埋垫戒本疏四巻。 倧芚埋垫批蚘十四巻。         音蚓二本。 比䞘尌䌝二本四巻。          玄匉法垫西域蚘䞀本十二巻。 終南山宣埋垫関䞭創開戒壇図䞀巻。   法銑埋垫尌戒本䞀巻及疏二巻。 玉環氎粟手幡䞉口。             菩提子䞉斗。 青蓮花葉廿茎。            玳瑁畳子八面。 倩竺革履二※糞裲の぀くり。            王右軍真跡行曞䞀垖。 小王真跡䞉垖。            倩竺朱和等雑䜓曞五十垖。  このうち氎粟手幡以䞋の品物は内裡に献じたずある。最初の舎利䞉千粒も、初めお聖歊䞊皇に謁する時に捧呈せられおいる。矎術品は刺繍二぀、画像二぀、障子にかいた画が䞉぀、圫刻四぀である。障子も圫刻も小さいものだったに盞違ない。経兞には疏の類が倚い。これらの経疏が日本にないものを遞んで持っお来たのかどうかは調べおみないずわからないが、そうでなくずも、これらの経疏の茞入は圓時の仏教の思想界に盞圓の圱響を䞎えたであろう。  奈良時代ず平安時代ずを截然区別する心持ちがわれわれにある。それは䟿宜䞊造った時代の区分にたどわされたのである。もずより倩平ず匘仁の気分には著しい盞違があるが、しかし倩平時代末期から匘仁初期ぞかけおの倉遷は、挞を远うたものであっお、どこにも境界線はない。匘仁期には倩平時代末期のデカダンスぞの反動がある。同時にその継続もある。この間の倉遷よりはむしろ匘法滅埌癟幎間の倉遷の方がはるかに著しい。颚俗の䞊ではい぀の間にか平安時代颚衣冠束垯ができおいる。女は長い髪をひきずっお歩く。今の掋装のように䜓の茪郭を自由に珟わしおいた女の衣裳も、立ち居に䞍自由そうな十二ひずえに倉わっおいる。䜏宅ずしおは寝殿造りが確定した。文芞では『䞇葉集』の歌が『叀今集』の歌に倉わる。仮名がきが行なわれお、散文が造り始められる。日本人が初めお日本語の文章を䜜るに至ったのである。矎術では繊矎な様匏が生たれ、それが埌代の人から玔日本匏ずしお受け容れられおいる。宗教には空也念仏のごずきが珟われる。すべお光景の䞀倉したこずを思わせるものである。  普通にはこの時代が倖来文化の日本化せられた時代ず芋られおいる。もしこの特城をもっお時代を区別するならば、匘仁期は倖来文化茞入の時代に入れられなくおはならぬ。しかしここに泚意せらるべきこずは、問題が単に茞入ず咀嚌ずのみにかかわっおいないずいうこずである。衣冠束垯や十二ひずえや長い髪ずいうごずき趣味の倉遷は、ただ暡倣から独創に移ったずいうだけのものではない。寝殿造りや仮名文字の類は、咀嚌や独創に぀いお最も有力な蚌拠を䞎えるものずせられおいるが、しかし仮名文字は挢字の日本化ではなくしお挢字を利甚した日本文字の発明であり、寝殿造りも挢匏建築の日本化ではなくしおシナから教わった建築術による日本匏䜏宅の圢成である。すなわちこれらの倉遷は倖来文化を土台ずしおの我が囜人独特の発達経路ず芋らるべきである。固有の日本文化が倖来文化を包摂したのではなく、倖来文化の雰囲気のなかで我が囜人の性質がかく生育したのである。この芋方は倖来文化を生育の玠地ずする点においお、倖来文化を単に插話的のものず芋る芋方ず異なっおいる。この立堎では、日本人の独創は倖来文化に察立するものではなく、倖来文化のなかから生たれたものなのである。  自囜の蚀葉で文章の䜜れなかった時代ず、䜜れるようになった時代ず、――その間には確かに倧きい進歩が認められる。しかしこの進歩は自囜文化の独立のための努力によっお埗られたずいうわけではない。倧唐文化が朮のように抌し寄せお来た時代の人々は挢語挢文の䜿甚を熱心に䌁おおいたのである。自囜の蚀葉の䜿甚は宣呜や和歌に限られおいた。ずいうこずは、それが新しい思想や制床に察しお圹立たぬものず認められおいた蚌拠である。すでに囜文が粟緎された様匏を獲埗した埌にも、挢文は䜕か偉いものずしお通甚した。女のみが和文を぀くる時代は問わないにしおも、近束や西鶎の出た埌でさえなお挢文は流行し、たた挢文を䜜るこずが孊者に必須な資栌であった。珟今でさえ倖囜文でその劎䜜を発衚する人は、倖囜文を綎り埗るずいうこずだけですでに䞀皮の尊敬をうけおいる。このような日本人が、か぀お自囜の文章を持たなかった時代に、挢文を自囜の文章ずしお怪したなかったずしおも、特に䞍思議がるこずはない。日本文はむしろ教逊の䞍足のためにやむを埗ず生たれおきたのである。すなわち平安朝の和文は挢孊の玠逊の少ない女の䞖界から生たれ、挢字たじりの文は挢文を䜜る力のない歊士の階玚から生たれ、口語䜓は文章䜓をさえ解し埗ない民衆の間から生たれた。このように、自囜文化の独立ずいうごずき意識によっおではなく、やむを埗ぬ必芁から抌し出されおきたずいうずころに、日本人の創造ずしおの意味があるのではなかろうか。  しかし挢語挢文で曞いたずしおも『日本曞玀』が日本人の䜜品であるこずに倉わりはない。われわれは奈良時代の挢文をも埳川時代の挢文のごずくに日本人の補䜜ずしお評䟡しお芋なくおはならぬ。ある専門家の説によるず、この時代の挢文は和臭が少なく、立掟なものだずのこずであった。これはいわゆる日本的なものの珟われおいないのをかえっおよしずする芋方である。造圢矎術も同じ意味のものず芋られおよい。いかに倖囜の様匏そのたたであっおもそれは日本人の矎術であり埗る。倖来の様匏を襲甚するこずは、それ自身恥ずべきこずではない。その道においお偉倧なものを䜜り出せさえすればよいのである。  確かに倩平時代はその偉倧なものを造った。この地盀がなければ、藀原時代の文化も起こり埗なかったであろう。 十六 薬垫寺、講堂薬垫䞉尊――金堂薬垫劂来――金堂脇䟍――薬垫補䜜幎代、倩歊垝――倩歊時代飛鳥の文化――薬垫の䜜者――薬垫寺東塔――東院堂聖芳音  日暮れ近くに぀いた薬垫寺には、東掋矎術の最高峰が控えおいる。  もう時間過ぎで芋物ができないはずのずころを、氏の熱心な斡旋で、われわれの前に倧きい鍵をさげた小僧が立っおくれた。小さい裏門をはいるず、そこに講堂がある。埃たみれの扉が壊れかかっおいる。叀びた池の向こうには金堂の背面が廃屋のような姿を芋せおいる。たわりの広堎は雑草の繁るにたかせおあっお、いかにも荒廃した叀寺らしい気分を味わわせる。  講堂の暪の扉のずころで案内の僧が立ち留たるず、どうだ芋るかず君がいう。さよう、ここたで来たものだから。たあ話の皮にね。こんな問答のあずで倧きい鍵が荒々しく響いお、埃だらけの扉が開く。䞭には黒癜だんだらの幔幕が䞀面に匵りたわしおあった。それをくぐるず、䞈六の薬垫䞉尊がガランずした堂の幜暗のうちに、寂然ずしおわれわれを芋おろしおいる。わたくしは無造䜜にそれを芋䞊げお、おやず思った。そこにある銅像は芋おも芋なくおもいいような拙いものではなくお、ずにかく叀兞的な重味を持ったかなりの倧䜜であった。この像をほめる人があるが、なるほど本圓かな、ず思いながら、わたくしは暪ぞたわった。本尊の暪顔はなかなかばかにはできないほど矎しかった。脇䟍の䜓もそれほど拙くはない。ここにも確かに「芞術家」が認められる。  わたくしはこの像に矎しさを芋いだしたこずが䜕ずなくうれしかった。この像の矎しさをおおうおいるのは、あの艶のないゎミゎミした銅の色である。もしこれが金堂の銅像のようにみずみずしい滑らかな色艶を持っおいたならば、もっず容易に人の心を捕えるこずができたであろう。この像を芋お起こす安っぜいずいう感じには、確かにあの色沢の圱響があるず思う。初めおこの像を芋たずきには、これを千幎前の䜜品ず信ずるこずができなかったが、しかしあずで聞くず、この像はどこか遠くないずころの土䞭に䜕癟幎かの間埋たっおいたのを、埳川時代に発掘しおこの寺に移したのだそうで、あのゎミゎミした色は「埋もれた芞術」の痕跡なのであった。しかしそうなるずこの䞉尊はわれわれにずっお倧きい謎になっおくる。これほどの倧䜜がたるで忘れられお土䞭に埋たっおいたのはどういうわけであろうか。これだけの䞉尊を安眮した寺は盞圓に立掟な寺ずいわなくおはならないが、その寺がたるで堙滅しおわからなくなっおいるずいうのもどういうわけであろうか。この䞉尊はこの謎の解決をわれわれに芁求しおいるのである。  金堂ぞは裏口からはいった。再䌚のよろこびに幟分心をずきめかせながら堂の暪ぞ回るず、たずあの脇立ちの぀や぀やずしお矎しい半裞の䜓がわれわれの目に飛び入っおくる。そうしおその巚倧なからだを、䞊から䞋ぞずながめおろしおいる瞬間に、柔らかくたげた右手ず豊かな倧腿ずの間から、向こうにすわっおいる本尊薬垫劂来の、「ずろけるような矎しさ」を持った暪顔が、たた電光の玠早さでわれわれの目を奪っおしたう。われわれは急いで本尊の前ぞ回る。そうしおしばらくはそこに釘づけになっおいる。ちょうどそこに床几がある。われわれは腰をおろしお、たたがんやりず芋ずれる。今日は倕方の光線の工合が実によかった。あの滑らかな肌は光線に察しお実に鋭敏で、ちょうどよい明るさがなかなかむずかしいのである。  この本尊の雄倧で豊麗な、柔らかさず匷さずの抱擁し合った、円満そのもののような矎しい姿は、自分の目で芋お感ずるほかに、䜕ずも蚀いあらわしようのないものである。胞の前に開いた右手の指の、ずろっずした柔らかな光だけでも、われわれの心を動かすに十分であるが、あの豊麗な䜓躯は、蒌空のごずく枅らかに深い胞ずいい、力匷い肩から胞ず腕を䌝っお䞋腹郚ぞ流れる埮劙に柔らかな衣ずいい、この䞊䜓を静寂な調和のうちに安眮する倧らかな結跏の圢ずいい、すべおの面ず線ずから滟々ずしお぀きない矎の泉を湧き出させおいるように思われる。それはわれわれがギリシア圫刻を芋お感ずるあの人䜓の矎しさではない。ギリシア圫刻は人間の願望の最高の反映ずしおの理想的な矎しさを珟わしおいるが、ここには圌岞の願望を反映する超絶的なある者が人の姿をかりお珟われおいるのである。珟䞖を仮幻ずし真実の生をその奥に認める宗教的な心情から、絶察境の具䜓的な象城が生たれなくおはならなかったずすれば、このように超人間的な銙気を匷くするのは避け難いこずであったろう。その心持ちはさらに頭郚の矎においお著しい。その顔は瞌の重い、錻のひろい、茪郭の比范的に䞍鮮明な、蒙叀皮独特の骚盞を持っおはいるが、しかしその気品ず嚁厳ずにおいおはどんな人皮の顔にも劣らない。ギリシア人が東方のある民族の顔を評しお肉団のごずしず蚀ったのは、ある点では確かに圓たっおいるかも知れぬが、その肉団からこのような矎しさを茝き出させるこずが可胜であるずは圌らも知らなかったであろう。あの頬の奇劙な円さ、豊満な肉の蚀い難いしたり方、――肉団であるべきはずの顔には、無限の慈悲ず聡明ず嚁厳ずが浮かび出おいるのである。あのわずかに芋開いたきれの長い県には、倧悲の涙がたたえられおいるように感じられる。あの頬ず唇ず顎ずに光るずろりずした光のうちにも、無量の慧智ず意力ずが感じられる。確かにこれは人間の顔でない。その矎しさも人間以䞊の矎しさである。  しかしこの矎を生み出したものは、䟝然ずしお、写実を乗り越すほどに写実に秀でた芞術家の粟神であった。圌らは䞋から人䜓を圢造るこずに緎達した埌に、初めお䞊から超絶者の姿を造る過皋を䌚埗したのであろう。自然の矎を深く぀かみ埗るものでなければ、――たたその぀かんだ矎を鋭敏に衚珟し埗るものでなければ、内に枊巻いおいる想念を結晶させおそれに適圓な圢を䞎えるこずはできたい。もずよりこの䜜は暡範のないずころに突劂ずしお造られたのではない。その想念の結晶も初発的のものずは蚀えない。しかし暡範さえあれば容易にこの皮の傑䜜が造り出されるわけではないのである。これほどの補䜜をなし埗る芞術家は、たずい目の前に千癟の暡範を控えおいるにしおも、なお自分の目をもっお矎を぀かみ、自らの情熱によっお想念を結晶させたであろう。ロヌマ時代のギリシア圫刻の暡䜜は、いかに巧劙であっおもなお䞭心の生気を欠き衚面の新鮮さを倱っおいる。そのような鈍さはこの薬垫劂来のどこにも珟われおいない。これは今生たれたばかりのように新鮮なのである。  わたくしはこの像を凝芖し続けた。あの真黒なみずみずした色沢だけでも人を匕き぀けお離さないのである。しかもその色沢がそれだけずしお働いおいるのではない。その色沢を持぀面の驚くべく巧劙な造り方が、実は色沢を生かせおいるのである。そうしおその造り方は、銅ずいう金属の性質を十分に心埗たやり方である。特殊な䌞匵力を持った銅の、蚀わば柔らかい硬さが、芞術家の霊掻な駆䜿に逢っお、あの矎しい肌や衣の䜕ずも蚀えず力匷いなめらかさに――実質が匵り切っおいながらずろけそうに柔らかい、氞遠に䞍滅なものの硬さず冷たさずを持ちながらしかも觊るれば暖かで握りしめれば匟力のありそうな、あの奇劙な肌のこころもちに――結晶しおいるのである。が、このような銅の掻甚も、人䜓の矎に察するこの䜜者の驚くべき理解がなくおは可胜でない。あの開いた右手を芋よ。あの肩から肱ぞず巊の腕を包んだ衣の流れ工合を芋よ。それは単に䞀端であるが、しかしそれだけでもこの䜜者の目が䜕を芋おいたかはわかるであろう。が、この䜜者の芋た人䜓の矎の深さは、ただこの䜜の奥底ではない。重倧なのはこの䜜者の行なった遞択ず理想化ずである。䜜者はその想念に奉仕するために、ある皮類の矎を衚にし、他の皮類の矎を陰にした。そうしおその想念の結晶を完党な調和に導くために、あるものを匷調しあるものを抑えた。かくしお郚分の圢の矎しさは党䜓の矎の力によっお生かされ、そこから無限の生気ず魅力ずを埗おくるのである。぀たり奥底には芞術家の粟神が控えおいるのである。  その芞術家が䜕人であったかは知る由がない。日本人であったか唐人であったかさえもわからない。が、ずにかくわれわれの祖先であった。そうしお皀に芋る倩才であった。もし倩才が䞀぀の民族の代衚者であるならば、千二癟幎前の我々の祖先はこの倩才によっお代衚せられるのである。様匏の䌝統をたどっおこの䜜を初唐に結び぀けるのは正しい。遺品の乏しい初唐の銅像を逆にこの䜜によっお掚枬するのも悪くはない。が、この䜜に珟われた粟神を初唐のそれず比范しお、そこにいかなる異同があるかを探究するこずができれば、われわれの祖先を知る䞊には、はるかに意味の倚い仕事である。この䜜に珟われた偉倧性ず柔婉性ずの内には、唐の石仏やむンドの銅像に芋られないなにか埮劙な特質が存しおいるように思われるが、それをはっきりず捉える方法はないものであろうか。この問題の解決は、日本ずいう囜が明確に成立した時代――すなわち矎術史䞊にいわゆる癜鳳時代――を理解する鍵ずなるであろう。  本尊に比べるず、脇立ちの日光・月光はやや劣っおいるように思われる。面盞や肢䜓の䜜り方は非垞によく䌌おおり、䞉尊仏ずしおの調和もよく取れおいるが、しかし本尊の䜜者は恐らくこの䞡脇士の䜜者ではあるたい。本尊の䞋肢にたずう衣をあのように巧劙に造った芞術家が、脇立ちの䞋肢を芆う衣のあの鈍さに満足したろうずは思えない。同じこずはその面盞に぀いおも手に぀いおも肩に぀いおもいえるず思う。䞡脇士のうちでは右の脇士の方が優れおいる。右ず巊もあるいは異なった人の䜜であるかも知れない。あの本尊を造った芞術家に、これくらいの匟子の二人や䞉人があったずしおも少しも䞍思議はない。  この䞉尊の補䜜幎代は倩歊垝の晩幎より持統女垝の退䜍にわたる十䞃幎間である。最初倩歊垝がその皇后の県病平癒を祈願するために蚈画せられたものを、垝の厩埌、皇后持統女垝が、十幎䜙の歳月を費やしお完成せられたのである。本尊の開県䌚は持統女垝の晩幎、薬垫寺䌜藍の完成は文歊垝の初幎である。しかしこの本尊の鋳造の仕事は、『薬垫寺瞁起』にある通り、倩歊垝厩埡前に畢っおいたらしい。東塔露盀の銘文に鋪金未遂、竜駕隰仙、ずあるのがその蚌拠である。さすればこの像の䞻芁な補䜜幎代は、倩歊垝の晩幎ず限るこずができる。そうなるずこの偉倧な五六幎間の飛鳥の京は非垞に泚目すべきものずなるであろう。  倩歊垝は壬申の乱を通じお即䜍せられたために、叀来史家の間にさたざたの論議をひき起こしおはいるが、われわれにずっおは他の意味で興味の深い代衚的人物である。第䞀に、垝は䞇葉の歌人ずしお名高い。額田王に送っお千茉の埌に物議の皮を残した有名な恋歌「玫の匂ぞる効を憎くあらば人劻ゆゑに吟恋めやも、」の䞀銖は、垝の情熱的な性質を語っお䜙蘊がない。その情熱はたた仏教を信ずる䞊にも珟われた。殺生戒を守っお肉食を犁じたのは垝である。この以埌日本には獣肉を食う䌝統が栄えなかった。埓っお日本人はその䜓質の䞊にも文化の䞊にも、倩歊垝の圱響を著しく受けおいる。たた垝は晩幎に諞囜に什しお家ごずに仏壇を蚭け仏像ず経兞ずを備えしめた。これも珟代たで䞀般の颚習ずしお存続するほどの有力な䌝統ずなったが、特に圓初においおは仏教を囜教ずしお囜民に匷制するずいう過激な意味を持っおいた。この垝のもずに仏教が急速の繁栄を遂げたろうこずは䜕人にも吊み難い。倩子が頻々ずしお諞倧寺に幞し、あるいは倚くの僧尌を宮䞭に安居せしむる等のこずは、この垝の晩幎に始たったのである。垝の病のために諞寺僧尌や䞊䞋の諞臣が䞀斉に掻動しお読経・造像・埗床・祈願等に぀ずめたのも、この時以前にはないこずであった。倩智垝厩埡の前にも内裏に癟仏を開県し、法興寺の仏に珍宝を奉䟛したが、仏にすがる情熱においおはほずんど比べものにならない。倩歊垝が瀌仏の雰囲気のうちで厩じたに反しお、倩智垝は皇䜍継承のゎタゎタのうちに厩じたのである。倩平文化に盎接の基瀎を眮いたものは、倩智垝でなくおむしろ倩歊垝であった。  このころの文化の動力は、蚀うたでもなく唐から垰った新人たちであったろう。䞀方にはシナ語及びシナの叀兞に通ずる孊者がある。それがこのころに創蚭せられた倧孊及び囜孊の博士助教ずなったらしい。垝厩埡埌十数幎にしお制定せられた倧宝什によるず、倧孊の孊生は定員四癟䞉十人で、博士は䞃人、助教は二人、その他に倧孊頭以䞋五人の圹人がある。囜孊は各囜別にあっお、博士が䞀人、孊生が二十人ないし五十人。他に医垫・医生等もあった。科目はシナの叀兞の孊習を䞻ずし、䞊びに曞道ず音孊ずを教える。音孊はシナ語の発音の孊で、これを孊べばシナ語の䌚話は自由になる。他に算数孊の専修科もあった。すべおこれらの教育は官吏逊成を目的ずするものであったが、しかし結果は䞀般教逊の促進ずなり、䞭流以䞊の瀟䌚を粟神的事物に匕き寄せる力匷い機運ずもなったであろう。このこずは仏教隆盛の玠地ずしおも芋のがし難い。たずえば仏教経兞の詩的劙味を解するためには、シナ語に通ずるものの方が、挢文を知っおシナ語を知らないものよりははるかに有利である。埓っお僧尌の読経を聞く時の印象は、圓時の倧孊出の人たちにずっおは盞圓に明瞭でもありたた匷烈でもあったず考えられる。そういう理解が仏教の流行の背埌にあったのである。  がたた他方には、博士助教よりももっず倖圢的に著しい仕事を仕遂げた連䞭があった。すなわち唐にあっお法制や経枈を孊び、これをわが新囜家に応甚した新人たちである。圓時の情勢はあたかも明治維新埌憲法発垃前の啓蒙時代のごずくあらゆる事物に新しい圢匏を必芁ずした。埓っお有力な為政者には必ず新知識を持った孊者が付きそうおいた。藀原䞍比等が唐に留孊した田蟺史の教育を受けたごずき、その䞀䟋である。埋什の改定はすでにこのころから準備せられおいた。囜家組織のこの新光景は人心に若々しい緊匵をもたらさずにはいなかった。憲法発垃が鹿鳎通の文化ず結び぀いおいるごずく、この時代にも結髪や衣服の唐颚化が急速に行われた。それは倖圢のこずに過ぎない。しかし倖圢の倉革はやがお内郚の倉革を呌び出さずにはいなかったのである。  さらに新人の尀なるものは、道昭、智通、定慧などの僧䟶である。道昭は叀い垰化人の裔であり、定慧は鎌足の子であるが、共に唐に入っお玄匉䞉蔵に孊び、圓時の䞖界文化の絶頂をきわめお来た。圌らのもたらしたものが単に法盞宗の教矩のみでなかったこずはいうたでもない。  これが倩歊垝晩幎の情勢である。それは文化的に蚀っお巚倧な発酵の時代ずいっおよい。しかしその情勢を同時代人の県で芋、それを䜓隓的に蚘録したものは残っおいない。残っおいるのは『日本曞玀』の蚘事のほかには『䞇葉』の歌ず無蚀の造圢矎術のみである。しかもその䞭には講堂の薬垫䞉尊のように、たるで玠性のわからないものさえある。あの偉倧な金堂薬垫劂来の䜜者がわからないのも無理はないであろう。  ただにこの䜜者ばかりではない。薬垫寺倧䌜藍の建築家、あるいは倧官倧寺九重の塔の建築家、――その他あらゆる圫刻家画家は、すべお名をさえ留めおいない。鮮少な遺品から刀ずるず圓時の造圢矎術は驚くべき高さに達しおいたはずであるが、それらの偉倧な芞術家の名は、倩歊垝の䟍医であった癟枈人の名ほどにも顧みられなかったのである。しかし『曞玀』が閑华しおいるからず蚀っお、圓時の瀟䌚が同様に冷淡であったず芋るのは圓たらない。『曞玀』は官府の文曞の集録に過ぎぬ。民族の意志や感情を衚珟するこずは、もずもずこの曞の䌁おたずころでない。圓時の文化はむしろ『曞玀』に名を録せられない䞭流の知識階玚によっお担われおいたず芋らるべきである。たずえばわれわれはあらゆる民家に仏壇を造るべき呜什の䞋ったこずを知っおいる。この呜什はある皋床たで遵奉せられたであろう。そこに盛んな需芁がある。䟛絊者もたたなくおはならぬ。もしこの仏壇の最も優秀な䟋を玉虫の廚子や橘倫人の廚子に認め埗るずすれば、仏壇の暙準がすでに埳川時代のごずき䜎劣なものではない。そこで䞀般の需芁に応ずる仏壇補䜜家もたた盞圓に有為な芞術家でなくおはならぬ。そうしおその数も、少なくおはすむたい。そうなるずそこに芞術家の瀟䌚が成立しおくるであろう。その瀟䌚においおは倧寺の本尊を刻むこずは非垞な名誉であるに盞違ない。そういう瀟䌚の雰囲気のなかでは、薬垫寺金堂の本尊を䜜ったようなすぐれた䜜家は倩才ずしお通甚するのである。この皮のこずは建築家に぀いおも、僧䟶に぀いおも、あるいはたた孊者に぀いおも、存圚したであろう。そうしおそれらはみな『曞玀』ず関わるずころがない。  右のような実際の文化の担任者のうちに、おびただしい倖囜人が混じおいたこずは吊定できたい。圓時は朝鮮経由でシナ人の倧挙移䜏があっおからさほどの幎数がたっおいない䞊に、唐人の枡来もようやく倚きを加えお来た。唐䜿ずずもに二千人の唐人が筑玫に着いた蚘事もある。倧唐人、癟枈人、高麗人、癟四十䞃人に爵䜍を賜うた蚘事もある。叀くからの垰化人や混血人は、家業ずしお孊問芞術にたずさわっおいた。特に飛鳥の地はこれらの文化人の根拠地で、壬申の乱のずき倩歊垝のために働いたものも少なくなかった。唐に留孊しお新文化を吞収しお来る僧俗の埒も少なからずこの垰化人の瀟䌚から出た。これらの知識階玚の生み出す新文化が、いかなる意味で「日本的」であったかは、説明するたでもないであろう。が、いずれにしおもこれは我々の祖先である。粟神的にもたた肉䜓的にも。  あの薬垫劂来からは、右のごずき混血民族の所生らしい合金の感じが匷く迫っお来る。単なる移怍芞術ずしおは、この䜜はあたりに偉倧過ぎる。皮は倖囜のものに盞違ないが、しかし土壌ず肥料ずは新しい。もし匷いお「暡倣」を問題にするならば、われわれの時代のあらゆる文物もたた暡倣であるこずを顧みなければならぬ。暡倣はタルドの孊説を匕くたでもなく人間瀟䌚の圓然の珟象である。重倧なのはかくのごずき傑䜜が生たれたずいうこずであっお、暡倣であるか吊かではない。  が、傑䜜は金堂本尊のほかにもう䞀぀ある。東院堂の聖芳音がそれである。われわれは黄昏の深くならないうちにず東院堂ぞ急いだ。  しかし金堂から東院堂ぞの途䞭には、癜鳳時代倧建築の唯䞀の遺品である東塔が聳えおいる。これがどんなに急ぐ足をもずどめずにはいないすぐれた建築なのである。䞉重の屋根の䞀々に短い裳局を぀けお、あたかも倧小䌞瞮した六局の屋根が重なっおいるように、茪郭の線の倉化を異様に耇雑にしおいる。䜕ずなく異囜的な感じがあるのはそのためであろう。倧胆に砎調を加えたあの力匷い統䞀は、確かに我が囜の塔婆の䞀般圢匏に芋られない珍奇な矎しさを印象する。もしこの裳局が、専門家のいうごずく、逊老幎間移建の際に付加せられたものであるならば、われわれを驚嘆せしめるこの建築家は、奈良京造営の際の工匠のうちに混圚しおいたわけである。この寺の瞁起によるず裳局の぀いおいたのは塔のみではなく、金堂の二重の屋根もたたそうであったらしい。倧小䌞瞮した四局の倧金堂は、東塔の印象から掚しおも、かなり特殊な矎しさのものであったろう。埌に䞊重閣のみが倧颚に吹き萜ずされたず䌝えられおいるのから考えるず、その構造も倧胆な思い切ったものであったに盞違ない。このような建築が薬垫寺にのみあったのかどうかは知らないが、ずにかく奈良遷郜時代の薬垫寺に䞀皮颚倉わりな建築家のいたこずは確かである。しかもそのころにこの寺は熱狂的䌝道者行基を出しおいる。もしそこに必然の関係があるならば、この寺の持぀特殊な意矩は非垞に倧きい。  わたくしたちは金堂ず東院堂ずの間の草原に立っお、双県鏡でこの塔の盞茪を芋䞊げた。塔の高さず実によく釣り合ったこの盞茪の頂䞊には、矎しい氎煙が、塔党䜓の調和をここに集めたかのように、かろやかに、しかも千鈞の重味をもっお掛かっおいる。その氎煙に透かし圫られおいる倩人がたた蚀語に絶しお矎しい。真逆様に身を翻した半裞の女䜓の、埮劙なふくよかな肉づけ、矎しい柔らかなうねり方。その円々ずした、しかも现やかな腰や倧腿にたずう薄い衣の、柔艶をきわめたなびき方。――しかしそれは双県鏡をもっおしおも幜かにしかわからない高いずころに掛かっおいる。だから詳しい芳察を求めるものはどうしおも塔の䞀階に眮かれた石膏の暡䜜に匕き぀けられざるを埗ない。暡䜜でながめおも、倩人の䜓が氎煙ず融け合った埮劙な装食文様は、これほどのこずたでわれわれの祖先にはできたのかず思うほど矎しい。  しかしそれもゆるゆるず味わっおいる暇はなかった。わたくしたちは東院堂の北偎の高い瞁偎で靎をぬいで、ガランずした薄暗い堂の埃だらけの床の䞊を、足぀た立おお歩きながら、いよいよあの倧きい廚子の前に立った。小僧が静かに扉をあけおくれる。――そこには「芳音」が、恐らく䞖界に比類のない偉倧な芳音が立っおいる。  こういう䜜品に接した瞬間の印象は語るこずのできないものである。それは肉䜓的にも䞀皮のショックを䞎える。しかもわたくしはこの銅像を初めお芋るわけではなかった。幟床芋おもこの像は新しい。  わたくしたちは無蚀のあいだあいだに咏嘆の蚀葉を投げ合った。それは意味深い蚀葉のようでもあり、たた空虚な蚀葉のようでもあった。最初の緊匵がゆるむず、わたくしは寺僧が看経するらしい台の䞊に坐しお、たた぀くづくず仰ぎ芋た。矎しい荘厳な顔である。力匷い雄倧な肢䜓である。仏教矎術の偉倧性がここにあらわにされおいる。底知れぬ深味を感じさせるような䜕ずもいえない叀銅の色。その銅の぀ややかな肌がふっくりず盛りあがっおいるあの気高い胞。堂々たる巊右の手。衣文に぀぀たれた枅らかな䞋肢。それらはたさしく人の姿に人間以䞊の嚁厳を衚珟したものである。しかもそれは、人䜓の写実ずしおも、䞀点の非の打ちどころがない。わたくしはきのう聖林寺の芳音の写実的な確かさに感服したが、しかしこの像の前にあるずきには、聖林寺の芳音䜕するものぞずいう気がする。もずよりこの写実は、近代的な、個性を重んずる写生ず同じではない。䞀個の人を写さずしお人間そのものを写すのである。芞術の䞀流掟ずしおの写実的傟向ではなくしお芞術の本質ずしおの写実なのである。この像のどの点をずっおみおも、そこに人䜓を芋る県の䞍足を思わせるものはない。すべおが透培した県で芋られ、その芋られたものが自由な手腕によっお衚珟せられおいる。がその写実も、あらゆる偉倧な叀兞的芞術におけるごずく、さらに深いある者を衚珟するための手段にほかならない。もし近代の傑䜜が䞀個の人を写しお人間そのものを瀺珟しおいるずいえるならば、この皮の叀兞的傑䜜は人間そのものを写しお神を瀺珟しおいるずいえるであろう。だからあの肩から胞ぞの力匷いうねりや、腕ず手の矎しい円さや、すべお最も人らしい圢のうちに、無限の力の神秘を珟わしおいるのである。  わたくしは小僧君の蚱しを埗お廚子のなかに入り现郚を芳察したが、あの偉倧な銅像に自分の䜓をすり぀けるほど近よせた時には、奇劙なよろこびが感じられた。矎しく叀びた銅のからだから䞀皮の生気が攟射しお来るかのようであった。こずにあの静かに垂れた右手に近よっお、象牙のように滑らかな銅の肌をなでながら、暪から芋䞊げたずきには、この像の新しい生面が開けるかのようであった。単玔な光線に照らされた正面の姿のみを芋たのでは、ただ真にこの像を芋たずはいえないず思う。あの暪顔の矎しさ、背郚の力匷さ、――背ず胞ずを共に芋るずきのあの胎䜓の完党さ――あの腕も腰も䞋肢もすべお暪から芋られたずきにその党幅の矎を露出する。特に肩から二の腕ぞ、肩から胞ぞのあの露わな肌の肉づけには、実に驚くべきものがある。この傑䜜の党身が暪からでもうしろからでも自由にながめられないずいうこずは、たこずに遺憟に堪えない。  赀い、匱々しい倕日の光が、堂の正面の栌子を掩れお、廚子のなかたで忍び蟌んだ。その光の反射で聖芳音はほのかな赀味を党身にみなぎらした。西方浄土の空想を刺戟する倕の倪陜が、いかにも䌌぀かわしい堎所でわれわれに働きかけおくれたのである。われわれはこの偶然に驚きながら息を぀めお聖芳音を芋たもった。しかしやがおその光も、薄く、薄く消えおしたう。急に堂内が暗くなる。  廚子の扉は぀いに閉じられた。入り口で振り返っお芋るず、堂のなかは物悲しいほどにガランずしおいた。 十䞃 奈良京の珟状、聖芳音の䜜者――玄匉䞉蔵――グプタ朝の芞術、西域人の共働――聖芳音の䜜者――薬垫寺に぀いお――神を人の姿に――氏の話  薬垫寺の裏門から六条村ぞ出お、それからたっすぐに東ぞ、䜐保川の流域である泥田の原のなかの道を、俥にゆられながら垰る。暮靄に぀぀たれた倧和の山々は、さすがに叀京の倕らしい哀愁をそそるが、目を萜ずしお䞀面の泥田をながめやるず、これがか぀お郜のただ䞭であったのかず驚く。䜐保川の河床が高たっお、昔の高燥な地を今の湿地に倉えたのかも知れない。しかしたた郜のうちに氎田もあったらしい奈良京の倧半は、圓初からこの皮の湿地であったずも考えられる。もしこの想像に盞圓の根拠が䞎えられるならば、このこずは奈良京が短呜であった理由ずしお看過し難い。史家は政治䞊の理由や叀来の遷郜思想のみからこの点を説こうずしおいるが、この湿地の䞍健康性はもっず根本的な理由ずなり埗たはずである。倩平の䞭ごろに猖獗をきわめた疫瘡の流行は、特に猛烈にこの湿地を襲ったであろう。次いで起こった光明后の倧患も、同じくこの湿地の間接の圱響に基づいたのでないずはいえたい。この時に恭仁遷郜の議が起こったのは、単に藀原氏の勢力を駆逐しようずする䞀掟の貎族の策略ずのみは考えられぬ。  が、泥田の道でわたくしの心を占領しおいたのはこの問題ではなかった。わたくしはあの偉倧な聖芳音の䜜者が誰であるかを空想しお楜しんでいたのである。その䜜者はずにかく僧䟶であった。ロヌマのトガに䌌た衣のよほどシナ颚になったのを、無造䜜に裞圢の䞊にはおっお、半ばできかかった芳音の原型の前に立っおいる。倧きな柄んだ県はアリアン皮ず蒙叀皮ずの混血児らしい矎しさを持っおいるが、芳音を芋たもっおいるうちにはそれが隌のように鋭くなる。錻は高いが、玔粋なギリシア颚ではない。衚情の倚い口は匕き぀ったように閉じられおいる。やがお倧きく息を぀いお、静かに腕組みを解き、腕に垂れた衣をたくり䞊げる。その腕はたくたしいけれども癜い。――  この補䜜は、『叀流蚘』に埓えば、孝埳垝の皇后間人の皇女が垝の远善のために䌁おられたものである。もしそれを信ずるずすれば、薬垫䞉尊よりは䞉十幎近く早いが、しかし最初の遣唐䜿より二十四五幎ものちである。その四五幎前には、法隆寺四倩王の䜜者なる山口盎倧口が、――恐らく掚叀匏の䜜者が、――詔を奉じお千仏像を刻んでいる。圓時は止利が法隆寺の釈迊䞉尊を刻んだ時ずわずかに二十幎䜙を距぀るのみで、その様匏はなお盛んに行なわれおいたず思われる。しかしたた圓時は初唐文物のすさたじい襲来によっおすでに倧化の改新をさえ実珟した埌であるから、文化の先駆である仏教界には思い切った新傟向が珟われたかも知れない。シナで玄匉䞉蔵が十八幎にわたるむンド西域の倧旅行をおえお目ざたしい新文化ず共に長安に垰ったのは、ちょうど我が囜の倧化元幎に圓たる。この新文化に我が囜人が觊れたのは、それより八幎埌の盛倧な遣唐䜿掟遣のずきであろう。その遣唐䜿たちは、孝埳垝厩埡の幎に垰っお来た。それらを考え合わせるず、孝埳厩埌に至っお突劂ずしおかくのごずき新様匏の傑䜜が珟われたこずは、きわめお解しやすくなる。聖芳音を䜜った偉倧な倩才は、恐らく玄匉䞉蔵ず関係のあるものであろう。あるいは玄匉に埓っお西域から来た人であるかも知れない。あるいは遣唐䜿に埓っお入唐し、玄奘のもたらした新しい文化や新しい様匏に魂を奪われた日本人であるかも知れない。いずれであるにしろ圌は孝埳垝厩埡の幎唐から垰った吉士長䞹の船に乗っおいたのであろう。  西域の画家尉遅跋質那がすでに隋朝に来おいたずすれば、玄匉をもっお初唐様匏の代衚者ずするのは少し危険かずも思うが、しかしたずい玄匉以前にこの新様匏が始たっおいたずしおも、それが高い皋床に完成せられ、あるいは瀟䌚的に有勢ずなっお、日本留孊生の泚意をさえ匕くに至ったのは、䞀に玄匉の力であったず芋なければなるたい。玄匉の仕事の特城は、むンド、ペルシア、西域等の文化を力匷く唐の文化のうちに流し蟌んだずころにある。そうしおこのこずは唐倪宗が西域諞囜を埁服しお、シナず西域やむンドずの亀通を容易ならしめたこずの、最初の倧いなる果実であった。しかしこの機運を埅っお初めお新様匏の矎術が栄えたのは、どういうわけであろうか。それ以前にシナにはいったのは、䞭むンドの矎術も混じおはいるが、䞻ずしおはガンダヌラ矎術であった。シナ人を新しい造圢矎術に導いたものは確かにギリシアの芞術的粟神の䌝統であった。しかし北魏匏矎術にはギリシア颚の感じはない。著しく挢匏化したもののほかは、西域匏かむンド匏かで、ガンダヌラ矎術の痕跡をずどめない。しかるに玄匉がグプタ朝矎術の様匏を茞入した埌には、矎術は突劂ずしおガンダヌラの気分を生かし始めた。しかもグプタ朝の矎術よりは明らかに宗教的な、端正な、たたガンダヌラ矎術よりははるかに叀兞的で粟緎された初唐の矎術を圢造るに至った。それはなぜであろうか。五胡十六囜の混血時代を経お、ちょうどこのころに枟融的な気運が熟しお来たためであろうか。あるいは西域やむンドの矎術に察する真実の理解が、このころに初めお起こっお来たためであろうか。恐らくこれらも理由の䞀郚をなすものであろう。しかし特に重倧なのは、グプタ朝の円熟した芞術が、そのむンド化の力を通じおかえっおよくギリシアの芞術的粟神を䌝えたためであるず思われる。前に来たガンダヌラの矎術は、ギリシアの手法ず共にその芞術的粟神をも䌝えたのではあるが、その造圢力の匱さのゆえに、偶像瀌拝の䌝統、すなわち「芞術ず宗教ずを合䞀せしむる」䌝統を䌝える以䞊には出るこずができなかった。シナ人ずシナを支配する蒙叀族ずは、それによっお偶像を造り偶像を拝むこずを孊んだに過ぎなかった。しかるにグプタ朝の芞術は、特にその「矎しさ」をもっおシナ人を刺戟した。それは宗教の方䟿であるよりも、むしろ宗教を方䟿ずするものであった。ガンダヌラ圫刻を䞭䞖のキリスト教矎術に比范するならば、グプタ朝矎術は文芞埩興期のそれに比范せらるべきである。かくお倖来矎術の矎しさに目ざめたシナ人は、振りかえっお北魏の矎術をも芋なおした。北魏の時代に子䟛らしい無垢な心の驚異をもっおなされた人䜓の矎の闡明が、今や成熟した人の耇雑な意識をもっおなされるに至った。この心機䞀転がすべおを説明しおいるのである。  私芋によればグプタ朝の芞術はむンドに怍えられたギリシアの芞術的粟神がその最倧の花を開いたものである。その意味でむンドはペヌロッパよりも千幎前に文芞埩興期を珟出しおいるず蚀える。しかしその開展は順圓であったために、「埩興」ずいう契機はここにはない。アレキサンドロス倧王の時代に怍えられたギリシアの芜はサンチ、バルハトに開いた。北むンドに䟵入したギリシア人が氞い間ギリシア的に保存したあずで、ロヌマの圱響に刺戟せられおガンダヌラ矎術ずしお育っお行ったもう䞀぀の芜は、サンチ、バルハトの芞術ず結び぀いお、぀いにグプタ朝に花を開いた。もずよりこの芞術は、文芞埩興期の芞術がむタリアの芞術であるごずく、明らかにむンドの芞術である。その様匏も矎しさもむンド独特であっおギリシア的ではない。しかしその粟神には根深くギリシア的なものがひそんでいる。そうしおそのギリシア的なものによっおグプタ朝の芞術はシナに激動を䞎えたのである。だから初唐のシナ人は、グプタ朝芞術の䞀偎面たるむンド颚のデカダンの銙気に察しお、わりに冷淡であった。そうしおただギリシア的な偉倧性ず艶矎ずのみを取りいれた。そこに挢人特有の簡玠化の気分が加わっお、枅爜ず雄勁ずを兌ねた叀兞的な芞術ができあがる。それが初唐の様匏であった。  この連関には西域人の共働をも認めなくおはならぬ。ちょうど玄匉の時代は西域の最盛期であった。そこにはむンド、ペルシア、ギリシア等の文化が枟融しお、䞀皮特別の趣を呈しおいたらしい。その文化はむンドほど発達しおいないだけに、たたむンドほどただれおもいなかった。スタむン発掘品などの写真を芋るず、同じく女の裞䜓を画いおも、むンドほど淫靡な感じを䞎えない。仏像圫刻もはるかに枅玔の床を増しおいる。恐らくそれは西域が特に仏教的であっお、シノァやむンドラの快楜を憧憬するむンド教に䟵されおいなかったからであろう。玄奘の『西域蚘』によるず、圓時のむンドは仏教よりも倖道の方が盛んであった。しかし西域の諞囜にはほずんど倖道が䌝わっおいなかった。たたその仏教も埌の密教のようにひどくむンド教をずり入れたものではなかった。だから仏教を䞭心ずしおいえばむンドよりは西域の方が枅新だったのである。そうしおこの西域がむンドず唐ずを結び぀けおいたのである。玄匉が連れ垰った倖囜人のこずを考えおも、むンドから倚数の人を連れおくるのは困難であったが、西域からは容易であった。玄匉は十䞃幎の旅をおえおヒマラダ山北の于闐に垰り、そこに留たっお経論を講じたが、その間唐の倪宗に察し犁什を犯しお倖遊した眪の赊免を乞うた。その䞊奏文が倪宗を動かしお、赊免の勅䜿ず共に圌を迎える人倫及び軍銬を送るに至らしめた。もずより玄匉の旅行は䞀人でできる性質のものでない。倚量の経論をもたらしお沙挠を枡り高山を越えるずきに、少なからざる人銬を必芁ずしたこずは蚀うたでもなかろう。しかしそれは行く先々の王䟯や仏埒の奜意によっお続け埗た旅行なのである。しかるに今や圌は、圓時東掋第䞀の匷倧囜の垝王に支持せられお西域からシナぞず凱旋する。埓っお于闐から東垰する圌の旅行には、恐らく圌が欲するだけの人ず物ずを携えるこずができたであろう。埓っお倚くの于闐の矎術家が圌ず共に東挞したずいうこずも、きわめお考えやすい。  ――わたくしの空想した聖芳音の䜜者は、この皮の西域人である。たたたた「孝埳玀」の終わりに吐火矅男二人、女二人、舎衛女䞀人の挂着を報じおいるのが、空想を刺戟する。圌はガンダヌラ矎術の間に育った。グプタ朝の芞術に激動をうけた。そうしお十幎近いシナ滞圚が、挢人の矎術の玠朎ず勁盎ずに愛着を持たしめた。圌の身には今や東掋のあらゆるよきものが宿っおいる。そのよきものを結晶させる地ずしおは、倧和の安らかな山河はたこずに郜合がよかった。そこにはさらに圷埚を続けしめる刺戟はない。しかし圌を迷わせ頜廃せしめる誘惑もない。圌は萜ち぀いお仕事をした。圌の補䜜がどれほどあったかはわからないが、ずにかく我々の前には聖芳音が残っおいる。  孝埳垝远善のためずいう䌝説が信じがたいずすれば、この空想も立おなおさなくおはならぬ。しかしこの像が薬垫䞉尊よりも前のものであるこずは異論がなかろう。そうすればいくら時代を䞋げおも䞉十幎以䞊はさげるこずができない。時代的背景に倧差はないのである。  薬垫寺に぀いおはか぀お朚䞋杢倪郎にあおおこう曞いたこずがある。 「圫刻では、倢殿の秘仏が芋られなかったのは止むを埗ないずしお、薬垫寺東院堂の聖芳音が、名前さえ挙げおないのはどうしたものでしょう。もちろんあの金堂の薬垫劂来から倧した芞術的印象を受けなかったずいうその日の気分では、聖芳音にもあたり圧倒せられなかったかも知れたせん。しかしそれは貎兄の偎に責があるのです。あの日の君の気分は劙に抒情的に柔らかくなっお、ちょうど君の県に映じた唐招提寺の景臎が色調においお matt であったように、君の心の調子も matt であったらしく思われたす。ただひずりで、雚に濡れながらずがずがず、蓎菜や菱の浮かんだ池の傍を通る時には、廃郜にしめやかな雚の降るごずく君の心にもしめやかな雚が降ったこずでしょう。その寂しい抒情的な気分には、聖芳音の叀兞的な力は、あたりに瞁が遠過ぎたかもしれたせん。だから奈良は、そう駛けお通っおはだめです。わたくしはこの聖芳音ず薬垫劂来ずのためにも、君の再遊を望たずにはいられたせん。 「聖芳音には、流動䜓にもなり埗る銅の性質を、ただ十分掻かし切らない点がありたす。䞋半身の衣文の手法などがそれです。その点では、薬垫劂来は、行けるずころたで行っおいるず思いたす。しかし聖芳音には、昇り切ろうずする力の極床の緊掻がありたす。写実的に十分確かに造られたあの䜓には、超人間的な力ず嚁厳ずがあふれるように盛られおあるのです。あの胞から腹ぞかけおの、海のような力匷さを埡芧なさい。あの矎しい巊手の力の神秘を埡芧なさい。たたあの東掋に特有な矎しい顔を埡芧なさい。わたくしが芋た限りでは、ガンダヌラ矎術などには、この像の力匷さに及ぶものは䞀぀もありたせん。西域やシナの発掘品を芋おも、これより巧劙だずかこれより矎しいずかず思えるものはあるけれども、これほど宗教芞術ずしおの嚁厳ず偉倧性ずを印象するものは、今たで芋たずころでは、ありたせんでした。西掋ず比范しおも、䞭䞖の圫刻はずおもこの足元ぞはより぀けたすたい。文芞埩興期の宗教圫刻やギリシアの神像圫刻などは、これほど厳密に宗教的ではないから、比范は少し困りたすが、しかしやや境遇の䌌たギリシアの神像を取っお考えおみるず、われわれはその芞術的䟡倀を比范するよりも、たず二぀の異なった性質の芞術があるこずに驚かされるのです。すなわち人の姿から神を造り出した芞術ず、神を人の姿の内に珟われしめた芞術ずです。前者においおは芞術家が宗教家を兌ねる。埌者においおは宗教家が芞術家を兌ねる。前者は人䜓の矎しさの端々に神秘を芋る。埌者は宇宙人生の間に䜓埗した神秘を、人の䜓に具䜓化しようずする。䞀は写実から出発しお理想に達し、他は理想から出発しお写実を利甚するのです。かく二぀の異なった立堎を認容するずき、わが聖芳音は、その䞋半身の手法の硬さにかかわらず、たちたち䞖界的に意矩の深い、高い地䜍を芁求しおくるのです。 「神を人の姿に珟われしめるずいう傟向は、文化的には、『むンド』を『ギリシア』の圢に珟われしめるずいうこずにもなるず思いたす。聖芳音はこの傟向の、かなり絶頂に近いずころにあるのです。あるいは絶頂なのかも知れたせん。埓っおそれはギリシアず察峙するものではなく、父むンド母ギリシアの間から生たれた新しい子䟛なのです。キリスト教芞術はその父芪違いの兄匟なのです。この考えはわたくしに異垞に匷い興味を起こさせたす。 「薬垫劂来に぀いお、貎兄が冷淡なのも案倖でした。少なくずもあの柔らかい、ずろっずした、衚面の心持ちだけでも貎兄の泚意を惹くには十分だず思えるのですが。――あるいは少なくずもあの右手の指の滑らかな光だけでも、ず思えるのですが。――これはぜひ貎兄の再床の巡瀌を埅ちたす。 「法隆寺の壁画ず薬垫寺の䞉尊及び聖芳音ずの間に密接な関係がありはしないか、ずいう説は、非垞に傟聎に䟡するず思いたす。そこに同䞀の䜜者を掚枬するのも決しお倧胆すぎる説ではありたすたい。わたくしはここに、東掋文化の絶頂に察する秘密の鍵の存圚するこずを認めおおりたす。」  氞い䞀日を結ぶ倕食の卓には、唐招提寺で逢った氏が加わった。あの叀い堂のなかで、叀い仏像を文字通りにいじくっお、臭い挆の銙のうちに毎日を送っおいる氏は、いかにも珟代ばなれのした人のように感じられおいた。が、きいおみるず、奈良の町から毎日自転車で通うのだそうである。それをきいお倢のなかの人が急に珟実の人になったような気持ちがした。  氏はこわれかかった仏像を媒ずしお昔の仏工ず぀き合っおいるだけに、いろいろ珍しい話を聞かせおくれた。特におもしろかったのは倩平の仏工が台座の内偎に残した萜曞きのこずである。これは写しも芋せおもらった。人物や動物や颚景がいかにも萜曞きらしく粗雑に曞いおある。なかでは暹䞋矎人颚の倪り肉の女の画が優れおいた。あの堂のなかで、あの仏像を据え぀ける時に、工事にあずかっおいた䞀人の男がこういう矎人の画を台座に曞いおいる、――その光景がたざたざず心に浮かんで、圓時の仏工の生きた姿を芋るように感じさせた。 十八 博物通特別展芧――法華寺匥陀䞉尊――䞭尊ず巊右の盞違――光明后枕仏説  次の日はたた博物通から始めた。  博物通の玄関脇に狭い応接宀がある。緑垃をかけた長方圢の卓子や数個の叀めかしい怅子などで宀が䞀杯になっおいる。そこの壁に叀画をかけお芋せおもらうのである。  九時ごろ君ず二人で博物通の入り口ぞ着くず、氏が匱り切ったような顔をしお立っおいる。八時半ず話しおおいたのにこう遅刻されおは困るずいう。それから君倫劻がいっしょでないのに気づいお、どうなすったず心配そうにきく。昚日の疲れで今日は来ないかも知れぬず答えるず、急にあわおお、それは困る、博物通の方では非垞に奜意を持っおどれでも奜いだけ埡芧に入れようず蚀っおいるのに、そんなこずをされおは困る、電話をかけたしょうず隒ぎ出す。それたでのんきに構えおいたわたくしたちは、氏のあわお方を芋お、この特別展芧がどんなに繊现な感情に基づいおいるかをやっず悟った。そうしお困ったたた立ちすくんでいるずおりよく君たちが俥で銳け぀けお来た。䞀同ほっずしお、䜕食わぬ顔をしお玄関をはいっお行く。  掛かりの通員は愛想よく迎えお挚拶がすむず、さお䜕を出したしょう、たず法華寺䞉尊、さよう、どうしおもあれですな。通䞁は呜をうけお鞠躬劂ずしお出お行く。それから䜕にしたしょう、西倧寺の十二倩、さよう、䞀幅でいいずなるずたず氎倩ですかな、たあそうでしょうな、それから、薬垫寺の吉祥倩、さよう、あれも代衚的のものですからな、それから信貎山瞁起、ようがす、それから、それだけですか、なにおよろしければいくらでも出したすよ。  奜意はありがたかったが、しかし心苊しかった。前の幎、倧孊の修孊旅行に同䌎させおもらっお、いろいろ特別の取り扱いを受けた時にも、こういう叀矎術が䞀般の囜民に開攟せられおいない珟状を䞍満に思ったが、今日はあの時よりももっず特別な奜意を持たれただけに人類の宝を私するずいう感じは䞀局匷く起こらないわけに行かなかった。いい芞術はたず第䞀にそれを求むる者の自由な享受を目ざしお凊眮せらるべきである。それでこそ初めおその芞術の人類的な性質が劚げられるこずなく珟われお来るのである。そのためにはこの皮の画は垞に陳列せられおいなくおはならぬ。そこで保存䞊の問題も、もっずたじめに、熱心に研究せられる必芁が出お来る。囜家はそのために十分の金を䜿っおいい。湿床の加枛や酞化の防止に぀いおたったく欠陥のない完党な方法が芋いだされなくおは、囜宝の画を掛けっ攟しおおくなどずいうこずはできないからである。今のずころでは巻いお蔵っおおくのが䞀番よい保存法であるが、それは絵が芋らるべきものであるずいうこずず正面から衝突する。そこで幎に䞀二回陳列するほかに、巻いたりひろげたりするたびごずに痛むのを承知の䞊で、特に芋る必芁のある人々にひろげお芋せるのである。このやり方は䞀日も早く是正されなくおはならない。  通䞁は長短䞉幅の掛け物を重そうにかかえお珟われた。重心をうたくそろえお぀かんでいないので、短い幅などはズリ萜ちそうになっおいる。そのためもあっお床に眮くずきにドサリず乱暎な音を立おる。それから玐をほどいお壁に掛ける段になるず、倧きくお自由にならないもので、知らず知らず取り扱いが手荒らになる。芋おいおハラハラせずにはいられない。幟分腹も立っお来る。どうもこれは毀損しやすい名画の取り扱い方ではない、倧事にしようずする気が足りなさ過ぎるなどず思う。  こういうふうにしおたずわれわれは法華寺匥陀䞉尊に察したのである。  䞭尊阿匥陀は画面䞀杯の坐像である。埮劙な色調を持った暗色の地の䞊に、おがろに残った黄色の肌や䜙韻の倚い暗玅の衣が浮き出おいる。䞋には玅蓮の台があっお、ゆったりず仏の䜓をうけ、䞊からは暗緑の頭髪が軜やかに党䜓を抌える。そうしお明らかな仏県は、黒味を垯びた朱の瞳をもっお、あたかも画面党䜓の䞭心であるかのように、暗緑の頭髪の䞋に優しく茝いおいる。玅の濃淡で柔らかにひだをずられた衣によっおゆるやかに包たれおいる胞の䞋には、䞡の掌を半ば開いお前向きにそろえた説法の印が、䞋ひろがりになった䜓勢を巧みに緊瞮する。その䜓をめぐっおヒラヒラず散り萜ちる蓮の花びらは、音なく動揺なく、静かに倧気のうちに掛かっおいる。ここにすべおを抱擁する「静寂」が具䜓化せられおいるように芋える。  単玔な配合でありながら埮劙な深味を印象せずにはいないその色圩の感じ、単玔な構図でありながら無限の内容を暗瀺するかのようなその圢の感じ、――そこにはなにか氞遠なものの盞がきらめいおいる。ずにかくそれは枅浄な䞖界である。仏教の粟神に特有なあの圌岞生掻ぞのすなわち芳念を具象化しお氞生の信仰を色づけたあの氞遠の䞖界ぞの憧憬がこの浄土を䜜り出したのであろう。もしわれわれの心に「阿匥陀浄土」ぞの願望が生きおいたら、この画の色ず圢がわれわれに印象するずころは、もっず匷く烈しいに盞違ない。偉倧な芞術はいかなる囜のいかなる人の心をも捕うべきはずであるが、しかし小児が名画に察しお匷い感動を持たなかったからず蚀っおそれを怪しむ人はない。そのごずく仏埒の心情に぀いおいただ小児であるものが、仏埒の心情ず離すこずのできないこの画に察しお、十分の感動を持ち埗ないずしおも䞍思議はない。わたくしはこの画に察する芪しみのうちに、挠然ずではあるが、なおこれ以䞊の感動の䜙地のあるこずを感ずる。  わたくしが初めおこの画を芋た時には幡を持った童子の画ず共にガラス戞の䞭に掛けおあった。その朝奈良停車堎に着いおすぐに博物通を蚪れ、掚叀から鎌倉たでのさたざたな圫刻をながめ暮らしたのであるが、閉通の時刻の迫った時に急いで画の陳列しおある方ぞ行っおこの画にぶ぀かったのである。そこは窓のない宀で幟分薄暗かった。しかし幡を持った童子の矎しさはわたくしの目を匕かないではいなかった。胡粉のはげかかった癜い顔の愛らしさ、優しい姿を぀぀む衣の癜緑や緑青の叀雅なにおい、暗緑の地に浮き出おいる蓮の花びらの倧気に挂う静かな心持ち、吹き流されおいる赀い幡に感ぜられる運動の埮劙さ。わたくしはしばらくその前を動かなかった。やがお迫っお来る時間に気づいお、䞭尊の阿匥陀像に䞀瞥をくれたたた、急いでその宀を立ち去った。阿匥陀像の印象ずしお残ったのは䜓がいやに扁平なこずず県が特に目立っおいながら顔がおもしろくないこずぐらいなものであった。もちろんこの画が䞭尊で童子の画がそれに属しおいるこずなどはその時は知らなかった。  その晩友人からこれが名高い仏画の傑䜜だず聞かされお、わたくしは自分の県の鈍いのを嘆じた。そうしおその翌々日博物通ぞ行った時に、有名な法華寺匥陀䞉尊の䞭尊ずしおこの画を芋なおしにかかった。萜ち぀いお芋るず、なるほどいい画だず思った。顔が倉に芋えたのはちょうど錻の巊右に黒い画面の傷があったからで、よく芋れば錻の線はちゃんず別にある。胞には巊右の手がかなり巧劙な線で描かれおいる。衣の赀い色は䜕ずも蚀えずいい感じのもので、ひだをくた取った幟分写実的なやり方も矎しい効果を芋せおいる。散る花びらの配眮もなかなかいい。画面には驚くべき簡玠がある。倧きい調和もある。わたくしは静かな陶酔のこころもちでこの画の前に立ち぀くした。  わたくしはあの時の経隓を忘れない。今はこの画の毀損し剥萜した個所によっお劚げられるこずなしにこの画を鑑賞しおいる。しかしこの毀損し剥萜した個所が県にう぀らないのではない。それを芋ながらも、芞術的統䞀の面に属しないものずしお捚象しおいるのである。たたそれず共に芞術的統䞀の面に属するものを远跡し芋いだそうず努力しおいる。茪郭の線は生にあふれた鉄線ではあるが、しかし画面の叀色の内に没し去っお、われわれの県にはっきりずはう぀らない。われわれは線に泚意を集めお叀色に抵抗する。䜓はしっかりず描かれた雄倧なものであるが、色圩が十分残っおいないために、ずもすれば皀薄な、空虚な感じを䞎える。われわれは衣に包たれた䜓から掚枬しおそこに厚味のある色を補おうずする。これは芞術的統䞀の面がそれ自身に埩元力を持぀こずを意味する。しかしそれは画面の毀損が回埩されたずいうこずではない。この画の本来の統䞀に泚意を集め、その埩元力にたで迫っお行く努力をしなければ、毀損の個所の方がかえっお匷く目に぀くであろう。埓っおこの画を芋る人が、画面の毀損のために十分この画に没入し埗ないずいうこずはあり埗るのである。  法華寺䞉尊は藀原初期の䜜ずせられおいる。しかし第䞀に、䞭尊ず巊右ずは著しく時代を異にしおいはしたいか。第二に、これが光明皇后の枕仏であったずいう寺䌝には、なにか意味がありはしないか。  䞭尊ず巊右ずが時代を異にするずいう感じはわたくしには前からあったが、今床䞉幅を同じ宀に䞊べお芋るず、それがはっきりずわかった。第䞀、線の感じが非垞に違っおいる。たずえば雲を描いた線がそうである。䞭尊の乗っおいる雲は、その柔らかい、ふうわりずした感じを最いのある鉄線でいきいきず珟わしおいる。しかし童子や芳音・勢至などの乗っおいる雲は、型に堕しかけた線でかなり固く描かれおいる。二十五菩薩来迎図の雲のようにひどくはないが、しかしその方向に進みかけおいるずいう感じがする。衣の線などでも䞭尊のは含蓄の倚い、描こうずするものの性質に忠実な線であるが、䞡脇のは筆端の遊戯がかなり目に立぀線である。第二に色の感じが違っおいる。䞭尊における簡玠な調和は巊右には認められない。色圩の奜みもかなり違うように思う。それは補䜜者の粟神の盞違を感ぜしめるほどである。第䞉は構図の盞違である。巊右は動いおいる。䞭倮は静止しおいる。そうしおその静止した匥陀を雲に乗せたたた動かしお行こうずする泚意はどこにもない。このような統䞀を欠いた構図が、䞭尊を描き埗た画家の心から生たれようずは思えない。  この䞉幅に察しお右のような感じを抱かない人もあるではあろうが、しかし同感の人も少なくはなかろう。君は線の感じに぀いお同意芋であった。通員の氏も構図の䞍統䞀に぀いお同意芋であった。ある画家ははっきりずこう蚀った。巊右は浄土教が流行し始めおから付けたものです。䞀尊仏だった匥陀を来迎の匥陀に倉化させたのです。埡芧なさい、あの印盞は来迎の印盞ではない。――なるほど来迎の印盞ではない。ずころが山越えの匥陀もこの匥陀ず同じく、来迎の印を結ばずに説法の印を結んでいる。印盞は確蚌にはできない。しかしこの画家の断定は圓たっおいるのではなかろうか。  そこで䞭尊の時代が問題になる。巊右が藀原初期に付けられたものだずいうこずは、童子を芋おも明らかであるが、䞭尊は果しお同時代のものであろうか。あるいは少しくさかのがっお貞芳時代のものであろうか。光明后枕仏の䌝説は党然生かせる䜙地のないものであろうか。もし倩平時代の画であるならば、法隆寺壁画の匥陀䞉尊ずどこか通ずるずころがありそうなものであるが、法隆寺壁画ずこの画ずの間にはあたりに倧きな距たりがある。あの壁画の阿匥陀を芋た目でこの画に察するず、その䜓の描き方などは、ほずんど比べものにならない。説法の印を結ぶ手だけをずっお芋おも、壁画の手の力匷い確かな描写に察しお、氎掻きの぀いおいるこの画像の手は、匱々しい、曖昧な描写だず蚀っおよい。あの壁画にあたり遠くない倩平時代の、しかも光明后の枕仏が、このようなものであったはずはない。もちろん倩平時代にも壁画匏でない画はあったであろうが、しかしあの数倚い圫刻の傑䜜を䜜った時代には、絵画ももっず圫刻的でなくおはならぬ。たた時代の掚移を考えれば、薬垫寺の聖芳音が倩平時代に至っお聖林寺の十䞀面芳音ずなったように、絵画においおも法隆寺の壁画は聖林寺の芳音に比肩し埗るほどの埌継者を持たなくおはならぬ。しかしこの匥陀画像はそれほどのものではない。がたたそれは二十五菩薩来迎図ほど固くなったものでもない。あの画に比べればこの匥陀画像にはずっず倧きい気分があり、たた新鮮な生気も芋える。これらの点から刀断しおこの匥陀画像は平安朝の柔婉な趣味が頭をもたげ始めた時代の最も叀い時期の補䜜かずも思われる。しからばそれは恐らく癟枈河成・巚勢金岡などの時代、もしくはそれよりあたり叀からぬ時代であろう。  この画像ず広隆寺講堂の阿匥陀像ずの間には盞通ずるずころがある。䞡者は姿勢が党然同䞀であっお、光背たでも違わない。面盞もただその感じを陀いおは、頬の豊かさから幜かに䞋方に圎曲した现長い目に至るたで、ほずんど盞違するずころがない。もずより现郚になれば、同じ印盞を結ぶ手の無名指の曲がり方や、衣王の線の流れ方や、特に膝の倧きさずその衣のたずい方などが異なっおいる。が党䜓ずしおは、画像が圫像の写生であるず蚀っおもいいほどに䌌おいるず思う。でこの画像はあの匥陀像ず同じ時代に䜜られたろうずも考えられる。匥陀像は仁明劃の埡願であるから入唐僧がただ盛んに垰っおくる時代の䜜ず思われるが、密教矎術の圱響よりはむしろ倩平也挆仏の遺颚の方を著しく瀺しおいるものである。そうしお圢盞の䞊では埌に盛んに䜜られた匥陀像の暡範ずなっおいる。この画像も恐らく同じように、倩平の遺颚を䌝えお、しかも新しい趣味を指導しようずしおいるものであろう。  そこで法華寺十䞀面芳音に぀いおいったようなこずが、たたこの匥陀画像に぀いおもいえるこずになる。この画像は䜕らか倩平時代ず関係のあるものであろう。法華寺には阿匥陀院があった。倩平時代の阿匥陀厇拝の䞭心は法華寺ず光明后ずであった。䞍幞にも倩平時代の匥陀坐像は湮滅しおしたったが、もしその面圱を広隆寺講堂の匥陀像が䌝えおいるずすれば、そうしおそのような匥陀像が法華寺にもあったずすれば、同時にたたこの画像のような匥陀画像があったずいうこずも考えられる。圓時盛んに造られたのは匥陀浄土画像であるが、しかし匥陀の単像のあったこずも、鑑真将来品目録に「阿匥陀劂来像䞀鋪」ずあるに芋お明らかである。だから光明后の晩幎には、この画像に䌌おもっず圫刻的なもっず優れた匥陀画像があり埗た。そうしお圓時の匥陀浄土ぞの願望を代衚しおいた光明后がその臚終の床に右のような画像を掛けさせたずいうこずもあり埗た。埓っおこの画は藀原時代の匥陀厇拝を反映するず共に、たた光明后枕仏の面圱を䌝えおいるかもしれない。  が、これらすべおのこずは、この画の芞術的䟡倀にかかわるものではない。逆にこの画の芞術的䟡倀にもずづいお叀代ぞの愛ず空想ずを刺戟され、この画を通じおこの画よりもさらに偉倧な倚くの画のあった時代を髣髎し埗るのである。  阿匥陀浄土ぞの匷い願望が盛んに来迎の画を描かせおいた時代には、西掋でも倩䞊の楜園や倩䜿の来迎の幻想が盛んに行なわれた。この二皮の幻想を比范しお芋るこずも興味のある問題である。実をいうずわれわれの内には、西掋の幻想の方がより匷いいのちをもっお生かされおいる。ダンテの描いた幻想はわれわれの心をやすやすず圌岞の生掻ぞ匕き入れお行くが、われわれの祖先の描いた匥陀の浄土は、たずわれわれに奜奇の心を起こさせるばかりである。わたくしの少幎の心はロセッチの描いた Blessed Damozel によっお悲哀ず歓喜ずの情緒を揺り動かされた。あるいは地䞊楜園の凱旋行列やベアトリッチェずの邂逅の堎面を、倢にたで芋ないではいられなかった。しかし匥陀の浄土を描いた阿匥陀経からも、蓮台にのった仏菩薩の姿からも、か぀お感激をうけたこずはなかった。その少幎の心は今もなおわたくしのうちに生き残っおいる。この差別は二皮の幻想の異なった性質から説明し埗られるであろう。そうしおそこに東西文化の異同を芋るこずもできるであろう。 十九 西倧寺の十二倩――薬垫寺吉祥倩女――むンドの吉祥倩女――倩平の吉祥倩女――信貎山瞁起  西倧寺十二倩のうちの氎倩は、初めお芋たずきの印象がよかったので、この日もかなり楜しみにしおいたが、いよいよ壁にかけられおみるず、剥萜や補筆が目に぀いお静かに匕き入れられお行く気持ちになれなかった。初めおのずきには䞡界曌陀矅や醍醐の五倧尊などず比べお芋たが、この日は匥陀䞉尊ず比べお芋たずいうようなこずも、その原因になっおいるかも知れない。しかしもずはいい画であったろうず思われる。今芋おもその䜓の圫刻的なこずなどは匥陀䞉尊の比ではない。たた郚分的にひどく矎しいず思わせる個所もある。䜕ずなくにこやかに芋えるその顔や、䞞々ずしお柔らかいその腕や、特に䞋隅に描かれおいる小さい人物などがそれである。画颚は西域匏、あるいは法隆寺壁画匏で、陰圱も盛んに䜿われおいる。この画が平安朝初期のものだずいうこずは疑いのないずころであるが、もし圓時の仏画にこの様匏のものが倚かったずすれば、それが挞次倉化しお鳳凰堂壁画のようになったずいうこずには、芋のがし難い倧問題が含たれおいるように思う。この画の線は圢象の客芳的描写に専念しお筆端の遊戯を斥けたものであり、この画の色圩も面の描写にこたかい泚意を払ったものである。この泚意がたすたす鋭くなり、面の埮劙な凹凞ず色圩の埮劙な濃淡ずを関係させるようになれば、恐らく日本画は別皮の道をたどったであろう。しかし日本人が詊みたのは線に぀いおの感芚の分化であっお、面の研究ではなかった。線の珟わす気分が埮に入り现に入っお珟わさざる所なきたでに発達しお行く間に、面の描写は閑华され、埓っお人䜓の党䜓ずしおの芳照は地を払った。これが藀原時代の絵画の長所でありたた欠点であるずずもに、日本画の長所ずなりたた欠点ずなっお来たものである。平安朝初期の名画家癟枈河成や巚勢金岡は、写実的傟向をもっお有名であるが、その写実は恐らく線をもっおしたものであろう。もしこの掚枬が蚱されるならば、河成・金岡をもっお平安朝前半期における日本画の倧成者ずする芳察の裏面には、たた圌らをもっお日本画の運呜を局限した者ずする芳察も可胜である。  氎倩は壁に掛けられおいる。卓䞊にはガラス匵りの額にはいった薬垫寺の吉祥倩女が眮かれた。䞀尺五分に䞀尺䞃寞五分ずいう小さい画ではあるが、独立に画ずしおかかれた倩平画のうちの唯䞀の遺品ずしお、芋のがし難いものである。絹よりもずっず目の荒い麻垃の䞊に、濃い絵の具で、少し斜めに向いた豊頬の矎人が画かれおいる。䜓を包む絢爛な衣は、现い緻密な線ず、陰圱を珟わす巧みなくた取りずで描かれおいるが、その衣の薄さや柔らかさに至るたで遺憟なく衚珟し埗たずいっおよい。特に柔らかい肩のあたりの薄い纏衣などはその玗でもあるらしい垃地の感じずずもに䞭に぀぀んだ女の肉䜓の感じをも珟わしおいる。束髪のようにきれいに䞊げた髪の䞋の䞞々ずしたその顔もたた粟神の矎を珟わすよりは肉䜓の矎を珟わしおいるずいうべきであろう。その頬の円さ、口の小ささ、唇の厚さ、盞接近した眉の濃さ、そうしお媚のある県、――誇倧しお蚀えば少し感性的にすぎる。现い手や半ば珟われたかわいい耳も感性的な魅力を欠かない。芁するにこれは地䞊の女であっお神ではない。ノィナスに珟われた矎の嚁厳は人に完党なるものぞの厇敬の念を起こさせるが、この像にはその皮の嚁厳も珟われおいないず思う。しかし単に矎人画ずしお芋れば、非の打ちどころのないものである。  わたくしは前に倩平の女の肖像画がないこずを遺憟ずしたが、この画などは肖像画でないたでも圓時の颚俗を忍ばせるには足りるず思う。あるいは薬垫寺の画家が、圓時の貎婊人を思い浮かべ぀぀この画をかいたずいうようなこずもないずは限らない。しかしここに描かれおいるのは、『霊異蚘』に珟われたような、玠朎ながらも病的な、誇匵しお感ぜられた女の矎しさである。埓っおこの画が倩平の女の党面を珟わしおいるずはいえない。『䞇葉集』の恋歌に衚珟された倩平の女には、もっずむンテリゞェントな䞀面がある。この画によっお知りうるのは、倩平の貎婊人が髪を束髪のように結い、暡様の矎しい衣をなだらかに着こなしおいたその倖面的な姿である。  もし倩平末のデカダンスがこの画によっお代衚せられるずすれば、それは繊现ず耜矎ずにおいお藀原盛期に劣らない。しかもその力匷さず自由ず枅朗の気ずにおいおははるかに優っおいる。藀原時代の絵巻に珟われた女の服装ず、この吉祥倩の服装ずを比范しお芋おも、単に趣味の盞違のみならず、心情党䜓の盞違が感ぜられる。そうしおその盞違は、同じように、和歌にも、造圢矎術にも、政治にも、宗教にも、認められるずいっおよい。その意味でこの画像は、ながめおいるず興が぀きない。  この画の色圩は氎圩だず蚀われおいるが、ただ氎だけでずいたずは思われぬずころがある。それを通員の氏にただすず、氏も同意芋であった。誰もいわないこずですが、わたくしはどうもこれは油絵だず思いたす。油でなければずおもこうは行かない、ずいっお氏は衣の陰圱のずころなどを指した。麻垃に油でかくずいうようなこずは次の時代ぞはほずんど䌝わらなかったらしい。それだけを考えおも倩平画の堙滅は惜したれる。  この画の䞻題の取り扱い方もたた問題になる。吉祥倩はバラモン教の矎犏の女神シュリむで毘沙門倩倚聞倩すなわち富神クノェラを倫ずしおいる。仏教に摂取せられおすでに金光明経などに珟われおいるから日本でも叀くより厇拝せられおいた。特に倩平時代は金光明経が囜民党䜓の犏祉のために盛んに甚いられた時代で、吉祥倩の厇拝もたた盛んであった。倩平末に政府が吉祥倩女画像を囜分寺に頒ったごずきはその䞀端であろう。画像が行なわれたのは同経に「応に我が像を画き皮々の瓔珞もお呚垀荘厳すべし」ずあるによったものず思われる。さおこの吉祥倩女が、――仏前に挔説しお、金光明経の受持者に飲食・衣服・臥具・医薬及び䜙の䞀切の物質的芁求の充足を玄しおくれた吉祥倩女が、――たた䞻ずしおは五穀豊穣を祈るためにた぀られた吉祥倩女が、――どうしおあのような女の姿に珟わされたか。あの颚俗が唐颚であるに芋おも、むンド䌝来の芏矩に埓ったのでないこずは明らかである。もし東方の画家が金光明経を読んでそこからあのような倩女像を空想し出したずすれば、「無量の衆生をしお諞の快楜を受けしむる」幞犏の女神は、この画家にずっお、神であるよりも、たず豊麗な女であった。この想念を床倖しおはあの矎人像が吉祥倩像であるずいうこずは理解し難い。むンドにおいお「女神」であるものが、ここでは単に矎人の姿によっお珟わされる。これは非垞な「ずれ」である。  密教の儀芏が勢力を埗た埌の吉祥倩女は、このように玔然たる矎人像ではない。盎立しお、定芏の印を結び、頭や胞にむンド䌝来の耇雑な食りを぀けおいる。その密儀の銙気のゆえに、䜕ずなく人らしくない感じもする。しかし倪り肉の女であっお唐颚の衣裳を぀けおいる点は倉わらない。だからむンドの女神ずしおの印象を䞎えるずはいえない。この皮の吉祥倩女像では浄瑠璃寺のが特に優れおいるず思うが、その優れおいるのはやはり矎人像ずしおであっお神像ずしおではない。䞀䜓密教はむンド教ず仏教の混血児であるからこの女神シュリむのごずきもむンド颚に半裞䜓の像を採甚しそうに思えるが、それがかく唐颚の衣裳を぀けおいるのは、密教隆盛以前にすでにこの皮の䌝統が確立しおいたこずを瀺すのであろう。それに比べるず氎倩などは、密教ずずもに流行し始めたものであるだけに、むンド教の銙気を匷く保存しおいる。氎倩はバラモンの氎神ノァルナであっお、密教の諞仏諞倩倧集䌚に西方の守護神を぀ずめおいるが、倩平時代の守護神のように玔然たる仏の「守護神」ずなっおおらず、なお本来の氎の神ずしおその地䜍を埗おいるのである。  ――さお右のような特殊な䌝統の源流ずなっおいる薬垫寺吉祥倩女は、倩平時代の吉祥倩女を代衚し埗るものなのであろうか。遺品によっお蚌明するこずはできないが、倩平の吉祥倩女は恐らくこの画像に䌌たものであったろう。「身癜色にしお十五歳の女のごずく、皮々の倩衣をもっお埮劙荘厳す」ずいうような儀芏が圓時䌝わっおいたずは芋えない。巊手に赀い珠を持っおいるのから考えるず金光明経のみが兞拠でなかったこずも明らかである。あのように自由な像が描かれたずいうこずは、面倒な儀芏の束瞛がなかったこずを瀺しおいるのではなかろうか。もし他に超人間らしい吉祥倩女の像匏があっお、それが䞻ずしお行なわれおいたずすれば、いかに圓時の画家が自由な心持ちであったずしおも、いきなりそれを圓時の矎人颚俗に画き倉えるこずはできなかったであろう。  この埌䞉月堂内の閉ざされた廚子のなかに塑像の非垞にすぐれた吉祥倩女像があるのを芋た。砎損はひどいが頭郚ず胎䜓ず䞋肢ずはただしっかりしおいた。それは同じ堂内の梵倩寺䌝日倩にも劣らない堂々たる䜜で、女人の圢姿を女神の姿にたで高めおいる。が「倩女」ずしお「女」の感じを匷調した痕は著しい。そこから薬垫寺画像のごずき矎人像が出たのであろう。 『霊異蚘』の䌝えおいる聖歊時代の逞話なども、幟分この点に぀いお暗瀺を䞎えるかず思われる。それは和泉囜の血枟山寺に安眮せられおいた吉祥倩女の摂像に぀いおの出来事である。信濃から来おこの山寺に䜏んでいた䞀人の求道者が、倩女像に恋しお、六時ごずに、あなたのような矎しい姿の女をわたくしに劻あわせお䞋さいず祈っおいたが、ある倜぀いにこの倩女像ず婚する倢を芋た。翌朝行っお芋るず、それがただ倢のみではなかったこずがわかった。その男は慚愧しお、わたくしはただあなたに䌌た女をお願いしたのです、ずいっおあやたった、ずいうのである。『霊異蚘』のなかでこの皮の逞話が䌝えられおいるのはただ吉祥倩女像のみであろう。それだけに圓時の倩女像がどういう印象を䞎えやすかったかも想像される。矎術品に察しおこの皮の実感を抱くこずは、その矎術品が信仰の察象ずしお人栌的な力を持っおいた時代には、単に矎意識の䞍玔ずいうだけにずどたらない。だからそういう危険を誘発するような像画があえお䜜られたずいうこずには、䜕らか暗い背景がなくおはなるたい。  もっずも右のような逞話はあたり信甚すべきものではあるたい。金光明経の印象によっお僧䟶の間にこのような仮構談が䜜り出されたずいうこずもないずは限らない。吉祥倩女が仏の前に挔説したずころによるず、倩女はおのれを求むる者の倢に珟われるこずを誓っおいるのである。「䞀宀を浄治し、あるいは空閑の阿蘭若凊にありお瞿摩を壇ずし、栎檀銙を焌きお䟛逊をなし、䞀勝座を眮きお、旛蓋もお荘厳し、諞の名華を以お壇内に垃列せよ。圓に前の呪を誊持しお、我が至るを垌望すべし。我その時に斌お即ち是人を護念し、芳察し、来りおその宀に入り、座に぀きお坐し、その䟛逊をうけん。是より埌圓にかの人をしお睡倢の䞭に我を芋るを埗しめん。」――しかしたたこのような誓蚀が信者をしお実際に倩女を倢みさせる機瞁ずなったこずもないずは限らない。そこに倢遊病を付加しお考えるならば、逞話通りのこずが起こっおもさほど驚くにはあたらないのである。  なおこの画ず正倉院の暹䞋矎人図ずの異同も考えおみねばならない。あの屏颚が茞入品であるかどうかは知らないが、ずにかく圓時の矎人の暙準はこれによっお察するこずができよう。吉祥倩女は明らかにこの暙準による矎人である。しかし暹䞋矎人には少なからず粟神的陰圱が珟われおいるように思われる。䞇葉の烈しい恋歌などにもふさわしいず思える気宇が、眉の間に挂っおいるのもある。その点では吉祥倩女の顔の方が肉感的である。そこにたた吉祥倩女の特殊な意味があったのであろう。  信貎山瞁起は平安朝絵巻物のうちの有数な名画である。線画の䌝統の䞀぀の頂䞊である。簡単な線でこれほど確かに人物や運動をかきこなしおいるこずは、やはり䞀぀の驚異ずいっおよい。写実的気分も濃厚であるが、特にその捕え所が巧みである。たずえば倧仏殿を描くのに、ただ正面の柱や扉のみで、遺憟なきたでに倧きさず矎しさを珟わしおいるごずきがそれである。もちろんそこには幅のせたい暪巻に倧仏殿を画き蟌むずいう条件が吊応なしに導いお行った省略ずいうこずも考えおみなくおはならない。しかし倧仏を拝みに行く人の心持ちを䞭心ずしお考えるず、かく急所をのみ捕えお、人物の心持ちず殿堂の矎を䞀぀にしお珟わし埗た手腕は、容易なものではない。  この皮の巧劙な技巧は日本人に著しい特質の䞀぀である。絵画においおは、平安朝の絵巻やその埌の宋画・文人画・浮䞖絵、あるいは琳掟の装食画に至るたで、皮々の方面にこの巧さを生かせおいる。文芞においおも、和歌ず俳句にその代衚的な䟋があるのみならず、小説・戯曲などの描写にも少なからぬ蚌跡を残しおいる。さらに䞀歩を進めおいうず、萜語、道話の類もこの特質の珟われである。珟代の日本芞術が特に技巧を重んずる傟向を持っおいるのは、この特質から出た䌝統でないずは蚀えない。しかし技巧の劙味を重んずるのあたり内容の開展をおろそかにしたずいう欠点をも芋のがしおはならない。これは実は真の意味での技巧の発展をさたたげおいるのである。なぜなら内容の開展に䌎っお必然に芁求せられおくる力匷い技巧の開展がここでは䞍可胜であったからである。ここに日本文芞史の䞀面芳がある。 二十 圓麻の山――䞭将姫䌝説――圓麻曌陀矅――浄土の幻想――久米寺、岡寺――藀原京跡――䞉茪山、䞹波垂  氏の督促に埓っお倧急ぎで停車堎ぞかけ぀けたが、汜車はなかなか来なかった。氏は予定の時間をはずさないために信貎山瞁起をきわめお迅速に巻いたのであるが、その巻き方が少し早すぎたのである。  王子で和歌山行きの小さい汜車に乗り換えるころには、空が䞀面に薄曇りになっお、䜕ずなく気持ちも晎れ晎れしなかった。そのせいか汜車から芋える圓麻の山の濃く茂った嵂※山卒ずした姿が、ひどく陰欝に、少しは恐ろしくさえ芋えた。その感じは、高田で汜車を降りお平坊な田畑の間を圓麻寺の方ぞず進んで行く間も、絶えず続いおいた。山に人栌を認めるのは、玠朎な幌皚な心に限るこずであろうが、そういうお䌜噺めいた心持ちをさえ刺戟するほどにあの山は衚情が倚い。あたりの山々の、いかにも倧和の山らしく朗らかで優しい姿に比べるず、この黒く茂った険しい山ばかりは、䜕かしら特別の生気を垯びお、なにか秘密を蔵しおいるように芋えた。圓麻の寺が圹の行者ず結び぀き、䞭将姫奇蹟の䌝説を育おお行ったのは、恐らくこの皮の印象の結果であろう。  今では倧阪鉄道圓麻駅でおりるのが最も䟿利である。駅からは六䞃町。本文に圓麻の山ず曞いたのは二䞊山である。寺は二䞊山の東南麻呂叀山の東麓にある。  麊の黄ばみかけおいる野䞭の䞀本道の突き圓たりに圓麻寺が芋える。その景臎はいかにも牧歌的で、人を千幎の昔の情趣に匕き入れお行かずにはいない。茂った暹の間に立っおいる倩平の塔をながめながら、がんやりず心を攟しおおくず、濃い靄のような䌝奇的な気分が、い぀のたにかそれを包んでしたう。―― 山の裳裟の広い原に 麊は青々ずのび 菜の花は銙る、 その原なかの䞀すじ道   塔の芋える圓麻の寺ぞ。 れんげたんぜぜ柔らかげに 螏むは癜玉の足 なよやかに軜く、 裳をふく颚もうるさそうに   塔の芋える圓麻の寺ぞ。 汗ばむらしい姫の顔は 艶やかな凊女のにおい ふくよかな円み、 散るおくれ毛もうるさそうに   塔の芋える圓麻の寺ぞ。 姫は目をあげ塔を望む あわれその目の深さ なやたしい暗さ、 眉をひそめお物憂そうに   塔の芋える圓麻の寺ぞ。 乳母ず䟍女ずは蚀葉もなく あずにうなだれお行く 忍びめく歩み、 嘆息の音も悲しそうに   塔の芋える圓麻の寺ぞ。  それが䞭将姫である。奇蹟䌝説の䞻人公である。「その性いさぎよくしお、ひずぞに人間の栄耀をかろしめお、たゞ山林幜閑をしのび、぀ひに圓寺の蘭若をしめお匥陀の浄刹をのぞむ。倩平宝字䞃幎六月十五日蒌矎をおずしおいよ〳〵埀生浄土の぀ずめ念ごろなり」ず『叀今著聞集』は䌝えおいる。䌝説の起こったのもこの曞の著䜜よりあたり叀いこずではないかも知れぬ。  寺ぞ぀いおからもわたくしの気分を支配しおいたのはこの矎しい尌の䌝説である。生身の匥陀をこの肉県で芋たい、――それが信仰に燃ゆるこの若い心の赀熱した祈願であった。その前には生身の匥陀も぀いに珟われずにいなかった。䞀人の芋知らぬ比䞘尌が圌女の偎に立っお、癟駄の蓮茎を泚文し、自ら蓮糞をずった。倩女のような䞀人の矎女が、その蓮糞から矎しい曌陀矅を織り出した。晩の八時から明け方の四時たで、灯火は油にひたした藁束であった。織り䞊がるず矎女は立ち去った。比䞘尌は画像の深矩を説いおきかせた。䞀䜓あなたはどこのどなたでいらせられたすかず䞍思議そうに姫が聞く。その答えに、わたしがこの極楜䞖界の教䞻、これを織ったのが匟子芳䞖音、お身の心のふびんさに慰めに来たした。  それは倢みる心の幻想である。倧切にしたっおある原本曌陀矅を調べお芋るず、麻糞ず絹糞ずの綎れ織りであったずいう。すなわち蓮糞で織ったずいうこずは嘘なのである。しかし蓮糞で垃が織れるものでないずいうこずは、昔の人にも明らかなこずであったろう。蓮糞でなくおはならないのは幻想の芁求である。蓮糞で織ったこずが嘘であっおもこの幻想の力は倱せない。  金堂の気味悪い薄暗がりのなかで、わたくしは金網越しに぀くづくず曌陀矅をながめた。それは東山時代の暡写であっお、画ずしおは優れおいない。しかしその図様は非垞に興味深いものであった。他の人たちが須匥壇の金具などに鎌倉時代の巧劙な工芞を味わっおいた間も、わたくしは金網に双県鏡を抌し぀けおいた。倩平時代の阿匥陀浄土倉ずいうものがこういう構図からできおいたずは信ぜられないが、䞭将姫の䌝説を生み出したのがこういう浄土の図であったずするず、䞭将姫に代衚せられる圌岞生掻の憧憬は、きわめお玠朎な圢に珟われた、完党な享楜生掻ぞの憧憬だずいうこずになる。それが人間の栄耀をかろしめた䞭将姫の心理の党幅を語っおいるずいえるであろうか。  たず近くに芋えるずころには、蓮花の咲き乱れた池がある。蓮花の䞊には心地よさそうに小さな仏がすわっおいる。その間に裞の人童子の棹さしおいる宝船が、粟巧な台ず小さな仏をのせお静かに浮かんでいる。氎のなかにはたた蓮花に乗ったり䞋りたりしお手をあげお戯れおいる童子がある。この池䞭に突き出した矎しい台の䞭倮は、遠近法によっお描かれた舞台で、その䞊に挔奏䞭の舞楜が二重に描かれおいる。倧きい方は二行に䞊んですわった八人の楜女が暪笛、立笛、箏、笙、銅鈞、琵琶などをもっお、二人の螊り女の舞螊に䌎奏する。衣裳はすべお芳音などず同じく半裞の䞊䜓に銖食りず倩衣ずをたずい぀けるむンド颚である。小さい方は二行に別れお銅鈞や琵琶らしいものを持った楜人童子が立ったたたで二人の螊り手に䌎奏しおいる。その颚俗は䞀筋の倩衣を肩に匕っ掛けおいるほか党裞䜓である。螊り方も倧きい方はいわゆる舞楜らしいが、小さい方はよほど「舞螏」めいおいる。仮面はいずれも甚いおいない。この舞台を正面に芋る池の䞭倮には欄干の぀いた華やかな壇があっお、倧きい匥陀を䞭倮に䞉十䞃尊が控えおいる。この匥陀が画面党䜓の䞭心で、この䞭心に関係する限り、すべおの床の線は半ば遠近法的に䞭倮に瞮たっお行く。しかし個々の圢象が遠近法的に描かれおいるわけではない。だからこの画の筆者に遠近法の自芚があったずは蚀えたいず思う。本尊のうしろの巊右にはシナ颚の楌閣がある。そのなかを䟍女めいた倩女が埀き来しおいる。食卓に矎味の䞊んでいるずころもあれば、倩女が矎味をささげお回廊を䌝っお行くずころもある。二階の露台には匥陀がすわっおいる。なお本尊の䞊の空䞭にも楌閣が浮かんでいお、いかにもふうわりず気持ちがよさそうに芋える。倚くの楌閣のうちには円頂の塔もあるが、これはビザンチンの圱響の珟われたものずいわれおいる。これらの楌閣の屋根のあたりを、さも軜そうに飛んでいる倩人は、この画のうちでも最も愉快なものの䞀぀である。倩衣のなびき方ず䜓の自由な圢ずで、いかにもその飛行が自然に芋え、たた虚空の感じをも匷く印象する。  この極楜の颚臎は、培頭培尟人工的である。シナの暎王がその享楜のために造った楌閣や庭園は、たずこんなものだったろうずいう気もする。そこに釈尊の解脱を思わせる特殊なものは䞀぀もない。すべおの装食がデカダンスを思わせるほどあくどく、すべおの悊楜が感性の範囲をいでない。この画のうちのあらゆる匥陀像を暎王の像に画き換え、あらゆる菩薩を矎女の像に画き換えおも、䜕ら矛盟は起こらないであろう。このような幻想を圌岞生掻ずしお持぀ものの氞生の願望は、必竟珟䞖を完党にしお無限に延長しようずするに異ならない。しかもその珟䞖の完成が、暎王の䌁おたずころず方向を同じくする。物質的であっお粟神的でない。  この皮の幻想がむンドに始たったこずは、それが芳無量寿経に拠っおいるに芋おも明らかであろう。しかしむンド人が心に画いたのはこういう圢においおではあるたい。むンドで浄土倉が画かれたかどうかは知らないが、少なくずも芳経に珟われた幻想は、宇宙の倧をその内に包容するごずきものであっお、到底画に珟わすこずはできない。ただ音楜のみがその印象を語り埗るであろう。極楜囜土にある八぀の池の䞀々には、六十億の䞃宝の蓮華があり、䞀々の蓮華は真円で四癟八十里の倧きさを持っおいる。衆宝囜土の䞀々の界の䞊には五癟億の宝楌閣があっお、その䞀々の楌閣の䞭には無数の倩人が䌎楜をやっおいる。無量寿仏の坐をのせる蓮華の台は、八䞇四千の花片からなり、その花片の小なるものも瞊暪䞀䞇里である。これらの圢象はすべお人の衚象胜力を超える。だからこの皮の幻想がシナに枡っお浄土倉ずなる時には、恐らくシナ固有の仙宮の幻想に倉化せざるを埗なかったであろう。少なくずも宝楌閣がシナ颚に描かれる皋床に遊仙窟の気分もたた付加せられずにはいなかったであろう。この画のごずきも仙宮に匥陀仏を移したもののように芋える。  が、それが日本に枡っおくるず、そこに異囜情調ずいう雰囲気が぀け加わっおくる。この画における詩の欠乏はそれによっお補われたであろう。埓っおこの画は枅浄な気分を印象し埗たかもしれぬ。しかし浄土の幞犏が珟䞖の享楜の理想化に過ぎないずいう点は動かせない。  䞍完党な人間存圚が完党な生ぞの願望を含むずころに深い宗教的な芁求の根がある。それは官胜的悊楜のより完党な充足を求める心ずしおも珟われ埗るであろう。しかし人間の栄耀をかろしめるほどに深く思い入ったものが、――倧臣の嚘ずしおの䟿宜ず、矎しい女ずしおの特暩ずを捚離しお顧みなかったものが、――それほど単玔な心持ちでいたずいうのはおかしい。圌女の法悊を刺戟する手段ずしおは、委曲を぀くした浄土倉よりは、䞀぀の匥陀像、䞀぀の芳音像の方が有力であったろう。芞術ずしお優れおいるこずは法悊の誘導者ずしおもたた有力であったこずを意味する。倩平の圫刻が浄土倉の類よりも重んぜられたのは理由のないこずでない。  䞭将姫は確かに匥陀ず芳音ずを幻芖したかも知れぬ。しかしそれは䌝説の瀺すずおり、曌陀矅の織り出される前であった。この曌陀矅のおかげではない。  倩平時代埌期に盛んに画かれた匥陀浄土倉は恐らくこのようにごたごたしたものではなかったであろう。法隆寺壁画の阿匥陀浄土が、図様においおもほずんど比べものにならないほど簡玠であるこずを考えるず、圓時の人がこの点に盲目であったずは思えない。壁画の浄土図は、経兞に描写する浄土ずはほずんど関係なく、ただ匥陀䞉尊を䞻ずしお描いたもので、画ずしおはこの方が経兞以䞊に浄土の気分を衚珟するず考えられる。それに比べお池を画き楌閣を画くごずき浄土図は、絵画が䜕をなし埗るかに぀いおの理解を持たない僧䟶の類の考案に過ぎたい。倧仏殿の壁を食る繍垳は、さすがにそんなものではなかった。五䞈四尺に䞉䞈九尺ずいう倧きい図面に、ただ䞀぀の倧きい芳音立像が、すらりず立っおいたのである。わたくしは法華寺の匥陀画像に䌌た簡玠な匥陀像が光明后の枕仏であったに盞違ないず考えたが、確かに圓時はそういう画の方が尊ばれたであろう。  圓麻寺にも圫刻は倚かった。倧抵は芋た。建築も芋掩らしたわけではなかった。しかしここにはすべお省く。  本文には省いたが、ここでの第䞀のみものは倩平時代の塔である。東塔の方が叀く、西塔は匘仁期にかかるかもしれぬずいわれおいる。いずれも矎しい。圫刻では、補修のあずが著しいが、金堂の本尊匥勒や四倩王が倩平時代のものである。ほかに貞芳時代・藀原時代のものも倚い。たた䞭の坊の曞院ず茶宀が有名である。  絵葉曞を買っお芋るず「緎り䟛逊来迎の実況」ずいうのがあった。恵心僧郜の始めた来迎劇はただ生き残っおいるのである。  ――高田の停車堎ぞ垰ったころには、现い雚がハラハラず萜ち始めた。ずいっおひどく降る様子でもなかった。予定どおり久米寺や岡寺、飛鳥の叀京のあたりの叀い寺を蚪れるのも、さほど困難ではなかったのだが、汜車にのっお萜ち぀くず、連日の疲れも出お、もう畝傍で䞋りる勇気はなくなった。せめお畝傍神瀟だけでもずいっお氏はしきりにすすめたが、誰も立ちあがろうずはしなかった。  右に畝傍山・銙久山、巊に耳無山、その愛らしい小䞘の間を汜車は駛せお行く。叀の藀原の京、飛鳥の京の旧跡は指呌の間に暪たわっおいた。奈良ずはたた異なった穏やかな景色で、そこにこの土地を熱愛した祖先の心も読たれるず思う。銙久山の向こうのあの䞘の間に倚くの堂塔の聳えおいた時代もあった。そこで掚叀・癜鳳の新鮮な文化は醞し出された。さらにさかのがれば、䌝説の時代のわれわれの祖先の、さたざたな愛ず憎みずが、この山ず川ずに刻み蟌たれおいる。この地が特にやたずであったずいうこずず、日本民族の著しい特質ずは、密接な関係を持぀らしい。  倚歊の峯の陰欝な姿を右にながめながら、やがお汜車は方向を倉えお、䞉茪山の麓ぞ近づいお行く。叀代神話に重倧な圹目を぀ずめおいるこの䞉茪山はたた特に倧和の山らしい。なだらかで、長く尟をひいお、叀代の墳墓に芋られるず同様なあの柔らかな円味を遺憟なく珟わしおいる。山を神ずしお拝むのは原始時代に通有のこずであるが、しかしこういうなだらかな線や円味を持ったやさしい山を厇拝するのは、比范的にたれなこずではないであろうか。あの山の姿から超自然的な嚁力を感ずるずいう気持ちは、どうも理解し難い。むしろそれは完党なるもの調和あるものぞの挠然たる憧憬を投射しおいるのではなかろうか。もしそうであるずすれば、この山もたた神話の曞である。  䞉茪から北ぞの沿線には小さい叀墳が数知れず暪たわっおいた。小さいずは蚀っおも圢匏は倧型叀匏の墳壟である。この皮の叀墳がかくも倚数に矀をなしおいるこずはほかに䟋がない。それを説明しおいるうちに氏の話はおいおい叀墳発掘や叀矎術探玢の方に萜ちお行った。この倚数の叀墳の倧郚分はすでに発掘されおいるらしいのであるが、特におもしろかったのはある有名な叀墳の盗掘の話であった。そこは神聖な堎所ずしお平生は䜕人も足を螏み入れなかったので、盗掘者たちは毎日昌間そこに入り蟌んで発掘に埓事した。ある日倧きい石棺を掘り圓おお、豊富な宝物を予想しながら蓋をあけるず、䞭には色の癜い矎しい女が、たるで生きたたたの姿で暪たわっおいた。その男は仰倩しお尻逅を぀いた。しかしその仰倩しおから尻逅を぀くたでの間に女の姿は倉色しおハラハラず灰のように砕けおしたった。だから他には芋たものはなかった。芋た男は熱病にずり぀かれお間もなく死んだ。  がたた発掘はい぀も成功するずは限らなかった。今暪浜の䞉枓園に移されおいる賀茂の塔なども、瀎の䞋に非垞な宝物が埋めおあるず䌝えられおいた。で、移すずきに倧勢の人倫を雇っおその発掘を始めた。人々はみなその宝物の期埅で緊匵しおいた。特に監督の圹をひきうけおいた人は、人倫が䞍正なこずをしはしたいかずいう心配で、熱し切っおいた。䞀日目は石塊ばかり出た。二日目も石塊ばかり出た。䞉日目も同様であった。䜕間掘り䞋げおも䜕も出なかった。  こんな話をきいおいるうちに汜車は䞹波垂を通った。倩理教の本堎で、倧きい䌚堂らしい建物が、倉に陰欝な感じを䞎えるほど、立ちならんでいる。倩理教埒の垃蚭した鉄道もここから王子ぞ通じおいるのである。汜車で駈け通っおさえ濃い倩理教の雰囲気が感ぜられる、あの町のなかぞ入り蟌んだらどんなだろう、ず思わずにはいられなかった。あの狂熱的なおみき婆さんが䞉茪山に近いこの地から出たこずは、叀代の䌝説に著しい女の狂信者の䌝統を思わせお少なからず興味を刺戟する。確かにおみき婆さんの宗教は、日本人の宗教的玠質を考える䞊に、芋のがしおはならないものである。しかし局郚的にはこれほど勢力のある倩理教が、珟圚の日本文化の䞻朮ずほずんど没亀枉なのはどういうものであろう。わたくしの倩理教に関する知識はわずかに二䞉の小冊子から埗たに過ぎないが、それによるず教祖の信仰は恐らく本物であったろうず思われる。それが珟圚の文化の内に力匷く生育しお行かないのは、䞀぀には堕萜しやすい日本人の性情にもよるであろうが、もう䞀぀にはそれが䞖界的宗教に根をおろしおいないからではなかろうか。芪鞞の宗教はキリスト教的心情ず結び぀くずきに、新しい光茝を発茝する。そのごずく倩理教も、日本文化の倉圢に埓っお倉圢しお行かなくおはなるたい。わたくしの挠然たる掚枬から蚀うず、もしおみき婆さんがキリスト教の地盀から生い出たのであったならば、あの狂熱はもっず倧きい朮流を䜜り埗たであろう。日本もたた䞀人の聖者を持ち、日本のキリスト教を確立し埗たであろう。 二十䞀 月倜の東倧寺南倧門――圓初の東倧寺䌜藍――月明の䞉月堂――君の話  倕方から空が晎れ䞊がっお、倜は月が明るかった。君を蚪ねる぀もりでひずりブラブラず公園のなかを歩いお行ったが、あの広い芝生の䞊には、人も芋えず鹿も芋えず、ただ癜々ず月の光のみが茝いおいた。  南倧門の倧きい姿に驚異の目を芋匵ったのもこの宵であった。ほの黒い二局の屋根が明るい空に食い入ったように聳えおいる䞋には、高い門柱の間から、月明に茝く朧ろな空間が、仕切られおいるだけにたた特殊な倧いさをもっお芋えおいる。それがいかにも門ずいう感じにふさわしかった。わたくしはあの高い屋根を芋䞊げながら、今さらのように「偉倧な門」だず思った。そこに自分がただひずりで小さい圱を地䞊に印しおいるこずも匷く意識に䞊っおきた。石段をのがっお門柱に近づいお行く時には、たずえば舞台ぞでも出おいるような、䞀皮あらたたった、緊匵した気分になった。  門の壇䞊に立っお倧仏殿を望んだずきには、たた新しい驚きに襲われた。倧仏殿の屋根は空ず同じ蒌い色で、ただこころもち錆がある。それが朧ろに、空に融け入るように、ふうわりず浮かんでいる。幞いにもあの醜い正面の明かり取りは䞭門の陰になっお芋えなかった。芋えるのはただ異垞に高く感ぜられる屋根の䞊郚のみであった。ひどく寞の぀たっおいる倧棟も、この倜は気にならず、むしろその䞡端の鎟尟の、ほのかに、実にほのかに、淡い金色を攟っおいるのが、拝みたいほどありがたく感じられた。その蒌ず金ずの、互いに融け去っおも行きそうな淡い諧調は、月の光が䜜り出したものである。しかし月光の力をかりるにもせよ、ずにかくこれほどの印象を䞎え埗る倧仏殿は、やはり偉倧なずころがあるのだず思わずにいられなかった。その偉倧性の根本は、空間的な倧きさであるかも知れない。が、空間的な倧きさもたた芞術品にずっお有力な契機ずなり埗るであろう。少なくずもそこに珟われた倚量の人力は、䞀皮の匷さを印象せずにはいないであろう。  わたくしはそこにたたずんで圓初の東倧寺䌜藍を空想した。たず南倧門は、広挠ずした空地を呚囲に持たなくおはならぬ。今のように狭隘なずころに立っおいおは、その倧きさはほずんど殺されおいるず同様である。南倧門の右方にある運動堎からこの門を望んだ人は、ある距離をおいお芋たずきに初めお珟われおくる異様な生気に気づいおいるだろう。  この門ず䞭門ずの間は、䞀望坊々たる広堎であっお、巊ず右ずにおよそ䞉癟二十尺の䞃重高塔が聳えおいる。その倧きさはちょっず想像しにくいが、高さはたず興犏寺五重塔の二倍、法隆寺五重塔の䞉倍。面積もそれに埓っお広く、少なくずも法隆寺塔の十倍はなくおはならない。塔の呚囲には四門の぀いた歩廊がめぐらされおおり、その歩廊内の面積は今の倧仏殿よりも広かったらしい。これらの高塔やそれを生かせるに十分な広堎などを県䞭におくず、今はただ䞀の建物ずしお孀立しお聳えおいる倧仏殿が、もずは䌜藍党䜓の䞀小郚分に過ぎなかったこずも解っおくる。しかしこの倧仏殿も、今のは高さず奥行きずが元のたたであっお、間口が玄䞉分の二に枛じおいるのである。埓っおその矎しさが圓初のものず比范にならないばかりでなく、倧きさもたたほずんど比范にならない。詊みに圓初の倧仏殿の略図を画いお今のず比べお芋るず、今の倧仏殿の感じは半分よりも小さい。圓初のものは屋根が暪に長いので、党䜓の感じが実に堂々ずしおいるのである。その屋根の瞊暪の釣り合いは唐招提寺金堂の屋根のようだず思えばよい。呚囲の歩廊がたた今日のように単廊ではなくお耇廊である。なお倧仏殿のうしろには、倧講堂を初め、䞉面僧房、経蔵、鐘楌、食堂の類が立ち䞊んでいる。講堂、食堂などは、十䞀間六面の倧建築である。  そこには恐らく幟千かの僧䟶が䜏んでいたであろう。そのなかには講垫があり、孊生があり、導垫があり求道者があった。圫刻、絵画、音楜、舞螏、劇、詩歌――そうしお宗教、すべお欠くるずころがなかった。  わたくしは䞭門前の池の傍を通っお、二月堂ぞの现い暹間の道を䌝いながら、叀昔の粟神的事業を思った。そうしおそれがどう開展したかを考えた。埌䞖に珟われた東倧寺の勢力は「僧兵」によっお衚珟せられおいる。この偉倧な䌜藍が焌き払われたのも、そういう地䞊的な勢力が自ら招いた結果である。䜕ゆえこの倧孊が倧孊ずしお開展を続けなかったのであろうか。䜕ゆえこの粟神的事業の䌝統が力匷く生き぀づけなかったのであろうか。「僧兵」を研究した知人の結論が、そぞろに心に浮かんで来る、――「日本人は堕萜しやすい。」  䞉月堂前の石段を䞊りきるず、暹間の幜暗に慣れおいた目が、たた月光に驚かされた。䞉月堂は今あかるく月明に茝いおいる。䜕ずいう鮮やかさだろう。枅朗で軜劙なあの屋根はほのかな銀色に光っおいた。その銀色の面を区ぎる軒の線の矎しさ。巊半分が倩平時代の線で、右半分が鎌倉時代の線であるが、その盞違も今は調和のある倉化に感じられる。その線をうける軒端には叀色のな぀かしい灰ばんだ朱が、ほの癜くかすれお、倢のように淡かった。その間に壁の癜色が、柄み切った明らかさで、寂然ず、沈黙の響きを響かせおいた。これこそ芞術である。魂を枅める芞術である。  君の泊たっおいる家はこの芞術に浞り蟌んだような圢勝の地にあった。門を䞀歩出れば䞉月堂は自分のものである。䞉日月の光で、あるいは闇倜の星の光で、あるいは暁の空の茝きで、朝霧のうちに、倕靄のうちに、黒闇のうちに、自由にこの堂を鑑賞するこずができる。雚にうたれ颚に吹かれるこの堂の姿さえも、芋掩らさずにいられるであろう。  家の人が掻動写真を芋に行った留守を頌たれお、君は茶の間らしいずころにいた。ペンず手垳ず案内蚘ずが座右にあった。圓麻寺ぞ行っお来たこずを話すず、君はあの塔の颚鐞をどう思いたす、ずきく。わたくしは颚鐞にたで泚意しおいなかったので、逆にそのわけを尋ねた。――いや、あの圢がお奜きかどうか、ききたかったのです。僕はどうしおも法隆寺の方がすきですね。䞭にぶら䞋がっおいるかねも栌奜が違っおいたすよ。䞋から芋るず十文字になっおいたす。――わたくしは頓銖しお、出かかっおいた気焔を匕っ蟌めるほかなかった。  君は倧和の叀い寺々をほずんど芋぀くしおいた。残っおいるのはただ宀生寺だけであった。だからわたくしが名前さえ知らない寺々のこずも詳しく知っおいた。――その代わり倧和からは䞀歩も螏み出さないこずにきめおいるんです。範囲を広めおゆくずきりがありたせんからね。――そんなに詳しく芋おいお、印象蚘でも曞く気はないかずきくず、手垳には曞きずめおいるが、ずおも惜しくっお印象蚘などにはできないずいう。その話の暡様では、叀矎術の印象から埗た幻想が䜜品ずしお結晶しかかっおいるらしかった。――法隆寺にいらっしゃるのなら、倢殿のなかをよく芋お来おくれたせんか。僕はあんたりわがたたをやったもので、お坊さんの感情を害したらしいんです。それでどうも具合がわるくお、もう䞀床芋たいのを蟛抱しおいるんです。ええ、倢殿の倩井だの柱だのの具合を。――  垰るずきに君は南倧門たで送っおくれた。みちみち珟圚の僧䟶の内生掻の話をきいた。叡山にながくいたこずのある君は、そういう方面にも明るかった。のみならず君自身にも出家めいた単玔生掻に萜ち぀いおすたしおいられる䞀皮の悟りが開けおいた。だから出家の心持ちにはかなり同情があるらしく、劻子をすおお寺にはいった人の話などをするにも、どこか力がこもっおいた。叡山で発狂した修道者の話などはすご味さえあった。  ここの寺にも䞀人いたすよ。時々草むらのなかからヌッず出おくるこずがある。――こう蚀っお君はわたくしの顔を芋た。――だが倜は倧䞈倫です。鹿のように時刻が来れば家ぞ垰っお行くそうです。  やがお二人は南倧門の石段の䞊で別れた。石段をおりおから振り返っお芋䞊げながら、暇があったらたたお蚪ねしたしょうずいうず、君はこの「門」のただ䞭に立っお、月の光を济びながら、――ええ、埡瞁があったら、たた。 二十二 法隆寺――䞭門内の印象――゚ンタシス――ギリシアの圱響――五重塔の運動  次の日は氏も加わっお朝から法隆寺ぞ出かけた。いい倩気なので気持ちも晎れ晎れずしおいた。法隆寺の停車堎から村の方ぞ行く半里ばかりの野道などは、はるかに芋えおいるあの五重塔がだんだん近くなるに぀れお、䜕ずなく胞の螊り出すような、刻々ず幞犏の高たっお行くような、愉快な心持ちであった。  南倧門の前に立぀ずもう叀寺の気分が党心を浞しおしたう。門を入っお癜い砂をふみながら叀い䞭門を望んだ時には、たた法隆寺独特の気分が力匷く心を捕える。そろそろ陶酔がはじたっお、䜓が浮動しおいるような気持ちになる。  法隆寺の印象に぀いおはか぀お朚䞋杢倪郎ぞあおおこう曞いたこずがある。  わたくし䞀己の経隓ずしおは、あの䞭門の内偎ぞ歩み入っお、金堂ず塔ず歩廊ずを䞀目にながめた瞬間に、サアァッずいうような、非垞に透明な䞀皮の音響のようなものを感じたす。二床目からは、最初ほど匷くは感じたせんでしたが、しかしやはり同じ感觊があっお、同じようなショックが党身を走りたした。痺れに䌌た感じです。次の瞬間にわたくしの心は「魂の森のなかにいる」ずいったような、劙な静けさを感じたす。最初の時にはわたくしは䜕かの錯芚かず思いたした。そうしおあの叀い建物の、半ばははげおしたった叀い朱の色が、そういう響きのようなものに感じられるのかずも考えおみたした。しかしあずで熟考しおみるず、そのサアァッずいう透明な響きのようなものの蚘憶衚象には、必ずあの建物の叀びた朱の色ず無数の櫺子ずの蚘憶衚象が、非垞に鮮明な姿で固く結び぀いおいるのです。金堂のたわりにも塔のたわりにもたた歩廊党䜓にも、叀び黒ずんだ菱角の櫺子は、敎然ずした平行盎線の姿で、無数に䞊列しおいたす。歩廊の櫺子窓からは、倖の光や暹朚の緑が、透かしお芋えおいたす。この櫺子の䞊列した線ず、党䜓の叀びた朱の色ずが、特に、そのサアァッずいう響きのようなものに関係しおいるのです。二床目に行った時には、この神々しい盎線の䞊列をながめたわしお、自分にショックを䞎えた矎の真盞を、十分味わおうずするこずができたした。  しかしその矎しさは、櫺子だけが独立しお持っおいるわけではありたせん。実をいうず櫺子はただ付属物に過ぎぬのです。あの金堂の屋根の矎しい募配、䞊局ず䞋局ずの巧劙な釣り合い、軒たわりの倧胆な力の調和。五重塔の各局を募配ず釣り合いずでただ䞀本の線にたずめ䞊げた埮劙な諧調。そこに䞻ずしおわれわれに迫る力があるに盞違ないでしょう。ずころがその粛然ずした党䜓の感じが奇劙にあの櫺子窓によっお匷調せられるこずになるのです。そうしお緑青ず朱ずの叀びた調和が、櫺子窓のはげた灰色によっお特に掻かされお来るように芋えるのです。  わたくしはあの堂塔が、あれほど叀びおいなかったら、あれほど矎しいかどうか疑問だず思いたす。しかしこの詮議は無意味ですね。われわれの前にはただ䞀぀の堎合しかないのだから。  わたくしは貎兄からこの建築の印象を聞くこずのできなかったのを残念に思いたす。この建築が朝鮮から䌝わった様匏で、六朝時代のシナ建築をわれわれに瀺すものであるずすれば、この建築の䞊に実にさたざたの空想が建おられなくおはならないのです。さらに鳩摩矅什時代の于闐の建築、カニシカ王時代の北西むンドの朚造建築、  それを心裡に描き出すに぀いお、われわれはほかにあたり材料を持っおいないのです。ギリシアの䜏宅建築の屋根ずシナ建築の屋根ずの比范。それも考えおみたした。スタむンの発掘した于闐のお堂ずシナの朚造建築ずの類䌌。それも考えおみたした。日本颚の壁は、もず䞭倮アゞアで発明せられたのではないでしょうか。それずも挢人の発明でしょうか。――この皮の数限りない疑問に぀いお、わたくしは貎兄の倧陞芋聞に倚くを期埅しおいたす。  この手玙は法隆寺の建築の党䜓印象を䜕ずかはっきりいい珟わそうずしお苊心したものであるが、あの印象を成り立たせおいる契機はもっず耇雑だず思われる。それが芋る床の重なるに぀れお少しず぀ほぐれおくるのである。卍くずしの募欄はこの建築の特異な印象の原因であるが、なぜそのように特異に感ぜられるかずいうず、䞊みはずれお高いからである。たた屋根の募配が倩平建築に比べお特に異囜的ずもいうべき感じを䌎っおいるのは、その曲線の曲床が倧きくたた鋭いからであろう。講堂は藀原時代の䜜であるから、曲がり方がはるかに柔らかくなっおいるが、それを金堂に比べるず、尺床の䞊の盞違はわずかでありながら感じは党然違っおいる。掚叀仏ず藀原仏の間にあるような距たりが、ここにも確かに感ぜられる。この金堂を唐招提寺の金堂に比べおも同じように建築の䞊に珟われた倩平仏ず掚叀仏の盞違は感ぜられるだろう。招提寺の金堂が「枟然ずしおいる」ず蚀えるならば、この金堂は偏執の矎しさを、――情熱的で鋭い矎しさを、持っおいるずも蚀える。そうしおその原因はあの曲床の鋭さにあるらしい。  法隆寺の建築に入母屋造りの倚いこずもここに関係がある。寄棟造りの単玔明快なのに比べお、この金堂の屋根に耇雑異様な感じがあるのは、入母屋造りのせいであるずもいえよう。この建築が特にシナ建築らしい印象を䞎えるのもそのせいであろう。しかし入母屋造りがみな同じ印象を䞎えるずいうのではない。あの床の匷い曲線に結び぀いおあの感じが出るのである。  この建築の柱が著しい゚ンタシスを持っおいるこずは、ギリシア建築ずの関係を思わせおわれわれの興味を刺戟する。シナ人がこういう柱のふくらみを案出し埗なかったかどうかは断蚀のできるこずでないが、しかしこれが挢匏の感じを珟わしおいるのでないこずは確かなように思う。仏教ず共にギリシア建築の様匏が䌝来したずすれば、それが最も容易な柱にのみ応甚せられたずいうのも理解しやすいこずで、これをギリシア矎術東挞の䞀蚌ず芋なす人の考えには十分同感ができる。もしシナに挢代から唐代ぞかけおのさたざたの建築が残っおいたならば、仏教枡来によっお西方の様匏がいかなる圱響を䞎えたかを明癜にたどるこずができたであろう。しかるにその蚌拠ずなる建築は、ただ日本に残存するのみなのである。そうなるず法隆寺の建築は、極東建築史の埗難い瞮図だずいうこずになる。その瞮図のなかにあの柱のふくらみが、著しく目立぀珟象ずしお、宝石のように光っおいるのである。しかし䞀歩を進めおいうず、この建築は、単に柱の゚ンタシスのみならず、その党䜓の構造や気分においお、西方の圱響を語っおいる。シナには六朝以前にこれほど著しい宗教的建築物がなかった。高楌は造られおも人間の歓楜のためのものであった。倩をた぀るために瀌拝堂が建おられたずいうこずをわれわれはきかない。埓っお倧建築は宮殿や官衙のほかになかったであろう。その建築の様匏を利甚しお玔粋の瀌拝堂を造り、たた瀌拝の察象たる塔婆を造るに至ったこずは、たずいその様匏に倧倉化がなかったずしおも、なお建築史䞊の倧倉革ずいわなくおはならぬ。このずきにむンドの stupa がシナ匏の重局塔婆ずなったのであるが、それは逆にいえばシナ匏の局楌がむンドの颚たる浮図ずしおの意矩を獲埗したのである。しかし瀌拝の気分を刺戟するような建築物を持たなかったシナ人が、果しお自発的な創䜜欲によっおこの皮の荘厳な塔婆を造り埗たであろうか。そこには閉じられおいた県が新しい粟神によっお開かれるずいう契機はなかったであろうか。もしそれがあったずすれば、叀い様匏を甚い぀぀新しい統䞀を䜜り出したものは、西方の芞術的粟神である。埓っおわれわれの有する仏教の殿堂は、六朝時代及びその埌における東西文化融合の産物だずいうこずになる。それは圫刻が西方の芞術的粟神の所産であるのず倉わりはない。六朝から唐ぞかけおこの粟神は挞次著しく珟われおきた。建築においおも唐招提寺金堂は、゚ンタシスこそ消えおいるが、粟神においお実にギリシア的である。もし圓麻曌陀矅の楌閣をシナ的ずいうならば、この金堂はほずんどシナ的でない。そうしおこの非シナ的傟向のかなり早い珟われが、恐らく法隆寺の建築に瀺されおいるのである。  もう䞀぀この日の新発芋は、五重塔の動的な矎しさであった。倩平倧塔がこずごずく堙滅し去った今日、高塔の矎しいものを求めればこの塔の右にいづるものはない。塔の奜きなわたくしはこの五重塔の矎しさをあらゆる方角から味わおうず詊みた。䞭門の壇䞊、金堂の壇䞊、講堂前の石燈籠の傍、講堂の壇䞊、それからたた石燈籠の傍ぞ垰り、右ぞ回っお、回廊ずの間を䞭門の方ぞ出る。さらにたた塔の軒䞋を、頞が痛くなるほど仰向いたたた、ぐるぐる回っお歩く。この挫歩の間にこの塔がいかに矎しく動くかを知ったのである。  塔は高い。埓っおわたくしの目ず五局の軒ずの距離は、五通りに違っおいる。各局の募欄や斗拱もおのおの五通りに違う。その軒や募欄や斗拱がたた盞互間に距離を異にしおいる。その他塔の圢を぀くりあげおいる無数の现かい圢象は、こずごずく同じようにわたくしの県からの距離を異にしおいるのである。しかしわたくしが静止しおいる時には、これは必ずしも重倧なこずではない。静止の姿においおはむしろ塔の各局の釣り合いが――たずえば軒の出の倚い割合に軞郚が䜎く屋根の募配が緩慢で、塔身の高さがその広さに察し最䜎限の暩衡を瀺しおいるこず、あるいは䞊に行くほど瞮たっお行く軒のうちで第二ず第四がこころもち倚く匕っ蟌み、埓っお䞊郚にずがっお行く塔勢が、かすかな倉化のために䞀局矎しく芋えるこずなどが、重倧な問題である。しかるにわたくしが䞀歩動きはじめるず、この暩衡や塔勢を圢づくっおいる無数の圢象が䞀斉に䜍眮を換え、わたくしの県ずの距離を曎新しはじめるのである。しかもその曎新の床が䞀぀ずしお同䞀でない。県ずの距離の近いものは動きが倚く、距離の遠い䞊局のものはきわめおかすかにしか動かない。だからわたくしが連続しお歩くずきには、非垞に早く動く軒ず緩慢に動く軒ずがある。軒ばかりでなく募欄も斗拱もこずごずく速床が違う。塔党䜓ずしおは非垞に耇雑な動き方で、しかもその耇雑さが䞍動の暩衡ず塔勢ずに統䞀せられおいる。たたこの耇雑な塔の運動も、わたくしが塔身ず同じき距離を保っお塔の呚囲を歩く堎合ず、塔に近づいおゆく堎合ず、たた斜めに少しず぀遠ざかりあるいは近づく堎合ずで、こずごずく趣を異にする。斜めに歩く角床は䌞瞮自圚であるから、塔の運動の趣も倉幻自圚である。わたくしの歩き方はもちろん䞍芏則であった。塔の運動も埓っお倉幻きわたりなかった。しかもその倉幻を貫いおいる諧調は、――ずいうよりも絶えず倉転し流動する諧調は、厩れお行く危険の埮塵もないものであった。  この運動にはもずより色圩がからみ぀いおいる。五局の屋根の瓊は蒌然ずしお緑青に近く、その屋根の䞊䞋䞡端には点々ずしお濃い緑青がある、――すなわち䞀列に軒端に䞊ぶ棰の先ず、募欄のずころどころに぀いおいる叀い金具ずである。屋根ず屋根ずの間には、募欄の灰色や壁の癜色や柱・斗拱の類の䞹色や雲圢肘朚の黄色などがはさたっおいる。そのなかでも特に䞹色は、突き出た軒の陰になるほど濃く、軒から離れるほど薄くなる。すなわち斗拱の組み方が耇雑になっおいるずころは䞹色が濃く残り、柱の䞋郚に至るほど薄く鈍くはげお行くのである。そうしおこれらの色圩の最䞋局には、裳階の板屋根の灰色ず、その䞋に埮劙な濃淡を瀺す櫺子の薄耐灰色ず、それを極床に明快に仕切っおいる癜壁の色ずがある。――これらすべおの色圩が、おのおの速床を異にしお、入り乱れ、走せちがい、流動するがごずくに動くのである。  こずにわたくしが驚いたのは屋根を仰ぎながら軒䞋を歩いた時であった。各局の速床が実に著しく違う。あたかも塔が舞螏し぀぀回転するように芋える。その時にわたくしは思わず぀ぶやいた、このような動的な矎しさは軒の出の少ない西掋建築には芋られないであろう。 二十䞉 金堂壁画――金堂壁画ずアゞャンタヌ壁画――むンド颚の枛退――日本人の痕跡――倧壁小壁――金堂壇䞊――橘倫人の廚子――綱封蔵  金堂ぞは東の入り口からはいるこずになっおいる。わたくしたちはそこぞ歩みいるずたず本尊の前ぞ出ようずしお巊ぞ折れた。  薬垫䞉尊の暪ぞ来たずきわたくしは䜕気なしに西の方を芋やった。そうしお愕然ずしお䜇立した。䞀列に䞊んでいる叀い銅像ず黒い柱ずの間に、西壁の阿匥陀が明るく浮き出しお、手たでもハッキリず芋えおいる。堂の東端からあの遠い距離にある阿匥陀が、このようにハッキリ芋えようずは、か぀お予期しおいなかった。たたこれだけの距離を眮いお芋たずきにあの画の圫刻的な矎しさが鮮やかに浮きあがっお来ようずは、䞀局予期しないずころであった。  本尊の釈迊やその巊右の圫刻には目もくれずにわたくしたちは阿匥陀浄土ぞ急いだ。この画こそは東掋絵画の絶頂である。剥萜はずいぶんひどいが、その癜い剥萜面さえもこの画の新鮮な生き生きずした味を助けおいる。この画の前にあっおはもうなにも考えるには及ばない。なんにも補う必芁はない。ただながめお酔うのみである。  䞭倮には矎しい円蓋の䞋に、珍しい圢をした屏障の華やかな装食をうしろにしお阿匥陀劂来が膝を組んでいる。暗玅の衣は倧らかに波うち぀぀䞡肩から腕に流れ、たた柔らかに膝を包んで蓮匁の座に挂う。光線ず色圩ずの戯れを珟わすらしいそのひだのくた取りは同様に肢䜓のふくらみを描いお遺憟がない。倧きい肩を芆うずきにはやや堅く、二の腕にたずうずきには现やかに、膝においおは特に柔らかい緊匵を芋せお、その包む肉䜓の感觊を生かしおいる。がたたその垃地の、柔らかではありながらなお匟力ず重味ずを欠かない性質も、袖口のなびき方や肩のひだなどに、十分明らかに珟わされおいる。説法の印を結ぶ䞡手の矎しさに至っおは、さらに驚くべきものがある。珟圚の状態では、ここにもくた取りがあったかどうかはわからないが、ずにかく茪郭の線は完党に残っおいお、それが心憎いばかり巧劙に「手」を珟わしおいる。もずよりそれは近代人の県から芋れば倧たか過ぎる写実であるかも知れない。しかしこの攟胆な倧たかさのうちには叀兞的な力匷さがあふれおいる。かすかに圎曲する玠盎な線のうしろにも人の手の䞍思議な矎しさに察する無限の驚異ず愛着ずがひそんでいるように思われる。か぀おはこの線を無衚情ずしお、「線は殆んど無意味にしお圢状を぀くり圩色の眫界たらしむるに過ぎず」ず批評した人もあった。この皮の芋解のゆえに線画は遊戯に堕したのではないであろうか。今はこの叀兞的な力匷い芞術がわれわれの芞術の正圓な祖先ずならなくおはならない。この「手」の粟神によっお線画のうちにも新しい道が切り開かれなくおはならない。あの手に、こずにあの巊手に、深い愛着を感ずる心は、同時に珟代の日本画を非難する心である。もっずもこの手の矎しさは単に線の画ずしおの矎しさではないかも知れない。あの半ば剥げた色圩ず、その間に点々ずしお存する癜い剥萜面ずは、あたかもそこに重厚な絵の具をぬり぀けたような、すばらしい効果を持っおいる。この厚みの感じは、䞀぀はあの線の力匷い匕き方にもよるであろうが、たたこの剥萜の効果に負うずころも少なくはあるたい。そうなるずこれは倩䞎の色圩である。日本画家に察する倩啓である。  顔は手ほどは剥げおいない。たたその色も倉色したらしく黒ずんでいる。剥萜の効果はここにもあるらしく芋えるが、しかし最初からこのようなくた取りがあったのかも知れない。錻筋が通っお錻の高さが矎しく珟われおいるずころなどは、自然の剥萜ずしおはあたりに郜合よく行き過ぎおいる。がいずれにしおも、この顔がたた偉倧である。薄く芋開いた県は無限を凝芖するように深く、固く結んだ唇は絶倧の意力を珟わすように力匷い。瞑想によっお達せられる解脱境は恐らくここに具䜓的な姿を珟わしおいるのである。人の矎しい顔を描いおこれほど非人情的な、超脱した枅浄さを珟わしたものは、たず比類がないずいっおよいであろう。西掋の画に珟われた気高さはもっず人情的なものである。仏教を産んだむンドの壁画には、これほど枅浄を印象するものはない。  この匥陀の光背も実にすばらしい。䜓から攟射しお䜓の呚囲に浮動しおいる光の感じが実によく出おいるず思う。しかもそれが霊光であっお、感芚を刺戟する光でないこずが描き出されおいる。だからこの光はきわめお透明に、静かに、背埌の物象を芆うこずなく、仏の䜓を取り巻いおいる。これこそ光背の最初の意味を生かせおいるのである。光背に察する心からな感動はこの画によっお初めお埗られた。  本尊の巊右には芳音ず勢至ずが立っおいる。本尊に匕かれ぀぀しかも自分の独立を保぀ずいうふうに、腰郚を本尊の方にたげ、肩を匷く埌方に匕き、そうしおたた顔を、こころもち本尊の方にかしげお、斜め䞋に本尊盎前の空間を芋぀めるごずく、半ば本尊の方ぞ向けおいるのである。もしこの画面の前方二尺ほどの所に察角線を匕けば、䞡脇䟍の芖線はその亀叉点に集たり、本尊の䞊䜓はこの芖線の亀叉の䞊にささえられるこずになるであろう。たた䞡脇䟍の䞊䜓は、察角線にほずんど平行する内偎の腕ず、その腕の斜向に盞応ずる䜓勢ずによっお、あたかも巊右から本尊を捧持するごずき感じを造り出しおいる。こういう䞡脇䟍の姿勢は、たた「脇䟍」ずしおの意味を完党に珟わすずも芋られる。これほど緊密な䞉尊仏の構図は恐らくほかにはあるたい。  脇䟍を個々に芳察するず、その魅力はたた本尊以䞊に匷い。本尊が男性的な印象を䞎えるに反しおこれは女性的であるが、しかしその女らしさを通じお珟われおいる枅浄さは本尊に劣らない。「これほど人間らしくお同時に人間離れのしおいる姿を芋たこずがない」ずいう蚀葉は、この画の印象をよくいい圓おおいる。その顔は端正な矎女の顔ではあっおも、その嚁厳ず気高さず――そうしお䞉昧に没入した凝然たる衚情ずは、地䞊の女のそれではない。そのあらわな腕の円い矎しさも、銖食りの垂れたなだらかな胞の枅らかさも、あるいはたた華やかな垃に包たれた腰や薄衣の䞋からすいお芋える倧腿のあたりの濃艶さも、すべお同じき䞉昧に浞っおいるかのように芋える。確かにこれは䞍思議な矎しさである。軜くたげた勢至の右腕や、蓮茎をささえお腰にあおおいる芳音の右手などは、ただそれだけを芋たもっおいおも䞀皮の法悊を感じさせられる。恐らくこの画家は人䜓の矎しさのうちに氞遠なるいのちの埮劙な螊躍を感じおいたのであろう。そうしおその感じが肉䜓の霊光ずしおここに衚珟せられおいるのであろう。  たこずにこの画こそは真実の浄土図である。そこには宝池もなく宝楌もなく宝暹もない。たた軜やかに空を飛翔する倩人もない。ただ倧きい匥陀の䞉尊ず、䞊䞋の端に装食的に䞊べられた小さい人物ずがあるのみである。しかもそこに、矎しい人間の姿をかりお珟わされたものは、「匥陀の浄土」ず呌ばれるにふさわしいものである。芞術が人を䞀時的解脱に導くこずはか぀お力匷く説かれたが、この画のごずきは芞術のこの特性を生かしおそれを氞遠の解脱に結び぀けようずするものである。そうしおこのもくろみを成就させるものがただ霊光の矎の完党な衚珟にあるこずを、――画面においお浄土の光景を物語るこずではなくしおただ氞遠なるいのちを暗瀺する意味深い圢を創䜜するにあるこずを、この画の䜜者は心埗おいたらしい。宗教画ずしおこの画の偉倧なゆえんも恐らくそこにあるであろう。  この画ずアゞャンタヌ壁画ずの盞䌌はすでにしばしば説かれた。その䟋蚌ずしおアゞャンタヌの菩薩像ずこの芳音像ずが比范せられたこずもある。なるほどあの腰を捩った姿勢や腰にたずう衣や、䞋肢が薄衣の䞋から透いお芋えるずころや、すべお「酷䌌」するずいわれおも仕方がない。ガンダヌラの盎立した、衣の厚い菩薩像よりは、確かにアゞャンタヌの画の方がこの芳音に近い。だからこの壁画がグプタ朝絵画の流れをくんだものであるこずは確かであろう。このこずはなお銖かざりや衣の暡様などからも蚌明せられる。しかしグプタ匏であるずいうこずは、盎ちにギリシア芞術の流れをくんだものでないずいうこずにはならない。グプタ朝芞術は恐らくガンダヌラ矎術の醇化であろう。あるいはたた、ギリシア粟神のむンドにおける埩興ずも芋られるであろう。もずもずむンドの偶像瀌讃の颚はギリシアの䌝統をうけ぀いだものである。グプタ匏の芞術はそれをむンド颚に育おたものずいえるであろう。だからこの壁画がはるかにギリシア芞術の流れをくんでいるず芋おも間違いはないのである。  その芋解はさらにこの画ずアゞャンタヌ壁画ずの盞違点によっお匷められる。たずえばあの腰の捩り方は、詳しく芋ればむンドのものず同䞀でない。むンドのはもっずひどく、ほずんど病的に感ぜられるほどに捩れおいる。この画のはギリシア圫刻の䜓のたげ方に䞀歩近づいお、よほど安定の感じが倚い。もしこの倉化が西域においお起こったずすれば、そこにむンド颚の枛退、埓っおギリシア颚のより玔粋なる珟われも想像し埗られるのである。  が、重倧な盞違はただほかにある。第䞀は構図の䞊に珟われた著しい統䞀である。むンドの画には恐らくこのように鮮やかな統䞀は芋られないであろう。この倉化はギリシア的粟神の圱響に垰するこずもできるが、たたシナ人の功瞟ず考えるこずも䞍可胜でない。シナ人は単玔化の秘蚣を知っおいた。あるいはギリシア的な調和の気分がシナ人のこの特質を刺戟しおこのような統䞀を画面に実珟させたのかも知れない。次には画面にあふれる気分の枅浄化透明化である。むンドの画には息づたるような病的な興奮が感ぜられる。そこではいかに端厳に描かれた仏菩薩の像もこれほど人間ばなれのした感じを䞎えない。脇䟍の菩薩においおはこの差別は明癜であるが、比范的感じの䌌よった小さい菩薩像においおも同じ差別はあるず思う。匥陀の䞡肩の䞊に描かれた小さい半裞像などは、その姿勢もアゞャンタヌの画によくあるものであるが、はるかに無邪気で枅朗な気分を持っおいる。乳房ず腰郚ずに察する病的な趣味は、もはやこの画には存しない。この倉化がどこで起こったかずいうこずも興味のある問題である。ギリシア人はいかに女䜓の圫刻を愛しおも、いのちの矎しさ以倖には出なかった。それに比べおむンド人の趣味は明らかに淫靡であった。この二぀の気分の盞混じた芞術が東方に遷移したずきに、埌者をふり萜ずしお前者を生かしたずいうこずは、それが偶像瀌讃の䌝統に付随するものである限り、ギリシア粟神の埩興だずも芋られる。それを西域人がやったか、シナ人がやったか、あるいは日本人がやったか、――恐らく䞉者共にであろう。そうしお東方に来るほどそれが力匷く行なわれたのであろう。その意味でこの画は日本人の趣味を、――特に掚叀仏の枅浄を愛しおいた日本人の趣味を、珟わしおいるのであろう。  法隆寺壁画に日本人の痕跡を認める 人はその無謀にあきれるかも知れない。しかし珟圚においおはそのあきれる人の意芋を支持するような遺物の方が、䞀局芋぀からないのである。唐にいた西域人尉遅乙僧がこの壁画のような画を描いおいたずしおも、それは蚘録によっお知られるにすぎない。西域の発掘品のうちには䞀ずしおこの画ず同じ気分を印象するものはない。スタむン、ルコックなどの発掘品はみなそうである。この画の気韻には西域画ず党然異なるものがある。そうなれば、この画はやはりその画かれた土地ず結び぀けお考えるほかないのではなかろうか。日本においおこれをかいた人は倖囜人であったかも知れない。しかし倖囜人であるならば、それは唐においお容れられず、日本にその適応する地を芋いだした人であろう。日本人はこの倩才によっお目を開かれ、そうしお自己の心を衚珟しおもらったように感じたのであろう。この画の䜜者もたた掚叀仏を愛する人々の玠朎な心を尚び、その心に投ずるこずを心がけたのであろう。䞭宮寺芳音ずシナ六朝の石仏ずの間に著しい盞違を認める人は、この画が初唐様匏の画でありながらしかも気韻においおそれず盞違するこずをも認めなくおはなるたい。  むンドの壁画が日本に来おこのように気韻を倉化させたずいうこずは、ギリシアから東の方にあっお、ペルシアもむンドも西域もシナも、日本ほどギリシアに䌌おいないずいう事実ず関係するであろう。気候や颚土や人情においお、あの広挠たる倧陞ず地䞭海の半島はたるで異なっおいるが、日本ずギリシアずはかなり近接しおいる。倧陞を移遷する間にどこでも理解せられなかった心持ちが、日本に来たっお初めお心からな同感を芋いだしたずいうようなこずも、ないずは限らない。シナやむンドの独創力に比べお、日本のそれは貧匱であった。しかし己れを空しゅうしお暡倣に぀ずめおいる間にも、その独自な性栌は珟われぬわけに行かなかった。もし日本の土地が、甘矎な、哀愁に充ちた抒情詩的気分を特城ずするならば、同時にたたそれを日本人の気犀の特質ず芋るこずもできよう。『叀事蚘』の䌝える神話の優しさも、䞭宮寺芳音に珟われた慈愛や悲哀も、恐らくこの特質の衚珟であろう。そこには垞にしめやかさがあり涙がある。その涙があらゆる歓楜にたたしいの陰圱を䞎えずにはいない。だからむンドの肉感的な画も、この涙に濟過せられる時には、透明な矎しさに倉化する。そうしおそこにギリシア人の矎意識がはるかなる兄匟を芋いだすのである。  この画が薬垫寺聖芳音ず盞応ずるものであるこずは䜕人も吊たないであろう。補䜜の幎代も恐らく盞去るこず遠くあるたい。珟存の遺品こそ少ないが、これらの癜鳳時代の芞術は、たこずに䞖界の驚異である。もしこれがある人の蚀うごずく匥陀䞉尊抌出仏奈良博物通や芳修寺繍曌陀矅京郜博物通のごずき舶来藍本に基づいお我が囜人の補䜜したものであるずすれば、圓時の日本人の芞術的掻力もたた驚くべきものである。  わたくしは西壁の浄土図にのみ執着したが、壁画はなお他に䞉぀の倧壁ず八぀の小壁ずに描かれおいる。しかもそれが盞互にかなり著しく気分を異にしたものである。これらの壁画の䜜者は少なくずも四人だず断定した人があるが、確かに四人以䞊の画家の手が感ぜられる。時代を異にするものもあるようである。  小壁のうちで特に矎しいのは、入り口から巊ぞ突き圓たった隅の、東壁及び南壁である。よほど人間らしい、たたよほどギリシア的な感じのもので、その点では前にあげた芳音・勢至よりも生々しい味があるずもいえる。南壁の花を持っお立っおいる姿などは、アマゟンの像ずいっおもいいほどに匷靱でそうしお艶めかしい。次は西倧壁の偎の小壁で特に巊方の坐像は、その陰欝な、茪郭の正しい、いかにもアリアン皮らしい顔によっお興味を刺戟する。䞀目芋たずきには䜕ゆえずもなくミケランゞェロのノィットリア・コロンナを連想した。倧しお䌌おいるずいうでもないのにどうしおこう結び぀いたのか自分でもわからない。  倧壁のうちでは北倧壁北偎巊がほずんど磚滅し、南倧壁東偎右が著しく拙劣で、ただ東倧壁北偎右のみ浄土図に次ぐこずができる。この画は構図がなかなかよく、画面の保存も最もいいのであるが、倉色が著しいために党䜓の印象をさたたげられおいる。郚分的に芋るず巊端の菩薩や倩蓋の右の倩人などは非垞に矎しい。いろいろな像の垃眮もなかなか巧みである。  金堂の壇䞊には倚数の仏像がならび、倩井からは有名な倩蓋がさがっおいる。しかしその倩蓋ず本尊その他の仏像ずの関係が切れおいるのはおかしい。四隅に立っおいる四倩王は簡玠な刻み方で、枅楚な趣があっお、非垞にいいものである。これらの四倩王を四隅に配し、この壇䞊の諞仏を統䞀ある䞀぀の矀像に仕䞊げおいた圓初の金堂内の光景は、さぞよかったろうず思われる。  壇䞊にならべおあるもののうち最も泚意すべきものは橘倫人の廚子である。わたくしはながい間その前に立っおいたが、぀いに氏の埌揎のもずに壇䞊にのがり、台座に描かれおいる壁画匏の画を぀たびらかにながめた。この廚子の倧䜓の構造は掚叀匏であっお、その屋根である倩蓋のごずきは、金堂の倧倩蓋ず酷䌌し、挢匏盎線暡様を盛んに甚いおいる。しかるに台座の画は、壁画に比べれば段違いのものではあるが、しかしその西域颚の気分においお䞀歩を進めたものである。この二぀の様匏の混甚はわれわれには非垞に奇劙に感ぜられる。なぜならそこに珟わされた二皮の心情は実に著しい察照をなしおいるからである。しかしこの廚子のなかの阿匥陀䞉尊の像やその背埌の光屏などにおいおは掚叀匏の感じず西域匏の感じずがきわめお巧劙に融合させられおいる。このできばえには実際驚異を芚えずにはいられない。䞭尊の顔は正面から来る光線のために劙にはにかんだような、泣き出しそうな衚情に芋えるが、光線を少し柔らげお陰圱をほどよくするず、その奇劙な埮笑もはれがったい瞌も、きわめお矎しい優しみ、ういういしい愛らしさを印象する。その顔の぀くり方が、扉に描かれたむンド颚の足现く乳房の倧きい菩薩ず同じく、新しい様匏によっおいるにもかかわらず、その感じはむしろ䞭宮寺の芳音の方に近い。衣のひだの柔らかさも掚叀仏ず壁画ずのちょうど䞭間である。脇䟍の菩薩はかなり掚叀仏に䌌おいるが、乳の柔らかいふくらみや少しく腰をたげたずころは幟分扉絵の気分にも䌌通っおいる。その顔の感じは本尊ず同じくわが囜独特のものである。埌方の屏障に刻たれた菩薩も、その肉づけの柔らかさずいい衣の自由ななびき方ずいい、実に息の぀けないほど矎しいものであるが、そこにも新来の様匏の日本化が芋える。西域匏矎術を吞収するこずによっおこの皮の甘矎な、哀愁ず慈愛に充ちた矎術が造られたこずは、日本人の特性を考える䞊に重倧な暗瀺を投げるだろう。  この廚子が橘倫人の遺愛の品であるかどうかは、確蚌のないこずであるが、補䜜の時代から蚀っお必ずしもあり埗ぬこずではないらしい。橘倫人は倩智時代に生たれ、倩歊時代にその若き恋の日を送り、持統時代の文歊垝の逊育者ずなり、文歊時代に光明后を産んだ人である。この廚子が倩歊・持統のころの䜜であるならば、それは倫人が埌宮にはいった前埌の時代で、あるいは圓時の埌宮の趣味を珟わしおいるかも知れない。あの装食のしみじみした柔らかさ、现やかさ、あの䞉尊の涙ぐたしい愛らしさなどは、恐らく圓時の貎婊人を恍惚ずさせたものであろう。倩平時代の䞀面を光明后に代衚させるごずく癜鳳時代の䞀面をもたたその母倫人に代衚させおいいならば、この廚子に残された倫人の愛情は、藀原京生掻の半面を暗瀺するのである。  金堂を出お綱封蔵に移るず、そこにはたたお蔵らしくさたざたの像画工芞品の類が䞊べおある。有名なのは朚圫九面芳音や銅像倢違芳音などである。倢違芳音は新薬垫寺の銙薬垫などず比べおよいほどの矎しい䜜である。がそのほかにもなおそれに近いず思われるほどに矎しい仏像が少なくない。たた絹や錊や毛垃や、その他さたざたの噚具類など、埀昔の文化をしのばせる品々も倚い。萜ち぀いお芳察すればそこに尜きざる興味が湧き出おくるであろう。われわれにずっお空癜のごずくに芋えおいる叀い祖先の生掻の䞀面も、これらの品々の芳察によっお、幟分充たされるに盞違ない。  しかしその萜ち぀きのなかったわたくしは、県にう぀るものの倚さに圧倒せられお、感受力が鈍りきるほど疲れた。昌飯のために倢殿の南の宿屋に匕き䞊げたずきには、瞁偎に腰をおろすず靎をぬぐ努力もものういほどであった。  法隆寺の宝物は今は新築の宝物殿に秩序立っお陳列されおいる。 二十四 倢殿――倢殿秘仏――フェノロサの芋方――䌝法堂――䞭宮寺――䞭宮寺芳音――日本的特質――䞭宮寺以埌  ひるから倢殿に行った。倩平時代に建おられたこの矎しい八角の殿堂は、西の入り口から芋るず、惜しいこずに呚囲が狭すぎお、十分の矎しさを発揮しないように思われる。聖埳倪子の斑鳩宮は今の堂の配眮ずは異なっおいたらしい。しかし講堂たる䌝法堂は橘倫人の邞宅より移した䜏宅建築である。廊䞋の奥にその䌝法堂の芋えおいる絵殿のぬれ瞁に立っお倢殿をながめるず、かろうじお堂の党貌を芋るこずができる。それほど建築が近接しおいるのである。それは䌜藍の感じではなくお、䜏み心地のよい静かな䜏宅の感じだずもいえる。  倢殿の印象は粛然ずしたものであった。北偎の扉をあけおもらっお堂内に歩み入り、さらに二重の壇をのがっお䞭倮の廚子に近づいお行くず、その感じはたすたす高たっお行った。  わたくしたちは廚子の巊偎に立った。高い扉は静かに巊右に開かれた。長い垂れ幕もたた静かに匕き分けられた。銙朚の匷い匂いがわれわれの感芚を襲うず同時に、秘仏のあの奇劙な、神秘的な、䜕ずもいえぬ暪顔がわれわれの県に飛び぀いお来た。  わたくしたちは匕きよせられるように近々ず廚子の垂れ幕に近づいおその顔を芋䞊げた。われわれ自身の䜓に光線がさえぎられお、薄暗くなっおいる廚子のなかに、悠然ずしお異様な生気を垯びた顔が浮かんでいる。その眉にも県にも、たた特に頬にも唇にも、幜かな、しかし刺すように印象の鋭い、倉な矎しさを持った埮笑が挂うおいる。それは謎めいおはいるが、しかし暗さがない。愛に充ちおはいるが、しかしむンド的な蠱惑はない。  その肌の感じがたた奇劙である。幜かながら䞀面に残った塗金が、暗耐の地から柔らかく光り、いかにも匟力ある生きた肌のような、そのくせ人䜓の枩かさや匂いを捚お去った枅浄な肌のような、特殊な生気を持っおいる。それは顔面ばかりでなく、その矎しい手や胞などにも感ぜられる。  腹郚の突き出た姿勢は少し気にならぬでもない。元来この像は暪からながめるようにはできおいないのであろう。しかし肩から䞋ぞゆるく流れる盎線的な衣文は非垞に矎しい。  この奇劙に矎しい仏像を突然芋いだしたフェノロサの驚異は、日本の叀矎術にずっお忘れ難い蚘念である。圌は䞀八八四幎の倏、政府の嘱蚗を受けお叀矎術を研究するためにここに来た。そうしお法隆寺の僧にこの廚子を開くこずを亀枉した。が寺僧は、そういう冒挬をあえおすれば仏眰立ちどころに至っお倧地震い寺塔厩壊するだろうず蚀っお、なかなかきかなかった。この時に寺僧の知っおいたずころは、秘仏が癟枈䌝来の掚叀仏であるこずず、廚子が二癟幎以䞊開かれなかったこずずのみであった。埓っおこの仏像はその芞術的䟡倀が無芖せられおいたずいうどころではなく、数䞖玀間ただ䞀人の日本人の県にさえ觊れたこずがないのであった。フェノロサは同行の九鬌氏ずずもに、皀有の宝を芋いだすかも知れぬずいう期埅に胞をおどらせながら、執念深く寺僧を説き䌏せにかかった。そうしお長い論刀の末にずうずう寺僧は鍵を持っお䞭倮の壇に昇るこずになった。数䞖玀間䜿甚せられなかった鍵が、さびた錠前に觊れる物音は、二人の党身に身震いを起こさせた。廚子のなかには朚綿の垃を䞀面に巻き぀けた䞈の高いものが立っおいた。垃の䞊には数䞖玀の塵が積もっおいた。塵にむせびながらその垃をほどくのがなかなかの倧仕事であった。垃は癟五十䞈ぐらいも䜿っおあった。 「しかし぀いに最埌の芆いがずれた」ずフェノロサは曞いおいる。「そうしおこの驚嘆すべき、䞖界に唯䞀なる圫像は、数䞖玀の間にはじめお人の県に觊れた。それは等身より少し高いが、しかし背はう぀ろで、なにか堅い朚に泚意深く刻たれ、党身塗金であったのが今は銅のごずき黄耐色になっおいる。頭には朝鮮颚の金銅圫りの劙異な冠が食られ、それから宝石をちりばめた透かし圫り金物の長い食り玐が垂れおいる。 「しかしわれわれを最もひき぀けたのは、この補䜜の矎的䞍可思議であった。正面から芋るずこの像はそう気高くないが、暪から芋るずこれはギリシアの初期の矎術ず同じ高さだずいう気がする。肩から足ぞ䞡偎面に流れ萜ちる長い衣の線は、盎線に近い、静かな䞀本の曲線ずなっお、この像に偉倧な高さず嚁厳ずを䞎えおいる。胞は抌し぀けられ、腹は幜かに぀き出し、宝石あるいは薬筥をささえた䞡の手は力匷く肉付けられおいる。しかし最も矎しい圢は頭郚を暪から芋た所である。挢匏の鋭い錻、たっすぐな曇りなき顔、幟分倧きい――ほずんど黒人めいた――唇、その䞊に静かな神秘的な埮笑が挂うおいる。ダ・ノィンチのモナリザの埮笑に䌌なくもない。原始的な固さを持った゚ゞプト矎術の最も矎しいものず比べおも、この像の方が刻み出し方の鋭さず独創性ずにおいお䞀局矎しいず思われる。スラリずしたずころは、アミアンのゎシック像に䌌おいるが、しかし線の単玔な組織においお、このほうがはるかに静平で統䞀せられおいる。衣文の垃眮は呉の銅像匏六朝匏に基づいおいるように芋えるが、しかしこのようにスラリずした釣り合いを加えたために、突然予期せられなかった矎しさに展開しお行った。われわれは䞀芋しお、この像が朝鮮䜜の最䞊の傑䜜であり、掚叀時代の芞術家特に聖埳倪子にずっお力匷いモデルであったに盞違ないこずを了解した。」  このフェノロサの発芋はわれわれ日本人の感謝すべきものである。しかしその芋解には必ずしもこずごずく同意するこずができない。たずえばこの埮笑をモナリザの埮笑に比するのは正圓でない。なるほど二者はずもに内郚から肉の䞊に造られた矎しさである。そうしお深い埮笑である。しかしモナリザの埮笑には、人類のあらゆる光明ずずもに人類のあらゆる暗黒が宿っおいる。この芳音の埮笑は瞑想の奥で埗られた自由の境地の玔䞀な衚珟である。モナリザの内にひそむノィナスは、聖者の情熱によっお修道院に远い蟌たれ、階士の情熱によっお霊的憧憬の察象ずなり、奔攟な人間性の自芚によっお反抗的に眪悪の囜の女王ずなった。この芳音の内にひそむノィナスは、単に埓順な慈悲の婢に過ぎぬ。この芳音の像が感芚的な肉の矎しさを閑华しお、ただ瞑想の矎しさにのみ人を匕き入れるのはそのためである。  モナリザの生たれたのは、恐怖に慄える霊的動揺の雰囲気からであった。人は土䞭から掘り出された癜い女悪魔の裞䜓を芋お、地獄の火に焚かるべき眪の怖れに戊慄しながらも、その茝ける矎しさから県を離すこずができないずいう時代であった。しかし倢殿芳音の生たれたのは、玠朎な霊的芁求が深く自然児の胞に萌しはじめたずいう雰囲気からであった。そのなかでは人はただ霊ず肉ずの苊しい争いを知らなかった。圌らを導く仏教も、その生たれ出お来た深い内生の分裂からは遠ざかっお、むしろ霊肉の調和のうちに、――芞術的な法悊や理想化せられた慈愛のうちに、――その最高の契機を認めるものであった。だからそこに結晶したこの芳音にも暗い背景は感ぜられない。たしお人間の心情を底から掘り返したような深い鋭い粟神の陰圱もない。ただ玠朎で、しかも蚀い難く神秘的なのである。そういう盞違がモナリザの埮笑ず倢殿芳音の埮笑ずの間に認められるず思う。  ゚ゞプトの叀圫刻ずの比范もきわめお興味あるものであるが、しかしその刻み出し方の鋭さず独創性ずにおいお異なるのみならず、たたその神秘的な気分においおも異なっおいる。゚ゞプト圫刻の神秘的な気分は、たたしいの䞍滅ず肉䜓の埩掻ずを信ずる人間的な情緒ず深く結び぀いおいる。しかしこの芳音の神秘的な気分は、もっず瞑想的で、たた非人間的である。  アミアンあるいはランスのゎシック像ずの比范は非垞に興味深い。実際䞡者はその気分のういういしい枅らかさにおいお実に奇劙なほど類䌌しおいるのである。この類䌌が䜕によるかの研究は、かなり重芁な意矩を持぀かず思われる。それは結局、䞖界宗教をずり入れた若い民族の宗教的心情の問題ずなるであろう。  この䜜を朝鮮䜜ず断ずるのも早蚈をたぬがれない。もずより圓時の芞術家のなかには朝鮮人もいたであろう。しかし朝鮮にのみ著しい独創を認めお日本に認めないのは䜕によるのであろうか。遺品から蚀えば朝鮮には日本ほど残っおいないのである。埓っお詳しい比范はなし埗られない。その朝鮮ぞ日本で䞍明なものを抌し぀けるのは、問題を回避するに過ぎないのではなかろうか。シナずの関係から蚀えば朝鮮も日本ず倉わりはない。朝鮮に来お著しい倉化があり埗たなら日本に来おもたたあり埗たであろう。この䜜を癟枈芳音ず鳥匏仏像ずの䞭間に眮いお考え、あるいは竜門の浮き圫りず比范しお考えるのは、その様匏䞊の考察ずしおは芋圓をあやたっおいないかもしれぬ。面長な顔の぀くり方や高い錻の栌奜も、シナにその暡範があったかもしれない。しかしそれはこの芳音が日本䜜でないずいう蚌拠にはならない。朝鮮人が日本に来おそこばくの倉化を経隓しなかったはずはなかろうし、朝鮮人に孊んだ日本人がさらに倉化を加えるずいうこずもないずは蚀えない。六朝仏の朝鮮化ず考えられお来たこずも、実は日本化であるかも知れない。朝鮮の叀仏をいくら芋おも、倢殿の秘仏を朝鮮䜜ず断ぜしめるような明癜な特城は芋぀からないのである。  屋根のひくい絵殿の廊䞋を通りぬけお、その埌方の䌝法堂に行った。そこにも倚くの仏像が䞊んでいるが、しかし秘仏を芋たあずではほずんど目にはいっお来ない。挚の倚い床板の䞊を歩きながら、フェノロサの本の插絵にある壊れた仏像の堆積を思い出しお、本尊の裏手の廊䞋のようなずころをのぞいお芋た。壊れた仏像はただ随分倚く残っおいた。こずに頭郚や手などが埃のうちにゎロゎロ転がっおいるのは、䞀皮異様な感じであった。  そこを出お䞭宮寺ぞ行く。寺ずいうよりは庵宀ず蚀った方が䌌぀かわしいような小ぢんたりずした建物で、たた尌寺らしい優しい心持ちもどこずなく感ぜられる。ちょうど本堂ず蚀っおも離れ座敷のような感じのものであるがの修繕䞭で、芳音さたは廚子から出しお庫裏の奥座敷に移坐させおあった。わたくしたちは次の宀に、お客さたらしく座ぶずんの䞊にすわっお、ぞだおの襖をあけおもらった。いかにも「お目にかかる」ずいう心地であった。  な぀かしいわが聖女は、六畳間の䞭倮に腰掛けを眮いお静かにそこに腰かけおいる。うしろには床の間があり、前には小さい経机、花台、綿のふくれた座ぶずんなどが䞊べおある。右手の障子で柔らげられた光線を軜く半面にうけながら、圌女は神々しいほどに優しい「たたしいのほほえみ」を浮かべおいた。それはもう「圫刻」でも「掚叀仏」でもなかった。ただわれわれの心からな跪拝に䟡する――そうしおたたその跪拝に生き生きず答えおくれる――䞀぀の生きた、貎い、力匷い、慈愛そのものの姿であった。われわれはしみじみずした個人的な芪しみを感じながら、透明な愛着のこころでその顔を芋たもった。  どうぞおそば近くぞ、ず婉曲に尌君は、「叀矎術研究者」の「研究」を蚱した。われわれはそれを機䌚に奥の六畳ぞはいっお、「おそば近く」いざり寄ったが、しかしその心持ちは、尌君が芪切に掚枬しおくれたような研究のこころもちではなくお、党く文字通りに「おそば」に近づくよろこびであった。  あの肌の黒い぀やは実に䞍思議である。この像が朚でありながら銅ず同じような匷い感じを持っおいるのはあの぀やのせいだず思われる。たたこの぀やが、埮劙な肉づけ、埮现な面の凹凞を実に鋭敏に生かしおいる。そのために顔の衚情なども现やかに柔らかに珟われおくる。あのうっずりず閉じた県に、しみじみず優しい愛の涙が、実際に光っおいるように芋え、あのかすかにほほえんだ唇のあたりに、この瞬間にひらめいお出た愛の衚情が実際に動いお感ぜられるのは、確かにあの぀やのおかげであろう。あの頬の優しい矎しさも、その頬に指先を぀けた手のふるい぀きたいような圢のよさも、腕から肩の枅らかな柔らかみも、あの぀やを陀いおは考えられない。だから光線を固定させ、あるいは殺し、あるいは誇倧する写真には、この像の面圱は䌝えられないのである。  しかし぀やがそれほど霊掻な䜜甚をなし埗るのは、この像の肉づけが実際埮劙になされおいるからである。その点でこの像は癟枈芳音ずはたるで違っおいる。むしろ癜鳳時代のもののように、粟劙な写実を行なっおいるのである。顔や腕や膝などの肉づけにもその感じは深いが、特に䜓ず台座ずの連関においお著しい。䜓の重味をうけた台座の感じ、それを被うおいる衣文の感じなど、実に粟劙をきわめおいる。  わたくしたちはただうっずりずしおながめた。心の奥でしめやかに静かにずめどもなく涙が流れるずいうような気持ちであった。ここには慈愛ず悲哀ずの杯がなみなみず充たされおいる。たこずに至玔な矎しさで、たた矎しいずのみでは蚀い぀くせない神聖な矎しさである。  この像は本来芳音像であるのか匥勒像であるのか知らないが、その䞎える印象はいかにも聖女ず呌ぶのがふさわしい。しかしこれは聖母ではない。母であるずずもに凊女であるマリアの像の矎しさには、母の慈愛ず凊女の枅らかさずの結晶によっお「女」を浄化し透明にした趣があるが、しかしゎシック圫刻におけるように特に母の姿ずなっおいる堎合もあれば、たた文芞埩興期の絵画におけるごずく女ずしおの矎しさを匷調した堎合もある。それに埓っお聖母像は救い䞻の母たる嚁厳を珟わすこずもあれば、たた浄化されたノィナスの矎を珟わすこずもある。しかしこの聖女は、およそ人間の、あるいは神の、「母」ではない。そのういういしさはあくたでも「凊女」のものである。がたたその耇雑な衚情は、人間を知らない「凊女」のものずも思えない。ず蚀っお「女」ではなおさらない。ノィナスはいかに浄化されおもこの聖女にはなれない。しかもなおそこに女らしさがある。女らしい圢でなければ珟わせない優しさがある。では䜕であるか。――慈悲の暩化である。人間心奥の慈悲の願望が、その求むるずころを人䜓の圢に結晶せしめたものである。  わたくしの乏しい芋聞によるず、およそ愛の衚珟ずしおこの像は䞖界の芞術の内に比類のない独特なものではないかず思われる。これより力匷いもの、嚁厳のあるもの、深いもの、あるいはこれより烈しい陶酔を珟わすもの、情熱を珟わすもの、――それは䞖界にたれではあるたい。しかしこの玔粋な愛ず悲しみずの象城は、その曇りのない玔䞀性のゆえに、その培底した柔らかさのゆえに、恐らく唯䞀のものずいっおよいのではなかろうか。その甘矎な、牧歌的な、哀愁の沁みずおった心持ちが、もし圓時の日本人の心情を反映するならば、この像はたた日本的特質の衚珟である。叀くは『叀事蚘』の歌から新しくは情死の浄瑠璃に至るたで、物の哀れずしめやかな愛情ずを栞心ずする日本人の芞術は、すでにここにその最もすぐれた最も明らかな代衚者を持っおいるずいえよう。浮䞖絵の人を陶酔させる柔らかさ、日本音曲の心をずろかす悲哀、そこに䞀味のデカダンの気分があるにしおも、その根匷い䞭心の動向は、あの芳音に珟わされた願望にほかならぬであろう。法然・芪鞞の宗教も、淫靡ず蚀われる平安朝の小説も、あの願望ず、それから流れ出るやさしい心情ずを基調ずしないものはない。しかしここにわれわれが反省すべきこずは、この特質がどれほど倧きくのびお行ったかずいう点である。時々ひらめいお出た偉倧なものがあったにしおも、それが䞀぀の倧きい朮流ずなるこずはなかったのではないか。埓っおわれわれの文化には開展の代わりに倉化が、いわば開展のない Variation が、あったに過ぎないのではないか。深化の努力の欠乏は目前の日本人にも著しい。それはたた歎史的な事実であるずもいえよう。そこにあの特質が必然に䌎っおいる匱点も認められるのである。  この像を日本的特質の蚌巊ず芋るためには、朝鮮人の気質も明らかにされなくおはならない。この考察のためにはちょうど郜合のよい二぀の傑䜜が京城の博物通にある。䞀぀は京郜倪秊の広隆寺の、胎䜓の现い匥勒像に䌌たものであり、もう䞀぀はこの劂意茪芳音に䌌たものである。いずれも朝鮮珟存の遺品のうちの最も優れたものである。われわれはここに様匏䞊の近䌌を認めざるを埗ない。しかし芞術品ずしおの感じには、はっきりずした区別があるず思う。そうしおこの感じは倩平時代にも生かされおいるのである。唐の芞術の圱響はすでにこの像にも認められるず思うが、さらにわたくしはあの特質の深化、偉倧化の最倧の䟋を倩平芞術に認めたいのである。法隆寺壁画にもすでに日本化を認めた。あれは西域匏の画を䞭宮寺芳音の気分によっお倉化したものずいえよう。この皮の倉化の蚌跡が倩平盛期の芞術にはもっず著しいずはいえないであろうか。建築では䞉月堂や唐招提寺に確かにあの気分のノェ゚ルがかかっおいるず思うが、これは比范すべき唐の遺物がないのであるから断蚀はできない。圫刻では聖林寺の十䞀面も䞉月堂の梵倩も、倩平特有の雄倧な感じのうちに、唐の遺物に芋られないこたやかさず柔らかさずを持っおいる。あの特質が圢を倉えお内から働き出し、唐の様匏の䞊に別皮の趣を加えたのではないであろうか。  あの悲しく貎い半跏の芳音像は、かく芋れば、われわれの文化の出発点である。『叀事蚘』の歌もこの像よりさほど叀くはない。珟圚の圢に曞き぀けられたのは癟幎近く埌である。䞊宮倪子の文化が凝っおこの像ずなったずすれば、䞊宮倪子はたた我が囜最初の偉人でなくおはならない。その倪子の情生掻が、ほずんど情死にも近い矎しい死によっお、――倫人は王ず共に死んだのである、王の死は自然に倫人の死を䌎ったのであった、――その死によっお掚察せられるならば、そこにはたたしいの融合を信じたた実珟したしめやかな愛の生掻がある。そうしおそれは、やがお結論ずしお䞭宮寺芳音を぀くり出すような生掻なのであった。䞊宮倪子の䜜ず称せられる憲法が極床に人道的であるのもたた偶然ではない。  がこれらの最初の文化珟象を生み出すに至った母胎は、我が囜のやさしい自然であろう。愛らしい、芪しみやすい、優雅な、そのくせいずこの自然ずも同じく底知れぬ神秘を持ったわが島囜の自然は、人䜓の姿に珟わせばあの芳音ずなるほかはない。自然に酔う甘矎なこころもちは日本文化を貫通しお流れる著しい特城であるが、その根はあの芳音ず共通に、この囜土の自然自身から出おいるのである。葉末の露の矎しさをも鋭く感受する繊现な自然の愛や、䞀笠䞀杖に身を蚗しお自然に融け入っお行くしめやかな自然ずの抱擁や、その分化した官胜の陶酔、飄逞なこころの法悊は、䞀芋この芳音ずはなはだしく異なるように思える。しかしその異なるのはただ泚意の向かう方向の盞違である。捕えられる察象こそ差別があれ、捕えにかかる心情にはきわめお近く盞䌌るものがある。母であるこの倧地の特殊な矎しさは、その胎より出た子孫に同じき矎しさを賊䞎した。わが囜の文化の考察は結局わが囜の自然の考察に垰っお行かなくおはならぬ。  わたくしはか぀おこの寺で、いかにもこの芳音の䟍者にふさわしい感じの尌僧を芋たこずがあった。それは十八九の色の癜い、感じのこたやかな、物腰の柔らかい人であった。わたくしの぀れおいた子䟛が物珍しそうに熱心に廚子のなかをのぞき蟌んでいたので、それをさもかわいいらしくほほえみながらながめおいたが、やがおきれいな声で、お嬢ちゃた芳音さたはほんずうにたっ黒々でいらっしゃいたすねえ、ず蚀った。わたくしたちもほほえみ亀わした。こんなに感じのいい尌さんは芋たこずがないず思った。――この日もあの尌僧に逢えるかず思っおいたが、ずうずう垰るたでその姿を芋なかったので䜕ずなく物足りない気がした。  䞭宮寺を出おから法茪寺ぞたわった。途䞭ののどかな蟲村の様子や、蓎菜の花の咲いた池や、小山の倚いやさしい景色など、非垞によかった。法茪寺の叀塔、県の倧きい仏像なども矎しかった。荒廃した境内の颚情もおもしろかった。鐘楌には玍屋がわりに藁が積んであり、本堂のうしろの朚陰にはむしろを敷いお機が出しおあった。
序  この曞は近䞖初頭における䞖界の情勢のなかで日本の状況・境䜍を考察したものである。著者はその境䜍の特城を最も端的に珟わすものずしお「鎖囜」ずいう蚀葉を遞んだが、それはここでは「囜を鎖ざす行動」を意味するのであっお、「鎖ざされた囜の状態」を指すのではない。埌者は前者の結果ずしお珟われたものであり、たた目䞋のわが囜の情勢を考察するに際しお参考ずなるべき倚くの問題を含んでいるが、しかしそれはたた別の取扱いを必芁ずするであろう。  この曞の内容をなす個々の事項は、それぞれの専門家によっお既に明らかにされおいるこずのみであっお、䜕䞀぀著者が新しく発芋したこずはない。しかし、それらの数倚くの事項をこの曞のような聯関においお統䞀し抂芳するずいうこずは、恐らく初めおの詊みであるず思う。著者は日本倫理思想史を考究するに圓っおその皮の抂芳の必芁を痛感し、頻りにそういう著述を求めたのであったが、埗られなかった。偶々戊時䞭、東京倧孊文孊郚の著者の研究宀においお、「近䞖」ずいうものを初めから考えなおしお芋る研究䌚を組織し、西掋ず東掋ずに手を分けお、十人ほどの仲間ずいろいろずやっお芋たずき、著者にほが芋ずおしが぀いお来たのである。その際西掋の偎では山䞭謙二教授、金子歊蔵教授、矢嶋矊吉教授、日本の偎では叀川哲史教授、筧泰圊教授、日本キリシタンに぀いおは勝郚真長教授から倚くの益を埗た。爆撃䞋の東京においお、或は家を焌かれ、或は饑に苊しみながら、この探究の灯を现々ずずがし続けたこずに察し、右の同僚諞氏に深く感謝の意を衚したい。  本曞の前篇の資料ずしお著者が䜿ったのはたかだか Hakluyr Society の叢曞䜍のものであるが、しかし方面違いの著者がこの叢曞に芪しんだずいうこずには、劙な因瞁がある。倚分昭和十䞀、二幎の頃ず思うが、䞞善からアコスタの The Natural and Moral History of the Indies を売り蟌みに来た。Edward Grimston の英蚳で䞀六〇四幎の刊本である。圓時の盞堎でたしか癟円䜍であったず思う。しかし䞀幎の図曞費が䞉癟円ほどに過ぎない研究宀ずしおは、この賌入は盞圓に慎重を芁するものであった。たたアコスタに぀いお圓時䜕も知らなかった著者は、この曞の䟡倀をも刀じ兌ねた。そこで著者は䞀応この曞を読んで芋たのである。そうしお、䜕の期埅も持っおいなかっただけに殆んど驚愕に近い感じを受けた。ずころで賌入のために重耇調べをさせお芋るず、アコスタの英蚳本は既に図曞通に備え぀けおあった。それがハクルヌト叢曞の埩刻本である。ここで著者は初めおハクルヌト叢曞の存圚を知り、第䞀期刊行の癟冊のうちだけでも実に倚くの興味深いものが揃っおいるのを芋出した。図曞通にあるのは倧正倧震灜埌英囜から寄莈されたもので、癟冊のうち四十四、五冊に過ぎなかったが、しかしそれらは皆近䞖初頭の航海者・探怜家の蚘録であった。アコスタの曞で味を芚えた著者は、時折それらをのぞき芋るようになったのである。  埌篇の資料ずしお䜿ったのは、䞻ずしお村䞊盎次郎博士の飜蚳にかかるダ゜䌚士の曞簡である。『耶蘇䌚幎報』第䞀冊長厎叢曞第二巻倧正十五幎『耶蘇䌚士日本通信』䞊䞋二巻異囜叢曞昭和二・䞉幎『耶蘇䌚士日本通信豊埌篇』䞊䞋二巻続異囜叢曞昭和十䞀幎『耶蘇䌚の日本幎報』第䞀茯昭和十八幎第二茯昭和十九幎など、既刊のものが既に䞃巻に達しおいる。前のハクルヌト叢曞の英蚳本に圓るものが、ここでは村䞊博士の和蚳本であった。ポルトガル語もスペむン語も読めない著者にずっおは、原資料に接近する道はそのほかになかったのである。右のほかにはなお友人故倪田正雄君がむタリア語蚳本から重蚳したフロむスの幎報『日本吉利支䞹史鈔』所茯をも甚いた。がこのように原資料に盎接觊れるこずの出来ない欠を幟分かでも補うために、日本吉利支䞹史に関する諞家の研究をも、右の宣教垫の曞簡ず察照し぀぀読んで芋た。それによっお吉利支䞹史研究家のやり方に぀きいろいろなこずを知るこずを出来た。それらの研究曞のなかで、海老沢有道氏の『切支䞹史の研究』昭和十䞃幎及び『切支䞹兞籍叢考』昭和十八幎からは特に倚くの益を埗た。  著者は前篇及び埌篇で扱ったいずれの事項に぀いおも「研究」の名に䟡するほどのこずをやったのではない。しかしこれらの事項を互に密接に結び぀け、その統䞀的な意味を抂芳する、ずいう仕事は、著者にずっおも盞圓骚が折れたのである。それによっお日本のキリシタン史の諞事象や戊囜時代乃至安土桃山時代の日本人の粟神的状況に぀き方䜍づけを䞎えるこずが出来れば、日本人及び日本文化の運呜に関する反省の䞊に、幟分圹立぀こずが出来るであろう 昭和二十五幎二月䞀日 著者 序説  倪平掋戊争の敗北によっお日本民族は実に情ない姿をさらけ出した。この情勢に応じお日本民族の劣等性を力説するずいうようなこずはわたくしの欲するずころではない。有限な人間存圚にあっおは、どれほど優れたものにも欠点や匱所はある。その欠点の指摘は、人々が日本民族の優秀性を空虚な蚀葉で誇瀺しおいた時にこそ最も必芁であった。今はむしろ日本民族の優秀な面に察する萜ち぀いた認識を誘い出し、悲境にあるこの民族を少しでも力づけるべき時ではないかず思われる。  しかし人々が吊応なしにおのれの欠点や匱所を自芚せしめられおいる時に、ただその䞊に眵倒の蚀葉を投げかけるだけでなく、その欠点や匱所の深刻な反省を詊み、䜕がわれわれに足りないのであるかを粟確に把握しお眮くこずは、この欠点を克服するためにも必須の仕事である。その欠点は䞀口にいえば科孊的粟神の欠劂であろう。合理的な思玢を蔑芖しお偏狭な狂信に動いた人々が、日本民族を珟圚の悲境に導き入れた。がそういうこずの起り埗た背埌には、盎芳的な事実にのみ信頌を眮き、掚理力による把捉を重んじないずいう民族の性向が控えおいる。掚理力によっお確実に認識せられ埗るこずに察しおさえも、やっお芋なくおは解らないず感ずるのがこの民族の癖である。それが浅たしい狂信のはびこる枩床であった。たたそこから千皮䞇様の欠点が導き出されお来たのである。  ずころでこの欠点は、䞀朝䞀倕にしお成り立ったものではない。近䞖の初めに新しい科孊が発展し始めお以来、欧米人は䞉癟幎の歳月を費しおこの科孊の粟神を生掻の隅々にたで浞透させお行った。しかるに日本民族は、この発展が始たった途端に囜を鎖じ、その埌二癟五十幎の間、囜家の暩力を以おこの近䞖の粟神の圱響を遮断した。これは非垞な盞違である。この二癟五十幎の間の科孊の発展が䞖界史の䞊で未曜有のものであっただけに、この盞違もたた深刻だずいわなくおはならぬ。それは、この発展の成果を急激に茞入するこずによっお、䜕ずか補いを぀け埗るずいうようなものではなかった。だから最新の科孊の成果を利甚しおいる人が同時に最も浅たしい狂信者であるずいうような奇劙な珟象さえも起っお来たのである。  しお芋るずこの欠点の把捉には、鎖囜が䜕を意味しおいたかを十分に理解するこずが必芁である。それは歎史の問題であるが、しかし歎史家はその点を明かに理解させおはくれなかった。歎史家が力を泚いだのは、この鎖囜の間に日本においお創造せられた䞖にも珍らしい閉鎖的文化を明かにするこずである。それはさたざたの矎しいものや優れたもの、再びするこずの出来ない個性的なものをわれわれに䌝えた。それを明かにするこずは確かに意矩ある仕事である。しかしそれらのものの代償ずしおわれわれがいかに倚くを倱ったかずいうこずもたたわれわれは承知しおいなくおはならない。その問題をわれわれはここで取り䞊げようずするのである。  がその問題に入り蟌む前に、近䞖が始たるたでの、埓っお鎖囜ずいうようなこずが総じお問題になるたでの、䞖界の歎史的情勢を抂芳しお眮きたいず思う。鎖囜が問題になるのは䞖界的な亀通が始たったからであっお、䞀぀の䞖界ぞの動きは既にそこに芋られる。鎖囜ずは䞀぀の䞖界ぞの動きを拒む態床である。埓っおそれが問題になる以前の時代には、䞖界は倚くの䞖界に分れおいた。そうしおそのなかでペヌロッパ的䞖界が特に進歩しおいるずいうわけでもなかった。しかし近䞖の運動はペヌロッパから、始たったのであるから、先ずそこから始めよう。  ロヌマ垝囜が地䞭海を環る諞地方を統䞀しお圓時のペヌロッパ人にずっおの䞖界垝囜ずなったずき、それはたたこれらの諞地方の䞀切の叀代史の集泚するずころでもあった。それは地理的にも歎史的にも東ず西ずの総合を意味しおいる。この普遍的な䞖界においお、普遍的な政治や法埋や文芞や宗教が圢成せられたのである。その普遍性がむンド的䞖界やシナ的䞖界を含たず、埓っお真に普遍的ずなっおいなかったずしおも、圌らにずっおの東方ず西方ずの䞖界、そこに存するさたざたの民族、に察しお普遍であったこずは、疑いがない。たたそれを通じお把捉せられた普遍性の理念は、その埌の分裂的な民族囜家や察立的䞖界に察しお、垞により高き人倫的段階を指し瀺すものずしお䜜甚するこずが出来た。  この普遍的な䞖界の厩壊は二぀の方面から起った。䞀はゲルマン人の䟵入であり、他はアラビア人の来埁である。  ゲルマン人のロヌマ垝囜ぞの䟵透は極めお長期に亘っお行われた。初めは傭兵ずしお郚分的に入り蟌み、或は北方の囜境地方に斌お埐々に䟵透し぀぀あったのであるが、四䞖玀末の民族倧移動に぀れお旺然ずロヌマ垝囜内になだれ蟌むようになった。その或者は女子䟛や生掻資材を携えた民族の集団がそのたた軍隊ずしお行動したのであっお、垝囜を埁服したずいうよりもむしろ垝囜の版図内に入り蟌んで宿営したず云う方が圓っおいる。圌らは土地の䜏民ず劥協し、ロヌマ末期の宿営暩に基いお、その土地の䞉分の䞀乃至䞉分の二を所有したのであった。埓っおロヌマ人の暩利や制床はその儘に残され、行政もゲルマン人が参加するのみでもずの儘であった。これは同じ土地に二぀の生掻が䞊存するこずを意味する。ゲルマン人は軍人であり、アリりス掟であり、おのれの郚族法に埓っおいるが、ロヌマ人は非戊闘員であり、カトリックであり、ロヌマ法に埓っおいる。かくおゲルマン人は、䞖界垝囜の内郚に新しい郷土を獲埗したのであっお、新しい囜家を圢成したずは考えおいなかった。むタリアからスペむンにたで拡がったゎヌト族やブルゎヌニュの地名を残したブルグンド族などがそのよき䟋である。が他方には原䜏地を根拠地ずしおそこから垝囜の版図内に怍民しお行く皮族もあった。このやり方では、ロヌマ人ず䞊存するのではなくしお、むしろそれを埁服したのである。埌のフランスの基瀎を眮いたフランク族がそうであった。埌のむギリスの基瀎を眮いたアングロ・サク゜ン族に至っおは、ロヌマの習俗党郚を壊滅せしめたず云われおいる。  こういう二぀のやり方でゲルマン人は五䞖玀から六䞖玀ぞかけおロヌマ垝囜の䞭ぞ無秩序に入り蟌んで行った。その間にフン族の王アッチラの来襲ずか、ゲルマン傭兵の指揮者オドアケルによる西ロヌマ垝囜の滅亡476ずか、東ゎヌト族のテオドリックによるオドアケル蚎䌐ずか、ロムバヌド族のむタリア占領ずかの劂き事件が起り、ロヌマ垝囜の西欧偎は完党に壊滅に垰した。  がゲルマン諞族の䟵入はその埌もなお数䞖玀に亘っお続いお居り、ロヌマ垝囜の廃墟から西欧の文化䞖界が明癜に圢成されるたでには、なお䞉癟幎の幎月ず、そうしお他のもう䞀぀の有力な契機、即ちアラビア人の䟵入が必芁であった。  ロヌマ垝囜の版図を東方・南方・西方に亘っおゲルマン人以䞊に広く䟵蝕したのはアラビア人であるが、この東方からの䟵入の起点はモハメッド570―632である。圌はセム族に普遍なアラヌAllah, hebr. Elohimの信仰に新鮮な掻気を䞎え、ナデア教やキリスト教の芁玠を取り入れお新しい民族宗教を䜜り䞊げた。それは䞀神ぞの絶察服埓の態床の故にむスラムIslamず呌ばれ、その信者Moslemは予蚀者及びその埌継者Kalifを銖長Imamずしお頂く固い宗教的共同䜓を圢成しおいる。その信仰の情熱は戊闘的な拡倧を目ざす態床ずなっお珟われ、極めお迅速に西に向っおはロヌマ垝囜、東に向っおはペルシアず戊端を開いた。そうしお教祖の死埌十幎には既に西アゞア党䜓ず゚ゞプトずをトリポリタニアたで埁服した。アレキサンダヌ倧王の䜜った『䞀぀の䞖界』はここに厩壊し、東方ず西方ずを統䞀したロヌマ垝囜もその東方を倱い去ったのである。  かく急激に成立した宗教的戊闘的な䞖界垝囜は、それが䞖界的ずなったたさにその理由によっお、皮々の倉質や反動を閲せざるを埗なかった。オマむダ朝661―750はカリフの暩嚁を倒しお玔粋に䞖俗的な支配を暹立したもので、囜郜をもメヂナからダマスクスぞ移した。その頃からむスラムの内に持続的な分裂が匕き起されたのである。が埁服事業は䟝然ずしお続けられおいる。東方は䞭倮アゞアや北むンドたで、西方はアフリカ北岞を海峡たで䞃䞖玀の末に進出した。ペヌロッパぞの䟵入はたず初めにコンスタンチノヌプルを襲ったのであるが、八䞖玀の初めには西方スペむンに䟵入し、西ゎヌト族を打ち砎っお711半島党郚を埁服した。曎にピレネヌ山脈を越えお720、フランスの䞭郚にたで進出したが、これはフランク人によっお撃退された732。しかしスペむンに斌けるむスラムの支配はこの埌氞い間続くのである。なおこれず䞊行しお地䞭海の海䞊暩力もたたアラビア人の掌握するずころずなった。沿岞の諞地方や島々は圌らに䟵略され、占領された。䞭でも目がしいのはシチリアの埁服827である。こうしお『東方』の力は『西方』の䞖界の心臓郚に近く迫っお来たのである。  西欧の文化䞖界の圢成のためにアラビア人の䟵入が必芁であったずいうのは、この『東方』ず『西方』ずの察立を指すのである。西欧の䞖界の圢成のためにはたさにこの『東方』の圧力が必芁であった。ロヌマ垝囜に䟵入したゲルマン諞族の間に初めお統䞀の萌しが芋え、初めお囜家を匷力に圢成したのは、前述のアラビア人の䟵入を䞭郚フランスに斌おカヌル・マルテルが打ち砎った頃からである。が重芁なのはただこのような歊力的圧迫のみではない。我々は圓時のゲルマン諞族が文化的にはなお野蛮ず呌ぶべき段階にあったのに察しお、スペむンに尖端を眮くむスラムの文化が遙かに高い段階に達しおいたこずを芋のがしおはならぬ。  ゲルマン諞族は十䞀䞖玀に至るたでもなお野蛮であったず云われる。圌らはロヌマ時代の制床文物を荒廃せしめたのみで、おのれ自身は䜕ら新しいものを䜜り出し埗なかった。埓っお圌らの䟵入以来数䞖玀間の䞖界史的な出来事は、実はその䟵入に悩み぀぀あったロヌマ人の力によるのである。その内特に泚目すべきはロヌマの統䞀教䌚の匷化発展であろう。元来キリスト教がロヌマ垝囜に斌お公認され、次で囜教ずせられるに至ったのは、ゲルマンの䟵入よりあたり叀いこずではない。垝囜の銖郜を東に移したコンスタンチヌス倧垝がその統䞀の事業のためにキリスト教埒の勢力を利甚し、その挙句この教を公の宗教ずしお認蚱したのは䞉䞀䞉幎であっお、民族倧移動の開始に先だ぀こず僅か六十幎である。この皇垝は自らも信者ずなったために、圚来迫害されお来たキリスト教は反っおロヌマ旧来の諞教よりも優勢ずなったが、しかし四䞖玀はなお異教ずの察立抗争に充たされおいる。テオドヌシりス倧垝がキリスト教以倖の宗教を厳犁したのは䞉九五幎であっお民族移動開始埌既に二十幎を経おいる。カトリック教䌚の最倧の倩才ずも云うべきアりグスチヌスは実にこのゲルマン䟵入の時期に仕事をしたのであった。圌の有名な回心は䞉八六幎のこずであり、圌の名著『神囜論』は、四䞀〇幎のアラリックのロヌマ劫略によっお党垝囜が狌狜し湧き返っおいるさ䞭に、この垝囜ず教䌚ずの危機を救うべく、四䞀䞉幎から曞き始められたのである。その盎接の意図は垝囜の危機をキリスト教の責に垰しようずする保守的なロヌマ人異教埒に察しお駁撃を加えるにあったが、しかし圌の預蚀者的県光は、ロヌマ垝囜の厩壊ず、かかる珟䞖的流転を超越せる氞遠なる神の囜の姿ずを掞芋し、来るべき時代を予瀺しおいる。即ち圌に斌お垝囜内の異教埒ずの戊が倖より䟵入し来るゲルマンの異教埒ずの戊ず接続しおいるのである。『神の囜』の著述は十五幎の幎月を芁し四二䞃幎に完成したのであるが、その埌䞉幎を経ずしおノァンダル族は北アフリカの圌の町ヒッポぞも抌し寄せお来た。圌は敵軍重囲の内に四䞉〇幎に死んだのである。がかく異教埒ず戊うこずは教䌚をたすたす匷靱ならしめ、西ロヌマ垝囜が亡んだ476埌に反っお粟神的な䞖界垝囜の理念を育成しおいる。特にフランク族の王クロヌノィスの改宗はこの傟向に拍車をかけた。元来ロヌマの叞教は諞地方の叞教ず同じく papa ず呌ばれ、それが垝囜の銖府に䜍眮するずいう以倖に特別の優䜍を持たなかったのであるが、その papa の尊称や䜿埒の座の資栌を独占しお『法王』或は『教皇』ず蚳さるる劂き意矩を垯びしむるに至ったのは、むしろこの時代以埌のこずなのである。それはロヌマ文明の荒廃ず反比䟋しお高たっお行った。六䞖玀に斌お孊芞の䌝統を保持しおいたのは、珟䞖的に無力ずなり終った知識人の隠遁所ずしおその頃始められた修道院のみであったが、そこから出た教皇グレゎリりス䞀䞖590―604は、アングロ・サク゜ンの教化に成功したのを初めずしお倚くのゲルマン諞族をカトリック教䌚の䞭に取り入れ、ロヌマの叞教を最高の叞教ずしお仰ぐに至らしめたず云われる。キリスト教が真に深くゲルマン諞族の䞭に根を䞋したのはなお䞉癟幎も埌のこずであるが、しかしゲルマン人の歊力が珟実を支配しおいる西欧の䞖界に斌お、文化的に着々ずその発展を芋せたものは、ロヌマの教䌚の他にないのである。  ずころでこの教䌚の異教埒教化事業の最䞭に、西は北アフリカからスペむンにたでも及ぶもずの垝囜領が悉くモスレムによっお埁服され、そこに西欧に先んじお文化の華が開き始めた。ダマスクスのオマむダ朝からバグダヌドのアッバス朝に代った頃がその始たりである。元来むスラムは東方のロヌマ属州を占領するず共にそこに残存したギリシア文化を熱心に吞収した。キリスト教によっお殆んど窒息せしめられおいたシリア地方のギリシア粟神の劂きも、むスラムによっお解攟され、力匷く生き始めた。たたむランやむンドの文化圏も四方ず密接に結び぀いお来た。九䞖玀に至っおむスラムの垝囜が分裂したこずも文化の華のためには奜郜合であった。ずいうのは倚くの䞻芁郜垂が孊芞や孊校や図曞通や倩文台を守り育おる堎所ずなったからである。先ずバグダヌドずバスラには最初の倧孊が出来た。東郚むランでもニシャプヌル、メルノ、バルク、ボハラ、サマルカンド、ガスナ、などが栄えた。その他むスパハン、ダマスクス、ハレブ、カむロなど。こういう広汎な文化亀流を背景ずしお、十䞖玀から十二䞖玀の頃にスペむンではコルドバ、セビリャ、グラナダが、シチリアではパレルモが、文化の絶頂に達した。スペむンには十䞃の倧孊があったず云われる。  こういう情勢の䞋に西欧より䞀歩先んじお発展したアラビアの哲孊は、䞻ずしおアリストテレヌスに基き、たた新プラトヌン掟を通じおプラトヌンの圱響をも受けおいた。アラビア哲孊の創始者ずしお端的に『哲孊者』ず呌ばれおいたアル・キンディは、数孊者、医孊者、倩文孊者でもあったが、八䞖玀の末にバスラで生れ、八䞃䞉幎頃バグダヌドで死んだ。合理䞻矩者であり自由思想家であったが故に倚くの迫害を受けたず云われおいるが、アリストテレヌスの『オルガノン』の蚻釈を初め䞉十四皮に䞊る哲孊䞊の著述はあたり残っお居らない。次で珟われたファラビは九䞖玀の埌半にトルキスタンのファラブで生れ、早くよりバグダヌドに来おアラビア語ずギリシア哲孊を孊び、やがお自ら講矩するに至った。歿したのは九五〇幎ダマスクスに斌おである。圌の著曞は癟皮以䞊に䞊り倧郚分は倱われたが、幞に『オルガノン』の蚻釈は残っおいる。圌の功瞟は、ギリシア哲孊、特に論理孊の理解に初めお深く突き入ったこずであるず云われる。がその解釈には新プラトヌン掟の圱響がある。あらゆる埌代の孊者は、キリスト教のアリストテレヌス䞻矩者さえも圌に基いおいる。この垫のあずを歩いたのがむスパハンで医孊ず哲孊ずを教えたアノィチェンナ980―1037である。圌はファラビの立堎から出発し぀぀アリストテレヌスの教説に還っお行った。個性化の原理である質料は、神からの流出でなく、それ自身氞遠でありあらゆる可胜性を包蔵する。この考を圌は貫培しようず努めた。論理孊・圢而䞊孊等の圌の著曞は倧郚分既に十二䞖玀にラテン語に飜蚳されおいる。こういう飜蚳がなされるのはスペむンに斌おも既に哲孊が盛行しおいたこずを瀺すものであるが、この地で最初に珟われたアラビア哲孊者はアノェンパチェ1138歿で、医孊・数孊・倩文孊等にも通じアリストテレヌスの蚻釈を曞いた。その自由思想の故に迫害を受けたず云われるが、圌の立堎は本胜から神の理性的認識に至るたでの粟神の発展を説くにあった。やや遅れお珟われたむブン・トファむル1185歿も同じく医孊者・数孊者を兌ねた哲孊者であっお、同様に人間粟神が、超自然的啓瀺によらず党然自然的に発展しお自然及び神の認識に達する段階を説いた。その同時代の埌茩ずしおかの有名なコルドバのアノェロ゚ス1126―1198が珟われたのである。圌はアリストテレヌスを尊信するこず厚く、人間に斌ける完成の絶頂、我々が䞀般に知り埗るこずを我々に知らしむべく神の䞎えた人、ず讃めたたえた。だから圌の仕事の䞭心もたたアリストテレヌスの蚻釈であっお、その倧郚分はラテン蚳によっおのみ知られおいる。圌はアノィチェンナの質料重芖の立堎を曎に抌し進め、圢盞は萌芜的に質料の䞭にあっおより高き圢盞の圱響の䞋に展開せしめられるのであるず説く。たた圌は理性の受動的偎面を認めるアリストテレヌスの説に察しお普遍的理性の䞡面即ち胜動的理性ず質料的理性ずを説き、質料的理性ずいえども受動的ならざるこずを力説した。圌が汎神論的であるず云われるのは、この普遍的胜動的な理性が個々人に分れおその生存䞭の粟神ずなり、死埌はその本来の普遍性に垰るが故に、個人的霊魂の䞍滅は問題ずならないず説いたためである。  これらのアラビア哲孊は西欧䞭䞖の哲孊に甚倧なる圱響を䞎え、スコラ哲孊の隆盛を将来した。それはアノィチェンナ及びアノェロ゚スの著曞ずトマス・アクィナスずの密接な聯関によっおも察せられるであろう。がこの点は埌に問題ずする。  哲孊のみならず、数孊・物理孊・化孊・医孊・地理孊・倩文孊の劂き諞科孊、及び歎史孊・蚀語孊等も、九䞖玀以来熱心に远究せられおいる。数孊はギリシアの䌝統に埓っお哲孊の䞀郚分ずしお取扱われたが、珟圚のアラビア数字や代数孊などはアラビア人が西欧に䌝えたものである。地理孊はむスラムの版図の広さや亀易の隆盛に䌎っお䞭䞖の劂䜕なる民族よりも進んでいた。歎史孊に斌おも十䞖玀以来すでに普遍史が曞かれおいる。  その他なお我々は文芞矎術の方面に斌おも、たた蟲工商の方面に斌おも、倚くの優秀な特城を考えるこずが出来る。それらのすべおに斌おアラビア人は、ギリシア人には及ばなかったずしおも、同時代の西欧諞民族よりは遙かに優れおいたのである。特に商業はその埗意ずするずころであった。圌らは航海の力によっおむンド掋ず地䞭海ずを独占的に支配し、東西を結ぶ陞海の貿易路を悉くその手䞭におさめおいたが故に、リスボンよりむンドやシナに至る広汎な領域に斌お諞民族の間の貿易を独占し、巚倧な富を集めおいたのである。  この絢爛たる『東方』の文化に察しおゲルマン諞族の『西方』の文化はどうであったろうか。ロヌマの教䌚が䞖界垝囜の理念を宗教的に継承し、西欧を粟神的に統䞀し始めたこずは既に説いたが、それはアラビア人が哲孊を䜜り始めた八・九䞖玀の頃に斌おもなおゲルマン人の心を十分に支配しおはいなかった。八䞖玀初めのアングロ・サク゜ンの叙事䌝『ベオノルフ』や、サク゜ンの『ヘリアント』の劂き九䞖玀の叀ドむツ文芞などは、未だ党然異教的粟神に充たされおいる。教䌚のドグマにはゲルマン人の歯が立たなかったのである。この間、むギリスのスコトゥス・゚リゲナ877歿の劂き西欧最初の独立的な思想家を出すには出したが、そういう孊者はその時代には理解されず、教䌚から排斥された。  しかし十䞖玀の初めになるず、ゲルマン人も挞くキリスト教を理解し始めたらしい。それは修道院の改革運動や神秘説の勃興ずなっお珟われた。がそれはファラビがバグダヌドで論理孊の講矩をしおいた頃なのである。やがお十䞀䞖玀になるずパリに最初の倧孊が出来た。これが暡範ずなっお十二䞖玀以埌には西欧の所々に倧孊が䜜られ始める。初めはギルド的な教垫の団䜓ずしお、やがおは公の暩力による蚭備ずしお。それはアノィチェンナが東方に珟われ、スペむンに斌おアリストテレヌスが講矩せられおいる頃なのである。西欧に斌おはカンタヌベリヌのアンセルムス1033―1109がスコラ哲孊を始めるに至った。がかくキリスト教が理解せられ始めるず共に䞖界史䞊の最も泚目すべき事件の䞀぀である十字軍1095以埌が惹き起された。西欧の文化䞖界の圢成ずこの十字軍ずはひき離しお考えるこずが出来ない。そうしおこの十字軍こそ『東方』ず『西方』ずの察立を露骚に具䜓化したものなのである。  この珟象の理解のためには、ゲルマン諞族の本来の生掻芁玠たる『戊闘的なるもの』が、ロヌマの教䌚の教化のもずにどうなっお行ったかを芋るこずが必芁である。ゲルマン人にはもず䞀぀の平等な身分、即ち自由な、防衛的な、蟲民があった。十二䞖玀に至っおも北方の囜々はそうであった。然るにロヌマ垝囜ぞの䟵入の時代に王や有力な銖領やその埓臣vassalなどが出珟し、やがお非戊闘的になった蟲民倧衆ず、王䟯に奉仕する戊士ずが分離するに至った。それに加えお十䞖玀頃から䞻君が手䞋の戊士ず共に城Burgの䞭に䜏むようになる。たた小さい領地が䞖襲になっお小さい埓臣たちが経枈的にも瀟䌚的にも浮び䞊っおくる。曎に数倚くの自由なき家人の俞犄ずしおの領地も真の領地の劂く取扱われるようになる。これらの事情から玠姓の別は皀薄ずなり、階銬の歊術ずいう共通の生掻が衚ぞ出お来た。かくお自由を持たなかった埓卒や家人は自由なる蟲民の䞊に出で、公䟯や階士の貎族階玚に近づき、反察に、階銬の勀めをせず代りに皎を払っおいた自由なる蟲民は隷属の地䜍に萜ちた。この身分の察立は氏族の察立を抌しのけおしたう。階士は蟲民を軜蔑し憎んでいる。軍隊はただ階銬の軍隊である。かくしお封建制床は、暎力的な、たた冒険的な、職業戊士階玚を産み出したのであった。  このような封建制床が圢成せられお行く䞁床その時期に、右の劂き戊士たちはロヌマの教䌚に指導され぀぀、スペむンに䟵入したアラビア人ず察抗したのであった。スペむンは絢爛たる東方文化の西方ぞの尖端である。この地に斌けるアラビア人は最初土地の䜏民に察しお極めお寛倧で、財産にも蚀語にも宗教にも手を觊れなかった。䞋局階玚はアラビア人の支配によっお反っお安楜ずなった。䞊局のものも倚くむスラムに垰䟝したが、改宗しないキリスト信者ず雖、ただ皎を払うだけで、信仰や法埋䞊の暩利はもずのたたであった。そういう状態であるから、東方で倒されたオマむダ朝の苗裔が逃げお来た時、民衆は歓呌を以おこれを迎えた。この王のもずにコルドバを銖郜ずしお建おられた755囜は、孊芞を奚励し、蟲工商の平和な発展を保護したが故に、着々ずしお文化がすすみ、十䞖玀にはその絶頂に達した。今や数々の繁華な郜垂がこの囜土を食り、モハメダン支配䞋のスペむン党䜓で人口は二千五癟䞇に達したろうず云われる。䞭でもコルドバは人口五十䞇、戞数十䞀䞇䞉千、䞉千のモスクや華麗な宮殿があった。がグラナダ、セビリャ、トレドなどもそれに比肩し埗る町々である。それらを初め地方の諞郜垂に倧孊・図曞通・アカデミヌなどが営たれたのであった。この文化燊然たるサラセン王囜に察しお西欧を護るゲルマン族は、最初のサラセン䟵入をスペむンの北岞地垯で挞く喰いずめた西ゎヌト族のアストゥリアスのほかは、䞻ずしおピレネヌ山脈の麓に小さいキリスト教囜を建おた。ナバルレ、アラゎン、カタロニアなどがそれである。アラビア人の寛容な政策に化せられお、最初の間は宗教的察立はさほど匷烈でなく、キリスト信者たる王がサラセン女を母ずし、キリスト信者たる公䟯の嚘がサラセン人の劻ずなっおいる劂き䟋も少くない。カリフの郚䞋にキリスト信者があった劂く、キリスト教の王の䞋にモハメダンが仕えおいた。民衆も十字架ず半月ずの戊には冷淡であった。むしろ埁服された領土の回埩のための戊、その戊を通じおの封建制床の発展の方が䞻芁事に芋える。ゲルマン族の戊士たちは、その力ず勇気ずを奮っお、おのれよりも文化の優れたる民族の手からおのれの祖先の地を取り返そうずしたのである。かくしお十䞖玀から十䞀䞖玀ぞかけおアストゥリアスはスペむンの䞭郚にたで進出し、カスティレず呌ばれるに至った。十䞀䞖玀の䞭頃には既にカスティレ王がスペむン皇垝ず称するに至っおいる。  ロヌマの教䌚はこの戊を垞に信仰の戊ずしお把捉せしめようず努めおいる。その努力が効を奏し、『東方』ずの戊を十字軍ずしお実珟するに至ったのは十䞀䞖玀末であるが、それず共に十二䞖玀に斌おはサラセン人の偎にも狂信的な信仰防犊の傟向が加わり、スペむンはその烈しい戊堎ずなった。西欧䞭䞖の階士道はこの十字軍の粟神に斌お満開するに至るのであるが、その最初の圢成はアラビア人ずの接觊によるず芋られる。階士道の発祥の地は南フランスであるが、その本源はペルシアであるず云われおいる。階士的な颚習、階士的な闘い方、封建的な階士制床、それらはペルシアに起りアラビア人によっお西欧に䌝えられたのである。ゲルマン人の䞻埓関係に本来䌎っおいるのは、男の間の信矩、歊功手柄、ずいう劂き理想であったが、階士道ずしおはそれ以倖に信仰の防衛、匱者の保護、婊女尊厇などの矩務が加わっお来た。スペむンの階士は今やその尖端に立っおいる。囜民的矜持・狂信・階士的感芚、それがカスティレ颚の特質である。これは数䞖玀の埌にスペむン人ずポルトガル人これは十二䞖玀にカスティレから独立したずが西欧人の䞖界進出の尖端に立぀こずず密接に関係のあるこずなのである。  以䞊によっお明かなように、ゲルマン諞族に斌ける戊闘的性栌が階士の姿を取っお珟われたこずは、教䌚の教化によるのではない。がかくしお珟われた階士は信仰の守護者ずしお教䌚のための戊士ずなっおいた。それを瀺すのが十字軍である。スペむンの階士が長期に亘っお䜓隓したこずを、十字軍は西欧党䜓に抌しひろめた。がそれは、スペむンの階士がむスラムに埁服された囜土を奪還しようずしお戊った劂く、むスラムに埁服せられたロヌマ垝囜の版図を奪回しようずしお䌁おられたのではない。スペむンの階士が埌に自らをキリスト教の守護者ずしお感じ始めた劂く西欧の諞王が『キリスト教を奉ぜる王』ずしお、教皇の指導のもずに、聖墓奪還を目ざしお軍を起した、それが十字軍なのである。それは党く䞍思議な珟象であった。サラセン人やビザンツ人の県から芋ればなお野蛮人に過ぎないペヌロッパ人が、単玔に宗教的な情熱から、䞀切の街道を充ち塞ぐほどに矀をなしお遙々ず東方の䞖界ぞ抌し寄せお行く。䞭には婊人子䟛をさえも䌎っおいる。この狂信ず献身ずの䞍思議な結合によっお、䞀時ぱルサレムが埁服され、そこに王囜が建蚭せられた。しかしやがおむスラムの囜に斌おトルコのセルヂュック族が囜内の統䞀を匷化し始めるず共に、十字軍士の建おた囜も危くなり、第二第䞉ず起された十字軍も効を奏せず、パレスチナは再び倱われた。その回埩のために曎に二床䞉床ず遠埁が䌁おられる。かくお十字軍の隒ぎは前埌癟六十幎に亘ったが、結局その目的を達し埗なかった。  しかし十字軍が西欧の圢成に察しお担っおいる意矩は甚倧である。それは西欧が䞀぀の統䞀的な䞖界であるずいう自芚をはっきりずペヌロッパ人に怍え぀けた。この自芚はたた『東方』がおのれに察立する䞖界、おのれの倖なる䞖界であるずの自芚であり、そこから東方に察する氞続的な衝動が生れおくる。この自芚ず共にたた教皇の暩嚁は皇垝の䞊に出で、西欧キリスト教的䞖界に君臚するに至った。ここにロヌマ垝囜ず異った独自の西欧垝囜が明癜に仕䞊げられたのである。  西欧䞭䞖文化の絶頂は十二・䞉䞖玀の頃であるが、それは䞁床十字軍の時期にほかならぬのである。階士道が完成されたのもこの時期であり、しかも特城的珟象ずしお、パレスチナやスペむンの劂き東方ずの闘争の前線に斌お、階士団が圢成された。これは階士を僧団的に組織したものであっお、戊闘的ゲルマン的なるものず宗教的謙抑的なるものずの結合だず云っおよい。かかる階士団は、やがお西欧党䜓に拡がり、倥しい財産の寄附を受けた。それによっおも知られるように、階士道は西欧党䜓に通甚する囜際的なものである。この階士道の文芞的衚珟もたたこの時期に起った。アラビアの吟唱詩人の圱響の䞋にたず南フランスから『トゥルヌバドゥル』が起っおくる。同じくプロノァンスの抒情詩も、迅速にスペむンやむタリアにひろたり、北フランスやドむツの抒情詩の暡範ずなった。北フランスでは、聖盃䌝説ず結び぀いたアヌサ王の円卓階士の物語や、サラセンずの戊を背景ずするロヌランの物語などの英雄叙事詩が䜜られた。これらには十字軍的な芳念が匷く珟われおいるず云っおよい。  孊問に斌おもそうである。教䌚の哲孊を完成し、カトリックの暡範的哲孊者ずしお尊厇せられおいるトマス・アクィナス1227―1274に斌お、我々は烈しい十字軍的態床を芋出すこずが出来る。元来トマスはアリストテレヌスの開展の思想を取っお教䌚の哲孊を組織したのであるが、そのアリストテレヌスの倧きい著䜜は十二䞖玀に至るたで西欧に知られおいなかったのである。それがスペむンに斌おアラビア語からラテン語に重蚳せられ、アノェロ゚スの蚻釈のラテン蚳ず共に西欧に玹介せられたのは、十二䞖玀の末の頃である。十䞉䞖玀にはこれに基いおアリストテレヌスを解釈する䞀぀の孊掟が成立した。その特城は個人的な霊魂の䞍死を認めず、普遍的理性に斌お䞍滅であるずした点にある。教䌚は最初アリストテレヌスの研究を喜ばず、それを犁止するこず䞉床以䞊に及んだのであるが、やがおアリストテレヌスの䜓系が教䌚の信条ず結合され埗るこずを芋出し、その摂取を䌁おるに至った。この倧勢の䞋にトマスはアリストテレヌスの研究に入ったのであるから、アラビア孊者からの圱響は避けるわけには行かなかった。圌の垫アルベルトゥス・マグヌス1193 or 1208―1280はアノィチェンナのアリストテレヌス解釈の方法を孊び、アリストテレヌスの著述を解り易く云い換えようず努めたが、しかしトマスはアノェロ゚スの方法を孊び、アリストテレヌスの蚀葉の意味を出来るだけ忠実に再珟しおその思想内容を把捉しようず努めたず云われる。これには異論もあり、トマスの方法は聖曞解釈の方から来たず論ぜられおいるが、䜵しトマスのアリストテレヌス研究も最初アラビア哲孊者の劎䜜に基いたこず疑いないのである。然るにトマスのアリストテレヌス蚻釈の仕事の特城はアノェロ゚スに察する攻撃にある。圌はアノェロ゚スを以おアリストテレヌスの真意に反し真意を誀るものずした。埓っおアリストテレヌス哲孊からアノェロ゚ス的解釈の殻を取り去るこずが圌のアリストテレヌス蚻釈の䞻芁任務ずさえなった。アノェロ゚スに察する烈しい攻撃が最初に珟われおくるのは、Summa contra Gentiles であるが、これはスペむンのアラビア人やナデア人の間に䌝道するドミニカンのために論難攻撃の教科曞ずしお曞かれたものである。䞁床この曞の著述の頃にトマスはギリシア原兞からのラテン蚳にもずづいお独立にアリストテレヌス研究を始めおいた。アノェロ゚スのアリストテレヌス解釈が誀謬であるこずを圌は右の根拠から指摘したのである。曎に晩幎トマスが再床パリの教職に就いたずき、倧孊のアノェロ゚ス掟ず察立するこずによっお䞀局アノェロ゚ス攻撃の熱が高たった。圓時の著 De unitate intellectus contra Averroistas1270は、アノェロむズムに察しお教䌚の教理を守ろうずするず共に、たたアノェロ゚ス掟的解釈によっお危険思想家にされ兌ねないアリストテレヌスの真実の姿を守ろうずしおいる。このように最倧のスコラ哲孊者のアリストテレヌス解釈はアノェロ゚スに察する戊ずいう旗の䞋になされた。そうしおアノェロむズムに察する孊問的埁服が聖トマスの功業の䞀぀であった。ここに我々は、異教埒アリストテレヌスを教䌚の哲孊者ずむスラムの哲孊者ずが奪い合っおいる、ずいう事実に面接するのである。それは叀代の䞖界垝囜の遺産を『東方』の手から『西方』が奪い返そうずする運動にほかならない。即ち十字軍ず同じ動機が粟神的䞖界にも珟われおいるのである。  かくの劂く十字軍的芳念によっお教䌚の指導の䞋に西欧が䞀぀の統䞀的䞖界ずしお自芚されたずいうこずの最も巚倧な蚘念碑はダンテ1265―1321の神曲であるず云っおよい。元来この皮の䞖界的叀兞は、ホメヌロスやシェヌクスピアやゲヌテなどの䜜品に斌おも同様であるが、それの䜜られた時代ず瀟䌚ずが盞続しお持っおいる䞖界の文化の綜合を衚珟したものである。神曲もたたギリシア・ロヌマの叀代の文化、及び『東方』の文化を、䞭䞖の西欧、特にむタリアの文化の䞭に枟融し、それを教䌚の粟神に斌お極めお独特な仕方で統䞀しおいる。この䜜品の茪郭をなす地獄界、浄眪界、倩堂界の幻想の䞭にペルシアあたりの幻想が力匷く流れ蟌んでいるこず、埓っお仏教に流れ蟌んだ地獄極楜の幻想ず源泉を同じくするらしいこずは、それ自身極めお興味ある研究問題であるが、この茪郭の䞭にはめ蟌たれた豊富な䞖界史的内容が教䌚の立堎から䟡倀づけられお地獄の底から九倩の高所に至るたでの実に顕著な高䞋の差別の䞭に配列せられおいるのを芋る時、我々はこの詩の幜幻な矎しさにも拘らずなお十字軍的な烈しい粟神を感ぜざるを埗ない。神曲の神孊的構成の基瀎にトマス・アクィナスの䜓系、特に Summa contra Gentiles が甚いられおいるのも故なきこずでない。もずよりトマスは䞭䞖最倧の哲孊者に盞違ないが、しかし圌がその垫アルベルトゥス・マグヌスなどず共に高く倩堂の第五倩火星倩に栄光に充たされお䜍しおいるのに察し、゜ヌクラテヌスやプラトヌンやアノィチェンナやアノェロ゚スが䜎く地獄に萜されおいるこずは、䜕ずしおも偏狭の芋ず云わざるを埗ない。同様にむェルサレムの倧虐殺や南フランス党䜓の倧劫掠を䌎った十字軍の戊士たちが、トマスよりも曎に高く第䞃倩に斌お燊然たる光ずなっお茝いおいるに察し、東方を䞀぀の統䞀的䞖界に圢成する力の源ずなったモハメッドが、地獄の奥底たる第九圏に間近いずころで、人類の間に分裂や殺し合いをひろめた眰ずしお、頬から口たで切り裂かれ、腞や心臓を露出しお苊しんでいるこずも、あたりに党掟的な芋方ず評せざるを埗ない。このような評䟡の䜓系は、少くずも西掋の叀代に関しおは、ルネサンスに至っお党然芆えされたのである。  十字軍の圱響ずしおはなお他に郜垂の勃興、垂民階玚の圢成をあげお眮かなくおはならぬ。既に十䞖玀頃より玔粋の蟲民的自然経枈は厩れ始め、手工業ず商業ずが再び栄えようずしおいる。経枈的意味に斌ける郜垂生掻は、ロヌマ時代の郜垂が僅かに名残りを留めおいた南方に斌お、十䞖玀の頃に始たり、次で十䞀䞖玀には北方にもひろたった。そこでは郜垂の䜏民――商人、手工業者、召䜿、家来などが結合しお垂民共同䜓を぀くり、自治暩を獲埗した。それは叞法、譊察などの組織から防衛隊の結成にたで及んでいる。こういう自治的な郜垂が教䌚や封建君䞻の暩力ず戊っお挞次自由郜垂ずしおの存立を獲埗しお行ったのが䞁床十字軍の時期なのである。十字軍による茞送や亀通や貿易の掻溌化は必然に郜垂の掻動を刺戟し、急激にそれらを発達させた。特にむタリアの諞郜垂が顕著であった。ノェネチア、アマルフィ、ナポリなどは既に九䞖玀の頃から海に進出しおアラビア人に察抗しおいたが、十䞀䞖玀にはそれをむタリアの島々から駆逐した。これは東方ぞの反撃の先駆ず云っおよい。十二䞖玀にはピサやゞェノノァが進出しお東方ずの貿易に加わった。こういう海䞊の勢力が十字軍ず結び぀いお急激な海運郜垂の勃興ずなったのである。フィレンツェ、ミラノなどは海に沿っおいないが、しかしその興隆は貿易に基いおいる。むタリア以倖ではマルセヌナ、バルセロナなどが海運郜垂ずしお興ったが、十䞉䞖玀に至るずブルヌゞュ、ガンなどを初めずしおラむン河畔やダニュヌブ䞊流、北海・バルト海沿岞などに倚数の郜垂が出珟する。そういう郜垂の隆盛ず同時に垂民共同䜓の内郚には皮々の職業団䜓ギルドやツンフトが発達し、倖郚には郜垂同盟が盛んになる。やがお十四・五䞖玀に斌おは、かかる郜垂の内郚に斌ける民䞻䞻矩運動や倖郚に斌ける囜際関係からしお近代囜家に関するさたざたの思玢が珟われおくるのである。かく芋れば十字軍の刺戟によっお起った郜垂こそ、西欧を近代化する母胎であったずいうこずが出来る。その母胎の近代初頭十五䞖玀に斌ける情勢は、パリ、ナポリ、パレルモ、ノェネチアのみが人口十䞇以䞊、ロヌマ、フィレンツェ、ゞェノノァ、ブルヌゞュ、ガン、アントワヌプなどが五䞇乃至十䞇、リュベック、ケルンが五䞇、ロンドンが䞉䞇五千、ニュルンベルクが䞉䞇であった。  以䞊の劂く『東方』ずの察立に斌お出来䞊った西欧の統䞀的䞖界は、この察立によっお圢成を促進されたずいうたさにその理由によっお、たた厩壊に面しなくおはならなかった。十字軍は前にもいった劂くゲルマン諞族の戊闘的性栌が教䌚の理念を通じお衚珟せられたものであるが、それによっお教䌚の統治が匷化されるず共にたた戊闘的性栌そのものも醇化した圢に展開せざるを埗なかった。それは䞖俗的な囜家生掻の発展や自由な人間生掻の圢成に斌ける無限远求の粟神である。教䌚的統䞀の圢成のために必芁であった粟神的閉鎖性は、今やこの無限远求の粟神にずっおの束瞛ずなり、それを砎る努力を呌び醒しおくる。䞀切の自由な思玢を犁圧し、理性を牢屋に閉じ蟌めおいた教矩の支配は、今や揺り動かされねばならぬ。この支配の䞋に固定させられおいた瀟䌚組織や、情意の自然的な掻動を抑圧されおいた個人の生掻は、今や解き攟されなくおはならぬ。かくお西欧の統䞀的䞖界を打ち砎り、人間性を解攟しようずする運動が、ルネサンスずしお爆発し、近代ペヌロッパを産み出しおくるのである。  この運動は十四䞖玀の初頭に先ず教皇暩の王暩に察する敗北ずなっお珟われた。十字軍の経隓から最初に䞭倮集暩策によっお囜家を匷化しようずし始めたフランスの囜王が、教皇を制埡するに成功し、曎にそれをアノィニペンに移したのである。教皇が西欧に君臚するずいう暩嚁はここで倒れた。西欧が䞀぀の統䞀䜓であるこずはここに終りを告げ、それに代っお民族的統䞀が珟われ出ようずする。しかしそれは䞀朝䞀倕に近代囜家にたで発展したのではない。察倖的には囜ず囜ずの間の戊争が頻々ずしお起り、内郚に斌おは僧䟶ず貎族ず郜垂ずの間の激しい闘争がくり返され、それを通じお挞く近代囜家が圢成されるのである。  この道皋に斌おむギリスの憲法マグナ・カルタの制定は劃期的なものであるが、しかしこの制定によっお盎ちに囜内の混乱が止んだのではない。議䌚制床は未だ囜内の秩序を維持する力を持たなかった。教皇暩ず共に䞭䞖を暙城する階士の階玚は、今や厩壊の時期に瀕しお、その最も悪い面を瀺し始めた。それはペヌロッパ党䜓に亘っおの珟象である。階士は恣にその城壁から出お通りすがりの旅人を掠奪する。城郭にたおこもる貎族は䜕人の統制にも服しようずしない。こういう混乱のなかでわずかに秩序を保ち埗たのが、新興の勢力ずしおの郜垂であった。それは団結によっお垂民の生掻を護り、秩序によっお暎力に察抗し、そこから近代ペヌロッパを産み出しお行ったのである。  この圢勢に斌お先駆的圹割を぀ずめたのがむタリアであった。十字軍の圱響の䞋に急激に勃興した諞郜垂は、それぞれ独立の自治組織を圢成したが、今や皇垝暩も教皇暩も厩壊し去るに及んで、囜家ずしおの態床を敎えお来たのである。䞭でも匷力なのは、ノェネチア、フィレンツェ、ミラノ、ロヌマ、ナポリの五囜であった。䞭䞖の暙城たる階士はここでは早くより消滅し、それに代るものずしお傭兵ずその銖領Condottiereがあるのみであった。それは瀟䌚に斌ける䞀定の身分ではなく、報酬に応じおどの囜家のためにも戊争に埓事する䞀皮の䌁業家である。囜家はここでは身分の差別の殆どない垂民によっお構成され、倚くは共和制を取った。勿論そこには垂民共同䜓党䜓を包む玔政治的な組合組織を圢成したフィレンツェの劂きもあれば、確乎たる貎族政治を暹立したノェネチア共和囜の劂きもある。がいずれも近代囜家の颚貌を䟛えおいるこずは吊定出来ない。この䞭にあっお囜家の問題を深く考えたフィレンツェのマキアノェリが、その埌のペヌロッパ近代囜家に察しおさたざたの瀺唆を䞎え埗たのは故なきこずでない。  しかし狭いむタリアの䞭に数倚くの小囜家が䞊立しお盞争い、たた絶え間なくスペむンやフランスからの䟵入を受ける情勢にあっおは、囜民的囜家ずしおの近代囜家はここに芋出すこずが出来ない。それはむタリアの民族党䜓にずっおは分裂・争闘・残虐・䞍安に充ちた生掻であった。しかもその䞭からむタリア人は、ギリシア盛時にも比肩すべき華々しいルネサンスの文化を䜜り出したのである。この芖点から芋れば、争闘ず残虐に充ちたその生掻は、人間性解攟の䞀぀の珟われず解せられるでもあろう。チェヌザレ・ボルヂアに斌お最も匷健な超人的性栌を芋出そうずする劂き芋方は、たさにその代衚的なものである。十字軍を背景ずしお産み出されたむタリア諞郜垂の文化は、文匱なものではあり埗なかった。地獄の苛責を以お人を嚇かそうずする教䌚の暩嚁を倧胆にはねのけ、ただ異教的な叀代の文化にのみ芪瞁を感じ぀぀、しかもその叀代人以䞊に人間的な矎を結晶させようずしたルネサンスの芞術家は、すべお匷剛な豪胆な個性の持䞻であった。むタリアのルネサンスの偉倧さはこの『匷さ』に基くずころ少くないのである。  むタリアのルネサンスの本質的な特城は、個人の発展、叀代の埩掻及び䞖界ず人間の発芋においお認められおいる。䞭䞖人が倖界をただ教䌚の教に埓っお空想的にのみ理解し、自己をただ䜕らか党䜓的なものの䞀分子ずしおのみ感じたのに反し、ルネサンスのむタリア人は倖界を客芳的に盎芖し、自己を独立の個人ずしお自芚し始めた。十䞉䞖玀が終るず共に突劂ずしおむタリアには個性的人物が簇出し始める。既にダンテがそうであるが、郜垂囜家の政暩を握るデスポットや軍隊を率いるコンドチェヌレの劂き著名な人物のみならず、䞀介の垂民にさえもこの傟向が芋られる。これは云わば䞭䞖人に察する『神』の代りに『自然』を眮きかえた態床なのであるが、ここにこそ近代ペヌロッパ文化の出発点があるのである。しかし、倖界を客芳的に眺めたからず云っお盎ちに自然的粟神的䞖界の認識に培し埗るものではない。ここに指導者ずしお入り蟌んでくるのが叀代である。そこには神話䌝説の代りに厳密な孊問があり、教の代りに無限远求の粟神がある。叙事詩や歎史は朗らかで自然的な人間の生掻を鮮やかに瀺しおくれる。それによっお育成されたむタリアの粟神は、やがお倖的䞖界の発芋に向い、䞭䞖の閉鎖的な県界を打ち砎ろうずするのである。既に十字軍の遠埁はペヌロッパ人に遠い囜々ぞの衝動を怍え぀けたのであるが、その衝動が最初に知識欲ず結び぀いお冒険的な旅行に出で立たせたのは、むタリアに斌おであった。それはむタリア人が地䞭海の航海ず貿易ずに早くより乗り出し、東方の囜々に銎染んでいたせいでもあるであろう。既に十䞉䞖玀の末にマルコ・ポヌロ1254―1324はシナたで旅行した。その埌発芋のために海倖ぞ乗り出しお行ったむタリア人は枚挙に遑がないず云われる。圌らは皆先駆者の思想や意志を継承し、それに基いおおのれの蚈画を立おたのである。そういう䞭から遂にコロンブスを出すに至ったのは決しお偶然でない。  この発芋の粟神はたた近代の自然科孊を出発させた。既に北方に斌おも十䞉䞖玀にアルベルトゥス・マグヌスは物理孊・化孊・怍物孊等に぀いおのかなりの知識を瀺しお居り、たたむギリスのロヌヂァ・ベヌコンca. 1214―ca. 1294はアラビアの自然科孊の圱響の䞋に珟象の真の聯関に぀いおの驚くべき掞察を芋せ、自然芳察に垰るべきこずを説いおスコラ的䜓系に容赊のない攻撃を加えおいる。これらは近代自然科孊の先駆者に盞違ないが、その時代その瀟䌚からは理解されず、埌者の劂きは迫害をさえ受けた。しかるにむタリアでは自然の芳察探究が囜民党䜓によっお歓迎された。ダンテの神曲のなかに含たれおいる詳しい倩文孊的な知識は、その時代の読者には垞識に過ぎなかったのである。そういう背景のもずに経隓的自然科孊はむタリアに斌お最も早く進んだ。教䌚の干枉も北方に斌けるほど甚しくはなかった。かくお十五䞖玀の末にはパオロ・トスカネリ1397―1482、リオナルド・ダ・ノィンチ1452―1519などを出し、数孊・自然科孊に斌おペヌロッパに䞊ぶものなき先進囜ずなったのである。そうしおそのトスカネリこそコロンブスに西廻りむンド航路の考を䞎えた人であった。  この発芋の運動は、近代ペヌロッパが䞭䞖の閉鎖性を砎っお倖に進出するずいう傟向を最も盎芳的に瀺しおいるものであるが、それを力匷く実行に移したのは、むタリア人ではなくしおスペむン人及びポルトガル人であった。即ち『東方』ずの争闘の䞭に成り立った囜々、『東方』ずの戊の最前線にいた民族が、今や新しく『海倖十字軍』を始めたのである。そうしおこの事業こそ近代ペヌロッパを圢成する最埌の重芁契機にほかならない。我々は近代ペヌロッパの考察をそこから始めたいず思う。  以䞊抂芳した歎史的経過は、東方ず西方の合䞀ず察立ずを含むずは云え、我々の䜏む東亜文化圏ずはかかわりがない。東方は挞くむンドに觊れるのみで、マルコ・ポヌロの頃に初めおシナず日本をその県界に含たせおくるのである。しかしむンド及びシナの文化圏は、実質䞊西方の文化ずさたざたの亀枉を持っおいるのみならず、ペヌロッパの文化圏に察しお決しお劣らない䞖界史的意矩を担っおいる。にも拘らずそれが察等の取扱いを受けないのは、近代ペヌロッパずの接觊以埌に、盞拮抗するだけの文化的発展をなし埗なかったからである。我々はその点をも簡単に通芳しお眮かなくおはならない。  むンドはロヌマ垝囜の䞖界統䞀の時代には、同じくギリシア颚芁玠を摂取した高床の文化を以お、それ自身の芖圏内に斌お統䞀的䞖界を圢成しおいた。倧乗仏教の結構壮倧な哲孊や文芞や矎術はこの時代の創造にかかるものである。のみならずその掻動はロヌマの䞖界統䞀よりも氞く続いおいる。䞭芳哲孊ず瑜䌜行哲孊ずの創成は既に四䞖玀たでに終っおいるが、しかし西ロヌマ垝囜の滅亡の頃にはなお䞭芳掟ず瑜䌜行掟ずの哲孊者たちの掻動は掻溌に続いおいるのである。䞡者が孊掟ずしお明癜に察立するに至ったのは、むしろ六䞖玀の事に属する。真諊や玄奘がシナに䌝えた仏教哲孊はこの時代の孊者の解釈を通じたものである。䞃䞖玀からは挞く衰頜時代に入っおいるが、それでも真蚀系統の象城的哲孊が起っおいる。そうしおそれらはヒマヌラダの圌方に移っお新鮮な掻力を発揮するに至った。しかし西欧が挞くその独自の文化を䜜り始める頃にはむンドはその頜廃の底に達し、やがお十䞖玀の終り頃にはマヌムヌドの埁服に遇うに至った。その埌は『東方』の䞖界の䞀契機に過ぎなくなる。  シナに斌おロヌマ垝囜に比肩するものは䞡挢の垝囜である。それは叀い呚の文化を継承し぀぀も戊囜時代以来倖来的芁玠を取り入れ、圓時の東亜党䜓に及ぶ統䞀的䞖界を圢成した。それは黄河流域の狭い区域に限られた呚代の䞖界に察しお党然新しい䞖界である。この広汎な統䞀的䞖界の圢成がシナ文化にずっお劂䜕に決定的な意矩を有するかは、シナの民族を挢民族ず呌び、シナ文字を挢字、シナ語を挢語ず云い慣わしおいるこずによっおも知られるであろう。シナの民族はその埌数々の新しい芁玠を加え、挢代のそれず決しお同じものではない。シナの蚀語もそうである。しかもそれを我々は挢の名に斌お統䞀的に把捉するように習慣づけられおいるのである。  この統䞀的な䞖界はロヌマ垝囜よりも䞀歩早く䞉䞖玀に厩壊した。あずに䞉囜時代が続き、やがお盛んに異民族の䟵入をうけるこずになる。民族運動による混乱も西方よりは䞀歩早く、既に四䞖玀の初めには倖蛮が䞭原を制しおいる。混乱の時期は西方ず同じく䞉癟幎以䞊に及んでいるが、その収拟の仕方は西方ず同じではない。西方に斌おはロヌマの文化は殆んど砎壊され、ロヌマ人の埁服民族に察する文化的逆埁服は本来ロヌマ的ならざるキリスト教を以おなされた。然るに東亜に斌おは挢文化はそれほど砎壊はされなかった。次々に入り蟌んで来た倖蛮は倧䜓に斌お挢文化に化せられる。蚀語さえ挢語を䜿うようになる。埓っお民族枟融による新しい文化の創成は、挢文化を土台ずしおなされたのである。勿論それによっお挢文化自身も顕著な倉化を受けなくおはならなかった。かくお西方より䞀歩早く、䞃䞖玀の初めに華々しく開き始めたのが隋唐の文化である。  我々はこの隋唐の文化が民族の枟融によっお新しく創成されたものであるずいう点を忘れおはならぬ。隋宀の祖先は北狄の間に育ち、少くずも母系には北族の血を混えおいる。唐朝の李氏も蕃姓ず芋られ埗る。そうしおその郚䞋の有力者䞭には異民族のものが倚かった。隋唐の文化はそういう異民族の協働の䞋に倖来の芁玠を盛んに取り入れ぀぀圢成せられたのである。むンドの哲孊・宗教、ペルシアの思想・芞術、林邑の音楜・物資等は旺然ずしお隋唐の文化に流れ蟌んだ。かくしお唐代の詩や絵画や矎術に芋られるような豊醇な様匏が䜜り出され、或は唐代の仏教哲孊に芋られるような壮倧な䜓系が建立せられたのである。それは挢文化ずは顕著に異ったものであるが、しかしシナに斌お創られた文化ずしおは最高のものであり、たた圓時の䞖界党䜓に斌おどこにも比類を芋出し難いほど醇矎なものである。䞃䞖玀より九䞖玀に至る西方の文化が遙かにこれに劣ったものであるこずはいうたでもなく、アラビアの文化も到底是に及ばない。埓っおこの文化の圱響は東亜党䜓はいうたでもなく、遠くアゞアの西の方に及んでいるのである。  この文化は西欧がその固有の文化を展開し始める前に既に終末に達した。それには契䞹などの倖蛮の囜の勃興や、トルコ族の囜内に斌ける跳梁なども有力な契機ずなっおいるが、今床は混乱僅かに半䞖玀䜙にしお宋の統䞀960―1279を実珟した。しかしこの統䞀は唐代に斌ける劂く東亜の䞖界党䜓に亘る広汎なものではなく、倖囲に契䞹等の異民族の囜を控えお、シナ固有の版図埌にはその半ばに集玄的な文化を圢成したものである。埓っおそこには再びシナの土地に固有な色圩が蘇っお来たように芋える。仏教が著しくシナ化されお犅孊ずなり、儒教が再び掻溌ずなっお仏教の圱響の䞋に圢而䞊孊を発展させた劂きは、そのよき䟋である。これらはいずれもシナ独自の創造ずしお重芖さるべきものであろう。が特に泚意すべきこずは、この宋の文化が西欧の䞭䞖文化ずほが時を同じくするに拘らず、西欧の䞭䞖を特城づける封建制床がここには存しないこずである。宋の政治は意識的に歊力の支配を排陀し、民衆の掻力を開攟した。そのために商工業は栄え、蟲民の地䜍は向䞊し、郜垂生掻は頗る繁華ずなった。かかる点に着目しおここに既に近代的傟向を芋ようずする孊者もある。それにはなお他に郜合のよい事実を数えるこずも出来るであろう。火薬や矅針盀の発明、印刷術の倧成などは、西欧よりも遙かに早く、宋代に斌お実珟された。しかもその印刷術の劂き、䞀切経の出版ずいう劂き倧事業をさえもなし遂げおいる。地理的な知識も、遠く地䞭海の沿岞、゚ヂプト、シシリヌ、スペむンにたで及んでいた。そういう傟向の総括ずしお儒教の倧成者朱熹1130―1200は栌物臎知を力説しおいる。それも近代の黎明を瀺しおいはしないか。なるほどそうも云えるであろう。しかしその栌物臎知の粟神にも拘らず、東亜の䞖界には西欧の近代科孊の劂きものは起らなかった。火薬や矅針盀や印刷術に先鞭を぀けながら、それによっお近代の技術や思想の解攟などが促進されず、逆にそれらを䌝えた西欧人のためにそれらの力を以お圧迫されおしたった。ここに倧きい問題があるず云わねばならぬ。朱熹はトマス・アクィナスよりも二䞖代ほど早く珟われ、トマスず同じくその時代の哲孊の倧成者ずなった人であるが、栌物窮理によっお近代を先駆するずいうよりも、むしろ䞭䞖的な経兞解釈の態床に斌おトマスに酷䌌する。朱熹に察する経兞や聖人の暩嚁はトマスに察する聖曞やキリストの暩嚁ず毫も異るずころがない。埓っお宋の文化は党䜓ずしお西欧の䞭䞖よりも進んでいるに拘らず、最も重芁な点に斌お䟝然ずしお䞭䞖的であり、西欧近代を特城づける思想の自由・無限远求の粟神を欠いおいるのである。  しかしそれはシナ民族の性栌によるのであろうか。或は時代がただそれほどに熟しおいなかったこずに基くのであろうか。この点は重倧な問題ずしお慎重な考察を芁するず思うが、ずにかく運呜は䞁床このあずぞ右の劂き発展を䞍可胜ならしめるような情勢を䞎えた。それは蒙叀人によるシナ埁服である。チンギスカンに始たる蒙叀の勃興、䞖界埁服の事業は、ペヌロッパに察しおは䞀時的な挿話に終った1236―1243が、西南アゞアよりシナにかけおは重倧な圱響を䞎えた。クビラむがシナ埁服を完成した頃1260―94には、西欧、むンド、゚ヂプト、日本を陀いお、圓時知られおいた限りの䞖界党䜓を統䞀し、䞖界史䞊空前絶埌の倧垝囜を建蚭したずいわれる。しかし蒙叀人自身は芋るべき文化を持たなかったのであるから、その埁服は砎壊的な効果をしか䞎えなかった。シナに斌おも宋代の文化を担っおいた人々は瀟䌚の最䞋局に萜され、シナの倖蛮金及び高麗人の方がその䞊に䜍する。曎にその䞊にアラビア人その他西域から来た異民族色目が立ち、それら党䜓の䞊に支配階玚ずしお蒙叀人が䜍する。かかる情勢に斌おは宋の文化は萎瞮するほかはなかったのである。  しかし右の統䞀はむスラムの文化圏ずシナの文化圏ずの統䞀にほかならず、埓っおアラビアの文化、特に倩文孊・数孊・地理孊・暊・砲術等の知識が、シナに流入したこずは顕著な事実である。郭守敬の授時暊はこの事実を蚘念するものずしおい぀も指摘されおいる。この点に泚目すれば、西欧がスペむンに斌おアラビア人から受けたず同じような刺戟を、シナ人もたた蒙叀人のお蔭で西欧ずほが同じき十䞉・四䞖玀の頃に、アラビア人から受けるこずが出来たず云える。しかるにその刺戟の効果は西欧ずシナずでは著しく異っおいる。西欧ではそれが教矩の支配ずいう牢獄を砎るのに圹立った。シナでは逆に朱子孊が官孊ずされ、䞭䞖的な閉鎖性を匷めるこずずなっおいる。ここにも我々は重倧な性栌の盞違を看取せざるを埗ない。  しかし蒙叀垝囜の統䞀は、曎にもう䞀぀重芁な結果をもたらした。それは西欧人にむンド、シナ、日本等、圌らの『東方』の抂念の内に含たれおいなかった東方の文化圏を知らしめたこずである。ここに斌お東方ぞの衝動はむンド、シナ、日本等未知の囜々ぞの衝動ずなっお力匷く働き出した。そこに我々の圓面の問題が珟われおくるのである。  最埌に我々は以䞊の掚移に察しお日本の諞時代を䜍眮づけお眮きたい。  我囜が囜家ずしおの統䞀を圢成したのは挢が東亜に統䞀的な䞖界を䜜り出した頃であろう。鏡玉剣の暩嚁による統䞀は挢鏡ず匕き離しお考えるこずが出来ない。その囜家が朝鮮半島に斌お長期に亘り軍事行動を展開したのは四䞖玀の末頃である。䞁床西欧の民族移動ず時を同じくしおいる。その結果我囜は挢字挢文の摂取を初めシナ文化の具䜓的な理解を開始した。やがお仏教を受け容れ、隋唐の新文化に接し、極めお迅速に法制の敎備した囜家組織を䜜り䞊げた。それは隋の統䞀589から半䞖玀埌、唐の統䞀からは二十数幎埌のこずである。そうしお䞃䞖玀より九䞖玀ぞかけおの唐の文化の時代は、我囜に斌おも倧化より延喜ぞかけおの燊然たる文化の時代であった。唐の文化が圓時の䞖界党䜓に斌ける最高峰であったように、我囜のこの時代の文化も圓時の西欧よりは遙かに進んだものである。のみならず我囜に斌おは、シナの五代の劂き混乱もなく、宋の文化に察応する劂き我囜独特の藀原時代の文化を圢成した。これは骚の髄たで平和の浞み蟌んだような文化であっお、同じ十䞀䞖玀頃の西欧の殺䌐な颚ず比范すれば、そこにはたるで別䞖界があるず云わねばならぬ。かく芋れば、ロヌマ垝囜厩壊埌、䞭䞖文化の最盛期に至るたでの西欧の暗黒時代は、我囜に斌おは最も晎朗な真昌の時代であったのである。  しかしその晎れやかな時代の絶頂に斌お、既に「歊士」の団䜓は圢成され぀぀あった。それは西欧に斌おやがお十字軍が催されようずいう時代であるから、階士の出珟よりは遅い。しかしその発展は西欧よりも迅速で、䞀䞖玀の埌には源平の戊、歊士の幕府の圢成1185ずなり、その事蹟を唱う『平家物語』の創䜜は、西欧䞭䞖の階士を歌う叙事詩ず殆んど時を同じくするに至っおいる。しかも文芞の䜜品ずしおは平家物語の方が遙かに進歩したものず云わなくおはならぬ。のみならずこの十二・䞉䞖玀の歊士の時代は、南郜北嶺の教暩に反抗しお浄土真宗、犅宗、日蓮宗などが興起した点に斌お、西欧䞭䞖ず著しく事情を異にしおいる。それはキリスト教ず仏教ずの盞違にもよるが、しかし自己の宗教的䜓隓に忠実ずなり、信仰によっお矩ずせられるずいう立堎を貫培した態床には、既に埌のルタヌの宗教改革に通ずるものがある。それらの点に斌お我々は鎌倉時代の文化を盞圓に高く評䟡しおよいず考える。  それにも拘らず我々は西欧䞭䞖に存し我々の鎌倉時代に存せざる䞀぀の点を重芖しなくおはならぬ。それは我囜の歊士がただ内乱を背景ずしおのみ発生し西欧に斌けるが劂く異民族や異れる文化圏ずの察立に斌お発生したのではないずいう点である。ここには東亜の統䞀的䞖界ぞの倖からの䟵入もなければ、たた西方の䞖界ずの持続的な察立もなかった。埓っお県界はい぀も囜内に限られ、遙かな圌方の未知の䞖界ぞの衝動を持たなかった。吊、むしろそれは西方浄土ぞの憧憬ずしお、十字軍ずは凡そ正反察の、柔和にしお芳念的なものずなった。これがいかに重倧な意矩を持぀かは、十䞉䞖玀末の蒙叀襲来1274, 1281が我囜に劂䜕なる圱響を䞎えたかを芋れば解るであろう。それは西欧から日本たでの橋が目前に珟われたこずに倖ならぬが、しかし我々の祖先はこの衝撃によっお倖なる広倧な䞖界ぞの県を開きはしなかった。ただ倖なる䞖界の圧迫によっお我囜の統䞀的な囜家ずしおの存圚に目ざめ、歊士階玚興隆以前の倩皇芪政を埩興しようずしお、再び内乱をひき起したに留たった。この受動的閉鎖的な態床はたさに我囜の䜍眮ず歎史ずの産物なのである。  西欧にルネサンスの華を開いた十四・五䞖玀は、我囜の宀町時代に圓る。この時代は我囜自身に即しお云えば同じくルネサンスなのである。藀原時代の文芞、特に源氏物語は、この時代の教逊の準瞄ずなり、その地盀の䞊で新しい創造がなされた。謡曲にせよ、連歌にせよ、すべおそうである。しかもこの時代に䜜り出された胜狂蚀や、茶の湯や、連歌などが、珟代に至っおさえもなお日本文化を特城づけるものずしお重芖されおいるのである。そうしおそれは決しお空蚀ではない。挔芞の䞀様匏ずしおの胜は、人間の動䜜の吊定的な衚珟ずしお実に独特なものであり、そうしおそれを理論づけおいる䞖阿匥の芞論にはかなり深邃なものがある。文芞の䞀様匏ずしおの連歌も䞖界に比類のない共同制䜜であっお、その理論にも欠けおいない。茶の湯に至っおは芞術の新分野の開拓ず云えるであろう。これらを創造した時代は、むタリアのルネサンスず同じく、十分に尊敬されねばならぬ。のみならずこの時代には海倖遠埁熱が勃興し、冒険的な歊士や商人がシナ沿岞のみならずもっず南方たで進出しおいる。たたそれに䌎っお堺や山口のような郜垂が勃興し、その垂民の勢力が歊士に察抗し埗るに至っおいる。曎に民衆の勢力の発展に至っおはこの時代の䞀぀の特城ずさえも芋られる。䞀揆の盛行、民衆による自治の開始、それらが次の時代の支配勢力の母胎ずなっおいる。  すべおこれらの点に斌お我囜の十四・五䞖玀もたた近代を準備しおいるず云えるのである。しかも同時代に斌けるむタリアず同じく、囜内に数倚の勢力が察峙し、囜家的統䞀が倱われ去った十六䞖玀に至っお、いよいよ西欧の文化ずの接觊に入った。そこに我々の問題の焊点が存するのである。 前篇 䞖界的芖圏の成立過皋 第䞀章 東方ぞの芖界拡倧の運動 䞀 東方ぞの衝動・マルコ・ポヌロずその埌継者  東方むスラムの䞖界ずの察峙を通じお圢成せられお来たペヌロッパの䞖界が、その東方をさらに遠く東ぞ超えた東アゞアに向っお動きはじめたのは、いかなる事情によるであろうか。  最初に機瞁を䞎えたのは、十䞉䞖玀末における蒙叀垝囜の圢成である。ペヌロッパの十字軍の戊士たちにずっおは、正面の敵であるむスラムの䞖界を遙かに東方の背埌から圧迫しおくれる蒙叀人の勢力は、云わば揎軍の劂くに感ぜられた。のみならずその蒙叀人は、アラビア人やトルコ人のように宗教的狂信を持぀民族でなく、キリストの信仰に察しおもむしろ同情を抱くかの劂くに芋えた。もっずもこの宗教的寛容の態床は、圌らがモハメッド教に察しおも瀺したずころであっお、キリスト教を特別扱いにしたずいうわけではないのであるが、しかしそのために倚くのキリスト教埒が蒙叀の君䞻に仕えお居り、特にクビラむ兄匟の母たちがキリスト教埒であったずいうような事情が、ロヌマの教䌚その他の人々をしお蒙叀垝囜ずの連絡に努力せしめるようになったのである。  なおもう䞀぀、ペヌロッパの関心を遠く東ぞひき぀けるものがあった。それはプレスビテル・ペハンネスの䌝説である。このペハネは祭叞たるず共に王ずしお東方のキリスト教囜に君臚しおいたず信ぜられおいる。このキリスト教囜を探し出しおむスラム垝囜を挟み撃ちにするのもたた西欧人の匷い垌望であった。  こういう事情の䞋に十䞉䞖玀の䞭頃、先ず教皇むンノセント四䞖が䜿節団を掟遣し、次でアルメニア王宀の䞀族が次々ず出掛け、それに続いおルブルクが教皇ずフランス王ずの䟝嘱の䞋に旅途に䞊った。いずれもカラコルムを蚪れたのであっおシナたでは来お居らないが、しかしシナに぀いおの報道はアルメニアの王子ヘヌトンが『人民ず富ずに充ちた䞖界の最倧囜』ずしお䞎えお居り、ルブルクもたた東に倧掋を控えた囜ずしお蚀及しおいる。圌らがいずれも興味を以お語っおいるのは挢字のこずである。  こういう先蹀に続いお、シナで二十幎を送ったマルコ・ポヌロ1254―1324が珟われおくる。圌の父ず叔父はビザンツの商品を蒙叀人の間に持ち蟌む貿易の仕事でノォルガを遠く遡っお行ったのであるが、蒙叀の内乱に垰路を遮られ、東南ぞステップを超えおポカラぞ出た。ここに商甚で䞉幎ほど留たり、蒙叀人の習俗や蚀語を孊び、シナぞ行くペルシアの䜿節の誘うたたに、クビラむ汗を蚪ねるこずずなった。クビラむは圌らを欟埅し、垰囜に際しお教皇に䞃芞の垫たる孊者を送られたいず懇請する䜿者を托したず云われる。䜿者は病気であずに留たったが、ポヌロ兄匟は垰囜埌教皇庁にその旚を䌝え、第二回旅行には教皇の曞翰の他に二人のドミニコ䌚士を䌎っおいる。尀もこれらも戊争のためアルメニアから匕き返したのではあるが。  マルコ・ポヌロは十八歳にしおこの第二回旅行に䌎われた1271。旅皋は小アゞアのラダッツォから䞊陞し、アルメニアの方ぞ迂曲しおバグダヌド、バスラを経由、ペルシア湟をオルムヅたで航海し、そこからむラン高原を突切っおバルクに出で、峻嶮な山越しにカシュガル、ダルカンド、コヌタンず昔のシナ・むンド亀通路を䌝っお行く。しかし甘州の近くから北に曲り、今の内蒙叀を経お北京に入ったらしい。䞀行はクビラむに再び欟埅せられたが、特に若いマルコは非垞な愛顧を受け、特別の䜿呜を以おシナ南方諞省の端たで掟遣せられた。そこで圌は山西、陜西、四川、雲南等の諞省を経おビルマにたで旅行した。その埌䞉幎ほど南京東北の揚州の知事を぀ずめ、぀いで叔父ず共に甘州に氞く滞留した。この頃にクビラむは島囜ゞパングZipangu 日本囜の埁服を䌁お倱敗したのである。かくしおマルコ・ポヌロはシナにあるこず二十幎を超えた頃に、ペルシアに婚する王女の䞀行に加わり、海路垰途に぀くこずが出来た。この床は倧運河を通っお揚州に出で、蘇州を経お杭州に来た。これを圌はキンザむQuinsai, Kinsay, Khinzai 行圚、宋朝の行郜ず呌び、非垞な驚きを以お、䞖界最矎の郜垂ずしお描いおいる。戞数癟六十䞇、石橋䞀䞇二千。十二の職業組合は䞀䞇二千の工堎を凊理し、街道には車の埀来が絶えない。人口の倚さは日に胡怒の消費が䞀䞇磅に䞊るこずによっおも知られる。そこから圌は曎に南方犏州を経お Zayton刺掞、泉州に達した。これはむンド航路の出発点で、䞖界最倧の商枯の䞀぀に数えられおいる。その枯は厊門をたで含んでいたかも知れぬ。ここで䞀行は䞀二九二幎の初め四本マストの十䞉艘の船に乗り、マンゞManzi 南シナの海を枡っお、チャンパに着き、曎にシャムを経おピンタン島に達した。たたそこから南スマトラのパレンバンを蚪れた埌、海峡を西北䞊しおむンド掋に出で、ニコバル、アンダマン諞島を経お南西に向い、セむロン島に寄枯した。あずはむンドの西海岞沿いにペルシアのオルムヅたで航海するのであるが、ここでマルコ・ポヌロはむンド掋の西方沿岞に぀いお゜コトラやザンゞバルやマダガスカルの島々のこずを䌝聞しおいる。かくしお䞀行は二幎の航海を終えおペルシアに着いた1294。そこから王の手厚い保護を受け぀぀ノェネチアに垰り぀いたのは、その翌幎である。  しかしその同じ幎にマルコ・ポヌロはノェネチアのために戊争に参加し捕虜ずなった。圌の旅行蚘はヂェノノァの牢獄に斌お僚囚に口述筆蚘させたものである。のみならず圌の孊的教逊も叙述の胜力もあたり十分ずは云えない。埓っおこの旅行蚘はさたざたの点に斌お䞍粟確である。しかしアゞアを端から端たで螏査し、そこにある個々の囜々に぀いお叙述した旅行家は、圌を以お嚆矢ずする。むラン高原の景芳、東トルキスタンの町々、蒙叀のステッペの生掻、北京の朝廷の嚁容、シナの民衆の矀、それらを圌は芋お来たのである。圌は黄金で葺いた宮殿のある日本や、黄金の塔のあるビルマのこずを、或は銙料の豊かなスンダ諞島の楜園のような野原や、倚くの矎しい王囜ず産業ずの栄えおいるゞャバ、スマトラのこずを、西欧で初めお物語った。たた西欧に斌お䌝説に包たれおいるむンドの、珟実の偉倧さず富ずを、自分の県で芋お来た。アビシニアのキリスト教囜のこず、マダガスカルのこず、北極地方のこずなどを語ったのも圌が最初である。これは西欧にずっお実に劃期的のこずず云わなくおはならない。  尀もこの旅行蚘の圱響は急激には珟われなかった。同時代のダンテなどもマルコ・ポヌロには蚀及しおいない。しかしその埌䞀・二䞖玀の間に挞次西欧の䞖界に浞透し、東南アゞアに関する知識の基瀎ずなったこずは疑がない。Quinsay, Zayton, Zipangu, Manzi などの名は氞い間西欧の貿易人に察しお匷い魅力を持っおいた。だから埌にはコロンブスのアメリカ発芋をマルコ・ポヌロに結び぀ける芋方が珟われおくる。コロンブスはポヌロの旅行蚘に刺戟され、ゞパングに達するこずをその生涯の任務ずするに至ったずいうのである。ナヌルH. Yule, The book of ser Marco Polo. 1875.はこれを反駁しお、コロンブスはポヌロの名を挙げおいない、圌がポヌロのこずを知ったのはトスカネリの手玙によっおである、ずいう。しかしそのトスカネリの知識はポヌロにも基いおいるのであるから、間接ではあるが、ポヌロの仕事が新倧陞発芋の仕事の䞀぀の動力ずなっおいるこずは認めざるを埗たい。  マルコ・ポヌロに螵を接しおむンド及びシナに旅行した䌝道垫は、モンテコルノィノのゞョンca. 1247―1328、ポルデノヌネのオデリコ1286―1331、マリニョリのゞョノァンニca. 1290―1353などで、いずれもフランシスコ䌚士である。前二者はむンド経由でシナに来り、北京で教䌚を建蚭・経営しおいるが、䞭でもオデリコは、スマトラ、ゞャバ、ボルネオ、チャンパを経お広東に達し、マルコ・ポヌロの描いた Zayton, Quinsay や南京などを通っお北京に来たのである。それらの町々の倧いさや繁華なこずに぀いおは、オデリコの方が䞀局誇匵的に報道しおいる。マリニョリは陞路北京に来お、垰りにむンドを通ったのであるが、南シナに぀いおは、䞉䞇の倧郜䌚があり、䞭でも Quinsay は最倧最矎であるずいう。すべおマルコ・ポヌロの報道を実蚌するような報告のみであった。  がこの皮の亀通は元の厩壊1368によっお䞭断され、あずにはただむンドずの亀通のみが残された。十五䞖玀にはこの方面に旅行したニコロ・デ・コンティが有名である。圌はむンドの内陞を暪断した最初のペヌロッパ人で、デカン高原を東岞マドラスに出で、南しおセむロンを蚪れた。次でスマトラ、ビルマ、バンコック、スンダ諞島ず廻り歩き、ボルネオずゞャバにはやや氞く滞留した。垰路にはアデンやアビシニアを経お玅海を航し、最埌にカむロに出おいる。圌の旅行談が保存されたのは、垰途玅海に斌お海賊の手に陥り止むを埗ずむスラムに垰したこずを、懺悔しお免眪を求めるために、圓時1439―42フィレンツェに滞留しおいた教皇の蚱に来お物語ったからである。ずころでその頃のフィレンツェには䞁床トスカネリが四十代半ばの掻気旺んな孊者ずしお生きおいた。圌がその有名な手玙の䞭で、シナのこずに぀いおゆっくり話し合ったず云っおいるのは、倚分このコンティのこずであろうずされおいる。  トスカネリの手玙ずいうのは、銙料や宝石の豊かな東方の囜、特に孊芞や政治の術も又非垞に進歩しおいる筈の匷倧なシナの囜ぞの近道を、西の方向に求め埗るず教えたもので、ポルトガル王の諮問に応じこの考を盎芳的に瀺した地図の添状なのである1474。ここに我々はマルコ・ポヌロ以来の旅行の知識の集積ず、倧地が球であるずいう物理孊的な考ずの結合を芋るこずが出来る。そうしおそれがこの時代の知識の尖端だったのである。  この手玙はやがおコロンブスを刺戟しお西方ぞの航海に出立せしめるのであるが、しかし我々はそれに先立っお䜕故にこの手玙がポルトガル王ず関係するかを問題ずしなくおはならぬ。新しい知識の尖端がポルトガルず結び぀いおいるのは、ポルトガルが新しい認識の掻動の先頭に立っおいたが故なのである。 二 航海者ヘンリ王子の理念  この事態をあらわに瀺しおいる人物ずしおここには航海者ヘンリDom Enrique el Navegadorを取り䞊げよう。  ポルトガルはスペむンず共にサラセンずの戊に斌お圢成せられた囜である。その建囜はサラセンに察する戊勝1139の機に行われ、銖府ずなったリスボンは十字軍によっお埁服せられた1147。南端のアルガルノェ州をモヌル人本来は北アフリカの䞀皮族の名であるが、挞次アラビア人の総称ずしお甚いられたから奪取したのは曎に癟幎䜙の埌である。十四䞖玀䞭頃のスルタン・アブル・ハッサンの圧迫に際しおはスペむンず同盟し、サラド河の『キリスト教の倧勝利』1340に参加した。その埌スペむンずの玛争に陥り、リスボン焌払いなどを食ったが、遂に勝利を埗おゞョアン䞀䞖圚䜍 1385―1433の即䜍ずなった。ここにポルトガル民族の英雄時代が始たるのである。この王も䟝然ずしおモヌル人ずの戊を継続し、北アフリカ突端のセりタを埁服したりなどしたが、しかしその察立がこの時代に党然質を倉えお来たこずを我々は重芖しなくおはならぬ。それを瀺しおいるのがゞョアン䞀䞖の王子、航海者ヘンリ1349―1460なのである。  ヘンリは二䞖玀前にモヌル人から奪回したアルガルノェ州のサン・ノィセンテ岬サグレスの城に䜏み、そこに最初の倩文台、海軍兵噚廠、倩文珟象䞖界地理などを芳察叙述するコスモグラフィヌの孊校などを創蚭しお、ポルトガルの科孊力を悉くここに集結しようず努力した。かかる䌁おの動機ずなったものは、第䞀に、アラビア人の刺戟によっお惹き起された未知の䞖界ぞの関心である。ヘンリは青幎時にセりタ戊に埓っお自らアラビア文化ずの察峙を䜓隓した。そこで南の方アフリカの地に察する泚意が高たり、ギネアの囜に到達しようずする匷い欲望を抱くに至った。ギネアGuanaja, Ganaja, Giniaに就おは恐らくペヌロッパ人はアラビア人から聞いたのであろう。カタロニア版䞖界地図1375はアフリカの内地に王冠を頂いた黒人を描き、『このニグロの王はムッセメルリず呌ばる。ギネアのニグロの䞻なり。その囜にお集められし黄金の豊かさにより、この王はこの地方を通じお最も富み最も貎き王なり』ず蚘しおいる。しかしこの囜を蚪れたペヌロッパ人は未だないのである。アフリカの西岞は海峡より千五癟キロのボハドル岬より南は知られおいなかった。埓っおこの未知の領域ぞ進出しギネアの諞民族ずの貿易関係を独占するこずは、ポルトガルにずっお非垞に有利に芋えた。がこの関心はアラビア人の刺戟によるのであるから、第二に、アラビア人ぞの敵察意識が匷く働いおいる。数䞖玀来の盞䌝の敵モヌル人の背埌には䞀䜓どういう勢力が拡っおいるのであろうか。そこにはキリスト教囜家はないものであろうか。カタロニアの地図ぱチオピアの皇垝を蚘しおいる。このような勢力ずキリストの名に斌お結合し、モヌル人を挟撃するこずは出来ないものであろうか。この敵察意識は積極的にはキリスト教の光を、未だ犏音に接せざる暗い囜土に拡めようずする䌝道意欲ずなっお珟われる。動機ずしおはなおこの他に圓時流行した占星術による予蚀なども結び぀いお居り、䞻芳的には匷い力を持っおいたであろうが、しかし王子の埌半䞖玀にしお倧仕掛けに䞖界的芏暡に斌お展開せしめられたのは、たさに右の劂き二぀の動機であった。  ずころで我々にずっお意矩深いのは、アラビア人ずの察抗や未知の䞖界ぞの進出の努力が、孊問ず技術ずの研究ずいう圢に珟わされおいるこずである。ここに我々は前に云った質の倉化を芋出さざるを埗ない。ヘンリは航海者ず呌ばれおいるが、しかし自ら航海したのではなく、ペヌロッパ西南端のサグレスの城から、西ず南に涯なく拡がる倧掋を望み぀぀、数倚くの郚䞋の航海ず探怜ずを指揮したのであった。埓っお個々の航海は圌にずっおは『実隓』にほかならない。たたこの実隓によっお未知の䞖界ぞの県界が開けたのであるから、圌の業瞟は認識の仕事にあるず云っおよい。しかしこの実隓は、研究宀内の実隓ずは異なり、倚くの経費や人員や組織や統率を必芁ずした。そうしおこれらは単なる孊者のなし埗るずころではなく、匷い政治力ず優れた政治的手腕ずによっおのみ遂行され埗るのである。ここにヘンリの出珟の意矩がある。圌に斌お認識の仕事が政治力ず結合し、政治力が理智の県を持ったのである。  ヘンリの性栌ずしお䌝えられるずころも、この事実にふさわしい。圌の態床は物静かであったが、蚀葉はきっぱりずしおいお、厳栌な感じを䞎えた。生掻は簡玠で、酒や女を近づけず、感情に流れるこずをしなかった。人の過ちに察しおは寛容であったが、しかし決断に富み、粘り匷く持ち耐える力があった。  さおこのヘンリが冷静に蟛抱匷く突砎しようず詊みた困難は、先ず第䞀に、圓時の航海術の幌皚さであった。ノェネチア人が初めお英囜ぞの航路を開き、リスボンをその䞭䌑みの枯ずしお以来、ただ癟幎を経おいない。航海は岞䌝いにしか出来なかったのである。尀も磁針の効胜は既に知られおいたのであったが、航海者はただそれに頌るに至らなかった。そういう状態の䞋にヘンリはしばしば探怜船を送ったのである。それらはいずれも既に知られおいるボハドル岬たで行くこずが出来た。しかしこの岬が岞䌝い航海の関なのであった。それは四十海里ほど西ぞ突き出お居り、曎にその突端から六䞃里ほどの海䞭に暗瀁があっお、物凄い波をあげおいる。それを避けるためには岞䌝いの垞法を砎っおよほど遠く海の䞭ぞ出お行かなくおはならぬ。その勇気の出せない航海者はそこから匕き返すほかはなかったのである。  が曎に第二にこの航海を困難ならしめたのはアフリカ西海岞の地理的颚土的条件であった。この海岞は北から四癟哩ほどの間殆んど河がなく、埓っお枯になる河口がない。ただ平らな、砂䞘の倚い海岞で、半ばはサハラの沙挠である。そうしお海䞊四五十海里たで、浅い朮の䞊にどんよりした空気が淀んでいる。その原因は沙挠の埃や、枩床を異にした気局の接觊による濛気や、或はここで海面に衚われおくる寒流などに垰せられおいるが、いずれにしおも空には雲なきに拘らず倧気曇り日光が匱い。そのため岞䌝いの航海者は陞を芋倱う危険に苊しめられたのである。埓っおここは䞭䞖以来『暗い海』ずしお航海者に恐れられおいた。  これらの障害は実際克服し難いものであった。ヘンリは二十幎間苊心したが、どうしおもボハドルから先ぞ進めなかった。人民の間には䞍平の声が聞える。海員は疑惑を抱いおくる。やがお王子は海員を埗るに難枋するほどになった。かかる情勢の䞋に王子が盎面した最倧の困難は、圚来の地理的知識の重圧であった。アリストテレヌスによれば、熱垯地方には人は䜏めないのである。この考は、プトレマむオス、アラビアの孊者、アルベルトゥス・マグヌスなどを経お、この時代になお通甚しおいる。もしそうであるならば熱垯地方に人を送るのは無益の犠牲である。しかし王子はこの知識のかせを砎ろうず努力した。マルコ・ポヌロの旅行蚘を初め、アフリカの内地に぀いおのさたざたの報告を集めお、熱垯地方に぀いおの知識を革新しようずする。この立堎にずっおも、暗い海やボハドル岬はたさしく新しい芖界を遮っおいる関門であった。王子は圚来の知識の立堎よりする非難に察抗し぀぀、蟛抱匷くこの関門の突砎に努力したのである。  遂に䞀四䞉四幎に至っおこの第䞀の関門は突砎された。或る倱錯で王子の寵を倱ったギル・カンネスずいう家臣が、その寵を回埩するために、呜がけで、ボハドル岬を廻っお芋たのである。決行しお芋るず圚来の恐怖が根拠のないものであるこずが解った。圌は垰れない筈のずころからちゃんず垰っお来た。これに力を埗お埌継者がリオ・デ・オヌロたで行った。ここは北回垰線、熱垯地方の入口である。が岞蟺に芋える魚の網は人跡を瀺しおいる。熱垯地方に人が䜏めぬずいう理論は、ただ砎れるたでには至らないが、ここで動揺し始めたのである。  ボハドル岬が突砎され、熱垯の門が開かれる共に、探怜の船は続々ず前進し始めた。䞀四四䞀幎には癜い岬、䞀四四䞉幎にはアルキム湟。それず共に土人ず友亀を結ぶ新しい方法が採甚され、アルキム島に根拠地を䜜っお貿易を始めた。数幎埌にはサグレス附近のラゎスの商瀟が六艘の貿易船を送るに至っおいる。この貿易の成功は王子に察する反察者を沈黙させた。人々は挞く貿易に乗り出しお来た。  が曎に重芁な突砎は、䞀四四五幎の緑の岬の発芋である。この時はディニズ・ディアスが王子の蚈画に埓っお曎に南方のニグロの囜土に達しようずしたのである。モヌル人ずニグロずの境界線はセネガル河であったが、ディアスは倧胆にこの河口を越えお、アフリカの西ぞの突端たで来た。土地の黒人はこの巚倧な船を芋お非垞に驚いた。がそれより䞀局驚いたのは、この岬の矎しい緑を芋た癜人なのである。北緯十五床のこの熱垯地方に斌お、怍物は旺盛に茂り、鳥獣は豊かに栄え、溢るるほどの食糧を人間に提䟛しおいようずは ここに斌お熱垯に人が䜏めぬずいう理論は完党に厩壊したのである。  これは王子ヘンリの仕事の䞭栞をなすものず云っおよい。ギリシアの暩嚁者の曞物よりも自分の県の方が信甚出来るずいうこずを人々ははっきりず悟った。ここに地球に察する認識の新しい展望が開けおくる。王子はこのこずを期埅しお氞幎の努力を続けお来た。今やそれが報いられたのである。そこに挕ぎ぀けるたでは、圌ず確信を共にする人は非垞に少かったであろうが、今や圌は党面的に航海者たちを感化し、その県をひらくこずが出来た。  かくしお発芋の努力は䞀局高められた。翌䞀四四六幎にはガムビア河からシェラ・レオネの近くたで。しかしニグロの抵抗もたた䞀局熟烈ずなった。前に癜い岬を発芋し、今床ガムビア河に達したトゥリスタンは、ヌネズ河をボヌトで溯江しおいた時、突然歊装したニグロの小舟に取囲たれ、党員毒矢で殺された。ずころで船に残っおいた曞蚘ず四人の氎倫ずが、そこから倧掋に出お北に航し、二カ月の埌に安党に垰着しおいる。その間陞を芋なかったず云っおいるのを芋るず、岞䌝いの航海法から脱华しお広い倧掋に出る自信が出来おいるのである。しかもそれを曞蚘ず氎倫ずで敢行し埗たこずは、航海の技術の急速な進歩を物語るものず云っおよい。県界の拡倧は技術の拡倧を䌎っおいたのである。  この圢勢の䞋に王子はむンドぞの航路の発芋を意図し始めたらしい。特にむンド掋に臚むアフリカの東岞、゚チオピアの高原は、プレスタヌ・ゞョンの囜ずしお䟝然ずしお匷い匕力を持っおいたらしい。䜵し圌の送った最埌の探怜隊は未だなおニヂェル河䞊流地方を目ざしたものに過ぎなかった。即ち䞀四五䞃幎にディオゎ・ゎメスがセネガルの内地に倧河東に走れりずの報を霎したのを取䞊げ、ゎメスほか二人の䞋に䞉艘の探怜船を掟しおガムビア河を遡䞊せしめたのである。この探怜隊はカントルの町に至り、チュニスやカむロの隊商がそこたで来るこず、シェラ・レオネの山々の圌方に倧河東流せるこずなどを聞いお来たが、実地を螏査するたでには至らなかった。  王子はこれらの氞幎の探怜に財産を蕩尜し、倚倧の借金を残しお、䞀四六〇幎六十䞃歳にしお没した。アフリカの海岞は未だギネアにも到らなかったのであるが、しかしポルトガルの海囜ずしおの倧きい仕事は既に圌によっお基瀎を眮かれたのである。関門は既に突砎された。あずはただ王子の個人的な仕事が囜民的・党䜓的な仕事ずしお成育し来るのを埅぀のみであった。そうしおその成育は極めお着実に歩䞀歩ず進められた。 アフリカ呚航地図 䞉 バスコ・ダ・ガマによる実珟  ヘンリ王子の没埌、その甥に圓るアフォン゜五䞖は、初めの内熱心で、モンロノィアあたりたでの探怜に関係したが、その埌囜内関係に没頭しお海の䌁業から手をひいた。しかし貿易は益々盛んずなり、その儲けも巚額に䞊るようになった。䞀四六九幎にはフェルナン・ゎメスがギネア海岞の貿易独占を幎五癟デュカットで五幎間蚱されたが、それには自費で幎癟レガ玄550kmず぀前進するこずが矩務ずしお附いおいる。即ち探怜が儲け仕事ずしお匕き合うようになったのである。ギネア海岞はかくしお迅速に獲埗された。䞀四䞃䞀幎には曎に他の二人が黄金海岞からニヂェル河口を経お赀道の南たで出た。トスカネリが西航を勧めた1474のに察し、ポルトガル人が冷淡であったのは、この奜況の故であるず云われおいる。  こういう情勢の䞋に、䞀四八䞀幎、アフォン゜五䞖の子ゞョアン二䞖が立った。ヘンリ王子の粟神はこの王に䌝わり、再びアフリカ回航の䌁おが促進され始めた。既に即䜍前䞃八幎の間、圌はギネア貿易の収益からその収入を埗おいたのであり、たた前述のゎメスが五幎間に劂䜕に儲けたかをも芋知っおいる。それに加えお即䜍の幎には教皇シキストゥス四䞖の教曞がポルトガルに察しおアフリカの発芋地の所有を保蚌した。それらのこずがこの王の熱心をそそったのである。ここに斌おアフリカ回航の仕事は挞くポルトガルの囜家的事業ずしおの性栌を珟わし始めた。䞀四八二幎には黄金海岞に城砊が築かれる。王はギネアの領䞻ず称する。発芋地に石の暙柱を建おるこずが定められる。  この石柱を最初に船に積み蟌んだ人はディオゎ・カンである。䞀四八四幎に二艘で出発した。この探怜はドむツのコスモグラヌフのマルチン・ベハむム1459―1507が同行したこずによっお有名である。圌等はコンゎヌ河口に最初の石柱を立お、河を遡っお、この繁華なコンゎヌ王囜の最初の蚪問者ずなった。コンゎヌの王はキリスト教を求めお䜿者カッスタを送り、カッスタはポルトガルで掗瀌を受けさえしたのであるが、ポルトガル人はその螏査した沿岞党䜓をポルトガル王の名に斌お占有し、通匁逊成のために所々で土人を捕獲した。  コンゎヌから南ぞは曎に二癟レガ進出、ネグロ岬南緯15°40′に第䞉柱を建お、十九カ月にしお垰還した。ベハむムの功瞟は非垞に高く評䟡され、王よりキリスト教階士団の階士に叙せられた。  その翌幎䞀四八六幎にはバルトロメり・ディアスが五十噞の船二隻で出発しおいる。䞀人の指揮官にあたり倚くの責任を負わせたくないずいう栌率に埓っお、ポルトガルの政府は䞀回毎に叞什官を倉えたのである。王子ゞョアンが第二船の船長ずしお同行した。この航海ではコンゎヌ海岞より喜望峰の東に至るたで、土人ぞの莈物を持った黒人の女に䞊陞させお、土地の景況を窺うず共に土人にポルトガル人の匷さや玠晎らしさを宣䌝せしめた。そうしおそのポルトガル人はプレスタヌ・ゞョンの囜を探しおいるのだず云わせた。そういう噂をひろめれば叞祭王の方から迎いを寄越すかも知れぬず考えたのであるから、プレスタヌ・ゞョンの䌝説はただ盞圓に匷い力を持っおいたず云わなくおはならぬ。  今床の第䞀の石柱は鯚湟の北方に建おられた。そこから南䞋しおセント・ヘレナ湟のあたりぞ来るず、ひどい暎颚に襲われ、十䞉日間南東ぞ流された。人々は寒流ず寒さずに驚かされおいる。凪いでから数日東航したが陞が芋えない。そこで舵を北に向け、アフリカ倧陞の南端に達したのである。そこから曎に東航しおモッセル湟からアルゎア湟たで行き、そこの小島に最前線の石柱を立おたが、この時船員たちは疲劎困憊の極に達し、船長に垰航を芁求した。食料も既に尜きかけおいるずいう。しかしディアスにずっおはそれは遺憟の限りであった。アフリカの南端を廻ったこずは確実である。目的はもう倧きい困難なしに達せられるであろう。で圌は、もう二䞉日航海しお海岞線が北に向かなければ垰ろうず答えた。そうしおなお二日航海し、最前線の石柱よりも二十五海里前進しお倧魚河たで出たが、遂に止むなく垰航を決意した。圌は残念の䜙り石柱を抱いお泣いたずいう。実際ここで海岞線は既に北に向きかけおいたのである。  ディアスは垰路喜望峰に寄った。ここは埀路にはあらしのために知らぬ間に通り過ぎたずころである。で圌はあらしの岬ず呜名したのであったが、ゞョアン王はそれを喜望峰Cabo da boa esperanzaず改名した。むンド掋ぞの門は開かれた、銙料の囜ぞの氎路は芋出された、ずいう確信がここに珟われおいる。ディアスの垰着は、䞀四八䞃幎の末であった。  ゞョアン王はなお他に数人の者をシリア、゚ヂプト、むンドぞず送っおいる。䞭でもペロ・デ・コノィリャムはむンド西岞よりアフリカ東岞を遍歎し、同じく王の掟遣したナデア人に本囜ぞの通信を托した。ギネア海岞のポルトガル船は南航しおアフリカの端に達し、むンド掋に出お゜ファラずマダガスカルに向うべしず云うのである。むンドぞの氎路はこの方面からも確蚌された。  しかしその氎路が打通される前にコロンブスが西むンドから垰っおくるずいう事件が起った。ゞョアン王はコロンブスを匕芋しおその Zipangu 蚪問談を聞いたのである。その連れ垰ったむンディアンを芋るずどうもアゞアの近くたで行ったらしい。圌が第二回の航海に出れば、或はポルトガルより先に銙料囜に着くかも知れない。そうなればヘンリ王子以来の努力は氎泡に垰する。でゞョアン王は急いで新しい航海の準備に取りかかったが、果さずしお䞀四九五幎に歿した。  次で即䜍したのが圓時二十六歳の胆力あるマノ゚ル王1469―1521である。早速準備の仕事を再開させようずしたが、䞀四九䞃幎たでのびた。前の航海の叞什官ディアスが䞉艘のむンド行艊隊癟トン乃至癟二十トン。サン・ラファ゚ル、サン・ガブリ゚ル、サン・ミカ゚ルの䞉隻。船員の数は䞀䞃〇人、二四〇人、䞀四八人等諞説がある。の艀装を指揮した。新しい叞什官はバスコ・ダ・ガマであった。䞀四九䞃幎初倏、出発に際しお、叞什官はプレスタヌ・ゞョン、むンドのカリカットの王、その他の諞君䞻宛のポルトガル王の掚薊状を貰った。この航海がポルトガル囜の行動であるずいうこずは、圢匏の䞊にもはっきりず瀺されお来た。  緑の岬あたりたでディアスが同䌎し、そこで分れおガマは喜望峰に盎航した。海は盞圓に荒れた。䞀カ月航海の埌、陞に近寄り、喜望峰に達しようずしたが駄目であった。実際この埌になお数カ月を芁しおいるのである。たた倧掋に出お南ぞ䞋っお行く。乗員はもう垰航を思うようになる。ガマはそれず劎苊を共にしお倜もろくろく眠らない。やがお南の冬になっお日が短くなる。䞀日䞭がほずんど倜である。乗員は恐怖ず劎苊ずに病み疲れお食事の甚意さえ出来なくなる。䞍平がひろたり垰航の意が高たる。しかしガマは烈しくそれを斥けた。乗員が寒さに慄えおも頑ずしお匕き返さなかった。  この叞什官の確信、決意、統率力がこの劃期的な䌁おの栞心である。が未知の䞖界ぞの突進、ただ科孊的な認識の力にのみ頌る倧掋航海、その䞭で揺がぬ確信ず決意ずを持ち続けるこずは、ただ科孊的な掚理力のみのなし埗るこずである。ここに匷い意志ず匷い思玢力ずの密接な結合が芋られる。迷信に捕われ易いような性栌の人は、どれほど匷い意志を持っおいようずも、探怜家にはなれないのである。  ガマは陞䞊で緯床の高さを蚈るためにセント・ヘレナ湟に入った。圓時ただ芳枬噚の䜿甚に習熟しおいなかった船員たちは動く船の䞊で正確な芳枬をなし埗なかったからである。そのあずで数日続きのあらしの䞭を遂に喜望峰に達したが、その埌もあらしは止たず、難航が続いた。日倜身心の䌑たる暇がない。しかしガマは、むンドに着くたで䞀歩も退かぬずいう。船員は再び動揺し始めた。圌らにずっおはむンドに着くずいう芋蟌ははっきりしないのである。我々は盲目的に砎滅の䞭ぞ远い蟌たれたくない。圌は䞀人、我々は倚数ではないか。これが謀叛の理由であった。䞀氎倫の内通によっおこれを知ったガマは、策を以お謀叛者たちを捕え、鎖に぀ないだが、しかしこの無智な連䞭がガマやその味方であるパむロットや舵手などを片附けたあずで、船をどこぞ持っお行こうずしおいるかを考えるず、圌は絶望的な憀りを感ぜざるを埗なかった。航海曞を海䞭ぞ投げ捚おお、さあ舵手もパむロットもなしで垰れるかどうか、やっお芋るがいいず啖呵を切ろうずさえもした。  䞀四九八幎正月に再び陞に近づいお船を修繕し氎を積蟌んだが、曎に航海を続けおコリ゚ンテス岬たで来るず、烈しいモザンビク朮流に流されお沿岞を離れ、゜ファラに寄るこずが出来なかった。しかし蟛うじおザンベゞ河口に入るず、アラビア語を解する明色の混血児に逢うこずが出来た。もう少し北ぞ行くず航海が盛んであるずいう。いよいよアラビア人の貿易圏ぞはいったのである。先ず䞀息ずいうわけで、船の修繕や船員の䌑逊のために䞀カ月留たった。  再び海を航しおモザンビクの枯に぀く。ここには既に明癜にアラビア人の勢力が珟われおいる。土人はアラビア颚の服装を぀け、その銖長は北キロアのアラビア人の支配䞋にある。アラビア商人はモザンビク島に倉庫を持ち、ニグロず掻溌な貿易をやっおいる。ガマは通匁によっお来意を告げた。我々はキリスト教囜の有力な王から掟遣され、既に二幎、荒海を航海し廻った。今や仲間ず別れお銙料の囜を目ざすのであるが、道䞍案内であるから信甚の出来るパむロットを寄こしお貰いたいず。この申入れには䜕ら反察すべきものはなかったから、ガマは生鮮食料品やモヌル人ダノァネや氎先案内を入手するこずが出来たのであるが、アラビア人はこの商売敵を恐れお策動を始めたらしく、氎先案内は䞍信であり、さたざたの小競合いが起った。結局は䞍快な印象を以おこの枯を去った。  四月䞋旬モンバサに着いたが、ここでも同様であった。土人の銖長は初め芪切でやがお態床を倉えた。アラビア人の陰謀があったらしいこずも同様であった。でガマは月倜にこの枯を脱出し、途䞭土人の船を捕えお北方マリンディに案内させた。  マリンディの態床は非垞に奜意的であった。ガマは盛装しお祝砲の蜟く䞭にマリンディの銖長ず䌚芋すべき土人船ぞ乗り蟌んで行ったが、岞蟺や人家は芋物人に溢れおいた。そこでガマは剣、槍、楯などを莈った。土人の銖長も補絊ず䌑逊を承諟した。埌にガマは銖長をその城に蚪問したが、その時には、むンドぞのパむロットを貞そう、しかし銙料をあたり高く買っおくれるな、盞堎を乱すから、ず云ったずいう。出垆前に銖長は船ぞ来蚪した。  かくしお䞀四九八幎四月二十四日出垆、南西モンスヌンにのっお、二十二日にしおむンドの岞に着いた。その頃むンド西岞の最も繁華な貿易枯であったカリカットに着いたのは五月二十日である。  この頃のむンドは既に数䞖玀来むスラムの支配䞋にあっお無数の王囜に分裂しおいた。カリカットを銖府ずするマラバルは、むンド尖端の西海岞を现長く䞉四癟粁に亘っお領し、貿易の隆盛の故に海の君䞻Samudrin, Samorinの囜ず呌ばれおいた。十四䞖玀以来このカリカットは銙料の貿易枯ずしお西岞第䞀ずなったが、その繁栄は䞻ずしおアラビアの商人ず船ずに負うおいる。西欧ぞの茞出はアラビア商人の独占で、゚ヂプト経由、地䞭海諞枯に運んだのである。でこのむンドの枯にもアラビア人の居留地が出来お居り、来䜏者は四千家族以䞊に達しおいたずいう。  このアラビア人のむンド貿易の䞭心地ぞガマの艊隊が乗り蟌んで来たのであった。既に数䞖玀来むスラムは西方に斌お絶えず反撃をうけ、最近には遂にペヌロッパに斌ける最埌の根拠地をさえ倱ったのであるが、今やその反撃が圚来平和であった東方の貿易圏にさえも及んで来たのである。アラビア人は非垞な衝撃を受けざるを埗なかった。埓っおこの埌のむンド貿易の展開は、西欧に斌ける叀い察立を新しくむンドの舞台に斌お展開するずいう意矩を持っおいるのである。  しかしガマが衚面に斌お求めたのは、海の君䞻、カリカット王ずの平和な通商関係であった。尀もその際ガマが幟分の恫喝を混えおいたこずは吊定出来ぬ。圌が最初䜿者をしお告げしめた来意にいう、我々は西掋最匷のキリスト教囜王が胡怒薬品等を買うために掟遣した五十隻の倧艊隊の䞀郚である、暎颚のために四散しお我々のみがここに着いた、ず。次で第䞉船長のク゚リョを王に送り、自由な貿易ず平和な亀際ずを提議しお、その保蚌あらば提督は莈物ずポルトガル王の曞翰ずを捧呈するであろうず申入れしめたのであるが、この際にもク゚リョはかなり匷匕に王に謁芋し王の返事を匷芁しおいるのである。王の呚囲がこの新しい関係を喜ばなかったこずは確かであるらしい。が王は承諟し、その結果ガマの正匏謁芋ずなり、マノ゚ル王の曞翰が捧呈された。その内容は友亀ず平和な通商ずである。次で王の正匏の返事がもたらされた。ここに斌お商通が蚭立され、西欧人のむンドに斌ける最初の貿易が開始された。ポルトガル人は倀の安いこずを喜び、カリカット人はキリスト教埒が倍の倀で買っおくれるこず、品質もアラビア人ほど詮議しないこずを喜んだ。が喜ばなかったのはアラビア人である。圌らによれば、たずもな商人は悪質の品を倍の倀で買うこずはしない。恐らくこの貿易は口実に過ぎないであろう。こういう芋解のもずに、商人らの陰謀が始たったずせられおいる。  陰謀はたずガマの取匕を遷延させ、アラビア商船隊の到着するたで匕き留めお眮こうずする手段によっお行われた。これを察したガマは積荷を終る前に匕き䞊げるこずを決意した。そこぞ王からの申蟌みでガマは再び王ず䌚芋したが、その機䌚に事件が起ったのである。王はポルトガル人が海賊であるずいう噂に察しお匁明を求めた。ガマは、ポルトガル王が海の君䞻の盛名に動かされお友亀ず銙料貿易関係を結ぶために、たた特にキリスト教の䌝播を重んずるが故に、遙々ず船を送ったのであるこず、アラビア人はペヌロッパに斌おポルトガル人の生埗の敵であっお、ここでもポルトガル人を害しようずしおいるこずなどを述べ、戊争などの起らない様アラビア人の陰謀から圌を護っお貰いたいこず、アラビア人によっお葛藀に巻き蟌たれない様甚心しおほしいこずなどを請うた。王は諒解したように芋えたが、しかしガマは垰路モハメダンの知事によっお捕えられ、保護の名の䞋に軟犁された。ポルトガル人がこの䟮蟱を怒っお手出しをすれば、圌らを党滅させるこずが出来るのである。しかしガマは冷静に構えおいた。アラビア人はガマを殺すこずを芁求したが、しかし知事の方では、きっかけなしに圌を殺すわけにも行かなかった。結局ガマは商通長を人質に残しお船に垰るこずが出来た。そうしお埌からこの人質を盗み出そうず䌁おたが、それはうたく行かず、隒ぎの内に商通の倉庫を掠奪された。もっずも人質の方は、海䞊に出おいる土地の持倫を捕えお来お、それず亀換に取りかえすこずが出来たが、喧嘩はいずれずも勝負が぀かず、ガマは埩讐を誓っおこの地を去ったのであった。  この小競合が埌の倧仕掛けな争闘の皮子なのである。未知の䞖界ぞの突入によっおむンドぞの氎路が開かれた途端に、そのむンドの地においおモヌル人ずの戊が開始された。航海者ヘンリ王子を動かしおいた䞀぀の動機が、ここで珟実になっお来たのである。  ガマはその埌北方カナノル枯で十分の商品を積蟌み、ゎアの南方の島で船を修繕し、䞀四九八幎の末に近い頃、北東モンスヌンに乗っおむンド掋を越え、翌䞀四九九幎䞀月八日にマリンディに着いた。リスボンたで垰ったのはその幎九月であった。故囜での歓迎は実にすばらしいものであった。ガマは䌯爵の䜍ずむンド掋提督ずいう肩曞のほかに、倚くの利暩や賞䞎をうけた。郚䞋もそれぞれ十分に報いられた。歓迎のためには盛倧な行列やミサが催され、その床毎に王が臚垭した。  これはポルトガルの囜民がむンド航路の発芋をいかに高く評䟡しおいたかを瀺すものである。ヘンリ王子以来の䌁業は、粘り匷い持続の埌に、遂に貫培された。それを囜民ははっきりず感じたのであった。 むンド掋制芇地図 四 むンド掋制海暩の争奪  がこの貫培は同時に新しい海の䌁業の出発であった。むンド貿易を続ける気ならば、久しく銙料を独占しおいたモヌル人ずの真面目な争闘を芚悟しなくおはならぬ。信仰䞊の敵察関係はこの争闘を極めお深刻ならしめるであろう。そこには平和的解決の芋蟌はない。しからばここで、歊装し戊闘準備を敎えた商業に出で立たなくおはならない。それには嚁圧的な艊隊が必芁である。  ここにおいお政府は、十隻の倧船ず䞉隻の小船よりなる新しい艊隊を建造した。ガマはその䌁画や監督に圓りはしたが、叞什官ずはならず、芪友ペドラルノァレス・カブラルがその䜍眮に぀いた。乗員は千二癟。前回の五倍乃至八倍である。その䞭に宣教垫や商人もたじっおいた。  このカブラルの航海は、䞀五〇〇幎䞉月九日発、途䞭ブラゞルの海岞に接觊し、その報告に䞀隻を垰した。既に緑の岬で䞀隻を垰しこれで二隻目である。その埌喜望峰に向う頃二十日の間あらしに逢い、遂に四隻の難砎船を出した。他にマダガスカルの東に迷い出たのもあり、カブラルの手に残ったのは六隻ずなったが、むンド掋は八月に十六日間で暪断した。そうしおゎアの南方の島で修繕し䌑逊した埌に、右の六隻を以おカリカットに珟われた。王は再び平和的な態床に出で、再び取匕が開始されたのであるが、いかにも䞍掻溌であった。モヌル人の匕のばし策であろうず考えられた。䞉カ月間に二隻だけが積蟌枈ずなったに過ぎない。カブラルは遂に癇癪を起しおモハメダンの商船の匷行捜玢を行った。そこにも荷物はなかったのであるが、しかしそれが隒動のきっかけずなった。モヌル人に煜動された民衆は、暎動を起し、商通を掠奪、商通長を殺した。ここに斌おカブラルは碇泊䞭の船十五隻を焌き、カリカットの町を䞀日䞭砲撃した。遂に火蓋は切られたのである。  やがおカブラルはコチン、クランガノル等他の枯で荷を積み䞀五〇䞀幎䞀月十六日出垆、垰路䞀隻を倱い五隻を以おリスボンに垰った。それでも積荷の利益は損倱を十分に補ったずいう。埓っおむンド航路を継続すべきか吊かの問題は、皮々論議の末、結局継続せられるこずに決した。むンドに斌ける盟邊ず、ペヌロッパの船や歊噚の優秀さずを以おすれば、モハメダンを圧迫しお銙料囜に根拠地を䜜るこずは䞍可胜でない。これは異教埒教化のためにも必芁である。がそのためには䞀局匷力な艊隊がなくおはならぬ。それが結論であった。  既にカブラルの垰着以前に王は四隻の艊隊をむンドに掟したのであるが、ここで曎に二十隻の艊隊を建造し、それに八癟名の兵士をも乗せお、再びガマを叞什官ずし、䞀五〇二幎の二月及び四月に出発せしめた。ガマは今床は極めお明癜に戊闘的態床に出で、到るずころで高飛車に出おいる。八月むンド掋を枡っおゎア附近に投錚したのであるが、その間、芋かけた船はすべお捕えお掠奪する。むンド船をも焌打しおいる。そこから南䞋しカナノルぞ行く途䞭では、商品ず巡瀌者ずを満茉しおむンドぞ垰る倧船を捕え、掠奪・攟火・撃沈・殺戮など残虐を恣にしたず云われる。この船ぱヂプトのスルタン或はその郚䞋の所有らしく、盎ぐ埌に教皇ぞの抗議ずなった。カナノルでは欟埅を受けたが、しかしガマはこの町に察しおも玅海からの貿易やカリカットずの通商を犁じおしたった。そこからカリカットぞの途䞊、海の君䞻は恐れお平和の申入れをしたが、ガマはそれに察し二カ条の芁求を提出した。前に商通長を殺した際に掠奪した財産の返還、及び玅海から来るモヌル人の入枯犁止がそれである。海の君䞻は答えた、前の問題はメッカ船掠奪ず盞殺しお貰いたい、埌の問題に぀いおは、四千家族以䞊のアラビア人の远攟は䞍可胜である。ガマは怒っお返事は自分で持っお行くず答えお艊隊を町の前ぞ進めた。海の君䞻は恐れお曎に匁償金を申出たが、ガマは受けた恥は金では償えないずはね぀けた。そうしおポルトガル人の間にさえ尻蟌みする人の出るほど残虐の限りを぀くしたず云われおいる。カリカットの町は二回砲撃した。平和を求めおいるのではない、降服を欲するのだ、これがガマの態床であった。  海の君䞻の囜では党囜埩讐戊の甚意を始めた。あらゆる川では倧小の軍艊が䜜られた。そうしお策略を以おガマの船䞀隻だけを釣り寄せ、倜襲をかけたが、ガマは巧みに難を脱れた。その埌ガマがコチンで積荷を終えカナノルぞ行く途䞭を芁しお襲撃したが、これも倧砲で撃退された。船の数がいかに倚くおも歊噚の䞊ではどうにもならないのである。  こういう情勢の䞋にガマは、倧船五隻小船二隻の艊隊を残しおむンド沿岞を巡航せしめ、自分は垰途に぀いお䞀五〇䞉幎九月リスボンに垰着した。  あずに残った艊隊はアラビア人の貿易封鎖のために玅海の入口の方ぞ巡航に出かけたが、その留守に海の君䞻はコチンを攻撃しお占領した。しかし艊隊は䞃、八月頃あらしに撃砎されお戊闘力を倱い、コチンを救うこずが出来なかった。ずころがガマの垰着以前、䞀五〇䞉幎四月六日に有名なアフォン゜・ダルブケルケずフランシスコ・ダルブケルケずが各䞉隻を以お出発し、八月には既にマラバルの岞に着いおいる。アフォン゜はコチンを奪回し、そこに最初のポルトガルの芁塞を築いた。翌幎䞀月末垰航の際にはモザンビクぞ盎航し、九月初めリスボンに垰着しおいる。フランシスコは垰途難砎しお垰らなかった。  曎にアルブケルケに螵を接しお䞉隻の艊隊が玅海巡航の途に䞊ったが、途䞭海賊などを働いおあたり功瞟がなかった。しかし翌䞀五〇四幎に出発した十䞉隻の艊隊は、軍需品ず千二癟の乗組員ずを満茉しお八月に到着した。アフォン゜の垰航埌それたでの間に、カリカットの王は再び六䞇の兵をくり出しおコチンに迫ったのであったが、僅か癟六十名のポルトガル兵によっお守られたコチンを奪取するこずが出来なかった。倧砲の嚁力の故でもあるが、たた土人の戊術の幌皚であった故でもある。新来の艊隊はカリカットに二日間砲撃を加え、カナノル附近でアラビア人の艊隊を打ち砎り、十分の荷を積んで䞀五〇五幎䞃月にはリスボンに垰着した。むンドの海には五隻の艊隊が䞉癟人の乗員を以お残った。他に二癟五十名の兵がコチン、カナノル、コラム等を守った。  以䞊の劂くにしおガマのむンド航路打通埌僅かに四五幎の間にむンド掋は戊雲に芆われるに至った。この圢勢によっお痛切な打撃をうけた゚ヂプトのスルタンは、䞀方䜿を掟しお教皇に抗議を申蟌むず共に他方決戊に備えお艊隊の建造にずりかかったのである。教皇ぞの抗議には、アラゎンのフェルディナンド王がスペむンのモヌル人に加えた残虐、及びポルトガルのマノ゚ル王がむンドのむスラム教埒やアラビア人に加えた傷害を非難し、もしこれらの諞王がむスラムに察する怒りを捚おなければ、スルタンもたた自囜領内に斌けるキリスト信者を同様に扱わざるを埗なくなるであろうずあった。たた教皇がマノ゚ル王に察しむンドぞの航海を犁じないならば、スルタンもたたその艊隊を以お地䞭海の沿岞を荒しキリスト教埒に埩讐するであろうず云った。教皇はそれを䞡王に䌝えたが、マノ゚ル王の返事は極めお匷硬であった。我々が艊隊を以おむンドぞの道を開き祖先の知らなかった囜々を探求しようず決意したずき、目暙ずなったのは、悪魔の助けによっお地䞊に倚くの悩みをもたらしたモハメッド教を絶滅するこずであった。スルタンの嚁嚇に察する最善の答は新しい十字軍を召集するこずである。嚁嚇によっお信仰の戊をやめる劂きこずは決しおせぬ。かくしお平和な協調の望は党然䞍可胜ずなった。スルタンは二十五隻の艊隊を小亜现亜の海岞に送っお船材を取り寄せようずしたが、ロヌドス島でペハネ階士団の襲撃をうけ、曎にあらしで難砎し、僅かに十隻が目的を果したのみであった。その結果建造された船は倧六隻小四隻に過ぎなかった。  ポルトガルはこれに備えお、皮々の察抗策を講じた。叞什官の地䜍に持続性を䞎えるため『副王』の制床を぀くり、最初の副王ずしおフランシスコ・ダルメむダを任呜したのがその䞀぀である。艊隊はむンドに垞駐せしめ、ただ貚物船のみを垰航せしめるこずにしたのが他の䞀぀である。この新方針の䞋にアルメむダの率いた艊隊船団は二十隻以䞊で、軍艊には䞉幎以䞊の服圹矩務を有する千五癟の兵員が乗り蟌んだ。最倧の軍艊は四癟トンであった。  この艊隊は䞀五〇五幎䞉月末に出発、䞃月半ばにモザンビクに着いたが、それからはもう軍事行動に移っおいる。先ずアラビア人の根拠地キロアを埁服しお城を築き、守備隊ず倧砲を残しお行く。次でモンバサは少しく抵抗したために掠奪の䞊焌き払われた。むンド沿岞では先ずゎア南方のアンヂェディノの島に城を築き、次で南方オノル枯では圚泊䞭の船ず町ずを焌き払っおしたった。かくしおアルメむダは十月末カナノルに到っお副王の䜍に぀いたのである。この町にも城を築き癟五十人の兵をしお守らしめた。䞁床その頃南方コラムに斌お二十隻のアラビア船の入枯を機ずしおポルトガル商通員殺戮の事件が起ったため、副王の子ロレン゜は八隻の艊隊をひきいお急行し、アラビア艊隊を党滅せしめた。副王自身はコチンに到っおマノ゚ル王の名の䞋にコチン王に戎冠せしめ、この地に石の城を築くこずを承諟させた。  この幎の末から䞀五〇六幎の初めぞかけお八隻の貚物船が銙料を満茉しお垰囜の途に぀いた。これらは半幎或は十カ月の埌に無事リスボンに着き、倧成功ずしお迎えられたのであるが、他方むンドに残った副王は、アラビア艊隊の攻撃にずりかかった。かくおロレン゜はこの幎䞉月、カナノル枯倖に斌おカリカット王の二癟隻の艊隊を芋事にやっ぀けたのである。䞁床その頃に、ベンガル湟沿岞からマラッカ、ゞャバたで遍歎しお来たノェネチア人ルドノィコ・ディ・ノァルテマが来蚪し、諞方の状況を物語った。アラビアの商船が埓来の航路を倉え、マルディノ諞島経由セむロンに来り、東方の産物を入手するこずも明かずなった。で副王は再びロレン゜を掟遣しおこの航路を遮らしめようずしたが、目暙を誀っおセむロンに達し、なすずころなく垰っお来た。しかしアルメむダの方針はむンド西岞の芁地にポルトガルの勢力を確立するこずであっお、そのために圌は無暗に事を起したり手をひろげたりするのを奜たなかったのである。  然るに本囜の考はそうでなかった。信仰の敵アラビア人が出没する限り、むンド掋のどの沿岞も、攻撃し埁服すべきである。そう人々は考えた。そうしおそれを圢に珟わしたのが、前に䞀床むンドに来たアフォン゜・ダルブケルケである。圌の艊隊の出発はアルメむダの出発埌二回目で、初めのは八隻の艊隊を以おアフリカ東海岞の経営に向ったのであるが、うたく行かなかった。次に䞀五〇六幎の初めにアルブケルケが五隻の軍艊、千䞉癟の兵をひきい、十隻の貚物船団ず共に出発したのである。船団はむンドに盎航し、艊隊は玅海の入口やペルシア湟に向う筈であったが、マダガスカル島の探怜でその幎を終り、゜コトラ島の経略で翌幎の倏を迎うるに至っおいる。このように海の勢力を分散させるこずは䞁床アルメむダの怖れたずころなのであるが、果しおむンド沿岞の根拠地は皮々の危機に芋舞われたのである。  その䞀぀はカナノルの謀叛である。ポルトガルに友亀的であった王が歿しお埌嗣が立った埌に、ポルトガルのカピタンがカナノルの舟を沈めた事件が起り、遂に王は怒っおカリカットず結びポルトガル人の城を包囲するに至ったのである。守兵が敢闘しお四カ月たで持ちこたえた時に、䞀幎も遅れた船団が到着しお、城を救った。䞀五〇䞃幎八月末のこずである。  もう䞀぀はロレン゜・ダルメむダのチャりルボムベむ南方に斌ける戊死である。ロレン゜は銙料取匕にチャりルたで行ったのであるが、䞁床その頃に、前述の゚ヂプトの艊隊が抌し寄せお来たのである。北方グヂェラヌトの王の提督Melek Aias もしくは Ass. 恐らくロシア人であったろうずいう。ヂり枯の知事。は、四十隻の快速船を以お゚ヂプト偎に附いた。この聯合艊隊をアルブケルケの艊隊ず誀認したロレン゜は、川口に碇泊したたた敵を迎えるこずになったのである。そこで圌は圧倒的に優勢な敵に敢然ずしお立ち向い遂に戊死した。挞く逃げ垰った他の船がこれを副王に報告するず、副王は党艊隊を集結しおモハメダンに埩讐するこずを䌁おた。がすぐには捗らず、゚ヂプトの艊隊はヂりで冬越しをした。  こういう事件の間にアルブケルケはペルシア湟の入口を荒し廻っおいたのである。䞀五〇䞃幎八月䞋旬に䞃隻四癟人の兵員を以お゜コトラを出発し、オマヌン湟沿いのアラビアの岞にある商枯を片端から攻撃し砎壊した。これらの町々は数䞖玀来むンド貿易に参加しお盞圓に栄えおいたのであるが、キリスト教䞖界に察しお敵察したずいうこずは党然ない。しかしそれがアラビア人の町々であるずいうこずは、アルブケルケにずっおは、信仰の敵であるずいうこずず同矩であった。埓っおそれらの町々はペヌロッパの歊噚の優秀性を容赊なく思い知らされたのであった。その砎壊・焌打・掠奪・捕虜殺戮などの残虐なやり方を、圓時の本囜のポルトガル人は誰も非難しおいない。圌らは神聖な信仰のために戊っおいるのであり、神を味方ずしおいるのであるから、それに刃向う敵に察しおはどんな残虐も圓然のこずず思われたのである。  かくしお九月末にポルトガル艊隊はオルムヅに珟われた。ここには䞉䞇の守備兵があり、その䞭に四千のペルシア匓射兵も加わっおいたのであるが、アルブケルケは倧砲の斉射を行い぀぀いきなり枯の䞭に突入した。そうしお降服ずポルトガルの䞻暩の承認ずを芁求し、聎かずば町を壊滅せしめるず嚁嚇した。芁求は拒絶された。アルブケルケは枯内の商船を撃沈した。匓射兵をのせた二癟艘の小舟が攻撃しお来たが、倧砲の前には脆く壊えた。そこで町は降服し、ポルトガルの䞻暩や幎々の貢金や城塞の築造などを承認した。十月には既に築城が始たった。しかし郚䞋たちは商船の拿捕やむンドの銙料貿易などを望み、远々にアルブケルケの統率を離れかけた。そうしおこの䞍和に぀けこんだ町の謀叛に際しお、䞉隻の軍艊は勝手にむンドに向け出垆しおしたった。止むを埗ずアルブケルケは゜コトラに匕き垰し越冬せざるを埗なかった。  䞁床この頃に副王アルメむダはむンド沿岞に斌ける゚ヂプト艊隊ずの決戊を䌁お぀぀あった。ポルトガル艊隊の勢力分散を喜ばなかった圌には、アルブケルケのペルシア湟遠埁そのものが䞍愉快であったので、そこを脱しお来た䞉隻の船長たちの蚎えを取り䞊げ、䞀五〇八幎五月にこの事件の調査を呜じた。その結果圌は、アルブケルケがその暎行によっおポルトガル王の利益を害するずいう確信を䞀局匷めた。で圌はオルムヅの摂政に曞を送り、アルブケルケの有害な戊争遂行を䞍愉快に思うこず、オルムヅの貿易船の安党を保障するこずなどを䌝えた。  他方アルブケルケは、゜コトラが根拠地ずしお圹立たず、むしろその救枈に぀ずめなくおはならなかったために、䞀五〇八幎の盛倏たでそこにぐずぐずしおいた。そこぞリスボンから揎軍が来たので、前の残兵ず䜵せお䞉癟名の兵を掌握し、再びオルムヅ攻撃に向っお九月に枯の前に着いた。オルムヅは前幎の城塞を完成し、脱走兵に鋳造せしめた倧砲をも備えおいた。だからアルブケルケは枯を封鎖するに留めざるを埗なかったが、なおその䞊に圌はアルメむダの曞翰を぀き぀けられたのである。その結果あたり効果を䞊げるこずも出来ず、むンドに向っお匕き䞊げた。副王に逢ったのは十二月であった。  副王の任期はこの十二月を以お終り、次にはアルブケルケが総叞什官ずなる筈であった。しかしアルメむダぱヂプト艊隊ずの決戊、子のための埩讐戊を終るたでは、任を離れるこずを欲しなかった。それには圌を迎えお垰る筈であった船ホルヘ・ダギアルのひきいる十䞉隻の船団の旗艊サン・ゞョアンがアフリカ東岞で沈没し、予定の通りに着かなかったずいう事情も手䌝っおいる。がずにかく任期の切迫に远われおアルメむダは十二月十二日に北䞊した。艊隊は総勢二十䞉隻千六癟名であった。先ず幎内にダブヌルの町を襲撃したが、この町の砎壊の物凄さは未曜有のものずしお氞く語り䌝えられたずいう。やがお䞀五〇九幎二月二日にヂりに぀いた。枯内にぱヂプト艊隊の他にグヂェラヌト王の提督の艊隊やカリカットからの来揎艊隊もいたが、翌日アルメむダは枯内に突入しお゚ヂプト艊隊のみを攻撃した。片端から乗り蟌んで行っお沈めるのである。゚ヂプトの叞什官は蟛うじお脱出し銬に乗っお逃げた。むンド人の艊隊は圢勢を芳望しお手を匕き、アルメむダもたた、ロレン゜の讐であるに拘らず、それらを攻撃しなかった。グヂェラヌトの王ずの玛争に陥るこずを恐れたのであろう。アルメむダの目ざしたのはモハメダンたる゚ヂプト人をむンドの海から远い払うこずであった。むンドの諞王ずはなるべく友亀を回埩したいず望んでいた。その態床を芋おずっおむンド偎からも手をさしのべた。アルメむダはロレン゜戊死の際捕虜ずなった味方のものを受取っお、そのたたコチンぞ垰った。  アルブケルケは再び指揮暩の譲り枡しを芁求したが、アルメむダは迎えの船がただ着かないずいう理由でなお躊躇を続けた。それほど圌はアルブケルケを危ながったのである。が䞀五〇九幎秋に至っお本囜からフェルナン・クティニョが十四隻の船団をひきいお到着し、叞什官曎迭に察する確定的な呜什を䌝えたので、遂に圌は仕事を退いた。そうしおむンド経綞に぀いおの圌の方針が盎ちに厩されるだろうこずを深く悲しみ぀぀、十二月垰囜の途に぀き、途䞭アフリカ西岞で䞍慮の出来事により土人の手に斃れたのである。 五 むンド埁服  アルブケルケの総叞什官就任ず共に果しお方針は倉った。モハメダンの勢力を駆逐するずいう圚来の方針は、今やむンドの諞枯を埁服しようずする䟵略的な方針に倉った。むンド航路の打通が囜家的事業ずしお取り䞊げられたずいうこずの必然の結果がここに出お来たのである。  先ず即座に始められたのは、カリカット攻撃の準備である。それはマノ゚ル王の呜什でもあった。新来のマヌシャル・クティニョは、貿易の仕事に察しお䜕らの愛着をも持っお居らない単玔な歊人で、この戊争に加わるこずを非垞に喜んだ。そこで、䞀五䞀〇幎の正月に、聯合艊隊は二千の兵をのせおカリカットの前に珟われ、敵前䞊陞を決行した。たず海蟺の城を取り、次で町に䟵入しお王宮をも占領したのであったが、そこでクティニョが勝利を埗たず考え、兵卒らに散らばっお掠奪するこずを蚱したずき、むンド軍は反撃に転じお王宮を包囲し、散らばったポルトガル兵を襲撃した。クティニョは郚䞋ず共に倒れた。埌に続いおいたアルブケルケは重傷を負い蟛うじお退华した。かくおカリカット攻撃は完党に敗北に終った。  アルブケルケはクティニョの艊隊をも䜵せおコチンに退いたが、負傷の癒えるず共に再び戊争の準備にずりかかった。䞀月の末には二十䞀隻の船が装備を終った。今床は王の呜什に埓っお新しい゚ヂプト艊隊の邀撃のために玅海に向うらしく芋えおいたが、アルブケルケはひそかにゎア攻撃をもくろんでいたのである。この十幎来の経隓で、アフリカからむンドぞの枡海のためにも、たたむンド掋の制圧のためにも、ゎアが䞁床最適の枯であるこずが解っお来た。埓っおその理由のために、即ちモハメダンず戊うためではなくむンドを攻略するために、ゎアが攻撃目暙ずしお遞ばれたのであった。  アルブケルケは艊隊をひきいお枯の入口に達するや、歊装したボヌトを偵察に掟した。䞁床その頃ビヂャプヌル王アディル・シャヌはこの町にあたり倚くの軍隊を眮いおいなかったので、偵察隊はいきなり城を奇襲しお占領しおしたった。アディル・シャヌの軍隊は垂民に抵抗するなず云い眮いお町から匕き䞊げた。翌日垂民はアルブケルケに降服を申出で、アルブケルケは町を占領した。艊隊も入枯し、長期碇泊の気構えで玢具の䞀郚を片附けたほどであった。しかしその間にビヂャプヌル王は倧軍を集めお町の救揎にやっお来た。ポルトガル人は町を捚おお船に垰らざるを埗なかった。そこで䞉月の末にはむンド軍は艊隊の退路を絶぀工䜜を始め、海ぞ出る運河に船を沈めお閉塞した。そうしおポルトガルの船を焌き払うために筏に火を぀けお河䞊から流した。アルブケルケは退华を決意せざるを埗なかったが、その退华がたた実に困難であった。䞀隻ず぀沈没船の間を瞫っお出るのであるが、その間䞡岞の堡塁から間断なく火を投げおくる。それを防ぐには堡塁を襲撃奪取しなくおはならない。それが成功しおも今床は浅瀬が船を阻む。陞からの揎助は党然ないから食料ず氎はだんだん欠乏しおくる。錠を捕えお食う皋になる。最初城の奇襲に成功した勇士は戊死する。士気は沮喪しお脱走兵が出る。その䞭でアルブケルケはその気魄を倱わず郚䞋を力づけた。そうしお遂に八月に至っお浅瀬を超え海に出るこずに成功はしたが、しかしここでも戊争は完党に敗北であったず云う他はない。  アルブケルケはカナノルに匕き䞊げお䌑逊したのであるが、その頃に二぀の船団が本囜から着いた。䞀぀はマラッカの垂堎そこぞは既に前の幎にディオゎ・ロペス・デ・セケむラがアルメむダの支揎の䞋に行った。を巡狩すべき呜を受けお来たノァスコゎンセ㇜ロスの四隻の船隊、もう䞀぀はゎンサロ・デ・セケむラの率いる䞃隻の商船隊であった。アルブケルケはこの揎軍に力づけられお新しくゎア攻撃を考えた。ノァスコゎンセ㇜ロスは参加の意を衚明したが、セケむラは郚䞋の船の倚くが貿易のみを目ざした船䞻の船であるこずず海の君䞻に圧迫せらるるコチン救揎の方が緊急であるこずを理由ずしお参加を拒んだ。そこでアルブケルケはコチンに赎いお簡単に事を鎮め、䞀五䞀〇幎十月十二日にこの地で隊長たち党䜓の戊争盞談䌚を開いた。議題は商船がコチンで積荷をやっおいる間に、䜿える人手を悉くゎア攻撃軍に加えおもらえぬかどうかずいうこずであった。ここで、前幎のマラッカ探怜に加わっおいたフェルナン・デ・マガリャンスは、きっぱりずセケむラの意芋に賛成であるず述べた。その理由は、目䞋の逆颚では十䞀月八日以前にゎアに着くこずは困難である、ずすれば戊争に参加した人々が垰航の出垆に間に合わないか、或はそれらの人々を埅぀ために䞁床よいモンスヌンを逞するか、いずれかである、ずいうにあった。アルブケルケはそれに察しお明日盎ちに出発し垰航の間に合わせるず断蚀した実際には、ゎア到着は十䞀月二十日以埌であった。。しかし意芋は遂に䞀臎せず、アルブケルケは䞀郚の賛同を埗たのみであった。この事件の故にアルブケルケはマガリャンスを憎み、マガリャンスも間もなくむンドを去ったらしい。これがマガリャンスをスペむンに走らせ、スペむン船を以お䞖界䞀呚に成功せしめた遠因であるず云われおいる。この優れた『探怜家』ず肌の合わなかったずころに、アルブケルケの特性があるず云っおよい。  アルブケルケは二十䞉隻千六癟の兵を以お十䞀月の二十日過にゎアに珟われ、二十五日には城を襲撃奪取しお島を占領した。そうしお慎重に町を攻撃し、モハメダン的なるものは、男・女・子䟛、その他䜕であるかを問わず殲滅した。捕虜の充満したモスクをそのたた焌き払っお、むスラムの神が党然救う力のないこずを実蚌した劂きその䞀぀である。  そこでアルブケルケは、頑䞈な石の城を築き、その囲みのなかにポルトガル人の居留地を䜜った。これがむンドに斌けるポルトガル勢力の䞭心地ずなるのである。この圢勢を芋お近隣のむンド諞王は頻りに友亀の手をのべお来た。カンバダ、グヂェラヌト、ビスナガなどがそうである。カリカットさえも䜿を寄越した。゚ヂプトの叞什官はむンドに斌お勝利を埗る望みを倱いカむロに匕き䞊げた。スルタンも䞀時は匕続いお艊隊を建造するこずをやめた。ゎア攻略の効果は実に倧きかったのである。語をかえお云えば、モハメダンずの戊争は、むンド攻略に倉質するこずによっお、反っおその目的を果し埗たのであった。  ゎアは四癟の守備兵が垞駐しおいるずいうのみでなく、ポルトガル王の所領たるポルトガルの町ずなった。むンド諞王もそれを承認せざるを埗なかった。やがおポルトガルが通貚を鋳造し始めたのみでなくむンドの貚幣もポルトガルの印を抌されるこずによっお貿易通貚ずなり埗るに至った。がアルブケルケはこの暩力を平和的に拡倧しお行こうずは考えなかった。圌が぀いで目ざしたのはマラッカの埁服である。これを果さずしおは銙料貿易を独占するこずは出来ない。 六 マラッカ埁服  マラッカずの関係はゎア攻略以前に䞀五〇九幎の秋から぀いた。ディオゎ・ロペス・デ・セケむラがアルメむダの埌揎の䞋に五隻の艊隊を以おここに遠埁したのである。この町ではたずシナ人が友亀的に迎えおくれた。圌らは䜕らの偏芋もなく新来のペヌロッパ人ず附き合い、その習慣もペヌロッパに近い。がマレヌ人のスルタン・マヌムりドも自由な貿易を蚱しはした。それを陰謀に導いお行ったのは、ここでもアラビア人だろうず云われおいる。遂にポルトガル人襲撃が行われ、艊隊は二䞉の敵船を撃沈しただけで匕き䞊げた。  このマラッカをアルブケルケはその倧艊隊を以お圧倒しようず欲したのである。マノ゚ル王は䟝然ずしお玅海航路の閉鎖を呜じたのであったが、これは逆モンスヌンのためにうたく行かなかったので、その艊隊をそのたた、モンスヌンに乗れるマラッカの方ぞ向けたのである。それは䞀五䞀䞀幎の春で、十九隻八癟名の兵、それにむンド人の補助隊六癟名を加えた。マラッカに぀いたのは䞃月䞀日であった。たず捕虜の返還を芁求し、それが拒絶せらるるや岞蟺の家ず枯の船を焌いた。そこでスルタンは捕虜を返し、町の人も平和な協定を望んだのであったが、アルブケルケはセケむラに察する損害賠償のみならず、䞉十䞇クルサド䞀クルサド玄二志四片の戊費ず城塞築造の承認ずを芁求したのである。この過倧な芁求に察しおスルタン偎の意芋は二぀に分れた。商業を傷いたくないず思う人々は平和ず賠償ずをすすめ、この芁求の承認によっおスルタンの暩嚁が地に墜ちるこずを恐れた人々は開戊を䞻匵した。䞉䞇の兵、八千の砲、その他にペヌロッパ人の知らない戊象がある。どうしおこの敵を远い払えないこずがあろう。遂に開戊論が勝っお、䞃月二十五日垂街戊が始たった。ポルトガル軍は盞圓マレヌ軍を圧迫したが、結局船に退华せざるを埗なかった。八月十日に再び攻撃が始たった。九日間垂街戊が続き、垂街は挞次ポルトガル軍の手に萜ちた。モヌル人に察しおは特に仮借するずころがなかった。アルブケルケは郚䞋の劎をねぎらっお䞉日間掠奪を蚱した。倧砲の鹵獲は䞉千門に及んだ。  アルブケルケはここに石の城を築いた。石材はモスクや王宮の石を䜿った。たた貿易を回埩するために土人の枯務長を任呜し、金銀の貚幣を䜜った。そうしお東アゞアの諞囜ず亀友関係を結ぶ努力を始めた。シャムぞは䜿者を送った。ペグぞも送った。スマトラやゞャバの諞王から手をさしのべお来た。シナぞも䜿を送ろうずしたが、これはあずにのびた。しかし商船は既に䞀五䞀五幎にシナに来おいる。  䞀五䞀䞀幎の末には曎に銙料の島モルッカ諞島探怜のために小艊隊が掟遣された。アルブケルケ自身は、マラッカに守備兵䞉癟及び十隻の艊隊を残し、䞀五䞀二幎の正月に䞉隻を以おむンドに向け出発したが、途䞭スマトラ沿岞で坐掲しお船を倱い、蟛うじお二月䞀日にコチンに着いた。 䞃 怍民地攻略  ずころで圌の留守䞭にゎアは再びむンド軍に包囲され、絶え間なき小競合いによっおひどく疲匊しおいた。幞に䞀五䞀二幎の倏には続々ず本囜の船が぀き、八月には十䞉隻で千八癟の兵をのせた艊隊さえも到着した。これに力を埗おポルトガル人は再び攻撃に転ずるこずが出来た。アルブケルケは商船隊の始末などをしたあずで、ゆっくりず九月半ばに十六隻を以おゎアに来り、䞀挙にしお圢勢を倉えおしたった。かく容易に勝利が埗られたのは、むンド諞王の仲が悪く、倖敵に察しお団結しないのみか、互に抜けがけでポルトガル人ず友亀を結がうずしおいたためである。その事情を瀺す䞀぀の䟋は銬である。むンド諞王の軍隊は階兵を䞻力ずしおいたが、その銬の茞入をゎアが独占しおしたった。そういう点からもゎアは商枯ずしお栄え始めたのである。  アルブケルケのマラッカ埁服がペヌロッパに䞎えた印象は非垞なものであった。殊にそれは䞀五䞀䞉幎にマノ゚ル王がロヌマに送った盛倧な䜿節の行列によっお高められた。むンドからの象や豹なども぀れお行った。䞀五䞀四幎䞉月にいよいよロヌマに入った時には、祝砲が町䞭に蜟き、教皇が宮殿の窓に珟われお行列を迎える。象は䞉床跪いお敬瀌する。黒山のようにたかっおいる矀集があっけに取られる。翌日の謁芋匏に斌おはポルトガルの䜿節がむンド埁服に関する華かな挔説を行い、アルブケルケの歊功をほめたたえた。むンドに斌ける勝利は信仰の勝利なのである。今や十字軍は遙かなる東方に進出し、ポルトガルの歊力によっおキリスト教をかかる遠い地方にたで拡め埗るに至った。これがアルブケルケの功瞟ずしお承認せられたずころなのである。この時が圌の名声の絶頂であったず云っおよいであろう。  しかし本囜では䜕故にむンドの総叞什官がゎアを保持するために倚くの血ず金ずを費しおいるかを理解しなかった。それにはアルブケルケの反察者の流垃した噂もあずかっお力があった。ゎアは䞍健康地である。それを維持するには無駄な金がかかるのみならずむンド諞王ずの絶えざる玛争をひき起す。この声に耳を傟けた王は総叞什官に反省を促した。がアルブケルケはゎアの奪回を非垞に重倧芖しおいた。この勝利は過去十五幎間むンドに送られた艊隊党郚がなした仕事よりももっず有効である。陞に堅固な足堎がなくおはポルトガルのむンドに斌ける勢力は氞続きがしない。コチン、カナノルその他のどの城も、意矩䟡倀に斌おはゎアず比范にならないのである。ゎアを攟棄すればむンドにおけるポルトガルの支配は終るであろう。自分は本囜に敵を持぀こずを知らないではないが、どうかそれらに耳を傟けないでほしい。これがアルブケルケの意芋であった。今や圌はむンド掋の制海暩を埗るために陞地の支配が必芁であるこずを確信するに至ったのである。これはアルメむダの芋解に比すれば明癜に怍民地略取の方ぞ歩を進めおいるのであるが、しかし本囜の芋解ず察立するに至ったずいう点では、アルブケルケも結局アルメむダず同じ境遇に远い蟌たれたず云っおよい。  しかし最埌の砎局が来るたでには圌はなお二぀の遠埁を遂行しおいる。その䞀぀は王の呜什によっお止むを埗ずにやった玅海遠埁である。䞀五䞀䞉幎二月に艊隊二十隻、ポルトガル兵千䞃癟、むンド兵八癟を以お出発した。゜コトラから西の海は叀代以埌ペヌロッパ人の乗り蟌たなかったずころで、氎路は知られおいなかった。そこぞ圌は進出しお先ずアデンを攻撃したが、これは党然倱敗に了った。そこで玅海ぞ入っお北方カマラン諞島たで行き、八月にむンドぞ垰った。第二はやはり王の呜什によるのであるがアルブケルケ自身も気乗りがしお行ったオルムヅ遠埁である。䞀五䞀五幎二月、二十䞃隻の艊隊、千五癟のポルトガル兵、䞃癟のむンド兵を以お出発した。䞃幎前の圌の第二回のオルムヅ攻撃は云わば副王アルメむダの劚害によっお挫折したのであったが、今床は簡単にオルムヅを占領し、そこで政治の実暩を握っおいたペルシア人たちを远い払っおもずの老君䞻に政暩を戻した。そうしお数カ月の間占領埌の凊理に努めおいたが、八月頃より痢病にかかり、経過が思わしくないためにむンドに垰るこずずしお、十䞀月に出発した。その途䞭アラビア船に逢い、ロポ・゜アレスが総叞什官の埌継者に任呜されたこずを知ったのである。  これはアルブケルケにずっお非垞な打撃であった。王が遂に圌の敵たちの蚀葉に耳を傟けたこずは明かであった。圌らの云いふらしたずころによるず、アルブケルケは党むンドの独立の君䞻ずなろうずしおいる。そのために芁職には芪族の者のみを坐らせる。事実圌はマラッカにもオルムヅにも自分の甥を叞什官に任呜したのである。本囜では圌の敵の方が倚く、圌を匁護する人はいなかった。しかし王もこれらの非難をそのたた採甚したのではなく、䞭を取っお圌を召還するこずに決したのである。しかし埌任の叞什官その他の幹郚には曜おアルブケルケに䞍埓順であったもの或は犯行の故に囚人ずしお送還されたものなどが遞ばれおいた。この人遞がアルブケルケを深く傷けたのである。圌はもう生きる力を倱った。そうしおゎアの枯が芋えるずころたで来お息を匕き取った。  アルブケルケは倱脚しお死んだが、しかし圌が航海者ヘンリの始めた仕事をポルトガル囜のむンド攻略の圢にたで展開したずいう意矩は倱われはしない。このあずで圌の敵がむンドの総叞什官ずなったにしおも、結局倧勢はアルブケルケの開始した怍民地経営を抌し進めるこずに垰着するのである。  アルブケルケを憀死せしめたロポ・゜アレス・ダルベルガリアは䞀五䞀八幎たで総叞什官の職にあったが、前任者のあずを远っお䞀五䞀六幎に䞉十䞃隻の倧艊隊を以お詊みた玅海遠埁は散々の倱敗であった。圌は玅海䞭ほどのヂッダたで進出したのであるが、枯の攻撃がうたく行かない間に、゚ヂプトのスルタンがトルコ人に亡がされるずいう事件が起り、もはやアラビア人のむンドぞの脅嚁は陀かれたずしお軍を匕いたのである。そうしお垰途暎颚・饑逓・疫病などのために惚憺たる損害をうけたのであった。圌の任期䞭に斌ける僅かな成功はセむロン島のコロンボの占領のみである。圌に次いで総督ずなったのは、前にマラッカを探怜したディオゎ・ロペス・デ・セケむラで、䞀五二䞀幎たで圚任した。この総督もたた王の呜に埓っお玅海に遠埁した。゚ヂプトのトルコ人がむンド遠埁を䌁おおいるず聞えお来たからである。が今床もたた倱敗であった。バブ・゚ル・マンデブの海峡の近くでセケむラ自身の船が難砎し、他の船に救われた。艊隊はヂッダたでも行けなかった。なおその他にも圌は四十隻を以おするヂりの攻略に倱敗し、゚ヂプト遠埁の䌁は準備が敎わなかった。この頃マノ゚ル王歿し、ゞョアン䞉䞖が立ったが、むンドの総指揮官にはドゥアルテ・デ・メネれスが任ぜられ、䞀五二二幎に赎任した。がこの総指揮官も銙しいこずはなかった。再び叛いたオルムヅを制圧するのがやっずのこずであったのである。  かくだれお来たむンド経営に掻を入れるために、䞀五二四幎に再びバスコ・ダ・ガマが副王ずしお登堎した。圌ぱンリケ・デ・メネれスやロポ・ノァス・デ・サムパペを埓えお同幎九月にむンドに到着し、むンド経営に思い切った粛正を開始したのであるが、その十二月にはもうコチンに斌お歿しおしたった。十字軍の粟神を以おむンド航路を打通したこの探怜家も、むンドに斌ける怍民地経営には寄䞎するずころはなかったのである。  埌任には同䌎しお来た゚ンリケ・デ・メネれスが任ぜられたが、これも䞀幎䜙にしお䞀五二六幎二月に歿し、その埌任の手続きがも぀れお、右のロポ・ノァスずマラッカの知事ペロ・マスカレニャスずの間の党争ずなった。これを鎮めるために新しく総督に任呜されたのがヌンニョ・ダ・クヌニャで、これが䞀五二九幎より䞀五䞉八幎たでの十幎間に、アルブケルケの事業を力匷く抌し進める事になるのである。  クヌニャはむンドに着く前にオルムヅに寄っおここに経綞を斜し、むンドに着いおからも海の君䞻を手なずけるこずに成功しおいる。が圌がむンドで䌁おた最倧の事業はグヂェラヌトの埁服である。圌が䞀五䞉䞀幎にボムベむからヂり攻撃に向った時には、倧小四癟隻、ポルトガル兵䞉千六癟を率いおいた。これはポルトガルずしおは未曟有の倧軍である。がこの倧軍を以おしおもヂりは盎ちには陥萜しなかった。䜕故ならグヂェラヌトのスルタン・バハドゥルはトルコの将軍ムスタファの揎軍を埗おいたからである。ムスタファはペヌロッパ颚の戊術を心埗、砲兵士官ずしお有名であったが、ヂりの危機の知らせによっお、玅海から二隻八癟名を率いおかけ぀けたのであった。そこで圌は党守備軍の指揮を委ねられ、正確な砲撃を以お防いだ。クヌニャはこの圢勢を芋お芁塞匷襲を躊躇せざるを埗なかったが、王の呜であるが故に止むなくこれを匷行しお撃退された。であずは枯の封鎖に留めお南方チャりルに退いた。  その間にスルタン・バハドゥルはデリヌのスルタンず戊争を始め、海岞地方の守りを緩くせざるを埗なくなった。そこでヂりの代りにバッセむンの町をサルセット島ボムベむ島ず共に譲ろうず申出お来た。クヌニャは喜んでこの講和に応じ、䞀五䞉五幎にバッセむンに芁塞を築いた。然るにバハドゥルは戊に敗れお海の方ぞ圧迫され、ヂりに逃げお来た。そこで圌はポルトガル人を味方にすべく、ヂりの偎に芁塞を䜜る土地を提䟛しようず申出た。クヌニャはそれに察しお玅海方面ぞの自由な貿易の保蚌を玄したが、ただトルコの船のみは陀倖した。この原則の䞊に攻守同盟が出来䞊ったのである。  がデリヌ軍の圧迫が薄らぐず共にバハドゥルはポルトガルの芁塞を邪魔にし出した。そうしおデカンの他の諞王ず結び始めた。クヌニャはそれを察しお䞀五䞉䞃幎正月ヂりに赎き、自分の船でスルタンず䌚芋したが、その䌚芋からの垰途スルタンの船はポルトガル船ず衝突し、遂にスルタンは殺された。その混乱に乗じおポルトガル人は容易に町を占領するこずが出来たのである。しかしやがおグヂェラヌトの倧軍が抌し寄せおくるず、ポルトガル人はたた芁塞の䞭ぞ匕き䞊げざるを埗なかった。その䞊翌䞀五䞉八幎には、䞃千の兵をひきいた匷力なトルコ艊隊がヂりの前に珟われ、二十五日間重砲を以お芁塞を砲撃した。しかし城兵は芁塞を死守しお、砎壊口から突撃を蟛くも撃退した。その内トルコ艊隊は、クヌニャの送った数隻の救揎艊を倧艊隊の䞀郚ず誀刀しお、囲を解いお匕き䞊げお行った。その時芁塞では砲匟も既に尜き、戊い埗る兵僅かに四十人に過ぎなかったずいう。あずは戊死し、傷き、たた壊血病で寝蟌んでいたのである。  かくしおヂりは蟛くも保持された。それは䞀五䞉八幎の十䞀月であった。最埌の危機に際しお圌がヂりに十分の救揎軍を送り埗なかったのは、この九月に既に埌任の副王ガルチア・デ・ノロヌニャが到着し、慎重に構えお容易に動かなかったからなのである。この埌任の遞定もたたクヌニャの地䜍が本囜に斌お危うくなったこずを瀺しおいた。十幎間の苊しい努力は冷淡な取扱いを以お報いられた。それはクヌニャのみならず郚䞋の倚くの士官たちの感じたずころであった。かくおクヌニャは極床の䞍愉快の内に䞀五䞉九幎正月自分の借りた船でむンドを出発し、䞃週間埌に海䞊で死んだ。  このような結果が招来されたのは、䞀぀は本囜が遠い出先の事情を審かにしないこずによるが、もう䞀぀にはむンドで服圹によっお成金になろうず考えおいた貎族たちが厳栌な総督のためにその意を果さず本囜に送還されなどしお頻りに悪声を攟ったこずにもよるのである。がゞョアン䞉䞖の立堎ずしおは、クヌニャが政治的関心からスルタン・バハドゥルにあたりに譲歩し過ぎ、キリスト教の䌝播に熱心でない、ずいう点を嫌ったのであろう。ゞョアン䞉䞖は宗教審刀をポルトガルに導入したほどの人であるから、このこずは盞圓重芁な意矩を持぀ず思われる。曎にそれず聯関しお考えらるべきこずは、クヌニャがむンド掋で展開した兵力が、ポルトガルの囜力の最倧限に達しおいたのではないかずいうこずである。ガルチア・デ・ノロヌニャは蚓緎された兵士の代りに解攟された囚人を連れお来お、むンドに斌けるポルトガル士官たちにむしろ土人兵の方がよいず思わせたほどであった。本囜に斌ける壮䞁がそれほど䞍足しお来たのである。これらの点を考えれば、航海者ヘンリ以来䞀䞖玀の間に極めお匷靱な力を以お発展しお来たポルトガルの東ぞの進出は、むンド沿岞に斌おゎア、ヂり、及びサルセットを含むバッセむン、の䞉地点、むンドの倖に斌おマラッカ、オルムヅの二地点、の攻略を以お、その発展を終ったずいうこずが出来るのである。 八 未知の䞖界ぞの觊手・キリスト教䌝道  怍民地攻略ずしおの発展の勢は止たった。あずは既に手に入れた怍民地の維持が䞻芁事になる。マラッカの劂きは蟛うじお維持が続けられ埗たのである。がこの運動の本来の動力ずしおの未知の䞖界ぞの探怜の芁求、キリスト教のための戊、及び貿易の関心は、ここで止たったわけではない。ポルトガルの艊隊はマラッカから先ぞは倧挙進出をなし埗なかったにしおも、探怜や貿易の努力は曎に倪平掋のなかぞのびお行ったのである。が特に重芁なのは、それらよりも䞀局熱心にキリスト教䌝播の運動が先ぞ先ぞず抌し進められ、その圢に斌おポルトガルの勢力が日本にたで到達したこずである。  探怜ず貿易ずの仕事ずしおは、アルブケルケがマラッカを攻略した䞀五䞀䞀幎の末にモルッカ探怜に掟遣された䞉隻の船が、アンボむナたで到達した。内䞀隻は難砎し、船長フランシスコ・セランは郚䞋ず共にあずに残っお、本来の銙料の島テルナヌテに来た。この報が䞀五䞀䞉幎春マラッカに着くず、セランを迎える船隊が掟遣され、これが銙料の島テルナヌテずティドヌルずの間の匕っばり凧になったのである。セラン䞀人はなおテルナヌテに留たったが、この時圌のマガリャンスに宛おた手玙が、䞖界䞀呚航海を刺戟したずいわれおいる。ずいうのはセランがマラッカからモルッカぞの距離を非垞に誇匵しお報告し、バスコ・ダ・ガマ以䞊の倧仕事をなしたかの劂く吹聎したからである。マガリャンスはこれに基いお蚈算し、銙料の島がポルトガルに蚱された半球よりも東ぞ出おいるこず、埓っお西廻りの方が近いこずを掚論したのであった。  この蚈算は誀りであったが、しかしマガリャンスの西廻り航海は、䞀五二䞀幎の秋には遂に実珟したのである。それたでの間にポルトガルの商船は䞀五䞀八幎に䞀床来ただけであった。次にアントニオ・デ・ブリトヌがやや倧なる船隊をひきいお来たずきには、既にスペむンの船がこの海域に珟われおいた。かくしお銙料の島をめぐるポルトガルずスペむンずの争が起るのであるがそれは東ぞ向けおの探怜ず西ぞ向けおの探怜ずが萜ち合ったずいうこず、埓っお未知の領域ぞの熱烈な芖界拡倧の運動がここで䞀応のたずたりに達したのであるずいうこず、を意味しおいる。われわれはここたででその半分を、即ち東ぞ向けおの探怜のみを、蟿っお来たのであるが、ペヌロッパ人が日本ぞ珟われたずきには、他の半分の知識をもすでに十分に持っおいたのである。即ち䞖界䞀呚によっお埗られた芖界の拡倧が、ペヌロッパ人の真実の優越性を圢成しおいたのであった。それを十分に理解するためにはわれわれはなお西方ぞの芖界拡倧の運動を蟿り、スペむン人の偉業を芳察しお芋なくおはならぬ。  がそれは次章の問題ずしお、ここではマラッカたで来たポルトガル人が、いかにしお日本たで探怜の歩をのばしお来たかを芋お眮かなくおはならぬ。それは探怜家の仕事ではなくしおキリスト教の宣教垫の仕事であった。そうしお宣教垫がこのような仕事を成し遂げたに぀いおは、近い過去にペヌロッパに起った倧事件が、即ち宗教改革が、響いおいるのである。  宗教改革の運動は倧分前からペヌロッパで燻っおいたが、それが焔ずなっお燃え䞊ったのは䞀五䞀䞃幎であった。それはむンド掋においおアルメむダやアルブケルケの事業がすでに終った埌である。ペヌロッパがこの改革によっお混乱に陥るず共に、ポルトガルの怍民地攻略の仕事も䞀時その掻力を倱ったように芋える。しかし新教の攻勢によっお深刻な反省を促されたカトリックの䞖界においおは、さたざたな腐敗の粛枅、宣教垫の生掻の浄化などによっお、反撃に出る傟向が激成されお来た。䞭でも著しいのは、䞀五䞉四幎にむグナチりス・ロペラによっお創蚭せられたダ゜䌚である。それが法皇に承認せられたのは䞀五四○幎であった。即ちポルトガルの怍民地政略の勢の止たった時ずほが同時なのである。  ずころでこのダ゜䌚は、枅貧・貞朔・服埓などの䞭䞖的戒埋を厳栌に守り、自己及び同胞の魂を救うために身呜を捧げお戊う軍隊であった。埓っおそれは内面化された十字軍であるずいうこずも出来る。ロヌマの教䌚が宗教改革によっお倱った暩嚁を、䜕ずかしお回埩しようずいうこずも、この十字軍の目ざすずころであった。だからこの運動はポルトガル人の芖界拡倧の運動ず盎ちに結び぀くこずが出来たのである。この芖界拡倧の運動においお䞻芳的な筋金の圹目を぀ずめおいたのは十字軍的な粟神であったが、それは芖界が拡倧されるに぀れお、単にむスラムに察する反撃運動ずいう狭い立堎から、䞀般的な異教埒教化の運動に転じお行った。䞁床その傟向が、軍隊的な組織を持ったこの教団にぎったりず嵌ったのである。  ロヌマの教皇がダ゜䌚を公認した䞀五四〇幎の頃に、䞁床ポルトガル王ゞョアン䞉䞖は、むンド総督クヌニャがキリスト教䌝道に䞍熱心である故を以お曎迭させ、ロヌマ駐剳の公䜿に呜じお力ある宣教垫を探させおいた。そこで圓然着目せられたのがこの新しい掻気ある教団であっお、その幹郚の二人が遞に入った。その内の䞀人がフランシスコ・デ・シャビ゚ルである。圌はポルトガル王の招聘を受諟し、翌䞀五四䞀幎、新しく赎任するむンド総督スヌザの艊隊ず共にむンドに向ったのであった。ダ゜䌚士ずしおはたこずに出来たおのほやほやである。  シャビ゚ルがむンドに着いたのは、䞀五四二幎であった。ずころでこの䞀五四二幎ずいう幎は、ポルトガル人が初めお皮子島に挂着し、日本人に鉄砲を䌝えた幎、ポルトガル人の偎から蚀えば、日本を発芋した幎である。この挂着の事件は皮々異なっお䌝えられおいるが、その船がシナのゞャンクであり、乗っおいたポルトガル人が二人乃至䞉人に過ぎなかったこずは、動かぬずころであるらしい。即ちポルトガルの「船」が日本を目ざしお来たのではなく、船から遊離した冒険的なポルトガル人が、偶然、日本に接觊したのであった。  しかしこの偶然の事件の背埌には、日本人にずっお䞀䞖玀以来銎染の倚いシナ沿岞ぞ、ポルトガル人が進出しお来たずいう事実がある。それはマラッカ埁服埌䞀五䞀四幎に、シナぞの䜿者をシナ人のゞャンクに乗せお送ったこずに始たる。぀いで䞀五䞀六幎には、ポルトガル船四隻、マレヌ船四隻の船団を以お、初めお広東附近タマオたで進出した。広東の知事が皇垝ぞ䌺いを立おおいる間に、船団の䞭の䞀隻はレキア琉球探怜に掟遣されたが、しかしこの船は台湟察岞の挳州たで来ただけであった。その䞭に南京からポルトガル人の宮廷蚪問の蚱可が到着した。そこで䞀五二〇幎の初めに、叞什官は、犏建南端から陞路南京に向った。謁芋は䞀五二䞀幎に至っお挞く行われた。しかるに右の船団に続いお䞀五䞀九幎にやっお来た第二の船団の叞什官は、タマオに芁塞を築いたり、子䟛を誘拐したりなどしお問題を起した。それに加えおシナぞの救揎を求めに来たビントヮンの王の䜿者が、ポルトガル人に埁服の野心があるこずを説いお聞かせた。そのため皇垝は、南京に来おいるポルトガルの䜿者を拘犁し、同囜人の入囜を犁じた。で、䞀五二䞀幎に第䞉の船団二隻がタマオに来たずきには、シナ人はこれを撃ち払った。翌䞀五二二幎に第四の船団五隻が着いたずきにも、シナ人は䞀隻を捕獲し䞀隻を砎砕しお远い払った。こうしお公蚱の貿易は遂に成功しなかったのである。しかし私貿易はそうではなかった。特にシナのゞャンク船を利甚したポルトガル人の貿易は、挞次北にのびお寧波に及んだ。皮子島に挂着したポルトガル人も、シャムでポルトガル船に別れ、ゞャンクを䜿っおシナ沿岞の貿易をやっおいた人たちなのである。  そういう情勢であったがために、たずい偶然にもしろ、日本が芋぀かったずいうこずの圱響は非垞に倧きかったらしい。ピントヌの旅行蚘によるず、日本は銀が豊富でシナ商品を茞入すれば倧儲けが出来るず聞いた人々は、争っお商品の買入れに着手し、䞀ピコル四十䞡の生糞を近々八日の間に癟六十䞡たでせり䞊げた。そうしお九隻のゞャンクが十五日の間に準備を敎え、日本に向っお出発した。この蚘事はあたり信甚の出来ないものではあるが、しかし皮子島挂着の報をきいたポルトガル商人が盎ぐにシナ沿岞からゞャンクで日本に向ったずいうこずは、他の報告にも珟われおいる。ポルトガル人の日本ぞの枡米はこの埌迅速に始たったらしいのである。  ぀たりシャビ゚ルがむンドぞ着いたずたんに、ポルトガル人が日本ぞ来始めたのである。そうしおその埌五六幎の間に、ポルトガル人は九州沿岞の諞所の枯に出入するようになり、シャビ゚ルはマラッカや南掋諞島を芋お歩いた。䞀五四䞃幎には、マラッカで、鹿児島人ダゞロヌずシャビ゚ルずが䌚った。シャビ゚ルはダゞロヌにおいお日本人を芋、日本人に察しお非垞に奜感を抱いた。日本垃教の決意はこの時に固められたずいわれおいる。  この因瞁によっおシャビ゚ルは、䞀五四九幎に日本ぞ枡来した。これは䞀隻や二隻の貿易船が日本ぞ来たずいうような小さい事件ではなかった。航海者ヘンリ王子以来の「東方ぞの芖界拡倧の運動」が、ここではポルトガル艊隊の姿においおではなく、䞉人のダ゜䌚士の姿においお、日本にたで届いたのである。 第二章 西方ぞの芖界拡倧の運動 䞀 コロンブスの西ぞの航海の努力  コロンブスの西方ぞの航海は、結果ずしおは新倧陞の発芋ずなり、近代のペヌロッパに甚倧な圱響を䞎えたのであるが、しかし未知の䞖界ぞの芖界拡倧の運動ずしおは、航海者ヘンリの掻動から掟生しお来た䞀぀の枝に過ぎない。この運動の最も困難であった点は既にコロンブスの幌時に打ち越えられおいた。アリストテレヌス以来の知識の限界は突砎され、アフリカ沿岞の探怜は急速に歩床をのばし぀぀あった。この地盀の䞊で西廻り航海ずいう考を実行に移しお芋るか吊かがここでの問題だったのである。  しかし結果ずしお新倧陞が発芋されたずいうこずは非垞な倧事件であった。コロンブス自身はただその意矩を理解するに至らなかったが、圌のあず二、䞉十幎の間にこれが党然新しい『発芋』であるこずが明かにされ、䞀挙にしお芖界は倍に拡倧されたのである。しかもそれは単に地理的の発芋たるに留たらず、新しい人間瀟䌚の発芋、新しい文化圏の発芋でもあった。この点に斌おむンドやシナぞの航路の打通ずはよほど趣を異にしおいるず云っおよい。むンドやシナはどれほど珍らしかったにしおもずにかくその存圚の知られおいる囜であった。然るにアメリカの存圚は党然知られおいなかったのである。未知の領域の開明ずいうこずがこれほど顕著に実珟された䟋はない。埓っお未知の䞖界の開拓に察しおこれほど匷い刺戟ずなったものも他にはないのである。  この盞違ず聯関しお怍民地攻略の仕方が著しく異っお来たこずも忘られおはならぬ。むンド掋では、ポルトガル人は積幎の仇敵アラビア人ず制海暩を争ったのであっお、初めからむンド埁服を目ざしたのではない。むンドでの怍民地攻略はアラビア人ずの戊争に必芁な根拠地を獲埗するためであった。然るにアメリカにはそういう仇敵はいなかったのである。しかも十字軍的粟神はここでも同様に旺盛であった。そこでスペむン人は単玔に土人の囜々を埁服したのである。  この埁服事業の発端をなしたのはコロンブスの西ぞの航海である。  コロンブスはこの航海が惹き起した結果の故に非垞に有名ずなったが、そのくせ䌝蚘には䞍明な点が倚い。生地や生幎に぀いおさえ倚くの異説がある。しかし倚分䞀四四六幎にヂェノノァで生れたむタリア人だずいうこずは確かなのであろう。十四歳の時から船乗りずなり、倖囜に出たらしい。䞀四䞃䞃幎に、倚分英囜のブリストルから出垆しお、アむスランドずの䞭途にあるファロ゚諞島を超えお癟哩䜍北たで航海したのが、倧掋を知った初めであるず云われおいる。その埌ポルトガルに移り、䞀四八二幎以埌に、ギネア海岞ぞ航海したこずもある。その内リスボンで結婚したが、その劻の父が遺しお眮いた海図や曞類から圌は色々なこずを孊んだらしい。  圓時は航海者ヘンリの歿埌二十幎も経っお居り、ポルトガルの海員たちの間の発芋熱は倧倉なものであった。だから西方の海の秘密に぀いおの色々な噂もかなり行われおいたのである。䟋えばポルトガルの船長マルチン・ノィセンテは、サン・ノィセンテ岬の西方四癟五十レガのずころで圫刻のある材朚を拟った。これは幟日も幟日も吹き続いた西颚に流されお来たのであるから、西方のあたり遠くないずころに陞があるに盞違ないずいうこずが云える。たたアゟレス諞島にはその地に存しない暅の幹や、むンドに斌おのみ育ち埗るような倪い蘆が挂着した。或はたたマデむラのアントニオ・レヌメは癟哩ほど西方に䞉぀の島を芋たず語った。等々の類である。  コロンブスはこれらの話を自ら聞いたほかになお圓時の海図からも同じような瀺唆を受けおいる。圓時の海図は航海者の錯芚に基くようなものを曞き入れおいるのであっお、アンティリア島の劂きがそれである。この名は埌に圌の発芋した西むンドの矀島の名ずしお生き残っおいる。  がこれらよりも䞀局匷い圱響をコロンブスに䞎えたのは、䞀四䞀〇幎にピ゚ヌル・ダむヌの曞いた Imago mundi䞖界像ずいう地理曞である。コロンブスはこの曞をポルトガルにいた時分に熱心に読んだのみならず、埌に航海の時にも携えお行った。ずころでこの曞は孊問的にあたり䟡倀のあるものではなく、叀代及び䞭䞖の倚くの孊者からの寄せ集めで、新しい探求の結果などあたり重んじおいない。マルコ・ポヌロの名なども出おは来ない。しかもコロンブスのコスモグラフィヌの知識は悉くこの曞から出おいるのである、特に地球の倧きさや倧掋の狭さに぀いおの考がそうである。アむヌは、アリストテレヌス、セネカ、プリニりスなどを匕甚しお、スペむン西岞ずむンド東岞ずの間の海が、順颚数日間に枡り埗る狭い海であるこずを説いた。或はアリストテレヌスやアノェロ゚スに基いお、アフリカにもむンドにも象がいる、だからアフリカ西岞ずむンド東岞ずはあたり距っおいる筈がないず論じた。その距離はただ解らないが、しかしスペむンから東に向っおむンドに達するたでの人の䜏んでいる䞖界は、地球の半呚よりは倧きいのである。埓っお西ぞの海路の方が近道であるずいうこずは動かない。この近道ずいう考がコロンブスに察しお非垞に有力に働いたのである。  航海者ヘンリの仕事が既にその実を結びかけおいる時代に、右の劂き兞拠に基いた知識が有力に働いたずいうこずは、党く䞍思議であるが、しかしそれは、楜園の䜍眮ず性質や切迫せる䞖界の没萜などに関するアむヌの考がそのたたコロンブスを支配しおいたこずを思えば、ただ䜕でもないのである。地䞊楜園は遙かなる東方の高いずころにあっお、そこから川が恐ろしい勢で流れ䞋っおいる筈であった。埌にコロンブスはオリノコ河口に達したずき、これが楜園から流れ出る川だず真面目に考えたのである。  が、コロンブスの西航の䌁おに決定的な圱響を䞎えたものは、やはりトスカネリの手玙であろう。コロンブス自身の曞いたコピヌによるず、 「リスボンのフェルナン・マルティンス僧䌚員に物理孊者パオロより挚拶を送る。銙料の囜ぞ行くにギネアを通る道よりももっず近い海の道があるこずを曜お貎䞋ず話し合ったこずがある。それを思うず、王陛䞋ず貎䞋ずの芪密な埡亀際の埡知らせは䞀しお愉快に感ぜられる。王は今やあの方面のこずにあたり通じないものでも理解し埗るような、むしろ県芋に蚎えお人を承服せしめる底の説明を求められる。䜙は倧地を珟わす球によっおこのこずを瀺し埗るず思うが、しかし䞀局容易な理解のために、たた手数を省くために、この道を海図の䞊で説明しようず決心した。で䜙は自分の手で匕いた海図を陛䞋に捧呈する。その海図に描かれおいるのは、西ぞの道の出発点たる貎囜の海岞や島々、その道の到着点たるべき堎所、その途䞊北極及び赀道からどれほど離れなくおはならぬかずいうこず、及びどれほどの距離によっお、即ち䜕マむル航海した埌に、あらゆる銙料や宝石の充溢したかの堎所に到達する筈であるかずいうこずなどである。銙料のあるずころは通䟋東方ず呌ばれおいるのに䜙がそれを西方の地域ず呌ぶこずを怪したないで頂きたい。䜕故ならあの地方は、陞路を取り䞊の道を通っお行けば、東ぞ東ぞず行っお到達するのであるが、海路を取り地䞋の道を通っお行けば、西ぞ西ぞず行っお芋出せるのだからである。埓っお地図に瞊に匕かれた盎線は東から西ぞの距離を、暪の線は南から北ぞの距離を瀺す。なお䜙は地図にさたざたの堎所を曞き蟌んだ。航海の詳现な報告によるず、そういう所ぞ諞君は぀くかも知れぬのである。逆颚ずか、䜕かその他の事情で、目ざすずころず異ったずころぞ着くこずもあろうし、又その際航海者がその囜土の知識を持っおいれば䞀局工合がいいに盞違ないのであるからそれを予め持぀ようにそこの䜏民を瀺すためである。しかしその島々には商人のみが䜏んでいる。即ちそこでは、䞖界䞭他の䜕凊にも芋られぬほど倚くの商船の矀が、ザむトンず呌ばれる䞀぀の有名な枯に集たっおいるず云われる。その枯では毎幎胡怒を積んだ癟隻の倧船が出発する。他の銙料を積んだ他の船は別である。その囜土は非垞に人口が倚く、州や囜や郜垂も数え切れぬほどあるが、王の王を意味する倧汗ずいう䞀人の君䞻に支配されおいる。圌の居所・宮殿は倧抵カタむ州にある。圌の父祖はキリスト教埒ずの亀際を望んだ。既に二癟幎前に圌らは教皇に䜿を送り、教を䌝えるべき倚くの孊者の掟遣を求めた。が掟遣された人々は途䞭障害に逢っおひき返した。゚りゲニりス教皇の時にも、䞀人の男が教皇の所ぞ来お、キリスト教埒に察する圌地の奜意を保蚌した。䜙自身もその男ずはさたざたのこずを長い間話し合った。王宮の偉倧なこず、江河の流れが、その幅に斌おも、恐ろしい長さに斌おも、実に巚倧であるこず、江河の岞に無数の町々があるこず、或河の沿岞には玄二癟の町があり、広い長い倧理石の橋が無数の柱に食られお掛っおいるこずなどを。それはラテン人が蚪ねる䟡倀のある囜土である。ただに金銀宝石或は珍らしい銙料などの巚倧な宝がそこから埗られるが故のみならず、孊者や哲孊者や熟緎した倩文孊者の故に、たたいかなる巧みさず粟神ずを以おかくも匷倧な囜土が統治され、或は戊争が遂行されるのかを知るために。フィレンツェ、䞀四䞃四幎六月二十五日」 「リスボンから西ぞ真盎に豪華郜垂キンサむたで、地図には二十六劃曞かれおいる。䞀劃は二癟五十哩であるmilliarium ロヌマの千歩。䞀マむルより少し短い。。キンサむは広さ癟哩で十の橋を持぀。この町の名は倩の郜垂を意味する。この町に぀いおは、技術家の数や収益の高など、倚くの䞍思議なこずが云われおいる。ここたでの距離は倧地党䜓のほが䞉分の䞀になる。この町はマンヂ州にあるが、君䞻の銖府のあるカタむ州はその隣州である。しかし同じく人の知っおいるアンティリアの島からあのひどく有名なチッパングたでは十劃である。この島は金・真珠・宝石が非垞に倚く、玔金を以お寺院や宮殿の屋根を葺いおいる。だから我々は、未知ではあるが遠くはない道を蟿っお海の空間を切り開かなくおはならぬ。」Ruge; Geschichte des Zeitalters der Entbeckungen. S. 228-229.  以䞊がトスカネリの手玙なのである。これはポルトガル王を動かすに至らなかった。䞀四䞃䞀幎に黄金海岞たで到達し、急速にアフリカ回航の歩床がのびようずしおいた時だからである。ずころが数幎の埌、䞀四八〇幎から䞀四八二幎の間に、コロンブスはトスカネリず文通しお、右の手玙ず地図ずの写しを芋せられたのである。「この時たでは圌は単玔に䞀人の船員であった。この時から圌は発芋者ずなった」do. S. 225.ずさえ云われおいる。圌は遅疑するずころなくトスカネリの考に賛成し、その実行の決意を云い送ったらしい。トスカネリは激励の手玙を寄せた。 「䜙は西に向っお航せんずする貎䞋の意図を賞讃する。貎䞋が䜙の地図に斌お既に芋た劂く、貎䞋の取ろうずする道が䞖人の思うほど困難でない、ずいうこずは䜙の確信である。反察に䜙の描いたあの地方ぞの道は党く確実なのである。もし貎䞋が、䜙の劂く、あの囜土に行っお来た倚くの人々ず亀際したのであったならば、䜕の疑懌をも持たなかったであろう。そうしお有力な王たちに逢い、あらゆる宝石の充ち溢れた繁華な町や州の倚くを芋出すこずを、確信するであろう。たたあの遠い囜々を支配する王䟯たちも、キリスト教埒ず亀わりを結び、そこからカトリック教や我々の持぀あらゆる孊問を孊び埗るような道が開けたこずを、限りなく喜ぶであろう。その故に、たたその他の倚くの理由によっお、䜙は貎䞋が、あらゆる䌁おに斌おい぀も優秀な人を出しおいるポルトガル囜民党䜓の劂く、実に勇敢であるこずを圓然ず思う。」do. S. 231.  これによっお芋ればコロンブスを衝き動かしおいたものがマルコ・ポヌロ以来の東方ぞの衝動にほかならぬこずはたこずに明癜である。その東方ぞの「近道」の考には確かにコスモグラフィヌの䞊の新しい知識も含たれおいるではあろうが、しかしアリストテレヌスやアノェロ゚スの兞拠によっおもそれだけの芋圓は立ち埗たのであった。埓っおここには新倧陞の発芋を予想せしめるような䜕らのむデヌも含たれおはいない。もしここに䜕らか新しい契機が含たれおいるずすれば、それはトスカネリの所謂地䞋subterraneasの道の実蚌ずいう点のみである。倧地を球ず考えるこずは既に叀くから行われおいたが、それを実蚌する業瞟は未だ䜕人にも挙げられおいなかったのである。今や東方ぞの衝動がこの実蚌の詊みずなっお珟われお来た。しかもそれは、トスカネリの説明が瀺す劂く、明かに間違った認識に基いおであった。西廻りの道が「近道」であるのでなくおはコロンブスの勇気は出なかったであろう。ずすれば新倧陞の発芋は間違った認識によっお誘導されたず云わなくおはならぬ。それはこの発芋が偶然に過ぎなかったずいうこずなのである。しかしこの偶然を抌し出したのが東方ぞの衝動であったずすれば、前に云った劂く、この西廻り航海が航海者ヘンリの事業から掟生した䞀぀の枝に過ぎぬずいうこずは、いよいよ確かであろう。  コロンブスの功瞟は以䞊の劂き西廻り航海の詊みを実行に移したずいう点にある。ここには航海者ヘンリの劂き明敏な組織者はいなかった。勢い圌はその個人的な熱情ず意志ずによっお抌しお行かなくおはならなかった。ここに圌の長所も欠点もある。圌が倚分に山垫的な色圩を垯びお芋えるのもここに起因するであろう。  コロンブスは䞀四八䞉幎に右の蚈画をポルトガル政府に申出た。ヘンリ王子の粟神を受け぀いだゞョアン二䞖が勢蟌んで黄金海岞から先ぞ歩床をのばそうずしおいる時であった。王はこの申出でを委員䌚に附蚗したが、委員たちはコロンブスを倢想家ずしお斥け、王も圌を熱狂的なお喋舌ず芋たらしい。銙料の囜ぞの近道ずいう点のみから云えば、この刀断は誀たっおいなかったのである。  翌䞀四八四幎にコロンブスは劻を倱った。それを機䌚に圌はポルトガルを去っおスペむンに移り、そこで有力な保護者を芋出すこずが出来た。遂に䞀四八六幎、倧叞教メンドヌサの玹介によっお女王むサベラに謁芋し、廷臣ずしお迎えられた。圌の抱懐しおいる蚈画はサラマンカ倧孊に斌お審査を受けたが、銙しくなかった。圌はコスモグラフィヌの兞拠によっお䞻匵するに留たらず、聖曞の句などを匕いおかなり狂信的なこずを述べ、神孊者たちをさえ驚かせたのである。結局䞀四九䞀幎に至っお審査が決定し、圌は婉曲に拒吊された。これもサラマンカ倧孊ずしおは圓然の凊眮であったであろう。倩文孊的、コスモグラフィヌ的な蚈算や掚論ず、叀兞や聖曞の䞭にある予蚀或はその玢匷附䌚の解釈ずの、䞍思議な混合に察しおは、孊問の立堎から是認するこずは出来なかった筈である。圌の埌の成功は圌の蚈画が孊問的に正しかったからではなかった。  ここで圌の生涯の劇的な瞬間が珟われおくる。圌はスペむンを去るこずに決意し、息子ディ゚ゎの手をひいお、ずがずがずティントヌ河沿いにりェルバの枯の方ぞ歩いお行った。その途䞭、海に近い䞍毛な䞘の䞊にあるラ・ラビダの僧院に来たずき、圌は饑ず疲れずで動けなくなり、僧たちにパンず氎ずを哀願した。その䞍思議な乞食のありさたが慈悲深い僧䟶の、特に僧院長ファン・ペレス・デ・マルケナの泚意を匕いたのであったが、偶然にもそのファン・ペレスが女王むサベラの告解垫だったのである。コロンブスは僧院の䜏居ぞ連れお行かれ、色々手圓を受けた埌に、広々ず海の芋晎らせる広間で、その西廻り航海の蚈画のこずやその望の倱われたこずなどを話した。僧院長はコロンブスのこずを曜お聞及んだこずはなかったのであるが、その熱狂的な情熱にはすっかり魅せられたので、近くのパロスから倩文孊やコスモグラフィヌに通じおいる物理孊者ガルチア・゚ルナンデスを呌んで盞談した。䞉十歳そこそこのこの若い物理孊者も、コロンブスの話をきいおいるうちに、だんだん興味を芚えお来た。結局二人は、この珍しい人物を぀なぎずめるのが女王のためになるずいう結論に達した。で僧院長は女王むサベラに手玙を曞き、グラナダの宮廷ぞ䜿をやった。二週間経぀ず女王の瀌状が぀き、僧院長にすぐ来おくれずの事であった。圌は即倜出発しお女王からコロンブスの䌁のために䞉隻の船を絊するずいう同意を埗お来た。コロンブスの運呜はかくしお開けたのである。  䞁床䞀四九二幎の正月にモヌル人ずの戊争が終ったこずもコロンブスにずっおは奜郜合であった。しかしなおもう䞀぀最埌の困難があった。それはコロンブス自身の提出した条件なのである。぀い近頃ラ・ラビダで饑ず疲れずのために死にかけおいた男が、スペむンの王䜍に近いほどの高䜍を芁求したずいうこず、ここにも我々はコロンブスを理解する䞀぀の鍵を芋出すず云っおよい。即ち圌の条件は、提督の官䜍、貎族の身分、新発芋地に斌ける副王の地䜍、王の収入の十分の䞀ずいう割での収穫の配分、倖地関係の最高裁刀官の地䜍、船の艀装の八分の䞀を匕受けた堎合には収穫の八分の䞀を保有するこず、などである。さすがの女王もこれにはあきれお断った。コロンブスもその芁求を䞀ずしお匕きこめようずはしなかった。で䞀月の内に既に盞談は砎れ、コロンブスは再び宮廷を去っおコルドバ経由フランスに行こうずした。その時に調停に立ったのが、最初からの圌の愛護者メンドヌサず䌚蚈を叞るルむヌス・デ・サントアンヂェルであった。圌らは怍民地の増倧やキリスト教の䌝播がいかに望たしいかを説いお、遂に女王にコロンブス呌戻しを同意せしめた。急䜿は女王がコロンブスの芁求を承諟するずの報をもたらしお圌のあずを远いかけ、途䞭から連れ戻しお来た。かくしお䞀四九二幎四月十䞃日に契玄が成立した。コロンブスの熱狂的な自信が遂にスペむン囜を圧倒したのである。しかしたた、たさにこの点が、コロンブスの埌の倱脚の原因でもあるのである。  かくおコロンブスは準備に着手し、同じ䞀四九二幎の八月䞉日に出発したが、倧西掋の暪断も決心しお芋ればたこずに簡単なものであった。たずカナリヌ矀島ぞ盎航、船の修繕のために四週間を費し、そこから九月六日に出垆、西に向った。十六日には既に気候の倉化が認められ、陞地の近いしるしが芋えるように思われ出した。しかしただ䞭々陞は芋えず、船員の䞍安が高たっお盞圓䞍穏な気勢も珟われたらしい。十月の十日にも船員は䞍平を蚎えた。然るにその十二日の朝の二時に陞地が芋えたのである。倜が明けるず緑の矎しい島が県の前にあった。コロンブスは県に喜びの涙をたたえながら讃矎歌 Te deum laudamus を口ずさんだ。船員も皆それに和した。  この島はコロンブスによっおサン・サルバドルず呜名された。その所圚に぀いおは異論が倚く、未だ解決されたずは云えないが、珟圚のワトリング島ず芋る説が有力であるらしい。次で附近の諞島を探怜䞭、土人から南方にコルバキュバずいう倧島のあるこずを聞いお、コロンブスはそれをチパングであろうず刀断した。そこで十月二十四日に出発、二十八日にその北岞に達した。着いおからはこの地をアゞア倧陞ず考えるようになったらしい。十䞀月䞀日の日蚘には、「キュバはアゞア倧陞である。我々はキンサむ及びザむトンぞ癟哩の地点にある」ず蚘しおいる。そうしお実際倧汗ずの連絡を埗ようず努力しおいるのである。  キュバ沿岞の探怜に䞀カ月を費した埌、十二月五日コロンブスはハむチに来た。ここは山も野も矎しく、蟲耕牧畜に適する。岞には良枯が倚く、河川には「砂金」がある。八日の埌にコロンブスは、倧地が最倧の富を蔵する地に近づいたず信じた。西ぞの航海の目暙が、銙料でなくしお黄金ずされた所以は、ここに淵源する。その興奮や荒倩航海の配慮などの結果、圌は二日間眠らなかった。そうしおぞずぞずになっお船宀に匕き蟌んでいた十二月二十四日の倜に、船は砂掲に乗り䞊げた。  コロンブスはこの地に怍民地を蚭定し、䞉十九人のポルトガル人を残し、あずの二隻の船で䞀四九䞉幎䞀月四日に垰航の途に぀いた。ハむチの島を最埌に離れたのが䞀月十六日、アゟレス矀島に来たのが二月十五日である。䞉月初めにリスボンに入っおゞョアン二䞖に謁した。スペむン垰着は䞉月十五日であった。圌は民衆の歓呌の䞭にパロスに入り、そこからセビリャぞ行った。急䜿によっおこの遠埁の成功を知った王や女王は、䞉月䞉十日附でコロンブスをバルセロナに招埅した。そこでコロンブスは、むンドからもたらしたず称する珍宝や土人を携え、スペむン南西端のセビリャから東北端のバルセロナに至る党スペむンを、凱旋行列のように緎っお行った。囜䞭の人々が倧掋の埁服者を芋に集たった。かくお四月䞭旬にバルセロナに入り、宮廷の最高の歓迎を受けた。  圓時コロンブスがいかなる報告をなしたかは、二䞉の手玙1493幎二月十五日、Luis de Sant-Angel 宛。同䞉月十四日、Rafael Sanchez 宛によっお知るこずが出来る。圌はむンド掋たで行っお来たず確信しおいたのである。「私のプランを倢想ずし私の䌁図を劄想ずした有力な人々の意芋に察抗しお私が䞻匵したこずを、神は驚くべき仕方で確蚌し絊うた。」「䜵しこの偉倧な䌁おがかく成功したこずは、私の功瞟ではない。神聖なカトリックの信仰ず、我々の䞻君の敬虔ずの功瞟である。䜕故なら人の粟神が理解し埗ぬこずを神の粟神が人々に䞎えるのだからである。神はその呜に埓うしもべの祈りをきき絊う、今床の堎合の劂く䞍可胜を願うように芋える時でさえも。その故に私は、圚来人力を超えおいた䌁おに成功したのである。  王も女王も諞䟯も、その犏なる囜家も、たたあらゆるキリスト教囜も、即ち我々すべおは、救䞻゚ス・キリストにかかる勝利を䞎え絊うたこずを感謝すべきであろう。行列が行われ祝祭が祝われ、神殿は緑の枝で食られるべきであろう。キリストは、かくも倚くの民族の今たで倱われおいた魂が救われるのを芋るならば、地䞊に斌おも倩䞊に斌おも歓喜せられるであろう。我々もたた我々の信仰の向䞊や財宝の増加を喜がうず思う。  」  この熱狂的な感激は、コロンブスの䞻芳的な歓喜を衚珟しおはいるが、客芳的にその䞻匵の正しさを立蚌したものではない。圌はキュバをシナ倧陞、ハむチを日本ず即断したらしく、これらの島の倧きさをも誇倧に報告しおいる。しかしそれらの島の䜍眮をはっきりず地図に瀺すこずは出来なかった。それらに察する疑念はその圓時にも既に存したのである。そうしおたたこの疑念の故に、コロンブス自身がおのれの新発芋の意矩を理解し埗たよりも先に、他の探怜家が、即ち他ならぬアメリゎ・ノェスプッチが、それを明かにするに至ったのである。 アメリカ発芋・埁服地図 二 コロンブスの第二回及び第䞉回航海  が圓時ずしおは、コロンブスの芋圓が圓っおいるにしろいないにしろ、ずにかく西ぞ航海しお倧陞らしいものに突き圓ったずいうだけで十分であった。スペむン王は倧乗気で䞀四九䞉幎五月末にコロンブスの提督及び副王ずしおの特暩を再確認し、第二回航海の準備に取りかからせた。そうしおコロンブスの芁求するたたに、十四隻の快速船、䞉隻の倧貚物船、千二癟の歩階兵、その他ペヌロッパの家畜・穀物・野菜・葡萄などの移怍の準備たでがなされた。これはもはや探怜船隊の準備ではなくしお、新しい土地を占有し経営するための怍民船隊の準備である。コロンブスは既に予め副王ずしおの掻動を開始したのであるず云っおよい。このプランの実珟には倚数の官吏や軍人が必芁であった。ベネディクト掟の僧が䞀人、新しい囜土の叞祭代理ずしおロヌマから任呜された。スペむン貎族を代衚するものずしおは、アロンゟ・デ・オヘダ、フアン・ポンスェ・デ・レオン、ディ゚ゎ・ベラスケス、フアン・デ・゚スキベルなどが加わった。これらは背埌にこの方面で掻躍した人々である。コロンブスはこれらの同勢を以お先ず適圓な堎所に怍民地を建蚭した埌、曎に探怜航海を続け、ただにチパングやカタむに到るのみならず、西航しお䞖界䞀呚を詊みようずしたのであった。第䞀回航海は圌をしお、倧地は倩文孊者やコスモグラヌフェンの云うほど倧きくはないずいう確信をたすたす固めさせたのである。  我々はこの蚈画の内にポルトガルのむンド航路打通の運動ず明癜に異った性栌を芋出すず思う。この時はヘンリ王子の歿埌既に䞉十䞉幎を経お居り、ポルトガルがアフリカの新発芋地に石の暙柱を建お出しおからでももう十幎目である。バルトロメり・ディアスが喜望峰の東たで進出しおむンド掋ぞの門が既に開かれたのは五幎前のこずであった。しかしポルトガルはただ怍民船隊を送るずいう劂き気勢は芋せおいないのである。むンドに副王が任呜され、怍民地攻略が必至ずなっお来るたでには、なお十数幎の幎月が必芁であった。然るにスペむンは、探怜航海の仕事に手を出した翌幎、既にもう怍民船隊を建造したのである。これはこの事業に斌おポルトガルに遅れおいるのを取返そうずする焊慮にもよるであろうが、ポルトガルの努力によっお県を開かれたずき、䞻ずしおこの探怜の物質的成果に眩惑したずいうこずにもよるであろう。コロンブスは䞁床このスペむンの焊慮や欲望ず結び぀いたのである。そうしおたた圌の性栌もこのスペむンの傟向に打っお぀けであったず云っおよい。  スペむンのこの傟向はたたあの有名な境界線の問題にも珟われおいる。既に叀くからポルトガルはその発芋地の領有や独占に぀いお教皇の認可を埗おいたのであるが、コロンブスの垰囜埌スペむンは急いで教皇の蚱に今埌の発芋の蚈画やそれず聯関するキリスト教の䌝道に就お諒解を求めたのである。そこで䞀四九䞉幎の五月に、アゟレス諞島及び緑の岬諞島の西癟レガの子午線を境ずしお、それより西方で芋出された、たた芋出されるであろう島や陞をスペむン王及びその埌嗣に「䞎える」ずいう指什が発せられた。この線はコロンブスが倩にも海にも気枩にも倉化の珟われる線ずしお䞻匵したものであるが、事実䞊そんな境界線はないにしおも、教皇がそれを認めたこずによっお政治的境界線ずしお珟実化したのである。尀もこの境界線はポルトガルずスペむンずの間に問題ずなり、皮々亀枉の結果、翌幎䞃月に曎に二癟䞃十レガ西方ぞ移すこずになった。がいずれにしおもそれは二぀の囜家の間の境界線の問題である。コロンブスの第二回航海は既にかかる問題ずからみ合っおいたのである。  コロンブスは前蚘の怍民船団をひきいお䞀四九䞉幎九月末出発、カナリヌ矀島を出たのは十月十䞉日で、十䞀月䞉日には小アンティル諞島に぀いた。倧西掋暪断は二十日間である。次でハむチに至り、前幎残しお眮いたスペむン人を探したが、これは絶滅されおいた。で適圓な根拠地を探すのに手間取り、䞉カ月を経お挞くモンテ・クリスチの東十レガのずころにむサベラ城を築いた。そこから頻りに黄金の捜玢に人を出し、たた自らも出掛けた。盞圓な発芋があった。それは金鉱で、金掘りたちを護るためにコロンブスは堅固な家を建お五十六人の守備兵を眮いた。゜ロモンが黄金を取りに人を掟遣したず云われるオフィルの地はここに盞違ないずコロンブスは信じた。驚くべく倚量な黄金が続々ず発芋せられるであろうず人々も信じた。しかもこの最初の築城や黄金の発芋は、コロンブスが初めにチパングではないかず芋圓を぀けた土地に斌おのこずなのである。そうしおそのチパングは黄金で屋根を葺いおいる囜なのであった。黄金が目暙ずされるずいう特城はこれらのこずの内にも顕著に珟われおいる。  䞀四九四幎四月末、コロンブスは匟のディ゚ゎを代官ずしお怍民地に残し、自分は再び探怜航海の続行に移った。先ず西航しおキュバ南岞に出で、土人に黄金の産地をたずねるず、土人はい぀も南方を指しお教える。そこで五月の初めにキュバの岞を離れお南西に向い、ゞャマむカの北岞に぀いた。しかし黄金はありそうにない。再び北に向っおキュバ西岞の女王の園に入り、次でピノス島に達した。ここでコロンブスはマラッカより䞉十床の所たで来たず考えた。もう二日航海しおキュバの西端に達したならば、キュバがアゞア倧陞であるずいう圌の迷いは醒めたであろうが、船の状態はもはや前進を蚱さなかった。これが六月の䞭頃である。そこで垰航の途に぀き、ゞャマむカの南を廻っお八月半ば過ぎその東端に出たが、その埌荒倩のため䞉十二倜眠らず、遂に九月二十四日過劎で倒れた。九月末むサベラに垰着するたで生死も芚束なかった。かくしお第二回の探怜旅行も圌の執われおいたコスモグラフィヌ的な迷信を砎るこずは出来なかったのである。  怍民地には思いがけず匟のバルトロメヌが䞉隻の船を以お来揎しおいた。この匟は䞭々有胜な男で、コロンブスの頌みにより英囜王を説埗に出かけ、ほがその埌揎の玄束を埗たのであったが、かけ違っおうたく兄に逢えず、反っおスペむン宮廷で奜遇をうけおいたのであった。この匟からコロンブスはスペむン王や宮廷の気受けのよいこずを知るこずが出来た。しかし他方、郚䞋のスペむン人䞭には、䞍満や反抗のきざしが芋えお来た。土人もスペむン軍人の悪政に刺戟されお、団結しお反抗を始めた。この反抗を少数の階士たちの手で巧みに抑圧するこずに成功したのは、アロンゟ・オヘダである。オヘダは胆力ず智慧ず、そうしお土人の知らない『銬』ずで以お、土人を手玉にずったのであった。しかし怍民地経営は必ずしも快調ずは云えなかった。副王の独占暩も十分には実珟されなかった。荷厄介に過ぎぬ怍民も二癟人を超えおいた。これらの事情からコロンブスは垰囜を決意し、䞀四九六幎䞉月、二隻の船を以おハむチを発し、六月カディスに垰着した。  今床も第䞀回の時ず同じくスペむンの南端から北端たで囜䞭を凱旋行列が緎っお歩いた。連れお来られたむンディアン人が黄金の食りを぀けお行列に加わった。゜ロモンのオフィルを発芋したずいう䞻匵を実蚌するためである。圓時の政治的事情はコロンブスの事業にずっお甚だ䞍利であったが、それでも王は圌を匕芋し再びその保護を保蚌した。たた、新しい船隊を即時準備する運びには至らなかったが、コロンブスの特暩を再確認し提督の暩利を再保蚌する運びは぀いた。バルトロメヌの代理任呜も事埌承諟が䞎えられた。  第䞉回航海の準備は䞭々捗らなかった。挞く䞀四九八幎正月に至っお、物資補絊船二隻を先発せしめるこずが出来たずいう皋床であった。囜内の有力者の間に盞圓に匷い反察の気勢がある。船員もうたく集たらない。遂にコロンブスは眪人を怍民しようず考え出した。法廷も远攟刑のものをむンドに送るこずに同意した。この眪人怍民は埌にスペむン怍民地経営の癌ずなったものである。  がそういう窮策のあずで、䞀四九八幎五月末日、コロンブスは六隻を以お出発した。カナリヌ矀島からは䞉隻をハむチに盎航せしめ、自分は䞉隻をひきいお南西に向っお航路を取った。熱垯地方には黒人のほかに高貎な産物があるずいう圓時の俗信に埓ったのである。この俗信を䞁床この頃に盞圓有名な航海者が王のすすめに埓っおコロンブスぞ吹き蟌んだ。その手玙はコロンブスを神の䜿者ずしお絶讃し぀぀、宝石・黄金・銙料・薬品の類は倧抵熱垯地方から出るこずを説いたものである。コロンブスは神の䜿者ずしおの確信をたすたす高めるず同時に、針路を南西に向けたのであった。  この神がかりの状態からしお地䞊楜園の解釈が出おくる。十䞃日の航海の埌にコロンブスはトゥリニダッド島に぀き、次で翌日オリノコ河口に達したのであるが、このアメリカ倧陞の最初の発芋が、圌にずっおは地䞊楜園の䜍眮の掚定に終ったのであった。この掚定の前提ずしお圌は、「地球は球圢ではない、梚圢である」ずいう考を持ち出しおいる。アゟレス矀島の西癟レガから急に倩象地象が倉るのは、そこから倧地が高たり始めおいる蚌拠である。いたオリノコ河口に来お恐ろしい氎量が海ぞ流れ蟌んでいるのを芋るず、この河の氎源地こそたさにその高たりの極たった所に盞違ない。地䞊楜園はたさしくこの極東の高所にあるのである。もしこの匷倧な河が地䞊楜園から流れ出るのでなかったならば、それは南方の倧陞から流れ出るのでなくおはならないが、そういう倧陞のこずはこれたで聞いたこずがない。だからこの河は地䞊楜園から来るのでなくおはならない。これが圌の真面目に考えたずころであった。そこでこの新発芋の倧陞はただ觊れられた皋床に止たり、コロンブスは半月の埌にカリブ海に出おハむチの南岞サント・ドミンゎに向った。そこに圌の匟バルトロメヌが新しく怍民地を建蚭しおいたのである。  コロンブスの留守䞭ハむチの経営は盞圓進捗しおはいたが、しかし他囜人たるコロンブス䞀家ぞの反抗も盞圓激しくなっおいた。むサベラでは䞊垭刀事のフランシスコ・ロルダンが謀叛を起し、コロンブス䞀家の金鉱独占を攻撃した。たた土人を味方に぀けるために、副王代理の圧制から圌らを護るのだず宣蚀した。この争はコロンブスの到着埌も鎮たらず、双方から政府に蚎えるに至った。かくおそれは翌䞀四九九幎の九月たで続いたが、遂にコロンブスの方が譲歩しおロルダンを䞊垭刀事に埩職せしめた。しかし本囜ではこの怍民地での争が非垞に䞍評刀で、フランシスコ・デ・ボバディリャを新しく刀事に任呜した時には、副王の特暩などを無芖しお、行政暩も兵暩もすべお刀事の手に移した。曎に怍民地の犏祉に害ありず認められる者は匷制的に島から远攟し埗る暩利をさえも䞎えた。でボバディリャは䞀五〇〇幎八月末サント・ドミンゎに着くや、盎ちにここを占領しおコロンブス䞀家の者を捕瞛し、本囜ぞ送還したのである。  コロンブスは船長の同情ある取扱いを受け、王子の乳母ぞ宛おた手玙を取り぀いで貰ったりなどした。王の偎に斌おもコロンブスに察する凊眮を䞍圓ずし、瞛を解いお瀌遇する様に呜じた。王に謁芋の際にはコロンブスは感極たっお蚀葉が出なかったずいう。こういう事件のためにボバディリャも䞍評刀ずなり、ドン・ニコラス・デ・オバンドに代えられた。オバンドに察する信甚によっお新䞖界に行こうずする人が急に殖えお来た。かくおこの新総督は䞀五〇二幎二月に、䞉十隻二千五癟人を以お出発、四月半ばにハむチに぀いた。怍民地の経営はもうコロンブスずは瞁が切れおしたったのである。 䞉 アメリゎ・ノェスプッチの新倧陞発芋  以䞊の劂く、コロンブスが地䞊楜園の掚定から捕瞛に至るたでの数奇な運呜に飜匄されおいた䞀四九八幎から䞀五〇〇幎たでの間は、ペヌロッパ人の芖界拡倧の運動にずっおは特に掻溌な展開の芋られた時期である。バスコ・ダ・ガマは、䞀四九八幎の倏むンドに達し、䞀四九九幎九月垰着した。コロンブスの第二回航海に参加しおハむチで歊功を立おたアロンゟ・デ・オヘダは、䞀四九八幎の末に、コロンブスの第䞉回航海の報告にもずづいお、パリアの探怜を人からすすめられ、翌䞀四九九幎五月に出発しお南アメリカの東北岞北緯六床あたりに達し、そこから北䞊しお北岞に出でベネズ゚ラ湟あたりたで探怜した。曎に同じ䞀四九九幎の十䞀月に出発したビセンテ・ダンネス・ピン゜ンは、コロンブスの第䞀回航海の際の船長であるが、南ブラゞルの岞から北ぞハむチたで探怜した。それに螵を接しお䞀四九九幎十二月に出発したディ゚ゎ・デ・レヌペは南緯八床たで行ったずいわれる。これらはいずれも䞀五〇〇幎の内に垰着しおいるのであるが、アメリゎ・ノェスプッチは右のオヘダの航海に参加し、埌途䞭から移ったのか、ピンゟンもしくはレヌペの航海にも加わったず云われおいる。コロンブスがハむチで党争に悩んでいた䞀五〇〇幎の四月には、ポルトガルのカブラルがむンドぞの途䞊ブラゞルに接觊し、早速本囜ぞ報告した。ポルトガルのマノ゚ル王はこの新発芋の島を探怜するため、䞁床探怜航海から垰っお来たアメリゎを招いた。そこでコロンブスが捕瞛送還されお垰囜しおから第四回の航海に出発するたでの間に、アメリゎの有名な第䞉回航海が行われたのである。  アメリゎ・ノェスプッチは䞀五〇䞀幎五月リスボン発、南アメリカの東岞を南緯五床より二十五床たで行った。曎にその指導の䞋に五十床或は五十二床たで行ったず云われるが、これは確実でない。䞀五〇二幎九月垰着するや、圌はこの探怜の科孊的指導者ずしお報告曞を曞いた。これが非垞なセンセヌションを起したのである。圌が友人ロレン゜に宛おた手玙は、䞀五〇䞉幎ラテン語蚳で、次でドむツ語蚳で出版されたが、その初めに、圌は新倧陞の発芋を唱道したのである。圌がポルトガル王の呜によっお発芋した倧きい陞地は、「新しい䞖界」ず呌ばれおよい、ず圌はいう。䜕故なら、これたでは䜕人もその存圚を知らず、西方の赀道の南は海のみであるず考えおいたからである。今やアゞア、アフリカ、ペヌロッパに察立する新しい䞖界が芋出された。これをアメリゎははっきりず把捉したのである。  コロンブスは事実䞊新倧陞の発芋者であったかも知れない。しかし圌はかかる倧陞のあるこずを拒んで地䞊楜園の存圚を䞻匵したのである。たた圌がキュバやハむチの発芋によっお䞻匵したのは、シナ倧陞や日本に到着したずいうこずであっお、未知の新しい䞖界の発芋ではなかった。䞀五〇䞉幎は圌が䟝然ずしお右の劂き信念の䞋に地峡の沿岞でむンドぞ出る海峡を探しおいた時なのである。埓っお新倧陞の発芋者ずしお、コロンブスではなく、アメリゎが登堎したずいうこずは、理の圓然であるず云っおよい。  コロンブスの第四回航海はアメリゎの南アメリカ探怜よりも䞀幎遅れお䞀五〇二幎五月の出発であった。四隻の快速船、癟五十の乗員である。既にバスコ・ダ・ガマのむンド航路打通の埌であるから、コロンブスはキュバずパリアずの間を西航しおそのむンドぞ達しようずしたのである。サント・ドミンゎでは䞊陞を蚱されなかった。圌は真西に航しお䞃月䞉十日にホンデュラス湟端のグヮナハ島に着き、ナカタンの商人に逢っお、圚来この地方で接するこずの出来なかった高床文化の囜のあるこずを知った。でもしその商人の故郷ぞ行けば、ナカタンの町々を芋、メキシコを芋出しお、吊応なしに新倧陞を把捉する筈だったのである。しかしむンドぞの通路発芋に凝り固たっおいるコロンブスは、西に向わずしお東に向い、ホンデュラスの岞を廻っお地峡を南䞋した。そうしおこの有名な瘎癘の地に䞀五〇䞉幎の四月末たでたご぀いおいた。しかし西ぞの出口はどうしおも芋぀からず、遂に北航しお暎颚に逢い、六月二十五日にゞャマむカの岞にのりあげた。ここで助けを埅っおいる間に、䞀五〇四幎二月二十九日、月蝕の予蚀で土人の害を免れたのである。その埌なお救出される迄に半幎かかり、散々の態で十䞀月初めに垰囜したのであったが、運悪く圌の庇護者むサベラ女王もその数週間埌に歿し、王はもはや圌に取り合わなくなった。かくしおコロンブスは極床の倱意の内に、䞀五〇六幎五月、バリャドリヌドに斌お歿したのである。  他方アメリゎも䞀五〇䞉―四幎の第四回航海は倱敗であった。でポルトガルを去っおスペむンに垰った。䞀五〇五幎二月にコロンブスに䌚った時には、コロンブスは倧倉いい印象を受けたらしい。ノェスプッチもたたその功瞟を正圓に報いられない人であるず圌は曞き残しおいる。しかしノェスプッチは間もなくスペむンに職を奉じ、䞀五〇八幎より幎俞二癟デュカットの垝囜パむロットに任呜された。そうしおパむロットの資栌詊隓をやったり、地図を曞いたりなどした。歿したのは䞀五䞀二幎であるが、コロンブスず異なり、生前既に過分の名誉に恵たれた。ずいうのは、新倧陞の発芋を報ずる圌の䞀五〇䞉幎の手玙がペヌロッパ䞭に広く読たれたのみならず、䞀五〇䞃幎には、フィレンツェの友人゜デリニに䞎えた手玙が『四床の航海』の名の䞋にラテン語蚳ずしお盛行し、遂に同じ䞀五〇䞃幎に出版されたマルチン・ワルドれヌミュヌラヌの『コスモグラフィヌ序論』に斌お新倧陞をアメリカず呌がうずいう提議が出されるに至ったのである。 四 埁服者たちの掻動  西航しお発芋されたのはシナでもむンドでもなくしお、これたでペヌロッパ人もアゞア人もアフリカ人も曜お知らなかった党然新しい倧陞なのである。これは芖界拡倧の点から云えば未曜有の倧発芋であった。しかもこの発芋が発芋ずしお自芚されるためには、ポルトガル王が䞀圹買っお出なくおはならなかったのである。ここに我々はヘンリ王子の粟神がいかに発芋にずっお重芁であったかを反芻しお芋なくおはならない。  しかし新しく芋出された倧陞がどんなものであるかはただ殆んど未知であった。そうしおその未知の䞖界を切り拓く仕事は、着実なヘンリ王子の粟神を以おではなく、華やかなカスティレの階士的粟神を以お、極めお冒険的・猟奇的に遂行されたのであった。しかもそれはむンド掋に斌おアルブケルケが領土攻略の事業を遂行したのず時を同じくしおいるのである。  この冒険に乗り出した先駆者たちの䞭で特に目がしいのは、前にコロンブス第二回航海の参加者䞭に名をあげたアロンゟ・デ・オヘダであろう。圌は名門出の階士で、その圓時ただ二十䞉歳䜍の青幎であったが、その胆力を以お土人ずの戊争に歊功を立おた。次で二十九歳䜍の時にアメリゎ・ノェスプッチを䌎っお南アメリカの探怜に赎いたのであるが、その埌この探怜の事業を続行し、䞀五〇八幎䞉十八歳䜍の時には、南アメリカの北岞ダリ゚ン湟以東の地をおのれの瞄匵りずした。同じ頃にディ゚ゎ・デ・ニク゚サがホンデュラス地峡よりダリ゚ンたでのベラグワ地方を瞄匵りずしたのに察したのである。翌䞀五〇九幎には四隻䞉癟人の乗員をもっお右の地方ぞ出発したが、その䞭に埌のペルヌ埁服者フランシスコ・ピサロが加わっおいたのである。オヘダは土人の抵抗によっお危うく呜を萜そうずしおニク゚サに救われたりなどしたが、䞀五䞀〇幎りラバ湟に怍民地サン・セバスチアンを建蚭した。しかし土人の抵抗ず食糧の䞍足ずで経営は䟝然困難であった。そこでハむチに船を送り救揎を求めたが、その結果、スペむンの食糧船を乗取った食詰め者の䞀矀が来揎するずいうようなこずになった。オヘダは怍民地の管理をピサロに蚗し、右の分捕船で再び来揎を求めにハむチぞ垰ったが、この船の匷奪事件に坐しお捕われ、解攟された埌にも意気振わず、貧窮の内に䞀五䞀五幎頃歿した。  ピサロは䞀五䞀〇幎の倏、残った六十人ず共にサン・セバスチアンを芋限っお二隻の船でハむチに向ったが、䞀隻は難砎し、他の䞀隻は法孊者マルチン・フェルナンデス・デ・゚ンシ゜の船に出逢った。その船にバスコ・ヌニェズ・バルボアずいう、これも埌に倪平掋の発芋者ずなった男が乗っおいたのである。ピサロぱンシ゜ず行動を共にし始めたが、その゚ンシ゜の船もたたダリ゚ン湟の東端で難砎しおしたった。で止むを埗ず陞路をサン・セバスチアンたで蟿っお行ったが、぀い近頃去ったばかりのスペむン人の家は既に焌き払われおいた。で思い切っおニク゚サの領分であるダリ゚ン湟西岞に行くこずになった。  この提議をしたのがバルボアなのである。圌は貧乏貎族で、圓時既に䞉十八歳になっおいたが、アメリカに来たのは十幎前の青幎の時であった。即ち䞀五〇〇幎にロドリゎ・デ・バスティダスの遠埁に埓い、ベネズ゚ラ湟からダリ゚ン湟りラバを経おパナマ地峡に到った。だからこの地方に぀いおは経隓者だったのである。その埌サント・ドミンゎに斌お蟲耕の仕事を始めたが、それがうたく行かず、远々に借財がかさんで窮境に陥った。で遂に脱走を䌁お、食糧の荷箱にかくれお朜入したのが゚ンシ゜の船であった。゚ンシ゜はこの冒険的な男を戊士ずしお䜿う぀もりで保留しお眮いたのである。  ダリ゚ン湟西岞のニク゚サの領分に斌ける新しい怍民地はサンタ・マリア・デル・アンティガず呌ばれた。゚ンシ゜は法埋抂念に埓っおこの地の経営にずりかかった。しかし郚䞋の乱暎者たちは、軍什に埓う習性は持っおいるが、玙䞊の法芏による芏制を喜ばない。远々に䞍平が高たっお来た。遂にバルボアは謀叛の䞻謀者ずなっお゚ンシ゜を远い払っおしたった。  この時代の南アメリカ怍民地の通有のなやみは食糧難であった。土人は癜人に抵抗しお、食糧を䟛絊しなかったのである。バルボアの怍民地も食糧難になやんだ。䞁床そこぞ䞀五䞀〇幎十䞀月、ニク゚サのために食糧を運んで来た二隻の船が぀いお、バルボアのためにも食糧を分けおくれたが、この船の連絡によっおバルボアのこずがニク゚サにも知れた。ニク゚サは前幎䞀五〇九幎にパナマ地峡に斌お難砎し、珟圚のパナマ運河附近のノンブレ・デ・ディオスに蟛くも生き残っおいたのであったが、おのれの領分にバルボアが怍民地を建蚭したこずを聞き、六十人の生存者ず共にその船で翌䞀五䞀䞀幎䞉月にバルボアの怍民地ぞやっお来た。しかしバルボアはこの名目䞊のベラガ領䞻を認めず、䞊陞を拒んだ。翌日挞くその䞊陞を蚱した時には、謀略を以おニク゚サを郚䞋から匕き離し、盎接スペむンぞ垰るずいう誓蚀を匷芁した。そうしお十䞃名の郚䞋ず共に最も危なっかしいブリガンティンに乗せお突き攟した。ニク゚サはそのたた行方䞍明になっおしたった。぀たりバルボアたちはニク゚サの領分を匷奪したのである。かくしおニク゚サず゚ンシ゜ずオヘダずの䞉぀の探怜隊の残存郚隊䞉癟人がバルボアの手に残った。ピサロもこの䞋に぀いおいたのである。  このバルボアを有名ならしめた仕事は南海の発芋、即ち倪平掋の発芋である。パナマ地峡が僅かに四、五十哩で倪平掋に面しおいるに拘らず、圓時の探怜家たちはかかる事態を倢にも知らなかった。既に䞀五〇〇幎にバルボアはバスティダスに埓っおこの地峡に来お居り、䞀五〇二幎にはコロンブスが䞹念にこの沿岞を蟿ったのであるから、ニク゚サがパナマ地峡に怍民地を䜜っお苊劎した時たで十幎を閲しおいるのであるが、この地峡の狭いこずを突きずめようずした人は䞀人もなかった。然るにそれを今バルボアが思い぀くに至ったのである。その機瞁ずなったのは、䞀぀はバルボアがその怍民地から内地の方ぞ探怜に入り蟌んだ時ある酋長から『南の海』のこずを聞いたこずであるが、他の䞀぀はバルボアがスペむンの圓局から認められそうになるに埓い、゚ンシ゜及びニク゚サに察する眪の償いずなり埗るような倧功名を立おたいず考えたこずである。時は䞁床ポルトガルがマラッカ攻略に成功した盎埌であった。  かくしおバルボアは䞀五䞀䞉幎九月䞀日、癟九十のスペむン人、六癟の土人をひきいおその怍民地サンタ・マリア・デル・アンティガを出発、六䞃十哩北方のカレタから地峡暪断を詊みた。ここは西偎にサン・ミゲル湟が入り蟌んでいお、地峡の最も狭くなっおいるずころであり、山梁も暙高䞃癟米に過ぎない。しかし恐ろしい密林に芆われ、日光が地に届かないほどのずころであった。その原始林の䞭の小埄をカレタ酋長の぀けおくれた案内者に導かれお隊は難行軍を続けた。挞く九月二十五日に至っお、案内者は、目前の山の背を指しお、あそこぞ出れば海が芋えるずいう。バルボアは党郚隊を停止させた。圌はたず最初の䞀人ずしお南の海の眺めを味いたかったのである。で自分だけ前進しお峠の䞊に出た。そこに跪いお、䞡手を倩に挙げ、南方の海を歓び迎えた。自分のような優れた才胜もなく貎い生れでもない者に、このような倧きい名誉を䞎えられたこずを、圌は心から神に感謝した。次で圌は郚䞋を招き寄せお新しい海を指し瀺した。人々は皆跪いた。バルボアはこの探怜が幞犏に終りたす様にず神に、特に凊女マリアに祈った。そこで衆は声を合せお讃矎歌を唱った。ピサロはバルボアに぀ぐ有力者ずしおこの衆の䞭にいたのである。  そこから䞋り道にかかっお九月二十九日にはサン・ミゲルの内湟に泚ぐサバナス河口に到着した。䞁床䞊げ朮の時であったが、バルボアは剣ず旗ずを以お膝の浞るたで海氎の䞭に歩み入り、この海にある陞ず海岞ず島ずを北極より南極に至るたで王の名に斌お占領するず宣した。  バルボアはこの海岞に数週間留たっお附近の酋長たちを埁服し、たたこの地方のこずに぀いお出来るだけ知識を埗ようず努めたが、酋長トゥマコは南方の匷囜のこずを語った。そこには量り知れぬ富があり、船や家畜も甚いられおいる。家畜は駱駝に䌌た珍らしい圢のものである。こういうこずはダリ゚ンの方では知られおいなかった。でこの新しい報道によっお異垞に深い感銘を受けたのがほかならぬピサロだったのである。  十䞀月䞉日に探怜隊は垰路に぀いた。道々土人の諞酋を掠奪しお、遂には運べなくなるほどの黄金を集めた。スペむン人の戊死者は䞀人もなかった。こうしお䞀五䞀四幎䞀月十九日にバルボアはサンタ・マリア・デル・アンティガに凱旋したのである。圌は早速この成功を本囜に報ずるために、王に献ずべき倚量の黄金ず真珠ずを乗せお䞉月に船をスペむンぞ送った。新しい倧掋の発芋は実際非垞なセンセヌションを惹き起し、将来に重倧な結果を䜜り出すのであるが、しかしバルボア個人の運呜は、僅か数週間のこずでふさがれおしたった。ずいうのは、バルボアの発芋の報道が本囜に到着する以前に、圌のニク゚サに察する謀叛が問題ずなっお、圌に代り地峡方面の総督ずなるべきペドラリアス・デ・アビラが任呜され、䞀五䞀四幎の四月十䞀日に二十隻千五癟人を以お出発したのである。もしその出発前にバルボアの新発芋の報が到着しおいたならば、恐らくこの埌の事態は別の途を蟿ったであろうず云われおいる。  新総督ペドラリアスは六月䞉十日にサンタ・マリア・デル・アンティガに到着したが、この䞀行には新䞖界未曜有の孊者連階士連が加っおいた。埌に『メキシコ埁服史』を曞いたベルナヌル・ディアス・デル・カスティロ、『むンディアの䞀般史』の著者ゎンザロ・フェルナンデス・デ・オビ゚ド、叞法官ずしお来任し埌に『地理孊集成』を著した法孊者゚ンシ゜、ペドラリアス支配䞋のスペむン人の業瞟を蚘述したパスクヮル・デ・アンダゎヌダ、埌にチリヌの埁服者ずなったディ゚ゎ・アルマグロ、埌にピサロず共にペルヌ埁服に埓事し曎に䞭郚ミシシッピヌ河谷の発芋者ずなったフェルナンド・デ・゜ト、キトヌ及びボゎタの埁服者ベナルカザル、キボラ及びクィピラの埁服者フランシスコ・バスケス・コロナド、埌にマガリャンスず共に䞖界䞀呚をやった䞻垭船長フアン・セラノなどである。ペドラリアス自身は既に六十歳で掻気なく、怍民地経営も甚だ拙劣であったが、しかしその率いた䞀行からは倧きい結果が生れ出るこずずなったのである。  バルボアはペドラリアスの郚䞋ず共に怍民地から南の方の内陞ぞ探怜に出お土人ず戊争をしたりなどしおいたが、翌䞀五䞀五幎䞃月に至り、本囜政府から南海発芋の業瞟を認められお南海の総督代理に任呜された。総督ペドラリアスはこれを喜ばなかった。総督の管理䞋にある地方では南海の沿岞こそ最も䟡倀ありたた健康地だったからである。で圌はこの地を競争者バルボアに委蚗するを欲せず、甥のガスペル・モラヌレス及びピサロに六十人の兵を぀けお、真珠諞島攻略のため、ミゲル湟に掟遣した。二人は䞉十名の兵ず共に小舟で真珠諞島䞭の最倧島むスラ・リカを襲撃し、激戊の埌、この地方で最も匷倧であった島の酋長を降服せしめた。酋長は籠䞀杯の真珠を差出し、おのが家の塔の䞊から配䞋の島々を指し瀺した。その時圌はたた遙か南方にある匷倧な囜のこずをも話したのである。それを聞いおいたピサロは再び匷い刺戟を受けたが、傍のモラヌレスは県前の真珠の島々をいかにしお搟取するかをのみ考えおいた。結局酋長は毎幎真珠癟マルクの貢を収めるこずに定められ、探怜隊は垰途に぀いたのであったが、その垰路に斌お、前代未聞の倧虐殺倧掠奪が行われたのである。さすがのバルボアさえこの残虐を嫌悪の念を以お報道しおいるが、しかし総督の甥は䜕の眰も受けなかった。  その内総督ペドラリアスず総督代理バルボアずの間を和解せしめようずしお、ダリ゚ンの叞教が䞡者の間に瞁談を持ち出した。それは衚面䞊うたく運ぶ様に芋えたが、しかしペドラリアスはこの厄介な競争盞手を陀こうずたくんでいたのである。間もなくその機䌚が到来した。それはバルボアが倪平掋岞での支配力を拡倧しようずしお焊ったこずによるのである。ずいうのは、カレタのやや北方に蚭けられたアクラの枯から、地峡を暪ぎっお造船材料を倪平掋岞に運がうずしたのであるが、それが実に難事業であった。先ず第䞀に、バルボアがアクラたで行っお芋るず、土人の襲撃によっお小舎は砎壊され守備兵は党滅しおいた。埓っお土人を屈服させ小舎を再建するこずから始めなくおはならなかった。次に船材や鉄を土人に担わせお地峡を暪ぎっお運ぶのに非垞に手間取った。曎に第䞉に、倪平掋たで運んで芋るず、船材はあたりに氞くアクラの海岞に攟眮しおあったために、虫に穎をあけられお、船材ずしお甚いられなくなっおいた。しかもこの運搬のために五癟人二千人ずもいうの土人の呜が犠牲ずなっおいるのである。そこで再び初めからやり盎さなくおはならなかったが、䞁床その頃に本囜でフェルナンド王が歿し、総督ペドラリアスも転任を噂された。そこでバルボアは邪魔の入らぬ内にず考えお非垞に仕事を急いだ。それが謀叛の嫌疑を惹き起したのである。総督はバルボアを招臎した。バルボアは総督に䌚い自分の䌁業の促進や説明をする぀もりでアタラの枯たで来たが、総督はピサロをしおバルボアを捕瞛せしめた。そうしお゚スピノヌザによる簡単な裁刀の埌に、四人の郚䞋ず共に斬銖の刑に凊した。䞀五䞀䞃幎の頃、バルボアは四十二歳䜍であったらしい。  バルボアの凊刑はこの地方の開発にずっお非垞に䞍幞な出来事であったず云われおいる。がずにかく圌の始めた仕事ぱスピノヌザが匕き぀ぎ、圌の造った四隻のブリガンティンよりなる艊隊を以お、䞀五䞀九幎にパナマの怍民地を建蚭した。この町は䞀五二䞀幎にカルロス䞀䞖ドむツ皇垝カヌル五䞖から郜垂暩を䞎えられた。その幎からサンタ・マリア・デル・アンティガは荒廃し始め、䞀五二四幎には党然攟棄されるに至っおいる。地峡地方の䞭心がパナマに移ったのである。  ペドラリアスの掟遣した探怜船隊は、バルボアのプランずは正反察に、倪平掋岞を北西に䞊った。䞀五二䞀幎にはニカラグヮに達し、䞊陞しお酋長以䞋九千の土人に掗瀌を斜した。黄金の収穫は十䞇ペ゜に䞊った。この探怜隊は䞀五二䞉幎六月にパナマに垰った。次でニカラグヮ埁服に送られた゚ルナンデス・デ・コルドバは、グラナダ、レオン等の町を建蚭したが、埌に独立を蚈ったために、急遜出動したペドラリアスに捕えられ、レオンに斌お䞀五二六幎に斬銖された。がそのペドラリアスが䞀五二䞃幎二月パナマに垰着した時には、埌任者ペドロ・デ・ロス・リオスが既に地峡に䞊陞しおいた。でペドラリアスはレオンに退き䞀五䞉〇幎に歿した。十䞉幎に亘る圌の悪政が、䞭郚アメリカの矎しい土地の、荒廃の原因を䜜ったず云われおいる。 五 メキシコ埁服  バルボアの歿埌十幎の間にペドラリアスが探怜を進めた地方は僅かにニカラグヮに過ぎなかったが、䞁床その間に北ではメキシコ、南ではペルヌに斌お前代未聞の新事件が起り぀぀あったのである。それらは県界拡倧の運動がおのずから領土拡倧の運動に転化するこずを露骚に瀺しおいる。勿論それは探怜ずしお、即ち未知の領域ぞの県界拡倧の運動ずしお始たったのであるが、その未知の領域の開明が単に地理孊的な発芋に止たらず、新しい民族、新しい囜家生掻の発芋ずなるに䌎っお、県界の拡倧それ自身が劂䜕に優越な力を人間に䞎えるか、埓っお、県界拡倧の運動を特城ずする民族が県界の狭い閉鎖的な民族よりも劂䜕に優越な力を持぀かを盎接に䜓隓させ、それによっお新しい囜家生掻の発芋を盎ちにその埁服ぞず転化させたのである。この傟向は既に前からスペむン人の探怜に珟われおいたのであるが、しかしその盞手が倧きい組織を持たない断片的な郚族であった間は、ただ人を瞠目せしめるほどの事件は起さなかった。然るにメキシコずペルヌずで起ったこずは、新しい䞖界に斌お最も発達しおいた二぀の囜家に関するこずなのである。埓っおこれらの事件は、「発明や発芋のお蔭で、文明人ず野蛮人ずの区別が、神ず人ずの間の盞違の劂く著明になった」ず云われる所以を瀺しおいるのである。  䞡者の内では、北の方が䞀歩先であった。元来キュバずナカタン半島ずは癟哩あたりしか離れお居らず、しかもナカタンの附近たではコロンブスが二床も行っおいるのであるが、い぀ももう䞀息のずころで反転したのであった。だから南の方ダリ゚ン湟を䞭心ずした探怜掻動が、北の方キュバを䞭心ずしお動くようにさえなれば、ナカタンに觊れるこずは易々たるものであったのである。そうしおその機運を䜜ったのは、恐らくバルボアたちの新発芋の刺戟であろう。  バルボアが゚ンシ゜の船で地峡方面ぞ入り蟌んだのは䞀五䞀〇幎であるが、その翌䞀五䞀䞀幎に、ディ゚ゎ・ベラスケスがキュバ総督ずしお赎任しお来た。圌は早速キュバ島の埁服を行い、土地を埁服者たちに分配した。この島は盞圓に広く、そこぞ本囜から流れ蟌んで来る冒険者たちの数も盞圓に倚かったのであるが、それらの人々は萜ち぀いお土地を開拓するよりも䜕か冒険的なこずをやりたがる連䞭であった。そこぞ頻々ずしお䌝わっお来たのが黄金に豊かな土地の発芋の噂である。若い連䞭は自分たちも発芋ず埁服の仕事をやろうずしお集たっおくる。そういう連䞭が二隻の船を準備し、゚ルナンデス・デ・コルドバを隊長に遞び、アントニオ・デ・アラミノスを船長に雇った。総督はもう䞀隻艀装する金を出しお埌揎した。この探怜隊の出発したのがバルボアの凊刑された䞀五䞀䞃幎の二月なのである。出発しお芋ればナカタン半島は極めお簡単に発芋された。぀たりこの発芋の急所は、キュバに斌お西方ぞの探怜が䌁おられ始めたずいう点にあったのである。  しかしこの発芋の意矩は予想倖に重倧であった。コロンブス以来既に二十五幎、スペむン人がこの地方に斌お芋出したのはすべお文化の䜎い未開民族であったが、䞀歩ナカタン半島に觊れるず共に、たるで皋床の異った文化民族の存圚が明かずなったのである。そこには華麗な石造の家があり、朚綿の衣服が甚いられ、圫刻に食られた殿堂に立掟な神像が祭られおいる。極めお独特な象圢文字も甚いられおいた。このマダ文化は未だに玠姓のはっきりしないものであるが、圓時突劂ずしおこれに接したスペむン人の驚きは察するに䜙りがある。その驚きが䞀皮の恐怖をたじえたものであったこずは、埌にスペむン人がこの地方を占領したずき、マダ文化の産物を培底的に砎壊したこずによっおも知られるであろう。  コルドバの探怜隊は沿岞の諞所で䞊陞を詊みたが、土人に撃退された。ナカタン西岞の䞭皋たで行った時、コルドバは重傷を負ったので、探怜を切り䞊げおキュバに垰り、䞊陞埌十日にしお歿した。がこの発芋は総督の功名心をかり立お、新しい船隊の準備に向わしめた。で翌䞀五䞀八幎の四五月頃に、総督は甥フアン・デ・グリハルバに四隻を぀けおナカタンぞ掟した。パむロットは前幎ず同じくアラミノスであった。この探怜隊はナカタン半島の根元のタバスコに到っお土人ずの友亀を結ぶこずに成功し、曎に西しおベラ・クルス枯附近の小島に䞊陞した。ここの文化は䞀局高い皋床に達しおいたが、しかしここでスペむン人は、人身犠牲の習俗を芋出したのである。がグリハルバはそれにかたわず、酋長らず平和に莈物を亀換するこずが出来た。ガラス玉・針・鋏などに察しお、䞀䞇五千乃至二䞇ペ゜の䟡の金や宝石が手に入った。いよいよ黄金の囜が芋぀かったのである。グリハルバは曎に北䞊しおタンピコたで行き、十䞀月にサンチャゎぞ垰着した。  総督はこの成功に驚喜し、䞀方本囜に報告しお新発芋地の管理を懇請するず共に、他方この黄金の囜を探怜すべき倧艊隊を建造し、その叞什官にコルテスを任呜したのである。  ここにフェルナンド・コルテスが登堎する。圓時のスペむンの『埁服者』のうちで最も優れた英傑なのである。圌は䞀四八五幎に西スペむンの゚ストゥレマドゥラ州に生れ、サラマンカ倧孊に二幎圚孊した。圓時の怍民地の隊長ずしおは皀な教逊を身に぀けおいたのである。䞀五〇四幎、数え幎で二十歳の時、圓時の青幎を颚靡した冒険熱に駆られお、サント・ドミンゎの総督オバンドの蚱に来たが、䞃幎の埌、ベラスケスのキュバ埁服に参加し、この地においお領地を埗た。そうしおその孊問の故にベラスケスの秘曞ずしお甚いられ、埌にはサンチャゎの刀官に任ぜられた。即ち若くしお島の最高官吏の䞀人ずなったのである。それは圌の傑出した人物の故であった。階士ずしおの蚓緎には䜕事によらず熟達しおいる。決意した際には勇敢で毅然ずしおいるが、プランを立おるに圓っおは熟考し明现に考える。理解は早く頭脳は明晰である。その䞊巧みな熱のある匁舌によっお呚囲を統率する。このような性栌によっお圌は新しい䞖界に皀れな指導者ずなったのである。  コルテスは叞什官ずなった時にはただ䞉十䞉歳であった。圌自身も艊隊建造の䞀郚を負担しお総督を喜ばせた。出来䞊った艊隊は十䞀隻より成り、䞻垭パむロットは䟝然アラミノスであった。兵隊はスペむン兵四癟、土人兵二癟であるが、スペむン兵のうちで小銃狙撃兵は僅かに十䞉人、匩狙撃兵さえも䞉十二人に過ぎなかった。ほかに階兵十六人、重青銅砲十門、軜蛇砲長砲四門。これが䞀぀の匷倧な囜家を襲撃しようずする軍隊の党歊力なのである。  出発前に、ベラスケスは気が倉っおコルテスの叞什官任呜を取消そうずしたが、コルテスは先手を打っおキュバ島西端の集合地から出発しおしたった。䞀五䞀九幎二月十八日であった。圌はナカタン半島を廻っおタバスコ河たで行ったが、河口が浅いため倧きい船を乗り入れるこずが出来ず、小さいブリガンティンず歊装したボヌトのみを以おコルテス自らタバスコの町ぞ遡江を詊みた。そうしお土人に平和の意図を宣明したのであるが、土人はただ鬚の声をもっおこれに答えた。そこでコルテスは敵前䞊陞を匷行し、倧砲ず階兵隊ずいう土人の思いもかけぬ歊力を以お、四䞇ずコルテスは称するの土人兵を朰乱せしめたのである。土人の戊死者は二癟二十名であった。翌日酋長らは降服し、皮々の莈物ず共に二十人の女を献じたが、その内の䞀人、埌にドンナ・マリナず呌ばれたメキシコ生れの女は、この埌の埁服事業に重倧な圹目を぀ずめた。  次で四月にコルテスはベラ・クルスに到っお党軍を䞊陞せしめた。二日ほどするずアステヌクの知事が圌を蚪ねお来た。コルテスは自分が海の圌方の匷力な君䞻からこの囜の君䞻ぞ送られた䜿者であるこず、莈物を奉呈し䜿呜を䌝達するため囜内の行軍を蚱されたきこずを申入れた。知事は、それを王に報告するため、この海から出お来た癜人らを絵にかかせた。コルテスはこの報告絵を効果あらしめるために倧砲ず階兵ずで挔習をしお芋せたずいう。その埌圌は砂䞘のうしろに陣地を築き、王からの返事を埅った。  コルテスが初めおメシコメキシコの名を聞いたのは、䞉月末タバスコ埁服の際であるが、四月末には右の劂く既に囜郜ぞの進軍を申蟌んでいる。これはメキシコ王囜の事情を研究した䞊でのこずずは思えない。タバスコでの戊闘は圌に自信を䞎えたではあろうが、しかしそれにしおも圌の軍隊は埮々たるものである。ここに我々は圓時の『埁服者』の冒険的な性栌をはっきりず看取し埗るであろう。圌の成功は、偶然にも圌がうたい時機に乗り蟌んで来たこずに起因する。ず共に圌の偉さは、この偶然の事情を盎ちに看砎し、それを巧みに利甚したずころにある。  では圓時のメキシコの囜情はどういう颚であったか。  メキシコ王囜の䞭心地はアナワクの高原で、海抜二千米䜍、銖府メキシコのある谷は二千二癟米に達する。メキシコ湟沿いの䜎地ずの間には山脈が連なり、その䞭には五千米を超える高山もある。埓っお海岞ずの亀通は峻険な山道によるほかはない。この山脈は西に起っお高原の南を限り、メキシコ垂の附近では五千四癟米のポポカテペトル、五千二癟米のむシュタッチワトルずなっお、メキシコの湖ず共に矎しい景芳を䜜り出しおいた。  このメキシコの谷の北方癟キロほどの所にトゥラずいう町がある。ここぞ䜕凊からかトルテヌク族が移り䜏み、ここを銖府ずしお、䞃䞖玀の頃に、匷倧な王囜を築いたず云われる。実は神話的な民族に過ぎぬのかも知れず、或はたた小さい郚族であったかも知れぬ。がずにかく、ずうもろこし・朚綿・ずうがらしなどの栜培や、貎金属の现工や、壮倧な石造建築など、メキシコ特有の文化はこの民族に垰せられおいる。スペむン人䟵入圓時のメキシコ土人にずっおは、トルテヌク族の統治の時代が過去の黄金時代ずしお蚘憶せられおいたのである。恐らくこの族は南方に移っおナカタンやホンデュラスの地方にその文化を䌝えたのであろう。  トルテヌク族を埁服或は远攟したのは、十䞀二䞖玀の頃に北西の方より䟵入したチチメヌク族であった。この族はメキシコの湖の東偎にテツクコの町を築いおアナワク高原を支配した。この頃からメキシコの平和な統治が倱われお歊力による匷圧的な統治が始たったらしい。その統治は間もなく奜戊的なテパネヌク族の攻撃によっお芆えされたが、チチメヌク族はアステヌク族の揎助によっおそれを回埩するこずが出来た。そのアステヌク族も倖から入り蟌んで来た郚族であるが、湖の䞭の小島にテノチティトランメキシコの町を築いお頭角を珟わし始めたのは、十四䞖玀の初頃であろうず云われおいる。  やがおアステヌク族は右のチチメヌク族を埁服しお王囜を建おるに至った。それはスペむン人の到来より䞀䞖玀ずは距っおいない䞀四䞉䞀幎のこずである。その埌アステヌク族は急激に勢力を増倧し、附近の諞郚族を歊力によっお埁服し぀぀、東は倧西掋に、西は倪平掋にたでその領土を拡匵したのであった。元来は貎族政治の行われおいたこの囜土に、殆んど絶察的な王暩を確立したのは、このアステヌク族の仕事だず云われおいる。即ち十䞀二䞖玀にチチメヌク族によっお開始された歊力統治の運動がここにその絶頂に達したのである。数倚くの封建貎族は宮廷に斌お盎接にこの君䞻に奉仕した。しかしアステヌク族の専制君䞻制は成立埌ただ日が浅いのであるから、それを支えるためには䟝然ずしお歊力による匷圧が必芁であった。そうしおこの匷圧の䞋に統䞀にもたらされおいる諞郚族は、未だ緊密な団結を圢成するに至っおいなかった。ここにこの囜家の脆匱点があったのである。スペむン人を極床に憀激せしめた血腥い人身犠牲の颚習も、右の劂きアステヌク族の恐怖政治より出たものず芋られおいる。アステヌク族はその偶像の祭壇に捧げるために、メキシコ湟より倪平掋に至る間の被埁服諞郚族から無数の人呜を城発した。それは毎幎二䞇に䞊ったずさえ云われる。犠牲者の頭蓋骚はピラミッドのように積み䞊げおあるが、コルテスの埓者の䞀人はただ䞀぀の箇所で十䞉䞇六千の頭蓋骚を数えたそうである。被埁服諞郚族がこの恐怖政治からの解攟を熱望しおいたのも圓然のこずず云わなくおはならぬ。  この解攟の熱望を反映しおいたのが、歊力政治以前のトルテヌク族を蚘念するケツァルコアトゥルの神の厇拝である。元来メキシコには二千に䞊る地方神が祀られおいるが、アステヌク族の民族神ずしお最も倚く人身犠牲を芁求しおいるのは、りィツィロポチトリの神であった。これはアステヌク族をアナワク高原ぞ導いお来た祖先が神化されたものだず云われおいる。然るにケツァルコアトゥルは、もずトルテヌク族の祭叞でありたた宗教改革家であったず云われる。圌は人身犠牲を廃止しようずしたために、この囜土から远われ、東の海岞から姿を隠したず信ぜられおいるのである。埌に圌は空の神ずしお、この民族に蟲耕及び金现工の技術を教えた恵みの神ずしお厇敬された。この神は䞈高く、色癜く、波う぀髯のある姿に斌お衚象されおいる。東の海岞から姿を隠す時には、蛇の皮で䜜った魔法の舟に乗り、やがお䜕時かは垰っお来おこの囜を取り返すであろうず声明した。で党民衆は、この神が今に垰っお来るだろうず信じおいた。そこぞ色の癜いスペむン人が東の海のあなたから珟われお来たのである。抑圧されおいる人々は、ケツァルコアトゥルの予蚀が実珟されたず信じた。吊、王さえもそう信じたのであった。  こういう囜情のずころぞコルテスが乗り蟌んだのであっお芋れば、圌の䞀撃がこの王囜の玐垯をほごしお了ったのは、極めお圓然のこずず云わねばならぬ。メキシコの文化自䜓は、数癟人のスペむン兵ず十数門の倧砲ずに䞀぀の王囜の蹂躙を蚱すほど無力なものでも幌皚なものでもなかったのである。  トルテヌクの文化を継承し発展せしめた圓時のメキシコに斌おは、蟲耕は高床に栄えおいた。ずうもろこし、朚綿、ずうがらしのほかに、蘆薈、カカオ、ノァニラなども取れる。蘆薈の葉の繊維は玙に、汁は酒にするのである。カカオの豆は小貚幣ずしお通甚し、チョコラトゥルにする。果物で最も愛甚されるのはバナナである。煙草はパむプ又は葉巻で甚いおいる。採鉱も盛んであるが、鉄はただ知られおいない。刃物には黒曜石の鋭い砎片を䜿う。陶噚は広く甚いられおいるが、杯は朚補である。朚綿の織物は非垞に巧みで、刺繍も行われおいる。垂堎は定期的に町で開かれ、極めお掻溌である。道路網は駅亭ず共に党囜に行き亘っおいる。政府の呜什は飛脚が送達する。軍隊の組織は、八千人を以お垫団、䞉四癟人を以お戊闘隊ずする。軍服は飛道具を防ぐように厚い朚綿の垃で出来お居り、指揮官は金や銀の甲胄を぀ける。歊噚は、剣・槍・路棒・匓矢・投石噚などである。孊問は祭叞の手䞭にあるが、䞭で珍らしいのは、二十日を以お䞀カ月、十八カ月ず幎末無名日五日ずを以お䞀幎ずする倪陜暊である。それによっお祭日や犠牲日が芏制せられおいる。象圢文字は竜舌蘭の繊維から成る玙、朚綿の垃、粟補された皮などの䞊に圩色を以お描かれる。同じやり方で王囜党䜓や各州や海岞などの地図も出来おいた。  これは䞀぀の纏たった、独自の文化である。が同時に極めお閉鎖的な文化である。メキシコ人の県は同じアメリカの地の他の文化圏ぞは届かず、況んや倧掋のあなたの囜土を探求する欲求の劂きは毛皋もなかった、この閉鎖性もたた䞀぀の匱点ずしお、前掲の匱点に油をそそぐ圹目を぀ずめたのである。  スペむン人到来圓時の王はモンテスヌマず呌ばれ、䞀五〇二幎に即䜍した。アステヌク族の王の垞ずしお、領土及び祀りの拡倧に執心し、グヮテマラやホンデュラス、恐らくはニカラグヮぞさえも、遠埁を詊みた。しかもメキシコの盎ぐ東に山を距おお隣合っおいるトゥラスカラは、未だ王には服属しおいなかったのである。こういうこずも囜家の統䞀を䞍完党にする有力な原因ずなっおいたであろう。そういう䞍完党さの珟われずしお、王は垞に呚囲に察する猜疑心になやたされおいた。臣䞋が圌の県を盗んで悪政を行っおいはしないかず、倜毎に倉装しお巷に出で民の声を聞いたずいう劂きがその䞀䟋である。王䜍の芬芊を怖れお血瞁者を陀いたずいう劂きも他の䞀䟋である。それに加えお䞀五䞀六幎にはチチメヌク族の銖府であったテツクコの君䞻が死に、その継承の争に王が䞀方に味方しお他方を敵にした。かくの劂く王は、倧仕掛な遠埁の事業にもかかわらず、身近に倚くの敵を持っおいたのである。  この情勢の䞭ぞスペむン人䞊陞の報が届いた。人々の頭に先ず浮んだのはケツァルコアトゥル再来の䌝説である。海から出お来たこの色の癜い人々は、远われた神の埌裔に盞違ない。本山たる神殿の塔が焌けた。東に䞍思議な光が珟われた。䞉぀の圗星が空に芋える。これらは皆あの予蚀が充たされる前兆である。そう人々は考えた。王は評議䌚を開いたが、そこでは開戊論ず平和論ずが察立したので、王はおのが独立の意芋を瀺そうずしお、その䞭道を遞んだ。即ち、コルテスに豊富な莈物をしお、銖府ぞ来るこずはどうか思い止たっおくれず頌んだのである。その莈物は、車の茪ほどの金ず銀の円盀これは日月を衚城する、鉱山から出たたたの玔金の粒を盛った兜、その他倚数の金现工の鳥獣、装食品などであった。これらを土産ずしお郷里ぞ垰っおくれずいうわけである。  しかしこの豊富な莈物はスペむン人を䞀局刺戟した。コルテスは、王に面談するよう呜什を受けお来おいる、ず答えた。するず二床目の䜿が新しい莈物を持っお珟われ、前ず同じ頌みをくり返した。コルテスは聎かなかった。宮廷ずの関係は悪化した。土人はスペむン人の陣営を遠ざかり、食糧をも寄越さなくなった。コルテスは圓然窮境に陥ったわけであるが、その時圌の県の前に珟われお来たのがこの王囜の脆匱点なのである。  コルテスの䞊陞したベラ・クルスの北方海岞にトトマヌク族が䜏んでいた。これは肉䜓的にも蚀語的にもアステヌク族ず異った郚族であるが、最近にモンテスヌマに埁服されたのであった。そのトトマヌク族がコルテスをその町に招埅したのである。この事件によっおコルテスはメキシコ王囜の䞭に味方に぀け埗る分子のあるこずを悟った。そうしおそれによっお圌のメキシコ王囜埁服の方策が立おられ埗たのである。  そこで圌は先ずその䞊陞地点にスペむン匏の町を圢匏䞊建蚭した。ベラ・クルスの名はこの時に぀けられたのである。即ちそれはスペむン人の目暙である黄金ずキリスト教ずを結び぀けお Villa rica de la vera cruzたこずの十字架の富める町ず呌ばれたのであった。コルテスの腹心のものたちがこの新しい町の垂䌚を構成する。その垂䌚に斌おコルテスはベラスケスから任呜された職を蟞する。垂䌚は盎ちにスペむン王の名に斌お圌を最高叞什官・裁刀官に任呜する。このお芝居によっおベラ・クルスの町は囜王盎蜄ずなり、キュバ総督から独立したのである。それを䞍愉快ずした総督掟は反抗を䌁おたが、盎ちに匟圧された。  次でコルテスはトトマヌク族の町に行き、盛倧な歓迎を受けおこの町をスペむン領ずする。神殿の代りにキリストの祭壇が築かれ、䜏民は掗瀌を受ける。䜏民は僅か二、䞉䞇であったが、しかしこの事件の意矩は非垞に倧きいのである。コルテスはこの町で、トトマヌク族ず同じようにアステヌク族に察抗しお未だなお埁服されおいないトゥラスカラ囜のこずを、詳しく聞いたのであった。そうしおトトマヌク族に斌お起ったこずはトゥラスカラ囜に斌おも起り埗るずの確信を埗たのであった。  コルテスはアナワク高原ぞ䟵入する前に、所謂背氎の陣をしいた。先ず圌は兵士たちの同意を埗お、それたでに獲埗された黄金や装食品を悉くスペむン王に送るこずにする。次で垂䌚は兵士たちに察しおコルテスを最高叞什官ずしお確認するように懇請する。そこで総督掟の軍人たちは秘かにキュバに垰るこずを䌁おたが、発芚しお銖謀者は死刑に凊せられた。コルテスはこの皮の憂を根絶するために、䞀隻の小さい船を残しおあずの党艊隊を海岞に乗り䞊げしめた。これは隊員党郚の同意の䞋に公然なされたこずであるずいう。もはや退路はない。前進あるのみである。  ベラ・クルスには兵癟五十名階士二名が守備隊ずしお残った。遠埁隊はスペむン兵䞉癟、トトマヌク兵千䞉癟、人倫千、階士十五名、砲䞃門を以お組織された。出発したのはこの地に到着埌四カ月の八月十六日である。熱垯の䜎地から急に涌しくなる山脈を超えお五日間でアナワク高原ぞ出た。䜏民は穏かであったが、コルテスは戊闘隊圢を以おトゥラスカラの方ぞ進んだ。この郚族は十二䞖玀にこの土地に入り蟌み、幟床かの戊を経おここに定䜏したのであるが、王を頂かず四人の君䞻が共同に治める䞀皮の聯邊を圢成しおいた。アステヌク族には烈しく抵抗しお、未だ屈服しおいないのである。新来のスペむン軍に察しおも烈しく抵抗した。その兵は十䞇であったず云われおいる。がコルテスは遂に倧砲を以お決戊に勝った。九月五日である。コルテスは友亀を申入れ、トゥラスカラ囜はそれを受諟した。この倖人たちはモンテスヌマの敵なのである、ずいうトトマヌク人の説明が、非垞によく利いた。モンテスヌマを敵ずするが故に、トゥラスカラ囜はコルテスず結んだのである。この時コルテスのメキシコ埁服は既に成ったず云っおよい。  モンテスヌマは、その倧兵力を以おしおも容易に屈服せしめるこずの出来なかったトゥラスカラが、極めお脆く癜人に敗れたず聞いお、この癜人こそ久しく埅望されおいたケツァルコアトゥルの裔であろうずいう信仰を䞀局匷めた。でたた圌は莈物を持った䜿者を寄越しお、メキシコ囜の銖府に進軍するこずは危い冒険であるずいうこずを説かせた。のみならずスペむン王ぞの貢を申出で金銀宝石圩垃などの分量をコルテスの思い通りにきめおくれず頌んだずいう。しかしコルテスは頑ずしお最初の声明を飜えさなかった。  コルテスの軍隊がトゥラスカラの町に入ったのは九月二十䞉日であった。グラナダよりも倧きいこの町の倧勢の芋物の前で日々にミサが行われた。君䞻の嚘をはじめ倚くの貎族の嚘が掗瀌を受けおスペむンの将校ず婚姻を結んだ。かくおこの町で䞉週間の䌑逊を取っおいる間に、コルテスはメキシコの囜情や戊力を詳しく研究した。モンテスヌマに掠奪され圧制せられおいる諞郚族のメキシコ人に察する憎悪、暩力を以お城募せられた軍隊の奮わざる士気、などが䞀局明かずなった。僅か䞉癟のスペむン兵を以おこの匷倧な歊力統治囜の銖府ぞ乗り蟌んで行こうずするコルテスの倧胆極たる離れ業の背埌には、十分に冷静な芳察や考量が存したのであった。  コルテスは六千のトゥラスカラ兵を加えおメキシコぞの進軍を開始した。その途䞊チョルラの町が先ず占領せられた。この町はケツァルコアトゥルが海岞ぞ移る途䞊二十幎間留たったずころで、この神のために、党高䞀䞃䞃呎の段々の䞊に壮倧な神殿が建おられ、その䞭に巚倧な神像が祀られおいた。これは人身犠牲を欲せざる神であるが、しかしこの町に人身犠牲の颚習がなかったずいうのではない。神殿の他に四癟の犠牲塔があった。犠牲ずなるべき男子や子䟛は檻の䞭に充満しおいた。スペむン人は先ずこれらの囚人を解攟し、぀いで陰謀の蚈画を芋出したためにトゥラスカラの軍隊に掠奪・殺戮を行わしめた。倧神殿も砎壊焌华された。この先䟋を芋お近隣の町々は急いで降服するに至ったのであった。  この町からメキシコぞの道は二぀の高山の間を通ずるのであるが、その峠の䞊から芋晎らしたメキシコの谷の颚景は非垞に矎しかった。氞久に雪を頂いおいる山々の裟に、長さは十四五里、幅は䞃八里に達する湖氎が暪わり、それに沿うお数々の町や村がある。銖府メキシコは湖䞭の島にあっお、䞉方から堀道が通じおいる。圓時は戞数六䞇、人口䞉十䞇以䞊の倧郜垂で、サラマンカの町䜍の広さの倧垂堎がいく぀もあった。䞀䞀四段の階段で昇っお行く高い壇の䞊に建おられた犠牲神殿は、家々の䞊に高く聳え立ち、四十の石造の塔に囲たれおいた。やがお山を降りお湖氎の偎に出るず、氎䞊に浮んで芋えるこれらの塔や神殿や家々が、たるで倢幻境の颚物のようにスペむン人らの心を蕩かした。湖氎の偎で宿営した宮殿は、矎しく削った四角な石や、杉や、その他の銙朚で建おられ、どの宀にも朚綿の壁掛がかかっおいお、この囜土の富ず力ずが劂䜕に倧きいかを瀺すように芋えた。  かくしおコルテスの軍隊が遂にメキシコの町に乗り蟌んだのは、䞀五䞀九幎の十䞀月八日である。堀道は八歩の広さであったが、芋物人の埀来で通行困難を感じた。塔や神殿も悉く芋物人に芆われ、湖にも䞀面に芋物人の舟が矀った。それも道理で、圌らは癜人や銬を曜お芋たこずがないのであった。ずころでこの無数の人の矀の䞭を通っお行くスペむン人はず蚀えば、僅か䞉癟の小郚隊なのである。「これほど倧胆な冒険を䌁おた人々が曜おあったろうか」ずベルナヌル・ディアスが蚘しおいるのも無理はない。  町の倧通りではメキシコ王が、貎族たちのか぀ぐ玉座に坐し二癟人の華やかな埓者を埓えお迎えに出た。スペむン人が近づくず王は玉座を降り、拡げられた敷物の䞊を歩いお来た。豊かな圩衣を぀け、緑色の矜食りの冠を頂き、足には宝石を鏀めた黄金の履をはいおいた。看衆は王を盎芖するこずは蚱されない。すべおの人は恭しく県を䌏せた。コルテスは銬を降りお王に近づき、莈物ずしおガラス玉の鎖を王の頞にかけた。圌は曎に王を抱擁しようずさえしたのであるが、それは神聖を涜すものずしお偎近の貎族に遮られた。王はコルテスぞの豊かな莈物を残しお埓者ず共に匕䞊げお行った。  スペむンの軍隊は楜を奏し旗を飜し぀぀入城した。六千のトゥラスカラ兵もそれに続いた。町の䞭倮の広い垂堎に面しお戊神の高い殿堂ず広倧な旧王宮があったが、この埌者を王は新来の客の宿舎に宛おたのである。ここでも奜い宀には圩垃の壁掛があり床の敷物があった。コルテスはこの頑䞈な建物の芁所芁所を固め、入口に倧砲を据えた。倜になるず王が蚪ねお来お、ケツァルコアトゥルの䌝説を詳しく物語り、これたでスペむン囜やその王に぀いお聞いたずころから刀断するず、この王こそメキシコの正圓な君䞻であるず確信するず述べた。埓っおコルテスはメキシコ王及びメキシコ囜を自由に凊理しおよいのである。メキシコ囜の降服は䞀日にしお片附いたのであった。  しかしコルテスにずっおは王の降服のみでは十分でなかった。翌日圌は四人の隊長を埓えお王をその石造の宮殿に蚪ね、顔が映るほどに奜く磚いた倧理石や碧玉や斑岩の壁の宀、或は花鳥を繍した高䟡な織物のかかっおいる宀で、王ず䌚談したのであるが、その時コルテスは、モンテスヌマをキリスト教に改宗せしめよずの王呜を受けおいるず宣明し、教矩の議論を始めたのである。しかし曜お最高の叞祭の職にあったメキシコ王はこの議論を避けた。そうしおただスペむン王に臣事し貢を䞊る甚意があるこずをのみ繰返した。即ち遠埁の真の目的ずしお暙抜せられおいる点は未だ達せられおいないのである。  䞀週間埌にコルテスは王を捕虜ずしようず決心した。口実はベラ・クルスの守備隊が附近の酋長に襲撃された事であった。コルテスは王宮に赎いお王がこの襲撃を䜿嗟したのであろうず抗議し、酋長の凊眰を芁求した。王は同意しお酋長の召喚を呜じた。しかしコルテスはそれだけに満足せず、事件解決たで王が旧王宮に䜏むべきこずをも芁求した。王は息子ず嚘ずを人質に出そうず提議したが、コルテスは王自身のみがスペむン人の安党を保蚌し埗るず䞻匵しお譲らなかった。遂に郚䞋は蟛抱し切れず、同意せねば殺そうずいう恐嚇の蚀を吐いた。王はこの気勢に驚いお同意し旧王宮に移った。民衆には王の発意であるず発衚した。スペむン人も王を鄭重に取扱い、王ずしおの日垞のやり方は元のたたに続けさせた。埓っお衚面䞊䜕の倉化もない劂く芋えたが、しかし王自身は深い苊痛を感じおいたのである。  やがお問題の酋長は息子ず十五人の郚䞋を぀れお銖府に珟われ、コルテスに匕枡された。圌らはモンテスヌマに䜿嗟されたこずを自癜し王宮前の広堎で火炙りの刑に凊せられた。王は䜿嗟者ずしおこの凊刑の行われる間鎖に぀ながれたが、そこから解攟されおも、もうおのれの王宮に垰ろうずはしなかった。圌の人民の痛憀、倖敵に察する蜂起を、制止し埗る自信はもう圌にはなかった。圌はスペむン人の保護の䞋に留たるこずを遞んだ。幟人かの王族貎族はこの屈蟱に堪え兌ねお兵を起そうずしたが、すべお倱敗に垰した。王は酋長たち貎族たちの集䌚に斌おスペむン王ぞの忠誠を誓い、ケツァルコアトゥルの予蚀が今や実珟されたのであるず語った。「これからはお前たちの本来の䞻君ずしおカルロス倧王に、たたその代理者たる将軍に、服埓せよ。お前たちが䜙に払った租皎はこの䞻君に払い、䜙に仕えた劂くこの䞻君に仕えよ。」かく王は涙ず嘆息の内に語を結んだ。コルテスは公蚌人に降服文曞を起草させ、双方それに眲名した。  スペむン人は土人の官吏を埓えお囜䞭をめぐり、租皎の城集、スペむン王ぞの貢物の受玍を行った。モンテスヌマも私財の䞭から数知れぬ金銀现工を提䟛した。かくしお倚量の「黄金」がコルテスの手に垰した。ただ䞀床の匷圧手段で党囜が平和の内にスペむン人の支配に移り行くかのように芋えた。然るにそれを䞭断したのは、スペむン人の偎に起った内蚌ず、それに刺戟されお起ったメキシコ人の反抗ずである。  内蚌は、キュバ総督ベラスケスが己れに叛いたコルテスを制圧しようずしたこずによっお起った。総督はコルテスの䞍埒を本囜に蚎え、コルテスを捕瞛すべき遠埁隊を送った。八十の銃兵、癟二十の匩兵、八十の階兵、十䞃八門の倧砲等を含んだ八癟名の軍隊、十八隻の船隊であるから、コルテスの遠埁よりは遙かに有力である。ハむチの副王はキュバ総督のこの挙を阻止しようずしたが、駄目であった。で副王はコルテスに味方しお、総督及び遠埁隊長の眪を本囜に蚎えるに至ったのである。  遠埁隊は䞀五二〇幎四月二十䞉日にベラ・クルスに着き、䞊陞しお、コルテスの守備隊に降服を芁求した。守備隊長はこの䜿者たちを盎接コルテスの蚱ぞ送ったが、コルテスは圌らを優遇しメキシコの事情を説明しお自分の味方に぀けおしたった。新来の遠埁隊党䜓を味方に぀ける望みもないではなかった。ただ問題は隊長だけであった。でコルテスは隊長に和解を申蟌み、将校たちに倚量の金を莈るず共に、䞃十名の郚䞋ず二千名の土人兵を率いお急遜山を䞋っお行った。途䞭探怜から匕䞊げお来た郚䞋や海岞の守備隊を合しおスペむン兵二癟六十名ずなった。その手勢を以お聖霊降臚節の前倜に新来遠埁隊の宿舎を奇襲し、隊長を捕えたのである。その郚䞋はコルテスに忠誠を誓った。埓っお結果ずしおはコルテスは増揎軍を埗たず同じこずになったのである。  がその留守の間にメキシコに斌お事が起ったのであった。残された守備隊は癟四十名であったが、倧きい犠牲祭の日に、王を奪還する䌁おを恐れお、矀集を攻撃し、血を流したのである。その結果党垂は蜂起しお旧王宮の守備隊を猛烈に攻撃した。コルテスは党兵力をあげお救揎に赎き、倏至の日に垰着した。その勢力は階士九十、銃兵八十、匩兵八十を含めお千䞉癟であった。しかしそれ䜍では防ぎ切れなかった。倧砲で次々ず打ち払っおも、メキシコ兵は反っお増倧しおくる。コルテスは遂に退华を決意し、王を利甚しお退路を䜜ろうず詊みた。王は盛装しお塔の段に珟われた。民衆は鎮たった。王は声高く、「自分は捕虜ではない、スペむン人は退去を欲しおいる」ず云った。しかし民衆はこの蚀葉を怯懊のしるしずしお受取り、王に呌びかけた、「王のいずこ、むスタッラパンの君公を王䜍に即けよ、スペむン人を鏖殺するたで歊噚を措かぬず誓え。」この蚀葉ず共に霰のように石ず箭が飛んで来た。楯で芆う前に王は倚くの傷を受け、頭に圓った投石のために気絶した。この屈蟱はモンテスヌマの心魂にこたえ、芚醒埌にも䞀切の手圓を拒んで、䞀五二〇幎六月䞉十日に歿した。  王の死ず共に攻撃は狂暎を増した。堀道の橋も悉く取り陀かれた。食糧も぀きた。翌䞃月䞀日の倜コルテスは、運搬の出来る橋を䜿っお退华に取りかかった。陞からも湖䞊の無数の小舟からも石ず箭が飛んで来た。恐ろしい苊戊であった。コルテスず共に町に入った千䞉癟の兵のうち、逃れ埗たのは四癟四十名で、それも悉く負傷しおいた。倧砲匟薬は悉く倱われ、銬も四十六頭斃れた。それでもコルテスは敗残の兵を率いお退华を続け、湖氎の西偎を北に廻っお䞃月䞃日には叀郜テオティワカン神々の䜏居に着いた。が最倧の危機はなおその埌に控えおいた。叀郜東方のオトゥンバ平野で、この敗残の郚隊は二十䞇ず号するメキシコ軍に包囲されたのである。そこには絶望的な混戊があった。コルテス自身も投石によっお頭郚に負傷した。が圌はこの乱軍のなかで数階ず共に敵将に向っお殺到し、これを倒しお旗を奪った。それによっおメキシコの倧軍は厩れたのである。かくおコルテスは蟛うじおトゥラスカラたで匕䞊げ、傷の療逊に努めたが、郚䞋の士気は沮喪し、トゥラスカラ人の間にも動揺が起らぬではなかった。それを持ちこたえたコルテスの気塊は盞圓のものず云わなくおはならない。  䞀床降服したメキシコ囜は、曎に改めお歊力を以お埁服せられなくおはならなくなった。敗残のコルテスがかかる攻撃力を回埩した道は、メキシコ人よりも優れた智力ず技術なのである。傷病が癒えるず共にコルテスの螏み出した第䞀歩は、トゥラスカラ人の助けを借りおその東南方の地方を埁服するこずであった。それによっお圌はこの際䞍可欠なトゥラスカラ人の信望を぀ないだのである。第二歩はキュバ総督が䜕も知らずに送っお来た揎軍を味方に぀けるこずであった。それによっお圌の勢力は最初アナワク高原ぞ乗り蟌んだ時よりは匷くなっお来た。そこでメキシコに察する攻撃の方法ずしお圌の考え出したのが、船による湖䞊の支配である。ペヌロッパの造船や操瞊の技術によっおアステヌクの戊舟を圧倒すれば、湖䞭のメキシコを孀立させるこずが出来る。かく考えお圌は幟隻かのブリガンティンを造らしめた。玢具や鉄はベラ・クルスから持っおくる。船䜓はトゥラスカラで工䜜しお湖ぞ持っお行っお組み立おる。これは倪平掋を発芋したバルボアがその埁服のために最初に着手したず同じやり方なのである。  䞀五二〇幎十二月䞭旬、コルテスは歩兵五癟五十、階兵四十、倧砲八九門を以おテペアカを出発し、北方の山路を経おテツクコに進出した。そうしお新造の十䞉隻の船が湖氎ぞ進氎出来るように、町から湖たでの半レガの堀を十二呎の深さに掘り䞋げ始めた。他方では湖岞偵察のために遠埁を詊み、沿岞の町々を埁服した。その内ハむチから歩兵二癟、階兵䞃八十の揎軍がくる。コルテスは倧胆にも湖氎南端のホチミルコの町を襲い、危うく捕虜ずなりかけるような冒険をやった。こういう匷気のやり方は、反察なしに行われたのではない。総督掟はたた謀叛をたくらんだ。しかしコルテスは銖謀者䞀人を死刑に凊したのみで、䞀味の者を远窮しなかった。  䞀五二䞀幎四月二十八日遂に堀は完成し、船が進氎した。䞀隻に砲䞀門・兵二十五名である。このペヌロッパ颚の軍艊十䞉隻の出珟はメキシコの町の死呜を制した。䜕故なら、これによっお、数千の戊舟に取巻かれた堀道を進出するずいう困難が取陀かれたからである。戊舟隊ずの最初の戊闘は予期以䞊にうたく行った。五癟艘の戊舟が偵察にやっお来た時、コルテスは初め匕き寄せお眮いお倧砲を打ちかけ、船の操瞊の巧みさで䞀挙に勝を占める぀もりであったが、突然陞の方から远颚が起ったので、早速ブリガンティンをしお満垆を匵っお敵舟隊に突進せしめ、メキシコの町ぞたでも远撃せよず呜じたのである。無数の戊舟は突き沈められ、乗員は溺れた。远撃䞉哩に及び敵の舟隊は芆滅した。この䞀挙を以おコルテスは湖䞊の支配暩を握ったのである。あずはこの軍艊に掩護され぀぀メキシコの町ぞの堀道を埐々に远い詰めお行けばよかった。氎道を絶ち糧道を絶たれた湖䞭の町が、い぀たでも包囲に堪える筈はないからである。  この理詰めの攻撃に察しおアステヌク族はいかに抵抗したか。先王モンテスヌマは運呜を諊芳しお抵抗しなかったが、しかしそれはアステヌク族の戊闘的性栌を珟わしたものではなかった。モンテスヌマの歿埌そのあずを嗣いだ匟は四カ月にしお歿し、この圓時は甥に圓る二十五歳のカりヌテモ或はガテモが王䜍に即いおいたが、この王の䞋にアステヌク族は実にがむしゃらに死闘を続けたのである。圌らは湖䞭の堀道を絶ち切っおスペむン軍の進出を防いだ。䞀぀の箇所が埋め぀くされるず背埌に新しく堀を掘っお関を䜜り頑匷に抵抗した。陞にも氎面にも荒々しい雄叫びが響き぀づけた。埓っお死を蟞せざる勇気ずいう䞀点に斌おはメキシコ人は決しおスペむン人に劣っおはいなかったのである。しかし智力ず技術ずが優劣を分った。スペむン人は遂に町に達した。通りに造られた堡塁を倧砲で打ち砎り、それを越えお倧神殿にたで進出し、再建された偶像を砎壊した。この圢勢を芋おテツクコの君公は五䞇の兵を率いお降服し、他の町々もこれに倣ったが、しかしメキシコ人は屈しなかった。毎日毎日攻撃は繰返され、家は焌かれ、饑逓は迫ったが、しかし圌らはあらゆる平和条件を斥けた。このような頑匷な抵抗が䞉週間続いた埌、コルテスは遂に総攻撃を決行したが、混戊の最䞭コルテス自身は危うく捕虜にされそうになり、若い士官の身代りによっお挞く助かった。スペむン兵の戊死四十、捕虜にされたもの六十二、ほかに同盟軍の損害倚数であった。倜になるず戊の神の殿堂の倧倪錓が蜟き、長い戊士の列が階段を昇っお行った。そうしお捕虜ずなったスペむン兵たちに矜食りを぀け、偶像の前で舞螏をさせ、圌らを犠牲台に暪えお胞を剖き生きた心臓を取り出しお神に捧げた。それがコルテスの陣から芋えたのである。この凶暎な敵に察しお包囲軍も凶暎ずなった。八日間䌑逊した埌に再び総攻撃が開始された時には、町の家々は片端から砎壊され焌かれた。王宮も炎䞊した。饑逓は激化した。䜏民は草の根や雑草や、たた朚材さえも喰った。それでもアステヌク族は降服しようずしなかった。圌らは王囜の没萜のあずに生き残ろうず思わず、銖府の廃墟の䞋に埋められるこずを欲したのである。  この包囲は䞀五二䞀幎五月䞉十日より八月十䞉日たで䞃十五日間続いたのであった。それを終結せしめたのは、王が舟で脱走しようずしおブリガンティンに捕たったからである。饑逓で匱っおか぀が぀動ける皋床の男・女・子䟛の倧矀が、䞉日䞉晩堀道を埋めお匕䞊げお行った。最埌たで王が守っおいた町の郚分の家々は悉く死人に充たされ、生き残っおいる者も立ち䞊る力はなかった。死者の総蚈は十二䞇乃至二十四䞇ず云われおいる。これが平時の人口䞉十䞇の町での事なのである。  メキシコ陥萜によっお近隣の諞郚族も降服した。黄金の収穫は倚倧であった。コルテスは巧みに町の再建を蚈り、神殿のあずに教䌚を建おた。堅固な芁塞にはブリガンティンを掩護する蚭備も蚭けられた。町に暎動が起っおも湖䞊の支配を倱わないためである。かくしおこの新しい町には䞀二幎の内に二千のスペむン家族が定䜏し、䞀五二四幎には人口䞉䞇を数えた。他方土人たちは、圚来の囜家組織・瀟䌚秩序を砎壊されるず共に、悲しむべき道矩頜廃に陥り、埁服者たちの䞋に奎隷化された。人身犠牲の颚習が根絶されるず共に、たた圚来の文化や産業も砎壊され぀くしたのである。  コルテスのメキシコ埁服が本囜より承認され、圌が新スペむンの総督・総叞什官に任呜されたのは、メキシコ陥萜の翌幎䞀五二二幎十月である。その埌のコルテスの経綞は、メキシコに斌けるスペむン暩力の確立ず附近の諞地方の探怜埁服ずであった。特に倪平掋ぞの通路は圌の熱心な目暙であった。初めにはテワンテペク地峡に斌お、次にはホンデュラス湟の奥に斌お、探し求められたが、芋぀かる筈もなかった。しかし圌は断念せず曎に、北方ぞ、或は南方ぞ、探怜の蚈画を立おた。それに比べお県に芋える効果が䞊ったのはグヮテマラ埁服である。ここにはマダ族がトルテヌク文化を受けお矎しい建築を造っおいたが、䞀五二四幎コルテス郚䞋の遠埁隊によっお砎壊され埁服された。次でホンデュラスの埁服も䌁おられたが、その遠埁隊の叞什官がキュバ総督に内応したため、コルテスは自ら䞀郚隊を率い陞路ナカタン半島の根元を暪断しおホンデュラスの北岞ぞ赎いた。原始林ず沌沢ずを突砎するこの行軍は実に困難を極めたものであったが、コルテスは遂にそれを匷行した。しかし着いお芋るず謀叛事件は候くに片附いおいた。のみならずコルテスの遠埁隊党滅の噂の為メキシコに動揺が起った。コルテスが挞くメキシコに垰着したのは䞀五二六幎の五月末である。がコルテスの党盛期はもう終った。四週間埌に到着したスペむン政府の党暩䜿節は、コルテスに察するさたざたの告蚎に぀いお取調べを始めたのである。  コルテスが自ら盎接に匁明すべく、倚量の金銀や土産物を携え、勇敢な郚䞋やトゥラスカラの公子や倚くのメキシコ芞人などを䌎れお本囜ぞ着いたのは、䞀五二䞃幎十二月であった。その本囜で圌は、ペルヌ埁服の蚈画に察し政府の支持を求めに垰っお来たピサロず萜ち合ったのである。それは云わばメキシコ埁服の日が西に傟いお、ペルヌの埁服の月が東の地平線䞊に䞊っお来た瞬間であるずも云えよう。コルテスの匁明は聎かれ、オアシャカの地に広い領地も絊せられたのであるが、しかしメキシコの支配暩はもはや圌の手に残らなかった。圌はただ軍叞什官に過ぎなかった。䞀五䞉〇幎春メキシコに垰り、暫く領地の敎理に努めた埌、䞀五䞉二幎、䞀五䞉䞉幎ず匕き続いお倪平掋岞に探怜隊を掟したが、皆思うように行かなかった。䞀五䞉五幎から䞀五䞉䞃幎にかけおは自ら乗り出しお芋たが、カリフォルニア湟を北䞊しただけで、埗るずころはなかった。新スペむン副王は遂に爟埌の探怜を犁じた。それを憀ったコルテスは王の裁決を請うべく䞀五四〇幎に再び本囜に垰ったが、王は冷淡で埒があかず、愚図愚図しおいるうちに、䞀五四䞃幎十二月、六十䞉歳にしお歿した。圌の歎史的な意矩は二十五幎前のメキシコ埁服を以お終っおいたのである。 六 ペルヌの発芋  華々しいメキシコ埁服が刺戟ずなっおその埌間もなく惹き起されたのがペルヌ埁服の事業である。そうしおその䞻圹は前にオヘダ及びバルボアの探怜に際しお登堎したフランシスコ・ピサロなのである。  ピサロはコルテスの母方の䞀家の出で同じ゚ストゥレマドゥラ州に生たれ、コルテスよりは数幎或は十数幎の幎長であったらしい。庶子であった為にひどい取扱いを受け、読み曞きさえも教えられなかった。豚の番人か䜕かをしおいるうちに新䞖界ぞの冒険熱にかぶれお故囜を埌にしたのであるが、その際圌ほど残り惜しさを感じなかったものはなかろうず蚀われおいる。同じ代衚的な埁服者でも、サラマンカ倧孊に孊んだコルテスず文字さえ読めぬピサロずの盞違は、やがお事業の䞊にはっきり珟われおくるのである。  オヘダの探怜隊に斌お圌が頭角を珟わしたのは、セルバンテスの䜜䞭にでもなければ比類を芋出し難いような階士的性栌ず歊功ずの故であった。次でバルボアず共に倪平掋に進出する冒険旅行を遂行し、その翌々幎にはモラヌレスず共に真珠諞島を攻略しお、遙か南方にある匷囜のこずを再び聞き、その冒険欲をそそられたのであったが、総督ペドラリアスが銖府をパナマに移した埌には、総督の詊みる北方ぞの探怜に埓事し、盞圓に名を珟わしはしたが、僅かにパナマ近隣の䞍健康地の領䞻ずなったに過ぎなかった。幎はもう五十に近づいたか、或はそれを超えたかなのである。  䞁床その頃䞀五二二幎にアンダゎヌダが南方ビルヌたで探怜しお垰った。このビルヌが蚛っおペルヌずなったずも云われおいる。他方にはコルテスの華々しい事業が人心を刺戟しおいる。パナマの人心は期せずしお南方ぞの探怜に向った。が南方の黄金囜の秘密は未だ䜕人にも開かれおいない。そこぞの道のりも芋圓が぀かぬ。ただ南方ぞの航海の困難さだけが少し解っおいる皋床である。埓っお最も倧胆なものも手が出せなかった。その時ピサロはこの探怜に熱䞭する二人の盞棒を芋぀け出したのである。䞀人はディ゚ゎ・デ・アルマグロで、ピサロより少し幎長であったらしい。玠姓はよく解らぬが、勇敢な軍人ずしお知られおいた。もう䞀人はパナマの叞教代理゚ルナンド・デ・ルケで、盞圓知識も広く、土地の信望を集めおいた人らしい。それによっおルケは金策に぀ずめ、アルマグロは船の艀装や食糧の調達に奔走し、ピサロは遠埁を指揮するずいうこずに盞談がきたった。総督もすぐに同意を䞎えた。アルマグロは機敏に掻動を始め、二隻の小さい船を手に入れた。䞀隻は前にバルボアが南海探怜のために造ったものである。乗員の募集はそれよりも困難であったが、それでも圌は癟人ほどの人を集めた。かくしおピサロは遂に䞀五二四幎十䞀月にパナマ枯を出発するこずが出来たのである。アルマグロは二隻目の準備が出来䞊り次第あずに続く筈であった。  ピサロのこの第䞀回航海はパナマ地峡に近いコロンビアの海岞をうろ぀いただけであったが、しかしその苊劎は倧倉なものであった。先ずビルヌの河を二䞉レガ遡江しお䞊陞しお芋たが、沌沢ず原始林ず暑熱ずでどうにもならない。諊めお船に垰り少し沖に出るず、ひどい暎颚が十日間も続いお揉み抜かれる。食糧や氎が欠乏しお皆がぞたばっおくる。陞に船を぀けお芋おも党然望みのない密林のみである。士気は厩れ、垰航を望むものが倚くなった。しかしピサロは退こうずしない。発芋者の苊難を説き、成功の華やかさを述べお士気を錓舞しようず努める。遂に船ず半分の隊員を真珠諞島ぞ送り、食糧の補絊を䌁おたが、自分は密林の䞭に残っお元気に郚䞋を劎わり぀぀、貝や怰子の芜や朚の実で呜を぀ないだ。数日で垰る筈の船は幟週間か経っおも垰らなかった。数少い隊員の䞭から二十人以䞊の死者が出た。もう逓死するほか道はないずいう危機に立った時に、燈が芋えるず報告したものがあった。人々は密林を突砎しお小さい土人の村に出で、ずうもろこしやココアを芋お驚喜したのである。  癜人の突然の出珟に驚いお姿を隠した土人たちは、危害を加えられる恐れのないのを芋お垰っお来た。この時の土人の質問がいかにも類型的である。「他所ぞ出お他人のものを盗む代りに、䜕故に自家にいおおのれの土地を耕さないのか。」その答は、土人たち自身が身に぀けおいる金の食りであった。ピサロは熱心に南方の黄金囜のこずを聞いた。土人は、山越しで十日行くず力匷い君䞻が䜏んでいる。その囜はもっず力匷い日の埡子に䟵略された、ず語った。  䞃週間経っお船が垰っお来た。食糧にあり぀くず冒険者たちは前の苊難を忘れおたた前進に移った。盞倉らず岞䌝いに、所々䞊陞し぀぀進んだ。土人の家や土人の町を芋぀けおは䞹念に金の痕跡を远究した。その町では土人の勇敢な抵抗に逢いピサロは遂に負傷するに至ったが、䞁床船も砎損がひどくなっおいたので、探怜を切䞊げお垰るこずにしたのであった。この間アルマグロの第二船はピサロのあずを远い぀぀远い越しお、北緯四床あたりサン・フアン河たで行ったが、めぐり逢うこずが出来ずに匕䞊げお来た。  第䞀回探怜の䞍成瞟は総督ペドラリアスの機嫌を悪くした。それを極力取りなしたのがルケ垫であった。結局総督は成功の際千ペ゜を受けるこずにしお再挙を承認した。これはこの䞍評刀な総督の圚職最埌の幎のこずである。そこでピサロ、ルケ、アルマグロの䞉人は改めお契玄曞を䜜った。ルケは二䞇ペ゜を出資する。埁服された囜土は悉く䞉人で均分する。金銀宝石等の宝物のみならず、スペむン王が埁服者に授けるず思われる特暩から発生すべき報酬・地代・奎僕等の悉くをも、䞉分するのである。が倱敗の際には、二人のキャプテンはその党財産を以おルケの出資を賠償しなくおはならぬ。この誓玄は極めお厳かな儀匏を以お行われ、その狂熱的な態床の故に傍芳者は涙を催さしめられたずいう。それは䞀五二六幎䞉月十日のこずであった。「平和の王の名に斌お圌らは掠奪ず流血ずを目ざす契玄を承認した」Robertson; America. Vol. Ⅲ p. 5.ず云われおいる。が圌らはその掠奪ず殺戮ずを行うべきペルヌ垝囜の実情に぀いおは、未だ䜕も知っおいなかったのである。そういう未知の富匷な垝囜を、䞉人のあたり有力でもない男が、自分たちの間に分配したずいう事実は、この発芋の時代ず、新しい䞖界に斌ける瀟䌚ずの、性栌を、明かに瀺しおいるず云っおよい。  準備は迅速に進められた。第䞀回航海の倱敗やパナマの町での䞍評刀にも拘らず、前の隊員は殆んど党郚加わっお、癟六十九名になった。数匹の銬も手に入った。匟薬や歊噚も前よりは豊富であった。二隻の船も前よりは䞊等であった。のみならずバルトロメヌ・ルむスずいう優れた船長が乗組んだ。それにしおも䞀぀の垝囜を埁服しようずいう軍勢ではない。ここにも圓時の冒険家の性栌が珟われおいるのである。  二隻はパナマを出発しお真盎にサン・フアン河たで南䞋した。ここは前回にアルマグロの到達した最南端であるが、今床は数日にしおそこに着いた。ピサロは䞊陞しお土人の村を襲い金の食りを手に入れた。この収穫に気をよくした圌らは、この獲物を逌にもう少し増揎隊を募集すべくアルマグロを垰還させた。他方ルむスをしお南方沿岞の偵察に出発せしめたが、ルむスは陞に䞊らず、土人ずの衝突を避け぀぀、南䞋しお行った。南ぞ行くほど文化も人口の密床も高たった。サン・マテオ湟北緯䞀床半では岞に芋物人が矀っお、恐怖も敵意も芋せずに、癜人の船が氎䞊を蟷っお行くのを眺めおいた。そこから沖ぞ出お間もなくルむスは海䞊に垆圱を認めお驚いたのである。この地方ぞ圌よりも先にペヌロッパの船が来おいる筈はない。たたアメリカ土人は最も開けたメキシコ人でさえ垆の䜿甚を知らなかった。䞀䜓あの船は䜕であるか。ルむスは匷い関心を持っお近づいお行ったが、それは土人がバルサず呌んでいる倧きな筏颚の船であった。船䞊には男女数人の土人があり、䞭には豊かな装身具を぀けおいる者もあった。たた積荷の内には盞圓に巧劙な金銀现工もあった。が最も驚くべきは圌らの衣裳の䞭に甚いられおいる毛織物であった。繊巧な織り方で、花鳥の繍があり、華やかな色に染められおいる。それに驚いたルむスは土人の話によっお䞀局驚かせられた。土人の内の二人はペルヌの枯トゥンベスの者であったが、その町の近傍では、この毛織物の毛を取る家畜の矀が野原を芆うおいるずいう。しかも王宮に行けば金銀はこの毛ほどに沢山あるずいう。ルむスはこういう報道の蚌人ずしお二䞉の土人を船に留め、あずを解攟したが、その埌は赀道を越えお半床ほど南ぞ出ただけで匕返しお来た。  ルむスがこのような新発芋をしおいる間に、ピサロは盞倉らず原始林ず取組んで饑逓になやんでいた。隊員の或者は鰐に食われ、或者は土人の奇襲に斃れた。ピサロず数人の郚䞋を陀いおは隊員は悉く垰還を切望するようになった。䞁床そこぞルむスが吉報をもたらしお垰っお来たのである。その埌間もなくアルマグロもたた食糧ず八十名䜙の増揎隊ず新任の総督が肩を入れおくれるずいう吉報ずをもたらしおパナマから到着した。士気は俄かに回埩し、隊員は前進を切望するようになった。  が南進を始めお芋るず、郜合のよい季節はもう過ぎ去っおいた。逆颚ず逆朮ずで困難なばかりでなく、あらしがしばしば起った。そういう難航を続けおピサロはルむスの足跡を蟿ったが、南ぞ行けば行くほど土地や人民の開けおくるこずは実に顕著であった。海から望むず、原始林の代りに広々ずしたずうもろこしや銬鈎薯の畑が芋える。郚萜の数も倚くなる。タカメスの枯たで来るず二千戞以䞊の町が県の前に暪わった。男も女も金や宝石の食りを぀けおいた。いよいよ南方の黄金囜ぞ来た、ず人々は感じた。がそれず共に土人の勇敢な態床も目立っお来た。軍人の乗った小舟がスペむン船のたわりを譊戒する。岞には䞀䞇もあろうかず思われる軍隊が勢揃えをしおいる。土人ず䌚商する぀もりで郚䞋ず共に䞊陞したピサロは、優勢な敵軍に取囲たれお危地に陥ったが、その時偶然にも䞀人の階士が萜銬したために助かった。ずいうのは、䞀぀のものず思っおいた階銬歊者が突然銬ず人ずに分れたので、土人たちは喫驚しお退いたからである。  ピサロの探怜隊を以お土人の軍隊ず戊うこずは䞍可胜である。いかにすべきであるか。匱気の者は探怜の䞭止を䞻匵したが、アルマグロは聎かなかった。隊員䞭パナマに債鬌を控えおいないものは䞀人もなかろう。このたた垰れば圌らの手䞭に陥っお牢屋ぞ攟り蟌たれる。どんなにひどい未開地であろうず、自由人ずしお歩き廻る方がよいではないか。もう䞀床ピサロにどこか工合のいい所で頑匵っおいおもらおう。自分はパナマぞ垰っお増揎隊を぀れおくる。これがアルマグロの提案であった。それを聞いおピサロは怒り出した。船の䞊で愉快に日を送る君はそれで奜かろう。しかしひどい未開地に残っお食う物がなくお匱っお死んで行くものにずっおはそうは行かない。アルマグロも赫ずなっお答えた。君がいやなら僕が残ろう。かくお双方は激昂し危うく剣を抜こうずする所たで行った。それをなだめたのはルむスず䌚蚈方ずであった。結局アルマグロの蚈画を実行するこずになり、数日の間沿岞を探したが、土地の開けおいる限りは土人の譊戒が厳重であった。しかしずっず北ぞ垰れば、原始林が土人よりも䞀局怖ろしい。そこで遞ばれたのが北緯二床のトゥマコ湟にあるガロずいう小島である。ここでピサロは隊員ず共に頑匵るこずになったが、この決定を聞いお隊員䞭には甚だしい䞍平が起った。  アルマグロはこの䞍平の声がパナマに聞えないように、残留隊員の蚗した手玙を抌えたのであったが、朚綿の球の䞭に隠した手玙には気附かなかった。その朚綿は産物の暙本ずしお総督倫人の蚱に届けられ、䞭の手玙もその手に枡った。それは自分たちの惚めな境遇を蚎えお総督に救枈を求めたものであった。総督はルケやアルマグロの匁解を聎かず、二隻の船を救出に送った。ガロの島ぞ行っお芋るず、果しおピサロの探怜隊は惚憺たる状態にあった。それは前の原始林の堎合よりもっず酷かったず云っおよい。人々は半裞䜓で、逓え疲れお、ぞずぞずになっおいた。救いの船で䞀刻も早くこの島を離れたがった。  この時がピサロの事業の最倧の危機であったかも知れぬ。が同じ船でルケずアルマグロの手玙が届き、珟前の窮境に絶望せず本来の目的を固守すべきこず、その堎合には間もなく前進に必芁な手段を講ずるこずを云っお来おいたのであった。ピサロは䞀歩も退こうずしなかった。しかしたた隊員を説埗しようずもしなかった。圌は剣をぬき、砂の䞊に東西に線を匕いお、南を指し぀぀、「あちらの偎には、劎苊、饑逓、真っ裞、びしょぬれになる暎颚、眮き去り、そうしお死がある。」たた北を指し぀぀、「こちらの偎には安楜ず快楜ずがある。――あちらには富めるペルヌがある。こちらには貧しいパナマがある。勇敢なカスティレ人にふさわしい方を、めいめいに遞んでくれ。自分は南ぞ行く。」こう云っおピサロは線をたたいだ。圌に埓ったものは船長ルむスを始め、十䞉人であった。救揎隊の隊長は圌らの䞍埓順を怒ったが、圌らは頑ずしお退こうずしなかった。食なく、衣なく、歊噚なく、船もないのに、この僅かな人数で圌らは、匷力な垝囜に察する十字軍を遂行しようずしお、この孀島に留たったのである。こんなこずは階士の物語のうちにもその䟋がない。  ルむスだけは埌図を蚈るために救揎船でパナマぞひき返したが、あずの十䞉人はガロ島から二十五レガほど北方のゎルゎナの島ぞ筏で移った。ガロの土人が匕返しおくる危険を恐れお無人島を遞んだのである。ここには森があっお鳥や獣を狩するこずが出来た。枅氎もあった。そこに小舎を建おお、毒虫に悩たされながらも、ピサロは朝の祈りや倕のマリアぞの讃歌やさたざたの祭りを勀め぀぀、この冒険事業の十字軍的な色圩を匷化するこずに努めた。信仰が士気を錓舞するからである。かくしお圌らは日々氎平線を芋匵りながら、䜕カ月かを過した。その日その日が倱望に暮れお、たた远々に絶望が近づき始めた。それが、氎平線の圌方から珟われおくる癜い垆によっお救われたのは、䞃カ月経っおからであった。  パナマの総督はピサロの頑固な態床に腹を立お、かかる自殺的行為をなす者には䞀切揎助を䞎えおはならぬずいう態床を取った。しかしルケずアルマグロずは熱心に総督を口説いた。遂に総督も枋々䞀隻の船の掟遣に同意した。しかし航海のために必芁である以䞊の船員の乗組を犁じ、ピサロには六カ月以内に垰還せよずの呜什を䞋した。そこでアルマグロは小さな船に食糧ず歊噚匟薬ずを積んでやっお来たのである。ピサロはこの事情をきいお倱望したが、しかし南方の黄金垝囜の存圚を突き止めるこずは出来るず考えた。そこで前から捕えお眮いたトゥンベスの土人の案内で、ずにかくトゥンベスを目ざしお南䞋したのである。  今回は前に䞊陞したあたりでも陞にふれず、前にルむスの到達した南端をも通り越しお、ペヌロッパ人の曜お螏み入らなかった海域ぞ入った。沿岞の地勢も前ず倉っおなだらかな斜面になり、所々に非垞に豊かな蟲耕地を芋せるようになった。海岞に建ち続いおいる癜い家や、遠くの䞘から立ち䞊る烟なども、これらの囜土の人口皠密を思わせた。そういう景芳を眺め぀぀、二十日ほどしお、船は静かに矎しいガダキル湟に蟷り蟌んだ。コルディレラの山脈はここでは海に迫っおいるが、しかし海岞には町や村があちこちにあり、矎しい緑の地垯が土地の豊沃を瀺しおいる。スペむン人たちは歓喜し぀぀トゥンベス湟口の小島のそばに投錚した。  翌朝船は湟を暪切っおトゥンベスの町に近づいた。これはかなりの広さの町で、石ず挆喰で出来たらしい建物が倚い。背埌には灌挑の行き届いおいるらしい豊かな牧堎がある。その景色を眺めおいるず、軍人を満茉した数隻の倧きいバルサスが遠埁に出掛けお行くのが芋えた。ピサロはそれに添うお航行し぀぀酋長たちを招いた。圌らはスペむン人の船に䞊っお珍らしそうに眺めおいたが、特にそこに同囜人を芋出しお驚いたのであった。その同囜人は圌らに身の䞊を話し、この䞍思議な倖来人は害を䞎えに来たのでなくただこの囜ずその䜏民ずに近づきになるために来たのであるこずを説明した。ピサロもそれを保蚌し、早く垰っお町の人にこのこずを知らせお貰いたいこず、友亀が望みなのであるから船に生鮮食糧を䟛絊しお貰いたいこずなどを芁求した。  トゥンベスの町の人は海岞に集っおこの浮べる城を䞍思議そうに眺めおいたが、右の報道を聞いお急いでこの地方の支配者クラカに蚎えた。クラカは倖来人が䜕か䞀段䞊の生物であるに盞違ないず考え、即刻右の芁求に応じた。間もなく数隻のバルサスが、バナナ、ナカ、ずうもろこし、甘藷、パむンアップル、ココナッツ、その他鳥・魚、数頭のラマなどを積んでやっお来た。ピサロはこの時ラマの実物を初めお芋たのである。のみならず䞁床この時トゥンベスに来合わせおいたむンカ貎族が、珍らしがっおこの䞍思議な倖来人を芋物しに来た。ピサロは恭しくこれを迎えお船の䞭を案内し、さたざたの機械の甚法を説明した。むンカの貎族は特にピサロたちが䜕凊から、䜕故に来たのであるかを知りたがった。ピサロは、このむンカ垝囜ずの最初の接觊に斌お、明かに次の劂く答えたず云われおいる。 自分は、䞖界䞭で最も偉倧な、最も力匷い王の家臣である。自分はこの䞻君がこの囜の合法的な最高暩を持぀こずを䞻匵するためにやっお来た。曎にもう䞀぀、ここの䜏民を珟圚の䞍信仰の闇から救い出すためにやっお来た。圌らはその魂を氞劫地獄に陥れる悪魔を瀌拝しおいるのである。自分は圌らに真実の唯䞀の神、゚ス・キリストの知識を䞎えたい。キリストを信ずるのが氞久の救いであるから。 Prescott; History of the Conquest of Peru. p. 271.  これは明癜に埁服の宣蚀である。それをむンカ貎族は泚意深く、䞍思議そうに聞いおいたが、返事はしなかったずいう。䞀䜓通匁が右のピサロの宣蚀を理解し、たた飜蚳し埗たのかどうか。元来これらの抂念を簡単に䌝え埗る蚀葉が、むンカ垝囜にあったのかどうか。それらは明かでない。がずにかくむンカ貎族は晩逐の時たで船に留たり、ペヌロッパ料理を賞矎した。特に葡萄酒はこの囜の酒より遙かに優秀であるず云った。別れに臚んで圌はスペむン人をトゥンベスの町ぞ招埅したが、ピサロも圌に鉄の斧を莈った。鉄はメキシコにもペルヌにも知られおいなかったので、圌は非垞に喜んだ。  翌日䞊陞したのは十䞉人の内の䞀人であるアロン゜・デ・モリナであった。圌はクラカぞの莈物ずしお、アメリカの地に産しない豚ず鶏を携えお行き、倕方果物や野菜の補絊を受けお垰っお来たが、その報告によるず、土人たちは圌の着物や皮膚の色や長い髯などを珍らしがり、特に婊人連が非垞に欟埅したずいう。たた䌎に぀れたニグロの皮膚の色をも珍らしがり、擊っおその色をはがそうずした。鶏が鳎いた時には手を打っお喜び、今䜕を云ったのだずたずねた。やがおクラカの䜏居ぞ案内されたが、そこでは金銀の噚を倚量に䜿っおいた。たた堅固な芁塞の隣りにある神殿は金や銀で眩しく茝いおいた。そういう報告があたりに誇倧に感ぜられたので、ピサロはもっず思慮深い、信甚の出来る偵察者を送ろうず考えた。  翌日、十䞉人の先頭であったペドロ・デ・カンディアが、甲胄に身を堅め、剣を぀るし、銃を肩にしお䞊陞した。それが日光にきらきらず茝くのを土人たちは驚嘆しお眺めた。鉄砲の評刀は既に土人の間に広たっおいたので、圌らはそれが「語る」のを聞きたがった。カンディアは板を的にしお、ねらいを定めお発射した。火薬の閃めき、爆発音、的の壊れる音。土人たちは恐怖に打たれた。カンディアがにこにこ笑っおいるので、やっず萜ち぀いたようであった。ずころでカンディアの芖察は、ただモリナの報告を確めただけであった。のみならず圌は神殿の隣りにある尌院の庭に入っお、玔金や玔銀で䜜った果物や野菜の装食を芋お来た。そこでは数人の職人がなお熱心に新しい现工を䜜り぀぀あったのである。  スペむン人たちはこの報道を受けお喜びの䜙り殆んど狂気せんばかりであった。氞幎倢みお来た黄金の囜に圌らは遂に到着したのである。ピサロは神に感謝した。がその宝を手に入れようにも、圌の手には軍隊がなかった。遠埁に着手しお以来、この時ほど圌が歊力を持たなかった時はないのである。圌はこの圓時にはひどくそれを口惜しがったが、しかし埌にはこのこずを神の恩寵ずしお感謝した。䜕故ならこの時にはただむンカ垝囜の内乱は起っお居らず、乗ずる隙はなかったのだからである。  埁服の仕事に着手出来ないピサロは曎に南䞋しお沿岞の探怜に埓事した。到るずころの枯で土人は、果物・野菜・魚などをもたらしお新来の客を欟埅した。顔色の明るい、茝く甲胄を着お雷火を手にした「倪陜の子」らは、行儀正しく優雅であるずいう評刀が、既に囜䞭にひろたっおいた。それず共にピサロは、いくら南䞋しおもこの匷倧なむンカ垝囜が続いおいるのを芋出した。そこには氎道や運河で巧みに灌挑された豊沃な耕地があった。石ず挆喰の建築があった。手入れの届いた街道があった。かくしおピサロは南緯九床あたりたで探怜しお匕返したのである。  土人の欟埅ず埁服者たちのおずなしい態床ずに就お、極めお瀺唆するずころの倚い挿話が䞀぀ある。それはサンタ・クルスず名づけられた土地での貎婊人の欟埅である。ピサロは垰り途にも寄るず玄束したが、垰路その村の沖に投錚するず、すぐに貎婊人は䌎を぀れお船を蚪ねお来た。そうしおピサロたちをその邞に招埅した。翌日ピサロが蚪ねお行くず、匂の高い花で食った緑の枝の四阿が出来おいお、その䞭にペルヌ料理がどっさり䞊んで居り、名も知らぬ果物や野菜もうたそうに盛っおあった。食事の埌には若い男女の音楜ず螊りが催され、しなやかな肢䜓の優矎さ敏掻さを芋せおくれた。最埌にピサロはこの芪切な女䞻人に自分がこの囜ぞ来た動機を述べ、携えお来たスペむンの囜旗をひろげお、スペむン王ぞの臣事の蚘念にこれを掲げおくれ、ず云った。女䞻人たちはこの囜旗掲揚の意味が十分に解らなかったず芋え、至極䞊機嫌で、笑いながら旗を掲げた。ピサロはこの圢匏的な埁服に満足しお船に匕き䞊げた、ずいうのである。  ピサロはこの南方の黄金垝囜の確蚌をもたらしお、十八カ月目にパナマに垰った。その䞎えたセンセヌションは実に倧きかった。圌らはもはや倢想家でも狂人でもないのである。しかし総督はこの期に及んでもなおこの発芋の意矩を理解せず、今埌の保護を拒んだ。もはや王に蚎えるほか道はなかった。その䜿にはピサロが立぀こずになり、䞀五二八幎の春パナマを出発したのである。本囜でメキシコ埁服者コルテスず萜ち合ったのはこの時であった。 䞃 むンカ垝囜  ピサロの発芋したむンカ垝囜ずは劂䜕なる囜であったか。  むンカの建囜はスペむン人の枡来より四癟幎前、即ち十二䞖玀初めのこずず掚定せられおいるが、しかしこれは確実でない。人によるず曎に叀く五癟幎ず云い、たた新しく二癟幎䜍に匕き䞋げる。チチカカ湖畔の広倧な廃墟の瀺すずころによるず、むンカの時代以前に既に文明の進んだ囜があった。しかしそれが劂䜕なる皮族で䜕凊から来たかはよく解らない。むンカの起源に぀いおも同様である。恐らくこの垝囜は埐々に成立し拡倧しお行ったものであろう。幟分確実な史実の捉えられ埗るのはスペむン人枡来前䞀䞖玀間のこずだず云われおいる。  ペルヌ人自身の語る建囜神話によるず、初代のむンカは倩より降臚した日の子なのである。日の神は人類の堕萜状態を憐れんで、これに共同態の結成や文化的な生掻の術を教えしめるため、その子マンコ・カパクずママ・オェロ・ワコずの兄効を地䞊に送った。この効ず兄は高原を぀たっおチチカカ湖畔に出で、曎に進んでクスコの谷たで来たが、ここで携えおいる金の楔がおのずから地䞭に没しお芋えなくなった。この奇蹟の起る堎所に停たれずいうのが日の神の呜什だったのである。そこで日の子どもはこの地に䜏居を定め、日の神の意志通りに慈悲の仕事を始めた。マンコ・カパクは蟲業を教え、ママ・オェロは玡織の術を教えた。人民はこの日の子らの教に埓い、集たっおクスコの町を築いた。このマンコ・カパクが初代のむンカで、その埌代々慈悲の䌝統を守り、枩和な支配を続けお、むンカ垝囜の倧をなした。  この皮の神話が歎史でないこずは云うたでもないが、しかしスペむン人の芋たむンカ垝囜には、この神話が生きお働いおいたのである。  先ず第䞀にクスコの町がそれを瀺しおいた。この町は、アルプスでならば幎䞭雪が消えるこずのない高さの高原にあっお、北方にはコルディレラの䞀支脈が続き、垂䞭には枅い川が流れおいる。家は皆䞀階で、貧しい家は土ず蘆で䜜られおいるが、しかし王宮や貎族の邞宅は重々しい石造である。街路は狭いが、所々に倧きい広堎がある。この町に日の神の倧神殿があっお、党囜より順瀌が集たっおくるのである。その神殿の結構の壮倧さは新しい䞖界に斌ける第䞀のものであり、装食の高䟡な点に斌おは旧䞖界のどの建築もこれに及ばないだろうず云われおいる。この倧神殿がむンカの神聖性を衚珟しおいたのである。  それず共にこの町には神聖なむンカの暩力を衚珟する倧芁塞があった。それは町の北方の䞘の䞊にあっお、厚い壁に取り巻かれ、地䞋道で町ず王宮に぀ながっおいる。構築には巚石を甚い、぀なぎ目は密着しおナむフの刃も入らぬ。巚石の或るものは長さ䞉十八呎、広さ十八呎、厚さ六呎に達しおいる。倧阪城の巚石ずほが同じ倧きさである。それをペルヌ人は鉄の道具なしで山から切り出し、牛銬なしで四里乃至十五里の距離を運び、川や峡谷を越えおこの䞘の䞊たで持ち䞊げた。そうしお石ず石の間をぎっちりず接合した。その技術も驚くべきであるが、土工二䞇人を䜿甚し五十幎間を費したず云われるその専制的な暩力の倧いさにも驚くべきであろう。  このような暩力を有するむンカの䜍は、マンコ・カパク以来王統䞀系を以お䌝えられたず云われおいる。むンカの劃嬪は倚数であるが、䜍を嗣いだのは正匏の王劃の長子であったらしい。そうしおその王劃はむンカの姉効から遞ばれた。ペルヌ人から芋るずこれが日の神の血統を最も玔粋に保぀所以だったのである。  しかしむンカずいう名は王䜍に即いたもののみに適甚されたのではない。マンコ・カパク以来の男系の子孫は悉くむンカず呌ばれた。぀たり王族も亊むンカなのである。ペルヌ君䞻制の実際の力はこの王族によっお支えられおいた。圌らも日の神の子孫であるこずは王ず同様であり、埓っおその貎族たる所以を神から受けおいる。埓っおその感情も利害も共同であった。圌らは支配階玚ずしお、血統のみならず蚀語・服装をも䞀般瀟䌚のそれず異にしおいた。その王族が王宀の藩屏ずしお王䜍を護っおいたのである。囜内の重芁な地䜍は王族によっお占められお居り、それらず䞭倮政府ずの通信連絡も極めお緊密であった。のみならず圌らの智力的優越は人民に察する圌らの暩嚁の䞻芁な源泉であった。ペルヌの特殊な文化や瀟䌚組織を䜜ったものはこの王族の智力であるず云っおよい。埓っおそれらはむンカの文化でありむンカの瀟䌚組織なのである。尀も地方にはむンカ族以倖の貎族クラカが重芁な地䜍を保っおいた。しかしクラカの行うずころはすべおむンカを暡したものであった。  むンカの王子は幌時より「賢者」の手によっお神事ず軍事ずを仕蟌たれるのであるが、特に軍事はむンカ貎族の子匟らず共に軍事孊校に斌お教育された。十六歳になるず、成幎匏の準備ずしおの公の詊隓をうける。詊隓官はむンカ䞭の最も有名な長老たちである。その前で受隓生たちはあらゆる皮類の歊芞を挔じ、断食を行い、戊闘挔習をやる。これが䞉十日䜍続くのであるが、その間王子も同じように土の䞊で寝、裞足で歩き、粗衣をたずっお苊劎する。それが終るず及第者たちは王の前ぞ出お成幎匏に䞎るのである。王はこの若者たちの及第を祝し、王族ずしおの責任を説いお聞かせる。日の神の子らよ、我々の偉倧なる祖先が人類に察しお行ったあの栄ある慈悲の業をたねよ、ずいう。そうしお䞀人䞀人に黄金の耳食りを着けおやる。そのあずにむンカの地䜍を瀺す履ずか、成幎を瀺す垯ずか、花の冠ずかが続く。むンカ貎族たちが集たっお王子に祝をのべる。党集団は広堎に出お祝賀の祭を行う。これらのこずを芋聞したスペむン人は、䞭䞖のキリスト教階士の成幎匏ずの酷䌌に驚いたず云われおいる。  以䞊の劂くむンカ貎族の子匟ず同じ様にしお成幎に達した王子は、今や父王の政治や軍事に䞎る資栌があるず認められる。遠埁などの際には、長幎父王に仕えお来た名ある叞什官の䞋に぀くのであるが、やがお経隓が積んでくるず、圌自身軍叞什官に任呜せられる。そういう仕方でむンカの王子は王にたで仕立お䞊げられるのである。  むンカの王の統治は、性栌に斌おは枩和であったが、圢匏に斌おは玔粋な専制政治であった。元銖は臣䞋よりも蚈り難いほど高く䜍しおいる。王ず同じく日の神の子孫たるむンカ貎族の䞭の最も有力なものでも、裞足になっお、肩に尊敬の印の荷を担わないず、王の前ぞは出られなかった。王は日の神の代衚者ずしお祭叞党䜓の頭銖であり、最も重芁な祭儀は自らこれを叞った。王は軍隊を召集し自らこれの叞什官ずなった。王は租皎を課し、法埋を䜜り、任意に叞法官を任呜した。圌はあらゆる嚁厳・暩力・俞犄などの源泉であった。぀たり「王自身が囜家であった」のであった。  プレスコットはむンカの専制政治が東掋の専制政治ず䌌おいるこずを指摘したあずで、その盞違を次の劂く云っおいる。東掋のそれは物質的な力に基いおいるが、むンカの暩嚁は最盛期の教皇のそれず比范さるべきである。しかし教皇の暩嚁は信仰に基くのであっお珟䞖の暩力に基くのではない。然るにむンカ垝囜は䞡方に基いおいる。それはナダダの神政よりももっず力匷い神政であった。むンカは神の代衚者或は代理者たるに留たらず、神そのものなのである。圌の呜什を犯すこずは冒涜なのであった。このような、臣䞋の内心をたで支配しようずするような匷圧的な政治は、他に類䟋がない、ず。  むンカの王はその尊さを珟わすために物々しい生掻の仕方を執った。その醇矎な衣裳、豪奢な装食、珍奇な鳥の矜に食られた王冠、すべお臣䞋のたねし埗られぬものであった。しかしたた圌は時々臣䞋や民衆の䞭に降りお来た。倧きい祭儀を自ら叞った際には、貎族たちを食卓に招いお圌らの健康のために杯をあげた。数幎に䞀床ず぀は、囜内を巡行しお、民衆の声を聞いた。街道には人民が立ち䞊んで小石や切株を掃陀し、匂の高い花をたき散らしたり、荷物を村から村ぞ運ぶのに競い合ったりした。王は時々停たっお民の蚎えをきいた。行列が山道をうねうねず曲るずころなどでは、元銖を䞀目芋ようずする芋物人が䞀杯であった。王が茊の垳をかかげお姿を珟わすず、王の䞇歳を唱える声が蜟き枡った。駐茊の堎所は聖化された堎所ずしお䜕時たでも蚘念されるのであった。  王宮もたた豪奢なものであっお、囜䞭到るずころにあった。䜎い石造で倖芳の矎はないが、内郚の装食や蚭備が倧倉なものなのである。宀の壁には金や銀の装食が厚く嵌め蟌んであった。壁の凹みには金銀補の動怍物の像が䞀杯になっおいた。台所道具から䞋僕の䜿う道具に至るたで金銀補であった。それに加えお矎しい圩の毛織物がふんだんに䜿っおあった。これらはペヌロッパやアゞアの奢䟈に銎れたスペむン王さえ喜んで䜿ったほど繊巧な織物であった。  䞭でもむンカたちの奜んだ宮殿は銖郜から四レガほどのずころにあるナカむ宮であった。山に囲たれた矎しい谷にあっお枅农な氎が庭を流れおいる。その氎を銀の氎道で匕いお金の湯槜ぞ入れるずいう莅沢な济堎もある。広い庭にはさたざたの朚や草花が育っおいるが、その䞭に金銀现工のさたざたな怍物を怍えた花壇があるのである。特にずうもろこしは、金の実、銀の葉で矎しく茝いおいる。  このように金銀が豊富なのは、この囜に金鉱銀鉱が倚いのみならず、それを貚幣ずしお甚いないで党郚むンカ王の手に集めるからである。しかもむンカ王の甚いる金銀は、先代から盞続したものではなくしお、悉くおのれ䞀代に集めたものである。䞀人のむンカ王が歿すれば、その所有した金銀は、共に葬るもののほかは、宮殿ず共にそのたた死者のために保存される。䜕時死者が垰っお来おも元通りの䜏居に䜏めるためである。それを以お芋おも金銀の豊富さは解るであろう。  王が歿した時、即ち「父たる日の神の家に呌び垰された時」の葬儀もたた実に盛倧である。臓腑は䜓から出しお銖府から五レガほどのタンプの神殿に埋められる。その際には金銀の噚や宝石の類が共に葬られるのみならず、倚くの臣䞋や劃たちが、時には千人に達する人々が殉葬されるのである。しかも人々はこの殉死を忠誠のしるしずしお進んでその遞に入ろうずしたらしい。葬儀に続いお囜䞭が喪に服した。䞀幎の間人民は悲しみの衚珟をくり返した。故王の旗を掲げた行列、故王の業瞟を唱う歌の制䜜ずその披露の祭など。しかし王の䜓は埋められるのではない。それは巧劙に銙詰にしお、日の神の倧神殿に祖先のミむラず共に保存されるのである。かくしお、垞の王服に包たれ、銖をうなだれ、䞡手を胞で組み、黄金の怅子に坐した代々のむンカの王ず正劃ずが、煌々たる黄金の倧日茪の前に、巊右に䞊んでいたのである。そうしお䞀定の祭儀の日になるず、故王の「留守宮」の番人頭が貎族たちを招埅し、王のミむラを鄭重に広堎たでか぀ぎ出し、王の財宝をその前に陳列しお、故王の名においお饗宎を開くのであった。「䞖界のどの町もこれほど倚量な金銀噚や宝石の陳列を芋たこずはなかろう」ず叀い蚘録者前には Sarmiento ず考えられおいたが、今は Cieza de Leon ず考えられおいる。この蚘録はペルヌ幎蚘第二郚である。は云っおいる。  以䞊の劂きがむンカの名の意味するずころである。ではその統治する囜はいかなる組織を持っおいたであろうか。  ペルヌずいう囜名はスペむン人が぀けたのであっお、むンカの囜家自身は名を持たなかった。囜人が自分の囜を䞀぀の統䞀ずしお云い珟わす時には「䞖界四方」ず呌んだずいう。四方は東西南北の意味である。この芳念に埓っお王囜は四぀の地方に区分され、郜よりそこぞ向けお四぀の道が通じおいた。その郜自身も四぀の区劃に分けられ、地方から䞊京した者はそれぞれその方角の区域に䜏んだ。四぀の地方には総督が眮かれ、その䞋に参議䌚があった。総督も䞀定期間郜に䜏んでむンカの枢密院を構成した。  囜民䞀般は十人組に分たれる。組長は組員の暩利を護り、䟵害者を蚎えねばならぬ。怠れば䟵害ず同眪になる。十人組の䞊に曎に五十人組・癟人組・五癟人組・千人組があっお、それぞれに長が眮かれる。その䞊に曎に䞀䞇の人口の県があっおむンカ貎族の知事が治める。裁刀は町や村の保安官が軜眪を扱い、重眪は知事の蚱ぞ持っお行く。裁刀官はどんな事件でも五日以内に片附けなくおはならぬ。䞊告の制床はないが、巡芖が囜内を廻っお裁刀を監督しおいる。裁刀事件はすべお䞊玚法廷ぞ報告されるから、王は䞭倮にあっお囜の隅々たで叞法の状態を監芖するこずが出来た。  法埋は数少く峻厳であった。それも殆んど刑法である。貚幣なく、商業ずいうほどのものもなく、財産もないのであるから、それらに関する法埋の必芁はなかった。竊盗・姊淫・殺人は死刑に凊する。尀も情状は酌量する。日の神に察する冒涜、むンカぞの誹謗も死刑である。日の神の子に察する謀叛は最倧の眪であるから、謀叛した町や地方は蚭備を砎壊し䜏民を根絶する。亀通に障瀙を䞎える橋の砎壊も死刑である。その他の重眪は、土地の境界暙を動かすこず、隣人の土地ぞの氎をおのれの土地ぞ向け倉えるこず、攟火、などであった。この皮の行為が重眪ずせられる点に斌お畔攟ち・溝埋めの囜接眪を聯想せしめるものがある。  皎制は土地制床ず共にむンカの囜の䞀぀の特城をなすものである。土地は日の神のためのもの、むンカのためのもの、人民のためのものに分たれた。どれが最も広かったかは明かでない。割合は地方毎に異っおいる。日の神のための土地はその収入によっお神殿や祭叞階玚や祭儀を支える。むンカのための土地は王宀の費甚及び政府の経費を䟛絊する。その䜙の土地が人民に均分されるのである。その割圓おは家族を単䜍ずするのであるから、人の結婚の時にはじたる。人民は䞀倫䞀婊で、男は二十四歳以䞊、女は十八歳乃至二十歳になるず、党囜䞀様に同じ日に町や村の広堎に召集され、それぞれの地方の長によっお䞀察ず぀に婚わされる。そうしおその日に党囜䞀斉に新倫婊のための祝宎を開くのであるが、そのあずでその地の団䜓が新倫婊の䜏居を造っおやり、倫婊の生掻に十分なだけの土地を割圓おるのである。子䟛が出来るず䞀人毎にその割圓おが増加する。男の子は女の子の倍である。埓っお割圓おは毎幎家族の人数に応じお曎新される。即ちここにも班田制が行われ、しかもそれが極めお掻溌に運甚せられおいる。䞖界の他の地方で行われた均分的班田制は、倧抵自然的な䞍平等配分に逆戻りしたのであるが、ここではこの制床が確乎たる瀟䌚秩序ずしお、厩れるこずなく、持続しおいたのである。  土地は、以䞊の劂く、䞉皮類に分たれおいるが、それを耕䜜するのは同䞀の人民である。人民は先ず第䞀に日の神の土地を耕䜜する。次で老・病・寡・孀及び城兵に出たものの留守宅の土地を耕す。そのあずで初めおおのれの土地に取りかかるのであるが、その際にも隣保盞助けなくおはならぬ。それを終っお最埌に人民は、盛倧な祭儀を行い぀぀、団䜓的にむンカの土地を耕す。朝、合図が響き枡るず、男も女も子䟛も䞀匵矅を着食っお楜しげに集たっおくる。そうしお昔のむンカの英雄的な事瞟を歌い、唱和し぀぀、䞀日䞭嬉しそうに劎働するのである。  衣の生産に関する制床もほが同様で、数え切れぬほど倚数なペルヌ矊の矀は、悉く日の神ずむンカずに属しおいた。そのうちラマずアルパカずは、熟緎した飌い手に管理されお方々の牧堎を廻っお歩く。その飌い方は非垞に綿密なものであった。他の二皮、ワナカずビキュニダずは、高地の野生で、毛はむしろこの方から倚量に埗られる。四幎に䞀回䜍の割で、䞀぀の地方に五六䞇の勢子を集め、倧狩猟をやる。捕えた矊の䞀郚は屠殺するが倧郚分䞉四䞇䜍は毛を刈り取っお攟すのである。以䞊の䞡方から出る毛は、䞀応公倉に貯え、人民の各家庭には必芁な分量を粗毛で配分する。女たちはその荒い毛を玡ぎ織っお家族の衣の需芁を充たすのである。それが終るず、むンカのための繊毛の玡織が芁求される。この玡織は非垞に技術の発達したもので、絹のような光沢を持った柔かい薄い織物から、絚氈のような厚いものに至るたで、いろいろなものが出来る。銖府においおその幎床の必芁量や皮類を決定し、それを各地方に割圓おるず、専門の官吏が原料の毛を配分し、生産さるべき織物を指定する。そうしおその仕事の進行情況をも監督する。もっずもこの監督は、人民がおのれの衣類を䜜る仕事に察しおも行われるのである。その監督の趣旚は、人民の奢䟈ずか、過剰生産ずかを取締るずいうのではなく、「䜕人も必芁な衣類を欠いおはならない」ずいうのであった。が同時にたた、「䜕人も働かずしお衣食しおはならない」ずいう思想も、そこに含たれおいたず云われる。  衣食以倖の劎働で目がしいのは採鉱冶金・金銀现工・建築・土朚などであるが、これらの劎働を蚈画的に管理する方法もたた綿密に定められおいた。その基瀎ずなったのは人口調査・土地資源調査などによる統蚈的知識である。それによっお政府は需芁量を定め、仕事を適圓な地方に配分する。鉱山の倚い地方に採鉱冶金熟緎工が逊成されるずいう劂きである。その技術は通䟋䞖襲で、幌少の時から泚意深く仕蟌たれ、思いがけぬ巧劙さに達しおいる。皮々の金銀现工などはその目がしいものであるが、驚くべきこずには、゚メラルドその他の宝石のような非垞に硬いものをも刻んでいるのである。道具は石か銅であるが、銅に僅かの錫を混えるこずによっお鋌鉄に近い硬さを䞎えるこずに成功しおいる。しかしそれらの熟緎工はそれによっお衣食するのではない。衣食の道はあくたでも前述の劂き蟲耕玡織の仕事によっお埗られるのであるが、その基調の䞊に特殊の技術を習埗し、それによっお公共の仕事に奉仕するのである。だから䞀定の期間勀めれば他の者がそれを嗣ぐ。そうしおその期間内は公費を以お逊われる。どの職工も負担の過重に悩むこずなく、たた衣食の途に窮するこずもない。鉱山劎働の劂き健康に奜からぬものでさえ、坑倫に䜕の害も䞎えおいない。この劎働の制床は「完備せるもの」ずしおスペむン人を驚かせたのであった。  以䞊の劂き蟲工劎働による成果は、䞀郚分銖府に運ばれ、むンカずその朝廷の甚に䟛せられるが、倧郚分は各地方の倉庫に貯蔵される。倉庫は石造の広い建物で、日の神ずむンカずに分たれるが、むンカの方が倚かったらしい。通䟋むンカの倉庫は倚量の䜙剰を残し、それが第䞉の備荒倉庫に移された。これは病気や灜害に苊しむ個人の救枈にも甚いられる。かくしおむンカの収入の倧きい郚分が再び人民の手ぞ還る仕掛になっおいた。倉庫の䞭身はずうもろこし・コカ・キヌア・繊毛・朚綿・金銀銅の噚具などである。特に穀倉はその地方を数幎間時には十幎間䜍支え埗るほど貯蔵しおいた。これらは初期のスペむン人が実芋した事実なのである。  このような財産の制床の䞋に斌おは、人民の䜕人も富むこずは出来ないが、たた貧しくなるこずも出来ぬ。すべおの人は平等に安楜を享受し埗たのである。ず共に、野心・貪欲・奜奇心・䞍平などが人心を衝き動かすずいうこずもない。人々は父祖が歩んだず同じ道を同じ堎所で歩き、子孫にもそうさせねばならぬ。このような受動的埓順の粟神、既存の秩序に黙っお同意する態床、それをむンカは人民の内に浞み蟌たせた。スペむン人の蚌蚀によるず、人民は他の䜕凊にも芋られないほどむンカの統治に満足しおいたずいうこずである。䞁床この点にたたこの囜家組織の最倧の欠点が認められる。即ちペルヌに斌おは劎働は他人のためであっお、自分のためではない。自分の生掻を少しでも奜くしよう、自分を䞀歩でも進歩せしめよう、ずいう態床はここでは蚱されない。かく個性の発展を閉め出した瀟䌚には、人間性の発展もたたないであろう。  しかしこれはペルヌ人がその独特の文化産物を䜜らなかったずいうこずではない。個人はその衣食䜏のための劎働に費す以倖の䜙力をすべお公共の蚭備のために捧げた。だから神殿・宮殿・芁塞・段畑・道路・氎道などの構築は実に豊富䞔぀壮倧であった。  先ず第䞀に驚くべきものずしお挙げられおいるのは道路である。䞭でも銖府から北キトヌ、南チリヌぞ通じおいる倧街道である。䞀本は倧高原の䞭を、他の䞀本は海岞沿いの平地を走っおいるが、高地の街道の劂きは実に玠晎らしい倧工事ず云わなくおはならぬ。雪に埋れた峻険な山々や、切り立った岩や、深い谷川など、今日の土朚技術を以おしおも容易に凊眮し埗ないような地垯を䞹念に切り開き、築き、釣橋をかけ、幅二十尺ほどの頑䞈な敷石道を通じおいるのである。しかも必芁なずころには石よりも堅い瀝青セメントが甚いおある。流れが土台を掗い去ったずころでは、この舗装面だけが厩れずに匓なりに匵っお谷の䞊に掛っおいるずいう。その延長は千五癟哩から二千哩に達しおいた。平地の街道で目に぀くのは、湿地を暪ぎる高い堀道ず道の䞡偎の䞊朚である。䞊朚は熱垯の日光を遮り、たた花の匂で旅人を喜ばせる。さおこれらの街道には、十哩乃至十二哩毎に旅舎の蚭備がある、その或るものは軍隊を宿泊せしめ埗るほど広倧である。これらの皮々の点から、むンカの街道は人類の構築した最も有甚にしお巚倧な仕事の䞀぀であるず云われおいる。  亀通の蚭備たる道路にこれほど力を甚いおいるのであるから、通信連絡の蚭備も同様に進歩しおいたこずは云うたでもない。あらゆる亀通路には五哩以䞋の距離毎に小さい駅逓を蚭け、そこに䜕人かの飛脚を駐圚せしめる。それが速達䟿を逓送するのである。速床は䞀日癟五十哩ず云われおいる。この制床はメキシコにもあったが、ペヌロッパよりは遙かに早い。だからペヌロッパの銖府ず銖府ずの間が非垞に距ったものず感ぜられおいた䞁床その時代に、長倧なペルヌの諞郜垂は緊密に結び぀けられおいたのである。  道路に぀いで驚くべきは氎道である。沿岞地方には殆んど雚がなく、川は少くお急流であるから、広い地面を湿おすこずが出来ない。埓っお土地は也いお䞍毛であるが、灌挑さえすれば豊沃の地ずなるずころも倚い。そういうずころぞ運河ず地䞋氎道ずによっお氎が匕かれおいるのである。それらは倧きい石の板をセメントなしでぎったり接合したもので、所々の氎門により必芁なだけの氎量を䟛絊しお行く。時には非垞に長く、四五癟哩に達するものもある。氎源は高地の湖ずか山䞭の氎で、それを導き䞋すに際し、岩に穎をあけ、山に隧道を掘り、或は山を廻り、河や沌を越えおいる。即ち工事は道路の堎合ず同じに困難なのである。この倧工事はスペむンの埁服以埌荒廃に垰したが、しかし所々になお灌挑を続けおいるものもある。しかしその氎が䜕凊の氎源からどういう埄路を経お来おいるかは、倧抵䞍明である。埓っお氎道構築に斌けるむンカ人の倩才ず努力ずは未だその党貌を瀺しおいるずは云えないのである。  氎道による灌挑は也燥地の蟲耕をも可胜にしたが、曎にペルヌ人は段畑の構築によっお山や䞘をも耕地に化した。募配の急な山を段々に刻んで山頂たでも畑にするのである。或る堎合には岩を切っお段々を䜜ったずころぞ厚い土壌を運び䞊げお畑にしおいる。その劎力は実に驚くべきものである。それず逆な構築は氎の乏しい山地の穎畑である。十五尺か二十尺掘るず適圓な湿床の土壌が出おくる。それを利甚するのである。広さはしばしば䞀゚ヌカヌを越えおいる。こういう段畑や穎畑にペルヌ人は鰯の肥料や鳥糞などを甚いお穀類野菜類を栜培した。これらの肥料はペルヌの海岞で倚量にずれるのであるが、その肥料ずしおの効甚をペヌロッパ人よりも遙かに早く理解しおいたのであった。蟲耕の技術はペルヌの文明のうち最も進んでいたものず云っおよい。  神殿は建築ずしお非垞に優れたものずは云えぬが、その巚倧な構築ず豪華な装食ずによっお、ペルヌに斌ける宗教の意矩を十分に衚珟しおいるず云っおもよいであろう。ペルヌ人もたた宇宙の創造䞻・䞻宰者ずしおの神を知らぬではない。しかしむンカ以前からの䞀神殿を陀いおは、この神に捧げられた神殿はない。その他月・星・雷電・地・颚・空気・山川の神々も尊厇され、それらに捧げられた神殿もあるが、日の神の厇敬ずその神殿の倚さ壮倧さは党く特別である。最叀の日の神の神殿はチチカカの島にある。そこの神田の穀物が囜䞭の公倉ぞ少量ず぀配分され、それによっおその倉の穀物が聖化されるず云われるほど、特殊の意矩を担っおいる。が最も有名なのは銖府にある神殿である。代々のむンカの垃斜によっお、『黄金の堎所』ず呌ばれるほどそれは豪華なのである。銖府の䞭倮に石の壁に囲たれた広い神域があっお、その䞭に本殿、いく぀かの瀌拝堂、附属の建物がある。本殿の西壁には非垞な倧きさの厚い金の板の䞊に日の神が衚珟せられおいる。䞭倮に顔があっおそこから四方八方ぞ光が射しおいるのである。゚メラルドその他の宝石が䞀面に鏀めおある。朝、倪陜が䞊っおくるず、東の入口からこの金壁の䞊ぞ真盎に光線が圓っお、燊然ず茝き、殿堂内を幜玄な光で充たすこずになる。西壁のほかにもあらゆる郚分に金の板や間柱が嵌められおいる。蛇腹も金である。倖壁にも広い金のフリヌズが廻らされおいる。瀌拝堂の䞀぀は月の神の殿堂で、同じ構想が党郚銀で衚珟され、蒌癜い月の光を反映するこずになる。その他星・雷電・虹などの殿堂がある。これらすべおの殿堂内に甚いられおいる装食や道具類も皆金銀補である。ずうもろこしを盛る倧きい瓶、銙炉、氎差し、氎道の氎を匕く氎管、それを受ける氎盀、その他庭園で甚いる蟲具の類たでもすべおそうである。曎にその庭園には金銀で造った怍物や動物が光り茝いおいる。党くお䌜噺のような光景であった。これは最も有名な神殿の堎合であるが、銖府及びその郊倖にはなお他に䞉四癟の神殿があっお、それぞれに豪華を競っおいる。のみならず党囜の諞地方にもそれぞれ神殿が建おられお居り、その或るものは銖府の神殿に比肩し埗たず云われおいる。その盛倧なこずはたこずに驚くべきである。  ずころでその倚数の神殿を運営しおいるのは、祭叞や圹人である。銖府の日の神殿だけでも四千人ず云われおいるから、党囜では倧倉なものであろう。祭叞の長はむンカに次ぐ嚁厳を担い、通䟋むンカの兄匟などから任呜される。その䞋に敎然たる祭叞の組織が出来おいる。祭叞の職分は神殿の事に限られ、その知識も祭儀に関するこずに限られおいるが、その祭儀が䞭々倚数で、蟌み入っおいたのである。最も重芁なのは倏至・冬至・春分・秋分の四倧祭であったが、䞭でも最倧の祭は倏至祭であった。この時には囜䞭の貎族が銖府に集たっおくる。祭の䞉日前から党囜民は火を萜しお断食にはいる。圓日にはむンカを初め党民衆が未明から広堎に集たっお日の出を迎える。最初の光が差した瞬間に矀集は感謝の叫びを挙げ、歓喜の歌を唱う。その合唱の間に倪陜は静々ず昇っおくる。讃矎の儀匏、灌酒の儀匏が続く。倧きい黄金の瓶から神に捧げた酒は、先ずむンカが飲み、次で王族の間に分ける。そこで矀集は行列を敎えお日の神殿ぞ進んで行く。ここで犠牲の匏が行われるのであるが、人身犠牲は極めお皀で、通䟋ラマが甚いられる。祭叞はその䜓を剖き、内臓の状態によっお卜うのである。次で凹面鏡により日光を集めお朚綿に点火し、「新しい火」を造る。この聖火を日の神の凊女が䞀幎間護り通すのである。犠牲のラマはこの火に焌かれお祭壇に䟛えられるが、それを序曲ずしお無数のラマが屠られ、むンカや貎族のみならず人民たちのために饗宎が開かれる。日の神の凊女が䜜ったずうもろこしの粉のパン、この囜の特殊な酒なども出る。そうしお音楜や舞螏を楜しみ぀぀倜になっお閉䌚する。なお舞螏や酒宎は数日間続くのである。この皮の祭りは人民の倧きい楜しみであった。  右の劂き祭儀のなかで、パンず酒ずを分配する儀匏は、聖逐瀌ずの類䌌によっおスペむン人を驚かせた。たた日の神の凊女の存圚も、聖火を護るずいう圹目に斌おロヌマの颚習を思い起させ、厳粛な童貞の芁求に斌おキリスト教や叀代の颚習ずの䞀臎を瀺しおいた。曎にこれらの凊女の䞻芁な぀ずめが神衣を織るこずにあったずいう点に斌お我々の神話をも思い起させるであろう。がこの凊女たちは他の堎合ず異っお「むンカの花嫁」だったのである。銖府の尌院はむンカ族の嚘のみで千五癟人以䞊の日の神の凊女を擁しおいたし、地方の尌院もクラカの嚘や人民䞭の矎女を倚数収容しおいたが、その䞭で最も矎しい凊女たちは遞ばれお王の劃ずなるのである。かかる劃の数は数千に達したず云われおいる。䞀床劃ずなった者は、出された時には尌院に垰らずしお元の家に垰り、「むンカの花嫁」ずしお䞖間から尊敬されるのである。しお芋れば日の神の凊女の制床はむンカの倚劻䞻矩ず密接に関係し、日の神ぞの献身をむンカの花嫁たるこずによっお実珟しおいるのである。  以䞊の劂きがむンカの囜の組織ず文化ずの倧芁なのである。鉄ず文字ずの䜿甚を未だ知らない民族がこれほどの囜家を䜜り埗たずいうこずは十分泚目せられなくおはならない。もしこの囜が安党に存続しお埐々に蚘録の時代に入ったずするならば、右の劂き囜家の具䜓的な姿は、むンカの事瞟を䌝える口承䌝説の蔭に隠れお了ったであろう。そういう「䌝説の時代」に属すべき囜ぞ、突劂スペむン人が闖入しお、その実情を蚘録しお眮いおくれたのである。その点に斌おむンカ垝囜は歎史の研究の内に倧きい光を投げるずいうべきであろう。ギリシアやわが囜の䌝説の時代に察しおも、その䌝説の子䟛らしさの故にその瀟䌚の構造の耇雑さやその生掻の豊かさを芋のがしおはならないのである。文字を知らず色糞を結んで数を珟わしたずいうむンカの囜でも、人口その他さたざたの統蚈を䜜り、それに基いお巧劙な生産ず配分の統制を行い埗たずいう。政治や生掻の技術は文字の技術よりも遙かに先立っおいる。  初期のスペむン人は、むンカの仁政の䞋に矎しい囜家が建蚭せられおいたこずを認めた。「広い囜土を通じお衣食に窮する者は䞀人もない。敎然たる秩序は囜の隅々たで行き亘っおいる。人民は節制ず勀勉ずに斌お著しく優れお居り、埓っお盗みや姊淫はこの囜には存しない。その埓順柔和な性栌は、もし初期の埁服者が乱暎をしなかったならば、非垞によくキリストの教を受け容れたであろう。」そういう意味の賞讃の蟞が幟人もによっお蚘録されおいるのである。十六䞖玀の埌半に氞くこの囜に滞圚したアコスタも、「叀代人がもしこの囜を知っおいたならば、必ずや激賞したこずであろう」Acosta; The Natural and Moral History of the Indies. Hakluyt Society. Vol. Ⅱ, p. 391.ず云っおいる。珟代に斌おも、「もしむンカ垝囜が存続したならばどうなったであろうか。その統治の圢匏や瀟䌚状態は非垞に興味深いもので、その構造の或点は盎ちに珟代ロシアの共産制ずの類䌌を思わせるのである。」Pittard; Race and History, 1927. p. 447.ず云われおいる。  勿論この皮の賞讃に察しおは異論がある。プレスコットもその䞀人である。圌によれば、なるほどむンカの囜には救貧蚭備も敎っお居り公共事業も盛んであった。しかしそこには人暩は認められおいない。私有財産もなければ、職業の自由、居䜏の自由、劻を遞ぶ自由さえもない。総じお自由な人栌はないのである。自由のないずころには道埳も存しない。埓っおむタリアのカヌルリが「ペルヌの道埳人はペヌロッパ人よりも遙かに優れおいる」Carli; Lettres Americaines, tom. i. p. 215.ず云ったのは、明かに云い過ぎである。ペルヌには北アメリカの自由な共和囜ず䞁床正反察のものが存しおいた。そこでは「政府が人のために䜜られる」のではなく、「人がただ政府のためにのみ䜜られおいる」劂き倖芳を呈しおいた。新しき䞖界はこの二぀の政治䜓制の舞台ずなったのである。その䞀぀、むンカ垝囜は、痕もなく圱を没した。他の䞀぀、人の自治胜力の問題を解決すべき偉倧な実隓は、珟に進行し぀぀ある。むンカ垝囜の功瞟は封建時代のペヌロッパに比すれば認めおよいであろうが、その倧垝囜がスペむン人の䟵入によっお迅速に亡んだのは故なきこずでない。自由なき人民は、自由を生呜よりも重んずるあの愛囜心を持っおいないからである。W. H. Prescott; History of the Conquest of Peru. 1847. p. 170-177.  このプレスコットの批評はいかにも尀もであるが、しかし「䌝説の時代」に盞応する文化段階の囜ず、十九䞖玀のアメリカ合衆囜ずを、同䞀の氎準に眮いお比范しおいるのは、圓を埗た態床ずは云えない。アメリカ合衆囜を圢成せる民族が、その䌝説の時代に斌お劂䜕なる人倫的組織を圢成しおいたかを考え、それをむンカ垝囜ず比范しおこそ、公正な態床ず云えるのではなかろうか。吊、それでさえもなお䞀方には倧きいハンディキャップがある。䜕故ならアングロ・サク゜ン民族はすぐそばにギリシア・ロヌマの高床に発達した文化や人倫的組織を芋おいたのであるが、むンカ垝囜はこのような暡範なしに自らのみの力によっお成長したのだからである。しかしたずい同じ文化段階に斌おむンカ垝囜の方がより優れた人倫的組織を圢成しおいたずしおも、それはむンカ垝囜の迅速な滅亡を防ぐ力ずはならなかったであろう。文化段階の盞違は実に臎呜的なものである。特にスペむン人の持っおいるコスモグラフィヌ䞊の広倧な県界ず、むンカの囜に斌ける閉鎖的な狭い県界ずの盞違は、実に重倧な力の盞違ずなっお珟われたのである。  この力の盞違がどういう颚に珟われたか。匷倧な筈のむンカ垝囜が僅か数癟人のスペむン人によっお劂䜕に迅速に埁服されたか。それを芳察するためには、先ずむンカ垝囜の戊力ず、埁服圓時の政情ずを芋お眮く必芁があるであろう。  むンカ垝囜は仁政を以お統治する平和な囜家であったが、しかしこの平和を維持するためには絶えず察倖戊争を行っおいたのである。それは日の神の厇拝を拡めるためであった。勿論日の神は仁愛の神であるから、初めより歊力䟵略を以お倖蛮に臚んだのではない。たず最初には謙遜ず芪切の態床を以お融合に぀ずめる。それが成功しない堎合には、倖亀亀枉や宥和政策によっお懐柔しようずする。それらすべおが無効に了った時、戊争に蚎えるのである。その動かし埗る兵力は二十䞇であった。兵士は城兵制床によっお埗られる。その兵士の服圹は茪番制によっお絶えず亀代するものであり、圚郷兵は月二䞉回の蚓緎を受ける。埓っお軍隊は秩序敎然ずしお居り、戊技にも熟達しおいた。歊噚は匓矢・槍・短剣・斧・石匓など。防犊には楯、朚綿の厚い刺子の服を甚いる。軍隊の集䞭や移動は前に説いた道路の発達によっお迅速に行われた。軍需品は道路に沿っお䞀定の間隔に蚭備せられた倉庫に充満しおいる。人民のものを掠奪すれば死刑に凊せられる。だから軍隊が囜の端から端ぞ移動しおも、人民は䜕の䞍䟿をも蒙らなかった。戊争のやり方も残酷ではない。敵を極端にたで圧迫せず、たた䞍必芁な殺戮や砎壊をも行わない。「敵の人も財産もやがおは歀方のものになるのであるから、倧切にしなくおは損である」ずいうのが圌らの栌率であった。この態床は味方に察しおも同様であっお、戊が氞びくず、床々兵士を入れ換え䌑逊させる。尀も敵が手剛い堎合に思い切っおやっ぀けた䟋がないわけではない。敵が降ればたず日の神の厇拝を導入する。圚来の信仰を蔑ろにするのではないが、日の神を最高の神ずしお厇めさせるのである。次で人口や土地の調査を行い、そこにむンカの土地制床を実斜する。圚来の支配者クラカは郜に移されお蚀語颚習を仕蟌たれるが、人民に察しおもたた郜蚀葉が共通語ずしお教え蟌たれるのである。  以䞊の劂きがむンカ垝囜の戊争ず埁服ずのやり方であった。それは云わば日の神の厇拝を拡めるための十字軍なのであり、日の神の子たるむンカのミッションなのであった。かくしお埐々に近隣の倚くの郚族が埁服され融合されお、共通の宗教、共通の蚀語、共通の統治の䞋に、粟神的に䞀぀の囜民に仕䞊げられお来たのであった。この点はアステヌクの歊力による匷圧的な統治ず極端に異っおいるのである。  がスペむン人枡来圓時のむンカ垝囜の、北はキトヌより南はチリヌに至る長倧な領土は、挞く十五䞖玀の䞭頃に至っお出来䞊ったのである。䞉代前のトゥパク・むンカ・ナパンキは、「日の子ども」の内でも最も有名な䞀人で、南はアタカマの沙挠を越えおチリヌに遠埁し、北はキトヌの南郚地方を攻略したのであった。このキトヌ遠埁は倪子ワむナ・カパクが指揮したのであったが、十五䞖玀埌半に父王歿するや次で王䜍を継承し、その圚䜍䞭にキトヌ党土を埁服したのであった。キトヌは富裕な囜土で、その領域も広く、埓っおその埁服は建囜以来最も重芁な領土拡匵であったず云われおいる。ワむナ・カパクはこの新附の領土のむンカ化に党力を぀くした。キトヌず銖府ずを結ぶ新道路の完成、郵逓の建蚭、郜蚀葉の䌝播、蟲業の改善、工芞の奚励など。かくしおむンカ垝囜は、十五䞖玀末十六䞖玀初頭に斌おその最盛期に達したのである。もしこの速床を以お発達を続けたならば、それは間もなくアゞア諞囜の氎準に達したかも知れない、ずも云われおいる。䞁床そこぞスペむン人が到来したのである。ワむナ・カパクが歿したのは䞀五二五幎の末のこずであるが、その十二幎前にバルボアが倪平掋岞にたで進出し、その前幎の䞀五二四幎の末にピサロが第䞀回のペルヌ探怜に出発したのであった。この時にはアルマグロのみが北緯四床あたりのサン・フアン河に達したのであるが、その報道はむンカに届いたらしい。䟵略者の恐るべき勇敢さず歊噚ずは、自分たちよりも遙かに優れた文明の蚌巊ずしお、匷い衝撃をむンカに䞎えた。ワむナ・カパクは、この䞍思議な力を持った倖来人が、やがおむンカの王䜍を危うくするだろう、ずいう憂慮を掩らしたず䌝えられおいる。その他さたざたの倩倉地異が前兆ずしお珟われたずも云われる。いずれにしおもスペむン人の出珟は心理的にペルヌ人を萎瞮せしめたらしい。  がワむナ・カパクはこの異垞な出来事が進展する前に歿し、あずに䞍幞な玛擟の皮を残したのである。ずいうのは、圌が正劃ずの間に生んだ倪子ワスカルは圓時䞉十歳䜍であったが、この他に圌は新しく埁服したキトヌの最埌の王の嚘ずの間にアタワルパを生み、この王子を非垞に愛した。そのため圌はむンカ垝囜の慣䟋を砎っお領土をこの二人の子に分けるこずを匷行し、もずのキトヌ王囜をアタワルパに䞎えたのである。父王は死の床に斌おワスカルずアタワルパずの芪和や協力を呜じた。でその埌五幎䜍の間は事なく過ぎた。だからピサロが第二回探怜に斌おむンカ垝囜を発芋した頃には内乱はただ起っおいなかったのである。しかし玔粋なむンカであるワスカルが、いかにも枩和な、寛容な性栌であったのに察しお、蟺境のキトヌ人ずの混血児たるアタワルパは、四五歳の幎少であるのみならず、非垞に争闘的な、野心に富んだ人物であった。でその絶え間なき領土拡匵の事業が兄王を刺戟するず共に、宮廷の阿諛迎合が挞次䞡者を離間しお、遂に悲惚な内乱を勃発せしめるに至ったのである。  この戊争の経過は、スペむン人䟵入の盎前のこずであるに拘らず、諞説甚だしく䞀臎を欠いおいるそうであるが、ずにかくアタワルパはキトヌの南方六十哩ほどの所で倧血戊を行い、正統むンカの軍隊に殲滅的打撃を䞎えたらしい。次で同じくもずのキトヌ王囜の領内で、父王ワむナ・カパクが奜んで䜏んでいたトメバンバの町に迫り、この町が敵の味方をしたずいう理由で、培底的な砎壊ず殺戮を行った。この町を含む地方党䜓も同様に殲滅的な打撃を受けた。この残虐な凊眮を聞いた町々は恐怖しお盞次いでアタワルパに降り、その進軍を容易にした。アタワルパは迅速にカハマルカたで進出しおそこに止たり、麟䞋の二将軍を銖府に向けお進軍せしめた。銖府ではワスカルは祭叞の意芋を聞いお敵を迎え蚎぀態床を取っおいた。決戊は銖府から数レガの平野に斌お終日粘り匷く行われたが、「䞻君のためにおのが生呜を軜んずる」臣䞋たちの献身的な防戊も、勝に乗った歎戊のアタワルパ軍にはかなわなかった。倧地は屍に埋められ、ワスカルは捕虜ずされた。  これは䞀五䞉二幎の春、スペむン人䟵略の数カ月前の出来事なのである。むンカ垝囜ずしおは未曜有の倧事倉であった。玔粋のむンカの血統でない者が、しかも近頃たで敵囜であったキトヌの王宀ずの混血児が、むンカの䞊に立ったのである。その激動のためか、この圓時の出来事に就おは異垞な残虐行為が䌝えられおいる。即ち戊勝の報を埗たアタワルパは、ワスカルを優遇せよず呜ずるず共に、党囜のむンカ貎族に察しお、垝囜分配の問題を適圓に解決するために銖府に集たれず呜じた。そうしお圌らが銖府に集たった時、これを包囲しお容赊なく屠殺した。玔粋のむンカ族のみならず、幟分かでもむンカの血を受けたものは、女たちさえもその䟋に掩れなかった。しかもこの凊刑はワスカルの面前に斌お行われたのである。埓っお圌はその劻たちや姉効たちの屠殺されるのをも芋おいなくおはならなかった。これほど残虐な埩讐はロヌマ垝囜の幎代蚘にもフランス革呜の蚘録にもないず云わねばならぬ。しかしこの䌝説は疑わしいずされおいる。䜕故ならこの時より䞃十幎埌に玔粋なむンカ族が六癟人近く存圚したず認められおいるからである。のみならずアタワルパは、圓の盞手のワスカルを、たたその匟のマンコ・カパクをも、殺しはしなかった。埓っお右の劂き残虐行為の物語は、むしろスペむン人自身の残虐行為に察する匁護の意図から、誇倧されたものであろうず云われおいる。 八 むンカ垝囜の埁服  むンカ垝囜が右の劂き未曜有の倧事倉に遭遇しおいた時、ピサロは既にその第䞉回の遠埁に斌おペルヌの海岞ぞ来おいたのである。  䞀五二八幎ピサロが本囜ぞ垰った時には、前にダリ゚ン湟で圌が远い払った゚ンシ゜に告蚎されお、䞀時拘留されたりなどしたが、政府の呜什で釈攟されおトレドに赎き、カヌル五䞖に謁芋した。王はドむツ皇垝ずしお戎冠するためむタリアに出発しようずしおいる矢先であったが、ピサロのもたらしたペルヌの産物やその探怜談に動かされ、埌揎の意を瀺した。女王がその意をうけお、䞀五二九幎䞃月、ピサロ、アルマグロ、ルケの䞉人に察し協玄を結んだ。ピサロは新しい領土の総督ずしお皮々の特暩を認められ、アルマグロはトゥンベス芁塞の叞什官、ルケはトゥンベスの叞祭に任呜された。ピサロず共にゎルゎナの島に蹈み留たった十䞉人もそれぞれ貎族に列せられた。この時ピサロが䞉人均分の盟玄を無芖しおおのれ䞀人に倚くの暩力を集䞭したこずは、埌の仲違いの皮ずなるのである。これらの特暩の承認に察しおピサロの負うた矩務は、六カ月以内に募兵を完了し、パナマ垰着埌六カ月以内に遠埁の途に䞊るこずであった。ピサロは早速故郷に垰っお資金ず兵員ずの募集に着手したが、うたく行かなかった。䞁床その時垰囜しおいた同郷のコルテスが声揎しおくれなかったならば、資金なども集たらなかったろうず云われおいる。玄束の六カ月間には予定にほが近い皋床たで挕ぎ぀け、政府の目をごたかしながら、䞀五䞉〇幎䞀月、䞉隻の小艊隊を以お出発したのである。  パナマではアルマグロが王ずの協玄に䞍満であった。䞀時は独立しお遠埁を䌁おようずしたほどであった。がルケが奔走し、再び䞉人均分の盟玄を確認しお、遠埁の準備に取りかかった。ここでも募兵は思わしくなかった。本囜以来合蚈しお癟八十名を出でず、銬は二十䞃頭であった。でアルマグロはあずに残っお揎軍の組織に努力するこずずし、䞀五䞉䞀幎䞀月、ピサロは䞉隻の船を以お第䞉回の遠埁の途に䞊ったのである。  ピサロは前回に芋定めお来たトゥンベスぞ盎航しようずしたのであったが、逆颚に劚げられおうたく行かず、北緯䞀床あたりのサン・マテオ湟から䞊陞しお岞沿いに南䞋を䌁おた。ここはもずのキトヌ王囜の最北端であるから、町には盞圓の金銀宝玉が芋出された。スペむン人は存分に掠奪しお仲間で配分したが、ピサロは早速それをパナマに送り、揎軍の募集に圹立おた。しかしその埌行軍は暑熱ず疫病ずで困難を極めた。䜏民は階銬兵ず銃火の嚁力に恐れお圱をかくし、掠奪すべきものを残さなかった。がパナマに送った財宝の効果はやがお珟われ始めた。先ずピサロに远い぀いたのは本囜から掟遣された官吏たちであったが、぀いで南緯䞀床半のプェルト・ビ゚ホに蟿り぀いた時、䞉十名の揎軍が到着した。曎に南䞋しおトゥンベス北方のプナ島に至り、土人ずの間に争闘をくり返しおいた時、二隻の船が癟名の揎軍を運んで来た。ピサロはそれによっおむンカ垝囜の入口トゥンベスに殺到し埗る態勢を敎えたのである。  然るにトゥンベスに着いお芋るず、前回のような欟埅の代りに土人の敵察を受けたのみならず、町そのものが恐るべき廃墟ず化しおいた。あの豪奢な金銀の食りに充ちおいた神殿や宮殿はただ残骞を留めるのみであった。この幻滅に困惑したピサロは、偶然この地方のクラカを捕えお事情を聞くこずが出来た。正統のむンカに忠誠を守っおいるブナの勇敢な郚族が、アタワルパに味方したトゥンベスの町ず戊っお、遂にこの町を攻略し䜏民を远い払ったのであった。アタワルパはおのれの戊争に熱䞭しおこの町を助けなかったのである。この内乱の事実に盎面しおピサロは初めお土民を手なずける政策の必芁を痛感したず云われおいる。たた䟵略の䞀歩を蹈み出す為に、むンカ垝囜の囜情を詳现に調査するこず、安党な根拠地を探すこずの必芁をも痛感したらしい。  でピサロは軍隊の䞀郚をトゥンベスに留め、残䜙の軍隊を率いお䞀五䞉二幎五月の初めに囜内偵察の途に䞊った。自分は海岞寄りの䜎地を南進し、゚ルナンド・デ・゜トの分遣隊は山麓地方を探怜した。この行軍に圓っお圌は軍芏を厳にし兵士の掠奪を犁じた為に、間もなく土人の信望を集め、到る凊の村々で欟埅を受けるに至った。それに察しお圌は、教皇ずスペむン王ぞの服埓を芁求する、ず宣蚀した。土民はその意味が解らず、抗議を申立おなかった。そこで土民はスペむン王の順良な人民ずしお受け入れられた。こういう仕方で䞉四週間偵察した埌、ピサロはトゥンベス南方䞉十䜙里の所に地を遞んで怍民地建蚭にずりかかった。トゥンベスに残った人ず船は盎ぐに呌び寄せられ、材朚や石は附近の森や石切堎から運ばれた。やがお教䌚・倉庫・裁刀所・芁塞、その他の建築が出来䞊った。垂圹所も構成された。附近の土地や土民は、垂民の間に配分された。これがむンカ垝囜に斌ける最初の怍民地サン・ミゲルなのである。  むンカの囜情もピサロに明かになった。最近の内乱に斌お勝利者ずなった新しいむンカが南方十日乃至十二日皋のカハマルカに陣しおいるこずも確められた。ピサロは少しでも揎軍がくればず心埅ちにしお数週間延ばしおいたが、遅延は士気を沮喪せしめる怖れがあるので、遂に二癟に足らぬ軍勢を率いお、䞀五䞉二幎九月二十四日、サン・ミゲルの門を出で、むンカ王の陣営に向っお行動を起した。この時のピサロの心境は奜くは解らないが、恐らくスペむン王の平和な䜿節ずしおむンカに謁芋を申蟌み、その敵意や譊戒の念を取り陀こうずしたのであろう。あずは臚機応倉で行けるからである。  ピサロの隊は矎しいペルヌの山河の䞭を行軍した。到る凊で土民は欟埅しおくれた。それがスペむン人偎の枩良な態床に起因するこず、たたかくの劂く土民の奜感を埗るか吊かが冒険の成吊を決するのであるこずを、圌らは十分に心埗おいたのである。かくしお五日目になるずピサロは隊を停めお粟密な査閲にずりかかった。隊員は癟䞃十䞃名、その内六十䞃名が階兵、䞉名が銃兵であったが、䞭にこの冒険を喜ばぬ者もあった。ピサロは党員に向っお挔説した。今やわれわれの仕事の岐路である。心の底から遠埁を欲するもの、その成功を確信するものでなければ、これから先ぞ行くべきでない。匕返すには今でも遅くはないのである。サン・ミゲルにはもっず守備兵が必芁なのであるから、匕返せば残存した者ず同じに取扱われる。かくの劂く圌は匕返す者に恥を䞎えないように提蚀した。が垌望者は九名に過ぎなかった。かくしおピサロは䞍平の皮を遞り棄おお前進を続けたのである。  その内むンカの䜿者が莈物を持っおピサロを招埅にやっお来た。ピサロはこの䜿者が偵察の目的を以お蚪ねお来たこずを承知し぀぀、鄭重に応埅し、珍らしい歊噚の甚法や癜人の来意などを説明しお聞かせた。その来意は自分たちが海の圌方の匷い君䞻から掟遣されおアタワルパの勝利を祝いその戊いを助けるために来たのだずいうこずであった。そこでピサロは返瀌の品を持たせお䜿者を垰し、再び進軍を続けた。そうしおかなりの日数を費しおカハマルカぞの山埄ずクスコぞの倧街道ずの分れ目ぞ来た。ここから山脈を越えるず盎ぐカハマルカぞ出るが、その道は矊腞たる山路で、もし敵に防犊の意志があれば、到る凊が屈匷の芁塞ずなり埗るものであった。既に前に、むンカは小人数の癜人を自分の掌䞭ぞ誘き寄せようずしおいるのだ、ずいう土人の陳述をきいお、䞍安のあたり通匁の䞀人を偵察旁々䜿者に掟遣したピサロにずっおは、この山路ぞの突入は、かなり思い切った決意を必芁ずするものであった。が螏み蟌んで芋るずむンカは䜕の防犊もしおいなかった。数日の緊匵した行軍の埌にコルディレラの頂たで達したずき、むンカの䜿者がラマの莈物を持っお珟われむンカの歓迎の蟞を䌝えた。二日の埌䞋り坂にかかった時、再び䜿者が莈物を持っお珟われた。そこぞピサロの掟遣した䜿者も垰っお来お、むンカの敵意を報告した。むンカの䜿者は䞀々それを反駁したが、ピサロの心䞭にはアタワルパの奞策を確信するものがあったらしい。しかし圌はそれを色に珟わさず、むンカの䜿者を心から信ずるが劂く装った。  遂に䞃日目にピサロの軍隊はカハマルカの谷を芋おろす所たで来た。それは五里に䞉里の矎しい平地で、䞹念に耕されおあった。䜏民も海岞地方よりは優秀であるらしい。癜い家々が日光に茝いおいるカハマルカの町の䞀里ほど向うに、今むンカの滞圚しおいる枩泉堎があっお、そこの䞘陵の斜面沿いに数知れぬ癜い幕舎が数哩に亘っお䞊んでいた。これほどの幕舎がかくも敎然ず垃眮されおいるこずは、これたで新䞖界に斌お曜お芋られなかったこずである。この光景はスペむン人の床胆を抜いた。しかしもう退くわけには行かない。圌らは平気を装っお戊闘隊圢を以おカハマルカの町ぞ進んで行った。そこは人口䞀䞇䜍の町で、日の神殿も、日の凊女の尌院も、兵営も、芁塞も揃っおいたが、この時には党然人圱なく空虚ずなっおいた。そこぞピサロが乗り蟌んだのは、䞀五䞉二幎十䞀月十五日の倕刻であった。  圓時むンカがスペむンの小郚隊をその有力な勢力圏内ぞおびき寄せようずしおいたのか、或は圌らの平和の意図を信じお単に奜奇心から迎え入れたのか、それは明癜には解らない。圌がこの䞍思議な倖来人に察しお疑懌や恐怖を感じなかったずも思えぬが、しかし衚面に珟われた限りでは、実に平然ずしおピサロのなすがたたに委せおいたのである。カハマルカに入城したピサロは反っお焊躁を感じお、゚ルナンド・デ・゜トを十五階ず共にむンカの陣営ぞ䜿者に送った。しかもすぐあずで小勢に過ぎたこずを憂え、匟の゚ルナンド・ピサロに二十階を率いお増揎させた。この慓悍なスペむン階士の䞀隊がむンカの陣営で぀ずめた圹割は、圓時の「埁服者」たちの性栌を最もよく珟わしたものの䞀぀であろう。圌らは牧堎を貫く堀道を疟駆しお、䞀里ほど先の陣営に達し、あっけに取られお眺めおいるむンカの兵士たちの間を、トランペットの声高く響かせ぀぀、颚に乗った魔物のようにさッず動いお行っお、陣営の奥深くむンカの座所に迫った。そこにはアタワルパがむンカ貎族に取り巻かれおクッションに坐しおいたが、その慓悍や残虐の名が高いに拘らず、萜ち぀いた、静かな態床で、顔には無感動のみが珟われおいた。゚ルナンド・ピサロず゜トずは二䞉の階士ず共に静かに銬を歩たせおむンカの前ぞ出た。そうしお階銬のたたでピサロは䜿者の口䞊を述べた。自分らは海の圌方の匷い君䞻の家来である。今床むンカの倧勝利の報をきき、お圹に立぀ために、たた真の教えを䌝えるためにやっお来た。今倕カハマルカに到着したに぀いおは、アタワルパ陛䞋の埡光来を埅぀、ずいうのであった。これを通匁が飜蚳したずきむンカは䞀蚀も発せず、たた解ったずいう顔もしなかった。偎の貎族が「よろしい」ず答えたが、゚ルナンド・ピサロは鄭重にむンカの盎答を促した。むンカは止むを埗ず自ら答えた。䜙は目䞋断食䞭である。それは明朝終るから、その埌郚䞋ず共に蚪問するであろう。それたでは広堎の公共建物を䜿っおよい。その他のこずは行っおから呜什しよう。この答が埗られたあずで、゜トは、むンカが銬に興味を抱いおいるのを芋お取っお、銬に拍車を入れお猛烈に駆けさせ、瞊暪にその優秀な銬術を披瀝した。党速力で疟駆しお来おむンカの盎ぐ傍でぎたッず停止しお銬を棒立ちにならせたりした。がむンカはその平然たる態床を厩さなかった。  この劇的な䌚芋を了えお垰っお来た階兵たちは、反っおむンカの軍隊の優勢に怖れを抱いた。それが仲間に䌝染しおその倜は隊内に意気銷沈の兆候が芋えた。この時、内心に願望成就を喜び぀぀郚䞋を力づけお廻ったのがピサロなのである。階士的な冒険心ず宗教的熱情ずを錓舞するのが、即ち十字軍的粟神の挙揚が、そのコツであった。曎に圌は幹郚を集めお圌の離れ業匏の䌁図を打ち開けた。それは、䌏兵の策によっおむンカをその党軍の面前で捕虜ずするこずなのである。それは捚身の戊法であった。が他に策はないず圌は考えた。退华すれば党滅である。平和に滞圚すればやがお癜人の䞎えた異様な超自然的な印象が薄らいで了う。むンカがスペむン人らを掌䞭におびき寄せたのだずいうこずは必ずしもあり埗ぬこずではない。この眠をぬける唯䞀の道は、眠を逆甚するこずである。これは䞀刻も早い方がよい。南方からむンカの軍隊が集たっおくれば事は䞀局面倒である。埓っおむンカが承諟した招埅の垭こそ最䞊の機䌚でなくおはならない。奇襲によっおむンカを掌䞭に握れば、あずは党垝囜に呜什するこずが出来る。以䞊がピサロの考であった。幹郚は皆これに賛成し翌日実行に移すこずにきたった。  䞀五䞉二幎十䞀月十六日の倜明、郚䞋の軍隊が歊装を敎えるず共に、ピサロは奇襲の䌁図を簡単に発衚しおそれぞれの郚眲を定めた。圌らの宿営した䜎い建物は䞉方から広堎を包み、その広堎の䞀端に田舎を向いお芁塞が立っおいたのであるが、ピサロは階兵を二隊に分けお二぀の建物にひそたせ、歩兵をもう䞀぀の建物に隠しお眮くこずにした。芁塞には二門の小さい鷹砲を据えた。むンカを迎える時ピサロの手蚱にいる兵士はただ二十名だけずした。機䌚が来れば鷹砲を合図に䞉方から突撃しおむンカを捕えようずいうのである。かく郚眲を定めおから厳粛なミサが行われた。圌らにずっおは、いよいよ十字架のための戊が始たるのである。  ピサロの準備がかく早朝から敎っおいたのに察しお、むンカの方はゆっくりしおいた。むンカの行列が軍隊を率いお動き出したのはやっず午頃であった。予めピサロぞ䜿を寄越しお、昚日のスペむン人ず同じくこちらも歊装した兵士を連れお行くが奜いかず念を抌した䞊でのこずである。むンカは茿に乗っお街道を来たが、軍隊の倧郚分は街道沿い、野原を芆うお抌し寄せお来た。ずころで王の行列は町から半哩ほどの所で停止し、テントを匵りにかかった。今倜はここに宿営しお明朝町に入るずいうのである。この報道はピサロを困惑させた。早朝から緊匵しお埅ちかたえおいるスペむン人たちにずっおは、ここで氞びかせられるほど危険なこずはない。圌はアタワルパに察しお、予定の倉曎の䞍可を説き、歓迎の準備は悉く敎っおいる、今倜は食事を共にする぀もりであったず云わせた。これを聞いおむンカはたた気を倉えお進行を続けた。しかもピサロに通知しおいうには、カハマルカで倜を過す方がよいず思うから、自分は兵士の倧郚分をあずに残し、ごく少数のものを぀れお歊噚なしで町に入るであろう。――ピサロは神の助けだず思った。むンカは眠の䞭ぞ飛び蟌んでくるのである。  アタワルパは倧胆な果断な性栌の人ず云われおいるが、この時の動揺は䜕ずも理解し難い。しかし圌が癜人を信頌しおその招埅に応じたずいうこずは疑がないであろう。でなければ圌が軍隊を぀れず歊噚なしで蚪問するなどず提議する筈はないからである。圌は疑念などを抱くにはあたりに絶察的な君䞻であった。たた䜕䞇の倧軍のただ䞭で、僅か癟六十䜙名の小勢を以お有力な君䞻に襲いかかるずいうような、そういう倧胆さは、圌にずっおは思いもかけぬこずであったであろう。䞀蚀にしお云えば、スペむン人がむンカを研究し知っおいたほどには、むンカはスペむン人を知らなかったし、たた知り埗なかった。それは畢竟、䞖界倧に拡がった県界ず、自囜にのみ閉鎖された県界ずの盞違なのである。  日没に近くむンカの行列の先頭が町の門を入った。それは数癟人の僕たちで、道を枅めながら、たた気の滅入るような調子の凱旋歌を歌いながら進んでくる。広堎ぞ来るず右ず巊ぞ開いお埌続の隊に道をあける。あずにはさたざたの等玚の隊が、さたざたの制服で続いおくる。癜ず赀の掟手な垂束暡様の制服を着たもの。銀・銅などの鎚や棒をか぀いで玔癜の制服を぀けたもの。矎しい空色の制服の護衛兵たち。それらもたた敎然ず右ず巊に開いお道をあける。扈埓の貎族たちも矎しい空色の服で、華やかな装食を豊富に䜓に぀けおいる。むンカは金銀や鳥の矜で食った茿の䞊のどっしりした黄金の玉座に坐し、倧きい゚メラルドの銖食りや金の髪食りなどを぀けお、悠然ず矀集を芋䞋し぀぀、広堎に進み入った。党郚で五六千人が広堎に入ったかず思われる頃、アタワルパは停止しお呚囲を芋たわし、倖人はどこにいるのだずきいた。  その時ドミニコ䌚修道僧のバルベルデが、聖曞を片手に、十字架を他の手に携えおむンカに近づき、叞什官の呜によっおスペむン人枡来の目的たる真実の信仰の宣䌝を始める旚を述べた。圌の説明は、䞉䜍䞀䜓の教矩、人間の創造、堕眪、む゚ス・キリストによる救い、䜿埒ペテロの法統、教皇の暩嚁などに亘り、最埌に珟前の遠埁の意矩にふれた。曰く、教皇は䞖界最匷の君䞻スペむン皇垝にこの西方䞖界の土人を埁服し改宗せしめよずの任務を蚗した。フランシスコ・ピサロ将軍はこの重倧な任務を実行するために来たのである。願わくは将軍を芪切に迎え容れ、圚来の信仰の誀りを棄おおキリストに垰䟝せよ。曎にたた皇垝カヌル五䞖の朝貢者ずなるこずを承認せよ。その堎合には皇垝は圌を臣䞋ずしお揎助し保護するであろう。  この説明の意矩がむンカに理解せられたかどうかは疑わしいが、しかしそれがむンカに降服を迫るものであるこずだけは十分に理解せられた。むンカは県を瞋らせ眉を顰めお答えた。「䜙は䜕人の朝貢者ずもなろうずは思わぬ。䜙は地䞊のいかなる君䞻よりも偉倧である。汝の皇垝は偉倧な君䞻であるかも知れぬ。その臣䞋をかくたで遠く海を超えお送っお来たのを芋るず、確かにそうであろう。䜙は喜んで圌を兄匟ず看做すであろう。が汝のいう教皇は、おのれのものでない囜土を他に䞎えるなどず云うずころから芋るず、気違いに盞違ない。䜙の信仰は、倉えようずは思わぬ。汝のいう所によるず、汝らの神はおのが䜜った人間によっお死刑に凊せられた。しかし䜙の神は、芋よ、今なお倩に生きおその子らを芋おろしおいるではないか。」そう云っおむンカは䞁床その時西の山に沈み぀぀あった倪陜を指した。そうしおバルベルデに、䜕を兞拠ずしおあの様なこずを説くかず聞いた。修道僧は手䞭の聖曞を指した。アタワルパはそれを取っおペヌヂをめくっお芋たが、恐らく䟮蟱を受けた感じが突然湧き䞊ったのであろう、乱暎にそれを投げ぀けお云った、「汝の仲間に云え、圌らは䜙の囜䞭に斌おなしたこずの詳现な報告をなすべきである。圌らがその悪行に察しお十分の匁明をなすたでは䜙はここを動かぬ。」  修道僧は聖曞に察しお加えられた䟮蟱を怒り、それを拟い䞊げおピサロのもずに急いで来た。「あの傲慢な犬ずお喋舌りをしおいる間にだんだん土人の数が殖えおくるではありたせんか。すぐ合図をなさい。もう䜕をやっおもよろしい。」ピサロは癜いスカヌフを振った。芁塞から鷹砲が発射された。ピサロず郚䞋ずは広堎ぞ飛び出しお閧の声をあげた。䞉方の建物から階兵ず歩兵の集団が矀集の䞭に突入しおそれに応じた。鷹砲ず小銃の音が蜟き枡った。広堎の矀集は極床の混乱ず恐怖ずに陥り、ただ逃げたどうのみであったが、広堎ぞの入口は死人の山で塞がれお通ぜず、揉み合う矀集の圧力で石ず土の厚い壁が砎られたほどであった。その混乱の䞭をスペむンの銬ず人ずが瞊暪になぎ倒しお廻ったのである。  むンカのたわりには忠矩な貎族たちが集たっお身を以お楯ずした。歊噚なしで、階士たちを撃退しようずしお銬に瞋り぀いたり、鞍から匕きおろそうずしたりした。そうしおそれらの人々が切り倒されるず、あずからあずから新手が身を捚おお同じこずを繰り返した。だからむンカは䟝然ずしお茿に乗ったたた、人波の䞊に挂っおいた。倕闇が深たるず共にスペむン人はむンカの脱出を恐れお思い切っおその呜を絶ずうずさえ詊みたが、圌に最も近づいおいるピサロは、「呜の惜しいものはむンカを打぀な」ず倧声に呌んだ。そうしおむンカをかばおうずしお腕を延ばし、味方のために手に傷を受けた。この傷が、この隒ぎの間にスペむン人の受けた唯䞀の傷であった。やがお茿をか぀いでいた貎族のうちの数人が斃されお茿は芆えされた。むンカは危うく倧地ぞ打ち぀けられるずころであったが、ピサロず二䞉の階士が受けずめた。そうしお偎の建物ぞ連れ蟌んで厚く保護した。  むンカが捕虜ずなるず共にあらゆる抵抗は止み、すべおの人が脱出に狂奔した。郊倖に幕営䞭の軍隊も闇に玛れお逃亡しおしたった。この隒ぎは僅か半時間あたりで片附いたのであるが、その間の死者の数は二千ずも云い䞀䞇ずも云われおいる。  ピサロはその倜玄束を守っおむンカず晩逐を共にした。圌はいろいろずむンカを慰め、癜人に抵抗する者は圌のみならず他の君䞻も同じ運呜に逢うこず、癜人はむ゚ス・キリストの犏音を䌝えに来たのであっお、キリストの楯が圌らを護る限り勝぀のが圓然であるこず、アタワルパは聖曞に察する䟮蟱の故に屈服せしめられたのであるこず、スペむン人は寛倧な民族であるから信頌しおよいこずなどを述べた。  翌日から町の枅掃ずか、むンカの財宝の凊分ずかが始たった。以前のむンカの幕営地に掟遣された䞉十階の䞀隊は、むンカの后劃たち、附人たちなど倚数の男女を率いお垰っお来た。ピサロはその或る者を家に垰し、或る者をスペむン人たちの召䜿ずしお残した。たた同じ地のむンカの別荘からは豊富な金銀噚や宝石がもたらされた。死んだ貎族たちの䜓からも倚くの装食品が埗られた。町の倉庫には朚綿や矊毛の織物が堆積しおいた。  間もなくアタワルパは、スペむン人たちが奜んで語っおいる宗教的熱心の裏に、もっず匷い欲望の動いおいるこずを看砎した。それは黄金に察する欲望であった。圌はここに血路を芋出そうずした。ぐずぐずしおいるず、監犁䞭の兄ワスカルが出お来おむンカの䜍を回埩するであろう。だから䞀刻も早く自由を埗なくおはならぬ。で圌はピサロに、もし釈攟しおくれるならばこの宀の床を黄金で埋めようず提案した。人々はそれをきいお信甚し兌ねる笑を掩らした。むンカは焊っお、床を埋めるだけでない、手の届く限りの高さたで金で䞀杯にしようず云っお、背䌞びしお壁に手をのばした。ピサロは熟慮の末この提案を承諟し、むンカの瀺した高さに赀い線をひいた。宀は幅十䞃呎、長さ二十二呎、赀線の高さは九呎であった。なお次の小さい宀は銀で二床充たすこずになった。期限は二カ月であった。この契玄が出来䞊るず共にむンカは䜿をクスコその他の地に急掟しお、王宮・神殿、その他公共建築物の黄金の装食や調床を出来るだけ早くカハマルカに送るよう呜什したのであった。  その間むンカは、スペむン人の監芖の䞋に、その旧来の生掻を続けた。后劃たちは圌に仕え、臣䞋は自由に圌に謁芋した。囚われたむンカであるに拘らず、臣䞋の圌に察する尊厇は倉らなかった。ピサロは機䌚を捉えおは宗論を戊わしたが、むンカを敵に囚われしめるような神は真の神ではあるたいずいう議論には屈服したようであった。がこういう恐るべき新事態に面しおいながらも、兄ワスカルずの関係は䟝然ずしお圌の最倧関心事であった。ワスカルは匟の囚われず身代金ずの事を聞いお、それよりも䞀局倚い身代金をピサロに申出でようず䌁おたのであるが、そのこずはアタワルパに密告された。それに加えおピサロはこの兄匟の察立を利甚しようず考え、ワスカルをカハマルカに呌んでいずれが正統のむンカであるかを調べようず宣蚀した。これらのこずに嫉劬心を煜り立おられたアタワルパは、遂に兄を殺さしめた。ワスカルは最埌に、癜人が埩讐しおくれるだろうず云ったず䌝えられおいる。事実この事が埌にアタワルパ凊刑の有力な口実ずなったのである。  金は諞方から集たり始めたが、それを芋るずスペむン人の貪欲心は䞀局高たっお来た。集たりの遅さに焊躁を感じお、アタワルパの陰謀をさえ疑うに至った。そこぞペルヌ人蜂起の噂が䌝わった。ピサロがそれをむンカに告げるず、アタワルパは驚いお噂を吊定した。「䜙の臣䞋は䜙の呜什なしには決しお動かぬ。貎䞋は䜙を捕えおいられるから、これ以䞊の保蚌はない。」そうしお圌は遠方から重い金を運ぶのに劂䜕に日子を芁するかを説明した。「が念のために貎䞋は郚䞋の人々をクスコに送られおもよい。䜙はその人々に旅刞を䞎えよう。向うぞ行けば、玄束の金が運ばれ぀぀あるこずも、たた䜕ら敵察運動が䌁おられおいないこずも、自分の県で確めるこずが出来よう。」Prescott. op. cit. p. 430.これはいかにも尀もな提案であった。ピサロはそれに応じおクスコぞ䜿者を送るず共に䞀郚隊を囜内偵察に掟遣したのであるが、その結果はアタワルパの云った通りであった。アタワルパ郚䞋の最も有力な二人の将軍の内の䞀人であるチャルクチマは、䞉䞇五千の兵を率いおハりハの附近にいたが、むンカの囚われの埌にはなすずころを知らず、ピサロの匟に説き萜されおカハマルカに来た。たたクスコの日の神殿からは䞃癟枚の金板が剥ぎ取られたのであった。  他方に斌おスペむン人偎の態勢は奜転した。歩兵癟五十、階兵五十の揎軍を率いたアルマグロが、カハマルカの事件の䞀カ月あたり埌、䞀五䞉二幎十二月末にサン・ミゲルに着き、翌䞀五䞉䞉幎二月䞭頃カハマルカに入った。  金はただ赀線に達しなかったが、スペむン人たちは埅ち切れなかった。ここでぐずぐずしおいる間に土人たちは財宝を隠匿しおしたうであろう。早く分配をすたせお銖府ぞ進出しなくおはならぬ。そう人々は考えた。で金銀现工の内の優れたものをスペむン王のために取りのけお眮いお、あずは鎔かしお金塊にした。金の総量は䞀、䞉二六、五䞉九ペ゜十九䞖玀䞭頃の換算では䞉五〇䞇磅、䞀五五〇䞇北であった。その分配は「神ぞの恐れを以お、神の県の前で」行われた。そこで残った問題は、捕虜のアタワルパをどうするかずいうこずである。釈攟するのは危険であるが、しかし監犁を続けるのも、クスコぞの進軍を開始するずすれば、非垞に困難である。むンカは頻りに釈攟を芁求したが、ピサロは身代金の残䜙を免陀しただけで、拘犁の方は曎に揎軍が到着するたで継続するこずを宣蚀した。その内に土人蜂起の噂がたた燃え䞊っお来た。その火元がどこであるかは解らないが、アタワルパを極床に憎んでいた通匁が䜙皋怪しいず云われおいる。ずにかくむンカはその銖謀者ずしお疑をかけられ、再びピサロの蚊問をうけた。むンカは前ず同じようにそういう䌁おのあり埗べからざるこずを匁明したが、疑は解けなかった。新来のアルマグロやその郚䞋たちはむンカの死刑を䞻匵し始めた。ピサロはそれに同意しないように芋えた。゚ルナンド・デ・゜トその他少数のものもそうであった。゜トは噂の真吊を確めるために小郚隊を率いお偵察に掟遣された。が隊内の茿論はたすたす高たり、遂にピサロをしおむンカを裁刀に附するこずに同意せしむるに至った。  むンカの眪ずしお告発されたのは十二カ条であったが、その内重倧な箇条は、圌が王䜍を簒奪し兄を殺したこず、圌がスペむン人の埁服以埌に囜家の収入を浪費し䞀族や寵愛のものに䞎えたこず、偶像を瀌拝し倚劻によっお姊淫を犯したこず、及びスペむン人に察し謀叛を䌁おたこずであった。最埌の䞀カ条を陀けばすべおスペむン人の裁刀に附せらるべきものではないが、その唯䞀の箇条が蚌拠䞍十分のため、あずの諞箇条を以お色を぀けたのである。裁刀は盎ちに開始された。蚌人も呌ばれた。が悪意のある通匁は蚌蚀を勝手に歪曲した。しかもそのあずでアタワルパの死刑の利ず䞍利が蚎議されたずいう。その結果アタワルパは有眪ず認められ、火刑が宣蚀された。そうしおその倜盎ちに執行されるこずずなった。゜トの偵察の報告を埅ち、謀叛の事実の真停を確めようずは、圌らはしなかったのである。尀もこの専暪なやり方に反察する人もないではなかった。蚌拠は䞍十分である。たた䞀囜の君䞻を裁く暩限はこの法廷にはない。裁刀すべくばスペむンに送り皇垝の前で行わるべきである。これが反察意芋であった。しかしそれは十察䞀の少数で敗れた。  宣告を聞いた時のむンカの悲しみはさすがのピサロをも感動させたほどであった。倍の身代金でも払うず哀願するむンカに面しおいるこずが出来なくなっお、圌は背を向けた。むンカはもう駄目ず悟るず、平生の萜ち着きを取戻し、その埌は平然ずしおいた。かくしおむンカの死刑は、䞀五䞉䞉幎八月廿九日の日没埌二時間にしお行われるこずずなった。むンカが柱に瞛り぀けられ薪が積み䞊げられた時、ドミニコ䌚の修道僧は、十字架を差し䞊げお、これを抱け、掗瀌を受けよ、そうすればこの苊しい火刑を軜枛しお絞銖刑にしよう、ず提蚀した。むンカは本圓かずピサロに確めた埌、おのれの宗教を捚おお受掗するこずに同意した。掗瀌は行われた。むンカはフアン・デ・アタワルパずなり、死骞をキトヌに送るべきこずを遺蚀し、遺孀をピサロに蚗しお、静かに刑に぀いた。  䞀䞡日埌に゚ルナンド・゜トは偵察より垰っおこのこずを聞き、驚くず共に激怒した。圌は盎ちにピサロに䌚っお、ずけずけず云った。「あなたは早たり過ぎた。アタワルパは卑劣な䞭傷を受けたのです。ワマチュコには敵なんぞいなかった。土人の蜂起などもありはしなかった。途䞭で逢ったのは歓迎ばかりで、䜕もかも平静だ。もしむンカを裁刀する必芁があったのなら、カスティレぞ連れお行っお、皇垝に裁いお貰うべきだった。僕はむンカが無事に船に乗っおいるのを芋るために自分自身を賭けおもよかったず思う。」Prescott. op. cit. p. 476.この抗議は尀もだった。ピサロもおのれの軜率を認め、修道僧ず䌚蚈䞻任ずに欺されたのだず云った。がそれを䌝え聞いた䞡人は玍たらず、ピサロを面責した。そうしお互に嘘぀き呌ばわりをした。これを以お芋おもむンカの裁刀の䞍正は解るず云われおいる。これは恐らくスペむン怍民史䞊の最倧なる眪悪であろう。  絶倧な暩嚁を持っおいた「日の神の子孫」の支配は、かくしお終った。矎しく敎っおいた囜内の秩序はそれず共に厩壊した。が新しい秩序はただ暹立されない。それは䞀皮の革呜状態であった。ピサロは叀い暩嚁を利甚するこずの賢明なるを考えお、アタワルパの匟トパルカを王䜍継承者ず定め、圌の手から王冠をさずけた。そうしお五癟名の軍隊を率い、新しいむンカず老将軍チャルクチマを぀れお、䞀五䞉䞉幎九月初め、銖府クスコに向け進軍を開始した。土人の抵抗がないでもなかったが、荒っぜい階士たちはそれを乗り切っお行った。途䞭ハりハで若いむンカは急に歿し、老将軍はその暗殺や土人蜂起の指嗟などの嫌疑を受けるに至った。クスコに近い別荘地で数日軍隊を停め䌑逊させた時、ピサロは老将軍を裁刀にかけ、たたもや火刑が宣告された。が将軍は最埌たで改宗せず、剛毅な態床を以おその苊痛に堪えた。ずころがその盎埌に、正統の王䜍継承者たるワスカルの匟マンコが珟われ、王䜍を芁求するず共にスペむン人の保護を求めた。ピサロは喜んでこれを迎え、自分は王䜍に察するワスカルの芁求を擁護し、アタワルパの簒奪を眰するため、スペむン王よりこの囜に掟遣されたのである、ずさえ蚀明した。かくお圌は、正圓のむンカたるべきマンコ・カパクを携えお、䞀五䞉䞉幎十䞀月十五日、銖府クスコに入城したのであった。  クスコは圓時人口二十䞇、郊倖にも二十䞇の䜏民があったず云われおいる。それは誇匵であったかも知れぬが、しかしずにかく垝囜の銖府ずしお、党囜より集たる貎族の邞宅があり、たた代々のむンカによっお豊富にせられた神殿宮殿の豪華であったこずは前に述べた通りである。ピサロは䜏民の家宅の掠奪を犁じたが、数倚い宮殿や神殿の掠奪は兵士のなすがたたにしたのである。圌らは墓堎をさえもあばいた。財宝の隠匿所をも探しお歩いた。それらは前ず同じく鎔かしお金塊銀塊ずされたが、総額はアタワルパの身代金よりも倚かったず云い或は少かったず云う。  マンコはピサロの手によっお戎冠されむンカの䜍に即いた。神殿や宮殿は壊されおキリストの教䌚・僧院、その他ペヌロッパ颚の建築が建おられた。ピサロの仲間でここに萜ち぀いたものは少くない。かくおクスコに斌けるスペむン人の支配が始たったのであるが、しかしこれがスペむンの怍民地ずしお確立されるたでには、埁服者たち自身の間の内乱がなお十五幎䜍も続くのである。  最初の事件はグヮテマラの埁服者ペドロ・デ・アルバラドが䞀五䞉四幎䞉月キトヌ埁服に来たこずであったが、これは戊を亀えるたでに至らず、ピサロが十䞇ペ゜を以おアルバラドの艊隊や軍隊五癟名を買い取り局を結んだ。  次の事件はピサロずアルマグロの衝突である。䞡人の間の䞍和は前に述べた劂く第䞉回遠埁に出発する前に萌しおいたのであるが、ペルヌ埁服に際しおおのずから䞡者は和合したのであった。埁服埌にも䞀五䞉五幎䞀月にピサロが今のリマに新しい銖府を築き、同幎䞃月初めアルマグロが南方遠埁に出発する頃には、二人は契玄ず誓蚀を以お和合に぀ずめおいる。然るにアルマグロが䞀幎半に亘る倧遠埁によっおアンデス山脈をチリヌたで突砎し、垰途アタカマ沙挠を越えお䞀五䞉䞃幎春クスコ高原に垰着した時には、事情はすっかり倉っおいた。その原因の䞀぀は、遠埁隊の留守䞭にむンカ・マンコが独立を蚈ったこずである。圌はクスコを脱出しお人民を集め、歊噚を執っお銖府を包囲した。町の半ばは焌かれ、芁塞も䞀時占領された。防犊に぀ずめたピサロの䞉人の匟の内、䞀人は戊死した。ピサロは救揎に赎こうにも途䞭の山路を扌されお劂䜕ずもなし埗なかった。やがお謀叛が党囜に拡たれば埁服の成果は危うくされるであろう。ピサロはかく考えおパナマ、ニカラグヮ、グヮテマラ、メキシコなどの総督に救揎を求めた。コルテスが二隻の揎軍を送っお来たのはこの時のこずである。これがアルマグロの垰着の時の情勢であった。第二の原因は、遠埁の留守䞭にアルマグロがスペむン王からペルヌ南郚の総督に任呜されおいたこずである。その地域はサンチャゎ河の南二䞃〇レガより始たり南方に拡がるあらゆる囜土ずいうこずであった。アルマグロはクスコが自分の領分に属するず考えた。でマンコの軍を撃退し぀぀クスコに迫っお、ピサロの匟ゎンサロ及び゚ルナンドに町の明枡しを芁求した。䞡人はそれを躊躇したが、圌は䞀五䞉䞃幎四月八日の倜、突然町に䟵入しお䞡人を捕瞛しおしたった。これがピサロ掟ずアルマグロ掟ずの衝突の始たりなのである。  䞁床その頃、ピサロに救揎を頌たれたアルバラドは、五癟名の隊を率いおクスコぞ進軍䞭であった。アルマグロは早速銖府占領の旚を報じたが、アルバラドは䜿者を捕瞛させお進軍を続けた。アルマグロは怒っおその隊を急襲し、䞃月十二日に勝利を埗た。むンカの軍隊も山の䞭ぞ远い蟌められおしたった。そこでアルマグロに必芁なこずは、南ペルヌに海枯を芋出しお本囜ず盎結するこずであった。圌はピサロの匟を぀れお海岞ぞ䞋りお来た。ゎンサロは逃げたが、゚ルナンドは手に残っおいた。それをピサロは取り戻そうずしお、至極穏かな態床を取り、亀枉を始めたのである。十䞀月十䞉日、双方はリマ南方で䌚芋した。ピサロはアルマグロのクスコ領有を認め、その代りに゚ルナンドを釈攟せしめた。がその釈攟の実珟せられた途端にピサロは契玄の無効を宣蚀し、再び戊争を開始したのである。怚み骚髄に培した゚ルナンドは翌䞀五䞉八幎春クスコに攻め䞊り、四月末銖府附近に斌お、双方各〻䞃八癟名の兵力を以お、決戊を行った。アルマグロは病䞭で陣頭に立おず、敗れお捕えられ、裁刀にかけられた。゚ルナンドはこの戊友に䜕の同情も瀺さず、䞃月八日死刑に凊しお了ったのである。  アルマグロの息ディ゚ゎはリマにあったが、総督の地䜍を嗣ぐこずも出来ず、味方ず共にチリヌ掟ずしお排斥せられた。で圌らは本囜ぞ蚎えた。その運動に察抗するため、゚ルナンド・ピサロも䞀五䞉九幎に本囜に垰ったが、しかし総督を死刑に凊した行為は匁解の䜙地がなく、捕えられお䞀五六〇幎たで獄䞭にあった。他方ペルヌではチリヌ党が結束しお、䞀五四䞀幎六月、ピサロを奇襲しお殺した。ピサロはこの時六十䞉歳であった。圌は圓然受くべきような眰を受けた、ずいうのが倚くの史家の䞀臎した意芋である。  以䞊の党争に続いお起った事件は、䞡掟の残党ず本囜政府の任呜した総督ずの争闘であった。初めに登堎したのはピサロを殺したチリヌ党で、それに察抗したのは、本来ピサロず共同しお正しい政治を行う様にず本囜政府から任呜された王の裁刀官法孊者バカ・デ・カストロであった。カストロはピサロ死去の堎合総督ずなるべき呜を受けおいたが、果しお圌がペルヌの北方に到着した時、ピサロの暗殺の報を受けたのである。で圌は総督ずしおキトヌ地方に入り、スペむン人軍隊の間に本囜政府ぞの忠誠を説き぀぀埐々に南䞋しお行った。リマではアルマグロの息ディ゚ゎがチリヌ党ず共に味方を獲埗しお盞圓に勢力を拡倧し぀぀あったが、新総督の集めた勢力の方がやや匷く、䞀五四二幎九月十六日にクスコずリマの䞭間で決戊が行われた時には、総督方階兵䞉二八名、歩兵四二〇名、アルマグロ方階兵二二〇名、歩兵二八〇名であった。この決戊でチリヌ党は壊滅し、ディ゚ゎも凊刑された。かくお法孊者カストロは極めお賢明にスペむンの軍人たちを本囜政府の暩嚁の䞋に服埓せしめたのである。  次で登堎したのはピサロの末匟ゎンサロで、その盞手はカストロに代っお任呜された副王ブラスコ・ヌンニェス・ベラである。ゎンサロは既に䞀五四〇幎にキトヌ総督に任ぜられおいたのであるが、カストロがキトヌに来た時分にはアマゟン河谷ぞの苊しい遠埁から未だ垰っおいなかった。圌が生き残ったスペむン人八十名を぀れお挞くキトヌ高原に垰っお来た時には総督は既に南䞋しおいた。兄の暗殺を聞いた圌は憀然ずしおアルマグロ蚎䌐軍ぞの参加を申入れたのであるが、総督はピサロ掟の参加を喜ばず、この申入れを拒絶した。これが先ずゎンサロを深く傷぀けたのである。しかし圌はカストロには反抗せず、その勧めに埓っお南方ボリビアのポトシ銀鉱開発などに埓った。然るに副王ブラスコ・ヌンニェスが来任しお、土人の人暩擁護を匷行し始めるず共に、事件が勃発したのである。この人暩擁護の芁求は云わばペルヌ埁服者たちの十幎来の行為を吊定するものであった。埁服者たちがペルヌに斌お行った暎虐行為は実に人類の歎史を通じお皀有なものであるが、それが本囜に斌おも問題を起し、遂に䞀五四二幎ラス・カサスの土人の人暩保護の提議ずなったのである。この提議は採甚され、奎隷解攟に関する詳しい勅什が䞀五四䞉幎十䞀月マドリッドに斌お発垃された。それがペルヌに䌝わるず、領地を分配されお土人を奎隷的に駆䜿し぀぀あった埁服者たちは、おのれたちの生掻の砎滅ずしお隒ぎ始めた。ペルヌの埁服はわれらの力を以お成し遂げたのである。政府は殆んど力を貞しおくれなかった。然るにその埁服の成果を今や政府は取䞊げようずする。この暎虐に察しお誰かわれわれを護っおくれるものはないか。そこで衆望はゎンサロ・ピサロに集たった。銀鉱の経営に没頭しおいたゎンサロの蚱ぞ囜䞭から手玙や䜿者が集たった。それに動かされお圌は遂に立ち䞊り、クスコに入っお特暩擁護運動の先頭に立ったのである。やがお圌は軍隊を集めおリマに向け進軍を始めた。副王配䞋の隊も頻々ずしおピサロ偎に寝返った。副王は挞次呚囲の者の信望をさえも倱い、郚䞋の裁刀官や垂民の手によっお船でパナマぞ远攟されお了った。かくおゎンサロ・ピサロは血を流すこずなくしお䞀五四四幎十月末リマに入り、ペルヌ総督ずなった。副王は途䞭トゥンベスで脱出し、キトヌに入っお再挙を蚈ったが、ゎンサロはこれを远及し、䞀五四六幎䞀月に至っお、遂に副王を戊死せしめた。  この情勢に驚愕した本囜政府は、王呜を無芖せる謀叛人に察しお王䜍の名誉を守るために政府の党力を甚いようずする意向がなかったわけではないが、しかしその仕事の困難なこずを反省しお、穏かに圌らを説埗するために、ペドロ・デ・ガスカを送るこずになった。ガスカは僧䟶でありサラマンカ倧孊の有力な孊者であったが、圓時䞖間に瀺した政治的才幹の故にこの任に遞ばれたのであった。圌は任務の説明を聞いたずき、自分は報酬は芁らない、しかし皇垝の党暩を委任しお貰いたいず芁求した。このような広汎な暩限は曜お劂䜕なる総督や副王にも䞎えられたこずがないので、政府は途方にくれたが、皇垝カヌル五䞖は䞀五四六幎二月に淡癜にそれをガスカに䞎えた。そこで圌は任地に斌ける宣戊暩・募兵暩・任免暩のみならず、倧赊を行う暩利、問題の人暩擁護の勅呜を取消す暩利をたで握っお、五月末本囜を出発した。埓者は極めお少数であったが、その䞭に曜おのピサロの郚䞋アロン゜・デ・アルバラドがガスカの請によっお混っおいた。  本囜の圧迫に備えたゎンサロ・ピサロは二十隻の匷力な艊隊をパナマに掟し、地峡の察岞のノンブレ・デ・ディオスをも占領しおいたが、軍隊も぀れず質玠な僧衣を身にたずったガスカは、そこぞ乗り蟌んで行っお平和工䜜を開始した。艊隊の叞什官むノホサは、熱心なピサロ掟であったが、ガスカに説埗されお王の委任した党暩を認め、その呜什に服埓した。ピサロが、本囜に掟遣しようずした腹心のものも同様の態床を取った。でガスカは䞀五四䞃幎二月にこの男ず四隻の船を先発させ、スペむン囜民ずしおの矩務に垰った者は赊免される、その財産は安党である、ず宣䌝させた。ピサロに埓ったスペむン人の倚くが動揺し脱走し始めた。ピサロはリマを去り、あずを先発隊が難なく占領した。ガスカ自身は募兵によっお軍隊を組織し、艊隊を率いお、四月パナマ発、六月䞭頃にトゥンベスに着いた。囜䞭のスペむン人がガスカに呌応した。  ガスカが南方リマを経おハりハに進軍しおいた間に、ピサロは枛少した隊を率いおチリヌぞの脱出を䌁おおいた。がその途䞭を曜おの郚䞋センテノに阻たれた。これはピサロ担ぎ出しに奔走した男なのである。ピサロは瀺談を詊みたが駄目であった。䞡軍は䞀五四䞃幎十月末チチカカ湖畔に斌お戊った。ピサロはこの戊に勝っおもう䞀床クスコに入り、ガスカの軍隊ずの決戊を準備した。ガスカは䞀五四八幎の春に至っお二千名の軍を率いおクスコ近郊に迫り、四月九日敵軍ず察峙しお最埌に降服を勧告したが、ピサロはきかなかった。が戊の始たる前に歩兵隊の指揮官は離叛の合図をしおガスカ方に走り去った。階兵もそれに埓った。取り残されたピサロず少数の郚䞋は捕えられお裁刀に附せられ、死刑に凊せられた。  ガスカはペルヌ囜の秩序を確立しお、䞀五五〇幎スペむンに垰った。䞁床その頃にシャビ゚ルが日本にいたのである。 九 倪平掋航路の打開ずフィリッピン攻略  ペルヌの埁服はペヌロッパ人の怍民史䞊に斌おも最も暗黒な頁ずしお認められおいる。埁服者たちにずっおはそれは十字軍であったが、しかしキリスト教界に斌おも最早䜕人も埁服者の暎虐な所行を匁護するものはあるたい。前述の劂く既にその圓時に斌おさえもラス・カサスはこの所行を吊定し、そうしおそれが䞀時はスペむン囜の政策ずさえもされたのである。しかしこの非人道的な埁服事業の内にも極めお匷健な探怜の粟神が動いおいたこずを我々は芋萜しおはならない。ピサロの盞棒であったアルマグロは、ピサロず同じく無孊な男であったが、ペルヌ埁服埌盎ちに南䞋しお、アンデス山脈の䞭を、今のボリビアやアルれンチンの西境地方からチリヌに至るたで、実に困難な探怜旅行を遂行しおいる。たたピサロの匟ゎンサロ・ピサロは、キトヌの東境からアマゟン河の䞊流地方に入り蟌み、さたざたの艱難を嘗めた。その郚䞋のオレリャナの劂きは、隊の食糧の工面をするため䞋江したのであったが、匕返すこずが出来ずそのたたあの長いアマゟン河を河口たで䞋っお行くずいう倧旅行をやった。このような掻溌な冒険的行為は、たずいそこに黄金远求欲が入り混っおいるずしおも、なお近代の䞖界の動きの尖端ずしおの意矩を倱わないのである。  このような特城はメキシコ埁服者コルテスにも明癜に珟われおいた。圌の埁服の完成を以おその掻動を閉じたのではなく、倧西掋から倪平掋ぞの通路の発芋や、倪平掋岞の探怜などにその䜙生を集䞭したのであった。かかる点から芋れば、メキシコ及びペルヌの埁服は、ペヌロッパから西方に進んでむンドやシナに達しようずした本来の運動にずっおは、䞀぀の゚ピ゜ヌドに過ぎないずも云える。新倧陞の発芋はその担える意矩に斌おは印床航路の発芋よりも遙かに倧であるが、しかし西方ぞの芖界拡倧の運動はそれによっお喰いずめられはしなかった。今やアメリカ倧陞の西に暪わる倧掋が未知の䞖界ずしお解決を芁求する。西ぞの衝動はこの倧掋を突砎しなくおはならない。  埁服されたメキシコずペルヌずは、今やこの西ぞの運動の基地ずしおの意矩を担い始めるのである。しかもこの倪平掋ぞの動きは既にメキシコ埁服ず時を同じくしお始たったのであった。それはマガリャンスマれランの䞖界呚航である。 倪平掋航路発芋地図  ペヌロッパより南西航路によっお銙料の島に達しようずする考は、既に䞀五〇䞉幎にアメリゎ・ノェスプッチの抱いたものであった。䞀五〇八幎には、ビセンテ・ダンネス・ピン゜ンずフアン・ディアス・デ・゜リスずがその実行にかかったが、南緯四十床で挫折した。その埌間もなく䞀五䞀䞉幎のバルボアによる倪平掋の発芋が匷い刺戟ずなり、この新しい海ぞ倧西掋から連絡を぀けようずいう垌望が湧き䞊っお来た。䞀五䞀五幎右の゜リスは南アメリカに倪平掋ぞの海峡を発芋し、パナマたで出ようず䌁おたが、ラプラタ河のあたりで土人に殺された。南西航路の打開にはピン゜ンや゜リス以䞊の巚腕が必芁だったのである。そこぞ珟われたのがマガリャンスであった。  マガリャンスのこずは、既にアルブケルケのゎア攻略を語る際に蚀及した「前篇 䞖界的芖圏の成立過皋」の「第䞀章 東方ぞの芖界拡倧の運動」の「五 むンド埁服」。圌はポルトガルの北東端の州に生れ、䞀五〇五幎、二十四五歳でダルメむダに埓っおむンドに行き、䞀床垰囜、䞀五〇九幎にマラッカ遠埁に埓った。䞀五䞀〇幎にはアルブケルケのゎア攻略の蚈画に反察しおその機嫌を損い、むンド掋での立身の望を絶぀に至ったのである。垰囜埌はアフリカに地䜍を埗ようずしおモロッコに出埁したりなどしたが、思うように行かず、王の恩顧をも受けるこずが出来なかった。で倱意のうちに隠退しおコスモグラフィヌず航海術ずの研究に専念しおいたが、そこぞ芪友セランからモルッカ諞島ぞの航海を報ずる手玙が届いた。それによるずモルッカ諞島はマラッカから非垞に遠いこずになっおいる。そうなるず、モルッカ諞島は西の半球に、即ちスペむンの領分に、入っおいはしないか、ずいう疑が起る。そういう疑を倩文孊者ルむ・ファレむロなどず語り合ううちに、南アメリカを廻っおモルッカ諞島ぞ行く航路の考に到達したのであった。  この考はしかしポルトガルでは実珟出来ない。スペむンの領分を通るのだからである。それに加えおポルトガルの王はマガリャンスの業瞟も才胜も認めなかった。それらの理由で圌は遂にスペむンぞの移䜏を決意し、ルむ・ファレむロやクリストノァル・デ・ハロなどず共に、䞀五䞀䞃幎にセビリャに来た。そうしおディオゎ・バルボサに欟埅され、埌にその嚘ベアトリスず婚するに至った。たた有力な商通長フアン・デ・アランダをも同志に匕き入れた。  䞀五䞀八幎の初め、マガリャンスはファレむロ、アランダなどず共に、バリャドリヌドの宮廷を蚪ね、圌らの蚈画を申し出た。幟分の懞念もないではなかったが、遂に䞉月廿二日に至っお契玄が成立した。それによるず、マガリャンスはスペむンの半球内に行動しなくおはならない。航路を芋出せば、十幎間の独占を允蚱する。その航路はアメリカ南方の海峡を通っお倪平掋に出る道である。新発芋の島に぀いおは、収入の二十分の䞀を受け総督の称号や地䜍を貰う。たた新発芋の地方ぞの遠埁に察しおは千デュカットの商品を以お参加するこずが出来る。六぀以䞊の島が発芋せられた堎合には、その内の二぀を遞んで収益の十五分の䞀を受ける。第䞀回航海の玔益からも五分の䞀を受ける。等々。かかる契玄の䞋に政府は五隻の船䞀䞉〇噞二隻、九〇噞二隻、六〇噞䞀隻及び乗員二䞉四名に察する二幎間の食糧を提䟛した。マガリャンスはこの探怜隊の最高暩力を握るこずを芁求し、王より各船長以䞋乗員に察しお総指揮官ぞの絶察服埓を呜じお貰った。尀も艀装費の五分の䞀四千デュカットは、マガリャンスず共にスペむンぞ移䜏したハロが受持った。  この蚈画を聞いお驚いたのはポルトガル政府で、早速邪魔を入れ始めた。䞀方では正匏にカヌル王ぞ䜿者を送っお抗議し、他方ではセビリャのポルトガル商通長をしおマガリャンスを説埗せしめたが、いずれも効を奏せず、そこで盛んに䞭傷宣䌝をこころみた。そのため準備はいくらか遅れ、同志のファレむロも脱退するに至ったが、代りにバルボサの甥ドゥアルテ・バルボサやフィレンツェ人のアントニオ・ピガフェッタが加入した。特に埌者はこの航海の蚘録者ずしお著名である。  マガリャンスは䞀五䞀九幎九月廿日、五隻の艊隊を率いお出発した。圌は初めより各船長に艊隊行動を取るこずを厳呜し、絶えず信号燈によっお連絡するこずに぀ずめたが、この厳栌な統率に察しお最初に反抗し始めたのは旗艊トゥリニダッドず同じく倧型のサン・アントニオの船長であった。マガリャンスはこれを拘犁しお船長を代えたが、この争があずたで根を匵っおいたように芋える。艊隊は幎内にリオ・デ・ヂャネむロたで行き、翌䞀五二〇幎䞀月十日にはモンテビデオに着いた。ここは前に゜リスの来た南端である。二月䞀日から未知の南方にふみ入り、湟を䞀々泚意深く調べながら、䞉月卅䞀日にプェルト・サン・フリアヌン49°15′たで来たが、ここでマガリャンスは冬籠りの決意をした。それが船員の間に䞍平を呌び起し、それに乗じお前述の争が遂に勃発したのである。  謀叛の起ったのは四月䞀日の倜であった。䞭型船コンセプションの船長が先ず拘犁䞭の前述の船長を解攟し、この拘犁船長が頭ずなっお、もずの自分の船サン・アントニオの新船長を襲い、この船を奪回したのである。䞭型のノィクトリアもこれに味方した。で翌朝にはマガリャンス方二隻、謀叛船䞉隻の圢勢ずなった。マガリャンスは船長たちを召集したが、逆に向うからサン・アントニオぞ来お貰いたいずいう返事を受けた。そこぞ謀叛者たちが集たっおいたのである。マガリャンスは隙を芋お腹心のものをノィクトリアに掟し、船長を殺しお船を奪回せしめた。次でその倜、サン・アントニオが錚綱を離れお流されお来た機䌚を捕え、いきなり倧砲を打ちかけおこの倧型船の䞭ぞ兵隊を突撃せしめた。謀叛船長たちは皆捕瞛された。特にコンセプションの船長は斬眪に凊せられた。こういう隒ぎが、目ざす海峡に僅か二癟海里のずころで挔ぜられたのである。  マガリャンスはその埌、この海峡に近いずころで五カ月の間冬籠りした。南緯䞃五床たで行っおなお海峡が芋぀からなければ匕返そうずいうのが圌の䞻匵であったから、ただただ高緯床の寒い地方ぞ深く突入する芚悟で、じっくり腰を萜ち぀かせおいたのである。やがおその腰を䞊げようずする前に、小型のサン・チャゎを先発させたが、この船はサンタ・クルス50°で難砎し、乗員たちは蟛うじお垰っお来た。でそれらを残りの四隻に分乗させ、䞀五二〇幎の八月末に出発、サンタ・クルスに至っお船の修繕にかかり、十月十八日にいよいよ南航の途に䞊った。そうしお海峡の入口、凊女の岬に぀いたのが、䞉日埌の二十䞀日なのである。  この海峡はフィペルド颚の断厖で、長さは六癟粁、東郚、䞭郚、西郚などで様子が倉っおいる。東郚は狭い海峡を通るず䞭が開けお湖のようになり、たた狭い海峡に来おその奥が開ける。岞にはあたり湟入がなく、地質は新生代で、ほが等高の山脊が連り、暹朚はない。䞭郚から西は花厗岩ず緑岩で、山は千米以䞊、時には二千米を超え、岞に湟入が倚くなる。西郚は狭い海峡になっおいる。いずれも暹朚は倚い。  マガリャンスはこの入口で、サン・アントニオずコンセプションずを偵察に出した。䞀隻は湟に過ぎないず報告し、他の䞀隻は、狭たりの奥に広い湟があり、曎に次の狭たりの奥にも広い湟があっお、いずれも投錚出来ぬほど深い、恐らく海峡であろうず報じた。これは䞉日目のこずであった。マガリャンスは事の重倧性を察しお、船長やパむロットたちを召集し䌚議を開いた。食糧はあず䞉カ月しかない。この時サン・アントニオのパむロットの゚ステバン・ゎメスは垰航を䞻匵した。もう海峡は発芋されたのだから、䞀床スペむンぞ垰り、䞀局完党な準備を敎えお、䞖界呚航の䌁おを遂行するがよい、ず云うのである。マガリャンスは、峠を越したずころで匕返すずいう法はない、王ずの玄束は守らなくおはならない、ず匷硬に䞻匵し、翌日出発の甚意を呜じた。  海峡の途䞭、倧陞の南端近くで、圌は再び二隻を偵察に出し、あずの二隻は魚を持っお食糧の補絊に努めるこずずした。ゎメスの操瞊するサン・アントニオは、満垆を匵っお南東ぞ入り蟌んだ氎路を突進しお行った。そこの探怜に行ったものず考えたコンセプションは、同じ氎路を巡航しおサン・アントニオの垰るのを埅っおいたが、遂に珟われお来なかった。ゎメスは、マガリャンスの忠実な郚䞋である船長を抌しこめお、そのたたスペむンを目指し、途䞭眮いおきがりの謀叛船長を拟い䞊げお、垰囜しお了ったのである。コンセプションは北西ぞの海峡を探怜しお、䞉日埌に、西の出口たで到達したずいう報をもたらした。マガリャンスはこの吉報を喜ぶず共にサン・アントニオの倱螪を憂え、その捜玢にノィクトリアを掟遣したりなどしたが、芋぀かるわけもなかった。  十䞀月廿䞀日、マガリャンスは、残りの船に回状をたわしお垰航か前進かの意芋を求めた。倩文孊者マルティンの意芋はやや悲芳的であったが、前進に反察はしなかった。翌日マガリャンスは前進の呜什を発した。そうしお昌間だけ航海し、倜は碇泊した。䞀隻だけ先駆させたが、この船は五日目に出口到達を知らせた。かくお十䞀月廿八日、マガリャンスの船隊は、海峡に進入しおから䞉週間で倪平掋に出た。埅ち合せの日を陀くず、正味十二日間である。  マガリャンスは海峡を出おから針路を北にずった。南緯四䞃床たで北䞊しおもなおパタゎニアの山々が芋えた。曎に䞉䞃床たで北䞊しお、いよいよ倪平掋をのりきるために、針路を北西に向けた。そうしおパりモツ諞島ずマルキヌズ諞島ずの間を通っお、四十日間島圱を芋なかったが、その間毎日順颚が続いた。倪平掋mar pacificoずいう名はこの時に䞎えられたのである。䞀五二䞀幎䞀月廿四日に至り南緯䞀六床䞀五分のずころで初めお無人島に接した。曎に十䞀日を経お二月四日に䞀〇床四〇分のずころで再び無人島を芋出し、二日間碇泊しお持獲に努めた。食糧の欠乏が甚しかったからである。ピガフェッタの語るずころによるず、䞉カ月ず二十日間、新鮮な食糧なく、遂には皮革や錠などを食った。「神ずその聖母ずが奜倩気を恵み絊わなかったならば、我々はすべお逓死したであろう。」  䞀五二䞀幎二月十䞉日、マガリャンスは赀道を超えた。西経䞀䞃五床のあたりである。それから十䞀日間北西に針路を取っお北緯䞀二床たで達したずいう。ギルバヌト諞島ずマヌシャル諞島ずの間を通りぬけたわけである。そこで航路を西に転じお、䞉月六日、マリアナラドロナ諞島に達した。目暙たるモルッカ諞島が赀道䞋にあるこずを知っおいながらかく北ぞ迂回したのは、ポルトガル船を避けお䌑逊ず修繕の地を芋出そうずしたのである。ここではグァム島ずサン・ロヌザ島をたず芋出した。これらの島には極めお軜快に走る垆舟が矀っおいお、前ぞも埌ぞも矢のように走っおいた。そういう舟が頻りにスペむン船ぞ近づいお来お船のものを盗んだりなどしたために、ラドロナ盗みずいう名が぀けられたのである。ここに䞉日ほど碇泊したが、土人の盗みを憀っお村を焌き䞃人ほど殺した。かくマガリャンスが日本に最も接近しお来た䞁床その時期に、メキシコではコルテスが最埌の攻撃の準備をほが敎えおいたのであった。  ここから西航しおサン・ラザロ島即ちフィリッピン諞島に着いたのであるが、最初䞊陞したのは、サマル島の南の小島スルアン島であった。氎を積み蟌み病人を䌑逊させるためである。土人ずの間は友亀的であった。酋長は絹の鉢巻き、金糞繍のサロンずいうマラむ颚俗でやっお来た。そこから南西に航しおミンダナオ島ずレむテ島の間の小島のリマサガマサゎアに立ち寄りミサを行ったが、この島のラヂャはスペむン人を北西セブ島に案内しお行った。セブの商人は既にポルトガル人ず貿易を行っおいたからである。セブの君公はスペむン人たちを非垞に優遇し、八日の埌には数癟の島人ず共に掗瀌を受けたずいう。この地に来おいたアラビア商人は、カリカットやマラッカの埁服を説いお圌に譊告したが、マガリャンスはそれを圧倒した。そのセブの君公は近隣諞島の埁服を志しおいたが、東岞のマタンマクタン島は未だ服しおいなかった。この事情を聞いたマガリャンスは、自分たちの歊噚の優秀さを芋せお土人たちを心服せしめようず考え、マタン島の蚎䌐を䌁おた。セブの君公が兵隊を出そうずするのを断り、圌はただ五六十人のスペむン兵を率いお、䞉隻のボヌトで島に行ったのである。然るに䞊陞しお芋るず敵は案倖に優勢であった。スペむン兵の銃撃を楯で防ぎながら、攻撃に転じお肉迫しおくる。矢ず石が雚のように降りかかる。マガリャンスは遂に毒矢に䞭った。そこで圌は退华の呜什を出したのであったが、味方は厩れお逃走におちおしたった。ただ䞃八人の勇敢な郚䞋だけが圌を守った。敵の攻撃はこの叞什官に集䞭した。圌は最埌たで敢闘したが、遂に斬倒された。圌ず共にスペむン人八名受掗土人四名も戊死した。圌の屍は遂に取り返すこずが出来なかった。これは䞀五二䞀幎四月末、マガリャンス四十䞀歳の時のこずであった。䞁床この同じ日にメキシコではコルテスの湖䞊艊隊が進氎したのであった。  ペヌロッパより西に向っお遂にアゞアに到達するこずの出来たこの偉倧な業瞟に比べお、圌の最埌はいかにも気の毒な倱策であった。これを芋おセブの土人の気持は急に倉っおしたったのである。倖来人の優越はもはや認められなかった。そこで蚈画されたのが宎䌚の垭䞊で目がしいスペむン人を鏖殺するこずであった。被害者は二十四人であったが、その䞭に最初からのマガリャンスの片腕ドゥアルテ・バルボサ、同じく腹心のフアン・セラノ、倩文孊者サン・マルティンなどがあった。助かったのは、負傷のため招埅に応じなかったピガフェッタや、疑懌のため行かなかったロペス・デ・カルバリョなどであった。カルバリョは凶報を受けるず共に即座に抜錚しお陞からの攻撃に備えた。生捕られたセラノの身代金の亀枉にさえも応じなかった。  こうしおセブ島を逃げ出したものの、乗員はもはや䞍足である。で䞉隻のうち最も砎損のひどいコンセプションをボホル島で焌き、トゥリニダッドはカルバリョが、ノィクトリアはゎンサロ・バス・デスピノヌザが、指揮を取っお、南ミンダナオ島のカガダン、曎に北西パラワン島などを廻り、アラビア人の手匕きによっお南方ボルネオのブルネむを蚪れたりなどした。そうしおそこから匕返しおモルッカ諞島のティドヌルに぀いたのが、䞀五二䞀幎の十䞀月八日、セビリャ出発埌二幎䞉カ月であった。  ティドヌルのラヂャはスペむン人を欟埅し、郜合のよい通商条玄を結んでくれた。スペむン人がポルトガル人よりも高く銙料を買ったからである。ポルトガル人はテルナヌテに根拠地を䜜っおいたが、スペむン人はそこぞ友亀的な䌚芋を申蟌んだ。ポルトガル人は初めそれを断ろうずしたが、遂に承諟しお䌚いに来た。十幎前最初の船で来た商通長アフォン゜・デ・ロりロサである。圌はポルトガル王がマガリャンスの遠埁隊を劚害すべき呜什を発したこず、むンド総督セケむラがマガリャンスの艊隊を撃退するため六隻の軍艊をモルッカ諞島に掟遣しようず䌁お、察トルコ戊のため䞭止したこずなどを語った。ロりロサ自身はスペむン船に䟿乗しお故囜ぞ垰りたがったほどであるが、囜家的には烈しい敵察関係が醞され぀぀あったのである。  スペむン船は十二月䞭ばたで積荷にかかった。十六日には出発の予定であったが、突然旗艊トゥリニダッドが掩氎を始め、容易に修繕するこずが出来なかった。そこで二十䞀日にノィクトリアのみが垰囜の途に䞊るこずになった。船長はセバスチアン・デル・カノ、乗組は癜人四䞃名、むンド人䞀䞉名であった。かくおブル島、チモル島を経お盎ちにむンド掋に出で、䞀五二二幎䞉月䞭旬にはむンド掋の真䞭のアムステルダム島、五月䞊旬にはアフリカ南岞のフィッシュ河、同月䞭にひどい嵐の䞭で喜望峰を廻り、食糧の欠乏に苊しみながら、䞃月九日、やっずカボノェルデ諞島に着いたが、この間に二十䞀人死んだ。窮迫のあたり、ポルトガル官憲に抌えられる危険を冒しおサン・チャゎ島に䞊陞したが、この際最も驚いたこずは、船内の日附が䞀日遅れおいるこずであった。ピガフェッタはこのこずを特筆しおいる。自分は日蚘を毎日぀けお来たのであるから日が狂う筈はない。しかも自分たちが氎曜日だず思っおいる日は島では朚曜日だったのである。この䞍思議はやっず埌になっお解った。圌らは東から西ぞず地球を䞀呚したために、その間に䞀日だけ短かくなったのであった。  この島ではやがお圌らの玠姓が芋あらわされた。䞉床目にランチが陞に぀いたずき、乗組十䞉名はいきなり捕たっお了ったのである。デル・カノは即座に抜錚しお逃げた。そうしお九月六日に本囜に぀いた。生存者は十八名に過ぎなかった。しかしこの䞖界呚航が䞖間に䞎えた圱響は非垞なものである。ピガフェッタは党航海の自筆日誌を王に捧げた。これがマガリャンスの偉倧な業瞟を䞖界に察しおあらわにするこずずなった。かくしお最初の䞖界呚航は、スペむン囜の仕事ずしお䞀人のポルトガル人によっお遂行され、右のむタリア人によっお蚘録されたずいうこずになる。これは近䞖初頭のペヌロッパの尖端を綜合した仕事ずいっおよい。  マガリャンスの仕事は倪平掋をスペむン人の掻動の舞台たらしめた。その第䞀歩は既に右の最初の䞖界呚航の䞭からふみ出されおいる。マガリャンスの乗船であったトゥリニダッドがその圹者である。  銙料の島ティドヌルに残ったトゥリニダッドは、挞く修繕を了えお、䞀五二二幎四月六日に出発し埗るに至ったのであるが、船長デスピノヌザは、ノィクトリアのあずを远わず、倪平掋を暪断しお垰航するこずを䌁おたのである。乗組はペヌロッパ人五〇名、土人の氎先案内二名であった。ティドヌルから先ず北ぞ向い、やがお北東ぞ針路を転じたが、颚向きが悪く、航路を倖れお北緯四二床たで䞊った。こうしお数カ月の間あちこちず吹き廻わされ、寒さず食糧の欠乏ず病死ずに悩たされ続けたが、遂に五日぀づきの暎颚で船銖䞊甲板ず䞻檣ずをずられ、止むを埗ずモルッカ諞島ぞ匕返しお来た。来お芋るずテルナテ島にはポルトガル人が芁塞を築いおいる。ティドヌルではそれに近過ぎるので、ハルマヘラの岞ぞ避難し、そこからポルトガルの叞什官に救揎を哀願した。かくお十月頃、残存十䞃名のスペむン人はテルナヌテに運ばれ四カ月拘犁、曎にバンダで四カ月、マラッカで五カ月、コチンで䞀幎留められた。その間に次から次ぞず死歿し、リスボンに着いた時には䞉人のみずなった。ここでも䞃カ月の拘犁埌に釈攟されたのである。かくしおマガリャンスの隊員二䞉九名䞭、垰囜し埗たものは合蚈二十䞀名に過ぎなかった。  右の劂く倪平掋での掻動の第䞀歩は挫折したが、しかしマガリャンスの仕事は、本囜に斌おも倪平掋ぞの関心を急激に高めたのである。政治家はその県界を拡倧した。銙料の島ぞの道は今や東向きず西向きずの二本になったのであるが、かくいずれの方向からも到達し埗るずすれば、その銙料の島はスペむンずポルトガルずのいずれの領分に属するのであろうか。もし西廻りの近道が芋出されたならば、この方が東廻りよりも短距離なのではなかろうか。かかる考慮から、カヌル五䞖はデル・カノの垰着埌䞀幎経たぬ内に、コスモグラフィヌの孊者たちの忠告に埓っお、メキシコの埁服者に、䞭郚アメリカで倪平掋ぞの通路発芋の努力を熱心に続けよず呜什した。たた囜内でも商人や䌁業家に制限なくモルッカ行を蚱し始めた。それず共に銙料の島の垰属を定めようずするポルトガルずの協議も開催された。委員は䞡囜ずも法埋家䞉人、倩文孊者䞉人、パむロット䞉人で、䞀五二四幎の四月から五月末たで、囜境のバダホスず゚ルノァスの町で蚎議したが、境界線の䜍眮も確定しお居らず、半球の長さも未定であった圓時に斌お、明癜な結果が出るわけもなかった。そうなればあずは実力で銙料の島を確保するほかはない。そこでスペむン政府は有力な艊隊を倪平掋に掟遣するこずに決したのである。  この艊隊は䞃隻からなり乗組は四五〇名であった。叞什官はガルチア・ホフレ・デ・ロアむサで、前述のデル・カノがパむロットの頭を぀ずめた。出発したのは䞀五二五幎䞃月末、ピサロが既にペルヌの第䞀回探怜に出おいた頃である。しかしこの遠埁は非垞に䞍運であった。マれラン海峡に達するたでに既に散々な目に逢っおいる。䞀五二六幎の䞀月にたずデル・カノの船が難砎した。二月には暎颚で艊隊が離散し、内䞀隻は喜望峰廻りを志しお行方䞍明、他の䞀隻はブラゞル朚材を積んで垰囜しおしたった。なおデ・オセスの船は南緯五五床たで流され、おのずから南アメリカの南端を発芋したのであったが、この時はその発芋を利甚せず、北䞊しおロアむサの本隊に埩垰したのであった。  ロアむサが四隻を以お海峡に入ったのは䞀五二六幎四月六日、倪平掋に出たのは五月二十五日であったが、六月䞀日に再び暎颚に襲われ、四隻は四散しおしたった。その内の最も小さい船は五十噞で、単独に倪平掋を暪断するほどの食糧を積んでいないため、最寄のスペむン怍民地に達しようずしお北䞊し、䞀五二六幎䞃月末にテワンテペクに着いた。それによっお南アメリカ倧陞の西の限界が明癜ずなったのである。前にアメリカの南端を発芋したデ・オセスの船はパりモツ諞島で難砎したらしく、もう䞀隻の船も目的地近くに到達しながらミンダナオずモルッカ諞島ずの間のサンヂル島で難砎しおしたった。かくお䞃隻の内、ずにかくモルッカ諞島に着いたのは、旗艊䞀隻のみであった。しかもそれは無事にではなかった。叞什官ロアむサは郚䞋の船を倱った打撃で䞀五二六幎䞃月末に倪平掋䞊で歿し、次で埌継者デル・カノも八月四日にあずを远い、その埌に遞挙された船長はマリアナ諞島たで無事に船を導いおここで十䞀日間ほど䌑逊したが、そこを出発しお埌間もなく九月十䞉日に歿した。四人目の指揮官ずなったバスク人マルチン・むリギ゚ス・デ・カルキサノが、船をフィリッピン諞島、タラりト島、ハルマヘラ島ず導いお行ったのである。この島のサマフォ枯に぀いた時乗組癟五名䞭四十名が死歿しおいた。かくお挞く、䞀五二䞃幎の元旊に、船はティドに着いた。ここではポルトガル人の圧制に察する反感から非垞な欟埅を受け、芁塞の構築なども始めたのであったが、船にはもう垰航するだけの力がなかった。その内むリギ゚スも歿し、あずに遞ばれたフェルナンド・デ・ラ・トッレが、残存の郚䞋を指揮し぀぀埌揎の来るたで頑匵っおいたのであった。  以䞊の劂く本囜から掟遣された艊隊は、最初のマガリャンスの遠埁よりも反っお䞍成瞟な䜍であった。倧西掋ず倪平掋ずを共にのり切るこずがいかに困難であったかは、これによっお解るのである。そこで圓然人々の思い぀くのは、アメリカを基地ずしお倪平掋を暪断するこずであった。この䌁おに最初に手を぀けたのは、ほかならぬメキシコ埁服者コルテスであった。  コルテスはアルバロ・デ・サヌベドラを叞什官ずしお、䞉隻癟十名を率いお、䞀五二䞃幎の末に出発せしめた。目的は銙料の島ずメキシコずの連絡である。サヌベドラは途䞭で二隻を倱いはしたが、しかし二カ月でマリアナ諞島たで来た。ロアむサの船が本囜からここたで十䞉カ月かかっおいるのに比べるず非垞な盞違である。その埌サヌベドラはフィリッピン諞島でマガリャンスやロアむサの遠埁隊の萜歊者を拟い、䞀五二八幎䞉月末日にティドヌルに着いた。そこで前述のデ・ラ・トッレが既に䞀幎以䞊頑匵っおいたのである。しかしサヌベドラの隊員も䞉十名に枛じおいお、あたり揎軍の甚をなさなかった。そこで圌はメキシコに垰っお来揎を求めようず決心したのである。  西から東ぞ倪平掋を暪断しようずする䌁おは、前にマガリャンスの旗艊トゥリニダッドが詊みお倱敗したずころであった。今やサヌベドラがそれを繰り返すのである。圌は䞀五二八幎六月初めに出発しおニュヌギニアの北岞を経、カロリン諞島を航したが、逆颚でマリアナ諞島より先ぞは出られなかった。で䞀先ず十月にティドヌルぞ匕き返した。翌䞀五二九幎䞉月、圌は再挙を蚈っおマヌシャル諞島に達し、そこから北東ぞ北緯二䞃床たで行ったが、そこでサヌベドラは歿した。船はなお行進を぀づけたが䞉〇床に至っお逆颚に抌し返され、遂にその幎の秋の末にハルマヘラに垰着した。そうしおポルトガル人に捕えられマラッカぞ連行されたのである。  本囜ではこの幎の四月にカヌル五䞖が䞉十五䞇デュカットを受けお銙料の島ぞの芁求暩を攟棄した。ポルトガル偎も倪平掋の方からポルトガルの領分ぞ迷い蟌んだ船は敵芖しないず誓った。そういう解決の結果、ティドヌルに頑匵っおいたデ・ラ・トッレ以䞋十六人は、䞀五䞉四幎本囜ぞ送還されるこずになり、途䞭半分に枛じお䞀五䞉六幎に垰着した。その䞭にデ・ラ・トッレ及び銙料の島の報告を曞いお有名なパむロット、アンドレアス・りルダネタが混っおいたのである。  が倪平掋をアメリカずアゞアの間の通路ずしようずする掻動はこの劥協によっおも止たりはしなかった。むしろそれはコルテスによっお始められたばかりの新しい運動だったのである。コルテスが二床目に掟遣したのは、゚ルナンド・グリハルバを隊長ずする二隻の探怜隊であった。これは䞀五䞉六幎にピサロの救揎の需めに応じおペルヌに送ったものであるが、ペルヌで甚事をすたせた䞊は、南アメリカの西岞からアゞアぞ向っお航海せよずの呜什を䞎えお眮いたのである。グリハルバは赀道附近の海を西に向った。いくら行っおも島圱は芋えなかった。もうメキシコに垰航しようず考えたが、逆颚でどうしおも匕返せない。でそのたた颚にのっおニュヌギニア近くたで行き、メラネシア人の島で難砎しおしたった。埌に数名の生存者がポルトガル人に救われおこの航海の消息が解ったのである。  コルテスの劂䞊の詊みはやがお数幎埌に倧芏暡の探怜隊にたで成長した。䞀五四二幎十䞀月、メキシコ副王アントニオ・デ・メンドヌサは、六隻の艊隊を西に向っお出発させたのである。隊長はルむ・ロペス・デ・ビリャロボスであった。圌はほが真西に進んでマヌシャル諞島を通り䞭郚カロリン諞島に突き圓った。䞀五四䞉幎䞀月末には、パラオ諞島を通っおフィリッピンに着いた。この堎合にも倪平掋暪断は二カ月䜙で成功しおいる。  ビリャロボスは二月二日にミンダナオに䞊陞し、䞀カ月ほど滞留しお怍民地建蚭を䌁おたが、気候は悪く土人は抵抗し、思うように行かなかった。で食糧を埗るためにミンダナオずセレベスずの間の小島を経巡っお芋たが、そこでも土人の抵抗は絶えなかった。遂に数カ月の埌には食糧を埗るために小さい船をカロリン諞島ぞ掟遣したほどである。  がそれず共に圌はベルナルド・デ・ラ・トッレの指揮するサン・フアンを報告のためメキシコに向けお出発せしめた。その報告曞の䞭で圌は、圓時のスペむン皇倪子の名を取っおこの諞島をフェリピナスず名づけた。これがフィリッピン諞島の名の始たりである。がこの時デ・ラ・トッレの倪平掋垰航が成功したのではない。圌は八月末サマル島を出発しお北東ぞ向い、北緯二五床のずころで硫黄島を発芋、曎に䞉〇床たで行ったが、氎の欠乏のため止むなくフィリッピンに匕き返したのである。  その間にビリャロボスは、フィリッピン占領に察しおポルトガル偎からの抗議を受け、それを匁明するためにモルッカ諞島ぞ行った。食糧の欠乏や乗員の死亡のためポルトガル人ず争うだけの元気はなかったのである。圌はただメキシコよりの救揎に望をかけおいた。そこぞサン・フアンが匕返しお来たのであるが、しかし圌はその望を絶たず、䞀五四五幎五月に、今床はデ・レヌテスを船長ずしお、再びサン・フアンを出発せしめた。レヌテスはハルマヘラを廻っお南東ぞ針路をずった。でニュヌギニアの北岞に觊れ぀぀、六月から八月ぞかけお二カ月間悪倩気ず戊った。その間薪氎のためにしばしば䞊陞し、黒人の小舟に襲撃されたりなどした。ニュヌギニアの名はレヌテスが぀けたのである。かくおレヌテスはもう少しでニュヌブリテン諞島ぞ぀くずころたで来たが、ここで針路を北に転じた。その内乗員の間に䞍平が起り、止むなく匕返しお十月初めティドヌルに垰着した。  ビリャロボスは二床の倱敗によっお倪平掋からの救揎に絶望した。もはや党艊隊を以おポルトガル人に降服するほかはない。䞁床新任のポルトガル知事が匷硬な態床を取り始めた機䌚に、圌はそれを実行した。そうしお送還の途䞭、䞀五四六幎四月、アンボむナで歿した。䞀四四名の乗員は䞀五四八幎にペヌロッパに垰った。  以䞊の劂き倱敗にも拘らず、フィリッピン怍民の蚈画は攟棄されなかった。カヌル五䞖に぀いでフェリペ二䞖が立぀ず共に、その名を負う諞島の経綞も力匷く抌し進められた。ポルトガルの抗議は顧慮するに圓らない。ポルトガルは、モルッカ諞島たでの勢力維持が粟䞀杯で、それから先ぞの拡匵の䜙力などはもうないのである。その䞊フィリッピンの怍民は、貿易䞊の巚利などを玄束せず、土人ぞの犏音䌝道を目ざしおいる。埓っおそこぞ手をのばしおもポルトガルの利益を損うこずにはならない。そうスペむン人たちは考えたのであった。  そこで䞀五五九幎に、メキシコ副王ルむス・デ・ベラスコは本囜から艊隊建造の呜を受けた。この時政府が倧きい望をかけおいたのはりルダネタの協力である。りルダネタは本囜から掟遣したロアむサの艊隊で最埌たで生き残った䞀人、南掋のこずには詳しい。その䞊優れたパむロットである。䞀五五二幎アりグスチノ䌚の僧団に入り、メキシコの僧院に隠居しおいた。そこぞ新らしい遠埁隊ぞの招聘がもたらされるず、りルダネタは喜んで承諟した。ずいうのは、未だ知られおいない南掋の倧陞を発芋したいずの念が、この隠遁僧の心の䞭になお生きおいたのである。䌝道のためには同じ僧団の仲間を四人連れお行くこずにした。かくお準備に数幎を費し、䞀五六四幎十䞀月四隻の艊隊を以おメキシコ西岞から倪平掋にのり出した。叞什官はミゲル・ロペス・デ・レガスピであった。  レガスピの受けた呜什は、ビリャロボスの航路を蹈襲し、出来るだけ早くフィリッピンに着けずいうこずであった。そうしおそれは呜什通りに実行されたのであるが、途䞭で艊隊にはぐれた小さい船の䞀隻は、そのために反っお思いがけぬ偉功を立おるこずになった。それはフィリッピン諞島にふれた埌に、暎颚に流されお遠く北方に出で、北緯四〇床よりも北で倪平掋を東ぞ暪断し、メキシコぞ垰っお来たこずである。それは偶然ではあったが、最初にトゥリニダッドが倱敗しお以来、コルテスの掟遣したサヌベドラや、ビリャロボス配䞋のデ・ラ・トッレ、レヌテスなど、悉く倱敗し぀づけおいた東ぞの暪断航路が、ここに芋出されたのであった。  レガスピは䞀五六五幎二月䞉日にフィリッピンぞ぀いた。土人の敵意のため補絊が困難であったが、ボホル島に到っお挞く食糧を埗るこずが出来た。次で四月末にはセブ島を占領した。セブの王は既にマガリャンスの前でスペむン王ぞの忠誠を誓ったからである。レガスピの経綞はセブ人たちを垰服せしめた。  その埌に起った倧事件は、りルダネタの垰航である。前に偶然に行われた東ぞの倪平掋暪断を、りルダネタは蚈画的に遂行した。圌の考によるず、熱垯圏には䞍断の貿易颚が東から西ぞ吹いおいるが、高緯床のずころぞ出れば、倧西掋ず同じく西から東ぞの颚を期埅し埗るであろう。で圌はフィリッピンから北東ぞ四䞉床たでのがり、四カ月の航海を以お䞀五六五幎十月䞉十日、無事にアカプルコに着いた。この科孊的に考えられた航路が、この埌倪平掋の倧道ずなったのである。ここでフィリッピンずメキシコずの亀通が確実ずなり、アメリカずアゞアずの間の通路は打開されたのである。りルダネタはこの航海の報告を本囜ぞもたらした埌、再びメキシコの僧院に垰任し、䞀五六八幎に歿した。  フィリッピンに斌けるレガスピは、右の劂き航路打開の結果、メキシコずの連絡容易ずなり、䞀五六䞃幎八月に二隻の来揎を受けた。これだけの勢力があればポルトガルの圧迫に察抗するこずが出来る。モルッカ諞島にあるポルトガルの知事は、軍隊の力を以おスペむンの怍民地を芆滅しようず詊みたが、成功はしなかった。しかしセブの怍民地はモルッカ諞島に近すぎ、奇襲の危険に曝されおいる。フィリッピン怍民の根拠地はもっず遠隔の地に移さなくおはならぬ、ずレガスピは考えた。そこぞ再びメキシコから来揎軍が到着し、レガスピは総督に任呜された。でレガスピは䞀五䞃〇幎にル゜ン島を攻撃しおマニラ村を埁服し、そこに芁塞を築いた。こうしおフィリッピン怍民地の基瀎を築いた埌、レガスピはこの地に斌お䞀五䞃二幎八月に歿した。  ペヌロッパから西ぞの衝動はアメリカを超え、倪平掋を超えお、遂にアゞアの岞にたで到達したのである。  メキシコが右の劂く倪平掋通路打開の根拠地ずされおいたのに察しお、ペルヌは南倪平掋に斌ける発芋の根拠地ずなった。  未だ知られざる南掋の倧陞はりルダネタの心を衝き動かしおいたのみではない。西からの倪平掋暪断に倱敗したレヌテスが、ニュヌギニアの北岞を発芋しお以来、この未知の倧陞ぞの関心は䞀般に高たっお来た。人々はこの陞地がマれラン海峡の南偎のフェゎ島ず぀ながっおいはせぬかずさえ考えた。この南掋の倧陞を芋出す仕事がペルヌ総督に課せられおいたのである。  この仕事の先駆者であるフアン・フェルナンデスは、チリヌのサンチャゎの西方に島を芋぀けた。その島は発芋者の名を負うおいるが、そこぞ十八䞖玀の頃にむギリスの氎倫アレキサンダヌ・セルカヌクが挂着し、その䜓隓譚がダニ゚ル・デフォヌの『ロビン゜ン・クルヌ゜ヌ』ずなったのである。  䞀五六䞃幎にペドロ・サルミ゚ントは南掋の倧陞の探怜を申し出た。ペルヌ総督はアルバロ・デ・メンダニャ将軍に二隻の遠埁隊の指揮を呜じた。サルミ゚ントは旗艊の船長ずしお同行した。䞊垭パむロットぱルナン・ガリェゎであった。同幎十䞀月廿日リマの枯カリャオを出発、南西に針路を取った。しかし䞀䞃〇レガほど進んだずころで将軍は自信をなくしたず芋え、北に転針した。サルミ゚ントがいくら抗議しおもきかなかった。八日埌に南緯䞀四床たで北䞊した時、サルミ゚ントは再び南西に向うこずを芁求したが、これもきかれなかった。南緯五床たで行ったずき、挞く将軍はサルミ゚ントの䞻匵に埓っお西南西に転針した。かくお翌䞀五六八幎䞀月十五日にむェス島に着き、曎に南緯六床を西ぞ航しお、二月䞃日゜ロモン諞島に突き圓った。最初の島はむサベル島ず呜名された。そこには豚や鶏が飌われお居り、奜い朚材もあった。金の痕跡もないではなかった。それを誇倧しお考えたスペむン人たちは、遂に゜ロモン王のオフィルに到達したず信じお、ここの諞島を゜ロモン諞島ず呜名するに至ったのである。人々は初めこの地を南掋の倧陞の䞀郚ず考えたが、五月八日たで滞留する内に島であるこずを螏査した。次でサン・クリストバル島を発芋した。ここでサルミ゚ントは南方ぞ航するこずを熱心に芁求したが、将軍はそれを斥け、九月四日北方航路によっお垰路に぀いた。南カリフォルニアのサンチャゎに着いたのが翌䞀五六九幎の䞀月末、ペルヌぞ垰着したのは䞉月であった。  ゜ロモン諞島たで来おも南掋の倧陞の謎は解かれなかった。第二回探怜はずっず遅れお䞉十幎埌であった。この時には南倪平掋の倚くの島々を発芋しはしたが、しかしサンタ・クルス諞島たで来お゜ロモン諞島には達しなかった。第䞉回探怜は曎に十幎の埌であったが、この時にはニュヌヘブラむヅ諞島を発芋するず共に、隊にはぐれたルむス・バ゚ス・デ・トルレスの船が、ニュヌギニアの南を通っおモルッカ諞島ぞ出たのである。この時トルレスは初めおオヌストラリアの北端にも觊れたわけであるが、圌はその意味を解しなかった。トルレス海峡を発芋したこず自䜓も十八䞖玀の䞭頃たでマニラの文曞通に埋もれおいた。埓っおトルレス海峡の名はずっず埌に぀けられたのである。  以䞊の劂きが十六䞖玀䞭頃の倪平掋の情勢であった。南掋の倧陞はただ芋出されないが、しかし南は゜ロモン諞島より北はマヌシャル諞島、カロリン諞島、マリアナ諞島に至るたで、西倪平掋の島々はスペむン船の勇敢な探怜の舞台ずなっおいたのである。芖界拡倧の運動は遂に地球を䞀呚した。この点から芋れば、東ぞ向う運動がモルッカ諞島に至り、西ぞ向う運動がフィリッピン諞島に至っお、ここに接觊点を圢成したこずは、十五䞖玀以来䞀䞖玀に亘る䞖界史の倧きい動きが、ここで䞀先ず結論に到達したこずを意味する。  これは新しい時代の開始である。䞖界はここで初めお䞀぀の芖界の䞭にはいっお来た。それはただ単に茪郭的に過ぎず、その内郚に倚くの未知の郚分を残しおはいたが、しかし円環は出来䞊ったのである。これは人倫的な意味に斌お䞀぀の䞖界が出来䞊るための第䞀歩ず云わなくおはならぬ。そこに芋出されたのはさたざたの異った民族、さたざたの異った囜家であっお、それらの間には䜕らの統䞀もなく、むしろ敵察関係の方が倚かった。しかしこれらが䞀぀の組織にたずたっおくるためには、たず第䞀にそれらが䞀぀の芖界に入り蟌たなくおはならぬ。四癟幎埌の今日に人類の最倧の問題ずしお取り䞊げられおいる囜際的組織の問題は、たずこの時に、䞖界史䞊初めお、その芜を出したのである。勿論その圓時に斌おはこの芜が、即ち䞀぀の芖界が、䜕に成長しお行くかは解らなかった。埁服者たちの態床はむしろ合䞀ず反察のものを瀺しおいた。しかし人倫的合䞀はどの段階に斌おも垞に「私」を媒介ずする。䞀぀の芖界の䞭にはいっお来た䞖界が、䞀぀の人倫的な組織にたで成長するためには、数倚くの吊定を重ねなくおはならなかったし、たたならないであろう。その艱難な道の出発点ずしおの芖界がここに初めお開けたのである。  䞁床その時代に、ニコラス・コペルニクスが珟われお、ここに始たった時代を力匷く性栌づけた。圌の生れたのは、ヘンリ航海者の歿埌十䞉幎、䞀四䞃䞉幎で、歿したのは前述のメキシコ艊隊がたっすぐ西に倪平掋を暪断した幎、即ち䞀五四䞉幎であった。クラカり倧孊で孊んだ埌、むタリアに行き、ボロニャやパドゥアの倧孊で䞉十二歳の頃たで研究に぀ずめたが、地動説を考え始めたのはドむツに垰っおハむルスベルクの叞教になっおからである。圌はその説をただ芪しい孊者にのみ打ちあけたらしい。その原理を曞いた論文もただ手写によっお拡たっおいた。が孊界に斌おは远々に泚意を匕き、䞀五䞉九幎にはレティクスの匟子入り、翌幎にはコペルニクスの劎䜜に぀いおの発衚などがあった。コペルニクスも遂に友人や匟子たちの懇請に負けお著曞の発衚を決意し、レティクスがその原皿をニュルンベルクに持っお来お印刷に附した。しかし曞物が出来るたでに圌は歿したのである。それはむしろ圌にずっお幞犏であったろうず云われる。䜕故ならレティクスは、圌の信頌を裏切り、呚囲の非難を怖れお、地動説は単なる仮説に過ぎぬずいう序蚀を勝手に附加したのだからである。ルタヌやメランヒトンなどもこの説を嫌った。ロヌマの教䌚でも远々に反察の気勢が珟われ、䞀六䞀六幎にはガリレむの隒ぎをきっかけずしおコペルニクスの曞は犁曞の䞭に入れられた。それが䞀般の承認を埗るたでにはただただ幎月の経過を必芁ずしたのである。しかしコペルニクス自身にずっおは地動説は単なる仮説ではなくしお蚌明された事実なのであり、そうしおそこに䞖界に察する党然新しい芖界が開けおいた。それが容易に䞀般の承認を埗難かったのは、この新しい芖界があくたでも粟神的な芖界――即ち数孊的な合法性に埓っお把捉された芖界――であっお、単なる感芚的な芖界でなかったこずに基くであろう。勿論その基瀎には実隓があり、埓っお倚くの艱難忍苊の経隓が堆積しおいるのであるが、しかしそのような感芚的経隓を掻かしお自然の真盞に迫り埗たのは、ただただ合理的な思玢の力なのである。航海者たちに地球を巡るこずを可胜ならしめたず同じ力が、ここでは倪陜系の把捉に成功せしめたのであった。それは新倧陞の発芋に比しお決しお劣るこずのない重倧な発芋なのである。  かかる発芋ず時を同じゅうしおペヌロッパの粟神界には曎にもう䞀぀極めお重倧な革呜が、即ち宗教改革が、行われ぀぀あった。その波は反動改革の圢で、ダ゜䌚のシャビ゚ルの姿においお、メキシコ艊隊の倪平掋暪断よりも先に、すでにゎアにたで達しおいた。そうしおそのシャビ゚ルは、フィリッピンの怍民が成功するよりも前に、すでに日本に来おいたのである。 埌篇 䞖界的芖圏における近䞖初頭の日本 第䞀章 十五・六䞖玀の日本の情勢 䞀 倭寇  航海者ヘンリ王子が、ペヌロッパ西南端のサグレスの城から倧西掋を望み぀぀、アフリカ回航にねばり匷い努力を続けおいた時代、たたその䌝統に育おられた航海者たちが、あずからあずから探怜航海を続け、遂にむンドぞの航路ずアメリカ倧陞ずを発芋しお、その遠い土地に怍民地を䜜りはじめた時代、即ちペヌロッパの近䞖が華やかにその幕をあけた時代に、われわれの囜はいかなる状態にあったであろうか。  この問題は簡単には答えられない。䜕故ならこの時代、即ちわが囜での宀町時代乃至戊囜時代は、わが囜の歎史のうちで最も理解の困難な時代だからである。われわれは幌時以来この時代を闇黒な時代、秩序のない時代ずしお教わっお来た。この芋方は、江戞時代の初めに、新たに暹立された封建制床を護持する立堎から、力匷く䞻匵され始めたものであるが、その埌反幕府的な思朮が珟われた埌にも、芆えされるどころか、䞀局匷固にされたのである。その理由は、反幕府的な思想家が、江戞幕府に察する反感を率盎に衚珟し埗ず、足利幕府を攻撃するずいう圢を借りたずころにある。圌らは足利幕府を極力貶しめようずする江戞幕府の政策的な立堎を逆甚しお、それを䞀局匷調し぀぀、楠公厇拝の立堎を宣揚した。そうしおそこに江戞幕府を倒そうずする勀王運動の顕著な暙識を䜜り出した。その結果右の芋方は明治時代以埌にも生きのび、政治的な力を保持し続けたのである。この芋方に反するような研究が、政治的な匟圧を受けたこずは、明治末期の著しい珟象であった。  宀町時代乃至戊囜時代が囜家の統䞀の倱われた時代、秩序の乱れた時代であるずいうこずは、誀りのない事実である。江戞幕府がその統䞀ず秩序ずを回埩した埌に、その功瞟を誇瀺し、前代の無秩序ず察比しお宣䌝したこずも、決しお嘘の宣䌝ではなかった。しかし芖点を倉えお芋れば、その秩序の乱れの裏には、ちょうどむタリアの十四・五䞖玀におけるような、個性のある匷剛な人物の茩出を指摘するこずができるであろう。数々の専制君䞻や、傭兵をひきいお䜕時でも戊争の需芁に応じたコンドチェヌレなどが、むタリアのルネッサンスの時代の特城ずなっおいる。それず同じタむプの人物が宀町時代や戊囜時代を䜜ったのである。䌝統的身分ではなくしお実力が物をいう。䞻埓関係の道埳ではなくしお利害打算が事を決する。䌝統を保持する人々は口を揃えお䞖道の頜廃を嘆じおいたが、しかしこれらの䌝統砎壊の珟象も、圓時ずしおは人間性解攟の䞀぀の仕方であったこずは認めなくおはならぬ。その解攟の結果、瀟䌚の秩序は倱われ、争闘や残虐の珟象が暪溢したのではあるが、しかしあのむタリアの華々しいルネッサンスの文化を䜜り出したのは、ちょうどそのような争闘ず残虐ずに充ちた生掻であった。積極的な創造の功瞟の前には、瀟䌚の分裂や䞍安の劂き他の半面の欠点は忍ばなくおはならぬ。わが囜の十四・五䞖玀もたたそのような創造に乏しくないのである。胜楜・茶の湯・連歌の劂き、日本文化の独自の特城を瀺すものは、みなこの時代に䜜り出された。歌舞䌎や浄瑠璃の劂き次代の創造の基瀎を築いお眮いたのもたたこの時代である。そういう点から芋ればこの時代は創造的な時代、積極的な時代であっお、決しお闇黒な時代などではない。  が、われわれの問題にずっお䞀局関係の深いのは、この時代の特城を瀺す「倭寇」ず「土䞀揆」ずの珟象である。倭寇ず呌ばれおいる海倖進出の運動は、海倖貿易ず結び぀き、この時代の重芁な契機ずなっおいる。貿易はわが囜の経枈事情に著しい倉化を䞎えた。貚幣経枈が急激に発達し、利子を目ざす資本の蓄積がはじたり、郜垂が出珟するに至ったこずなど、すべおそこに聯関しおいる。かくしお資本の力は既に歊力を掣肘し始めおいるのである。土䞀揆は䞻ずしお蟲民の運動であっお、貿易ずは方面が異なっおいるが、しかし同様に民衆の力の解攟ずしお、この時代の重芁な契機ずなっおいる。この民衆運動によっお、日本の瀟䌚は䞀床䜜りなおされたのである。これらはペヌロッパの十四・五䞖玀にも著しく珟われた珟象であっお、わが囜に限ったこずではないが、しかし盎接に連絡のないペヌロッパず日本ずにおいお、ほが時を同じゅうしお同様な珟象が芋られるこずは、われわれの匷い関心を刺戟せざるを埗ないのである。  先ず初めに倭寇や海倖貿易の珟象を取り䞊げお芋よう。  倭寇は、高麗史によるず、䞀䞉五〇幎庚寅の幎から急激に盛んになっおいるそうである。これは蒙叀襲来から䞃十幎ほど埌のこずであっお、蒙叀人の刺戟が盎ちにひき起した珟象ずは芋えない。しかし間接にはその間に聯関があるであろう。蒙叀軍に察する防衛戊争は歊士階玚に著しい貧困をもたらし、遂に半䞖玀の埌に鎌倉幕府を厩壊せしめた。そのあずには䌝統的な歊士の秩序が回埩されず、実力の競争ずしおの内乱が打ち続いた。そのための産業の砎壊や生掻の困難が、倭寇を抌し出したらしいのである。特に倭寇ずしお進出したのが北九州や瀬戞内海沿岞の「あぶれ者」どもであっお、蒙叀人の襲来の盎接の印象をうけた地方に倚いこずは、倭寇ず蒙叀襲来ずの聯関を瀺唆するものずいっおよかろう。しかし䜕故に䞀䞉五〇幎ずいう特定の幎から急激な進出がはじたったかは、今のずころ知る由がない。それはシナにおいお蒙叀人の支配が厩壊した䞀䞉六八幎よりは少しく前であるが、しかし初めは䞻ずしお高麗朝末期の朝鮮に向い、厩壊に瀕した元王朝の勢力ずはあたり接觊しなかった。埓っお蒙叀人ぞの埩讐ずいう劂き考のなかったこずは確かである。のみならず、初期の倭寇が目ざしたずころは、䞻ずしお米であった。数十艘或は数癟艘の船をもっお南鮮の沿岞を襲い、高麗政府の租米運挕船の捕獲、陞䞊の粗米倉庫の掠奪などをやるのが、圌らの仕事であった。その他には沿岞蟲民を捕虜ずしお連れおくるこずをもやったが、それ以倖はただ食糧の獲埗がねらいであっお、埁服ずか怍民地獲埗ずかの劂きこずは党然考えおいない。しお芋るず、䞀䞉五〇幎の頃には、䜕か特別に食糧が䞍足する事情があっお、圌らをこの食糧獲埗の運動に远い立おたのではないかず考えられる。  これがきっかけずなっお、䞀床掠奪の味を芚え、その方法が芋出されるず、あずは同じような特別の事情がなくずも、倭寇は継続されたであろう。内乱の継続によっお䞀般的に食糧の䞍足を来たしおいた圓時の日本にずっおは、米は貎重品であったに盞違ないからである。だから倭寇がその埌連幎続き、幎ず共に猛烈になっお行ったこずは圓然ずいわなくおはならぬ。䞀䞉䞃五幎――䞀䞉八八幎の十四幎間には、南鮮の四癟カ所が倭寇に襲撃されたずいわれおいる。これは高麗王朝にずっおは深刻な倖患であった。倭寇を防ぎ埗なかった高麗王朝はやがお厩壊し、倭寇防犊に功のあった李成桂が、李王朝を創始するに至るのである。  倭寇は元王朝の厩壊する以前に山東半島に珟われおいるが、盛んにシナ沿岞を荒らすようになったのは明王朝が起った埌、䞀䞉六九幎からである。その以埌は揚子江の河口、杭州湟あたりから、南シナの沿岞に亘り、連幎掠奪を行った。「倭寇の到る凊、人民䞀空す」ずか、「其の来るや奔狌の劂く、其の去るや驚鳥の劂し、来るも或は知るなく、去るも捕ふるに易からず」などずいわれたのは、その頃のこずである。新興の明王朝もその防衛のためには盞圓に苊心せざるを埗なかった。しかし倭寇が、遠く広東省あたりたでも出かけお、掠奪したものは、䟝然ずしお米ず蟲民ずであった。その䟵略は颱颚のように過ぎ去るだけで、ペヌロッパにおけるノルマン人のように、その土地に喰い入りそこに根をおろすものではなかった。  倭寇のこの特城は、倭寇の歎史的意矩を決定するものであろう。圌らもノルマン人に劣らず冒険的であり慓悍であったが、しかしい぀たでも「あぶれ者」であっお、政治的な意矩を獲埗するに至らなかった。それに反しおノルマン人は、冒険的進出が盛んになるに埓い、本囜の政治的組織ず結び぀いお、囜家的な行動ずしおの䟵略を行うに至ったのである。この傟向は十五䞖玀以埌におけるペヌロッパ人の怍民地経営にも芋られるであろう。初めは海賊に過ぎなかった冒険的航海者も、その仕事が倧きくなるに埓っお公共的な意矩を獲埗し、囜家の支持を埗おくる。それに応じお海賊たち自身も、探怜的航海者ずしおの心構えを倱わず、その経隓を蚘録し或は云い䌝えお、背埌にある囜民の芖圏の拡倧に寄䞎した。この特城は倭寇には党然芋られないのである。倭寇は、その名の瀺す通り、䟵略を受けた囜々の蚘録によっお知られるのであっお、圌らがその冒険によっお埗た知識を母囜の囜民に刻み぀けたが故に蚘憶せられおいるのではない。圌らの冒険的な劎苊は公共的な意矩を獲埗するこずなく闇から闇ぞず流れおしたった。即ち歎史的意矩を獲埗し埗なかったずいうこずが倭寇の歎史的意矩でもあるのである。  倭寇のこの性栌を明かに反映しおいるのは、十五䞖玀に入っお盛んになった海倖貿易が、倭寇の犁圧によっお可胜になったずいうこずである。この犁圧は高麗や明の偎からの数十幎に亘る熱心な倖亀亀枉によっお挞次実珟されるに至ったのであった。初め高麗からの海賊犁圧の芁求が日本の政府に届いたずき、日本の政府の執った熊床は、倭寇が九州の乱臣の所為であっお、政府の責を負うべきものではないずいうこずであった。これは倭寇が日本にずっお公のものでないずいうこずの承認であるず共に、日本の囜家の統䞀が十分でないこずの告癜でもあった。その埌間もなく新興の明の倪祖が、倭寇に察する嚁圧的な抗議を送っお来たずきには、それを受けたのは、九州にあっおなお南朝の勢力を保持しおいた埁西将軍懐良芪王であっお、日本の統䞀的な政府ではなかった。その事情を挞く理解し始めた明は、頻々たる倭寇の䟵掠の続く間にも日本ずの貿易関係を絶たず、機䌚ある毎に倭寇の犁圧ず公匏の貿易関係の蚭定ずを申入れおいるのである。  この公匏の貿易関係は、明の倪祖にずっおは、明の正朔を奉じ入貢の圢を取るこずであった。貢の物資に察しおは、それ以䞊の物資が明の皇垝の賜䞎ずしお償われるのであるが、その貿易ずしおの実質よりも入貢の名目が重んぜられたのである。勿論この莈答に附随しお、船に満茉した物資の貿易が行われる。そのための貿易商人も同乗しおいる。たた䜿節船以倖に公認の貿易船が出かけお行くこずも出来る。貿易ずしおはこの方が䞻芁事なのであるが、しかしその貿易を公匏のものたらしめるためには、右の劂き名目が必芁だったのである。この事情を双方の偎でのみ蟌み、䞀方では倭寇の掠奪行為によっお甚倧な瀟䌚䞍安をひき起されるよりも、貿易によっお利を䞎える方が遙かに損害が少ないこず、他方では掠奪行為よりも平和的な貿易の方が結局においお遙かに利益が倚いこずを、互に理解し合うに至るために、ほが二䞉十幎の幎月が費された。そうしおこの了解を圢に珟わすに至ったのが、明の建文・氞楜の皇垝ず足利矩満なのである。  䞀四〇䞀幎に足利矩満は僧祖阿ず商人肥富ずを䜿者ずしお明の皇垝に曞を送った。その䞭で矩満は日本の統䞀を特蚘しおいる。それに察しお明の二代目の建文垝は、翌幎答瀌の䜿者を日本に寄越したが、矩満はそれを兵庫に迎え、京郜で欟埅した。そうしお䞁床その頃に、明の偎の熱望する海賊船犁圧什を発垃したのである。圓時は足利幕府の最盛期であったから、この犁什も実際に嚁力を持぀ものであった。  䞀四〇䞉幎に明は氞楜幎代に入るのであるが、その幎、明の䜿節は倚量の銭貚を以お日本を蚪れ、それに察しお日本からも硫黄、瑪瑙などのほかに倚量の歊噚類や工芞品を携えた䜿節が、䞉癟䜙人を぀れお答蚪した。明の皇垝はこの䜿者たちに織物類や銅銭を䞎えたほか、矩満に察しお囜王の冠服・金印、その他織物を莈った。この時に氞楜条玄、即ち勘合貿易の協定が行われたず䌝えられおいる。公認の貿易であるこずを蚌明する勘合癟道、即ち貿易船癟艘分の蚌明曞を亀付し、正匏の䜿節は十幎に䞀回、船二隻、人数二癟人ず定めたずいうのである。そこでその埌は連幎貿易船が掟遣され、明からも倭寇の鎮圧を感謝する䜿者が送られた。かくしお䞡囜の間の貿易は急激に盛倧ずなったのである。  圓時の貿易品は、衚面の莈答品が瀺しおいるように、日本からは硫黄などの原料ず工芞品ずが茞出され、シナからは䞻ずしお織物類ず銅銭ずが来たのであろう。この銭貚の茞入は特に泚意すべきものだずいわれおいる。圓時急速に貚幣経枈の進展し぀぀あった日本においおは、銅銭の需芁は極めお熟烈であった。だから歊噚等の金工品その他工芞品の類を、銅銭の安いシナぞ売っお、その銅銭を日本たで持っおくれば、それだけでも䜕倍かの利益が埗られた。そのように貿易の利は倧であったから、圓時の幕府の財政はこの貿易によっお支えられたずいわれる。そこで幕府のみならず民間にもこの貿易を䌁おるものが茩出したのである。勘合を埗お公認の貿易に埓事すれば、掠奪行為を行わなくずも巚利が埗られる。だから倭寇がそういう貿易商に転ずるこずはいかにも自然なのである。勘合が埗られぬものは恐らく密貿易にも埓事したであろう。そういう事情を考えるず、倭寇の犁圧は海倖ぞの冒険的航海者に掠奪行為を犁じたずいうだけであっお、圌らに海倖ぞの出航を犁じたずいうわけではない。貿易が盛倧ずなるに埓っお航海者に察する需芁はふえたであろうし、数十幎来の海䞊の経隓もたた高く評䟡されるようになったであろう。だから十四䞖玀における倭寇の珟象は、十五䞖玀に至っお、貿易の珟象に転化した、ずいっおよいのである。  もっずもこれは倧䜓の傟向に぀いおのこずであっお、海賊が党然跡を絶ったなどずいうのではない。䞀四二〇幎に日本に来た朝鮮の䜿節朎端生が、朝鮮海峡や瀬戞内海の印象に基いお曞いた報告によるず、赀間関から西では察銬、䞀岐、内倖倧島、志賀、平戞など、東では四囜の北の島々や竈戞瀟島などが海賊の根拠地であっお、その兵は数䞇、船は千隻を䞋らないが、しかしそれらの根拠地の領䞻、宗氏、倧内氏、宗像氏、倧友氏、束浊党などは、それらの海賊に察しお匷い支配暩を握っおいたずいう。そういう事情から察するず、倭寇ず諞倧名ずの間には、䜕かの連絡があったかも知れないのである。九州の諞倧名は、倭寇の掠取しおきた捕虜を朝鮮やシナに送還しお米や垃の瀌物を受け、或はその機䌚に貿易を行っおいた。捕虜の送還は倭寇の逆を行くものずしお勘合ず同じく平和の保障を意味したかも知れない。そういう意味のある捕虜を他方では倭寇が䟛絊したずすれば、貿易ず倭寇ずは衚裏盞結んでいたずも考えられる。䞀歩を進めおいえば、この䞡面の掻動を同䞀の連䞭がやっおいたかも知れない。このこずは圓時の貿易商が、刺戟の劂䜕によっおは倭寇の本性を珟わすかもしれないような、慓悍な連䞭であったこずを意味する。  このような事情のために、十五䞖玀の初めに急激に進展し぀぀あった海倖貿易が、間もなく逆転するかのような圢勢を瀺した時がある。矩満の歿埌、あずを぀いで将軍ずなった足利矩持が、明ずの公認貿易に背を向けたずきである。入貢ずいう圢匏に拘泥すればそうならざるを埗なかった。しかしそれによっお公認貿易の道が塞がれたずなるず、倭寇は盎ちに跳梁をはじめたのである。䞀四䞀八幎に倭寇癟艘賊䞃千䜙人が杭州湟北岞を劫掠した劂きはその著しい䟋であるが、その掻躍は山東から広東にたで及んでいた。  しかしこの頃には、東亜の海䞊には、広汎な貿易の機運が掻溌に動き぀぀あった。琉球はすでにシャムずの貿易を開始し、蘇朚や胡怒のような南方の特産を手に入れおいた。そうしおそういう産物を盛んに朝鮮ぞ茞入しおいたのは、琉球人自身ではなくしお、九州の諞倧名であったのである。埓っお琉球の南掋貿易商ず九州の諞倧名ずの間の密接な聯関は疑うべくもない。やがお䞀四䞉〇幎からはゞャバぞも琉球船が行くようになった。十五䞖玀の埌半になるず、シャムよりはむしろマラッカの方が琉球船をひき぀けた。そういう点で琉球船は九州の貿易商の先駆の圹を぀ずめおいたのである。  再び倭寇に苊しみ始めた明は、この琉球を介しお日本ずの公認貿易の再興を䌁おた。足利矩持の歿埌四幎目、䞀四䞉二幎に、明の宣埳垝は、琉球䞭山王尚巎志の手を経お新らしい将軍矩教に呌びかけお来たのである。これは或は日本ず密接な関係のある琉球人の入智慧であったかも知れない。効果は芿面であった。同幎盎ちに遣明船五隻が出発し、翌幎五月䜿者たち二癟二十人は宣宗の盛倧な歓迎を受けた。そうしおさらにその翌幎の垰航の際には、明の䜿者の五艘の船を䌎っおきた。将軍ぞの莈り物ずしお、倚量の豪華な織物類や道具類がもたらされた。この䜿節亀換の時、宣埳の勘合癟道が亀付され、正匏の䜿節を十幎䞀回、船䞉隻、乗員䞉癟人に改め、商品ずしおの刀剣を䞉千把以䞋に制限したずいわれおいる。これが所謂宣埳条玄である。  この宣埳の勘合貿易船は、䞀四䞉六幎に第䞀回六隻を出発させおいるが、その埌倧名船や瀟寺船の貿易が顕著ずなり、䞀四六八幎、応仁の乱の時にさえも、公方船・倧内船・现川船の䞉隻が出おいる。䞁床この頃が航海者ヘンリ王子の掻躍の時期であった。そうしおその埌、アフリカ沿岞の探怜が進み、むンド航路が発芋され、むンドに怍民地が圢成されるたでの時期は、博倚の貿易商を配䞋に眮く倧内氏ず、堺の貿易商を配䞋に眮く现川氏ずの間の、シナ貿易の争奪競争の時期であった。この抗争の幕を切っお萜したのは、前蚘の公方船・倧内船・现川船の出航の時で、现川船は垰路倧内氏の勢力圏である瀬戞内海を通るこずができず、公方船ず共に土䜐沖を廻っお堺に垰った。この頃から堺が擡頭しはじめ、薩摩から琉球ぞの密接な連絡を䜜り䞊げた。十五䞖玀の埌半にはこの航路によっお幟床か貿易船隊がシナに行っおいる。それに察しお圚来の航路による倧内氏や博倚の商人も決しお負けおはいなかった。勘合を入手するこずにおいおはむしろ倧内氏の方が優勢であった。  こうしお十五䞖玀の埌半のシナ貿易は、日本人同士の激烈な抗争のうちに過ぎお行ったのであるが、その圢勢は十六䞖玀に入っおからも続き、すでにアルメむダやアルブケルケがむンドで掻躍した埌、ポルトガルの船が広東附近に珟われた埌の䞀五二䞉幎に、遂に倧内船ず现川船ずが寧波に斌お衝突し、倧内方の掠奪行動や寧波枯の閉鎖を結果するに至った。この時现川船には正䜿瑞䜐のほかに明人宋玠卿が乗っおいたのであるが、この宋玠卿は十六䞖玀の初めに日本の䜿者湯四五郎が連れお来たもので、すでに䞀五〇六幎にも现川船の綱叞ずしお掻躍し、明偎の泚目をひいたずいわれおいる。その宋玠卿がこの時にも再び掻躍し、垂舶叞の官吏を買収しお、先着の倧内船よりも先に现川船の荷圹をすたせるずか、有効な勘合を持っお来た倧内船の正䜿宗蚭よりも既に無効ずなった勘合を携えた现川船の正䜿瑞䜐の方を䞊垭に据えお優埅させるずか、ずいうような芞圓を挔じた。これが倧内方を憀激させ、歊噚をずるに至らしめたのである。倖来の貿易関係者を接埅する嘉賓堂の焌蚎、商品倉庫の劫掠、现川方ぞの攻撃に始たっお、あずは旧来の倭寇のように寧波附近䞀垯を荒らし廻ったのであった。寧波の垂舶叞閉鎖はその結果なのである。  もっずもこの埌にも明は琉球を仲介ずしお倧内船の正䜿宗蚭の匕枡しを芁求し、日本も琉球を経お倧内方の責任を認め、抑留䞭の玠卿などの釈攟を求めたらしい。しかし䜕しろ日本の囜家の統䞀が倱われかけおいる時代のこずで、事情ははっきりずは解らない。倧内氏はなおこの埌も䞀五䞉九幎、䞀五四䞃幎などに勘合貿易をやっおいる。勘合貿易が䞭絶したのは、その䞉四幎埌に倧内矩隆が陶晎賢に殺されおからである。  その頃から倭寇は再び猖獗になった。初期の倭寇ず同じような颱颚的な襲撃が、䞻ずしお揚子江の䞋流地方に、連幎加えられた。やがおそれは盎隷山東より犏建広東に亘るシナ沿岞党䜓に及んだ。シャビ゚ルが日本に来たのはこの倭寇盛行の時代の初期であった。  この猛烈な倭寇の爆発は、勘合貿易の裏にいかに盛んに私貿易が行われおいたかを瀺すものである。貚幣経枈の進展に埓い銭貚を必芁ずした日本人は、この貿易を控えるわけには行かなかった。そうしおそれに察応しお日本人ず取匕するシナ偎の貿易商人も決しお少くはなかった。シナ船もたた出動しお来たし、琉球船の掻動もたた盛んであった。圓時の貿易の䞻朮はむしろこの私貿易にあったずいわれおいる。そうしおそれらの貿易商人たちは、圓時すでに認められおいたように、貿易を蚱せば商人ずなり、貿易を犁ずれば寇ずなる連䞭であったのである。そういう冒険的な商人たちが、日本から南掋に至るたでの各地の特産を、互に亀換し合い、互に数倍の利最を埗おいた。日本の硫黄や銅、或は茞出向に補䜜される刀剣その他の工芞品をシナぞ持っお行くず、少くずも五六倍の倀段には売れる。ずころでそれを買うに甚いたシナの銅銭は、圓時既に銀貚に駆逐されお通甚の廃れかかっおいたものであるから、シナ商人の埗るずころも決しお少くはなかった。たた琉球人のもたらした南掋の蘇朚や胡怒の類は、日本の貿易商人の手によっお朝鮮に盛んに茞入されおいたし、シナの粟巧な織物類は日本では非垞に珍重されおいた。そういう利益の共同によっお、東アゞアの海䞊の貿易商たちが、䞀぀の仲間ずしお結び぀いおいたこずは、察するに難くない。だから貿易の犁圧ず共に倭寇が爆発したずき、その倭寇ず称せられるもののうちには、シナ沿岞の諞地方のシナ人が非垞に倚く混じおいたのである。これはシナの蚘録に明かに認められおいるずころであっお、単に掚枬に止たるのではない。それらによるず、今沿岞を荒らす海賊は、䞻ずしお倖囜人ず貿易する奞民であっお、真の倭倷はその䞭の十分の䞀に過ぎないずいう。或は、倭は十の䞉であっお、十の䞃は䞭囜の叛民であるずいう。或は、今の海寇、ややもすれば数䞇を蚈えるが、その䞭日本人は数千に過ぎず、他は浙江、犏建の諞地方の民であるずいう。しかもそれらのシナの海賊は、日本人を銖長ずし、日本颚の髷を結っおそれに埓っおいたずいう。その䞭には獠ず呌ばれる西南系の異民族なども加わっおいた。琉球の貿易船に叀くからアラビア人が乗り蟌んでいたこずを考え合わせるず、東アゞアの海䞊の冒険的な貿易商人たちの䞖界は、著しく囜際的な色圩を垯びおいたず芋られなくおはならぬ。シナの蚘録に名を留めおいる王盎の劂きは、九州の五島に移り䜏んで、そこから私貿易や海寇に出動しおいた。たた埐海なども日本人をひき぀れおシナ沿岞を荒らし廻っおいたのである。  こういう貿易商人の䞖界のなかぞポルトガル人が乗り蟌んで来たのであった。最初アルブケルケがマラッカに接觊したのは䞀五〇九幎であり、そこを攻撃し占領したのは䞀五䞀䞀幎である。その頃琉球の船は連幎マラッカに行っおいたが、右の占領埌はシャムずパタニのみで、マラッカぞは行っおいない。しかしポルトガル人は盎ちに東アゞアの海䞊の貿易商人の䞖界の探怜にずりかかった。船団を広東の沿岞に掟遣したのは䞀五䞀六幎で、その内の䞀隻は琉球探怜に向ったが、これは成功しなかった。その埌五六幎の間に䞉床に亘っお埌継の船団が広東附近に来たが、シナずの公匏の貿易の開始には成功しなかった。しかしポルトガルの貿易商人が、シナ船や日本船に乗っお東アゞアの海䞊の貿易の䞖界に入り蟌んで来るこずは、さほどの困難なく出来たらしい。䞀五四〇幎には、蚱䞀束蚱二楠蚱䞉棟蚱四梓などの日本人がポルトガル人を぀れお広東に来り貿易したずいわれおいる。䞀五四二幎にポルトガル人がシナ船で皮子島に挂着したずいうこずも、右のような情勢の䞋にあっおは、圓然起り埗るこずだったのである。䞀五四五幎の頃、倧分に来たシナ船の䞭には、六䞃人のポルトガル商人が乗っおいた、ず倧友矩鎮が語っおいる。䞀五四八幎にシャビ゚ルがむンドから本囜に送った手玙には「長らく日本にいた䞀ポルトガル商人」の蚘したものずしお、アルバレズの日本に関する蚘事を封入しおいる。これらは僅かな蚌拠ではあるが、その背埌に東アゞアの海䞊の囜際的な䞖界の存圚を瀺しおいるのである。  こういう情勢を県䞭に眮いお考えるず、シャビ゚ルに垰䟝しお有名ずなったダゞロヌ或はアンゞロヌのような人物が出たこずは、少しも奇異な珟象ではないのである。圌はポルトガル人の貿易に関係した富商なのであろうが、人を殺しお囜倖に逃げようずしたずきに、アルバレズに頌っおマラッカぞ行った。そういう特殊な境遇のためにもしろずにかく日本人がマラッカずシナの間を挂浪しお歩くこずが出来たずいうこず、たたそういう挂浪の意図を持ち埗たずいうこずは、圓時の九州人の䞖界がマラッカたで拡がっおいたずいうこずの蚌拠である。これはポルトガル人の刺戟によっお起ったこずではなく、それに先立ち、自発的に日本人自身の䞭から起ったこずであった。シャビ゚ルの日本垃教の決意は、ダゞロヌに逢ったこずによっお固められたずいわれおいる。その点からいえば、日本人の刺戟がシャビ゚ルをマラッカから日本たで誘い寄せたのである。即ちポルトガルの東ぞ向う運動がマラッカぞたで届く間に、日本の倖に向う運動もマラッカぞたでは届いおいたのである。  しかしそれらの運動の著しい性栌の盞違は認めざるを埗ない。䞡者がいずれも貿易の関心によっお動いおいた点には倉りはないが、しかしポルトガル人の運動の筋がねずなっおいたのは航海者ヘンリ王子の粟神であった。そこには無限探求の粟神ず公共的な䌁業の粟神ずが結び぀いおいた。しかるに日本人の運動は「あぶれ者」の粟神によっお貫かれ、無限探求ず公共性ずのいずれをも欠いおいた。埓っおシャビ゚ルを誘匕したダゞロヌが文字通りに「あぶれ者」であったこずは、たこずに象城的であるずいわなくおはならない。西からマラッカたで来た勢力は、ペヌロッパ近䞖の芖圏拡倧運動の尖端ずしおの性栌を持っおいた。しかるに東からマラッカたで行った勢力は、日本人の公共的な蚘憶に残らず、たた日本人の探究心に寄䞎するこずのないものであった。この盞違はかなり重倧である。圓時の日本人の知的玠質は、むンドのゎアでダゞロヌが教垫トルレスを驚かせたほどに優秀であったが、しかしそれが幞犏な発展をなし埗なかった所以は、すでにこの盞違のうちに予瀺せられおいたずいわなくおはならない。 二 土䞀揆  土䞀揆ず呌ばれおいる民衆運動が、倧きい瀟䌚的珟象ずしおはっきり珟われお来たのは、正長氞享の頃、即ち䞀四二八幎頃からである。これはペヌロッパでは、航海者ヘンリ王子がアフリカ西海岞のボハドル岬をただどうしおも突砎するこずができないでいた時分で、ペヌロッパ人の芖圏も䞭䞖的な限界を超えおはいなかった。しかるにそのペヌロッパでも、同じ頃に同じように民衆運動が起っおいたのである。ドむツで蟲民の暎動や蟲民戊争などが起ったのは、十六䞖玀の初めであっお、䞀䞖玀近く埌のこずであるが、しかしフランスでゞャッケリの乱ず呌ばれる蟲民䞀揆が起り、むギリスでりィクリフの仲間の運動に匕き぀づきワット・タむラヌのひきいる䞀揆がロンドンを占領したりなどしたのは、十四䞖玀の末で、半䞖玀ほど先立っおいる。䞀䞉五〇幎頃のペストの倧流行の埌には、䞀般に瀟䌚的動揺があり、䞭䞖の瀟䌚組織の厩壊の気運ず盞俟っお、このような蟲民䞀揆を頻発せしめたのであるが、その同じ珟象が、盞互の間に䜕の連絡もない日本においおも、起っお来たのである。  しかしこの䞀揆運動は、正長氞享の頃に民衆の間から突然起っお来た、ずいうわけではなかった。倭寇は、蚘録の瀺すずころでは、䞀䞉五〇幎から突劂ずしお始たっおいるが、しかしその前の十数幎は建歊䞭興の倱敗に匕き぀づいた囜内混乱の時期であり、そうしおその混乱は䞀䞉五〇幎以埌にも続いおいる。そういう混乱を制埡しようずする努力のなかから、倧きく浮び䞊っお来たのが、本来の意味における「䞀揆」の珟象なのである。埌には土䞀揆の盛行のために、民衆の䞀揆が䞀揆の名を独占するに至ったが、もずは字矩通り軌を䞀぀にするこず、即ち倚くの人々が団結しお心を䞀぀にするこずであっお、盞争う歊士団䜓の間の団結の必芁から自芚されお来たのであった。これは或る意味では宀町時代の囜内統䞀の原理を瀺すものずいえる。鎌倉時代の囜内の統䞀は、歊士の䞻埓関係を党囜的に拡倧し、数倚くの歊士団䜓を将軍ず家人ずの䞻埓関係の框に入れるこずによっお実珟されおいたのであるが、鎌倉幕府の打倒によっおこの玐垯が解き攟されるず、あずには個々の歊士団䜓のみが残り、それを統䞀すべき原理が䞀時なくなったのである。建歊䞭興は歊士団䜓の存しなかった昔の囜家統䞀を再興しようずしたのであるが、しかし鎌倉幕府を倒しおも個々の歊士団䜓は消滅せず、たたそれを解䜓せしめる力はどこにもなかったのであるから、この詊みは短期間にしお倱敗に終った。そこでこれらの歊士団䜓を統制しお囜内の統䞀を回埩する力は、実力のほかにはないこずになる。しかしそういう倧きい実力を持った歊士団䜓はどこにもなかった。珟実的な䞻埓関係を以お固く団結し埗る歊士団䜓の倧きさは、通䟋五癟階䜍のものであったらしい。だから右のような実力は、倚くの歊士団䜓を聯合団結せしめるずころにのみ珟われ埗たのである。それは政治的手腕の問題であった。そうしおそういう手腕を持ったものが将軍になり、たた有力な倧名になった。結局、宀町幕府の統制力は、有力な倧名たちの聯合団結の䞊に、即ち倧名の䞀揆の䞊に、立぀こずになったのである。これが䞀揆の必芁を自芚せしめるに至った時代の倧勢であるずいっおよい。しかしこのような統䞀の原理は、同時にたた争闘の原理ずもなり埗るのであっお、真に統䞀を実珟するこずは出来なかった。䞀揆のみが匷い実力を発揮し埗るずいうこずになれば、察抗する勢力は互に䞀揆を䌁おるこずになる。分裂が䞀揆によっお促進される。応仁の乱は倧名の䞀揆衆の察立によっお惹起されたために、遂に収拟すべからざる混乱を珟出したのである。  が右のように団結の力が自芚されおくるず、それはただに歊士団䜓の間の関係においおのみならず、䞀぀の団䜓の内郚においおも働らくようになる。幕府にあっおは、将軍の暩力は倧名の䞀揆の前に無力ずなった。宀町幕府が最も有力であった足利矩満の時代にさえも、矩満は諞倧名の䞀揆になやんでいる。矩政に至っおは殆んど無力も同様である。ずころでその倧名の暩力も、家臣の䞀揆の前には同じように無力である。矩政の時代には、斯波、畠山、现川の䞉管領の劂き、皆老臣の暩力に圧せられ、それに基く内蚌になやんでいるが、他の倧名たちも倧同小異であった。ずころでたた、その家臣たちの暩力も、民衆の䞀揆の前には無力たらざるを埗ない。少数である歊士たちは、いかに歊術に長けおいおも、倚数の民衆の団結の力を圧倒するこずは出来なかったのである。  このこずを民衆が自芚するに至ったのは、いろいろの機瞁によるでもあろうが、蒙叀人来襲によっおひき起された戊術の倉化は、その䞭の有力なものであったらしい。鎌倉時代の暩力の基瀎ずなった歊士団䜓の歊力は、関東平野に淵源する階銬戊術の䞊に立぀ものであるが、蒙叀軍は九州に䞊陞したずき、歩兵の密集郚隊を巧みに䜿っお階銬戊術を無効ならしめた。そこでこの埌足軜による密集郚隊が線制せられるようになったのである。この足軜、即ち軜装の歩兵は、階銬の術や匓矢の術に熟達しおいなくずもよい。楯ず槍ず、あずはその密集隊圢が物をいうのである。埓っおそれは容易に蟲民のなかから組織するこずができた。そうなるず、䞀぀の軍隊の䞻力は、専門の階士から蟲民の方ぞ移るこずになる。民衆は団結しさえすれば歊士を恐れるには及ばないのである。  そういう民衆の気勢が、遂に正長氞享の土䞀揆ずしお爆発したのであった。その火を぀けたのは、䞀四二八幎の八月に近江で起った銬借運送業者の䞀揆である。それは応ち山城、倧和、河内の各地に蔓延し、翌幎には、播磚の土民蜂起を初めずしお、䞹波、摂接、䌊勢、䌊賀などの諞囜にも起った。さらに䞀四䞉二幎には、薩日隅の䞉囜に「土䞀揆の囜䞀揆」が起り、島接の兵ず戊った。倧和では土䞀揆が奈良に乱入し、寺瀟諞院の幎貢の免陀に成功した。その翌幎あたりでも、近江の銬借土䞀揆は、䞊京の途にあった信濃の守護の兵ず戊っおこれを撃退しおいる。  これらの土䞀揆は、必ずしも支配階玚を倒そうずする運動ではなかった。倚くは埳政を暙抜しお、酒屋・土倉・寺院等圓時の金融業者を襲撃し、借銭の砎棄、売買の取消し、質物の掠奪などを行ったのである。これは、シナの銅銭の茞入による貚幣経枈の発展に䌎い、金持の出珟、高利貞の盛行を芋るに至った結果、経枈的な䞍平等ぞの反抗運動ずしお起ったのであった。しかし歊士たちが金融業者を保護しお鎮圧に乗り出しおくるず、民衆はおのずから歊士たちず戊うこずになる。そこで土䞀揆は政治的な色圩を垯び、明かに反支配階玚的な性栌を持ちはじめた。播磚の土䞀揆の劂きは、守護赀束満祐の兵ず戊っおこれに克ち、歊士の囜倖攟逐を宣蚀したず䌝えられおいる。䌊勢山田の土䞀揆の劂きも、神人ず戊っお民家数癟戞を焌き、神人が倖宮に逃げ蟌むに぀れお神宮の境内に䟵入するこずをも憚らなかった。その他土䞀揆が歊士ず戊っお屈服しなかった䟋は決しお少くない。民衆はその団結の力によっお支配階玚に察抗し埗るこずを自芚したのである。  しかしこの時の土䞀揆は、数幎に亘っお諞囜に蔓延しはしたが、なお私埳政であっお、政治的な成功を達成するたでには至らなかった。しかるに䞀四四䞀幎に起った嘉吉の土䞀揆は、京郜を占領し、宀町幕府をしお埳政什を発垃せしめるに至っおいる。この土䞀揆も初めはたず近江に起った。そこでは半囜守護たる六角満綱を匷芁しおその領内に埳政什を発垃せしめたのであるが、それだけでは治たらず、応ちに京郜呚蟺の諞地方に䌝播し、東は坂本䞉井寺あたり、南は鳥矜、竹田、䌏芋、西は嵯峚、埡宀、北は賀茂などの民衆が、䞀斉に蜂起した。そうしおそれぞれの地方から、千人或は二䞉千人の集団が京郜に攻め入り、町の倖郭にある壮麗な仏寺や神瀟を占領した。その陣営は十六カ所に及んだずいわれる。東寺もその䞀぀であったが、そこから代衚が出お来お、幕府ずの亀枉をはじめた。埳政什を発垃せよ、もしこの芁求が容れられなければ、䌜藍に攟火する、ずいうのであった。幕府の䟍所京極持枅は、その歊力を以おしおは、劂䜕ずもするこずが出来なかった。管領畠山持之は、掛倖にある土倉、即ち金融業者の資産を掛䞭に移させようず詊みたが、そのため反っお民衆の憀激を煜った。京郜を包囲した䞀揆の連䞭は、京郜ぞ物資を運び蟌む䞃぀の口を塞いで、垂民の糧道を絶っおいる。幕府も遂に屈しお、土民の埳政什を発垃するず云い出したが、䞀揆の民衆はそれに同意しなかった。目䞋債務に苊しんでいるのは、土民よりもむしろ公家や歊家である。土民の埳政什ではこの瀟䌚悪を陀くこずはできない。土民以倖にも公家歊家等䞀切の人々に適甚せられる埳政什を発垃しお貰いたい。これが圌らの芁求であった。幕府はこの芁求にも埓わざるを埗なかった。かくお幕府は、土民の京郜進撃以来二週間にしお、「䞀囜平均の沙汰」を觊れ出すに至ったのである。  この土民の京郜包囲は明かに統制せられた民衆運動である。民衆の団結は遂に幕府を屈服せしめ、民衆の意志を法什の圢に衚珟するこずに成功した。圓時の民衆が䜕を目ざしおいたかは右の「平均」ずいう蚀葉によっおも明瞭に瀺されおいるが、ほが䞀カ月の埌に埳政条々ずしお発垃された埳政の现目を芋るず、売買・貞借・質入等の契玄は、広汎な範囲に亘っお無効を宣せられおいる。これは貚幣経枈による富の蓄積が挞く著しくなっお来た圓時の経枈界にずっおは、容易ならぬ倧事件であった。こうなるず土䞀揆はもはや単なる暎動ではない。民衆は集団の力によっお倧きい政治力を発揮し始めたのである。  埳政の䌝統は、鎌倉時代以来、債務砎棄を䞭栞的な内容ずしおいた。だから土䞀揆の運動は、その初期においおは、䞻ずしお土倉酒屋の劂き「金持」を攻撃の目暙ずし、必ずしも歊士の支配を芆えそうずしたのではなかった。しかし䞀床集団の力によっお政治力を発揮し始めるず、民衆は歊士階玚の支配に反抗するこずをも蟞せなくなった。既に初期においおも、前掲の劂く、播磚の土民䞀揆は歊士の囜倖攟逐を暙抜しお居り、薩日隅の土䞀揆は囜䞀揆ずしお島接ず戊っおいるが、その埌、応仁の乱によっお歊士階玚の分裂が暎露されおくるず共に、土䞀揆は著しく政治的団䜓ずしおの性栌を垯び、歊士階玚に察しお己れを䞻匵するようになった。「囜䞀揆」ずいう蚀葉はこの政治的な性栌を云い珟わしおいるのである。そういう䞀揆の代衚的な䟋は、䞀四八五幎の末に起った山城の囜䞀揆であろう。この運動の動機ずなったのは、畠山氏の継嗣問題に絡んだ被官人の間の戊争が山城で行われ、そのために民衆の生掻にさたざたの䞍法を加えたこずであった。民衆は歊士の私闘のために瀟䌚の秩序の乱されるこずを怒り、秩序の防衛のために立ち䞊ったのである。そこで、山城の囜䞭の民衆、十五六歳から六十歳たでの者の䌚議を催おし、䞀䞡畠山氏の軍隊の撀退、二寺瀟本所領の還附、䞉新関の䞀切撀廃、の䞉カ条の芁求を決議した。この芁求は明かに歊士の暩力に察する制限であっお、民衆の債務砎棄のような利益の䞻匵ではない。民衆はこれらの芁求を歊士たちに提瀺し、もし肯かれなければ攻撃を加えるず宣蚀した。圓時の蚘録はこの結束した民衆のこずを「囜衆」或は「囜人」などず呌んでいる。「歊家衆」はこの囜衆の反抗に敵し兌ねお芁求に同意し山城の囜から撀退した。そこで民衆は民兵を以お囜内を譊備し、行政機関を悉く自分たちの手に収めた。そうしお二䞉カ月埌に再び宇治の平等院に䌚議を開き、囜䞭の法制掟法を議定した。その結果、総囜月行事二名が遞出され、その名においお寺瀟本所領などが凊理されるに至っおいる。これは明かに山城䞀囜の民衆の自治である。宀町幕府の管領たる畠山政長も、幕府の䟍所所叞で山城囜守護を兌ねおいた赀束政則も、面目を倱しおその職を去らざるを埗なかった。幕府は䞀四八䞃幎十䞀月に至っお挞く政所執事の䌊勢貞宗を山城囜の守護に任じたが、囜人がそれを承認したのは曎に五六幎の埌である。もし囜人の間に分裂が起らなかったならば、自治政府はもっず氞続したであろう。  このほかにも、「守護はなく癟姓持に仕りたる囜」ずいわれおいる玀䌊の囜や、河内、倧和などにも、同じような珟象があった。がこれらの囜䞀揆に比べるず、宗教䞀揆の方が䞀局持続的であった。䞭でも加賀の䞀向宗䞀揆の劂きは、守護を倒しお加賀䞀囜の自治をはじめお以来、半䞖玀に亘っお分裂を起すこずなく続いた。そうしおその埌にも、本願寺の領囜ずなったのであっお、歊士の手に奪い還されたのではなかった。同じく民衆の団結でありながらこのように宗教䞀揆の方が匷固であったのは、同じ頃にペヌロッパにおいお宗教改革に聯関する民衆の運動が極めお匷靱な力を持っおいたこずず察比しお、非垞に興味深く感ぜられる。特に䞀向䞀揆に関しおは、ちょうどこの時代に蓮劂䞊人が地方の信者の間に「組織」を怍え぀けお歩いたこずを考え合わせなくおはならぬ。圌の垃教の著しい特城は、信心談合のための講の組織や寄合などを奚励し、蟲民の間に緊密な粟神共同䜓を育成したこずであった。それによっお人々は、掻溌に話し合うずいうこず、埓っお䌚議によっお党䜓的な意志を結成するこずなどを孊んだ。その蓮劂が越前吉厎に垃教の根拠地を䜜ったのは、応仁の乱䞭の䞀四䞃䞀幎であるが、教団は急激に加越地方に蔓延しお行っお、十数幎の埌には右にいったような䞀揆を起し埗るに至ったのである。それは前述の山城の囜䞀揆よりも䞉幎埌の䞀四八八幎であった。䞀揆の指導者は民衆の䞭の有力者ず䞀向宗の僧䟶ずであった。民衆の組織は教団の組織ず平行しお䜜られ、郡や組村がそれぞれ寄合を持った。この自治的統制は郜合よく運び、やがお越䞭や胜登をも合同せしめお、匷力な自治団䜓を圢成したのである。民兵による戊闘力も十分歊士に察抗し埗たのであっお、越埌の長尟の軍にはしばしば勝ち、越前の朝倉に察しおも絶えず圧迫を加えおいた。  以䞊は民衆の䞀揆の代衚的な䟋であるが、それほどに成功しなかった地方においおも、䞀揆運動は民衆の間に「組織」をもたらした。もっずもそれは䞀揆運動のみによったのではないであろう。戊囜時代の領䞻たちが、領内の治安維持のために地瞁団䜓を利甚したずいう事情もあるであろう。しかしその䞻導的な力が䞀揆団結の動きの䞭にあったこずは疑いがない。かくしおわが囜の十五・六䞖玀の䞀般民衆は、盞圓に確乎ずした自治組織を持ったものになっおいたのである。  この組織の䟋を䞭倮の京郜にずっお芋よう。そこでは「組町」の組織が発達しおいた。個々の町も勿論䞀぀の団䜓であるが、かかる町が十数カ町盞寄っお䞀぀の「組」を圢成し、曎にかかる組ず組ずの間に芪町枝町ずいう劂き統制関係を䜜るのである。組に属する町は各〻その代衚者ずしお「幎寄行事」を遞挙する。そうしおそれらの町が月毎に亀替しお「行事町」ずなり、行事町の幎寄行事が組党䜓の行政を行うのである。この執政者が組町の「月行事」ず呌ばれた。しかし倧事を決する堎合には「寄合」の決議によらなくおはならない。「評定」「惣談合」などず呌ばれたのがそれである。  このような「組」の組織は、倚少の差違があるにしおも、「組郷」「組村」の組織ずしお地方にも珟われた。ここでも単䜍ずなる村はそれ自身䞀぀の団䜓である。村の事件は寄合の談合においお「倚分」に付いお決せられる。即ち倚数決である。その寄合に出垭するのは村民の矩務であった。「寄合ふれ觊二床に䞍出者、五十文可為咎者也」などずいう眰則もあった。このような村のいく぀かが集たっお「組」を圢成し、その組ず組ずの間に芪村枝村の関係を䜜るこずは、京郜の組町の堎合ず同様である。埓っお組郷組村の勢力は、加賀の囜の堎合ほど倧きくはなかったにしおも、江戞時代の町村のそれのように小さいものではなかった。  以䞊の劂き組織が十五・六䞖玀の日本に䞀般に圢成されおいたのである。それらの自治団結は、各〻の成員が連垯責任を負う緊密な団䜓ずしお行動し、時には他ずの戊闘をも蟞せなかった。かかる組織の最も奜く発達しおいた䟋ずしおは、堺の町を挙げるこずができるであろう。ここには殆んどペヌロッパの自由垂に近いような自治的な独立郜垂が圢成せられおいた。ただ異なるずころは、ペヌロッパの郜垂がギリシアのポリスの䌝統や暡範を背負っおいたのに察し、ここではそういう歎史的背景がなく、埓っおこの新らしい圢成の意矩が十分に自芚せられなかったこずである。  この盞違は、しかし、近䞖の開始にずっお極めお重倧な意矩を担っおいる。それは展開するに埓っおたすたす倧きい盞違に成育しお行くものであった。  土民の䞀揆、及びそこから生み出されお来た民衆の組織や民衆の力の自芚は、鎌倉幕府以来の封建的遺制を䞀応芆滅させるこずができたのである。既に応仁の乱の初めに、尋尊倧僧正は、土民ず䟍ずの間の階玚の差別が倱われたこずを嘆いおいるが、その倧勢はたすたす抌し進められ、その埌䞀䞖玀足らずの間に、鎌倉時代の名ある歊家は殆んど悉く没萜しおしたった。源氏の流れを汲む名家だけを拟っお芋おも、足利氏及びその䞀族たる畠山、现川、斯波、吉良、仁朚、今川、䞀色、枋川の諞氏、新田氏の䞀族たる山名、里芋の䞡氏、䜐々朚氏の埌裔たる六角、京極、尌子の諞氏、皆そうである。名家ずしおの䌝統、䞻家ずしおの暩嚁が人々を服埓させた時代は、もう過ぎ去っおしたった。歊士の䞻埓関係を原理ずする組織が厩壊したのである。民衆の力は解攟された。貧しい蟲倫の子でも、組織の力、統率の力さえあれば、最高の支配者になるこずができる。物をいうのはただ実力である。ここにもし「民衆の支配」の䌝統や理想が存しおいたならば、そういう実力を持ったものは、先ず䜕よりも民衆の名においお、即ち蟲民の統率者ずか商人の指導者ずかずしお、仕事をしたであろう。しかしここにはそういう歎史的䌝統はなかった。だから実力の競争においお民衆の䞭から出お来た力は、土䞀揆や海倖貿易の方面に珟われるずずもに、たた歊力を以お他を圧倒しようずする新興の歊士団ずしおも珟われたのである。戊囜時代の矀雄ず呌ばれおいるものには、このような新らしい歊士団の統率者が倚い。それらはむタリアのルネッサンスを特城づけおいるコンドチェヌレや僭䞻などず極めおよく性栌の䌌たものであるずいえるであろう。  右の劂き実力の競争は、結局、新興歊士団の勝利、新らしい歊士階玚の圢成を以お終るのであるが、しかしその新らしい支配階玚が䞋から、民衆の䞭から、出おきたものであるこずを忘れおはならぬ。この時代は矀雄割拠時代ず呌ばれ、新興の歊士団ず歊士団ずの間の戊争のみが行われおいたかのように語られおいるが、しかし歊士団ず土䞀揆ずの間の抗争も決しお少くはなく、そうしおその土䞀揆もたた次の時代の支配者を生み出す地盀ずなっおいるのである。少しく倧胆に云い切るならば、この時代の矀雄をそれぞれ英雄たらしめたものは、たさに土䞀揆にほかならなかった。民衆の団結を力によっお圧倒するか、或は政治的な才胜によっお懐柔するか、いずれにしおも民衆に嘆矎の情を起させるほどの卓抜な業瞟をあげるこずによっお、初めお人は「英雄」になるこずができた。このような英雄は圚来の倧名ず同じものではない。倧名はその家柄の暩嚁によっお家臣を統率しおはいたが、領囜の民衆をたで把握しおはいなかった。今や家柄の暩嚁が消滅し、ただ民衆の把握のみが物をいう時代ずなったのである。  このこずを代衚的に瀺しおいるのは、十六䞖玀の䞭頃、シャビ゚ルの枡来の前埌に掻躍しおいた歊田信玄ず䞊杉謙信ずであろう。この二人が英雄ずしお人口に膟炙したのは、もっず埌の時代のこずでもあろうが、しかし初めから非垞な人気を埗おいたからこそそうなったのである。信玄は䜕よりも先ず卓越した政治家であっお、領内の民衆の心を巧みに掎んでいた。のみならず圓時の宗教䞀揆の動向に泚目し、倖亀的にこれず連絡するこずを怠らなかった。謙信もたたその道矩心の匷い人栌によっお民心を埗おいたのみならず、加越胜の䞀向䞀揆ずの迫り合いによっお鍛えられた人である。圌の父は䞀揆の軍ずの戊いにおいお敗死した。圌自身も初めは同じように敗北した。そうしおそれに打ち勝ち、䞀揆の軍の東進の力を阻止し埗たずき、圌の卓越した力が認められたのである。甲陜軍鑑の蚘すずころによるず、圌は最初䞀揆の集団を型通りの軍隊の劂く取扱っお本栌的に取組んだ。しかるに䞀揆の軍隊の行動は奇想倩倖であっお、どうにも防ぐこずが出来なかった。この敗因に気づいた圌は、次の幎の戊に、味方の郚隊に察しおおんでに気儘勝手の行動を蚱した。この策が圓っお倧勝を博したのであるずいう。これは史実であるかどうか解らないが、しかし圌が䞀揆の集団に察しお研究的な態床を取り、その䞊に出ようず努力しおいたこずは認めおよいであろう。  矀雄割拠時代を終結せしめた織田信長にずっおも、最も手剛い敵は䞀向䞀揆であった。圌がどうしおも打ち克぀こずのできなかった敵は、ただ摂接石山の本願寺だけである。圌は宗教䞀揆の力の恐るべきこずを知り、いろいろな手を打った。叀来のいかなる歊将もなし埗なかった叡山の焌打ち、党山僧埒の鏖殺を敢行したのも圌である。䌊勢長島の䞀向䞀揆を蚎䌐したずきには、二䞇人の門埒を鏖殺した。この過激な手段は、他の倚くの䞀揆衆を慄え䞊らせるために、即ち恐怖によっお将来の抵抗を断぀ために、取られたのであるかも知れぬ。しかしこのような、日本では珍らしい残虐な態床にたで歊士を抌し぀めるほど、䞀向䞀揆は匷かったのである。それを十分に経隓した信長は、解攟された民衆の力を決しお軜芖しはしなかった。䞀向䞀揆は圌に敵察するが故に克服しようず努めたが、他面においお民衆ず結び぀く努力は怠っおいない。皇居の修理や䌊勢神宮の倖護なども、党囜の民衆の感情に蚎えようずしたものず芋られるが、特に安土の城䞋町の経営には、この態床がはっきりず珟われおいる。圌はこの町を座の特暩から解攟しお「楜垂楜座」ずし、埳政の廃棄を保蚌した。これは民衆の自由競争を蚱し、それによっお埗た私有財産を保護する、ずいうこずの宣蚀である。解攟された民衆の力はここに制床的な衚珟を埗た。䞭䞖の厩壊、近䞖の開始ず極めおよく䌌た珟象がここに芋られるのである。  信長はこの仕事を成し遂げずに死んだが、それを受け぀いで完成したのは秀吉である。倧郜垂倧坂の急激な繁栄や、豪華な桃山時代の文化を芋るず、鬱積しおいた民衆の力が䞀時に爆発したずいうような印象をうける。しかもこの華々しい文化創造を宰領した秀吉は、䞀介の蟲倫の子から出発しお関癜にたで成り䞊った人ずしお、民衆の力の解攟を䞀身に具珟しおいる。このこずが圓時の民衆にどれほど喜ばしい印象を䞎えたかは、京阪地方における豊倪門厇拝の根匷さを芋れば解るであろう。  がこのように民衆の力の解攟が頂点に達したずきに、突劂ずしお解攟の運動はせき止められたのである。なるほど秀吉は新興の歊士団の勝利を完党に仕䞊げた。圌のみならず、倚くの蟲村出の青幎が、今や倧名ずなり囜䞻ずなっおいる。しかしそれらの歊士たちによっお回埩せられた瀟䌚の秩序を、持続的な秩序たらしめるためには、もう䞋から湧き䞊る力に攪乱されおは困るのである。民衆の力の解攟は、少くずも政治的に圱響のある範囲においおは、打ち切らなくおはならぬ。そこで秀吉が考えたのは、歊士以倖の民衆や宗埒の歊装解陀であった。手初めずしおは、䞀五八五幎に高野山の歊装解陀をやったが、遂に䞀五八八幎に有名な「刀狩」を断行し、癟姓町人から䞀切の歊噚を取り䞊げた。そうしお歊装解陀せられた民衆に察しおは、その職分に釘づけにするずいう政策が打ち立おられた。歊士が癟姓町人ずなるこずも、癟姓が商人に転ずるこずも、犁止せられた。これは封建的な身分制床の基瀎工事である。  この歊装解陀や身分釘づけの凊眮は、勿論歊力の嚁圧の䞋に匷制的に行われたのであるが、その手段ずしお甚いられたのは他ならぬ民衆の自治組織そのものであった。長期に亘り民衆は団結によっおその力を発揮しお来たのであるが、今やその団結が民衆を匱める歊噚ずしお甚いられはじめた。ずいうのは、秀吉は、刀狩、怜地、転業の犁などを励行するに圓っお、違犯者に察する刑眰の連垯性を以お臚んだのである。䞀人でも違犯者を出せば、「䞀郷も二郷も悉くなで切り」が行われる。団結の範囲が広ければ広いほど、「なで切り」に逢う危険が倚い。人々は出来るだけ団結を小さくしお、盞互の譊戒の県を届かせるこずにより、この危険を防がなくおはならぬ。かくお曜おは歊士階玚ぞの反抗の手段であった民衆の団結が、歊士階玚ぞの隷属の手段、歊士の支配を匷化する譊察力に転化した。やがお䞀五九䞃幎には、蟻斬・掏摞・盗賊等の取締ずいう玔粋に譊察的な目的を以お、䟍は五人組、䞋人は十人組の組合を䜜り、組䞭の犯人は組合から告発せしめるずいう制床を䜜るに至った。これが江戞時代における五人組制床の起りで、土䞀揆以来の民衆の団結運動は、その最小限の芏暡にたで抌し戻されたのである。蟲民の䞀揆、商人の海倖貿易、新興の歊士団ずいう䞉぀の勢力の競争は、ここで歊士団の完党な勝利に終った。  家康は右のような秀吉の政策を継承しお封建的な身分制床を確立した人であるが、この人の䞀生を通芳するず、最も重倧な運呜の岐れ目は、䞀五六䞉幎、二十二歳の時に起った参河の䞀向宗の土呂䞀揆であったず思われる。この時には家臣の半ばが䞀揆方に぀いた。代々束平郷で田を䜜りながら埮力な䞻君を守り぀づけおきたこの小さい歊士団の団結も、いよいよここで䞀揆の力の前に厩壊するかに芋えた。埌に江戞幕府初期の有力な政治家ずしお掻躍した本倚䜐枡守なども、この時は䞀揆方に加わっおいたのである。それに察しお若い家康は、久しく今川の質ずなっおいお、近幎やっず岡厎に垰ったばかりで、家臣たちずの銎染も薄かった。倧勢の䞀揆衆に加えお家臣の半ばが敵方であっお芋れば、勝敗の数は既に定たっおいるずいっおよい。しかるにいよいよその決算をやる段になるず、䞍思議な珟象が起っお来た。厩れかけた軍のなかから若い䞻君の家康が危険を物ずもせずに突進しおくるず、䞀揆方の歊士たちは、その䞻君にそむいた連䞭でありながら、どうも身がすくむようで手出しが出来ないのである。だからその䞻君を蚎取るのはやさしいが、誰も向っお行こうずしないで避けおしたう。結局その日の勝負はきたらないこずになる。幟床䌚戊しお芋おも、あの若い䞻君の姿が珟われおくるず、同じように駄目にされお結着が぀かない。そういう状態が半幎䜍も続いお、だんだん䞀揆方の気持が腐っお来た。そこを芋お仲裁に入るものがあり、結局、責任者を凊眰しないずいうような条件で䞀揆は降服した。その際本倚䜐枡守などは䞀向䞀揆の本堎の加賀ぞ逐電しおしたった。家康の蚱ぞ垰参したのは、十八幎埌、光秀のクヌデタヌのどさくさの際である。がこの土呂䞀揆の詊煉によっお、束平郷の䞻埓関係の䌝統が、圓時流行の䞀揆の力よりも匷いこずが蚌明された。これが家康の運の開け初めである。圓時の矀雄のなかでこの叀颚な䞻埓関係の䌝統を家康ほど確実に握っおいるものはなかった。そうしお、実力の競争においお結局歊士団が勝利を占めたずなるず、その歊士団のなかでは䞻埓関係の筋金を持ったものが最も底力のあるものずしお光っおくる。江戞時代の党囜的な倧名の組織は、束平郷の䞻埓関係を芁石ずしたものである。この前埌の聯関を考えるず、家康ずいう人物が十四䞖玀以来二䞖玀に亘る民衆運動に止めを刺す圹割を以お珟われお来たのであるずいうこず、その創めた江戞幕府の政策が民衆抑圧においお極めお培底したものであったずいうこずは、非垞に理解し易くなるず思う。土䞀揆が日本の歎史においお出来るだけ軜芖されお来たのも、この政策の反映であろう。 第二章 シャビ゚ルの枡来 䞀 ダゞロヌずの邂逅  シャビ゚ルが日本に来たのは䞀五四九幎、䞉奜長慶が京郜を占領し、その家臣束氞久秀に庶政を委せた幎である。足利の将軍や叀い管領の家はもう消滅するばかりになっおいた。それに反しお東の方ではすでに小田原の北条氏が関東平野の経略を完成しようずしお居り、歊田信玄ず䞊杉謙信ずの察峙の圢勢もほが出来䞊っおいる。西の方では毛利元就が小さい地頭の家から起っお䞭囜地方最倧の領䞻ずなるずいう経歎の最埌の段階に達しおいた。時に信長は十六歳、秀吉は十四歳、家康は八歳であっお、いずれもただ舞台にのがっおはいないが、これらの人々の䞀生の間に、日本民族の運呜に぀いおの倧きい岐れ路が螏み越されお行くのである。鹿児島に珟われたシャビ゚ルの姿にはすでにこの倧きい運呜的意矩が具珟しおいる。それは圓時の日本人の県には映らなかったし、シャビ゚ル自身にも理解されおはいなかった。しかし今のわれわれにずっおは、芋たいず思っおも芋ないわけに行かない明かな事実なのである。  江戞時代以来、日本の十六䞖玀の歎史ずしお蚘されおいるずころだけを読んでいるず、キリシタンの運動はいかにも䞀時的な、挿話的なものに芋える。その歎史のなかにキリシタンの運動が根をおろしおいた土壌に぀いおの把握がほずんどないからである。その土壌の䞻なるものは、日本人の参䞎しおいた東アゞアの海䞊亀通、埓っお博倚、山口、堺、兵庫などのような繁華な町々を出珟せしめた貿易商人の掻動、及び土䞀揆や宗教䞀揆ずしお衚珟せられた民衆の掻動である。これらの歎史的珟象は、江戞幕府の政策によっお、歎史的意矩なきもの、或は䞀歩を進めお歎史的に有害なものずしお取扱われたように芋える。その結果ずしおこれらの珟象をわざず無芖した歎史が出来䞊ったのである。それらの史料はキリシタン史料のように故意に湮滅させられたのではないであろうが、しかし右のような取扱いはおのずからにしお湮滅に近い効果をあげたのであろう。埓っお珟圚においおは、倖囜に残存したキリシタン史料の方が、民衆運動に぀いおの囜内の史料よりも反っお豊富な䜍である。この事情もたた日本人自身のキリシタンの運動を埌代の日本人が著しく「異囜的」なものずしお感じた理由になっおいるず思われる。  われわれはその土壌に県を぀けお、十六䞖玀の日本のキリシタンの運動が日本人自身の䜓隓に属するこずを理解しなくおはならぬ。それによっお犁教や鎖囜の事実がいかに深くわれわれの運呜に関䞎しおいるかも十分に䌚埗されるに至るであろう。  シャビ゚ルに日本䌝道の意図を起させたのは鹿児島人ダゞロヌ或はアンゞロヌである。圌はマラッカでシャビ゚ルに逢ったのであるが、どうにかポルトガル語で話し合うこずも出来、圌の偎からシャビ゚ルに傟倒するずずもに、シャビ゚ルもたた圌から非垞によい印象を受けた。そこでシャビ゚ルはこの䞀人の日本人を通じお日本民族に察する匷い信頌ず垌望ずを抱くに至った。その意味でダゞロヌは十六䞖玀の日本人の代衚者、日本民族の尖端の圹目を぀ずめたのである。しかし日本の歎史はこの重倧な圹目を぀ずめたダゞロヌに぀いお䜕䞀぀蚘録しおいない。われわれはこの興味深い遭遇の話をただシャビ゚ルの曞簡䞀五四八幎䞀月二十日附コチン発やダゞロヌの曞簡䞀五四八幎十䞀月二十九日附ロヌマ・ダ゜䌚宛などによっお知るのみである。ずころでそういう遭遇の起り埗た背景ずしおは、圓時の東アゞア海䞊における掻溌な亀通、貿易商人の頻繁な埀来があげられなくおはならぬ。右にあげたダゞロヌの曞簡によるず、圌は日本で䜕かの理由によっお人を殺し、遁れお寺にかくれおいた。その時貿易のために同地に来たポルトガル人の船があった。その䞭に前からの銎染のアルバロ・バスずいう人がいお、圌の事情をきき、倖囜ぞ逃げる気はないかずきいたので、圌はそうしたいず答えた。するずバスは、自分はただ貿易の仕事がすたずここに留たるが、同じ海岞の他の枯にドン・フェルナンドずいう歊士がいるから、それに玹介しようず云った。そこで圌はその玹介状を携え、倜䞭に出奔しおその枯ぞ行った。そうしおポルトガル人に逢っおドン・フェルナンドだろうず思っお玹介状を枡したのが、別の船の船長ゞョルゞ・アルバレズであった。アルバレズは圌を芪切にもおなし船にのせおくれた。航海䞭いろいろキリシタンのこずを教え、たたシャビ゚ルの生掻や行いに぀いおも話しお聞かせたので、圌は非垞にシャビ゚ルに逢いたくなり、たた掗瀌を受けたいずいう気持をも起した。しかしマラッカに着いお芋るず、シャビ゚ルは同地に居らず、同地にいた叞祭は圌に掗瀌を授けるこずを拒んだ。圌がすでに結婚しおいたこず、やがおたた日本に垰りその劻ず同棲する意志のあるこずなどが、劚げずなったのである。そのうち日本に向っお航海のできる颚の季節になったので、圌はシナ行の船に乗り蟌み、シナからは他の船で日本に垰るこずにした。ずころが、シナで日本行の船に乗りかえお日本の海岞ぞ二十里ほどの凊ぞ達したずき、ひどい暎颚に逢っお抌し戻され、シナの枯ぞ垰らざるを埗なかった。そうなっお芋るずたたキリシタンずなり信仰を埗たいずいう垌望が働き出しおくる。日本ぞ垰るか、再びマラッカぞ行くか、ず迷っおいたずきに、ちょうど日本から垰っお来おいたアルバロ・バスに逢った。バスはこの奇遇に驚き、ロヌレン゜・ボテリペずいう人ず共に、その船でマラッカぞ匕き返すこずをすすめた。今床行けばシャビ゚ルはもうマラッカぞ垰っお来おいるであろうし、たたやがお神父の䞀人がダゞロヌず共に日本ぞ行くこずになるであろうず蚀った。これをきいおダゞロヌは喜んでマラッカぞ匕き返した。マラッカではたたアルバレズに逢い、遂にシャビ゚ルの蚱ぞ連れお行っおもらった。ちょうど聖母の䌚堂で結婚匏が行われおいるずころであった。アルバレズは圌のこずをシャビ゚ルに詳しく玹介した。シャビ゚ルはダゞロヌを抱いお非垞に喜んだ。ダゞロヌもシャビ゚ルに逢っお心から感激し、この人に仕えお生涯離れたいず思った。ダゞロヌは少しくポルトガル語が出来たので、シャビ゚ルは圌をゎアに送っお教育するこずにした。ダゞロヌがゎアに着いたのは䞀五四八幎䞉月の初めで、掗瀌を受けサンタ・フェのパりロずいう教名を埗たのは五月の初め、ポルトガル語でこの長い曞簡を認めたのは十䞀月の末である。僅か六カ月ほどの間に圌はポルトガル語の読み曞きを芚え、マタむ䌝を党郚暗蚘しおしたった。たたマタむ䌝の芁点を日本文で曞いた。ダゞロヌはこれら䞀切のこずを神の恩寵ずしお感謝し぀぀、ロペラたちのダ゜䌚にあおお報告したのである。  このダゞロヌの報告によっお芋るず、圌は殺人埌の逐電の堎面を日本の囜内にではなくマラッカたでの東アゞアの海䞊に求めたのである。われわれはこのこずが圓時の九州沿岞の人々にずっおさほど珍らしいこずでもなかった、ずいう点を理解しお眮かなくおはならぬ。ポルトガル商人を乗せた船が九州沿岞ぞ盛んに来始めたのは、䞀五四二幎のポルトガル人皮子島挂着以埌のこずではあろうが、ダゞロヌをシャビ゚ルに玹介したアルバレズの日本に関する報告曞によるず、䞀五四六幎頃には、ポルトガル船は鹿児島、山川、坊の接など十五カ所䜍の枯に出入しおいた。そういう枯にはポルトガル商人の盞手になっお貿易を営む商人たちがいた筈であり、たたその商人たちは倚少ポルトガル語を解し埗るようになっおいた筈である。それらの商人は堺や博倚あたりで倧きい瀟䌚的存圚ずなっおいた貿易商ず同じ意味で貿易商であったわけではない。たた自ら船に乗っお冒険的に海倖ぞ抌し出しお行ったわけでもない。むしろ九州沿岞の諞枯に普通に芋られる富商であったのであろう。ダゞロヌも恐らく鹿児島の町のそういう富商の䞀人であったず思われる。圌が鹿児島ぞ入枯したアルバロ・バスを前から知っおいたずいうこず、ポルトガル語を少しく解したずいうこず、逐電の際に䞀人の匟ず䞀人の僕を連れおいたずいうこず、などがその蚌拠である。そういうダゞロヌにずっおは、京倧坂の方面ぞ逐電するよりも、むしろマラッカぞ行く方が気安かったかも知れない。しかし圌は殺人の結果鹿児島にいられなくなっお倖ぞさすらい出たのであっお、探求心に煜られ、倖ぞの衝動によっお出お行ったのではない。だからマラッカぞ行っおもすぐにたた日本ぞ垰りたくなったのである。その圌をシャビ゚ルに近づけたのは党くの偶然であった。日本近海で四日四晩吹き荒れた暎颚であった。ずころで、探求心に煜られ倖ぞの衝動によっお動いおいたポルトガル人は、この偶然を単なる偶然に終らしめなかった。圌らはこの鹿児島の䞀富商を捉えるず共に、この䞀人の日本人を隅から隅たで探玢し、そこに日本民族を、日本の文化を、芋出そうずしたのである。シャビ゚ルは日本を目ざす前にすでにそういう仕方で日本に関する予備知識や日本人に接近する方法などを獲埗しおいたのであった。  シャビ゚ルはダゞロヌを通じお日本人が道理に支配せられる民族であるこず、宗教や孊問に察しお匷い関心を抱く民族であるこずを知った。ダゞロヌがそう語ったのみならず、ダゞロヌやその匟、その僕などがそのこずを実蚌した。特にダゞロヌの知的胜力はシャビ゚ルたちを驚嘆せしめた。マタむ䌝を短期間に芚えおしたったずいうこずは、盎接圌を指導したトルレスの蚌蚀しおいるずころである。そういう点から日本人を非垞に高く評䟡したシャビ゚ルは、日本こそキリスト教の匘垃すべき土地であるず確信し、どんな危険を冒しおでも日本に行こうず決心した。日本行の劚げになるのは、シナの諞枯が皆ポルトガル人に叛いたずいうこず、たたシナ海日本海の颚波が䞖界䞭で最も激烈であるずいうこず、曎にこの方面に海賊が非垞に倚いずいうこずである。しかしこのダ゜䌚の闘士にずっおは、死の危険こそ最も倧きい䌑息であった。颚波や海賊などは、神の力の前には䜕でもない。信仰あるものにずっおは、そういう危険は恐れるに足りない。だから圌はダゞロヌに逢っお以来着々ずしお日本行の準備を敎えたのである。特に圌が熱心に知ろうずしたのは日本の宗教事情であるが、ダゞロヌは倩竺の教がシナ及び日本に匘たっおいるこずを知っおいるだけで、その経兞の蚀語を理解する力なく、埓っおその教矩にも通じおいないこずを告癜した。だからシャビ゚ルは日本に匘たっおいる宗教を知るずいうこずを日本に着いおからの第䞀の課題ずしお初めからねらっおいたのである。次にシャビ゚ルが努力したのは、キリスト教の綱芁を日本語で曞くこずであった。シャビ゚ルの日本枡来たでにダゞロヌが、シャビ゚ルの定めた教理問答の抜曞や、簡単な教矩綱芁や、マタむ䌝の抂芁などを、日本文で認めおいたこずは確かである。だからシャビ゚ルは鹿児島に぀いお即座に䌝道を始めるこずが出来たのであった。この研究的な態床や甚意呚到な準備こそ、西から迫っお来たペヌロッパの尖端が、マラッカたで出迎えた日本民族の尖端よりも、遙かに優越な力を持っおいた䞻芁な理由である。  シャビ゚ルが日本に枡来した圓時の状況は、圌が鹿児島で曞いた有名な曞簡に詳かであるが、圌がこの鹿児島に䞀幎近くも留たっおいたのは、右にあげた第䞀の課題を解き、䌝道の準備を曎に䞀局完成するためでもあったであろう。このこずを県䞭に眮いお圌の鹿児島曞簡を読むず、圌の烈しい䌝道の情熱の裏に劂䜕に着実な研究的粟神が動いおいたかをたざたざず感ずるこずができるのである。 二 鹿児島におけるシャビ゚ル  シャビ゚ルの日本枡来の䞀行は党郚で八人であった。ダ゜䌚士ではコスメ・デ・トルレスずゞョアン・フェルナンデス、これはいずれもスペむン人である。それに日本人ダゞロヌ、その匟、その僕。ほかは埓僕のむンド人ずシナ人ずであった。圓時バスコ・ダ・ガマの子ペドロ・ダ・シルバがマラッカの長官をやっおいたが、いろいろシャビ゚ルのために配慮し、日本ぞ盎航しようずいうシナ船を芋぀けおくれた。乗船したのは䞀五四九幎六月二十四日であった。出航埌倩気も颚も奜かったのであるが、船頭は卜いによっお航海のやり方をきめるので、途䞭で考が倉っお、シナの枯で越冬しようず考え出した。広東に぀いた時、いよいよその枯に留たろうずし始めたが、これはシャビ゚ルの䞀行の反察や嚁嚇でやめさせた。次で順颚に乗っお数日航海した埌に、チンチェりの枯ぞ着き、そこで越冬しようず䌁らんだが、䞁床出枯しお来た船から枯内に海賊がいるこずを聞いお急いで倖掋ぞ出た。颚は日本ぞ向っお吹いおいた。そこで船頭らはやむなく日本に向い、八月十五日鹿児島ぞ安着したのである。  シャビ゚ルたちはダゞロヌの身内のものその他から非垞な愛情を以お迎えられた。やがおその歓迎は䞀般的になり、鹿児島の町の長官、その地方の領䞻、䞀般民衆なども圌らに奜意ず芪切を瀺した。ポルトガルの神父が圌らにはひどく珍らしかったのである。しかしダゞロヌがキリシタンになったこずには圌らは䞀向驚かず、むしろそれに敬意を払った。芪戚のものなどはダゞロヌがむンドのような珍らしい所を芋お来たこずを非垞に喜んでいた。やがおこの囜の領䞻の島接氏も圌を欟埅するに至った。圓時島接氏は鹿児島から五里の䌊集院にいたが、圌を呌び寄せおポルトガル人の習俗や囜情、むンドの所領などに぀いおいろいろ質問し、圌の説明に満足したようであった。その時ダゞロヌは聖母マリアの画像を持っお行っお芋せた。領䞻はこれを芋お非垞に喜び、その前に跪いお瀌拝した。領䞻の母堂もこれを芋お非垞に心をひかれたず芋え、ダゞロヌが鹿児島のシャビ゚ルの蚱ぞ垰っお来おから数日埌に、䜿者を寄越しお同じ画像の補䜜を䟝頌し、たたキリスト教の教矩を曞面に認めお送っお貰いたいず云っお来た。画像は材料がなくお䜜れなかったが、教矩の方はダゞロヌが数日かかっお曞いた。これは九月䞭頃のこずであったらしい。やがお九月二十九日には、領䞻がシャビ゚ルたちに䌚った。領䞻は圌らを欟埅し、キリシタンの教を蚘した曞籍を倧切にせよず云ったずいう。その数日埌に領䞻は、臣䞋䞀同に察しお、自由にキリシタンずなっお奜いずいう蚱可を䞎えた。  こうしお䌝道の滑り出しは非垞に順調に行った。しかし蚀葉の関係から、圓時の䌝道の䞻圹はダゞロヌであった。圌は芪戚や友人を集めお昌倜説教し、おのれの母・劻・嚘、芪戚の男女、友人たちなど倚数の人をキリシタンにした。町の人はキリシタンずなるこずを䞀向怪したなかった。人々は読み曞きが出来るので、祈りの蚀葉を盎ちに芚えおしたう。そういう情勢のなかにシャビ゚ルはたるで圫像のようにしおいた。人々がシャビ゚ルたちのこずをいろいろず云いはやしおいるのに、シャビ゚ルたちは䜕も解らず黙っおいたのである。しかしシャビ゚ルの心の䞭には、日本語さえ出来ればどんどん信者が埗られるずいう匷い垌望が動いおいた。だから圌は小児のようになっお日本語を孊び取ろうずした。このこずは鹿児島滞圚䞭に盞圓の皋床に実珟されたらしい。特にむルマンのフェルナンデスは、よほど語孊の才のあった人ず芋え、非垞に迅速に日本語を芚えたずいわれおいる。それず共にたたシャビ゚ルは、日本で読み曞きの出来る人が倚いずいう点に着目しお、熱心に教矩曞の䜜補を䌁おた。日本語を孊び始めおから四十日の間に、先ず十誡の解説を䜜った。次でその幎の冬の間に日本語で信仰箇条の詳しい解釈を䜜り、それを印刷しようず考えた。シャビ゚ルがポルトガル語で曞き、ダゞロヌがそれに忠実に飜蚳するのである。この䌁おも圌が鹿児島にいるうちに実珟されたらしい。これは盞圓に倧きい著述で、倩地創造からキリストの出珟、苊難、最埌の審刀たでを説き、曎に仏教排撃に説き及んでいたずいわれる。この蚳は、ダゞロヌの無孊のために倱敗の䜜に終ったが、しかしそれでも埌の教矩曞の基瀎にはなったのである。  このように䌝道は最初のうちダゞロヌの力を必芁ずしたのであるが、しかしその頃にもすでに日本に関する研究は熱心にすすめられおいた。日本語は出来なくおも盎接の芳察によっおいろいろなこずが解ったし、たたダゞロヌを介しおダゞロヌの知らないいろいろなこずを聞き出すこずも出来た。シャビ゚ルが日本から出した最初の曞簡は、鹿児島到着から八十䜙日埌の十䞀月五日の日附を持ったものであるが、それには次のような日本芳察が蚘されおいる。  たず第䞀は日本の䞀般的な印象である。シャビ゚ルが鹿児島で埗た第䞀印象は非垞に奜かった。圌はいう、自分が今たで亀際した人たちは、新らしく発芋された諞地方における最良のものである。異教埒の䞭には日本人よりも優れたものを芋出すこずは出来ないであろう、ず。圌が特に泚目したのは、日本人が名誉を重んずるこず、及び䞀般に善良であるこずであった。名誉は富よりも倧切にされおいる」。これはペヌロッパでは芋るこずのできない点である。日本の囜民は䞀般に貧しいのであるから、貧しいこずを恥ずは思わないのであるが、しかしそれにしおも、巚富を擁する商人が赀貧の歊士に察しお富貎なる者に察するず同じように尊敬の態床を取るずいうこずは党く珍らしい。赀貧の歊士はたずい巚額の財産を莈られおも商人の嚘ず結婚しようずはしない。歊士は名誉ある身分であり、その名誉を倱いたくないからである。歊士たちが領䞻に忠実に仕えるのも、刑眰に察する怖れからではなく、名誉を維持するがためであった。がこのように名誉を重んずるのは歊士に限ったこずではない。だから䞀般に日本人は、䟮蟱や軜蔑の蚀葉を決しお忍がうずはしない。日本人が賭博を行わないのも、名誉を傷぀けたくないからである。次に日本人は、䞀般に善良であっお、人づき合いが奜く、道理に適ったこずを喜ぶ。盗みの眪を憎むこずは、キリスト教囜ず吊ずを問わず、日本ほど甚だしい所はない。埓っお盗賊は少ない。眪悪を犯しおも、その非なる所以を説いお聞かせるず、道理を認めおやめる。だから䞀般民衆の間には、眪悪が少なく、道理が支配しおいる。キリスト教の神のこずを聞いおそれを理解し埗た時には、圌らは非垞に喜ぶのである。  第二は仏教の問題である。シャビ゚ルは枡来前から日本に流通しおいる倩竺䌝来の宗教を問題ずしおいたのであるが、鹿児島到着埌には盎ちに研究をはじめたらしい。圌は数人の仏僧に接近したが、特に圓時鹿児島で名声の高かったニンゞツ忍宀かずいう八十歳の高僧ず仲よくした。仏僧たちが圌を欟埅したこずは、圌自身「ニンゞツは驚くほど自分に芪しんだ」ず云っおいるのによっおも明かである。圌は、ポルトガルから六千里も距っおいるこの遠い日本ぞ、ただむ゚ス・キリストの犏音を説くためにのみやっお来た、ずその䜿呜を語り、たた霊魂の䞍滅の問題などをも論じお芋たらしい。しかしニンゞツたちは、この遠来の客の珍らしい話に驚くのみで、宗論にはあたり深入りしなかったらしい。だからここではただ宗教ずしおの衝突は起っおいないのである。しかしシャビ゚ルの方では、この接近によっお、「坊䞻」たちが俗人よりもひどい眪悪に陥っおいるこずを芋出した。道理に埓うずいう点でも、圌らは俗人ほど玠盎でないず解った。そこで先ずシャビ゚ルに起った問題は、これほど堕萜しおいる「坊䞻」たちが、䜕故に圌らよりも善良な俗人たちから倧きい尊敬を埗おいるか、ずいうこずであった。その答ずしお圌の頭に浮んだのは、仏僧の犁欲生掻であった。物資の乏しい日本では䞀般に甚だしい粗食が行われおいるが、特に僧䟶は、肉類も魚類も食せず、酒も飲たず、野菜ず果物ず米ずの食事を日に䞀回取るだけである。そのほか女ずの亀わりも厳栌に犁ぜられおいる。そういう制欲の生掻を営み぀぀、信仰に関する物語を説いお聞かせる。それが尊敬を埗る所以なのである。そういう「坊䞻」の数は日本には非垞に倚い。シャビ゚ルはここに匷敵を認め、宗論をはじめる前にすでに圌らからの迫害を芚悟した。もっずもその迫害は蚀葉による攻撃の圢をずるであろう。俗人が自発的に迫害を加えおくるずは考えられないが、しかし坊䞻の論難によっお煜動されれば、どうなるか解らない。だからそういう迫害によっお呜をおずす危険がないわけでもない。がどんな危険があろうずも、われわれはキリストの救いを説くこずをやめない、かくシャビ゚ルは、「驚くほど芪しく」しおくれるニンゞツを前にしお、すでに腹をきめおいたのであった。  第䞉は日本の囜情である。鹿児島ぞ来たシャビ゚ルが目ざしおいたのは、日本の銖府ミダコに行くこずであった。しかし圌が到着した時には颚が逆で、五カ月埌でなければ順颚が吹かないずいわれ、鹿児島に埅機したのである。そこで圌は、恐らく圌が関心を以お仏僧たちから聞いたであろうず思われる日本の囜情を蚘しおいる。ミダコは鹿児島から䞉癟里で、戞数は九䞇以䞊ある。そこに䞀぀の倧きい倧孊があっお、五぀の孊郚に分れおいる。これは五山のこずであろう。倖に坊䞻の䜏む寺が二癟䜙、犅宗の僧坊や尌院などもある。このミダコの倧孊の倖に、䞻芁な倧孊は五぀である。高野、根来、比叡山、倚歊峯などの倧孊は、ミダコの呚囲にあっお、おのおの䞉千五癟以䞊の孊生を有っおいるが、遠く離れた坂東にある倧孊は、日本の最も倧きい倧孊であっお、孊生も最も倚い。坂東は広い地方で、領䞻は六人であるが、その内の䞀人が統括しおいる。しかしその䞀人もミダコの日本囜王に服埓しおいるのである。なお以䞊の諞倧孊のほかに、日本囜䞭に倚数の小さい倧孊があるずいう。䞀五五䞀幎䞭にはこれらの諞倧孊にむ゚ス・キリストの教を匘める぀もりである。なお日本囜王はシナぞの安党通行蚌勘合を䞎えるこずが出来るので、それを埗お、シナぞ安心しお行けるように努力しよう。日本からシナぞ枡る船は非垞に倚い。この航海は十日乃至十二日である。  シャビ゚ルは以䞊の諞点を報道し、日本䌝道に぀いおの明るい芋透しを披瀝しおいる。日本はキリスト教を匘めるに最も適した地である。もし神が十幎の霢を䞎えられるならば、この地においお非垞に倧きなこずが出来るであろう。かくお圌は最初の曞簡においおすでに埌続宣教垫の掟遣準備を促しおいるのである。  シャビ゚ルはこの曞簡ず同時にマラッカの長官、バスコ・ダ・ガマの子、ドン・ペドロ・ダ・シルバにも曞簡を送っおいるが、その䞭で堺に商通を蚭眮すべきこずを勧誘しおいる。堺は日本の最も富裕な枯で、ミダコにも近い。そこに商通を蚭眮しおむンドず日本ずの貿易を開けば、長官や囜王の埗る利益は倧したものであろう。自分は日本囜王に説いおむンド総督ずの亀枉をはじめるよう努力する぀もりである、ず。このシャビ゚ルの蚀葉は、前述の勘合貿易のこずず共に、堺の貿易船ず関係の深かった鹿児島の枯の空気を反映しおいる。同じこずはたたシャビ゚ルの枡来に刺戟されお倚数の日本人がマラッカに枡ったこずにも芋られる。ダゞロヌが鹿児島でポルトガル人のこずを頻りに賞讃したので、それらの人たちの気が動いたのである。その䞭には坂東及びミダコの倧孊で孊んだ坊䞻二人もたじっおいた。これらの人たちの乗った船は、シャビ゚ルたちを鹿児島に届けたその同じ船であったかも知れぬ。  以䞊によっおわれわれは鹿児島滞圚の初期におけるシャビ゚ルたちの行動や心境をほが察知するこずが出来る。圌らは前途の芋透しに぀いお非垞に楜芳的であった。二幎の埌には日本党囜の諞倧孊においおキリスト教が説かれおいる筈であった。しかしそれは圌らが圓時の日本の政治的情勢に぀いお殆んど無知であったこずをも瀺すものであろう。䞉奜長慶を䞭心ずした京郜地方の戊乱の様子は、鹿児島でははっきり解らなかったかも知れない。埓っお仏僧たちもその点に぀いおの説明は出来なかったかも知れない。しかしずにかく党囜的な秩序が倱われおいお、日本囜王ずの盎接談刀などが思いもよらぬこずであったずいう事情は、鹿児島人には解っおいたであろう。シャビ゚ルたちは少しく日本語が解るようになるず共に、最初の予想を裏切るいろいろなこずに気づきはじめたらしい。五カ月埌にミダコぞの船を䞎えようず玄束しおいた島接氏は、ミダコが戊乱の巷である故にその静たるのを埅おず云い出した。鹿児島での䌝道も最初の予想ほどには䌞びなかった。これは鹿児島が、鎌倉時代以来の歊家の䌝統的な暩嚁を、この䞋剋䞊の時代においおも遂に芆滅させるこずのなかった皀有な地方であるこずず、䜕らか぀ながりがあるであろう。ダゞロヌに飜蚳させた教矩曞には仏教排撃の議論をも曞き蟌んだが、キリスト教の「神」を「倧日」ず蚳するようなダゞロヌの無孊の故に、反っお仏僧の嘲笑を買ったらしい。  そういう呚囲の事情から、遂に䞀幎埌の䞀五五〇幎九月に、シャビ゚ルたちは鹿児島を去っお平戞ぞ移った。平戞を遞んだのは、その二カ月ほど前にポルトガル船が䞀隻そこぞ入枯し、その機䌚にその地を蚪ねお有利なこずを芋お来たからである。鹿児島にはシャビ゚ルの信頌するダゞロヌを残したが、しかしこの䌝統の力の匷い土地にダゞロヌをひずりで残すこずは無理であった。数幎埌に圌は他の道に入り蟌んでしたったのである。 䞉 山口におけるシャビ゚ル  平戞ぞ移ったシャビ゚ルは、䞀カ月あたりの埌、䞀五五〇幎十月の末に、トルレスをその地に残し、フェルナンデスず日本人䞀人を぀れお、日本の囜情の芖察や䌝道の奜適地の探怜を目ざした旅にのがった。圓時の日本の物隒な情勢から芋お、そういう旅行がいかに危険であり困難であるかを圌ら自身も奜く知っおいたのであるが、そういう危険のなかぞたっしぐらに飛び蟌んで行くずころに、圓時のスペむン人の気質がよく珟われおいるずいっおよい。フェルナンデスはもうよほど日本語に熟達しおいたし、日本語で曞かれた教矩曞ももう出来䞊っおいたのであるから、䌝道はしようず思えば出来るし、行く先々に䌝手を求めるこずも䞍可胜ではなかったであろうが、しかしただ保護者もなく信者もなく、埓っおただ党然連絡のない地方ぞ、「探怜」の歩を進めお行くずいう態床は、明かに近䞖ペヌロッパの粟神の尖端たるこずを瀺しおいる。  しかし、それほどの芚悟にもかかわらず、この旅行の最倧の印象は、旅の艱難であった。第䞀にあげられるのは寒気ず降雪ずであっお、スペむン人にはよほどこたえたらしい。雪ず寒さのために脚が腫れ、その䞊道が悪くお滑る。荷物を負ったたた道に倒れたこずも床々ある。たた倚くの河を埒枉しなくおはならなかったし、履物のない時も少くなかった。寒さず飢ずのために殆んど死ぬほどに疲れ、雚に濡れそがたれお宿に着いおも、それを和らげるような䜕の蚭備もなかったこずもある。第二は人の䞎える䞍安である。海賊の倚い海の䞊では、しばしば人に芋぀からぬように船の䞭に隠れおいなくおはならなかった。たた盗賊の難を脱れるために身分ある人の銬䞁ずなっお、はぐれぬように駆けたこずもある。村や町に぀いお、埀来で子䟛らから石を投げ぀けられたこずもある。これらの艱難は党くシャビ゚ルの予想した以䞊のものであったらしい。  この時のシャビ゚ルの旅行は、博倚、山口を経お、瀬戞内海を船で堺に枡り、そこから京郜ぞ行っお十䞀日間留たり、たた西ぞ平戞たで垰っお来たのであるが、その間に四カ月かかった。博倚、山口、堺はいずれも海倖貿易によっお栄えたずころで、圓時の日本の郜垂発生の先駆ずなったものである。それらの町々が日本の重芁な地点であるこずは、圓時の䞖間では䞀般に認められおいたであろう。だからシャビ゚ルもたたこれらの町々に県を぀けたのであろうが、実地を螏査しおそういう新興の町こそ䌝道の奜適地であるこずを芋出したらしい。山口の町では䌝手を求めお領䞻の倧内矩隆に謁するこずが出来、領䞻の奜奇心に答えおいろいろの話をしたが、結局フェルナンデスに教矩曞を読たせ、日本の宗教や道埳の腐敗に察しお攻撃を加えるに至った。領䞻は悊ばなかった。シャビ゚ルたちは芚悟をきめ、翌日から街頭説教をはじめた。日本人が真の神を知らず偶像を瀌拝するこず、男色や間匕きの劂き䞍道埳に陥っおいるこずなどを指摘し、悔改めを迫ったのである。これはフェルナンデスが日本語で述べ、シャビ゚ルはそばで祈っおいたのであった。そういう説教を圌らは山口の町のあちこちでやった。収穫はあたりなかったようであるが、しかしシャビ゚ルにそういう行動を取らせるような䜕物かが山口の町にはあったのであろう。やがお圌らは海路を取っお堺に向ったが、海賊の甚心や盞客の䟮蟱などでいろいろ䞍愉快な思いをしおいるうちに、圌らに同情した䞀人の船客が、芪切にいたわっお堺の知人ぞの玹介状を曞いおくれた。堺に぀いおその人を蚪ねるず、この人もたた圌らを芪切にもおなしおその家に泊めおくれ、京郜ぞの旅路のこずをも心配しお、或る身分の高い歊士の䞀行に加えお貰うように骚を折っおくれた。そういう人のいる堺の町が䌝道の奜適地の䞀぀に加えられたこずも、圓然ずいっおよいであろう。しかし遙々ず目ざしお来たミダコは、䞉奜長慶が将軍を近江ぞ远い払ったあずであり、日本党囜の王である内裏は、いかにもみすがらしい有様であった。たたそれらに近づくすべもなかった。そこで早々に匕䞊げお垰路に぀いたのである。  しかしこの旅行の結果、日本の有力者に近づくには「進物」が必芁であるこず、䌝道を開始するにはミダコよりも山口の町の方が奜適であるこず、などが解った。博倚の貿易商を配䞋に眮いお、シナずの勘合貿易を独占しようず長い間努力しお来た倧内氏の城䞋町は、恐らく圓時の京郜よりも繁華であったろう。競争盞手の现川氏が䞉奜長慶に滅茶滅茶にせられ、䞊方が連幎戊乱に曝らされおいた圓時にあっおは、倧内氏の隆盛はその絶頂に達し、京郜の公卿その他の文化人にしお山口に移っおいたものも少くないのである。その倧内氏が䞀朝にしお芆滅せられ、山口の町が戊乱の巷になるであろうなどずは、シャビ゚ルには勿論思いも寄らぬこずであった。で平戞に匕き返したシャビ゚ルは、ポルトガルのむンド総督や叞教の公の曞簡ず、進物ずしお䞁子・時蚈、その他マラッカの長官から莈られた皮々の品物などを携え、フェルナンデス及び日本人二人を぀れお、海路山口に向った。それは䞀五五䞀幎の春であった。  山口ではシャビ゚ルは、公匏の曞簡ず倚くの進物ずを領䞻に呈するため、法服を぀けお公匏に謁芋した。領䞻は珍らしい品々を芋お非垞に喜び、垃教の蚱可を䞎えた。この町及び党領土においおデりスの教を説いおよい、それを信ずるこずは自由である、ずいう意味を曞き蚘した立札を街に立おさせたのである。たた宣教垫たちに害を加えないよう人民に呜什し、宣教垫たちの䜏居ずしお䞀぀の僧院を䞎えた。これは最初の山口蚪問の際ずはたるで異なった情勢であるが、それを導き出したのはシャビ゚ルの日本囜情芖察の結果なのである。  こうしお山口の町では、鹿児島の時ずは異なり、迅速に掻溌な䌝道が開始された。町の人たちは新らしい教を聞くために、或はさたざたの珍らしい話を聞くために、朝から晩たで詰めかけお来た。その質問はしばしば圌らが「難問」ず云い珟わしおいるように答え難いものであった。シャビ゚ル自身はこの質問攻めを、予期しなかった「迫害」だず云っおいる。日本人は時刻を問わず蚪ねお来お、倜䞭たでも質問を続ける。身分のある人はおのれの家に招いおいろいろなこずを聞こうずする。埓っお祈祷・黙想・思玢などに没頭の出来る暇がなくなっおしたう。粟神䞊の䌑逊をずる時さえもない。最初の間はミサを行うこずさえも出来ず、立お぀づけに質問に答えおいなくおはならなかった。こうしお、祈祷や食事睡眠などの時間さえも䞍足するずいうような状態が、シャビ゚ルの山口滞圚四五カ月の間続いた。この経隓によっお、シャビ゚ルは、日本人の質問に答えるためには孊問があっお匁論に巧みでなくおはならぬ、詭匁に察しおは即座にその矛盟を指摘し埗なくおはならぬ、ずロペラに報告しおいる䞀五五二幎䞀月二十九日コチン発。九月に山口ぞ呌び寄せられたトルレスはシャビ゚ルからこの情勢をきいたのであろう。同じようにこの質問攻めのこずを述べお、この地に来るべき宣教垫は、高尚な難かしい質問に答え埗るだけの孊問がなくおはならぬ、ずむンドぞ曞き送っおいる䞀五五䞀幎九月二十九日。これらの質問者のうちには勿論僧䟶もたじっおいたのであるが、しかし鋭い質問をするのは僧䟶のみではなかった。僧䟶に察しおは䞀般の人々は衚面に尊敬を珟わすが実は憎んでいる、ずトルレスは蚘しおいる。  右のような質問攻めの蚘述は、山口の民衆の探究心がこの熱烈なダ゜䌚の闘士たちを䞀時受身にならせたこずを瀺しおいるのである。それは䞀぀には日本語で説明するのがフェルナンデスのみであり、その拠り所がダゞロヌの飜蚳した教矩曞であるずいうこずにもよるであろう。だからこの山口䌝道の初期にシャビ゚ルが䞀人の若い琵琶法垫の心を捉えたこずは、埌の䌝道にずっお非垞に意矩が倧きいのである。この琵琶法垫は圓時二十五六歳で、肥前生れの男であったが、片県が少し芋えるだけの小さい跛足の䜓をひきずっお、この新興の郜䌚で、平家物語を匟奏し぀぀暮らしを立おおいた。匷い蚘憶力ず巧みな物語りの技術ずはすでに出来䞊っおいたのである。この知胜優れた青幎が、シャビ゚ルの䌝道の情熱から霊感をうけ、たっしぐらに圌のふずころに飛び蟌んで来た。掗瀌名はロレン゜ず呌ばれる。ダゞロヌがこれたで぀ずめおいた圹目はやがおこのロレン゜によっお担われるようになった。この埌四十幎の間に圌のあげた功瞟は非垞に倧きいのである。その間のキリシタン䌝道の目がしい事件のなかに、圌の力の加わらないものは殆んどないず云っおよい。  このロレン゜を含んだ山口の町の人々もたたシャビ゚ルたちに非垞に奜い印象を䞎えた。トルレスの前蚘の曞簡によるず、圌らは、日本人が䞖界䞭の䜕囜人よりもキリスト教の怍え぀けに適したものであるこずを、この地においおも認めたのである。日本人はスペむン人ず同様に、或はそれ以䞊に、道理に服するこずを知っおいる。たたどの囜民よりも匷く知識を求める。魂の救いや神ぞの奉仕をいかにすべきかに぀いお語り合うこずは、圌らにずっお非垞な喜びであった。新発芋の諞地方においお圌らほど烈しくこの喜びを瀺したものはない。そうしおその知慧は鋭敏で、理性に支配されおいる。だからキリスト教の神や救いのこずを教えるず、初めは匷い反感を持っおいたものでも、やがお飜然ず悟っお圌らの偶像や父母を忘れるようになる。しかも䞀床キリスト教に垰したものは、その堅実なるこず実に比類がない。すでに改宗したものはかなり倚数であるが、その倧郚分はどんな艱難にでも堪える芚悟が出来おいるようである。これがシャビ゚ルの山口を去る頃に出来おいた日本人に぀いおの芳察であった。  がこれはロレン゜をはじめ町人や歊士たちのこずである。そういう俗人たちは、瀌儀正しく、慈愛に富み、隣人を誹謗せず、䜕人をも嫉たない。しかし仏僧たちはそうではなかった。ダゞロヌの䞍十分な仏教の知識によっお仏教排撃の議論を組み立おおいたシャビ゚ルたちは、ここで手痛い反撃を受けざるを埗なかった。それを圌らは仏僧たちの党掟心や憎悪ずしお受取ったのである。この時圌らは、ロレン゜その他の改宗者から、やや詳しい仏教の教矩を教わったらしい。釈迊のこず、法華宗・䞀向宗・犅宗などの区別のこずも、圌らは挞く知り始めた。しかしそれはすべお圌らを論砎するためであった。シャビ゚ルの山口滞圚数カ月の間には、この方面に長足の進歩があり、仏教に察するキリスト教の盞違点が挞く鮮明に衚明されるに至った。  こうしお山口には五癟人ほどの信者が出来た。その䞭には歊士階玚に属するものが倚く、盞圓の身分の人もいた。山口の町が圓時の日本で最も進んだ郜䌚であったずいうこずは、そういうずころにも珟われおいるず思われる。  シャビ゚ルは䞀五五䞀幎の九月たでこの町にいたのである。  ずころでこの幎の八月に、バスコ・ダ・ガマの子ヅアルテ・ダ・ガマを船長ずするポルトガル船が、倧分の傍の日出の枯に入った。長途の航海の埌にはポルトガル人は神父を必芁ずするのであるが、それのみならずガマはシャビ゚ルの厇拝者であり、たたいろいろな蚈画をも持っおいたらしい。圌は豊埌の領䞻倧友矩鎮にすすめお、シャビ゚ルを府内倧分ぞ迎えさせた。シャビ゚ルは平戞からトルレスを呌んで、フェルナンデスず二人に山口の信者を守らせるこずにし、自分は日本人の信者䞉人ず共に九月䞭旬府内に向った。その䞉人の䞀人はダゞロヌの匟で、通匁の圹を぀ずめる。他の䞀人は鹿児島人で、前に京郜旅行に埓った男、あずの䞀人は山口での新らしい改宗者である。  シャビ゚ルがダ・ガマの船でむンドたで行っおくるずいうこずを、すでに山口で考えおいたのかどうかは明らかでない。トルレスを平戞から呌び寄せたずころを芋るず、盞圓長い留守を考えおいたずも芋える。が十月に倧分からの䜿が来お、このシャビ゚ルのむンド行きをはっきりず知ったトルレスも、やがお盎ぐにシャビ゚ルが日本ぞ匕返しおくるのを圓然のこずずしお語っおいる。恐らくシャビ゚ルは、東掋のこの方面においお日本囜民のみがキリスト教に向いおいるこず、埓っお日本のみがキリスト教の奜適の地であるこずを、盎接にむンドのダ゜䌚士たちに説き、倚くの優秀な宣教垫たちを日本ぞ連れお来ようず考えたのであろう。そのシャビ゚ルがむンドぞ垰っおからシナ䌝道の蚈画を立おたのは、䜕かこの埌の事情の倉化があったものず考えられる。しかしそれにしおも、山口での経隓がシナ䌝道の決意の有力な機瞁ずなったこずは、圌自身がロペラに宛おた曞簡䞀五五二幎䞀月二十九日コチン発によっおも察せられる。山口では圌を質問攻めにした日本人の知識は、結局シナ文字で曞かれたシナの曞籍に基いおいる。日本人はシナ語を理解するこずは出来ないが、しかしシナ文を読むこずは出来るのである。シナ文化は日本文化の母胎にほかならない。埓っおシナ人がキリスト教を奉じたずなるず、日本人はシナから䌝えた諞宗掟の謬芋を盎ちに捚おるようになるであろう。これが圌のシナに県を぀けた理由であった。しお芋れば、あの若い琵琶法垫などを通じお埗られた日本に぀いおの知芋は、非垞に圱響するずころの倧きいものであったずいわなくおはならない。  がそれらは埌のこずである。シャビ゚ルが去ったあずの山口は、さしずめどうなったであろうか。  山口に残ったトルレスやフェルナンデスの報告によるず、シャビ゚ルが出発したその日のうちに、山口の町の僧䟶たちが、非垞な勢でトルレスたちの䜏居の門から闖入し、トルレスたちやその蚀説に嘲笑をあびせお時を過したずいう。この出来事によっおトルレスたちは、圌らがいかにシャビ゚ルを怖れおいたかを知ったのであった。がそれだけにシャビ゚ルの出発はあずに残ったものには心配であった。僧䟶のうちでも犅宗のものは甚だ苊手で、その質問には答え難い。聖トマスやスコトゥスずいえども、それに満足に答えるこずは難しかろう。神の特別な恩寵なくしおは圌らを説砎するこずは出来ない。そうトルレスは感じた。しかし幞にも圌は、その特別の恩寵によっお、シャビ゚ル出発埌の八日か十日の間に、身分あるものや孊者などを混えお五十䜙人のキリシタンを䜜った。トルレスがフェルナンデスの通蚳によっおいろいろず質問に答えたずき、日本人たちは、この新らしい宣教垫もたた信頌しうるこずを知っお、倧倉穏やかになっお来たのである。  ずころが䞁床その頃に戊争の噂がはじたった。倧内氏の家臣陶隆房晎賢が倧内氏に叛いたのであった。そうなるず僧䟶や身分ある人たちはほずんど来なくなった。商人や婊人たちが少しは来たが、それらもキリシタンずなるには至らなかった。やがお叛軍は山口に迫っお来た。遂にトルレスらは、九月二十八日倪陰暊八月二十八日に至っお、所持品を隠し、逃支床をした。そうしおキリシタンの同情者である有力者カトンドノ加藀殿か。奉行内藀隆治だずする人もある。の邞に、もずダゞロヌの埓僕であった男を䜿にやっお、どうすればよいかを聞かせた。やがおその男は銳せ垰っお、取りあえず倧急ぎでその邞たで来いずいう先方の答を䌝えた。トルレスは盎ちにその邞に向ったが、途䞭で甲胄を぀けた兵士の郚隊にいく぀か行き逢った。兵士たちは、あの倩竺人が仏を眵ったからこんな戊争が起きたのだ、あい぀らを殺しおしたえ、远払っおしたえ、などず口々に蚀っお、トルレスらを慄え䞊らせた。邞に぀くずカトンドノは、䞀人の坊䞻を぀けお、トルレスらを圌の檀那寺に案内させた。その寺の僧も、圌らを悪魔芖し、圌らのためにこの䞍幞が起ったず考えおいる人で、寺に迎え入れるこずは喜ばなかったのであるが、檀那を怖れおか、或は案内の僧の頌み方が奜かったためか、結局圌らを寺の䞀宀にかくたった。ここで圌らは慄えながら二昌倜を過したのであるが、その二昌倜の間に歊士たちの家が倚く焌倱した。陶隆房の軍隊が山口を占領し、倧内矩隆は自殺したのである。トルレスらはカトンドノの倫人ず共にその邞に垰り、そこの䞉畳の茶宀に五日間朜䌏しおいた。町は火灜・掠奪・殺戮によっお混乱し、トルレスらの生呜も盞圓危険であったが、しかしどうにかしのぐこずが出来た。キリシタンずなったものには倧内氏の家臣が倚かったのであるが、その内には䞀人も死んだものはなく、最初に信者ずなったトメ・内田ずいう歊士も無事で、その埌圌らを守りかくたった。  こうしお山口の䌝道は、シャビ゚ルが山口を去っおから䞀カ月経たない内に、䞀頓挫を来たしたのである。しかし幞に陶隆房は、自ら山口の領䞻ずなろうずはせず、自殺した倧内矩隆の甥、倧友矩長を迎えお倧内氏を嗣がせようずした。倧友矩長は豊埌の領䞻の匟で、圓時府内にいた。そうしおその府内には䞁床その頃シャビ゚ルが行っおいたのである。 四 豊埌におけるシャビ゚ルず倧友矩鎮ずの接觊  シャビ゚ルの府内入城は非垞に華々しい儀容を以おなされた。すでに山口で領䞻に物々しい公匏の謁芋をやり、それによっお倧きい効果をあげたシャビ゚ルは今床は日出の枯のポルトガル船ず連合しお、前ずは比范にならないほど倧げさな儀容を匵るこずが出来たのである。それには船長ダ・ガマの偎にも倧いに力を入れる理由があったであろう。ペヌロッパの技術や儀容を展瀺しお新らしい土地の民衆に匷い印象を䞎えるずいうこずは、むンド以来ポルトガル人の垞套手段であった。だからシャビ゚ルが日出に着いた時には、船には旗を掲げ、祝砲を連発しお日本人を驚かせた。぀いで府内入城の日には、ダ・ガマ船長をはじめ倚くのポルトガル人たちが、華やかな盛装を぀け、埓僕を䌎い、法服に嚁容を敎えたシャビ゚ルを擁しお、静々ず行進を起したのである。䞀人は花鳥を描いた日傘をシャビ゚ルの䞊にかざしおいる。他の䞀人は被をかけた聖母の画像を捧げおいる。それに぀いで粟巧な䞊靎を䞀足捧げおいるものもある。行列の指揮者は金棒を曳いおいる。前の幎に領䞻になったばかりの若い倧友矩鎮宗麟も士卒を矅列し嚁容を匵っおこれを迎えた。城䞋の民衆は芋物に抌し寄せお来た。そういう華々しい姿で䌝道者シャビ゚ルは府内に入っお来たのである。城に入っおいよいよ垭に぀くずき、ポルトガル人の䞀人は非垞に高䟡な䞊衣をぬいで、その䞊にシャビ゚ルを請じ、列垭の歊士を驚かせたずいう。こういう行進や儀匏の際のペヌロッパ颚の動き方が、県に芋えるようである。  領䞻は䌝道の蚱可を䞎えた。シャビ゚ルは盎ぐに翌日から街頭に立っお䌝道をはじめた。ダゞロヌの匟が通匁であったが、シャビ゚ル自身も日本語で説教したかも知れぬ。最初の行列の印象で民衆の泚意を集めたあずであるから、効果は倧きく、間もなく五癟人の信者が出来たずいわれおいる。この圢勢に察しおここでも仏僧の反抗がはじたった。シャビ゚ルの攻撃的態床がそれを觊発したのであろう。仏僧たちはフカタゞ石仏で有名な深田寺かを先頭に立おお宗論を挑んだ。それは察立を深めるばかりであった。遂に領䞻に正匏の宗論を催おさせ、五日に亘っお察論させたずいわれる。ここでも日本人は、知識欲に富み、限りなく難問を提出する、ずいう同じ性栌を瀺したわけである。それをシャビ゚ルはダ゜䌚の闘士らしい気塊で圧倒しお行ったらしい。豊埌滞圚は僅かに二カ月䜙であったが、その間に圌は山口に劣らぬ有力な根拠地を築き䞊げたのである。  圓時二十二歳であった領䞻の倧友矩鎮は、初め信者にはならなかったが、しかしポルトガル人ずの貿易には非垞に熱心であった。だからシャビ゚ルを擁しお華々しい府内入城をやった船長ダ・ガマず、その府内の領䞻ずの間には共通の関心があったのである。シャビ゚ルもたたそれを利甚するこずを忘れなかった。圌はダ・ガマの船で䞀床むンドぞ匕き返し、日本垃教の蚈画を匷化しようず決意したのであるが、それず呌応するかのように、倧友矩鎮はポルトガル王やむンド総督に曞簡を送り、教垫掟遣を懇請しようずした。その曞簡や莈物を携えた䜿者を同じ船でむンドたで連れお行っお貰いたいず申出たのである。そこでシャビ゚ルは、この䜿者のほかに、山口から連れお来た䞉人の日本人及び山口から䜿いに来たもずのダゞロヌの埓僕、合せお五人の日本人を同行するこずにした。京郜ぞの旅に同行した鹿児島人ず山口での改宗者ずはポルトガルぞ留孊に送り、ダゞロヌの匟ず埓僕ずはむンドから日本ぞ来る新らしい宣教垫を案内するためであった。日本人にむンドやペヌロッパを芋せよう、或はペヌロッパ人に日本人を芋せよう、ずいう気持は、圌らの間にすでに流れおいたのである。  ダ・ガマの船はこの䞀行を乗せお䞀五五䞀幎十䞀月に日出の枯を出垆した。途䞭広東でサンタ・クルスずいう船に乗りかえたが、その船長ディ゚ゎ・ペレむラがシャビ゚ルにいろいろシナのこずを話したので、シャビ゚ルのシナ䌝道の気持が起ったずいわれおいる。マラッカでたた船をかえお、䞀行は翌幎の䞀月末にむンドに着いた。  日本人のポルトガル留孊もその埌実珟されたが、垰囜埌䌝道事業に倧いに圹立぀であろうずいうシャビ゚ルの期埅に反しお、惜しいこずに圌地で死んでしたった。  豊埌の倧友氏は叀い家柄で、矩鎮は頌朝時代以来十八代目ず称せられる。埓っおここでは叀い䌝統が盞圓に有力であった。その豊埌ぞ新らしい空気をもたらしたのは、圓時九州の諞倧名を動かしおいた海倖貿易であった。朝鮮の貿易にも叀くから参加しおいたし、シナずの勘合貿易に倧友船を出したこずもある。倭寇に出るものも少くなかった。埓っお豊埌の枯ぞシナ船の出入するこずなども珍らしくはなかった。埌幎に倧友矩鎮がフロむスに語ったずころによるず䞀五䞃八幎十月十六日附、臌杵発曞簡、圌が十六歳の時、即ち䞀五四五幎には、すでにポルトガルの商人もやっお来おいた。これはポルトガル人の皮子島挂着よりも二䞉幎の埌、シャビ゚ルの豊埌滞留よりは六幎ほど前のこずである。その時には、日出の枯ぞシナ人の小さいゞャンクが入枯し、その䞭に六䞃人のポルトガル商人が乗っおいた。その重立ったのはゞョルゞ・デ・ファリダずいう富人であった。ゞャンクのパむロットはシナ人であったが、矩鎮の父である領䞻矩鑑に、あのポルトガル人を殺せば手間なしで倧きい財産が手にはいる、ず蚀っおそそのかした。領䞻は欲に動かされおシナ人の献策を実行しようずした。それを聞いた十六歳の矩鎮は、父の所ぞ行っお、あの倖囜人は領䞻の保護の䞋に領内で貿易をしようずしお遠くから来たものである、それを眪もなく理由もないのにただ欲から出お殺すずいうこずは甚だよろしくない、自分は絶察に䞍同意である、自分は圌らを保護するであろう、ず説いお、その実行を喰いずめた。このこずを矩鎮はキリシタンずなる最初の因瞁ずしお語っおいるのであるが、確かにこの父子の間にはすでに芖圏の盞違が出来おいたのである。なおその埌にもヂペゎ・バズずいうポルトガル人が府内に来お五幎間滞圚し、日本語を話すほどになった。その男がどういう颚にしお矩鎮ず接觊したのかは解らぬが、ずにかく朝倕に聖曞を読み、数珠を持っお祈祷するその敬虔な態床は、非垞に匷い印象を矩鎮に䞎えた。僧䟶でもない単なる商人がこれほど熱心に勀行するずいうこずは、よほど霊顕のあらたかな神だからであろうず思えたのである。  こういう青幎時代を送った矩鎮が領䞻ずなる時には、いかにも戊囜時代らしい血腥いお家隒動があった。父の矩鑑が惣領の矩鎮をさし措き、埌添の劻の子を䞖継にしようずしたからである。それに迎合する家老の暩力が匷く、それを䞍可ずする正矩掟の家臣のうちには誅戮をうける者もあった。そこで正矩掟の家臣二人が奥ぞ切り蟌んで、矩鑑倫人、その子のみならず、矩鑑をも殺害した。矩鎮は圓時湯治のために別府ぞやられおいたが、急ぎ迎えられお跡を継いだのである。  シャビ゚ルが豊埌を蚪れ、山口では倧内矩隆が家老の陶隆房に殺される、ずいう事件が起ったのは、その翌幎であった。矩鎮の同母匟矩長を倧内氏の埌継ずしお迎える話がはじたったのは、シャビ゚ルがただ豊埌にいた間のこずらしい。矩鎮矩長兄匟の母芪は倧内矩隆の姉であるから、矩長は叔父のあずの盞続に呌ばれたわけである。この亀枉は公開的のものであっお、勿論シャビ゚ルの耳にも達したに盞違ない。圓時、山口の教䌚を日本唯䞀の教䌚ずしお残しお行こうずしおいたシャビ゚ルにずっおは、これは非垞に重倧な報道ずしお響いたであろう。兄の矩鎮は宣教垫掟遣の懇請状を公匏にむンド総督に向けお送ろうずしおいる。その匟が、山口の領䞻ずなっお、今危機に陥っおいる教䌚を保護し埗るかも知れないのである。その人物に぀いおもシャビ゚ルは恐らく盎接に知っおいたであろう。そうずなればこの際シャビ゚ルがその党力を぀くしたであろうこずは察するに難くない。矩長が山口の領䞻ずなったならば、極力キリシタンを保護するであろう、ずいう了解が、この時圌らの間に成立したずいうこずも、あり埗ぬこずではなかろう。  矩長の倧内氏盞続に぀いおは、倧友蚘に矩鎮の反察意芋ず矩長の承諟の理由ずが蚘されおいる。反察意芋はこうである。陶隆房は毛利元就を敵にしおいるが、隆房にはこの匷敵を防ぐ才芚はない。その隆房に擁せられお倧内氏を継いでも、元就がそれを承認せず、䞻家ずしお取扱わないならば、やがお毛利氏ず戊わなくおはならない。その際に勝぀芋蟌はない。やがお亡びる倧内氏を継ぐのは無分別である。この反察に察しお矩長は答えた。元就を恐れおこの跡目盞続を断わったず䞖人から嘲られるのは、堪え難く口惜しい。しかし元就ず䞀戊しお蚎死するこずは、むしろ名誉である、ず。この云い分は圓時の歊士の間には立掟なものずしお通った。そこで盞続の玄束が出来、シャビ゚ルの去った翌幎の晩春に、矩長は倧内氏を嗣いだのである。  この盞続の議論は、埌の経過を知っおいる者の考え方を反映しおいるようにも芋えるが、しかし圓時の䞋剋䞊の倧勢から芋お、矩鎮がこのような懞念を抱いたずいうこずは、あり埗ぬこずではあるたい。毛利元就は䞋から成り䞊るずいう倧勢を最もよく具珟した人の䞀人である。毛利氏が倧きい勢力を持぀に至った埌に曞かれた毛利蚘にも「毛利の家、昔幎代々有之ず云えども、元就以来の矩に候」ず曞かれおいる。その元就が、䞉十歳の時、安芞吉田「䞉千貫の所」を領しお以来、「談合」ず「結束」ずによっお䞉十幎の努力を続け、遂に倧内氏に属する諞将のうちの最も倧きい存圚にたで成長しおきたのである。特に倧内氏ず尌子氏ずの間の長期に亘る争芇は、元就の才幹を珟わすに恰奜の舞台であった。倧内氏の運呜が元就によっお支えられた堎合も少くない。䞖間はもうこの元就の実力を知っおいたのである。その際に、元就が䞻家ずする倧内氏の実暩は家臣の陶隆房に握られ、しかもその隆房が䞻君矩隆に叛いお、矩隆父子を自殺せしめるに至った。たずい隆房自身が領䞻ずならず、傀儡領䞻倧内矩長を擁立するずしおも、元就がその領䞻の暩嚁を認めず、䞻殺しの故を以お陶隆房を蚎䌐するであろうこずは、容易に芋通され埗たのである。矩長が毛利氏に圧倒せられるこずを予感し぀぀倧内氏を継いだずいうこずも、あり埗ぬこずではなかろうず思われる。  シャビ゚ルが日本に残しお行った教䌚はこのような政治的情勢の䞊にかかっおいた。そのような情勢はシャビ゚ルの県には十分明かではなかったであろう。圌は日本を去った埌にも、山口の教䌚がたすたす隆盛ずなるであろうこずを確信を以お語っおいる。山口の教䌚の最倧の危険はすでに過ぎた。倚数のキリシタンのうちには倧身のものもあり、トルレスやフェルナンデスを昌倜保護しおいる。そのフェルナンデスは日本語に䞊達しお、トルレスの説教の通蚳をやるこずが出来る。日本はキリスト教を怍え぀けるに非垞に適した土地である。この方面で新たに発芋された諞囜のうちでは、日本囜民のみがキリスト教を䌝えるのに適しおいる。かく圌は力匷く䞻匵しおいるのである。それから僅か九カ月埌に圌は広東附近の䞊川島で死んだのであるから、この確信は死ぬたで倉らなかったであろうず思われる。  山口の教䌚に関する限り、圌の予想は裏切られた。四五幎の埌に倧内氏に代っお山口を支配し始めた毛利氏は、海倖の広い䞖界ぞの関心も薄く、キリシタンぞの同情も持たなかった。埓っお山口の教䌚の隆昌は、僅か五六幎続いたに過ぎなかった。䌝道の流れは、この毛利氏の攻勢を防ぎ切るこずの出来た倧友矩鎮の領内ぞず移っお行った。その頃若い矩鎮は、戊争ず政治ず歓楜ずの荒々しい生掻のなかに沈湎しおいたのであるが、それでも海倖の広い䞖界ぞの関心やキリシタンぞの同情を持ち぀づけたのである。 第䞉章 シャビ゚ル枡来以埌の十幎間 䞀 トルレスず山口の教䌚  シャビ゚ルが日本を去っおむンドぞ垰り着いたのは䞀五五二幎の䞀月の末であるが、間もなく四月の䞭頃には、日本に向うむルマン、ペドロ・ダルカセノァずドワルテ・ダ・シルノァずを率い、むンドを出発した。船はシナ行の船で、船長はむンド総督のシナ掟遣倧䜿の資栌を兌ね、シャビ゚ル自身も神父バルテザル・ガゎず共にシナに行っお䌝道に埓事する決意を固めおいた。ずころがマラッカに着いおから故障が起り、船長の倧䜿は翌幎たでこの地に留たるこずになった。そこでシャビ゚ルは予定を倉曎しお、神父のガゎを日本行の䞀行に長老ずしお加わらせ、別の船を工面しお六月六日にシナに向っお出発させた。ガゎの䞀行はシナでたた日本行の船にのりかえ、八月二日出発、同十四日には曜おシャビ゚ルの滞圚しおいたタヌシュマ鹿児島かずいう島に぀いた。そこで領䞻の欟埅を受け、留たるこず八日、小船に乗っお豊埌に向った。䞭々難航であったが、九月䞃日無事に豊埌の府内に着いた。シャビ゚ルが日本を去っおから十カ月目である。  ガゎたちは到着の翌日領䞻倧友矩鎮を蚪ねおむンド総督からの莈物を捧げ、領䞻の欟埅を受けた。が䜕よりも必芁なのは、これからの䌝道蚈画の暹立である。圌らは山口の教䌚ず連絡を取ったが、山口からは日本語の䞊手なフェルナンデスを掟遣しお寄越した。そこでガゎは先ず領䞻を蚪ねおむンド総督からの䌝蚀を䌝え、぀いで宣教のために床々蚪ねお行っお、領䞻の前にこの䌝道蚈画の問題を持ち出した。殿はむンド総督に曞簡を送っおキリシタン宣教垫の枡来を促されたそうである。たた殿埡自身にもキリシタンの教を奉ずる意志があるず聞き及んでいる。埓っおわれらはこの教を説きたいのである。もしわれらが領内に留たるこずを欲せられるならば、キリシタンの䌝道を蚱可する旚垃告せられたい。もし今その決心が぀き兌ねるならば、われらは山口に行っお日本語を勉匷し、殿が招かれる時を埅ずう。取りあえず䞀応は山口ぞ行っお来たいが、もしわれらがこの囜ぞ垰っおくるよう望たれるならば、山口の神父にその旚を告げお、ここぞ垰っおくるこずにしよう。かくガゎは申出た。それに察しお矩鎮は答えた。山口には神父が居り、すでにキリシタンも出来おいるそうであるが、自分の領内にはキリシタンはいない。これは甚だ遺憟である。山口には神父トルレスがいるのだから、貎䞋たちはこの領内に留たっお䌝道しおほしい。その䞊自分はむンド総督ず床々通信したいのであるが、神父が領内にいないずそれが出来ない。だから領内に留たっおくれれば、䌝道の方は手助けをしよう。ガゎはこれを聞いお領䞻の奜意を謝し、さらに抌し返しお蚀った。圓地に留たるにしおも、叀参の神父トルレスからその呜什を受ける必芁がある。たた山口では領䞻の公匏の蚱可を埗お䌝道しおいるのであるから、圓地でもそういう公蚱を埗お、キリシタンずなろうずしおいる者の疑懌を陀きたい。この領内にもすでにキリシタンずなったものがある。垌望者は曎に倚数である。領䞻はこれに答えお、では望み通り即刻蚱可を䞎え、高札を立おさせよう、説教は自由にやっおよい、旅行は急ぐにも及ぶたいず蚀った。ガゎは先ずトルレスに逢いたいずいう切望をくり返しお述べ、䌝道蚱可の高札は山口から垰っお埌に立おお貰いたい、山口のず同じ圢匏にしたいから、ず申出た。  このように領䞻の矩鎮はガゎたちをひきずめようずし、ガゎたちは山口行を急いだのであるが、結局十月になっお先ずダルカセノァが山口に行き、数日遅れおシルノァもそのあずを远った。最埌にガゎずフェルナンデスずが山口に着いたのは、十二月の末、クリスマスの近づいた頃であった。  山口では前幎の内乱以埌も、烈しい迫害ず艱難ずのなかで、トルレスずフェルナンデスずが信者を守っおいた。やがお倧友矩長の倧内氏盞続の話もたずたり、晩春の頃には矩長が山口の領䞻ずなった。そうしおガゎの䞀行が豊埌に到着したずほが同じ頃に、山口の教䌚に察しお、有名な倧道寺建立の裁蚱状を䞎えた。この裁蚱状は䞀五五䞃幎にビレラがむンド及びペヌロッパのダ゜䌚に向けお送り、䞀五䞃〇幎にはすでに埩刻せられお広くペヌロッパ人の県にふれたものである。  この䞀幎の間に山口でトルレスのした仕事は決しお少くはなかった。シャビ゚ルが教化した若い琵琶法垫もこの間に著しく育った。平家物語を暗蚘し、それを感情に蚎えるように吟誊し埗たその才胜を以お、今やキリシタンの教を暗蚘し物語りをはじめたのである。その話術は甚だ巧みで、非垞にトルレスの助けになった。のみならず圌は思考の力においおも優れおいた。だからトルレスは、日本人ず立ち入った議論をしようず思うずきには、もずの琵琶法垫ロレン゜を呌んで代匁せしめた。そのほかにトルレスは䞀人の少幎ベルシペヌルを育お䞊げた。この少幎はポルトガル語を読むこずが出来、しばしばキリストの䞀代蚘を日本人に読み聞かせるずいう圹を぀ずめた。こうしお䞀幎皋の間にトルレスは千五癟人ほどの熱心なキリシタンを䜜っおいたのである。倧道寺建立の䌁おはこの盛り䞊る力の珟われであった。  そこぞ新らしく枡来したダルカセノァやシルノァが乗り蟌んで来たのであるが、この新来者の県を驚かせたのは、山口のキリシタンの熱心さであった。ペヌロッパでは䞀般人がすべおキリシタンであるから、キリシタンであるこずず宗教的な熱情を持぀こずずは必ずしも䞀぀ではない。しかるにこの地のキリシタンは、特に宗教に身を捧げようずする修道者のように熱心であった。新来の教垫たちに察しお芪切であるこずはダ゜䌚の兄匟むルマン以䞊である。人皮の違うポルトガル人をもキリシタンたるが故に本圓の兄匟のように思うずずもに、同じ日本人でもキリシタンでないもののこずを念頭に眮かない。吊、むしろそれらを憎んでいる。そうしおキリシタン同士は䞍自然ず思われるほどの匷い愛を以お亀わっおいる。少しでも信仰が匱たるず宣教垫のずころぞ来お治療を求める。誰の前でも昂然ずしおキリスト教の神のこずを語り、キリスト教に垰䟝しないものを攻撃し、その県の前で仏像を壊したりなどする。そういう颚であるから、この地の信者が日曜日毎に宣教垫のもずに集たっお、ミサに列し、説教を聞く様子は、ほかの異教囜に斌ける堎合ずは甚だしく感じが違う。これが新来の教垫たちの受けた印象であった。  やがお神父のガゎが、フェルナンデスず共に、クリスマスに間に合うように豊埌からやっお来た。そこで日本にいるダ゜䌚士は党郚揃った。そうしお恐らく日本における最初の華やかなクリスマスの祭が行われた。宣教垫らはミサを歌い、たた終倜キリストの䞀代蚘を語った。トルレスずガゎずは前埌六回ミサを行った。信者らは非垞に喜んで、倜を培しお䌚堂に留たった。フェルナンデスがキリスト教の神のこずを読んで聞かせる。疲れるず、ポルトガル語の読める䟋の少幎が代っお読む。それがすむず信者たちは、もっず話をしおくれずいう。鶏鳎のミサの時には、トルレスがミサを歌い、ガゎが犏音曞ず曞簡ずを読んだ。ほかのむルマンたちも応唱した。それがすんで信者たちは䞀床家に垰ったが、翌朝のミサの時にはたた集たっお来た。ミサのあずで䞖界の創造やキリストの䞀生に関する説教が読たれた。぀づいおガゎも説教をした。そのあずで信者たちの骚折りにより来䌚者䞀同が食事を共にしたが、その際信者のなかの幎長者や䌚堂の近くに䜏む信者たちがいかにも嬉しそうに他の人々の絊仕をしおいたこずは、信者ずなった日本人にのみ芋られる珟象であった。  クリスマスの祭儀は日本の信者たちに非垞な印象を䞎えた。それを芋た宣教垫たちは、こういう営みに必芁な品々の䞍足を痛感したず芋え、それらを調達するためにダルカセノァをむンドぞ垰すこずに決定した。䌝道のために有効な手段に察しお圌らが劂䜕に敏感であったか、たたそれを劂䜕に重倧芖したかは、これを芋おも解るのである。  儀匏に察する喜びず聯関しお、日本人の厚葬の颚もたた圌らの泚意に䞊った。信者たちは神父ず盞談しお、宣教垫に䞎えられた広い地所の䞀郚にキリシタン墓地を぀くり、死者のために非垞に矎しい墓を立おたのである。そうしお葬儀の際には最も身分の高いものも熱心に参列した。トルレスはこれを芋お葬儀にも力を入れ始めたのであろう。二幎埌の䞀五五四幎十月に圌が豊埌に送った曞簡䞀五五五幎九月二十日豊埌発シルノァの曞簡に収録によるず、山口の領䞻の重臣ファむスメの矩兄匟であるアンブロシペの葬儀には、トルレスが男女の信者二癟䜙人をひきいお参加した。トルレスは癜法衣ず袈裟を぀け、ポルトガル語の出来る青幎ベルシペヌルは癜法衣を぀けお十字架䞊のキリストの像を捧げた。墓地は宣教垫通から遠いので、高い棺や明るい提灯を列ねた荘厳な行列は、山口の町䞭を緎っお行った。死者の芪族も山口の町の倧衆もこれを芋お非垞に感激した。未亡人は四日間貧民に食物を斜䞎し、䌚堂にも倚額の寄附をした。  がこのような儀匏に察する喜びのほかに、もう䞀぀目立ったのは、日本の信者たちが貧民救枈のような愛の行に非垞に熱心なこずであった。圓時仏教の僧䟶たちは、キリシタン攻撃の䞀぀の論点ずしお、圌らは寺ぞの垃斜が惜しいからキリシタンずなったのであろうず蚀った。それを聞いた信者たちは、トルレスの蚱ぞ来お、あなた方が喜捚を受けないからこういうこずを蚀われるのである、だからこの非難を避ける方法ずしお、䌚堂の門に箱を備え、信者らの自由な喜捚を受けお、それをこの町の貧民に斜䞎するこずにしおはどうか、ず提議した。これには勿論トルレスは同意したであろう。やがお信者たちは、月に䞀回貧民に絊食するこずに定め、米の喜捚を受ける箱を䌚堂に備え぀けた。絊食の日になるず、い぀もその箱は溢れるほどに充たされた。絊食をはじめる前にトルレスは十誡の話をした。ダルカセノァも数回その堎に列垭しお、絊食をやる信者たちの匷い愛のこころに驚いたのであった。「私は圌らず亀わっお、自分が恥かしくなった」ずダルカセノァはいっおいる䞀五五四幎ゎア発。この信者たちの掻動は山口の教䌚に倚数の貧民をひき぀けた。その䞭には信者ずなるものも少くなかった。二幎埌のトルレスの曞簡によるず、信者たちは毎月䞉、四回の絊食をやっお居り、貧民の家を建おる蚈画も出来たずいう。  こういう信者たちの熱心は、早くから山口に治病の奇蹟を産み出しおいた。掗瀌の氎を飲むこずによっおいろいろな病気が癒るのである。これはトルレスが飲たせたのではなく、熱心な信者が自分の信仰から出お飲たせたのである。こういう治病の事瞟はこの時代のペヌロッパにも少くないであろうが、特に日本の地においおは起り易かったであろうず思われる。これもたたキリシタンの信仰の䌝播には圹立ったのである。  このように、トルレスの䞋にある山口の教䌚では、信者たちが掻溌に動いおいた。そこに新来のガゎは䞀月䜙り滞圚し、再びフェルナンデスを぀れお豊埌にひき返した。この時シルノァは山口に留たり、むンドぞ垰る筈のダルカセノァはガゎに埓った。圌らは䞀五五䞉幎の二月四日に山口を出発し、十日に府内ぞ着いたのである。 二 豊埌における教䌚の建蚭  豊埌では領䞻の倧友矩鎮が、ダルカセノァに蚗するために、むンド総督ぞの曞簡を䜜らせた。その曞簡には、総督の莈物に察する謝意や神父たちの奜遇ず保護ずの玄束などに次いで、神父ガゎの圚留によりむンド総督ずの通信の道が開けたこずの喜びを述べた。自分はこの通信を前から望んでいたが、それを媒介する人がなく、これたでは実行出来なかった。今はその人を埗たから、ポルトガル王のために尜そうずする自分の意志を圢に珟わすこずができる。自分の領内の人々をキリシタンにするために、もっず倚くの神父を掟遣しお貰いたい、ずいうのである。この曞簡が出来䞊るず、ダルカセノァは盎ぐにそれを携えお平戞ぞ向った。倚分二月の十四日であろう。通蚳の人を぀れないので、手真䌌で意を通じながら、平戞たで十八日かかったずいう。平戞ではもうシナ行の䟿船はなかったらしく、圌がダ・ガマの船で出発したのはその幎の十月十九日である。  ずころで䞁床右の曞簡が䜜られおいた頃に、䞉人の重臣が領䞻を殺そうずするずいう事件が起った。それがこの曞簡ず関係のある事件であるかどうかは解らない。四幎前に父の矩鑑がやはり家臣に殺されたのであるから、そういう家䞭のも぀れの続きであったかも知れない。ずにかくダルカセノァが出発しおから二日の埌、二月十六日に、その隒擟は激化し、府内の町は焌かれるであろう、掠奪が行われるであろう、神父は所有品を匿さなくおはならぬず信者が告げに来た。ガゎは領䞻の身の䞊を心配しおフェルナンデスを芋舞にやった。フェルナンデスが通に行っお芋るず、歊士が溢れるほど詰めかけおいお、どれが敵、どれが味方ずも解らなかった。ただ謀叛人を蚎䌐する軍隊の統率者数人だけが識別された。領䞻ず話すこずなどは到底出来ない、自分の銖さえも危ない、ず圌は心配しおいたが、偶然領䞻が圌の偎の戞を開けたので、圌は領䞻に䌚っおガゎの祝犏ず祈りの蚀葉を䌝えた。領䞻の矩鎮は非垞に喜んで、謙遜な態床で、圌のための祈りを頌むず蚀った。  ガゎずフェルナンデスずの運呜もたた領䞻の運呜にかかっおいた。領䞻が倒れれば圌らもたた倒れなくおはならぬ。で圌らは䞀切を神の手に委ねお埅った。町には驚くべく倚数の歊装した人が動いお行った。ガゎたちは戞を閉じ家の䞭に籠っお、剣を喉に圓おられたような気持で、ただ祈っおいた。  領䞻を殺そうず䌁おた重臣たちは、その家族や芪族ず共に、短時間の間に亡がされた。しかしその家に火を攟ったので、町の被害は倧きく、商家や歊士の家が䞉癟戞ほども焌けた。ガゎたちの持ち物の眮いおあった家も、呚囲を火に包たれたのであるが、䞍思議に助かった。倜になっお領䞻の䜿が来た。今日は倧分心配したが、戊争は幞いに止んだから安心しお貰いたい。貎䞋らの持ち物は焌けたこずず思うが、その損倱は償うから、これも攟念を願う、ずいう䌝蚀であった。  この隒ぎの埌、ガゎたちは暫く或る寺院に䜏んでいたが、その内山口のず同様な䌝道蚱可状を貰い、䌚堂のための敷地をも絊せられた。ガゎたちの䜏む宣教垫通の建築も早速開始され、同䞀五五䞉幎䞃月二十二日マグダレナの祭日の頃にはすでに出来䞊っおいた。その建築のためには信者たちが車を以お石を運ぶずいうような劎働に服し、劎働をなし埗ない身分のある信者たちは、颚炉を携えお来お湯を沞し茶を立おお劎働者たちをねぎらった。たた熱心な信者である䞀人の鍛冶屋は、他の人々が仕事を䌑んでいる祭の日に、ふいごや炭を携えお来お宣教垫通のために釘を䜜った。そういう颚にしおこの䌚堂は、信者たちの熱心の䞊に建おられたのである。  領䞻がキリシタンを保護しおいるのであるから、宣教垫たちに公然害を加えるものはなかったが、しかし仏教の僧䟶たちの迫害は執拗に行われた。ガゎたちが寺院にいた時には、床々議論を吹きかけ、嘲笑や眵詈を济びせた。宣教垫通に移っおからも、倜宣教垫通に石を投げ蟌むずか、路䞊で石を投げ぀けるずか、ずいう颚なこずをやった。領䞻は投石のこずを聞いお、その附近に䜏んでいる歊士たちに護衛を呜じ、或は倜䞭䜿を出しおガゎたちを芋舞わせたので、それきり投石は止たったが、仏僧たちの敵意は止たなかった。しかしそういう敵意にもかかわらず、日本人の信者たちは、自分はキリシタンであるずいうこずを街頭に立っお公蚀し、熱心にキリスト教の神のこずを説いた。或る信者は、その䜏んでいる町に信者のない家は䞀軒もない、ずいうような情勢を぀くり出した。たた或る身分の高い信者は、町から䞀里のずころにあるおのれの家にガゎを招き、家族たち䞉十人を信者にしお貰った。盲目の少幎の目が開き、重病の嚘が応ちに党快するずいうような珟象も起った。こうしおこの䞀五五䞉幎の秋たでには府内ずその附近に六䞃癟人の信者が出来たのである。 䞉 シャビ゚ルの死ず日本ぞの関心の高揚  以䞊のような日本の情勢をむンドに報告しようずするダルカセノァは、垰途広東附近の䞊川島においお、䞀幎前の䞀五五二幎十二月二日にシャビ゚ルが死んだこずを聞いた。遺骞はすでにマラッカに移され、そこでダルカセノァの到着を埅っおいた。マラッカからはダルカセノァが遺骞ず共にむンドに向い、䞀五五四幎の埩掻祭の頃にゎアに着いたのである。ゎアでの感激は倧倉なものであった。シャビ゚ルが讃矎せられるず共に、日本ぞの関心も高たった。ダ゜䌚のむンド管区長ベルシペヌル・ヌネスは埩掻祭の埌にはもう日本行を決意しおいた。その蚱可を埗るために総督を蚪ねるず、総督はちょうどダルカセノァのもたらした倧友矩鎮の曞簡を読んでいたが、ヌネスの来意を聞く前に、䜕をしおいるのだ、䜕故早く日本ぞ行かないのか、ず切り出した。そこで早速事はきたり、ヌネスは神父ガスパル・ビレラず、むルマン五人、少幎生埒五人を同䌎するこずにした。そのむルマンのなかには埌に日本史を曞き残したルむス・フロむスもたじっおいたのである。これらの人々はこの埌日本䌝道を力匷く掚進した傑物であるが、五月にはもう日本に向けおゎアを出発した。その航海が予定通りに運んだならば、䞀五五四幎の八月には日本に着き、山口の教䌚を芋るこずも出来たであろう。しかるにむンド掋では颚が逆になり、暎颚が起ったため、マラッカに着くのが非垞に遅れた。マラッカでの圌らの非垞な努力にもかかわらず、結局日本に向う季節颚の時期を逞するこずになっおしたった。マラッカの長官はこれに同情しお、翌䞀五五五幎の四月には、ポルトガル囜王のカラベラ船を以お圌らを豊埌たで届けようず云っおくれた。がこの航海も途䞭でうたくは行かなくなり、ヌネスやビレラが豊埌に぀いたのは䞀五五六幎䞃月である。フロむスはさらに八幎ほど遅れお日本ぞ来た。 四 山口の教䌚の掻動ずその受難  こうしおマラッカやシナ沿岞に日本ぞ向う新らしい䌝道の情熱が停滞しおいた間にも、日本における教䌚は着々ずしお進展し぀぀あった。  山口の教䌚では、トルレスの蚱にあっお新来のシルノァが熱心に日本語を孊び、もずの琵琶法垫のロレン゜は服埓・貧困・枅浄のダ゜䌚士の生掻を身に぀け、青幎のベルシペヌルはポルトガル語の理解をすすめた。ここではミサも説教も日本語の本によっお行われた。トルレスは日本の颚俗に適応するこずを心掛け、生れお以来の肉食の習慣を廃しお日本人ず同じ食物におのれを慣らしたほどの人であっお、日本人の気持を奜く理解し、それをどういう颚に扱えばよいかをも心埗おいた。埓っお信者たちの信頌を埗るこずも非垞であった。  山口の教䌚の䌝道の仕事は山口の町のみには限らなかった。倚分シルノァが山口に来おから最初の冬のこずであろうず思われるが、山口から䞀里ほど距たった村で五六十人の蟲倫が信者になった。皆読み曞きの出来ない人たちであったが、その語るずころを聞くず、孊問あるものも口を出す䜙地がないほどであった。この信者らは絶えず集䌚を催おしおいたので、トルレスは厳寒の頃にもずの琵琶法垫のロレン゜を説教にやった。ロレン゜は掗瀌を受けようずする人十二人を連れお垰っお来た。その䞭に歯のない老婆が数人いたが、そういう人たちでもラテン語の䞻の祈りを暗蚘しおいお、たるで子䟛の時から知っおいるかのようであった。そういう調子で、その村の信者には䞻の祈りを知らない者はなく、その発音もポルトガル人に劣らなかった。二幎埌の䞀五五五幎にはこの村の信者は䞉癟人になったずいわれおいる。  シルノァが来た次の幎䞀五五䞉幎のクリスマス前倜には、前幎ず同じように、気高い男女の信者たちが䌚堂に詰めかけお来た。倜の䞀時からシルノァず日本の青幎ベルシペヌルずが、代る代るに日本語で、アダムより䞖の終りに至るたでの六぀の時期の歎史を読んだ。初めの五期は旧玄の物語の摘芁のようなものである。䞀は人間の創造、゚デンの園の生掻、アダムの堕眪など、二はノアの措氎、蚀語の分裂、偶像厇拝の始、゜ドムの滅亡、ニネベのこず、ダコブの子ペセフのこずなど、䞉はむスラ゚ルの子らの゚ヂプトにおける奎隷化、モヌれによる解攟、埋法の確立など、四ぱリシダやナヂスのこず、ネブカドネザルのこずなど、五はダニ゚ルのこずなど。そこたで読んだあずでトルレスが暁のミサを行い、いろいろず歌った。そうしお昌のミサのあずで、シルノァは、第六期の初め、即ちむ゚ス・キリストが、この䞖に来たこずを読んだ。こうしおミサや説教が終った埌に、信者䞀同は宣教垫通でトルレスたちず食事を共にした。この日ず翌日ずには信者たちは貧民ぞの食物斜䞎を盛倧に行った。  キリストの誕生を祝う祭に察応しお重芁なのはキリストの受難ず埩掻ずを蚘念する埩掻祭であるが、この祭はそれに先立぀四十日間の断食期を以おすでに二月の䞭頃に先觊されるのである。その開始期は灰の氎曜日であるが、シルノァが山口に来おからの最初の灰の日は、䞀五五䞉幎の二月十五日で、ガゎはフェルナンデスず共にすでに豊埌に去っお居らず、トルレスが灰を祝犏しおその意味を説明した。信者たちは、この四旬節の間に絶えず断食を行った。毎朝食事をする習慣のある日本人には、このこずは非垞に苊痛であった。いよいよ埩掻祭の週に入り、キリストが十字架に぀いた金曜日になるず、トルレスは十字架の祈祷を行い、信者らに十字架を拝せしめた。そのあずでシルノァが受難の説教をした。これは恐らくロレン゜か誰かが通蚳したのであろう。その翌々日四月二日の埩掻祭の日にはミサの埌に信者たちが盛倧な食物斜䞎をやった。そのため䌚堂に青い垃を匵っお墓所のようにし぀らえ、祭壇の前には二本の蝋燭を立おた。トルレスは祈祷をし信者らはそれに応唱した。それず同じように翌䞀五五四幎の四旬節にも信者たちは熱心に告解を行い、たたしばしば断食した。特に埩掻祭の週に倚数の信者が断食を行い、宣教垫通に来お泊った。倜は信者たちの間で互に䜓隓を語り合い、信仰を錓舞した。金曜日には倚数の信者が䌚堂に集たっお、十字架の儀匏に列し、キリスト受難の説教を聞いた。この時にはシルノァはもう日本語で説教したらしい。  信者たちが貧民斜食の仕事を熱心に進めるに埓っお、貧民の䞭から信者ずなるものが倚数に珟われた。䞀五五四幎の倏の頃には毎日十人、二十人の貧民が信者ずなったずいわれる。そういう貧民の信者たちは、いろいろの祈祷の文句を芚え、毎日䌚堂の門に来お祈祷を捧げた䞊、満足しお立ち去った。倚分そういう珟象や信者たちの熱心な慈悲の行を芋た結果であろう。郜から来おいた二人の孊僧がキリスト教に関心を持ちはじめ、トルレスの蚱ぞ教えを受けに来お、遂に信者ずなった。キョヌれンパりロずその友センニョバルナベがそれである。二人はトルレスの助けを埗お宣教垫通の偎に䞀軒の家を䜜り、䜕凊からも䜕物をも受けずに、ただおのれの手を以お獲たもののみによっお生きるずいう生掻をはじめた。圌らの求めるのはただ埳のみであった。二人は新らしい怍物の劂く日々に䌞びお行き、その謙遜な態床によっおトルレスを感服せしめた。キョヌれンは宗孊に粟通した孊者であったから、やがお仏教の誀りずキリスト教の優れた点ずを非垞に明晰に把握し、それを人々に説くようになった。ロレン゜がすでにそういう仕事を始めおいたのであるが、仏教孊者ずしおキョヌれンは䞀局突き蟌んだ説教を始めたのであろう。  ほかにもう䞀人パりロず名づけられた信者が、この頃新らしく出来た。五十を越えた盞圓に有名な人で、文章を曞くのが䞊手であった。この人も、その劻が信者ずなっお以来非垞に善くなったのを芋おキリスト教に関心を持ちはじめ、遂に信者ずなったのである。そうしお日本語の教矩曞をすべお曞写し、熱心に読み、トルレスにいろいろず聞きに来た。自分でも数皮の曞物を曞いた。埳の高い謙遜な人であったから、芪戚・友人その他倚くの人が圌に導かれお信者ずなった。  こういう情勢の䞋に山口の信者たちは、䞀五五四幎の末には、貧民斜食を毎月䞉四回行い、貧民の家の建築を䌁おお募金をはじめた。信者の数はほが二千に達しおいた。トルレスの宣教垫通も著しく腐朜しお来たので、新らしい建築が䌁おられた。半幎䜙りの埌、䞀五五五幎䞃月半ばには、幅九間䜙、長さ六間半の新䌚堂が完成し、ミサが行われた。その秋にはシルノァが豊埌に移り、フェルナンデスが山口に垰っお来たらしい。  これらの経過を通じお、山口の教䌚における信者たちの掻動は非垞に顕著である。トルレス自身も、「神の蚀葉は匘たり、キリスト信者は増加し、告解・説教、その他粟神的な修緎が盛んに行われた。」ず蚀っおいるが䞀五五䞃幎十䞀月䞃日府内発、恐らくこの時が山口の教䌚の最盛期で、それを䜜り出したのは、信者たちの盛り䞊る力であった。埌幎トルレスはヌネスに向っお、「自分の党生涯䞭、山口の六䞃幎間のように倧きい歓喜ず満足ずを以お生きたこずはなかった」ず述懐しおいる䞀五五八幎䞀月十日コチン発ヌネス曞簡。その歓喜ず満足ずは、結局においお信者たちの掻動にもずづいおいるのである。  しかし新䌚堂のミサが行われお埌、僅か䞉カ月にしお、陶晎賢が厳島においお毛利元就に惚敗した。山口の領䞻の暩嚁は地に墜ち、町の平和は倱われた。翌䞀五五六幎に入るず、毛利氏の圧力が远々加わっお来お、毛利勢がなお尌子氏ず戊っおいる間に、すでに山口の町は内蚌の兵乱によっお焌かれた。「日本の戊争は火を以おする。家屋は朚造で壁がないから、火は颚に煜られお猛烈ずなり、リスボンず同じ倧きさだずいわれる山口の町党郚が、䞀軒ものこらずに焌けた。囜王の宮殿も、神父が非垞に骚折っお䞀幎前に建築を完成した䌚堂も、火を免れるこずは出来なかった。」同䞊ヌネス曞簡トルレスやフェルナンデスが倚幎の艱難を忍び぀぀築き䞊げたものは、䞉四時間の間に悉く倱われた。領䞻や倧身などの家臣であった信者たちも、諞方ぞ散り散りになっおしたった。  やがお敵兵が来襲するだろうずの知らせに、信者が数人集たっお、トルレスやフェルナンデスの身の䞊を盞談したが、その結果は隒ぎが静たるたで山口にはいない方がよい、ずいうこずであった。火灜埌二䞉十日を経お、敵はいよいよ山口の町ぞ䞀里ほどの所たで迫っお来た。信者たちは頻りにトルレスたちの退去をすすめた。トルレスも遂に、乱埌には垰っおくるずいう぀もりで、退去を決意した。信者たちは集たっお別れを悲しみ、出発の日にも町から二䞉里のずころたで送っお来たが、たるで死別れででもあるかのように、男も女も少幎も皆泣いた。トルレスも涙を抑えるこずが出来ず、激しい悲痛ず愛情ずを衚わしお別れた。こうしお豊埌ぞ぀いたのは五月であったが、悲しみず愛情ずのために遂に病気になり、䞃月のヌネスたちが到着した時にはただ癒っおいなかった。  トルレスはこの時フェルナンデス、元琵琶法垫のロレン゜、青幎ベルシペヌルなど、山口の教䌚の幹郚をすべお同䌎した。信者を守る人はあずに残らなかった。トルレスは間もなく山口ぞ匕き返す぀もりでいたのである。半幎の埌、十二月には、倧内矩長やその他の倧身から山口に垰るようにずの曞簡が来た。トルレスは早速領䞻倧友矩鎮の蚱可を求めたが、矩鎮はただその時期でないず蚀っお蚱さなかった。翌䞀五五䞃幎にはいよいよ毛利元就が山口を占領し、倧内矩長は自殺した。あずには毛利倧友䞡氏の盎接の察抗がはじたり、倧友矩鎮自身が幟床かの戊争の詊煉を経なくおはならなかった。山口の教䌚を回埩すべき機運は䞭々廻っお来なかったのである。 五 豊埌の教䌚の成長、慈善病院の経営  豊埌の教䌚では、䞀五五䞉幎以来、日本語の巧みなフェルナンデスがガゎを助けお、仏僧に察抗し぀぀䌝道をすすめた。ずころでここでは、領䞻の保護があるずいっおも、身分ある人、事理を解する人の垰䟝は少なく、僧䟶・富者・歊士などは、頑固に旧信を守り、珟圚に執着しおいた。信者ずなる善良な人たちは倚く貧民であった。そこでガゎは知識ある人々、身分ある人々の教化に力を入れようずしたのであろう。自ら教矩曞を線纂しお日本語に蚳させ、領䞻倧友矩鎮に献じた。矩鎮はそれを重臣たちの臚垭しおいる前で読たせ、倧いに満足しおその曞に眲名した。別に写本を䜜っお眮き眲名本は重臣たちに読たせるずいうのである。  こういう教矩曞を䜜る際に、ガゎは、シャビ゚ルの教矩曞飜蚳以来その仕事にたずさわっお来たフェルナンデスのほかに、パりロずいう日本人の信者の助けを藉りた。このパりロは、山口で改宗したパりロ・キョヌれンず同じように、仏教の教理に粟通した人であった。改宗しお以来は、仏教ずキリスト教ずの盞違点を明かに指摘し、仏の教えが停りでありキリスト教の神の教えが真であるこずを䞻匵しお止たなかった。その説教は非垞に巧みで、仏教を非難しおも聎衆は怒らず、犏音を説けば聎衆はその真理なるこずを玍埗した。惜しいこずに䞉幎埌の䞀五五䞃幎に病死しおしたったが、ガゎはこの人を非垞に高く評䟡し、ダ゜䌚士たらしめようずしおいたようである。倚分このパりロずの接觊の結果であろう。圌は早くからキリスト教の甚語の問題に泚意を向けた。シャビ゚ルの残しお行った教矩曞は仏教の甚語を䜿い過ぎおいる。それは虚停の蚀葉を以お真理を説くにほかならない。埓っお誀解を生ずる。そういう有害な蚀葉は捚お去り、新らしい事物は新らしい蚀葉を以お珟わさなくおはならぬ。こういう芋地の䞋に圌は有害な蚀葉五十以䞊を芋぀け出したのである。  身分あるものを教化しようずいうガゎの垌望は、䞀五五四幎には幟分かず぀充たされたように芋える。府内に近い或る村を治めおいた人が信者ずなり、ガゎをその村に招いお、劻子その他村人を受掗せしめた劂き、その䞀䟋である。䞭でも目がしいのは、内府から九里か十里ほど離れた朜網郷の「倧家族を有する䞀老人」の垰䟝であった。府内の䞀信者アントニオが朜網に行っお、信仰の力で病気を癒したのが機瞁ずなり、この「身分ある老人」を改宗せしめるに至ったのである。老人はルカスずいう掗瀌名を受け、その地方の倚数の人々を教化したが、翌䞀五五五幎の初めには、ガゎを朜網ぞ招いた。ガゎは、その頃豊埌にいたフェルナンデス、説教のうたい日本人パりロ、及び右のアントニオを䌎っお、四旬節の頃に朜網に赎いた。ルカスの劻、二人の息子、その他家族のみで六十人、家族の倖のものを入れるず二癟六十人の人々が掗瀌を受けた。この地方䞀垯の領䞻はケむミドノで、豊埌の最も有力な倧身二人の内の䞀人であったが、この人も説教を聞いお非垞に喜び、豊埌の囜王の蚱しを埗たらば信者になろうず蚀った。圌は信者の保護を玄し、出来るだけ倚くの人の改宗を垌望したので、圌自身の家来で掗瀌を受けたものも少なくなかった。こうしお朜網には、ガゎの垌望するような、身分あるもの事理を解するものの垰䟝が実珟されたのである。  しかし府内で信者ずなるものは䟝然ずしお貧民や病人であった。薬は掗瀌の氎だけであったが、それが奜く利き、十里二十里の遠方からさえも求めに来た。そういう信者の間に「倖圢の行事」がいかに匷い印象を䞎えるかを知っおいたガゎは、いろいろの儀匏を盛倧に行うず共に、信者の葬儀に特に力を入れた。先ず䞀般的に来䞖のこずを理解させるために、毎幎十䞀月の䞀カ月間は、毎日ミサを行い、死者の連祷を歌いながら、棺を運び出す。その棺は䌚堂の䞭倮に垞眮し、四隅に四本の倧蝋燭を立おお眮くのである。この行事には勿論、死に぀いおの説教が䌎っおいる。そうしお実際に誰か信者が死ねば、倚数の信者が集たっお厳粛な儀匏を行う。棺を造るこずも出来ないような貧しい信者の堎合でも、人々の寄附によっお棺を造り、それを絹糞で芆い、富める人を葬る堎合ず党然同じような鄭重な儀匏を以お葬るのである。䌚堂を出る前に䞻の祈りを䞉唱し、信者らも合唱する。棺は四人で運び、十字架のキリスト像を携えた癜い法衣のむルマンず、聖氎や聖曞を携えた青幎ずが、ラダむニダの音頭をずり、信者たちがこれに䌎唱する。䞡偎には高い燈籠に火を点じたものを倚数立おお行く。こういう葬儀の行進は日本人に非垞な感激を䞎え、最初の時には䞉千人の芋物が集たった。特に貧しい人をもこの様に厳粛に葬るずいうこずが、人々を感動せしめたのであった。  が貧民ず病人ずを盞手にする府内の教䌚は、遂にそれに適応した特殊な掻動を始めるに至った。それは病院の経営である。その機瞁を䜜ったのは、䞀五五五幎にガゎの蚱ぞ告解のため、たたそれ以䞊に魂を救う道の修業のため、やっお来たルむス・ダルメむダであった。圌はリスボンの富裕な貎族の子で、その頃䞉十歳であったが、マラッカ、シナ、日本を埀来する航海者貿易商人たちの間ではすでに知名の人ずなっおいた。このダルメむダが、この幎にはダ・ガマの船で平戞ぞ来たのであったが、ガゎの蚱に滞圚しおいる間に、豊埌の信者の状態を芋、特に日本における産児制限間匕きの颚習のこずを聞いお非垞に心を動かし、その救枈のために病院蚭立の費甚ずしお千クルサドを提䟛しようず蚀い出したのである。その病院には、貧しい信者の乳母や二頭の牝牛などを甚意し、貧民の嬰児をどしどし匕き取っお哺育する。その嬰児は入院ず同時にキリシタンにしお了う。そのため領䞻に請願しお、嬰児を殺さずに病院ぞ連れお行くようにずいう呜什を発垃しお貰わなくおはならぬ。そういう蚈画であった。この蚈画は早速領䞻の前に持ち出されたが、領䞻の倧友矩鎮も非垞に賛成しおそれを蚱可した。これは倚分この䞀五五五幎の九月頃のこずであったろうず思われる。間もなくダルメむダは、ガゎやフェルナンデスに䌎っお䞀床平戞たで行ったが、その秋に出垆するダ・ガマの船には乗らず、そのたた日本に留たっお病院の仕事を始めたのである。  ダルメむダはこの時すべおの所有をダ゜䌚に捧げようず決心したらしく、ただ日本ぞ到着しない管区長ヌネスの䞀行のために、船を買う資金二千クルサドを莈るずか、日本䌝道に必芁な画像数皮をリスボンぞ泚文するために、麝銙に投資しお癟クルサドを莈るずか、いろいろダ゜䌚のために肩を入れはじめおいる。  ダルメむダの最初の蚈画は、恐らく䞀五五五幎の末か翌幎の初めには、緒に぀いたのであろう。しかしそれが本匏の病院ずしお倧仕掛けに建蚭されるに至ったのは、たる䞀幎埌のこずである。その間にトルレス以䞋山口の教䌚の連䞭が豊埌ぞ逃げお来た。管区長ヌネスの䞀行も豊埌に぀いた。府内の教䌚の圢勢は急激に倉っお来た。これたで府内の教䌚に貧民の信者の倚いのを嘆いおいたガゎは、平戞に移っおそこで新らしく䌝道の仕事をはじめるこずになり、府内の教䌚は山口で信者たちの愛の行を指導しおいたトルレスが匕き受けるこずになった。新来の神父ビレラ――こののち日本で非垞に倚くの仕事をするビレラは、老いたるトルレスを助け぀぀日本の習慣や信者の取扱い方に぀いおのトルレスの貎重な䜓隓を孊び取るために、府内に留たった。こうしお府内の教䌚がトルレスのもずに䞀五五六幎のクリスマスを盛倧に祝い、この地方の倚数の信者がこの愛の行の導者のたわりに集たったずき、そこに新らしい機運の生じお来たこずは察するに難くない。倚くの財産をなげうっお愛の行に没頭しようずしおいたダルメむダがそこにいる。過去の孊識をなげうっおキリスト教的な愛の実践に浞り蟌んだパりロ・キョヌれンも山口から来おいる。そうしお貧民や病人は䌚堂にあふれおいる。だからこの時、䜕かが急に燃え䞊っお来たのである。その蚌拠に、トルレスは、クリスマスの埌にビレラに぀けお朜網に掟遣したフェルナンデスを、数日埌に急に呌び返しお、領䞻矩鎮ず病院に぀いおの亀枉をはじめおいる。矩鎮は病院の仕事の善いこずを知っお居り、前にその建蚭の決心をしたのであったが、貧民ず接するこずを賀しむ気持から、その時たで躊躇しおいたのであった。そこでトルレスは早速実行に着手し、䌚堂の隣りの地所に倧きい病院を建おた。その病院は二぀の郚に分れ、䞀は普通の倖科ず内科、他は癩病院であった。治療にはダルメむダずパりロ・キョヌれンずが圓った。ダルメむダは特に倖科の手術がうたく、そのやり方を他の人にも教えた。むルマンのシルノァなどもその䞀人である。パりロは挢方医で、内科をひきうけ、遠く数里の山の䞭たで埀蚺した。挢方薬の効胜はトルレスたちにも認められた。  こうしお豊埌の慈善病院は、豊埌の教䌚の著しい特城になった。 六 トルレスずビレラ、平戞の教䌚  シャビ゚ルの死に刺戟され匷い感激を以お䞀五五四幎の五月に日本に向けむンドを出発した管区長ヌネスの䞀行は、運悪く途䞭で二幎䜙の幎月を空費し、䞀五五六幎䞃月の初めに挞く豊埌に到着した。この遅延はヌネスには奜い圱響を䞎えなかったであろうが、さらにその到着の圓時、豊埌は内乱で隒いでいた。ヌネスらは日出の枯に着く前に豊埌の囜䞻が殺されたずいう噂をさえ聞いたのである。着いおから確かめお芋るず、十五日前は囜䞻は謀叛の嫌疑のある倧身十䞉人の家を焌きその䞀族を滅したずのこずであった。その謀叛人らは䞉幎前ガゎが府内に萜ち぀いた時の謀叛の残党であったらしい。䞀倜のうちに双方で䞃千人の人が死に、囜䞻は府内から䞃里の島か山かに遁れおいた。囜内にはただ戊争の懌れが充ちおいた。その䞍安のなかで宣教垫たちが少しも死を怖れず䌝道に熱䞭しおいる姿を芋お、ヌネスは「自分を恥じた」ず云っおいる。がこのような珟前の䞍安状態のみでなく、圌はたたトルレスから山口の戊乱やそこの教䌚の没萜の話を聞かねばならなかった。この「善き老人」トルレス、日本人に適応するために肉食を捚おお乏しい菜食に甘んじおいるトルレス、迫害ず戊乱ずに堪え忍んで挞く築き䞊げた教䌚を今や悉く倱い去ったトルレス、この埳ず克己ずに斌お完党な、暡範的なトルレスを芋お、むンド管区長ヌネスは、その堪えぬいた詊煉の倧いさに驚嘆したのであった。そのほかに圌は、シャビ゚ルの通匁をしお歩いたフェルナンデスから、シャビ゚ルが日本においお劂䜕に倚くの苊難に堪え忍んだかをも聞いた。しかしそういう苊難や戊乱の䞍安などは、この管区長には䞍向きであった。フェルナンデスに案内されお豊埌の内地を旅行したずき、朚を枕にしお蓆の䞊に寝ね、䜕の調味もなしに米の飯を食うずいう日本の生掻が、すでに圌を病気にしたのである。挞く動けるようになるず銬に乗っお府内ぞ垰っおは来たが、䞉カ月の間日々に悪寒ず発熱ずに苊しみ、死ぬかず思うほどであった。そこで圌は、目䞋の日本が戊乱のために䌝道に適しないこず、むンド管区長ずしおの職責が他にあるこずなどを考慮し、日本に来たず同じ幎の秋に、豊埌にいたポルトガル船ぞ病䞭の身を蚗しお日本を去ったのである。  しかしそれでもむンド管区長が日本を芖察したずいうこずは無駄ではなかったであろう。その䞊神父ビレラずむルマン二人ずが加勢に来たこずは、教勢の拡匵に非垞に圹立った。たず第䞀は平戞に日本で䞉番目の教䌚が出来たこずである。平戞にはすでにトルレスが䞀幎ほど滞圚しお、かなりの数の信者を䜜っお眮いたのであるが、その埌は手が足りなくお、ポルトガル船の入枯した折にガゎが出匵するずいう皋床に止たっおいた。そこぞヌネスの着埌間もなくガゎが掟遣されたのである。平戞の領䞻束浊隆信は、日本ぞの枡来の途䞭シナで停滞しおいたヌネスに宛おお招請の曞簡を発した。ヌネスは平戞ぞは向わず真盎に豊埌ぞ来たのであるが、右の領䞻の招請を無芖する気はなかったのであろう。ガゎは通蚳のむルマン䞀人、信者䞀人を぀れお平戞に移り、領䞻の蚱可を埗お、地所を買い聖母の䌚堂を建おた。やがおこの埌にはこの地の教䌚の重芁性がだんだん増しお行くのである。  第二はトルレスがビレラに日本䌝道の特殊のやり方、特殊の喜びを教え蟌んだこずである。䞀五五六幎の降誕祭埌に、トルレスはビレラにフェルナンデスを぀けお朜網に送った。ビレラは山奥の蟲村の人々の玔真な信仰や愛情にふれお、初代の教䌚における新鮮な信者を芋るような思いをした。぀いで䞀五五䞃幎には貧民病院の建蚭があり、愛の行にいそしむ信者たちず共に働らいた。この幎の四旬節の頃には、領䞻が五里ほど離れた城にあっお圌らを盎接保護するこずが出来ず、キリシタンの宣教垫らは殺され宣教垫通は焌かれるであろうずの噂が頻りであった。宣教垫らは死を芚悟し、倜も服装を解かずに寝た。信者が数人、譊護のために宣教垫通に泊ったが、宣教垫たちも順番に培倜しお譊備に加わった。しかしそういう䞍安のなかでも毎日の説教は欠かさず、金曜日ず日曜日ずの鞭打の苊行を続けた。そういう胆の据った態床をもトルレスはビレラに仕蟌んだのであった。やがお埩掻祭の週が来るず、戊乱の䞍安にもかかわらず、極めお盛倧にさたざたの行事が行われた。教䌚の人々のほかにこの冬を豊埌で過ごした数人のポルトガル人もそれに参加した。そのお蔭で二぀の合唱隊には五人ず぀のポルトガル人が加わるこずが出来た。オルガンの挔奏や、この合唱隊の歌は倚くの信者を熱狂せしめた。朚曜日にはポルトガル人たちずずもに日本人の男女玄䞉十人が聖逐を受けた。これは初めおの聖逐であっお、日本人の信者に䞎えた印象は非垞に深かった。垌望者はもっず倚数にあったのであるが、トルレスは時機の熟したものだけを遞び出したのである。聖逐の時には、それを受ける者も受けない者も涙を流しお泣いた。そういう匷い感激は宣教垫たちにずっおも「生れお以来初めおの」経隓であった。その他いろいろの行進や鞭打の苊行や儀匏などが䞀々信者を感動せしめた。埩掻祭の前倜には、トルレスは非垞に舞台効果の倧きい方法を甚いた。絵垃その他のものを以お荘厳に食り立おた祭壇、埩掻したキリストの像、火を点じた倚数の蝋燭などを、初めは黒垃で隠しお眮く。そうしお䌚堂の䞭倮の小祭壇で、合唱隊の䞀郚に唱わせながらミサを行う。それが終るずトルレスは匕き蟌んでそっず服を倉える。合唱隊がミサを唱いはじめる。「䞻よ、憐れみ絊え」の章が終るず、トルレスが高らかに「高きにある神に栄光あれ」を唱い出し、合唱隊がそれに和する。その途端に黒垃が切っお萜され、荘厳な祭壇が䌚衆の前に珟出するのである。信者たちはたるで倱神したように打たれた。翌日の朝には、日本で䜜った立掟な倩蓋の䞋に聖䜓を奉じお、矎しい広い庭園の䞭を行進しお廻った。倩蓋は四人のポルトガル人が持ち、トルレスは晎れの服装に薔薇を食った緑の冠を぀けおあずに埓った。次には銙炉を持ち花冠を戎いたむルマン䞀人、その次にはいろいろな色の薔薇の花環を戎いたむルマン四人がオルガンに぀れお歌いながら続いた。倩蓋のそばには、ポルトガル人二人が束明を持ち、最叀参の日本人二人が燭台に蝋燭を立おお持ち、さらに二人の癜法衣を着たものが蝋燭を持っお぀いおいた。この行列は庭を䞉床廻ったが、銃を持ったポルトガル人が十䞉四人いお、その床毎に聖䜓に察しお祝砲を攟った。この行進もたた信者たちには非垞な感動を䞎えたが、しかしそれによっお匷い印象をうけたのは信者たちのみではない。䞀般の芋物人も䌚堂の敷地内に充満し、その隒ぎのために説教が出来ないほどであった。ビレラはこういう祭儀の日本人に察する圱響力をもはっきりず認識するこずが出来たのである。  こうしおビレラが日本での最初の䞀幎を送った頃、䞀五五䞃幎の倏に、倧友矩鎮は毛利氏に通じた秋月文皮を砎っお、博倚の町を手に入れた。この戊勝に気をよくした矩鎮は、九月に宣教垫通を蚪ねお晩逐を共にした。その時圌は宣教垫たちに俞犄を䞎えようず蚀い出したが、トルレスはそれを病院の費甚にたわしおくれず頌み、その通りにしおもらった。矩鎮はたた博倚に宣教垫通ず䌚堂ずのための地所を䞎えようず蚀った。これはトルレスが喜んで受け、早速その準備に取りかかった点である。それだけ宣教垫の手がふえおいたこずは、ヌネス来朝の結果の第䞉の点ずしお挙げおよい。トルレスは平戞にいるガゎに博倚の教䌚建蚭の仕事をやらせ、平戞には日本のこずに慣れお来たビレラを眮こうず考えた。ちょうどその九月にポルトガル船が二隻平戞に入枯したので、トルレスは早速ビレラを手䌝いにやった。この時から平戞におけるビレラの䞀幎間の掻動がはじたるのである。初めには船のポルトガル人たちを激励しお、日本人の信者に奜き暡範を瀺すために、いろいろの儀匏を行った。特にミサを歌いながら小山の䞊の十字架に向っお行進する聖行列が人々の泚意をひいた。行列の先頭には四十人のポルトガル人の銃手が加わっお、時々斉射をやる。船は旗を食り、祝砲を打぀。笛ずチャラメラずの楜隊、蝋燭や炬火、高く捧げられた十字架、矎しい法服を぀けた神父たち。そういう行列が日本の諞地方から貿易のために集たっお来おいた人々に匷い印象を䞎えたのである。  そういう行事のあずでガゎは博倚の地所を受取るために出発したが、あずに残ったビレラは、倧友矩鎮の軍が平戞を襲撃するであろうずの噂に嚇かされた。戊争が起れば日本人の信者の女子䟛たちは倚数死ぬであろうし、貧しいものさえも掠奪を受けお安静を倱うであろう。信者のある者は倜ビレラを蚪ねおそういう䞍安を語り、もしビレラが平戞に留たるならば、そういう際には䌚堂に来おビレラず共に死ぬであろうず蚀った。そういう状況のなかにビレラは敢お留たり、平戞及びその附近の島々に䌝道をはじめたのである。  戊争は幞いにしお起らなかった。䞀五五八幎の初めにはビレラの䌝道も非垞に調子よく進んで、二カ月間に千䞉癟人の信者を䜜り仏寺䞉カ所を䌚堂に改造した䜍であった。それには領䞻束浊氏の䞀族たる籠手田巊衛門ドン・アントニオの協力があった。籠手田氏は生月島、床島その他の小島の領䞻であっお、前から信者ずなっおいたが、ビレラの勧めに埓い、ビレラず共に村々を説教しお廻ったのである。しかし仏寺から仏像を運び出しお焌き払い、あずをキリスト教の䌚堂ずするずいうような過激なやり方は、仏僧や仏教信者の反動を呌び起さずにはいなかった。その先頭には䞀人の仏僧が立った。圌はキリスト教を攻撃し宣教垫ず蚎論などをもやった。こうしおキリスト教埒ず仏教埒ずの察抗がはじたり、右の仏僧は宣教垫の囜倖远攟を叫び出したのである。身分のある歊士で、小山の䞊の十字架を切り倒したものもあった。それに察抗しお島のキリスト教埒は、曎に倚くの仏像を焌いたり海に投げ捚おたりした。遂に仏教埒の歊士たちは領䞻に宣教垫の远攟を請願するに至った。それがきかれなければ内乱が起りそうであった。領䞻は遂に屈しお、むンド管区長ヌネスに察する玄束にもかかわらず、ビレラを平戞から远攟したのである。  こうしお平戞の教䌚は挫折したが、しかし信者がなくなったのではなかった。籠手田氏の床島、生月島、その他平戞島の村々には䟝然ずしお信者が倚く、矎しい䌚堂もあり、改宗した僧䟶や熱心な信者による説教瀌拝も続けられた。平戞の町では公然たる説教は犁ぜられおいたが、信者のあるこずは右の村々ず同様であった。二䞉幎埌にルむス・ダルメむダが出匵しお来たずきには、床島は「倩䜿の島」のようであったし、生月島も䜏民の䞉分の䞀は信者ずなり、六癟人を容れる䌚堂を持っおいた。ダルメむダは最倧玚の感激の蚀葉を以おこれらの信者の状況を報道しおいる。この地方は倭寇の掻動以来海倖亀通の尖端に立っおいたのであるから、そういう珟象が起るのも䞍思議はないのである。  がそういう民衆の気分ず、歊力によっお決せられる圓時の政情ずは、党然別のものであった。新興の毛利氏の歊力は、䞁床この頃に北九州を䞍安ず動揺に陥れた。ビレラが平戞を远われお間もなく、ガゎもたた博倚を逃げ出さざるを埗なかったのである。  ガゎが倧友矩鎮から博倚の地所を実際に受取るこずが出来たのは、䞀五五八幎の埩掻祭の埌であった。圌はフェルナンデスず共に博倚に赎いお宣教垫通ず䌚堂ずを建築し、垃教掻動をはじめた。博倚には山口から来おいる信者もあったが、䞭でも山口から移䜏しお来たアンドレヌずいう歊士は、非垞に熱心で、遂に゚ルサレムの゚ステバンのように殉教するに至った。その子がダ゜䌚に入っおむルマンずなったゞョアン・デ・トルレスである。土地の人は厳遞しお信者ずしたので、数は少なかったが、富裕な貿易商も数人信者ずなった。ずころが䞀五五九幎の埩掻祭の埌に、倧友氏に背いた筑玫氏の二千人ほどの兵が博倚に来襲した。垂民はその日防犊するにはしたが、倜のうちに敵ず折衝しお町を匕き枡した。倧友氏の代官は殺された。フェルナンデスは信者の子䟛数人を぀れ、䌚堂の所有品を携えお、平戞の船に乗っお逃げた。ガゎはむルマンのギリ゚ルメ、䞀人の日本人信者、䞀人のポルトガル人ず共に、海䞊二里ほどの所にいた日本船に乗せおもらったが、その船の船頭は、翌朝博倚の町が筑玫氏に占領せられたのを芋お、急に態床を倉えた。宣教垫たちの所持品は掠奪され、その生呜も危険に瀕した。しかし四日ほどの埌に船頭は圌らのこずを占領軍に告げ、䞉艘の舟に乗っお来た歊装兵に圌らを匕枡した。兵士たちは船頭から掠奪品を取り䞊げ、曎にその䞊に圌らの衣服をも剥ぎ取った。が䞀里ほどの沖合たで垰っおくるず、ガゎず識り合いの有力者が来お、䞋着などを呉れた。博倚の海岞ぞ䞊るずたた倚くの兵士に取巻かれ、再び殺されそうになった。その間に、䞀緒にいた日本人の信者が、博倚の町のゞョアンずいう裕犏な信者にこの事を知らせたので、ゞョアンは占領軍の圓局ず連絡をずり぀぀ガゎたちの救出に努めた。倧抵のこずは莈物や金で埒があいた。かくおガゎたちは、十日間ゞョアンの家に隠れ、぀いで他の信者の家に五十日間隠れおいた。そうしお数人の信者の奔走によっお、乱埌䞉カ月、䞀五五九幎の倏に博倚を逃げ出すこずが出来たのである。  豊埌の信者たちはガゎの生還を芋お非垞に喜んだ。ガゎはこの匷い愛ず喜びずに接しお、恰も「楜園にあるかのような」喜悊を感じたずいう。この時にはガゎは、博倚の䌚堂や宣教垫通は焌き払われ、井戞たでも埋め぀くされたず信じおいた。しかし䌚堂はただ壊されただけであった。やがお博倚の信者たちは自発的にこれを修繕しお立掟な䌚堂に仕䞊げた。信者たちが富裕なので、こういう点は目立っお行き届いおいた。二幎埌には教垫の掟遣を懇請しお来たが、先ずダルメむダが行き、぀いでダミダン、フェルナンデスなども行くようになった。  が䞀五五九幎の倏には、平戞の教䌚も博倚の教䌚も壊滅し、宣教垫たちは党郚豊埌に集たっおいたのである。この時トルレスは、垃教の掻動を萎瞮させるどころか、逆に劃期的な飛躍を詊みようずした。それは十幎前のシャビ゚ルの蚈画に埓っお日本の粟神的䞭枢を突くこずであった。圌はビレラを起甚しお京郜に掟遣するこずにした。目暙はさしずめ叡山であった。元琵琶法垫のロレン゜が通蚳ずしお附き添うほかに、府内の教䌚で逊成せられた日本人青幎ダミダン、近江坂本の出身である信者ヂペゎなどが同行した。むンド管区長ヌネスが起草し、ロレン゜自身が日本語に蚳した教矩曞を、圌らは携えお行った。  この䞀行が盛倧なミサに送られお豊埌を出発したのは、䞀五五九幎の八月末か或は九月初めであった。 第四章 ビレラの畿内開拓 䞀 ビレラ京郜に来る  ビレラの䞀行の瀬戞内航海は、同船者からかなり苛められたようであるが、しかし四十䜙日を費しお無事に䞀五五九幎の十月十八日に堺に぀いた。「堺の町は甚だ広倧であっお、倧きい商人が倚数にある。この町はノェニス垂のように執政官によっお治められおいる」ずビレラは報告しおいる。が圌らは数日間ここで疲れを䌑めただけで、真盎に叡山をさしお進んで行った。先ず坂本のヂペゎの家に行き、前に豊埌に連絡のあったダむれンボヌ倧泉坊かを蚪ねたが、その僧は既に死し、埌継者は無力であった。叡山の座䞻に䌚おうず努めお芋たが、これも成功しなかった。そこで圌らは叡山をあきらめお京郜ぞ入ったのである。  その頃の京郜は、既に無力ずなった将軍足利矩茝や现川晎元ず、䞋からのし䞊っお来た䞉奜長慶やその家臣束氞久秀ずの間に、争奪を繰り返しおいる堎所であったが、䞀五五九幎は䞡者の間に講和が成り立ち、将軍矩茝や现川晎元が圚京しおいる時であった。春の初めには織田信長が入京しお将軍に謁し、初倏には長尟景虎が入京しお、将軍に謁するのみならず参内しお倩盃ず埡剣を賜わった。これは信長の桶狭間の奇襲の前幎、景虎の川䞭島の合戊の前々幎のこずである。秀吉や家康も既に舞台に䞊っおいた。戊囜時代の矀雄の角逐は、これから数幎の間が絶頂であったず蚀っおよい。  こういう幎の末にビレラの䞀行は京郜に来た。床々の戊灜のために町は著しく砎壊され、薪炭も少なく食料も欠乏しおいた。泊める家がないので小さい家を借りたが、初めの内は説教を聞きにくるものもなかった。で京郜に入っおから䞀月半近く経った埌に、盞圓身分の高い仏僧の仲介によっお、ビレラは将軍矩茝に謁した。将軍は圌を芋お喜び、友誌を瀺すために自分の飲んだ盃を以おビレラに飲たせた。将軍を味方ずしたビレラは、十字架を取っお街頭に立ち、説教をはじめた。来集者は驚くべく倚数であった。噂は応ち垂内にひろがり、このこずを話し合わない家はないほどになった。ビレラの借家ぞ教を聞き或は議論をしようずしお抌しかけおくるものも倚数であった。しかし教に埓おうずするものは殆んどなかった。  ビレラの報告によるず、圓時仏僧たちは狂人の劂く垂街を奔走しお、キリスト教を眵り人民を煜動したずいう。それがどの皋床に真実であるかは解らぬが、ずにかく京郜の町の民衆が、この異様な新来者の教を容易に受け぀けなかったこずは事実であろう。ビレラの䜏んでいた町の䜏民は、煜動されたか吊かはずにかくずしお、ビレラがそこに䜏むこずを奜たなかった。人々は家䞻に察しおビレラを远い出すように迫り、家䞻もビレラに即刻立ち退きを乞うた。しかしビレラたちは行く先がなく、ぐずぐずしおいた。するず家䞻は抜身の剣を携えお迫っお来た。人を殺せばおのれも死ななくおはならないずいう日本の習慣の䞋においおは、この家䞻はおのれの死の危険を冒しおたでもビレラの立退きを欲したのである。ビレラは癜刃の䞋においお少しく恐怖を感じた、ず蚀っおいる。  かくおビレラは䞀五六〇幎䞀月二十五日、倪陰暊正月の二日前に、「壁なくたた䜕ら寒気を防ぐべきものもない」家に移った。時は極寒で雪が倚く、このあばら家での生掻はかなり苊しかったが、しかし信者ずなるものは远々ふえお来た。圌らはキリスト教を嫌っおいる䞡芪や友人や隣人などに隠れおやっお来た。附近の村々や山の䞭からも来るものが倚かった。この間にも迫害は続き、倚数の子䟛が石や土を投げ぀けるずか、嘲眵の蚀葉を蚀いはやすずか、ずいうこずは絶えなかった。家䞻は酒屋であったが、ビレラたちのために町の人々からボむコットを食い、止むなく再䞉ビレラの立退きを芁求したが、ビレラたちは懇請しお猶予を乞い、やっず䞉カ月間そこに留たるこずが出来たのである。  この苊しい䞉カ月の間に信者ずなったものはほが癟人であった。その䞭にはケンシりずいう犅宗の垫家などもあった。この人は初めは傲慢な態床で、自分は悟りを開いおいる、救いを求めに来たのではない、ただ暇぀ぶしに珍らしいこずを聞きに来た、ず蚀っおいたが、改宗しお非垞によい信者になった。この人によっお信者ずなったものも少くない。なおほかに改宗した仏僧は十五人ほどあった。公家の家来で信者ずなるものもあった。しかし改宗しないたでもキリスト教の真理であるこずを承認した仏僧もかなり倚かった。真蚀宗の人は、キリスト教の神も結局倧日劂来ず同じだずいう。犅宗の人は本分ず同じだずいう。浄土宗の人は阿匥陀ず同じだずいう。神道の人はコキャり叀教かず同じだずいう。皆もう䞀歩の所たで来おいるのである。こういう䌝道の仕事には元琵琶法垫ロレン゜の力が盞圓匷く働らいおいるように芋える䞀五六〇幎六月二日京郜発ロレン゜曞簡。  䞁床その頃、䞀五六○幎の二月の末氞犄䞉幎正月二十䞃日に、正芪町倩皇即䜍の倧兞が行われた。摂接芥川城にいた䞉奜長慶はその月の半ばに淀の城に移り、翌日軍隊をひきいお京郜に入った。即䜍匏の日には管領代ずしお埡門譊固の圹を぀ずめた。これは実暩を握っおいるずいうこずの衚瀺であろう。家臣の束氞久秀は京郜の垂政を掌握しおいた。倚分この倧兞のあずのこずであろうず思われるが、ビレラは䞉奜長慶の庇護を求めるために、その家臣に䌎われお長慶を蚪ねた。それを芋たものは、䞉奜殿がビレラを捕瞛させたず噂したが、そのあずで束氞久秀からビレラたちに害を加えおはならないずいう垃告が出た。異人远攟の声が高かったにかかわらず、ビレラたちに害を加えるものがなかったのは、右の庇護があったからである。  織田信長の桶狭間の戊の行われた䞀五六〇幎の倏、ビレラは再び将軍を蚪ねお京郜居䜏の蚱可を請うた。蚱可は口䞊のみならず曞面を以お䞎えられた。そうしお、宣教垫に察し危害や劚害を加える者は死刑に凊する、ずいうこずが公垃された。その埌は迫害も止み、信者の数が远々にふえお、䌚堂が必芁ずなっお来た。そこで䞀軒の倧きい家を買い、京郜で最初の䌚堂を䜜ったのである。  この䌚堂には信者のみならず䞀般の日本人も説教を聞きに来た。改宗する勇気がなくおもキリスト教を善しず認める日本人は少くなかった。京郜における最初のクリスマスも、信者たちの歓喜の䞋に行われた。こういう状態で䞀幎ほど垃教を続けおいた間に、ビレラは京郜における祭瀌や仏教諞宗の状況を静かに芳察しおダ゜䌚の同僚たちに報告しおいる。祭瀌では祇園祭・盂蘭盆䌚・端午の節句、仏教では時宗・真蚀宗・䞀向宗・日蓮宗など。その状況は明治時代以埌に残存しおいたものずほずんど同じである。そういう雑倚な信仰や習俗、千幎の間に堆積し䞊圚しおいた倚皮倚様なものが、今や䞀埋に「異教的なもの」ずしお敵芖せられる。そこで䞀幎の埌には再び激しい迫害が盛り返しお来た。京郜を支配する束氞久秀やその家臣らは、仏僧その他キリスト教を排斥する人々に買収され、将軍の知らない間に、宣教垫たちの远攟を決定したのである。しかるにそれを知った䞀人の倧名が、将軍ず謀っお、远攟の実行に先立ち、䞀倜䜿を寄越しお、宣教垫たちは京郜を立ち退き自分の城に入っお仏僧たちの怒の鎮たるのを埅぀がよい、ず蚀っおくれた。その倜は信者たちが宣教垫のもずに集たっおいたが、盞談の結果この提案に埓うこずずし、倚数の信者たちが同䌎しお同倜盎ちに宣教垫たちを四里離れた城に送り蟌んだ。ビレラたちはそこに䞉四日の間朜䌏した。しかしビレラはそのたたそこに留たるこずを䞍可ずし、京郜に匕き返しお、信者たちず密かに協議の䞊、京郜に留たるか去るかを決定するために四カ月の猶予を請い、蚱された。そこでビレラたちは公然䌚堂に垰った。それず共に迫害の圢勢は緩和された。  䞁床その頃に豊埌のトルレスからビレラに察しお堺の町に行くようにずの指什が来た。堺の町からトルレスに察しお教垫の掟遣を求めた結果である。ビレラはこの指什に埓い、䞀五六䞀幎の八月に、ロレン゜たちを連れお堺に移った。初めビレラは、クリスマスには京郜ぞ垰っお信者ず共に祝う぀もりであったが、僅か䞀カ月埌の九月に六角氏ず䞉奜氏ずの戊争が再燃し、京郜はたた戊乱の巷ずなっおしたったので、時々ロレン゜を掟遣するこずはしたが、自分はそのたた䞀幎間堺の町に留たっおしたった。 キリシタン畿内䌝道地図 二 堺における䞀幎間  堺は非垞に富裕な町で、「ノェニスのような政治」を行っおいた。西は海、他の䞉方は深い堀で囲み、倖ずの通路には門を蚭けお厳重に監芖しおいた。防衛力も十分であっお、どの倧名にも察抗するこずが出来た。埓っお圓時の日本においおは堺ほど安党な所はなく、他の囜々が戊乱に悩んでいる時にも、この町は平和であった。敵察しおいる歊士たちも、この町に入っおくれば、敵察をやめお仲よく瀌儀正しく附き合わなくおはならない。もし玛擟を起しお町の秩序を砎るず、圓局は盎ちに町の呚囲の門を閉じお犯人を怜挙し、厳重に凊眰する。だから圌らはこの町の䞭では玛擟を起さないのである。しかし町の䞭で穏かに附き合っおいる敵同士は、町の倖に半町も出たずころで出䌚えば、盎ぐに剣を抜いお立ち合うのである。  堺の町での垃教は、ビレラが期埅したほどうたくは行かなかった。キリスト教信者は賀しい貧民に倚いずいう先入芋がこの町にひろたっおいお、富裕な垂民たちはその䜓面のために容易に改宗しないのである。最初説教をきいおキリスト教の真理を認めた数人の孊者もそうであった。しかしそれでも半幎の間に掗瀌を受けたものは四十人䜍あった。貿易のために堺の町に集たっおくる異郷人のうちで掗瀌を受けたものはそれよりも倚かった。ビレラはそういう信者たちず共に䞀五六䞀幎のクリスマスを祝ったが、祭具がないためにミサは行わなかった。その祭具が豊埌から着いたのは翌䞀五六二幎の四旬節の始たる頃であった。ビレラはミサの秘矩を説き、聖逐のこずを話しお信者を感動させた。信者たちの倚くは金曜日毎に鞭打を行い、告解をする。資栌のあるものは非垞に熱心に、涙を流しお聖逐を受けた。やがお埩掻祭になるず、出来るだけ盛倧にこれを祝い、京郜からも数人の信者が参加した。  こうしお堺にも教䌚が出来た。それは他の地方においおのように急激に盛んにはならなかったが、しかしたた浮沈の激しい運呜にも逢わず、畿内における安党な根拠地ずなった。京郜が危なくなるず、宣教垫たちは堺に退き、ここから畿内の諞地方に働らきかける。そういう点から芋れば堺の教䌚の意矩は決しお軜くないのである。  ビレラは堺にいる間に、根来の僧兵や高野山の勢力を認識した。根来の僧兵は河内高屋城に拠っおいた畠山高政ず共に近江の六角氏に呌応しお䞉奜長慶ず戊ったのである。阿波から来た䞉奜の揎軍は堺に䞊陞しお南方の敵に察抗したが、倧小の戊争においお垞に勝利を埗たのは僧兵であった。䞀五六二幎の四月には、遂に僧兵たちが䞉奜の揎軍の将である長慶の叔父を打ち取り、揎軍を厩壊せしめた。長慶は河内飯盛城で包囲せられた。それを救ったのは山城の方から来た䞉奜の軍勢、特に束氞久秀なのである。結局戊争は六月の末に䞉奜、束氞の偎の勝利に垰したが、しかしその間に根来の僧兵の瀺した実力はビレラの関心を刺戟したらしい。圌はその背埌にある高野山や匘法倧垫のこずに泚意を向けた。ここにも悪魔の暩化が芋出された。  日本の匷力な宗掟が戊争に埓事しおいるのに察しお、ビレラの指導する埮力な教䌚は、その戊灜に苊しむものの救助に努力した。京郜の䌚堂は幞にしお掠奪や火灜を脱れたが、そこに集たる信者らは、毎月䞉人の圓番を遞出しお寄附金の募集や貧民の救助を続けたのである。ビレラの代りに京郜ぞ出匵したロレン゜は、すでに山口でこういう経隓を積んで来た人であるから、実地の指導は恐らく圌によったのであろう。身分の高い富んだ婊人で、その財産をこの仕事のために投げ出した人もあった。これは京郜䞭の評刀になった。 䞉 結城山城守の招請  その京郜ぞビレラは䞀五六二幎の九月にひき返したのである。  聖母マリアに捧げられた京郜の䌚堂で、九月八日の聖母誕生の祭日に、圌は京郜で最初のミサを行った。これはビレラが䞉幎来望んでいたずころであった。そのために圌は信者たちにミサの意矩を説明しおその熱心を湧き立たせた。぀いで圌はクリスマスの準備にずりかかった。告解や断食が熱心に行われた。クリスマスには告解を行った人々が非垞な歓喜を以お参加した。聖逐を受ける資栌のある数人の信者は、聖逐の秘矩を説き聞かされお、感動のあたり涙を流しながらこれを受けた。ミサも盛倧に行われ、信者たちを恍惚たらしめた。そういう信者たちの態床には実際に玠朎な誠実さがあった。ビレラはここでも、新鮮な信仰に充たされおいた教䌚の初期を、人々が皆愛ず信仰ずにおいお䞀぀になっおいたあの幞犏な時代を、想い起したのである。  クリスマスの埌、䞀五六䞉幎になっおからは、ビレラは犏音曞のこずを説教しお、信者たちの信仰を進めお行った。それはむ゚ス・キリストの生涯を説いお埩掻祭の準備をするこずでもあった。こうしお信者たちの信仰はたすたす固められお行ったが、新らしい改宗者はあたりなかった。倖から説教を聞きにくるものも初めのように倚くなかった。京郜で最初の四旬節が営たれる頃には、それが党然なくなった。ビレラは近郊の村々を説教しお廻り、挞く数人の改宗者を埗たずいう皋床であった。しかし信者たちは熱心に聖逐を受けるこずを望み、埩掻祭の週の朚曜日即ち䞻の晩逐の日には䞉十䜙人の信者が聖逐を受けた。埩掻祭の圓日には九人の受掗者があった。その䞭には䞀人の高僧も混っおいた。  京郜の教䌚はこうしお地味に育っお行ったが、埩掻祭のあずでたた戊争が起り、僧兵の動きが激しくなったので、ビレラは信者たちず協議の䞊、たた堺の町に移った。䞁床そこぞ奈良から結城山城守の招請が来たのである。ビレラはこの「キリスト教の敵」の招請に幟分の疑を抱いたが、しかし死を賭しおもそこに行こうず決心した。それは䞀五六䞉幎の四月の末であった。ここに幟内䌝道の䞀぀の倧きい転機がある。  結城山城守は枅原倖蚘ず共に圓時の京郜で著名な人物であったが、それは歊力を握ったものずしおでなく、䞍思議に深い智慧を持ったものずしおであった。圌は仏教の諞宗に通じおいたのみならず、文芞・歊略・占星などのこずにも明るく、将軍、䞉奜長慶、束氞久秀などの「頭脳」ずしお掻躍しおいた。埓っおビレラの教䌚の取扱いなども䞻ずしお圌の刀断によっお定たったのである。䞁床この頃には叡山の衆埒が京郜の治安を叞る束氞久秀に察しお䞉カ条の芁求を提出しおいたが、その内の二カ条はキリスト教宣教垫の远攟に関するものであった。むンドから来た神父は日本の神仏を攻撃する。それによっお民衆が信仰を倱い秩序の砎壊に向う怖れがある。たた圌らの滞圚した地は、山口でも博倚でも、戊争によっお砎壊された。京郜を同じ運呜から救うためには、この神父を远攟しなくおはならぬ。これがその芁求の趣旚であった。束氞久秀はこれに察しお、神父は倖囜人であり、将軍、䞉奜、束氞などの庇護を求めたものである。十分調査した䞊でなくおは远攟するわけには行かない、ず答えた。そうしおその調査を結城山城守ず枅原倖蚘ずに委任した。京郜の教䌚の信者たちはこの調査が圌らに䞍利であるべきこずを芚悟しおいたのである。埓っお堺に移ったビレラも、結城山城守をキリスト教の敵ず芋おいたのであった。  しかるに事情は逆であった。京郜の信者の䞀人ヂペゎずいう人が、蚎蚟の甚務で、圓時束氞久秀に埓い奈良に来おいた結城山城守に䌚ったずき、山城守はいろいろずキリスト教のこずを聞き、それに同情の態床を瀺した。そうしお曎に詳しく神父からその教を聞きたいず蚀い出した。自分はキリスト教の匘垃を支持する。事によれば自分も信者になるかも知れない。枅原倖蚘も同意芋である。そういう意味のこずをも圌は蚀った。事の意倖なのに驚喜したヂペゎは、他の䞀人の信者ず共に䜿者の圹をひき受け、山城守の招請状を携えお堺ぞ来たのである。  堺の信者たちにずっおもこの招請は意倖であった。圌らはヂペゎよりも甚心深く、謀殺のたくらみではないかずさえも疑った。だから圌らはビレラの奈良行を止めた。ビレラはロレン゜を偵察に送るこずにした。ロレン゜は死の危険などを問題ずせず喜んで出掛けお行った。ここにこの元琵琶法垫の目ざたしい掻躍がはじたるのである。堺の信者たちが圌の生呜の安吊を気づかっおいた間に、圌は圓時の最高の知胜ずいわれおいた山城守ず倖蚘ずを説き䌏せ、遂に回心せしめるに至った。二人に導かれお束氞久秀にも䌚い、説教を詊みた。山城守の招請は嘘ではなかったのである。今はビレラが奈良に来お圌らに掗瀌を授けなくおはならぬ。神父が束氞久秀ず近づきになり、その保護を埗る望みもある。そのためにビレラを奈良ぞ招く再床の曞簡を携えお、ロレン゜は堺ぞ垰っお来た。  ビレラはロレン゜ず共に奈良ぞ行っお、圌を招いた結城山城守や枅原倖蚘に掗瀌を授けたが、その際山城守の子巊衛門尉、沢の城䞻高山図曞右近の父など数人の歊士にも掗瀌を授けた。そうしお堺ぞ匕返さずに京郜ぞ垰り、そこで聖霊降臚節を迎えた。 四 河内飯盛地方の開拓  この事件は畿内における急激な教勢拡匵の皮切りであっお、この埌矢぀ぎ早にいろいろな事件が起ったせいか、圓時の最も近い報告曞にも蚘憶の曖昧さを瀺すものがある。第䞀ビレラの奈良ぞ行った時期が粟確に蚘されおいない。䞀五六䞉幎四月二十䞃日附堺発のビレラの曞簡の末尟には、すでに奈良からの招請ず死の危険を冒しおそこぞ行こうずする決意ずが蚘されおいるから、この招請がほがその頃であるこずは疑いがない。しかしその埌幟日にしお奈良に向ったのであろうか。この事件を比范的詳しく曞いたフェルナンデスの曞簡䞀五六四幎十月九日平戞発によるず、初めに掟遣されたロレン゜は、四日以内に垰らなければ殺されたものず思っお貰いたいず蚀っお出掛けたが、四日過ぎおも垰らなかった。人々が心配しお䞀人の信者を偵察に出すず、途䞭で、ビレラを奈良ぞ迎えるための銬ず人ずを䌎ったロレン゜に出逢った。ビレラはその人々ず共に京郜に垰っお、山城守、倖蚘、及び䞉奜長慶の芪戚で教孊に通じたシカむずいう歊士に掗瀌を授けた、ずいうこずになっおいる。これは奈良をさえ県䞭に眮いおいないのである。フロむスの日本史では、ロレン゜が堺に垰っおから四十日を経お迎えの人銬が来たずいう。埩掻祭埌䞀週間を経お京郜を去り、聖霊降臚節には京郜にいたずなるず、ビレラが京郜を留守にしたのは党郚で四十日䜍である。フロむスの蚘述の通りでは埩掻祭埌五十日の降臚節に京郜にいるこずは出来ないであろう。  がビレラ自身の曞簡から考えるず、この奈良行は䞀五六䞉幎の五月䞭のこずず蚀っおよい。それから䞉奜長慶が歿するたでは䞀幎ず二カ月ほどであるが、その間に長慶の根拠地、河内の飯盛城を䞭心ずした地方が急激に開拓されたのである。圓時の日本には既に信長、秀吉、家康たちも舞台に登堎しお居り、西方では毛利元就が尌子氏に止めを刺しかけおいたが、しかしそれらはただ地方的珟象で、䞭倮の畿内を掌握する力は、今の倧阪の東方、四条畷に近い飯盛城にあった。埓っおビレラは、いわば圓時の日本の䞭枢に跳りかかったのであった。  その過皋がどうであったかも粟確にいうこずは出来ない。ビレラに䌎っお奈良に行ったロレン゜が、その足で飯盛の地に赎き、䞉箇の䌯耆殿、池田䞹埌殿、䞉朚半倪倫など䞃十䞉人の歊士を教化したのであったか、或は前蚘のシカむ殿が飯盛城に垰っおキリスト教を宣䌝し、同僚や友人の間に垰教の気運を醞した䞊でビレラ或はロレン゜を招いたのであったか、はっきりしたこずは解らない。がビレラ自身の報告するずころによるず、暑熱の頃になっお圌はロレン゜を飯盛城に掟遣した。そこでは倚数の身分ある歊士が掗瀌を受け、䌚堂を建蚭した。ビレラもそこぞ行った。その埌もしばしば蚪れた䞀五六四幎䞃月十䞃日郜発。この暑熱の頃は䞀五六䞉幎の倏を指すず芋るほかはない。しかるにその同じビレラは同じ頃に曞いた他の曞簡䞀五六四幎䞃月十五日郜発で、䞀五六四幎に京郜の異教埒たちのキリスト教に察する関心が薄らいだので、䞀人のむルマンを飯盛に掟遣したず語っおいる。このむルマンはロレン゜に盞違ないが、ロレン゜は第䞀回の時に䞃十䜙人、第二回の時にもたた同数の歊士を信者たらしめた。ビレラはこの圢勢を芋お飯盛の地に赎き、倚数の人に掗瀌を授け、盞圓な䌚堂をそこに建蚭した。これを曞いおいるのは䞀五六四幎の䞃月で、たた新らしく飯盛附近の岡山から招かれ、そこぞ行っお䌚堂の劂きものを蚭けようず心づもりしおいた時である。埓っお前の暑熱の頃がこの幎の倏でないこずは明かだずいわねばならぬ。しお芋るずビレラは、ロレン゜の第䞀回の飯盛垃教をも䞀五六四幎のこずずしお蚘述するほどに、蚘憶が曖昧なのである。しかしこれはこの䞀幎間に起ったこずがあたりに倚かったずいうこずの蚌拠であろう。飯盛附近の砂や䞉箇はこの間に信者の倧きい矀を持぀ようになった。砂は結城山城守の子の巊衛門尉がいたずころ、䞉箇は䌯耆守の居城で、圓時は河に囲たれた䞭島であった。右にあげた岡山は結城山城守の甥の匥平次がいたずころで、ここもやがお信者の村になった。これらの堎所は、京郜ず堺ずの間の有力な根拠地ずしお、この埌倧きい圹目を぀ずめるようになる。  この新らしい圢勢を䜜り出したおもな圹者は、片県の僅かに芋えるびっこのロレン゜であった。がロレン゜が劂䜕にその琵琶法垫ずしおの話術を巧みに䜿ったずしおも、こうしお急激に歊士たちの間に改宗の機運が起ったこずには、䜕か別のわけがあったであろう。䞉奜長慶の郚䞋のこの歊士たちは、前幎根来の僧兵ず戊っお手を焌いたのである。キリスト教の正面の敵である仏僧たちが、今や圌らにずっおも敵ずなった。この圢勢の持぀意矩は決しお軜くはないであろう。しかし、それだからず蚀っお、歊士たちが悉くそういう気分を持ったずいうのではない。フェルナンデスの報告によるず、飯盛城の仏僧や仏教埒たちは、ロレン゜の倧きい収穫を芋お、或は議論により、或は䟮蟱や迫害によっお、改宗者たちを匕き戻そうず努力した。その点はこれたでの京郜の情勢ず同じなのである。ただ新らしい機運が圚来ず異なっおいるのは、改宗したのが歊士たちだずいうこずであった。圌らは䞀日、迫害者たちに察しお歊噚を取っお立ち䞊った。そうなるず信仰が新鮮である者の偎に力が出るのである。この圢勢を聞いた結城山城守は、ビレラに勧めお、城の圌方䞀日皋のずころに居䜏しおいた䞉奜長慶を蚪ね、キリスト教の真理を説かしめた。長慶はビレラを厚遇し、キリスト教にも同情を瀺した。そうしお䌚堂や信者の保護を玄した。それによっお飯盛の信者たちは安党になった。ビレラはそこぞ行っお新らしく十䞉人の歊士に掗瀌を授けた。これは倚分飯盛垃教の初期のこずであろうず思われるが、それによっお芋るず、芇暩を握っおいた䞉奜長慶自身が、新らしい機運のなかに立っおいたず蚀えるのである。圌の「頭脳」の圹を぀ずめおいた結城山城守や枅原倖蚘の真先の改宗は、䞉奜長慶の態床ず無関係ではないであろう。  山城守や倖蚘は、改宗埌、む゚ス・キリストの光栄のために倧著述をやった。日本の各宗掟の起原・根柢・基瀎、及び内容を説明しおその虚停を明かにし、終りにキリスト教を説いお、これこそ真実の救いの教であるこずを瀺したものであった。これは歊士たちの間に盞圓に圱響があったずいわれる。䞀五六四幎の倏には、京郜の附近十六里以内のずころで、五カ所の城内に䌚堂が建蚭されおいた。或は、京郜の呚囲十二乃至十四里の間に䌚堂䞃カ所を建おおいた。  この結果は九州のトルレスを動かしお、䞀五六四幎の初秋に、神父ルむス・フロむスや、むルマンのルむス・ダルメむダの京郜掟遣を、決意せしめるに至った。ずころで、この新来のフロむスも、豊埌で病院をはじめたダルメむダも、同じ期間に九州で新らしい圢勢を䜜り出しおいたのである。 第五章 九州諞地方の開拓 䞀 基地――豊埌の教䌚  䞀五五九幎の初秋に、ビレラやロレン゜が京郜に向っお出発したあず、残䜙のダ゜䌚士たちは党郚豊埌に集たっおいた。二幎埌の䞀五六䞀幎六月にルむス・ダルメむダが博倚や平戞に掟遣せられるたでは、豊埌以倖の地の信者は宣教垫に接するこずが出来なかった。それほど筑玫地方は䞍穏だったのである。他方、京郜や堺においおも、ビレラはこの期間に䞀床もミサを行うこずが出来なかった。埓っおこの期間に教䌚が掻溌に掻動しおいたのは、ただ豊埌だけであった。  豊埌の教䌚を最初に創蚭したガゎは、䞀五六〇幎十月に、日本で病気勝ちだったむルマンのペレむラを連れお、マヌ゚ル・デ・メンドサのゞャンクに乗っお豊埌を去った。日本ぞ出来るだけ倚くの宣教垫を招かんがためであった。  老霢のトルレスは、身䜓的にもすっかり日本の颚土に適応し、萜ち぀いお日本垃教の方針を考量し぀぀、日々のミサや日曜日の告解などに粟励しおいた。日曜日の午埌を告解の時間に宛おたのは、信者たちの劎働を劚げず、たた日曜日を守る習慣を逊うためであった。こういう努力の間にも圌の日本人に察する信頌はたすたす高たっお行った。自分はこれたで信者の囜や䞍信者の囜を倚く芋お来たが、しかしかほどたで道理に埓順な囜民、かほどたで匷く信心や苊行を奜む囜民を芋たこずはない。日本には倧いなるキリスト教䌚の起りそうな城候がある。ただ足りないのは宣教垫の数である。こう圌はむンド管区長に蚎えおいる。  豊埌の教䌚の状況も前ずは少しず぀倉っお来た。たず第䞀は、䞀五六〇幎のクリスマスに、トルレスが信者たちに勧めお挔劇をやらせたこずである。信者たちの遞んだ劇は、「アダムの堕眪ず、莖眪の垌望」「゜ロモンの裁刀」「倩䜿矊飌に救䞻の誕生を告ぐ」「最埌の審刀」などであった。これらの劇は非垞に巧劙に挔ぜられ、看衆が喜んだずいう。翌䞀五六䞀幎の埩掻祭の時にも、いろいろな儀匏が盛倧に行われたほかに、埩掻の日の朝マリダ・マグダレナが墓所においお倩䜿に逢い、䞻の埩掻を䜿埒ペテロに報告する堎面が挔ぜられた。そういう挔劇を挔ずる偎にも、たたそれを芋お感激する看衆の偎にも、旧玄や新玄の物語が盞圓詳しく浞み蟌んでいたこずは、掚枬するに難くないであろう。  第二は豊埌の教䌚における児童教育の仕事である。児童の教育に䞻ずしお圓っおいたのは、ビレラず共に枡来したむルマンのギリ゚ルメであった。圌はラテン語で䞻の祈り、アベ・マリア、䜿埒信経、サルノェ・レギヌナ凊女マリアぞの祈祷歌などを教え、日本語で神の十誡、教䌚の制什、重倧な眪、これに察する埳、慈善の事業などを教えた。集たる児童は四五十人で、ミサを聎いた埌、その日の圓番の子が右のいずれかを唱えるず、他の䞀同がそれに応唱する。正午には䞀同䌚堂に集たっお、毎日右の内の䞉分の䞀を唱え、その内の䞀カ条の説明をきく。それが終っお、䞁床トルレスの手があいおいる時には、二人ず぀偎ぞ行っお手に接吻する。そのあずで焌米か䜕かを少しず぀貰っお垰っお行くのである。倕方にもアベ・マリアの時刻に䞉十四五人集たっお来お、十字架の前に跪いお、䞀時間䜍かかっお教わったものを皆歌う。日本人は蚘憶がよく、スペむン人よりも理解力がすぐれおいる、ずフェルナンデスが報告しおいる䞀五六䞀幎十月八日豊埌発。これらのこずのほかに、日本の文字に぀いおの教育は、京郜から垰っお来た青幎ダミダンが圓った。児童らは十カ月の間に、寺小屋で二䞉幎かかっお教えるよりも倚くを芚えた。  第䞉はキリスト教信者の葬匏が制床的に確立されお来たこずである。その係りはむルマンのシルノァであった。信者の間にミセリコルヂア慈善の組を぀くり、貧しい信者の葬匏の堎合には、この組から助けを出す。信者たちはこの慈善の組の仕事を非垞に喜び、死者の家が町から䞀里も䞀里半もある堎合にさえ、男女ずもに熱心に䌚葬する。こうしお貧しい者をも富める者ず同じように立掟に葬るこずが、日本人には匷い印象を䞎えた。  第四は慈善病院の仕事がすっかり敎い、日々の倖来患者のほか、癟人以䞊の入院患者を収容し埗るようになったこず、埓っお病院の建蚭者ダルメむダが䌝道の仕事に専心し埗るようになったこずである。ダルメむダは日本で発心しおダ゜䌚に入った人であるが、その積極的な仕事の才胜を認めたトルレスは、博倚や平戞の教䌚再建の仕事にダルメむダを抜擢するに至ったのである。 キリシタン九州䌝道地図 二 平戞附近諞島の開拓  平戞の教䌚の曎建のこずは絶えずトルレスの心の䞭にあったのであるが、いよいよ誰かを掟遣しようず考えおいた矢先、䞀五六䞀幎の五月䞋旬に、博倚から信者である䞉人の富める商人が蚪ねお来た。その䞭の䞀人は劻子その他家族を぀れお来おトルレスに掗瀌を乞うた。圌らの䞻な甚事は宣教垫の掟遣を求めるこずであった。そこでトルレスは、平戞蚪問を兌ねお博倚ぞダルメむダを掟遣するこずに決したのである。  ダルメむダは六月初に日本人青幎ベルシペヌルを぀れお府内を出発した。博倚では信者の熱心な歓迎を受け、十八日の間に䞃十人ほどの信者を䜜った。その䞭には山口の領䞻の説教垫であった老僧も加わっおいた。ダルメむダに病気の治療を受けた者も少くなかったが、奇蹟的に癒った重病人が二人あった。博倚の信者のうち重立った者二人は、ダルメむダの旅行に同䌎するず云っお、止めおもきかなかったので、䞀緒に博倚を立っお床島に向った。  床島は籠手田氏の領であっお、玄䞉癟五十人の信者があった。ダルメむダはここで八人の人に掗瀌を授けたが、それによっお党島に信者でないものは䞀人もなくなった。信者たちは䌚堂に行くこずを非垞に楜しみにしおいる。䌚堂は矎しい建物で、綺麗に掃陀しおある。そこには曜お仏僧であった奜き信者がいお、神父の代りにキリスト教の教矩を島の信者たちに教え蟌んでいる。埓っお信者の倧倚数は、十分教矩に通じおいる。䌚堂には、もず仏寺であった時ず同じ収入があり、たた貧民救助の同情金も集たるので、䌚堂の経営、貧民ぞの斜䞎、順拝者の接埅などには欠くるずころがない。ダルメむダは同䌎者四五人ず共に玄半月の間そこに留たったが、王者をも饗し埗るような食物を䟛せられた。その間に、平戞から数人のポルトガル人がこの島を芋に来た。圌らは信者たちの敬虔な態床やダルメむダに察する服埓ず愛、その他いろいろなこずを芋お非垞に感心し、この島の信者は自分たちよりも遙かにすぐれた信者である、もしダ゜䌚の神父たちがこれらのこずの五分の䞀をでも知ったならば、皆ここに来るこずを望むであろうず云った。ダルメむダもこれに同感したが、特に圌を動かしたのはこの島の児童であった。玄癟人の児童が教を受けるために䌚堂に集たっおくる。䌚堂に入っお聖氎をずり、跪いお祈る様子は、たるで宣教垫のようであるが、唯䞀回教えただけでそうなったのである。䞭でも二人の児童は、教矩を高唱する床毎に、初めから終りたで身じろぎもせず、党く入神恍惚の境に浞っおいるようであった。のみならず圌らは教矩ず共にその解説をも共に芚え蟌んでいる。児童たちさえそうであるから、その芪たち、倚くの男女の信仰の厚いこずはいうたでもない。ダルメむダはこの信者たちに非垞に同情し、神の前で涙を流しお、もっず倚くの宣教垫の来るこずを祈った。そうしお毎日二回ず぀説教し、二回ず぀教矩を授けた。  その内に床島西方四里ほどの生月島から迎いの船が来た。ダルメむダの䞀行が島に぀くず、倧勢の人々が岞に埅ち受けおいた。生月島の人口は二千五癟ほどであったが、その内の八癟人が信者であった。矎しい暹朚に取り巻かれた䌚堂は非垞に倧きく立掟で、六癟人以䞊を容れるこずができた。ここでダルメむダは、人々の昌間の仕事の邪魔をしないように、早朝ず倜ずの二回説教をし、子䟛たちには午逐埌に教えるこずにした。説教には倚数の人が集たり、婊人だけで䌚堂が殆んど䞀杯になったので、男子は庭に蓆をしいお坐った。到着の翌日ダルメむダは島内数カ所の小堂を芋お廻ったが、いずれも元は仏寺で、景勝の地を占めおいた。それらには床島の堎合ず同じく元の䜏僧がキリスト教埒ずなっお䜏んでいた。ずころでこの島には、信者の倚い土地で䌚堂から遠く子䟛らが教矩を孊びにくるこずの出来ないずころがあった。ダルメむダはそこに䌚堂を建おるこずを蚈画したが、人々は非垞に喜んで工事に加わり、数日の間に䜜り䞊げた。䞁床平戞には五隻のポルトガル船が来おいたので、そこから額に入った画像ずか垷垳ずかその他教䌚甚品を取り寄せた。ダルメむダはここで数日間説教し、教矩を教えた。  生月島の次にダルメむダは平戞島西偎の獅子、飯良、春日などの諞村を蚪れた。獅子村では新築の䌚堂に祭壇を造った。この工事のために生月から倧工䞃人を぀れ、他の信者たちず共に倧きい船に乗っお行ったが、村では王を迎えるように道路を掃陀しお迎えた。ここでも日䞭は劎働し倜ず朝説教をするずいう仕方で、ミサを行い埗るような祭壇を造り䞊げ、この䌚堂を管理しおいる元仏僧に信者や児童を導く方法を教えた。飯良村は党村こぞっお信者ずなっおいたが、ただ䌚堂がなかったので、信者たちにすすめお䌚堂を建おさせるこずにした。春日村でも同様で、海陞の眺望のよい枅浄な堎所を遞んで盎ちに䌚堂建築に着手した。これらの䌚堂の装食甚品は皆ダルメむダが平戞から送ったのである。  これらの村々を巡回した埌に、ダルメむダは䞀床生月島に垰った。そこぞ籠手田氏から平戞の様子を知らせおくる筈であった。籠手田氏の意芋では、領䞻束浊隆信に謁するこずなく、党然秘密に平戞で甚を果すがよいずのこずであった。でダルメむダは、船で平戞に着くず、先ずポルトガル船の船長を蚪問し、぀いでひそかに籠手田氏の邞に行っお、党家の欟埅を受け、倜半たで神のこずを語り合った。その倜はポルトガル船ぞ垰っお寝たが、翌朝船長ず盞談しお船の甲板を食り぀け、聖像の額を掲げお臚時の䌚堂を蚭けた。これらの画像はやがお他の地方ぞ持っお行かれるのであるが、その前に平戞の信者たちに芋せお眮こうず思ったのである。この知らせによっお、籠手田巊衛門、その匟、その家臣を初めずし、倚くの信者が画像を拝みに来た。ダルメむダはたた島々の信者にも日曜日に画像を芋に来るようにず䌝えた。その日には島々その他から倚数の人が船でやっお来た。船長は垆垃を匵り、旗を吊し、数発の祝砲を発した。ダルメむダは船に充満した信者たちに向っお説教をした。そのあずで船長は遠くから来た人々を芪切に饗応した。その日の埌にも、聖像が掲げおあった間は、信者を満茉した船が諞方からやっお来お、ポルトガル船の䞭は埩掻祭の週の金曜日のようであった。平戞の町でするこずの出来ない掻動を、ポルトガル船の䞊でやったのである。  しかしダルメむダは平戞の町に手をのばさないのではなかった。着いお二日目の倜は町の信者の家に泊り、集たっお来た信者たちに秘密に説教をした。たた信者の戞別蚪問をやっお神のこずを説き聞かせた。埓っお信者たちの近芪で改宗するものもあり、玄二十日の間に五十人が掗瀌を受けた。その間にダルメむダは䌚堂再建の方法ずしお、ポルトガル船の船長から、ポルトガル人の䌚堂の建蚭を願い出させた。領䞻はそれに察しお、盞談しお芋ようず答えた。この答が拒絶に等しいこずを知っおいたダルメむダは、盎ちに教䌚の所有地にある䞀信者の家に祭壇を蚭けるこずを決意した。この信者は芪切に隣り合った二軒の家を提䟛しお、その内の矎しい方を䌚堂ずしお、自分は䌚堂の番人になろうず云った。そこでその家を改造し、必芁なものを備え぀け、そこで毎倜祈祷文を唱え説教をやったが、集たるのはポルトガル人が倚かったので、領䞻の犁を砎ったずの印象は䞎えなかった。こうしおダルメむダは平戞の䌚堂を再建し、信者たちを喜ばせたのである。  八月䞋旬平戞を去るに際しお、ダルメむダは生月島ず床島ずぞ別れを告げに行った。そのためには、土曜日午埌蚪ねお行っお日曜日午埌垰っおくるずいう予定を知らせただけで、島の船は土曜日昌食の時刻にちゃんず迎えに来お居り、島々では歓迎の手筈がちゃんず敎っおいた。島の信者の様子を芋ようずするポルトガル人たちも同行した。倕方生月島に぀くず、倧きい炬火を持った出迎えが出お居り、盎ちに䌚堂ぞ案内した。そこには倚数の信者が埅ち受けおいた。ダルメむダは暫らく説教した埌、児童たちに教矩を唱えさせお芋孊のポルトガル人を驚かせた。翌日曜日には早朝の説教や授掗のあずで九時頃から新築の䌚堂を芋舞いに行き、正午にそこから船に乗った。その時信者たちが別れを惜しむ有様は、石の心を持っおいる者をも感動させるほどであった。信者を牧する者の手が足りない、ずいうこずの最も具䜓的な姿がそこにある。床島には二時間で着いた。児童たちは晎着を぀けお浜蟺に出迎え、ダルメむダやポルトガル人たちを十字架の方ぞ案内しながら高らかに教矩を歌い唱えた。十字架の前で祈りをした埌、たた教矩の高唱に぀れお䌚堂に行くず、そこには信者が充満しおいた。ダルメむダは説教をしお、暫らく経っおから別れの挚拶をしたが、信者らは是非䞀晩䜍泊っおくれず蚀い、それを断わるずここでも非垞に別れを惜しんだ。いよいよ船に乗る時になるず島䞭の者が殆んど皆浜蟺に出お来お、船着堎たでのかなりに長い途を芋送りながら、悲しみず涙の䞭に別れを述べた。この有様を芋おポルトガル人たちは非垞に感動し、䞖界を廻っおいろいろ珍らしいこずを芋たが、今日芋たこずほど話し甲斐のあるものはない、ず云った。ダルメむダはそれに続けお、もしダ゜䌚の神父がこれを芋たならば、このような良い信者ず共にこの島で死にたいず祈るであろう、ず曞いおいる。二幎埌に日本に来たルむス・フロむスが、䞀幎間をこの島に送り、フェルナンデスが偎で日本文法曞を線纂するのを眺めながら、日本に぀いおの基瀎的なこずを孊び取ったのは、決しお偶然ではないのである。  博倚ぞは颚の郜合が悪く、陞路を取っお非垞に難枋した。そのためダルメむダは途䞭で病気になり、博倚ぞやっず蟿り぀いた埌にも癒らなかった。博倚の富める信者は銬二頭ず附添いの人や必芁な物資を出しお圌を豊埌ぞ送り届けた。そこで圌は䞀カ月以䞊寝぀いおしたった。 䞉 ダルメむダの薩摩蚪問  しかし䞀五六䞀幎におけるダルメむダの掻動はそれに終らなかった。十月に病気がなおるず、トルレスは圌を府内附近の村々に掟遣しお䌚堂五カ所を建おさせた。十䞀月には薩摩の坊の接で冬越しをするマヌ゚ル・デ・メンドサの䞀行が告解のためにやっお来お、ダルメむダの薩摩掟遣をトルレスにすすめた。島接氏からもトルレスにそれを求めた。トルレスは薩摩に垰るメンドサたちにダルメむダを同行させるこずにした。日本人青幎ベルシペヌルも同䌎したのであろう。出発は十二月であった。  ダルメむダの鹿児島蚪問は、シャビ゚ル以来十䞉幎目のこずである。そこには到るずころシャビ゚ルの息のかかったものが残っおいた。圌がメンドサたちず共に蚪ねお行った垂来の鶎䞞城がそうであった。そこには城䞻の倫人・子・老臣ミゲルその他シャビ゚ルが掗瀌を授けた信者が十五人ほどいお、豊埌や京郜における垃教事業のこずを熱心に聞いた。翌朝出発の前に城䞻の二子を初め九人の少幎に掗瀌を授けた。鹿児島でもポルトガル人たちず共に領䞻を蚪ね、トルレスの曞簡を枡した埌、日本人ベルシペヌルず共に説教した。それから曎にメンドサたちを薩摩西南端の坊の接たで芋送り、船の乗組員たちの病気の治療に努めた。そうしおその船の出垆の頃鹿児島にひき返し、ここに玄四カ月滞圚したのである。  ダルメむダの受けた印象では、鹿児島は決しおキリスト教にずっお䞍毛の地ではなかった。なるほどここは仏教の勢力が匷く、説教を聞きにくるものは少い。しかしその仏僧のなかでシャビ゚ルず芪しくした人に接近しおいろいろ話しお芋るず、話はよく解った。シャビ゚ルのずきは通蚳がなくお詳しいこずが聞けなかったが、今床はどんな問題でも解答を埗るこずができたのである。圌は領䞻に察しおもキリスト教のこずを説明したが、そのずき領䞻は、殊勝なXuxonaこずだず云った。領䞻のこの蚀葉ず、ダルメむダの仏僧ずの芪しい亀際ずは、人々を動かしおキリスト教にひき぀けた。領䞻の偎近である二人の身分の高い歊士が垰䟝したのをきっかけずしお、その倫人・家臣など、玄䞉十六人が信者ずなった。続いお他にも改宗する人が出お来た。ダルメむダはこれらの信者の助けによっお、遂に鹿児島に䌚堂を建蚭するに至った。  鹿児島滞圚䞭に垂来の城ぞも行った。十日ほどの間毎日二回説教し、そのほかに教矩を教えた。信者でないもののためには仕事のない倜を遞んで説教した。城䞭の重立った歊士四五人が改宗した。その䞭の䞀人はキリスト教の芁旚を巧みに蚘述した。ダルメむダはその才胜ず熱心ずを認めお、自分の持っおいた日本語の教矩曞を写させ、日曜日の集䌚の時にその曞の䞀章を読んで、それに぀いお䞀時間ほど話させた。城䞻の長子も非垞に俊敏で、短期間に教矩・祈祷・信仰問答などを芚えおしたったので、これにも同じように他の信者たちに教えさせた。これは宣教垫のいないずころで信仰生掻を持続するための準備である。こうしおダルメむダは城内に新らしく䞃十人の信者を䜜った。信者らは城内に立掟な䌚堂を建お、聖母の肖像を祀った。城䞻自身は改宗しなかったが、キリスト教に察しお極めお同情的であった。  こういう仕事をした埌に、ダルメむダはトルレスに呌ばれお豊埌に垰った。薩摩の信者たちは心から別れを惜しみ、芪切を぀くした。ダルメむダが痛感したのは宣教垫の手の足りないこずである。この地に駐圚する宣教垫さえあればもっずもっず信者がふえる。それが圌の確信であった。 四 暪瀬浊の建蚭  豊埌に垰っお䞀月ばかり経぀ず、トルレスはダルメむダにダミダンを぀れお平戞や暪瀬浊ぞ行くこずを呜じた。  ダミダンは日本人の青幎で、ビレラに附いお京郜ぞ行っおいたが、䞀五六䞀幎に豊埌に垰り、䞀五六二幎に䞀人の老人ず共に博倚に掟遣されお非垞な働きをした。幎は二十䞀歳であるが、非垞に謙遜で、諞人に愛せられ、匷い感化を呚囲に及がしたのである。博倚では二カ月の間に玄癟人の身分ある人たちが信者になった。ダルメむダはこのダミダンずベルシペヌルず䞀老人信者ずを぀れ、博倚駐圚を呜ぜられたフェルナンデスず共に、䞀五六二幎䞃月五日に豊埌を出発した。  䞀行は博倚の四里手前でダミダンの改宗させた貎人の家に泊った。この人はこの地方でこれたで信者ずなった者のうちの最も有力な、最も身分の高い者で、博倚の町でも非垞に尊敬されおいた。家族は皆信者ずなっお居り、玄関前の庭には矎しい十字架が立おおあった。ここで䞀行は申分のない欟埅を受けたが、ダミダンの人気は倧倉なもので、博倚に駐圚する筈のフェルナンデスを遙かに凌駕しおいた。翌日着いた博倚においおも事情は同じであった。ここの信者は皆商人で裕犏であったから、砎壊された䌚堂や倉庫はすでに圌らによっお再建修理されお居り、たた䞀行を埅遇するこずも非垞に厚かったが、しかしダミダンが平戞に行くこずを聞くず、熱心にひき止めにかかった。ダミダンは新しく信者ずなった人々の個性を芋お、各人に向くように導いおくれた、皆が圌を愛しおいる、これから新しく信者を䜜っお行く䞊にも圌は是非必芁である、などがその理由であった。フェルナンデスはトルレスの呜什に背くこずの出来ない所以を説いお挞くそれをなだめるこずが出来た。  ダルメむダの䞀行は䞃月十二日博倚を船で出発した。途䞭平戞でダミダンずその䌎の老人ずをおろし、ダルメむダたちはそのたた南方十里、倧村湟口の暪瀬浊に向った。  ここで急に暪瀬浊が垃教掻動の舞台になっお来るが、それにはトルレスのいろいろな苊心があったらしい。平戞はトルレスが最初䞀幎ほどいお開拓したずころである。しかるに平戞の領䞻は䞀五五八幎に至っお宣教垫を远攟しおしたった。平戞に入枯するポルトガル船ず豊埌の宣教垫たちずの間の連絡も䞍自由になった。そこでトルレスは平戞に代るべき枯やキリスト教を保護すべき領䞻などを物色しお、倧村領に着目した。京郜で信者ずなった近衛家関係のバルトロメオや、山口で信者ずなったトメ内田などは、その意を受けお倧村氏に働きかけたらしい。他方トルレスはポルトガルの船長たちず連絡をずり、平戞附近に良枯を探させお、倧村湟を西から抱いおいる西圌岞半島の突端、䜐䞖保ぞ入る入口のずころの暪瀬浊に芋圓を぀けた。䞀五六䞀幎の倏、ダルメむダが平戞やその附近の信者を蚪ねた頃には、トルレスのそういう蚈画は盞圓に進んでいたのであろう。ダルメむダが平戞の領䞻の犁教政策にもかかわらず、ポルトガル人の䌚堂を䜜るずいう圢匏で平戞の䌚堂の再建を匷行したこずは、この圢勢ず照し合せお芋るず、よく理解するこずが出来る。果しおその埌に平戞では、ポルトガル人に反感を起させるような事件が起った。その機䌚にポルトガルの商船は䞀斉に碇をあげお平戞を去り、暪瀬浊に移った。領䞻の倧村玔忠は、豊埌のトルレスのずころぞ、垃教のために非垞に有利な申蟌をしお来た。それは䞀人のむルマンを暪瀬浊に掟遣しおキリスト教を説かしめるこず、数カ所に䌚堂を建お暪瀬浊枯をその呚囲玄二里の地の蟲民ず共に教䌚に附するこず、神父もしそれを欲するならばその地に非キリスト教埒を居䜏せしめざるこず、貿易のために来る商人には十幎間䞀切の皎を免ずるこずなどであった。  この重倧な申蟌が来たのはダルメむダの薩摩旅行の留守䞭であったが、これを実珟するには䞀五六二幎床に日本ぞ来るポルトガル船を平戞ぞ入れず暪瀬浊ぞ集䞭しなくおはならぬ。トルレスはダルメむダを呌び返しおこの時期に間に䌚うように、暪瀬浊に掟遣したのである。しかしダルメむダが平戞を通った時には、すでにそこに䞀隻のポルトガル船が碇泊しおいた。  ダルメむダは暪瀬浊に着いた翌日、すぐに数人のポルトガル人ず共に倧村湟の奥に領䞻倧村玔忠を蚪ね、トルレスの名においお右の申蟌に就おの協議をはじめようずした。玔忠はダルメむダの䞀行を非垞に欟埅した埌、家老たちをしお協議の衝に圓らせた。その結果、前の申蟌の通りに皮々の特暩を䞎えるこずを承諟したが、しかし暪瀬浊の所領関係は、領䞻ず教䌚ずが半分ず぀を領するのであるず云った。ダルメむダはこの点に぀いおトルレスに回蚓を求める必芁があるず云っお、二日滞圚の埌暪瀬浊に垰った。しかし回蚓が来るたでにも宣教垫通は建おはじめお貰うこずにしおあったので、早速䞀軒の家が出来、そこに祭壇を造っお、ダルメむダは宣教垫ずしおの掻動を開始した。そこぞ䞍意に、豊埌からトルレスがやっお来たのである。  トルレスはひどく老衰しおいるので、誰もこの困難な旅行が出来るずは思っおいなかった。そのトルレスをここたで匕き出しお来たのは、豊埌に行っおいたポルトガル人たちである。平戞の領䞻はポルトガル船を平戞ぞひき぀けようずしお、この幎にはキリスト教信者を苊しめず、䌚堂の建立を蚱可した。その数日埌にポルトガル人のゞャンクず垆船ずが入枯した。これでは平戞をボむコットしようずする蚈画は砎れる怖れがある。その時豊埌にいたポルトガル人のうちに、二幎前たで船長をしおいた䞀人の貎族がいお、その垆船は自分の叔父のものである、トルレスが䞀緒に行っおくれるならば、それを平戞枯から倖ぞ出すこずが出来るず申出た。トルレスも、他のポルトガル人や信者たちも、この考に賛成した。倧友矩鎮は少し躊躇したが、結局蚱可を䞎えた。かくしおトルレスは困難な旅途に䞊ったのである。圌が暪瀬浊開枯をいかに重倧芖しおいたかはこれによっおも察するこずが出来る。  トルレスが近くたで来たずの意倖の報に接したダルメむダは、十数人のポルトガル人ず共に出迎え、枯倖䞀里ほどの海䞊でその乗船に逢った。トルレスの船が暪瀬浊に入るず、ポルトガル船は旗をかかげ祝砲を攟っお歓迎した。陞䞊でも、早速儀匏を行い埗るような家の建築にずりかかった。ダルメむダは倧村䟯ずの亀枉の結果をトルレスに報告したが、トルレスは、倧村偎の条件を認めお亀枉の劥結を呜じた。ダルメむダは盎ちに倧村に行き、五日間滞圚しお、領䞻からの曞類を受取っお垰っお来た。領䞻はたた䌚堂建築のために材朚を取る森を寄進し、倚数の人を送っお寄越した。  トルレスが暪瀬浊に来たこずを知るず、平戞の信者たちは、二十人䜍ず぀次から次ぞず告解のためにやっお来た。だからこの新しい枯には平戞の信者の船がい぀も䞉四隻ず぀滞圚しおいた。それず共に平戞に碇泊しおいた垆船ずゞャンク船ずのポルトガル人たちも告解にやっお来たので、トルレスは容易に、たた穏やかに、ポルトガル船の平戞退去を芁求するこずが出来たのであった。  トルレスは豊埌を出発する時にも、たた暪瀬浊ぞ来おからも、この新しい枯に留たる぀もりではなかった。九月に豊埌で恒䟋の通り領䞻の宣教垫通蚪問を受けるため代理にダルメむダを掟遣したりなどしたが、しかし十月の末頃ポルトガル船が出垆しおしたえば、あずは平戞諞島を巡回し、博倚に寄っお豊埌ぞ垰る぀もりであった。だから九月䞭にダルメむダが豊埌ぞ埀埩した機䌚に平戞のダミダンを博倚に移し、博倚のフェルナンデスを暪瀬浊ぞ連れ垰らせお、暪瀬浊の教䌚の基瀎固めに力を集䞭しおいる。がトルレスの仕事は暪瀬浊に限るわけには行かなかった。神父がいないため告解や聖逐の機䌚を恵たれおいなかった平戞の島々の信者は、今やその機䌚を埗るために二䞉十人ず぀の矀になっおあずからあずから波状的にトルレスの蚱に集たっおくる。暪瀬浊は䞀時この地方の信者の䞭心地になった。この熱心はやがおトルレスを匕き぀けた。先ずフェルナンデスやダルメむダを掟遣しお準備させお眮いお、䞀五六二幎の十二月の初めに圌は平戞に移った。ここでクリスマスを祝い、島々を廻っおから、博倚ぞ出る぀もりであった。平戞は十䞉幎前にトルレスが皮を蒔いた土地であるから、圌にずっおも特別の芪しみがあったであろう。ここでは籠手田氏やその家族が心から欟埅しおくれたが、領䞻もたたポルトガル人ずの亀際の回埩を考えおトルレスを厚遇した。クリスマスは非垞に盛倧であった。そこから生月島ぞ廻ったのは䞀五六䞉幎の初めで、ここでも愛ず信仰ずに浞りながら䞀カ月滞圚し、床島を廻っお平戞ぞ匕䞊げたが、さお博倚ぞ向っお出発しようずするず、その道は塞がっおいた。博倚地方に領しおいた倧友配䞋の歊士がたた倧友氏に叛いたのである。そこでトルレスは止むを埗ず二月二十日に暪瀬浊ぞ匕返した。しかしその時にも、ただ、他の路によっお豊埌ぞ垰る぀もりだったのである。それを䞍可胜にしたのは、先ず第䞀には圌が庭で足を挫き、歩けなくなったこずであった。がそれに加えお圌をこの地に釘づけにするような事件が、この四旬節の間に、次から次ぞず起っお来たのである。  暪瀬浊は、垰っお来ない筈のトルレスが垰っお来たのを芋お、「䞻の愛を以お燃えはじめた」ずダルメむダは曞いおいる。䞀五六䞉幎の四旬節は、ここでの最初の埌になっお芋れば唯䞀床の四旬節であったが、そのために豊埌で人々を感動させた少幎アゎスチニョや、博倚にいたダミダンもやっお来た。説教のうたいパりロはもう前の幎からダルメむダを助けおここで働いおいた。信者の偎でも、平戞諞島はいうに及ばず、遠く博倚や豊埌からさえ集たっお来た。そうしお熱心な説教や告解や鞭打苊行が続いおいた。  その間に事件は倖から起っお来たのである。たず第䞀は、四旬節の初めに、島原の領䞻から宣教垫の掟遣を求める䜿者が来たこずであった。これが島原半島ぞの垃教の端緒である。前の幎にトルレスはダルメむダをしお有銬の領䞻有銬矩盎矩貞を蚪問せしめた。この領䞻は暪瀬浊を領しおいる倧村玔忠の実家の兄で、玔忠もその䞋に附いおいたし、たた教を聎こうずする意志のあるこずも聞えお来たからである。その時有銬䟯は戊陣にあったので、ダルメむダはただ逢っただけであったが、その家臣の䞀人で、たた姻戚でもある島原の領䞻が、領地に垰っおから宣教垫の掟遣を求めるであろうず云った。ダルメむダはそれをただ挚拶の蚀葉ずしお聞いたのであったが、それが本圓になっお来たのである。トルレスは、盎ぐには出せないが、䞃八日䞭には掟遣しようず答えた。そうしお四旬節の䞭頃に、ダルメむダず日本人ベルシペヌルずを、埩掻祭たでの予定で島原に掟遣した。領䞻はダルメむダを非垞に厚遇し、有銬䟯の倫人の姉効であるその劻ず共に、熱心に説教を聞いた。家臣たちで掗瀌を受けるものは五十人䜍あった。その間に有銬矩盎が出陣の途䞭島原に寄ったので、ダルメむダが蚪ねお行くず、有銬䟯は、有銬から二里䜙の口の接に䌚堂を建おるため、トルレスの蚱にむルマンの掟遣を求める぀もりだず語った。有銬䟯のこの態床は島原の信者たちを䞀局掻気づけた。島原の領䞻も、ダルメむダが埩掻祭に間に合うように垰ろうずする前日、その䞀人嚘である四五歳の少女に掗瀌を授けお貰った。「この女は今日たで日本で信者ずなったもののうち、最も高貎な血統の最初の人である」ずダルメむダは誇らしげに報告しおいる。  有銬矩盎の䜿者は実際に埩掻祭前にトルレスの蚱に来た。前幎のダルメむダの蚪問を謝し、おのれの領内に暪瀬浊以䞊の倧きい䌚堂を建おお垃教をやっお貰いたい、自分もそれを助けようず申入れたのである。䜿者の䞀人は口の接の領䞻で、その枯に宣教垫通を建おるこずを頻りにすすめた。そうすれば自分や領民は盎ぐに信者になる。それを芋お有銬でも䌚堂を建おるようになるであろう。そう圌は云った。  第二に、島原の䜿者よりも少し遅れお、領䞻倧村玔忠が、筆頭家老の匟ですでに信者ずなっおいるドン・ルむス新助その他倚くの重臣を連れお、トルレスを蚪ねた来た。酒暜六぀・鮮魚・猪䞀頭・銭䞉千などが手土産であった。トルレスは領䞻を午逐に招き、䞃八人の歊士ず共に掋食を饗応した。身分あるポルトガル人五人が鄭重に絊仕の圹を぀ずめた。午逐埌トルレスは別垭で玔忠に教をすすめ、聖母の像を食った祭壇を芋せたりなどした。玔忠は盎ぐに説教を聞くこずを望んだので、フェルナンデスがそれを始めたが、しかし深く理解するためには長い説教を聞く必芁があるず云われお、翌日は晩逐埌から倜半の二時たで熱心に聞いた。そうしお気持の䞊ではもう信者になっおいた。翌日ドン・ルむスを䜿に寄越しお、十字架を携えるこずやキリストに祈るこずの蚱可を求めお来たほどである。  こういう二぀の出来事のあずで、暪瀬浊での最初の埩掻祭の週が来た。各地の日本人信者のみならず船のポルトガル人たちも加わっお、これたで日本で芋られなかったほど盛倧に埩掻祭が行われた。ずころでその埩掻祭の週に、倧村玔忠は、再びドン・ルむスなどを連れお暪瀬浊を蚪ねお来たのである。その目的はトルレスの同意を埗お䌚堂附近におのれの䜏宅を建おるこずであった。ポルトガル人ず芪しく亀わり、たたこの枯を発展させるためには、なるべく倚くの日をこの地で送らなくおはならないからである。この時圌はトルレスの請いにたかせお、この新開の枯の秩序ず平和ずのための掟䞃八カ条を立札に曞いお䞎えた。その第䞀条は、この枯に䜏もうずする者は皆倩䞻の教を聞かなくおはならぬ、聎くこずを欲しないならばこの地を去るがよい、ずいう意味の芏定であった。しかし圌には改宗の芚悟はただ出来おいなかった。 五 島原半島の開拓  䞁床埩掻祭の頃に倧村では高い地䜍にある二人の歊士の間に争が起り、領内が沞き立った。それに察する芋舞を兌ねお、埩掻祭埌間もなくダルメむダは倧村に行き、そこに数日留たった埌、䞉人の「むルマンの劂き」日本人ダミダン、パりロ、ゞョアンを぀れお、圓時有銬矩盎が出陣のため郚䞋の集合を埅ち受けおいた所ぞ行った。それは島原から二䞉里のずころであった。有銬䟯はダルメむダを厚遇し、晩逐を共にした埌説教を聞いたが、翌日口の接枯宛の説教聎聞を呜ずる曞簡や、トルレス宛の領内垃教蚱可の曞簡などを䞎えた。ダルメむダは島原に数日留たり、海路口の接ぞ行ったが、ここは日本党囜から人々の集たっおくる枯で、人口も非垞に倚く、䜏民の物解りも奜かった。ダルメむダはこの地の領䞻の家に迎えられ、その䞻君たる有銬䟯の曞簡を枡しお、早速垃教掻動にずりかかった。十五日間教えた埌掗瀌を授けたものは二癟五十人であった。その䞭にはこの地の領䞻、その劻、子女などもはいっおいた。これらの様子を芋おダルメむダはこの地を重芖しようず考え、島原の信者を芋舞った埌たたこの地に垰る予定で、留守を日本人パりロにあずけお、再び島原に行った。  しかるに島原では、䞁床この時仏僧たちの指揮する反抗運動が起っおいた。島原の旧城址を䌚堂甚地ずしお宣教垫に䞎えたのはよろしくない、ポルトガル人が来おそこに城を造り、この囜を奪うおそれがある、ずいうのがその䞻芁な䞻匵であった。仏僧たちは諞地方の領䞻ず芪瞁があり、盞圓の政治的勢力があったので、島原の領䞻の態床は埮枩的であった。ダルメむダは他の諞地方においお宣教垫を求めおいるにかかわらず、特にこの地の領䞻の招きに応じお来おいるのである、仏僧の劚害で垃教が出来なければこの地を去るほかはない、ず抗議したが領䞻は暫らく隠忍するこずを請うた。そうしお領䞻の支配暩内にある家臣や民衆に察しおは、説教を聎くようにずの呜什を発した。それで聎衆は非垞に倚く集たり、受掗垌望者は䞉癟人に達した。この圢勢を芋た仏僧たちは、ダルメむダが着いおから十六日埌に、説教の堎に䟵入しお机䞊の十字架を砎壊するずいうような瀺嚁運動をやった。次の日にも信者たちの戞口の十字架を画いた貌り玙をはぎ取っお廻るずいうようなこずをやった。それらに察しおは信者たちは、領䞻の指瀺に埓い、無抵抗の態床を取った。しかし曎にその次の日、即ち聖霊降臚節の前々日に至っお、遂に事が起った。島原から䞀里の他領に属する二人の青幎歊士が説教を聞きに来たのであったが、その䞀人が酒に酔っおいお䞍穏圓な質問をするので、他の䞀人がこれを制し連れ去ろうずした。それに䟮蟱を感じた歊士は、癟人ほどの信者の集たっおいる䞭で剣を抜こうずした。信者たちはこの酔どれから剣を奪った。これがもずになっお、その歊士の芪戚友人が集たり島原に来お埩讐しようずしたのである。目暙はダルメむダが滞圚し説教しおいた信者の家であった。しかしこの争の理非曲盎は明癜である。島原偎ではただに信者のみならず信者でないものも歊噚を取っおダルメむダのいる家を護った。聖霊降臚節の前倜はその襲撃を埅ち受けお物々しい有様であった。もし襲撃があれば少くずも五癟人は死ぬであろう。キリシタンの到るずころ必ず戊争があるずいう仏僧の宣䌝は、それによっお実蚌されるこずになる。ダルメむダはそれを非垞に悲しんだが、幞にしお襲撃はなかった。そうしおこの事件が逆に翌日の聖霊降臚節を盛倧ならしめた。すでに受掗の準備の出来たものが、この日玄二癟人掗瀌を受けた。  ダルメむダは次の日に領䞻が䌚堂甚地ずしお䞎えた旧城趟に移る蚱可を求めた。そこは海ぞ突き出た突角の䞊にあっお村より離れお居り、仏寺からも遠いからである。領䞻はこれに賛成し、右の地所のそばの信者の持家ぞ移転させた。ダルメむダはそこにダミダンを残し、再びここに垰り来るこずを玄しお口の接に向った。こうしお圌の口の接に重点を移そうずする蚈画は砎れ、島原ず口の接ずをかけ持ちするほかはなくなったのである。  口の接に垰っお芋るず、日本人パりロは説教を聎きにくる者が非垞に少数になったず報告した。ダルメむダがその原因を探究しお芋るず、領䞻の家ぞ出入するのが窮屈であるからだず解った。そこで圌は領䞻に亀枉しお、人々が気楜に出入し埗る家を求めた。領䞻はダルメむダに遞択をたかせた。ダルメむダの遞んだのは、有銬䟯が䌚堂甚地ずしお䞎えた地所にある倧きい廃寺であった。これを掃陀し、瞁を造り、蓆をしくず䌚堂になる。翌日早朝癟人ほどの人倫が集たり、仏像を運び出しお、䞀日䞭に立掟な䌚堂に造りかえた。この䌚堂でダルメむダはパりロず共に再び掻溌な掻動をはじめ、二十日ほどの間に癟䞃十人の信者を䜜った。  六月の初めにダルメむダはたた島原に行った。ここでも旧城趟に䌚堂を造る掻動がはじめられた。領䞻は地所附近の䞃十戞を䜏民ず共に教䌚に寄進し、䌚堂建築甚の材朚を寄附した。たた敷地の地均らしのために二十日間毎日二癟人の人倫を寄越しおくれた。ダルメむダは地所内の倧石を運び出しお䌚堂の門前に埠頭を造らせ、盞圓の船がそこぞ盎接に着けるようにした。 六 倧村玔忠の受掗  こうしおダルメむダが島原半島で掻溌に開拓をやっおいた間に、暪瀬浊でも著しい事件が起った。  トルレスは埩掻祭の埌四十䜙日、昇倩祭の過ぎた頃に、倧村に領䞻玔忠を蚪ねお、その地に䌚堂を造るようにすすめた。玔忠は、自分もその垌望を持っおいる、䌚堂を造れば領内のものは皆信者になるず確信する、しかしそのためには仏寺を砎壊する必芁があるが、仏僧の勢力は䞭々䟮り難いから、未だその時期ではない、ず答えた。その時には受掗の話は出なかった。しかるにその埌䞀週間ほど経っお、玔忠は、掗瀌を受けようずいう決意を以お二䞉十人の歊士ず共に暪瀬浊にやっお来たのである。先ず圌はおのれの心事をトルレスに打ちあけ、その意芋をきくために、日本語のよく解る人を寄越しおくれず云っお来た。トルレスは䞀人の日本人を送ったが、玔忠はそれず倜半たで語った。圌のこだわっおいたのは仏教排撃の問題なのである。圌はその兄である有銬の領䞻の配䞋に぀いおいる。その兄はただ仏教埒である。埓っお圌は仏像を焌き仏寺を砎壊するこずが出来ない。しかし圌は、仏僧ず関係せず補助をも䞎えない、ずいうこずを玄束する。そうすれば仏教はおのずから厩壊する筈である。その皋床でも掗瀌は授けお貰えるであろうか。これが圌の知りたいずころであった。トルレスはそれに察しお、圌が時機の熟した時その暩力内の異教を砎壊するずいう玄束をするならば、たたそういう決意を持぀ならば、掗瀌を授けようず答えさせた。玔忠は喜んで、同倜盎ちに家臣䞀同ず共に説教を聞きはじめ、倜明に及んだ。トルレスは掗瀌の準備が十分であるこずを認め、領䞻の身分にふさわしく盛倧に匏を挙げようずしたが、玔忠は非垞に謙遜な態床で、簡玠に掗瀌を受け、ドン・ベルトラメりずなった。䌎の家臣たちも掗瀌を受けた。  これは䞀五六䞉幎五月䞋旬、ダルメむダが口の接に䌚堂を造った頃のこずである。䞁床同じ頃に東の方では奈良で結城山城守ず枅原倖蚘ずが掗瀌を受け、新らしい機運を醞成しおいた。どうしおこのように倧村や島原のみならず畿内地方たでが時を同じゅうしお動き出したのかは、よくは解らない。しかし恐らくこの頃に、日本党囜を通じお、戊乱時代の心理的な峠があったのであろう。同じ幎に少し遅れお䞉河の囜に䞀向宗䞀揆が起り、それが埳川家康の䞀生の運の岐れ目ずなっおいるこずも、決しお偶然ではないであろう。 䞃 暪瀬浊の没萜  倧村玔忠が受掗に際しお仏寺砎壊の問題にこだわったのは、決しお軜い意味のこずではない。䞀囜の政治的暩力を握るものの改宗には、この問題が぀きたずうのである。ここに垃教事業ず政治的な争いずの絡たっお来る機瞁がある。玔忠はこの点に甚心したように芋えるが、しかし「劬みの神」はその䞍培底を蚱さなかった。  玔忠が掗瀌を受けたのは、その実家の有銬氏ず竜造寺隆信ずの戊争の前倜であった。竜造寺隆信は肥前の少匐氏の郚䞋であったが、今やその䞻家に代っお肥筑地方に勃興し、有銬氏に圧迫を加えたのである。玔忠もその兄の䞋に぀いお出陣したのであるが、その途䞭で、恐らく戊争気分の結果であろう、摩利支倩像やその堂を焌き払い、そのあずに十字架を建おおこれを瀌拝するずいうような思い切ったこずを敢行したのである。これを口火ずしお領内の倚くの仏寺仏像が焌かれた。この急進的な態床は、圌の心配した通り、領内に䞍穏な空気をたき起した。謀叛が䌁おられたのはその頃からであった。  暪瀬浊では領䞻が受掗の時の玄束以䞊に果敢に振舞うのを芋お非垞に喜んだ。䞁床そこぞ、六月の末に、シナからドン・ペドロ・ダルメむダの船が数人の神父やむルマンを運んで来た。神父ルむス・フロむスもその䞀人である。トルレスは歓喜の䜙り涙を流し、「もう死んでもよい」ず云ったずいう。フロむスが早速着手した仕事は、玔忠が送っお寄越すその家臣たちに日々掗瀌を授けるこずであった。  䞁床そこぞ、䞃月の初めに、島原半島の倧きい収獲の報を携えお、ダルメむダが新来の宣教垫に䌚いに来た。トルレスは早速この有胜な働き手を、自分ず船長ドン・ペドロ・ダルメむダずの代理ずしお、陣䞭の倧村玔忠の所ぞ䜿にやった。玔忠は陣矜織に゚ズスず十字架の王所を぀け、頞に十字架や数珠をかけお、熱心に教のこずをきいた。その情景は陣䞭ずいうよりもむしろ宗教家の䌚合のようであった。そこから圌が䞃月半ばに垰っおくるず、トルレスは新来の神父ゞョアン・バりティスタを豊埌に掟遣するこずずしお、ダルメむダに同䌎を呜じた。䞀行は翌日すぐに出発し、途䞭からダルメむダだけは島原ず口の接ずを廻っお、豊埌に赎いた。  䞃月の末になっお、倧村玔忠は神父たちやポルトガル人に䌚うために暪瀬浊を蚪ねお来た。ルむス・フロむスや船長ドン・ペドロ・ダルメむダは非垞にこれを欟埅し、鍍金の寝台、絹の敷垃団、掛垃団、倩鵞絚の枕、ボルネオの粟巧な蓆、その他織物類を莈った。玔忠は熱心にミサを聎き、聖逐のこずを孊び、数日にしお倧村ぞ垰ったが、倫人に察しお改宗を迫り、たた次の出陣の前に壮麗な䌚堂を建おようずしお、堎所の遞定のためにトルレスを倧村ぞ招いた。たた䞁床その頃に盂蘭盆䌚の廃棄を考えおいた圌は、倧村の先代の像䜍牌かの前に銙をたく代りに、その像を焌华するずいうこずをやったらしい。それらのこずが謀叛の陰謀を熟せしめたのである。  倧村の先代は庶子埌藀貎明を残しおいたが、先代の倫人はそれをさし措いお逊子玔忠を倫人の実家の有銬家から迎えた。その逊子が、先祖の祀りをしないばかりか、先代の䜍牌を焌いたのであるから、倧村の家臣たちにずっおは、庶子を擁しお逊子を誅すべき十分な理由があるず考えられたのである。そこで謀叛人たちは、逆手を䜿っお、䌚堂の建蚭、倫人の受掗、トルレスの招請などを家臣らの垌望ずしお進蚀した。トルレスが倧村に来たずきに、クヌデタヌによっお䞀挙に害悪の根源を絶ずうずいう蚈画であった。そういう蚈画に党然気づかないドン・ルむス新助は、暪瀬浊ぞトルレスを迎いに来た。その儘トルレスが倧村に赎き埗たならば、蚈画は成功したかも知れない。しかしトルレスは、偎にダ゜䌚の神父がいないため五幎間行うこずの出来なかった宣誓を、八月五日の聖母の祭日に、新来の神父フロむスの前で行う筈であった。そのためにわざわざ豊埌から、日本でダ゜䌚に入ったむルマンのアむレス・サンチェズが、ノィオヌラを匟く少幎たちを぀れおやっお来たほどであった。埓っお倧村行はその埌にするほかはなかった。祭の圓日ドン・ルむスは二床目の迎いに来たが、生憎フロむスもトルレスも病気で、匏を蟛うじお挙げた皋床なので、倧村行はたた二䞉日延ばした。この間に有銬の領䞻が改宗の意志を衚明したずの報があり、䞉床目に迎いに来たドン・ルむスも倧村玔忠が兄の改宗のこずを盞談したいず云っおいるず䌝えたので、トルレスは「日本党囜の門戞が開かれるであろう」ずいうような倧きな垌望を抱いお、いよいよ翌八日早朝出発しようず玄束した。ドン・ルむスはその玄束を携えお勇んで垰っお行った。ずころが翌日早朝、トルレスがミサを行いポルトガル人に別れを告げお、さおいよいよ出発しようずしおいた䞃八時頃に、様子が倉になっお来たのである。トルレスは䞀日本人を偵察に出した。ドン・ルむスは前日垰途を暪瀬浊察岞の針尟の歊士たちに襲撃せられ、殺害されたのであった。倧村でも前倜暎動が起り、倧村玔忠はドン・ルむスの兄の家老たちず共に近くの城に逃げ蟌んだのであった。  この時の事情はよくは解らない。トルレスが倧村行を幟床も延ばしたので、陰謀が掩れたず感じお急に事を起したのか、或はドン・ルむスの船にトルレスも同船しおいるず芋お襲撃したのか、圓時の人にもよくはわからなかった。がいずれにしおも暎動の手際は悪く、トルレスも玔忠も暗殺をたぬがれた。同日倕方、トルレスは碇泊䞭のゎンサロ・バスのゞャンクに移り、フロむスはフェルナンデスず共にドン・ペドロの垆船に乗った。他の人々も、信者らも、それぞれ財物を携えおこれらの船に遁れた。玔忠も玄四十日の埌にはずもかくも領䞻暩を回埩し倧村に垰った。そうしお圌に叛いた地方の領䞻たちず察峙し埗るに至った。  しかしトルレスが倧きい望をかけおいた暪瀬浊――アゞュダの聖母の枯――の運呜は、この内乱を以お終った。暪瀬浊は隒ぎの圓座盎ちに焌かれたのではない。そこは抵抗せずに謀叛人に服埓したし、たた謀叛人たちもポルトガル船に留たるこずを求めた。玔忠が倧村を回埩したずの報に接したずきには、ポルトガル船は旗をあげ倧砲を発射しおこれを祝したし、暪瀬浊を占領しおいた謀叛人も逃げ去っおいた。フロむスも陞䞊で働いおいた。しかし商船がシナに向っお出垆しようずしおいた頃に、暪瀬浊に最も近い所にいた謀叛人の䞀味が、暪瀬浊を奇襲しお町や䌚堂や宣教垫通を悉く焌き払ったのである。䞁床その時には有銬の歊士島原の信者であろうが二艘の船を率いお救揎に来おいた。トルレスは敵が近づいたのを芋おその船に乗り、倧きい望をかけおいた䌚堂や玔真な信者の家が焌かれるのを芋おいたのである。これは宣教垫たちにずっお非垞な打撃であった。急激に拡倧しそうに芋えおいた垃教事業はここで䞀時頓挫したのである。  倧村の内乱が䞖間に䞎えた印象もそうであった。ダルメむダが八月䞋旬に豊埌で報告に接した時には、倧村玔忠は殺され、有銬の領䞻は逃げ、ポルトガル船は暪瀬浊を去り、䌚堂も町も焌倱し、信者らは皆殺しにされた、ずいうこずであった。そうしおそれらは玔忠が仏像を焌いた結果であり、有銬の領䞻もキリスト教の同情者ずしお同様の運呜に瀕しおいる、ず噂された。これはほずんど皆事実に合わない誇倧な噂であるが、しかしそれがキリスト教に察する反感を煜るように芋えた。急いで暪瀬浊にかけ぀けようずしたダルメむダは、途䞭でこれたでにない䟮蟱を受けた。たた人々は満足そうに、「䜕凊ぞ行かれるか、䌚堂は焌けたし神父は暪瀬浊にいない」ず挚拶した。島原の察岞の高瀬たで来お、圌はやっず、玔忠の死も、暪瀬浊の焌倱も、商船の退去も、すべお嘘であるこずを知ったのである。島原でも信者たちの態床は少しも倉っおいなかったが、しかし口の接たで来るず、政治的情勢が倉っおいた。有銬の領䞻の父仙岩晎玔は、この様な内乱の原因ずなったキリスト教を、断然犁止したのであった。信者たちの信仰は厩れおいなかったが、しかしダルメむダは䞊陞するこずが出来なかった。それのみか、仙岩の領内を通る間䞭、死の危険を感じなくおはならなかった。緒に぀いたばかりのダルメむダの島原半島垃教も、䞀頓挫を来たしたように芋えた。  ここに政治的意矩を垯びた倧仕掛けなキリスト教排撃の最初の珟われがある。それは䞀囜の領䞻が改宗しお仏教排撃をはじめるや吊や、即座に起った。この珟象は非垞に瀺唆するずころが倚い。ポルトガル人ず貿易を営みペヌロッパの文明を取り入れようずする関心は、必ずしもキリスト教ぞの関心ではなかった。前者は圓時の日本人にほずんど共通のものであり、埓っお政争を捲き起すこずなく実珟し埗られるが、埌者は応ち政争に火を぀けるのである。この事情が平戞の領䞻に曖昧な態床をずらせ、豊埌や有銬の領䞻に長い間改宗を躊躇させた。しかるに宣教垫たちは、前者を埌者のために利甚し、前者のみの独立な実珟を阻もうずしたのである。この態床はいわば開囜ず改宗ずを結び぀けるものであっお、鎖囜の情勢を呌び起す䞊に関係するずころが倚い。日本民族が囜際的な亀際の堎面に入り蟌み、䞖界的な芖圏の䞋におのれの民族的文化の圢成に努めるこずず、圚来の仏教を捚おおキリスト教に転ずるこずずは、別の問題である。前者は倫理的、埌者は宗教的な課題であった。ダ゜䌚士がただ宗教の問題をしか芋ず、異教埒をキリスト教に化するこずをのみその関心事ずしたこずは、ダ゜䌚士ずしおは圓然であったかも知れぬ。しかしそのために倫理的な課題が遮断されたこずは、実に倧きい匊害であったずいわなくおはならない。その䞀半の眪は、ダ゜䌚士を介しおでなくおは芖圏拡倧の動きが出来なかった日本の政治家や知識人の方にある。無限探求の粟神や公共的な䌁業の粟神の欠劂が、ここにもうその重倧な結果を珟わしはじめおいるのである。 八 口の接ず平戞  暪瀬浊を焌かれたトルレスはダルメむダや新来のむルマン、ゞャコメ・ゎンサルベスを䌎っお、有銬の歊士の船で、島原の察岞高瀬に向った。そこは豊埌の倧友の領地で、豊埌ぞの埀埩の芁衝ずされおいたずころである。ルむス・フロむスは籠手田氏が迎いに寄越した船で、既に䞀月前からフェルナンデスの行っおいる「倩䜿の島」床島に向った。こうしおこの埌の䞀幎間、トルレスは島原半島の回埩をねらい、フロむスは日本垃教者ずしおの胜力の獲埗に努めたのである。  トルレスは䞀五六四幎の倏たで高瀬に留たっおいた。先ず初めにダルメむダを豊埌に掟遣しお倧友矩鎮この頃に宗麟ず名を倉えたらしいに高瀬滞圚の蚱可を乞い、地所、家屋、垃教の蚱可などを䞎えられた。曎に䞉カ月埌には、領内のあらゆる人ぞの改宗の蚱可、宣教垫の保護、党領内の垃教蚱可の䞉カ条を蚘した立札二枚を送られた。䞀枚は高瀬に立おるため、他の䞀枚は熊本の南の川尻に立おるためである。川尻ぞは豊埌にいたドワルテ・ダ・シルバが掟遣された。ダルメむダはクリスマスから埩掻祭たで豊埌に留たっお、自分のはじめた病院の仕事や思い出の深いこの地の教䌚の仕事に久しぶりで没頭するこずが出来た。しかし埩掻祭の埌には川尻で病んでいるシルバを芋舞わなくおはならなかった。シルバは熱心に垃教に぀ずめる傍、日本語の文法や蟞曞を線纂しおいたが、過劎に倒れたのである。ダルメむダはもう手の぀くしようのないこの重病人を、その垌望に委せお高瀬のトルレスの蚱に運んだ。病人は十日ほどの埌に満足しお死んで行った。  有銬の領䞻がその領内ぞ来るようにトルレスを招いたのはその頃である。トルレスはそういう機運の熟しおくるこずを島原の察岞で埅っおいたのであった。しかし圌は盎ぐには動かなかった。二床目の招請の手玙が来たずき、圌は、その保護者である豊埌の領䞻の蚱可を埗るたでの代理ずしお、ダルメむダを有銬の領䞻のもずに掟遣した。ダルメむダは島原で非垞な歓迎を受けた埌、有銬ぞ行っお領䞻矩貞に䌚った。矩貞は前幎の隒ぎの時よりはよほど暩力を回埩しおいた。圌はトルレスが口の接ぞ来およいこず、敵に察しお勝利を埗るたでそこに留たっおいお貰いたいこず、地所家屋はトルレスが来るたでもなく盎ちにダルメむダに䞎えるこずなどを云った。こうしお口の接が回埩されたので、トルレスは倧友宗麟の諒解を埗お口の接に移り、地所家屋の凊理をはじめた。この地の信者たちは、十カ月に亘る犁教の間にも、少しも退転しおいなかった。トルレスはそれを芋お非垞に喜んだ。そういう状態になったずころぞ、䞀五六四幎八月半ばに、ポルトガル船サンタ・クルス号が䞉人の新らしい神父、ベルシペヌル・デ・フィゲむレド、バルタサル・ダ・コスタ、ゞョアン・カブラルを運んで来たのである。  この幎のポルトガル船は、トルレスの意に反しお平戞ぞ入枯した。その時の折衝をやったのは、床島にいたフロむスである。フロむスは床島に移っお以来、島の倖ぞは出ず、過倱によっお䌚堂を焌倱するずいう䞍幞に逢ったほかは、玔真な信者に取り巻かれお平和な生掻を送り、説教や祭匏を営む傍、六䞃カ月を費しおフェルナンデスが日本文法曞や語圙を線纂するのを眺め぀぀、静かに日本語や日本人の気質を孊び取っおいた。こうしお䞀五六四幎の四旬節も過ぎ、埩掻祭も終ったのであるが、その頃から平戞の情勢が少しず぀倉っお来たのである。前にビレラが平戞から远攟せられた時、背埌の䞻動力であった仏僧は、籠手田氏ずの争に負けお平戞から远攟された。平戞の信者らも挞く動き出した。䞁床その頃、䞃月の半ばに、垆船サンタ・カタリナず、ベルトラメり・デ・ゎベダのゞャンク船ずが、平戞附近ぞ来た。束浊䟯はこれを平戞ぞ迎い入れようずしたが、船長らは神父の蚱可なしには入枯しないず答えたので、束浊䟯は止むなくフロむスの蚱に䜿者を寄越しお入枯の蚱可を求めた。その時の条件は、神父の平戞来䜏を船長らず協議しようずいうこずであった。フロむスは必芁を認めお蚱可を䞎えた。そこで平戞に入枯した船長たちは、神父の平戞来䜏ず新䌚堂の建築ずの蚱可を束浊䟯に求めたが、束浊䟯はいい加枛なこずを云っお蚱可をひきのばしおいた。そこぞ、二十䞃日遅れお、神父䞉人を乗せた叞什官カピタン・モヌルの乗船サンタ・クルス号が着いたのである。フロむスは床島でこの報を聞くず、その平戞入枯を阻止するため、盎ぐに小船に乗っお出掛けた。トルレスが前からこのこずをフロむスに呜じおいたのである。サンタ・クルスはもう垆をあげお平戞に向い぀぀あったが、叞什官・船長ドン・ペドロ・ダルメむダはフロむスの申入れをきいお盎ぐに匕還そうずした。しかるに同船の商人たちはそれに反察した。サンタ・クルスはサンタ・カタリナよりも僅か二日埌にシナを出垆したのであるが、途䞭暎颚のために非垞に難航しお、䞀カ月近くも遅れおしたったのである。だから䞀刻も早く銎染の枯に着きたかった。圌らの平戞入枯が、キリスト教埒ずなった倧村玔忠の敵に力を䞎えるこずになるずいう説埗も、商人たちを動かすこずが出来なかった。でフロむスは、ずもかくも船を平戞から二里ほどの所に停めさせ、䞉人の神父たちを䌎っお島ぞ垰った。そうしお再び叞什官を船に蚪ね、神父を平戞に入れるのでなければ、平戞ぞは入枯しない、ずいう旚を束浊䟯に䌝えお貰った。その結果、束浊䟯は遂にフロむスに平戞の䌚堂再建を蚱可したのである。  これはビレラの远攟以来倱われおいた平戞の教䌚を回埩するこずであった。だからフロむスの平戞入りは出来る限り壮倧になされた。サンタ・カタリナやゞャンク船は倧小の囜旗を掲げ砲を䞊べおいる。船長以䞋ポルトガル人たちは盛装しお舷偎に䞊ぶ。陞䞊に出迎えた人々も着食っおいる。フロむスずフェルナンデスずが船で着いお䞊陞するず、サンタ・カタリナは祝砲を発し、信者たちは歓呌の声をあげる。それから人々は行進を起し、束浊䟯の邞に向った。フロむスは船長たちやその他の人々ず共に束浊䟯に䌚っお、入囜蚱可に察する挚拶をした。そうしおその足で籠手田氏を蚪ね、䌚堂の敷地に廻っお、早速再建の蚈画にずりかかったのである。こうしお暪瀬浊壊滅の䞀幎埌に平戞が回埩されたのであった。  新来の神父の䞀人フィゲむレドは到着埌䞃八日で口の接にトルレスを蚪ねお行った。カブラルはフロむスず入れ代っお床島に赎いた。コスタは乗っお来たサンタ・クルスに留たり、ゎベダのゞャンクに泊ったフロむスず共に、ポルトガル人の告解を聞き、ミサを行った。フェルナンデスは信者の家に泊っお䌚堂建築のこずに圓った。こうしお急に手がふえたので、トルレスは、ポルトガル船が日本を去った埌フロむスやダルメむダを京郜地方ぞ掟遣しようず考えたのである。 第六章 京郜におけるフロむスの掻動 䞀 フロむスずダルメむダの䞊京  ルむス・フロむスがトルレスの呜什によっお京郜のビレラに協力するため平戞を出発したのは、䞀五六四幎の十䞀月十日であった。  フロむスは日本ぞ来おから䞀幎䜙の間に、暪瀬浊の没萜や、床島での日本人の信仰生掻や、ポルトガル船の貿易ず垃教事業ずの埮劙な関係などを経隓し、日本における宣教垫の仕事のおおよその芋圓は぀け埗たのであったが、しかし日本の諞地方ぞの旅行はただ少しもしおいなかった。そのためか、床島のフロむスの蚱ぞはダルメむダが迎いに行った。ダルメむダもフロむスず共に京郜地方ぞ行き、その地方の事情を調査しおトルレスに報告する筈になっおいた。しかしトルレスがそういう蚈画を立おた埌の僅かな時日の間にも、ダルメむダの掻動はめざたしいものであった。圌はたず口の接のトルレスの蚱から豊埌に掟遣された。毎幎の䟋になっおいる領䞻饗応のためである。だから十月の半ばにはただ豊埌にいた。その圌が、高瀬たで匕き返しお、そこから平戞ぞ陞路四五十里を旅行しおいる。この道筋は倚分初めおだず思われるが、途䞭、博倚から十䞀二里の所にある信者の町を蚪ねたり、たた海岞ぞ出お姪の浜ずか名護屋ずか信者のいる町に足を止めたりし぀぀平戞ぞ行ったのである。そこには神父コスタがいた。床島にはフロむスず共に神父カブラルがいた。そこで平戞に半月䜙り滞圚した埌、フロむスず共に出発したのであった。  颚の郜合がよく、船は翌日の倜口の接に぀いた。トルレスずフロむスずは暪瀬浊の没萜の時別れたきりであったから、再䌚の喜びは非垞なものであった。しかし口の接にもただ四日留たっただけで、フロむスずダルメむダずは旅皋に䞊った。この時にも颚の郜合がよくその日の内に島原に぀いた。この島原、ダルメむダの開拓した島原が、床島で䞀幎を送っお来たフロむスを実に喜ばせたのである。枯ぞ突き出おいる旧城址――䌚堂の地所が、比類なく優れた堎所であったばかりでなく、曎に島原の街はこれたで芋た最も矎しい街であったし、そこに䜏んでいる信者たちは殆んど皆身分の高い人たち、富める商人たちであっお、䞀般に教逊も高く、教矩に察する理解胜力も優れおいたからである。フロむスはそれを芋お、信者たちがこれたでミサを聞いたこずもなく、ただ日本人のベルシペヌルやダミダンに二䞉カ月説教を聞いただけであるのを残念に思い、「もし自分に委せられるならば、日本での最も良い仕事に代えお、この地に留たるであろう」ず早速トルレスに曞き送っおいる。そうしお熱心にトルレスの島原蚪問をすすめ、「もし貎䞋が八日間この地に留たられるならば、この町がこれたで滞圚せられたどの地方よりも優っおいるこずを認められるであろう」ずさえも云った。それほど島原での二日間はフロむスにずっお印象が深かったのである。  それから二人は高瀬を経お豊埌に行き、臌杵䞹生島に倧友宗麟を蚪ねた。その埌府内に垰り、船の談刀をしお出発しようずしたが、颚の郜合で䞀カ月埅たされ、遂にクリスマスを府内で祝うこずになった。いよいよ豊埌を出発し埗たのは䞀五六五幎の䞀月䞀日で、堺に着いたのは䞀月二十䞃日であった。途䞭の航海は盞圓苊しく、特に寒さが烈しかったので、ダルメむダは病気になり、堺の富豪日比屋の邞宅で寝぀いおしたった。  フロむスは五人の信者ず共に翌日盎ちに京郜に向っお出発した。五人の内の䞀人は倚分ダミダンであろう。その倜は本願寺の門前町倧坂に泊ったのであるが、圓時倧坂はすでにコチンの町よりは倧きかったずいわれおいる。フロむスはただこの地の領䞻「劻垯せる坊䞻」が宣教垫にずっおの最倧の敵であるこずを知らなかったので、この倜はのんきにしお、同船した異教埒の泊った家に行き、欟埅を受けおいたのであるが、倜半過ぎに火事が起っお、本願寺を初め九癟戞を焌き払うずいう倧火になった。フロむスの取った宿は焌けはしなかったが、避難者を収容するためにフロむスたちの退去を求めた。信者たちは譊備の厳しくなった町でフロむスたちをかくたうのに骚折った。本願寺の町であるずいうこずがこの時ひしひしず身にこたえたのである。が䞀日日の目を芋ない暗い二階にひそんでいただけで、翌々日の早朝、気づかれずに町の門から出るこずが出来た。「私はこの時ほど道を遠いず思ったこずもなく、たたこの時ほど早く歩いたこずもない。人の本性が自己保存を欲するこずはこの通りである」ず圌は曞いおいる。この日は皀有の倧雪で䞉四尺も積っおいた。で歩くこずが出来ず、挞く淀の川船を捕えお、䞀月の末日に京郜に入るこずが出来た。ビレラに逢うず、ただ四十歳でありながら苊劎しお䞃十の老人のように癜髪になっおいるこの日本垃教者は、フロむスが遙々むンドから日本垃教に来おくれたこずよりも、倧坂の危険を脱したこずの方を䞀局悊んだのであった。  フロむスの京郜入りを䜕故このように重芖するかずいうず、䞀぀にはフロむスが熱心な宣教垫であるず共にたた比類なく優れた蚘者であったこず、もう䞀぀にはフロむスが到着しおからの半幎の間の京郜が戊囜時代の混乱の絶頂を具象的に展瀺しお芋せた舞台であったこずによるのである。フロむスは日本に着いお間もなく暪瀬浊の没萜を自分の県で芋た。この事件は日本におけるキリスト教垃教事業の運呜をすでに象城的に瀺しおいるずいうこずも出来る。その同じフロむスが、京郜に入っお半幎埌に、最初の公然たる犁教政策に出䌚ったのである。いずれもキリスト教が暩力ず結び぀くや吊や間もなく起ったこずであった。  フロむスは京郜に入っお、半幎埌には転芆される運呜にあった叀い䌝統的なものを、盞圓詳しく芋るこずが出来た。圌が京郜に着いた翌日は陰暊の元旊であったが、ビレラは将軍ぞの幎賀を必芁ず認めおいたので、圌もビレラに䌎われお正月の十二日に将軍に謁した。そのために出来るだけの盛装をも工倫した。十幎前にヌネスの連れお来た少幎の持っおいた金襎の食りのある叀い長袍、船宀で䜿い叀した毛氈、そういうものをフロむスは豊埌から携えお来たが、ビレラはその毛氈で広袖の衣を䜜り、金襎の長袍ず共にこれを着お、その䞊に曎に矎しい他の衣を぀けた。フロむスはキモノの䞊にポルトガルの矅玗のマントを矜織った。進物はガラスの倧鏡・琥珀・麝銙などであった。こうしお二人は茿に乗り、二十人ほどの信者に䌎われお、倚分今の二条城のあたりにあったず思われる足利将軍の宮殿に赎いた。将軍矩茝は神父を䞀人ず぀接芋したが、フロむスはその際の矩茝の印象に぀いおは䜕も語らず、ただその宀の矎しかったこずを蚀葉を極めお讃めおいる。自分はこれたで朚造の家であれほど矎しいのを芋たこずがない。宀は金地に花鳥の矎しい絵で取巻かれ、畳は実に粟巧なもので、曞院の窓の障子も非垞に奜かった、ず圌は云っおいる。次の間に䞋ったずき、神父の着おいるカパは珍らしい、芋せお貰いたい、ずいうこずであった。次で将軍の倫人に謁する時には、間の襖を開いお、次の間から瀌をした。矩茝の母慶寿院尌も同じ構えのなかにいたので、二人はそこぞ行っお、倧勢の婊人の䟍坐しおいる前で盃を頂戎した。フロむスはここでも、その静かで、簡玠で、きちんずしおいる有様を、僧院のような感じだずほめおいる。この人たちが半幎埌に悲惚な目に逢ったのである。  この幎賀の翌日にビレラは、圓時の実暩を握っおいた「䞉奜殿」を河内の飯盛に蚪ねお行った。䞉奜長慶は実は前幎の倏、四十二歳で病死したのであるが、ただ喪を発しおはいなかったのである。ビレラはそこから堺のダルメむダを呌んだ。  ダルメむダはフロむスず共に堺に着いた時盎ぐ日比屋で寝蟌んだのであるが、その病䞭二十五日ほどの間は、父母の家にあっおもこれほど芪切にされるこずはなかろうず思われるほどの愛情を以お看護された。日比屋の䞻人のみならず倫人も子女も昌倜心を぀くした。やや快方に向っおから少しず぀説教なども始めたが、日比屋の嚘のモニカの結婚問題に぀いお盞談盞手になり、父のサンチョを説いお正しい結婚の実珟に努力したりなどもした。ビレラに呌ばれおいよいよ飯盛に向っお出発しようずする前日には、日比屋の䞻人の茶の湯の饗応を受け、その珍蔵する道具類を芋せお貰ったのであるが、圓時すでに高䟡なものずなっおいた茶道具類はずにかくずしお、茶の湯の䜜法そのものは盞圓に深い感銘をダルメむダに䞎えたように芋える。客はダルメむダず日本人むルマンこれはダミダンではないらしいず事務䞀切の䞖話をしおいる信者ずであった。朝の九時に日比屋の家の暪の小さい戞口から入り、狭い廊䞋を通っお檜の階段を䞊ったが、その階段はこれたで䜕人も螏んだこずがないほど枅らかで、実に粟巧を極めおいた。そこから二間半四方䜍の庭に出、瞁を通っお宀に入った。宀の広さは庭より少し広く、「人の手で䜜ったずいうよりもむしろ倩䜿の手によっお䜜られた」ず思うほど矎しかった。宀の䞀方には黒光りのする炉があっお、癜い灰の䞭に火を入れ、面癜い圢の釜がかかっおいた。この釜は高䟡なものだずいうこずであったが、その炉や灰の枅朔でキチンずしおいるこずがダルメむダを驚かせた。やがお垭に぀くず食物が運ばれ始める。矎味は驚くに足りないが、その絊仕の仕方の秩序敎然ずしお枅朔を極めおいるこずは、実に䞖界に比類がない、ず圌は讃嘆しおいる。食埌䞻人サンチョの立おた濃茶の味も、出しお芋せた名物の蓋眮きも、倧した印象は䞎えなかったらしいが、䌚垭の気分そのものは圌を敬服せしめたのである。  そういう仕方で日本の生掻を瞥芋したダルメむダは、信者たちに送られお堺を出発し、堺から䞉里䜙のずころで飯盛からの迎いの船に乗った。圓時は寝屋川が淀川の支流ででもあったらしく飯盛山䞋たで船で行けたのである。日没頃船を䞊り、玄半里の山道を茿に担がれお、倜半近くやっず城に着いた。ビレラや信者の歊士たち、その家族たちが、非垞な喜びを以お圌を迎えた。  この飯盛山䞊の堅固な城は、今や畿内を抌えおいる実力の所圚地であった。その城の内の身分ある歊士たちが、ビレラやダルメむダに察しお、恰かもその䞻君に察する劂き尊敬の態床を瀺しおいるのである。ここでビレラは䞀週間の間、歊士たちの告解を受けた。その間にビレラやダルメむダは䞉奜の殿を蚪問し盃を受けたずいうのであるが、長慶は既に半幎前に歿しおいるのであるから、誰に䌚ったのか解らない。嗣子の重存矩重、矩継は未だ非垞に若く、それに䌚えば䜕か気づく筈である。或は䞉奜䞉人衆の内の誰かが䌚ったのかも知れない。その時䞉奜の殿はビレラやダルメむダず同じく跪坐し、二人が蟞去する時にも瀌を尜した、ずダルメむダは蚘しおいる。ビレラが飯盛山䞋の䞉箇を蚪れた埌、奈良ぞ出お束氞久秀を蚪ねおいるのは、或は圢勢の倉化に察する幟分の理解を瀺しおいるのかも知れない。  䞉箇は圓時は倧河に囲たれた半里䜍の島で、領䞻の䌯耆守はダルメむダが日本で芋た最も信仰の厚い信者の䞀人であった。圌は日本党囜のキリスト教化を垌望しおいたし、たた堺の町の䌚堂建築費ずしお銭五䞇を寄附しようず申し出た。この領䞻の熱心が半幎埌には非垞に圹立぀こずになるのであるが、この時にもダルメむダの䜓の痛みを心配しお、治療のために、茿を甚意し十里の道を京郜ぞ送り぀けた。そこでダルメむダはたた二カ月ほど寝぀いたのである。 二 日本文化の芳察  フロむスが京郜に入っおから、日本文化に察するダ゜䌚士の考察が非垞に粟密になったように思われる。フロむス自身の報告のみならず、ダルメむダの報告などにもその傟向が顕著に珟われお来おいる。ダゞロヌ、ロレン゜、その他九州の信者を通じお芋おいた日本を、自分たちの県ではっきりず芋盎そうずいう芁求が、匷く働き出したのであろう。  フロむスが京郜に着いおから二カ月足らずで曞いた最初の曞簡は、この地の颚俗に぀いお報告するずいう曞き出しではあるが、実際は日本文化の抂芳ずいうようなものになっおいる。先ず日本の颚土から説き起し、衣食䜏の现かい特城を述べた埌に、この日本文化の䞭枢地方においおは男女が通䟋読み曞きを知っおいるこず、身分あるものは皆瀌儀正しく、教逊があり、倖囜人に䌚うのを喜ぶこず、倖囜のこずは些现な点たで知ろうずするこず、生来道理に明かであるこず、などを力説し、次で日本の政治組織に及んでいる。日本は、銖府京郜に「公方様」ず呌ばれる䞻暩者がいお党囜を支配しおいたが、地方の諞䟯の独立のために今は六十六カ囜に分れ、公方様はただ名目䞊尊ばれおいるだけである。実力を持った諞䟯は互に他を埁服しようずし、戊争の絶える時がない。京郜にはもう䞀人、日本人が日本の銖長ずしお殆んど神の劂く尊厇しおいる神聖な君䞻がある。神聖であるから足を地に附けるこずが出来ない。しかし非垞に貧しく、ただ進物によっお己れを支えおいる。それに仕えおいるのが公家で、頗る貪欲である。諞䟯の間の争議の調停などをやるず、倚額の金を受ける。そういう政治的支配者の衰埮した状態に比べるず、宗教的支配者の力は非垞に匷い。悪魔がいかに力を぀くしおこの囜民を欺いおいるかがそれによっお察せられる。仏教は十䞉の宗掟に分れおいるが、その寺院は実に壮麗であっお巚額の収入を有しおいる。僧尌の数も非垞に倚い。殊に高野山の勢力、奈良の寺院の壮芳など、実に驚くべきものである。しかし悪魔の働きはそれだけに尜きない。山䌏ずいうものがかなりの勢を持っおいる。゚ンキ善鬌ずか鳩の飌ずかずいうものもある。悪魔は実に綿密に網を匵っおいるのである。そういう網のなかで日本人は、死者を葬るために実に壮麗な行列や儀匏をやっおいる。山口や豊埌でキリシタンのはじめた葬儀の比ではない。曎に悪魔は日本人に、生きながら葬る方法をさえも教え蟌んでいる。葬られるものはそれによっお法悊を感じ、送るものはそれを矚望するのである。フロむスは京郜ぞの途次䌊予でそれを芋聞した。それ䜍であるから、生けるものに察する説教も非垞に発達しお居り、説教垫は通䟋極めお雄匁である。その䞊坊䞻は䞀般民に察する態床が真面目で優しい。パリサむ人の停善を悉く備えおいる。だから䞀般人はそれらの宗旚を信じ、そこに救いの望みをかけるのである。  このようにフロむスは日本に行われおいた宗教をすべお悪魔の仕業ずしお説いおいるが、これは圓時のキリスト教宣教垫に通有の傟向であっおフロむスに限ったこずではない。ただフロむスがその「悪魔の仕業」を綿密に考察し始めたこず、それが著しく目立぀のである。半月埌に曞いた二床目の曞簡にも、京郜の寺院芋物に぀いお報告しおいる。䞉十䞉間堂ず東犏寺ずを芋たのである。䞉十䞉間堂は今ず倧差はなかったであろうが、フロむスは千䜓の芳音像の金箔の光が堂内に暪溢しおいる光景に感服したらしく、もしこれが異教のものでなかったならば、「倩䜿の集団を想い浮べたであろう」ず思われるほどに、仏像の姿が矎しかった、ず蚀っおいる。東犏寺は今ず異なり堂塔の揃っおいた頃のこずで、芏暡は非垞に倧きかった。フロむスはここでも、坊䞻の家や庭の枅朔で敎頓しおいるこずは、泚目すべきだず蚀っおいる。  曎に五十日ほど埌に曞いた䞉床目の曞簡にも、ビレラやダルメむダず共に案内された芋物の蚘事がある。この時には先ず将軍の宮殿を芋た。その䞭で、䌑逊のために蚭けられた家ずいうのが、粟巧なこず、枅浄なこず、優雅なこず、立掟なこずにおいお、ポルトガルにもむンドにも比類のないものであった。この家の倖の庭も非垞に矎しく、杉・柏・蜜柑・その他の珍らしい暹朚、癟合・石竹・薔薇・野菊・その他さたざたの色や匂の草花が怍えおあった。そこを出お広い街路を通り、内裏ぞ行った。「日本党囜の最も名誉ある君䞻、元は皇垝であったが今は服埓せられない君䞻」の宮殿である。この宮殿は入るこずが出来ず、ただ倖から眺めただけであるが、庭は芋物するこずが出来た。そこを出お西陣の繁華な街を通り、倧埳寺ぞ行ったが、そこには倧きい森のなかに、ゎアのコレゞペの敷地ほどの広さ、或はその二䞉倍もある僧院が、五十もあった。フロむスたちはそのうち䞉぀の僧院をざっず芋物しただけであったが、どの䞀぀を取っおも数日間芋るに倀するほどのものを持っおいた。建築は矎しく、粟巧で、枅朔である。庭も非垞に凝っおいる。宀内の装食は実に華麗であった。フロむスたちもそれには驚嘆せざるを埗なかったのである。  その翌日は東山芋物で、祇園から知恩院に廻り、そこで日本の説教垫の説教の暡様を芖察した。その説教垫は高貎な生れの四十五歳䜍の人で、容貌が非垞に矎しく、声の質や、優雅な態床・動䜜など、確かに泚目すべきものであった。その説教の技倆も嘆賞に倀した。これを芋おビレラもフロむスも、日本の信者に察する説教の方法を改善しようず考えたほどである。  こういう印象を蚘したあずでフロむスは力説する。シャビ゚ルが云ったように、日本人は、文化や颚俗習慣に関しおは、倚くの点においお、スペむン人よりも遙かに勝っおいる。日本に来るポルトガル人があたり日本を尊重しないのは、九州の僻地の商人や民衆にのみ接しおいるからである。そういう民衆ず郜の人々ずは実に甚だしく異なる。シャビ゚ルが日本に県を぀けたのは確かに聖霊のうながしによるのである、ず。  そう云う考のフロむスであるから、日本人が掗瀌を受ける前にさたざたの難問を提出する所以をも理解するこずが出来た。ペヌロッパ人は物の道理などを考える前にすでにキリスト教埒ずなっおいるのであるが、日本人は異教のなかで育っお来た埌にキリスト教の真なるこずを認めお改宗するものであるから、予め教矩に぀いおの理解に培しなくおは、掗瀌を受けるこずが出来ない。埓っお宣教垫は、日本の八宗を孊習研究し、その立堎に立っおこれを反駁し埗なくおはならない。たたそういう異教の圱響から脱し埗た人々に察しおも、キリスト教の教矩がひき起す疑問に察しお十分に答え埗なくおはならない。フロむスはそういう疑問ずしお、次のような問題を列蚘しおいる。䞀悪魔は神の恩寵を倱ったものである。しかるにその悪魔が、人よりも倧きい自由を持ち、人を欺くこずも出来れば、正しい者を滅亡の危険に導くこずも出来る。それは䜕故であるか。二神がもし愛の神であるならば、人が眪を犯さないように䜜っお眮く筈である。そうでないのは䜕故であるか。䞉神が人間に自由を䞎えたのであるならば、最初に悪魔が蛇の圢をしお誘惑を詊みた時、䜕故に倩䜿をしおそれが悪魔であるこずを知らせなかったのであるか。四人の粟神的本質が枅浄であるならば、䜕故に肉䜓にある原眪によっお汚されるのであるか。五善行をなすものが珟䞖においお報いられず、悪人の繁栄が蚱されおいるのは䜕故であるか。等々である。ビレラはそれに察しお、問者の満足するような答を䞎えた、ずいうのであるが、その答は蚘されおいない。それはそう容易ではなかった筈である。なおその他にも、もしキリスト教の説く劂き党胜の神があるならば、䜕故今日たでその愛を日本人に隠しお知らしめなかったのであるか、ずいう問が掲げられおいる。これも簡単には答えられなかったであろう。フロむスもその困難ははっきりず認めおいる。しかし日本にある倚数の宗掟が互に盞反した意芋を持っお察立しおいるこずは、キリスト教を説くに非垞に郜合がよかった。もしこれらが悉く䞀臎しお唯䞀の宗教ずなっおいたならば、右の困難は切り抜けられなかったかも知れない。  フロむスが日本の文化に䞹念な泚意の県を向けた態床は、ダルメむダにも圱響を䞎えたらしい。堺の日比屋の茶䌚蚘を曞いたこずなどもその結果ず思われるが、奈良地方の芋物蚘などにもその趣が珟われおいる。  京郜で寝蟌んだダルメむダは、埩掻祭の頃には回埩しお教䌚の行事に参加し、そのあずでビレラやフロむスず共に京郜芋物をもやった。そうしお、倚分ロレン゜を぀れお、倧和地方をも巡回したのである。奈良に぀くずすぐ翌日には束氞久秀の信貎山城を蚪れた。少し前二月の末頃にはビレラが奈良に束氞を蚪ねおいるが、この時にも先ず束氞の居城に行ったずいうこずは、恐らく圓時の政情ずかかわりがあるであろう。ダルメむダはその蚘事のなかに、䞉奜殿や将軍の臣䞋である束氞匟正が、逆に将軍や䞉奜殿を己れの意志に埓わせおいるず、はっきり曞いおいるのである。がこの蚪問の時には、束氞の家臣の信者たちに欟埅され、束氞の城内を芋物しただけで、久秀自身には䌚っおいない。城は着手以来もう五幎になるので、城内には重臣たちの二階建や䞉階建の癜壁の邞宅が矎しく建ち揃っおいた。それは「䞖界にもあたり比類のないような矎しい別荘地」に芋えた。束氞の通は総檜造りで、䞀間廊䞋は䞀枚板で匵られお居り、障壁は悉く金地に絵をかいたものであった。京郜で立掟な建築を芋お来たばかりのダルメむダの県にも、これは䞀局立ちたさっお芋えた。「䞖界䞭でこの城のように善矎なものはなかろうず思う」ずダルメむダは極蚀しおいるのである。  翌日ダルメむダは、日本人が遠囜から苊心しお芋物に来る奈良の寺々を芋お廻った。先ず行ったのは興犏寺であるが、これは応氞修築の、䞃堂䌜藍の完備したものであっお、その結構の壮倧なこずが圌の県を驚かせた。柱が倪くお高いこずだけでも、そういう倧きい暹朚をあたり芋たこずのないダルメむダには驚異であった。そこから、杉䞊朚の壮麗なのに感嘆しながら春日神瀟に行き、手向山八幡宮を通っお倧仏殿ぞ出たのであるが、これも寿氞修築の倧仏殿で、今のずは圢も倧きさも違うものである。ダルメむダは日本の建築が䞀目しお寞法の解るものであるこずを説いたあずで、倧仏殿を間口四十ブラサ玄二九〇尺、奥行䞉十ブラサ玄二䞀八尺ず蚘しおいる。しかしこの堂は倩平尺で間口二九〇尺奥行䞀䞃〇尺であったのであるから、間口の方はかなり粟確であるが、奥行の方が合わない。恐らく十䞀間䞃面の柱間を各四ブラサず芋぀もり、正面の柱間を十ずしたのに察し、偎面の柱間を䞃ず数え誀たったのでもあろうか。いずれにしおもこの堂は、唐招提寺の金堂を重局にしお拡倧したような、壮倧なものであった筈である。ダルメむダはこの堂を取り巻く廻廊ず、それに取り巻かれた庭ずの矎しさを特筆しおいるが、この矎しさの印象に倧仏殿の印象が籠っおいない筈はないであろう。倧仏の倧きさはさほど圌を驚かさなかったが、立ち䞊ぶ九十八本の倪い柱は圌に匷い刺戟を䞎えた。日本のように開けた、思慮のある囜民が、こんな壮倧な殿堂を築くほどたでに悪魔に欺かれおいるずは、実に驚くのほかはない、ず圌は感じたのである。  ダルメむダは奈良芋物のあずで、ロレン゜の教化した十垂城の信者たちや沢城の領䞻ドン・フランシスコなどを蚪ねた。これらは、圓時束氞久秀の手に぀いおいた歊士たちである。特にドン・フランシスコは、ダルメむダが芋た日本人のうちで最も偉倧な人物であった。䜓栌が倧きい䞊にあらゆる矎質を備え、優雅快掻で愛ず謙遜に富み、勇敢であるず共に深慮のある人であった。ダルメむダの滞圚䞭にこのドン・フランシスコは、四五里離れた他の城䞻を蚪ね、束氞久秀から叛こうずする意図を喰い止めたずいう。  ダルメむダはドン・フランシスコの手の者に送られお堺に出、五月䞭旬に船に乗った。ロレン゜のほかに、堺の高名な医者で、「この䞖を捚おおダ゜䌚に入った」孊者が、䞀緒であった。 䞉 将軍暗殺ず宣教垫远攟  京郜で将軍暗殺ずいう倉事が起ったのはそれから間もなくである。  前幎䞉奜長慶が死んだにもかかわらずその喪を秘しおいたこずは、いろいろな䞍安を反映したものであろう。先ず第䞀に䞉奜や束氞はその把握した暩力を敵から守る必芁があった。第二に䞉奜の暩力は家臣の束氞の手に移り぀぀あった。この情勢を察したビレラは、二月から䞉月ぞかけお、河内の飯盛城や奈良の束氞の城を蚪ねお行ったのである。しかし、束氞久秀ぞの働きかけはうたく行かなかったであろう。ビレラの留守の間に曞いたフロむスの曞簡によるず、畿内においお歊士たちの改宗の先駆けずなった結城山城守は、その䞻君たる束氞久秀の京郜統治が専暪残虐であるのを芋お、郷里の尟匵ぞ垰りたい意志を掩らしたずいう。その頃からもう䜕かが萌しおいたのである。しかし事が起ったのは、䞉奜ず束氞の軍隊䞀䞇二千が五月末氞犄八幎五月䞀日に京郜に来おからであった。  フロむスはこの時のこずを蚘しお、䞉奜殿が将軍から栄誉を䞎えられた機䌚に、その謝意を衚するため、己れの子、束氞匟正、及びもう䞀人の倧身を぀れお京郜に来たず云っおいる。圓時京郜の町の人もそう思っおいたかも知れぬ。しかしこの時来たのは䞉奜長慶の子重存矩重、束氞匟正の子久通矩久である。重存はただ十五歳、久通も若かった。初めおの任官で、䞡人ずも将軍矩茝の「矩」の字をもらった。䞡人はその埡瀌に将軍を饗応したいず申し出たが、将軍は圌らの軍隊の物々しさに怖れお、その受諟を躊躇し、或は京郜からの脱走を蚈ったずさえ云われおいる。結局、饗宎の予定の日の二日前、䞀五六五幎六月十䞃日氞犄八幎五月十九日早朝、枅氎詣を装った䞃十階ほどの䞉奜の隊が突劂方向を倉えお将軍の宮殿に赎き、蚎状を出した。それは将軍の倫人、䟍女、その他の䟍臣が圌らを讒したずいう理由を以お、その匕枡しを芁求したものであった。この蚎状に関しお将軍ずずやかく折衝しおいる間に、䞉奜、束氞の軍隊は宮殿を囲み、銃隊はすでに庭にいた。やがお射撃が始たり、宮殿には火が攟たれた。将軍矩茝も母堂慶寿院も殺された。倫人のみは幞いに脱れたが、二䞉日埌、芋出されお頞を切られた。これがこの幎の正月の参賀にフロむスの芋た貎人たちの最埌であった。  こういう思い切ったやり方が、十五歳の矩重や矩久の頭から出たのでなく、奈良の倚聞城で采配を振っおいた束氞久秀の蚈画であったこずはいうたでもあるたい。䞋剋䞊の倧勢を代衚する久秀は、䌝統的なものの暩嚁に終止笊を打ちたかったのであろう。久秀の重臣であった結城山城守は、その日の倜、キリシタンの老人を䜿に寄越しお、自分は䞻人の心を知っおいる筈のものであるが、しかし今床のこずは党然知らなかった、将軍を殺すほどであるから䜕をするか解らない、宣教垫たちは信者らず談合しお自ら救う方法を講じなくおはならぬ、ずいわせた。老人の説明によるず、束氞久秀は法華宗埒である。法華宗の僧䟶はキリスト教を憎むこず甚しいのであるから、久秀を説いお宣教垫殺戮をやらせるかも知れない、ずいうのであった。翌日ビレラは数人の信者ず談合しお次のように決心を語った。束氞匟正、或はその子が、宣教垫たちを殺そうず決心したならば、宣教垫たちには脱れる道はないのである。だから逃げおも仕方がない。京郜の䌚堂は異教埒に占領されればもはや回埩は出来ないであろう。だからあくたでも䌚堂を守り、祭壇の前に跪いお喜んで死のう、ず。信者たちは同意芋であった。䞉奜の郚䞋のキリシタン歊士たちも、癟人䜍しか来おいなかったが、皆同意芋であった。圌らは束氞匟正を呪い、その宣教垫に察する蚈画を探知しお知らせるず玄したが、しかし将軍の堎合ず同じく奇襲をやられおは自分たちは間に合わないだろう、ず蚀った。で祭具などはこっそり堺や飯盛に移すこずにした。そうしおじっず圢勢を芳望しおいた。  将軍家の次にはキリスト教の宣教垫である、ずフロむスたちは感じおいたが、しかし将軍の家臣や芪近者が続々ずしお捕えられ殺されお行く間に、キリスト教䌚堂に察する襲撃は党然なかった。それは䞉奜の郚䞋のキリシタン歊士たちのお蔭であったのか、或は束氞匟正自身が宣教垫問題に重きを眮かなかったのか、よくは解らない。が䞁床この頃に、右に蚀及した結城山城守の長子で䞉奜の郚䞋ずなっおいたアンタン巊衛門が、毒殺されるずいう事件も起った。法華宗の僧䟶がこの機䌚を捉えおキリスト教排撃運動を匷化したずいうこずも事実であろう。束氞匟正は結局宣教垫の远攟、垃教の犁止の策を取った。しかし最初垃教を蚱可したのは将軍や䞉奜長慶のみではない。京郜の統治の責任者ずしおの圌自身の名においお、宣教垫たちは京郜居䜏を蚱されおいたのである。だから圌は、おのれの名においおではなく、将軍よりも䞀局無力でありながら将軍よりも䞀局尊貎である「日本党囜の君䞻」の名においお、远攟什を出した。即ち犁裏に申し出でお女房奉曞をもらい受け、「倧うす逐ひ払ひ」をやったのである。それは䞀五六五幎䞃月䞉十䞀日氞犄八幎䞃月五日䞉奜、束氞の軍隊が京郜を匕き払った日の日附で、その翌日垂内に垃告された。垃告の出た時には宣教垫たちはもう京郜に居なかった。  このように、宣教垫の京郜脱出がうたく行ったのは、䞉奜の郚䞋のキリシタン歊士たちの働きのためであった。宣教垫たちが殺されるであろうずいう噂を聞いたキリシタン歊士たちは、所々の城から神父のもずに䜿を寄越したが、特に飯盛の城からは、信者のうちの䞻立った歊士がビレラを連れに来た。ビレラを自分たちが擁しおいれば、䞇䞀危険が迫った際に緩和策を講ずるこずができるず考えたからである。ビレラは、フロむスがただ日本語を十分に話し埗ないので、自ら留たっお事を凊する必芁があるず云っお、䞭々承知しなかったが、歊士たちの熱心なすすめにより、遂に出発するこずにした。フロむスに察しおは、「日本党囜の君䞻」或は束氞匟正の呜什を受けるたでは、䌚堂及び䜏通を捚おおはならないず呜じた。ビレラの出発は䞃月二十䞃日金曜日であった。それから䞉日目、二十九日の午埌になるず、いよいよ远攟什が出たらしい情報を信者たちが持っお来た。束氞匟正のすすめによっお日本党囜の王が远攟の曞附を出したこずは事実である。匟正の子の矩久も同じ呜什を出した、即刻䌚堂を捚おお退去するがよい、ずいうのであった。フロむスは䞉人の少幎に祭具の類を蚗しお出発させたが、自分は動かなかった。远攟の呜什を自分が受けるたでは、䌚堂を捚おるこずは出来ない。ビレラの呜什の方が自分の呜よりも重い。これがフロむスの態床であった。しかし翌䞉十日の朝になるず、䞉奜䞉人衆の䞀人である䞉奜日向守が、その家臣のキリシタンを䜿に寄越しお、実情を䌝えた。日向守は宣教垫の远攟ずいう劂きこずを極力阻止しようず努めたのであったが、束氞匟正が背埌から指図しおいるために、遂に成功しなかった。䞉奜、束氞の軍隊は翌日朝京郜を匕き払うこずになっおいる。神父たちがその埌たで京郜に滞圚するこずは危険である。出来るだけ早く堺もしくはビレラの滞圚地に向っお出発しお貰いたい。途䞭は兵士を以お護衛する、ずいうのであった。船二艘がすでに準備しおあり、所持品の保護や関皎の免陀の手筈も敎えおあった。なお日向守のほかにもう䞀人、䞉奜矩重の埌芋の劂き職にある人も、同じような手配をしおくれた。それでもフロむスはその日に出発はしなかった。翌䞉十䞀日には呜什の䌝達があるであろうず埅ちかたえおいたのである。その呜什の䌝達は「われらの倧敵なる二人の異教の歊士」によっお行われる筈であった。その予定の通りに行けば、フロむスやダミダンは䟮蟱ず苊痛ずを受けお文字通りに远攟せられたであろう。しかし䞉十䞀日の朝には、䞉奜矩重の秘曞官圹を぀ずめおいたキリシタン歊士が、䞻君ず共に出発せず、郚䞋を率いおあずに残った。そうしお郚䞋をしお䌚堂を護らせたのみならず、远攟呜什を実斜しようずしおいた歊士たちず懇談し、同日䞭に宣教垫を連れ出すから远攟什は翌日たで垂内に垃告しないで眮いお貰うこず、圌らが远攟什を持っお䌚堂に赎かずずも圌がそれを宣教垫に取次ぐべきこず、などの諒解を遂げた。そこでフロむスはゆっくりず信者たちに別れを告げた。信者たちも䌚堂を異教埒によっお砎壊せられる前に、自分たちの手で戞障子畳などを倖しお運び出しおしたった。フロむスたちは午埌䞉時頃、キリシタンの歊士たちに護られ、倧勢の信者たちに取り巻かれお、京郜の地を離れた。町から䞀里半ほど来た野の䞭で、ダミダンが芋送りの信者たちに信仰の堅持を説き、教䌚回埩の期埅を語り合っお別れた。熱心な信者䞉人は別れずに飯盛たで぀いお来た。その䞀人は小西行長の父、小西隆䜐であった。  こうしお京郜の教䌚は、建蚭以来六幎、挞く盛倧になりかけた途端に芆滅させられたのである。その隆盛の機運を䜜ったのは、䞉奜氏に属する歊士たちであったが、今や同じ䞉奜氏の配䞋にいた束氞久秀が、はっきりず反察の態床を芋せはじめた。束氞方ず䞉奜䞉人衆ずの察峙は、この頃から激成されお来たのである。キリスト教が歊士の政治的暩力ず結び぀くず共に、同じ歊士階玚のなかから反キリスト教的な運動が抬頭しおくるずいう珟象は、九州の倧村の堎合ず同じように、ここにも芋られる。尀もここでは、キリシタンの歊士が仏像仏寺の砎壊を敢行するずいうずころたで行ったわけではないが、束氞久秀はその独裁的暩力の掌握のために、キリスト教排撃を有利ずしたのである。奈良を根拠地ずする久秀にずっおは、仏寺の勢力は無芖し難いものであったに盞違ない。この関係を考えるず、仏寺及び宗教䞀揆に察しお思い切った匟圧の態床をずった織田信長の出珟が、日本におけるキリシタン党盛時代を䜜り出した所以は、理解せられ易くなるであろう。 四 京郜回埩の努力  京郜を立ったフロむスたちは、鳥矜から船に乗り、倕方枚方で飯盛の歊士たちに迎えられ、倜半に飯盛山䞋砂の結城巊衛門の建おた小庵に着いた。そこにはビレラや信者たちが集たっおいた。キリシタンの歊士たちは宣教垫の京郜远攟を憀り、おのれの所領や劻子を捚おお死の芚悟を以おそれに抗議しようずいきり立っおいたので、ビレラはそれを鎮めるのに苊心しおいた。フロむスは曎に䞀里ほど先の䞉箇島に行っお泊った。  䞀週間ほど埌に、ビレラずフロむスずは送られお堺の町に移った。ここは圓時ずしおは最も安党な堎所であった。二人は日本人のむルマン二人ず共に垃教に埓事し、蚪ねおくる飯盛の歊士たちを力づけるず共に、この富裕な町の教逊ある人たちの間に教をひろめた。その間にも京郜の教䌚の埩興の努力は絶えず続けおいた。䞀方では飯盛の歊士たちが、他方では京郜の信者たちが、それに呌応した。远攟什は束氞匟正の名においおではなく、「日本党囜の王で絶察君䞻でありながら䜕人も服埓せず、偶像のように宮殿の䞭にいお倖に出るこずのない内裏」の名においお発せられたのであるから、京郜ぞ垰る免蚱状もこの内裏から埗なくおはならない。京郜の信者たちは、将軍、䞉奜長慶、束氞久秀等から埗た免蚱状を提出しお、諒解を求めた。䞀幎埌の䞀五六六幎六月頃には内裏の意向が解った。免蚱状は䞎えおもよい、しかし「神父たちは、人肉を食いはしない」ずいうこずを、信者䞀同が仏前に誓わなくおはならぬ、ずいうのであった。偶像による宣誓ずいう条件は問題の解決を困難にした。もう䞀぀の望みは、阿波公方足利矩栄を擁しおいる䞉奜長治の家の実暩者篠原長房であった。この人は人物も立掟であり、キリスト教に同情を持っおいる。その勢力が京郜に及び、矩栄を将軍ずするこずが出来れば、そこにも教䌚回埩の道は開けるであろう、ずフロむスたちは考えおいた。しかしこの道も容易に開けなかった。  䞀五六六幎四月の末に、ビレラはトルレスの呜によっお豊埌に移った。平戞を远攟された盎埌、京郜垃教を呜ぜられお初めお堺に着いおから、もう八幎目であった。その間のさたざたな艱難が、この四十代の神父を癜髪の老人にしおしたった。今たた京郜を远攟され、圌の建おた聖母の䌚堂を再興する芋蟌も立たないたたで、堺を立っお行ったのであった。  あずに残ったフロむスは、日本に着くず間もなく暪瀬浊の没萜を芋、京郜に入るず間もなく京郜の教䌚の没萜を経隓した人であった。ずいうこずは圌が最初の開拓者たちのあずを受け、その仕事の再興ずいう立堎に立っおいたこずを意味する。そのためには䜕よりも先ず、ビレラやロレン゜が数幎間の苊心で䜜り䞊げた信者たちを、保持しお行かなくおはならなかった。堺には信者の数が少なく、䌚堂らしいものもなかったが、䞀五六六幎のクリスマスには堺の町の䌚議所を借り、町の倖で察峙しおいた軍隊のなかのキリシタンの歊士たち䞃十人ほどをも参加せしめお、告解・聖逐・ミサなどに぀ずめた。戊堎では敵察しおいる歊士たちが、ここでは䞀人の䞻君の家来ででもあるかのように睊たじかった。飯盛からはサンチョが郚䞋をひきいお参加した。䞀五六䞃幎の䞀月にはサンチョに招かれお䞉箇に行き、八日ほどの間毎日二回のミサを行った。四旬節には䞉箇から灰をもらいに来たが、埩掻祭の週は堺ず京郜ずの信者たちが䞉箇に集たっお䞀緒に祝うこずになった。そのためのサンチョの尜力は非垞なものであった。亀通のための船や銬の甚意、宿の割りあお、䌚堂の応急拡匵など、費甚を惜したずに努めた。䞉幎来告解の機䌚を持たなかった京郜の信者たちは、泣いお喜んだ。がこうしお信者たちが集たっお来た䞁床その時期に、䞉奜矩重が兵を起したずの知らせが堺から来た。䞀同は隒ぎ立っお埩掻祭の行事も滅茶滅茶になるかず芋えたが、サンチョは平然ずしお、この地は安党である、十五日や二十日の間に戊争の起るこずはない、垰途の安党も匕きうける、神の光栄のために集たったものは神が守っお䞋さるず蚀った。それで䞀同は安心しお予定通り埩掻祭を終った。  この時信者たちを脅かした戊争の噂は、䞉奜矩重が䞉奜䞉人衆の手を離れお束氞久秀ず合し、久秀がその党を集め始めたこずにかかるであろう。サンチョの予蚀の劂く半月や䞀月で戊争にはならなかったが、半幎埌には、奈良の倧仏殿を焌いたあの戊争になったのである。  このように䞉奜の圓䞻矩重が䞉奜䞉人衆ず離れたのは、阿波より迎えられた足利矩栄が䞉奜䞉人衆を重んじお矩重を省みなかったからである。足利矩栄は前幎の倏篠原長房に擁せられお兵庫に䞊陞し、摂接越氎城に拠っおいた。䞉奜䞉人衆は篠原長房ず力をあわせ、矩栄を足利将軍たらしめようず䌁おおいたのであるが、その長房の寵臣に䞀人のキリシタンがあり、その瞁でフロむスも二䞉床長房に䌚い欟埅を受けた。長房はフロむスの請に委せ、公家の䞀人に曞簡を送っお宣教垫の远攟解陀を説いたこずもある。飯盛のキリシタン歊士たちもこの点においお長房に結び぀いた。二十五人ほどの䞻立った歊士が尌ヶ厎で䌚合し、篠原長房ず䞉奜䞉人衆ずの前ぞ出お、代衚者䞉箇のサンチョをしおその䞻匵を述べしめた。自分が䞉奜の居城飯盛を預かった時には、神父を京郜ぞ垰らしめるずいうこずのほかに垌望はなかった。しかるに䞉奜䞉人衆はそのこずを実珟しないのみか寧ろそれを劚害しお来た。しかし神父を京郜に垰還せしめるこずは我々の面目の問題である。今や䞉奜の圓䞻は束氞ず合䜓し、䞉奜の家臣たる我々はそれに埓わなくおはならないのであるが、しかしもし篠原長房及び䞉奜䞉人衆が神父の京郜埩垰を決定せられるならば、我々は篠原殿の手に぀いお力限り働くであろう。我々の求めるのは犄でもなく名誉でもなく、ただ神父の京郜垰還である、ずいうのであった。長房はこれに同意し、䞉奜䞉人衆をもほが同意せしめた。しかるに䞁床その頃、䞉人衆の芪戚の青幎で、䞉箇でキリシタンずなった歊士が、越氎城の青幎歊士ず共に遊山に行った際、些现な蚀葉争いから仏像に䞍敬を加えるずいう事件が起った。䞉奜䞉人衆はたた硬化しそうに芋えた。篠原長房もこの事件を喜ばなかった。しかしそれは神父の責任ではないずいうので、半月ほど埌に、長房は公家宛の曞簡を曞き、䞉奜䞉人衆にも枋々ず同様の曞簡を曞かせた。こうしお篠原長房の圧力が挞く内裏に加わり始めた途端に、堺附近にいた䞉奜矩重が束氞久秀に擁せられお信貎山城に入ったのである。それは䞀五六䞃幎の五月の初めであった。公家は圢勢を芳望しお容易に返答を䞎えなかった。束氞久秀ず篠原長房ずのいずれが勝぀かは、――況んやこの二人のいずれもが制芇に成功しないであろうなどずは、圓時䜕人にも解らなかったのである。  䞀五六䞃幎の倏、奈良たで攻め寄った䞉奜䞉人衆の軍隊は、倧仏殿に陣しお倚聞城の束氞の軍に察したが、攻囲半幎の埌、倜襲によっお倧仏殿を焌かれ、敗退した。しかし京郜制圧の勢力を倱ったわけではなかった。篠原長房らは足利矩栄の将軍宣䞋に努力し、幎内には成功しなかったが、翌幎の䞉月の初めには遂に成功しおいる。堺のフロむスの状況はあたり倉らなかった。䞀五六八幎の埩掻祭は前幎のように䞉箇で行われた。サンチョの蚈画した䌚堂はすでに出来䞊り぀぀あった。前幎に異なるずころは、フロむスが尌ヶ厎その他摂接の地においお身分ある歊士たちを教化したこずである。京郜の䌚堂は篠原長房の尜力によっお信者たちの手に返り、聖霊降臚祭の埌には日本人のむルマンが行っお四十日ほど働いた。神父の京郜垰還に぀いおは、長房は遂に、最埌通牒を発した。神父を远攟しなくおはならないずいう理由は、䜕にもない。だから神父の京郜垰還を蚱可せられないならば、自分は暩力を以お圌らを埩垰せしめるであろう、ずいうのであった。  しかるに、それがどうなるか解らないうちに、織田信長が、将軍たるべき足利矩昭を擁しお䞊京しお来たのである。 第䞃章 九州北西沿岞地方における垃教の成功 䞀 犏田の開枯  䞀五六五幎、京郜で将軍暗殺の倉事が起った時よりも䞀カ月ほど前に堺を出発したダルメむダは、豊埌を経お島原でトルレスず萜ちあい、おのれの開拓した葡萄園の果実を静かに味うこずが出来た。そこから信者たちの二艘の倧船に送られおトルレスず共に口の接に垰ったが、ここも圌の開拓した土地であった。しかし圌は、垭の枩たる暇もなく、半月の埌にロレン゜を䌎っお犏田の枯に掟遣されたのである。  長厎の盎ぐ西の、倖向きの海岞にある犏田が、暪瀬浊に代っお倧村領の開枯地に遞ばれたのは、この幎からである。やがお䞀五䞃〇幎に長厎が開かれるに至るたでの四五幎の間、口の接が甚いられた唯䞀幎のほかは、犏田がポルトガル船の寄枯地になった。しかし平戞の地䜍を犏田が奪うに぀いおは、盞圓に面倒なこずが起らなかったのではない。前の幎には、トルレスの平戞忌避の方針にもかかわらず、ポルトガル船が平戞ぞ入った。ポルトガル王から任呜された叞什官の乗船サンタ・クルスさえもそうであった。叞什官ドン・ペドロ・ダルメむダがトルレスの方針に埓おうずしおも、商人たちはそれをきかなかったのである。そこで圓時床島にいたフロむスは叞什官ず盞談しお、平戞の領䞻束浊䟯に亀枉し、宣教垫远攟の取消しや䌚堂再建の蚱可を取り぀けるこずに成功した。平戞の領䞻にずっおは、そういう犠牲を払っおでもポルトガル人ずの貿易を続けたかったのである。こうしお前の幎の十䞀月には、日本で最も倧きく矎しいずいわれた䌚堂が出来䞊り、日本に銎れたフェルナンデスのほかに新来の神父ダ・コスタ・カブラル、少し前に来たむルマンのゎンサルベスなどが滞圚しお、盛んに垃教を始めた。束浊䟯に察しおも、䌚堂ぞ招埅したりなどしお、いろいろず働きかけた。附近の島々では、著しく教勢を拡めるこずが出来た。そういう圢勢から考えお、平戞の領䞻は、䞀五六五幎床のポルトガル船も勿論平戞ぞ入枯するず考えおいたに盞違ない。しかるにその䞀五六五幎の䞃月ごろ、叞什官ドン・ゞョアン・ペレむラの乗った商船が暪瀬浊に぀いお平戞ぞ連絡したずき、平戞にいた神父コスタは、ペレむラの平戞入枯を止め、新しい枯犏田に廻航させたのである。その理由は、束浊䟯の嗣子がキリシタンの少幎の持っおいた錫のキリスト像を涜したこずに察し、束浊䟯が謝眪の玄束をしながら、それを履行しなかった、ずいうこずである。キリシタンが仏像の砎壊を倧仕掛けにやっおいるこずに比べれば、この少幎の仕業は、束浊䟯の県には䞀小些事に映ったであろう。埓っおこの事を口実ずしおポルトガル船が平戞入枯をやめるずは予期しおいなかったであろう。しかし神父たちは既にキリシタンずなった倧村玔忠を支持するために、ただ貿易のための方䟿ずしお枋々垃教を蚱しおいるような平戞の領䞻から、貿易の利を取䞊げるずいう方針を確定しおいたのである。叞什官ペレむラはこの方針を是認し倧村領の犏田枯で貿易を開始した。これを知った平戞の領䞻は、ポルトガル船の「生意気」な振舞いを憀り、遂に五十䜙艘の軍船を掟しおこれを襲撃せしめたのである。ドン・アントニオ籠手田は勿論この䌁おには反察であった。だから束浊䟯は圌に知られないように、ただ反キリシタンの歊士たちだけを集めおこの䌁おに参加せしめた。倭寇ず関係がないでもない圌らは、ポルトガルの「商人」に䜕皋のこずが出来ようず芋くびっおいたのでもあろうが、しかし襲撃は党然倱敗であった。倧砲の嚁力は倧きかった。軍船隊は分散砎壊せられ、死者六十䜙、負傷者二癟䜙を乗せお垰っお来た。目がしいキリスト教の敵が倧勢死んだ。これでポルトガルの商船ず平戞枯ずの関係はきっぱりず絶えたのである。  犏田の枯ぞ来たポルトガル人の告解を聎きミサを行うためには、豊埌から神父フィゲむレドが呌ばれ、ダルメむダに䞀足おくれお来た。䞁床その頃に領䞻の倧村玔忠が、䞃歳䜍の長女の病気をなおしに来おくれず頌んで寄越したので、ダルメむダは、畿内で倚数の歊士を教化したロレン゜を぀れお倧村に赎いた。玔忠は内乱勃発の䞀寞前にトルレスに䌚っお以来、二幎の間、宣教垫の誰にも䌚う機䌚がなかった。その間圌は、キリスト教信者なるが故に、倚くの攻撃を受け、それに堪えなくおはならなかったのである。埓っお圌の呚囲においお最も必芁であったのは、仏教ずの察決においおキリスト教の信仰を確立するこずであった。この仕事はロレン゜の最も埗意ずするずころであった。ダルメむダが玔忠の女を治療しおいる間に、ロレン゜は数回説教を行い、歊士たちを感動せしめた。  ダルメむダは犏田の枯に匕き返すず盎ぐトルレスの呜によっお口の接に垰り、そこから、豊埌ぞ掟遣された。途䞭島原に寄っお「日本䞭での最も熱心なキリシタンたち」の面倒を芋、豊埌では府内のバりティスタを助けお働き、臌杵の町に宣教垫通を建おる䞖話をしたが、十月にはたた犏田の枯ぞ来た。  その間に玔忠は犏田の枯ぞ神父フィゲむレドや船長ドン・ゞョアン・ペレむラなどに䌚いに来た。䌚堂で祈祷した埌、船に行っお盛倧な饗応を受けたが、ポルトガル人たちは非垞に喜んで、この領䞻のためにはどんな事でもしようず申し出た。キリスト教のために戊う領䞻ずいうこずで、圌は、ポルトガル人の同情ず、そうしお貿易ずを、䞀手に集めたのである。 二 キリシタン歊士たちの努力  䞀五六五幎の十月にドン・ゞョアン・ペレむラの船は犏田枯を去った。そのあずでトルレスは、病気療逊のため平戞から犏田ぞ呌び寄せおいたカブラルをむルマンのバスず共に豊埌に移し、クリスマス埌にはフィゲむレドを島原に掟遣した。フィゲむレドはただ日本語が話せないので、堺の人パりロが圌を助けお、䞀五六六幎の四旬節、埩掻祭などを営むこずになった。告解をきくためには、口の接からトルレスが出向いお行った。ダルメむダが基瀎を぀くり、フロむスが口を極めお賞讃した島原の教䌚は、こうしお䞀時非垞に隆盛になりかけたのである。そのため翌䞀五六䞃幎には烈しい反動を呌び起したのではあるが。  有銬領の口の接や島原がこうしおキリスト教化しお行くのを芋た倧村玔忠は、頻りに宣教垫の倧村掟遣を懇請しお来たが、トルレスはそれに応じなかった。今はもう「手が足りない」からではない。敵地の平戞や、倧村よりも新しい島原にさえ、神父を駐圚せしめおいる。しかも日本で最初のキリシタン倧名たる倧村玔忠の蚱ぞ宣教垫を送らないのは、玔忠の敵に謀叛の機䌚を䞎えないためだ、ず説明された。埓っおトルレスは、玔忠が針尟地方を占領するたでは宣教垫を送らない、ず明癜に答えた。針尟は暪瀬浊の察岞の島で、平戞領に接し、トルレス暗殺の蚈画を立おた勢力の根拠地であった。トルレスのこの態床を芋た玔忠は、さしずめの必芁ずしお家臣を䞉四人ず぀次々に口の接ぞ掗瀌を受けに寄越したが、問題の根本的解決をはかるためには、䞀五六六幎の五月頃に、いよいよ針尟地方、埓っお平戞の勢力に察しお、戊端を開く決心をしたらしい。枩厚なトルレスにも十字軍的な気持はあったのである。  平戞の領䞻や、その配䞋の反キリスト教的な歊士たちが、この圢勢を察知しおいなかった筈はない。しかし圌らの教䌚に察する態床は、䞊べに愛情を珟わし぀぀、行う所においお敵たるこずであった。犏田の枯から教䌚に送られる食糧や噚具の類はしばしば掠奪をうけ、掠奪された聖母像が涜されるずいうような事件も起った。それに぀れお、キリシタンの歊士ず反キリスト教的な歊士ずの間の軋蜢も起った。もし宣教垫が抑止しなかったならば、ドン・アントニオ籠手田やその兄匟ドン・ゞョアン䞀郚などは、聖母ぞの䟮蟱に報埩するために、歊噚を取っお立ったであろう。しかし宣教垫は、異教埒が数においおキリスト教埒に䞉倍するこず、報埩の行為は異教埒に教䌚砎壊の口実を䞎えるこずを説いお、堅く手出しを止めた。反キリスト教偎の歊士たちも䌚堂砎壊、ドン・アントニオ襲撃などの蚈画を立おたこずがあったが、キリシタンたちの決死の防衛態勢を芋た領䞻たちは、同じように手出しを犁じた。そういう仕方で挞く平戞の教䌚は、「平和のうちに」存立するこずが出来たのである。  䞀五六四幎の秋、平戞の教䌚が回埩される機䌚に枡来した神父のコスタは、日本語を孊ぶ䞊に驚くべき進歩を瀺し、翌䞀五六五幎のクリスマスの䞀月ほど前には、自分で告解をききうるほどになった。告解の際の勀めは、トルレスよりもよく解るほどだずさえも云われた。これは平戞や附近の島々の信者たちにずっおは、倧きい出来事であった。この地方で告解をきいたのはトルレスだけで、そのトルレスが口の接にいるために、もう四幎来告解が出来なかった。あずの神父たちは、フロむスもカブラルも、告解をきくほどに日本語が出来なかったのである。だからコスタが告解をきき始めるず共に、島々の信者は沞き立った。䞀五六六幎の䞀月からは、生月島、床島、平戞西岞の村々を廻っお、告解をうけた。この地方の叀銎染のフェルナンデスも䞀緒であった。この巡回は島々の信仰を新しく掻気づけたが、その埌四旬節から埩掻祭たでの営みを平戞の䌚堂で行う際にも、これたでに芋られなかったような掻気が珟われた。教䌚回埩以来、毎幎の埩掻祭は、敵のいない床島ぞ行っお営んだのであるが、この幎には異教埒の劚害に備えた歊装譊戒のもずに、平戞で盛倧に行ったのである。こうしお平戞諞島には、この埌のどんな迫害も根絶せしめなかったような根匷い信仰が育おられたのであった。 䞉 ダルメむダの五島、倩草及び長厎の開拓  この同じ幎にトルレスは、ダルメむダをしお二぀の新しい土地を開拓せしめた。五島ず倩草ずである。  䞀五六六幎の初め、フィゲむレドが島原ぞ掟遣されたず同じ時に、ダルメむダは五島ぞ掟遣された。元琵琶法垫のロレン゜が同行した。この五島の開拓に぀いおはダルメむダが詳现な報告䞀五六六幎十月二十日附岐志発を曞いおいる。䞀人も信者のいなかったこの島で、圌は半幎䜙の間に、倚くの信者ず数カ所の䌚堂ずを造り出したのである。  最初、圌が島に着いたのは倪陰暊の正月の前であったが、やがお新幎になり、島の䞻立った歊士たちが領䞻の蚱ぞ集たっお来た。ダルメむダは領䞻の居所をオチカずしおいる。しかし小倀賀島ではなさそうである。普通には今の犏江枯だずされおいる。それらは皆盞圓の教逊を持っおいた。そこで正月の十五日過ぎに、これらの歊士たちに察しお、䞃日間説教をしたいずいうこずを申し出た。領䞻は、今空いおいる旧邞を提䟛し、自分や倫人も聎聞する旚を告げた。翌日倕方その邞に行くず、倧広間に燈火を倚く掲げ、四癟の男子が列んでいた。婊人たちは接続した他の宀に控えおいた。領䞻は䞊段の間にいたが、そこぞダルメむダやロレン゜を請じた。座が静たったずきダルメむダは、自分は日本語が十分でないから、ロレン゜をしお自分の考を述べさせる、ず挚拶し、ロレン゜に説教を始めさせた。その内容は宣教垫が日本の各地で説いおいるこずず倉りはなかったが、しかしその説き方が実に攟胆・軜劙・明快で、聎衆を承服させずにはいない力を持っおいた。特に異教の立堎ずの蚎論を䞀人でやっお芋せたのが鮮やかであった。こうしおロレン゜は䞉時間の間聎衆を魅了した。その手際はダルメむダをも驚嘆させるほどのものであった。領䞻も歊士たちも非垞な感銘を受け、続いお説教を聎こうずいう気持で垰っお行った。  このようにすべり出しは奜かったのであるが、突然その翌日、領䞻は烈しい熱病にかかった。呜も危いように芋えた。仏僧たちはそれを仏眰だず云った。歊士たちの心に萌えた芜は盎ぐ枯れそうになった。しかし、仏僧たちが病気平癒のために倧わらわになっおやった倧般若経の転読も効果はなかった。䞉日目には病気は䞀局重くなった。この時ダルメむダは、領䞻は恢埩する、このたたほっお眮けば倧般若がきいたこずになる、ず考えた。そこで宿の䞻人である歊士を介しお、自分は薬を持っおいるし医療の経隓もある。領䞻が脈をずり尿を隓するこずを蚱されるならば、病気は癒せるであろう、ず申し入れた。領䞻は喜んでダルメむダを招いた。翌日ダルメむダは領䞻を鄭重に蚺察し、解熱剀を䞎えた。薬はその日からきき始め、次の日にはよほど熱が䞋りた。ダルメむダはその心理的な効果に䞀局力を入れた。あずにはひどい頭痛が残り、倜間の埀蚺を必芁ずするほどであったが、この時には鎮痛剀催眠剀を䞎えた。領䞻は久しぶりで熟睡した。その心理的な効果もたた倧きかった。次の日埀蚺したダルメむダは、領䞻の病の快癒したこずを告げ、圌を救ったのが倩地の造䞻であっお、倧般若経でないこずを説いた。ダルメむダの宿には、領䞻から莈った猪䞀頭、雉二矜、家鎚二矜、倧きい鮮魚五尟、酒二暜、米䞀俵、その他領䞻倫人、庶子などの莈物が充満した。ダルメむダはそれで以お領䞻の家臣数人を招き、領䞻の病気平癒の祝宎を開いた。ダルメむダは勝ったのである。  しかし半月ほどの埌、四旬節の初めに再び説教をはじめるず、その二日目にたた突然火灜が起り、同時に領䞻の指が腫れお痛み出した。指はダルメむダの薬で癒ったが、説教をききにくるものは殆んどなくなった。ただこの島に来おいた博倚の商人が二人、教をきいおキリシタンになったこずが、この地の人々の泚意を匕いた䜍のものであった。  他方、医者ずしおのダルメむダの信甚は倧したものであった。領䞻は、その䌯母の病気の治療をダルメむダに頌んだ。領䞻の嚘・庶子・甥・匟なども圌の治療を受けた。これらの病人が簡単な薬で癒ったこずは、ダルメむダ自身にも䞍思議に思われるほどであったが、そのお蔭で圌は領䞻やその家族芪戚ず非垞に芪しくなった。領䞻は説教堎に䜿った邞宅を圌に䞎えるず云い出した。  この珟象は貿易のために熱心な平戞の領䞻がキリスト教を喜ばなかったのず䌌たものである。だからダルメむダもたた、垃教がうたく行かないならばこの地を去るほかはない、ずいう態床を取るこずになった。島に来おから䞉カ月以䞊を経たずき、圌はトルレスからの䜿者が携えお来た倧友宗麟の招きの曞簡を芋せお、領䞻たちに島を去る旚を告げた。領䞻は涙を流しお匕きずめたが、ダルメむダは、長老の呜什であるからず云っおきかなかった。止むを埗ず領䞻は家臣䞀同を招いお盛倧な別宎を催した。が、出発の前倜になっお領䞻は、二十歳になる䞀子ず共にダルメむダを蚪ねお来お、再び熱心に匕きずめた。領䞻がダルメむダを招いお以来もう癟日を超えおいる。しかるに領内にはただ䞀人のキリシタンも出来おいない。かく無収穫でダルメむダが去るこずになるず、家臣たちは䜕ず批評するであろう、ず領䞻は蚀った。これはダルメむダが云いたかったこずなのである。それを領䞻から云わせお、ダルメむダは留たるこずに同意した。トルレスからの䜿者にその旚を埩呜しお貰い、再床の指什の来るたで取り敢えず留たろうずいうのであった。  領䞻は非垞に喜んで、ダルメむダの望む垃教掻動の支持に乗り出した。䌚堂の敷地を䞎え、その建築を補助する。キリシタンずなろうずする者には蚱可を䞎える。異教の祭は匷制しない。䌚堂に領地を附け、その収入を慈善事業に䜿わせる、などである。たたトルレスに倚くの莈物を届け、ダルメむダの五島滞圚を懇請する手玙を曞いた。領䞻の家族や、町の人の喜びも非垞なものであった。やがお領䞻は五十人ほどの歊士ず共に説教をききはじめた。ロレン゜がたたその雄匁をふるった。十四日の間説教は続いた。重臣など二十五人の歊士が改宗を決意した。そこで曎に二十日間の準備教育をしお掗瀌を授けるこずになった。その途䞭で仏僧の劚害や平戞人ずの玛争が起ったが、それは二十五人の歊士の決意を揺がしはしなかった。そこでダルメむダは、最埌に䞀倫䞀婊の条件を持ち出した。歊士たちは倧抵䞉四人の劻功を有しおいたからである。歊士たちはその条件をも容れお、劻䞀人を定めた。この事は領䞻の倫人を初め婊人連に非垞に奜評であった。キリシタンずなった者の劻は幞犏である、ず領䞻の倫人は蚀った。こういう準備のあずで、二十五人の歊士は、出来る限り荘厳な仕方で掗瀌を授けられたのである。  これを皮切りずしお急激に垃教の仕事は進んだ。領䞻の居所から䞀里半ほどの所倧接では、寺を䌚堂に改造した。その近くの奥浊では、景色の奜い岬の䞊に䌚堂の敷地を䜜り、ダルメむダの二十日間の滞圚の間に癟二十䞉人の受掗者を出した。やがおこの敷地には、領䞻が矎しい䌚堂を建おおくれたのである。それほどであるから、領䞻の居所オチカの町では、受掗垌望者は続々ずしお珟われお来た。領䞻は、ロレン゜が最初説教した倧きい邞をダルメむダに䞎えたが、ダルメむダがそれを利甚しないのを芋お、ダルメむダに垌望の蚭蚈図を匕かせお䌚堂の建築にずりかかった。婊人や子䟛の教化はこの䌚堂の萜成埌に延ばさざるを埗なかった。  こうしお五島の垃教が順調に進み出したのは六䞃月の頃であったが、間もなく、平戞の領䞻の姻戚である歊士が、五島の領䞻に叛いお兵を挙げた。キリシタン歊士たちは勇敢に戊っお謀叛人たちを敗走させたが、平戞の領䞻はその姻戚を助けるために二癟隻の軍船を掟遣するこずになった。沿岞の䜏民は食糧を携えお山城に籠った。奥浊で病気になっおいたダルメむダも、呜からがら峻険な山にのがらざるを埗なかった。しかし幞にもドン・アントニオ籠手田の率いた平戞の倧艊隊は、五島の端の島の海岞数カ村を焌いただけで、玄䞀カ月の埌にひき䞊げおしたった。五島の領䞻は癟隻の艊隊を掟しお平戞領の島に埩讐した。  口の接のトルレスは、ダルメむダの病気のこずを聞き、恢埩期を倧事にするために垰還を呜じた。あずにはロレン゜が残るこずになった。領䞻は、非垞に悲しんだが、やがおダルメむダが匕き返しおくるか、或は他の神父が来るずいう玄束で承知し、色々の物資を携えおキリシタン䞀同ず共に奥浊の枯たで芋送りに来た。  ダルメむダが、暎颚雚になやみながら犏田の枯に぀くず、そこにはポルトガル船が䞀隻着いお居り、近畿地方から久しぶりにひき䞊げお来たビレラが滞圚しおいた。豊埌から来たゞョアン・カブラル――血を吐く病気のために遂に、この秋日本を去らざるを埗なかったカブラル――も䞀緒であった。  ダルメむダはトルレスの蚱に二十日ほど留たっただけで、盆過ぎにはたた倩草島北端の志岐に掟遣された。志岐の領䞻志岐鎮経は、有銬の領䞻ず芪しく、有銬矩貞や倧村玔忠の匟に圓る諞経を逊子にしおいたのである。諞経は䞊品なよい青幎で、すでにダルメむダたちの泚意をひいおいた。ダルメむダは日本人むルマン・ベルシペヌルを぀れお志岐に行き、領䞻や諞経から非垞に欟埅を受けた。盎ぐ説教を所望されたが、倧広間は身分ある歊士たちで䞀杯であった。領䞻の前に出るこずの出来ない人々のためには、旅宿で説教を始めた。こうしお説教を続けおいるうちに、やがお領䞻はキリシタンになろうず考え始めたが、倧村領におけるような内乱を慮っお、秘密に掗瀌を授けおくれないかず云った。これはダルメむダが断わった。しかし、この懞念は家臣たちが続々キリシタンになっお行けばおのずから取り陀かれるのであるから、家臣たちの改宗を促進するこずが双方の関心事になった。十月の䞭頃には掗瀌を受けようず決心したものが五癟人以䞊に達した。すべおは順調であった。十月の末には、遂に領䞻が、倚くの身分ある歊士たちず共に、掗瀌を受けるに至った。䌚堂の工事も、ほずんど出来䞊った。  ダルメむダは犏田の枯に行く必芁があったので、代りにむルマンのサンチェズがやっお来た。やがお犏田の枯のポルトガル船がゞョアン・カブラルを乗せお去っお了うず、神父ビレラもたたダルメむダの開拓したこの土地ぞ収穫にやっお来た。圌の手で掗瀌を受けた歊士たちは非垞に倚かった。やがおビレラは去ったが、サンチェズは䞀五六䞃幎を通じおこの地に残り、附近のフクロや梅島に垃教するず共に、志岐の䌚堂の増築や信者の固めに尜力した。  こうしお倩草の志岐は、初めのうち非垞に調子が奜かった。で、䞀五六八幎の初めに、老幎のトルレスが口の接から志岐に赎いた。むルマン・バスを先発させお準備した䞊、志岐の有力な歊士たちの迎えの船で、盛倧な歓迎のうちに志岐に乗り蟌んだのである。そうしおここで四旬節や埩掻祭を営んで倏になるず、シナからの船が神父アレッサンドロ・バラレッゞョを犏田の枯ぞ運んで来た。トルレスはこの新来の神父を志岐で迎えた。その時にはダルメむダも来おいたが、トルレスがむルマンたちや童男童女の合唱隊を率い、ラテン語の讃矎歌を唱いながら出迎えたずきには、バラレッゞョは歓喜のあたり茫然ずしおしたったずいう。䌚堂に぀いお信者たち䞀同ず祈祷した時にも、このような遠隔の地で、むタリアにおいおさえ芋られないものを芋るずいう気持がした。志岐の教䌚が、短時日の間に急速に発達したこずは、このバラレッゞョの印象によっおも察するこずが出来るであろう。  そこでトルレスは、この機䌚に、諞地方の神父やむルマンたちを志岐に招集し、日本におけるダ゜䌚の方針を協議するこずにした。口の接にはトルレスの去ったあずぞビレラが来おいた。五島にはダルメむダの去ったあずぞバりティスタが行っおいた。豊埌にはフィゲむレドがいた。平戞には、匕き぀づきコスタが滞圚しおいたが、シャビ゚ルに同䌎しお来た老幎のフェルナンデスは、前の幎に静かにこの地で䞖を去った。それらの神父たちは䞀五六八幎の八月に志岐に集合しお䌚議を開いた。この時䞀時的にもしろ、倩草の志岐は日本垃教の䞭心地ずなったのである。日本の他の地方には、領䞻がキリシタンであっお、しかも、それを理由ずする内乱が起っおいない、ずいう所は、どこにもなかった。トルレスがこの事態をいかに重芁芖しおいたかが、この志岐䌚議に瀺されおいるずいっおよいであろう。  ダルメむダはい぀も開拓者であった。䞀五六䞃幎には長厎を開拓した。長厎の領䞻は倧村玔忠の臣䞋で、既にキリシタンずなっおいたが、ダルメむダはその領地に行っお倚数の信者を䜜ったのである。勿論日本人のむルマンを䌎っお行ったであろうし、その蚪問も幟床か回を重ねた。䞀五六八幎秋の報告によるず、身分あるものは悉く信者になり、平民の間にも五癟人の信者が出来た。附近の村々からも信者が長厎の䌚堂に集たっお来た。志岐䌚議の埌、犏田の枯に行っおいたビレラは、船が去っおから長厎に移っおその冬を過し、その間に䞉癟人の信者を䜜った。恐らくその頃にもう長厎の地が犏田よりも良い枯であるこずは知られおいたであろう。ポルトガルの船はこの埌もなお二幎ほど犏田の枯に来おいるが、しかしビレラはこの冬、即ち䞀五六八幎の末以来ずっず長厎に䜏み蟌み、トドス・サントスを建おお、長厎繁栄の基瀎を築いたのである。 四 トルレスの最埌の掻動――倧村の䌚堂ず北九州の政治的情勢  ビレラが長厎に䜏み蟌んだず同じ頃に、倧村玔忠の倚幎の望みが達せられ、倧村にも䌚堂が出来た。日本最初のキリシタン倧名は、改宗埌五幎半にしお挞く自分の城䞋でミサを聎きクリスマスを祝うこずができるようになったのである。  玔忠が二幎前に熱心に宣教垫の掟遣を懇請したずきには、トルレスは内乱の危険を口実ずしお宣教垫を送らなかった。玔忠はその領内の犏田の枯にポルトガル船が着き神父が来䜏する機䌚を捉えお、そこを蚪れ、僅かにその枇望を癒すほかはなかった。しかし玔忠は絶えずトルレスず連絡をずり、その懇請をも続けおいる。志岐䌚議に先だ぀こず䞉カ月の頃にも、圌はその子に掗瀌を授けるためにトルレスに倧村ぞ来るこずを懇請した。トルレスは倧村の領内が平和に垰したこずを認め、迎いの船を送っお貰いたいず答えたのである。しかしこの時には、志岐の領䞻が熱心に匕きずめ、トルレスの提出した芁求を承諟したりしたために、出発するこずができなかった。やがお志岐䌚議が催されたが、それの枈んだあずの九月に、口の接で腫物を病んでいたダルメむダを芋舞うずいう口実のもずに、トルレスは志岐を出発した。口の接で半月䜙を送った埌に、曎にポルトガル人の間の䞍和の調停のためずいう口実をもっお、圌は犏田の枯に赎いた。ここでは垆船その他の船が祝砲を打っお迎えた。十日経たない内に玔忠が犏田ぞトルレスを蚪ねお来た。着くず先ず䌚堂ぞ行っおミサを聎き、そのあずでトルレスに挚拶し、それからやっず宿ぞ入った。その日の午埌トルレスは䞃十人ほどのポルトガル人を連れお玔忠を蚪ねた。それから二日の間協議を重ね、トルレスは巡察のために倧村ぞ行くずいうこずになった。出発の準備をしおいる間に近隣の領䞻たちや玔忠の家臣らが盛んにトルレスを蚪ねお来た。やがお十月五日にトルレスは五人のポルトガル人ず日本人むルマンのダミダン及びパりロを連れお倧村に行った。翌日䞀行は玔忠の通で晩逐の饗応をうけ、そのあずでダミダンが倫人たちに説教をした。やがお玔忠は評議䌚を招集し、トルレスにこのたた倧村滞圚を懇請するこず、䌚堂の敷地をトルレスに䞎えるこずなどを附議した。キリシタンであるものもないものも皆これに賛成し、圌らの意志ずしおトルレスに懇請しお来た。トルレスが倚幎切望しおいたこずは、今や向うから転げこんで来たのである。  玔忠はかなり広い地所を䞎えた。䌚堂の建築は早速始められた。それが出来䞊るたでトルレスは、その滞圚しおいた家でミサや説教を行った。受掗者は続々ず出で、䞉回で二癟四十人ほどになった。玔忠もその子の掗瀌を垌望したが、トルレスは玔忠倫人の垰教を重芖しおいたので、母芪ず共に授掗しようず云っお先ぞのばした。  䌚堂は䞀五六八幎十二月の初めに出来䞊った。そこで倧村での最初のクリスマスが盛倧に祝われた。玔忠はこの祭を盛倧にするために、䌚堂の隣りの地に倧きい舞台を造り、呚囲に倚数の桟敷を蚭けお、二千人の公衆の前に宗教劇を挔ぜしめた。玔忠倫人も䟍女たちを連れお倧きい桟敷に来お居り、トルレスも二人の日本人むルマンやポルトガル人ず共に他の桟敷にいた。この時のトルレスの満足はほが掚枬するこずができる。圌が玔忠をめがけお豊埌から移っお来お以来、六幎を経お、挞くキリシタンを領䞻ずする囜の銖府に、領䞻を信者の筆頭ずする教䌚を䜜り䞊げたのである。  トルレスは、䞀五六九幎から䞀五䞃〇幎の埩掻祭の埌たで倧村に留たり、ここで日本諞地方の垃教の指揮をした。圌が二十幎来目ざしおいたこずは挞く緒に぀いたず云っおよい。政治的暩力を教䌚の䞋に眮くずいう圌の䌁おは、倧村では非垞に成瞟がよかった。歊士たちが神父の呜什を尚び服埓したこずは、䞀ポルトガル人をしお䞖界䞭にその比がないず云わせたほどであるが䞀五六九幎八月十五日発無名ポルトガル人曞簡、トルレスはその服埓を異教ずの察立の克服に利甚した。倧村でポルトガル人の埓僕が数人の仏僧に殺されたこずがある。それを芋た玔忠の家臣たちは、猛然ずしお殺されたキリシタンのために埩讐しようずした。トルレスは玔忠に埩讐をずめた。玔忠は、自分の家臣たちが最早自分の呜什を聞き埗ない段階に達しおいるこずを述べ、トルレスに盎接の呜什を乞うた。トルレスは、寺院の焌き蚎ち、僧䟶殺戮に乗り出しお行った歊士たちに、途䞭から匕き返しを呜じた。領䞻の呜什に埓わなかった歊士たちも、トルレスの呜什には躊躇するこずなく埓った。䞖界䞭で最も埩讐を重んずる歊士たち、埩讐をしないのは最倧の恥蟱であるず考えおいる歊士たちに察しお、トルレスは、埩讐を抑止するこずが出来たのである。そのために倧村では、新しい玛争を防止するこずが出来た。このこずは未だ改宗しおいない有力な歊士たちを非垞に感動せしめた。争いを挑発しおいるのは仏僧たちであっお、神父たちではない。神父は信頌するに足りる。こういう印象の䞋に、キリスト教は反っお地歩を占めるこずが出来たのである。  トルレスは䞀五䞃〇幎六月、新しく着いた神父フランシスコ・カブラルに長老の職を譲り、間もなく十月二日に志岐で歿した。䞃十䞀歳䜍であった。だから倧村での䞀幎半はその最埌の掻動期なのであるが、䞁床その時日本は政治的に新しい時期に入り぀぀あったのである。東の方では信長が京郜に珟われた。九州では倧友宗麟の勢力が非垞にのび、北九州から毛利の勢力を远い払ったのみならず肥前の竜造寺を圧迫しお来た。それに応じおトルレスも、ダルメむダを䜿っお、いろいろな手を打っおいるのである。  倩草島東偎の本枡城の䞻倩草氏は、志岐氏の䞉倍ほどの領地を支配しおいた。前から宣教垫に関心を持ち、トルレスが初めお志岐に赎いた頃にはダルメむダを名指しおその掟遣を懇請しお来たほどであったが、倧村に萜ち぀いたトルレスは、䞀五六九幎の初めにダルメむダをこの倩草氏の蚱ぞ掟遣した。ダルメむダはそこで開拓者ずしおの蟣腕をふるった。領䞻の方でキリスト教ぞの熱心を瀺しお来なければ、圌は盎ぐ立ち去ろうずする態床を瀺すのである。領䞻はそれに釣られおあわおお垃教の蚱可を䞎えたが、政治の実暩が家臣の手に移っおいるこずを芋お取ったダルメむダは、先ず五カ条の条件を提出した。䞀、領内の垃教を喜ぶ旚の城䞻等眲名の文曞、二、領䞻も家臣ず共に八日間説教をきくこず、䞉、キリスト教をよしず認めた堎合には子の䞀人をキリシタンずし、キリシタン歊士の銖領たらしめるこず、四、䌚堂の敷地を䞎えるこず、五、志岐ずの間の沿岞䞃里の䜏民にキリシタンずなる蚱可を䞎えるこず、などである。領䞻はこれを承認した。そこで、それたで静かに圢勢を芳望しおいたダルメむダは、二人の日本人むルマンず共に目ざたしい掻動をはじめた。先ず、党領の行政を握っおいた家老のドン・レアンが、家人ら玄五十人ず共に掗瀌を受ける。次でその倖舅が同じく五十人ほどず共に掗瀌をうける。他にも重臣数人がそれに続く。曎にダルメむダはドン・レアンの揎助をうけお村々を巡り、そこにも四癟人ほどの信者を䜜った。こうしお僅か二カ月ほどの間に党領内が動き出したように芋えた。  その圢勢は、盎ぐに政治的な分裂をひき起した。仏僧たちの働きかけで、領䞻の兄匟が先頭に立ち、有力な歊士たちを集めお、ドン・レアンの排斥運動を䌁おたのである。䞀倜、䞀味の歊士たち䞃癟人が寺院に集合し、ドン・レアンの家を襲撃しようずした。出発に先立ち領䞻にこの挙の承認を求めたが、領䞻は承認を拒んだ。レアンを殺すのは領䞻を殺すも同様であるず答えた。そうしおレアンの蚱に急を䌝えた。キリシタンの歊士たちは続々レアンの家に集たり、その手に぀くものは六癟人に達した。䞀人の䞻立った仏僧が、領䞻やレアンに説いお廻った。レアンに察しおは、キリスト教を捚およ、然らずばこの地を立ち去れず芁求した。レアンは、ただ領䞻の呜什にのみ埓う旚を答えた。領䞻は぀いに口説き萜されお、平和のため暫くこの地を去れ、ずレアンに呜じた。レアンは止むを埗ず、劻子及び家臣玄五十人ず共に船に乗っお口の接に赎いた。  この出来事は五月に起ったが、ダルメむダは八月たで倩草に留たっお攻勢の回埩に努めた。先ず第䞀に圌は倧友宗麟に䟝頌しお、キリスト教の匘垃を垌望する曞簡を倩草の領䞻に送っお貰った。圓時肥前の竜造寺を圧迫しおいた宗麟の睚みは、倩草ぞは十分に利いたのである。領䞻はこの曞簡を家臣たちに瀺し、ダルメむダの垃教掻動を継続させた。するず反動偎は䞉人の有力な領䞻を動かし、倩草の領䞻に察しおキリスト教排撃を申し入れさせた。領䞻は、䞀時それに屈せざるを埗ない所以をダルメむダに説明し、暫く隠忍するこずを求めた。そこでダルメむダは、領䞻ず協玄を結び、倧村のトルレスの蚱ぞ垰っお行った。その協玄は、ダルメむダが再び倩草領ぞ来た時、領䞻の長子ず二人の重臣ずをキリシタンにするこず、ダルメむダの遞んだ十六カ村をキリシタン村ずしおダルメむダに蚗するこずなどであった。  ダルメむダの去った埌、倩草領内の内乱は激化した。領䞻は䞀時䞀぀の城に籠っお僅かに生呜を党うし埗たほどであったが、やがおもり返し、謀叛した兄匟を他の城で包囲するに至った。その間にダルメむダの斡旋によっお埗た倧友宗麟の助力が盞圓に利いたらしい。翌䞀五䞃〇幎の二月には、ダルメむダはトルレスの呜によっお宗麟を筑玫囜境の日田に蚪ね、九通の曞簡を認めお貰ったのであるが、その内の䞉通は倩草の領䞻に関するものであった。䞀は島接氏宛の曞簡で、倩草の叛乱軍を埌揎しないように頌んだもの、二は宗麟配䞋の䞀領䞻に宛おた曞簡で、倩草の領䞻を助け内乱鎮定に努めるよう䟝頌したもの、䞉は倩草の領䞻宛の曞簡で、領地を悉く回埩するたで揎助を玄したものである。こういう助力によっお遂にキリスト教排斥掟を鎮定し埗た倩草の領䞻は、やがお新来のカブラルの手によっお受掗するに至った。こうしお有名なキリシタン地方倩草領は、トルレスの最埌の仕事ずしお、ダルメむダによっお開拓されたのである。  しかしトルレスが倧友宗麟の勢力を利甚したのは、倩草領に぀いおのみではなかった。宗麟の北九州制芇が郜合よく進み、毛利の軍勢を北九州から远い払ったのは、䞀五六九幎の倏から秋ぞかけお半幎に亘る倧仕事であったが、この際逞早く山口の教䌚の回埩を思ったのは、トルレスであった。圌は䞀五六九幎の十䞀月にダルメむダをしお日田の陣営に倧友宗麟を蚪ねしめ、倩草垃教に察する揎助を謝するず共に、たた「山口の正統の領䞻たるチロヒロ」ずの連絡のこずを盞談せしめおいる。ダルメむダはその足でチロヒロの陣営を蚪ねた。チロヒロは毛利勢が筑玫に進撃しおいる隙をねらっお山口を襲撃しようず䌁おおいたし、その郚䞋には、山口のキリシタン歊士がいたのである。圌はダルメむダの芁求に応じ、山口を回埩したならば領民をキリスト教埒たらしめるであろう、ずいうトルレス宛の返曞を認めた。このチロヒロの山口領襲撃は、倧友宗麟が倧内四郎巊衛門茝匘をしお軍勢空虚の長府あたりを奇襲せしめた事件を指すのであろう。博倚東方の立花山に陣しおいた毛利の倧軍は、この奇襲に驚いお北九州を匕き䞊げたのである。  毛利勢が立ち去ったあず、倧友宗麟の圧力が西方ぞ加わっおくるのを芋お、倧村玔忠は幟分の危険を感じ、トルレスに頌んで倧友氏ずの芪亀を斡旋しお貰った。宗麟はトルレスの申し出に察しおは䜕事によらず拒絶したこずがないので、この時にも、倧村氏や有銬氏が毛利氏に奜意を寄せおいた過去のこずを䞍問に附し、トルレスの意に埓った。今やトルレスは倧名の運呜を巊右する地䜍に立぀こずずなったのである。  しかし䞀五䞃〇幎五月頃、宗麟の軍隊が肥前の竜造寺の領地に迫ったずきには、倧村玔忠は萜ち぀いおはいられなかった。倧村は飛ばっちりを受けるかも知れないずいうので、玔忠はトルレスに長厎の䌚堂ぞ移るこずを請うた。倧村にはダルメむダが残った。が半月の埌にはトルレスはダルメむダを呌んで、宗麟及びその郚将の陣営ぞ掟遣した。戊争の際に䌚堂や信者を保護するよう頌むためであった。  ダルメむダは、倚分久留米附近にいたず思われる宗麟を蚪ねお来意をのべたが、宗麟は心配するに及ばぬずいう芪切な返曞をトルレス宛に曞いた。そうしお圌の郚将たちを蚪ねるずいうダルメむダにいろいろの保護を䞎えた。ダルメむダは陣営で䞻将に䌚っお欟埅をうけ、倧村玔忠のために倧いに匁じた。䌚堂の保護はどの郚将もひきうけおくれた。  そういう圢勢のただ䞭ぞ、フランシスコ・カブラルが、日本のダ゜䌚士たちの長老ずしお赎任しお来たのである。カブラルは六月に志岐で、第二回の䌚議を召集した。京郜のフロむスを陀いおすべおの神父が集たった。日本における垃教掻動の指揮はこの時からカブラルの手に移ったのである。 第八章 ルむス・フロむス――和田惟政――織田信長 䞀 フロむス信長に䌚う  倩草の島でトルレスが、志岐䌚議を催しおから間もなく、䞀五六八幎の秋に、織田信長は足利矩茝の匟矩昭を擁しお䞊京しお来た。束氞久秀は立ちどころに圌に降った。䞉奜党や篠原長房の擁立した将軍足利矩栄は、阿波に逃れお死んだ。京郜をめぐる芇暩競争は、ここで急激に面目を改めたのである。  足利矩昭は、䞉奜束氞のクヌデタヌの圓時、奈良興犏寺の䞀乗院䞻であった。䞉奜党は早速圌を幜閉した。それを秘かに救い出し、還俗せしめ、結局信長ず結ぶに至らしめたのは、長岡藀孝现川幜斎、和田秀盛、明智光秀などの働きである。これらの人々は宀町時代の高貎な䌝統を守ろうずしたのであっお、成り䞊り者である信長に奉仕しようずしたのではなかったが、結果においおは、圌らの利甚した新興の勢力に逆に利甚せられるこずずなったのである。  フロむスが信長に枡りを぀けたのは、この矩昭偎近の勢力を通じおである。その䞭で長岡藀孝や明智光秀が圓時どういう態床を取っおいたかは明かでないが、埌に有名ずなった现川ガラシダ倫人が明智光秀の嚘、長岡藀孝の嫁であるこずを考えるず、満曎無関心であったずも思えない。特に関係の深いのは和田秀盛の䞀族和田惟政である。惟政は藀孝などず共に矩昭に埓っお将軍守り立おの努力をした䞀人であるが、その芪しくしおいた或は兄匟であったずもいわれおいる高山図曞頭ダリペが畿内キリシタン歊士の先駆者であった関係から、かねおキリシタンに深い同情を持っおいた。信長の䞊京埌は摂接倧和の平定に功を立お、京郜の南の抌えずしお高槻の偎の芥川城、぀いで高槻城の城䞻ずなった。フロむスはこの惟政に働きかけたのであるが、キリシタンでない領䞻のうちでこの惟政ほど衷心の愛情を以おキリスト教の保護に尜しおくれた人はほかにはないず圌は云っおいる。  この惟政の尜力で、信長の二床目の䞊京の時に、フロむスの垰京が蚱された。䞀五六九幎䞉月末、惟政の呜により、高山ダリペが堺たで迎えの人銬を寄越したのである。フロむスの䞀行は途䞭高槻近くで高山ダリペに迎えられ、高山の守っおいる芥川城にも䞀泊しお、䞉月二十八日に、信者たちの盛倧な出迎えを受け぀぀、五幎ぶりで京郜に入った。この期間に九州ぞ行っお掻躍しお来た元琵琶法垫のロレン゜も、ベルシペヌル、アントニオ、コスモなどの日本人むルマンず共にフロむスに埓っおいた。  京郜では、このフロむスの入京の二週間前氞犄十二幎二月廿䞃日に、信長が二条城築造の鍬初めをやり、その埌恐ろしい勢でその倧土朚工事が進行し぀぀あった。䜕故信長が急激にこの工事を始めたかずいうず、前幎の末に信長が岐阜に匕き䞊げお行ったその留守をねらっお、正月早々䞉奜䞉人衆が京郜を奇襲し、䞀時新将軍を危地に陥れたからである。この時には、将軍偎近の長岡藀孝らの守備や和田惟政らの来揎で、蟛うじお䞉奜党を朰走させるこずが出来たが、しかし京郜の防備の匱いこずは露骚に曝露された。信長は即座に䞊京しお来お、これたで氞い間どの歊将も䌁おなかった京郜築城のこずを考え出したのである。しかもその城は、圓時盛んに行われおいた山城ずは異なり、平地の京郜垂䞭に、深い壕や堅固な城壁を以お、山城以䞊に防備厳重に築いたものであった。フロむスの蚀葉でいうず、それは「日本においお曜お芋たこずのない石造」であった。信長はこの倧土朚工事のために近畿十四カ囜の諞将を動員し、圌らをしお、郚䞋の歊士たちや人足を率いお劎圹せしめた。総指揮者は信長自身で、日々工事堎に臚んだ。通䟋は二䞇五千人、少ない日でも䞀䞇五千人の人々が圌の指揮の䞋に動いた。鐘の合図で、諞方の領䞻や歊士たちが、各〻その郚䞋を率い、鍬を携え手車を抌しお集たっおくる。そうしお、堀を掘り土を運ぶ。石垣の工事のためには倚量な石が必芁であるから、或は近郊の山から運び、或は垂䞭から集めおくる。或る領䞻は郚䞋を率いお寺々を廻り、毎日䞀定数の石をそこから運び出した。石の仏像や台座の石などもばらばらにしお車に積たれた。時には、石像の頞に瞄を぀けお工事堎に匕いお行くずいうようなこずも行われた。そういう石で積み䞊げられたのが、高さ䞃八間、厚さもたた䞃八間、時には十間に及ぶような、巚倧な城壁である。フロむスはこの光景を芋お、゜ロモン王の「゚ルサレムの殿堂」の建築や、「ディドのカルタゎ郜垂建築工事」などを聯想しおいる。  普通ならば四五幎はかかるであろうず思われるこの倧工事を、信長は䞃十日間に仕䞊げた。それはフロむスにずっおは非垞な驚きであった。圌がここに䜕か新しい時期の開始を予感したこずは、圌の信長に察する熱心な働きかけによっおも察するこずができる。この予感はやがお信長の猛烈な仏教砎壊によっお充たされるのである。  しかし信長ぞの接近は初めは容易ではなかった。フロむスの入京を聞くず、束氞久秀はフロむスに先んじお信長を蚪ね、キリシタンの神父のいる所には、必ず擟乱や砎壊が起るずいうこずを理由にしお、その远攟を懇願した。それに察しお信長は、こういう倧きな町でただ䞀人の人が擟乱の原因になるなどずは、お前の胆は小さい、ず答えた、ずいわれる。しかし、入京の翌々日、フロむスが城ぞ信長を蚪ねお行った時には、信長は䌚わなかった。その理由は、数千里の遠方から来た倖囜人にどういう瀌儀で接しおよいか解らぬずいうこずず、密かに面䌚すれば神父が信長に掗瀌を授けに来たなどず心配するものがあるだろうずいうこずずであった。぀たり圌はキリスト教排斥運動を顧慮しおいたのである。内裏から出た宣教垫远攟什はただ取り消されおはいなかった。排斥掟はそれを拠り所にした。フロむスが信長を蚪問するず、すぐその倜には、内裏から将軍に察しお宣教垫远攟を信長に呜什せよずいう亀枉があった、ずいう噂がひろたった。翌々日の早朝には、内裏の䜿がフロむスのいる信者の家を壊しにくるず泚進する人があった。フロむスは早速ロレン゜を和田、䜐久間、高山などの蚱に䜿にやり、自分は他の信者の家に逃れお䞀日䞭朜䌏しおいた。信長が宣教垫に䌚わなかったずいうこずだけで、これだけの䞍安があったのである。  この䞍安は和田や䜐久間の保蚌で取り陀かれ、フロむスは初めの信者の家ぞ垰っお埩掻祭の週のさたざたな祭儀を行った。そうしお埩掻祭の䞀週間埌、入京しおから二十日目に、初めお足利将軍を六条の本囜寺に蚪ねた。この蚪問は和田惟政の斡旋で信長の指図により行われたものであったが、将軍は面䌚しなかった。このように信長も矩昭も神父を匕芋しないずいうこずはキリシタンにずっおは盞圓の打撃であったので、惟政はその面目にかけお信長を動かそうず努めた。その結果、将軍蚪問の数日埌に、惟政は信長の承諟を取り぀け、突然階銬の士二䞉十人を率いおフロむスを迎いに来た。信長は平生通り工事の指揮をしおいたのであっお、遠来の客を迎える態勢を取っおはいなかった。フロむスが乗物で工事堎に着いた時には、信長は堀の橋の䞊に立ち、附近で六䞃千の人が働いおいた。工事はすでに半ばは出来おいたのである。フロむスたちが遠くから敬瀌するず、信長は自分の偎ぞ招き寄せた。こうしお信長ずフロむスずの最初の䌚芋は、この未曜有の倧工事の芋枡せる橋の䞊で、衆人環芖の䞭に行われたのである。  信長が最初に知ろうずしたのは、この珍らしい倖囜人の身の䞊であった。それはフロむスにずっおは重芁でない前眮に過ぎなかったが、信長にずっおはそうでなかったらしい。非垞に遠い囜から芪を離れ、艱難を冒しお、垃教のためにこの囜に来おいる心境、――そこにいわばペヌロッパ文化の尖端があったのであるが、それを圌は捉えようずした、フロむスにずっお本論である垃教の問題も、信長はこの芖点から芋おいた。キリスト教が拡がらなければむンドぞ垰る気か、ずいう問もそこから出たのである。フロむスはそれに察しお、信者がただ䞀人になっおも、神父䞀人は生涯この地に留たるであろうず答えた。次で信長は、キリスト教が京郜で栄えないのは䜕故であるか、ずきいた。それに察しおロレン゜は、皲を育おるには田の草取りをしなくおはなりたせぬ、ずいう颚に答え、仏僧たちの迫害を瀺唆した。信長はそれに和しお僧䟶の堕萜を長々ず語り、坊䞻らは欲ず色に目がくれおいるず云った。その機䌚に、フロむスは、ロレン゜をしお次のような意芋を述べさせた。宣教垫たちの目ざすずころは、名・富・奜評、その他いかなる䞖俗的なものでもなく、ただキリスト教を拡めるこずだけである。就おはこの教ず日本の宗旚ずを比范するために、仏教各掟の最も優れた孊僧を集め、信長の面前でキリスト教ずの蚎論をやらせお頂きたい、もし負けたらば远攟されおよい。もし勝ったならば仏僧たちにもキリスト教を聎かせるこずにしおほしい。そうでないず䜕時たでも陰謀が絶えないであろう、ずいうのであった。信長はこれを聞いお愉快そうに笑い、なるほど倧囜には倧胆な孊者が出るず云った。そうしおフロむスに向い、日本の孊者が承知するかどうか解らぬが、或はそういう催しをするかも知れぬ、ず答えた。フロむスの最倧の甚件、信長の垃教免蚱状に぀いおは、明答は埗られなかったらしい。フロむスはこの免蚱状が宣教垫に察する最倧の恩恵であるこず、この恩恵によっお圌の矎名がキリスト教囜民の間に知れ枡っお行くであろうこずを説いた。それに察しお信長は愉快そうな顔をしたが、䜕も云わなかった。  この䌚談は䞀時間半乃至二時間䜍かかった。そのあずで信長は和田惟政に工事堎の案内を呜じた。この工事が圌の心を占領しおいたこずはこの時の圌のそぶりにありありず珟われおいた。  信長がフロむスに䌚ったので、将軍も二日埌に圌を匕芋した。しかし垃教免蚱状の方はそうすらすらずは運ばなかった。それを心配した信者たちは、信長ぞの献金の必芁があるのではないかず考えた。䜕故なら堺の町、倧坂の町をはじめ、諞方の寺院などは、信長の簡単な免蚱状を埗るために巚額の金を献じおいたからである。そこで信者たちは銀䞉本を和田惟政の所ぞ持っお行った。惟政はそれに銀䞃本を加え、信長の機嫌の奜い折をねらっお、貧しい神父からの莈物ずしお献じた。信長は笑っおそれを斥けた。神父から金銀などを受ける必芁はない。神父は倖囜人だから、免蚱状のためにそんなものを受けたずあっおは聞えが悪い。そんなこずをしなくずも免蚱状は䞎える。汝が文案を䜜り、神父にこれでよいかず念を抌した䞊、持っお来るがよい。眲名しおやろう。そう信長は云った。工事に気を取られおいた信長は、文案が面倒なので぀いほっお眮いたのである。  そう解るず、和田惟政は迅速に事を凊理した。信長の朱印状は、神父の京郜居䜏蚱可、䌚堂に察する城発や公課の免陀、領内における保護などを衚明したものであった。日附は氞犄十二幎四月八日䞀五六九幎四月二十四日である。惟政はこの免蚱状を高山ダリペに持たせお寄越し、翌日埡瀌蚀䞊のためにフロむスを同䌎しお信長の蚱に行った。信長は盞倉らず工事堎にいお䞊機嫌であった。そうしおたた惟政に呜じお工事を芋物させた。惟政は城内を案内しお歩きながら、フロむスに信長の扱い方を教えた。この建築の壮麗なこずをお讃めなさい、たた免蚱状の蚳文をむンドやポルトガルぞ送っお信長の恩寵を知らせるずお云いなさい、ずいうのであった。フロむスは惟政の芪切を感謝し、キリシタンになるこずを勧めた。惟政は笑いながら、心䞭はキリシタンである、信長が岐阜ぞ垰ったら教を聎く暇が出来るであろうず云った。  将軍矩昭の免蚱状は䞀週間遅れお手に入った。それも惟政の尜力であった。惟政はたた目芚時蚈を信長に芋せるためにフロむスを連れお行った。この䞉回目の䌚芋は宀内においおであった。信長は時蚈を芋お驚いたが、構造が耇雑で、自分が持っおいおも䜿えない、ず云っお受けなかった。そうしおフロむスに茶を振舞い、矎濃の干柿を䞎えた。この時も二時間ほど話したが、信長は頻りにペヌロッパやむンドのこずを知ろうずした。そうしお別れ際に、近々尟匵ぞ垰るから出発前にもう䞀床来るがよい、その時は将軍蚪問の時に着おいたポルトガル颚の衣服を着けお来お貰いたいず云った。それはオルムズの緞子で䜜った短い倧型の雚倖套に金襎の装食を附けたもの及び黒頭巟なのであった。 二 フロむスず朝山日乗ずの衝突  その出発の前日、䞀五六九幎五月六日氞犄十二幎四月二十日フロむスは、ロレン゜たちを䌎い、シナの倧型玅玙䞀束、蝋燭䞀包を携えお、別れの挚拶に信長を蚪ねた。時は倕方で、面䌚を求める人々が倧勢埅っおいたが、圌の来たこずをきくず信長は盎ちに匕芋し、圌の差出した蝋燭に自ら火を点じお手に持ちながら、䟋のポルトガル服はどうしたずたずねた。フロむスはこういう埅遇を予期せず、その服を着おはいなかったが、念のために持参しおはいた。信長は自分の面前でそれをフロむスに着させ、頻りに眺め入っおその圢を讃めた。そうしお、出発前の倚甚なのを顧慮しお蟞去しようずするフロむスを、匷いお匕き留めた。  この垭でフロむスは、朝山日乗ず衝突したのである。この日乗ずいう人物は、法華宗の日乗䞊人ずいうふうに䌝えられおいるが、法華宗の僧であったかどうかは明かでない。しかし非垞な山垫で、珍らしい雄匁家であったこずは確からしい。もず出雲の豪族で備埌に領地を持っおいたが、戊乱の間に領地を倱い諞囜を流浪しお歩いた。フロむスによるず、尌子に叛いお山口の毛利に頌った時には、圌は、釈迊の瀺珟により仏教改革・皇宀埩興の䜿埒ず称しおいた。八九幎前京郜で買った金襎の垃を内裏から拝領の衣ず称し、小片に切っお、倚額の寄附をなしたものに䞎える、などずいうこずもやっおいた。それによっお圌は山口の寺院を建築し埗たほどである。その埌毛利氏ず束氞匟正ずの間の連絡を蚈ろうずしお東䞊したが、䞉奜䞉人衆の手に捕えられ、篠原長房の裁断で西の宮の獄に投ぜられた。しかるに圌は巧みに内裏ずの連絡をずり、内裏から圌の赊免を求めるずいうこずになった。日乗䞊人の号は埌奈良倩皇の勅によるず䌝えられおいるし、圌が皇宀埩興を暙抜したこずなどを考え合わせるず、朝廷ずの関係は盞圓深かったらしい。䞁床そこぞ信長が䞊京しお、最初に䌁おたのが内裏の修造や䟛埡の埩興であった。日乗のためには機が熟しお来たのである。圌は信長ず朝廷ずの間の仲介者ずしお立った。この地䜍ず、そうしおそのしたたかな才胜ずが、信長をしお圌を重んぜしめたのであった。  その日乗は、前の日に信長を蚪ね、出発前に宣教垫を远攟せよず頻りに口説いた。宣教垫远攟什は五幎前に朝廷から出たのであるから、日乗がかく䞻匵する根拠はあったのである。しかし日乗はそういう法埋論を持ち出したわけではなく、ただ圓時の極たり文句ずしお、宣教垫の到る凊擟乱ず砎壊ありずいうこずを理由ずした。信長はその心の狭さを笑い、既に免蚱状を䞎えたのだから远攟は出来ない、ずきっぱり答えた。これは実質的には五幎前の女房奉曞の効果などは認めないずいう態床の衚明でもあったのである。このいきさ぀は和田惟政からロレン゜を通じおフロむスに知らせおあった。そこで、信長に匕き留められたフロむスは、日乗が盎ぐそばにいるずも知らずに、信長に向っお、坊䞻らの反察意芋をそのたた信じないで貰いたいこず、信長出発埌は和田惟政に神父保護を蚗しおほしいこずなどを頌んだ。信長は、坊䞻らは䜕故キリスト教を嫌うのかずきいた。それに察しおはロレン゜が、䞡者は熱ず寒、埳ず䞍埳ずのように盞違するず答えた。信長は再び、汝らは神仏を尊ぶかずきいた。その答は、神ずか仏ずかず云われおいるのは皆我々ず同じ人である、人類を救い埗るものではない、埓っお尊厇するこずはできぬ、ずいうのであった。この時に信長は、日乗䞊人の名を呌んで、この答には䜕か意芋があるだろう、䜕か質問するがよいず云った。それで初めおフロむスやロレン゜は日乗がそばにいるこずを知ったのである。日乗は気取った態床で、それでは汝らの厇拝するのは䜕であるかずきいた。答は、䞉䜍䞀䜓のデりス、倩地の造り䞻、であった。「ではそれを芋せお貰おう。」「芋るこずは出来ない。」「釈迊や阿匥陀よりも前にあったのか。」「勿論前である。始めなく終りなく氞遠のものである。」そういう問答のあずで、ロレン゜がその意味を詳しく述べ始めたが、日乗は䞀向に理解が出来ないらしく、これは乱暎だ、民衆を瞞すものだ、早速圌らを远攟すべきであるず云った。信長は笑っお、気が匱いではないか、解らない所をもっず質問するがよい、ず云ったが、日乗はもう蚀葉が出せなかった。で、ロレン゜が逆に、生呜を䜜ったのは誰であるか、埡存じか、ずたずねた。日乗は知らないず答えた。次々にロレン゜が色々な問をかけたが答はい぀も知らない、であった。そんな問題はそっちで説明しお芋ろ、ず蚀っお嚁圧するような態床を取った。ロレン゜は平然ずしお詳しい説明を展開した。日乗は、そのデりスは犅宗の本分ず同じだな、ず云った。その蚀葉を捉えおロレン゜はたた䞡者の盞違を明かに論じ立おた。そういう颚にしお議論はもう二時間䜍に亘っおいた。日乗はよほどむかむかしお来たらしく、もう遅い、远攟すべきである、圌らが京郜にいたために前の将軍は殺されたのだが、その圌らがたた京郜に来おいるのだ、ず云った。しかし、「信長は元来神も仏も尊敬しないのであるから、そういうこずは気にかけず、日乗に察しお厳しい顔を向けた。」フロむスがこの報告を曞いたのは䞀五六九幎六月䞀日氞犄十二幎五月十䞃日であるから、信長はただ仏教に察する匷硬政策を始めおはいなかったのであるが、しかしフロむスの県にはもうはっきりずその態床が映っおいたのである。  が、日乗はそれだけで凹んではいなかった。䞀局倧きい衝突は、霊魂䞍滅の問題に関しお起った。そのきっかけずなったのは、デりスは善を賞し悪を眰するか、ずいう信長の問である。それに察しおロレン゜が、勿論である。しかし賞眰には、珟䞖におけるものず来䞖における氞遠のものずがある、ず答えるず、日乗は、来䞖においお賞眰を受ける圓䜓、即ち䞍滅なるものの存圚ずいう考を、倧声をあげお笑った。そこで、病䞭のために疲れお来たロレン゜に代っお、フロむス自身が日乗ずの間に霊魂䞍滅の議論を始めたのである。来䞖の信仰や霊魂䞍滅の思想が圓時の仏教埒の間になかったずいうこずは甚だ理解し難いこずであるが、しかし仏教哲孊の空の原理から云えばそれらを吊定する方が正しいであろう。その吊定の䞻匵に察しおフロむスは、肉䜓ず独立な霊魂の存圚をいろいろな点から蚌明しようずした。この萜ち぀いた議論をきいおいるうちに、日乗は、色を倉じ、歯を鳎らし、䞍思議な狂暎さを珟わしお、よし、それでは汝の匟子ロレン゜の銖を斬るから、霊魂の存圚するこずを瀺せ、ず云いながら、宀の䞀隅に立おおあった信長の長刀に走り寄っお、それを抜こうずした。信長は急ぎ起っおうしろから抑え、和田、䜐久間その他の倧身たちが他方から抑えお、長刀をもぎ取った。信長は笑いながら、予の面前においお甚だ無瀌ではないか、もずぞ坐れ、ず云った。他の倧身たちも圌の無瀌を責めた。和田惟政の劂きは、信長の前でなければ斬り捚おる所だず云った。やがお座が鎮たったずき、フロむスは信長に向っお、日乗䞊人の乱暎は予の挑発したものではない、予はただ真理を説いただけである、ず云った。日乗はたたかっずしおフロむスを突き飛ばした。信長はたた厳しく圌をたしなめたが、圌はひるたず、キリスト教を眵っお、宣教垫远攟を䞻匵し続けた。  以䞊はフロむスの蚘述によったものであるから、朝山日乗の態床には同情すべき䜙地がない。がそれにもかかわらず、信長は日乗の乱暎を倧目に芋おいるのである。圓時フロむスの聞いたずころでは、信長のこの態床は、「内裏のため」であった。圌は前日内裏の工事のための献金を日乗に蚗した。が䜕のためであるにしろ、圌はキリスト教排斥の䞻匵を犁圧しようずはしなかった。即ちキリスト教にも反キリスト教にも同じように自由を䞎えようずしたのである。だから圌は日乗の乱暎を寛恕するず共に、フロむスには芪切な態床で別蟞を述べ、たたゆっくり聞かせお貰おうず云った。そうしお翌日、途䞭たで芋送った和田惟政に、安心しおいるがよい、ずいうフロむスぞの䌝蚀を蚗したのであった。 䞉 远攟綞旚の効力問題――日乗ず惟政ずの察立  しかし信長が京郜にいなくなるず、日乗のキリスト教排撃は急激に力を埗お来た。フロむスの報告によるず、信長出発埌五日目の五月十二日に、叀いキリシタンの結城山城守がロレン゜を通じお最初の情報を䌝えたずいわれる。日乗が宣教垫远攟の新しい綞旚を埗お将軍にその実行を迫ろうずしおいる、神父は急いでその備えをしなくおはならない、ずいうのである。この情報ず殆んど同時に、ベルシペヌルもたた別口の噂をもたらしお倖から垰っお来た。それによるず、日乗は内裏の庇護の䞋に歊装兵を率いお神父を襲い、キリシタンを皆殺しにしようずしおいる、ずいうのであった。この五月十二日氞犄十二幎四月二十五日に、䜕か綞旚が出たこずは事実であるらしい。埡湯殿䞊蚘に「四月二十五日はおれん、けふりんしいたされお、むろたちずのぞ申され䟯」ずあるのがその蚌拠である。しかしこれだけでは垃教蚱可の沙汰であったず解する人もある。信長の垃教蚱可の十䞃日埌、将軍のそれの十日埌に、それず党然反察の远攟の綞旚が出たずは考えにくいのである。しかしフロむスに䌝わっお来たずころはたさに右の通りであった。  フロむスは和田惟政の所ぞロレン゜を急掟しお、この情報を䌝えた。惟政の答は、実吊を質しおは芋るが、自分の保護を信頌しおいおよい、ずいうのであった。そこで惟政が聞き合わせお芋るず、その日日乗は䞀人の公家ず共に将軍を蚪ね、「内裏が京郜より远攟した神父は、京郜ぞ垰っお来おいる。圌は日本の諞々の教の敵であるから、その远攟を呜ずべきである」ず申入れた。それに察しお将軍は、「朝廷は人の入垂ずか远攟ずかに関䞎せらるべきでない。それは自分の行うべきこずである。自分はすでに宣教垫に免蚱状を䞎えた。信長もそれを䞎えた。今曎远攟すべき理由はない」ずいう旚を答えた、ずいうこずであった。しお芋るず日乗が奉じたずいう綞旚は、五幎前の远攟綞旚が守られないこずに察する抗議であったのかも知れない。  翌日、城の工事を巡芖しおいた惟政の所ぞ、ロレン゜が様子をききに行くず、惟政は将軍の態床を䌝えた埌、午埌フロむスが将軍ず信長の免蚱状を持っお城ぞ来るようにず頌んだ。その午埌に日乗はたた、公家ず共に将軍を蚪ね、信長に察しお免蚱取消しを求める急䜿を出しお貰いたいず亀枉したが、将軍は応じなかった。その公家が、フロむスの着いたずきにただ残っおいた。惟政はフロむスの面前で、その公家に察し、次のようなこずを云い切った。自分は今日たで内裏のためにいろいろ尜しお来た。将軍や信長ず亀枉しお埡為を蚈ったこずも少なくない。その報償ずしお自分は神父ぞの免蚱状のほか䜕事も望たなかった。しかるにその免蚱状を䞎えないのみか神父の远攟を呜ずるずいうのは、自分の名誉を奪い、䞍正を行うものである。もしそういうこずを決定せられるならば、自分は内裏に仕えるこずをやめる。公家を庇護するこずもやめる。神父に察する将軍や信長の態床はこの免蚱状の通りである。こう云っお惟政は、フロむスの持っお行った免蚱状を、県の前で写させお公家に枡した。このいきさ぀もたた、決定的な远攟呜什が新しく朝廷から出たのでないこずを瀺すものであろう。  この日将軍はフロむスを匕芋しようずせず、ただ人をしお、自分が庇護しおいるから、内裏ずのこずは心配しなくおよいず云わせた。しかし惟政は、この際将軍が䌚わないのは拙いず考え、目芚時蚈を皮に䜿っお、フロむスを将軍の前ぞひき出した。将軍は時蚈を芋お非垞に喜び、ペヌロッパ人の工倫ず才智ずを讃めた。  以䞊によっお察するず、日乗がふりかざしおいたのは五幎前の远攟の綞旚であり、たた綞旚の方が歊将たちの免蚱状よりも重いずいう䞻匵であったらしい。だからこの埌も、日乗が綞旚を奉じお宣教垫を远攟或は誅殺するずいう噂は䞖間に絶えなかった。で惟政は倚数の兵士を䌚堂に掟遣し、日乗の策動を歊力で抌えるずいう態勢を瀺しお、噂を消そうずした。半月䜍は平静になり教䌚もその平垞の掻動を始めた。  日乗の方では、皇居修埩の仕事や京郜の経枈埩興などに蟣腕をふるい、信長の信甚を深めたのに乗じお、執拗に宣教垫問題を信長に亀枉し、遂に宣教垫の远攟に関しおは内裏に䞀任するずいう返曞を曞かしめるに至った。これは日乗の方からいえば五幎前の远攟綞旚を有効に実斜させるずいう意味になるであろうが、信長の方ではこれから決定する問題だず考えおいたのであろう。この亀枉の顛末を知った惟政は、公家たちの曞類を受理しないずいう態床で察抗した。そうしお䞉日の間公家たちず折衝した結果、圌は云った、「日乗の所行は公家たちの所為であるず認められる。もし内裏が宣教垫远攟を決定するならば、山城摂接の守護の地䜍を捚おおでも神父の保護を続けるであろう」ず。  こうしお、日乗ず惟政ずの察立が尖鋭化しお来た五月の末に、惟政は摂接の諞城の巡芖に出かけた。日乗はこの惟政の䞍圚に乗じお事を起すであろう、ずいう噂が立ち、キリシタンたちは危険の身に迫るのを感じた。フロむスはロレン゜をしお惟政のあずを远わせた。ロレン゜は高槻の城で惟政に䌚っお、二通の曞簡を曞いおもらった。䞀は将軍偎近の䞉人の重臣にあおお神父の保護を䟝頌したもの、他は日乗にあおお劄動を封じたもの、である。埌者には、「神父は将軍ず信長ずの免蚱状を埗お京郜に居䜏しおいる。その神父を远攟しようずする動きがあるず聞き、公家をしお内裏の意向を䌺わせたずころ、内裏の方では䜕事もないずの返事であった。内裏以倖の方面の動きであるならば、これは意に介するに及ばないこずである。もし神父に぀いお䜕か云い分を持たれるならば自分に通知せられたい。その匁明は自分がする」ずいう意味のこずが認めおあった。  この曞簡は六月䞀日に日乗に届けられたが、日乗は激怒しお、即倜惟政宛に次のような趣旚の返曞を送った。「内裏の宣教垫远攟什が出たのは五幎皋も前のこずである。綞蚀汗の劂し。远攟什は撀回され埗ない。しかるに貎䞋はこの远攟什に反しお行動しおいる。これは未曜有の䞍正事ずいわなくおはならぬ。この道理を悟った信長や将軍は、今や远攟に関しおは内裏の意向に䞀切を委ねた。貎䞋は内裏・将軍・信長などに背反しおもキリスト教を庇護せんずするのであるか。元来キリスト教は悪魔の教であるが故に、内裏及び公家たちは、宣教垫の誅殺、䌚堂の砎壊を什したのであった。この内裏の呜に反察するものは倩䞋になかろうず思われる。山城摂接の守護たる貎䞋がそれを守らず、支持庇護の態床に出るならば、信長はこれを心倖ずするであろう。貎䞋は静かに反省しお庇護をやめるべきである。」  この返曞によっお芋おも、日乗が新しい远攟綞旚を受けたずは考えられぬ。圌は五幎前の綞旚の有効を䞻匵しおいるのであっお、フロむスたちが怖れおいたように、新しく宣教垫远攟誅殺の綞旚を受けたのではない。しかしフロむスたちがそう感じたずすれば、日乗の嚁嚇は成功しおいたのである。フロむスはこの返曞を惟政に届ける前に読み、盎ちに䞻立った信者を集めお察応策を協議した。信者らの意芋は、岐阜の信長に頌るこずに䞀臎した。そこでフロむスは翌日未明に京郜を立ち、坂本でロレン゜を埅ち受ける、ロレン゜は日乗の返曞を携えお和田惟政を蚪ね、信長偎近の倧身ぞの玹介状を埗おくる、ずいうこずになった。  翌日未明には小西隆䜐ずその䞀子がフロむスに䌎っお出発し、坂本で知人の家を宿に䞖話した。その子はロレン゜の来るたで附添っおいた。ロレン゜は越氎城で惟政に䌚い、日乗の返曞を芋せた。惟政は埮笑しながら、この法螺吹きの銖を斬っおやる、ず云った。フロむスの岐阜行きに぀いおは、自分が案内したいのであるが急には間に合わない、ず残念がりながら、二通の玹介状を䞎えた。䞀は秀吉にあおお神父のずりなしを䟝頌したもの、他は岐阜の宿屋の䞻人に宛おおフロむス䞀行の䞖話を頌み、費甚䞇端は自分が匕受けるず云い送ったものであった。他に䞁床矎濃ぞ行こうずしおいた柎田勝家にも庇護を䟝頌した。ロレン゜は右の玹介状を携えお小西隆䜐ず共に六月䞉日に坂本に぀いた。そこでフロむスの䞀行は倜の䞉時に船で坂本を出発した。 四 フロむス岐阜に信長を蚪う  岐阜は圓時人口䞀䞇䜍に過ぎなかったが、新興の城䞋町ずしお、「バビロンの雑沓」を思わせるほどに、商人や商品で混雑しおいた。フロむスの着いた時には、秀吉は尟匵に行っお居らず、䜐久間信盛、柎田勝家もただ着いおいなかったので、二日ほど空しく埅っおいた。その内に先ず着いたのは䜐久間、柎田の䞡人で、フロむスはそれらの人たちに䌚った。二人が信長にフロむスの来たこずを告げるず、信長は、「内裏の宣教垫远攟誅殺の綞旚は困ったものだ。神父のある所、砎壊が起るなどずは迷信に過ぎない。神父は倖囜人だから、自分は同情し庇護する。京郜から远攟させおはいけない」ず云ったずいう。そのあずで、新築の宮殿の方ぞ出掛けお行く時に、フロむスは途䞊で信長に出逢った。信長は機嫌よくフロむスを迎え、こんなに遠くたで来る必芁もなかったのにず云った。そうしお柎田、䜐久間、その他䞃八人の人ず共にフロむスを新築の宮殿に案内した。この宮殿は岐阜城のある皲葉山の麓の斜面に四段に亘っお建おられおいた宏壮なものであったらしいが、信長はフロむスに向っお、「ペヌロッパやむンドのものに比べるず小さいではあろうが、しかし、貎䞋は遠来の客であるから、自分で案内しおお芋せする」ず云ったずいう。その宮殿を叙述するに圓っお、フロむスは、「ポルトガル、むンド、日本に亘っお自分がこれたで芋た宮殿建築䞭、これほど粟巧で矎しく枅らかなものは䞀぀もなかった」ず云っおいる。  その埌二䞉日経っお秀吉が尟匵からやっお来た。フロむスはロレン゜ず共に惟政の玹介状を持っお蚪ねお行った。秀吉は圌らを欟埅し、午逐を䟛した䞊、フロむスの宿の䞻人宛にフロむスを優遇するようにずの曞簡を䜜らせ、䟝頌の件は満足の行くように蚈らうから、ゆっくり䌑んでいるがよいず云った。この時フロむスはロレン゜ず盞談しお䜜った四五行の芚曞を秀吉に枡したのであるが、秀吉はそれを信長の所ぞ持っお行っお、指什を仰いだ。するず信長は、それは簡単すぎるず云っお、内裏及び将軍に宣教垫の庇護を請う䞀局長い曞簡を曞かせ、それに眲名しお、秀吉に枡した。秀吉は、この信長の曞簡に、惟政及び日乗に宛おた自分の曞簡二通を加えお、フロむスに枡し、さっさず戊堎ぞ垰っお行った。フロむスが信長に瀌を蚀いに行くためには、たた柎田勝家の手匕きを頌たなくおはならないような始末であった。  フロむスが勝家に䌎われお信長の前ぞ出たずき、信長は倚数の京郜の歊士の面前でフロむスに云った。内裏や将軍を意に介するには及ばぬ。すべおは信長の暩内にあるのであるから、信長の蚀に埓っお行動し、居たい所に居およい、ず。そうしおフロむスが翌朝出発しようずするのを曎に二日延期させ、翌日は京郜の歊士䞃八人ず共にフロむスを饗応し、食埌城を芋せるずいう手筈をした。この信長の優遇は、前䟋のないものずしお、人々に匷い印象を䞎えた。  翌日、饗宎の埌に、柎田勝家がフロむスずロレン゜を案内しお城の山に登った。信長は城の䞭に䜏んでいたので、衚の方には倧身たちの子息である少幎歊士が癟人ほど詰めお居り、奥の方は䟍女のみが甚を匁じお䜕人も入るこずが出来なかった。フロむスたちが信長の宀に招き入れられるず、信長の子息、十䞉歳の信忠や十䞀歳の信雄実際は十二歳であったも接埅に出た。信長が信雄に茶を呜ずるず、信雄は最初にフロむスの前ぞ、次に信長の前ぞ、第䞉にロレン゜の前ぞ、茶碗を運んで来た。そこで茶を飲みながら、矎濃尟匵の平野を遠くたで芋晎らした。信長は、むンドにもこういう城のある山があるか、ず尋ねた。それから二時間半か䞉時間ほどの間、次々に日月星蟰のこず、寒地ず暖地ずの盞違、諞囜の颚俗などのこずを質問した。その間に信雄を呌んで倕食の支床を云い぀けさせたりなどもした。このこずは、信長ずしおはよほど異䟋であったらしい。やがお立っお行ったが、自分でフロむスの膳を捧げ、信雄にロレン゜の膳を持たせお出お来た。そうしお、急のこずで䜕もありたせぬが、ずいう挚拶をした。食事のあずで信長はフロむスずロレン゜に矎しい衣服を䞎え、盎ぐに着させお、よく䌌合う、たた蚪ねおくるがよい、ず云っお圌らを垰らせた。  このように信長蚪問は非垞な成功であった。それを蚘述しおいるフロむスは、珟䞖のこずを蔑芖すべきダ゜䌚士が䜕故にかくも異教の暩力者の欟埅を重芖するかに぀いお、長々ず匁解しおいる。この囜においおは、暩力者の意志を捉えなくおは垃教は出来ないのである。がこの時にはただ信長は、新しい時代の圢成者ずしおの姿をはっきりず珟わしおはいなかった。競争者は東にも北にも西にもなお健圚であった。信長がこれらの競争者に打ち克぀ずいう時代、即ち元亀倩正の時代は、たさにこれから始たろうずしおいる時であった。この時に逞早く信長に県を぀け、その意志を捉えるこずに党力を傟泚したフロむスの炯県は、感服のほかはないのである。 五 日乗の惟政排斥運動、日乗の倱脚  しかしフロむスの芋圓がすぐに実珟したわけではなかった。日乗が倱脚しおキリスト教排斥運動をやめるたでにでも、䞀幎䜙は経っおいる。  フロむスが信長や秀吉の曞簡を埗お京郜に垰り、惟政ず協議しお日乗のキリスト教排斥運動を封じようずした埌にも、日乗はその態床を改めなかった。惟政が日乗に送った曞簡には、信長が宣教垫庇護の態床を取っおいるこず、内裏にも将軍にも宣教垫排斥の意志はないこずを力説し、おのれの宣教垫庇護の理由は遠来の倖囜人であるが故であっお他意はないずいう颚に穏やかに出たのであったが、日乗は前の䞻匵を匕蟌めないのみか、䞀局露骚に狂信者的な信仰闘争の態床を瀺しお来た。信長や秀吉の曞簡はほずんど県䞭に眮かないかのようであった。のみならずこの折衝の五六日埌には、みずから信長に䌚うために岐阜に向っお出発した。その甚件は䞻ずしお内裏の修埩、公家の所領の凊眮に関するものであったず思われるが、フロむスたちは宣教垫远攟問題のためであろうず掚枬し、惟政に頌んでそれに察抗する措眮をずったのであった。日乗は勿論岐阜においおも信長の宣教垫に察する態床を倉曎させるこずは出来なかったが、惟政に察する敵察心はそれによっお䞀局高たり、キリスト教排斥の運動を惟政排斥の運動に転じたように芋える。  異教埒である惟政は、フロむス庇護の運動を続けるうちに、挞次その信仰にも芪しんで行った。フロむスが岐阜から垰っお来た頃には、高槻に䌚堂を建築し、宣教垫を自由に宿泊せしめようず考えおいた。䞇䞀、内裏が宣教垫远攟を決定したならば、その宣教垫を高槻にひき取り、自分が京郜に出る床毎に同䌎しお行っお䞀月でも二月でも滞圚させる、そういうこずを考えおいた。しかしそういう颚に惟政が宣教垫庇護に力を入れるこずに察しおは、山城摂接の歊士のなかに䞍平を抱くものも決しお少くはなかった。日乗が県を぀けたのはその点である。圌は信長の信甚しそうな有力な歊士で惟政を快く思わないものを煜動し、惟政の行政を非難させた。たたそういう蚌蚀を集めお、巧みに信長に吹き蟌んだ。そうしお遂に惟政に察する信長の信頌の念を突き厩すこずに成功したのである。  こうしお䞀五六九幎の秋惟政が岐阜に信長を蚪ねお行ったずき、信長は惟政を岐阜に入れず、远い返した。そうしお高槻のそばの芁害芥川城を砎壊させた。領地の䞀郚も没収された。惟政は郚䞋二癟人ず共に剃髪しお謹慎の意を衚した。日乗たちはこの惟政の倱脚を宣教垫庇護の眰ずしおはやし立おたが、惟政の宣教垫に察する態床は少しも倉らなかった。自分の䞍幞な運呜などは意に介するに足らぬ。宣教垫が無事に京郜にいるこずの出来るのが䜕よりである。もし宣教垫が远攟されれば、自分はむンドたでも぀いお行く。そう圌は云った。  䞀五䞃〇幎は信長を䞭心ずする争芇戊がいよいよ始たった幎である。この幎の䞉四月頃には信長ず家康ずが揃っお入京し、倏には北方の勢力朝倉浅井ずの衝突が始たった。その信長の入京の際に、和田惟政は高槻の城から信長に䌚いに来た。日乗らの仲間は、信長が惟政の銖を斬らせるであろうず埅ち構えおいた。しかるに信長は、突然惟政を招き、倚数の諞䟯の面前で非垞に情ある蚀葉をかけた。そうしお矎しい衣服を䞎え、領地を増しおやった。これは日乗らにずっおは案倖のこずであったが、その五六日埌に、日乗は、他の人々から重眪の蚎えを受け、信長の激怒に觊れた。信長は倚数の倧身たちの面前で日乗を眵り、圌奎を足蹎にしお远い出せず云った。その埌も日乗は内裏修埩の仕事にかじり぀いおはいたが、もはや信長の愛顧を埗るこずは出来なかった。日乗を䞭心ずするキリスト教排斥運動はこれでほが終りを告げたらしい。 六 戊乱に察するフロむスの方針ず惟政に察する讃矎  日乗のキリスト教排斥運動は以䞊のようにしお片づいたが、しかしすぐ匕き続いお慌しい戊争隒ぎが起った。浅井朝倉に察する倏の戊争は、姉川で信長方が綺麗に勝ったのではあるが、それがきっかけずなっお秋には䞀局倧きい戊争が巻き起っお来たのである。䞉奜䞉党は再び摂接に盛り返しお、信長に反抗した。石山の本願寺がこれに応じお立った。信長はその蚎䌐のために西䞋しお来た。惟政も信長の郚䞋の有力な将ずしお摂接に転戊したが、信長方は盞圓の苊戊であった。北方の浅井朝倉は䞉奜䞉党に呌応しお再び立ち、近江の坂本城を攻陥しお京郜の郊倖に䟵入し、信長を背埌から脅かした。この時信長は、柎田勝家ず和田惟政ずを殿軍ずしお䞉奜の軍に圓らせながら、実に急速に京郜に匕き返し、咄嗟に坂本に出お浅井朝倉の軍の退路を絶ったのである。浅井朝倉の軍は叡山ぞ逃げ䞊るほかはなかった。信長は叡山の衆埒を味方に぀けお浅井朝倉の軍を降らせようずしたが、衆埒はこれに応じなかった。そこで圌は東ず西ずから叡山を包囲し、山䞊の軍隊を自滅せしめようず蚈ったのであった。包囲の開始は、寒さの近づき始めた十月の末であった。  フロむスが包囲開始埌䞀カ月の頃に曞いた曞簡䞀五䞃〇幎十二月䞀日京郜発によるず、この時の垂内の混乱ず䞍安ずは実に甚しく、最埌の審刀の光景を芋るようであったずいう。䜕故なら、勝利はただいずれに垰するずも解らず、信長が負ければ京郜の町は焌かれ蹂躙されるからである。そこで垂民は山䞊に穎を掘り、街路に逆茂朚を蚭け、家財を隠し、劻子を垂倖に避難させた。しかもその垂倖には匷盗や殺人が暪行しおいた。垂内でも、倜譊・叫喚・譊鐘・突撃などずみじめなこずばかりであった。フロむスも、倧切な祭具は愛宕山に送り、他の家財は数人の信者の家に預けお、䌚堂には叀い祭具だけを残しお眮いたのであるが、しかしそれを䜿っおミサを行い、説教を続けおいた。包囲のために食糧は著しく欠乏しおいたが、それでも信者の奜意で米ず也倧根也蕪などの貯蔵があり、包囲の継続䞭持ちこたえ埗る芋蟌みが぀いおいた。こうしお混乱のなかで䌚堂を維持し垃教を続け埗たずころを芋るず、垂民倧衆のなかに積極的なキリスト教排撃運動などのなかったこずは明かだずいわねばならぬ。  ずころで、この幎、䞀五䞃〇幎の倏には、垃教長フランシスコ・カブラルが志岐に着き、日本のダ゜䌚士の指揮をずった。信長が䞉奜党の蚎䌐をはじめた十月はじめには、トルレスがその志岐で死んだ。その同じころに、カブラルに埓っお来たオルガンチノが堺に着き、出迎えたロレン゜ずずもにそのたた堺に留たっおいた。戊争で京郜ぞ来るこずはできなかったのである。そのロレン゜からフロむスの蚱ぞ、䞉奜䞉党の反キリスト教的な傟向を知らせお来た。宣教垫を庇護する領䞻や倧身は必ず没萜するから、今床勝利を埗たならば、盎ちに宣教垫を京郜から远攟しようずいうのである。この報を受けお、䞇䞀信長や惟政が敗れた堎合には篠原長房に頌ろうず考えおいたフロむスは、すっかり腹を据えお、信長にのみ頌ろうずいう芚悟をきめた。信長が敗れおも、圌が生きおいる限りは、その領内ぞ行っお垃教をしよう。やがおたた圌が勝利を埗た時には、京郜ぞ垰っおくるこずも出来る。こうフロむスは、勝負のただきたらぬ内に考えおいたのである。  その埌包囲はなお䞀カ月半ぐらい続いた。山䞊の軍隊も疲劎困憊しお来たが、䞀局参ったのは物資の䟛絊を絶たれた京郜の垂民であった。そこで将軍が調停にのり出し、正芪町倩皇も、勅䜿を掟遣されるずいうこずになっお、遂に劥協が成立し、包囲は解かれた。この間に䞉奜䞉党の南からの圧迫をはね返したのは、和田惟政ず朚䞋秀吉ずの働きであった。  フロむスがオルガンチノを京郜ぞ迎え入れたのは䞀五䞃䞀幎の䞀月䞀日元亀元幎十二月六日で、信長が包囲を解いた日よりも八日前であった。このオルガンチノはフロむスの到達した決意ず方針ずをそのたた受け入れた人で、信長時代のキリスト教の隆盛ず深く関係しおいるのである。  フロむスの功瞟は、新しい信者を数倚く獲埗するずいうこずではなかった。信者の数はむしろ死亡によっお枛少しお行った。圌の努力はむしろ信仰を深め、その退転を防ぐこずであった。殊にこの戊乱の期節においおはそうであった。長期に亘っお垃怍せられた仏教の勢力は䞭々抜き難く、たた京郜には諞宗掟の粟鋭が集たっおいるのであるから、京郜で䞀人の日本人を改宗せしめるこずは他の囜々で二癟人を改宗せしめるよりも難しいこずであった。しかしフロむスは、その䞭で教䌚を維持し぀づけ、芪族の匷硬な反察にもかかわらず信仰を貫き通した少幎コスモや、枅浄の理想を远うお結婚するこずなく死んで行った愛らしい少女パりラのような、感嘆すべき信者をも出したのである。がそれよりも著しいフロむスの功瞟は、京郜における教䌚の存圚の暩利のために戊い぀づけ、和田惟政や織田信長の意志を捉えるこずによっお、政治的に、或は公共的に教䌚の地䜍を確立したこずであった。  この仕事のために異教埒和田惟政がフロむスを助けた態床には、実際驚くべき䞀貫性や匷靱さがあった。圌は高山ダリペず芪しく、キリスト教埒に同情を持っおいたには盞違ないが、しかし狂信者らしいずころは少しもなく、埓っお右の態床も信仰の情熱から出たのではない。フロむスによるず、惟政は非垞に愛情深く、䞀床人の保護をひき受ければ、そのため領地を倱うようなこずがあっおも決しお保護をやめなかった。心倉りずいうこずを非垞に憎んだずいう。たた家臣ずの間も非垞に芪密で、倖から芋るず、君臣の差別が぀かなかったずいう。これは、生呜を賭しお信頌に答えるずいう、鎌倉歊士の献身的な態床にほかならない。惟政はこの叀颚な歊士気質の人であったず思われる。しかしフロむスを保護し通した態床には、因襲に瞛られた保守䞻矩的な傟向ず正反察なものがある。倖囜人を受け容れ、愛情をもっおこれを庇い、その説くずころには虚心坊懐に耳を傟ける。埓っおもし戊争が圌を劚げなかったならば圌はキリスト教に垰䟝したかも知れない。高槻城にフロむスずロレン゜を迎えた時、圌は劻子ず共にロレン゜の二時間に亘る説教を聞き、非垞に興味を芚えた。でロレン゜をひきずめお四日間続けお説教を聞き、霊魂䞍滅の教に深く感動した。しかしこの時は戊争隒ぎで聎聞を䞭断され、その埌再びそれを続ける機䌚が来なかった。惟政ずしおは、教矩を根本的に理解した䞊で、たた自分がキリシタンずなっおも差支えのないように䞀切を凊理した䞊で、受掗する぀もりであったが、その暇を埗ないうちに戊死しおしたったのである。この惟政の新旧いずれにも囚われない自由な態床は、圓時の歊士の䞀぀の類型を瀺すものずしお、十分重芖せらるべきであろう。  䞀五䞃䞀幎九月、惟政の戊死埌間もなく、フロむスはむンド地方区長に宛おお惟政に関する愛情のこもった長い曞簡を送っおいる。それによっおフロむスは、この異教の領䞻の、護教の功瞟を氞遠に蚘念したのである。惟政の戊死は、惟政に䌌合わない油断の結果であった。この時の敵は、曜お惟政の味方であった摂接池田の城䞻の家臣たちであった。圌らは遠くを達芳するこずの出来ない勇猛䞀途の連䞭で、城䞻を逐い出し池田の実暩を握っお新興の信長の勢力に反抗しようずしたのであるが、惟政はこの䞋剋䞊の珟象の故に圌らを蔑芖し、譊戒を怠っお奇襲にひっかかったのであった。  フロむスはこの日、河内の䞉箇にあっお、悲報を聞いた。京郜ぞ垰るために、護衛兵を惟政に頌んでやった䜿が、この悲報を持っお垰っお来たのである。京郜の䌚堂ではオルガンチノずロレン゜ずが、この庇護者の戊死のあずに起るべき迫害に぀いお協議を始め、急いでフロむスを京郜ぞ迎え取る方法を講じた。教䌚の人々の感じた䞍安ず悲痛ずは非垞なものであった。ロレン゜は、近江の囜たで来おいる信長にすがるために、䞀五䞃䞀幎九月二十八日に京郜を出発した。  ずころがその翌日、実に意倖な事件が突発し、教䌚の人々の䞍安などはどこかぞ吹き飛んでしたった。  それは信長の叡山焌蚎である。こんな思い切った䌝統砎壊は、戊囜時代の乱暎極たる歊士たちでも、吊、仏教打倒を心から望んでいた宣教垫たちさえも、党く思いがけぬこずであった。 第九章 信長の䌝統砎壊 䞀 本願寺ずの敵察、叡山焌蚎  織田信長が仏教に察しおはっきりず匟圧の態床を取り出したのは、䞀五䞃䞀幎からである。その盎接の機瞁ずなったのは、前幎の秋の畿内における苊戊であった。摂接では倧坂石山の本願寺が䞉奜䞉党にくみしお立ち、圌の摂接制圧を劚げたのみならず、䌊勢尟匵の門埒をしお朚曜川䞋流右岞の長島に拠っお、信長を背埌から脅かさしめた。京郜では叡山の衆埒が浅井朝倉の軍を助けお信長の京郜把握を危殆に陥れた。結局圌は、本願寺に痛棒を䞎えるこずも出来ず、浅井朝倉を制圧するこずも出来ず、浅井朝倉ず䞀時和を講じお岐阜にひき䞊げたが、本願寺や叡山を打倒しなくおはならないずいう考は、この時に萌したのであろう。  圌が先ず手を぀けたのは、本願寺の勢力の打倒であった。䞀五䞃䞀幎の初倏には、信長はみずから諞将をひきいお䌊勢の長島に迫っお行った。しかし䞀向䞀揆の力は圌の予想を裏切るほどに匷力であった。だからこの時には信長は、兵を損するこずを恐れお、いい加枛にしおひき䞊げたのである。長島埁䌐はこの埌䞉幎の間懞案ずしお残り、䞀五䞃四幎の倏に至っお、䞉カ月間の匷攻の埌に、遂に二䞇人皆殺しずいう脅嚁的手段に出たが、しかし石山の本願寺はひるたなかった。次の幎には越前の本願寺䞀揆を蚎䌐したが、本願寺の反抗は䞀局高たった。いよいよ石山の攻囲にかかっお芋おも、五幎間に亘っお遂にこれをくだすこずは出来なかった。結局䞀五八〇幎に至っお、信長は皇宀の仲介を請うお和を講じ、本願寺を石山から玀州の雑賀に斥けるこずが出来たのである。この経過によっお芋れば、信長の芇暩時代の倧郚分は本願寺ずの敵察のうちに過されたず云っおよい。信長の反仏教的な態床が根匷かったのは、その故であるずも芋られよう。  本願寺ずの長期に亘る関係に比べるず、叡山ずの関係は極めお単玔であった。叡山が信長に反抗しお浅井朝倉の軍を立お籠らしめた幎の翌幎の、正月の賀に、现川藀孝が信長を岐阜に蚪ねたずき、信長は叡山焌蚎の意図を掩らしたが、藀孝は、聞かぬ振りをしお垰っお来たずいう。王朝文芞に通達した、孊者でもあった藀孝にずっおは、たずい衆埒の堕萜が県にあたるほどであったずしおも、この䌝統の聖地を砎壊するなどずは思いも及ばぬこずであったに盞違ない。埓っおこの蚀葉を聞いおも、たさか実行する぀もりだずは思わなかったのであろう。しかし信長は、「日本で䞍可胜なこずず考えられおいた」こずを敢お実行するような偶像砎壊者であった。䞀五䞃䞀幎倏に、浅井の兵が近江に進出したのをきっかけずしお、その秋、信長はたた近江に倧軍を入れ、浅井の軍を北に圧迫し぀぀、䞉井寺から東坂本たで達したが、その時、信長は突劂ずしお、叡山攻撃の呜什を発したのである。郚䞋のものも驚愕しお諫止しようずしたが、信長の決意は動かなかった。叡山の衆埒だけでは到底信長の軍を防ぎ埗るものではない。叡山の力は八癟幎の䌝統を背負った教暩や、それを象城する山王の神茿などにあったのであっお、それを恐れないものにずっおは物の数ではなかった。信長は平気で山王二十䞀瀟やその神茿を焌き払った。たた根本䞭堂をはじめ山䞊の堂塔四癟䜙をも䜙すずころなく焌き払った。僧䟶千五癟、それに附随するほが同数の俗人その䞭には倚数の矎しい皚児や、皚児に仕立おた矎女があったずはいわれるが、それらをも䞀人残らず殺戮させた。  このような未曜有の䌝統砎壊を決行しながら、信長は平然ずしお即日京郜に入り、将軍に䌚っお政務を芋た。京郜垂民に米を貞し、その利子で公家の生掻を救うずいう颚な手を打ったのもこの時である。内裏の修埩をも促進しお、その秋に工事を完成させるようにした。フロむスやオルガンチノも、叡山党滅をキリスト教匘垃のよい機䌚ずしお喜び぀぀、信長を蚪ねお欟埅を受け、長い間話し合った。その埌この二人を䞀局喜ばせたのは、キリスト教排撃の原動力ずなっおいた竹内䞉䜍が、将軍の前で信長の没萜を予蚀したずいうようなこずから信長の忌避にふれ、信長退京の途䞭で斬銖されたこずであった。  こういう情勢になっおは、宣教垫たちを脅かしおいた远攟の問題などは、䜕時の間にか消えおしたったのである。  叡山焌蚎で氞い䌝統を背負った仏教の教暩が厩れ、キリスト教匘垃の道が開かれたかのように感ぜられお間もなく、垃教長フランシスコ・カブラルの巡芖が行われた。  カブラルは䞀五䞃〇幎の倏倩草島の志岐に着いおトルレスに代り日本におけるダ゜䌚の指揮をずり始めたのであるが、志岐で第二回の宣教垫䌚議を開いた埌、先ず九州諞地方にずりかかり、それを終えお堺たで来たのは䞀五䞃䞀幎の末であったらしい。䞀五䞃二幎の初めには、フロむスやロレン゜を連れお、岐阜に信長を蚪ねた。その時の饗応の垭で、信長が宣教垫の肉食のこずを尋ね、カブラルが倧っぎらに肉食する旚を答えるず、信長はその態床をほめ、「坊䞻は内蚌でやっおいる」ず云ったずいう。仏僧に察する信長の反感は事毎に珟われたのであろう。京郜では、オルガンチノも䞀緒に将軍に謁し、非垞に厚遇せられた。その埌カブラルはフロむスず共に河内や摂接の信者矀を蚪ねた。これらはビレラの開拓した地方で、そこのキリシタン歊士たちの信仰を堅固に維持させお行くこずが、圓時の京郜の最倧の仕事であった。でカブラルは埩掻祭を䞉箇で営んだ。そうしお䞀五䞃二幎の倏の間に九州に垰ったのであるが、この巡芖旅行の党期間を通じお、人々の怖れおいたような危険は少しもなく、将軍、信長、その他倧身たちから、呚囲の人々の驚くほどの優遇を受けた、ずカブラルは特筆しおいる。反キリスト教的な気運はずにかく鎮たったのである。 二 信長の危機、京郜の攻囲戊  しかし時勢は平和な䌝道などには䞍向きであった。元亀倩正の兵乱は挞く癜熱点に達しお来たのである。信長を東ず北ず西ずから圧迫しおくる諞勢力は、䞁床この頃に、盞結んで信長を打倒しようず詊みた。䞀五䞃二・䞉幎の頃は、信長にずっお最も倧きい危機ではなかったかず思われる。その䞭心的な勢力は東から迫っおくる歊田信玄であった。圌は将軍矩昭が信長の暩力に察しお䞍平を抱くのを利甚し、これを味方に぀けた。そうしお西の方は石山の本願寺をはじめ、束氞久秀、叡山の残党等ずも連絡をずり、北の方は浅井朝倉ず協力を玄した。この圢勢に気づいた信長は、䞀五䞃二幎晩秋、矩昭に察しお十䞃カ条の問責曞を発したが、同じ頃にもう信玄は数䞇の兵を率いお甲府を出発したのである。信長ず矩昭ずの間の亀枉は、もうこれたでのように簡単に解決しなかった。幟床も䜿者が埀埩し、矩昭が信長の急襲に備えお二条城の防備を堅くするずいうような態床を取っおも、信長は宥和政策を続けお動こうずしなかった。䞀五䞃䞉幎の初めには信玄の軍が䞉方ヶ原で家康の軍を砎ったが、信長はなお信玄に察しお和芪の努力を続け、矩昭に察しおも枩和な䜿者を送っおおのれの嚘を人質に出そうずさえもした。この際匷硬であったのはむしろ、信玄ず矩昭ずである。信玄は矩昭にあおお信長の眪五カ条を数えた意芋曞を送ったが、叡山撲滅はその眪の倧きいものであり、埓っお叡山埩興が信玄の䞻たる目的ずされおいた。フロむスによるず、信玄は信長に宛おた曞簡に「倩台の座䞻沙門信玄」ず眲名し、信長はその返曞に「第六倩の魔王信長」ず眲名したずいわれる。これは二人の英雄の間に取り亀わされた諧謔の応答に過ぎぬが、しかしその背埌には䞡者の仏教に察する態床が瀺されおいる。フロむスはその点を敏感に感じお、信長が容易に䞊京し埗ないような窮境に陥っおいるこずを憂慮し、信玄が䞊京しお叡山を埩興した堎合の迫害に぀いおさえも心構えをしようずしおいた。  が、そういう䞍安はフロむスに限ったこずではない。京郜の垂民党䜓が非垞な䞍安に陥り、避難の準備で隒いでいた。家財の荷造り、垂倖ぞの運搬、それに察する兵士たちの掠奪、そういう隒ぎが毎日続いた。フロむスも祭具や曞籍を醍醐、八幡などに送った。やがお女子䟛たちの避難も始められた。圓時オルガンチノずロレン゜は䞉箇に滞圚しおいたが、その䞉箇の領䞻はフロむスに避難をすすめお来た。摂接の高山ダリペも䞹波の内藀ゞョアンも、床々その居城ぞ来るようにずすすめお来た。京郜の信者たちも同意芋であった。いよいよ京郜の町が兵火に焌かれる時には、フロむスを救うこずが困難になるからである。  しかしフロむスは動かなかった。自分の任務はキリスト教の信仰を日本人にすすめるこずである。信長は自分たちの芪友であり、キリスト教を庇護しおいるのであるから、その軍隊が京郜ぞ䟵入しおも、信者や䌚堂に察しお害を加えるこずはあるたい。信長の軍隊が近づいおくれば、自分は垂倖に出迎えお、カブラルからの莈物の楯や曞簡を枡す぀もりである。こう圌は云い切った。垂内の隒擟が䞻ずしお心理的な䞍安に基くこずを、圌は芋抜いおいたらしい。或る日䞀矀の盗賊たちが、掠奪の機䌚を䜜るために、信長来襲、二条城炎䞊ずいう虚䌝を飛ばした。するず京郜の垂内は、俄然、「最埌の審刀の日」のような混乱に陥った。そういう垂民の心理状態を圌は芳察しおいたのである。  矩昭は春の圌岞の頃に遂に兵をあげた。それに察しお即座に信長が打った手は、柎田明智等の郚将を掟遣しお石山や今堅田の城を陥し、京郜ぞの通路を確保するこずだけであった。信長が倧軍を率いお京郜に来たのは、それよりも䞀カ月ほど埌のこずであるが、その圓時京郜では、信長の䞊京は、到底䞍可胜であろうず信ぜられおいた。東からの信玄の圧迫、北からの浅井朝倉の攻撃が、信長を危地に陥れおいるからである。京郜の矩昭は、摂接の䞉奜党や本願寺の勢力を味方ずしお、今や確乎たる地歩を占めおいるかのように芋えた。  この頃に、フロむスの前に倧きく珟われお来たキリシタン歊士は、䞹波の八朚の城䞻内藀ゞョアンであった。ゞョアンは前幎京郜でカブラルに䌚った時には、「憐れむべき窮乏の状態」にあったずいわれるが、僅か䞀幎埌のこの時には、二千の兵を率い、十字架の旗印を掲げ、兜にれズスの金文字を茝やかせながら、将軍矩昭の味方に銳せ参じお来たのである。矩昭は非垞に喜んでこれを迎えた。ゞョアンはその日の午埌、キリシタンの兵士たちを぀れお䌚堂にフロむスを蚪ね、告解のための準備を熱心にはじめた。その熱心、謙遜、埓順な態床は、フロむスに非垞によい印象を䞎えた。このゞョアンがこの時以来䌚堂や信者に手厚い保護を加えたのである。その埌圌は、高山右近などず共に、最埌たでキリシタン歊士ずしおの操守を貫いた。  その高山右近も䞁床この頃に衚ぞ浮び䞊っお来た。圌は父の高山ダリペず共に和田惟政の郚䞋ずしお高槻城を守っおいたのであるが、惟政の戊死埌、埌を継いで城䞻ずなった惟長の統率力の䞍足から、遂に悲劇的な異倉をひき起すこずになったのである。事の起りは、惟長の家臣のうちに、高山父子の声望ず勢力ずを劬んでこれを陀こうずする連䞭があったこずである。惟長はそれに同じたわけでもなさそうであるが、たたそれを抑えるこずも出来なかった。で、惟長が高山父子を誅しようずしおいる、ずいうこずが、高山父子に䌝わった。高山父子は、和田惟政に代っお暩力を握っおいる荒朚村重の諒解のもずに、遂に惟長の䞍意を襲った。圓時十九歳の青幎であった右近が、同じように若い惟長ず枡り合っお共に傷぀いた。この争を調停したのは、桂川の西の地方を領しおいた现川藀孝である。その結果、惟長は高槻城を出お䌊賀に垰り、高山ダリペは高槻城䞻ずしお留たるこずになった。が間もなく惟長は、右の負傷のため䌏芋の城で死んだ。キリスト教を倖護した和田惟政のあずはこうしお絶えたが、その代りキリシタン歊士高山右近の掻躍がこれから始たるのである。  ずころが、その惟長の歿埌十日ほどを経お、䞊京䞍可胜であろうず思われおいた信長が、突劂近江の囜に姿を珟わした。䞀五䞃䞉幎の四月末であった。その報が達するず共に、矩昭は急いで味方の兵を二条城に籠らせ、濠の橋を匕いた。内藀ゞョアンも郚䞋の兵ず共に城に入った。垂民はたた倧混乱に陥った。フロむスもたた家財の荷造りや発送をはじめた。内藀ゞョアンは護衛兵、銬、人倫などを出しお、その荷物を䞹波ぞ送らせた。そうしお熱心にフロむスに䞹波ぞ避難するこずをすすめた。しかしフロむスはなお䌚堂ず信者ずを芋捚おなかった。䞁床その頃に现川藀孝ず荒朚村重ずは、信長の軍を逢坂たで出迎えたのである。もし内藀ゞョアンが信長方であったならば、フロむスも信長を出迎えるこずが出来たかも知れない。  信長は四月䞉十日倩正元幎䞉月二十九日午前、京郜の東の郊倖に入り、智恩院から祇園ぞかけお陣を取った。フロむスはその午埌、カブラルの信長ぞの曞簡や莈物の楯などを携えお小西隆䜐の家を蚪ねた。倚分信長ぞの接近の手だおを隆䜐に盞談しに行ったのであろう。隆䜐の家では家族は皆避難し、隆䜐ず子の行長だけが歊噚を持っお残っおいた。隆䜐の智慧を以おしおもフロむスの蚈画は実行し難かったのであろう。フロむスは曞簡ず楯ずを隆䜐に蚗し、機䌚を芋お信長に届けるように頌んだ。そうしおフロむス自身は、十人ほどの信者のいる九条村に避難するこずになった。十数人の信者が同䌎した。䞁床麊が穂を出しかけた時分で、掠奪者が麊畑にひそんでいたが、たたこちらも麊畑に隠れるこずが出来た。九条村では信者の芪戚や知己の家を転々しお隠れおいたが、掠奪に来た荒朚の兵士やそれに内応した村人たちに察し、危険を顧みず敢然ずしおフロむスを庇ったのは、その父がキリシタンであったずいう䞀人の異教埒であった。その隒ぎのあずで信者たちはフロむスの避難先を盞談し、倜の闇にたぎれお東寺の村ぞ連れ蟌んだが、迫害者の内通で、東寺の坊䞻らはすでにフロむスの隠匿を犁ずる觊れを出しおいた。この時にも死を賭しおフロむスを隠たっおくれたのは、老信者メオサンの芪戚の異教埒であった。その家にフロむスは八日間隠れおいたのである。  その八日間に信長は䞀応京郜のこずを凊理しお、急速に京郜をひき䞊げおしたった。だから、フロむスは信長には䌚えなかった。しかし最初東山に陣取った信長は、郚䞋の兵士に京郜垂内ぞ入るこずを犁じ、矩昭に察しお䟝然宥和政策を続けたので、フロむスが九条村ぞ逃げさえしなければ、翌日あたりには、䌚うこずも出来たのである。カブラルの曞簡ず楯ずを蚗された小西隆䜐は、翌日即ち五月䞀日には信長を蚪ねおその蚗されたものを手枡すこずが出来た。信長は非垞に喜んでフロむスやオルガンチノの消息をたずね、ポルトガルの楯をほめた。このこずはすぐフロむスの方ぞ連絡されたず芋え、二䞉日埌には隆䜐に金米糖入りの瓶を持たせお、再び信長を蚪ねさせおいる。  このように信長は、最初四日間、軍隊を動かさずに矩昭に和睊をすすめた。将軍は将軍ずしお立おる。ただ戊争ず政治のこずは譲歩しお貰いたいずいうのであった。矩昭が承知しなければ実力を以お匷行するこずも出来るが、しかしそのためには京郜の垂民や郊倖の蟲民が非垞な灜厄を受ける。それは䜕ずかしお避けたい。そう信長は考えた。しかし、矩昭を取り巻く「若衆」の錻息は頗る荒く、信長の足蚱を芋透かしたような気持になっおいた。だから矩昭は和睊に応じなかった。そこで信長は止むを埗ず五月䞉日に京郜の呚囲二里から四里䜍の間の町村九十䜙を焌き払わせたのである。それは京郜の垂民がその家財や劻子を避難させた堎所であった。埓っおそこで行なわれた掠奪や暎行は実質䞊京郜の町に加えられたのず同じであった。フロむスが最初避難した九条村もこの日焌かれた。  この倧砎壊のあずで信長は再び矩昭に働きかけたが、矩昭は䟝然ずしお応じなかった。䞊京や䞋京の垂民は、垂内ぞ手を぀けないようにず熱心に信長に請願し、信長も䞋京に察しおは焌かないずいう曞付を䞎えたが、䞊京に察しおは、答えなかった。しかし、五月䞉日倜に䞊京に起った火は、信長が぀けさせたのではない。䞉十人ほどの掠奪隊が勝手にやったこずである。信長は郚䞋の兵士が京郜の町に火を攟ったのでないこずを瀺すために、その倜軍隊を党然動かさなかった。こうしお五月四日の朝には䞊京の䞉分の䞀以䞊は焌けおいた。そこぞ信長は軍隊を入れお、二条城包囲に郜合のよいように、残存の郚分をも焌き払ったのである。この䞊京の焌き払いでは倚数の寺院の焌倱が目立った。信長が䞊京を容赊しなかったのは、寺院が倚い故であろうずも云われおいる。  信長は自分の築城したこの堅固な二条城、䞉぀の堀ず数カ所の皜堡を以お取巻かれたこの芁害を、攻撃によっお陥そうなどずはしなかった。呚囲に四぀の城を蚭け、通路を塞ぎ、糧道を絶っお、包囲の態勢を敎えたのである。地元の现川藀孝などがその抌えを呜ぜられた。この圢勢を芋お矩昭は和睊に応ずる態床をずるに至った。五月八日倩正元幎四月䞃日勅䜿が矩昭ず信長ずを蚪れ、信長は即日京郜を去っおその日は近江守山に陣取った。  この時の和睊が䞀時的なものに過ぎなかったこずは、事件の二十日埌に曞かれたフロむスの曞簡にも明蚘せられおいる。矩昭は浅井朝倉や䞉奜䞉党の救揎をあおにしお䞀時免れの策を取ったのである。信長もそれを知っおいた。だから圌は矩昭の再挙を予想しお、琵琶湖に癟挺櫓の倧船十数艘を急造させ、京郜急襲の甚に備えた。  ずころでこれらの信長の進退を東から牜制しおいた歊田信玄は、䞉河野田の陣䞭で病み、信濃たで匕き返しお五月十䞉日に歿した。それは盎ぐには発衚されなかったが、しかし東からの匷い圧迫はここで止んだ。この信玄の死が恐らく信長にずっおは実質䞊の運呜の転回点であったであろう。埓っお圢の䞊では、信長のこの時の九日間の圚京が、圌の地䜍を決定したのである。この時信長は、「その心が寛倧であっお思慮があり、時に臚んでよくおのれの情を撓めるこずが出来る」ずいう印象を京郜垂民に䞎えたずいうフロむス、䞀五䞃䞉幎五月二十䞃日郜発曞簡。将軍の存圚はもう宙に浮いおしたった。 䞉 将軍の没萜、浅井朝倉の滅亡、䌝統砎壊者の勝利  高山ダリペはこの戊乱に際し、フロむスの身の䞊を心配しお数人の家臣に村々を捜玢させたが、八日の埌にやっず東寺にいるのを芋぀けた。それは信長の退京の日であった。その日京郜からも信者が迎いに来お、フロむスは䌚堂ぞ垰った。翌日、圚京の信者たちが集たっお来たが、フロむスを芋るず皆涙を流しお泣いた。  内藀ゞョアンは城を出おほずんど毎日䌚堂を蚪ねお来た。兄の玄蕃も、家老の内藀土䜐も、他の家臣らず共に説教を聞きに来た。やがお間もなくこの䞡人は掗瀌を受け、玄蕃はドン・ゞュリアン、土䜐はドン・トマスずなった。䞹波に䌚堂を蚭けるこず、ロレン゜がそこぞ説教に行くこずなども远々に運んだ。  フロむスによるず、この内藀ゞョアンは矩昭ずかなり芪しかったように芋える。信長の退京埌六日の頃、矩昭は二条城にいるこずを䞍安に感じ、ゞョアンに察しおその城の借甚を申蟌んだ。矩昭が八朚城に入り、ゞョアンが二条城を守るずいう蚈画を立おたのである。ゞョアンはそれに察しお、将軍の意志には喜んで埓いたいが、しかし将軍ずもあるものがこの堅固な二条城を逃げ出しお信長を再び敵ずするこずは、甚だふさわしくないずいう意芋を述べた。するず将軍は初めの蚈画を倉曎しお宇治の槇の島に移るこずにきめ、婊女子や家財の運び出しをはじめた。京郜の垂民はそれを芋お再び恐慌に陥り、同じように女子䟛や家財の搬出に狂奔した。圓時病䞭であったゞョアンは、それを聞いお急いで城に銳せ぀け、出発のために将に銬に乗ろうずしおいた矩昭をずどめお、その堎に居合わせた倧身たち䞀同の面前で、この移転を諫止した。京郜垂民は将軍を愛するが故にこの絶倧な灜犍に逢ったのである。その将軍が今京郜を芋捚おるならば、将軍の名誉ず尊敬ずは、党然倱われおしたうであろう。自分は死を賭しおもこの城を守る。是非留たっおもらいたい。この意芋には、将軍に随行しようずしおいた倧身たちも、賛成した。そうしお矩昭は移転を思い止たった。垂内の動揺も静たった。このゞョアンの諫止は垂民の間にも非垞に奜評刀であった。  同じ頃に䞉奜䞉党や本願寺などの聯合軍は、倧坂ず京郜ずの䞭間たで進出しおいた。高山ダリペは危険を慮っおフロむスを高槻の城に避難させるため人銬を京郜に寄越した。䞁床その時に䞉奜の軍䞭からもキリシタン歊士たちの曞簡を携えお䜿が来た。それによるず、䞉奜の軍隊が京郜に入るかどうかはただきたっおいないが、もし入るこずになれば、䌚堂のある町はキリシタン歊士たちが責任を以お保護するから、避難するに及ばない、ずいうのであった。フロむスはこの申出に満足しお、高山の兵士を垰らせた。  そういう状態でフロむスは䞉月ほど京郜で掻動を぀づけた。内藀ゞョアンの䞀族のほかに摂接の池田の兵士たちも内藀玄蕃のすすめに埓っお説教をききにくるようになった。六䞃月頃には、池田の人々に察しお、毎日午から倕方たで説教を぀づけた。池田領にキリスト教をひろめようずいうこずは、フロむスの幎来の望みだったのである。  矩昭は六䞃月頃に再び京郜を去ろうずしお思い止たったが、八月のはじめには遂に意を決しお宇治の槇の島にたおこもった。二条城は郚䞋の歊士や公家が倧将ずなっお守った。䞉奜䞉党や本願寺の軍は、京郜の南方たで来おいる。浅井朝倉は信長の京郜ぞの通路を遮ぎるであろう。今床こそは埌顧の憂のある信長を苊しめるこずが出来る。そう圌は考えたであろう。しかしすべおは無駄であった。信長は矩昭挙兵の報知を埗るず、岐阜から倧軍を䞀日䞀倜で京郜ぞ入れた。京郜の垂民はあきれお、たるで倩狗のようだ、将軍がかなう筈はない、ず぀ぶやき合った。琵琶湖に準備した癟挺櫓の船隊が物を蚀ったのである。二条城は包囲せられるず間もなく降った。十日目にはもう槇の島の攻撃がはじたったが、これも䞀日で陥ちそうになった。矩昭は和を請うた。信長はさすがに殺そうずはせず、どちらぞでも送っおあげろず云っお秀吉たちに凊眮をたかせた。そこで秀吉らは、将軍方に぀いた䞉奜矩継の居城、河内の若江ぞ矩昭を送り届けた。矩昭はこの埌も本願寺や毛利の勢力に頌っお信長に反抗し続けるのであるが、しかし信長の県䞭にはもう圌はなかった。足利将軍の䌝統的意矩はここで壊滅しおしたったのである。  このこずは京郜では圢の䞊に瀺された。䞊京を兵火によっお砎壊したのは、信長ではなくしお足利将軍の責任である。信長はただ、垂民の䞍幞に同情しお埩興を助ける。そのために圌は、地子銭及び諞圹の免陀、鰥寡孀独の扶持、そのほか皮々の技術においお名人ず呌ばれるものの保護、儒孊の奚励などを垃告した。垂民は叀い䌝統を担う将軍よりも、実力を持ったこの新しい英雄の方を喜び迎えたのである。  この新しい圢勢を完成するかのように、信長は、すぐその翌月に、浅井朝倉を蚎滅しおしたった。それは僅か二十日ほどの間の出来事であった。信長は江北の浅井の城を抌えお眮いお、朝倉の揎軍に匷圧を加え、近江から越前ぞ続く峻嶮な山地のなかを远撃しお行った。そうしお朝倉の軍をその本拠䞀乗ヶ谷から远い出し、遂に培底的に厩壊せしめた。それから盎ぐひき返しお、江北の虎姫山の城を匷襲し、浅井父子を自殺せしめた。これで、長幎の間信長を北から圧迫しおいた力は取陀かれたのである。  このように䞀五䞃䞉幎は、五月に東方の信玄が歿し、八月に京郜の将軍矩昭が远われ、九月に北方の浅井朝倉が蚎滅されお、信長の運呜がはっきりずきたった幎であった。フロむスは冷々しながらこの信長の運呜を芋たもっおいたのであったが、それは圌の垌望する通りに開けお行った。圌はこの隒ぎの最䞭、五月の末に、こう曞いおいる。日本の異教埒たちは、坊䞻も俗人も、神仏が信長に厳眰を加えるだろうず期埅しおいた。しかるに寺院や神瀟を砎壊しその領地を歊士たちに分配するような乱暎を働いた信長は、その埌たすたす栄え、たすたす倧きい勝利を埗、䜕事をも意の儘になし埗るようになった。それを芋お異教埒たちは、神も仏も頌りにならないず嘆いた。䞭には、信長がひそかにキリシタンになっおいるず信ずるものもあった。そうでなければ、あのように思い切っお神仏を涜すこずは出来ないからである、ず。この蚀葉には、フロむスの信長にかけおいた垌望が鳎り響いおいるように思われる。 第十章 京郜の新䌚堂『昇倩の聖母』の建立 䞀 新䌚堂の蚈画ずその䞻動者たち  䞀五䞃䞉幎を境ずしお信長の地䜍は非垞に匷固なものになったが、しかし圌を包囲する敵の勢力はなお残っおいた。東からは信玄の歿埌嗣子の勝頌が信長を襲おうずしおいる。西の方では本願寺が反信長の勢力を糟合し、北方の越前の䞀向䞀揆を掻気づけおいる。䞀五䞃四・五幎の頃はこれらの敵察勢力の凊理に忙がしかった。が䞀五䞃四幎には䌊勢長島の䞀向䞀揆を党滅させ、䞀五䞃五幎には長篠の合戊で巧みな鉄砲戊術により歊田の粟鋭を壊滅させたのみならず、北の方越前ぞ攻め蟌んで本願寺䞀揆を平定した。こうしお䞀五䞃六幎以埌は、石山の本願寺ずその䞎党ずを蚎滅するこずが、唯䞀の問題ずしお残ったのである。  その䞀五䞃六幎の初めに、信長は近江の安土に城を築いおそこぞ移った。それは同時に、䞭䞖的な皮々の特暩組織から解攟された近䞖的な郜垂の建蚭の開始でもあった。信長の政治家ずしおの才胜はここで顕著に珟われおくる。埌に秀吉が倧坂を、家康が江戞を䜜ったのは、いずれも信長の安土経営に孊んだものである。  この機運はそのたた、京郜のキリスト教䌚にも反映した。䞀五䞃五幎にはじめられた新䌚堂の建築がそれである。  京郜の信者は氞幎の戊乱぀づきのために数の䞊でふえたわけではなかったが、しかしビレラの教化以来堅実に信仰を守っお来た人が倚かった。困難の時期にい぀もフロむスを揎助した小西隆䜐父子のほかに、フロむスが特に名をあげおいるのは、老アンタン、コスモ、アンタンの兄匟ベント、ゞュスチノ・メオサン、その子アレシャンドレ、レアン枅氎などである。メオサンはその劻子ず共に京郜で最初に信者ずなった老人で、教䌚のこずに非垞に熱心であった。劻のモニカも埳行のすぐれた人であった。フロむスが九条村に逃げた時にはメオサンもその子ず共に぀いお行き、東寺の自分の甥の家に八日間フロむスを匿たったのである。レアンは五十歳䜍の盞圓富裕な人で、才智があり思慮深く、蚀葉少なで実行力に富んでいた。その父は熱心な法華信者で、レアンのキリシタンずなるこずを非垞に嫌い、䞍幞の死を遂げた。その劻ず子も䞭々改宗しなかったが、レアンはその熱心によっお遂に信者ずするこずが出来た。このレアンが実に真面目な信者で、その富を教䌚ず慈善ずのために惜しみなく䜿ったのである。京郜の信者のうち、新しい䌚堂建築の䞻動者ずなり、その建築のために最も熱心に働いたのはこのレアンずメオサンずであった。レアンはこの建築のために倚額の寄附をしたのみならず、この蚈画のために、いろいろ智慧を絞った。フロむスは、事毎に、殆んど皆レアンの意芋に埓ったず云っおいる。メオサンも分以䞊の寄附をし、朚材買入れに寒䞭四十里䜙の山䞭ぞ出掛けたりなどした。この奜き老人は、倜眠れない時に、キリシタン郜垂ずしおの京郜の郜垂蚈画を考案しお楜しんだずいう。京郜に数倚い仏寺を改造しお、キリスト教の倧寺院、貧民病院、受掗志願者の家、孊校などを建蚭するのである。  しかし新䌚堂の建築に力を぀くしたのは、京郜の信者のみではなかった。摂接河内のキリシタン歊士たちも熱心にこれに加わった。  先ずあげられるのは高槻城の高山ダリペ、ゞュストの父子である。䞀五䞃䞉幎の春、和田惟長を远い払っお高槻城䞻ずなった高山ダリペは、もう五十歳を越えお居り叀い戊傷が時々痛みもするので、城の支配をゞュスト右近に委せお、自分はキリスト教のこずに専心し始めた。先ず第䞀に着手したのは䌚堂の建築である。元神瀟のあった、倧暹のある広い堎所にそれを建お、呚囲に倧きい庭を造った。䌚堂の傍には、宣教垫の宿泊甚に矎しい䜏宅を建お添え、その前には石を倚く䜿ったしゃれた庭を造った。この新しい䌚堂で最初のミサを聞いたずき、ダリペは床の䞊に䌏しお歓びの涙を流し、地䞊の望みはもう達せられた、埡意のたたに、䜕時におも埡蚱に召し絊え、ず云ったずいう。この䌚堂ぞ、信者らは毎朝鐘の音ず共に集たっお、祷りをした。倕方アベ・マリアの時もそうであった。ダリペずその子はい぀も真先に来た。日曜や祭日にはダリペが説教をしたり、或は曞籍を読んで聞かせたりした。そうしお時々京郜から宣教垫に来お貰っお、ミサや説教をきいた。こうしおその埌二幎ほどの間に、城内の歊士や兵卒たちをその劻子ず共にキリシタンに化しお行ったのである。  ダリペはこの信者らを組織しお教化の仕事や慈善の仕事に぀ずめた。キリシタンの客人は、党然未知の人であっおも、芪戚のように欟埅した。貧者には、衣食を絊した。戊死者の遺族は、芪身になっお䞖話をした。貧しい者の葬儀も、信者䞀同の参加によっお、盛倧に営んでやった。  そういう颚にしおダリペの仕事が実っお来た頃に、京郜で䌚堂新築の議が起ったのである。ダリペも京郜に来お宣教垫や倧工ず共に補図をやり、䞻芁な材朚の䟛絊をひき受けた。そのために圌は自ら階銬の士二䞉人ず共に倧工朚挜を匕率しお六䞃里の山奥に入り、材朚を䌐り出した。それを先ず高槻たで運び、船で京郜近くたで持っお来お、曎に荷車で䞀里ほどの途を工事堎に届ける、ずいうこずをすべお自費でやった。工事が始たっおからも人倫の䟛絊その他いろいろなこずを匕受けた。かなり困難だず思われるこずでも、頌たれるず、お易い埡甚だず云っお気持よく匕受けるのが圌の垞であった。  この工事の進行䞭、䞀五䞃六幎の埩掻祭に、ダリペは懇請しおオルガンチノを高槻に迎えた。ダリペはいろいろず祭の準備を敎え、非垞な熱心ず献身的な態床ずを以お聖週の行事を手䌝った。聖逐の埌には、䌚衆六癟䜙を饗応しお、人々にその慈愛を感嘆させた。オルガンチノは、これほど荘厳な埩掻祭を日本で芋たこずがない、ず云ったずいう。その埌数カ月を経おオルガンチノは京郜の䌚堂で献堂匏を行ったのであるが、その時にはダリペは、倫人を䌎い、子ゞュストず共に二癟䜙人の士卒をひきいお参䌚した。附近の垂民はかくも倚数の茿や階銬が䌚堂に入るのを芋お驚いた。匏埌にダリペは、運ばせお来た倚量の食料品を以お、諞方からの参䌚者のために盛倧な饗宎を蚭けたのであった。  高山父子に぀いで挙げられるのは、河内飯盛山䞋の岡山城の家老、ゞョルゞ結城匥平治である。ゞョルゞはこの時䞉十䞉歳䜍であったが、掗瀌を受けたのは十四五幎も前で、ビレラが最初に䜜ったキリシタン歊士結城山城守の甥だずいわれおいる。ゞョルゞの母芪は熱心な法華信者であり、兄匟二人も僧䟶にされおいたのであるが、ゞョルゞは非垞に骚折っお、これらをすべお奜いキリシタンにした。岡山城に来る前には、䞉箇のキリシタン歊士の䞀人ずしお掻躍し、キリシタンなるが故に戊死を脱がれたこずもあった。岡山城䞻は圌の甥であったが、圌は芋蟌たれおその埌芋ずなり、その家を治めるこずになった。城䞻は圌のすすめにより家族ず共に掗瀌を受けおゞョアンずなった。城䞻のみならず、岡山の䜏民千䜙人も、圌の熱心に化せられお、䞀人残らずキリシタンずなった。そこには䌚堂や宣教垫の宿舎も建おられた。フロむスやロレン゜は床々ここを蚪れおいる。  京郜で䌚堂の新築がはじたった時には、ゞョルゞは早速䌚堂の附近に䞀軒の家を借り、そこに四五十人の士卒を宿泊せしめお、毎日工事を手䌝わせた。䌚堂の倧きい瀎石を運び蟌み、据え぀ける時などには、ゞョルゞがこの仕事を匕きうけ、自ら士卒の先頭に立っお、䞡肩を腫れ䞊らせるほどに働いた。家老であるから、い぀も京郜に来おいるずいうわけには行かなかったが、祭日などには、䞀䞡人の䌎を぀れお倜のうちに十里の道を銬で飛ばせ、午前䞭に告解や聖逐をすたせお、午埌盎ちに垰っお行く。たるで䞀二里の所から来るような䜕気のないふりをしお、骚折りを人に知らせないようにする。建築費の寄附なども率先しお人より倚く出したのであるが、それを秘しお人に知られないようにしおいた。或時、䞊京の節に工事堎に倧工の数の少ないのを芋お建築費の窮乏を察し、宣教垫通の䞀隅でこっそりおのれの垯刀の金の食りを倖しお玙に包み、日本人のむルマンに蚗しお行ったこずもあった。そういう慎たしいやり方が宣教垫たちを非垞に感動させたのである。  岡山の近くの䞉箇の信者たちも勿論䌚堂の新築に協力したのであるが、その䞭で特に著しかったのは、䞉箇の城䞻の姉効で、キタずいう歊士に嫁しおいたフェリパである。この五十歳を越えた老倫人は、キリシタンの女子の暡範であったずいわれおいる。さほど富裕ではなかったが、䌚堂や貧者のためには物惜しみせずに愛の行を぀ずめた。病人を蚪ねお慰め、心匱きものの信仰を堅めおやり、うかうかずしおいたものは呌び醒し、争いがあれば調停する。異教埒に察する教化にも熱心であった。たたクリスマスや埩掻祭に他の地方から䞉箇に集たっおくるキリシタンの貧しい女たちで、フェリパの䞖話にならぬものはなかった。その他の時でも、岡山にくるキリシタンはい぀も倫人の䞖話になる。冬になるずフェリパは䟍女たちず共にせっせず機を織り、衣服に仕立お、京郜の宣教垫のもずぞ持っおくる。新䌚堂の工事の始たったずきには、工事に圹立おるために倚量の織物の荷を携えお京郜ぞやっお来た。その所行は党く初期の教䌚の婊人のようであったずフロむスはいっおいる。  河内若江城の郚将、シメアン池田䞹埌も京郜の䌚堂の新築に力を぀くした人である。若江の城は信長が将軍矩昭を逐うた頃には䞉奜矩継の居城ずなっお居り、矩昭もさしずめ宇治の槇の島からこの若江の城に送り぀けられたのであったが、その冬信長の軍に攻囲せられた時、池田䞹埌は他の郚将たちず共に信長方に内応し、矩継を自殺せしめたのである。その埌はその郚将たちが共同しお若江の城を守っおいた。そのうちキリシタンであったのはただ池田䞹埌のみであったが、しかしその郚䞋の歊士たちは、ビレラが飯盛山䞋に垃教した頃からのキリシタンであった。だから若江の城内に立掟な䌚堂を建おたのみならず、京郜の䌚堂の工事に぀いおも非垞に揎助を䞎えた。その埌䞀五䞃䞃幎に信長が玀䌊の雑賀を攻めたずき、シメアンも埓軍しお寺々を焌いたが、その戊争の最䞭に、圌は分捕った倧釣鐘を京郜たで運ばせ、聖母の䌚堂に献じたりなどした。  が以䞊に挙げたのは特に目立った数人なのであっお、ほかに無数の信者たちがそれに類した熱心さを以お働いたこずはいうたでもない。河内の山から材朚を淀川に出し、それを䌏芋たでひいおくる時などは、若江、䞉箇、甲賀などのキリシタン歊士たちが集たり、その家臣・芪戚・友人など、千五癟人が出動した。高槻の傍を通る時には高山ダリペが士卒を出しお手䌝わせた。その他富者は富者盞応に、貧者は貧者の分以䞊に、金銀米、その他雑倚なものを寄進した。或者は瞄を持っおくる。他の者は手䞀杯の釘を持っおくる。或は倧工らのための魚類、或は手織の朚綿の垃を届ける者もある。或は自家の鉄鍋を携えお来お料理を手䌝うものもある。戊死した子の歊具や衣類を寄進する母芪、畳癟枚を寄進しお人々を驚かせた老寡婊などもあった。こういう無数の人々の心からの協力が新䌚堂の建築を仕䞊げたのである。埓っおそれは単なる建築の仕事ずいうわけではなく、京郜地方の信者たちの、集合的な感情や意志の衚珟だったのである。 二 建築工事ず村井貞勝の倖護  ではその建築の仕事はどういう颚に運んだか。  䞀五䞃五幎たでの小さい貧匱な䌚堂は、颚の烈しい日には䞭にいられないほど頜廃しおいた。  それを䜕ずかしたいずいうこずは前から宣教垫も信者も考えおいたのであるが、いよいよ新築の議が起ったのは、䞀五䞃五幎の前半であったらしい。その時は売物に出おいる仏寺を買い取り、その材朚を䜿う蚈画であったが、倀段が折合わず、その蚈画は攟棄された。しかしそれが华っお刺戟ずなり、信者たちの熱心が高たっお、倏の頃に新䌚堂建築の盞談がきたった。宣教垫は豊埌のカブラルに報告しお、ダ゜䌚の経垞費を、いくらか割いお貰うこずにした。有力な信者たちは集たっお、補図したり、工事の分担をきめたりした。人々は手を分けお、材朚の買入れ、工事甚の米の買入れ、倧工や人倫の工面などをひき受けた。こうしお、倚分、䞀五䞃五幎の末頃に工事に着手したのである。  工事は、前に述べたような熱心な信者の協力のもずに抌し進められお行ったのであったが、工事のために特に郜合がよかったのは、村井長門守貞勝が、䞀五䞃䞉幎の足利将軍倱脚以来、京郜所叞代ずなっおいたこずであった。貞勝はそれ以前にもすでに朝山日乗ず共に内裏の造営に埓い、京郜の行政を芋おいたのであるが、日乗ずは異なり、宗教的な偏向を党然持たず、信長のキリシタンに察する態床をそのたた斜政の䞊に反映し埗る人であった。フロむスも圌のこずを「尊敬すべき老幎の異教埒」「生来の善人」などず呌んでいる。その貞勝が、前の和田惟政ず同じように、異教埒でありながら、熱心にキリシタンの保護をはじめたのである。所叞代は「京郜の総督」ず呌んでもよいような地䜍で、暩勢の䞊でも惟政に匹敵しおいた。  最初教䌚から新䌚堂建築のこずを所叞代ぞ届け出たずき、貞勝はそれに察しお特別の恩兞を䞎えた。圓時京郜では、内裏修埩甚の建築資材のほかは、材朚その他䞀切搬入が犁ぜられおいたのであるが、貞勝は䌚堂甚の材朚その他建築資材の自由搬入を蚱し、その䞊皎を免じたのである。぀いで棟䞊げの時には、䞃癟人以䞊の人手が必芁だず考えられおいたが、貞勝はそれに察しお、芁るだけ申出るがよい、千人でも送っお䞊げよう、ず申入れたずいう。そうしお、棟䞊げの圓日には、代理の歊士二人が、倚数の人を率い、祝いの品を携えおやっお来た。この人々は倜に入るたで工事堎に留たり、所叞代が䌚堂に奜意をも぀こずを垂民の間に呚知せしめようずしたのである。その日はほかにも諞方からキリシタンの倧身が集たったが、それらず䜵せおこの所叞代の凊眮は非垞にききめがあった。これたで䌚堂に奜意を持たなかった町内の人々も、急に態床を倉え、工事に助力するようになった。なお、棟䞊げの数日埌には、貞勝自身が工事堎に来お、小銭二䞇を莈っお奜意を衚したのみならず、圓時安土造営のために行われおいた倧工の城発を、䌚堂の倧工にのみは適甚しないこずにしおくれた。  が貞勝の䞎えた最も倧きい庇護は、䌚堂新築に察する京郜垂民の反察を抑えおくれたこずであろう。反察の理由は、䌚堂の䞊に二階のある高い建築日本颚にいえば䞉階建であろうが、寺院や䜏宅を越えお聳え立ち、京郜の垂民を芋䞋すずいうこず、或は瀌拝堂の䞊に䜏屋を重ねるのは日本の颚でないずいうこず、などであった。貞勝はそれに察しお、至極合理的な意芋をのべ、反駁した。倖囜人が京郜ぞ来お家を建おるずいうこずは、京郜に名物がふえるようなものではないか。垂民はむしろそれを尊重すべきである。䌚堂の䞊に䜏屋を重ねるのは、地所が狭く䜙地がないためであっお、止むを埗ない。たた高い二階を造るのがよくないずいうのならば、倖囜人ず日本人ずを問わず犁止すべきである。京郜に珟存する二階を悉く壊させるずいうのであるならば、キリシタンの䌚堂に察しおも二階を壊せず呜じよう、ずいうのであった。  所叞代が䌚堂新築反察に同じないのを知るず、京郜の町の自治組織を代衚する幎寄たちは、自分たちの暩限を以お、䌚堂の䞊の二階を壊せずいうこずだけを呜什しお来た。これは䌚堂の構造に難癖を぀けたのであっお、䌚堂の新築に反察したのではないように芋えるが、しかし工事の途䞭にこの倉曎を呜ずるこずは、工事を䞍可胜ならしめるに近かったのである。それを察した宣教垫たちは次のように抗匁した。二階の䜏屋がいけないならば、工事を始める前にそのこずを通達すべきである。建築の構造䞊、䞊ず䞋ずは密接に聯関しおいる。䞋の構造を害うか、或は非垞に倚額の費甚をかけなくおは、䞊郚を取陀くこずは出来ない。この建築は開始前に信長及び所叞代に届け出おある。それらの人々の保護の䞋に宣教垫は京郜に居䜏しおいるのであるから、この事に぀いおもそれらの人々の呜什に埓うであろう。  こうしお京郜の町の自治圓局ず教䌚ずははっきりず察立した。䜕故、町の幎寄連がこの筋の通らない難癖にやっきずなったかは、よくは解らないが、フロむスは坊䞻らの䜿嗟によるず解釈しおいる。町の方では意地になっお、四十人ほどの䞻立った人々に、倚量の進物を持たせ安土の信長に陳情させるこずにした。京郜垂民の垌望ずあれば、民衆の動向を重芖する信長は動くに盞違ないず考えたのであろう。これは、京郜の町ずしおは盞圓の倧事件である。この圢勢を芋お教䌚の方では䞀足先に、日本人むルマンのコスメを安土に掟遣し、有力な歊士数人に事情を報告させた。その人たちは、気にせずに工事を続けるがよい、陳情者が来おも工合よく蚈らっおやる、ずいっおくれた。所叞代の村井貞勝もこの陳情団が出発したず聞いお、信長及び圌自身の庇護しおいる倖囜人を京郜の町が苛めるずいうこずは、圌の面目にかかわるず考えた。で、老䜓にかかわらず寒いなかを急遜安土に銳せ぀けた。陳情団が安土に぀いお芋るず、そこには意倖にも圌らに反察した京郜所叞代が居り、しかも信長偎近の歊士たちは誰も圌らを信長に取り做そうずはしおくれなかった。結局圌らは䜕も出来ずコ゜コ゜ず京郜ぞ匕き返しお来たのである。  以䞊のような所叞代の倖護に加えお、キリシタン歊士たちも、意倖なほど熱心であった。䞀五䞃六幎の五月には、石山本願寺に察する信長の倧仕掛な攻撃が始たったので、高槻、若江、䞉箇、岡山の四城のキリシタン歊士たちはそれに参加しなくおはならなかったのであるが、そういう慌しい際にも圌らは䞀定の人数を京郜の工事堎に掟遣するこずを決しお䞭止しなかった。それぞれの郚眲を互に代り合い、亀替しお京郜に出お来たのである。  この工事の有様はフロむスやオルガンチノを非垞に喜ばせた。所は神瀟仏閣に充ち溢れた偶像の郜である。そこにたった二人の倖囜人がいお、倚数の敵の意志に反しお矎しい䌚堂を建築しおいる。この玠晎らしい状況をペヌロッパ人に想像せしめるために、フロむスは次のような衚珟を䜿った。この状況は、ロヌマかリスボンぞたった二人のアラビア人が来お、キリスト教の䌚堂の偎に、モハメッド教のモスクを建おおいるのず同じである、ず。この気持は恐らく圓時の日本人には解らなかったであろう。しかしモハメッド教埒ずの察抗に刺戟されおむンドに進出し日本たで来るこずになったペヌロッパ人にずっおは、この衚珟は実に倚くのこずを語っおいるのである。  䞀五䞃六幎の倏には、䌚堂はただ萜成しおはいなかったが、オルガンチノはシャビ゚ルの日本に着いた八月十五日、聖母昇倩祭の日を遞んで、この䌚堂での最初のミサを献じた。䌚堂の名も『昇倩の聖母』ず呌ばれた。この時フロむスはロレン゜ず共に河内に行っおいお留守であったが、諞地方の信者は倚数に集たり、盛倧な祭が行われた。  その幎の末、クリスマスの頃には、䌚堂は倧郚分萜成しおいた。着工以来ほが䞀幎である。その䌚堂ぞ諞方から信者が集たっお、クリスマスを賑やかに祝おうずしおいるずころぞ、前々幎に長厎ぞ着いた新しい神父ゞョアン・フランシスコが到着した。その喜びをも加えお、新䌚堂最初のクリスマスは非垞に盛倧であった。  䌚堂は郚分的にはなお未完成であったのであろう。半幎埌にフランシスコの曞いた曞簡にも、新䌚堂は殆んど萜成したずあっお、未だ完成を云っおはいない。曎にその䞀幎埌にオルガンチノの曞いた曞簡に至っお初めお新䌚堂は萜成したずいう蚀葉に出䌚う。しかしこの時にもなお壁画は出来おいなかったのである。 䞉 新䌚堂の効果  䌚堂は宏倧ずはいえないが、しかし壮麗なものであった。京郜の石工や朚工は非垞に技術が優れおいたし、建築工事を監督するオルガンチノがむタリア人で、建築のこずを心埗お居り、いろいろ工倫を加えたので、その点からも日本人の県を驚かせるに十分であったらしい。信長をはじめ日本人たちは、この䌚堂に関しお西掋人の知識を讃めた、ずいわれおいるずころを芋るず、かなりペヌロッパ颚が加味されおいたず思われる。信長たちが満足したのみならず、この建築を劚害しようずしおいた人々さえも、出来䞊りを芋お賞讃したほどであった。  問題ずなった二階は、䌚堂の䞊郚にあっお、矎しい宀を六぀含んでいた。そこからは垂内が芋枡せるだけでなく、郊倖の諞寺院や田園をも遠望するこずが出来たのである。この高い構造もたた日本人には珍らしかったのであろう。  かくお新築の䌚堂は、京郜におけるキリシタンの存圚を非垞に顕著に瀺すこずになった。京芋物のために諞囜から出おくる人々の県にも぀き易くなった。これは宣教垫たちにずっおも信者たちにずっおも非垞に倧きい意矩を担ったこずだったのである。キリシタンらは日本の䞭倮の郜に壮麗な䌚堂を持ち、屋根に勝利の旗・光栄ある埜章ずしおの十字架を茝かせ、そこで公然ず犏音を説いおいる、――このこずが日本党囜の異教埒や領䞻たちに知れ枡るのである。それはあたかも䞻キリストの勝利を瀺すかのように感ぜられた。この気持は、日本の各地に勃興した英雄たちがいずれも京郜をめざしお動いおいた時代、京郜占領が芇暩の成就ずしお受取られおいた時代にあっおは、実際に珟実的な裏づけを持っおいたのである。  その蚌拠は、䌚堂新築の仕事ず共に、たた新築の結果ずしお、急激に教勢が高たっお来たこずである。オルガンチノが新䌚堂の献堂匏を挙げた頃たでの二幎間の教化の収穫は、その前の二十五幎間のそれよりも倚かったずいわれおいる。さらにこの堂が倧郚分萜成したずいわれる䞀五䞃六幎のクリスマス以埌になるず、僅か䞉四カ月の間に摂接河内で四千人のキリシタンが出来た。䞀五䞃䞃幎の䞃月頃には六千䞉癟人ず数えられおいる。高槻、䞉箇、岡山などがそのおもな堎所である。䞀向宗埒二癟人が䞀時に改宗するずいうようなこずもあった。  䞀五䞃䞃幎九月にオルガンチノが圓時むンドにいた巡察䜿ワリニャヌニに宛おお曞いた報告によるず、この幎の四旬節の初日以来圌は䞃千人以䞊に掗瀌を授けた。そうしおなお続々ず改宗者が出お来そうであった。圌はこの圢勢を京郜の䌚堂の新築ず結び぀けお蚘述しおいる。この『昇倩の聖母』の䌚堂は、新築のために非垞に骚が折れたが、しかしキリストの埡名を挙げる基ずなるであろう。今既に倧いなる効果が珟われお来おいる。京郜の町党䜓は教䌚に察しお態床を改めた。建築の初めの頃に教䌚を忌み嫌っおいた人たちが、今は教䌚を尊敬し、悪蚀を攟たなくなった。がこの倉化は京郜だけのこずではない。京郜の䌚堂の噂は党囜の接々浊々に䌝わり、䜕凊ぞ行っおもキリストの教を説くこずが出来るようになった。のみならず京郜の䌚堂の新築はキリシタンの領䞻たちを動かし、それぞれの領内に宏壮な䌚堂を造ろうずする機運を呌び起しおいる。䞀五䞃䞃幎の秋たでに着工したのは䞉箇ず岡山ずである。これらの䌚堂の装食甚ずしお倧毛氈二枚、金襎或はびろうどの法衣数着、矎しい画像数面を甚意せられれば幞である、ず。  かくしお䞀五䞃䞃幎䞭の京郜地方の受掗者は䞀䞇䞀千に達したのである。 四 信長䞀門の同情  その同じ幎に信長は、倧坂の本願寺に曎に䞀局の匷圧を加えたのみならず、その背埌の勢力を絶ずうずするもくろみで、春には玀䌊の雑賀䞀揆を自ら蚎ち、秋には秀吉をしお播磚埁䌐を開始させた。  が信長が動き出す前、倚分陰暊の正月の瀌に、オルガンチノはロレン゜その他の日本人を䌎っお、安土の信長を蚪ねた。安土の城は京郜の䌚堂より少し遅れお起工されたのであるが、信長の暩力を以お畿内地方の材朚を集め、倧工その他の職人を城発しお、工事を急いだのであるから、この時にはよほど出来おいたのであろう。「キリスト教囜にあるずも思えないほど宏壮なもの」ず、オルガンチノはいっおいる。䞭倮の塔は、二十間四方で、高さ十五間、五局の屋根を持っおいた。信長蚘によるず、安土の殿守は、二重の石垣に、高さ十二間、䞊の広さ南北二十間、東西十䞃間、石垣の内を蔵に甚い、それより䞊、䞃重である。信長は宣教垫たちを喜んで迎え、厚くもおなした。キリスト教のこずも長時間に亘っお聞き、飜くこずなく質問を続けた。たたこの時にも同垭した諞囜の領䞻たちの前で、キリスト教及び宣教垫の生掻の枅浄なこずをほめ、日本の仏僧たちの堕萜を眵った。そうしお、自分は坊䞻らを悉く亡がしおしたいたいのであるが、方々に隒ぎが起るので遠慮しおいる、ずいう意味のこずをさえ云った。今や倧坂の本願寺を正面の敵ずしおいる圌にずっおは、これは単なる攟蚀ではなかったであろう。  オルガンチノたちはその足で岐阜に信長の長子信忠を蚪ねた。この青幎が曜おキリシタンずなる意志を瀺したず䌝え聞いたオルガンチノは、熱心にそれに働きかけようずしたのである。信忠も圌を欟埅し、長時間語り合った。  オルガンチノたちが垰京しおから十日の埌、䞀五䞃䞃幎の䞉月に、信長は䞉人の子を同䌎しお、雑賀遠埁の途次、京郜に寄った。この時にもオルガンチノは、新来のフランシスコや日本人ロレン゜、コスモなどを䌎っお、劙芚寺に宿っおいた信長を蚪ねた。圓時、倧勢の有力な歊士や公家が面䌚に来おいたが、信長は誰にも䌚おうずせず、ただ「貧しい二人の倖囜人」ず、ロレン゜やコスモだけを居間に呌び入れ、䞀時間ほど雑談した。圓時フロむスは病気がちで、この日も同䌎しなかったのであるが、信長は早速圌のこずを尋ねた。フロむスが豊埌に行くず聞いたが、ロレン゜も䞀緒に行くのか、ずいう問であった。぀いで新来のフランシスコの名や、生囜を聞いた。話はそういう些末なこずであったが、しかし信長の宣教垫に察するこの特別扱いは、集たっおいる人々を驚愕させずにはいなかった。宣教垫たちが垰ったあずで、圌はたたい぀ものように仏教を眵り、キリスト教を讃めたずいう。そういうずころから、信長にはキリシタンになろうずする意志がある、ずいう臆枬も生じお来たのである。そうしおたたそれは、宣教垫たちが実際垌望しおいたずころであった。  この臆枬は、信長の倧坂本願寺に察する猛烈な敵意ず無関係ではあるたい。信長が玀州の䞀向䞀揆を目ざしお京郜を出発したずき、宣教垫たちも教䌚の附近で圌の通過を芋物したらしいのであるが、その時の信長の顔぀きは非垞に暗く、人に恐怖を抱かせるようなずころがあった。京郜の垂民たちは、信長がよほど思い切ったこずをやるだろうず噂し合った。叡山焌蚎ちの蚘憶はただ新しかったのである。その䞊、信長の本願寺に察する倧仕掛な戊略は、垂民の間にもう知れ亘っおいた。フランシスコが右の信長の京郜出発のあず二週間ほどで曞いた曞簡には、信長がいた埓事䞭の雑賀埁䌐を終ったならば、次には毛利氏の二囜播磚淡路かを攻撃し、堺に築城しお倧坂本願寺の埌揎を絶぀であろう、ず明蚘しおいる。信長の本願寺打倒の努力は、今や䞖間の関心の焊点だったのである。  玀䌊の䞀向䞀揆は䞀カ月䜙で片づき、信長はその子ず共に京郜に凱旋しお来た。その時オルガンチノは、この䞉子、信忠、信雄、信孝に熱心に働きかけおいる。八幎前フロむスが初めお岐阜を蚪問した時には、圌らはただ愛らしい少幎で、フロむスをいろいろず接埅しおくれたのであったが、この時はもう二十歳二十䞀歳などの青幎で、それぞれ軍隊を指揮しおいた。そのうち先ず䌚堂を蚪ねお来たのは信雄である。圌は二時間ほど宣教垫たちず語り合い、ペヌロッパ人は日本人よりも勝れおいるず云った。たた、遠い囜の倖囜人が、敵の充満しおいる囜の郜の真䞭にこのような壮麗な䌚堂を建おるずいうこずは、実に勇気のある仕業だ、ず感嘆した。蟞去した埌、莈物に぀けお自筆の瀌状を寄越したが、その䞭には、キリスト教のこずをもっず詳しく聞いおキリシタンになろうず思うが、今は戊争䞭で、それが出来ない、機䌚を埅぀、ずいうようなこずが蚘しおあった。オルガンチノたちはこの信雄に非垞に望をかけたのである。圌は信長の䞉子のうちで最も信長に䌌おいる。意志が匷く果断である。圌は郚䞋の兵に絊䞎するために、䜙裕ある倧身の米六千俵を奪い取ったこずがある。信長が圌を呌んで叱り぀けるず、自分はあなたの子䟛のうち最も貧しく、郚䞋に䞎えるものがない、だから䜙っおいる所から少し取った、ず答えた。信長は、あい぀は叱っおも聎かない、腕ずくで取返せ、ずその倧身に云った。そこでその歊士の䞀䞇人の郚䞋ず信雄の䞃癟人の郚䞋ずが察峙した。信雄は、誰も動くな、ず云っお、自分䞀人で盞手の軍䞭に乗り入れ、敵将を探し廻った。信長の子だずいうので誰も手を出さず、盞手の歊士も姿を隠したので、喧嘩はそれだけで枈んでしたった。そういう信雄の行跡を承知の䞊で、オルガンチノやフランシスコは信雄をひいきにしたのである。  信雄の来た翌日に長子の信忠が䌚堂を蚪ねた。圌もたた人々が驚くほど、宣教垫たちに芪切にした。圌の垌望で、䌚堂に入り切れぬほどの郚䞋の歊士たちず共に、説教を聞いた。岐阜に来お䌚堂を建お説教するがよい、自分は郚䞋が皆キリシタンになるこずを望んでいる、ず圌は云った。  さらにその翌日に、第䞉子の信孝が蚪ねお来た。圌は長い間宣教垫の蚱に留たり、いろいろずキリスト教のこずをきいた。ロレン゜が満足の行くように答えた。九州にいる宣教垫の数を聞くず、京郜は日本の文化の䞭心だのに䜕故こんなに少ないかず云った。圌もその領囜の䌊勢ぞ神父を䞀人぀れお行きたいずいう垌望を述べた。  広い門が開けた。オルガンチノの心は燃え䞊ったのである。 五 郚将たちの同情、䜐久間信盛ず荒朚村重  が、信長䞀門のみではない。圌の郚将の間にもキリスト教ぞの同情が流れた。䞭でも著しいのは䜐久間信盛である。  信盛は䞀五䞃四幎以来、倧坂本願寺ぞの抌えずしお、倩王寺城にいた。前からキリシタンの同情者ではあったが、䞁床この頃に、河内の叀いキリシタンの䞭心地䞉箇の城䞻及びその子を、反キリストの埒の迫害から救うために、非垞に骚折っおくれたのである。この父子を冀眪に陥れ、キリシタンの䞭心を砎壊しようずしたのは、若江城をシメアン池田䞹埌ず共に守っおいた倚矅尟右近であった。倚矅尟はそれによっお河内のキリシタンを亡がし、京郜のキリシタンの根を絶぀こずも出来るず考え、䞉箇城䞻が信長に察しお叛逆を蚈ったずいう噂をいろいろな方面に拡めた。信盛は䞉箇の城䞻を信じおいたので倚矅尟の奞策を察し、城䞻を近江の䜐久間自身の城ぞ行かせた。そこには、䞉箇の城䞻の孫が人質ずしお預かっおあった。しかし信盛の配慮にかかわらず右近の讒蚀は効を奏した。信長は信盛に、䞉箇城䞻の嗣子マンショを捕えるこずを呜じた。信盛は止むを埗ず、若江城の池田シメアンず共にマンショを぀れお京郜ぞ行き、信長の前でマンショ父子の功瞟を述べ冀眪である所以を匁じた。その熱心によっお䞀応信長の誀解を解くこずが出来たのである。  しかし事件はそれだけでは枈たなかった、倚矅尟右近は右の結果を芋お黙過するこずが出来ず、六人の歊士を説き぀けお味方にならせ、それらを蚌人ずしお信長の蚱ぞ抗議を持ち出したのである。その際倚矅尟は、䞉箇の城䞻の叛逆を立蚌するために、圓人の眲名した曞類を提出するこずが出来るずさえ述べた。六人の蚌人もそれを保蚌した。そこで信長は前の決定を飜えし、垰囜の途䞭にある信盛やマンショを呌び返しおマンショの凊刑を呜じた。ひき返しお来た信盛が、激怒しながら信長の宿ぞ入っお行くず、倚矅尟は既に出発しお居らず、右の六人の共謀者だけが控宀にいた。信盛は䞀人ず぀呌んで、おれが䞉箇の城䞻父子の庇護者だずいうこずを知っおいるか、ずきいた。たた謀叛の曞類ずいうのがあるなら芋せろず迫った。誰䞀人たずもに答え埗るものはなかった。倚矅尟に聞かせられたこずのほかは䜕も知らない、ずいうのが圌らの答えであった。で信盛は信長に謁しお、凊刑に先立ち偎近の重臣二人にマンショを蚊問せしめるようにず懇願した。信長はそれを容れ、父子に察する嫌疑の諞条を問わせた。信盛もその堎に同垭した。マンショはすでに死を芚悟しお祈りを捧げおいたが、蚊問に察しお非垞にしっかりず明晰に答匁し、人々を驚嘆させた。終りに圌は、叛逆がキリシタンの教に背くこずであり、かかる汚名を受けおキリシタンの名を恥かしめるのが死よりも぀らい、ずいう旚をのべた。信長はマンショの匁明に満足し、即座に無眪を認めたのである。しかし目前の戊争の継続䞭は、マンショを父ず共に信盛の城に居らせるこずにした。  城䞻父子の冀眪は解けたが、䞉箇ぞは垰っお来なかったので、䞉箇の城はしばしば危険に陥った。この幎は措氎が倚かったので、䞉箇から倧坂ぞ通ずる川の増氎を利甚すれば、倧坂の本願寺の船隊が䞉箇を攻撃し占領するこずも出来たのである。キリシタンの根拠地ずしお特に䞉箇にはこの危険があった。それに察しお䞉箇を守っおくれたのは、勇猛の名の聞えたシメアン䞹埌であった。しかるにこの危険が去るず、次には信長方に぀いおいるキリシタンの敵たちが、陰謀によっおシメアンを䞉箇から匕き離し、自分たちで䞉箇を占領しようずした。この蚈画は九分通り成功したのであったが、最埌の段階で急遜シメアンを䞉箇に垰し、奇蹟的にキリシタンらを救っおくれたのは、遠く播磚の戊争に赎いおいた䜐久間信盛であった。  䞉箇の城䞻父子は、䞀五䞃八幎の初めには䞉箇に垰るこずが出来、䞉箇の城も安党になった。父は䞀切をマンショに譲っお、自分はただ䌚堂のこずに専念した。䌚堂は非垞に倧きく、構造も奜かったのであるが、圌はなおその䞊に壁画を蚈画した。教化のこずにも熱心で、日曜ず祭日には自分で説教をした。さらに説教し぀぀諞所を巡歎しようずいう志もあったず云われる。䞉箇を守っおくれた若江城のシメアン䞹埌は、功瞟を認められお信長から加増を受けたが、それを貧民救枈に䜿った。これらのこずは皆信盛の庇護の䞋に行われたのであろう。  䜐久間信盛のほかにもう䞀人泚目すべきは荒朚村重である。村重は摂接歊庫郡の郷士であったが、その臣事しおいた池田の城䞻の䞍才なのに぀け蟌み、同僚ず共に党を組んで池田城の実暩を掌握した。和田惟政を奇襲しお斃したのはこの連䞭である。圓時は反信長の陣営にいたが、村重は挞次信長方に傟き、高山ダリペを埌揎しお高槻城䞻たらしめた頃には、はっきりず、信長の手に぀いた。それは䞀五䞃䞉幎四月、信長が足利将軍ずの察決のために急遜䞊京しお来た時であった。信長は村重を重んじ、和田惟政にやらせたず同じように、摂接の統治をやらせた。京郜の教䌚は池田の兵士ず幟分の関係を持っおはいたが、池田地方が深くキリスト教ず関係し始めたのは、村重の䞋に高山父子がいたからである。  村重は、高山父子ずの接觊の初期に、おのれの領民に察しお、暩力を以お䞀向宗ぞの垰䟝を匷制したこずがある。聎埓しないものは眰するずいうのである。これは村重が䞀向宗の狂信者であったからではなく、䞀向宗の僧䟶が巧みに村重を籠絡したが故に起ったこずであった。䞀向宗埒は、宗掟の呜什ずしお、領䞻に特別の幎貢を玍めるこずになっお居り、それが村重をひき぀けたのである。  村重のこの措眮は高山ダリペを匷く刺戟したが、ダリペはそれに反察する代りに、自分の領内で党然反察な自由なやり方をやっお芋せた。それは、キリシタンの劻子のただ掗瀌を受けないものや、蟲民・職工などの未信者に察しお、自由遞択を暙抜しお説教の聎聞をすすめたこずであった。ずにかく、䌚堂ぞ来お説教を聞いお貰いたい。聞いた䞊で、気に入らなければ信者になる必芁はない。信者になった堎合に特別の幎貢などの矩務がないず同じく、ならない堎合にも眰などは加えない。がずにかく説教を聞いお芋なければ、善いも悪いもきめられないではないか、ずいうのであった。䞁床その時、フロむスが高槻に来おいお説教した。最初集たった二癟人は、皆キリシタンずなる決心をした。圌らはさらに芪戚友人を勧誘したので、説教の聎聞を垌望するものはたすたす殖え、䌚堂が狭くお困るようになった。匷制なくしお匷制以䞊に教勢は盛んになっお行ったのである。  村重はこのようなキリシタンのやり方を、䞀向宗の僧䟶の政略的な掻動ず察照し぀぀経隓するこずが出来た。それに加えお、圌の䞊に立぀信長のキリシタンに察する態床や䞀向宗に察する態床が、いろいろな圢で圌に響いたのであろう。䞀五䞃䞃幎に村重が高槻城を蚪ねた際には、キリスト教の匘垃を助けるように動き出しおいる。高山右近には、䞀向宗埒に察しおキリシタンずなるこずを呜ずる䞀札を䞎えた。この呜什䞋に立぀宗埒の数は五䞇以䞊であった。䞀向宗以倖の宗掟のものもキリスト教の説教を聞くように呜ぜられた。この措眮に察しおオルガンチノは謝意を衚するため村重をその城に蚪ねたが、そのずき村重は、領民が悉くキリシタンずなるこずを欲するず語った。䞀向宗ぞの垰䟝を領民に匷制した村重ずは、たるで別人のようになったのである。  村重が信長を蚪ねお来おいた時に、法華宗の信者である倧身数人が、キリシタン宣教垫の远攟を䞻匵したこずがあった。このずき信長は、村重の意芋を聞いた、村重は、自分はキリスト教のこずはあたり知らないが、郚䞋のキリシタンたちは非垞に忠実で、道矩を重んずる、ず答えた。他にもそれに賛成する人々が倚かった。信長も同意芋であるず云った。  ルむス・フロむスは䞀五䞃䞃幎の最埌の日に京郜を出発しお豊埌に向ったのであるが、船たで芋送るロレン゜ずずもに、たず高槻の城で方々から集たった信者たちず別れを惜しみ、翌日高山ダリペも䞀行に加わっお䌊䞹の城に荒朚村重を蚪ねた。村重は圌らを非垞に欟埅し、もし京郜で䜕事か事が起っお信長の庇護を必芁ずするような堎合には、圌も極力揎助するであろうず云った。翌日は、村重の支配䞋にある兵庫たで村重の兵士たちに送られ、村重の指図によっお法華寺に宿った。ここぞも方々から信者が送りに来た。堺の信者たちは船で来た。こうしお兵庫の枯が利甚し埗られるようになったのは、村重のキリスト教庇護の結果であろうず思われる。  しかし䞀向宗ぞの垰䟝匷制から䞀向宗埒のキリシタンぞの改宗匷制に転じた荒朚村重は、䞀五䞃八幎の末に、たた䞀向宗埒ず結んで信長に反するに至った。そのため高山父子は非垞に苊劎しなくおはならなかった。だから村重が教勢拡匵に寄䞎したのは、比范的短かい間のこずであった。  がずにかく、京郜の䌚堂が壁画以倖は党郚萜成し、いろいろ䞖話になった京郜所叞代村井貞勝を䌚堂に招埅しお、ロレン゜の説教を聞かせたりなどした䞀五䞃八幎には、信者の数は急激に殖え、信長䞀家の庇護は十分であり、異教埒の倧名たちさえも、キリスト教に奜意を瀺しお、日本におけるダ゜䌚の仕事の最高朮期に入り぀぀あったのである。 第十䞀章 キリシタン運動の最高朮 䞀 信長の鉄砲隊ず艊隊  信長がキリシタンの宣教垫たちを庇護したのは、新しい宗教を求めたが故ではなくしお、ペヌロッパの文明を求めたが故であった。その態床は、最初にフロむスに逢っお以来䞀貫しおいる。圌はフロむスにおいおペヌロッパ文明の尖端に接觊するず共に、この人物の担っおいる象城的な意矩に非垞に匕かれたのである。埓っお圌はこの人物を奜み、それを理解しようず努め、その事業を保護した。その態床を圌自身は、倖囜人であるが故に庇護する、ずいう颚に云い珟わしおいる。圌は仏僧の堕萜を事毎に眵っおいたし、たたその埌思い切った仏教匟圧を始めたのであるから、それず察照しお圌がキリシタンの宣教垫の真面目な態床を賞讃したり、たた圌らを特別に優遇したりしたこずは、ずもすれば圌の信仰の芁求ず結び぀けお解釈されるこずもあったようであるが、しかし圌は信仰などを求めおいたのではない。仏僧の堕萜や宣教垫の真面目な掻動は、圓時にあっおは明癜な客芳的事実であっお、それを認めたこずは、䜕ら䞻芳的芁求の蚌拠ずはならない。信長は宣教垫ず䌚談する毎に、䞖界に぀いおの新しい知識を埗ようずはしおいたが、救いを求めるような態床を瀺したこずはない。仏教に代っおキリスト教が党日本に匘垃しおも、そのキリスト教が圌の庇護の䞋に栄えるのであり、埓っおキリスト教埒は決しお圌に反抗などはしない、ずいう芋ずおしのある限り、圌はむしろそれを喜んだであろう。しかしその際にも圌自身が信仰を必芁ずするに至ったかどうかは疑問である。  信長が匷い関心を抱いたのはペヌロッパの新しい知識である。そうしおそれは、この戊乱の時代にあっおは、先ず歊噚に関する知識ずしお珟われおくる。ペヌロッパ人ずの接觊を蚘念するものは、皮子島、即ち鉄砲の知識であった。それは迅速にひろたり、九州西北沿岞では早くから戊争に圱響を䞎えおいる。がそれを戊術に取り入れお、䞀぀の決定的な勝利の圢にたで具䜓化するこずが出来たのは、ほかならぬ信長なのである。䞀五䞃五幎の長篠の戊勝がそれであった。これは党囜的に匷い刺戟を䞎えたであろう。䞀五䞃八幎に曞いたフランシスコの曞簡によるず、倧坂の本願寺の城内には八千の銃があったずいう。長篠における信長の戊術は、もう信長の敵が䜿っおいるのである。  それに加えお、本願寺を埌揎する毛利氏は、すでに信長に先んじお、有力な海軍を創蚭しおいた。䞀五䞃六幎の倏、毛利氏の送った兵粮船が数癟艘倧坂ぞ近づいたずき、信長方の軍船はそれを迎撃したが、毛利方の「ほうろく火矢」で散々な目に逢った。兵粮船隊は悠々倧坂に入枯し、兵粮を倧坂城ぞ入れお、悠々ずしお垰っお行った。淡路の岩屋城は毛利の海軍の根拠地であった。倚分この圢勢に刺戟されたのであろう、信長は志摩の囜鳥矜の城䞻九鬌嘉隆に呜じお、倧きい軍艊を造らせた。嘉隆は六隻、滝川䞀益が䞀隻造ったが、それらは鉄匵りの船で、長さ十二䞉間、幅䞃間であった。䞀五䞃八幎倏には九鬌嘉隆がこの䞃隻の艊隊を率いお䌊勢湟から倧坂湟ぞやっお来た。乗員は五千人であったずいう。途䞭雑賀などの䞀揆が数癟艘の兵船で襲撃しお来たが、九鬌の艊隊はそれを近くぞひき぀け、やにわに「ほうろく火矢」即ち倧砲を攟っお撃砎したのである。その時敵船䞉十䜙艘を捕獲したらしい。艊隊は盂蘭盆の日に堺に着き、翌日倧坂枯の封鎖を開始した。この鮮やかな成瞟に気をよくした信長は、二カ月ほど埌に、わざわざ艊隊を芋るために倧坂にやっお来お、䜏吉の沖で挔習をやらせたりなどした。  この艊隊が堺に着いた時には、䞁床オルガンチノが居合わせお、その報告を曞いおいる。それによるず、これらの船は日本で最も倧きく、たた最も立掟なもので、ポルトガルの船に䌌おいる。日本でこんなものを造るずは驚くのほかはない。信長がこれを造らせたのは、倧坂枯封鎖のためであるから、倧坂の垂はもう滅亡するであろう。船には倧砲を䞉門ず぀茉せおいるが、䜕凊から持っお来たものか解らない。豊埌の倧友が数門の小砲を鋳造せしめたほか、日本には倧砲はない筈なのである。自分は船ぞ行っお倧砲やその装眮を芋た。ほかに無数の粟巧な倧きい長銃も備えおあった。  オルガンチノに解らなかったように、日本の歎史家にも、この倧砲の出所は解らないのであるが、『囜友鉄砲蚘』によるず、信長は元亀二幎䞀五䞃䞀幎に秀吉を通じお二癟目玉の倧筒を、囜友鍛冶に造らせたずいうのであるから、䞀五䞃䞃・八幎の頃に日本の鍛冶工が倧砲を䜜り埗たずいうこずは、さほど䞍思議ではあるたい。オルガンチノは圓時の貿易関係を熟知しおいたであろうし、埓っおポルトガル人が倧砲を茞入したのでないこずは確実であろう。宣教垫たちが日本に倧砲はないず信じおいた間に、い぀の間にか宣教垫たちの県の届かない毛利の領囜や信長の領囜においお、倧砲の補造がはじたっおいたのである。これが恐らく築城の䞊にも倧きい倉化をもたらしたのであろう。倧砲を備えた軍艊の䜿甚においおは毛利の方が䞀歩先であるが、信長は鉄匵りの倧きい軍艊の補造によっお毛利の艊隊を圧倒したのである。  この信長の艊隊は、圓時の日本においおペヌロッパの知識を摂取する努力の尖端の姿であった。信長の「倖囜人」に察する関心や庇護は決しお単なる奜奇心ではなかったのである。がそういう実甚の範囲に止たらず、さらに広汎な䞖界ぞの芖圏を開こうずする衝動も圌のうちには動いおいた。それを瀺すものは宣教垫たちずの䌚談の時の話題である。それは宣教垫たちが、二次的な重芁でない事柄ずしお、あたり詳现には蚘述しおいない点であるが、しかし信長には信仰よりも重倧な事柄であったであろう。䞍幞にしお信長の呚囲の知識人は、信長ほどに芖圏拡倧の芁求を持たず、埓っお、政治家であり軍人である信長がそういう知識欲の先頭に立たざるを埗なかった。しかもその信長に察しおペヌロッパの知識を媒介する地䜍にあったダ゜䌚士たちは、あたりにも信仰ず䌝道のこずずに偏より過ぎた人々であった。比范的関心の範囲の広かったフロむスずいえども、ダ゜䌚士ずしおの狂熱は今から芋れば䞍思議なほどである。それらのこずを思うず、先駆者ずしおの信長ずいう人物には、よほど芋なおさなくおはならない面があるず思われる。 二 荒朚村重の背叛ず高山右近の去就  信長の艊隊が倧坂枯を封鎖し、信長の陞軍が播磚における毛利の勢力を、着々ず圧迫し始めた䞀五䞃八幎の暮に、摂接の領䞻荒朚村重は再び逆転しお䞀向宗埒ず結ぶに至った。これは本願寺や毛利の勢力に再び掻を入れる重芁な出来事であった。䜕故村重がこの挙に出たかは信長自身も理解に苊しんだらしく秘曞の束井友閑や明智光秀などを掟遣しお村重ず懇談させ、䞀時は玍たるかに芋えたが、村重郚䞋の諞将が沞き立っお遂に匕きずっお行ったのである。恐らく本願寺偎の必死の働きかけが利いたのであらう。信長は早速京郜に来お蚎䌐をはじめたが、村重は䞭々頑匷で、翌䞀五䞃九幎の秋に至るたで十カ月の間䌊䞹有岡城に拠っお反抗を続けたのであった。  この戊争の最初に先ず問題ずなったのは、キリシタンの城高槻城であった。城䞻の高山父子は、村重の埌揎によっおその地䜍を埗た関係䞊、村重に背くわけには行かなかった。のみならずダリペの嚘即ち右近の効ず、ダリペの孫即ち右近のひずり児ずが、人質ずしお村重の手蚱に眮いおあった。だから信長が摂接ぞ攻め入ろうずした時、高山父子は高槻城に拠っお信長の軍を防いだのである。城は広い堀に囲たれ、堅固な城壁を持っおいお、䞭々萜ちそうにもなかった。そこで信長はオルガンチノに呜じお高山右近を説埗させようず思い぀いたのである。オルガンチノは高槻城に行っお説いお芋たが、党然効果がなかった。するず信長は、宣教垫たちや信者たちを山厎の陣営に呌び぀けた。その様子でキリシタンたちは事によるず殺されるかも知れないずいう予感を抱いた。そういう連䞭に察しお信長の秘曞の束井友閑は、信長の意を次のように䌝えた。汝らキリシタンたちは、高槻城䞻高山右近に説いお、盎ちに信長の味方にならせるべきである。右近はそれによっお自分の子ず効ずを倱うであろうが、その代り信長の領内の神父及び信者を助けるこずができる。もしそうしないならば、信長は盎ちに右近の県前においおキリシタンたち䞀同を十字架にかけるであろう。――この宣蚀はキリシタンらを泣かせた。圌らは信長が村重の謀叛による圢勢の逆転を非垞に重倧芖しおいるこずを知っおいるず共に、ゞュスト右近の降服の困難な事情をも知っおいた。だからその間に挿たった宣教垫たちが、先ず殺されるこずになるだろうず考えざるを埗なかったのである。  この時右近ずの談刀には、オルガンチノたちに䜐久間信盛や矜柎秀吉や束井友閑なども附き添っお行ったらしい。ゞュスト右近は信長の決心を聞いお、あっさりず城を投げ出すこずにした。圌は郚䞋のキリシタン歊士䞀同を集めお次のように降服の理由を述べた。自分が城を開け枡すのは、それによっお利益を埗ようず思うからではない。自分の子ず効ずの呜を以お倚数の神父やキリシタンたちの呜を賌うのは、われらの䞻に仕える所以だず考えるからである。神父やキリシタンたちぞの愛のためには、自分は䞀切のものを捚おるのみならず、おのれの呜を投げ出すこずをも蟞せない、ず。こうしお右近は、城を捚おるず共に䞖を捚お、神父のもずにむルマンずしお働こうず決心したのであった。  この右近の措眮は、信長の陣営でもキリシタンの間でも、非垞な喜びを以お迎えられた。それは信長の戊略的地䜍を有利に導くものであったず共に、たたキリスト教のための「生きた説教」ずもなったのである。前には知らなかった倖囜人を救うために、自分の肉芪の愛を捚おる、そういう慈悲の行をキリスト教はさせたのだ、ずいうこずが、広く䞖間に知れわたった。信長も非垞に喜んで、キリスト教保護の朱印状を改めお亀付し、二぀の町を遞んでキリシタンに免皎の特暩を䞎えた。信忠初め他の倧身のうちにも、キリシタンずなるこずを玄束するものが少なくなかった。  この事件は信長のキリスト教に察する腹を割っお芋せたように芋える。降服しなければお前の重んじおいる神父らを殺すぞ、ず云っお右近を脅した態床は、キリスト教を戊争の道具に䜿ったものにほかならない。『信長公蚘』によるず、信長はこの時神父に察しお、右近口説萜しを匕き受けろ、もし匕き受けなければ、デりスの宗門を断絶する、ず云っお迫ったこずになっおいる。この方が䞀局露骚である。神父フランシスコがその曞簡のなかで、信長の取った策は「われわれにずっお非垞に苊痛であった」ず認めおいる所を芋るず、䜕かそのようなこずがあったのであろう。しかしそれにもかかわらず、フランシスコの報告のなかには、信長を非難する調子が珟われおいない。信長は右近の心情を諒ずしたのであるが、しかし、おのれの領土党䜓の安危にかかわる倧問題であったために、敢お道理に察しお県を閉じたのだ、ずいう圌の蚘述は、幟分信長を匁護しおいるようにさえも取れる。「小鳥を殺し倧鳥を助ける」ずいう右近の決断が、信長ず宣教垫ずの間に醞し出されたかも知れぬ暗雲を、未然のうちに防いだのである。  このように、肉芪を犠牲にするずいう右近の決意は、キリスト教のために倧きい貢献をしたのであるが、しかしその犠牲そのものは、遂に捧げられずにすんだ。ずいうのは、父のダリペが、その嚘ず孫を救ったのである。圌は嚘や孫を芋捚おる気持になれず、高槻の城を出お、䌊䞹の村重の城ぞ奔った。嚘や孫が死すべきであるならば、おのれも運呜を共にしようず圌は考えおいた。䌊䞹の城内にいた倚数の芪戚も、郚䞋を぀れお圌のもずに集たった。そうなるず、子の右近は村重に叛いたが、父のダリペは叛かなかったずいうこずになる。人質を凊分すべき理由は半ば消倱したのである。だから村重も、事を荒立おようずはせず、知らぬ振りをしお攟任しおしたったのであった。  がそうなるず高山ダリペは、荒朚村重の味方に぀いお信長に叛いたずいうこずになる。その報いは信長の方から受けなくおはならない。䞀幎の埌、䌊䞹の有岡城が陥萜したずき、信長はかなり残酷な倧量凊刑を行わせた。ダリペも勿論その䞭に含たれるであろうず考えられ、圌を敬愛するキリシタンたちは熱心に圌のために祷っおいた。しかし幞いにも信長の報いるずころは非垞に寛倧であった。圌はダリペのために呜乞いするものの蚀葉に耳を傟け、圌のために肉芪の犠牲を蟞せなかった右近のためを思うお、ダリペの死刑を取りずめ、幜閉するに止めたのである。やがお圌は右近の蚱に䜿者を送っお、ダリペの攟免を䌝えた。ダリペは死刑に凊すべきものであるが、右近に察する愛のためにその刑を免ずる。目䞋幜閉䞭の牢を出お劻ず共に暮らしおよい。䞡人には生掻の資を䞎える。宥免状は倫の蚱に赎く劻に持たせおやろう、ずいうのであった。こうしお高山ダリペは越前の柎田勝家に預けられ、同地で盎ぐに犏音䌝道の仕事を始めた。  高山右近も高槻城䞻に埩せられたのみならず、前の二倍の領地を䞎えられた。その子や効も無事であった。䞀五八〇幎には、その領内のキリシタンは䞀䞇四千に達した。高山家には反っお繁栄が来たのである。 䞉 安土宗論  荒朚村重に察する長期の攻囲が行われた䞀五䞃九幎には、もう䞀぀䞖間の耳目を聳動する事件が起った。それは安土宗論ずしお知られおいるものである。初めは法華宗ず浄土宗ずの間の喧嘩に過ぎなかったのであるが、信長はその機䌚を巧みに利甚しお、手ひどく法華宗の迫害を断行したのであった。  この宗論の行われたのは䞀五䞃九幎六月二十䞀日倩正䞃幎五月二十䞃日であるが、その月の終らぬ内にオルガンチノはフロむスに宛おおこの事件を詳现に報じおいる。埓っおこの曞簡は安土宗論に関する珟存の最も叀い蚘録ず云っおよい。その内容は信長蚘を通じお普通に知られおいるこずずほが䞀臎しおいる。問答の箇条曞たでもそうである。  事の起りは、坂東の浄土宗の僧が安土で数日間説教をやっおいた垭ぞ、安土の町の䞀人の法華宗埒が行っお、説教の途䞭で質問を始めたこずであった。説教垫はそれに察しお、俗人ず法論しおも結着は぀かない、誰か法華宗の孊僧を連れお来れば答匁しよう、ず答えた。法華宗埒はこの答を憀り、自分の質問に答え埗ないのならばその座を䞋りるがよい、ず云っお、説教垫を高座からひき䞋ろし、衆人の前で䟮蟱を加えた。浄土宗埒はこの乱暎を信長に蚎えた。そこでこの喧嘩が䞡宗掟の間の公の争いずなったのである。法華宗埒は䞡宗の間の蚎論を芁求し、浄土宗埒もそれを拒みはしなかったが、信長は遠方から孊者を集めるこずの困難を理由ずしおそれを止めさせようずした。しかし法華宗埒は匷硬に蚎論を䞻匵し、孊僧は遠方から呌ぶ必芁なく、京郜の人だちで沢山であるず云った。そうしお、もし負ければ頞を切られおもよい、ずいう䞀札を差出した。  そこで信長は日を定め、四人の奉行や、刀者を任呜した。京郜からは法華宗の䞻立った僧䟶が呌ばれ、倚数の檀埒ず共にやっお来た。浄土宗偎では、智恩院の僧が䞀人来ただけであった。問答の衝には、安土の浄土宗の僧が圓った。  問答は法華経の暩嚁ず念仏の暩利ずをめぐっお行われたのであるが、最埌に浄土宗偎が、「もし法華経以前の経を悉く未顕真実ずするならば、方座第四の劙をも捚おるか」ず問うたずき、法華宗偎は答匁に詰った。それを芋お、浄土宗の僧は、第四の劙の意味を説明した。そのずたんに、刀者も聎衆もどっず笑い出した。法華宗の僧たちは袈裟衣をはぎ取られ、鞭うたれ、捕瞛された。富裕な檀埒も数人捕えられた。矀集は非垞な混乱に陥ったが、やがおその堎ぞ信長が出お来お、蚎論には加わっおいなかった法華宗の僧普䌝ず、最初争いをひき起した法華宗埒ずの二人の銖を斬らせた。その堎にいたマヅず小西隆䜐の䞀子ずは、この日の法華宗埒の敗北が曜おない甚だしいものであったこずをオルガンチノに向っお蚌蚀したのである。  この報道が安土の町にひろたるず共に、早速法華宗の寺院や檀埒の家の砎壊が始たった。京郜から勝利を確信しお芋物に出掛けた法華宗埒たちは、捕えられるこずを恐れお物をも食わずに逃げ歩いた。隆䜐の子もその䞀人であった。その日のうちに京郜ぞも隒ぎが䌝わった。䌊勢、尟匵、矎濃、近江の四カ囜の法華寺院は悉く掠奪された。前埌を通じお掠奪により法華宗埒が倱ったずころは、黄金䞀䞇を超えるだろうず云われおいる。  数日埌に信長は人を掟しお、京郜の法華宗諞寺院に巚額の眰金を課した。捕えられた䞉人の僧ず五人の檀埒ずは、なお十数日の間釈攟されなかったが、法華宗偎から差出した起請文は所叞代村井貞勝の手によっお公衚された。それは宗論においお法華宗の負けたこずを承認し、今埌他宗に察しお論難攻撃を加えないこずを誓ったものである。  十数幎来キリスト教に察しお最も積極的に迫害の努力を続けお来た法華宗は、こうしお殆んど倒れるばかりの所たで抌し぀められた。オルガンチノは倧喜びで早速この報道を曞いたのである。  信長蚘では、普䌝たちの銖を斬らせる堎で信長の述べた蚀葉を詳しく䌝えおいる。圌は先ず争をひき起した男の䞍届を責め、぀いで普䌝の法螺吹き・むンチキ垫ずしおの性栌や所行を数え䞊げ、䞡人を凊分したあずで、宗論をやった法華僧たちに向っお次のように云っおいる。お前たちは働かずに食わせお貰っおいながら、孊問もよくしないで、蚎論に負けたのは、甚だ䞍郜合である。しかし法華宗の僧䟶は法螺を吹く癖があるから、宗論には負けなかったのだなどず云い出すに盞違ない。だから今床の宗論で負けたこずを承認し、今埌他宗を論難攻撃しないず誓った曞附を差出しお貰いたい、ず。  信長のこれらの蚀葉をどうしおオルガンチノが䌝えなかったかは解らぬ。隆䜐の子たちは萜ち぀いおそれを聞く䜙裕がなく、埓っおオルガンチノにも話さなかったのかも知れない。しかしこの信長の蚀葉に察応する起請文は、村井貞勝に芋せお貰ったらしく、その写しをフロむスに送っおいる。  ずころで、この安土宗論に぀いおは、裏面の事情が問題ずされおいる。宗論は信長の術策だずいうのである。京郜の法華宗の僧䟶たちは、䜕も知らないでいるずころぞ、突然、浄土宗ずの宗論だず蚀っお安土ぞ呌び出された。そうしお奉行から次のような二者択䞀の返答を匷芁された。宗論をやるならば、もし負けた堎合には京郜及び信長領囜䞭の寺々を砎华せらるべしずいう䞀札を差出した䞊で、やるがよい。それが迷惑であるならば、問答をせずにこのたた垰っおもよい。宗論をやるか、やらぬか、䞀぀を答えよ、ずいうのである。法華僧たちはそれに答えるこずを拒んだ。自分たちは呜什によっお出向いお来たのであっお、宗論をするずかしないずかは自分たちの方からは云えぬ。するもしないもただ呜什に埓う、ずいうのである。しお芋るず、法華宗埒があくたでも宗論を䞻匵したずいうのは嘘である。負けた堎合に寺を砎华されおもよいずいう曞附も差出さなかったのである。宗論は信長の呜什によっお行われた。  圓日の蚎論においおも、法華宗が負けたずいうのは信長の现工である。因果居士の批刀によるず、蚎論の成瞟では浄土宗の方が悪かった。それを浄土宗の勝にしたのは、信長の意を受けた因果居士の仕業である。それを因果居士自身が告癜しおいる。  しお芋るず安土宗論は、法華宗に打撃を䞎えようずいう信長の意図の䞋に仕組たれた狂蚀であっお、公平な宗論ではなかった、ずいうこずになる。或はそうであったかも知れない。しかし京郜の孊僧たちが宗論を発起したのでないずいうこずは、法華宗がこの争いをひき起したのでないずいうこずの蚌明にはならないのである。安土の法華宗埒が、先ず浄土宗埒に察しお攻勢に出た。これが事件の起りであり、そうしお、信長の関知しない偶発の事件である。浄土宗偎は、孊僧を぀れお来れば返答する、ず答えただけであっお、あくたでも受身だずいっおよい。それに察しお法華宗埒が䟮蟱を加えたずすれば、その䟮蟱は眰せらるべきであるか、或は圓然の所為ずしお是認せらるべきであるか、それが争点になる。蚎えられた法華宗埒は、おのれの所為が正圓であったこずを立蚌するために、孊僧をしお蚎論せしめなくおはならなかったのである。埓っお宗論をあくたでも䞻匵したのは安土の法華宗埒であろう。宗論に負けた堎合、銖を斬られおもよいずいう䞀札を差出したのも、安土の法華宗埒であろう。京郜の法華僧たちは、これらのこずが定たった埌に呌ばれたのである。この関係はオルガンチノの報告によっお明かに知り埗られるず思う。そうであるずすれば、京郜の孊僧たちに察しお、宗論をするかしないかの遞択を迫ったずいうこずも、極めお理解し易くなる。圌らは争いをひき起した法華宗埒の䞍謹慎を詫び、宗論をしないで匕䞊げるこずも出来たのである。しかし、それは法華宗の敗北を意味するが故に、圌らはなし埗なかった。それならば、争いをひき起した法華宗埒の責任をひき受けお宗論をするず䞻匵すべきであるが、その堎合には、銖を斬られおもよいず誓った法華宗埒の責任をもひき受け、法華宗の寺院を砎华せられおもよいず誓わなくおはならぬ。これもたた圌らのなし埗ないずころであった。信長は法華宗埒の始めた争いを巧みに利甚しお法華宗をこの窮地に远い蟌んだのである。必ずしも暗い術策を匄したわけではない。  さおいよいよ宗論をやらせるに぀いお、信長が初めから法華宗を敗北させるようにもくろんでいたずいうこずは、恐らく本圓であろう。皮々雑倚な説を包含する倧乗経兞の文句を、論蚌の有力な根拠ずする仏教の論議にあっおは、そういうこずは比范的容易である。だから因果居士もそれをひき受けたのであろう。結局浄土宗偎は、「方座第四の劙」ずいう劂き、どの経にあるか解らない文句を持ち出しお法華宗偎を閉口させ、因果居士がそれを認めお法華の負けを宣したのである。それは舞台効果の十分な堎面であった。オルガンチノはそれをマヅずか隆䜐の子ずかの劂きその堎にいた人々から聞いたのであるから、信甚しおよいであろう。最埌の瞬間に、刀者を初め聎衆䞀同が倧笑した、ずいう叙述は、オルガンチノの曞簡ず信長蚘ずが奇劙なほどによく䞀臎しおいる点である。  以䞊のように考えるず、安土宗論に぀いお普通に知られおいるずころは、ほが事実に近い。それは信長の仏教匟圧の䞀぀の珟われずしおの法華宗匟圧であった。法華宗のキリスト教に加えた圧力が倧であっただけに、この事件がキリシタンに䞎えた喜びも倧であった。圌らにずっおは信長は、この皮の所行のみによっおも讃矎せらるべきものずなった。 四 巡察䜿ワリニャヌニの枡来  荒朚村重の謀叛ず安土宗論ずのほかに、もう䞀぀䞀五䞃九幎における倧事件は、巡察䜿アレッサンドロ・ワリニャヌニの枡来であった。  䞀五䞃〇幎トルレスのあずを受けお日本ダ゜䌚の指揮を取ったカブラルは、トルレスずはかなり性栌の異なる人であった。トルレスはシャビ゚ルず同じく日本人に信頌し、日本人の生掻のなかに融け入るこずを念ずした。だから苊痛を忍んで日本の衣食䜏の様匏におのれを適応させようず努めた。颚習の盞違の劂きは魂の救枈の前には末梢的なこずに過ぎなかったのである。日本人を宣教垫ずしお逊成するこずも圌の熱心に努めたずころであっお、ロレン゜、ダミダン、ベルシペヌル、アントニオ、コスモ等々、二十六人の優れた日本人が、掻溌に日本人教化の実際の成瞟をあげおいた。しかるにカブラルは、トルレスのような柔軟な心の持䞻でなく、偏狭で、䞻芳的な刀断を固持する人であった。圌は日本人教垫がこのたた䌞びお行けばやがおペヌロッパ人教垫を芋䞋すに至るであろうこずを怖れ、その成長を阻止する態床に出たのである。その垃教の態床もたた、トルレスのように広く政治的な芋透しを持ったものでなく、むしろ狂熱的に殉教を煜るずいうような猪突的なものであった。そういう点から云っお、カブラルの指揮はトルレスよりもよほど芋劣りのするものであった。圌の圚任の末期には、もず十八人であったダ゜䌚士が五十五人に殖えおいるが、しかし特に圌の名に結び぀いた事瞟は、倧友宗麟の掗瀌のほかには、殆んどないず云っおよい。  しかるにワリニャヌニは、䞀五䞃九幎䞃月末日本に着いお口の接で宣教垫䌚議を招集した時に、盎ちに「シャビ゚ルの方針に垰れ」ず唱道し始めた。日本人は信頌に倀する。䌝道の䞻なる目的は、殉教に走るこずではなくしお、少しでも倚くの魂をキリストに近づけるこずである。それには日本人を教育し日本人の教垫を出来るだけ倚く䜜らなくおはならぬ。かかる考のもずにワリニャヌニは少幎のための孊校セミナリペや専門の孊林コレゞペなどの蚈画を暹お、有銬には早速セミナリペを造った。これはカブラルの方針ずはたるで逆であった。ワリニャヌニはこの長老の頑固な心が、恐らく䞍幞な結果を生ずるであろうずさえ考えおいた。埓っお、新しく日本に蚭眮した副管区長ビセプロビンシアルに圌が遞んだのは、䞀五䞃二幎以来カブラルの指導の䞋に九州で働いおいたガスパル・ク゚リペであった。 五 石山本願寺の開城、安土城の完成、安土のセミナリペの開蚭  以䞊のような情勢のもずに、䞀五八〇幎にはいろいろなこずが䞀緒に起った。䞃幎の間も信長が攻囲を続けおいた倧坂石山の本願寺の開城、――安土城造営の完成、――安土における宣教垫通の建築、――少幎のための孊校セミナリペの開蚭、などがそれである。これは信長の勝利が、ペヌロッパの知識ぞの接近ず時を同じゅうしお起ったこずを意味しおいる。  石山本願寺は、信長の艊隊に海䞊を封鎖され、荒朚村重の没萜、秀吉の播磚地方制圧などによっお、毛利氏ずの陞䞊の連絡も絶たれおしたったために、䞀五八〇幎の春、朝廷の調停によっお、遂に、信長ず和を講ずるに至った。その条玄は、倧坂城を守った人々を凊眰しないこず、諞囜の末寺を砎壊しないこず、本願寺の領地ずしお加賀二郡を残すこず、その代りこの幎の倏に倧坂及び附近の二城を明け枡し、人質を差出すこずなどを含んでいた。本願寺光䜐は間もなく石山を出お玀䌊の雑賀に退いたが、子の光寿は信長を信頌せず、父に背いお信長ぞの反抗を続けるかに芋えた。いよいよ開城すべき倏の頃には、信長は軍隊をひきいお京郜たで出お来た。石山の城は䟝然ずしお氎の充満した広い堀に䞉重に囲たれ、城䞭にはなお䞀䞇の戊士が立おこもっおいた。が結局光寿も反抗を断念し、条玄通りに開城が実珟された。これによっお信長の毛利氏に察する戊争は非垞に有利になった。ず共に、宣教垫たちは、キリスト教の䌝道が容易になったず感じた。䞀向宗は今やキリスト教の「最倧の敵」ずなっおいたからである。  信長やその子たちのダ゜䌚に察しお瀺した奜意は、䞀向宗に察する敵意ず比䟋しお高たった。オルガンチノたちが蚪ねお行くず䜕時も非垞に機嫌が奜かった。しかし信仰の方ぞ近づいお行ったずは芋えない。この幎に信長は倚数の倧身たちの列垭しおいる前でオルガンチノずロレン゜を盞手にしおいろいろの質問を詊みたこずがあるが、その時圌は神デりスや霊魂の存圚に぀いおの疑惑をはっきりず衚癜したらしい。圌岞の䞖界や地獄極楜のこずは仏僧たちも説いおいるずころであるが、しかしそれは民衆を善導するための方䟿に過ぎたい。それが圌の考であった。それに反しお、地球儀を持ち出させ、それに関しおオルガンチノの䞎えた説明には、非垞に感服したらしい。ペヌロッパから日本に来る旅皋の説明などは特に圌を喜ばせた。それほどの旅行をするにはよほどの勇気ず意志が必芁である。神父たちがそのような冒険をしおここたでやっおくるのは、よほどの倧望があるからであろう、などずも云った。この疑問を解くためには䞖界の倧勢を理解しなくおはならない。そうしおその衝動が圌のうちには動いおいたのである。  安土城の造営はこの幎の初倏に完成した。その機䌚に信長は䞀般民衆の参芳を蚱した。無数の人々が芋物に集たった。オルガンチノたちもたた安土に赎いた。信長が安土に䌚堂や宣教垫通の建築甚地を䞎えるであろうかどうかをためすためである。もし信長がこれらのものの建築を宣教垫に呜じたず日本囜䞭に知れ亘ったならば、キリスト教の日本における地䜍は非垞に確乎ずしたものになるであろう、そう圌らは考えた。  信長はオルガンチノたちの参芳を喜び、非垞に欟埅した。オルガンチノはすかさず、信長の開いたこの著名な町に䌚堂や宣教垫通を建築したいず申出た。それは信長の方でも望むずころであった。そこでいろいろず配慮した末、五月の末にキリシタン偎の垌望に埓い、山䞋の新しい埋立地に広い地所を䞎えた。そこに壮麗な宣教垫通や䌚堂が出来れば、この郜垂の装食になる、ず圌は云った。  信長は早速この建築を始めるようにず泚文した。そうなるずこの建築は教䌚の名誉や信甚にかかわる問題ずなった。キリシタンの倧身はオルガンチノに早く始めるようにず迫った。高山右近なども、䞀切をひき受けるからず云っお熱心にすすめた。幞いこの頃オルガンチノは、ワリニャヌニの呜によりセミナリペを開蚭するために、京郜に二階建の倧きい家を数軒建おる予定で、材朚の切り蟌みをすでに終ったずころであった。で圌はこの材朚を安土に運び、早速壮麗な宣教垫通を建おるこずにきめた。倧身らはその人倫を出した。高山右近だけでも千五癟人であった。こうしお材朚ず瓊ずを運び、盎ちに組み立おお行ったので、䞀カ月ほどで出来䞊っおしたった。しかもその家は安土の町では信長の城を陀いおは最も立掟な建築で、第二階には䞉十四の座敷があったずいう。信長はそれを芋お非垞に満足し、オルガンチノに感謝の意を䌝えさせた。しかし䌚堂の方はそう迅速に建おるこずは出来なかった。  この宣教垫通の建築は、オルガンチノが予想したように、非垞に宣䌝効果の倚いものであった。仏僧や仏教埒たちは、神父らに敬意を衚するようになり、歊士たちの䞭にも、神に関心を抱くものが殖えた。そういう情勢の䞋に、この秋にはすでに、安土においお少幎の孊校セミナリペが開かれ、貎族の少幎玄二十二人が集たった。その倧郚分は、新築の宣教垫通に䜏んでいた。巡察䜿ワリニャヌニが来れば、セミナリペの建築をも始める筈であった。 六 ワリニャヌニの京畿地方巡察  巡察䜿ワリニャヌニは、䞀五八䞀幎䞉月八日に、ルむス・フロむス、ロレン゜など、神父四人、むルマン䞉人を䌎っお臌杵を発し、䞉月十䞃日、埩掻祭の週の始たる前に堺に着いた。同行のフロむスは䞉幎前から豊埌にいたのであるが、ロレン゜は前幎の秋、巡察䜿の䞊京を促すために、京郜から迎えに行ったのであろう。それほど京郜地方ではワリニャヌニの䞊京を埅ちこがれおいた。堺ではフラガタに䌌た船五艘を準備しお、豊埌たで迎えに行こうずした䜍である。  この時のワリニャヌニの旅行を、これたでの宣教垫たちの旅行に比べれば、実に雲泥の盞違があるずいっおよい。ワリニャヌニの䞀行を乗せたのは倧友宗麟の提䟛した倧きい船である。それには二十五歳以䞋の青幎挕手䞉十人が乗り組んでいお、必芁ずあれば飛ぶように早く挕ぐこずも出来たし、たた兵士たちも乗り蟌んでいた。海賊の危険に察しおは歊装するこずも出来た。そういう船で送られおくるずいうこずは、宣教垫の瀟䌚的地䜍が劂䜕に高たっお来たかを瀺すものである。その代り宣教垫たちの財宝をねらう海賊の掻動や、毛利の海軍の危険も倧きかった。䞞亀沖の塩飜諞島では危く難を免れるこずが出来たが、兵庫附近では、遂に海賊船の远跡を受け、堺たでたるで競挕のような圢で力挕しお来た。堺に入枯しおからも、それらの海賊船に取巻かれお容易に荷圹が出来なかった。堺の富商日比屋良慶は、郚䞋䞉癟人に鉄砲を持たせ、海岞からワリニャヌニの船を守った。結局良慶らの調停で倚額の償金を出すこずになった。それほどこの航海は倧げさだったのである。  䞊陞埌の歓迎もワリニャヌニの驚くほどであった。質玠を重んずるダ゜䌚士ずしお、ワリニャヌニは、自分に察しこのように華々しい名誉ず奜意ずを衚わす必芁はない、ず云っお断わろうずしたが、日本のキリシタンたちは抌し返しお云った。神父たちはおのれの利益には少しもならないのに、倚額の経費を䜿い、倚倧の艱難ず危険ずを冒しお、遠い所から救いの道を説きに来られた。われわれは曜お、い぀わりの教を説いおいる坊䞻たちに察しおすら倧きい敬意を払っおいたほどであるから、たこずの教を説く神父たちのこの献身的な努力に察しおは、出来るだけの敬意を払い、奉仕に぀ずめなくおはならぬず。この道理ある蚀葉にはワリニャヌニも埓わざるを埗なかった。で圌は、日本の習慣に埓う、ずいう口実のもずに、盛んな歓迎を甘受するこずにした。  このように瀟䌚的に顕著な珟象ずなったワリニャヌニの畿内巡察は、日本におけるキリシタン䌝道史の䞊では䞀぀の頂䞊をなすものず芋およいであろうが、日本ずペヌロッパずの文化的接觊ずいう点から芋おも、恐らく最高朮の時期を瀺すず云っおよいであろう。この時には、ペヌロッパ文化の摂取に察する肯定的な機運が最も高たっおいた。埓っお日本民族に䞖界的芖圏を䞎え、近代の急激な粟神的発展の仲間入りをさせるずいう望みが、ただ十分にあった。セミナリペの開蚭は、萌芜的な状態ではあったが、その望みを象城的に珟わしたものである。事によればそれは囜民的事業ずしお発展し、党然別趣の近代日本を䜜り出しおいたかも知れないのである。  ワリニャヌニが堺に䞊陞したのは、倚分䞉月十䞃日の倕方であろう。埅ちかたえおいたキリシタンは盎ちに八方ぞ䜿を掟したので、同倜盎ちに結城、池田䞹埌、その他のキリシタン歊士がやっお来た。烏垜子圢城のパりロ文倪倫が教䌚に寄附した家は、日比屋の向い偎にあったが、ワリニャヌニはそこで翌々日ミサを行った。翌々日䞉月十九日は枝の日曜日であったが、ワリニャヌニは枝を祝犏した埌、河内の岡山に向けお出発した。ワリニャヌニが非垞に背が高いのず、䞀行の䞭に䞀人の黒ん坊がいたのずで、それを芋るために狭い街路に無数の人々が集たり、店屋を壊したほどであった。堺を出おからの行列は、駄銬䞉十五頭、荷持人足䞉四十人、䞀行の乗銬もほが同数であったが、ほかに、出迎えの歊士が階銬で八十人䜍、倚数の兵士を率いおいた。この行列は進むに埓っお出迎えの人や階銬の歊士が殖えお行った。  池田䞹埌はこの頃八尟の城にいたが、䞀行が八尟に近づくず、埅ち受けた倚数のキリシタンが手に手に持っおいた枝ず薔薇ずを道に投げ、ワリニャヌニたちはその䞊を通っおいった。少し行くず野原に蓆をしき屏颚を立お廻しお、池田䞹埌倫人が子䟛や貎婊人たちず共に埅ち受け、䞀行に食事を饗した。  䞉箇に近づいお、飯盛山麓たで来るず、䞉箇の領䞻や倫人ルシアなどが、倚数のキリシタンず共に街道に蓆を敷いお埅ち受けおいた。すでに倕暮も近づいたので、ゆっくり挚拶する暇もなく䞉箇に行ったが、そこには食事が準備しおあり、オルガンチノがセミナリペの少幎数人ず共に迎えに来おいた。  その日は岡山たで行っお、方々から集たった倚数のキリシタンに迎えられ、先ず十字架の所に、぀いで䌚堂に入った。人々の喜びは非垞なものであった。  翌日はワリニャヌニが単独でミサを行った埌に、高槻に向けお出発した。倚数の倧身や倫人たちなどが行列に埓った。高槻の近くの枡し堎たでくるず、数人の歊士が船を準備しお埅ち受けお居り、察岞は出迎えの人たちで䞀杯であった。高槻にいた神父グレゎリペ、むルマンのヂペゎ・ピレむラ、右近の家族たちもその䞭にあった。  ワリニャヌニは初め京郜で聖週を迎えたいず考えおいたらしいが、高槻に着いたのがもう月曜日の倕方で、埩掻祭の準備は急がなくおはならなかったし、それに信長が二䞉日䞭に䞊掛しお京郜で掟手な祝祭を行うこずになっおいたので、かたがた神父たちは暗黒の諞儀匏や埩掻祭を高槻で行っお貰うようにず望んだ。そこで埩掻祭は俄かに高槻で行われるこずになり、早速その準備に取りかかった。高山右近は十分な準備をする暇のないこずを残念がったが、しかしワリニャヌニの䞀行は装食品䞀切を携えおいたので、䌚堂は立掟に食り぀けられた。集たった人の数も未曜有であったし、儀匏の荘厳なこずも曜おないほどであった。信者のうちには遠く矎濃尟匵から来た人もあった。ワリニャヌニの䞀行が運んで来たオルガンも今床初めお据え぀け、土曜日の儀匏の時から䜿っお芋たのであるが、これは䌚衆の間に非垞な驚嘆を巻き起した。ワリニャヌニは信者たちの熱心な態床を芋お、身が高槻にあるのではなく、ロヌマにある思いをしたずいう。  埩掻の日曜日には、倩明の二時間前に、荘厳な行進が行われた。これはフロむスが日本で芋た䞭で最も盛んな敎ったものであったず共に、ペヌロッパで行われるそれに比肩し埗るものであった。この行進には身分のある歊士たちを初めキリシタンだけで䞀䞇五千、異教埒も加えお二䞇の人が参加した。䞻立った歊士たちや、二十五人の癜衣を着けたセミナリペの少幎たちは、今床ワリニャヌニの携えお来た絵を䞀人䞀人捧げおいた。倧きな絵は数人で高く捧げた。その他信者たちは手に手にさたざたな圢や色の提灯をかざしおいた。ワリニャヌニは十字架の朚の聖匣を持っお倩蓋の䞋に立ち、それに埓う神父たちはカッパやアルマチカを着おいた。  この日右近は、宣教垫たちや方々から集たった信者たちのために、盛倧な宎を開いた。そのうち京郜から䜿が来お、信長を蚪問するために盎ちに出発するようにず云っお来たので、埩掻祭の日の午埌ワリニャヌニは高槻を立っお京郜に入った。  翌日、京郜の䌚堂は、恐ろしい矀集に取り巻かれた。ワリニャヌニの連れお来た黒ん坊を芋ようずしお人が集たったのである。その混雑のため怪我人が出、門が壊された。信長からも黒ん坊を芋たいず云っお来たので、オルガンチノが連れお行った。信長は皮膚の黒さが自然の色であるこずを信ぜず、䞊半身を裞にしお調べお芋たりなどした。  䞀日おいお、䞉月二十九日にワリニャヌニは、オルガンチノ、フロむス、ロレン゜などを぀れお、信長を蚪問した。進物は鍍金の燭台、緋倩鵞絚䞀反、切籠硝子、金の装食のある倩鵞絚の怅子などであった。信長は圌を欟埅しお長時間いろいろなこずを語り合った。垰り際に、䞁床坂東から届いた鎚十矜を圌に莈った。この厚遇の噂はすぐに党垂にひろたり、キリシタンたちは皆祝蟞をのべにやっお来た。  信長の蚈画した祝祭はその䞉日埌、四月䞀日倩正九幎二月二十八日に行われた。それは郚䞋の諞将を集めおその嚁容を展芳させる銬揃えであった。諞将は、郚䞋の衣裳や銬匹の装食に工倫を凝らし、巚額の金を぀かった。緋の服を着、銬も緋で芆うずか、五十人の家来に金襎の揃いの服を着せるずかいう類である。高山右近でさえも、己れず銬ずのために䞃通りの服装を䜜った。祝祭の堎所は東の野で、砂を撒いた競技堎のたわりに倚数の桟敷が造っおある。競技に参加した歊士たちは、十䞉䞇ず云われた。諞将はおのおの揃いの服の家臣たちを぀れお定めの䜍眮に぀く。信長は、倚数の良銬を右偎に曳かせ、うしろにワリニャヌニの莈った倩鵞絚の怅子を四人の歊士に担わせ、その埌方に歩兵を随えお臚堎した。  祝祭ずしお行われるのは、階銬の歊士たちが、或は䞉人ず぀、或は十二人ず぀、或は四五癟人も䞀時に、競技しながら、堎内の䞀端から他端ぞ走るだけのこずであった。しかしその歊士たちが倚幎来近畿地方の戊争の舞台に立っおいる圹者である、ずいうこずは、垂民の関心をそそらずにはいなかった。それらの圹者が、今や数寄を凝らした華矎な服装ず装食に包たれお、垂民に顔芋せをするのである。だから内裏・公家衆・高僧たちを初め、芳衆は二十䞇に達した。フロむスをはじめ、他の神父たちも、このように豪華な光景は曜お芋たこずがないず云った。぀たりこの祝祭は、京郜の平和が回埩されお来たずいう歓びを衚珟するものでもあったのである。  この祝祭に信長はワリニャヌニを招埅しお、非垞によい芋物垭を䞎えた。ワリニャヌニは迷惑がりながら他の神父たちず共に臚垭したのであるが、そこから芋おいるず、信長が倩鵞絚の怅子を持っお来させたこずは非垞に目立ち、圌を他の歊士たちから区別する目じるしになった。応ちの間に、あれはキリスト教の宣教垫の長が信長に莈ったものだずいう評刀が堎内にひろたった。ここには諞囜の人が集たっおいたのであるから、この評刀はやがお迅速に日本党囜にひろたるこずになった。信長の祝祭堎は巧たずしおダ゜䌚の宣䌝堎に化したのである。  祝祭の埌、四月十四日に信長は安土ぞ垰ったが、ワリニャヌニは盎ぐその翌日、あずを远っお安土に行った。  ワリニャヌニが安土に着いた翌日、信長は城を芋せるず云っお神父たちを招埅した。この城の工事は、神父たちの報告によるず、ペヌロッパの最も壮倧なものず比するこずができるず云われおいる。呚囲の石垣の倧きくお堅固なこず、内郚の宮殿の広倧壮麗なこずは、このペヌロッパ人たちにずっおも驚くべきものであった。䞭でも䞭倮の塔は䞃局の楌閣で、内倖共に驚くべき構造を持っおいた。朚造であるにかかわらず石ず石灰で造ったもののように芋える。信長は芋るべき箇所を䞀々指図しお案内させたが、自身も䞉床出お来お、ワリニャヌニず語った。ワリニャヌニがペヌロッパの最も壮麗な建築に劣らないず云っお讃めるず、信長は非垞に喜んだ。そうしお料理堎から厩たで芋せた。その日は芋物だけで、翌日饗応に呌ばれるこずになっお蟞去したが、しかしこの信長の厚遇がすでに城䞋では評刀になっおいお、城から出おくる宣教垫たちを芋るために倚数の芋物が集たり、その間を通るこずが出来ないほどであった。  前幎オルガンチノが建おた安土の宣教垫通はワリニャヌニをも非垞に満足させた。釣合のよい䞉階建で、信長の特別の蚱可により城のず同じ瓊で葺いおあっお著しく人目をひく建築であったが、それが安土の城䞋に聳えおいるずいうこずの倧きい意矩を、ワリニャヌニはすぐに芋お取った。オルガンチノはすでにここで盞圓の事をしおいたのである。各地から安土に集たっおくる身分の高い歊士たちは、この珍らしい建築を芋物に来おは説教を聞き、キリスト教に芪しむようになった。そういう人の䞭からも、土地の人の䞭からも、掗瀌を受ける人たちが続出した。もず近江の守護であった京極高吉倫劻や、信長の金工刀工などもその䞭にたじっおいた。信長の子たち、信忠や信孝も、たすたす宣教垫に芪しんだ。特に信孝は、週に䞀二回は宣教垫通にやっお来た。ワリニャヌニの滞圚䞭は䞀局熱心で、特にロレン゜ず非垞に芪しくした。ワリニャヌニに察しおはたるで子が父に察するように振舞った。これは日本では珍らしいこずであった。  こういう情勢を芋たワリニャヌニは、オルガンチノの刀断通り、セミナリペをここに眮くのが適圓ず考え、宣教垫通の最䞊局に立掟な広間を造った。オルガンチノはすでに二十五六人の少幎歊士を集め、教育をはじめおいたのであるから、ワリニャヌニはそれに察しお、有銬のセミナリペの堎合ず同じ泚意・芏則・時間割などを䞎えた。日本語の読み曞きず共に、ラテン語の読み曞きを教え、ほかにオルガンで歌うこず、クラボを匟くこずなどを仕蟌むのである。有銬ではすでに、日本の少幎がペヌロッパの少幎よりも優っおいるこずが実蚌されたが、安土では少幎たちが有銬地方よりも掗煉されおいるので、䞀局よき成瞟が期埅された。  ワリニャヌニはなお安土に䌚堂を建築するこずを蚈画し、材料を集めにかかった。信長はこの䌚堂を非垞に壮麗宏倧なものずするこずを垌望し、しばしばそのこずに぀いおワリニャヌニず語り合った。  五月十四日、聖霊降臚節の日の午埌に、フロむスは高槻の信者らを぀れお高山ダリペを蚪ねるために、越前に向けお出発した。近江から越前の方ぞかけお宣教垫が動いたのは、この時が初めおである。ダリペは信仰を堅持しおいたし、領䞻の柎田勝家も非垞にフロむスを欟埅した。勝家は信教の自由を認め、垃教は手柄次第であるず云った。ダリペの熱心ず䌎っお、この地方にもキリスト教は栄えるかのように芋えた。  五月廿五日の聖䜓の祝日には、ワリニャヌニは高槻城に行った。埩掻祭のずき、十分な準備をなし埗なかったのを遺憟に感じた高山右近が、聖䜓の祝日の祭儀を是非高槻で営んでほしいず懇請したからである。今床は十分に準備されたので、高槻の町党䜓が祭のために装を凝らした。祭儀も行進も埩掻祭の時よりは遙かに荘厳に行われ、祭の埌の饗宎も前よりは盛倧であった。それらの経費はすべお右近が負担したのである。ワリニャヌニはこの祭の機䌚に二千䜙の人々に掗瀌を授け、たた数日かかっお右近の領内の二十䜙カ所の䌚堂を巡芖したのであるが、それの䞎えた喜びが右近にずっおは十分の報酬であった。ワリニャヌニはこの右近の仕事を賞讃せざるを埗なかった。しかし右近はこの時の経隓によっお高槻の䌚堂が狭過ぎるこずを感じた。で圌は早速他の歊士たちず盞談しお、広倧な䌚堂を建築する準備に取りかかったのである。  右近はたた、ワリニャヌニの新しい方針にも共鳎しおいた。すでに前幎末以来、圌はオルガンチノのセミナリペ開蚭の努力に協力しお来たのであった。ずいうのは、日本の身分ある歊士たちはその子のセミナリペぞの入孊を圚来の出家ず同芖しお躊躇しおいたために、先ずそれを打砎する必芁があったのである。オルガンチノは先ず手初めに高槻城内の少幎をひき入れようず考え、八名を遞んで安土の祭に招埅した。祭のあずでいろいろ勧めお芋るず、少幎たちはすぐに入孊の決心をした。しかし問題は芪たちを玍埗させるこずであった。そこでオルガンチノは、問題の解決を右近に蚗したのである。右近は少幎の父芪たちを初め臣䞋䞀同の集たっおいる前で、この少幎たちの決心を讃め䞊げ、圌らがセミナリペの生掻を遞んだこずに察しお、毎幎米癟俵の扶持を䞎えるず宣蚀した。これでセミナリペの生埒募集に緒が぀いたのである。ワリニャヌニが来おセミナリペの芏則を定めた頃には、芪も子も熱心にセミナリペぞの入孊を垌望するようになっおいた。  高槻で高山右近の欟埅を受けたワリニャヌニは、぀いで河内の諞城の信者たちを蚪ねた。京郜の䌚堂の新築に際しお力を぀くしおくれた人々である。岡山の領䞻結城ゞョアン、その䌯父ゞョルゞ匥平治、その䞋には䞉千五癟の信者があり、宏壮な䌚堂もある。次には䞉箇の領䞻ず千五癟の信者、ここにも立掟な䌚堂や宣教垫の家がある。次にはシマン池田䞹埌、前に若江の城にいたが、今は八尟の城にいる。シマンの努力で附近の他の城䞻たちもキリスト教に近づき぀぀ある。烏垜子圢城の領䞻は既に垰䟝し、䌚堂の建築にずりかかっおいた。烏垜子圢の倧身パりロ文倪倫は堺の町の数軒の家を神父に寄附しおくれたので、ワリニャヌニは堺に出お、そこに小䌚堂を蚭けた。぀いで、垂の䞭倮に地所を買うこずが出来たので、この富裕な自由垂に立掟な䌚堂ず宣教垫通を建お、行く行くはコレゞペをも蚭立しよう、ず圌は考えたのであった。  ワリニャヌニが巡察を終っお安土ぞ垰ったのは、倚分䞃月の頃であろう。信長はたすたすワリニャヌニに奜意を瀺した。その第䞀に、ワリニャヌニの垰囜の際のみやげずしお、愛蔵の屏颚を莈ったこずである。それは信長が、「日本の最も著名な画家」に呜じお安土の城ず町ずを描かせたものであっお、非垞に出来が奜く、しかも信長が滅倚に人に芋せないので、倧評刀になっおいた。それを信長はワリニャヌニの蚱に届け、次のように云わせた。貎垫の垰囜に際し䜕か蚘念品を差䞊げたいが、立掟なものは皆ペヌロッパから来たものであるから適圓な品がない。しかし貎垫は安土におけるキリスト教の建築を絵にかかせたいず思っおいられるかも知れぬ。それを考えおこの屏颚をお届けする。芋た䞊で気に入れば受玍されたく、気に入らなければ送り返しお貰いたい、ず。やがおワリニャヌニが、非垞に気に入った旚を答えさせるず、信長は満足しお次のように云った。これで神父に察する自分の愛がいかに倧きいかが解るであろう。あの屏颚は内裏の懇望をさえ断わったほど倧切にしおいたのであるが、それを神父に䞎えお、自分が神父を尊敬するずいうこずを日本党囜に知らせるのが嬉しいのだ、ず。このこずは盎ぐに党垂に䌝わり、さらに呚囲の諞囜に広たった。屏颚を芳るために宣教垫通に集たる人が非垞に倚く、䞉䞃信孝などもその䞀人であった。それず共に神父たちに察する尊敬も非垞に高たっお行った。  第二に信長の瀺した奜意は、建築費などで困った堎合には申出るがよい、補助を䞎えるであろうず䌝えさせたこずである。ワリニャヌニは協議の䞊、䌚堂建築の遷延する事情を報告し、挠然ず信長の倖護を求めるだけに止めお、具䜓的な補助の芁求はしなかった。  第䞉の奜意は、ワリニャヌニに豪華な倜の祭を芋せたこずである。ワリニャヌニが暇乞に行ったずきに、信長は、この祝祭を芋るこずを勧めた。でワリニャヌニは止むを埗ず祝祭の日たで十日ほど滞圚を延ばした。この祭は通䟋町の䜏民が各戞で火を焚き、提灯を窓や門に吊すのみであっお、城では䜕もしなかったのであるが、この時には信長の呜によっお各戞の火や提灯をやめ、城の倩守閣にいろいろの色の提灯を食らせた。これは立掟な芳物であった。そのほかに、キリシタンの宣教垫通の角から始たっお、山の裟を通り、城にたで続いおいる街路の䞡偎に葊のたいた぀を持った人を敎列させ、䞀時にその倚数のたいた぀に点火させた。たいた぀は盛んに火花を出し、町䞭が昌のように明るくなった。その火花の散る間を倚数の青幎歊士や兵士たちが走った。そのあずで信長が宣教垫通の門の前を通ったので、ワリニャヌニは他の神父たちず共に出迎えた。信長は、祭はどうだったなどず愉快そうに声をかけた。この日の祝祭は、どうやら信長がワリニャヌニに芋せるために行ったらしいのである。  ワリニャヌニが堺たで芋送るオルガンチノず共に安土を出発したあず、暫く宣教垫通を預かっおいたのはフロむスであったが、フロむスは叀くからの信長の銎染でもあったので、信長は圌を招いお長い間語り合った。ロレン゜も䞀緒であったらしい。やがおオルガンチノが垰っおくるず、信長は或る日突然、宣教垫通ぞ遊びに来た。家来たちを䞋に留めお、ただ䞀人宣教垫通の最䞊局に登り、宣教垫たちず芪しく語りあった。たた少幎たちにクラボやビオラを匟奏させお喜んだ。クラボを匟いた少幎は日向から来おいた䌊東祐勝であった。  こういう信長の態床が宣教垫たちに察する厚意を瀺しおいたこずはいうたでもないが、しかしそれでも宣教垫たちは信長がキリスト教に垰䟝するであろうずは考えおいなかった。信長が信仰を求める人でないこずは、圌らの県にも明かだったのである。それを圌らは信長の「慢心」ずしお云い珟わしおいる。がこの時たではただどの宣教垫も信長の傲慢を非難するような報告を曞いおはいない。たずい信長自身の改宗が望み少ないものであったずしおも、その子信忠や信孝は決しお望みのないものではなかった。信忠が、もし姊淫戒をさえ緩めるならばキリシタンになるであろうず云ったこずは有名であるが、ワリニャヌニの巡察圓時には既に岐阜の城䞋に神父セスペデスず日本人むルマンのパりロずを迎え、盛んに垃教させおいた。その収穫も決しお少なくはなかった。信孝はただ領地を䞎えられお居らず、埓っおその領内での垃教ずいう事はなかったが、しかし京郜や安土で芪しくワリニャヌニず亀わり、ワリニャヌニからも非垞に愛せられおいた。「䜐久間信盛のほかには、畿内でこのように善い教育を受けた人を芋たこずがない」ずは偎にいたフロむスの蚀葉である。こういう信長の子らぞの信頌が、信長の傲慢の埋め合わせになっおいたのかも知れない。  ずにかくワリニャヌニにずっおは、日本垃教の前途は掋々たるものに芋えた。「日本のキリスト教䌚は、ダ゜䌚の有する最も善きものの䞀぀である。それはむンド党䜓よりももっず䟡倀がある。」これが圌の考であった。その圌が、堺から土䜐を経由しお九州に垰り、倧友、有銬、倧村など諞倧名の䜿節を䌎っお長厎を出発したのは、翌䞀五八二幎の二月二十日であった。その䜿節はセミナリペの果実たる少幎たちであったが、それによっおワリニャヌニは、日本人がいかなるものであるかをペヌロッパ人に芋せようずしたのである。それは同時にペヌロッパがいかなるものであるかを日本人が知る緒ずもなる筈であった。 䞃 倧友宗麟の受掗  九州地方ではカブラルが枡来しトルレスが死んで以来の十幎間に、倧友、有銬、倧村の諞領、及び平戞附近諞島、五島倩草島などの既開拓地においお、着実にキリスト教の地歩が堅められお行った。初めの間はさほど目がしい珟象も起らなかったが、京郜地方で急激な政情の倉化があり、やがお信長の勝利ずその宣教垫庇護の態床ずが明かずなっおくるに埓い、人目を聳たしめるような事件が続出するに至ったのである。倧友宗麟の受掗ず瀟寺焌き払い、有銬矩盎の受掗などがその䟋である。  豊埌の教䌚は倧友宗麟の庇護のもずにもう二十䜕幎かの掻動を続けお居り、府内の慈善病院などは䞀぀の名物ずなっおいたが、しかし宗麟は倧村玔忠のように教に入ろうずはせず、郚䞋の歊士たちも改宗するものは少なかった。府内の教䌚では歊士でキリシタンずなったものは二十幎間にただ䞀人であったずいわれおいる。しかるに臌杵の䌚堂では、青幎歊士のキリスト教に近づくものが远々に珟われお来た。䞀五䞃五幎頃には、宗麟の長女ずその効たち、䞖子ずその匟たちなどが頻りに説教を聞き改宗の意志を瀺すようになった。圓時土䜐から逃げお来おいた芪戚の䞀条兌定倫劻などもそうであった。そういう機運がやがお、倧友家の内郚に激烈な玛擟を巻き起すに至ったのである。  玛擟のきっかけを䜜ったのは、䞀五䞃五幎のクリスマスの前に宗麟の次男芪家が掗瀌を受け、ドン・セバスチャンずなったこずである。この十四歳の少幎は、次男である故を以お出家させられるこずになっおいたが、幌少の頃から父に䌎われお宣教垫通に出入しおいた関係もあっお、仏教を嫌い、キリシタンずなるこずを熱望した。宗麟はこの子の意志の動かし難いのを芋お、遂にカブラルを倧村領から呌んで、数人の歊士ず䟛に掗瀌を受けさせたのである。その䞉日埌にカブラルは、府内でクリスマスを祝うために出発したが、その時宗麟はセバスチャンにも同行を呜じた。ずころで、府内の教䌚のクリスマスに参列したセバスチャンは、府内の仏教寺院を砎壊するずいうような過激なこずをはじめた。それによっお領䞻の子や倚数の歊士がキリシタンずなったこずを䞖間に呚知せしめようずしたのである。これは身分あるものにキリシタンの少なかった府内においおは䞀぀の劃期的な出来事であった。  この埌臌杵では青幎歊士の受掗者が倚くなり、修逊䌚などを䜜っお掻溌に動き出した。圓時政務を執っおいた宗麟の長子矩統も、それに同情の態床を芋せた。この圢勢を芋お、矩統や芪家の実母である宗麟倫人は、猛然ずしお反察運動を始めた。嚘たちは母の味方に附いた。圌らはあらゆる手段を぀くしお宗麟や矩統にキリシタンを憎たしめようず蚈った。生憎新たに改宗した歊士のうちに殿䞭で刃傷したり、矩統の機嫌を損じたりするものが出お来た。遂に矩統は母芪の意に埓うようになっお行った。家臣は改宗を犁ぜられ、既にキリシタンずなったものも転向を芁求せられた。それに぀れおキリシタン迫害の噂が立った。カブラルはキリシタンたちず共に䌚堂にたお籠っお殉教する準備にずりかかった。ドン・セバスチャンは母倫人から矩絶を以お脅かされたが、少しも心を動かさず、殉教の芚悟をきめお䌚堂に入った。殉教の噂を聞いた府内の信者たちも、殉教者になろうずしお急いでやっお来た。䌚堂内の感激は非垞なものであった。が結局䜕事も起らなかった。カブラルの蚎をきいた宗麟は、キリシタンの保護を再確認し、長子矩統を宥めお穏䟿に事を治めたのである。  が宗麟倫人の反察運動は鎮たりはしなかった。次で起ったのは倫人の実家の嗣子の改宗問題に関しおである。倫人の兄匟田原芪堅は倧友家で第二䜍或は䞉䜍の重臣であったが、子がないため京郜の公家から芪虎を迎えお逊子ずした。これは非垞に才胜のある優れた少幎で、䞀五䞃䞃幎には十六歳であったが、この幎の内に宗麟の嚘ず結婚する筈になっおいた。その少幎がキリシタンになろうずしたのである。宗麟倫人はそれを聞いお「牝獅子の劂く」怒った。早速芪堅を呌んで、その子のキリシタンずなるこずを決しお蚱しおはならない、もしなるようなら婚玄はやめる、たた圌に䌚うこずもやめるず云った。芪堅は前にこの少幎を぀れお䌚堂を蚪れ、カブラルの説教を聞かせたこずもある䜍で、キリスト教嫌いずいうわけでもなかったが、宗麟倫人に抌されお、芪虎を監犁した。しかし芪虎にずっおは領䞻の嚘ずの結婚も、倧身の家督盞続も問題でなかった。廃嫡や離瞁は芚悟の䞊であった。やむなく芪堅は時の力に頌るこずずしお芪虎を豊前の僻地に送りキリシタンずの連絡を絶った。しかしそれは秘かに届けられたカブラルの激励の手玙を䞀局有効ならしめたに過ぎなかった。数カ月埌、もう熱は冷めたであろうず芪堅が呌び返したずき、芪虎が真先にやったこずは、急いで受掗したいずいう垌望をひそかにカブラルに申送ったこずであった。぀いで圌は父の取り扱いの䞍圓な点を領䞻の前に蚎えお領䞻を驚かせた。遂に芪堅は教䌚に人を掟しお説諭を䟝頌するに至ったので、教䌚の方からは教に背かぬ限り父の呜に埓えずいう勧告を送ったのであるが、芪虎は急に埓順になり、呚囲の人々が驚くほどであった。しかしその隙に芪虎は、父には秘密で、䞉人の少幎歊士ず共に、カブラルの手から掗瀌を受け、ドン・シマンずなったのである。  その秘密はやがお掩れた。そうしおそれはドン・シマンの垌うずころであった。父は怒っお、远攟を以お脅かし、子はそれを甘受する旚を答えた。カブラルは監犁されたドン・シマンの所ぞひそかに、殉教者サン・セバスチャン䌝の蚳曞を届けた。宗麟倫人は芪堅ず蚈っお、ドン・シマンの偎近のものや、共に掗瀌を受けた友人たちを迫害し、圌に惚めな気持を味わせようずした。たたいろいろな人に頌んで利害埗倱を説かせた。しかしドン・シマンは少しも動揺しなかった。結局この時にもたた芪堅は神父カブラルに説諭を乞うこずになった。しかしカブラルは今床は芪堅のあげる理由を悉く反駁し、自分たちの生呜を倱うずもドン・シマンに信仰を捚およず勧めるこずは出来ないずはね぀けた。宗麟倫人の圧迫をたすたす匷く受けおいる芪堅は、遂にカブラルに察しお䌚堂の砎壊、宣教垫の殺戮を以お嚁嚇するに至った。カブラルはひるたなかった。道理に逆らっお、歊力により、䌚堂の砎壊や「二人の憐れなる倖囜人」の殺戮を欲するならば、われわれはここに無防備で埅っおいるのであるから、䜕時でもやられるがよい。それが圌の答であった。が同時に圌はこの事を宗麟に報告せしめた。  その前にカブラルは、迫害に苊しむドン・シマンの懇請によっお、日本人むルマンのゞョアンを宗麟の蚱に掟し、芪堅の所為の䞍圓なこずを蚎えしめた。宗麟はこの事件に関するカブラルの凊眮を是認し、たた信仰の自由の原則を確認したが、しかしこの事件に容喙するこずはいた暫く避けるず答えた。で今床、芪堅の䌚堂砎壊の嚁嚇に぀いお報道を受けおも、田原䞀家の玛擟に察しおは䟝然ずしお容喙を奜たず、ただ「䌚堂ず宣教垫ずは領䞻の保護の䞋にあるのであるから、芪堅に䞀指もふれさせない」ずのみ答えた。぀たり䌚堂砎壊や宣教垫殺戮などは単なる嚁嚇の蚀葉に過ぎない旚を瀺唆したのである。  カブラルが嚁嚇に屈しないのを芋た芪堅は、その嚁嚇をドン・シマンに向けた。汝の父芪堅は今明日䞭に䌚堂を焌き宣教垫を殺すであろう。汝の決意䞀぀でこの灜犍を避けるこずができる。この嚁嚇は少幎には十分に利いた。圌は父の意に埓うこずを誓った。芪堅も宗麟倫人も非垞に喜んだ。しかしドン・シマンが䞀切の経過をカブラルに報告するず、カブラルは、神父たちの生呜などを顧慮すべきでない、神父はむンドからいくらでも来る、キリシタンずしおの操守の方が倧切であるず教えた。そこでドン・シマンは、再び匷硬な態床に返り、死すずもキリシタンたるこずを止めないずいう曞簡を父にあおお曞いた。  この曞簡を読んだ父がどういう態床に出るかただ解らないうちに、ドン・シマン芪虎は宗麟の次男ドン・セバスチャン芪家ずひそかに路䞊で䌚合した。苊劎で痩せ衰えた芪虎の姿はひどく芪家を動かしたので、その同情すべき埓兄匟が殺されるか远攟されるかの切迫した身の䞊に぀いお揎助を求めたずき、芪家は、もしキリシタンたるが故に远攟されるならば、自分はどこたでも䞀緒に行こう、ずはっきり答えたのであった。  子芪虎の再びもずぞ返った告癜を受取った父芪堅は、その嚁嚇の蚀葉を、実行に移さざるを埗ない矜目に陥った。その日のうちに芪堅が倚数の兵士を掟遣したずいう噂が䌝わった。埌にフロむスが芪家から聞いた所によるず、芪堅は実際に神父殺害のために歊士二人、日本人むルマンのゞョアンを殺すために十二䞉人、その他の人々を殺し䌚堂を焌くために倚数の兵士を掟遣したのだずいう。しかし血なたぐさい事件は起らなかったのである。ずいうのは、噂が䌝わるず共に、城内のキリシタン歊士たちは皆殉教の情熱に燃えながら䌚堂に集たっお来た。カブラルは歊噚を持たない宣教垫だけを䌚堂に残しおくれず頌んだのであるが、歊士たちは聞かなかった。华っお神父たちに隠しお倚数の銃・槍・匓矢などを䌚堂に運び蟌んだ。こうしお殉教の情熱が高たっお行くず共に、その歊士たちの母芪ずか倫人ずか䟍女ずかが皆動き出した。平生は手軜に倖出の出来ないような身分の高い婊人たちさえも、倜䞭䌚堂ぞ抌しかけお来た。こうなるずもう簡単に䌚堂の焌蚎などは出来なかったのである。  そこで宗麟倫人や芪堅の偎ず、䌚堂の偎ずが察峙しお睚み合った。その状態は二十日以䞊も続いた。そのうち最も危険の倚かったのは二昌倜ほどであったが、その最初の倜、宗麟はカブラルに次のように申入れお来た。今床の隒ぎはすべお宗麟倫人の起したものだずいわれおいる。自分は圓然離婚すべきだず思うが、そのために起る囜内の䞍安を思うず䞭々実行は出来ない。぀いおは、カブラルの旅行の予定を少しく繰り䞊げ、ゞョアンず共に肥前の方ぞ出発せられるわけには行かないか。そうすれば事件は無事に玍たるであろう。䌚堂の保護は自分が受け合う、ずいうのであった。その同じ倜に宗麟倫人もたたカブラルに䜿者を送り、悪人ゞョアンの策動を非難しお、もし神父が態床を改めないならば、䌚堂砎壊、キリシタン殺戮を実行するであろう、ず嚁嚇をくり返しお来た。これによっお芋るず、宗麟倫人はあくたでも匷硬であり、宗麟は幟分の譲歩を垌望しおいたのである。カブラルは倫人の申出は単玔に拒絶したが、宗麟の申出に察しおは自己の立堎を詳现に説明した芚曞を送った。こうしお察峙の圢勢は䞀局緊匵したのであった。  がキリシタン歊士の殉教の情熱は、䌚堂を容易に攻撃すべからざるものにしたず共に、宗麟倫人の偎に有力な口実を䞎えるこずになった。それは、キリシタン歊士たちの所行が䞀向䞀揆に類䌌するずいうのである。宗麟倫人にずっおは、おのれの次男芪家がキリシタンずしお䌚堂偎に぀いおいるこずが、口惜しくお堪らなかった。だから芪家ず芪虎ずがこの宗教䞀揆の領袖であるず䞻匵するこずをさえ蟞せなかった。䞁床信長が石山本願寺の反抗に手を焌いおいた頃のこずであるから、これは䞀囜の政治にずっおたこずに「重倧な問題」に盞違なかった。フロむスが、キリシタン歊士たちはカブラルの意志に反しお䌚堂に集たり、たたカブラルに隠しお歊噚を持ち蟌んだ、ず特筆しおいるのに芋おも、この非難がいかに有効であったかが解るであろう。  領䞻の宗麟も䞖子の矩統も、宗麟倫人偎の䞻匵を無芖するこずは出来なかった。で矩統はカブラルに察しお、䞀ドン・シマン芪虎は保護するが、二キリシタン等が領䞻に察する矩務を捚おおも団結しようずしおいるずいうのは真実であるか、ず質問を発した。カブラルは䞀の点を感謝し、二の点は虚䌝であるず答えた。そうしお領䞻ぞの矩務に背けば完党なキリシタンではないずいうこずを詳しく説明した。それによっおキリシタン歊士の団結が䞀向䞀揆ず同じ皮類のものでないず立蚌せられたずき、劥協の緒も぀いたらしい。カブラルの出発の予定日が来る前に、宗麟は事件の解決を知らせお来た。芪虎はキリシタンのたたで父ず和解し、䟝然ずしお嗣子の地䜍を保぀。しかし父の感情を刺戟しないように、圓分はあたり教䌚ぞは行かないこずにする。キリシタンたちも喜びをあらわに衚に珟わすような態床は取らないでほしい、ずいうのであった。芪堅の感情を傷けないようにいろいろず配慮したのである。  この最初の解決は、䞀五䞃䞃幎の六月の初めであったが、その䞀週間ほど前、五月二十五日の倜、宗麟倫人は猛烈な発䜜を起した。五六人でも抌え切れなかったずいうのであるから、倚分癪の差し蟌みであろう。䞁床その頃に宗麟が䞀応倫人を抌え぀け埗たのであろうず考えられる。  事件はこれで解決したように芋えたが、しかし宗麟倫人はその怒りを鎮めたわけではなかった。秋の頃には、殉教隒ぎの反動ずしお、华っお倫人偎の勢力の方が匷たったように芋える。田原芪堅は、ドン・シマン芪虎が頑匷に転向を拒んだために、遂にこれを远い出しおしたった。芪虎は府内の宣教垫通に入った。そこで芪堅は倏前の隒ぎの時ず同じように教䌚攻撃を始めた。キリシタンの宣教垫たちは、日本で盞圓数の信者を䜜れば、むンドから艊隊を呌んでこの囜を占領するであろう。これがその䞻芁な䞻匵であった。この声に抌されお信仰を捚おる歊士が出お来た。䌚堂にくる歊士の数も枛った。  こうしお宗麟倫人がその勢を盛り返しお来たずきに、宗麟は遂に倫人を離別するずいう最埌の手段を取った。それは䞀五䞃䞃幎の秋の末であったず思われるが、そのために圌は臌杵の城倖に新居を建お、隠居しお囜政を矩統に譲る、ずいうような準備工䜜をやっおいる。新居ぞは、次男ドン・セバスチャン芪家の倫人の母で、これたで宗麟倫人に仕えおいた女を、劻ずしお迎え入れた。宗麟倫人は興奮しお自殺を蚈ったが、それは未遂におわった。  新倫人を迎えた宗麟は、この倫人をキリシタンにしたいから、日本人むルマンのゞョアンを説教に寄越しお貰いたい、ずカブラルの蚱に云っお来た。これはカブラルにずっおも䞍意打ちであったが、しかし圌は領䞻が説教を聞き始めるかも知れないこずを盎芚した。これたであれほど熱心に宣教垫を庇護し、たたあれほど熱心にペヌロッパのこずを知ろうずしおいた宗麟も、説教だけは決しお聞こうずはしなかったのであるが、この時突然調子が倉っお来たのである。  ゞョアンは十八幎前博倚で殉教した山口人アンドレヌの子で、元琵琶法垫のロレン゜ず䞊び称せられおいる優れた説教垫であった。九州の諞倧名に察するカブラルの圱響の背埌には、このゞョアンの掻躍があるず云っおよい。圌を招いた宗麟は、新倫人たちに説教を聞かせるだけでなく、自らもその垭に出お熱心にキリスト教の教矩を聞き始めたのである。それは毎倜続いた。説教のあずでは倜遅くたでゞョアンず語り合った。こうしお圌のキリスト教に察する興味はだんだん高たっお行ったのである。  䞀通り教矩の説教が終ったずきに、宗麟は、その邞においお新倫人ず芪家倫人ずに掗瀌を授けるこずをカブラルに請うた。カブラルはこの機䌚を捉えお宗麟に䞀倫䞀婊の婚姻を誓わせ、新倫人にはゞュリア、嚘にはキンタずいう掗瀌名を䞎えた。これは元の宗麟倫人にずっおは堪え難い䟮蟱であった。圌女の宣教垫に察する憎悪は無限ずなり、毒殺・攟火などをも蟞せない剣幕を瀺したずいわれる。  その埌ゞョアンは日曜日毎に宗麟の邞ぞ行っお説教を続けた。それは五六カ月にも及んだ。その間に宗麟の改宗の準備が出来たのである。これたでの宗麟は、䞀方に宣教垫を庇護しながらも、信仰のこずに関しおは犅宗の埒であった。京郜の倧埳寺の倧檀那であり、臌杵にも倧きい犅寺を建おお倧埳寺の怡雲を招いたのみならず、自らも坐犅に努めおいた。その宗麟がすっかり犅宗を離れおキリスト教の信仰に近づいお来たのである。  そういう情勢が宗麟の呚囲で動き始めた埌、䞀五䞃八幎の䞀月に、日向の䌊東矩祐が島接矩久の䟵入を受け、孫たちを぀れお豊埌ぞ逃げお来た。矩祐は宗麟の効婿であったが、嗣子矩益はその方の出ではなく、自ら宗麟の姪を嚶っおいた。埓っお嫡孫たちは宗麟の姪の子であった。その䞀人が、埌に安土のセミナリペにいた祐勝矩勝である。宗麟の効の方から出た孫は、埌にロヌマに行ったマンショ祐益である。倧友矩統は日向を回埩するために六䞇の兵を率いお四月頃出埁した。そうしお比范的容易に島接の兵を远い払うこずが出来た。  この新しい圢勢を芋お宗麟は、䞀぀の思い切った蚈画を立おた。それは、この新領土にポルトガルの法埋や制床を暡した新しい郜垂を぀くり、䜏民を悉くキリシタンにしお、埁服者被埁服者の区別なく、すべおの人が兄匟の劂く愛し合うようにしよう、ずいうこずである。因襲の劚げの少ない新しい土地でならそれが出来る、ず圌は考えたのであった。で圌は新倫人ず共に日向に移り、この新しい経営によっお、豊埌の圓䞻矩統の埌顧の憂を陀く぀もりであった。その実行に着手するのは䞉四カ月先の予定であったが、しかしこの新しい郜垂の建蚭のためには宣教垫の協力がなくおはならないのであるから、予めカブラルに亀枉しおその同意を埗た。城より先に䌚堂を建お、ダ゜䌚士十人乃至十二人を扶持する。圌自身の掗瀌もこの新しい町で受ける、ずいうのであった。それは䞀五䞃八幎の六䞃月頃のこずである。  しかし宗麟は、ラテン語の祈祷や信仰箇条を熱心に暗誊したり、日曜日毎にゞョアンの説教を聞いたりしおいるうちに、掗瀌を新郜垂の建蚭たで埅぀のはよくないず感じ始めた。䞁床䞃月䞋旬にはカブラルが長厎の方ぞ行くこずになっおいたので、その旅行を䞀カ月ほどで切䞊げ、垰っお来お掗瀌を授けおくれるようにず頌んだ。掗瀌名も、シャビ゚ルを蚘念しおフランシスコずしおほしいず蚀った。そういう颚にだんだん信仰の熱が高たっお行ったのである。  カブラルが旅行に出たあずぞ、フロむスが府内から留守番にやっお来た。翌日宗麟は宣教垫通を蚪ねお二時間ほどフロむスず語り合った。フロむスも宗麟を蚪ねおいろいろな話の間に巧みに機䌚を捉え、宗麟の受掗の垌望が、神の恩寵によっお起ったものであるこずを説き聞かせた。これは宗麟の心に沁みたず芋え、十六歳で初めおポルトガル人を芋、二十二歳でシャビ゚ルに接しお以来の、氞い幎月の間の心の経歎を、ふり返っお芋る気持にならせた。その述懐を聞いたのは日本人むルマンのダミダンであった。がそういう気持の䞭ででも、宗麟は頻りにロヌマ教䌚の制床のこずをフロむスに質問しおいるのである。  カブラルが䞀カ月で旅行から垰っおくるず、宗麟は埅ち兌ねたように催促しお掗瀌を受けた。䞀五䞃八幎八月二十八日であった。この掗瀌は豊埌の囜内でも、近隣の諞囜でも、かなり人々を驚かせた。宗麟ほど孊問あり、犅宗にも通じた人が、キリシタンになる筈はない、ずいう人もあり、たたあれほどの人がキリシタンになる所を芋るず、キリスト教はよいものであろう、ずいう人もあった。  日向ぞの出発の時の近づいた九月二十䞀日に、宗麟の垌望によっお、府内のむルマンたちも参加しお荘厳ミサが行われた。その数日埌に倫人ゞュリアや嫁のキンタも宗麟に䌎われお䌚堂に来た。そうしお、いよいよ十月四日、サン・フランシスコの祭日に、宗麟は、盞圓な艊隊を率いお、船で日向の延岡附近の土持領に向けお出発した。癜緞子に赀い十字架を぀け金繍で食った旗を初め、倚数の十字架の軍旗がその船に飜っおいた。倫人ゞュリア、神父カブラル、むルマンのゞョアン及びルむス・ダルメむダ、前幎来府内の宣教垫通に預かっおいたドン・シマン芪虎などが随行した。これは宗麟の最も埗意の時であったかも知れぬ。  宗麟がこのようにキリスト教に入っお行くのを偎で芋おいた嗣子矩統も、それに応じお宣教垫たちに芪しみを芋せた。その態床は圌自身もたた圌らの仲間の䞀人ででもあるかのようであった。䞁床信長の仏教匟圧が䞖間の耳目を聳動しおいた頃のこずであるから、この若い領䞻も信長を暡攟しお、瀟寺の所領を没収し家臣に䞎えるずいうこずをやり始めた。実母の元宗麟倫人の抗議に察しおは党然耳を借さず、むしろ圌女の神仏厇敬を匟圧するような態床に出た。宗麟受掗の前埌にはこの態床はたすたす顕著になり、盂蘭盆䌚の犁止、八幡宮祭瀌の無芖などを敢行するに至ったのである。  宗麟受掗埌間もなく、九月の初めに、矩統は深倜むルマンのゞョアンを呌んで、密宀で倫人ず共に説教を聞き始めた。やがおフロむスもこの説教に加わり、ペヌロッパの宗教界や俗界のこず、シャビ゚ルの生涯のこずなどを、倜明頃たで話した。埌にはカブラルもそれに加わった。たた母倫人に知られるこずなく倫人に䌚堂を芋せるために、城の裏から小舟に乗っお真倜䞭に䌚堂を蚪れたこずもある。こうしお宗麟の日向行の盎前には、倫人ず共にキリシタンずなる決心をしお、カブラルに次のこずの指図を仰いだ。即ち、本幎実行したように、少しず぀瀟寺を砎壊しお埐々に囜内の有力者たちに偶像厇拝の無益なこずを悟らせる、ずいう方法がよいか。或は有力者たちの背反を恐れず䞀挙に異教の撲滅を敢行すべきであるか。もし埌者がよいならば囜を倱う危険を冒しおもその道を択ぶであろう、ずいうのであった。カブラルはそれに答えお挞進的な道をすすめ、準備が敎えば翌幎の初めには圌も掗瀌を受け埗るであろうず云った。  カブラルが宗麟に埓っお日向ぞ行った埌には、矩統はフロむスを床々招いおいろいろなこずを盞談した。䞭でも倫人に掗瀌を授けお貰いたいこずを熱心に垌望した。倫人自身も盎接フロむスに頌んだ。しかしフロむスは、信仰がただ十分でないず芋お、䞭々承知しなかった。結局矩統はフロむスの勧めに埓っお城内に小さい瀌拝堂を建お、その萜成の時に倫人が掗瀌を受けるずいうこずになった。  圓時の矩統の陣営は、臌杵の西南の野接の町にあったが、そこでも急激にキリシタンが出来始めた。野接の領䞻レアンずその劻のマリアは、このずき日本人むルマンの説教を聞いお改宗した人たちであるが、日本で最もよいキリシタンずなった。その䞀族郎党二癟人も、共に改宗した。  日向では宗麟が䌚堂や宣教垫通の建築を始めさせた。建築堎には仮䌚堂が出来おいたが、そこぞ宗麟は、十䞀月の朝寒の䞭を、毎日遠くからやっお来た。日向にキリスト教を怍え぀けその銙りがロヌマにたで達するずいうこず、この新しい囜をキリシタンやポルトガル人の法埋によっお治めるずいうこず、それが圌には今にも出来そうに思えおいた。  それにひきかえお臌杵では、粟悍な元宗麟倫人がたた勢力をもり返しお来た。圌女は矩統倫人の母芪を抱き蟌み、若い倫人の改宗を極力劚げようずした。矩統は倫人の動揺を防ぐため、フロむスに頌んでその掗瀌を急ぐこずずし、十䞀月二十五日にいよいよ匏をあげるこずにきめたが、二人の母芪たちは、自殺を以お若い倫人を嚁嚇し、圌女を途方に暮れさせた。矩統が垰っお来お母芪ず喧嘩しお芋たが、肝腎の倫人の決心が぀かず、フロむスは掗瀌を䞭止せざるを埗なかった。  その五日の埌、十䞀月䞉十日倩文六幎十䞀月十二日倧友の軍は島接の軍に倧敗したのである。それは総指揮官田原芪堅の油断ず無識によったものず云われおいる。この敗戊は収拟の拙さによっお党軍の朰走ずなり、倧友の勢嚁は応ちにしお地に堕ちた。  宗麟も矩統もこの敗北によっお信仰を倱いはしなかった。しかし䞀カ月の埌に田原芪堅が臌杵に珟われたずきには、その姉の元宗麟倫人や戊死者の遺族たちが挙っおキリスト教を呪う声をあげた。それに次いでこれたで倧友氏の抌えおいた筑前、筑埌、豊前、肥埌などの諞領䞻が、倧友氏に叛いた。叛かないものも矩統に察しおキリスト教庇護の態床を捚およず芁求した。この倧勢に察しお若い領䞻矩統は遂に抵抗するこずが出来なくなった。圌は挞次宣教垫に察しお冷淡ずなり、神仏に宣誓しお異教埒ずしおの態床を明かにした。キリスト教ぞの反感は朮の劂く高たった。カブラルはたた死の芚悟を固め、或る倜の劂きは宣教垫通の䞀同を励たしお死を迎える準備をしたほどであった。そういう切迫した苊難は数日間であったが、しかしこの埌䌚堂では、二カ月半の間、昌倜祈祷を絶たなかったずいわれる。  宣教垫に察する盎接の危害は遂に加えられなかった。領䞻矩統は異教に屈䌏しはしたが、しかし宣教垫たちを迫害しようずしたのではない。領䞻の父宗麟は信仰を堅持しお力の限り迫害を抑えた。もし宣教垫を害しようずするのならば、先ず䜙を殺せず圌は重臣たちに云い送った。その重臣たちは田原芪堅の指導の䞋に宣教垫远攟を決議しようずしおいたのである。この決議を成立せしめなかったのは、田原芪堅を敵芖しおいる田原芪宏であった。圌は曜おその領地の倧郚分を取り䞊げられ、それが今芪堅の領地ずなっおいるのである。圌は芪堅が敗戊の責を宣教垫に転嫁しようずするのに反察し、宣教垫を庇っお芪堅を責めた。この有力な反察が宣教垫远攟の議を芆えしたのであった。これは䞀五䞃九幎䞀月末、日本の正月の少し前のこずであった。  こうしお宣教垫远攟の危機は過ぎたが、しかし盎ぐ続いお内乱の危険が迫った。右の田原芪宏は、突劂臌杵を去っおおのれの領地に垰り、珟圚芪堅の所領ずなっおいる圌の旧領地の返還を芁求したのである。䞖間では芪宏叛起の噂が専らであった。たた実際、その芁求が容れられなければ圌は叛起したであろう。圓時の圢勢では、臌杵も府内も圌を防ぐだけの力を持たなかった。䞡垂は掠奪され、焌かれるであろう。キリスト教排撃でなくずも結果は同じである。䞡垂の垂民は避難の準備を始めた。キリシタンたちも隒ぎ立った。宗麟は、自分が囜を治め始めお以来の未曜有の難境であるず云った。元宗麟倫人の呚囲のものは、矩統が出陣したあず盎ちに兵士を以お䌚堂を襲撃しようなどず語り合った。宗麟は䌚堂に入っお防ぐであろうから、圌をも片附けよう、ずいうのであった。カブラルはたた死の芚悟をきめお、䌚堂で祈祷を続けた。  がこの緊匵は、領䞻が芪宏の芁求を容れるこずで解決した。宗麟は芪宏に叛意なきこずを認めお、圓䞻矩統にその指図をしたのである。それは、二月䞀日のこずであった。ずころでこの解決は、教䌚にずっお予想倖の奜い結果をもたらした。ドン・シマンの問題以来、教䌚迫害の䞭心勢力であった田原芪堅は、その領地の倧郚分を倱い、それず共にその名声をも倱ったのである。人々は日向敗戊の責を圌に垰した。圌は臌杵を去っお、貧匱ずなった領地に匕き籠った。その埌、芪宏に苊しめられた圌は、宗麟ずゞュリア倫人の蚱に曜おのキリシタン迫害を詫びお来た。このような芪堅の倱脚に぀れお元の宗麟倫人もたたその収入や勢力を倱った。  こうしお教䌚は萜ち぀いた。矩統もたた異教埒ずしおのキリスト教倖護の態床を回埩した。しかし容易に回埩の出来なかったのは、筑肥地方に察する倧友氏の勢力であった。  その倏、巡察䜿ワリニャヌニが、日本に着いたのである。圌が口の接で催した宣教垫䌚議には、カブラル以䞋むルマンたちも豊埌から出かけお行った。宗麟は圌らに護衛を぀けたが、しかしそれでも亀通は可胜になっおいたのである。  矩統はワリニャヌニに曞簡を送り、心䞭は埓前ず倉らないが、政治的必芁䞊それを隠しおいるのだ、ず匁明した。ワリニャヌニがカブラルず共に豊埌に来なかったのは、豊埌の政情の䞍安のためであろう。やがおこの幎の秋には田原芪宏の叛起の圢勢がだんだん熟しお来た。領䞻の抌えがもう利かなくなっおいたのである。芪宏は十二月の初めに急死したが、埌嗣芪貫は盎ちに府内進撃の態勢を瀺した。田北玹鉄がひそかにそれに応じおいた。  この時宗麟ず矩統ずは、少数の兵を率いお府内にあったが、圢勢は非垞に非であった。もし芪貫の艊隊が暎颚に劚げられず、予定通り行動するこずが出来たならば、府内は簡単に攻略せられたであろう。重臣たちで芪貫に察しお戊おうずするものは少なかった。さすがの宗麟もこの時には囜の滅亡を芚悟し、宣教垫たちに囜倖ぞ避難するこずを勧めたほどであった。圌はこの時の心情をワリニャヌニやカブラルに曞き送り、自分たち父子が呜を倱うこずよりも、豊埌のキリスト教䌚の砎滅の方が぀らいず云った。それほどであるから、教䌚の人たちも今床はもう駄目だず思っおいた。しかしワリニャヌニもカブラルも、豊埌から動いおはならないずいう考であった。どこぞ行ったずお危険はある。神の摂理に䞀切を委せるほかはない、ずいうのである。  この時重臣たちの間に団結を取り戻したのは宗麟の力であった。圌らはこの隠居が再び出銬しお政暩を執るこずを垌望するようになった。圓䞻の矩統もこの必芁を認め、自ら父を蚪ねおこのこずを懇請した。しかし宗麟はおのれの子の面目を傷けるこずを欲しなかった。矩統はあくたでも領䞻ずしお留めるが、実質䞊すべおのこずを宗麟の意志によっお決定する、これが宗麟の解決策であった。それでも圌の智慧ず暩嚁ずは再び有効に働き出したのである。重臣たちは結束しお芪貫を打倒するこずになった。それは䞀五䞃九幎の十二月であった。  それでもこの内乱の鎮圧は急には運ばなかった。䞀五八〇幎の埩掻祭の頃には、宗麟自身はもうワリニャヌニを迎えおよいず考えたのであったが、その時にさえも田北玹鉄は、途䞭で巡察䜿䞀行を誅殺しようず蚈画しおいたのである。幞にしおワリニャヌニは出発せず、この危険を免れたが、その機䌚に玹鉄の叛逆が曝露し、間もなく蚎䌐せられた。それによっお芪貫の勢力は著しくそがれ、宗麟の信甚ず暩嚁ずは著しく回埩した。  䞀五八〇幎の秋には、芪貫はその居城に远い぀められた。宗麟は筑埌の囜境ぞ出お肥前の竜造寺ず勝負を決しようず考えるたで勢力を回埩した。䞁床その頃、九月䞭旬に圌は巡察䜿ワリニャヌニを豊埌ぞ迎え入れたのである。ワリニャヌニは府内に数日留たった埌、芪貫の城を攻囲䞭の矩統を蚪ね、次で臌杵に来お宗麟に䌚った。二幎前の十月四日、サン・フランシスコの祭日に、宗麟はカブラルたちを぀れお日向に出発したのであったが、今戊争遂行の協議のために矩統のもずぞ行こうずしおいた圌は、その出発前、同じ祭日に、祝祭を行う蚈画を立おおいた。ワリニャヌニは、オルガンの䌎奏の䞋に荘厳ミサを行っお宗麟を喜ばせた。宗麟は神父たち䞀同をその邞に呌んで倧に饗応した。  ワリニャヌニは府内ず臌杵の宣教垫たちを集めお協議䌚を開いた。カブラルの反察にもかかわらず圌はあくたでも日本人の教育に重点を眮こうずした。臌杵には、ダ゜䌚ぞの入䌚垌望者のための緎習所ノビシダドを蚭立する。府内の宣教垫通はむルマンたちが孊問を継続し埗るような専門の孊林コレゞペにする。緎習所の卒業生は、幎霢ず時間の蚱すかぎり、コレゞペに圚孊させるのである。倖来の宣教垫たちはここで日本語を孊ぶ。文法曞も出来、二幎かかれば日本語は間に合うようになる。なお右のほかに、野接ず由垃ずに宣教垫通を蚭けなくおはならぬ。  この蚈画は早速実行に移され、臌杵のノビシダドはクリスマスの前日に開かれた。最初ワリニャヌニが入孊を蚱したのは日本人六人ポルトガル人六人であった。教垫は前にロヌマで新入䌚員を教えおいた神父ペロ・ロマンである。新しい建築にも取りかかり、翌幎出来䞊った。孊生も日本人をさらに四人入れた。日本人孊生の成瞟は予期したよりも遙かに奜かった。その䞭には䞃十四歳の老人ず、四十歳になるその子なども混っおいた。  府内のコレゞペにはダ゜䌚士が十䞉人いた。内䞉人は神父で、その䞭の䞀人がラテン語を教える。日本語の教垫はむルマンのパりロで、もう䞃十歳を越えた埳の高い人であった。このパりロなどの尜力で文法曞のほかに蟞兞や飜蚳曞が出来た。カテキスモ聖教芁理の蚳が出来たのもこの時である。  ワリニャヌニは䞀五八䞀幎の䞉月初めに豊埌を出発しお京畿地方に行き、垰りは土䜐薩摩経由で秋になっお豊埌ぞ垰っお来た。この間に宗麟は著しくその嚁望を回埩しおいた。囜内の謀叛人田原芪貫は、培底的に片づけられ、竜造寺や秋月ずの戊争は有利に進展した。その際に有名な圊山霊山寺の焌蚎をやったのである。これは信長の叡山焌蚎ず同じような意味のものであるが、恐らく信長の圱響でもあったであろう。それに䌎っお囜内では身分ある歊士たちの改宗が頻りに行われた。䞀五八䞀幎だけで五千人を超えたずいわれる。䞭でも、宗麟が力を入れ䞖間をも驚かせたのは、元宗麟倫人たちの垫ずしお声望の高かった高僧フむンの改宗であった。宗麟はこの人物を芋蟌み、「領内の半分が垰䟝するより以䞊に倧切なこず」ずしお、その改宗に骚折ったのである。これにはさすがの元宗麟倫人も兜をぬいだずいわれおいる。  䞀五八䞀幎の九月には、宗麟は臌杵に倧きい䌚堂の建築をはじめた。䞁床その頃にワリニャヌニが京郜の方から垰っお来たのである。そこでワリニャヌニは䌚堂のために荘厳な定瀎匏をあげた。豊埌にいる宣教垫たちが皆集たっお来た。その数は四十人に達した。数幎前には僅かに䞀二人に過ぎなかったのである。そこで人々は改めお日向敗戊以来の艱難な幎月を回顧した。宗麟はあの敗戊によっお数倚くのキリスト教排斥掟が戊死したこずを感謝しさえした。実際この二幎間に宗麟の努力によっお埗た教䌚の収穫は、その前の䞉十幎間の収穫よりも倚かった。䞉十幎間に出来た信者の数は僅かに二千で、しかも身分の䜎いものが倚かったが、今は、信者数䞀䞇を超え、その䞭に身分の高い歊士が倚く含たれおいる。宗麟改宗埌にもしあの蹉跌がなかったならば、豊埌党囜はすでにキリスト教化しおいたであろう、ず人々は感じた。日向ぞ進出したずきの宗麟の空想は、必ずしも根のないものではなかったのである。  臌杵の䌚堂は、日本にある䌚堂のなかで最も金のかかった立掟なものであった。宗麟はそのために工人を京郜から招いた。四カ月かかっお倧䜓の建築が出来、屋根も葺き終り、内郚の工事にかかった。その頃にワリニャヌニは、ロヌマぞの日本の䜿節を぀れお長厎を出垆しようずしおいたのである。それは、䞀五八二幎の二月であった。 八 ロヌマぞの少幎䜿節  ワリニャヌニがロヌマぞ連れお行こうずしたのは、宗麟の姪の子であるドン・マンショ䌊東祐益、倧村玔忠の甥で同時に有銬晎信のいずこに圓るドン・ミカ゚ル千々石枅巊衛門、この二人の芪戚に圓るドン・ゞュリアン䞭浊、ドン・マルチノ原、及びこれらの少幎の家庭教垫の栌で日本人むルマンのゞョルゞ・ロペラ、の五人であった。これらは皆有銬のセミナリペの果実なのである。  有銬のセミナリペはワリニャヌニが日本に来お先ず手を぀けた仕事であった。䜕故に有銬が先ず圌によっお取り䞊げられたかずいうず、圌は枡来早々有銬晎信の改宗に関䞎したからである。  倧村玔忠がキリシタンずなり、その領内の長厎がポルトガル船の寄枯地ずしお栄え始めた埌にも、兄の有銬矩貞は䞭々改宗しなかったが、しかしキリシタン倧名ずしおの玔忠の䞍思議な匷さを知るに埓い、远々ず気持が動いお行った。そうしお遂に䞀五䞃六幎四月、その家族ず共に掗瀌を受けた。京郜で新䌚堂の建築が行われ、豊埌で宗麟の次男が掗瀌を受けお問題をひき起しおいた頃である。有銬領内のキリスト教は領䞻の改宗によっお掻気を呈しお来た。領䞻はその暩力を以お仏寺をキリスト教の䌚堂に改造する。人々はそれに远随し、半幎の間に信者数二䞇に達した。党領キリシタンの理想もやがお実珟されるかに芋えた。  しかるにこの圢勢はこの幎の末に突然逆転した。矩貞は腫物で急死し、反動掟は埌嗣晎信を擁しおキリスト教排撃を始めたのである。葬儀は仏匏で営たれた。宣教垫は皆口の接に匕き䞊げざるを埗なかった。䌚堂は再び仏寺ずなり、異教に逆転する信者も盞圓にあった。有銬晎信の治䞖は、このような反動匟圧を以お始たったのである。  しかし新興の竜造寺の圧迫は、晎信のこの反動的な態床を持続せしめなかった。圌はキリシタン倧名たる叔父玔忠の揎助を受けなくおはならなかったし、たたポルトガル船の火薬の䟛絊をも必芁ずしたのである。そういう政治的理由が圌の態床を緩和させた。䞀五䞃九幎䞃月、ワリニャヌニが枡来した頃には、晎信はもうかなりに動きかけおいた。  口の接䌚議で日本のいろいろな情勢を聞いたワリニャヌニは、先ず豊埌を蚪れようずしおいた初めの予定を倉曎しお、この手近かな有銬に着目した。圌が有銬に晎信を蚪ねお行くず、晎信は非垞に圌を欟埅しおキリシタンずなる意志を瀺した。そこで問題は、出来るだけ囜内の玛争を避け぀぀この領䞻を受掗せしめるこずであった。その内竜造寺の圧迫がひどく加わり、領内の諞城が攻略された。この圢勢を芋お仏僧さえもキリスト教ずの提携を説くほどになった。しかし他方にはキリスト教にかこ぀けお背反を蚈るものさえあった。ワリニャヌニは掗瀌を躊躇したが、しかし窮境に立った晎信は遂に心からキリスト教の神に瞋る気持になった。こうしお䞀五八〇幎の埩掻祭の頃に、晎信はワリニャヌニから掗瀌を受け、プロタシペずなった。芪類や家臣倧勢が䞀緒であった。  ワリニャヌニは、既に危殆に瀕しおいた有銬の城に入り、糧食匟薬等を䟛絊しお晎信の難を救った。これにはポルトガル船の協力を埗たのである。この効果は芿面であった。䜕人ももう反キリスト教的態床を執り埗なかった。晎信は領民にキリシタンずなるこずを勧め、領内の仏寺、党郚で四十䜙を悉く毀っお、キリスト教䌚堂建築の材料に圓おた。こうしおこの埌数幎の間に党領キリシタンずいうこずが実珟されお行くのである。  こういう背景のもずにワリニャヌニは有銬のセミナリペを建蚭したのである。  もっずも、䞀五八〇幎以来ワリニャヌニが着手したのはセミナリペばかりではない。有銬ず有家ずには、西北九州地方で最良のものずいわれる倧きい䌚堂が建おられた。いずれも非垞に倧きな工事で、仏寺の朚材を最沢に䜿い、信者にも異教埒にも匷い印象を䞎えるような立掟なものであった。有銬のセミナリペも䌚堂ず共に建築し始め、翌幎倧広間が竣工したずいわれおいる。がセミナリペは、その建物が出来る前に、倚分晎信の改宗埌間もなく、開蚭されたのである。身分の高い少幎で才胜の優れたもの二十六人を、有銬の地に集め、それを教育するために神父二人、むルマン四人を぀ける。それをワリニャヌニは䜕よりも先にやった。だから圌が日本を去ろうずするたでの二幎足らずの間に、芋事な果実がみのったのである。  ワリニャヌニがセミナリペに定めた孊課課皋は、のちに安土のセミナリペに䞎えたず同じく、日本語の読み曞き、ラテン語の読み曞き及び音楜であった。圌はこの教育が始たっおから間もなく豊埌に移り、次で京畿地方を巡察したのであるが、䞀五八䞀幎の秋の末に有銬に垰っお、ほが䞀幎半の教育を受けた少幎たちを芋たずき、これで巡歎の間の蟛苊は十分に報いられたず云った。少幎たちは自分たちの工倫で色玙を色々に切抜いおセミナリペの広間を食り、瀌拝所や祭壇にも朚圫の像を食付けお盛倧な歓迎䌚を開いたのであるが、䜕よりも圌を喜ばせたのは、この少幎たちの著しい進歩であった。圌らはもずもず行儀がよく、入孊しおからの二幎近い間、曜お䞍行迹を瀺したこずがない。極めお仲がよく、謙遜で信心深いこずは緎習生以䞊である。だから進歩は䞻ずしお知力の䞊に芋られた。これらの少幎らが孊問に熱心なこずは党く期埅以䞊で、ペヌロッパの少幎よりも才智ず蚘憶力ずにおいお勝っおいる。ずいうのは、これたで芋たこずもない文字を、僅か数カ月で読み曞きし埗るようになるからである。ラテン語を芚える速力で比范するず、ペヌロッパの少幎ず同皋床、或は䞀局早い。  この優秀な成瞟を芋おワリニャヌニの心は躍った。ペヌロッパ人にこのセミナリペの成果を芋せたい。そうしお日本の救枈をなし埗るものは実にこのセミナリペであるずいうこずを玍埗させたい。日本ではこういう少幎がこの䞀二幎の間にすでに五十人逊成されおいる。セミナリペの定員をさらに癟人ず぀に殖しお教育しお行けば、短期間に倧した効果が䞊るであろう。こう考えお圌はセミナリペの少幎を䜕人かペヌロッパぞ連れお行く蚈画を立おた。それを圌はキリシタン倧名のロヌマ教皇及びポルトガル王に察する䜿節ずいうこずに結び぀けたのである。そこで圌は倧友、倧村、有銬の䞉領䞻に説いお、圌らの䜿節たり埗べきものをセミナリペの少幎のなかから遞み出した。倧友宗麟の䜿節は初め宗麟の姪の子䌊東祐勝ずする筈であったが、祐勝は安土のセミナリペにあっお間に合わないために、そのいずこの䌊東祐益を以お代えたずいわれおいる。しお芋るずこの遞択はかなり抌し迫っおから行われたず芋なくおはならぬ。が、もずもず「䜿節」ずいうこずよりも「セミナリペの少幎」ずいうこずの方が根本なのであるから、その遞択の範囲はきたっおいたのである。ワリニャヌニたちが䞻ずしお心配したのは、十四歳をただ越えおいないような少幎たちを芪たちが手離すかどうか、或は少幎たちの方で母芪の手蚱を離れ埗るかどうか、ずいうこずであった。しかるにそれは案倖容易に運んだ。それだけにワリニャヌニも少幎たちに察しお芪のように心を配っおいる。日本人むルマンのゞョルゞ・ロペラを同行させたのは、この若い日本人が特別に成瞟がよく、セミナリペに数カ月いただけでダ゜䌚に入䌚を蚱され、その埌䞀幎の緎習を経お来たずいう優秀な人であっお、「日本人むルマン」の暙本ずしお適圓であったためでもあるが、同時に少幎たちが氞い倖囜旅行の間に日本語を忘れおはならないずいう配慮からも来おいたのである。  このワリニャヌニの蚈画は、やがお数幎埌に、圌の考えた以䞊の成功を収めた。少幎たちはペヌロッパで異垞な歓迎を受け、ダ゜䌚は日本垃教の独占暩ず倚額の補助金を獲埗した。日本人がペヌロッパの文化に盎接に觊れる道も開かれたかの劂くに芋えた。が、埀路にゎアで病歿したゞョルゞ・ロペラを陀き、四人の少幎が皆無事で八幎の䞖界旅行を終えお日本に垰っお来たずきには、事情はすっかり倉っおいた。圌らのあずに汪然ずしお続くべきであった流れは、もはや涞れおいたのである。  が䞀五八二幎の二月に圌らがこの䞖界旅行に出で立ずうずしおいたずきには、圌らは新しい朮流の尖端に立っおいた。圌らはただに倧友、倧村、有銬などのキリシタン倧名を代衚しおいたばかりではない。これらの諞倧名を圧迫しおいた薩摩の島接、肥前の竜造寺ずいえども、ペヌロッパぞの觊手は同じように出したがっおいたのである。  ワリニャヌニは、有銬晎信を竜造寺の圧迫から救ったが、しかし竜造寺隆信は宣教垫たちを攻撃するようなこずはしなかった。有銬や倧村の領䞻が圌に察しお恭順の態床を瀺すならば、それ以䞊に領地を攻略する必芁もなかったのである。䞀五八䞀幎に宣教垫たちを心配させた事件は、竜造寺隆信が倧村玔忠ずその嗣子ずを䜐賀に招いたこずであった。この招埅に応ずるこずは、玔忠䞀族の運呜を䞀時隆信の手䞭に委せるこずを意味した。人々は疑懌し、神父ク゚リペもそれを危んだが、玔忠は決然ずしおその招埅に応じた。隆信は圌を欟埅し、おのれの嚘を圌の嗣子に嫁せしめようず玄した。それでもク゚リペたちは隆信に察しお懞念を抱き続けおいる。ワリニャヌニは竜造寺ず芪しむこずがキリスト教䌚の安党にずっお必芁であるず考え、しばしば人を遣わしお隆信の機嫌を䌺わせた。そうしおその懇望に埓いク゚リペをしお圌を蚪ねさせた。隆信はク゚リペを欟埅しお、ポルトガル船が竜造寺領の枯に来るよう斡旋しお貰いたいこず、竜造寺領内に䌚堂を建お垃教するこずを蚱すこず、などを話した。ク゚リペはこの隆信の友情にもあたり信頌を眮かなかったが、しかし貿易の垌望、埓っおペヌロッパ文明ずの接觊の垌望を竜造寺が持っおいたこずは、吊定の出来ないこずであろう。  島接の方も同様で、ワリニャヌニが旅行の途䞭船で寄った時などには非垞に欟埅したのみならず、ポルトガル船をその領内の枯に招臎するために、䌚堂の建蚭や垃教の蚱可に関しお、ワリニャヌニやク゚リペず亀枉を始めた。ワリニャヌニが日本を出発するためにすでに船に乗った埌にも、それに関しお具䜓的な申入れをする䜿者が薩摩からやっお来た䜍である。  キリシタンの敵ずさえ芋られる異教埒の領䞻たちがこのように熱心にワリニャヌニの方ぞ手を出した䜍であるから、キリシタン倧名の倧村玔忠や有銬晎信がワリニャヌニに察しおいろいろ積極的に぀くそうずしたこずはいうたでもない。晎信は䞀五八〇幎にワリニャヌニに助けられた埡瀌ずしお、浊䞊を教䌚に寄附した。それを聞いた玔忠は、長厎を教䌚に寄附しようず申出た。ワリニャヌニは、これを受け容れるかどうかに぀いお、西北九州、豊埌、京郜などの神父たちずも盞談し、玔忠ずも幟床か䌚芋した。玔忠が、長厎を教䌚領ずしたいずいう理由はこうであった。第䞀、竜造寺が長厎をねらっおいる。竜造寺に枡せばポルトガル貿易も圌に奪われおしたう。拒絶すれば圧迫を加えおくるであろう。教䌚領ずしお眮けば安党である。第二、教䌚領ずなれば倧村は䟝然ずしおポルトガル貿易を続けるこずが出来る。第䞉、倧村氏にずっおの安党な避難堎所になる。これらの理由は、倧䜓神父たちを承服せしめるこずが出来た。竜造寺に貿易の利益を䞎えれば、正面の敵たる倧友氏に倧打撃ずなるであろう。それは結局キリスト教埒にずっおの倧損害である。長厎はキリシタンの避難所ずしお確保しなくおはならぬ。いずれ日本には叞教を眮く必芁があるが、長厎は叞教の座ずしおも安党でなくおはならぬ。こう考えお、ワリニャヌニは長厎を教䌚領ずするこずに賛成した。玔忠は長厎のほかに䞀里先の茂朚をも教䌚に枡した。もっずも叞法暩だけは領䞻の手に残したのである。  ワリニャヌニは長厎の垂民に察しお䌚堂を䜕よりも尊敬すべきこずを教え蟌んだ。ここの宣教垫通には神父䞉人、むルマン䞀人、日本人むルマン䞉人を眮いた。倧村の宣教垫通は、神父二人、むルマン二人であった。ワリニャヌニが京郜から垰っお来たずき、玔忠は倧村で盛倧な祝宎を開き、長厎ぞも二床蚪ねお来た。そうしおその幎のクリスマスには、ワリニャヌニを倧村ぞ連れお行っお荘厳な祭を行った。䟋の通り挔劇の催しもあった。  有銬のセミナリペの少幎たちは、そういう瀟䌚的雰囲気のなかから出発しお行ったのである。 第十二章 鎖囜ぞの過皋 䞀 信長殺さる  䞀五八二幎二月、ワリニャヌニが少幎䜿節たちを぀れお長厎を出発したあずの日本は、九州でも京畿地方でも新しい機運が五月の若葉のように萌え䞊っおいた。副管区長ク゚リペは有銬で盛倧な埩掻祭を祝う。晎信の母・祖母・姉効、倚数の家臣などが掗瀌を受ける。盞圓に力のある仏僧たちさえも、転向しおくる。有銬のセミナリペは呚囲の日本人が目を聳おたほど、顕著な存圚になっお来た。フロむスも、日本でキリスト教を発展させるには、人間的にはこのセミナリペのほかに頌るべきものがないずいっおいる。そのほか附近の有家、島原、高来、少し離れお倩草、倧村、長厎、平戞、筑前の秋月、䜕凊でも教勢の進たないずころはない。特に宣教垫たちを喜ばせたのは、最初シャビ゚ルが足跡を印した鹿児島ず山口ずが回埩されそうになったこずである。鹿児島からはワリニャヌニの出発間際に有利な申蟌みがあり、ク゚リペがそれを取り䞊げようずしおいる。山口の毛利もワリニャヌニに宣教垫掟遣を求めお来たが、その埌さらにク゚リペに亀枉しお来た。豊埌では宗麟が益〻熱心で、府内の䞇宝寺を焌き、豊前の宇䜐八幡宮を焌いた。氞い間キリシタンの倧敵であった元の宗麟倫人たでが、今はキリシタンになろうずしおいる。府内のコレゞペ、臌杵のノビシダドはいずれも予期以䞊にうたく行っおいる。臌杵の新䌚堂は埩掻祭に間に合うように工事を急ぎ、府内のダ゜䌚士たちをも招いお盛倧に祭を行った。集たるものが倚く、日本䞀の倧䌚堂さえも小さく芋えるほどであった。行列の行進の時には䞉千の燈籠が動き、皮々の仕掛花火が空に茝やいた。安土でも宣教垫通ずセミナリペずは続々増築され、建築工事はなお続いおいた。䌚堂の建築はただ着手しおいなかったが、材朚はすでに買集めおあった。セミナリペは予定通り育っおいた。オルガンチノなど五人の倖囜宣教垫のほかに日本人むルマンのビセンテがいお少幎たちを教えおいたのである。総勢は䞉十五六人であった。神父セスペデスが日本人むルマンのパりロず共に開拓に行っおいた岐阜地方でも、信忠の庇護の䞋にかなりの収穫があった。京郜では神父カリダンやもう䞀人のむルマンず共に、䟋のロレン゜が掻動しおいた。オルガンチノを父のように愛しおいた䞉䞃信孝は、いよいよ父から起甚されお四囜埁䌐の指揮官に任ぜられた。四囜を平定すればそこぞキリスト教を導入するであろうず圌は玄した。ロレン゜に向っおは、あなたに来おもらいたいず云った。  そういう奜況のさなかに、突然信長が京郜の本胜寺で殺されたのである。それは䞀五八二幎六月二十日倩正十幎六月䞀日の早朝であった。明智光秀は信長の油断を芋お咄嗟に奇襲し、信長ず信忠ずを、䞀二時間で片附けおしたった。光秀が䜕故この挙に出たかは、よく解らない。猜疑か、嫉劬か、或は単なる暩力欲か。いずれにしおも光秀が、信長に察する衆人の怚嗟ずいうこずを宛にしおいたのは確かであろう。この暎王を倒せば、衆人はそれを埳ずする、ず圌は考えたのである。その蚌拠に圌は、奇襲成功埌、盎ちに近江に出で、安土城を掠奪占領するこずを䞻たる仕事ずしたのであっお、他の郚将たちに察する戊略をほずんど考えおいない。それは宣教垫たちさえも気づいた所であった。安土を呜からがら逃げ出したオルガンチノが最も怖れたずころは、光秀が圌を捕えお人質ずし、曜お信長のやったように高山右近などを味方に぀ける道具に䜿いはしないかずいうこずであった。だから圌は光秀の郚䞋の手䞭にあったずき、右近に曞簡を送り、「たずい我らが皆十字架にかけられおも、この暎君の味方になっおはならない」ず勧告した。しかし光秀は宣教垫たちを捕えようずはしなかった。が、それをほかにしおも、光秀は、摂接ぞ進出しお諞所の城から人質を取り、その城におのれの兵を入れるこずが出来た筈である。それらの諞城の兵はみな毛利ずの戊争に出埁しお居り、ほずんど空であった。高山の高槻の城などもそうである。そこには倫人ゞュスタや二人の小児が僅かの家臣ず共に留守をしおいるだけであった。しかるに光秀は安土の占領を急いで、摂接の方ぞは県を向けなかったのである。圌は右近を初め諞将たちが圓然自分の味方になるものず考えおいた。これが圌の倱敗のおもなる原因だずいっおよい。  光秀には遠くを芋る県力がなかった。信長の偶像砎壊がどれほど倚くの反感を呌んでいたずしおも、それはその時代の創造力の尖端であった。信長を倒したこずを埳ずする人は極めお少なかった。摂接河内のキリシタン歊士のなかで光秀の味方になったのは、ただ䞉箇の領䞻だけである。信長の郚将たちは急速に䞭囜から匕き返しお来た。高山右近も光秀が近江から出おくる前に高槻城に垰っお光秀進出に備えた。やがお秀吉が音頭を取り、䞉䞃信孝を擁しお、光秀の軍を山厎で粉砕した。信長の死埌二週間ず経たない䞃月二日のこずである。  安土の城も町もその埌に焌き払われた。二条の宮殿は信忠ず共に焌け倱せた。岐阜の䌚堂や宣教垫通も砎壊された。信長の建おたもの、持っおいた財宝などは、皆焌かれるか、或は掠奪された。京郜では人々が「日本の富は倱われた」ず云っお悲しんだずいう。  フロむスはこの事件を報告するに際しお、信長が皀なる才胜を有し賢明に政治を行ったこずを賞讃し぀぀も、その「傲慢」の故に身を亡がしたこずを力説しおいる。その傲慢は死の幎に極点に達し、ネブカドネザルのように自ら神ずしお尊厇せられるこずを欲した。その珟われは安土山䞊に建おた総芋寺である。そこには諞囜から有名な仏像を集めたが、本尊は信長自身であった、ずフロむスは云っおいる。信長蚘などには芋えないこずであるが、圓時の宣教垫たちの感じ方をよく珟わしおいるず思う。 二 キリシタン倧名の繁栄  信長のあずに぀いおは、光秀蚎䌐の圓時、䞖人は秀吉が䞉䞃信孝を立おるであろうず噂した。それは宣教垫たちにずっおは郜合の奜いこずであったが、しかしフロむスは、あれほど勢力のある秀吉がそんなに謙遜な態床を取るずは思わないず云っおいる。事はフロむスの予感の通りに動いた。䞀幎の内には、政敵柎田勝家、滝川䞀益を掃蕩し、信孝を自殺せしめ、倧坂の築城に取りかかった。信長を六幎間苊しめた石山本願寺のあずが、安土に代っお新しい倧郜垂ずしお発展し始めるこずになったのである。そこで工事に埓事するものは、初めは二䞉䞇であったが、埌には五䞇になった。芏暡の倧きいこずは安土の比ではない。  この新しい圢勢に際しお、キリシタンたちは、信長の死の意矩を十分芋ずおすこずは出来なかった。なるほど安土のセミナリペは芆滅したが、党員無事に京郜ぞ逃げお来お、やがお高槻の城にセミナリペを移した。高山右近は光秀蚎䌐に倧功があったため秀吉から厚遇をうけおいるが、盞倉らず教のこずに熱心で、セミナリペの神父二人、むルマン数人、生埒䞉十二人の面倒をも芪身になっお芋おいる。日本人むルマンのビセンテが、ここでカトリック教矩の講矩をしたがそれは非垞に効果があった。生埒も非垞に優れお居り、六䞃人は臌杵のノビシダドに行きたいず云い出した。即ちセミナリペは安土よりも华っおよいほどである。そのほか、キリシタンの䞭から秀吉が非垞に重く甚い始めたものが数人ある。その䞀人は小西隆䜐である。秀吉は圌の知識や才胜を芋蟌み、自分の財宝の管理や堺の町の支配などを委ねた。次はその子のアゎスチニョ行長である。行長は幌少の時から京郜の䌚堂で教育を受けたものであるが、秀吉は圌を海の叞什官ずし、播磚の宀の接をその所領ずしお䞎えた。その他秘曞官の安嚁志門、留守居圹の䌑庵老人などもキリシタンであった。これらの人々のお蔭で教䌚は秀吉から非垞に奜意を受けるこずが出来た。ずいうのは、秀吉が倧坂の経営をはじめ諞方から人々を匕き寄せようずしおいたずき、高山右近の勧誘に埓っお、オルガンチノが、倧坂に䌚堂を蚭けるこずを敢行したからである。圓時京郜の教䌚は安土焌倱の打撃で䌚堂建築などの資力を持たなかったのであるが、右近はそれが緊急の必芁であるこずを説き、河内岡山の䌚堂を倧坂に移す蚈画を立おお、その移築を自分の費甚でやろうずさえ申出たのであった。でオルガンチノはロレン゜を぀れお秀吉の蚱ぞ土地を請い受けに行った。秀吉は二人を居間の方ぞ導き入れ、小西隆䜐、安嚁志門をも加えお、五人だけで氞い間語り合った。そうしお川添いの非垞によい地所を䞉千数癟坪ほど教䌚に䞎えたのであった。それは䞀五八䞉幎の九月のこずである。この滑り出しはキリシタンたちに非垞によい印象を䞎えた。曜お安土のセミナリペがキリスト教の有力な宣䌝ずなったように、倧坂の䌚堂もたた身分ある歊士たちのための網ずなるであろう。倧坂の建蚭が、安土よりも倧芏暡であるように、キリスト教の繁栄もたた、安土時代よりは倧芏暡ずなるであろう。そう人々は考えた。  そうしおたた実際、数幎の間は、その方向に動いお行くように芋えた。䌚堂の移築は䞀五八䞉幎のクリスマスの頃にほが出来䞊り、そこで最初のミサを挙行した。぀いで䞀五八四幎から八五幎ぞかけお、続々ずしお身分ある歊士たちや倧名たちの改宗が行われた。初めは秀吉の小姓衆・銬廻衆ずいう颚であったが、高山右近や小西行長の勧誘が利いお、銬廻衆の頭の牧村政治、䌊勢束島の城䞻蒲生氏郷、秀吉の有力な顧問たる黒田孝高、播磚䞉朚の城䞻䞭川秀政、矎濃で二䞇俵をずる垂橋兵吉、近江で䞀䞇二千俵をずる瀬田巊銬䞞などが掗瀌を受けるに至った。秀吉倫人の偎に勀めおいる婊人たちの内にも固いキリシタンが出来お来た。  この情勢には圓時の政情も倧いに関係しおいるであろう。䞀五八四幎の春、秀吉は、家康ず信雄ずの叛起に備えお出陣の準備を郚䞋に呜じた。事情を知らない䞖人は秀吉が根来埁䌐をやるのではないかず噂し合ったが、戊争は濃尟の平野で行われた。その方面でも高山右近や池田䞹埌などキリシタン歊士の歊功が盞圓に目立った。しかし䞀局目立ったのは、将兵の留守䞭に小西行長のやった海軍の掻動であった。倧坂の歊備が空になっおいる隙に、根来の僧兵は倧坂を占領し本願寺を元に垰そうずしお、動き出したのである。建蚭䞭の倧坂の町は非垞な混乱に陥り、オルガンチノさえも䌚堂を棄おお船に避難した。この時、僧兵の進撃を喰いずめお危く倧坂を救ったのは、岞和田城を守っおいた䞭村䞀氏ず、䞃十艘の艊隊を率いお急遜堺の前に珟われた小西行長ずであった。行長の船には、倚数の倧きいモスケット銃・倧砲䞀門・小砲数門を茉せおいた。圌は兵を海岞に䞊げお敵兵を撃退した。この海軍の掻動に着目した秀吉は、その倏には、尟匵で氎攻めにしおいる敵城を攻撃する為に、行長の艊隊の出動を呜じたのであるが、曎に翌䞀五八五幎の春、右の根来の僧兵や玀䌊雑賀の本願寺の蚎䌐に向ったずきには、行長の艊隊を初めから共同䜜戊に䜿ったのであった。勿論䞻力は陞軍で兵数は十䞇を超えたずいわれる。この党軍の指揮官は二人であったが、その䞀人は高山右近であった。この優勢な軍隊が、損害をかたわず敵の出城䞉぀四぀を匷襲しお党滅させたので、根来、粉河等の僧兵は、敵を埅たずしお雑賀に逃げ蟌んだ。雑賀は今の和歌山附近で、海ず玀の川ず山ずに囲たれた芁害の地である。雑賀の前面に二぀の重芁な城があったが、その䞀぀は海の叞什官小西行長が匕き受けお攻略し、それが刺戟ずなっお他の䞀぀も片附いたが、行長の目ざたしい功名はこのあずの雑賀の本城の攻撃であった。そこは非垞な芁害で、根来ず雑賀の䞻力が立お籠っお居り、軍需品も米二十䞇俵を初めずしお、極めお豊富であった。匷襲は䞍可胜であるから秀吉は氎攻めの策を取り、高さ六䞃間、厚さ二十数間の土壁を城の囲り二里に亘っお築き䞊げ、そこぞ玀の川の氎を匕いたのであるが、それだけではただきめ手がなかった。そこで秀吉は、行長の艊隊に呜じお湖氎に入り船から城を攻撃させたのである。攻囲軍の将士は安党なずころからこの攻撃を芋物しおいた。行長は十字の旗を掲げた船を率いお城壁に近づき倧砲・小砲・倧モスケット銃などを甚いお攻撃を開始した。それは二䞉時間続いた。行長は倚数の船を巧みに指揮しお城の倧郚分を占領した。呚囲から眺めおいた党軍は、この光景に非垞な感銘を受けた。この攻撃で行長の船は䞀艘も焌けず、戊死者も非垞に少数なのであったが、甚だしい煙ず火に驚いた秀吉は、行長の艊隊が倧損害を受けたものず思い、退华の信号をさせた。が、この攻撃の結果ずしお雑賀の城は降服したのである。この功劎によっお行長は秀吉の党領土の艊隊叞什長官の地䜍を䞎えられ、これたで管蜄しおいた小豆島をその領土にしお貰ったのであった。  高山右近もこの戊争の際に、根来の寺を秀吉から貰っお、倧坂の䌚堂建築の甚材に圓おた。神父セスペデスはロレン゜を぀れお雑賀ぞ瀌を云いに行ったが、その時はただ攻囲䞭で、秀吉は党軍環芖の䞭に土壁の䞊で圌らを匕芋した。この高山右近の仕事ずいい、小西行長の功名ずいい、キリシタン倧名はかなり掟手に、人目に぀く掻動をしおいたのである。だからそれが倚くの歊士たちを匕き぀ける刺戟ずなったこずは争われない。もっずも蒲生氏郷が掗瀌を受けたのは雑賀埁䌐の盎前であったが、圌をここたでひき぀けたのは、高山右近の熱心な勧誘であった。傑物黒田孝高を先ず動かしたのは、小西行長である。それを掗瀌にたで導いたのは、右近ず氏郷ずであった。  これらの倧名はこの埌二䞉幎の間、キリスト教を非垞に盛倧なものにした。小西行長はその領地の宀の接や小豆島をキリスト教化したのみならず、海の叞什官ずしおの暩力を広く諞方に及がし、垃教を助けた。既に䞀五八五幎の倏に、神父パシペは、豊埌から京郜ぞ行く途䞭児島半島突端の日比の枯で、秀吉の十䞇の遠埁軍を四囜ぞ枡らせおいる小西行長に逢い、その勢力の匷倧なこずずその指揮の巧みなこずずに驚嘆しおいる。やがお䞀五八䞃幎に秀吉の九州埁䌐が行われる頃には、圌の艊隊は九州の西海岞ぞ進出するのである。島接の兵が臌杵を占領しお宗麟の建おた壮麗な䌚堂やノビシダドの建物を焌き払ったずき、豊埌の教䌚の人々を救出しお䞋の関ぞ運んだのも、圌の力であった。陞では黒田孝高の掻躍が目ざたしい。圌は小寺官兵衛ずしお秀吉の播磚平定の頃から頭角を珟わしお来たのであるが、やがお、毛利氏ず秀吉ずの間の劥協に腕をふるい、秀吉の九州埁䌐以前に、䞭囜から北九州に亘っお、準備工䜜を仕䞊げたのであった。その際副管区長ク゚リペを助けお山口の教䌚の回埩を成功させるずか、小早川隆景に説いお䌊予の開拓を始めるずか、島接の兵に蹂躙された倧友領内のキリシタンを支えるずか、その機䌚に倧友矩統を説いお掗瀌を受けさせるずか、䞭々積極的にキリシタンずしお動いおいるのである。小早川隆景は筑前筑埌の領䞻になったが、その逊子秀秋は掗瀌を受け、秀吉の呜によっお宗麟の嚘マセンシダず結婚した。孝高の嗣子黒田長政も、秀吉から豊前の父のもずぞ掟遣されたずき、父にすすめられお掗瀌を受け、熱心な信者ずなった。  そのような情勢のずころぞ、高山右近もたた秀吉に埓っお西䞋しお来たのであるから、九州埁䌐に際しお陞からも海からも十字の旗が抌し進んで行ったずいわれるのは、必ずしも誇匵ではない。 䞉 秀吉の宣教垫远攟什  秀吉は尟匵の蟲民の子から日本の絶察暩力者にたでのし䞊っお来た男である。因襲の力をはねのけお赀裞々の実力に物を云わせるずいう圓時の瀟䌚的情勢を、圌ほどはっきりず具珟しおいる人はない。埓っお圌はたた、䜕人でも、才胜さえあれば、身分が䜕であろうず、その奉ずる宗教が䜕であろうず、かたうこずなく抜擢し起甚した。小西行長、黒田孝高なども、その顕著な䟋なのである。埓っお圌は、宗教的偏芋などは持たず、人に察しお極めお自由な態床を取った筈である。しかるに圌が宣教垫たちに䞎えた印象は、信長ほどに奜くなかった。信長の死の圓時、その埌継者ずしお急に泚意され始めた秀吉に぀いお宣教垫たちの蚘しおいるずころは、すべお同情のない調子である。秀吉が「勇猛」で、「戊争が巧い」ずいうこず、「身分や家柄が高くない」ずいうこず、「富ず暩勢ず地䜍」ずにおいお信長以䞊であるこずなどを圌らは報告するだけである。そのほかには――むしろこの方が重倧なこずであるが、――秀吉は信長ほどに他人の意芋を容れる力がない、自分の意芋を他の誰のよりも優れたものず考えおいる、などずいわれる。或は、その傲慢ず暩力欲ずが信長以䞊であるずいわれる。そういう意芋を曞いおいるフロむスは、信長の死んだあずで信長の傲慢を手ひどく非難しおもいるが、しかしそれたで信長ず接觊した氞い間の報告には、かなり濃厚に信長の人柄に察する同情を芋せおいたのである。信長は信仰の芁求を持たず、埓っお宣教垫の芁求する第䞀の資栌を欠いおはいたが、しかし未知の䞖界に察する匷い奜奇心、芖圏拡倧の匷い芁求を持っおいた。それは暩力欲の充足によっお静たり埗るようなものではなかった。それをフロむスは感じおいたのである。ずころで秀吉には、そういう点がたるでなかった。これは甚倧な盞違だず云っおよいのである。  こういう盞違をはっきり芋せおいるのが、副管区長ク゚リペの謁芋の際の秀吉の態床だず云っおよい。ク゚リペは䞀五八六幎䞉月六日に神父四人むルマン䞉人を同䌎しお長厎を出発し、平戞、䞋の関を経由しお東䞊した。䞞亀沖の塩飜島で小西行長の船の出迎えを受け、宀接、明石、兵庫に寄っお、四月二十四日に堺に着いたが、その時にはキリシタンたちは、秀吉が果しお副管区長を匕芋し欟埅するかどうかを疑っおいたのである。しかるに案倖にも秀吉は、これたで曜おダ゜䌚士に察しお瀺したこずのない欟埅の態床を芋せた。それは五月四日のこずで、ク゚リペは神父四人、むルマン四人、同宿十五人、セミナリペの少幎数人、合せお䞉十䜙人を぀れお倧坂城を蚪ねた。案内者は安嚁シマンず斜薬院ずであった。䞀行は公の儀匏に甚いる建物に通され、その日登城しおいた前田利家、现川忠興その他の諞倧名も垭に列なった。高山右近も勿論その䞭にいた。やがお秀吉が珟われお、奥正面に着座し、安嚁志門が䞀人䞀人名を呌んで玹介した。そのあずでク゚リペたちを座敷内に近く進たせ、秀吉自身も座所から出お神父の偎に坐り、芪しく話を始めた。通蚳ずしお附いおいたフロむスは秀吉ず叀い銎染であったので、たずフロむスを盞手にいろいろず昔話をしたが、それにひっかけお次のような述懐をもらした。日本にいる宣教垫たちがただ䞀途に教を拡めるこずだけに専心しおいるのは倧倉によい。自分も暩勢ず富を埗るこずに専心しおそれを成就したのであるから、ほかに䜕も埗ようずは思わない。ただ己れの「名」ず、暩勢の評刀ずを、死埌に残そうず思うだけである。日本のこずが片附けば、これは匟に譲っお、自分は朝鮮ずシナを埁服するために海を枡ろうず思う。そのためには二千艘の船を぀くる。そこで神父たちに頌みたいのは、十分に艀装した倧きい垆船二隻を調えお貰いたいこずである。勿論代䟡を払う。乗組員には絊料を䞎える。もしこの蚈画が成功しおシナ人が垰服すれば、シナの各地に䌚堂を建お、キリスト教に垰䟝するこずを呜じお日本ぞ垰っおくる。日本もたた半分䜍、或は倧郚分をキリシタンずなすべきである、ずいうのであった。  これはたこずに矛盟した云い分である。キリシタンの宣教垫が䞀向䞀揆のように政治的意図を持たないこずを賞讃しながら、同時におのれのシナ䟵略の蚈画に協力するこずを芁求する。しかしそれは秀吉の意図においおは矛盟はなかった。圌は、キリシタンの宣教垫が囜内の政治の邪魔をせず、自分の圹に立぀こずを芁求したのである。垃教の代償ずしお造船の技術を提䟛させるこずは、圌にずっおは無理な取匕ずは思えなかった。しかしそれは玔然たる取匕であっお、未知の領域ぞの探求などではない。根本にある知的胜力は圌にずっお問題ではなく、ただかかる胜力の産み出した果実だけが圌に必芁だったのである。これは圚来キリスト教を排撃し぀぀ただポルトガル貿易の利益だけを埗ようずしおいた諞倧名の態床を、䞀局巧劙な仕方で珟わしたものに過ぎない。その肝腎の点をク゚リペは看取しなかったように芋える。  フロむスずロレン゜ずは、氞い間信長に接しおいた関係䞊、この点に気づかなかった筈はない。この時の謁芋のあずで秀吉はク゚リペの䞀行を倩守閣に案内し、そこに貯蔵された巚倧な富や物資を自慢しお聞かせたり、最䞊階たで連れお行っお四方を展望しながら九州埁䌐の蚈画に぀いお気焔を吐いたりしたのであるが、その際フロむスは、秀吉の自慢する黄金の組立茶宀を、是非拝芋したいず云い出しおいるし、雄匁なロレン゜は口を緘しお䜕事も喋舌らなかった。これはいずれもこの人たちの平生の態床ではない。秀吉は、曜お信長の面前でフロむスず日乗ずが激論し、日乗がロレン゜を切ろうずした時のこずを云い出し、老いたるロレン゜の頭に手を茉せお、「お前は䜕故黙っおいお話をしないのだ」ずさえ云っおいる。しかしこの二人ず雖も、ただはっきりずした意芋を立おるたでには至らなかったのであろう。  ク゚リペはこの謁芋の埌、秀吉の倫人北の政所を通じお、キリスト教垃教の特蚱状を埗ようず努めた。秀吉の党領内における垃教の蚱可、宣教垫通及び䌚堂に察する諞皮の課圹城甚等の免陀がその内容であった。秀吉はおのれの領内ずいう云い珟わしを日本党囜ずいう蚀葉に改めお、その特蚱状を䞎えた。圓時の情勢ずしおは非垞に有力なもので、山口の教䌚の回埩のためにも非垞に圹立ったのである。  ク゚リペがこういう圚来のやり方をそのたた続けお行こうずしおいた時に、秀吉の手䞭においお䞀䞖玀来の䞋剋䞊の趚勢が突然打切られようずしおいたこずをわれわれは芋のがしおはならない。シャビ゚ル枡来埌の䞉十五六幎の間、即ち秀吉が蟲村の䞀少幎から関癜にたでのし䞊っおくる間は、特にこの趚勢の激甚な時で、民衆の䞭にあった力がどしどし衚面に浮び䞊り、䌝統的なものの暩嚁が次から次ぞず壊されお行った。しかるにそれが行くずころたで行き、蟲倫の子の秀吉が関癜になったずたんに、圌はその絶倧な暩力を以お珟状の固定、埓っお䞋からの力の犁圧を蚈ったのである。その最も端的な珟われは、䞀五八六幎の秋、京郜の倧仏造営に着手するに圓っお行われた刀狩りであった。これは党囜の僧䟶及び民衆の歊噚没収、歊装解陀である。それによっお䞀揆はすべお䞍可胜になり、民衆に察する歊士団の嚁力が非垞に増倧する。瀟䌚の組織はすべお歊士階玚に郜合のよいように、思うたたに定めるこずができる。そういう思い切ったクヌデタヌを秀吉はク゚リペ謁芋の数カ月埌に断行したのである。  これは実に倧きい情勢の倉化で、この時に、近䞖ペヌロッパにおけるような町人の発達の可胜性が抌し぀ぶされ、歊士階玚の支配が確立しおくるのであるが、しかしその倉革は諞所の蟲村で地味に目立たず行われたのであっお、その翌幎の九州埁䌐のような花々しい出来事ではなかった。だから九州埁䌐が䞀通り終った䞀五八䞃幎䞃月廿四日に秀吉が博倚で宣教垫远攟什を出した時、それはいかにも突然で、その倜の気たぐれに基くかのように感ぜられた。しかしそうではなかったのである。民衆を歊装解陀する秀吉の気持のなかには独裁暩力者の自信や自尊は顕著であったであろうが、未知の䞖界ぞの探求心や芖圏拡倧の芁求はもはや存しなかった。宣教垫たちが自分の甚を぀ずめなければ远い払う、――それは前の幎にク゚リペに特蚱状を䞎えたずきの秀吉の腹であった。  秀吉が九州に入っお八代たで進んだずき、ク゚リペは䌚いに行っお捕虜の助呜などをした。その時秀吉は、いずれ博倚に行くから、その時たた䌚いに来おくれず云った。で島接が降っお戊争が片づき、秀吉が博倚に匕き返しおこの町の埩興に぀ずめおいたずき、ク゚リペは再び蚪ねお行った。そうしお宣教垫通や䌚堂の地所を貰ったのであるが、その際にも秀吉はシナ遠埁の蚈画をはっきりず語った。たた或る日海䞊でク゚リペの乗っおいたフスタ船を芋お、それに乗り移り、熱心に船の構造を芳察した。その頃に秀吉は、ポルトガル船を芋たいから、平戞に碇泊しおいる船に博倚ぞ回航するよう亀枉しおくれず頌んだのである。これは前の幎のク゚リペぞの申入れに察する回答を促したものず芋るこずができる。  ク゚リペがこの䞀幎の間にポルトガル船の入手に぀いお䜕の努力もしおいなかったこずは明かである。圌はそれが自分たちの運呜に関する重倧な問題であるずは思わず、党然閑华しおいたのであろう。たずいポルトガル船の入手が䞍可胜であるずしおも、その䞍可胜な所以を秀吉にのみ蟌たせるような手段が講じおあれば、――或は少なくずも造船の技術だけでも教えるような方法を考えおいたならば事はもう少し円満に行ったかも知れない。しかるにク゚リペは、この回航が危険で実行し難いこずを説明し぀぀、極めお消極的な態床でこの申入れを船長に取り぀いだだけであった。船長も小さい船で平戞からやっお来お、秀吉に倧垆船の回航がいかに危険であるかを説明した。秀吉はこの匁解を玍埗したかのように、船長䞀行を欟埅しお船に垰らせた。それが䞃月二十四日のこずであった。  その倜、突然、秀吉は心を倉えおキリスト教迫害を始めた、ずフロむスは報告しおいる。秀吉自身はずっず前から考えおいたず䞻匵しおいるが、それはこのような倧事を軜々しく気分䞀぀できめたず思われないためであっお、実際は突然の怒りによるのである。かく解釈しおフロむスは、元比叡山の坊䞻であった埳運の高山右近に察する憎悪や、有銬領で秀吉のために矎女を求めおキリシタン女子のために恥をかいた話などを挙げおいる。しかしペヌロッパ颚の倧垆船のこずは䞀幎来の懞案である。それに察するク゚リペの解決がいかにも拙かったこずは認めなくおはならない。だから秀吉の、ずっず前から考えおいたずいう䞻匵は、或る意味では正しいであろう。それが船長に䌚った日の倜起ったずいうこずも、いかにももっずもである。すでに事件の二日前に、垃教の前途に぀いお楜芳的な期埅を述べたク゚リペに察し、高山右近は、「激しい迫害が突然起りはしないかず心配しおいる」ず云った。少なくずも右近は䜕かを予感しおいたのである。  その倜秀吉は右近の蚱に䜿者を送り、キリシタンをやめるか、或は盎ちに領地を捚およ、ず䌝えさせた。右近は平然ずしお領地を捚おる旚を答えた。䜿者も友人も、衚面だけは呜什に埓うように勧めたが、圌はきかなかった。もしこの通り埩呜しないならば、自分で秀吉の前ぞ出お答えるず云った。  秀吉はたた䜿をク゚リペの船に送り、眠っおいた神父を起しお次の質問に答えさせた。神父たちは䜕故にかくたで熱心に垃教し、改宗を匷制するか。䜕故に瀟寺を砎壊し坊䞻を迫害するか。䜕故に人間に有甚な牛銬を食うか。䜕故に日本人を買っお奎隷にするか。ク゚リペの答はこうである。救いは䞻゚ス・キリストによっおのみ埗られるが故に、われわれは、それを日本人に説きに来たが、しかし曜お匷制したこずはない、たた暩力なきわれわれには匷制などをするこずも出来ない。瀟寺を砎壊したのは信者の自発的な行動であっお、われわれがさせたのではない。牛肉は自囜の習慣に埓っお食うが、銬肉は食ったこずがない。その牛肉も食うなずあれば止めおもよい。奎隷売買があるのは、日本人が売るからである。われわれはそれを悲しんで防止に努めたが力及ばなかった。奎隷売買を欲しないならば、先ず売るこずを犁止すべきである、ず。これらの答はいかにも戊闘的である。ク゚リペはかく答えるず共に死に就く芚悟をしたのであった。が同倜は右近远攟の通告を受けただけであった。  翌䞃月廿五日に秀吉は諞䟯を集めお宣教垫远攟を公衚した。宣教垫たちは救いを説くこずを口実ずしお人を集め、やがお日本に倧きい倉革を起そうずしおいる。圌らは博識の人であっお、巧劙な議論により倚数の倧身たちをたぶらかした。その欺瞞を芋砎ったのは自分である。今にしお圌らの䌁図を抌えなければ、䞀向䞀揆ず同じになるであろう。吊、圌らは、本願寺の坊䞻ず異なり、日本の䞻立った領䞻たちを匕き぀けるが故に、䞀局危険である。神父がキリシタン倧名たちを率いお叛起したならば、容易に抑えるこずが出来ぬであろう。かく説いお圌は远攟什を瀺した。 䞀、日本は神囜である。キリシタン囜から邪法を䌝えたのは怪しからぬ。 二、圌らが諞囜の人民を垰䟝させ、神瀟仏閣を砎壊させたのは、前代未聞のこずである。領䞻たちは䞀時その土地を預かっおいるのであっお、䜕事でも勝手にふるたう暩利を持぀のではない。倩䞋の法埋には埓わなくおはならぬ。 䞉、神父はその智慧の法を以お自由に信者を持っおよいず考えおいるず、右の通り日本の仏法を砎壊する。だから神父らを日本の地に眮かないこずにする。神父らは今日より二十日以内に甚意しお垰囜すべきである。この期間に神父らに害を加えれば凊眰されるであろう。 四、黒船は商売のために来るのであるから、別である。貿易はやっおよい。 五、今埌、仏法のさたたげをしないものは、商人でも䜕でも、キリシタン囜から自由にやっお来およい。  この远攟什は盎ちにク゚リペ及び船長の所ぞ䌝達された。ク゚リペは、船が今埌六カ月間は出垆しないから、二十日以内には出発出来ないず答えた。そこで秀吉は神父らに平戞ぞ集たれず呜じた。日本人むルマンも同様である。  それに぀いで十字の旗の培去呜什、倧坂、堺、京郜等の宣教垫通の没収、長厎、茂朚、浊䞊の教䌚領の没収、長厎のキリシタンぞの眰金負課、倧村、有銬領内の諞城及び䌚堂の砎壊などが行われた。倧村玔忠が二月前に、倧友宗麟が䞀月半前に死んだばかりであるから、ダ゜䌚の受けた打撃はたこずに倧きかった。  远攟什は急に諞方ぞ䌝達された。高山右近の新領地明石をはじめ、倧坂、京郜などのキリシタンは倧隒ぎであった。宣教垫たちは急いで平戞ぞ行かなくおはならぬ。が、信者らの信仰の情熱はこの迫害に面しお反っお燃え䞊った。宣教垫に察する同情は、異教埒の間にさえも起った。  圓時日本にいるダ゜䌚士は癟十䞉人で、ほかにセミナリペの生埒䞃十䜙人、その他倚数の同宿、宣教垫通の䜿甚人などがあったが、この時の远攟に際しお害を受けたものはほずんどなかった。新しく開かれた山口の教䌚や䞋の関の宣教垫通においおもそうであった。この远攟は䞍圓である、道理に反しおいる、日本の恥である、そう日本の歊士たちは感じたのである。  京郜にいたオルガンチノは、平戞ぞは行かず、小西行長の領地に隠れた。圌が八月十䞃日に宀から出した曞簡によるず、八月初めに远攟の知らせを受けお、いろいろ教䌚のこずを凊理したずきの状況は、「原始教䌚の迫害以来、曜お芋たこずのないもの」であった。キリシタンたちは皆殉教者ずなるこずを望んだ。圌らの内に、これほど倧きい力があろうず考えおいなかったオルガンチノは、反っお非垞な驚きを感じたずいう。  この迫害の間に起ったこずで有名なのは现川ガラシダ倫人の受掗である。倫人は明智光秀の嚘であるが、よほど才胜のあった人ず芋え、犅宗に぀いおの理解などはむルマンのコスメを驚かせるほどであった。キリスト教に興味を持ったのは、倫の忠興が高山右近の芪友で、しばしばこの宗教の噂をしたからである。䞁床九州埁䌐で倫の留守䞭、圌岞の寺たいりにかこ぀けお䟍女たちの矀に混っお宣教垫通を蚪れた。偶然その日は埩掻祭日で、䌚堂が矎しく食っおあった。その時、名を明かさずに説教を乞い、むルマンのコスメの説教を長時間に亘っお聞いたのである。コスメず激しい蚎論を戊わせたのはこの時であった。コスメはこれほど物の解る婊人を日本で芋たこずがないず云った。それが始たりで、その埌䟍女を介しお説教を聞き質問を続けおいたが、その䟍女が先ず掗瀌を受けおマリアずなった。続いお邞内の䞻立った婊人十䞃人が掗瀌を受け、残るのは倫人のみになった。その頃に秀吉の宣教垫远攟什が出たのである。それは倫人を䞀局熱心にさせた。神父の出発前に掗瀌を受けるため、駕籠に乗っお䌚堂ぞ忍んで行こう、そう圌女は決心した。神父セスペデスは、時期が時期だけに、それを危んで止めた。そうしお、マリアに教えお倫人に掗瀌を授けさせた。それがガラシダ倫人である。だから倫人の信仰は初めから殉教の芚悟ず結び぀いおいた。  そのように远攟什は华っお信仰の情熱を高めた。そこで平戞に集たった宣教垫たちは、殉教の芚悟を以お党郚日本に留たるこずを決議した。そうしおポルトガル船長をしお秀吉の蚱に次のように報告させた。日本にいる宣教垫は数が倚く、到底党郚を運ぶこずが出来ない。埓っお本幎は船に収容し埗るだけを運び、あずは明幎に延ばすこずにする、ず。その収容し埗たのは、シナぞ叙品を受けに行くむルマン䞉人のみであった。  こうしおダ゜䌚士は朜䌏戊術に出た。その朜䌏をひき受けたのはキリシタンの領䞻である。有銬晎信は党郚匕き受けようず申出たが、しかしほかの領䞻ぞも分けざるを埗なかった。オルガンチノずむルマン二人が小西行長の領内に留たったほか、あずは西北九州である。床島に四人。倧村領内に十二人。豊埌に五人。倩草島に六人。倧矢野に䞉人。五島に二人。筑埌に二人。有銬は最も倚く、䞃十䜙人の宣教垫ず䞃十䞉人のセミナリペの少幎をひき受けた。  この朜䌏戊術は殉教の芚悟に裏打ちされおいるのではあるが、しかし秀吉の远攟什はやがお緩和されるであろうずいう芋ずおしをも䌎っおいたのである。そうしおそれは芋圓違いでもなかった。秀吉は宣教垫たちが瀟䌚の衚面から圱をひそめ、圌の嚁光に恐れお萎瞮しおいる態床を瀺しおいる限り、匷いお远攟什の厳栌な実斜を迫りはしなかった。埓っお朜䌏戊術はキリシタン信仰の維持ずいう芋地から芋れば成功だったずも云える。それはただに信者たちの信仰を維持し埗たのみならず、曎にそれを内面化し深化するこずによっお著しい信仰の発展をさえもたらし埗たのである。しかしその代償ずしおキリスト教が公共的性栌を倱ったこずは十分重芖しお眮かなくおはならぬ。公的な意味においおはダ゜䌚の宣教垫は日本から远攟されお䞀人も残っおいないのである。このこずは間もなく重倧な結果を珟わしおくる。 四 キリシタン迫害史  秀吉の宣教垫远攟什によっお日本のキリシタンの信仰は揺ぎはしなかった。平然ずしお領地を捚おた高山右近の態床は、数倚くのキリシタン歊士に通有の態床であった。黒田孝高に勧められお掗瀌を受けた倧友矩統が、远攟什の出たあずで早速迫害を始めたのは、むしろ異䟋に属するのである。しかしそれにしおもこの远攟什がはっきりず䞀぀の時期を劃するこずは認めざるを埗ない。远攟什の出るすぐ前に倧村玔忠、倧友宗麟が盞次いで死んだ。その幎の末には、日本人むルマン䞭の傑物ダミダンが四十四歳で死に、䞉幎の埌には、ク゚リペも死んだ。シャビ゚ルに芋出されお以来、実質的には日本䌝道史の䞊に巚倧な仕事を残した琵琶法垫のロレン゜も、やや遅れお五幎埌に六十六歳で死んでいる。九州諞地方の開拓に倧きい働きをしたルむス・ダルメむダは、远攟什に先立぀こず四幎、六十歳で、その䞉十幎に近い掻動を終った。それやこれやを思うず、ここに䞖代の倉り目があったずもいえるのである。  远攟什が出おから䞉幎埌、䞀五九〇幎䞃月にワリニャヌニは、ロヌマぞの少幎䜿節を䌎っお垰っお来た。少幎䜿節たちはペヌロッパの服装がすっかり身に぀いた青幎になっおいた。がそれを迎える日本の情勢もすっかり倉っおいたのである。ワリニャヌニはダ゜䌚の巡察䜿ずしおではなく、ポルトガルのむンド副王の䜿節ずしお、翌幎秀吉に謁した。ペヌロッパを芋お来た青幎たちは、倚くの倧名や歊士たちに取り巻かれお、その芋聞を物語った。宣教垫は远攟しおも、ペヌロッパ文明の摂取に察する䞀般の関心はただ衰えおいなかった。ワリニャヌニは垃教のこずを党然衚に出さず、倖亀家ずしお掻動した。それは信仰の情熱に燃えた人々にずっおはたこずに歯がゆい態床であったが、しかしワリニャヌニは今こそ忍耐の時であるず芋おいたのである。  かくおワリニャヌニは朜䌏の戊術に積極的な内容を䞎えた。信者たちは公然たる䌚堂や儀匏を持たずずもその信仰を維持し埗るように「組織」されなくおはならぬ。セミナリペやコレゞペは人目に立たない山䞭や島に隠されなくおはならぬ。教えをひそかに人の心に怍え぀けるためには教矩曞がどしどし印刷されなくおはならぬ。ロヌマから垰っお来た四人の青幎は倩草のコレゞペで教え始めた。ワリニャヌニの携えお来た印刷機は長厎で、埌には倩草で、盛んに動き始めた。こうしお実質的にペヌロッパの文化が沁み蟌んで来れば、やがお教䌚が公共的な性栌を取り戻したずきに、倧きい飛躍が可胜ずなるであろう。これが䞀五九䞀幎の末にワリニャヌニの日本に残しお行った方針であった。  しかしこの忍耐匷い、地味なやり方は、スペむン人のフランシスコ䌚の進出によっおかき乱されたのである。  スペむン人がフィリッピン諞島を確保し、倪平掋航路を打開したのは、ポルトガル人のゎアやマラッカの確保よりも䞉四十幎ず぀遅れおいた。埓っおスペむン人の日本ぞの進出も、䞁床それ䜍は遅れおいる。ル゜ンの商船が平戞に入り、スペむン人が初めお日本の地を蹈んだのは、信長の死埌二幎を経た䞀五八四幎である。その埌挞次接觊が出来、䞀五九䞀幎には原田孫䞃郎がル゜ンぞ秀吉の勧降状を持っお行った。翌幎ドミニコ䌚の宣教垫がその真停を正すために日本に来お、肥前の名護屋で秀吉に謁し、再び朝貢を促す秀吉の曞状を持っお垰った。しかるに、その船が垰途難砎したために、曎にその翌幎にフランシスコ䌚の宣教垫ペドロ・バプチスタが䜿節ずなり、䞀人の副䜿ず䞉人のフランシスコ䌚士を぀れお名護屋に来た。そうしお副䜿が䞉床目の秀吉の曞状を携えお垰るず共に、䜿節ほか䞉人は人質ずしお残った。しかし宣教垫たちはそれを圚留蚱可ず解し、京倧坂方面に行くこずを垌望したのである。秀吉は垃教しないずいう条件で蚱したが、宣教垫たちはかたわずに垃教を始めた。次の幎䞀五九四幎にたたフランシスコ䌚の宣教垫䞉人が長官の返事をもたらしお京郜ぞ来た。返曞は秀吉の泚文にたるで嵌らないものであったが、しかしこれで宣教垫は䞃人になった。  これらの宣教垫が盛んに垃教掻動を始めたのである。䞀五九四幎の秋には京郜に䌚堂が出来た。翌幎には病院が出来た。倧坂にも䌚堂が出来た。長厎にもフランシスコ䌚士を垞駐せしめた。これは四十幎来日本の開拓に努力しお来たダ゜䌚士にずっおは、たこずに䞍快な出来事ず云わなくおはならない。ダ゜䌚は教皇から日本垃教の独占暩を䞎えられおいるのである。しかもその日本の垃教は、目䞋忍耐を必芁ずする埮劙な境遇に远い蟌たれおいる。拙く動くず根本的な倱敗を招くであろう。しかるにフランシスコ䌚士は、ダ゜䌚ず打合せるでもなく、ダ゜䌚士が朜䌏しおいる機䌚に、倧っぎらに日本の垃教事業を奪い取ろうずしたのである。ダ゜䌚士は憀らざるを埗なかった。䜵しフランシスコ䌚士から芋れば、日本のダ゜䌚士は秀吉の远攟什によっお悉く囜倖に逐われた筈である。即ち教皇の蚱した垃教独占暩は事実䞊消滅しおいるのである。フランシスコ䌚士はダ゜䌚士のいない日本ぞ来お垃教を始めたのであるから、抗議を受ける筈はない、この䞻匵は庇理窟ずいうほかないであろうが、しかしたた朜䌏戊術の急所を射ぬいたものずもいえるであろう。ダ゜䌚士は、抗議を持ち出すためには、おのれの远攟什違反を癜日の䞋に曝露しなくおはならない。この窮境に立っお、圌らのフランシスコ䌚に察する憀懣は䞀局深たっお行ったのである。  フランシスコ䌚士の無思慮な掻動によっお、日本垃教は実に危険な瀬戞際に立たされおいた。そこぞ䞁床二぀の事件が䞀緒に起った。䞀぀は䞀五九六幎八月に最初の日本叞教マルチネスが来着したこず、他は同幎十月にスペむン船サン・フェリペ号が土䜐の浊戞枯に入ったこずである。  日本に叞教を眮くこずは、倧分前から蚈画されおいたが、フランシスコ䌚の攻勢を憀ったダ゜䌚は、それに察抗するため急いで実珟したのであった。叞教はロヌマ教䌚の制床であるから、䌚掟の別なく指揮暩を持぀こずができる。その叞教にダ゜䌚士が任呜せられれば、フランシスコ䌚士の掻動をもダ゜䌚の方針に埓っお統制し埗るのである。マルチネスはゎアで日本叞教に就職し、䞃人の宣教垫を぀れおやっお来た。そうしお小西行長の斡旋により、むンド副王の䜿節ずしお、十䞀月に䌏芋で秀吉に謁した。  スペむン船サン・フェリペはマニラを発しおメキシコぞ向う途䞭、颱颚で船を砎損し、修繕のため浊戞ぞ入枯したのであったが、船員の保護や修繕の蚱可を埗るため䜿者を倧坂に送った。その亀枉が手間取っおいる間に秀吉は増田長盛を浊戞に急掟しお、積荷や船員の所持金を没収せしめた。その際サン・フェリペ号のパむロットは長盛に䞖界地図を芋せ、スペむン領土の広倧なこずを誇った。長盛が、どうしおそんなに領土を拡匵するこずが出来たかずきくず、圌はそれに答えお、スペむンでは先ず宣教垫を送っお土人にキリスト教を教える、぀いで信者が盞圓数に達したずき、軍隊を送っお、信者たちず呌応しおその地を占領する、ず答えた。このこずを長盛が秀吉に報告した、ずダ゜䌚偎では䞻匵しおいる。しかしサン・フェリペ号の叞什官の報告では、圓時京郜にいたポルトガル人たちが、秀吉に向っおスペむン人の䟵略を説いたこずになっおいる。スペむン人は海賊である。メキシコ、ペルヌ、フィリッピン諞島においお残虐な䟵略を行った。日本にも先ずフランシスコ䌚士を掟しお垃教させ、぀いでその囜を枬量する。そのために倚額の資金を぀ぎ蟌んでいる。終局の目的は埁服である。そう云っおスペむン人を讒したずいうのである。䞁床その時にむンド副王の䜿節、実は日本叞教のマルチネスが来おいたのであるから、スペむン人のメキシコやペルヌの埁服のこずを語らなかったずは保蚌出来ないであろう。そういう事実をただ客芳的に述べただけならば、讒蚀したずは云えないのであるが、しかしただ䞖界的芖圏を十分に獲埗しおいない日本人にずっおは、この事実を聞いただけで、圚来の挠然ずした杞憂が裏づけられるに十分であったであろう。キリシタン宣教垫たちの䌁図は、性栌においお䞀向䞀揆に倉りなく、その危険性においおは䞀向䞀揆以䞊である。そう秀吉は確信したであろう。  䞀五九六幎十二月九日文犄五幎十月廿日匟圧がはじたった。フランシスコ䌚士六人、日本人ダ゜䌚士䞉人、その他日本人信者十䞃人が京郜で捕瞛され、京郜、䌏芋、倧坂、堺などで垂䞭匕き廻しに逢い、陞路を九州たで芋せ物にしお連れお行かれ、䞀五九䞃幎二月五日、長厎の海岞の小山で死刑に凊せられたのである。  これが日本における最初の倧殉教であった。殉教者たちの䞍屈の態床ずいい、為政者偎の「芋せしめ」ずしおの故意の残酷さずいい、日本囜䞭に䞎えた印象は実に激甚であった。信者の信仰は狂熱的になり、諞方の領䞻の圧迫もヒステリックな性栌を持ちはじめた。  この幎の倏、ルむス・フロむスは、六十五歳で日本における䞉十四幎の掻動を閉じたのである。その最埌の報告は右の二十六殉教者のこずであった。  翌䞀五九八幎倏、新叞教セルケむラが巡察䜿ワリニャヌニず共に数人の宣教垫を぀れおやっお来た。その䞀月あたり埌に、教䌚の匟圧者秀吉も死んだ。  レオン・パゞェスがその倧郚な『日本切支䞹宗門史』吉田小五郎蚳岩波文庫を䞁床この幎で以お始めおいるのは、圌の蚈画した日本史の第䞉巻がここから始たるからであっお、日本におけるキリスト教の歎史をここから始めおよいず考えたわけではないであろうが、しかしたた「迫害」がキリスト教埒の完成に欠くべからざる条件であるずいう芋地から芋れば、日本のキリスト教史は、このあたりから真にキリスト教史になっおくるずもいえるであろう。しかし、ここで問題ずしおいるのは、キリスト教史ではなくしお、日本民族が䜕故に䞖界的芖圏を獲埗し埗ず、埓っお、近䞖の䞖界の仲間入りをなし埗なかったかずいうこずである。この芋地から芋れば、この埌の日本キリスト教史は、鎖囜の圢勢を激成しお行く過皋にほかならない。  勿論このこずはキリシタンの運動が日本人の芖圏を拡げるような芁玠を持たなかったずいうこずではない。秀吉死埌の十数幎間、即ち慶長幎間には、舶来の印刷術のお蔭で、ロヌマ字綎りのキリシタン曞が倚数出版されたし、たたキリシタン曞以倖にも語孊曞や文芞の曞が出版されおいる。『日葡蟞兞』やロドリゲスの『日本文兞』が出たのはこの頃であるし、『劙貞問答』や『舞の本』が出たのもそうである。日本偎の舞の本などがほずんど仮名ばかりで曞かれおいた時代であるから、それを口語の察話にひきなおしロヌマ字で綎っおも、その移り行きは極めおなだらかで、倧した困難もなくロヌマ字の採甚が行われ埗たのであった。これらの点から芋れば、慶長幎間はただただ広い䞖界ぞの接近の傟向を持っおいたず云えなくはないであろう。  しかしこれらはすべお「䜙勢」であっお、隆盛期に匵った根がいかに深くたた広く諞方に及んでいたかを瀺すに過ぎないのである。キリシタン偎の文化的掻動も著しかったに盞違ないが、それに察抗する保守的な文化掻動はさらに䞀局匷力に抌し進められおいた。秀吉が䞋から盛り䞊っおくる力を抑えお、珟状を固定させようずする方向に転じたずき、この倧勢は定たったのである。家康はこの倧勢に添い、それを完成しお行ったのであっお、その点で決しお迷っおはいない。  しかし秀吉が貿易だけは保存しようずしたように、家康もたた西掋人ずの貿易には熱心であった。そうしおこの貿易を宣教垫の垃教運動から匕き離すのが困難であるこずも知っおいた。だから圌はキリスト教に察しおは、初めから、公認はしないが倧目に芋る、ずいう態床で䞀貫しおいる。秀吉の死埌、諞方で䌚堂や宣教垫通が回埩され、殊に小西行長の領地肥埌では数倚くの新蚭を芋たのであったが、それらは問題にされなかった。だから秀吉死埌の数幎間には、信者が䞃䞇殖えたずいわれる皋である。  この圢勢に最初の倉化をもたらしたのは、䞀六〇〇幎慶長五幎の関ヶ原の戊である。それによっお埳川の芇暩が確立するずずもに、小西行長、小早川秀秋などのキリシタン倧名が亡んだ。特に小西行長の喪倱はキリスト教にずっお倧きい打撃であった。しかしそれだけならばただ倧したこずではない。キリシタン倧名でも倧村、有銬、黒田などは埳川方に附いおいたし、埳川方の有力な諞倧名、现川、前田、犏島、浅野、蜂須賀などはキリシタンの同情者であった。重芁なのはむしろキリシタン迫害が倧名の間の䞻芁な朮流ずなり、諞倧名が挞次態床を倉えるに至ったこずである。迫害の先駆者は、小西行長の個人的な敵で、小西の領地を匕き぀いだ法華信者加藀枅正であった。圌の迫害によっお肥埌の八䞇の信者は二䞉幎の間に二䞇に枛ったずいわれおいる。それに぀いで迫害をはじめたのは、小西領であった倩草島、長門の毛利などである。筑前の黒田孝高はその倧勢に反抗しおキリスト教を盛んにしおいたが、䞀六〇四幎に歿しお長政が埌を嗣いでからは、挞次圢勢が倉り、遂に長政の棄教を芋るに至った。豊前の现川忠興も関ヶ原戊の際に犠牲になったガラシダ倫人の思い出のためにキリシタンを保護しおいたが、それは十幎以䞊は続かなかった。倧村領は長厎が幕府の盎蜄地ずなった関係から盎接に幕府の圧迫を受け、倧村喜前は逞早く棄教した。ただ有銬晎信のみは倫人ず共に熱心に信仰のために尜し、教勢の拡匵を蚈っおいたが、その圌も䞀六䞀二幎には遂に流眪に凊せられたのである。  しかし政治の衚面に珟われたこの倧勢は必ずしもそのたたキリスト教信者の間の倧勢ではなかった。歊装を解陀された民衆が䜕を信じようず、それは初めの内はさほど問題ではなかった。だから宣教垫たちも、公然たる宣教を控え぀぀、内実においお信者の組織に努力し、教育をすすめ、信仰曞の出版を盛んにしお、教勢の維持や拡匵を蚈ったのである。その間、特に著しいのは日本叞教セルケむラの掻躍であった。圌は䞀方においお垃教事業の公認を再び獲埗するこずに努めるず共に、他方においおスペむンの勢力ずの察抗、即ちフランシスコ䌚、ドミニコ䌚、アゎスチノ䌚などの進出を抑えるこずに苊心した。このスペむン偎の宣教垫たちは、䞀五九六幎の倧殉教にもひるたず、䟝然ずしお日本進出に努力し、䞀六〇二幎の劂きは、マニラから枡来するもの十五人に達したのである。セルケむラはその幎の秋マニラに曞簡を送っお、このような行動がいかに危険であるかを譊告しおいる。第䞀、家康はキリスト教を奜たず、仏教に熱心である。貿易の必芁から宣教垫の滞圚を倧目に芋おいるが、公認しおいるのではない。第二、家康初め諞倧名はスペむン人が䟵略者であり、垃教は䟵略の手段に過ぎぬず信じおいる。これらの理由によっお、スペむン宣教垫の倧挙来日は、教䌚に察する迫害を激発する怖れがある。その城候はすでに顕著だずいっおよい。家康は宣教垫の到着に関しお、「あい぀らはたたはり぀けになりたくお来たのか」ず云ったずいう。偎近の高僧盞囜寺の承兌の策動で、毛利の山口、现川の小倉、黒田の博倚などには、すでに迫害が起り、或はたさに起ろうずしおいる。この調子で行くず倧殉教のようなこずがたた起らないずも限らない。だからスペむン宣教垫の無思慮な行動は実に危険である、ずいうのであった。  セルケむラの態床は、出来るだけ控え目にしおいお家康以䞋諞倧名の疑念を解き、垃教公認を取り戻そうずいうのであっお、巡察䜿ワリニャヌニず盞談しお立おた方針を守っおいるのである。ワリニャヌニがセルケむラたちず共に䞉床目に日本を蚪れたのは䞀五九八幎の倏であっお、着くず間もなく秀吉が死んだのであるが、その死に先立っお先ず着手したのは奎隷売買問題の解決であった。この問題は秀吉の远攟什の䞭で最も手ひどく教䌚にこたえたものである。远攟什発垃の圓時ク゚リペは、日本人が売るから悪い、そちらで犁止したら奜かろうず秀吉に答えたのであったが、ワリニャヌニずセルケむラずは、ポルトガル商人に奎隷売買を犁ずる態床を明かにしたのである。この犁什は最初の日本叞教マルチネスが既に着手しおいたが、ただ実珟されずにあったのである。これはキリスト教埒ずしおは圓然の態床であるが、しかしポルトガル商人の利益を制限する意味においお、盞圓困難な仕事であった。それだけに远攟什緩和に圹立぀筈でもあった。぀いで秀吉の死埌には、ワリニャヌニは、以前倧坂にいたロドリゲスを連れお、犁圧緩和の運動に倧坂ぞ出たりなどした。諞倧名には同情者もあり、うたく行くように芋えおいたが、そのうち関ヶ原の戊争が起り、小西行長の滅亡その他事情の倉化で、問題は非垞にデリケヌトになっおいた。䞁床そこをスペむンの宣教垫たちが掻き廻し始めたのである。ワリニャヌニはその頃に日本を去ったらしいが、セルケむラはこのワリニャヌニの忍耐匷い宥和政策を受け぀いだのであった。  䞀六〇六幎にセルケむラは䌏芋に来お家康に謁した。ポルトガルの䜿節ずいう資栌であるから、旅行は公匏であったし、謁芋匏も公匏であった。しかし実質的にはセルケむラは、叞教の正装で家康に䌚い、叞教ずしお信者たちに接した。たた近䟍の本倚正玔や京郜所叞代の板倉勝重には、垃教の自由に぀いおいろいろず懇請したらしい。翌幎にも管区長パ゚スを駿府に送っお同じように運動を続けおいる。パ゚スは江戞にも行っお将軍秀忠に謁した。本倚正信正玔父子が芪切に䞖話をした。垃教の公認に぀いおも䜕ずなく垌望があるように芋えおいた。  このセルケむラの方針をい぀も脅かしおいたのはスペむンの宣教垫たちであったが、しかしそのほかにもう䞀぀手ごわい敵が珟われお来たこずを芋のがしおはならない。それは新教囜民たるオランダ人ずむギリス人ずである。  ペヌロッパを真二぀に分裂させた宗教改革は、十䞃䞖玀の初めにはたすたす深刻な圱響を珟わしおいた。信仰の自由を守るために北アメリカに移っお行くピュヌリタンたちがもうそろそろ動き出しそうになっおいた頃である。新教ず旧教ずの察立が織り混っお、あの執拗な抗争を続けた䞉十幎戊争も、もう萌し始めおいた。新倧陞の発芋以来急激に興隆した旧教囜スペむンは、䞀五八八幎の無敵艊隊敗滅以来、ペヌロッパの芇暩ぞの望を捚おお降り坂になった。それずずもに、ロヌマ教䌚ず絶っお新教に劥協したむギリスが、海䞊の雄者になっお来た。新教を容れたオランダは、その前からスペむン王に離反しお独立のために戊っおいたが、今やその独立を殆んど完成しようずし、むギリスに察抗し埗る海囜ずなった。このペヌロッパの圢成は、間もなく東掋の海䞊ぞ響いお来たのである。  その最初の珟われは、䞀六〇〇幎四月、豊埌に挂着したオランダ船リヌフデ号であった。初めは五隻の艊隊の内の䞀隻であり、癟十人の乗組員を持っおいたのであるが、途䞭散々な目に逢っお、生存船員僅か二十四人で、ただ䞀隻豊埌に着いたのである。しかも歩けるのはパむロットのむギリス人りィリアム・アダムス以䞋六人だけで、䞉人は䞊陞の翌日死んだ。オランダが遠埁艊隊を出し始めおからやっず五幎目、東むンド䌚瀟が出来る二幎前のこずであるから、ただ東掋ぞの航海は䞍慣れだったのである。  アダムスが倧坂城で家康に䌚ったのはペヌロッパの旧暊五月十二日慶長五幎四月十日で、関ヶ原圹の五カ月前であった。家康はアダムスからオランダの独立戊争の事や、マれラン海峡を通過し倪平掋を暪ぎる䞖界航路の事を聞いたのであるが、これたで旧教の宣教垫ばかりを芋おいた家康の県には、この俗人の航海者がよほど違っお芋えたであろう。圌はリヌフデ号を浊賀に回航させ、アダムスに俞絊を䞎えお奜遇した。その結果五六幎埌にはオランダの東むンド䌚瀟ず連絡を取るこずが出来、䞀六〇九幎䞃月、二艘のオランダ船が平戞に入枯するに至ったのである。そこで䞡船の商人頭が䜿節ずしお駿府に行き、オランダのオレンヂ公の曞簡を家康に呈した。家康は通航免蚱状を䞎え、たた商通の蚭眮を蚱した。商通蚭立のこずもたた、家康には圚来の宣教垫のやり方ず異なっお芋えた点であろう。その秋には平戞にオランダの商通が出来、ゞャックス・スペックスが商通長ずしお数人の通員ず共に駐圚するこずになった。  こうしおいよいよ、オランダ貿易が始たったのであるが、半䞖玀以䞊に亘るポルトガル人の貿易や、最近にマニラから日本に進出しお最も地の利を埗おいるスペむン人の貿易などず競争するのは容易でなかった。スペックスは非垞に努力しお、二幎埌の䞀六䞀䞀幎䞃月に自分の手で第二船を入れ、アダムスず打合せお駿府に行った。スペむンやポルトガルの䜿節もその少し前に駿府を蚪れたのであるから、云わば䞉囜は鎬を削るずいう状態になっおいた。しかるにオランダ商通長スペックスのみは、アダムスの斡旋で、たるで別栌の取扱いを受け、家康ず芪しく貿易の話をするこずが出来たのである。スペックスはそのあずで江戞に出で、浊賀に廻ったが、そこでスペむンの䜿節ず萜ち合ったにかかわらず、いずれも䌚おうずはしなかった。本囜の敵察関係がここたで響いおいたのである。  こういう競争に際しお、スペむン人やポルトガル人は、オランダ人が叛逆者であり海賊であるこずを攻撃した。オランダがスペむンからの独立のために戊っおいたこず、海䞊で敵船の捕獲や掠奪をやっおいたこずは、いずれも事実である。それに察しおオランダ人や家康偎近のむギリス人アダムスが、過去䞀䞖玀に亘るポルトガル人やスペむン人のむンド及びアメリカにおける残虐な埁服行為を挙げお察抗したこずも、掚枬するに難くない。ポルトガル人及びスペむン人は䞖界的芖圏を開くずいう非垞な功瞟を挙げたのではあるが、その点を抑えおただただ暗い半面のみを物語れば、そういう事実の報告のみを以おしおも、ポルトガル人ずスペむン人ずを日本から遠ざけるこずは出来たのである。  このやり方はやがお公的な衚珟にたで達しおいる。䞀六䞀二幎八月にオランダから来た船の商人頭ヘンドリック・ブルヌワヌは、囜䞻モヌリッツの曞簡を携えお駿府に行ったのであるが、その曞簡には、ダ゜䌚の宣教垫が衚に垃教を装い぀぀、内実においおは改宗による囜民の分裂、党争、内乱をねらっおいる、ず明癜に認めおいるのである。これはもう個人的な蔭口ではない。反動改革者に察する新教埒の公然たる攻撃なのである。  この趚勢を心から憂えおいたのは、セルケむラであった。圌はスペむン囜王に察しおオランダ人の危険を頻りに蚎えおいる。たたオランダ人の策動を有効ならしめるようなスペむン宣教垫の無思慮な行動をも蚎えおいる。しかしもう遅かった。迫害はすでに䞀六䞀二幎の春、家康の膝䞋駿府においお始められたのである。  䞀六䞀二幎四月慶長十䞃幎䞉月家康は京郜所叞代板倉勝重にキリスト教䌚堂の砎华を呜ずるず共に、駿府の旗䞋歊士のうちの信者十数人を怜挙した。怜挙はなお倏たで続き、倧奥の女䞭にたで及んだ。この犁教什は有銬晎信の凊刑ず連絡があるらしく、発垃の盎前に晎信の喧嘩盞手岡本倧八が火刑に凊せられたし、たた駿府での怜挙ず同時に有銬領での犁教が励行された。  䞀六䞀䞉幎、江戞で、キリシタンの怜挙が行われた。スペむン宣教垫の経営しおいた浅草の癩病院も閉ざされた。䞃月に至っお、怜挙せられたものの内二十䞃人が死刑に凊せられた。四五幎来メキシコ通商のこずで幕府の圹人ずの間に山垫的に掻動しおいたフランシスコ䌚士ルむス・゜テロも、この時には信者ず共に捕えられおいたのであるが、巧みに出獄しお䌊達政宗に取り入り、この幎の十月には支倉垞長たちを぀れお日本を出発した。がこれも゜テロの山垫的な蚈画によるものであっお、日本における倧きい瀟䌚的情勢の珟われではなかった。  䞀六䞀四幎䞀月二十八日〈慶長十八幎十二月十九日家康はキリスト教厳犁、宣教垫远攟の政策を決定し、倧久保忠隣をその远攟䜿に任じた。家康のこの決定には南犅寺金地院厇䌝の進蚀が有力に働いおいるずいわれる。しかし、数日埌に発衚された厇䌝の犁教趣意曞は、厳めしい挢文で長々ず曞かれおはいるが、「キリシタンは神敵仏敵である。急いで犁圧しなければ囜家に害があるだろう」ずいうこずを䞻匵しおいるだけである。䜕故特にこの際远攟什を出す必芁があるか、キリスト教のどの点が囜家を害するか、などに぀いおは、䜕事も語っおいない。その䞎える印象は、宗掟的な偏執ず陰惚な憎悪ずのみである。即ち家康の頭脳ずしおの厇䌝自身が、すでにキリシタンを説埗しようずする理性的な態床を持っおいないのである。埓っお犁教がただ歊力による圧迫ずなったのは圓然ずいわなくおはならぬ。  倧久保忠隣は二月二十五日慶長十九幎䞀月十䞃日に京郜に着き、翌日から䌚堂の焌华・砎壊、信者の捕瞛、転宗の匷芁などを始めた。棄教転宗を肯んじないものは、俵に入れおころべころべず囃しながら転がしお歩いた。女の信者に察しおは裞䜓で晒らすこず、遊女にするこずなどで脅かした。さらに頑固なものは火刑にするずいっお、四条河原に十字架を建お列ねた。京郜の町は陰惚な空気に包たれおしたったのである。  しかしこの狂気じみた迫害は長くは続かなかった。二月二十䞃日には倧久保忠隣自身が領地没収の宣告を受け、その呜什が䞉月十日に京郜に着いたのである。そこで跡始末は賢明な京郜所叞代板倉勝重によっおなされたのであるが、勝重はその前からすでに远攟や流眪の穏やかな策を立お、倖囜人宣教垫に察しおは倧久保が京郜に着くよりも二週間前に退京を呜じ、䌏芋、倧坂にいた人々ず䜵せお、船で長厎の方ぞ送り出したのであった。埓っお残る問題は、日本人信者で改宗を肯んじないものの远攟である。加賀の前田家に預けられおいた高山右近の䞀矀、内藀ゞョアンの䞀矀などは、四月十五日に加賀を立っお、京郜でゞョアンの効のゞュリダたちの矀ず合しお長厎に向った。日本にいなければよいので、殺す必芁はないではないか、ずいうのが勝重の方針であった。  長厎ぞは諞方の远攟者が集たり、だんだん感情が激しお受難芚悟の行列なども繰り返されたが、幕府の官吏は諞倧名の兵を集めお厳戒し぀぀、䌚堂の砎壊焌打ちを断行し、十䞀月に至っお四癟䜙人のキリシタンを海倖に送り出した。高山右近はマニラで翌幎死んだが、内藀兄効はなお十二䞉幎生きおいた。  この倧远攟は、しかし、キリシタン宣教垫の䞉分の二を囜倖に送り出し埗たに過ぎなかった。朜䌏し残った宣教垫は、諞䌚掟䜵せお四十数人に達しおいる。しかも翌幎からしおすでに朜入垰来が始たっおいるのである。  右の倧远攟の際に、九州の諞倧名は特に厳重に犁教を実行する様呜ぜられた。䞭でも、倧村、现川、黒田などは、よほど熱心に努力しなくおはならなかった。しかし残虐な凊刑はただ行われおいない。ただ䞀぀の䟋倖は有銬領である。幕府は、棄教した領䞻盎玔を日向に移したが、家臣の殆んど党郚はキリシタンで、棄教した領䞻に附いお行こうずせず、浪人しおもずの土地に留たった。このキリシタンの態床が新領䞻を恐れさせたのみならずたた幕府をも驚かせた。そこで倧远攟断行のために長厎に集たっおいた陣容ず兵力ずを甚いお、培底的なキリシタン探策、残忍な拷問や凊刑を行ったのであった。぀たり有銬の家臣らの固い信仰、匷い操守が、迫害の残虐化を誘発したのである。  この関係はこの埌の迫害史に䞀局拡倧されお珟われおくる。倧远攟でキリシタンを断絶し埗たず芋えたのはただ衚面だけのこずで、殉教を恐れない宣教垫はなお倚数朜䌏しおいる。それに加えお毎幎勇敢な朜入者が続々ずやっおくる。幕府を最も匷く刺戟したのはこの朜入であった。それも初めの内はおもにダ゜䌚士で、単独に、隙をねらっお朜入したのであったが、䞀六䞀八幎頃から、ダ゜䌚以倖の宣教垫たちが、団䜓的、蚈画的に朜入するようになったのである。それは前の幎に倧村で殉教した二人の宣教垫の話が、マニラのスペむン人たちの間に殉教熱を煜ったからであった。第䞀回は䞃人、翌幎の第二回は五人。぀いで䞀六二〇幎の第䞉回は、人数はただ二人であったが、その匕き起した事件によっお圓局の泚目をひいた。アゎスチノ䌚のズニガずドミニコ䌚のフロレスずで、堺のキリシタン平山垞陳の船に隠れお日本ぞ朜入する途䞭むギリス船に捕獲され、オランダ船に匕枡されお平戞ぞ連れお来られたのである。オランダ人はこの捕獲が海賊行為でないこずを立蚌するために、乗員䞭に宣教垫がいるこずを䞻匵した。しかし、ズニガずフロレスずは宣教垫でないず云い匵った。そこで面倒な係争問題が起ったのである。オランダ人はその立堎を守るために、二人に残忍な拷問をも加えたらしい。この争は長厎奉行の前でスペむン人ずオランダ人が互に非難し合うずいう堎面をも展開した。スペむン人はオランダ人の叛逆ず海賊行為ずを指摘し、オランダ人はスペむン人のペルヌやメキシコの埁服を指摘した。が結局先ずズニガが自癜し、それを朜入させた眪で船長平山垞陳以䞋船員十数名が投獄され、最埌にフロレスも自癜した。圌らが長厎で凊刑されたのは䞀六二二幎の八月である。  マニラからの朜入はただこの埌にも続々ずしお行われたのであるが、しかし右の凊刑の頃たでに既に十分にキリシタン迫害ぞの拍車の効甚を発揮しおいた。宣教垫の朜入は、盎接にはそれを助ける倖囜航路船やその船員の取締りを厳栌ならしめたが、同時に日本に朜入しおいる宣教垫ずの連絡や、圌らをかくたい朜䌏せしめる囜内信者の存圚をも曝露したのである。そこで、この刺戟がなければ穏やかに秘やかに存圚し続けるこずの出来たかも知れない信者たちを、掗い立お、怜挙し、凊刑するずいう気運が生じお来たのである。  その最初の珟われは、マニラからの第䞀回朜入のあった翌幎、䞀六䞀九幎元和五幎の京郜における倧殉教であった。家康死埌䞉幎であるが、金地院厇䌝の勢力は䟝然ずしお盛んであった。出来るだけ枩和な取扱いをしようずしおいた板倉勝重も、遂にその力に抌されお、富豪桔梗屋ゞョアンの䞀家を初め、信者六十䞉人を逮捕したのである。そうしお刑の軜枛の努力も効なく、この幎の十月初めに、将軍の呜によっお、獄死を脱れた男女小児五十二人を䞃条河原で火刑に凊した。  次に著しいのは、䞀六二二幎の長厎立山の倧殉教である。䞀六䞀八幎の秋以来、マニラからの朜入者及びその連环が続々ず捕えられ、宣教垫栌のものは壱岐や倧村の牢獄に、宿䞻や五人組の連坐者は長厎の牢獄に繋がれた。獄死したものも倚かったが、埌者の内には次々に殺されたものもあった。しかしそれでも入牢者はだんだん殖えお行ったのである。その凊分が䞀六二二幎の倏頃から行われたのであった。前述のズニガ、フロレス、平山船長の䞉人が火刑、船員十名乗客二名が斬眪に凊せられたのは、八月十九日であったが、぀いで九月十日元和八幎八月五日に、数幎来たたっおいた宣教垫及び信者五十五人が、長厎の立山で、火刑ず斬眪に凊せられた。これが「倧殉教」ず呌ばれるものである。しかし凊刑はそれで終らず、二日埌に、宣教垫など十八人が倧村の山䞭の人里離れた所で刑の執行を受け、぀づいお長厎附近の諞凊で、同様の凊刑が続行された。党䜓では癟数十人に達するであろう。  ぀いで䞀六二䞉幎、家光が将軍ずなった幎には、江戞で、原䞻氎、ダ゜䌚のアンれリス、フランシスコ䌚のガルベス以䞋五十人のキリシタンが、悉く火刑に凊せられた。少しあずでそれらの人の劻子など二十六人或は四十䞉人が同じく火あぶりになった。なおこの幎には仙台でも䞉十六人凊刑されたらしい。  翌䞀六二四幎には東北地方の迫害が続き、仙台ず秋田ずで倚数のキリシタンが凊刑された。  䞀六二六幎は、家光の政策が長厎ぞ響いお来た幎である。ダ゜䌚の宣教垫九人の火刑を初めずしお、有銬における残忍を極めた拷問苛責が開始された。枩泉岳の火口がそのために甚いられた。熱湯に浞しお苊しめるのである。が殉教者たちは、その苊しみを芋せ぀けられおも、退転しようずはしなかった。最も猛烈であったのは二幎䜍であるが、しかしこの残忍な方法は䞀六䞉䞀幎たでは続けられたのである。それは思想や信仰の力に察する、歊力のヒステリヌだずいっおよい。  䞀六二九幎頃から東北の方でたた迫害が烈しくなっおいるが、長厎の方でも䞀六䞉䞉幎には、倚数の宣教垫や信者が「穎぀るし」にされた。連幎の倚量な火あぶりがただ手ぬるく感ぜられお来たのであろう。 五 鎖囜  宣教垫远攟什を出した秀吉も、犁教什を発垃した家康も、鎖囜を考えおいたわけではなかった。秀吉の远攟什には貿易の自由をわざわざ掲げおいるし、家康は犁教什に先立っおオランダ貿易を始めおいる。しかし十六䞖玀末十䞃䞖玀初頭のペヌロッパの文明を摂取したいず考え぀぀、そこからキリスト教だけを捚おお取らないずいうようなこずは、到底出来るわけのものではない。そこには教䌚の芊絆を脱した近䞖の粟神が力匷く動いおいたずしおも、ペヌロッパ人自身すら、それを玔粋に取り出すこずは出来なかった時代である。その近䞖の粟神に参䞎し埗るためには、それず絡み合ったものをも䞀緒に取り入れなくおはならなかった。そうしおそのためには圓時の日本人は極めお郜合のよい状況を䜜り出しおいたのである。叀い䌝統の殻は打ち砕かれた。因襲にずらわれない新鮮な掻力は民衆のなかから湧き䞊っお来た。宀町時代末期の民衆の間に行われた文芞の䜜品――ほずんど仮名文字ばかりで曞かれ、挢孊や挢字の束瞛を最少量にしか瀺しおいないあの物語や舞の本の類――は、今芋るず実に驚かされるような想像力の働きを芋せおいる。死んで甊る神の物語もあれば、矎しいものの脆さを具象化したような英雄の物語もある。ああいう曞物を読み、ああいう想像力を働かせおいた人々の間に、ロヌマ字曞きが拡たり、旧玄や新玄の物語が受け入れられるずいうこずは、いかにも自然なこずであったず考えられる。のみならず、圓時の日本人の匷い知識欲に応えるために、反動改革の急先鋒であったダ゜䌚士さえも、日本では、近䞖初頭に急激に発展した自然科孊の知識を振り廻したのである。関ヶ原戊埌の京郜においおさえも、神父の倩文や地理に関する話をきき、倩䜓図や地球儀を芋せお貰いに来るものが非垞に倚かったずいう。地球儀は内裏からも所望され、秀頌も興味を持ったず䌝えられおいる。䞀六〇五幎から京郜にいたスピノラは、数孊や倩文孊に通じおいお、京郜の孊者たちを集め、アカデミヌ颚のものを䜜ったりなどした。぀たりキリスト教の䌝道は圓時のペヌロッパ文明を党面的に䌝える意味をも持っおいたのである。そうしおたた、その故に宣教垫たちに匕き぀けられた人々も決しお少なくはなかったのである。だからこの際宣教垫を远攟しキリスト教を犁ずるずいうこずは、民衆の䞭から湧き䞊っお来た新しい力、新しい傟向を抌え぀け、故意にそれを叀い軌道ぞ垰すずいうこずにほかならなかった。  これは玔然たる保守的運動である。それは秀吉が民衆の歊装解陀をやったずきに、はっきりず開始された。蟲民の子から関癜にたでのし䞊った秀吉自身は、䌝統の砎壊、埓っお保守の正反察を具珟しおいたにかかわらず、自分がその運動を完成したずきに突劂ずしお反察のものに転化し、保守的運動を匷力に開始したのである。それは䞀䞖玀以来の赀裞々な実力競争においお、新興の歊士団が勝利を埗るず共に、その勝利を確保し、歊力の支配を固定させる努力にほかならなかった。この努力においお䞻ずしお県䞭に眮かれたのは、囜倖の敵を制圧するこずであっお、日本民族の運呜でもなければ、未知の䞖界の開明や䞖界的芖圏の獲埗でもなかった。秀吉は気宇が雄倧であったずいわれるが、その芖圏は極めお狭く、知力の優越を理解しおいない。圌ほどの暩力を以おしお、良き頭脳を呚囲に集め埗なかったこずが、その蚌拠である。圌のシナ遠埁の蚈画の劂きも、必芁なだけの認識を䌎わない、盲目的衝動的なものである。圌はポルトガル人の航海術の優秀なこずも、倧砲の嚁力も、十分に承知しおいた。しかも、その技術を獲埗する努力をしなかった。囜内の敵しか圌の県には映らなかったからである。結局圌もたた囜内の支配暩を獲埗するために囜際関係を手段ずしお甚いるような軍人の䞀人に過ぎなかった。  家康はこの保守的運動を着実に遂行した人である。圌はそのために䞀床砎壊された䌝統を埩興し、仏教ず儒教ずをこの保守的運動の基瀎づけずしお甚いた。特に儒教の興隆は、圌が歊士の支配の制床化の支えずしお意を甚いたずころであった。かくしお近䞖の粟神が既にフランシス・ベヌコンずしお珟われおいる時代に、二千幎前の叀代シナの瀟䌚に即した思想が、政治や制床の指導粟神ずしお甚いられるに至ったのである。それは囜内の秩序を確立する䞊に最も賢明な方法であったかも知れない。しかし、䞖界における日本民族の地䜍を確立するためには、最も䞍幞な方法であった。圌もたた囜内の支配暩を確保するために囜際関係を犠牲にしお顧みなかった軍人の䞀人である。  これらはすべお䞖界的芖圏をおのれのものずなし埗なかったこずの結果である。そうしおそれが、䞖界的芖圏を初めお開いたポルトガル人ずスペむン人ずの刺戟の結果であるこずは、たこずに皮肉な珟象だずいわなくおはならない。宣教垫たちの報告によるず、日本の歊士たちは、スペむン人の䟵略の意図を云い立おはしたが、自分たちの歊力には自信を持ち、決しおスペむン人には負けないず思っおいたずいう。秀吉がマニラ総督に朝貢を芁求したほどであるから、これは本圓であろう。それほどの自信があるなら、䟵略の意図などには恐れずに、ペヌロッパ文明を党面的に受け入れれば奜かったのである。近䞖を開始した倧きい発明、矅針盀・火薬・印刷術などは、すべお日本人に知られおいる。それを掻甚しおペヌロッパ人に远い぀く努力をすれば、たださほどひどく埌れおいなかった圓時ずしおは、近䞖の䞖界の仲間入りは困難ではなかったのである。それをなし埗なかったのは、スペむン人ほどの冒険的粟神がなかった故であろう。そうしおその欠劂は芖界の狭小に基くであろう。  その芖界の狭小は、宣教垫やキリシタンの迫害が進むに埓っお、たすたすその床を加えた。単玔に歊力を以お思想や信仰に察抗する堎合には、歊力はそれ自身の無力を芋せ぀けられおだんだんヒステリックになる。おのれの無力を承認しようずせず、䞀局その力を蚌瀺しようず努めるからである。スペむン人の冒険的粟神が宣教垫の殉教熱ずなっお日本の岞にうち寄せ、日本人のなかの背骚の固い信者たちが同じ殉教熱を以お歊力に察抗したずき、歊力は実際䜕の効果もなかった。歊力はただ圌らの生呜を奪い埗るだけであった。しかし歊力の嚁光を瀺そうずする人々は、あらゆる残虐な殺し方を工倫するこずによっお、それに察抗した。そういう陰惚な気持は、理非もなくキリスト教ぞの憎悪を高めお行く。その結果、貿易を安党に続けるための手段であった犁教が、逆に貿易をもさたざたの圢で制限する目的の地䜍を占めるに至ったのである。  䞁床この頃は新しく極東に進出したオランダずむギリスずの勢力が、圚来のポルトガルずスペむンの勢力に察しお激しい競争を敢行しおいる時であった。その間に日本の勢力も絡たり、䞉぀巎、四぀巎ずなっお極東の海䞊には連幎さたざたの事件を匕き起した。その䞭にオランダ人ずむギリス人ずの衝突、日本人ずオランダ人ずの衝突なども入り混り、決しお単玔な関係ではないが、しかし倧䜓においおポルトガルずスペむンの勢力が埌退しお行ったのである。ポルトガル人に察する居䜏の制限、婚姻の制限、碇泊期間の制限などはその珟われであった。やがお䞀六二八幎には、マニラ艊隊がシャムで日本商船を捕獲した事件が起り、その報埩ずしお、同䞀君䞻の支配䞋にあるずいう理由で、ポルトガル船䞉隻を長厎で抑留するずいうようなこずもあった。  そういう情勢の䞋に、䞀六䞉䞉幎には長厎奉行に察しおかなり厳しい倖囜貿易取締什が通達された。埡朱印船以倖の船の倖囜枡航の厳犁、五幎以䞊倖囜居䜏の日本人の垰朝の犁止、倖囜船の茞入品の統制、倖囜船碇泊期間の短瞮などを芏定したものである。この法什は、翌幎にも繰り返しお発垃され、翌々幎には改正しお発垃されたが、さらに䞀六䞉六幎寛氞十䞉幎に䞀局厳栌にした圢で発垃された。これが通䟋、鎖囜什ず呌ばれおいるものである。ここでは、埡朱印船をも含めお、䞀切の日本船の倖囜枡航の犁止、䞀切の日本人の倖囜枡航の犁止、䞀切の倖囜居䜏日本人の垰朝犁止、混血児の远攟、远攟された混血児の垰来及び文通の厳犁、その他前ずほが同様の倖囜船及びその茞入品の統制を芏定しおいる。貿易を認めおいる以䞊、厳密な意味で鎖囜什ずは云えないのであるが、然し日本人に察しお倖囜ずの亀通を遮断したずいう点においおは、鎖囜什に盞違ないのである。海倖ぞ連れお行かれた混血児が、日本にいる芪類ぞ文通した堎合には、本人は死眪、受取った芪類も凊刑される。それほどにたで倖囜ずの亀通を恐れたのである。  この法什は着々実行に移されたが、しかし長厎奉行が実珟したのはここに芏定された範囲に止たらなかった。前に蚘したポルトガル船抑留事件に聯関しお枡来したマカオの䜿節ドン・ゎンサロ・ダ・シルベむラは、執拗に努力を続けお䞀六䞉四幎に将軍に謁芋するこずが出来、その翌幎には䞉隻、翌々幎には四隻を率いお枡来したのであるが、この䞀六䞉六幎の来航の際には、長厎に着くず共に、乗組員八癟名も積荷も厳重な怜査を受け、船の垆や舵は取り䞊げられ、船員䞀同は新築の出島に隔離された。この出島は、ポルトガル人ず日本人ずの亀通を遮断するために、長厎の海岞に䜜った埋立地である。貿易のため倖囜船が日本に来おも、日本人ず倖囜ずの亀通は絶぀こずが出来る。そういう考をこの狭い埋立地が具䜓化しおいるのである。  ドン・ゎンサロの四隻の船が長厎を出発する時には、混血児二癟八十䞃人を乗せお去った。  この鎖囜什を䞀局匷固ならしめたのは、翌䞀六䞉䞃幎末に起った島原の乱であった。  島原の乱の爆発した盎接の動機は、信仰の迫害ではなくしお苛政であった。しかし爆発する力を蓄積しお行ったのはやはりキリシタン迫害である。島原半島の地はこの二十幎来、想像に䜙るような残酷な迫害の血の浞み蟌んだずころであった。殉教者は無抵抗の方針を堅持しお来たが、それが心理的に䞎えた効果はむしろ逆である。それに加えお迫害者たちは、明癜なキリシタンに察しおのみ残虐であっお䞀般領民には仁慈である、ずいう劂き区別の出来る人たちではなかった。迫害の心理はやがお圌らを暎虐な為政者たらしめる。そういう為政者の䞋にある䞋玚官吏は、䞀般領民に察しお䞀局苛酷な態床を取るこずになる。埓っお、秘かに信仰を維持しおいる民衆も、そうでない人たちも、その内心の反抗においおは䞀぀であった。その気運のなかで、小西の遺臣の子、倩草四郎時貞ずいう十六歳の少幎に、特別の倩呜が䞋ったずいう颚の信仰が燃え䞊っお来たのである。  䞁床その頃、䞀六䞉䞃幎の十二月の䞭頃に、或る村で䞋玚官吏の暪暎から村民が憀っお代官を殺すずいう事件が起った。それは応ち䌝染し、他の村々でも代官が殺された。䞀揆が蜂起したのである。䞀揆は領䞻の城島原を囲んだ。そうしお城䞻の米倉を占領し、領内の米を集めお、原城に拠り、四䞇に近い人数を以お䞉カ月間蚎䌐軍に抵抗した。倩草島でも十日ほど遅れお蜂起し、領䞻の兵を砎っお富岡に迫ったが、城を抜くこずが出来ず、原城の䞀揆に合流した。  叛乱軍は信仰の情熱に燃え、恐ろしく匷かった。最初幕府から向けられた蚎䌐軍の指揮官板倉内膳正は、原城攻略に倱敗しお、䞀六䞉八幎二月十四日に戊死した。二床目の指揮官束平䌊豆守は、攻囲軍を十数䞇に増し、オランダ船に頌んで、十六日間砲撃しお貰ったりなどしたが、倧しお効果はなかった。結局糧食の欠乏によっお、四月十䞀、十二日の総攻撃に陥萜したのである。女子䟛を合せお䞉䞇䞃千ずいわれた籠城のキリシタンは、党郚殺戮された。  このキリシタンの抵抗力は、歊士たちを驚かせたず共に、たた圌らのキリシタン憎悪を匷め、犁教政策に察する信念を固くした。倖囜ずの亀通は培底的に犁圧しなくおはならぬ。そこでこの埌数幎の間、犁教ず鎖囜ずの法什制床が続々ずしお制定されたのである。  ポルトガル人の貿易も、島原の乱の平定の幎、䞀六䞉八幎が最埌であった。乱埌の凊眮に、江戞から掟遣された倪田備䞭守は、䞀六䞉九幎九月二日、ポルトガル人远攟、ポルトガル船来航犁止を云い枡した。理由は宣教垫に察する揎助である。その幎来航したポルトガル船は即時远い返され、翌幎通商再開の嘆願に来たマカオの䜿節䞀行は、倧郚分死刑に凊せられた。  あずに残ったオランダ商人は、いよいよ日本貿易の独占を祝ったのであったが、䞀六四〇幎十䞀月䞃日、倧目附井䞊筑埌守から商通砎壊の呜什を受けた。その理由はオランダ人もたたキリスト教埒であるこず、商通の建物にダ゜玀元の幎号が蚘されおいるこずである。それず同時に日曜日を守るこずの犁止、商通長の幎々亀代などが呜ぜられた。右の商通の建物は、オランダ人が長厎移転を䞍利なりず考えた皋、倚額の費甚のかかったものであったが、商通長は圓局の断乎たる態床を芋お、その倜から培倜で砎壊工䜜に取りかかった。この埓順な態床がオランダ貿易を救ったずいわれおいる。  翌幎オランダ商通は長厎ぞの移転を呜ぜられた。前幎の商通砎壊呜什は、この移転を容易ならしめるためであったのである。かくしおオランダ人は、この埌二癟幎の間、長厎の出島に閉じ蟌められた。そうしおその出島が日本人ず倖囜ずの亀通の象城ずなった。  このように鎖囜の圢成が完成するたでには、秀吉の宣教垫远攟什以来四十五幎、家康の犁教什からでも二十䞃八幎を芁しおいる。その間に為政者の偎でのキリスト教に察する憎悪が挞次高たり、遂に海倖ずの亀通そのものを恐れるに至ったのであるが、しかしそれは囜内での支配暩獲埗の欲望が他の文化的欲求や近䞖的動きに優越しおいたこずを瀺すのみであっお、囜民の間に倖に向う衝動がなかったこずを蚌瀺するものではない。䞀六〇四幎から䞀六䞀六幎たでの十䞉幎間に幕府の出した海倖枡航の蚱可状は癟䞃十九通に達しおいるし、その埌䞀六䞉五幎の海倖枡航犁止に至るたでの海倖枡航船は癟四十八隻以䞊であったずいわれおいる。その行先は、台湟からマラッカに至るたでの諞地方、ブルネむやモルッカの諞島などである。船は、倧きい堎合には䞉癟名以䞊を乗せ、その倧郚分は商人であった。船䞻も、島接家久、束浊鎮信、有銬晎信、加藀枅正、现川忠興などの倧名や、末次平蔵、長谷川暩六などの幕府官吏を混えおはいるが、倧郚分は商人であった。角倉了以、同興䞀、末吉孫巊衛門、荒朚宗倪郎、西宗真、船本匥䞃郎、などが有名である。そうしおこれらの人たちは、倖に向っお盞圓に掻溌な働きを芋せおいたのである。  右の内で䞀六〇八幎にチャムパ占城ぞ行った有銬晎信の船は、垰途マカオに滞留しお事件を起した。船員が乱暎しおポルトガル兵に銃殺されたのである。翌幎マカオの叞什官ペッ゜アは、マヌドレ・デ・デりスずいう倧船に倚量の荷を積んで長厎に来た。この船は瞊四十八間、暪十八間、吃氎線䞊の高さ九間、檣四十八間であった。ペッ゜アは有銬晎信の船の事件を云い立おお、日本人のマカオ枡航犁止を家康に乞い、その蚱可を埗た。他方有銬晎信も船員が䟮蟱を受けたこずを云い立おお、その雪蟱の蚱可を家康に請願した。家康は、事実を調査しお適圓に凊分せよず晎信に呜じた。そこで晎信は、長厎奉行ず盞談しおペッ゜アを召喚したが、ペッ゜アはそれに応ぜず、倧急ぎで出垆の準備に取り掛った。止むを埗ず晎信は実力に蚎えるこずにしお、䞀六䞀〇幎䞀月六日にマヌドレ・デ・デりス号を攻撃し始めた。ペッ゜アは錚玢を切っお逃げ出そうずしたのであったが、颚がなくお動けず、䞉日間攻撃を受け続けた。そうしお四日目に挞く埮颚が出たので犏田のあたりたで逃げた。このたた逃げられれば晎信の面目は䞞朰れである。長厎奉行は晎信の攻撃が手ぬるいず非難し、晎信はそれを口惜しがっお、「奉行を斬り長厎を焌いお自殺する」ず云ったほどであった。幞いたた颚が萜ちお、船が動かなくなった。有銬の船隊は船にやぐらを䜜りその前面に生皮を匵っお銃撃のなかを突進しお行った。この肉迫戊の間に防犊偎の投げた焌匟で火が垆垃に移り盛んに燃え出した。ペッ゜アは火薬庫に火を぀けろず呜じお海ぞ飛び蟌んだ。火薬の爆発ず共に船はひっくり返っお沈み、ペッ゜ア以䞋は死んだ。これでようやく晎信はその面目を保ったのである。  この事件は勿論面倒な倖亀問題を匕き起したが、たたキリシタン倧名有銬晎信の没萜の因ずもなった。長厎奉行の配䞋であった岡本倧八が、右の焌打事件の恩賞を呚旋するず称しお、晎信から再䞉賄賂を取ったのである。それが露芋しお捕えられるず、今床は倧八が晎信の逆心を蚎えた。長厎奉行を斬り長厎を焌くずいった晎信の興奮した蚀葉を云い立おたのである。結局倧八は火刑、晎信は流眪次いで切腹ずなったが、その凊刑は䞀六䞀䞉幎の犁教什の盎前で、倧八、晎信、いずれもキリシタンであった。倖に向う衝動が巧みに鎖囜的傟向に利甚せられた䞀䟋ずいっおよい。  同じ有銬晎信は、䞀六〇九幎に家康の内呜を受けお台湟に探怜隊を送っおいる。これは成功しなかったので、䞀六䞀六幎に長厎の代官村山等安が幕府の蚱可状を埗お十䞉隻の遠埁艊隊を台湟に送ったが、これもたた暎颚に逢っお倱敗した。日本の貿易船が、新しく台湟ぞ進出したオランダ人ず衝突しはじめたのは、䞀六二五幎頃からである。長厎代官末次平蔵の船の船長浜田匥兵衛が台湟で掻躍したのはこの時であった。生糞貿易䞊のいざこざがだんだんこじれお、䞀六二八幎に匥兵衛が二隻を率いお台湟に行ったずきには、船に小銃など盞圓の歊噚が積蟌んであったし、乗組員も四癟䞃十人であった。䞇䞀の堎合には歊力行䜿を芚悟しおいたのである。それに察しおオランダの台湟長官ノむツは初めから高圧的に出お、歊噚を取り䞊げたりなどした。だから匥兵衛は、ノむツの䞍意を衝いお捕虜にし、それを枷に䜿っお生糞貿易の懞案を解決する、ずいうような離れ業をやった。しかもそれは出先での挿話的な出来事ではなく、やがお平戞でのオランダ船の抑留、オランダ商通の閉鎖にたで発展しお行った。オランダのバタビダ総督は翌䞀六二九幎に特掟䜿節を寄越しお事件の解決に努力したが、幕府は台湟におけるオランダの根拠地れヌランヂダ城の匕き枡し或は砎壊を芁求し、それを拒絶すればオランダ貿易を犁止するような気勢を芋せた。オランダ人は勿論この芁求には応じなかったが、しかし、日本貿易を倱うこずをも怖れ、遂に浜田匥兵衛ず事を起した前台湟長官ノむツを犠牲にするこずにしお、䞀六䞉二幎にノむツを日本に連れお来お日本偎に匕き枡した。その頃には匥兵衛の船の船䞻であった初代末次平蔵も既に死んでいたし、鎖囜の圢勢が急激に熟し぀぀あったために、幕府は事件責任者の匕き枡しを以お満足し、船の抑留や商通の閉鎖を解いおオランダ貿易を旧に埩したのである。  その埌オランダ人はいろいろず幕府の埡機嫌を取ったので、ノむツは䞀六䞉六幎に釈攟された。たた翌䞀六䞉䞃幎には、オランダ人偎から、日本ずオランダずが同盟しおポルトガルの根拠地マカオ、スペむンの根拠地マニラ及び基隆を攻略しようずいう案を持ち出した。やがお長厎代官の二代目末次平蔵は、商通長コヌクバッカヌに宛おお、幕府はキリスト教宣教垫の根拠地フィリッピンを埁服するに決した、぀いおは軍隊の枡航や䞊陞を掩護し、スペむン艊隊を撃退する、ずいう任務に必芁なオランダ艊隊を掟遣しお貰いたい、ず申蟌んで来たずいう。オランダ商通は倧艊四隻、ペット二隻の掟遣を決議し、バタビダ総督もこのこずを本囜の十䞃人䌚に報告したずいうのであるから、架空のこずではないであろう。  このフィリッピン遠埁は島原の乱のために䜕凊かぞふっ飛んでしたったが、䞀六䞉䞃幎になお気運が動いおいたのであるから、倖に向う衝動はなおかなり匷かったずいわなくおはならない。だからこの頃に南掋の日本町が盞圓に栄えおいたずいうこずは、䞍思議ではないのである。  シャムの日本人町は、銖府アナチダの南郊にあった。メヌナム河を挟んでポルトガル人町やシナ人町ず察し、オランダ商通ずも近かった。この町は、䞀六䞀〇幎代には既に出来おいたらしい。町の最初の頭領は玔広、二代目が城井久右衛門、䞉代目が山田長政である。長政は沌接の城䞻倧久保忠䜐の駕籠舁であったが、䜕時の間にかシャムに枡り、䞀六二䞀幎にはシャム四等官、䞀六二八幎には䞀等官に昇進しおいる。シャムの内乱に関䞎し、かなり倧きい勢力を持っおいたが、䞀六䞉〇幎に毒殺された。そのあず日本人町は焌き払われたが、やがお埩興しお二人の頭領を眮くこずになった。  カンボヂダの日本人町は、今のプノンペンに近い圓時の銖府りドンにあった。やはりポルトガル人町やシナ人町ず盞隣っお居り、オランダ商通ずも近かったが、䞀六䞉䞃幎の芋聞蚘によるず、日本人は䞃八十家族で、皆远攟人であった。オランダ人たちを支配しおいる枯務長官の䞀人も日本人であった。この日本人たちは䞀六二䞉幎にシャム軍が䟵入したずき囜王を揎けお敵を撃退し、䞀六䞉二幎にシャムの圧迫が加わったずきには䞃隻のゞャンクでメヌナム河口ぞ封鎖に行った。䞀六䞉六幎の内乱に際しおも囜王を助け、王から非垞に尊敬されおいた。ここぞ日本船が来たのは䞀六䞉六幎が最埌である。  亀趟の日本人町は、広南の倖枯ツヌランず、その南方八九里のフェヌホずにあった。フェヌホでは䞀六䞀八幎に船本匥䞃郎が初代の頭領になった。  マニラの日本人町は、すでに十六䞖玀の末に千人の人口を有しお居り、䞀六二〇幎頃には䞉千人に達した。䞀六䞀四幎の倧远攟で高山右近、内藀劂安、その効ゞュリダなど倧勢来たが、右近は間もなく死に、劂安たちはダ゜䌚の関係で日本人町にはいなかった。䞀六二四幎頃からは日本ずスペむンずの関係が悪化し、䞀六䞉䞃幎には八癟人に枛じおいたずいう。  右のような日本人町のないずころにも日本人は進出しおいた。銙枯の西のマカオはポルトガル人の根拠地であった関係から、䞀六䞀四幎の远攟者癟䜙人、䞀六䞉六幎の远攟者二癟八十䞃人などが行っおいるが、日本から奎隷ずしお連れお行かれたものも少なくなかったらしい。そこからずっず西ぞ行っおトンキンにもかなりの日本人がいたらしい。䞀六䞉六幎にはオランダのカピタンが日本人の家に泊めお貰ったり、長厎人和田理巊衛門や日本婊人りルサンの斡旋によっお、囜王に謁芋したりしおいる。曎にマレヌ半島南端のマラッカでは、䞀六〇六幎のオランダ艊隊の攻撃のずきに、日本人が守備隊に加わっお勇敢に防犊に努めたずいわれおいる。ゞャバのバタビダぞは、䞀六䞀䞉幎にオランダ人が倧工・鍛冶・巊官・氎倫・兵士など六十八人を雇っお行った。その埌も日本の移民を幟床か連れお行ったらしい。䞀六二䞀幎には幕府がそれを犁じたほどである。東むンド䌚瀟の䜿甚人ずしおはその頃䞃十人ずか五十人ずかの日本人がいたし、自由垂民ずしおも癟幟十人の男女がいた。モルッカ諞島にも、䞀六二〇幎には二十人、䞀六二䞉幎にはアムボむナ島に六十䞉人の日本人がいたずいわれる。なおその他南掋諞島やむンドにも少しず぀は行っおいた。  しかし以䞊のように倖に出お行った日本人に察しお、日本の囜家はほずんど埌揎をしなかったのみならず、逆にその抑圧に努めお、遂に䞀六䞉六幎に、党然本囜ずの亀通を絶っおしたった。埓っお、この埌の日本人町や海倖圚留者は、ただ衰退し消滅しお行くばかりであった。だから、圓時の日本人に倖に向う衝動がなかったのではない、為政者が、囜内的な理由によっおこの衝動を抌し殺したのである、ずはっきり断蚀するこずが出来るのである。  ぀たり日本に欠けおいたのは航海者ヘンリ王子であった。或はヘンリ王子の粟神であった。  恐らくただそれだけである。そのほかにさほど倚くのものが欠けおいたのではない。  慶長より元犄にいたる䞀䞖玀、即ちわが囜の十䞃䞖玀は、文化のあらゆる方面においお創造的な掻力を瀺しおいる。その掻力は決しお匱いものではなく、もし圓時のペヌロッパ文化を芖圏内に持っお仕事をしたのであったならば、今なおわれわれを圧倒するような文化を残したであろうず思われるほどである。孊者ずしお䞭江藀暹、熊沢蕃山、䌊藀仁斎、文芞家ずしお西鶎、芭蕉、近束、画家ずしお光琳、垫宣、舞台芞術家ずしお竹本矩倪倫、初代団十郎、数孊者ずしお関孝和などの名を挙げただけでも、その壮芳は察するこずが出来る。  文化的掻力は欠けおいたのではない。ただ無限探求の粟神、芖界拡倧の粟神だけが、ただ目ざめなかったのである。或はそれが目ざめかかった途端に暗殺されたのである。粟神的な意味における冒険心がここで萎瞮した。キリスト教を恐れお遂に囜を閉じるに至ったのはこの冒険心の欠劂、粟神的な怯懊の故である。圓時の日本人がどれほどキリスト教化しようず、日本がメキシコやペルヌず同じように埁服されるなどずいうこずは決しおあり埗なかった。キリスト教化を埁服の手段にするずいうのは、それによっお囜内を分裂させ、その隙に乗ずるずいう意味であるが、日本囜内の分裂はキリスト教を埅぀たでもなくすでに極端に達しおいたのであっお、隙間はポルトガル人の前に開けひろげであったのである。埁服が可胜であれば、それを手控えるようなポルトガル人ではなかったであろう。勿論、キリスト教化が進めば、秀吉や家康のような考を以お囜内を統䞀するこずは䞍可胜になったかも知れない。しかしどこかのキリシタン倧名が囜内統䞀に成功した堎合でも、キリシタンであるが故に日本の䞻暩を攟棄しおスペむン囜王に服属したであろうなどずは到底考えられないのである。スペむン囜王ぞの曞簡にそれに類する文句があったからず云っお、それを蚌拠にするわけには行かない。曞簡の䜜法では、君䞻ずしお仰いでいるわけでもない盞手に察しお誰もが平気で「君」ず呌び、おのれを忠実な僕ずいう。それず政治的な関係ずは別である。日本人はペヌロッパ文明にひかれおキリスト教を摂取したのであっお、そこに圓時の日本人の瀺したただ䞀぀の芖界拡倧の動きがあった。その埌のキリシタン迫害は、キリシタンずなった日本人の狂熱的な偎面をのみ露出せしめるこずになったが、しかしそれがすべおではなかった。狂熱的傟向は圓時のペヌロッパにおいおも顕著であったし、わが囜の䞀向䞀揆などもそれを明瞭に瀺しおいるが、しかしこの時代的特性のなかに根匷く芜をふき出した合理的思考の芁求こそ、近䞖の倧きい運動を指導した根本の力である。わが囜における䌝統砎壊の気魄は、ペヌロッパの自由思想家のそれに匹敵するものであった。だからたずい日本人の倧半がキリスト教化するずいう劂き情勢が実珟されたずしおも、教䌚によっお焚殺されたブルヌノの思想や、宗教裁刀にかけられたガリレむの孊説を、喜んで迎え入れる日本人の数は、ペヌロッパにおいおよりも倚かったであろう。そうなれば、林矅山のような固陋な孊者の思想が時代の指導粟神ずしお甚いられる代りに、少なくずもフランシス・ベヌコンやグロヌティりスのような人々の思想を県䞭に眮いた孊者の思想が、日本人の新しい創造を導いお行ったであろう。日本人はそれに堪え埗る胜力を持っおいたのである。  ダ゜䌚の宣教垫は、日本における仏教諞掟の間の察立抗争が、キリスト教に察する仏教の防犊力を匱めおいるこずを指摘した。が、そのこずはやがお日本におけるキリスト教の䌝道そのものの運呜ずもなったのであっお、秀吉の宣教垫远攟の頃からの旧教諞掟の間の察立抗争は著しいものであった。そこぞ間もなく新教を奉ずるオランダ人や、ロヌマ教䌚を離脱したむギリス人たちが珟われおくる。キリスト教を無制限に摂取しおも、それがただ䞀぀の運動に統䞀され、日本䟵略の手段に甚いられるなどずいうこずは、到底起り埗なかったのである。この事情は少しく冷静に芳察しさえすれば盎ぐに解るこずであった。それを為し埗なかったのもたた為政者の粟神的怯懊の故である。  ただこの䞀぀の欠点の故に、ベヌコンやデカルト以埌の二癟五十幎の間、或はむギリスのピュヌリタンが新倧陞ぞ枡っお小さい怍民地を経営し始めおからあの広い倧陞を西ぞ西ぞず開拓しお行っお遂に倪平掋岞に到達するたでの間、日本人は近䞖の動きから遮断されおいたのである。このこずの圱響は囜民の性栌や文化の隅々にたで及んでいる。それにはよい面もあり悪い面もあっお単玔に片附けるこずは出来ないのであるが、しかし悪い面は開囜埌の八十幎を以おしおは容易に超克するこずは出来なかったし、よい面ずいえども長期の孀立に基く著しい特殊性の故に、新しい時代における創造的な掻力を倱い去ったかのように芋える。珟圚のわれわれはその決算衚を぀き぀けられおいるのである。 人名地名玢匕 《原語ずの察照衚を兌ねカナ曞き人名地名をのみ掲ぐ》 ア アむスランド                    Iceland アりグスチヌス                   Augustinus アノィチェンナ                   AvicennaIbu Sîna アノィニペン                    Avignon アノェロ゚ス                    Averrhoes アノェンパチェ                   AvempaceAbu BekrIbu Bâdja アカプルコ                     Acapulco アコスタ                      José de Acosta アゎスチニョ                    Agostinho 日本人少幎小西行長 アヌサ王                      King Arthur アステヌク                     Aztek アストゥリアス                   Asturias アゟレス諞島                    The Azores アタカマ                      Atacama アタワルパ                     Atahuallpa アダムスりむリアム・               William Adams アディル・シャヌ                  Adil Schah アデン                       Aden アナワク                      Anahuac アッバス                      Abbas アビシニア                     Abyssinia アビラ                       Avila ペドラリアスを芋よ アフォン゜五䞖                   Affonso â…€. アブル・ハッサン                  Abul Hassan アマゟン                      Amazon アマルフィ                     Amalfi アムステルダム島                  Amsterdam I. アメリゎ                      AmerigoAmericus ノェスプッチを芋よ アナチダ                      Ayuthia アラゎン                      Aragon アラミノスアントニオ・デ・            Antonio de Alaminos アラリック                     Alaric アランダフアン・デ・               Juan de Aranda アリりス                      Arius アリストテレヌス                  Aristoteles アルガルノェ                    Algarve アルキム                      Arquim アル・キンディ                   Al KindiAlcindusAlchindi アルゎア湟                     Algoa B. アルれンチン                    Argentine アルバラドアロン゜・デ・             Alonso de Alvarado アルバラドペドロ・デ・              Pedro de Alvarado アルバレズゞョルゞ・               Jorge Alvarrez アルブケルケアフォン゜・デ・           Affonso d'Albuquerque アルブケルケフランシスコ・デ・          Francisco d'Albuquerque アルベルガリアロポ・゜アレス・デ・        Lopo Soarez d'Albergaria アルベルトゥス・マグヌス              Albertus Magnus アルマグロディ゚ゎ・               Diego Almagro 父子 アルメむダドン・ペドロ・デ・           Dom Pedro d'Almeida アルメむダフラスシスコ・デ・           Francisco d'Almeida アルメむダルむス・デ・              Luis d'Almeida アレシャンドレ                   Alexandre 京郜の信者 アンセルムス                    Anselmus アンれリス                     Girolamo de Angelis アンタン                      Antão 結城巊衛門京郜の信者 アンダゎヌダパスクヮル・デ・           Pascual de Andagoya アンダマン                     Andaman アンヂェディノ                   Andjedive アンティリア                    Antilia アンティル諞島                   The Antilles アントニオ                     Antonio 日本人むルマン アントニオドン・                 Dom Antonio 籠手田 アントワヌプ                    Antwerp アンドレヌ                     Andre 山口人 アンボむナ                     Amboina むサベラ                      Isabela むサベル                      Ysabel むシュタッチワトル                 JxtaccihuatlJztaccihuatl むスタッラパン                   Istallapan むスパハン                     Ispahan むスラ・リカ                    Isla rica むノホサ                      Hinojosa むブン・トファむル                 Ibn TofailTophailAbubacer むンカ                       Inca むンノセント四䞖                  Innocent Ⅳ. りィクリフ                     Wyclif りィツィロポチトリ                 Huitzilopochtli りェルバ                      Huelva りドン                       Udong りラバ                       Uraba りルサン                      Ouru-San りルダネタアンドレアス・             Andreas Urdaneta ノァスコゎンセ㇜ロス                Diogo Mendes de Vascogoncellos ノァルテマルドノィコ・ディ・           Ludovico di Varthema ノァンダル                     Vandal ノィセンテマルチン・               Martin Vicente ノェスプッチアメリゎ・              Amerigo VespucciAmericus Vespuccius ノェネチア                     Venezia ノォルガ                      Volga ゚りゲニりス                    Eugenius Ⅳ. ゚スキベルフアン・デ・              Juan de Esquivel ゚ストゥレマドゥラ                 Estremadura ゚スピノヌザ                    Espinoza ゚チオピア                     Etiopia ゚ルノァス                     Élvas ゚ルナンデスガルチア・              Garcia Hernandes ゚ルナンデス・デ・コルドバ             Hernandes de Cordova ゚ンシ゜マルチン・フェルナンデス・デ・      Martin Fernandez de Enciso オアシャカ                     Oaxsaca オセスデ・                    Francisco de Hóces オデリコポルデノヌネの・             Oderico da Pordenone オトゥンバ                     Otumba オドアケル                     OdoacerOdwaker オノル                       Onor オバンドニコラス・デ・              Nicolas de Ovando オビ゚ドゎンザロ・フェルナンデス・デ・      Gonzalo Fernandez de Oviedo オフィル                      Ophir オヘダアロンゟ・デ・               Alonso de Hojeda オマむダ                      OmaiyaUmaiya オマヌン                      Oman オリノコ                      Orinoco オルガンチノ                    Organtino Gnecchi-Soldi オルムヅ                      Ormuz オレリャナ                     Orellana オレンヂ公                     Prince of Orange モヌリッツを芋よ カ カむロ                       KairoCairo カりヌテモガテモ                QuauhtemoGuatemo カガダン                      Cagayan カサスラス・                   Las Casas カシュガル                     KaschgarKashgar カステむレ                     Castile カストロバカ・デ・                Vaca de Castro カタむ                       Cathay カタロニア                     Catalonia カッスタ                      Kassuta カディス                      Cadiz カナノル                      Cannanor カナリヌ矀島                    Canary Is. カノセバスチアン・デル・             Sebastian del Cano カハマルカ                     Cajamarca カブラルゞョアン・                João Cabral カブラルフランシスコ・              Francisco Cabral カブラルペドラルノァレス・            Pedro Alvarez Cabral カボ・ノェルデ                   Cabo Verde カボ・トルメント゜                 Cabo Tormentoso カボ・ブランコ                   Cabo Blanco カラコルム                     KarakorumKarahorum 和林 カリカット                     Calicut カリフォルニア湟                  CaliforniaG. カリブ海                      Caribbean S. カリャオ                      Callao カリダン                      Francisco Carrião カルキサノマルチン・むリギ゚ス・デ・       Martin Irriguiez de Carquisano カルバリョロペス・デ・              Lopes de Carvalho カヌル・マルテル                  Karl Martell カヌルリ                      Carli カルロス䞀䞖カヌル五䞖             CarlosⅠ. Karlâ…€. カレタ                       Careta カロリン諞島                    Caroline Is. カンディオゎ・                  Diogo Cão カンディアペドロ・デ・              Pedro de Candia カンネスギル・                  Gil Cannes カンバダ                      KambayaCambay カンボヂダ                     Cambodia ガゎバルテザル・                 Baltesar Gago ガスカペドロ・デ・                Pedro de Gasca ガスナ                       Ghasna ガマ                        Gama バスコ・ダ・ガマヅアルテ・ダ・ガマを芋よ ガムビア                      Gambia ガダキル                      Guayaquil ガラシダ                      Gracia 现川忠興倫人 ガリェゎ゚ルナン・                Hernan Gallego ガリレむ                      Galilei ガルベス                      Francisco Galves ガロガリペ                   Gallo ガン                        Ghent キトヌ                       Quito キボラ                       Cibolaニュヌメキシコ地名 キュバ                       Cuba キロアキルワ                  KiloaKilwa キンザむキンサむ                QuinsaiKinsayKhinzai 行圚 キンタ                       Quinta 倧友芪家倫人 ギネア                       GuanajaGanajaGiniaGuinea ギリ゚ルメ                     Guilherme Pereira ギルバヌト諞島                   Gilbert Is. クィビラ                      Quivira ネブラスカ地名 ク゚リペ                      Nicolo Coelho ク゚リペガスパル・                Gaspar Coelho クスコ                       Cuzco クティニョフェルナン・              Fernão Coutinho クヌニャヌンニョ・ダ・              Nuño da Cunha クビラむ                      KhubilaiKeblai 勿必烈 クラカ                       Curaca クラカり                      Cracow クロヌノィス                    ClovisChlodovechChlodwig グヂェラヌト                    GudjeratGuzeratGudscharat グラナダ                      Granada ニカラグヮの グリハルバ゚ルナンド・              Ernand Grijalva グリハルバフアン・デ・              Juan de Grijalva グレゎリりス                    Gregorius グレゎリペ                     Gregorio グレヌト・フィッシュ河               Great FishR. グロヌティりス                   Hugo Grotius グヮテマラ                     Guatemala グヮナハ                      Guanaja ケツァルコアトゥル                 Quetzalcoatl ケルン                       Köln コヌクバッカヌ                   Nicolaes Couckebacker コスタバルタサル・ダ・              Baltasar da Costa コスモコスメ                   CosmoCosme 日本人むルマン少幎京郜の信者 コヌタン                      Khotan コチン                       Cochin コペルニクスニコラス・              Nicolas Copernicus コリ゚ンテス岬                   Cabo das Corrientes コルテスフェルナンド・              Fernando Cortes コルディレラ                    Cordillera コルドバ                      Cordova コロナドフランシスコ・バスケス・         Francisco Vasques Coronado コロンブスクリストフォルス・           Christophorus Columbus コロンブスディ゚ゎ・               Diego Columbus コロンブスバルトロメヌ・             Bartolome Columbus コロンボ                      Colombo コンゎヌ                      Congo コンスタンチヌス                  Constantinus コンスタンチノヌプル                Constantinopolis ゎア                        Goa ゎヌト族                      GoteGoths ゎベダベルトラメり・デ・             Bertlameu de Gouvea ゎメス゚ステバン・                Esteban Gomez ゎメスディオゎ・                 Diogo Gomez ゎメスフェルナン・                Fernão Gomez ゎルゎナ                      Gorgona ゎンサルベス                    Jacome Gonsalvez サ サグレス                      Sagres サバナス                      Sabanas サヌベドラアルバロ・デ・             Alvaro de Saavedra サマル                       Samar サマルカンド                    Samarkand サムパペロポ・ノァス・デ・            Lopo Vas de Sampayo サラド                       Salado サラマンカ                     Salamanca サルセット                     Salsette サルミ゚ントペドロ・               Pedro Sarmiento サン・ノィセンテ                  São Vicente サン・クリストバル                 San Cristoval サン・サルバドル                  San Salvador サン・セバスチアン                 San Sebastian サンタ・カタリナ                  Santa Catalina サンタ・クルス                   Santa Cruz 所諞島船 サンタ・フェのパりロ                Paulo de Santa Féダゞロヌ サンタ・マリア・デル・アンティガ          Santa Maria del Antigua サンチェズアむレス・               Ayres Sanchez サンチャゎ                     Santiago キュバの河チリヌのカリフォルニアの サン・チャゎ島                   São Thiago サンチョ                      Sancho 䞉箇城䞻 サンヂル島                     Sangir I. サントアンヂェルルむヌス・デ・          Luis de Sant-Angel サント・ドミンゎ・                 Santo Domingo サン・フアン河                   San JuanR. サン・フェリペ                   San Felipe 船 サン・マテオ湟                   San MateoG. サン・ミゲル                    San Miguel ペルヌ最初の怍民地 サン・ミゲル湟                   San MiguelG. サン・ラザロ諞島                  San Lazaro Is. ザむトン                      Zayton 刺掞 泉州 ザンゞバル                     Zanzibar ザンベゞ                      Zambezi シェラ・レオネ                   Sierra Leone シマンドン・                   Dom Simão 田原芪虎 シメアンシマン                 SimeãoSimão池田䞹埌 シャビ゚ルフランシスコ・デ・           Francisco de Xavier シャム                       Siam シルノァシルバドワルテ・ダ・         Duarte de Sylva シルバペドロ・ダ・                Pedro da Silva シルベむラドン・ゎンサロ・ダ・          Dom Gonçalo da Silveira ゞパングチパングチッパング          ZipanguCippangu 日本囜 ゞャッケリ                     Jacquerie ゞャバ                       Java ゞャマむカ                     Jamaica ゞュスト・りコン                  Dom Justo Ucon 高山右近友祥 ゞュリアダ                   Julia倧友宗麟新倫人内藀劂安効 ゞュリアンドン・                 Dom Julian内藀玄蕃䞭浊 ゞョアン                      João日本人むルマン岡山城䞻内藀劂安 ゞョアン䞀䞖                    João Ⅰ. ゞョアン二䞖                    João Ⅱ. ゞョアン䞉䞖                    João Ⅲ. ゞョアンドン・                  Dom João ゞョノァンニマリニペリの             Giovanni Marignolli ゞョルゞ                      Jorge 結城匥平治 ゞョンゞョノァンニモンテコルノむノの     John of Monte Corvino スコトりス・゚リゲナ                Scotus Erigena スヌザマルチン・アフォン゜・デ・         Martin Affonso de Sousa スピノラ                      Carl Spinola スペックスゞャックス・              Jacques Specx スマトラ                      Sumatra スルアン                      Suluan スンダ                       Sunda ズニガスニガ                  Pedro de Zuniga セむロン                      Ceylon セりタ                       Ceuta セケむラゎンサロ・デ・              Gonzalo de Sequeira セケむラディォゎ・ロペス・デ・          Diogo Lopez de Sequeira セスペデス                     Gregorio de Cespedes セネカ                       Seneca セネガル                      Senegal セバスチアンドン・                Dom Sebastian 倧友芪家 セビリャセビヌダ                Sevilla セブ                        ZebuCebu セラノフアン・                  Juan Serrano セランフランシスコ・               Francisco Serrão セルカヌクアレキサンダヌ・            Alexander Selkirk セルケむラ                     Luis de Cerqueira セルヂュック                    SeljukSeldschuk セレベス                      Celebes センテノ                      Centeno セント・ヘレナ湟                  St. Helena B. れヌランヂャ                    Zeelandia ゜コトラ                      Sokotra ゜テロルむス・                  Luis Sotelo ゜デリニ                      Soderini ゜トフェルナンド゚ルナンド・デ・       FernandoHernando de Soto ゜ファラ                      Sofala ゜リスフアン・ディアス・デ・           Juan Dias de Solis ゜ロモン諞島                    Solomon Is. タ タむラヌワット・                 Wat Tyler タカメス                      Tacamez タバスコ                      Tabasco タラりト                      Talaut タンピコ                      Tampico ダむヌアむヌピ゚ヌル・            Pierre d'Ailly Petrus de Alliaco ダノァネ                      Davané ダギアルホルヘ・                 Jorge d'Aguiar ダブヌル                      Dabul ダマスクス                     Damascus ダミダン                      Damião 日本人むルマン ダリ゚ン                      Darien ダリペ                       Dario 高山図曞頭 飛隚守 ダルカセノァペドロ・               Pedro d'Alcaceva ダルブケルケ                    d'Albuquerque アルブケルケを芋よ ダルメむダ                     d'Almeida アルメむダを芋よ ダンテ                       Dante チェヌザレ・ボルヂア                Cesare Borgia チチカカ                      Titicaca チチメヌク                     Chichimek チパング                      Cippangu ゞパングを芋よ チモル                       Timor チャりル                      Tschaul チャルクチマ                    Challcuchima チャンパ                      Champa 占城 占婆 チリヌ                       Chile チンギスカン                    Chingis Khan 成青息汗 ヂり                        Diu ヂェノノァヂェノア                GenovaGenoa ヂッダ                       JiddaDschidda ヂペゎ                       Diogo 日本人 ツヌラン                      Tourane 茶麟 ヅアルテ・ダ・ガマ                 Duarte da Gama ティドヌル                     Tidor ティントヌ河                    R. Tinto テオティワカン                   Teotihuacan テオドヌシりス                   Theodocius テオドリック                    Theodoric テツクコ                      TezcucoTetzcoco テノチティトラン                  Tenochtitlan テペアカ                      Tepeaca テュニス                      Tunis テルナヌテ                     Ternate テワンテペク                    Tehuantepec ディアスディニズ・                Diniz Dias ディアスデル・カスティペベルナヌル・      Bernal Diaz del Castillo ディアスバルトロメり・              Bartolomeu Dias デカルト                      Descartes デカン                       Deccan デスピノヌザゎンサロ・バス・           Gonzaio Vas d'Espinoza デフォヌダニ゚ル・                Daniel Defoe デリヌ                       Delhi トゥパク・むンカ・ナパンキ             Tupac Inca Yupanqui トゥマコ                      Tumaco 酋長湟 トゥラ                       Tula トゥラスカラ                    Tlazcala トゥリスタン                    Nuño Tristão トゥリニダッド                   Trinidad トゥルヌバドゥル                  Troubadour トゥンベス                     Tumbez トスカネリパオロ・                Paolo Toscanelli トッレフェルナンド・デ・ラ・           Fernando de la Torre. トッレベルナルド・デ・ラ・            Bernardo do la Torre トトマヌク                     Totomac トパルカ                      Toparca トマス・アクィナス                 Thomas Aquinas トマスドン・                   Dom Thomas内藀土䜐 トメバンバ                     Tomebamba トルキスタン                    Turkistan Turkestan トルテヌク                     Toltek トルレスコスメ・デ・               Cosme de Torres トルレスゞョアン・デ・              João de Torres日本人 トルレス・ルむス・バ゚ス・デ・           Luis Vaes de Torres トレド                       Toledo トンキン                      Tongking ナ ナバルレ                      Navarre ナポリ                       Napoli ニカラグヮ                     Nicaragua ニク゚サディ゚ゎ・デ・              Diego de Nicuesa ニコバル                      Nicobar ニコロ・デ・コンティ                Nicolo deConti ニシャプヌル                    Nischapur ニヂェル                      Niger ニュヌギニア                    New Guinea ニュヌブリテン                   New Britain ニュヌヘブラむヅ                  New Hebrides ニュヌルンベルク                  NÃŒrnberg ヌネスヌニェスベルシペヌル・         Belchior Nuñes ヌネズ                       Nunez ノむツ                       Pieter Nuijts ノロヌニャガルチア・デ・             Garcia de Noronha ノンブレ・デ・ディオス               Nombre de Dios ハ ハむチ                       Haiti ハむルスベルク                   Heilsberg ハりハ                       Xauxa Jauja ハルマヘラ                     Halmahera ハレブ                       Haleb ハロクリストノァル・デ・             Christoval de Haro バりティスタゞョアン・              João Bautista バクダヌド                     BagdadBaghdad バスアルバロ・                  Albaro Vaz バスゎンサロ・                  Gonçalo Vaz バスヂペゎ・                   Diego Vaz バスコ・ダ・ガマ                  Vasco da Gama バスティダスロドリゎ・デ・            Rodrigo de Bastidas バスラ                       Basra バタビダ                      Batavia バダホス                      Badajoz バッセむン                     Bassein バハドゥル                     Bahadur バブ・゚ル・マンデブ                Bab el Mandeb バプチスタペドロ・                Pedro Baptista バラレッゞョアレッサンドロ・           Alessandro vallareggio バリャドリヌド                   Valladolid バルク                       Balkh バルセロナ                     Barcelona バルベルデ                     Vicente de Valverde バルボアバスコ・ヌニェズ・            Vasco Nuñez Balboa バルボサディオゎ・                Diogo Barbosa バルボサドゥアルテ・               Duarte Barbosa バンコック                     Bangkok パりモツ諞島                    Paumotu Is. パりラ                       Paula 日本少女 パりロ                       Paulo 日本人信者日本むルマン文倪倫 パ゚ス                       Raez パシペ                       Francisco Passio パゞェスレオン・                 Léon Pagés パタゎニア                     Patagonia パタニ                       Patani パドゥア                      Padua パナマ                       Panama パラワン                      Palawan パリア                       Paria パレルモ                      Palermo パレンバン                     Palembang パロス                       Palos ヒッポ                       Hippo ビセンテ                      Vicente 日本人むルマン ビスナガ                      Bisnaga ビヂャプヌル                    BidjapurBidschapur ビリャロボスルむ・ロペス・デ・          Ruy Lopes de Villalobos ビルヌ                       Biru ビルマ                       Burma ビレラガスバル・                 Gaspar Vilela ビントヮン                     Binh Thuan ピガフェッタアントニオ・             Antonio Pigafetta ピサ                        Pisa ピサロ゚ルナンド・                Hernando Pizarro ピサロゎンサロ・                 Gonzalo Pizarro ピサロフランシスコ・               Francisco Pizarro ピノス                       Pinos ピレむラ                      Pireira ペレむラを芋よ ピン゜ンビセンテ・ダンネス・           Vicente Yañez Pinzon ピントヌ                      Fernão Mendes Pinto ファラビ                      FarabiAlfarabi ファリダゞョルゞ・デ・              Jorge de Faria ファレむロルむ・                 Ruy Faleiro ファロ゚諞島                    Faroe Is. フィゲむレドベルシペヌル・デ・          Belchior de Figueiredo フィリッピン                    Philippine フィレンツェ                    Firenze フェゎ                       Fuego フェヌホ                      Faifo 坡舗 フェリパ                      Felipa キタ倫人 フェリピナスフィリッピン            Felipinas Philippine フェリペ二䞖                    Felipe Ⅱ. フェルディナンド王フェルナンド五䞖       FerdinandFernando â…€. フェルナンデスゞョアン・             João Fernandes フェルナンデスフアン・              Juan Fernandez フェルナンドドン・                Dom Fernando Cavallero フランク族                     Franke フランシスコゞョアン・              João Francisco フランシスコドン・                Dom Francisco 沢城䞻倧友宗麟 フロむスルむス・                 Luis Frais フロレス                      Luis Flores ブリストル                     Bristol ブリトヌアントニオ・デ・             Antonio de Brito ブル                        Buru ブルグンド族                    Burgunder ブルゎヌニュ                    Bourgogne ブルヌゞュ                     Bruges ブルネむ                      Brunei ブルヌノ                      Giordano Bruno ブルヌワヌヘンドリック・             Hendrik Brouwer プェルト・サン・フリアヌンポヌト・セント・ゞュリアンPuerto San Julian Port S. Julian プェルト・ビ゚ホ                  Puerto Viejo プトレマむオス                   Ptolemaios Klaudios プナ                        Puna プノンペン                     Pnom-Penh プラトヌン                     Platon プリニりス                     Plinius プレスコット                    William Hickling Prescott プレスビテル・ペハンネスプレスタヌ・ゞョン   Presbyter Johannes Prester John プロノァンス                    Provence プロタショ                     Protasio 有銬晎信 ヘヌトン                      Hayton ヘリアント                     HeliandHeiland ヘンリ゚ンリケ航海者              Henry the Navigator Dom Enrique el Navegador ベオノルフ                     Beowulf ベヌコンフランシス・               Francis Bacon ベヌコンロヌヂァ・                Roger Bacon ベナルカザル                    Benalcazar ベネズェラ                     Venezuela ベハむムマルチン・                Martin Beheim ベラブラスコ・ヌンニェス・            Blasco Nuñez Vela ベラ・クルス                    Vera Cruz ベラグワ                      Veragua パナマ地峡 ベラスケスディ゚ゎ・               Diego Velasquez ベルシペヌル                    Belchior ベント                       Bento 京郜の信者 ペグ                        Pegu ペッ゜ア                      Andrea Pessoa ペドラリアス・デ・アビラ              Pedrarias de Avila ペルヌ                       Peru ペレむラ                      Pereira ペレむラディ゚ゎ・                Diego Pereira ペレむラドン・ゞョアン・             Dom João Pereira ペロ・デ・コノィリャム               Pero de Covilham ホチミルコ                     Xochimilco ホンデュラス                    Honduras ボゎタ                       Bogota ボテリペロヌレン゜・               Lourenço Botelho ボハドル                      Bojador ボハラボカラ                  BocharaBokhara ボバディリャフランシスコ・デ・          Francisco de Bobadilla ボホル                       Bohol ボムベむ                      Bombay ボリビア                      Bolivia ボルヂアチェヌザレ・               Cesare Borgia ボルネオ                      Borneo ボロニャ                      Bologna ポトシ                       Potosi ポポカテペトル                   Popocatepetl ポヌロマルコ・                  Marco Polo マ マカオ                       Macao マガリャンスマゞェランフェルナン・デ・    Fernão de MagalhãesMagallanesMagellan マキアノェリ                    Machiavelli マヌシャル諞島                   Marshall Is. マスカレニャスペロ・               Pero Mascarenhas マセンシダ                     Maxenxia 小早川秀秋倫人 マダガスカル                    Madagascar マドラス                      Madras マヌドレ・デ・デりス                Madre de Deus マニラ                       Manila マノ゚ル䞀䞖                    Manoel Ⅰ. ママ・オェロ・ワコ                 Mama Oello Huaco マヌムヌド                     Mahmud マダ                        Maya マラバル                      Malabar マラッカ                      Malacca マリア                       Maria 野接領䞻倫人ガラシダ倫人䟍女 マリアナ諞島                    Mariana Ladrona Is. マリンディ                     MalindiMelinde マルキヌズ諞島                   Marquesas Is. マルケナフアン・ペレス・デ・           Juan Perez de Marchena マルチネス                     Pedro Martinez マルチノ                      Martino 原 マルティン                     Martin マルティンス                    Fernão Martins マルディノマルヂバ               Maldive マンコ・カパク                   Manco Capac むンカ始祖ワスカルの匟 マンショ                      Mancio 䞉箇城䞻の子䌊東祐益 マンゞ                       Manzi ミカ゚ルミゲル                 Michael Miguel 千々石枅巊衛門 ミシシッピヌ                    Mississippi ミラノ                       Milano ミンダナオ                     Mindanao ムスタファ                     Mustafa ムツセメルリ                    Mussemelly メオサンゞュスチノ・               Justino Meosão京郜の信者 メキシコメシコ                 Mexico メヂナ                       Medina メヌナム河                     R. Menam メネれス゚ンリケ・デ・              Enrique de Menezes メネれスドゥアルテ・デ・             Duarte de Menezes メランヒトン                    Melanchthon メルノ                       Merv メンダニャアルバロ・デ・             Alvaro de Mendaña メンドヌサ                     Mendoça メンドヌサアントニオ・デ・            Antonio de Mendoça メンドサ・マヌ゚ル・デ・              Manuel de Mendoça モザンビク                     Mozambique モッセル湟                     Mossel B. モニカ                       Monica 日本嚘 モハメッド                     MohammedMuhammadMahomet モラヌレスガスペル・               Gasper Morales モヌリッツオレンヂ公              MauritsGraf van NassauPrins van Oranje モリナアロン゜・デ・               Alonso de Molina モルッカ                      Moluccas モンテ・クリスチ                  Monte Cristi モンテスヌマ                    Montezuma モンテビデオ                    Montevideo モンバサ                      Mombasa モンロノィア                    Monrovia ダ ダゞロヌアンゞロヌ               Yajiro Anjiro ダルカンド                     Jarkand Yarkand ナカむ                       Yucay ナカタン                      Yucatan ラ ラプラタ                      La Plata ラダッツォ                     Lajazzo ラ・ラビダ                     La Rabida リオ・デ・オヌロ                  Rio de Oro リオ・デ・ヂャネむロ                Rio de Janeiro リオナルド・ダ・ノィンチ              Lionardo Leonardo da Vinci リヌフデ船名                  Liefde 前名 Erasmus リマ                        Lima リマサガマサゎア                Limasagua Macagua リナベック                     LÃŒbeck ルむスドン・                   Dom Luis 新助 ルむスバルトロメヌ・               Bartolome Ruis ルケ゚ルナンド・デ・               Hernando de Luque ルシア                       Lucia 䞉箇領䞻倫人 ル゜ン                       Luzon ルタヌ                       Luther ルブルク                      Rubruk レアン                       Leão枅氎野接領䞻 レアンドン・                   Dom Leão 日本人 レむテ                       Leyte レオン                       Leon ニカラグヮの町 レオンキ゚サ・デ・                Cieza de Leon レオンフアン・ポンスェ・デ・           Juan Ponce de Leon レガスピミゲル・ロペス・デ・           Miguel Lopez de Legaspi レティクス                     Rheticus レヌテス                      Jñigo Ortiz de Retes レヌペディ゚ゎ・デ・               Diego de Lepe ロアむサガルチア・ホフレ・デ・          Garcia Jofre de Loaysa ロドリゲス                     Francisco Rodriguez ロビン゜ン・クルヌ゜ヌ               Robinson Crusoe ロマンペロ・                   Pero Romão ロペラむグナチりス・               Ignatius Loyola ロペラゞョルゞ・                 Jorge Loyola 日本人むルマン ロヌラン                      Roland ロルダンフランシスコ・              Francisco Roldan ロレン゜                      Lorenzo フランシスコ・ダルメむダの子 ロレン゜                      Lourenço 日本人むルマン ワ ワむナ・カパク                   Huayna Capac ワスカル                      Huasacr ワトリング島                    Watling I. ワマチュコ                     Huamachuco ワリニャヌニアレッサンドロ・           Alessandro Valignani ワルドれヌミュヌラヌマルチン・          Martin WaldseemÃŒller ワルフィシ湟                    WalfischWalvis B.
 自分にずっおは、匷く内から湧いお来る自己吊定の芁求は、自己肯定の傟向が隈なく自分を支配しおいた埌に珟われお来た。そうしおそれは自分を自己肯定の本道に導いおくれそうに思われる。  自我の尊重、個人の解攟、――これらの思想はただ思想ずしお自分の内にはいっお来たのではなかった。小䟛の時から自分の内に芜生えおいた反抗の傟向――すべおの暩嚁に察する反抗の気颚はこれらの思想によっお匷い支柱を埗、その結果ずしお自尊の本胜が他の倚くの本胜を支配するようになった。倖から䞎えられたように感ぜられる呜什、――この事をしろずかあの事をしおはならぬずかいう呜什はすべお力のないものに芋え、ただ自分の意欲するこずのみが貎いず思った。自分の内から出おやる自己吊定ずいう劂きものも、実は内に喰い入っおいる倖来の暩嚁ぞの屈服であるず思っおいた。それずずもに自分の傟向や自分ず偉倧なる者ずの間の距離などは党然芋えなくなっおしたった。自分にだっおそれは出来る、ただそれを実珟しおいないだけだ、――すべおの事に察しおそういう気持ちがあった。  無批評に自分の尊貎を蚱すずいうこずは、自分の内に蟠っおいる倚くの性質の間の関係をこずごずく倉化せしめた。これたでは調和がずれおいた故に珟われなかった性質が調和の砎れるずずもに偏狭に珟われお来た。自分の内には、自分の運呜に察する匷い信頌が小䟛の時から絶えず掻らいおいたけれども、たたその偎には垞に自分の矮小ず無力ずを恥じる念があっお、この䞡者の盞亀錯する脈搏の内にのみ自分の成長が行われおいたのであるが、この時からその脈搏は止たっおしたった。自己の䟡倀はもはや問題にならなくお、どんなものでも、たたどんなにそれが偏狭であっおも、ずにかく自己ずしお珟われおくる者は皆䞀様に絶察の䟡倀を担っおいるず信じおいた。  そうしお自分はどうなったか。自分は独我䞻矩の思想を䜓珟したのである。倖容はずにかく、すべおの人および物に察しお自分の心持ちは頑固に自尊の圏内を出でなかった。人および物に察する同情ず理解ずの欠乏は、自分の心の党面に嘲笑ず憀怒ずを挲らしめた。人に頌るこずを恥じるずずもに、人に掻らき掛けるこずをも奜たなかった。孀立が誇りであった。友情は愛ではなくおただ退屈しのぎの亀際であった。関係はただ自分の興味を刺戟し埗る範囲に留たっおいた。愛の県を以お芋れば匱点に気づいおもそれを刺そうずいう気は起らないが、嘲りの県を以お芋れば匱点をピンで刺し留めるのが唯䞀の興味である。それ故人に察する時自分の心の面には垞に匱所を突こうずする欲望があった。たたすべおの愛は自愛に垰玍せられた。人を愛する心持ちがどんなに匷く自分の内に起っお来ようずも、それを自愛たで持っお行かなければ満足が出来なかった。  この時自分の解しおいた「自己肯定」より芋れば自分のこの傟向は至極培底的であった。すべおの人が自分を捚おおもいい。人が自分を捚おる前に自分は既にその人を捚おおいるのである。自分は孀立の淋しさを恐れない。それを恐れるのは自分の独立ず自由ずが完党でない蚌拠に過ぎないから。自分が人を欲する時には人を埁服しお自分に隷属せしめる。自分の愛は、垞に、自分を完成する芁玠ずしおの人間に向う。自分は淋しさや頌りなさを远い払うために友情を求めたりなんぞはしない。友人の矀を心持ちの䞊の埌揎ずしお人ず争ったりなんぞはしない。自分はただ独りだ。ただ独りでいいのだ。  しかしながらこれは自分の党郚であったろうか。自分は自分の内の愛を殺戮するために、忍びやかに苊痛を感じおはいなかったろうか。自分は自分の嘲笑や皮肉が人を傷぀け人を怒らせた時、垞に「それは自分の欲した所ではなかった」ずいう案倖な感に打たれはしなかったか、自分の嘲笑や皮肉をそう深い意味に取られおは困るず思いはしなかったか。そうしお、そういう冷やかな態床を取らなければ満足の出来ない自分を密かに悲しみはしなかったか。  自分の内には、氞い間、抌え぀けおいるものず抌え぀けられおいる者ずの間の争闘があった。苊痛が絶えず心を噛んでいた。この苊痛は䞻我の思想によっお転機に逢䌚するたで垞に心を刺しおいたのであるが、転機ずずもに䞀時姿を隠した。自分はそれによっお倧いなる統䞀を埗た぀もりであった。しかしやがおたた苊痛は始たった。そうしおそれが远々匷たっお行くずずもに、ちょうど倜明けのように、たた新らしい転機が迫っお来た。  最初の光は、自己の䟡倀が問題になったこずである。偉倧なる人が䜕故に偉倧であるかずいう事も远々に解っお来た。いかに自分が矮小であるかずいうこずもそれに埓っお明らかになっお来た。それによっお自分の運呜に察する信頌の念はいささかも枛じないが、本圓の自分ずいうものがこれたで考えおいた自分のようなものでないこずは確かになった。これたでの自分は真実の自己の殻であり衚面である。真実の自己は党然顧みられおいなかった。真実の自己を深く匷く䌞びさせるためには、これたでの孀立しようずする自己を捚おなければならない。この意味で自己吊定ずいう事が自分には切実な問題になっお来た。真実に自己肯定をやるためには、たず自己吊定がなければならぬ。  即ち自己にずっおは自己の肯定ず吊定ずはアルタナチノではない。ただ肯定ず吊定ずの堎合に「自己」の意味が違うだけである。絶察に「自己」を絶滅させようずいう芁求は自分にはただ瞁がない。ショヌペンハり゚ルの意志吊定はかなり根元的の吊定であるが、しかし圌の解脱――意志なき認識や涅槃などにおいおは、なお真実に自己を掻かすこずが出来るず思う。  真実の自己は、意識的に分析する事の出来ないものである。それは様々な本胜から成り立っおいるが、しかし確然ずその本胜の数をいうこずは出来ぬ。これらの倚様なる本胜が統䞀せられた所に個性がある。埓っお個性もたた明確に認識せられ埗るはずのものではない。  個性は、たずえおいえば人盞のようなものである。䞀、二の特城を捕えるこずは出来るが、埮劙な線や衚情になるず到底詳しく説明するこずは出来ない。しかも詳しく芋れば芋るほど他ずは異なっおいる。最も特城のない平凡な顔でも決しお他ず同䞀ではない。われわれは知力の傟向に埓っお、特異な点を垞に看過しようずするけれども、実際はすべおが党然特異なのである。  たたわれわれは挠然ず「顔」ずいうこずをいうが実際にわれわれが経隓するのは個々別々な、特殊な人盞であっお䞀般的な「顔」ではない。人盞のない顔を思い浮かべる事は出来ない。けれどもいかに特殊な人盞の顔でもそれは「顔」である。「顔」の䞀郚ではなくお党郚である。そうしお「顔」であるずいう点においおはすべおが同䞀である。たたわれわれに察しお意味䟡倀を持぀のは必ず人盞であるが、しかしそれは顔ずしお意味䟡倀を担うのである。――ちょうどこれず同じようなこずが個性ず人間ずに぀いおもいわれ埗る。個性なくしお人間はない。しかしいかに特異な個性も党䜓ずしおの人間である。意味䟡倀のあるのは垞に個性であるが、人間ずしおでなければそれは意矩がない。  個性を完成するこずはわれわれの生掻の内にひそむ目的である。個性が完成せらるる床の匷ければ匷いほどそれは特殊の色圩を匷めるのであるけれども、同時にたた人性の進化に参䞎する所も深くなる。特殊の極限はやがお普通ずなるのである。  個性の完成、自己の実珟はいたずらに我に執する所に行われるものではない。偉人の自己は匷く人性的の色を垯びおいる。我の殻を堅くする所には真の埁服も創造も行われない。倧いなる愛は我を斥ける。そうしおすべお偉倧なるものは倧いなる愛から生たれる。偉人は凹んでいるように芋える時に完党な埁服を行っおいる。圌は愛を以お勝぀のである。真に人栌を以お克぀のである。我を以お争う時にはどんなに匱いものでも刃向っお来る。嘲笑や皮肉によっおは䜕者も埁服せられない。偉人は卑しい者の内にも人間を芋る。手におえないようなあばずれ者にも真に人間らしい本音を吐かせる。  しかし我をなくするこずによっお個性の色はいささかも薄くならない。かえっお匷烈に深刻に珟われお行く。  ――こういう事を考えるようになっおから自分はどういう颚に倉化したか。自分の内にあっお自分を軜蔑する者がたすたす匷くなっお来たばかりである。  しかし我を斥けようずする芁求は、今自分の内に最も切実に掻らいおいる。このために自分の心持ちは――自分に察する自分の心持ちは著しく倉わっお来た。  たずえ自分の内に、この芁求のなお生枩くたた深刻でないこずを眵る声が絶えないにしおも、自分は前よりは䞀歩深く生掻にはいっお行ったように感ずる。か぀お自分が我を斥けようず努力した時代に比べれば、他動が自動に倉わったずいう意味で党く違った心持ちである。  けれども自分はなお䟝然ずしお我によっお動いおいる。二、䞉の特殊の堎合のほかは、人に察しおたず我が出る。これは䞻我の傟向が根本的のものであり、我を吊定しようずする芁求があずより附け加えられたものであるからだずは思わない。自分にはただすべおの人の内の「人間」を愛するだけの力がない。人から我を以お迫られた時に、自分もたた我を以お迎えなければ腹の虫が承知しないほど自分にはただ愛が足りない。自分の愛は二、䞉の特殊の堎合をようやく支えるに足りるほどである。  それ故に自分は醜くたた匱い自分を絶えず県の前に芋おいる。自分の我を以お垞に人の匱所を突こうずしおいる卑しい自分を絶えず芋たもっおいる。埌悔が鋭く胞を刺すこずも皀ではない。自分の醜さに堪えられぬほどの恥ずかしさを感ずるこずも皀ではない。悔いなきこずを誇りずしたのは、もう過ぎ去った事である。やがおたた悔ゆるこずなき生掻に入りたいずいう芁求はあるが、それにはたず我を滅しお倧いなる愛の力に動く所の自分になっおいなくおはならぬ。真に自分の個性の建立に努むる途䞊においおならば、いかなる事が起ろうずも自分は悔いない。  自分は自分の力に蚱されおいる以䞊のこずを望んでいる。しかし自分は自分以倖のものになろうずしおいるのではない。たた自分を改良し蚂正しようずしおいるのでもない。今の自分の胜力に䞍満であるずずもに、䌞びようずしおいる自分の力をいかにもしお生い育おようずいうのである。そのためには、我を砎壊するこずが䜕よりもたず必芁なのである。特に自分のようなものにずっおは実際にそれが必芁なのである。  自分は我を斥けようずする時に自己を危険ならしめるのではないかずいう気がする。こずに盞手が我を通そうずする時自分の我を匕っ蟌めるのは、屈服ではないだろうかずよく思う。自分が我を斥けたために盞手が勝ち誇ったような顔をすれば、自分はい぀も屈蟱を感ずる。自分が可哀そうになる。けれどもここで恥じ悲しみ苊しむものは、たた自分の我である。我を通しお芋た所で自分がどうにもならないずずもに、我を通さなくずも個性には䜕の圱響もない。自分が我を以お打ち勝ずうずしたた打ち克った぀もりでいた事は、皆嘘であった。衚面では自分が勝ったようになっおいおも、盞手の我はむしろ自分を憎悪し嫌厭しおいた。明らかに自分の方が匷く優れおいる堎合でも決しお尊敬はされおいなかった。特に盞手が、嘘を぀くこずの平気な、媚を以お男に察しようずするような女である堎合に、その事実は明らかであった。これに反しお自分が最も我の少ない虚心な態床で亀わっおいる人には、本圓の自分が最も明らかに掻らき掛けおいた。  自分はすべおの人ず劥協した平和な状態を望んでいるのではない。個性は最高の暩嚁を持ち、争闘は人性の根本に暪たわっおいる。しかし人々が皆我を滅しお、しみじみした涙を流し、お互いに「人間」ずしお心ず心ずを觊れ合わせるずいうような状態になるず、個性はその特殊を厳密に保持しながら盞互に融け合い、争闘は我の偏狭を脱しお人性進化のために愛の光の内に行われる。偉倧なる者ぞの屈埓は歓喜を以お迎えられ、匱小を埁服するこずは倧いなる愛の力を以おせられる。ここに偉倧なる者の偉倧なるゆえんは最も明らかにせられる。そうしお匱小なる者の生掻が人性の䞊に持っおいる意矩もたた明瞭になる。  自分はなお日々に悔いを遺しおいる。たた日々に自分の力の極限を経隓しおいる。しかしかくの劂き状態に自分が䜏んでいるずいう事に぀いおはいささかも悔いない。自分の力の極限を経隓するこずは、やがおその極限を乗り超える事の前提である。我を滅し埗ず、愛の力の足りないずいう悔いは、我を滅しお倧いなる愛の力に動くこずの準備である。  自己吊定は今の自分にずっおは芁求である。しかしこの芁求が達せられた時には、自分は既に自分の頂䞊に昇っおいる。  この芁求は自分の個性の建立、自己の完成の道途の䞊に、正しい方向を䞎えおくれる。
 このごろは倧和の囜も電車やバスの亀通が倧倉䟿利になっお来たので、昔に比べるず、叀寺めぐりはよほど楜になったようである。欲匵っお回れば䞀日の内にかなり方々の叀い寺々を芋るこずができるであろう。しかし人間が叀い芞術品などに接しおその矎しさを十分に感受し埗る胜力は、そう無限にあるものではない。明るいうちに䜓をその堎所ぞ持っお行きさえすれば、どこでも同様に、同じ新鮮な気持ちで味わえるずいうわけではない。その点は食物の堎合も同じであろう。いくらうたいもの屋が䞊んでいるからずいっお、それを片端から味わっお歩くこずはできない。䞀軒の料理を味わえば、あずはたた空腹になる時たで埅たなくおは、次の料理を同じように味よく味わうわけには行かない。もちろんそういう胜力は人によっお差異のあるものではあるが、しかしどれほど人䞊みはずれた食欲を持぀人でも、その食欲に限床がないわけではない。そうしお限床たで味わえば、あずは食っおもうたくはないのである。それず同じで、感受胜力の限床を超えおしたえば、たずい䜓が無比の傑䜜の前に立ち、県がその傑䜜を眺めおいるにしおも、その矎しさはいっこうに受甚されず、いわゆる「芋お芋ず」ずいう状態になる。そういう芋物は党然むだである。  その点を考えるず、䞀日のうちにあたり方々ぞ回るこずは考えものである。なるべく埒歩を混じえお、ゆっくり時間をかけお、それで芋お回れる皋床に限る方が、自分の感受胜力を掻発に働かせるゆえんずなるであろう。  そういうこずを考えおいるず、わたくしは四十䜕幎か前の゚キスカヌゞョンをな぀かしく思い出しおくる。それは東京倧孊の文孊郚の矎術史孊科の孊生や卒業生たちの修孊旅行なのであるが、その圓時から修孊旅行ずは呌ばず、゚キスカヌゞョンず呌んでいた。䞉月の末から四月の初めぞかけお、四五日の間に京郜ず奈良ずを芋孊するのである。これは倧正になっおから始たったので、わたくしの圚孊䞭にはなかった。わたくしが孊生ずしお聞いた矎術史の講矩は、関野貞先生の日本建築史、岡倉芚䞉先生の泰東巧芞史、滝粟䞀先生の日本絵画史などであったが、その時は滝先生は講垫であっお教授ではなかった。わたくしが倧孊を卒業した埌、倧正元幎か二幎かに教授になられたのである。゚キスカヌゞョンが始たったのはその埌であろう。それがいかにも楜しそうであったし、たたわたくしにはただ芋ないものが倚かったので、たぶん倧正の五幎か六幎のころに、滝先生に頌んで参加させおもらったのであった。  そのうち䞀日は奈良の寺々を回った。東倧寺ず春日神瀟ず新薬垫寺ず興犏寺ずで䞀日が暮れたように思う。が、どういうわけか、興犏寺の南円堂を芋た時のこずだけをはっきりず芚えおいお、あずはがんやりずしおいる。戒壇院や䞉月堂の内郚を芋物したのはこの時が初めおであるのに、その時の印象がはっきりず残っおいない。南円堂はその埌芋ないが、戒壇院や䞉月堂はたびたび芋たからであるかも知れない。がそれならば、次の日に芋物した法隆寺、薬垫寺、唐招提寺などは、その埌たびたび芋おいるのであるから、最初の印象も薄れお行きそうなものであるが、実はそれずは逆で、非垞に鮮かに芚えおいるのである。それがどうもわたくしには、䞀日の芋物の分量ず関係のある問題のように思われるのである。  この日は朝、奈良の停車堎に集合しお、汜車で法隆寺駅たで行った。法隆寺駅から法隆寺村のはずれたでは十町ぐらいであるが、法隆寺の門たではさらに五六町あるであろう。その道は麊畑の䞭をたっすぐに走っおいお、初めから向こうの方に法隆寺の塔が芋える。その道をぶらぶらず歩いお行くず、塔がだんだん近づいおくるに埓い、なんずなく胞のずきめきを芚える。そういう気持ちでゆっくりず法隆寺ぞ近づいお行ったのであるから、南倧門をはいっお遙かに䞭門を望み芋たずき、たた䞭門に立っお五重の塔ず金堂ず、それを取り巻く回廊ずを眺めたずき、実際に魂がふるえるような感銘を受けたのであった。これは䞀぀には矎術史を専門ずする仲間ず䞀緒であったずいうこずにもよるであろうが、䞻ずしお埒歩によるゆっくりずした近づき方によるず考えられる。  そのころ健圚であったあの壮麗な金堂の壁画や、金堂の壇䞊北偎に据えおあった橘倫人の厚子、東偎北寄りの隅に据えおあった玉虫の厚子なども、わたくしの心に匷い驚嘆の念を呌び起こした。それらの前でどれほどの時間を費やしたかは芚えないが、いろいろ説明も聞き、解らないずころを探玢し、堪胜するたでそれらを眺めた。しかし昌食をずるたでにはなお五重の塔の塑像や、講堂の仏像や、聖霊院の倪子像や、綱封蔵のいろいろな䜜品を芋お回った。倢違の芳音や、朚圫の九面芳音などは、そのころ綱封蔵に眮いおあった。なおそのほかに、講堂の西偎背埌の小高いずころをのがっお、西円堂を芋た芚えがあるが、その時にはだいぶ疲れを芚えお、ほずんど印象が残っおいない。たぶん昌食前であったのであろう。  昌食は倢殿の近くの宿屋でずった。高浜虚子の小説に出おくる家であったかず思う。  午埌は倢殿から芋物を始めた。埡堂がいい圢であるのみならず、幜かに暪から拝んだ秘仏の顔が、ひどく神秘的に感じられお、午前に劣らず深い感銘をうけた。ずころがそのあずで䞭宮寺の劂意茪芳音が、䞀局深い感銘を䞎えたので、この日のわたくしの感受胜力は、ほずんどもう飜和点に達したかに思われた。  幞いにそのあずわたくしたちは、法隆寺の裏山の麓を北ぞ歩き出したのである。いかにも叀そうな池や、叀墳らしい䞘などの間を北ぞ䞃八町行くず、法茪寺がある。法茪寺の芳音は奈良の博物通に叀くから出おいるが、それずよく䌌た本尊のある寺である。その法茪寺から東ぞ䞃八町、现い道をたどっお行くず、法起寺がある。叀い䞉重の塔がある。そういうものを芋おから、たぶん郡山ぞ通ずる街道ぞ出たのではないかず思うが、わたくしたちはさっさず歩き出しお、䞀里半以䞊、二里近い道を薬垫寺たで歩いた。郡山の町を出お、遠くに薬垫寺の塔の望たれる所たで来たずきには、もう幟分倕暮れの感じが出おいたかず思う。  そういう状態で薬垫寺ぞ぀いた時には、わたくしはたた新しい掻気のある気持ちになっおいた。東塔のあの倉化の倚い姿、東院堂の聖芳音のあの堂々ずした姿、特に金堂の薬垫劂来のあの枟然ずした、なんずも圢容のしようのない姿に察しおは、わたくしは実際に驚嘆の念を抱くこずができたのである。それには、折柄の西日が、あの薬垫劂来の黒い銅の肌に、きわめお適圓な照明を䞎えおいたずいうこずも、あずかっお力があったであろう。それは法隆寺から歩いお来たずいう偶然が䜜り出した効果なのであった。  もう倕暮れになったので急いで唐招提寺に回り、急いで金堂や講堂の䞭を芋せおもらったが、なんずいっおもここの芋ものは建築であるから、倕方の光でも䞍自由なく、心行くばかりあの堂々ずした姿を味わうこずができた。  がそれだけでわたくしたちは匕き䞊げたわけではない。唐招提寺を西の方ぞぬけるず、今電車線路のあるあたりを通っお、すぐ垂仁陵のそばに出る。その垂仁陵が実に矎しい姿をしおいるこずに、わたくしは虚を突かれたような驚きを感じた。それは予定の内にはいっおいなかったのである。それに反しお、そこから北ぞたた十町ほど歩いお、西倧寺の䞭ぞはいっお芋た時には、案倖に䜕もないのに倱望した。 昭和䞉十幎頃
侀  我々の生掻や䜜物が「䞍自然」であっおはならないこずは、今さらここに繰り返すたでもない。我々は絶察に「自然」に即かなくおはならぬ。しかしそれで「自然」に぀いおの問題がすべお解決されたずは蚀えない。むしろ、問題はそれから先にある。  䞀䜓どれが我々の生掻のドン底の真実なのか。どれを぀かんだ時に我々は「自然」に即したず豪語する事ができるのか。  自然䞻矩は殻の固くなった理想を打ち砕くこずに成功した。しかし代わりに䞎えられたものは、きわめお垞識的な平俗な、家垞茶飯の「真実」に過ぎなかったたずえば、人間の神を求める心ずか人道的な良心ずかいうものはあずから぀けた癜粉に過ぎない。人間を赀裞々にすればそこには食欲、性欲、貪欲、名誉欲などがあるきりだ、ず蚀うごずき。こういうこずはいかなる意味でも新発芋ではない。昔から数知れぬ人々が腹のなかで心埗おいた。それを心埗おいないのは千人に䞀人か癟人に䞀人の理想家や敬虔家だけであった。珟圚でももちろん同様である。ただ倚くの人は露骚にそれを発衚するのを奜たないそれだけ理想家、敬虔家の情熱が根深い習俗ずしお瀟䌚を支配しおいるのである。――そこを自然䞻矩は露骚でもっお刺激した。そうしおこの䞻矩がいかにも重倧な意矩を持っおいるらしい感じを䞖人に䞎えた。実際それは、停善家の面皮を正盎ずいう小刀で剥いでやった、ずいう意味で、重倧な意矩を持぀に違いない。あるいはたた幻圱に囚われた理想家を珟実に匕きもどした、ずいう意味で。――しかしそれは決しお以前よりも深い真実を捕えおくれたわけでなかった。それのもたらした新事実をあげれば、たず自然科孊の進歩、瀟䌚䞻矩の勃興、䞀般人民の物質的享楜ぞの暩利の䞻匵、培底的な虚無䞻矩の出珟――芞術䞊においおは様匏の単玔化、日垞生掻の倖圢的な现郚の描写の成功などであるが、そこに著しい進歩があったずは蚀っおも、䜕もより深いものは実珟されおいない。  ここに恐らく自然䞻矩の薄匱な反動に過ぎない理由があるのである。十九䞖玀埌半が生んだ偉倧なものは、たずえ自然䞻矩のいい圱響をうけおいたにしおも、決しお自然䞻矩的な本質を持っおはいなかった。そこには垞に自然䞻矩以䞊のものがあった。この事実は䞖界の粟神朮流から非垞に遅れおいた最近のわが囜の文化に぀いおも、厳密に怜察せられなくおはならない。――  そこで生掻の「真実」、人間の「自然」の問題である。我々はこの「真実」、「自然」を描くず自称する倚くの䜜家を持っおいる。しかし圌らもたた垞識的な粗雑な県をもっお芋た「自然」以䞊に䜕ものも知らないではないか。圌らはただ「倚くの堎合」「倚くの出来事」「倚くの人間」を知っおいる。あるいは倖景、宀内、容貌、衚情などに関する詳现な泚意や蚘憶を持っおいる。これらも確かに䞀皮の才胜である。誰でもが圌らのような芳察ず蚘憶ずを持぀こずはできない。けれども倚くを詳らかに芋るこずは盎ちに「自然」を深く芋るこずにはならない。圌らの県が鋭さを増さない限り、圌らの経隓がいかに積み重ねられようずも、質は䟝然ずしお倉わらないのである。ここに私は「曞き方」の䞊でたすたす粟緎ず簡朔ず円熟ずを加えお来た四五の䜜家を県䞭に眮いお考えおみよう。圌らは皆人生を底たで芋きわめたようにふるたっおいる。圌らはさたざたな瀟䌚珟象を詳らかに巧劙に描写する腕を持っおいる。しかし圌らが瀟䌚の裏に䜏む無恥な女を描き、性慟の衝動に動く浮薄な男を描き、あるいは山囜海蟺、あるいは倧郜䌚小郜䌚の颚物情緒を描く時には、それがあらゆる階玚の男女や東西南北の諞地方を材料ずするにかかわらず、たたそれぞれの境遇や土地をおのおのその特性によっお描いおいるにかかわらず、結局その䜜品の栞をなすものは千篇䞀埋に同じ芳察だずいう感じを䞎えるのである。圌らの県は倖圢の特性をのみ芋お、内郚の特性を芋埗ない。圌らは掻きた人生ず自然からい぀も同じ「自然」を芋いだす。かくのごずきこずは生の豊富な掻動を芋埗るものには党然あるわけがない。――しかも圌らはこの「自然」に満足しお、それを解し埗たこずを誇っおいる。その「自然」がいかに浅薄であるかに぀いおはほずんど省慮するこずなしに。  圌らは抂念的であるこずを非垞にきらう。そうしお圌ら自身の感じ方がすでに抂念的であるこずには気づかない。 二  私はここで「自然」の語矩を限定しおおく必芁を感ずる。ここに甚いる「自然」は「人生」ず察立せしめた意味の、あるいは「粟神」「文化」などに察立せしめた意味の、哲孊的甚語ではない。むしろ「生」ず同矩にさえ解せられる所のロダンが奜んで甚うる所の、人生自然党䜓を包括した、我々の「察象の䞖界」の名である我々の省察の察象ずなる限り我々自身をも含んでいる。それは我々の感芚に蚎えるすべおの芁玠を含むずずもに、たたその奥に掻躍しおいる「生」そのものをも含んでいる。  たずえば私がカサカサした枯れ芝生の䞊に仰臥しお光明遍照の蒌空を芋䞊げる。その蒌い、極床に新鮮な光ず色ずの内に無限ず氞遠が珟われおいる。そうしおあたかもその氞遠の内から湧きいでたように、あたかも光がそれを生んだように、私の頭の䞊には咲きほころびた梅の花が点々ず茝いおいる。ほんずうに「笑っおいる」ずいう蚀葉がふさわしいように  これが自然である。色ず光ず圢、そうしお私の心を充たす豊かな「生」。――たたたずえば䞀人の青幎が二人の老人を前に眮いお、県を光らせ、口のあたりの筋肉を痙攣させながら怒号する。老人はおどおどしおいる。青幎は自分の声のききめを枬量しながら、怒りの衚情の抑揚の぀け方をちょっず思案しおみる。――これも自然である。声、衚情、そうしおある目的のために老人の人栌を圧迫しおいる青幎の意志、感情、打算。我々は倖圢に珟われたものを感芚し、知芚するずずもに、この倖圢を象城ずしお珟われお来る内郚の生呜を感埗する。我々が自然を認識するのはこの䞡様の意味を含んでいる。すなわち倖圢はそれず党然䌌よりのない、性質の違ったものを我々に認識させるのである。 侉  ずころでこの倖圢ず党然異なった内郚生呜を認識するこずは、いかにしお可胜であるか。たずえば我々はある人の顔の筋肉が動くのを芋お、その人の喜怒哀楜やたたそれ以䞊に耇雑なさたざたの心持ち・思想などを感知する。我々の県に映じたその埮かな筋肉の動きず我々の感じたその内生ずは、実際党く䌌よりのないものである。この二぀は䜕ゆえに盎接に結び぀くのか。  これは恐らく我々の「生」に盞通ずるものがあるからである。我々はそれ以䞊に原因を知らない。ただ事実ずしお盎接にこの「生」の融合亀通のあるこずを経隓する。――しかし我々は、この際我々の感ずるものが厳密に我々自身の感じであるこずを忘れおはならない。もずより我々は、それを自分の感情ずしお経隓するのではなく、あくたでも察手の感情ずしお、自意識を離れお感ずるのである。その焊点にはただ察手の感情のみがあっお、自分はない。むしろ自己が、その焊点においお、察手の内に没入しおいるのである。けれどもいかに自分を離れた気持ちになっおいおも、「自分」が「察手」になるこずはできない。察手の感情を感じながら、実はやはり自分自身の感情を感じおいるに過ぎない。いわば自己を客芳化しお感じおいるのであっお、察手はただ、その自己客芳化を觊発するにずどたるのである。――すなわち我々はある倖圢を芋た時に、その倖圢の意味ずしお我々自身の感情を感じおいる。そうしおそれをその察象の認識ず呌んでいる。  そこで問題は、その察象の生呜にピタリず盞応ずるような生呜を自己の内に経隓し埗るかどうかに垰着しお来る。  感受性が鋭く、内生が豊富で、象城を解する匷い盎芚力を豊かに獲埗しおいるものはさたざたな察象の生呜の動きを自己の内に深く感じ埗るだろう。圌らは倖に珟われたさたざたな珟象を芋るのみならず、その内郚の生呜に力匷く没入し行く。圌らの感ずるのは、ある倖圢に珟われなければならなかった内郚の力の必然性である。内郚の掻動の耇雑をきわめた屈折濃淡である。――このこずを高い皋床にたずえばロダンほどの皋床に、実珟し埗るのは、なかなか容易ではない。しかし我々はそれを目ざしお進たなくおはならない。この皋床を高めるこずは、ずりもなおさず「自然」を捕える皋床が深くなるこずである。我々はこの皋床を高め埗た時にのみ、「自然を芋るこず」を誇り埗るだろう。 四  ずころで内郚に突き入ろうずする衝動を感じない人たちはたずえば前に蚀った䜜家連のごずき、きわめお垞識的な、普通䞀般の芋方をもっお人間の内郚を片付けおしたう。そうしおただ倖郚のさたざたな倉化や状態にのみ泚意を集䞭する。圌らの「自然に即け」ずいう意味は、右の垞識的な芋方の埒倖に出るなずいうこずに過ぎないのである。  で、圌らの匷みは、䞀般の垞識が認容するずころをふりかざすにある。たずえば「こういう人が実際あるのだ、」「こういう事を珟に自分も感じおいる、倚くの人も感じおいる、」「それがある理想から芋お奜たしくないこずであろうずも、ずにかく人間の自然なのだ、私はその自然を捕えた、」云々。  しかし自分の経隓をほんずうに理解しようずする人が知っおいるように、経隓の真盞を぀かむずいうこずはきわめおむずかしい深い問題である。それはただ意識の衚面に珟われるものをたどっお行っただけではわからない。こずに「性慟の匷い力」ずか「生ぞの執着」ずかいう抂念をあたかも生掻の本質であるかのごずくに考え、すべおの珟象をそれぞ匕き぀けお理解しようずするような堎合には、恐らく生掻がきわめお狭い貧匱なものになっおしたうだろう。それでもその人には、「生掻が実際そうである」ように、「それが人間の自然である」ように、思われるに盞違ない。そうしおそこに生掻の小化醜化が行なわれる。生掻の豊富な真盞は、空想ずしお、あるいはこしらえものずしお、圌らの前に䟡倀を倱っおしたう。圌らはこの小さい生掻に満足しお、生掻の真盞を実感しようずは努めない。  埓っお圌らの県には、垞識以䞊に深く自然に食い入ったものず、実感なくただ空想によっお造り䞊げられたものずの区別が぀かない。そこには嘘ず真実ずの䞡極端が珟われおいるのに、圌らはそれを嗅ぎわける力を持たない。そうしお自分たちよりもはるかに深く自然を぀かんでいるものに察しお、自然に即けず忠告するのである。  すべおこれらのこずは圌らの内生の浅薄貧匱から生たれおいる。圌らの「自己」が浅薄である以䞊それを「客芳化」した圌らの経隓が浅薄であるのは圓然だからである。圌らの根本的な欠点を救うものは、ただ自己の深化のほかにあり埗ない。それによっお圌らはその「県」を鋭くし、その経隓の「質」を倉化するこずができるだろう。そうしお初めおほんずうに自然に面するこずもできるだろう。 五  自然をただ醜悪に芳察しお喜んでいた䜜家たちが、近ごろ䜕ずなく認識論的な、あるいは倫理孊的な思想を、その䜜品䞭に混ずるに至ったこずは、新しい時代が圌らに及がした圱響ずしおかなり我々の興味をひく。しかし圌らは、圌ら自身の思玢が圌らの最も忌みきらう抂念的なものであるこずに気づかない。埓っお圌らの芳察ず思想ずは、たるで朚に竹を぀いだように、圌らの䜜品䞭に混圚しおいる。このようなこずは圌らの内生の幌皚をほかにしお解釈のしようがない。圌らは「自己」を改革する代わりに、二䞉の新しいこずを自己にくっ぀けようずする。生たれ倉わる代わりに、竹べらで自分の顔の造䜜を造り倉えようずする。あたりにたわいがない。  圌らはたず、自分たちのずは違った自然の芋方をほんずうに心底から理解しおみなくおはいけない。私は圌らが性慟を重んじるからいけないずいうのではない。圌らが嚌婊を描くからいけないずいうのではない。ただそういうものに察しおもっず深い芋方のあるこずを理解しろずいうのである。我々の生掻は穢ないものをもきれいなものをも包容しおいる。迷いもすればたた火のように匷烈に燃え䞊がるこずもある。耜溺の欲望ずずもに努力の欲望もある。この内面の豊富な光景を深く理解した人の芋方が、圌らの芋方よりもいかに倚くの高い䟡倀を持っおいるか、それを血によっお感じおもらいたいのである。圌らは倚くの心境を理解し埗ないがゆえに、排斥する我々は圌らの心境を理解し぀くした䞊で、浅薄ずしお排斥する。しかし理解すればずおも頭があがらなくなるようなものを、䞍理解のゆえに排斥するのは、圌ら自身にずっおもむしろ悲惚ではないか。私は思い぀いたたたにドストむェフスキむの䟋を匕こう。この䜜家が人間の「自然」を最も深く芋きわめた人の䞀人であるこずは、恐らく圌らの認容しない所であろう。圌らはただドストむェフスキむに倉態心理の䜜家を芋るにずどたるだろう。圌が著しく「神」のこずに執着する所などはほずんど無意味に感ぜられるに盞違ない。しかし実際はこの䜜家ほど深く確実に人間のあらゆる性情を぀かんでいる者は、たぐいたれなのである。私はここに圌の぀かんだ無数の真実を数え䞊げるこずはできない。ただ䞀぀、特にそれが人間の自然でないず考えられおいるらしく思われるから、圌の掞察した「神を求むる心」あるいは「信じようずする意志」に぀いお少しく芳察しおみよう。 「ある者」を信じようずする意志は、人間の自然ずしお、少なくずも性愛ず同じ皋床の根匷さをもっお我々の内にわだかたっおいる。それは恐らく自己の人栌を圧倒する力に察しお畏服しないではいられない衝動にもずづくものであろう。同時にたたそれは我々の内のかくのごずき力を求める心にそれがなくおは空虚を感じる我々の匱い心に、もずづくものであろう。神はこの力の象城であった。神が滅がされた時には悪魔が代わっお象城ずなった。象城をきらうものは自己の奥底に「䞖界の根本実圚」ずしおこの力を認めた。そうしお党然この力をいかなる圢においおも認める事のできない者は、同じく自己を圧倒する力ずしお虚無を信じた。――ドストむェフスキむの芋砎ったのは、この、人栌の䞊に働く力の、深秘な掻動である。同時にこの力を感じないではいられない人間の埮劙な心理である。圌はこの感受性に匷いロシア人の性情を、きわめお明確に぀かんだ。圌の「魅かれたる者」を読む人は、ロシア人の心があたかも獲物をねらう鷲のごずくこの力をねらっおいるように感じるだろう。そうしおロシアにならば癟のラスプりチンが珟われおも䞍思議はないず思うだろう。かくのごずく信じようずする傟向の匷い人民の内に、党然信ずべきものを芋倱った者が出るずすれば、それがいかに猛烈な虚無の信者ずなるかは、ロシア虚無党の蚘録を読む者が知っおいるごずく、きわめお理解しやすいこずである。これもたた「魅かれたる者」の内に鮮やかに描かれおいるさらにたたかくのごずき人民の内から、神を信ずる者、悪魔を信ずる者、自己を信ずる者が出るずすれば、それがいかに驚異すべき聖者ずなり、陰険な悪党ずなり、超人の倢想者ずなるかは、特に「カラマゟフ兄匟」の内に鮮やかに描かれおいる。我々は「魅かれたる者」を読んで、信じようずする心の暎嚁が決しお性愛のそれに劣らないこずを、ほんずうに合点し埗るのである。ニコラむ・スタフロオギンが自ら䌁おずしお埗た奇劙な倩真の力は、あたかも「無」の内に「すべお」を芋る犅の悟りのように、たくたず努めず自ら意識するこずもなくしお、しかも圌に觊れるすべおの人に異様な圧力を䞎える。たるで人々の間に「狂気」をふりたいお歩くように芋える。幟人かの女が殺されそうにその心を捕えられおいる。ロシアの神を信じようずする䞀人の青幎は圌の内にその神の䜿埒を芋る。狡猟ず虚停ずを享楜するらしい䞀人の虚無䞻矩者は、自らを圌の奎隷のごずくに感じおいる。圌を殺そうずした者は死の前に平然たる圌の態床によっお、心の底から芆えされた心持ちになる。これらすべおは䜕によっお起こるか。人栌の䞊に働きかける力ず、その力を感じる埮劙な心理のほかにはなんにもない。そうしおそこに信じようずする心の秘密がある。  ――私はドストむェフスキむの぀かんだ右のような真実に察しお、神を求める心が人間の自然でないず考えおいるような人々の県の開くこずを心から垌望する。この真実はロシアにばかりあるのではない。我々の県前に䞇をもっお数うべき人々がそれでもっお狂喜し狂奔し狂苊しおいる。さらにたた新しい「神の子」が五指を屈するほどに出珟しおいる。それは少なくずも珟実である。そうしお県を開いお芋るものには、人間の自然である。  これはドストむェフスキむの真実の内のただ䞀぀に過ぎない。他の倚くの真実に぀いおも私は同じように譊告を付けたいず思う。それほどに自然を説く人々の県は自然に察しおふさがっおいるのである。
 倧地震以埌東京に高局建築の殖えお行った速床は、かなり早かったず蚀っおよい。毎日その進行を傍で芋おいた人たちはそれほどにも感じなかったであろうが、地方からたれに䞊京する者にはそれが顕著に感ぜられた。六、䞃幎前銀座裏で食事をしお倖ぞ出たずき、痛切にシンガポヌルの堎末を思い出したこずがある。埀来から倜の空の芋える具合がそういう連想を呌び起こしたのかず思われるが、その時には新しく建蚭せられる東京がいかにも怍民地的であるのを情けなく思った。しかしその埌二幎もた぀ずシンガポヌルの堎末ずいう感じはなくなった。おいおい高局建築が立ち䞊ぶに埓っお、郚分的には堂々ずした通りもできあがっお来た。党䜓ずしおは恐ろしく乱雑な、半出来の町でありながら、しかもどこかに力を感じさせる䞍思議な郜䌚が出珟したのである。  この埩興の経過の間に自分を非垞に驚かせたものが䞀぀ある。二、䞉幎前の初倏、久しぶりに䞊京しお東京駅から䞞の内の高局建築街を抜けお濠偎ぞ出たずきであった。濠に面しお新しい高局建築が建おそろっおいる。ここがあの荒れ果おた䞉菱が原であった時分から思うず、党く隔䞖の感がある。しかし自分を驚かせたのはこの建お䞊んだ西掋建築ではない。これらはたこずに平凡をきわめたものである。そうではなくしおこれらの建築に察し静かに眠っおいるようなお濠の石垣ず和田倉門ずが、実に鮮やかな印象をもっお自分を驚かせたのである。柔らかに枝を垂れおいる濠偎の柳、淀んだ濠の氎、さびた石垣の色、そうしお叀颚な門の建築、――それらは䞀぀のたずたった芞術品ずしお、察岞の高局建築を嚁圧し切るほどの品䜍を芋せおいる。自分は以前に幟床ずなくこの門の前を通ったのであるが、しかしここにこれほどたで鮮やかな芞術を芋いだしたこずはなかった。その埌この門が修築せられたにもしろ、以前ずさほど圢を倉えたわけではない。䜕がこのように事情を倉ぜしめたのであろうか。ほかでもない、濠偎に䞊んだ高局建築なのである。それが明癜に異なった様匏をもっお石垣ず門ずに察立したずき、石垣や門はいわば額瞁の䞭に入れられた。すなわちそれらは fÃŒr sich になった。そこで石垣や門の持っおいる固有の様匏がたた明癜に己れ自身を芋せ始めたのである。石垣や門の屋根などの持っおいる圎曲線は、察岞の西掋建築には党然芋いだされないものである。石垣の石の積み方も、芏栌の統䞀ずはおよそ瞁のない、たた機械的ずいう圢容の党然通甚しない、埓っおそれぞれの倧きさ、それぞれの圢の石に、それぞれその堎所を䞎えたあの悠長なやり方である。それらはもはや珟代には甚いられ埗ぬものであるかもしれない。しかしそれによっお圢成せられた䞀぀の様匏がその特殊の矎を持぀こずは、消し去るわけには行かないのである。  埩興された東京を芋お回っお感じさせられたこずも、結局はこれず同じであった。巚倧な欧米颚建築に取り囲たれた宮城前の広堎に立っおしみじみず感ぜさせられるこずは、江戞時代の遺構が実に匷い底力を持っおいるずいうこずである。それは呚囲に察立者のない時にはさほど目立たなかった。それほど䜕げのない、なだらかな、圓たり前の圢をしおいるからである。しかるにその、「なんにもない」ず思われおいた圢の䞭から、察立者に応じお溌剌ずしたものが湧き出お来る。たずえば桜田門がそれである。あの門倖でながめられるお濠の土手はかなりに高い。しかしそれは穏やかな、たたなだらかな圢の土手であっお、必ずしも偉倧さ力匷さを印象するものではなかった。しかるに今この門倖に立っお芋るず、倧正昭和の日本を蚘念する巚倧な議事堂が䞘の䞊から芋おろしおいる。そうしお間近には譊芖庁の倧建築がそそり立っおいる。そうなるずあのなだらかな土手が䞍思議にも偉倧さを印象し始めるのである。あの濠ず土手ずによる倧きい空間の区切り方には、異様に力匷い壮倧なものがある。しばらく議事堂や譊芖庁の建築をながめたあずで、県を返しおお濠ず土手ずをながめるならば、刺激的な芞のあずに無蚀の腹芞を芋るような、もしくは巧蚀什色の人に接したあずで無為に化する人に逢ったような、深い喜びを感ずるであろう。そうしおさらに門内に歩み入っお、叀颚な二぀の門ず、さびた石垣ず、お濠ず土手ずだけでできおいる静寂な䞖界の䞭に立぀ず、我々の離れお行こうずする䞖界にもどれほど真実なもの偉倧なものがあったかを感ぜずにはいられないであろう。  少し感じは異なるが、倧阪城もたた叀い時代を蚘念する倧きい遺跡である。䞭の嶋あたりに高局建築が殖えれば殖えるほど、倧阪城の偉倧さは増しお来る。そうしおそれは、江戞城の堎合ずは異なっお、たず䜕よりもあの石垣の巚石にかかっおいる。あの巚石は決しお「䜕げのない」「圓たり前」のものずは蚀えぬ。のしかかるように人を嚁圧する意志があそこには衚珟せられおいる。ただ石垣に䞊べただけの石にそんな衚珟があるものかず蚀う人があるかもしれない。しかし倧阪城を芋る人は誰だっおあの石には驚くのである。䜕ゆえに驚くか。山の䞊の巚岩を芋おも同じ驚きは起こらない。そういう巚岩を倧阪たで持っお来お石垣の石ずしお䜿いこなしおいるその力に驚くのである。自分はああいう巚石運搬に぀いおの詳しい事情は知らないが、専門家の研究を瞥芋したずころによるず、結局は倚衆の力によるらしい。しかしその倚衆の力ずいうものが個々の力を环蚈したものでなく䞀぀の党䜓的な力に統䞀されなくおは巚石は動かないのである。煉瓊を積んで倧䌜藍を造る堎合にも倚衆の力は働いおいるが、その力は煉瓊を運ぶ個々の力の集積であっおよい。巚石運搬の堎合には倧綱に取り぀いた無数の矀衆ず、その矀衆の力を䞀぀にたずめる指導者ずが必芁である。絵で芋るず巚石の䞊には扇をかざした人が螊っおいる。ずいうのは、党身を指揮棒に代えお矀衆の呌吞を合わせおいるのである。京郜の祇園祭りの鋒の山車の匕き方はその幜かな遺習であるかもしれない。倧阪城の巚石のごずきは䜕癟人䜕千人の力を䞀぀の気合いに合わせなくおは䞀尺を動かすこずもできなかったであろう。それでもただどうしお動かせたか芋圓の぀かないほどの巚石がある。そういう巚石を数倚くあの䞘の䞊たで運んで来るためには、どれほどの人力を芁したかわからない。その巚倧な人力が凝っおあの城壁ずなっおいるのである。その点においおぱゞプトのピラミッドもロヌマのコロセりムも倧阪城に及ばない。しかもそういう巚倧な人力をあの城壁に結晶させた豊倪門は、珟代に至るたで䞉癟䜙幎間、京郜倧阪の垂民から「偉い奎」であるずしお讃矎され続けお来たのである。そうしおこの「偉い奎」を蚘念する酔舞の行列は、欧米颚の高局建築の䞊んだ通りをもなお緎っお行くのである。  お城を讃えるず人はすぐに封建時代の讃矎ずしお非難するかもしれない。しかしお城が偉倧さを印象するず䞻匵するこずは、封建時代を呌び返そうずするこずでもなければ、たた、封建時代的な営造物を新しく䜜るように芁求するこずでもない。それぞれの時代はその匊害や匱点を持぀ずずもにたたその時代固有の偉倧さを持っおいる。江戞時代の文化の偉倧な偎面に察しお色盲ずなり぀぀、ただその矮小を嘆くずいうこずは、この文化に察する正しい態床ずは蚀えない。お城はただその䞀䟋であるが、他になおいくらでも䟋をあげるこずができよう。たずえば街路暹である。日本の叀い郜䌚には街路暹がなかった。だから西掋の郜䌚をたねお街路暹を怍え、しかもその暹にプラタヌスを遞ぶなどずいうこずも、確かによいこずではあったろう。しかしそれずずもにあたかも日本に街路暹がなかったかのごずくに考えおしたうずいうこずは、前に蚀った色盲である。東海道の束䞊み朚や日光の杉䞊み朚などは、䞖界に類䟋のないほど豪壮な街路暹ではないか。束の幹が倧きくうねっお敎列しおいないずいうこずは街路暹たる資栌を毫も遮げるものではない。もし街路暹の必芁を感ずるならば、すでにかくのごずき壮倧な街路暹の存するこずを認識し、たたそれを尊重しなくおはならない。そうすれば電線の䞋にすくんでいる矮小な暹が街路暹であるず考えるような倧きな芋圓違いをしなくおも枈んだであろう。欧州の郜垂においおはこのように小さな街路暹はただ新開の街にしか芋るこずができない。少しく立掟な街ならば街路暹は颚土盞応の倧朚ずなっおいる。たた倧朚ずならなければ矎しい街になるこずはできぬのである。街路から電線を取り陀くこずが䞍可胜であるならば、電線は街路暹の枝の䞋に来べきものであっお、梢を抑えるべきものではない。埓っお街路暹が電線の高さを乗り超え埗るように工倫しおやるべきである。そうでない限りいわゆる街路暹なるものは、束䞊み朚、杉䞊み朚などず呌ばれる叀来の街路暹に察しお、比范にさえもならないお茶番に過ぎぬ。そうしお束䞊み朚や杉䞊み朚の街路暹ずしおの壮倧さを讃矎するこずは、封建時代を呌び返そうずするこずなどでは決しおないのである。  これらのこずを思うずき、それぞれの文化産物が、それに固有な様匏の理解のもずに鑑賞されねばならぬこずを痛感する。街路暹もそれぞれに様匏を持っおいる。城のごずきモニュメンタルな営造物は䞀局そうである。人はそれぞれの時代的、颚土的な特殊の様匏に察しお、県鏡の床を合わせるこずを孊ばねばならない。そうするこずによっおそれぞれの物が鮮明に芋え、その物の持぀意矩が読み取られ埗るのである。自分にずっお鮮明でないからずいっおその物を無意矩ずするのは単なる䞻芳䞻矩に過ぎない。それはたた幌皚の異名である。我々は日本の文化の珟状がただこの幌皚の段階にずどたっおいるのではないかを恐れる。欧州文化の咀嚌においおも、たた自囜文化の自芚においおも。 泚浜田耕䜜氏によるず、倧阪城倧手門入り口の倧石の䞀は暪䞉十五尺䞃寞高さ十䞃尺五寞に達し、その他これに䌯仲するものが少なくない『京倧考叀孊研究報告』第十四冊、六〇ペヌゞ。かりにこの石の厚さを八尺ずし、䞀立方尺の石の重さを十九貫四癟匁ずすれば、この石の重さは玄十䞇貫、䞉䞃五トンずなる。なお梅原末治氏によれば、倧阪城には四間に八間の倧石もあるそうである。たた゚ゞプトの倧ピラミッドの石は䞉フィヌト角、重さ二英トン半、石の数玄二癟䞉十䞇個だそうである。
 城茪ずいうのは、元来はその蚀葉の瀺しおいる通り、城土で䜜った玠焌き円筒のこずである。それはたぶん八癟床ぐらいの火熱を加えたものらしく、赀耐色を呈しおいる。甚途は倧きい前方埌円墳の呚囲の垣根であった。が、この玠焌きの円筒の䞭には、䞊郚をいろいろな圢象に倉化させたものがある。その圢象は人間生掻においお重芁な意味を持っおいるもの、たた人々が日ごろ銎れ芪しんでいるものを珟わしおいる。家ずか道具ずか家畜ずか家犜ずか、特に男女の人物ずかがそれである。䌝説では、殉死の習慣を廃するために城茪人圢を立お始めたずいうこずになっおいるが、その真停はわからないにしおも、ずにかく殉死ず同じように、葬られる死者を慰めようずする意図に基づいたものであるこずは、間違いのないずころであろう。そういう城茪の圢象の䞭では、人物、動物、鳥などになかなかおもしろいのがある。それをわれわれは、わが囜の叀墳時代の造圢矎術ずしお取り扱うこずができるのである。  わが囜の叀墳時代ずいうず、西暊玀元の䞉䞖玀ごろから䞃䞖玀ごろたでで、応神、仁埳朝の朝鮮関係を䞭心ずした時代である。あれほど倧きい組織的な軍事行動をやっおいるくせに、その事件が愛らしい息長垯姫の物語ずしお語り残されたほどに、この民族の想像力はなお皚拙であった。が、たずい皚拙であるにもしろ、その想像力が、䞀方でわが囜の叀い神話や建囜䌝説などを圢成し぀぀あった時に、他方ではこの城茪の人物や動物や鳥などを䜜っおいたのである。蚀葉による物語ず、圢象による衚珟ずは、かなり異なっおもいるが、しかしそれが同じ想像力の働きであるこずを考えれば、いろいろ気づかされる点があるこずず思う。  神々の物語にしおも、この城茪の人物にしおも、前に蚀ったようにいかにも皚拙である。しかし皚拙ながらにも、あふれるように感情に蚎えるものを持っおいるこずは、吊むわけに行かない。それに぀いおたず第䞀にはっきりさせおおきたいこずは、この皚拙さが、原始芞術に特有なあの怪奇性ず党く別なものだずいうこずである。わが囜でそういう原始芞術に圓たるものは、瞄文土噚やその時代の土偶などであっお、そこには原始芞術ずしおの䞍思議な力匷さ、巧劙さ、熟緎などが認められ、怪奇ではあっおも決しお皚拙ではない。それは非垞に氞い期間に成熟しお来た䞀぀の様匏を瀺しおいるのである。しかるにわが囜では、そういう叀い䌝統が、定䜏蟲耕生掻の始たった匥生匏文化の時代に、䞀床すっかりず振り捚おられたように芋える。土噚の圢も、暡様も、怪奇性を脱しお非垞に簡玠になった。人物や動物の造圢は、銅鐞や土噚の衚面に描かれた線描においお珟われおいるが、これは瞄文土噚の土偶に比べおほずんど足もずぞもより぀けないほど幌皚なものである。こういう匥生匏文化の時代が少なくずも䞉䞖玀ぐらい続いたのちに、初めお叀墳時代が珟われおくるのであるから、城茪が瞄文土噚の䌝統ず党く独立に䜜り始められたものであるこずはいうたでもない。しかもその出発よりよほど埌に、たぶん五䞖玀の初めごろに、人物の城茪が珟われ出たずなるず、この城茪の皚拙さが日本の原始芞術の怪奇性ず党く瞁のないものであるこずは、䞀局明らかであろう。  城茪人圢の皚拙さに぀いお第二に泚目すべき点は、この造圢が必ずしも人䜓を写実的に珟わそうなどず目ざしおいないずいう点である。それは城茪の円筒圢に「意味ある圢」をくっ぀けただけであっお、城茪本来の円筒圢を人䜓に改造しようずしたのではない。このこずは四肢の無雑䜜な取り扱い方によく珟われおいる。䞡足は無芖されるのが通䟋であり、䞡腕も、この人物が䜕かを持っおいるずか、あるいは螊っおいるのだずか、ずいうこずを瀺すためだけに付けられるのであっお、肩や腕を写実的に衚珟しようなどずいう意図は党然芋られない。しかし「意味ある圢」、たずえば「甲冑」を円筒䞊の人物に着せたずなるず、その甲冑は、四肢などに察するずは党く段違いの现かな泚意をもっお衚珟されおいる。甲冑の材料である鉄板の堅い感じ、その鉄板を぀ぎ合わせおいる鋲の、いかにもかっちりずしお䞊んでいる感じ、そういう感じたでがかなりはっきりず出おいるのである。それはこの鉄の歊噚が、人䜓などよりもはるかに匷い関心の察象であったこずを瀺すものであっお、いかにも叀墳時代の感じ方らしい。甲冑のほかには銖食りの曲玉や、頭の食りなどのような装食品も、「意味ある圢」ずしお重んぜられおいたらしい。しかし䜕ず蚀っおも「意味ある圢」のなかには、「顔面」の担っおいる意味よりも重い意味を担っおいるものはない。その点から考えるず、城茪人圢の顔面が䜓の他の郚分ず著しく異なった印象を䞎えるのは、いかにも圓然のこずなのである。  顔面は、県、錻、口、頬、顎、眉、額、耳など、䞀通り道具がそろっおいるが、䞭でも県、錻、口、特に県が非垞に重倧な意味を担っおいる。原始的な造圢においお県がそういう圹目を持っおいるこずは、フロベニりスに蚀わせるず、南フランスの掞窟の動物画以来のこずであっお、なにも城茪人圢に限ったこずではないのであるが、しかし城茪人圢においお特にこのこずを痛感せしめられるずいうこずも、軜く芋るわけには行かない。城茪人圢の䞀番の特色は県である。あの県が、あの皚拙な人物像を、異様に掻かせおいるのである。  ず蚀っおもあの県は、無雑䜜に城土をくりぬいお穎をあけただけのものである。通䟋はその穎が怎の実圢の、暪に長い楕円圢になっおいお、幟分県の圢を写そうずした努力のあるこずを思わせるが、しかしそれ以倖には県を写実的に珟わそうずした点は少しもない。時にはその穎がたん䞞であるこずさえもある。しかしそういう無雑䜜な穎が二぀䞊んであいおいるこずによっお、城茪の䞊郚に䜜られた顔面に生き生きずした衚情が珟われおくるこずを、叀墳時代の人々はよく心埗おいたようにみえる。二぀の穎は、魂の窓ずしおの県の圹目を十分に果たしおいるのである。  叀墳時代の人々がどうしおそれに気づいたかを考えおみるためには、城茪人圢を近くからでなく、䞉間、五間、あるいはそれ以䞊に、時には二、䞉十間の距離を眮いお、ながめおみる必芁があるず思う。それによっお城茪人圢の県は実に異様な生気を珟わしおくるのである。もしこの県が写実的に圢䜜られおいたならば、少し遠のけばはっきりずは芋えなくなるであろう。しかるにこの県は、そういう圢づけを受けず、そばで芋れば粗雑に裏たでくり抜いた空掞の穎に過ぎないのであるが遠のけば遠のくほどその粗雑さが芋えなくなり、魂の窓ずしおの県の働きが衚面ぞ出おくる。それが異様な生気を珟わしおくるゆえんなのである。県にそういう働きが珟われれば、顔面は生気を垯び、城茪人圢党䜓が生きおくるのはもちろんである。叀墳時代の人々はそういうふうにしお城茪の人圢を芋、たたそういうふうに芋えるものずしお城茪の人圢を䜜ったのであった。  こう考えおくるず城茪の人圢の持っおいるあの䞍思議な生気のなぞが解けるかず思う。城茪人圢の補䜜者は人䜓を写実的に䜜ろうずしたのではない。ただ意味ある圢を䜜ろうずしただけである。しかし意味ある圢のうちの最も重芁なものが人の顔面であったがゆえに、ああいう城茪の人圢ができあがったのである。その造圢の技術はいかにも皚拙であるが、しかし「人」を顔面によっお捕えようずする態床は、技術ず同じに皚拙ずはいえない。技術を孊び取れば、それに乗っお急にあふれ出るこずのできるようなものが、その背埌にある、ず私は感ぜざるを埗ない。埓っお、これらの皚拙な城茪人圢を䜜っおいた民族が、わずかに䞀、二䞖玀の埌に、圫刻ずしお党く段違いの掚叀仏を䜜り埗るに至ったこずは、私にはさほど䞍思議ずは思えないのである。
 青春を通り越したずいうのでしきりに残り惜しく感じおいる人があるようですが、私はただその残り惜しさをしみじみ感ずるほどな䜙裕をもっおいたせん。それよりも、やっず自分がハッキリしかかっお来たずいうこずで党心が沞き立っおいるのです。時々自分の青春を振り返っおみる時にはそこに自分の歩かなければならなかった道ず、いかにも「うかうかしおいた」自分の姿ずを認めるきりで、ずおも過ぎ去った歓楜を远慕するような心持ちなどにはなれたせん。もう少し幎を取ったらどうなるかわかりたせんが、今のずころでは回顧するたびごずにただ埌悔に心臓を噛たれるばかりです。  しかし私は青春ず名の぀く時期を䜎く評䟡しおはおりたせん。恐らくそれは、人生の最も倧きい危機の䞀぀であるだけに、たた人生の最も貎い時期の䞀぀でしょう。その貎さは溌剌たる感受性の新鮮さの内にありたす。その包容力の挠然たる広さの内にありたす。たたその匟性のこだわりのないしなやかさの内にありたす。それは青春期の肉䜓のみずみずしさずちょうど盞応ずるものです。そうしお幎ずずもに自然に倱われお、特殊の激倉に逢わない限り、再び手に入れるこずのむずかしいものです。  この時期には内にあるいろいろな皮子が力匷く芜をふき始めたす。ちょうど肉䜓の成長がその絶頂に達するころで、䜙裕のできた粟力は朮のように粟神的成長の方ぞ抌し寄せお来るのです。で、この時期に萌えいでた芜はたずえそれが生掻の䞭心ぞ来なくおも、䞀生その意矩を倱わないものだず聞きたした。たずえば芞術家の晩幎の傑䜜などには、よく青春期の幻圱が蘇生し完成されたのがあるそうです。たた䞭幎以埌に起こる粟神的革呜なども、倚くはこの時期に萌え出お、そうしお閑华されおいた芜の、突然な急激な成長によるずいうこずです。それほどこの時期の粟神生掻は、挠然ずはしおいおも、内容が豊富なのです。  しかし危険はこれらの䞀切が雑然ずしおいる所にありたす。そこには党䜓を支配し統䞀するテ゚マがありたせん。埓っおすべおがバラバラです。぀たらない芜を倧きくするためにいい芜がたくさん閑华されおも、それを䞍圓だずしお眰する力はないのです。  実を蚀えばそのテ゚マは、おのおの独特な圢で、あらゆる人間の内にひそんでいるのでありたす。そうしおそれがハッキリず珟われお来れば、雑然ずしおいたものはおのおのその所を埗お、䞀぀の独特な亀響楜を造り出すのでありたす。しかしそれは䜕人ずいえども予芋し埗るものではありたせん。特に青春の時期にある圓人にずっおは、それは党然芋圓の぀かない、たた特別の意矩がありそうにも思えない、未知数に過ぎないのです。それが初めから飲み蟌めおいるほどなら、青春は危機ではありたせん。その代わり新緑のような溌剌ずしたいのちもないでしょう。  そこでこの青春を、心の動くたたに味わい぀くすのがいいか、あるいは厳粛な予想によっお絶えず鍛緎しお行くのがいいか、ずいう問題になりたす。  青春は再び垰っお来ない。その新鮮な感受性によっお受ける党身を震駭するような歓楜。その匟性に充ちた生の力から湧き出お来る匷烈な酣酔。それはやがお氞遠に我々の手から倱われるだろう。䞀生の仕事は先ぞ行っおもできる。青春は今きりだ。これを逞すれば悔いを氞久に残すに盞違ない。味わえるだけの歓楜を味わい぀くそうではないか。こういう心持ちになる時期のあるこずは、誰でもたぬかれ難い所だろうず思いたす。恋、女、酒あるいは芞術、そういうものは猛烈に我々を誘惑にかかるのです。時にはそのためにすべおの顧慮を捚おお、底たで溺れ切ろうずいう気も起こりたす。それが䜕ずなく英雄的にさえも感ぜられるのです。  これは䞀方から蚀えばいい事に盞違ありたせん。生の享楜を知らないものは死んでいるのも同然です。底たで味わおうずしないのは生に察する卑怯です。もずより享楜に走るものはいろいろな過倱に陥りはしたすが、ゲ゚テも蚀ったように、 Wer nicht mehr liebt und nicht mehr irrt, Der lasse sich begraben. です。頭がぐらぐらしたり心が沞き立ったりするような目に逢うのも、生きがいがあるずいうものです。  しかしここには芋のがすこずのできない危険がありたす。それは歓楜に身をたかせるこずによっお、他のさたざたな欲望を鈍らせるこずです。理想が䜕だ、道埳が䜕だ、人生が䜕だ、ずいったようなのんきな心持ちになるこずです。ゲ゚テのように、「党的」に、「充満」の内に生きるこずを心がけおいた人なら、「過去を悔いず未来を楜したずただ垞に珟前を味わえ」、ずいう法則を自己の生掻の䞊に掲げおも、別に危険はなかったでしょう。しかし青春の時期にあるものは、この党的に生きるずいうこずを最も解しおいないのです。どこか䞀方ぞ偏すればそれきり他の方面を無䟡倀に芋おしたうほど、圌らの内のすべおのこずの根が浅いのです。珟前を味わっおいる内に、成長すべきものが成長せず、い぀か人栌が歪になっお行きたす。そうしお、ほんずうの生の頜廃たで行かないにしおも、ずにかく道矩的脊骚を欠いた、生に察しお䞍誠実な、なたこのような人間になっおしたいたす。これは確かに倧きい危険です。  それでは青春を厳栌に束瞛し鍛錬しお行くのがいいか。――もちろんそれはいい事です。青春期に道矩的情熱をあおり立おるのは、どの他の時期よりも有効です。しかしこの事は倚くの堎合に方法を誀られおいるず思いたす。なぜなら、道矩的情熱は内から必然に湧いお出なければ䜕の意味もない。型にはめるように倖から抌し぀けるのでは、ただ内にある生呜を窒息させるばかりです。恋をしおはいけない、女に近づいおはいけない、小説を読んではいけない、芝居を芋おはいけない、――芁するに生を味わっおはいけない それでどんな人間ができたすか。也干びた、人間知のない、かかしのような人間です。錻先から出る道埳に塗り固められお䜕事も心臓でもっお理解するこずができず、たた䜕事も心臓から出お行為するこずのできない、死人のような人間です。ゲ゚テも蚀ったように、迷うずいうこずは生きる蚌拠です。道矩の力は迷った埌にほんずうに理解せられる。たず生かしおみないでほんずうの生を獲埗させようずいうのは、もずもず無理なのです。そんな型にはめるような鍛緎は、害こそあれ益はありたせん。今の青幎教育は倧抂この匊に陥っおいたす。ただ、性栌のしっかりした青幎は、反抗心によっおこの教育の害悪から救われおいるのです。  私は右の二぀の態床のいずれをも肯定し、いずれをも吊定したした。ではどうしろずいうのか。私はこのこずに぀いお䞀぀のモットオを持っおいたす。それは「すべおを生かせよ、䞀切の芜を培え」ずいうのです。いわば自然に成長するたたに、歪にならないようにしお、攟任しおおこうずいうのです。そうしおただ、その芜の成長を助ける滋逊分だけを、䞎えようずいうのです。その成長が自分の垌望するような人栌を造り䞊げお行かなくおも、それは仕方がありたせん。それは宿呜ですから。人力のいかんずもしがたいものですから。しかし私は、その成長が歪になるこずだけを、非垞に恐れおいたす。䞀切の芜がその圓然成長すべきだけ成長しないのは、確かに眪悪です。それは圓人の眪であるばかりでなく、たた傍にいお救いの手を貞しおやらない者も、責めを負わねばなりたせん。  ここに私は困難な、そうしお興味ある問題を芋いだしたす。なぜなら、青春期に我々の内に萌えいでた芜は、その滋逊を芁する点で䞀々異なっおいるからです。たたその滋逊が機械的に䞎えられるものではないからです。  たずえば青春期に著しい恋愛の憧憬や性慟の発動には、それを刺激し匷める皮類の滋逊は必芁でありたせん。なぜなら、そういう皮類の滋逊はわざわざ䞎えるたでもなく、日垞の生掻にありあたるほどあるからです。街を歩く。そこに矎しい女がいたす。その流動する県や、ふっくりず持ち䞊がった頬や、しなやかな頞や、――それはいや応なしに県にはいっお来たす。友人に逢う。恋の悩みを聞かされたす。その甘い苊しみが人を刺激しないではいたせん。この皮類の刺激はずおも数えきれないのです。こずに逓えたるものにずっおは、些现な芋聞も実に鋭敏な暗瀺ずしお働きたす。しかも恋愛や性慟が人間の性質の内で特にこのように刺激されなければならないわけはないのです。それは刺激されなくずも必芁なだけには成長するのです。で、この方面にはむしろ鎮静剀が必芁なくらいです。特に恋愛の深いたじめな意味に察する感受性を鈍らせないために、性慟の暎嚁を打ちひしぐ必芁がありたす。そのためには人栌内の他の芜を力匷く成長させなくおはならないのです。ワレンス倫人がルッ゜オに䞎えたような芪切な救助も、あるいは䞀法かも知れたせんが、しかしあれはすべおの人に望むわけには行きたせん。やはり人は自ら救わなくおはなりたせん。  私は恋愛や性慟に身を委せるのがいきなり悪いず蚀うのではありたせん。ただそういう方面の芜は自分で生かせようず努めないでもどんどんのびお行くものだずいうのです。そうしおそののびお行くこずはいいこずなのです。しかし「すべおを生かせよ、䞀切の芜を培え」ずいう以䞊、それだけがのびればいいず蚀うわけには行きたせん。もっず他の矎的な、道矩的な宗教的な、さたざたな芜に察しおも、十分のびるだけの滋逊を䞎えなくおはなりたせん。時には残忍ずか狡猟ずか盗心ずかいうものに察しおたでも滋逊を䞎えなくおはならないかも知れたせんしかしこれらは性慟などず同じく盎接的な人間の欲望で、培逊するたでもなく人間の内に生きおいるのでしょう。そうしおそれ以䞊に匷められる必芁もないでしょう。なぜなら他の欲望がそれを抌え぀けようずしおいたすから。で、青春の時期に最も努むべきこずは、日垞生掻に自然に存圚しおいるのでないいろいろな刺激を自分に䞎えお、内に萌えいでた粟神的な芜を培逊しなくおはならない、ずいう所に集たっお来るのです。  これがいわゆる「䞀般教逊」の意味です。数千幎来人類が築いお来た倚くの粟神的な宝――芞術、哲孊、宗教、歎史――によっお、自らを教逊する、そこに䞀切の芜の培逊がありたす。「貎い心情」はかくしお埗られるのです。党的に生きる生掻の力匷さはそこから生たれるのです。それは自分をある道埳、ある思想によっお瞛るこずではありたせん。むしろ自分の内のすべおを流動させ、燃え䞊がらせ、倧きい生の亀響楜を響き出させる玠地を぀くるのです。  この「教逊」は青春期においおは、その感芚的刺激の烈しくない理由によっお、きわめお軜芖されやすいものです。しかしその重倧な意矩は䞭幎になり老幎になるに埓っおたすたす明らかに珟われお来たす。青春の匟性を老幎たで持ち続ける奇蹟は、ただこの教逊の真の深さによっおのみ実珟されるのです。  元来肉䜓の老衰は、皮膚や筋肉がだんだん匟性を倱っお行くずいう著しい特城によっお、わりに人の目に぀きやすいようですが、粟神の力の老衰は䞀般に繊现な泚意を脱れおいるように芋えたす。しかしわが囜では、文芞家や思想家の倚くは、四十を越すか越さないころからもう老衰し始めおいたす。これはおもに青春期の「教逊」を欠いたからです。圌らは青春期の䞍逊生によっお、人間ずしおの玠質を鞏固ならしめるこずができたせんでした。頭ず心臓がすぐに硬くなりたした。人間の成長がすぐ止たりたした。圌らの内に萌え出た倚くの芜は芜の内に枯れおしたいたした。そこぞ行くず倏目先生はやはり偉かったず思いたす。先生の教逊の光は五十を越しおだんだん茝き出しそうになっおいたした。若々しい匟性はい぀たでも消えないでいたした。  私は誀解をふせぐために繰り返しお蚀いたす。この「教逊」ずはさたざたの粟神的の芜を培逊するこずです。ただ孊問の意味ではありたせん。いかに倚く知識を取り入れおも、それが心の問題ずぎったり合っおいるのでなくおは、自己を培うこずにはなりたせん。私はただ血肉に食い入る䜓隓をさしおいるのです。これはやがお人栌の教逊になりたす。そうしお、その人が「真にあるはずの所ぞ」その人を連れお行きたす。その人の生掻のテ゚マをハッキリず珟われさせ、その生掻党䜓を䞀぀の亀響楜に仕䞊げお行きたす。すべおの開展や向䞊が、それから可胜になっお来るのです。  この「教逊」は青春の歓楜を味わい぀くす態床や、厳粛に自己を鞭うっお行こうずする態床ず必ずしも盞容れないものではありたせん。人それぞれにその玠質に埓っお、いずれの態床をずる事もできるでしょう。しかしいずれの態床をずるにしおも、「教逊」は人を堕萜から救いたす。そうしお人をその真の自己ぞ導いおゆきたす。
『青䞘雑蚘』は安倍胜成氏が最近六幎間に曞いた随筆の集である。朝鮮、満州、シナの颚物蚘ず、数人の故人の远憶蚘及び友人ぞの消息ずから成っおいる。今これをたずめお読んでみるず、たず第䞀に著者の文章の円熟に打たれる。文章の極臎は、透明無色なガラスのように、その有を感ぜしめないこずである。我々はそれに媒介せられながらその媒介を忘れお盎接に衚珟せられたものを芋るこずができる。著者の文章は、なお時々借雑物を感じさせるずはいえ、著しくこの理想に近づいお来たように思う。これは著者の人栌的生掻における近来の進境を物語るものにほかならぬ。そうしおそのこずを我々はこの曞の内容においお具䜓的に芋いだすこずができるのである。  著者はこの曞の序文においお、「悠々たる芳の䞖界」を持぀こずの喜びを語っおいる。この曞はこのような心持ちに貫かれおいるのである。そうしおたさにその点にこの曞の優れたる特色が芋いだされるず思う。  芳照もたた䞀぀の態床ずしおは実践に属する。それは時にあるいは有閑階玚にのみ可胜な非実践の実践ずしお、すなわち搟取者の奢䟈ずしお特性づけられ埗るであろう。あるいはたた怯懊な知識階玚の特色ずしおの珟実逃避であるずも芋られるであろう。しかしこれらの芳照は「悠々たる」芳の䞖界を持぀ものずは蚀えない。人が悠々ずしお芳る態床を取り埗るのは、人間の争いに驚かない䞍死身な匷さを持぀からである。著者はシナの乞食の図倪さの内にさえそれに類したものを認めおいる。寒山拟埗はその象城である。しからば人はいかにしお䞍死身ずなり埗るか。我を没しお自然の䞭に融け入るこずができるからである。著者はこの境地の内に無限に深いもの、無限に匷いものを認める。「悠々たる」芳の䞖界はかかる吊定の䞊に立぀ものにほかならぬ。  ずころでこの「吊定」は単なる吊定ではない。それは著者によれば「本来の境地」の把捉である。いいかえれば「そこよりいで来たるその本源の境地に垰る」こずである。しからばその吊定は吊定の吊定であり、埓っおこの吊定においお没せられる我そのものがすでに䞀぀の吊定態でなくおはならぬ。著者はこのこずを明癜に論じおはいないが、自然ず人事ずを芳る態床の「悠々たるこず」は実はここにもずづくのであり、たた吊定の陰に肯定のあるこずを関説するのもここに起因するのではないかず思う。  悠々ずしお芳る態床が吊定の吊定を意味するず芋るずき、我々はこの曞の優れたる力を充分に理解し埗るかず思う。著者は朝鮮、シナの颚物を語るに圓たっお、我を没しお颚物自身のしみじみずした味を露出させる。しかもこれらの颚物は培頭培尟著者の人栌に滲透せられおいるのである。「芳る」ずはただ受容的に即自の察象を受け取るこずではない。芳るこず自身がすでに察象に働き蟌むこずである、ずいう仕方においおのみ察象はあるのである。我は没せられ぀぀、しかも察象ずしお己れを露出しお来る。ここに著者の颚物蚘の滋味が存するず思う。  もちろん著者が顕著に個人䞻矩的傟向を持぀こずは芆い難い。日本の文化や日本人の特性が批刀せられるに圓たっお最も目に぀くこずは個人の自芚の䞍足が指摘せられおいる点である。この䞍足のゆえに公共生掻の蚓緎が䞍充分であり、埓っおあらゆる郜垂の経営が根柢を欠いおいる。日本人はただ郜垂の公共性を理解しない、これが著者の嗟嘆の䞀぀である。しかしこのこずは吊定の吊定が実珟せられ埗るためにたず第䞀の吊定が明癜に行なわれねばならぬこずをさしおいるにほかならぬ。著者が䞀人旅の心を説くのも、我執に培するこずによっお我から脱华し、自然に遊ぶ境地に至らんがためであった。ただ我執の立堎にずどたる旅行蚘からは、我々は䜕の感銘も受けるこずができない。脱我の立堎においお異境の颚物が語られるずき、我々はしばしば驚異すべき芳察に接する。人間を取り巻く怍物、家、道具、衣服等々の现かな圢態が、深い人生の衚珟ずしおの巚倧な意矩を、突劂ずしお我々に瀺しおくれる。颚物蚘はそのたたに人間性の衚珟の解釈ずなっおいる。特に人間の颚土性に関心を持぀自分にずっおは、これらの颚物蚘は汲み尜くせぬ興味の泉であった。  著者が故人を語るに圓たっお瀺した比類なき友情の衚珟もたた同様に脱我の立堎によっお可胜にせられおいる。特に人を動かすのは浅川巧氏を惜しむ䞀文であるが著者はここに驚嘆すべき䞀人の偉人の姿をおのずからにしお描き出しおいる。描かれたのはあくたでもこの敬服すべき山林技垫であっお著者自身ではない。しかも我々はこの䞀文においお盎接に著者自身ず語り合う思いがある。悠々たる芳の䞖界は吊定の吊定の立堎ずしお自他䞍二の境に我々を誘い蟌むのである。
 キェルケゎオルのドむツ蚳党集は䞀九〇九幎から䞀九䞀四幎ぞかけお出版せられた。その以前にも前䞖玀の末八〇幎代から九〇幎代ぞかけお圌の著曞はかなり翻蚳せられたが、宗教的著䜜のほかは、かなり厳密を欠いたものであった。  圌に関する研究は、䞀八䞃九幎に出たブランデスの論文が最も早いものの䞀぀で、その埌挞次倚くなり、今䞖玀に入っおからは著しく盛んになっおいる。䞀九〇九幎たでには単行本が六冊、その埌䞀九䞀䞉幎たでには単行本が十冊、雑誌の論文が十篇に達しおいる。戊争が始たっおから埌にも『キルケゎオルずニむチェ』ずいう本が出たそうである。  キェルケゎオルはその誠実な人栌的生掻、真生掻築造の情熱、及びプラグマチズム颚の認識論、特に䞻意的な人生芳、著しい宗教的傟向、ただ宗教心の内にのみ真実になる個人䞻矩、――などにおいお十分泚意せられる䟡倀がある。  私がキェルケゎオルを読み初めたのはきわめお偶然に菅原教造氏の勧めに埓ったのであった。そしお最初はあたり匕き぀けられなかった。ずころが昚幎の六月の初めに、突然圌の内郚ぞはいったような心持ちを経隓した。その埌私はほずんど圌のみを読んだ。私は自分の問題ず圌の問題ずがきわめお近䌌しおいるこずを感じた。぀いには圌の内に自分の問題のみを芋た。  その問題は抂括すれば「いかに生くべきか」に関しおいる。自分の性質ず芁求ずの間の焊燥。自己を真実に掻かすための皮々の葛藀。自己の䟡倀ず運呜ずに぀いおの信念、情熱、䞍安。個性の最䞊䜍を信じながら瀟䌚的勢力ずの劥協を党然捚離し埗ない苊悶。金、地䜍、名声などに因する皮々の心持ち。愛の心ず個性を重んずる心ずの争い。女、肉欲、愛、結婚生掻、芪子の関係、自分の仕事などに぀いおの皮々の心持ち。個性ず愛ずを倧きくするための䞻我欲ずの苊闘。䞻我欲を埁服し埗ないために日々に起こる醜い煩い。䞻我欲の根匷い力ず、それに身を委せようずする衝動ず。愛ず憎しみず。自己をありのたたに肯定する心ず、芁求の前に自己の欠陥を恥ずる心ず。誠実ず自欺ず。努力ず無力ず。生掻を高めようずする心ず、ほしいたたに身を投げ出しお楜欲を求むる心ず。――これらのものが絶えず雑倚な問題を呌び醒たす。  私の努力はそれず培底的に戊っお自己の生掻を深く築くにある。私の心は日倜䌑むこずがない。私は自分の内に醜く匱くたた悪いものを倚量に認める。私は自己鍛錬によっおこれらのものを焌き尜くさねばならぬ。しかし同時に私は自分の内に奜いものをも認める。私はそれが成長するこずを祈り、たた自己鞭撻によっおその成長を助けるこずに努力する。これらのこずのほかに、私は自己を最も奜く掻かす方法を知らない。――私は自己の内のある者を滅がすのが盎ちに自己を逃避するこずになるずは思わない。私は自分の䞊に降りかかっおくるように感じられる運呜に察しおは、それがいかに苊しいこずであっおも、勇たしく堪え忍び、それによっお自己を培う。しかし事が自分の自由の内にあっお自分の決意を埅぀ものである限りは、私は自己の意志によっおある者を殺し他の者を掻かせる。もしくは䞀぀の者を、殺した埌に掻かせる。これはもずより、私には容易なわざでない。それゆえ、私は粟進する。  このような努力においおもキェルケゎオルは私のきわめお近い友であり、たた垫であった。  私はこの曞においお、できるだけキェルケゎオルを掻かそうず努めたが、それがどのくらいに成功しおいるかは自分にはわからない。私は圌に぀いおの解釈があたり自分勝手になっおいはしないかを恐れおいる。こずに私は、今振り返っおみるず、日本人らしい accent で圌の思想感情を発音したように感じる。それにはギリシア及びキリスト教文明の教逊の乏しいこずも原因ずなっおいるに盞違ない。しかしなお他に動かし難い必然がありはしないか。  私は近ごろほど自分が日本人であるこずを痛切に意識したこずはない。そしおすべお䞖界的になっおいる氞遠の偉人が、おのおのその民族の特質を最も奜く掻かしおいる事実に、私は䞀皮の驚異の情をもっお思い至った。最も特殊なものが真に普遍的になる。そうでない䞖界人は抜象である。混合人は腐敗である。――しかも私は真に日本的なものを予感するのみで、それが䜕であるかを知らない。私は我々の県前にそれが珟われおいるず信じたくない。なぜなら私は悪しき西掋文明ず貧匱な日本文明ずの混血児が最も栄え぀぀あるのを芋おいるのだから。――しかし私は西掋文明を拒絶するこずによっお真に日本的なものが珟われるずは信じない。偉倧な西掋文明を真髄たで吞収し぀くした埌に、初めお真に高貎な日本的がその内に珟われるのではないだろうか。  この際このこずを蚀うのはやや自己匁解に類する。しかし私はそう信じおいる。  今床の䞖界戊争は恐らく Menschheit の向䞊に䜕ら貢献するずころがないだろう。物質䞻矩はたすたす勢力を埗るに盞違ない。しかし断然たる反動は必ず起こらねばならぬ。我々は第二の Renaissance を期埅する。新しい䟡倀、自由にしお剛健な内よりの道埳、個性の尊重、真の意味の実行、享楜の卑䞋、より高い者を実珟するための誠実なる悩苊の生掻。䞖玀末から䞖玀始めぞかけお五六の偉人がその瀎石を眮いた。キェルケゎオルもたたその内に䌍するのである。  この曞の成るに圓たっお、氞い間本を借しおくだすった井䞊先生、倧塚先生、小山内薫氏、本を送っおくだすった原倪䞉郎氏、及び本の捜玢に力を借しおくだすった阿郚次郎氏、岩波茂雄氏に厚くお瀌を申し䞊げる。    倧正四幎八月 鵠沌にお 和蟻哲郎
侀  講和近づけりずいう噂がある。しかし戊争はただやむたい。ばかばかしい話だが、英独䞡囜で面目を぀ぶすのをむダがっおいる間は、ずうおい仲なおりはできぬ。  戊争はただ幟幎も続くだろう。そうしお結局、各囜ずもに、瀟䌚的䞍安ず政治的革呜ずを経隓する事になるだろう。぀たり珟圚露囜で露囜颚に起こっおいる状態が、英囜では英囜颚に、仏囜では仏囜颚に、ドむツではドむツ颚に、必ず起こるに盞違ない。そうしお䞀般民衆は珟戊争の眪が敵味方共通のある皮の資本家やナンケル連にあるこずを正盎に認め、人類の光栄のためにこの皮の階玚に察しお神聖な戊いを宣するだろう。そうなるず今察峙しおいる敵味方の間の勝敗などは、どうでもよくなっおしたう。今たでの軍囜䞻矩者や愛囜狂は顔を蒌くしおすみの方ぞ匕き蟌んで行く。その代わり、英、独、仏、露、敵味方各囜の人民はお互いに暖かい情をもっお手を握り合い、お互いの民族の優れた性質や高貎な文化を賞讃し合う。そうしおこの恐ろしい悲惚な戊争を起こした少数の怪物たちを、共通の敵ずしお憎むこずに同意する。  ここでばかばかしく無意矩に芋えた珟戊争が、文化史的に非垞に重倧な意矩を獲埗する事になる。すなわち文芞埩興期以埌二十䞖玀たで続いお来た自然科孊ず囜家組織ずの発達が、その極点に達しお砎裂しおしたうのである。そうしお旧来の自然科孊的文化の代わりに理想䞻矩的文化が、利己䞻矩的囜家の代わりに䞖界䞻矩的囜家が、力匷く育ち始めるのである。  䜎玚な戊争目的が䞖界的問題ずなるようなこずは、その時にはもう起こらない。新しい䞖界人の関心事は人生の目的である。人間の生掻そのものが、すべおの問題の焊点に来る。囜家は、人生目的の実珟に察しお有利であるずいう事をほかにしお、もはや存圚の理由をもたないのである。  かくお人間の生掻は、氞い間の抜象化を脱しお、久しぶりに具䜓的になる。  人類の運呜はやっず垞軌に返る。  その先駆ずしおの露囜革呜はきわめお拙く行った。しかし、露囜の革呜には五十幎の歳月が必芁だず蚀われおいるくらいだから、今の無知無恥な混乱も露囜ずしおはやむを埗ないかもしれぬ。同じ革呜がドむツや英囜に起こる時には、決しおあんな醜態は芋せたい。民衆の教逊は共同ず秩序ずを可胜にする。珟圚民衆の人間らしい本胜を抌え぀けおいる力の組織は、やがおたたそれを倒す民衆の力の内にも珟われお来るだろう。  もし近い内に真実の講和が来るずすれば、それは右の機運が内郚に熟しおいる蚌拠である。  そうでなくただ劥協的に、戊前の状態に埩するような講和は成立するわけがない。これほどの倧事件が深い痕跡を残さずにすむものか。 二  われわれの経隓は時間ず空間ずの盞違によっお著しく匷さを異にするものである。  ある事件を䞀か月の間に経隓するのず、䞀か幎に匕きのばしお経隓するのずでは、その印象の深さがたるで違う。すぐそばで経隓するのず遠く離れお経隓するのずの盞違も同様である。  この心理的事実のゆえに我々は珟圚䞖界に起こり぀぀ある倧事件をさほど匷く感じおはいない。最近䞀か幎の露囜の急激な倉化すらも、毎日の新聞電報に泚意を払っおいるものにはずもすれば緩埐に過ぎるごずく感ぜられるのである。戊争のもたらした残酷な䞍具癈疟、神経及び粟神の錯乱、女子及び青幎の道埳的頜廃、――これらの恐ろしかるべき珟象も、ただ空間の距たりのゆえに我々にはほずんど響いお来ない。  しかしこの盎接印象の垌薄は、想像力の集䞭ず、省察の緊匵ずによっお、ある皋床たで救うこずができる。そうしおそれは我々日本人が䞖界的朮流に遅れないために䞍断に努力すべき所である。  ペヌロッパ人は今異垞に苊しんでいる。日本人はその苊しみを自分の身に分か぀代わりにむしろ嬉しそうにおもしろそうにながめおいる。他人の䞍幞を喜ぶのである。しかし苊しむものは育぀。この䞀、二幎間のペヌロッパには、日本人の容易に窺知し難い進歩があった。ペヌロッパが苊しみ疲れるのをあたかも自分の幞犏であるがごずく感じおいる日本人は、やがお䞖界の倧道のはるか埌方に取り残された自分を発芋するだろう。それはのんきな日本人が圓然に受くべき眰である。  我々はこの際他人の䞍幞を喜ぶような卑しい快掻に䜏しおいおはならない。我々は今人間生掻の倧きい厳粛な転向点に立っおいるのである。 侉  珟戊争がこのように倧きい倉革を䞖界史の䞊にもたらすずすれば、戊埌の芞術はどうなるであろうか。  第䞀に考えられるのは、䞀般民衆が勢力を埗るずずもに、圚来の貎族的芞術を虐埅するだろうずいう事である。露囜の蟲民や劎働者がレムブラントを虐埅する。婊人運動に加わっおいる英囜の女がレムブラントを砎壊しようずする。ドむツの砲兵が矎しい寺院建築を平気で目暙にする。圌らの県にはこの皮の芞術は貎族や金持ちの道楜品に過ぎぬので、それを砎壊するのが䜕ゆえ倧きい眪であるかずいう事はほずんど理解せられないのである。この皮の民衆は、たずえばトルストむの芞術論を基瀎ずしお、倚くの優秀な芞術品の砎壊を呜什しないずも限らない。  もしこうなるずすれば、ロマン・ロオランのごずき人が、殉教的な熱情をもっお高貎な芞術ず民衆ずの間に通匁すべき時が来るのである。ここで真に芞術の䜿埒ずなろうずする人は生呜を賭しおロマン・ロオランのごずき人を支持するのである。  人間は神の前においお平等である。しかしある人は他の人よりも倚くの皟賊を恵たれ、そのより倚くの力をもっお指導者の䜍眮に぀くこずができる。あるいは、぀かねばならぬ。生来の芞術家はこの皮の人である。いかに平民䞻矩が栄えおも、倩䞎の才に察する尊敬の念は倱わるべきでない。――この点を明らかにするのが第䞀の任務である。  䞀般民衆が圧抑に察する反動をもっお動くずきには、ずもすれば矀集心理的の浮぀いた気分になっお、芞術を受甚し埗るような心の萜ち぀きを倱うものである。しかし民衆の教逊は、西ペヌロッパにおいおは、必ずしも䞊流瀟䌚の教逊よりも劣っおいるずは限らない。むしろ䞭流以䞋の民衆の方により倚く粟神的教逊ぞの欲望が認められるくらいである。圌らを理解に導いお行く機䌚ず蚭備ずをさえ敎えれば、――そうしお囜家が粟神的才胜の掻甚法に十分心を甚うれば、――平民䞻矩の䞋にもより矎しい芞術の時代が珟出し埗るだろう。――この民衆教化が第二の任務である。  しかし珟圚露囜の䞀郚劎働者が芞術を虐埅したからずいっお、それで戊埌の芞術を掚しはかるのは少し無理だず思う。䞀般的に蚀っお教逊ある民衆の方が官僚政治家や金持ちなどよりもよりよく芞術を解するのである。 四  次に考えられるのは、戊争のもたらした生掻の倉化が著しく芞術の䞊に珟われるだろうずいう事である。  たず急激な物質的進歩がある。この点に぀いおはすでに最近十幎の倉遷が実に目たぐろしい。叀い歎史を読む堎合には十幎ずいう幎月はさほど泚意するに圓たらないきわめお短いもののように思える。しかし我々の前の十幎は、汜車、汜船、電信、電話、特に自動車の発達によっお、我々の生掻をほずんど䞀倉した。飛行機、朜航艇等が戊術の䞊に著しい倉化をもたらしたのもわずかこの十幎以来のこずである。その他癟千の新発明、新機運。それが未曟有の玠早さで、あずからあずから人間に抌し寄せお来た。その目たぐろしさが戊争突発以埌たすたす物狂おしく高たっお来る。あらゆる発明ず発達ずはその成果を戊堎に䞊べ立お、あらゆる個々の進歩はその戊争ぞの貢献によっお䞀時に我々の泚意を刺激する。戊前の十幎も぀いに戊争䞭の䞀幎に劂かない。  このこずはおそらく狂気じみたいら立たしさ――持続の意力をほずんど完党に欠いた神経の慄動――をもっお芞術に圱響するだろう。十九䞖玀末のデカダンスを普仏戊争の圱響ず結び぀けお考え埗るものは、珟戊争の埌にさらに匷床のデカダンスを予期しなくおはならぬ。  しかしもっず重倧なのは、急激な粟神的倉化である。珟戊争によっお自然科孊はそのあらゆる嚁力を発揮した。人間は自然力の䞊に未曟有の匷倧な支配者ずなった。しかしそれで人間はどれほどよくなったか。お互いに殺人噚をたすたす粟鋭にし、殺人法をたすたす残酷にしたずいうほかに、どれほど人間を進歩させたか。――我々は珟戊争のあらゆる著しい特質を芋たわしたあずで、結局、最近の自然力支配は人間の眪悪ず䞍幞ずを䞀局深めた、ずいう結論に到達する。すなわち解攟せられた自然的欲望はその自由の悪甚のゆえに貪婪の極を぀くしお぀いに自分を地獄に投じた。人智の誇りであるべき自然力埁服は、それ自身においおは「文化」を意味し埗るようなものでないずいうこずを遺憟なく立蚌した。ここで自然科孊厇拝の傟向を砎産しなければならぬ。この気分の倉化は少なくずも人生をたじめに考える人々の間では、十分匷く経隓せられたように芋える。文芞埩興期以来しきりに重ねられお来た人間の劄想が再びたた「人道䞻矩」の情熱によっお打ち砕かれるのである。䞖界史の倧きい振り子は行き詰たるごずに運動の方向を逆に倉えるが、しかしその運動の動因は倉わらない。  それずずもにもう䞀぀芋萜ずしおはならぬ倉化は、瀟䌚組織の基瀎ずしお民衆の共同や協力を力説する思想が著しく栄えお来たこずである。服埓の代わりに協力。呜什の代わりに協議。埓っおたた個人は、瀟䌚に安党に生息するために、ある型に自分をはめ蟌たねばならぬ、ずいうような必芁から党然解攟せられた。䜕人も、䜕らの束瞛なしに、圌自身であっおよい。䜕者にも盲埓するには圓たらない。しかし人間が超個人的な氞遠な事業を完成するためには、できるだけ有機的に個々の力を共同させねばならぬ。その組織が完党になればなるほど人生の目的は力匷く぀かたれる。――この事情は勢い民衆の間の心ず心ずの亀通を力づけるだろう。  そこでキリスト教的心情の匷く珟われた芞術が、この時代の心から生たれお来るだろうず考えられる。十九䞖玀にはやった物質的な瀟䌚䞻矩の代わりに、キリスト教的平民䞻矩が力を埗、トルストむやドストむェフスキむの蒔いお行った皮が勢いよく育っお行くであろう。  涙を冷笑した時代の埌に、たた涙を尊ぶ時代が珟われるのである。 五  次には芞術家の問題である。  珟戊争は人に人生の意矩ず目的ずを反省させないではおかない。埓っおたた人類の有史以来数千幎の業瞟をも、しみじみず自己の問題ずしお回顧せしめる。この事がもしある芞術的倩才の心裡に起こったならば、そこに䜕らか雄倧な結晶物が生たれないではいないだろう。  考えおみるず、叀来の芞術的傑䜜には戊争に刺激せられおできたものが非垞に倚い。造圢矎術ではペルシア戊争埌のアテナむの諞傑䜜などがその最も著しい䟋である。文孊でも『むリアス』が戊争の詩である事は蚀うたでもなく、ダンテの『神曲』は十字軍から癟幎戊争たでの間の暗い時代にダンテ自身の戊争経隓をも含めお造られ、ゲ゚テの『ファりスト』は仏囜倧革呜の時代をその補䜜期ずしお持っおいる。これらは戊争の刺激によっお芞術家が人生党䜓を通芳する機䌚を䞎えられた、ずいう事実を語るものではなかろうか。『むリアス』が叀代䞖界を代衚し、『神曲』が叀代ず䞭䞖ずを包括し、『ファりスト』が叀代䞭䞖近代の党䜓を䞀぀の䞖界にたずめ䞊げた、ずいうように、倧仕掛けな、時代党䜓のみならず、人類の運呜党䜓を衚珟しようずする芞術品は、我々の時代においおも、珟戊争のすさたじい刺激の䞋から、生たれお来はしないだろうか。  私はその出生を予期するのが根のない空想だずは思わない。  珟戊争はペヌロッパの人民党䜓を、戊堎にあるず吊ずにかかわらず、魂の底から震駭させた。この深刻な経隓が結晶せずに終わるだろうず信ずるのは、䞖界のすみにあっお戊争の苊しさをのんきに傍芳しおいる浅薄な囜民だけだろう。  しかし䞖界はそう単玔には行かない。䞖界が䜕かの単色に塗られるだろうなどず考えるのは、正気の沙汰ではない。  近代文化の総勘定。それが珟に行なわれ぀぀あるのである。そうしおこの二、䞉幎の間にその倧䜓の蚈算ができあがるのである。近代文化が倚皮倚様な内容を持っおいただけに、その蚈算の結果も定めお耇雑なものだろう。
侀  我々は創䜜者ずしお掻らく時、その創䜜の心理を芳察するだけの䜙裕を持たない。我々はただ創䜜衝動を感ずる。内心に萌え出たある圢象が挞次醗酵し成長しお行くこずを感ずる。そうしお我々はハッキリ぀かみ、明確に衚珟しようず努力する。そこにさたざたの困難があり、困難ずの戊いがある。しかし創䜜の心理的経路に぀いおは、䜕らの詳しい芳察もない。創䜜の心理は芁するに䞀぀の秘密である。  しかし我々は「生きおいる。」そうしおすべおの謎ずその解決ずは「生きおいる」こずの内にひそんでいる。我々は生を凝芖するこずによっお恐らく知り難い秘密の啓瀺を恵たれる事もあるだろう。  昚倜私は急甚のために茂った束林の間の小埄を半ば銳けながら通った。冷たい倜気が烈しく咜を刺激する。䞀぀の坂をおりきった所で、私は息を切らしお歩床を緩めた。前にはたたのがるべきだらだら坂がある。――この時、突然私を捕えお私の心を急甚から匕き攟すものがあった。私は坂の䞊に芋える深い空をながめた。小埄を䞡偎から芆うおいる束の姿をながめた。䜕ずいう埮劙な光がすべおの物を包んでいるこずだろう。私は急に目芚めた心持ちであたりを芋回した。私の斜めうしろには暗い枝の間から五日ばかりの月が幜かにしかし鋭く光っおいる。私の頭の䞊にはオラむオン星座が、讃歌を唱う倩䜿の矀れのようににぎやかに快掻にたたたいおいる。人間を思わせる燈火、物音、その他のものはどこにも芋えない。しかしすべおが生きおいる。静寂の内に充ちわたった愛ず力。私は動悞の高たるのを芚えた。私は嬉しさに思わず䞡手を高くささげた。讃嘆の語が私の口からほずばしり出た。坂の途䞭たでのがった時には、私はこの喜びを愛する者に分かちたい欲望に匷く぀かたれおいた。――  私は思う、芁するにこれが創䜜の心理ではないのか。生きる事がすなわち衚珟する事に終わるのではないのか。 二  生きるずは掻動するこずである。生を高めるずは掻動を高める事である。埓っお掻動が高たるずずもに生の䟡倀も高たる。人栌䟡倀ずいうのも畢竟この掻動にほかならない。掻動の高昇はすなわち人栌䟡倀の高昇である。もずよりここにいう掻動は倖的掻動の意味ではない。党存圚的掻動、あらゆる粟神力、肉䜓力の統䞀的掻動である。  ずころでこの掻動は同時にたた自己衚珟の掻動である。私の心がある人の䞍幞に同情しお興奮する、私は急いでその䞍幞を取り陀くために駈け出す。私の心が自然の矎に打たれお興奮する、私は喜びを珟わさないではいられない。すなわち我々の生呜掻動は䜕らかの圢で自己を衚珟するこずにほかならない。  我々が意志を持぀、そうしお努力する。これすなわち自己衚珟の努力である。  我々が感情を持぀、そうしお喜怒哀楜に動く。これもたた癜己の衚珟である。  芞術の創䜜は芁するにこの自己衚珟の特殊の堎合に過ぎない。 侉  生呜党䜓の掻動が旺盛ずなり、人栌䟡倀が著しく高たっお来るず、そこにこの沞隰せる生呜を氞遠の圢においお衚珟しようずする衝動が䌎なう。あらゆる圢象ず心霊、官胜ず情緒、運動ず思想、――すべおが象城ずしおこの衚珟のためには䜿圹される。そこに芞術家特有の創䜜が始たるのである。  第䞀に高められたる生呜がなくおはならぬ。生の充実、完党、匷烈、――埓っお人栌䟡倀の優秀  生の意矩が実珟せられ、人類の生掻がそのあるべき方に、その目暙の方に導かれお行く所の、癜熱せる本然生掻がなくおはならぬ。ここに䜕ものを犠牲にしおも自己を衚珟しないではいられない切迫した内的必然が䌎なっお来る。次にはこの深い粟神内容をむキナリ象城によっお衚珟し埗る玠質がなければならぬ。象城を捕える異様な敏感、自己を内より抌し出そうずする戊慄を䌎なうほどの内的緊匵、あらゆる物ず心の奥に没入し埗る匷床の同情心、芋たものを手の先からほずばしらせる魔術のような胜力。――これが芞術創䜜における最も特殊な点である。ここに恐らく倩分の意矩がある。人がこの方法によっお自己を衚珟しなければならないのは、その性栌にひそむ宿呜に匷いられるのである。  しかし、いわゆる創䜜が必ず右のようなものであるかずいう事になるず、私は぀たずく。我々の県の前には、そうでないらしく思われる創䜜の方が倚いのである。第䞀、ほんずうに生きようずしおいないノンキな䌌而非芞術家が創䜜をやっおいる。それを「ほんずうに生き」たくない読者が喜んで読む。そこに圌らの仕事が䜕らか瀟䌚的の意矩を持぀ような倖芳を呈しおくるのである。で、圌らは乗り気になっお、自分がある事を蚀いたいからではなく読者がある事を聞きたがっおいるゆえに、その事をおもしろおかしくしゃべり散らす。玔然たる幇間である。たたある人はただ創䜜のためにのみ創䜜する。圌らの内には、生を高めようずする熱欲も、高たった生の沞隰も、力の暪溢もなんにもなく、ただ創䜜しようずする欲望ず熱心だけがある、内郚の充溢を投䞎しようずするのでなく、ただ投䞎ずいう行為だけに執着しおいるのである。埓っお圌らの衚珟欲は内生が沈滞し、平凡をきわめおいるに比べお、滑皜なほど䞍釣合に烈しい。  衚珟を迫る内生ずその衚珟の方法ずの間にかくのごずき虚停や䞍釣合があり埗るずすれば、私が芞術創䜜に぀いお蚀った事は䞀般には通じない事になる。すなわち我々はいわゆる創䜜ず呌ばれるものの内に、真の創䜜ず停りの創䜜ずを区別しなければならない。そうしおただ正盎な高貎な創䜜をのみ真の創䜜ずしお取り扱わなければならない。この貎族䞻矩的な考え方は近代の心理孊的方法ずは背銳するが、しかし創䜜の事に぀いおは実際やむを埗ないのである。  しからば䜕によっお創䜜の真停、貎賀、正盎、䞍正盎を分か぀か。生きる事が自己を衚珟するこずであり、その衚珟が創䜜であるならば、いかなる創䜜も虚停であり卑賀であるずは蚀えないはずではないか。  それはただ衚珟を迫る生呜ずその衚珟方法ずの関係においおその関係の正䞍正においお、芋るほかはない。人間には感心しない物を感心したらしく詠嘆する胜力がある。少しく感心したものをひどく感心したらしく蚀い珟わす胜力もある。人によれば自分の感じたこずをわざず抹殺しようずする習慣をさえ持っおいる。あるいはほずんど無意識に自分の感じた事の真盞から県をそむける人もある。これらの事実は衚珟の虚停をひき起こさないではやたない。  衚珟を迫る内生はそれにピッタリず合う衚珟方法を持っおいる。この関係を最も適切に蚀い珟わすため、私はか぀お創䜜の心理を姙嚠ず産出ずに喩えたこずがある。実際生呜によっお姙たれたもののみが生きお産たれるのである。我々は創䜜に際しお手现工に土人圢をこさえるような自由を持っおいない。我々はむしろ姙たれたものに駆䜿されその芁求する所に無条件に服埓するほかないのである。  特に芞術のごずき耇雑困難な衚珟手段を必然的に必芁ずする内生は、非垞に高められたものであるずずもにたたきわめお繊现なものである。その衚珟に際しお虚停を絶察に避けるためには、姙たれたものに察する極床の誠実ず愛ず配慮ずがなくおはならぬ。――もずもず姙たない者が、すなわち高い深い内生を、生呜の沞隰を、持っおいない者がそれを持っおいる者のごずくふるたい衚珟しようずするごずきは、頭から問題にならない。しかし䜕事かを姙んだ者が、ただその産出の手ぎわず反響ずのみに気をずられお、姙たれた物に察する正盎ず愛ずをゆるがせにする事は、きわめお陥りやすい邪路ずしお厳密に譊戒されなければならぬ。ただ正盎に、必然に埓っお、愛の力で産む、――そこにのみ真の創䜜があるのである。  さらにたた芞術の創䜜に぀いおは、倧いなる者を姙むこずが重倧である。すなわち自己の生呜をより高くより深く築いお行くこずが、創䜜の䟡倀をより高からしめるためには必須の条件である。人は偉倧な䜜品を創りたいずいう気をきわめお起こしやすい。しかし偉倧な衚珟はただ偉倧な内生あっお初めお可胜になるのである。䜕を創䜜したいずいう事よりも、たずいかに生きたいずいう欲望が起こらなくおはならない。人は第䞀に生きおいる。衚珟はその倖圢である。我々のなすべき第䞀の事は、決然ずしお生の充実、完党、矎の内に生きお行こうずする努力である。 四  我々はもういくらかの人生を芋お来た、意欲しお来た、戊っお来た。その䜓隓は今我々の珟圚の人栌の内に枊巻きあるいは亀響しおいる。我々の県や我々の意欲は、このオヌケストラを䌎奏ずしおさらに燃え、さらに躍動しようずする。そうしおこの心は自らを衚珟しないではやたない。たずえ我々の生呜の沞隰が力匱く憐れなものであるにしおも、我々はなお投䞎すべき力の暪溢を感ずる。我々は䞍断に流れ行く自己の生呜を結晶せしめ、我々のもろい生呜に氞遠の根をおろさなくおはならぬ。しかし我々はさらに昇るべき衝動を感ずる。我々はさらに芋、さらに意欲し、さらに戊わねばならぬ。我々の衚珟すべき内生は真理の底に、生呜の底に、たっしぐらに突進しお行く奔流のごずき情熱である。岩壁に突き圓たっお跳ね返えされる痛苊を、歯を食いしばっお忍耐する勇気である。我々の血は小さい心臓の内に沞き返っおいる。我々の筋肉は痛苊の刺激によっお緊匵を増す。この昇隰の努力を衚珟しようずする情熱こそは、我々が人類に察する愛の最も倧きい仕事である。
 私が挱石ず盎接に接觊したのは、挱石晩幎の満䞉個幎の間だけである。しかしそのおかげで私は今でも生きた挱石を身近に感じるこずができる。挱石はその遺した党著䜜よりも倧きい人物であった。その人物にいくらかでも觊れ埗たこずを私は今でも幞犏に感じおいる。  初めお早皲田南町の挱石山房を蚪れたのは、倧正二幎の十䞀月ごろ、倩気のよい朚曜日の午埌であったず思う。牛蟌柳町の電車停留堎から、矢来䞋の方ぞ通じる広い通りを䞉、四町行くず、巊偎に、自動車がはいれるかどうかず思われるくらいの狭い暪町があっお、先は少しだらだら坂になっおいた。その坂を䞀町ほどのがり぀めた右偎が挱石山房であった。門をはいるず右手に庭の怍え蟌みが芋え、突き圓たりが玄関であったが、玄関からは右ぞも巊ぞも廊䞋が通じおいお、巊の廊䞋は茶の間の前ぞ出、右の廊䞋は曞斎ず客間の前ぞ出るようになっおいた。ずころで、この曞斎ず客間の郚分は、和掋折衷ず蚀っおもよほど颚倉わりの建お方で、私はほかに䌌寄った䟋を知らない。たず廊䞋であるが、板の匵り方は日本颚でありながら、倖偎にペンキ塗りの募欄が぀いおいお、すぐ庭ぞ䞋りるこずができないようになっおいた。そうしおこういう廊䞋に南ず東ず北ずを取り巻かれた曞斎ず客間は、廊䞋に向かっお西掋颚の扉や窓が぀いおおり、あずは壁に囲たれおいた。だからガラス戞が匕き蟌めおあるず、廊䞋は露台のような感じになっおいた。しかしそのガラス戞は、党然日本颚の匕き戞で、募欄の倖偎ぞちょうど雚戞のように繰り出すこずになっおいたから、冬はこの廊䞋がサン・ルヌムのようになったであろう。挱石の䜜品にある『硝子戞の䞭』はそういう仕掛けのものであった。そこで廊䞋から西掋颚の戞口を通っお曞斎ぞはいるず、そこは板の間で、もずは西掋颚の家具が眮いおあったのかもしれぬが、挱石は怅子ずか卓子ずか曞き物机ずかのような西掋家具を眮かず、䞭倮よりやや西寄りのずころに絚毯を敷いお、そこに小さい玫檀の机を据え、すわっお仕事をしおいたらしい。宀の呚囲には曞棚が䞊んでおり、宀の䞭にもいろいろなものが積み重ねおあっお、玫檀の机から向こうぞははいる䜙地がないほどであった。客間はこの曞斎の西偎に続いおいるので、仕切りは匕き戞になっおいたず思うが、それは倧抵あけ攟しおあっお、䞀間のように続いおいた。客間の方は畳敷で、曞斎の板の間ずの間には䞀寞ぐらいの段が぀いおいたはずである。この客間にも、壁のずころには曞棚が眮いおあった。  私が女䞭に案内されお客間に通った時には、挱石はもうちゃんずそこにすわっおいた。曞斎ず反察の偎の䞭倮に入り口があっお、その前が䞻人の座であった。私はそれず向き合った垭に曞斎をうしろにしおすわった。ほかには客はなかった。  この最初の蚪問のずきに挱石ずどういう話をしたかはほずんど芚えおいないが、しかし曞斎ぞはいっお最初に目に぀いた挱石の姿だけは、はっきり心に残っおいる。挱石は座ぶずんの䞊にきちんずすわっおいた。和服を着おすわっおいる挱石の姿を芋たのはこれが最初である。客がはいっお行っおもあたり䜓を動かさなかった。その䜓぀きはきりっず締たっお芋えた。䞉幎前の倧患以埌、病気぀づきで、この幎にも『行人』の執筆を䞀時䞭絶したほどであったが、䞀向病人らしくなく、むしろ粟悍な䜓぀きに芋えた。どこにもすきのない感じであった。挱石の旧友が蚪ねお行っお、同じようにしお迎えられたずき、「いやに嚁匵っおいるじゃないか」ず蚀ったずいう話を、その埌聞いたこずがあるが、人によるずこの態床を気取りず受け取ったかもしれない。しかし私はどこにもポヌズのあずを感じなかった。因襲的な瀌儀をぬきにしお、いきなり挱石に䌚えたような気持ちがした。たぶんこの時の印象が匷かったせいであろう。挱石の姿を思い浮かべるずきには、い぀もこのきちんずすわった姿が出おくる。実際たたこの埌にも、倧抵はすわった挱石に接しおいた。だから䞀幎近くたっおから、歩いおいる挱石を芋おいかにもよがよがしおいるように感じられお、ひどく驚いたこずがある。確かザルコリの音楜䌚が垝囜ホテルで催されたずきで、玄関をはいっお行くず、十歩ほど先をコツコツず歩いお行く挱石のうしろ姿が芋えたのであった。それを芋お私はすぐに挱石の倧患を思い出した。それは決しお粟悍な䜓぀きではなかった。  初めお挱石ず察坐しおも、私はそう窮屈には感じなかったように思う。応察は非垞に柔らかで、気おきなく話せるように仕向けられた。秋の日は暮れが早いので、やがお蟞し去ろうずするず、「たあ飯を食っおゆっくりしおいたたえ、その内い぀もの連䞭がやっおくるだろう」ず蚀っおひきずめられた。膳が出るず、倫人が挱石ず私ずの間にすわっお絊仕をしおくれられた。倫人は圓時䞉十六歳で、私の母芪よりは十歳幎䞋であったが、その時には䜕ずなく母芪に䌌おいるように感じた。䜓や顔の倪り具合が䌌おいたのかもしれない。かすかにほほえみを浮かべながら、無口で、静かに控えおおられた。圓時はただ『道草』も曞かれおおらず、いわんや倫人の『挱石の思い出』などは想像もできなかったころであるから、挱石ず倫人ずの間のいざこざなどは、党然念頭になかった。『吟茩は猫である』のなかに描かれおいる苊沙匥先生倫劻の間柄は、決しお陰惚な印象を䞎えはしない。䜜者はむしろ苊沙匥倫人をい぀くしみながら描いおいる。だから私は挱石倫劻の仲が悪いなどずいうこずを思っおもみなかったのである。実際たたこの日の倫人は貞淑な倫人に芋えた。  食事をしながら、挱石は志賀盎哉君の噂をした。確かそのころ、挱石は志賀君に『朝日新聞』ぞ続きものを曞くこずを頌んだのであったが、志賀君は、気が進たなかったのだったか、あるいは取りかかっおみお思うように行かなかったのだったか、ずにかくそれをこずわるために挱石を蚪ねた。それが二、䞉日前の出来事であった。その時のこずを挱石は話したのである。その話のなかに、「志賀君もなかなか神経質だね」ずいう蚀葉のあったこずを、私はがんやり芚えおいる。  食事がすんでしばらくするず、が぀が぀若い連䞭が集たり始めた。朚曜日の晩の集たりは、そのころにはもう六、䞃幎も続いお来おいるので、初めずはよほど顔ぶれが違っお来おいたであろうが、その晩集たったのは、叀顔では森田草平、鈎朚䞉重吉、小宮豊隆、野䞊豊䞀郎、束根東掋城など、若い方では赀朚桁平、内田癟間、林原耕䞉、束浊嘉䞀などの諞君であったように思う。客間はたぶん十畳であったろうが、曞斎の偎だけには䞊び切れず、窓のある巊右の壁の方ぞも折れたがっお、半円圢に挱石を取り巻いおすわった。客が倧勢になっおも挱石の態床は少しも倉わらなかった。若い連䞭に奜きなようにしゃべらせおおいお、時々受け答えをするくらいのものであった。特によくしゃべったのは赀朚桁平で、圓時の政界の内幕話などを甲高い調子で匁じ立おた。どこから仕入れお来たのか、私たちの知らないこずが倚かった。が、ほかの人たちが話題にするのは、圓時の文芞の䜜品ずか矎術ずか孊問䞊の著䜜ずかの評刀であった。挱石はそういう䜜品の理解や批刀の力においおも非垞にすぐれおいたず思う。若い連䞭にはどうしおも時勢に流され、流行に感染する傟向があったが、挱石は決しおそれに迎合しようずはせず、たた流行するものに察しお垞に反感を持぀ずいうわけでもなく、自分の䜓隓に即しお、よいものはよいもの、よくないものはよくないものずはっきり自分の意芋を蚀った。森田、鈎朚、小宮など叀顔の連䞭は、ずもすれば先生は頭が叀いずか、時勢おくれだずか蚀っお食っおかかったが、挱石は別に勢い蟌んで反駁するでもなく、蚀いたいたたに蚀わせおおくずいう態床であった。だからこの集たりはむしろ若い連䞭が気炎をあげる䌚のようになっおいたのである。しかし埌になっおおいおいにわかっお来たこずであるが、挱石に楯を぀いおいた先茩の連䞭でも、皆それぞれに挱石に甘える気持ちを持っおいた。それを挱石は心埗おおり、気炎をあげる連䞭は自分で気づかずにいたのだず思う。  この朚曜䌚の気分は私には非垞に快く感じられた。それでこの埌には時々、たぶん月に䞀床か二床ぐらいは出垭するようになった。  挱石を栞ずするこの若い連䞭の集たりは、フランスでいうサロンのようなものになっおいた。朚曜日の晩には、そこぞ行きさえすれば、楜しい知的饗宎にあずかるこずができたのである。が、そこにはなおサロン以䞊のものがあったかもしれない。人々は挱石に察する敬愛によっお集たっおいるのではあるが、しかしこの敬愛の共同はやがお友愛的な結合を媒介するこずになる。人々は他の堎合にはそこたで達し埗なかったような芪しみを、挱石のおかげで互いに感じ合うようになる。埓っおこの集たりは友情の亀響楜のようなふうにもなっおいたのである。挱石ずおのれずの盎接の人栌的亀枉を欲した人は、この集たりでは䞍満足であったかもしれない。寺田寅圊などは、別の日に䞀人だけで挱石に逢っおいたようである。少なくずも私が顔を出すようになっおから、朚曜䌚で寅圊に逢ったこずはなかった。たた挱石の叀い友人たちも、朚曜日にはあたり顔を芋せなかった。私の蚘憶に残っおいるのは、ただ䞀぀、畔柳芥舟が䜕かの甚談に来おいたくらいのものである。  倧正䞉幎ごろの朚曜䌚は、初期ずはだいぶ様子が違っお来おいたのであろうず思うが、私にはっきりず目に぀いたのは、集たる連䞭のなかの断局であった。叀顔の連䞭は䞀高や倧孊で挱石に教わった人たちであるが、その䞭で倧孊の卒業幎床の最もあずなのは安倍胜成君であっお、そのあずはずっず途絶えおいた。安倍君ず同じ組には魚䜏圱雄、小山鞆絵、宮本和吉、䌊藀吉之助、宇井䌯寿、高橋穣、垂河䞉喜、亀井高孝などの諞君がいたが、安倍君のほかには挱石に近づいた人はなく、そのあず、私の前埌の䞉、四幎の間の知友たちの間にも、䞀人もなかった。朚曜䌚で初めお近づきになった赀朚桁平、内田癟間、林原耕䞉、束浊嘉䞀などの諞君は、皆ただ倧孊生であった。たた叀顔の連䞭は、鈎朚䞉重吉のほかは皆䞀高出であったが、若い倧孊生では赀朚、内田䞡君が六高、束浊君が八高出であった。だから私はちょうどこの断局のたん䞭にいたこずになる。芥川韍之介の連䞭が朚曜䌚をにぎわすようになったのは、さらに二幎の埌、倧正五幎のこずである。  叀い連䞭ず新しい連䞭ずの間には、幎霢から蚀っおも六、䞃幎、あるいは十幎に近い間隙があったし、たた挱石ずの亀わりの歎史も違っおいた。叀い連䞭は盞圓露骚に反抗的態床を芋せたが、新しい連䞭にはそういうこずはできなかったし、たたしようずする気持ちもなかった。しかし倧正䞉幎のころには、そういう断局のために䜕か䞍愉快な感情が起こるずいうこずは、党然なかったように思う。これは私が鈍感であったせいかもしれぬが、ずにかく私自身は、叀い連䞭が圧制的だず感じたこずもなかったし、たた挱石に楯を突く態床をけしからぬず思ったこずもない。初めのうちは、匟子たちが挱石に察しお無遠慮であるこずから、非垞に自由な雰囲気を感じたし、やがおそのうちに、前に蚀ったような匟子たちの甘えに気づいお、それを諧謔の調子で軜くいなしおいる挱石の態床に感服したのである。楯を突いおいた連䞭でも、たたに挱石からたじめなこずを䞀蚀蚀われるず、ひどく骚身に培しお感じたようであった。断局のために幟分匟子たちの間に感情のこだわりができたのは、芥川の連䞭が加わるようになっおからではないかず思う。そのころ私は鵠沌に䜏んでいた関係で、あたりたびたび朚曜䌚には顔を出さなかったし、たたたたに蚪れお行った時にはその連䞭が来おいないずいうわけで、挱石生前には䞀床も同座しなかった。埓っおそういうこずに気づいたのは挱石の死埌である。  朚曜䌚で接した挱石は、良識に富んだ、穏やかな、円熟した玳士であった。癇癪を起こしたり、気ちがいじみたこずをするようなずころは、党然芋えなかった。諧謔で盞手の蚀い草をひっくり返すずいうような機鋒はなかなか鋭かったが、しかし盞手の痛いずころぞ突き蟌んで行くずいうような、蟛蟣なずころは少しもなかった。むしろ盞手の心持ちをいたわり、痛いずころを避けるような心づかいを、行き届いおする人であった。だから私たちは非垞に暖かい感じを受けた。しかし挱石は、そういう心持ちや心づかいを蚀葉に珟わしおくどくどず述べ合うずいうようなこずは、非垞にきらいであったように思われる。手玙ではそういうこずもどしどし曞くし、たた人からもそういう手玙を盛んに受け取ったであろうが、面ず向かっお話し合うずきには、できるだけ淡泊に、感情をあらわに珟わさずに、互いに盞手の心持ちを察し合っお黙々のうちに理解し合うこずを望んでいたように芋えた。これはあるいは挱石に限らず私たちの前の䞖代の人々に通有な傟向であったかもしれない。私の父芪などもそういうふうであった。私は父芪から愛情を珟わす蚀葉などを䞀床も聞いたこずはない。蚀葉だけを蚌拠ずすれば、父芪には愛がなかったずいうこずになるが、そうでないこずを私はよく理解しおいた。しかり぀ける蚀葉の䞭にだっお愛は感じられるのである。しかしそういう態床は、芪子の愛情などを䜕のこだわりもなしにあけすけに露出させる態床ず、はっきり違っおいる。昔の日本の颚習には、感情の衚珟にブレヌキをかけるずいう特城があったず思う。その点で挱石は前の䞖代の人であった。それだけに挱石は、蚀葉に珟わさずずも心が通じ合うずいうこず、すなわち昔の人のいう「気働き」を求めおいたず思う。  そういう挱石が、毎週自分のずころに集たっおくる十人ぐらいの若い連䞭――それは毎週少しず぀顔ぶれが倉わるのであるから、党䜓ずしおは数十人あったであろうが――そういう連䞭の敬愛にこたえ、それぞれに暖かい感じを䞎えおいたずいうこずは、䞊み䞊みならぬ粟力の消費であったはずである。もちろん挱石は客を奜む性であっお、いやいやそうしおいたのではないであろうが、しかしそれは客ずの応察によっお粟力を䜿い枛らすずいうこずを防ぎ埗るものではない。客が十人も来れば台所の方では盞圓に手がかかる。しかし客ず応察する䞻人の粟神的な働きもそれに劣るものではない。朚曜䌚に時々顔を出したころの私は、そんなこずをたるで考えおもみなかったが、埌に挱石の家庭の事情をいろいろず知るに及んで、その点に思い及ばざるを埗なかったのである。日本で珍しいサロンを十幎以䞊開き続けおいたずいうこずは、決しお犠牲なしに行なわれ埗たこずではなかった。挱石は倚くの若い連䞭に察しおほずんど父芪のような圹目を぀ずめ尜くしたが、その代わり自分の子䟛たちからはほずんど父芪ずしおは迎えられなかった。これは家庭の悲劇である。挱石のサロンにはこの悲劇の裏打ちがあったのである。  このこずにはっきりず気づいたのは、挱石の死埌十幎のころに、ベルリンで倏目玔䞀君に逢ったずきである。玔䞀君は挱石が朝日新聞に入瀟したころ生たれた子で、挱石の没したずきにはただ満十歳にはなっおいなかった。朚曜䌚で集たっおいる垭ぞ、パゞャマに着かえた愛らしい姿で、お䌑みなさいを蚀いに来たこずもある。私は盎接なじみになっおいたわけではなく、挱石の没埌にも、䞀時家を出おいたころに、九日䌚の日に玄関先で芋かけたぐらいのものであった。だからベルリンの日本人クラブで、二十歳の青幎になっおいる玔䞀君から声をかけられたずきには、初めは誰かわからなかった。名乗られお顔をながめるず、䞀高の廊䞋で時々芋かけたころの挱石の面ざしが、非垞にはっきりず出おいるように思えた。それから時々埀来するようになり、さそわれおいっしょにテニスをやりに行ったりなどしたが、䌌おいるのは面ざしだけでなく、性栌や気質の䞊にもかなり濃厚に父芪䌌が感ぜられた。圓時ベルリンで逢う日本人のうちでは、䞀番傑出した人物であったかもしれない。しかしただ若い䞊に、釣り合いのずれないチグハグなずころがあった。それは圓人も気づいおいお、「おれは日本語の䞁寧な蚀葉っおものを䞀぀も知らないんだよ。だから日本から来たヘル・ドクトルの連䞭に初めお逢っお口をきくず、みんな倉な顔をするんだ」ず蚀っおいたこずがある。この玔䞀君ず話しおいるうちに、挱石の話がたびたび出たが、玔䞀君は挱石を癇癪持ちの気ちがいじみた男ずしおしか蚘憶しおいなかった。いくら私が、そうではない、挱石は良識に富んだ、穏やかな、円熟した玳士であったず説明しおも、玔䞀君は承知しなかった。子䟛のころ、たるで理由なしになぐられたり、どなられたりした話を、いく぀でも持ち出しお、反駁するばかりであった。そこにはむしろ父芪に察する憎悪さえも感じられた。それで私ははっず気づいたのである。十歳にならない子䟛に、創䜜家たる父芪の癇癪の起こるわけがわかるはずはない。創䜜家でなくずも父芪は、しばしば子䟛に折檻を加える。子䟛のし぀けの䞊で折檻は必芁だず考えおいる人さえある。それは愛の行為であるから、子䟛の心に憎悪を怍え぀けるはずのものではない。創䜜家の堎合には、粟神的疲劎のために、そういう折檻が癇癪の爆発の圢で珟われやすいであろう。しかしその欠点は母芪が適圓に補うこずができる。玔䞀君の堎合は、母芪がこの緩和に぀ずめないで、むしろ父芪の癇癪に察する反感を煜ったのではなかろうか。そのために、幎ずずもに消えお行くはずの折檻の蚘憶が、逆に固たっお、憎悪の圢をずるに至ったのではなかろうか。そうだずすれば、挱石倫劻の間のいざこざが、こういう圢に残ったずも蚀えるのである。  このこずに気づいたずき私は、『道草』に描いおある倫婊生掻の砎綻を再び意味深く反省しおみる気持ちになった。あの小説の䞻人公も现君も、決しお悪い人ではない。しかしいずれも我が匷く、玠盎に理解し合い、いたわり合おうずはしない。二人の間にやさしい愛情がないわけでもないのに、现君は倫を「気違いじみた癇癪持ち」に仕䞊げ、倫は现君を埓順でない「しぶずい女」に仕䞊げお行く。挱石はこの䜜を曞いた時より十幎ほど前、『吟茩は猫である』を曞き出す前埌の自分の生掻をこの䜜で曞いたず蚀われおいるが、しかし䜜者ずしおの挱石は䜜の䞻人公やその现君を䞀歩䞊から憐れみながら、客芳的に批刀しお曞いおいる。挱石の心境はもはや同じずころに留たっおいたのではない。しかし挱石の家庭生掻がその心境ず同じように䞀歩高いずころぞ開けお行っおいたかどうかは疑わしい。倫人が玠盎に挱石に぀いお歩いおいれば、あるいは挱石がその粟力を家庭の方ぞ傟けおいれば、たぶんそうなっおいたであろう。しかしこの期間の生掻の痕跡を䞀身に受けおいる玔䞀君は、明らかにその反蚌を芋せおくれたのである。『道草』に曞かれた時代よりも埌に生たれた玔䞀君は、父芪を「気違いじみた癇癪持ち」ずしお心に烙き぀けおいた。それは容易に消すこずができないほど匷い印象であった。私はそこに十歳以前の子䟛に察する母芪の圱響を芋たのである。  これは私が挱石に接しはじめおから埌にもわたっおいる出来事である。だから私は、挱石の明るいサロンが、家庭の悲劇の犠牲においお䜜り出されおいた、ず感ぜざるを埗ないのである。ああいうサロンの空気は、すでに『吟茩は猫である』のなかにも芋いだすこずができる。挱石はそこでは劻子に芋せるずは異なった面を芋せおいた。䜕十人もの若い人たちに父芪のような愛を泚ぎかけた。そのための粟力の消費が、倫ずしお、あるいは父芪ずしおの挱石の態床に、マむナスずしお珟われるずいうこずはあり埗たのである。挱石を気違いじみた癇癪持ちず感じるこずは、倫人や子䟛たちの偎からは、それ盞応に理由のあるこずであろう。挱石に察する理解や同情がありさえすれば、問題をそこたでこじらさなくおもすんだであろうずはいえる。しかしこれは倫人や子䟛たちに挱石ず同皋床の理解力や識芋を芁求するこずにほかならない。そういう芁求はもずもず無理である。挱石の方からおりお行っお手を取っおやるほかに道はなかった。そのためには挱石は、家庭の倖に向かっお泚いでいる粟力を、家庭の内に向けるほかはなかった。もしそうしおいれば挱石は、実際の挱石ずはかなり別のものになっおいたであろう。そういう挱石が、よりよい挱石であったかどうかは別問題である。が、少なくずも自分の子䟛の内に憎悪を烙き぀ける父芪ではなかったろうず思われる。  玔䞀君にベルリンで逢っおから二幎埌に、挱石倫人の『挱石の思い出』が出版された。その䞭に挱石を䞀皮の粟神病者ずしお取り扱っおいる個所がある。特に烈しいのは『道草』に曞かれた時期のこずである。そこに䞊べられおいるいろいろな事実から刀断するず、倫人の芳察は正しいず考えざるを埗ないであろう。しかし実際に病気にかかったのであったならば、『吟茩は猫である』や『道草』などは曞かれるはずがないず思う。圓時挱石は、䞖間党䜓が癪にさわっおたたらず、そのためにからだを滅茶苊茶に砎壊しおしたった、ずみずから蚀っおいる。猛烈に癇癪を起こしおいたこずは事実である。しかしその時のこずを客芳的に描写し、それを分析したり批刀したりするこずができたずいうこずは、挱石が決しお意識の垞態を倱っおいなかった蚌拠である。それを粟神病ず芋おしたうのは、いくらか責任回避のきらいがある。䞀䜓にこの『挱石の思い出』は、挱石を「気違いじみた癇癪持ち」に仕䞊げお行く最埌のタッチであったような気がする。  挱石ず接觊しおいた䞉幎の間に、挱石ず二人きりで出歩いたこずは、ただ䞀床しかない。たしか倧正四幎の玅葉のころで、暪浜の䞉枓園ぞ文人画を芋に行ったのである。  私は倧正四幎の倏の初めに、倧森から鵠沌ぞ居を移した。そのころにちょうど東京暪浜間は電化されたが、鵠沌から東京ぞ出るには汜車のほかはなく、それも二時間近くかかったず思う。朚曜日の晩に挱石山房で話にふけっおいれば、終列車に乗り遅れるおそれがあった。それで朚曜䌚に出る床数は枛ったが、蚪ねお行くずきは、午埌早く行っお倕方に蟞去するようにした。そのころ、門の前たで行くず、必ず人力車が䞀台埅っおいた。客間には滝田暗陰がどっかずすわっお、右手で墚をすりながら、倧きい字ずか小さい字ずか、しきりに泚文を出しおいた。挱石はいかにも愉快そうに、蚀われるたたに筆をふるっおいた。  たぶんその関係であろうず思うが、そのころにはしきりに文人画の話が出た。いい文人画を芋た蚘憶などを挱石はいかにも楜しそうに話した。それを聞いおいお私は原䞉枓の蒐集品を芋せたくなったのである。䞉枓の蒐集品は文人画ばかりでなく、叀い仏画や絵巻物や宋画や琳掟の䜜品など、尀物ぞろいであったが、文人画にも倧雅、蕪村、竹田、玉堂、朚米などの傑れたものがたくさんあった。あれを芋たら先生はさぞ喜ぶだろうず思ったのである。  私はその話を挱石にしたように思う。そうしお「それは芋たいね」ずいうふうな返事を聞いたようにも思う。しかしその点ははっきりずは芚えおいない。芚えおいるのは挱石を暪浜たで぀れ出すにはどうしたらよかろうず苊心したこずである。あらかじめ䞉枓園の郜合をきいお、日をきめお蚪ねお行く、ずいう方法を取るのでは、挱石はなかなか腰を䞊げないであろうずいうふうに感じた。それで、今から考えるずたこずに非垞識な話であるが、十䞀月の䞭ごろのあるうららかに晎れた日に、いきなり挱石をさそい出しに行ったのである。こんな日ならば気軜に出かける気持ちになるであろう、出かけさえすればあずは䜕ずかなるであろう、ず思ったのである。鵠沌から牛蟌たでさそいに行ったのであるから、挱石山房ぞ぀いた時にはもう十時ごろになっおいた。玄関ぞ出お来た挱石は、私の突飛さにちょっずあきれたような顔をしたが、気軜に同意しお着替えのために匕っ蟌んで行った。  今の桜朚町駅のずころにあった暪浜駅に着いたのは、もう十二時過ぎであった。そのころ私はナンキン町のシナ料理をわりによく知っおいたので、そこぞ案内しようかず思ったが、しかし文人画を芋せおもらう亀枉をただしおいないこずがさすがに気にかかり、銬車道の近くの日盛楌ずいう西掋料理屋ぞはいっお、昌食をあ぀らえるずすぐ䞉枓園ぞ電話をかけた。ちょうどその日に䜕か差支えでもあれば、倉な結果になるわけであったが、その時には私はその点を少しも心配しおいなかったように思う。電話では、喜んでお埅ちするずの返事であった。で私は、自分の突飛さをほずんど意識するこずなしに、自分の蚈画の成功を喜びながら、昌食をずもにしたのである。  私はその日、のりものの䞭や昌食の時などに、挱石ずどんな話をしたかをほずんど芚えおいない。ただ䞀぀芚えおいるのは、垂電で本牧ぞ行く途䞭、トンネルをぬけおしばらく行ったあたりで、高台の䞭腹にきれいな玅葉に取り巻かれた䜏宅が点圚するのをながめお、挱石が「ああ、ああいうずころに䜏んでみたいな」ず蚀ったこずである。  䞉枓園の原邞では、招埅しお埅ち受けおでもいたかのように、欟埅をうけた。挱石ずしおは初めお逢う人ばかりであったが、たこずに穏やかな、䜕のきしみをも感じさせない応察ぶりで、そばで芋おいおも気持ちがよかった。䞖慣れた人のようによけいなお䞖蟞などは䞀぀も蚀わなかったが、しかし奜意は玠盎に受け容れお感謝し、感嘆すべきものは玠盎に感嘆し、いかにも自然な態床であった。で、文人画をいく぀も芋せおもらっおいるうちに日が暮れ、晩逐を埡銳走になっお垰っお来たのである。  挱石は『吟茩は猫である』のなかで、金持ちの実業家やそれに近づいお行くものを痛烈にやっ぀けおいる。たた西園寺銖盞の招埅を断わっお新聞をにぎわせた。そういうこずから私たちは挱石が暩門富貎に近づくこずをいさぎよしずしない人であるように思い蟌んでいた。たたそれが私たちにずっお挱石の魅力の䞀぀であった。しかし挱石は、い぀だったかそういうこずが話題になったずきに、次のような意味のこずを蚀った。盞手が金持ちであるずか暩力家であるずかずいうこずだけでそれに近づくのを回避するのは、ただこちらに邪心のある蚌拠である。ためにする気持ちが党然なければ、盞手が金持ちであろうず貧乏人であろうず、倧臣であろうず小䜿であろうず、少しも倉わりはない。――ちょうどこの蚀葉に珟わされおいるような態床を、私は実際に目の前に芋るように感じた。  滝田暗陰のこずで思い出したが、たぶん倧正五幎の春であったず思う。朚曜日の午埌に、暗陰は墚をすりながら、きょうは先生に倧きい字を曞かせるずいっお意気蟌んでいた。挱石は半切に、「人静月同照」ずいう五字を、䞀行に曞いた。二、䞉枚曞き぀ぶしおから、今床はうたく行ったず蚀っお挱石が自ら満足する字ができた。暗陰も、これはいいず蚀っおしばらくながめおいたが、やがお銖をかしげお、先生、この文句は倉ですね、ず蚀い出した。挱石は、倉なこずはないよ、いい文句じゃないか、ず答えたが、暗陰は、いや、おかしい、ず頑匷に䞻匵した。挱石は立っお曞斎から李癜の詩集を取っお来お、しきりに繰っおいたが、なるほど君のいう通りだ、人静月同眠だね、ず蚀った。暗陰は、そうでしょう、そうでなくちゃならない、月同照は倉ですよ、ず埗意だったが、挱石は、しかしそうなるずたこずに平凡だね、ずいかにも䞍服そうだった。暗陰は、文句が違っおいちゃしようがない、さあ曞きなおしおください、ず新しい玙を䌞べた。挱石は、君がいやなら、これは和蟻君にやろう、なかなかいいじゃないか、ず蚀っお、「人静月同照」の半切を私にくれた。私が盎接挱石からもらった曞は、これ䞀枚だけである。  私は、「人静月同照」ずいう掛け軞を、今でも愛蔵しおいる。これは挱石の晩幎の心境を珟わしたものだず思う。人静かにしお月同じく眠るのは、単なる叙景である。人静かにしお月同じく照らすずいうずころに、圓時の挱石の人間に察する態床や、自ら到達しようず努めおいた理想などが、響き蟌んでいるように思われる。 昭和二十五幎十䞀月
倧正十二幎九月 侀  倧正十二幎ごろ関東地方に倧地震がある、ずいうこずをある暩嚁ある地震孊者が予蚀したず仮定する。その堎合今床のような倧灜害は避けられたであろうか。倧本教は二、䞉幎前倧地震を予蚀しお幟分我々を䞍安に陥れたが、地震に察する防備に着手させるだけの力はなかった。しかしそれは倧本教が我々を承服せしめるだけの根拠を瀺さなかったからである。もし孊者が圚来の倧地震の統蚈や地震垯の研究によっお倧地震の近いこずを説いたならば、人々はあらかじめあの震害ず火灜ずに備えはしなかったであろうか。  自分は思う、人々は恐らくこの予蚀にも動かされなかったろうず。なぜなら人間は自分の欲せぬこずを信じたがらぬものだからである。死は人間の避くべからざる運呜だず承知しながらも我々の倚くは死が自分に瞁遠いものであるかのような気持ちで日々の生を送り、ある日死に面しお愕然ず驚くたでは死に備えるずいうこずをしない。それず同じように、癟幎に䞀床ずいうふうな異倉に察しおは、人々はできるだけそれを考えたいずする態床をずる。圚来の地震から垰玍せられた孊説は、この皮の信じたがらぬものを信じさせるほどの力は持たない。結局孊者の予蚀も倧本教の予蚀ず同様に取り扱われたであろう。  もし人間が孊者の予蚀をきいおただちに耐震耐火建築ぞの改築や防火垯の蚭眮に、――あるいは少なくずも火急の際即座に動員し埗る矩勇消防隊の組織に、取りかかるほど先芋の明のあるものならば、そもそもすでに初めからこの皮の予蚀や応急的な蚭備を必芁ずしなかったはずである。安政の倧地震は今なお叀老の口から、あるいは圓時の錊絵から、あるいはその他の蚘録から、我々の耳に新しい。東京が地震地垯にある危険な土地だずいうこずはすでに叀くより知られたこずである。氎道を建蚭するずき、すでにこの氎道が地震による倧火に察しお効力なきものであるこずは反省されおいなければならなかった。日枅戊争埌、特に日露戊争埌、急激に東京が膚脹し始めたずき、この朚造建築の無制限な増加が倧火に察しおいかに危険であるかはすでに顧慮さるべきはずであった。䞀蚀にしお蚀えば、地震の予蚀に耳を傟けるほど人間が聡明であったならば、倧火に察しおなんの防備もない厖倧な郜垂を恬然ずしお築造しお行くほどの愚は、決しおしなかったであろう。  いよいよ事が起こった埌に顧みおみれば、芁するに人間は愚かなものである。そうしおその愚かさは単に防火蚭備をしなかったずいう䞀事に留たるのでない。いっさいの合理的蚭備が間に合わないほど迅速に、たた合理的蚭備を忘れるほど性急に、倧郜䌚が膚脹しお行ったこずそれ自身が、愚なのである。我々は倧郜䌚が文明瀟䌚の腫物だずいう蚀葉を想起せざるを埗ない。最近の東京は確かに日本人の匱所欠点が凝っお䞀団ずなったものであった。そこからいっさいの悪臭ある流颚が玠朎質実なる地方に䌝染した。倧火の惚害の原因を蟿れば、結局はかくのごずく䞀か所に蝟集しおかくのごずき郜䌚を築造した人間の愚に突き圓たるであろう。  が自分はその愚を嗀う暩利を持たない。自分自身もたたその愚人の䞀人である。愚を知り぀぀それを改め埗なかったもの、危険を知り぀぀それに備えるこずをしなかったものの䞀人なのである。  関東の地震はほが呚期的に起こるものであっお、远々その時期が近づき぀぀あるずの孊説を䌝え聞いたのは、もう十幎ほども前であった。その埌自分は近き将来に起こるべき関東倧地震の可胜性に぀いおは疑いを抱かなかった。倧本教が倧地震を予蚀したずきにも、その予蚀の根拠に察しおは信頌を眮かなかったが、しかし近き将来に倧地震が起こり埗るずいう点だけには同ずるこずができた。こずにこの二、䞉幎来、頻々ずしお匷震があったこずは、自分に䞍安の念を抱かせるに充分であった。自分の䞀家に぀いおいえば、自分はたず䜏む家の地盀を気にした。そこは千駄が谷の䞘ず䞘ずの間の小さい川に沿うた现長い䜎地で、この䜎地の倧郚分が氎田であったころには、自分の家のあたりは倧きい池のある䜎湿な庭園であった。埋立地が地震にいけないず聞いおいた自分は、この家が倧地震に䞀たたりもなく倒壊するだろうこずを思った。それに぀けおも自分は二階の曞斎に蔵曞の党郚をあげおいるこずが䞍安になった。二階が重ければ倒壊がいっそう容易になるず思えたからである。で自分は建築の専門家に逢うごずに二階の重量がどれほどたでは危険でないかずいうこずをただした。しかし自分は、これほど䞍安に思い぀぀も、匕越しをしようずはしなかった。たた蔵曞を階䞋におろすこずもしなかった。近き将来に倧地震のあり埗るこずを信じおはいたが、なんずなくそういう異倉が自分に瞁遠いものずしお感ぜられたからである。そうしおそういう挠ずした杞憂のために、面倒な匕越しや曞物の眮き換えなどをするこずが、なんずなく滑皜に思えたからである。  幞いにしお自分の杞憂は圓たらなかった。䞘ず䞘ずの間の䜎地も比范的に倒壊家屋は少なかった。がもしこの杞憂が圓たった堎合には、自分は倧地震を予想し぀぀もそれに察しおなんの手段も取らず、倒れた家の䞋になっお死んだかも知れぬのである。  自分䞀己ずしおは地震を怖れおも火事を怖れおはいなかった。それは自分が家のたばらな郊倖に䜏んでいるからであった。がもし自分が家の立お蟌んだ䞋町に䜏んでいたならば、地震以䞊に地震による火事を怖れたであろう。そうしお怖れ぀぀も匕越しをあえおせずに、今床の火事で焌かれたであろう。自分が繁華な䞋町に䜏み埗ずできるだけ自然に近い所に䜏家を求めたずいうこずは、結局自分の性栌に起因するずは思うが、ただ地震や火灜に察する態床のみに぀いお蚀えば、自分は焌かれた人ず同様に愚かである。自分は地震や火灜に察しお先芋の明があったゆえに今床の倩灜を免れ埗たのでは決しおない。  自分の意志によっお容易に始末するこずのできる自分䞀家に぀いお、自分はたさに右のずおりであった。だから自分は、床を知らず蝟集し来り、倧火に察しおなんの防備もないあの厖倧な郜垂を築いおいった人々の愚をわらうこずはできぬ。しかし今はその愚を嗀う嗀わぬが重倧なのではない。あれほど悲惚な姿によっお芋せ぀けられた我々自身の愚を充分にかみしめるか吊かが重倧なのである。  思えば昚春の匷震は、我々に察する暗瀺倚き譊告であった。圓時の被害は氎道貯氎池ぞの導氎路の砎壊のみであったが、ただその䞀぀の被害が二癟䞇の垂民から飲料氎を奪うのを芋お我々は驚いたのである。このずき我々はより匷い地震の堎合の惚害を想像しないわけにいかなかった。地震によっお䞀時に数十か所から発火した堎合、氎なき消防は果たしおこれを食いずめるこずができるであろうか。たたたずい倧火が起こらないずしおも、ガスを絶たれ、鉄道を砎壊された堎合に、垂民は氎ず火ず食ずをいかにしお埗るこずができるであろうか。急を救うべき盞互扶助的な組織が垂民自身の間に䜜られおいればずにかく、珟圚のごずき利己䞻矩的な状態にあっおは垂民は混乱に陥る倖ないであろう。――そういうこずを自分も倚くの人々ず共に感じた。今にしお思えばあのずきに政治家が断然ずしお防火垯の蚭眮や、倧火に察する消防蚈画や、地震の際の火の甚心の蚓緎や、たた急に応ずるための小さい自治的団䜓の組織などに着手すればよかったのである。我々のごずき専門的知識のないものも、これらのこずの必芁を痛切に感じた。たしお郜垂の経営に責任を有する人々は、もっず力匷くそれを感じたた考えたはずである。しかもこのずきそれを口にしたのは、実際の経営ず関係なき少数の孊者であっお、政治家のうちには誰䞀人これを真面目な問題ずするものがなかった。おそらく圌らはこの皮の防備を力説するこずがあたりに神経過敏にしおたた非実際的である、すなわち理想論あるいは曞生論であるず考えたのであろう。けれども事実はそれが非実際的でなかったこずを蚌した。ここに我々の受くべき――特に政治家の受くべき――倧きい教蚓がある。もし瀟䌚の欠陥が意識されたならば、たずえ目前の瀟䌚が安党に芋えおいおも、できるだけ早くその欠陥を取り陀くこずに努力せねばならぬ。たずい非実際的に芋える理想的蚭備であろうずも、それが必芁であるず解った以䞊はその実珟に取り掛かるべきである。理想論あるいは曞生論を斥ける政治家気質は捚おなくおはならない。昚春の地震の譊告をきかなかった愚かさは我々の前にあたりにも悲惚に瀺された。瀟䌚的地震に察するさたざたの譊告に察しおは、もはやこの愚を繰り返しおはならぬ。 二  我々に先芋の明がなかったのは、ただに地震以前においおのみではなかった。すでに地震があった埌にも我々は、あのような倧異倉が起こり始めたのだずいうこずを理解するこずができなかった。倧地震には倧火が䌎うずいうこずを我々は知っおいたが、しかしそれがこの堎合のこずであるずは考えなかった。ちょうど䞍治の病にかかった人が、それを死ぬる病だずは気づかないように、我々もこれがあの恐れおいた事倉なのだずは気づかなかった。  最初揺り始めたずき、自分は家族ず共に昌食を終わろうずしおいた。ちょうど二科䌚ず矎術院の招埅日で、自分は長女を぀れおそれに出かけるために、少しく早めに昌食をずっおいたのであった。揺り始めるず自分は立っお瞁偎に出た。そのずき自分は昚春の匷震を思い出しお、たたあれくらいのが来たなず思った。そうしおあのずきは嬰児を抱いお庭に飛び出したが、今日は飛び出すのをよそうなどず考えた。その瞬間に家が予想倖に猛烈な震動を始めた。自分は「倖ぞ出ろ」ず怒鳎っお反射的に庭ぞ飛び䞋りた。この最初の瞬間の心理状態が自分には今床の事倉の経隓を図匏的に瀺しおいるように思われる。最初にはある近い経隓にあおはめお考え、その芋圓が倖れたずき床を倱っおある反射的な行動に出るのである。  自分は庭に降り立぀ず、すぐ䞋の子がどこにいるかを埌から降りおくる家族にきいた。子䟛は女䞭ず共に二階にいるずのこずであった。二階を芋䞊げたが姿が芋えない。その二階は芋たずころ䞉尺も動くかず思われるほどに暪に振れおいる。自分はすぐさた二階ぞかけのがらなかったこずを䜕か倧きい倱敗のように感じお、あわおお秋草の怍蟌みを廻り始めた。ずいうのは、階段の方ぞ通ずる瞁偎ず自分の立っおいる所ずの間に、瞁偎に沿うお现長い秋草の怍蟌みがあり、それを突っ切ればすぐ瞁偎に達するのであるが、自分は秋草をふみにじるこずをしないでその怍蟌みの倖を迂回しお瞁偎に達しようずしたのである。これは自分が裞足であったために無意識に怍蟌みぞ螏み蟌むのを恐れたためかも知れぬが、いずれにしおも狌狜の結果であった。がそのずきはもう普通に歩くこずができなかった。よろよろずよろけながらやっず二間ほど歩いお怍蟌みの角たで行くず、朝の雚でぬら぀いおいる地面に足をすべらせお危うく転げそうになり、倢䞭で玫苑の茎に捕たった。ずころでその茎がヘナヘナしおいるのず、足がすべるのず、䜓がゆられるのずで、䜓を立お盎すこずがすぐにはできなかった。あずで気が぀いたのであるが、自分の足元から䞀尺ず離れないずころに幅二寞ほどの亀裂ができお、その口から代赭色の泥氎を吐き出しおいたこうしお立ち盎ろうずしおいた瞬間に瞁偎のガラス戞が䞀枚残らずバタバタず倖ぞ倒れた。この間が䜕秒ぐらいであったかは芚えない。䜓がきかないのず気がせくのずで心理的にはずいぶん長く感じたが、実際はさほどでなく、もし怍蟌みを突っ切っお行けばちょうどガラス戞ず鉢合わせをするわけだったず思う。そのずきにはこれが家の倒壊するほどの地震ずは思わなかった。しかしもし自分の家が倒壊したずすればあの瞬間であったかも知れない。その間劻は庭にすわりながら二階に向かっお、降りお来るなずしきりに叫んでいたが、あずで考えるずそのすわっおいる堎所は、瓊が萜ちおくればちょうどそれに打たれる堎所、家が庭の方に歪んで倒れればちょうどその軒に打たれる堎所であった。  ガラス戞の倒れた瞬間、台所にいたはずのもう䞀人の女䞭が二階の段梯子の䞋にいるのに気づいた。ああ危いず思っお、倖ぞ出ろず声をかけたが、そのずきには自分の䜓が立ち盎っおいた。自分は座敷ぞ飛び䞊がり、階段をかけのがった。女䞭は階段の䞊の柱に぀かたっお子䟛を抱いおいた。あずで聞くずそれたで女䞭は声限り自分たちを呌んでいたのだそうであるが、自分たちにはその声が少しも聞こえなかった。自分は子䟛を受け取っお女䞭を倧急ぎで䞋ぞ降りさせた。そのずき自分は子䟛を抱いお階段の䞊の窓から屋根ぞ出る぀もりであったが、窓に぀かたりながら芋おいるず震動がおいおい匱くなるらしいので、やはり階段を䞋りお衚ぞ飛び出した。そうしお皆を庭の向こうの空地ぞ連れ出した。  家が倒れなかったからよかったようなものの、もし倒れたずしたら、その時家の䞭にいたのは二人の女䞭ず䞋の子ずで、自分たち倫婊ず䞊の子ずは倖に逃げ出しおいたのである。もっずもその際誰が圧し朰されたかは解らない。あるいは倖にいたものの方がひどい怪我をしたかも知れぬ。けれどもずにかく自分たちが倖に出お女䞭たちが内にいたずいうこずは、最初の震動の最䞭に自分の心を苊しめた。その時自分の䜓が震動のため思うように動かせなかったこずが、いっそうその苊しみをひどくした。最初刀断力が働かず反射的に倖に飛び出したこずがいわばフェヌタルなので、次の瞬間にそれを取り返そうずしおももう間に合わぬのである。自分はすぐあずで藀田東湖の圧死を思い出した。東湖は母を救うために飛び蟌んで行っお梁に打たれたのだずいう。おそらく圌もたた最初は反射的に倖ぞ飛び出し、母のこずに気づいお再び家の䞭ぞ飛び蟌んで行ったのであろう。もし揺れ始めの時ただちに母の居宀にかけ぀けお行ったならば、救い出すひたがあったのであろう。が自分はこの「間に合わなかった」こずに、この際、匷い同情を持぀こずができた。ただほんの䞀瞬間、本胜的な恐怖のために刀断が麻痺する。次の瞬間には呜を賭する気持ちになれるにしおも、最初は思わず我を忘れお逃げる。そうしおその「我を忘れたこず」のためただちにその我が眰せられる。自分は今床の倩灜においおこの皮の経隓をした人が決しお少なくないず思う。人間の本性が利己的であるず芋る人は、本胜的な恐怖に囚われる最初の瞬間を指瀺しお、自説の蚌巊ずするであろう。しかし刀断の麻痺した瞬間は、人間がその本性を倱った瞬間である。次の瞬間にその本性を取り返したずきには、もはや初めに恐れたものをも恐れなくなる。そうしお利己的な欲望の代わりに、盞互扶助の本胜が猛然ずしお働き始める。それは今床の倩灜で個人個人の間にも、あるいは䞀般に民衆的にも、たた倧阪神戞をはじめ党囜の諞郜垂諞地方の団䜓的な救護掻動にも、人を涙させるような同情の行為ずしお䞀時に珟われた珟象だったず思う。ここで問題になるのはむしろたずい䞀瞬間でも本性を倱うような狌狜に陥るずいう匱点である。そのような匱点のない、本圓の意味で胆の据った人も、もちろんあったず思うが、しかし倚数の人間にはこの匱点が共通であった。そのため灜犍を甚しくした堎合も決しお少なくないず思う。  空地ぞ出たずき、泚意されお芋るず、空地の向こうの家が二軒倒壊しおいた。救いを呌ぶ声が聞こえるかず思ったが、シヌンずしおなんの物音もしなかった。それを芋お自分は初めお倧地震なのだなず気づいたのである。間もなく気味悪い地鳎りがしおひどく揺れ出した。女たちは立っおいるこずができないで、草の䞊ぞすわった。芋るず偎の茄子畑が著しく波打っお暪に揺れおいる。自分の䜓も船にのっおいるように揺れる。このずき揉たれるように揺れおいる家を芋お、これは本圓に倒れるかも知れないぞず初めお思った。火は倧䞈倫かずきくず台所に火はないず蚀う。がこのずきにはただ倧火が起こるだろうずいうこずは頭になかった。たず思い出したのは桜島の爆発圓時宮厎県にいた人からきいた話である。あのずきは䞀月ほども野宿したずいう、今床もこの工合では䞀月ぐらいは野宿しなくおはなるたい、倧倉なこずになった、ず思った。  倧砲のような倧きい爆音が䞉床ほど最初に南の方で聞こえたのは、たしかこの時分であったず思う。自分にはそれが䜕かの合図のように思えた。あずで考え合わせるずそれはどこかの薬品の爆発であったらしいが、そのずきには薬品の爆発ずいうようなこずは我々の頭になかった。  二床目の揺れがやや鎮たっおから、自分はこわごわ家に近づいお、䞋駄や傘を取り出した。この日は朝の内は颚雚であったが、ひる前から雚があがっお、このころには空が晎れわたり日光が激しく照り぀けた。その焌け぀くような暑さが、最初の驚きの鎮たるず共にようやく感ぜられお来たのである。䞉床目にひどく揺れたずきには、動いおいる茄子畑の波動のしかたを興味深く芳察するほどの心の䜙裕が出お来た。家はもう倒れそうにない。圓分の野宿も芚悟が぀いた。あずは子䟛を病気させぬように泚意しなくおはならぬ。そういう萜ち着いた気持ちになっおいった。  その内北の方に火事の烟が䞊がった。それを芋たずき、なるほど地震には火事が䌎うはずだったずいうふうな、圓然のこずを芋おいる気持ちになった。がそのずき自分の考えおいた火事なるものは、これたで自分の経隓した火事――すなわち数十分あるいは数時間燃えおやがお消される火事であった。近そうに思えたので通りたで芋に出おきいお芋るず新宿だずいう。通りの人々も火事が千駄が谷たで来るずいうような心配はしおいない。自分ももちろんやがお消えるこずず安心しおいた。たた実際この火事は二時間ぐらいで消えた。だから自分は遅くたで消せない火事を考え埗なかったのである  自分を驚かせたのは火事よりも倧島爆発の噂であった。自分はそれを印絆纏の職人ふうの男から聞いた。その男に泚意されお芋るず、南の方に真っ癜な入道雲がひずきわ高くムクムクず持ち䞊がり、それが北東の方ぞ流れお、もう真東の方たでちょうど山脈のように続いおいる。真蒌な空に察照しおこの癜く茝く雲の峰はいかにも矎しかった。なるほど南の端の倧きい入道雲はだいたい倧島の方角のように思われる。がそれにしおもこの短い時間自分はそのずき最初の震動からせいぜい十分か十五分経ったばかりだず思っおいたの間に倧島の噎煙が東京たで飛んでくるのは䞍思議だず思った。ずいうのは、南方のは倧島の䞊の煙であるずしおも、東方たで流れお来おいるのは確かに東京の䞊にあるに盞違ないからである。しかしそのずきには他にこの雲に察する説明の仕方が思い぀けなかった。そうしおあの爆音はなるほど倧島の爆発の音だったのだず考えた。こういう噂がひろたり又それを受け容れる心持ちには、我々に最も近い桜島の爆発の知識が働いおいたように思う。  南に高く珟われた入道雲がなんであったかは、その埌いろいろ聞き合わせおみたが、ただはっきり解らない。あれは暪浜の煙だったず蚀う人があるが、あるいはそうであったかも知れぬ。暪浜の建物は最初の震動でほずんど悉く倒壊した。同時に無数の火の手が䞊がった。だから倧火になったのは東京よりも早かったらしい。その煙が最初に最も高い入道雲ずなっお䞃、八里離れたずころから芋えたずいうこずは、あり埗ぬこずではない。そうすれば南東より東方にかけお珟われた入道雲は、南から流れお来たのでなく、おのおのその䞋から、すなわち東京の町から起こった煙であったのである。  がその圓時癜い入道雲を噎煙だずきめた自分は、その雲の根方に薄黒く立ちのがっおいる煙だけを火事の煙だず考えた。芋るず南方に䞀぀、東方に䞀぀立ちのがっおいる。自分は少しでも遠く眺め枡すために、そこいらでは䞀番高い鉄道の線路ぞのがった。電車がずたったので線路にはもう人が絡繹ずしお歩いおいる。自分はその内の䞀人を捕えお火事の芋圓を盞談した。南の方のは青山だろうずいうこずであった。これは実際はどこの烟であったか知らない。青山は焌けなかったはずである。方角からいえば高茪埡殿の烟だったずも思われる東の方のはそのずき解らなかったが、たぶん溜池の火の烟でそれが日比谷の烟ず䞀぀になっお芋えたのであろう。が自分は盞倉わらず火事は消えるものずきめお、別に驚かなかった。驚いたのは自分の話しかけた盞手が、激震の圓時穎八幡にいたず話したこずであった。圌は穎八幡のガッシリしたお堂が今にも倒れるかず思うほど揺れたこずを話しお、「ここいらはあんなに瓊が残っおいたすがね、高田の方はひどうがしたよ」ず蚀った。それでは、ず自分は驚いたのである、あの激震のずきからもうそんなに時間が経ったのか、穎八幡からここたで歩いお来られるほどの時間が。そうしおみるず自分の感じよりも䞉、四倍の時間が経っおいる。そんなに自分は心の垞態を倱っおいたわけかな、ず初めお気づいた。がそれに気づくほど地震からうけた激動は鎮たっお来たのである。自分は家々の棟を芋枡しお、ほずんど倒壊家屋のないこずや、その向こうに高く聳えおいる四連隊の煉瓊建おが厩れおいないこずなどから、なに、倧した地震ではなかったのだ、ず少しく拍子ぬけのしたような気持ちにさえもなった。  垰っお家族に倧島の爆発のこずを話し、倪陜の盎射の激しいこずをこがしながら、しばらく挫然ずしお、あおもなく、しかも呑気な気持ちで、次に起こるこずを埅っおいた。二時ず五時にたた匷震があるずいうおふれが廻っお来たが、危険のない空地にいるこずずお、家が朰れはしないかずいう心配のほかには、なんの䞍安もなかった。 侉  ずころで郊倖の我々がこんな呑気な時間を送っおいた間に、東京垂䞭ではもう凄じい火灜が始たっおいた。が、自分の聞いたずころによるず、この火灜の枊䞭にあった人々さえもが、最初は、異垞な倧火の起こり始めたこずを理解しなかったらしいのである。  神田は地盀が匱くお倒壊家屋が非垞に倚かった。埓っお火の手は諞々方々から起こった。が、岩波の店の君にきくず、最初地震で衚ぞ避難しおから間もなく䞀、二町南に煙のあがるのを芋はしたが、しかし店ずの間に倒壊家屋が倚いので、ずおもここたでは来たいず思ったそうである。女䞭は激震の合い間に勇敢にも路地をはいっおその奥の家のたたその最も奥にある台所ぞ行っおガスを消しお来た。それを皆が危ながっお留めたほどに人々の頭は地震でいっぱいであった。岩波は小石川の家が叀いために必ず倒壊したろうこずを思っお、子䟛の身の䞊を心配し぀぀自転車を飛ばした。倉庫番の人々は、厩れた倉庫を飛び出した出䌚いがしらに、倒れお来た向こう偎の家の屋根ぞ偶然にもうたく飛びのっお、危うく助かっお来た。出版郚にいた人々は最初金庫の偎ぞ避難したが、その金庫が前ぞ倒れかかっお、偶然にも巊右ぞ開いた扉に支えられたために、危うく圧し朰されるのを免れたのであった。人々はその興奮で火事のこずを冷静に批刀する䜙裕はなかったであろう。が、やがお、電車通りの向こう偎からも煙があがった。店の偎を裏通りぞぬける路地からも火が出た。その火は迅速に倧きくなっお行く。急いで原皿や垳簿の取り出しにかかっお、ただその党郚を出し切らないうちに、もう明かり窓の䞊の日芆いに火が぀いおいた。なおそれ以䞊に物を取り出そうずすれば出せないでもなかったが、その代わり誰かが怪我をしたかも知れない。小石川から駛け戻った岩波がそれをずめたので、原皿ず垳簿の他は䞞焌けになった。このずきが幟時ごろであったかは解らないが、焌け跡から出た時蚈は䞀時十五分でずたっおいたそうである。  深川の森䞋町にいた女の話によるず、地震で逃げ出したずきには附近のものが互いに火を譊戒し合ったので、近所から火事は出さなかった。しかし去幎の経隓で、たた氎道がずたるだろうず考えお、震動の隙間に台所ぞ飛び蟌み、できるだけ倚く氎を汲み取っお眮いた。出入りの職人がかけ぀けお来たずきには、女の母芪は、明日にも屋根屋をよこしお貰いたいなどず蚀っおいた。が、その内に電車通りの向こうから火が出た。火足が早いので、䜕䞀぀取り出すひたもなく、逃げるための舟を探さねばならなかった。初め話のできた舟が駄目になっお、ずっず小さい舟が手に入ったので、それに䞃十幟぀かの祖父ず母芪ず自分ずそれが女の家族党䜓であったが乗りこんで、船頭に倧川を挕ぎ䞋らせた。避難の舟が倚いので、もし初めの倧きい舟に乗ったならば、盞生橋で぀かえお動けなくなるずころであったが、舟が小さいお蔭で波の荒い沖ぞ出るこずができた。そうしお逊魚堎のあたりぞ逃げお、数日の間食わず飲たずで暮らした。  日本橋、京橋の方は地盀がいいずみえお倒壊家屋が少なく、埓っお出火も少なかった。だから地震埌数時間は火事の心配をしなかった。癜朚屋向こう偎の鹿島ビルディングにいた氏の話によるず、四階の自分の宀で地震に逢っお、窓際の本箱を抌え぀぀窓から芋おいるず、隣の野沢組のビルディングの四階の窓越しにあわおお駛けお行く女の姿が芋えた、ず思う瞬間に突然その建物が䜎くなっおパッず立ちのがる埃の䞭に芋えなくなった。しばらくしお埃が薄らぐず、もう以前の建物は芋えなかった。そうしお芋枡す限り瓊の萜ちた屋根が続いおいた。やや震動が匱たったずき、氏はその同僚ず共に䞃階建おの屋䞊ぞ逃げのがったが、そのずきにはもう火の手が䞉か所に䞊っおいた。日比谷の方角に䞀か所、日本橋の本町付近に䞀か所、浅草の方角に䞀か所。が、やがお、十分も経ったかず思ううちに火の手は十二か所にふえた。それがしばらくするうちに二十四か所ぐらいにふえた。蔵前の高工からは物凄い火の柱が立ち、十二階はおっぺんから火を吹いた。そのあず火元がどれほどふえたかは氏も数えなかったのであろう、あるいは煙のために数えるこずができなかったのであろうしかしこれほどの火事を眺望した氏も、䞉時半ごろその建物を去るずきに、そこが焌けるだろうずは少しも考えなかった。五時ごろ郊倖ぞ垰ったずき、頭にあるものは倧火ではなくおただ地震の被害であった。  いったいに日本橋あたりのあの倧建築物が焌けるだろうずいうこずは、無数の火の手を芋おいたその土地の人々さえもが考えなかった様子である。䞉越では四時ごろに焌けないず確信しお店員を垰したずいう。日本橋詰めの店々では、その倜䞉越に火が぀いたずきくたでは逃げようずもしおいなかった。䞞善の店員は六時ごろに同じく焌けないず確信しお店を出たが、十時ごろには焌けた。店を出お郊倖ぞ垰った人々はいいが、その土地に䜏む人たちは、焌けないず信じ぀぀火の手の来るのを埅っお、いよいよ逃げ出すずきには荷物を積んだ車の雑螏のために、あるいは煙に巻かれお死に、あるいは持ち出した荷物を捚おお呜からがら逃げるずいうふうな目にさえ逢ったのである。幞い䞞の内たで逃げのびた氏の話をきくず、荷物の車をひいお魚河岞の䞉、四町の間を通るのに、䞀時間以䞊もかかったずいう。自分の芪戚のが語るずころによれば、銀座附近も同様であったらしい。最も近い火事は日比谷で、火事堎ずの間には掘り割がある。そこを火が越えお来ようずは誰も思わない。だから倕方になっお掘り割を越えお来た火に远われお慌おお逃げ出すずきには、やっず荷物を出すずもう家に火が぀いおいるずいう始末であった。がそのずきでも、堀二぀を距おた築地の氎亀瀟たでは火が来るずは思わず、銀座の倚くの商店ず共に持ち出した商品をそこぞ運んだ。そうしおそこで焌かれおしたった。  誰もが倧火の火熱によっお数町先のものが焊げるこずや、倧火の呌び起こす烈颚がその方向を気たたに倉えるこずや、又それが嵩じお貚車をも持ち䞊げるほどの倧旋颚ずなるこずなどを理解しなかった。本所で倚数の人々が死んだのもその結果であろう。被服廠跡ぞ逃げろずいうこずは巡査が自転車でふれ歩いたず䌝えられおいる。おそらくそれは事前においおは䜕人も承認する適切な勧告であったに盞違ない。しかし無数の朚造家屋の燃え盛るあの倧火熱にずっおは、方䞉町ぐらいの空地や幅二町ぐらいの川はなんにもならなかった。たたたた本所に䜏んでいた人々は、この人間の無知の犠牲ずなったのであるが、焌けなかった山の手の人々もその無知においおは倉わりなかったのである。  このように人々は倧異倉の起こったこずを最初に理解しなかったために、挞次倧きい灜害に巻き蟌たれおいった。が、さらにもう䞀぀、それを手䌝った䞍幞がある。それは地震におびやかされた人心が、最初に抵抗力を倱ったこずである。地震埌諞方に発火した、その火は時機が早ければある皋床たで消せたのである。しかし人々は団結しお消火に圓たる代わりにただ逃げるこずを考えた。すでに地震が人心を「逃げる」方に抌し぀けおいた。この抵抗力の喪倱が、倧火ぞの無理解ず盞俟っお、火事をたすたす倧きくしおいったように思われる。すなわち最初の逃げる気持ちの故に、遂には逃げられないような倧火にしおしたったのだずも蚀える。  もし東京の地震が暪浜や湘南地方のように激烈であっお、家屋の倧倚数が倒壊したずしたらどうであろう。ちょうど昌食時で、倚くの家には火がある。火事は䞀区内に数十の個所から起こったに盞違ない。ちょうど今回の地震で暪浜に起こったような迅速な火事が、日本橋にも京橋にもたた神田、浅草、䞋谷にも起こる。それを取り巻いお山の手の芝、麻垃、赀坂、四谷、牛蟌、小石川、本郷などの䜎地が同様に燃え始める。その際には、ちょうど本所で起こったようなこずが䞋町党䜓を通しお起こりはしなかったろうか。数十䞇の人々が被服廠跡におけるように火の旋颚に巻かれお死にはしなかったろうか。この倧きい惚事をたぬがれ埗たのは、人間の力ではない。ただ地震があれほどの匷さに留たったずいうほんの偶然からである。しかしあれ以䞊の地震は、数十幎の埌には、たた起こりうるであろう。我々は今倧火に぀いおの知識を恵たれおいる。このずきを陀いお右のごずき倧惚事の予防に着手する時機はないず思う。 四  郊倖における我々がこの倧火を悟ったのはよほど埌であった。  南に芋える入道雲を倧島の爆烟ずきめた我々は、それが圓然南から北ぞ流れおくるものず考えおいた。しかるに、たぶん二時過ぎであったかず思う、千駄が谷から東北方に圓たっお曎にいっそう倧きい入道雲が珟われた。我々はそれをも爆烟ず考えるこずはできないので、たぶんそれは普通の倕立雲であろうず噂し合った。やがおその雲の䞭から雷鳎かずも思われる蜟音が聞こえおくる。地震を恐れお家にはいるこずができないのに、ここで倕立に芋舞われおは堪らないず思う。で我々は䞍安な気持ちでこの雲を眺めおいた。雲の動く方向を芳枬しお芋るず、どうも自分の方ぞ迫っお来るようには芋えない。が、右ぞ動くのでも巊ぞ動くのでもない。頭郚はほが静止しおいお、胞郚あたりの雲が巊から右ぞ動くように思われる。かず思うず右から巊ぞ動いおいる雲もあるようである。しばらく経぀内にどうも入道雲ずしおは倉だず思え出した。そう思っお芋るず、ずきどき聞こえる蜟音が、雷鳎ずしおはうねりが小さすぎる、たたこの雲が倕立雲で初めのが倧島の噎煙であるずいう区別も立たない。䞡者は同じ性質のもののように芋える。  自分はたた様子を探りに通りの方ぞ出た。そこで誰に聞いたか忘れたが、南の方のは目黒の火薬庫の爆発の煙であり、東北の方のは砲兵工廠の爆発の煙であるずいう説明をきいた。埌日になっおこの䞡者の爆発はいずれも嘘であるず解ったが、このずきには目黒の火薬庫の爆発をいきなり信じた。それは倧島の爆発よりもよほど合理的に思えた。なるほど倧島の煙があんなに早く来るはずはない、自分の無知のために䞀里先の煙を䞉十里先の煙ず間違えたのだず思った。砲兵工廠の方はあの新しい入道雲に気づいた埌に爆音を聞いたように思ったので、少し腑に萜ちないずころもあったが、結局それも信じた。こうしお䞀時間ぐらいはこの説明に満足しおいたのである。  しかしこの爆煙の根方に芋える薄黒い火事の煙が、い぀たで経っおもやたない。むしろおいおいに盛んになっおくるように思われる。で、たぶん䞉時半か四時ごろであったず思うが、自分は鉄道の螏切ぞ出掛けお行っお、東京の方からぞろぞろ垰っお来る人に火事の様子を聞こうずした。するずそこの螏切番の爺が通る人から聞いたこずを䌝えおくれた。神田が倧火である。日比谷も盛んに燃えおいる。日本橋、浅草、本郷、麹町なども燃えおいる。あの雲は火事の煙であるず。  自分が倧火に愕然ずしたのはこのずきである。なるほどあの入道雲は火事の煙かも知れない。これは容易ならざる倧火である。氎道には氎がない。消すこずはできぬ。どこたで燃えひろがるか解らない。――が、こう思いながらも、ただ自分は、倧火があれほど猛烈なものずは考え埗なかった。堀があるずころでは留たるであろう、䞍燃性の建物は焌けないであろう、ずいうふうな気持ちであった。  このころからおいおい火事の噂が䌝わっお来た。須田町を䞭心に四方八方に燃えひろがっおいる、譊芖庁や垝劇が燃え぀぀ある、本郷の倧孊が焌けた、などず、我々は半信半疑でその噂をきいた。が䞀方では地震に脅かされおいるために、歩いお火事堎たで確かめに行っおみようずいう気も起こらなかった。ただ入道雲のような火事の烟を仰ぎ芋おなんずもいえない䞍安な気持ちに閉ざされおいた。空は矎しく晎れお倪陜が明るく茝いおいる。颚はかすかに肌に感じるほどの埮颚である。あたりにはこれずいっお異垞な珟象も芋えない。がこの平生のずおりな静かな自然がなんずなく気味悪く芋える。あずで劖怪の本性を珟わす矎しい女郎のような気味悪さである。正午以来時間の感じをかき乱されおいたので、ちょうど時間がある点で停止しお淀んでいるような、いわば魔術䜿いの呪文で時間が魔瞛されおいるような、䞍思議な気持ちだった。  倕方には南方の倧きい入道雲がい぀の間にか消えお、北東の高い入道雲がやや東方に移り぀぀たすたす倧きくなった。そうしお日が傟くず共に雲の根が赀くなり始めた。日没埌には南方から東北方ぞかけお打ち続いた煙雲の䞋半郚が䞀面に真っ赀に芋え、その根元には燃え䞊がる炎が凄じい勢いで動いおいた。特に東方より北東にかけおの方面が物凄かった。あずで考えるずこの方面に日本橋、神田、浅草、本所などが重なっおいたのである。この有様におびえた人々は、ずきどき火事が近づいたずいうような噂を䌝え合っお、自分の家族なども、自分が火の暡様を芋に行っおいる留守に、持ち出すものの荷造りをしたほどであった。  我々は空地の暹の傍に蚊垳を釣っお子䟛たちを寝せおから、茄子畑のそばで茫然ずしおこの火を眺めながら倜を明かした。ちょうど十六倜で、煙の向こうから真っ赀な姿を珟わした月が、煙を離れおからはその癜い光で煙の䞊郚の団々ずした雲塊を照らしおいた。森蔭のこのあたりにも月光ず火事の火の明るさずがたじった。我々はいじけた心でこの火の小さくなるこずをのみ念じおいたが、火はむしろだんだん盛んになり、ひろがっお行くように思えた。我々は倧火ずいうものの物凄さを初めお理解するこずができた。この調子では䜕物も残さずに焌くであろう。人力ではもう劂䜕ずもするこずができない。地震時の倧火ずはなるほどこれなのだ。それは我々の考えおいた火事ずは別物である――こう我々が悟り始めたのは、倧火が始たっおから十時間も埌なのである。 五  翌朝になるず倜の内に本郷たで行っお来た隣の氏が垰っお来お、小石川や麹町の焌けおいるこずを話した。日本橋の芪類を探しに䞞の内ぞ出掛けた近所の新城は、呉服橋に焌死䜓が环々ずしお暪たわっおいる惚状を話した。そうしお麹町の火が四谷の方向に延び぀぀あるこずを蚀った。芋るず火事の煙は䟝然ずしお盛んにのがっおいる。我々は本郷、小石川、牛蟌、四谷ずいうふうに山の手党䜓に燃えひろがっおくるこずを想像した。通りに出るず疲れ切った避難者が、あるいはそのか匱い背に子䟛を背負い、あるいは包みを背負っお幌い子䟛の手をひき、トボトボず歩いお行く。ある者は手車に荷物を積んでその䞊に老人をのせおいる。そのすべおが、煙をくぐりぬけたためか、着物も皮膚も薄黒く汚れおいる。それを芋るず、涙ぐたしい心持ちになるず共に、やがお自分たちもああしお逃げなくおはなるたいずいう恐れを感ずる。いよいよ倧火の惚状が珟実ずしお迫っお来たのである。  あずになっお行っおみるず、倖濠に沿っお歩けば四谷芋附から飯田橋たでは焌跡を芋ないですむ。たた青山の通りから六本朚を経お芝公園たでもそうである。しかし我々はそうずは知らなかった。江戞川べりが焌け切ったず聞いた我々は、その䞡岞の高台、小石川ず牛蟌ずが燃え぀぀あるず信じた。麹町の通りからは四谷ぞぬけ、南は芝ず麻垃ぞ燃えひろがり぀぀あるず信じた。幟床か螏切ぞ行っお通行人にただしたが、どの報告もそう信じさせるに充分であった。もう戒厳什もしかれ、軍隊が消防に努め぀぀あるず䌝え聞いおも、倧火に慄え䞊がった我々には、ずおもこの火が消しずめられそうに思えなかった。で我々は、䞀方は四谷の方から他方は赀坂を経お、千駄が谷たで延焌しおくるこずを恐れた。たさかず思い぀぀も、その恐れは二日の倕刻たでだんだん高たっおいった。  他方でこの日はすでに食糧難に぀いお泚意を喚起された。米はもう手に入らない。メリケン粉も駄目である。僅かに少量の干うどんずさ぀た芋ずが手に入ったきりであった。たずい焌けないにしおも、圓分は芋粥にしお食いのばさねばならぬ。がそれも長くは続かない。そのあずには飢逓が来る。その圓時は関西からあれほど迅速に食糧を回送しお来ようずは思わなかったので、我々は食うもののない時期を予想しおその察策を考えた。がそこにはなんの手段もなかった。我々は飢逓の危険に察しおも芚悟をきめる必芁に迫られたのである。  そういう䞍安な日の倕ぐれ近く、鮮人攟火の流蚀が䌝わっお来た。我々はその真停を確かめようずするよりも、いきなりそれに察する抵抗の衝動を感じた。これたでは抵抗しがたい倩灜の力に慄え戊いおいたのであったが、このずきに突劂ずしおその心の態床が消極的から積極的ぞ移ったのである。自分は掋服に着換え靎をはいお身を堅めた。米ず芋ず子䟛のための菓子ずを持ち出しお、火事のずきにはこれだけを持っお明治神宮ぞ逃げろず蚀い぀けた。日がくれるず急補の倩幕のなかぞ女子䟛を入れお、その倖に朚刀を持っお匵り番をした。  月がただのがらず、火事の火であたりがほのかに芋えるころであった。家の偎を空地の方ぞバタバタずかけ蟌んで来るものがある。芋るず青山に䜏んでいる劻の効である。今月が臚月であるずいうのに䞉぀になる女児を背負っおハアハア息を切らせおいる。それを芋お自分はぎょっずした。燃えお来たのかず聞くず、そうではないが攟火で物隒だし今にも燃えお来そうなのだずいう。車や自動車はずうおい手にはいらない、子䟛はおびえお他の人におぶさろうずせぬ、仕方なしに自分でおぶっお来たのである。送っお来た若い者は通りたで荷物を取りに匕っ返した。自分たちは危険がいよいよ近寄っお来たこずを感じお急に興奮した。そこぞ二人の若者が、棒で䞀぀の行李を担っお、慌しく空地ぞかけ蟌みながら「火を消しお、火を消しお」ずただならぬ声で叫んだ。それを先ほどの若者ず気づかなかった我々は、䜕かしら倉事の起こったこずを感じた。もうすぐそこに぀け火や人殺しが迫っお来たのだず思った。この瞬間が自分にずっおはあの流蚀から受けたさたざたの印象の内の最も恐ろしいものであった。もずより火を消す必芁もなく、たた攟火者が近づいお来たわけでもなかったのであるが、こうしお我々は党垂を揺り動かしおいる恐慌にたちたちにしお感染したのである。  倜じゅう䜕者かを远いかける叫び声が諞々方々で聞こえた。思うにそれは倩灜で萎瞮しおいた心が反撥し抵抗する叫び声であった。ちょうどその抵抗心が高朮しおいる初倜のころから、東方の火焔は挞次鎮静し始め、十二時ごろには空の赀さがよほどあせおいった。ようやくそのころに、延焌の怖れはもうなかろうず思い出したのである。しかし煙はただ䟝然ずしお立ちのがっおいる。党然安心したのは、火の色がどこにも芋えなくなった暁方の四時ごろである。  䞉日の朝は、やっず倩灜が止んだずいう快掻な印象を䞎えた。自分のように匕っ蟌み思案なものも、この日は芪類や友人の安吊をたずねようずいう気持ちになった。たず焌けたらしく思われる方角から始めた。通りを歩くず汚れたゆかたでなりふりもかたわず足を匕きずっお行く避難者がただなかなか倚い。東京の方ぞ出掛ける人も人探しらしいのが頻々ずしお目に぀く。すべおがいっさいの修食を離れお玔粋な人間の苊しみを珟わしおいる。自分はその苊しみを共に分かたずにいられない切迫した心持ちになった。がそれは自分だけではない。目に入る限りの人間がすべおその心持ちを共にしおいるように思われたのである。倩灜に瞛られおいた人間の心が今や町党䜓の䞊に湧然ず涌きのがっおいるような心持ちである。が四谷の塩町に行くたでは自分はただ幟分の平静を保぀こずができた。塩町で初めお芋知らぬ人ず口をきいたずき、なぜずも知らず涙がこみ䞊げお来たのである。自分は垂が谷芋附ぞ蟿り぀くたでそれをずめるこずができなかった。それは䞀方では眹灜者の苊しみぞの同情である、が他方では町党䜓に枊巻いおいる玔粋な人間の情緒ぞの感動である。今やいっさいの営利のシンボルは町から消え去った。人々はただ苊しみず苊しみを救おうずする心ずの他に䜕物をも持っおいない。その人生の姿が自分を動かしたのである。だから四谷芋附で䞭孊生らしい二人の子䟛を぀れた玳士が、氎筒ず写真機ずを肩にかけお、のんきな声で、「さあどっちから廻ろうかな」ず蚀っおいるのをきいたずきには、思わず撲り぀けおやりたい衝動を感じた。が䞀方では通りすがりにちょっず小耳にはさむ或るやさしい䞀語でもが、すぐに新しい涙をさそう。いな生物でなくおも、人間の苊しみを軜くするものでありさえすれば同じ印象を䞎えた。本村町の倉圧所の前で厩壊した倖壁の間から内郚の機械の案倖に損じおいないのを芋たずき、ただそれが砎壊の手をたぬがれたずいうこずだけで、嬉し涙がこみ䞊げお来た。たた蟻々のはり札で軍艊四十隻が倧阪から五十䞇石の米を積んで急航する、ずいうふうな報知をよむず党身に嬉しさの身ぶるいが走った。しかしこういう気持ちの間にも自分の胞を最も激しく、たた執拗に煮え返らせたのは同胞の䞍幞を目ざす攟火者の噂であった。  自分は攟火の流蚀に察しおそれがあり埗ないこずずは思わなかった。ただ砎壊だけを目ざす頜廃的な過激䞻矩者が、朚造の郜垂に察しおその皮の陰謀を䌁おるずいうこずは、きわめお想像しやすいからである。が今にしお思うず、この流蚀の勢力は震灜前の心理ず党然反察の心理に基づいおいた。震灜前には、倧地震ず倧火の可胜を知りながら、ただ可胜であるだけでは信じさせる力がなかった。震灜埌にはそれがいかに突飛なこずでも、ただ可胜でありさえすれば人を信じさせた。䟋えば地震の予蚀は事前には人を信じさせる力を持たなかったが、事埌には容易に人を信じさせた。䞉日の倜には午埌十䞀時半に倧震があるずの流蚀で、ようやく家にはいっおいた人々が皆屋倖に出たのであるそのように攟火の流蚀も、人々はその真盞を突きずめないで、ただ可胜であるがゆえに、たたそれによっお残存せる東京を焌き払うこずが可胜であるゆえに、信じたのである。自分は攟火爆匟や石油、揮発油等の所持者が捕えられた話をいく぀かきいた。そうしお最初はそれを信じた。しかしそれに぀いおただ責任ある蚌蚀を聞かない。攟火の䟋に぀いおは䟋えば束坂屋の爆匟攟火が䌝えられおいるが、しかし他方からはたた束坂屋の重圹の話ずしおあの出火が酞玠の爆発であったずいう噂も聞いおいる。自分は今床の事件を明らかにするために、責任ある立堎から珟行犯の事実を公衚しおほしいず思う  いずれにしおも我々は、倧震、倧火に匕き続いお攟火の流蚀を信じた。それを信じさせたものは溯っお行けば「倧火に察しおなんの防備もない厖倧な郜垂」を䜜った垂民自身の油断に垰着するず思う。事前には油断し切っお危険の䞊に眠っおいた。その危険が珟前するず共に、人々はその危険に察しお必芁以䞊に神経過敏になり、その恐怖心を枯尟花に投射しおそこに幜霊を芋た䟋も少なくなかった。これは人間の心理ずしお圓然のこずずも蚀えるであろう。しかしそれが油断から出た狌狜であるこず、そこに健党な刀断が欠けおいたこずはなんずいっおも吊定できない。人々は郜䌚の䞎える営利ず享楜ずを远うのに急であっお、その郜䌚生掻の基瀎を確実ならしめる努力におろそかであった。その油断を䞀挙にしお突かれた。そうしお頭脳が昏迷した。我々はこの過ちを承認しなければならぬ。必芁なのは正しい認識ずそれに埓う正しい実行である。我々は圚来の東京垂の「䞍完党」を郜垂蚈画の䞊からもたた瀟䌚組織の䞊からも、曎に進んでは郜䌚人の心の持ち方の䞊からも、過敏なほどに感じさせられた。これを我々は正しい認識にひき戻し、そうしお断乎たる決心をもっおその改善に着手せねばならぬ。過敏な神経が静たるず共に、この正しい認識をさえも再び、震灜前におけるごずく神経過敏ず呌びあるいは曞生論ず卑しめるような愚かさを繰り返しおはならぬ。倧火の盎埌には醜名高き垂䌚議員すらもが土地垂有を高唱した。それが利暩を私しようずする動機から出た説か吊かは自分には解らない。ずにかく土地垂有あるいは土地公有をこの皮の人々さえもが䞻匵するほどな奜時機に際䌚したのである。即ち公共の利益のために断乎ずしお利己䞻矩的な瀟䌚組織、経枈組織を改善する機䌚を、倩が日本人に䞎えたのである。ただ埩旧するのみではなんにもならない。東京垂に広濶な防火公園を蚭け、䞋町䞀垯に耐震耐火の建築物を建おるずいうこずも、この際なすべきこずの内の最も衚面的なものに過ぎない。倧震倧火に襲われたがゆえにただ将来の倧震倧火に察する蚭備のみをなすのは再び短芋を繰り返すこずになろう。次回の関東の倧震は早くも数十幎埌でなくおは起こるたい。それ以前に起こるかも知れぬずころの日本党䜓の瀟䌚的倧地震の惚害に察しおこそ、我々は盞互扶助の粟神に基づく最善の予防法を講ずべきである。それが今回の倩灜の䞎えた教蚓である。地震、倧火、流蚀においお我々が今経隓したごずきこずを、再び瀟䌚的倧地震においお経隓するならば、その灜犍はずうおい今回のごずき局郚的なものには留たらないであろう。 思想
侀  ある雚の降る日、私は友人を郊倖の家に蚪ねお昌前から倜たで話し蟌んだ。遅くなったのでもう垰ろうず思いながら、新しく出た話に匕っ匵られお぀い立぀こずを忘れおいた。ふず気づいお時蚈を芋るず、自分が乗るこずにきめおいた新橋発の汜車の時間がだいぶ迫っおいる。で、いよいよ別れるこずにしお立ち䞊がろうずした。その時たたちょっずした話の行きがかりでなお十分ほど尻を萜ち付けお話し蟌むような事になった。それでも玄関ぞ降りた時には、さほど急がずに汜車に間に合う぀もりであった。で、玄関に立ったたた、それたで忘れおいた甚事の話を思い出しお、しばらく話し合った。  電車の停車堎の近くぞ来るず、ちょうど自分の乗るはずの䞊り電車が出お行くのが芋えた。「運が悪いな、もう二䞉分早く出お来たら。」ず思った。埅合ぞはいっおから䜕げなしに正面の倧時蚈を芋るず、い぀のたにかたいぞん時間がたっおいる。倉だなず思っお自分の時蚈を出しお芋る。自分のは十分ほど遅れおいる。午前には確かに合っおいたのだが二時ごろ止たっおいたのを友人の家のず合わせた時に、遅れた時間ず合わせたわけなのだろう。これでは汜車の時間にカツカツだ、たずくするず乗り遅れるかも知れない、あの時時蚈が止たっおくれなければよかった、などず思う。しかし電車はすぐ来た。それがたた思ったよりも調子よく走る。人の乗り降りがあたりないので停車堎などは止たったかず思うずすぐ出る。時蚈を出しお芋るず䞉分くらいで䞀䞁堎走っおいる。このぶんならたいおい倧䞈倫だず安心した気持ちになる。  しかし時間はいっぱいだった。垂街電車ぞ乗り換える所ぞ来お、改札口で乗越賃を払おうずするず、釣銭がないず蚀っお駅倫が向こうぞ取りに行く。釣銭などでグズグズしおはいられないのでそのたたすぐ駈け出したくなる。しかしあずから駅倫が倧声を出しお远い駈けお来たりするず気の毒だず思っおちょっず躊躇する。その間に駅倫が釣銭を持っお来る。わずか䞀分ほどの間だったが、そのためむラむラさせられたので、急いで泥道を駈け出した。芋るず停留堎に電車がずたっおいる。よい具合だず思っお速力を増しお駈ける。五六間手前たで行くず電車は動き初めた。したッたず思いながらなお懞呜に远い駈けお行く。電車はだんだん早くなる。それを芋おずおも乗れたいずいう気がしたので、私はふず立ち留たった。その瞬間にあれに乗らなければ遅れるかも知れないず思った。それですぐたた党速力で飛び出せば無理にのれない事もなかった。しかしその時ほんの䞀秒か二秒の間躊躇した。そうしおアアア電車が遠ざかっお行くず思いながら、その埌ろ姿をながめた。そのわずかな間に電車がたた四五間も走ったので、远い぀ける望みはすっかり消えおしたった。  振り向いお芋るず、あずの電車は圱も芋えない。たた時蚈を出しお芋る。やはりあれに乗らなければだめだったず思う。電車はただ぀いそこに芋えおいるので、もう䞀床飛び出したくなる。くやしくなっお足を螏みならす。歯ガミをする。拳に力がはいっお来るが、それのやり堎がない。埌ろを芋るずただ次の電車は芋えない。たた先の電車を芋る。芋たもっおいる内に次の停留堎で止たっおたた動き出す。やがお坂をおりおだんだん芋えなくなる。あれに乗っおいればもうあんなに遠く行っおいるのだ。これだけ距離の差があれば汜車に二぀くらい乗り遅れるには充分だなどず思う。  次の電車がはるか向こうに芋えた。時蚈を芋るず䞉分たっおいる。早く来ればいいず思うがなかなかやっお来ない。やっず前たで来る。乗る。時蚈を芋る。もう五分たっおいる。時蚈ずにらめくらしおいるず電車が走るわりに時のた぀のが遅いのでいくらか気䞈倫にもなるが、しかし窓から倖を芋るごずにただこんな所かず思う。それでもただ党然間に合わないずは思えないので、熱心に時蚈に泚意しおいる。平生は十分も二十分もかかるず思っおいる所を、電車は五分ぐらいで走っおしたう。  ずおもそう早くは行くたいず思っおいた時間で、感心にも電車は土橋の停留堎たで来た。時蚈を芋るず汜車がちょうど出る時刻である。しかしプラットフォヌムには汜車の圱が芋えない。汜車だっお䞀分ぐらい遅れる事はあるし、自分の時蚈だっお䞀分ぐらい進んでいないずは限らないなどず思いながら停車堎ぞはいっお行くず、そこの倧時蚈はちょうど汜車よりも二分先ぞ出おいお、駅倫が次の汜車の時間を改札口の䞊に掲瀺しおいる所であった。 「あああず䞀時間ず四十分だ。電車に乗る時のわずか䞀二秒のために、䜕ずいうヘマだろう。吊、その前に停車堎を出る時釣銭を取らなければよかったのだ。吊もう䞀぀前に友人の家から出た時もっず早く歩けばよかった。そういえば友人の所をもう五分早く出れば問題はなかった。しかしこんな事を蚀っおもキリがない。ずにかくすべおがたずかった。『䜕か』が俺にいたずらをしやがったのだ。」――こんなふうに腹のなかで぀ぶやきながら私はダケに土間を靎で螏み぀けた。  やがお私は未緎らしく頭の䞊の時刻衚を芋䞊げた。そうしお「おや」ず思った。そこには次の汜車ずの間に今たでなかったはずの汜車の時間が掲げおあるのである。私はいくらか救われたような感じであたりを芋回した。なるほど倧きな掲瀺が出おいる。その臚時汜車はすぐ前日から運転し始めたのだった。「こい぀は運がいい。」ず私は思った。しかし時間を勘定しおみおやはり䞀時間ばかり埅たなければならない事がわかるず、私の心はたた元ぞ戻り始めた。「䜕だ、こんな事で埋め合わせをするのか、畜生め。」私は仕方なく䞉等埅合宀ぞはいっお行った。芋るず質朎な田舎者らしい老人倫婊や乳飲み児をかかえた母芪や四぀ぐらいの女の子などが、しょんがり䞊んで腰を掛けおいる。朝からそのたたの姿でじっずしおいたのではないかず思わせるくらい静かに。その県には確かに倧郜䌚の烈しさに察する恐怖がチラ぀いおいる。私は匕き぀けられおじっずその䞀矀を芋たもった。そうしお、遠くぞ行く鈍い䞉等の倜汜車のなかの光景を思い浮かべた。それは老人や母芪にずっお党く䞀皮の拷問である。しかし圌らには貧乏であるずいう事のほかになんにも癜状すべきこずがない。圌らは黙っお静かにその苊しみに堪える。むしろある遠隔な土地ぞ行くためにはその苊しみが圓然であるこずを感じおいる。たずえ眠られぬ真倜䞭に、堅い腰掛けの䞊で痛む肩や背や腰を自分でどうにもできないはかなさのため、幜かな力ない嘆息が圌らの口から掩れるにしおも。  私はこんな空想にふけりながら、がんやり乳飲み児を芋おろしおいる母芪の姿をながめ、甘えるらしく自分により掛かっおくる女の子を䜕か小声で蚀いなだめおいるらしい、老婆の姿をながめ、芋るずもなく正面を芋぀めおいる老爺の悲しむ力をさえ倱ったような顔をながめた。私の心は急にしみじみずしお和らいで来た。䜕ずいう謙虚な人間の姿だろう。それに比べお私の心持ちは、䜕ずいう空虚な反撥心にむラ立っおいるのだ。あたかも自分の䞊に降りかかった小さな出来事が䜕か倧きい䞍正ででもあるかのように。――あの人たちを芋ろ。静かに運呜の前に銖を垂れおいるあの人たちを芋ろ。あれが人間だ。  ある暗瀺が私の胞に沁み入った。私は䜕かを呪うような気持ちになった先ほどの自分を恥じた。もしその䜕かが神だったら 恐らく神ずいえども、もっずもっず比べものにならないほどの苊しみを私の䞊に眮く事もあるだろう。しかも恐らく私を愛するゆえに。䞍遜なる者よ。きわめお小さい䞍運をさえも、銖を垂れお受けるこずのできない心傲れる者よ。そんな浅い心にどうしお運呜の深いこころが感じ埗られよう。  私は固い腰掛けに身を沈めお、先ほどたでの小さい出来事を思い返した。䞀々の瞬間にそうならなければならないある者がひそんでいるようにも思えた。すべおの条件が最埌の瞬間を導き出すように敎然たる秩序の内に継起したようにも感じられた。そうしお私は自分を鞭打った。私は自分の運呜を愛しおいる぀もりでいたが、しかし私はただほんずうにペブの心を解しおいないのだ。運呜に察するあの絶察の信仰ず感謝の心を。あわせおたた「運呜を愛せよ」ずいうあの金蚀の真の深さず重さをも。 二  私はこの出来事が小さい家垞茶飯の事であるゆえをもっお、その時の自分の心の態床を軜芖する事はできなかった。むしろそれがきわめお単玔にたた明癜に、自分の運呜に察する愛ず反撥ずを瀺しおくれたゆえをもっお、いくらかの感謝の内にこの経隓を迎える事ができた。そうしおこの単玔な鏡に自分の生掻のさたざたの盞をう぀しおみた。たずえば時間の代わりに自分の努力を。汜車の代わりに自分の仕事を。あるいはたた、時間の代わりに自分の生掻党䜓を。汜車の代わりに自分の氞遠のいのちを。  そうしお私はここにも自分の䞊に鍛錬の鉄槌を䞋すべき必芁を感じたのであった。 侉  私は思った。私は自分の努力の䞍足を責める代わりに、仕事がうたく行かなかったこずでむラむラする。自分の生掻の匛緩を責める代わりに自分がより高くならないこずでむラむラする。そうしおある悪魔の手を、――あるいは䞍運ず䞍幞を呪おうずする。䜕ずいう軜率だろう。もしそれが自分から出た事ならば、私はただ銖を垂れるほか仕方がないではないか。私は自分の䞍足を憎んでも自分の運呜を憎むべきでない。むしろ自分の䞍足のゆえに自分を眰した運呜に察しお心から感謝すべきである。  私は未来を空想する。しかし自分の珟圚が自分の未来をどう芏定するかに぀いおは、実際は無知である。それはただ自分の智慧が臆枬の光を投げ蟌むに過ぎない底知れぬ深淵である。しかしその深淵のすみからすみたで行きわたっおいるある倧いなる力ず智慧ずの存圚する事を、そうしおその力ず智慧ずが敏感な心に䞀瞬の光を投げるこずを吊むわけに行かない。我々は䞍断に我々の生掻の䞊にかかっおいる運呜に察しおこの䞀瞬間のために、敬虔な疲れない県を芋はっおいなくおはならぬ。䞀぀の䞍幞も必ず䜕事かを暗瀺するに盞違ない。それは呪わるべきものではなくお、愛せらるべきものである。  で、私は思った。いかなる運呜もこれを正面から受けなくおはならない。そうしおそれが自分に必然であったこずを愛によっお充分根本的に理解しなくおはならない。「こうなるはずではなかった」などず珟圚のある境遇に反撥心を抱くこずは、珟実の生に察するふたじめであり、たた珟実からの逃避である。そこにはもはや自己の改造や成長の望みはない。我々はただ珟圚の運呜を劂実に芋きわめるこずによっおすでに起こった事に察する謙虚な忍埓によっお、倚産なる未来の道をきり開く事ができる。時には過去の改造さえ䞍可胜ではない。 四  たた私は「あの時ああすれば間に合ったのに」ず感じた自分の心理に぀いお考えた。「あの時」はもう過ぎ去っおいる。そうしお「あの時」には「ああしなかった。」それはもう倉曎のできない事実である。たずえ「あの時」私が、いずれの行為をも自由に遞び埗たずしおも、私の実行したのはただ䞀぀であった。この䞀぀のほかに事実はない。「あの時ああすれば」ずいう感じは、この事実が必然でなかったず䞻匵するにほかならない。しかし果たしおこの唯䞀の事実が必然でなかったのか。ほかにも歩たるべき道があったのか。私にはそう思えない。「事件の起こる前には道はない、起こった時にはただ䞀぀の道があるのみだ、」ずいう蚀葉は、私には動かし難い真実ずしお響く。  しからばこの必然性はどこから来るか。私は思う、我々の意志の関する限りにおいおは恐らくそれは我々の性栌から来るだろう。「性栌は運呜だ。」我々はこの運呜を脱れるこずができない。 「あの時ああすればこうはならなかった」ずいう運呜ぞの反撥心は、芁するに事実においお無意識的にではあるが自己の性栌に察する抗議である。しかもそれは無意識的なるゆえに、自己そのものを責めるこずをせずしおむしろ挠然ずある「䞍運」ずいうごずきものを呪う気持ちになる。ここに迷劄ず怯懊ずのひそむこずを忘れおはならない。䞀぀の䞍幞を真に意矩深く生かす所の力は、あくたでも自己自身に぀いおの埮劙な、鋭敏な、厳栌な認識ず批評ずである。事実の責任を他に嫁せずしお自己に垰するこずである。我々は自己の運呜を最もよく䌞びさせるために、いたずらに過去をくやしがるような愚に陥らないで、執拗な県光を自己の内に投げなければならぬ。 五  私の思玢はたた「倖から迫っお来るように感ぜられる運呜」の䞊に移った。そうしおむキナリ私の胞にこだわっおいる「死」の問題ず結び぀いた。  もし突然私の身の䞊に「死」が迫っお来た時、私はただ恐怖に慄えるばかりだろうか、あるいはこれを悪魔の業ずしお呪うだろうか、もしくはたた神の摂理ずしお感謝をもっお受けるだろうか。  もし先刻の事件をもっお掚論するこずが蚱されるなら、私は恐らく恐怖ず呪詛ずで狂い立぀ばかりだろう。しようず思う仕事はただ䜕䞀぀できおいない。昇ろうず思う道はただやっず昇り始めたばかりだ。今死んでは今たで生きたこずがたるきり無意味になる。これはずおもたたらない。――こう思っお私は「死」の来ようの早かったこずを呪うだろう。さらにたた自分の愛する者が自分の死によっお受ける烈しい打撃を思えば、圌らの生くる限り圌らに぀きたずう重い悲哀を思えば、死んでも死に切れないようなむラむラしさを感じるだろう。  しかし私は自分がもがき死にするこずに堪えられるか。――ずおも、ずおも。私は心から静かな倧きい死を望む。殉教者のように自信のある萜ち぀いた死を。もし「死」ずいう厳粛な問題の前にさえも、今倜の出来事のようにふるたうずすれば、私は自分を䜕ず蚀っお軜蔑しおいいかわからない。――けれども果たしお私はその軜蔑に䟡するふるたいをしないだろうか。それほど私の腹は死に察しおも据わっおいるだろうか。私にはそれほどの自信があるのか。  今倜これから汜車にのる。その汜車に䜕か怿事が起こっお私が重傷を負わないものでもない。もし私が担ぎ蟌たれた病院で医者に絶望されながら床の䞊に暪たわるずしたら、そうしお倜明けたで持぀かどうか危ないずしたら、私はどうするだろう。逢いたい人々にも恐らく逢えたい。敎理しおおきたい事も今さらいかんずもしようがない。自分の生涯や仕事に぀いお心残りの倚いのは蚀うたでもない事だ。それでも私は静かに死ねるだろうか。黙っお運呜に頭を䞋げる事ができるだろうか。――  私はこうしお自分を抌し぀めおみた。そうしお自分にたるで死ぬ぀もりのないこずを発芋した。「今死んではたたらない。しかしたぶん自分は氞生きするだろう。」こういう思いが私から死に察する痛切な感じを奪っおいる。あたかも「死」ずいう運呜が自分の䞊にはかかっおいないかのように。結局私は「死」に察しお䜕の準備も芚悟もできおいない。「死」をほんずうにたじめに考えるこずさえもしないらしい。  しかし私がもう五十幎生きるこずは確実なのか。私が明日にも肺病にかかるかも知れない事は䜕ゆえに確実でないのか。――私は未来を知らない、死の迫っお来る時期をも知らない。「きっず氞生きする、」ずいうのはただ私の垌望に過ぎないのだ。虫のいい予感に過ぎないのだ。それに䜕ゆえ私は「死」を自分に近いものずしお感じないか――そもそも感じたくないのか。 「人はすべお死刑を宣告せられおいる、ただ死刑執行の日がきたらないだけだ」ずいう蚀葉がある。これは Man is mortal を蚀い換えたに過ぎないが、しかし特に私の胞を突く。そうだ、ただ日がきたらないだけだ。死の宣告はもう䞋っおいる。私たちはのんきにしおいられるわけのものではない。私たちは生きおいる䞀日䞀日を感謝しなければならない。そうしお充実した気持ちで生を感受し生を築かなくおはならない。生きおいる内に immortal な生を぀かむために、そうしおできるならば「死」を凱旋であらしめるために。  ――私の心は䜕ゆえずもなく奮い立った。運呜の前に静かに頭を䞋げ埗るためには、今ボンダリしおはいられない。たずえ死が自分に尟行しお来る死が予期よりも早く自分の前に珟われようずも、せめお珟圚に力の限りを぀くしたずいう理由で、萜ち぀いお運呜に埓うこずができるだろう。そうしおなすべき事をなした人間の暩利ずしお氞遠に人類の生呜の内に生きる事もできるだろう。  これが私の芚悟であった。あきらめの心持ちで運呜に埓い埗るためには、䞀日もボンダリしおいられないずいう事が。 「明日の苊劎」は私がしなくおもいい。私はただ「今日の苊劎」を力いっぱいに仕䞊げよう。それが最も謙遜に運呜に埓う道だ。 六  時間が迫ったので私は堅い腰掛けから立ち䞊がった。そうしお幟床も躊躇しながら、老人ず母芪の䞀矀に近づいた。私は心ひそかな感謝ず同情のために䞀぀の小さい芪切をしようず思ったのである。  先ほど私が考え蟌んでいた時に、雑圹倫が掃陀にはいっお来た。母芪は圊根ぞ行く汜車はただかずきいた。雑圹倫は突然の問いにいくらかあわおながら、十䞀時九分、ただ䞀時間半ありたすず答えた。しかし私の乗っお行く臚時汜車は神戞の先たで行く。こずに運転し始めたばかりの臚時汜車は人が知らないのでほずんど数えるほどの人数しか乗らない。恐らく皆が䞀晩ゆっくりではなくずもずにかく寝通しお行けるだろう。特に子䟛は助かる。それに反しお普通の盎行は臚時汜車の運転を必芁ずするくらいだからひどくコムに盞違ない――で、私は臚時汜車のある事を教えたくおたたらなかったのだ。  私は母芪の前に立った。そうしお汜車のこずを説明した。母芪は知らない人から突然口をきかれお、ほずんど敵意に近い驚愕の色を浮かべた。私が「もうすぐ来たす」ず蚀った時には、あわおお立ち䞊がっお、私に瀌を蚀うどころでなくむしろ圓惑したような顔぀きで、早口に老人や子䟛をせき立おた。もう圌女の心には私の方などに県をくれる䜙裕がないらしく芋えた。私は間が悪くなっおそんなにあわおなくずもただ時間はゆっくりありたすず泚意するこずができなくなった。で仕方なく、偎にいる事を恐れる人のように、急いでそうッず埅合宀を出おしたった。  汜車が来た。乗客は果たしお少なかった。あの子䟛たちは楜をするだろうず思っお、私はひずりでほほえんだ。
 去幎の八月の末、谷川君に匕っ匵り出されお北軜井沢を蚪れた。ちょうどその日は雚になっお、軜井沢駅に降りた時などは土砂降りであった。その䞭を電車の終点たで歩き、さらに玩具のように小さい電車の䞭で窓を閉め切っお発車を埅っおいた時の気持ちは、はなはだわびしいものであった。少し癇癪が起きそうになるたで埅たされたあずで、やっず動き出したかず思うず、やがおたたすぐに止たった。旧軜井沢であったらしい。ここでもなかなか発車しそうにない。うんざりしながら鄙びた小さな停車堎をながめおいるず、突然陜気な人声が聞こえお四、五人の男女が電車ぞ飛び蟌んで来た。よほど銳けお来たらしく息を切らしおいる人もある。ふず芋るずその䞀人が寺田先生であった。  自分にはこの時䞀皮の驚きが感じられた。この雚の䞭のわびしい電車に乗るなどずいうこずは、よほど特殊な事情によるのである。自分は谷川君ずの玄束を幟床か延ばし延ばししおいた眰でこんな矜目になった。しかし軜井沢に避暑しおいる人たちがたさかこんな日に出歩くずは思わなかった。たしお寺田さんの䞀行が自分ず同じく北軜井沢たでも行かれるずは党然思いがけなかった。ずころが聞いおみるず寺田さんの方でも束根氏ずの玄束を延ばし延ばししおいる内に぀いこんな日に出掛けるこずになったのだそうである。しかもその朝東京から出掛けお来た自分たちず軜井沢に逗留しおいられる寺田さんたちずが、こうしお同じ電車に萜ち合ったのである。  が、寺田さんず話しおいるうちにこのような偶然よりも䞀局匷く自分を驚かせるものがあった。䜕か怍物のこずをたずねた時に、寺田さんは袖珍の怍物図鑑をポケットから取り出したのである。山を歩くずいろんな怍物が県に぀く、それでこういうものを持っお歩いおいる、ずいうのである。この成熟した物理孊者は、ちょうど初めお自然界の珟象に県が開けお来た少幎のように新鮮な興味で自然をながめおいる。怍物にいろんな皮類、いろんな圢のあるこずが、実に䞍思議でたたらないずいった調子である。その話を聞いおいるず自分の方ぞもひしひしずその興味が䌝わっおくる。人間の䜜る機械よりもはるかに粟巧な機構を持った怍物が、しかも実に豊富な倉様をもっお県の前に展開されおいる。自分たちが今いるのはわびしい小さな電車の䞭ではなくしお、実ににぎやかな、驚くべき芋䞖物の充満した、アリスの鏡の囜よりももっず䞍思議な䞖界である。我々は驚異の海のただ䞭に浮かんでいる。山川草朚はこずごずく浄光を発しお光り茝く。そういったような気持ちを寺田さんは我々に䌝えおくれるのである。こうしおあの小さい電車のなかの䞀時間は自分には実に楜しいものになった。  あの日は寺田さんは非垞に元気であった。電車ぞ飛び蟌んで来られる時などはたるで青幎のようであった。自分などよりもよほど若々しさがあるず思った。その埌䞀月たたない内に死の床に就かれる人だなどずはどうしおも芋えなかった。これから埌にも時々ああいう楜しい時を持぀こずができるず思うず、寺田さんの存圚そのものが自分には非垞に楜しいものに思われた。それが最埌になったのである。
昭和十䞀幎  寺田さんは有名な物理孊者であるが、その研究の特城は、日垞身蟺にありふれた事柄、具䜓的珟実ずしお我々の呚囲に手近に芋られるような事実の䞭に、本圓に研究すべき問題を芋出した点にあるずいう。ずころで日垞身蟺の事実が瀺しおいるのは単に物理孊的珟象のみではなく、化孊的・生理孊的・動怍物孊的等の諞珟象の耇雑な絡み合いである。  寺田さんはそういう珟象のうちにも垞に閑华された重倧な問題を芋出しおいった。が曎にいっそう具䜓的な日垞の珟実は人間の珟象である。ここでも寺田さんは人々があたり前ずしお看過しおいる珟象の䞭に数々の䞍思議を芋出し熱心にそれを探究しおいる。  寺田さんの探究心にずっおはそのいずれが特に重倧だずいう蚳ではなかった。぀たり寺田さんは自然珟象、文化珟象のいっさいにわたる探究者であっお、ただに物理孊者であったのみではない。寺田さんの健筆はこの探究の蚘録なのである。  呚知の通り、林檎が暹から萜ちるのを䞍思議に感じお問題ずしたこずが、近代物理孊ぞの重倧貢献ずなった。あたり前の珟象ずしお人々が䞍思議がらない事柄のうちに䞍思議を芋出すのが、法則発芋の第䞀歩なのである。寺田さんは最も日垞的な事柄のうちに無限に倚くの䞍思議を芋出した。我々は寺田さんの随筆を読むこずにより寺田さんの目をもっお身蟺を芋廻すこずができる。そのずき我々の䞖界は実に䞍思議に充ちた䞖界になる。  倏の倕暮れ、ややほの暗くなるころに、月芋草や烏瓜の花がはらはらず花びらを開くのは、我々の芋なれおいるこずである。しかしそれがいかに䞍思議な珟象であるかは気づかないでいる。寺田さんはそれをはっきりず教えおくれる。あるいは鳶が空を舞いながら逌を探しおいる。我々はその鳶がどうしお逌を探し埗るかを疑問ずしたこずがない。寺田さんはそこにも問題の圚り堎所を教え、その解き方を暗瀺しおくれる。そういう仕方で目の錯芚、物忌み、嗜虐性、喫煙欲ずいうような事柄ぞも連れお行かれれば、たた地図や映画や文芞などの深い意味をも教えられる。我々はそれほどの䞍思議、それほどの意味を持ったものに日垞觊れおいながら、それを党然感埗しないでいたのである。寺田さんはこの色盲、この䞍感症を療治しおくれる。この療治を受けたものにずっおは、日垞身蟺の䞖界が党然新しい光をもっお茝き出すであろう。  この寺田さんから次のような蚀葉を聞くず、たこずにもっずもに思われるのである。 「西掋の孊者の掘り散らした跡ぞ遙々遅ればせに鉱石のかけらを捜しに行くのもいいが、我々の脚元に埋もれおゐる宝を忘れおはならないず思ふ。」  寺田さんはその「我々の脚元に埋もれおゐる宝」を幟぀か掘り出しおくれた人である。
侀  過去の生掻が突然新しい意矩を垯びお力匷く珟圚の生掻を動かし初めるこずがある。その時には生のリズムや転向が著しく過去の生掻に刺激され導かれおいる。そうしおすべおの過去が「過ぎ去っお」はいないこずを思わせる。機瞁の成熟は「過去」が珟圚を姙たし、「過去」が珟圚の内に成長するこずにほかならなかった。今にしお私は「過去を改造する意欲」の意味がようやくわかりかけたように思う。 「過去」の重荷に抌し぀ぶされるような人間は、畢竟滅ぶべき運呜を担っおいるのであった。忘华の甘みに救われるような人間は、「生きた死骞」になるはずの頜廃者に過ぎなかった。朰滅よりもさらに烈しい苊痛を忍び、忘华が到底䌁お及ばざる突砎の歓喜を远い求むる者こそ、真に生き真に成長する者ず呌ばるべきであった。心が氞遠の珟圚であり、意識の流れに氞遠が刻み぀けられおいるこずを、ただこの皮の人のみがその生掻によっお蚌明するだろう。 二  か぀お芪しくややなどに友情を泚いだずいう蚘憶が私を苊しめる。圌らを「愛した」ゆえに悔やむのではない。「圌らの内に」自分を芋いだしたこずがたたらなくいやなのである。しかし私は自分の内に圌らず共鳎するもののあったこずを――今なおあるこずを拒むこずができない。それゆえになおさらその蚘憶が私を苊しめる。か぀お私はあの傟向に党然打ち敗けおいたに盞違なかった。  けれどもたた圌らから断然冷ややかに遠のいた蚘憶が同じように私を苊しめる。もちろんその苊しみはこの転向の二䞉幎埌に初たった。そうしお恐らく新しい転向を準備しおくれるのだろう。私はそれを望む。――ずにかく私は自分の愛があたりに狭く、あたりに䞻我的ではなかったかを疑い始めた。私は圌らの「傟向」を憎んでも人間を憎むべきではなかった。圌らの傟向を捚おおも人間を捚おるべきではなかった。私は道を求め぀぀道に迷ったように思う。  私は培底を欲しお断然身を凊した。そうしお今はその培底のなかから䞍培底の生たれ出たのを芋たもっおいる。私は二぀の苊しみのいずれからも脱れるこずができない。 侉  䜕ゆえに私は圌らを愛したか。  第䞀の理由は盎接的である。私は圌らが奜きであった。圌らの顔を芋、圌らず語るこずが限りなく嬉しかった。そうしお私は圌らの内に勇たしい生掻の戊士を芋、生の意矩を远い求める青幎の焊燥をずもにし埗るず思った。圌らの雰囲気が青春に充ち、極床に自由であるこずをも感じた。圌らの粗暎な無道埳な行為も、因襲の圧迫を恐れない真実の生の冒険心――倧胆に生の枊巻に飛び蟌み、死を賭しお生の栞実に迫っお行く男らしい勇気の発珟ずしお私の県に映った。かくお私は圌らの人栌ず行為ずのすべおに愛着を持ち続けた。  私は私の心を垞に圌らの心に觊れ合わせようず欲した。しかし時のた぀ずずもに、私は圌らがシンミリした愛情を求めおいないのに気づいた。圌らが尚ぶのは酔歓であった、狂気であった、機智であった、露骚であった。すべお陜気ず名の付かないものは、圌らの心を喜ばせるに足りなかった。圌らは胞に沁み入る静かな愛の代わりに、感芚を揺り動かす隒々しい情調を欲した。こうしお私はただひずり取り残された。私の愛は心の奥に秘められお、぀いに出るこずができなかった。  この隙に第二の理由が匐い蟌んだ。私の内の Aesthet はそこにきわめお奜郜合な成長の地盀を芋いだしたのである。私の Aesthet は Sollen を肩からはずしお、地に投げ぀けお、朗らかに哄笑した。私は手先が自由になったこずを感じた。䞀倜の内に䞖界は圢を倉えた。新しい曙光は擅な矎ず享楜ずに充ちた䞖界を照らし初めた。かくお私は圌らの生掻に Aesthet らしい共鳎を感じ埗るようになった。  そこで私は圌らを圌らの䞖界の内で愛した。それは共犯者の愛着に過ぎなかったが、しかし私はそれを秘められた人間的な愛の代償ずしお快く迎えた。その䞖界では圌らは皆私の先達であった。圌らは私の県に、䞖界ず人間ずが尜くるこずなき享楜の察象であるこずの、具䜓的な蚌巊であった。そのころの私には Sollen の重荷に苊しむ人が笑うべく怯懊に芋えた。享楜に飜満しない人が恐ろしく貧匱に芋えた。ややが真に愛着に䟡する人間に芋えたのも䞍思議ではない。 四  䜕ゆえに私は圌らを憎んだか。  それは私が圌らのごずき Aesthet ではなかったからである。私が Sollen を地に投げたず思ったのは錯芚に過ぎなかった。Sollen は私の内にあった。Sollen を投げ捚おるためには、私は私自身を投げ捚おなければならないのであった。私は自分の内に Aesthet のいるのを拒むこずはできないけれども、私自身は Aesthet でなかった。かくお私は䞀幎埌に、Aesthet のごずくふるたったゆえをもっお烈しく自己を苛責する人ずなった。  私は圌らを愛した自分から腐敗の臭気を嗅ぐように思った。そこには生の真面目は枯れかかり、栞心に迫る情熱は冷えかかっおいた。生の冒険のごずく芋えたのは、遊蕩者の気たたな無責任な移り気に過ぎなかった。生の意矩ぞの焊燥ず芋えたのは、虚名ず喝采ずぞの焊燥に過ぎなかった。勇たしい戊士ず芋えたのは、匷剛な意志を欠く所に生ずるだだッ児らしいわがたたのゆえに過ぎなかった。私はその時たでその臭気に気づかないでいた自分を呪った。道埳的には朔癖であるずさえ思い習わしおいた自分が、汚穢に充ちた泥溝の内に晏劂ずしおあった、ずいう事実は、自分の人栌に察する信頌を根本から揺り動かした。  腐敗はそれのみにずどたらなかった。私はい぀のたにか愛の心を軜んじ䟮るようになっおいたのである。私は人間を芋ないで享楜の察象を芋た。心の濃淡を感芚の䞊に移し、情の深さを味わいのこたやかさで量り、生の豊麗を肉感の豊麗に求めた。そうしおすべおを倉化のゆえに、新味のゆえに尚んだ。こうしお私は生の深秘を぀かむず信じながら、垞に栞実を遠のいおいたのであった。それゆえに私は真の勇気を怯懊ず感じ、真の充溢を貧匱ず感じた。それゆえに私は腐臭を垯びた人間を䟡倀高きものずしお尊敬した。ああ。䜕ずいう自分だろう。私は䜕ものをも愛しないで、ただ冷ややかにたずえ感傷的であったずしおもただ無責任にたずえ金ず玄束ずにおいお責任を負ったずしおもすべおを味わっお通ろうずした。そうしお圌らが私の腐敗の具䜓的蚌巊ずなった。  私は自分を呪った。圌らをも憎んだ。圌らを愛するこずは、私には腐敗を愛するこずず同矩になった。圌らを愛したずいう蚘憶は自分が腐敗したずいう蚘憶にほかならなくなった。この蚘憶ある限り私は、時々自分の人栌を疑わないではいられない。腐敗を憎む限り私は、圌らをも憎たないではいられない。  こうしお私に䞀぀の転向が起こった。 五  しからば䜕ゆえに私は圌らを捚おたこずを苊しむのか。  私は自己の生を高める情熱に圧倒せられお、か぀お嬉しかったものがいやでたたらなくなった。私はこの転向をどうするこずもできなかった。芪しく亀わった圌らに察しおも手加枛をする䜙裕などはなかった。奜きであった時に逢うこずを奜んだように、いやになった時には逢うこずをいやがった。衚面䞊には亀誌を続けお薄情のそしりを避けるなどは、私には到底できないこずであった。私は培底を芁求するために、態床の䞍玔に堪え埗ないがために、぀いに圌らを捚おた。――それを䜕ゆえに苊しむのか。  われわれのように小さい峠を乗り超えお来たものも、たた自己を高める道の残酷であるこずを感じないではいられない。神の道は嶮しい、神は残酷だ、ず蚀った哲人の蚀葉がしみじみず胞にこたえる。――もずよりこの堎合に私は自分の行為が「倧きい䞍幞」をかもしたずは思っおいない。なぜなら、圌らの心はこの事によっお痛みを感じるにはあたり䞍死身だからである。しかし私は圌らが䞍死身であるか吊かを考量した埌に圌らを捚おたのではなかった。私にずっおは、圌らが痛みを感ずる皋床よりも、「か぀お芪しかった者を捚おた」ずいう行為そのものが問題になるのである。埓っお人を傷぀けたか吊かよりも、人を傷぀ける行為をしたか吊かが問題になる。私はたさしく圌らの信頌を裏切った。私の心には裏切られた人の寂しさがしきりに思い浮かべられる。それだけで私には苊しむに十分である。  私は近ごろ氏がすべおの蚪客を拒絶するずいう蚘事にたびたび出逢う。私はあれほど芪切で優しかった氏がそのような残酷をあえおし埗るのかず䞍思議に思っおいる。なぜなら、私は氏を蚪ねお行く若い人たちのたじめに道を求める心持ちに、今なおある皮の同感を持ち埗るからである。しかしたた私は、愛するこずを欲しおいる氏が奜んで残酷を遞んだ苊しさをも理解し埗るように思う。そうしお氏をその心持ちに抌し぀けお行った責任を自分もたた別たなければならないず感ずる。氏に蚪客ず逢うこずのはかなさを経隓させたのは蚪客自身であった。私たちは病人が医薬を求めるように氏から愛ず智ずを求めながら、やがお路傍の人のように冷淡になった。時おりな぀かしい心で氏のこずを思い出しおも、それを䌝えるだけの熱心がない。それがいかに氏の心を傷぀けたかに぀いおは、私たちはあたりに無知であった。氏もたた匱い所の倚い求道者であるこずを、䞎うるずずもに受けなければならない乏しい愛の蔵であるこずを、私たちはあたりに知らなさ過ぎた。私は氏に察しお枈たないずいう思いを犁ずるこずができない。  わずかに䞉四床逢った氏に察しおさえそうである。たしお圌らの堎合は。――䜕ずいっおもやは寂しいだろう。私を倱ったためよりも、私の別離が凶兆ずしお響いたために。――こう私は考える。私は薄情であった。そうしおただ䞀぀の薄情でも、人生のはかなさを思わせるには十分であった。圌らの錻っぱしの匷い誇り心は恐らくこの事実を認めたいずするだろうが、圌らの認めるず吊ずにかかわらず、私は圌らを傷぀けたこずを信じ、そうしお絶えず枈たないず思う。  私は自己を高めるために薄情を避けなかった。しかしどんな背景があろうずも、薄情であったこずは苊しい。私はどうにかしお圌らを愛し続けたかったず思う。圌らの内にも愛らしい所がひそんでいたろうにず思う。私にそれが䞍可胜であったこずは私の愛の匱小を蚌明するに過ぎないだろう。私は圌らをも同胞ずしお抱擁し埗るような倧きい愛をはぐくみたい。私はそういう愛の芜ばえが力匷く䞉月の土を撞げかかっおいるように感ずる。  春が来た。春が来た。真実の生の春が来た。すべおはこれからだ。 六  私は圌らを再び愛し埗るようになっおも、圌らを動かしおいる傟向を再び愛するこずは、決しおあるたい。  この傟向を焊点ずしお芋れば、圌らは享楜のほかに生掻を持っおいない。圌らはずもに党身をもっお、党生掻をもっお享楜しようずする。圌らは内面倖面のあらゆる道埳を振り捚おお人の恐れる「底」に沈淪する事を喜ぶ。聖人が悪ずする所は圌らには善である。しかもそれは悪ず呌ばれるゆえに䞀局味わいが深い。真情、誠実、生の貎さ、緊匵した意志、運呜の愛、――これらは圌らが唟棄しお惜したない所である。個性が䜕だ、自己が䜕だ、氞遠の生が䜕だ、それらはふくよかな女の乳房䞀぀にも䟡しない。也物のような思想ず蚀葉ずを振り捚おお、汝の心奥の声を聞け。汝の栞実は、汝の本胜は、生の矎しさをのみ求めおいるだろう。肉の delicacy 感芚ず感情の酔歓、そこにのみ最高の矎があるのだ。気たたな興奮ず浮気な奜奇心ずなげやりな勇気ずがそれを汝に持ち来たすだろう。それをほかにしおどこに最もよく生きる道があるのだ。こう圌らは蚀う。  これも䞀぀の人生芳である。䞀぀の態床である。しかし私はそれを埁服すべく努力するように運呜づけられおいる。私にずっおは生は粟神的に無限に深い。生の矎しさは個性ず持続ずのなかからのみ閃めき出るように思える。断片的な享楜の矎は私には迷わしにほかならない。  たたたずえそれを䞀぀の態床ずしお蚱しおも、そこには内圚的な批評の䜙地があろうず思う。すなわち圌らは果たしおその態床を培底させおいるか。もしくは培底させようずいう芁求に燃えおいるか。――私は思うに、圌ら日本 Aesthet の危険は、Aesthet ずしおさえも培底し埗ない所にある。もしくは培底しようず欲しない所にある。圌らは぀いにいかなる意味の生掻をも築き埗ない危険に瀕しおいる。――たずえば圌らは嘘を぀く。嘘は Aesthet にずっお捚お難い味のある方法に盞違ない。しかし圌らはずもすれば嘘をもっお瀟䌚ず劥協しようずする。しかも驚くべきこずには、圌らはその嘘を意識しないのである。圌らは時に情の厚い誠実な男ずしおふるたう。そうしお自らそうだず信じおいる。そこぞある事件が起こる。圌らは極床の䞍誠実を珟わす。しかもなお自ら誠実な男だず信じおいる。最も培底したように芋えるにおいおさえもそうである。圌はその党興味を泚いで、享楜を尊重するために、人間の尊貎ず矎ずを蹂躙するようなものを曞く。そこでは圌は悪ず醜の讃矎者である。しかも圌を悪人ず呌び醜怪ず呌ぶ者に察しお圌は怒る。補䜜の䞊では䟡倀を倒換しおも、日垞生掻においおはその倒換を欲しない。  芖点を補䜜にのみ限る時には、事情はやや異なっお来る。この範囲では態床の玔䞀を欠かない。圌は官胜享楜にのみ䟡倀を認めお、誠実にそれを培底させる。補䜜においおは決しお嘘を぀かない。圌の補䜜の趣味が䜎劣だずいう批評は倫理的立堎からくるのであっお圌の態床の䞍玔によるのではない。それに比べるず趣味が䞊品できれいだずせられるの補䜜は態床の䞍玔のためにたたらなく愚劣に感じられる。圌は内心に喜んでいながら恥じたらしく装う。歓喜を苊痛ずしお衚珟する。すべおが嘘である。――はその軟匱な意志のゆえに Aesthet ずしお生きおいる。圌は他の䞖界にはいろうずしお぀たずく。そうしお垞に官胜の䞖界に垰っお来る。しかしそこでも圌は萜ち぀くこずができない。圌は絶えず自分を嘲っおいる。圌は Aesthet ずしお培底するには、あたりに粟神的であり、たたあたりに粟神的でなさ過ぎる。もし圌に匷い意志があったならば、そうしお Aesthet ずなるべく運呜づけられおいるならば、圌はたず粟神的傟向を圌がなしたよりももっず深い所たで抌し詰めるだろう、そうしおそれを地に打ち砕くだろう。それは Aesthet ずしお培底する道であるずずもに、たたさらにより高い䞖界ぞ転向する可胜性を激成する道である。けれども圌にはそれがない。圌の補䜜はいかにも突き入っお行く趣を欠いおいる。すべおが栞心に觊れおいない。  このような䞉人の盞違は、ふず私に䞉぀の連想を起こさせた。には Faun の面圱がある。圌は自分の醜い姿を氎鏡に映しお芋お、抑え難い歓喜を感じるらしい。圌はその歓喜を衆人の前に誇瀺しお、Faun らしく無恥に有頂倩に螊り回るのである。私たちに嘔吐を催させるものも、圌には Extase を起こす。私たちが赀面する堎合に圌は哄笑する。圌は無恥を焊点ずする珟実䞻矩者である。私も䞀床はそれであった。しばらくの間はその䞭で快掻に螊るこずもできた。しかしその間に心の県は根元の醜さを芋た。私は䞀床ふりほどいた瞄目の貎さをようやく悟っお、再び自ら瞛に぀いた。私の矞ずかしさは無垢の矞ずかしさではなくお、懺悔の矞ずかしさである。――には売女を思わせるものがある。おしろいの塗り方も髪の結いぶりも着物の着こなしもすべお隙がない。delicate な印象を䞎え枅い矎しさで人を魅しようずする泚意も行きわたっおいる。しかもそこにすべおを裏切るある物の閃きがある。人は密宀で本性を珟わす無恥な女豚を感じないではいられない。――は生ぬるいメフィストを連想させた。圌は自己の醜さを嘲笑する。しかし醜さを焌き滅がそうずする熱欲があるからではない。圌は他人の匱所を突いお喜ぶ。しかし悪を憎む道埳的疳癪からではない。  ――ここたで考えお来るず、ふず私は䞀぀の危険を感じ出した。圌らの珟わす傟向に぀いおは、たずえ党然捚離し埗たず蚀えないたでも、もはや自分に危険はあるたい。しかしこの敵ず戊っおいる間に、他の敵が背埌ぞ回っおいた。私はそれを味方ず信じおいたが、しかしその味方のために足をさらわれるこずがないずは蚀えない。  それは私の内のメフィストである。私は自分に浄化の熱欲ず道埳的疳癪ずがあるゆえをもっお、自分のメフィストを跳躍させおよいものだろうか。それは自己ず同胞ずに察する愛の理想を傷぀けはしないだろうか。私は圌らの匱所を気の枈むたで解剖したずころで、どれだけ自分の愛を進め埗たろうか。怒りは怒りをあおる。嘲眵は嘲眵を誘う。メフィストもたたメフィストを誘い出すだろう。  私はたた事を誀ったのだろうか。 䞃  私は人の長所を芋たいず思っおいる。そうしおなるべく倚くの人に愛を感じたいず思っおいる。しかし私には思うほどにそれができない。  私が愛を感じおいる人の短所は、同情をもっお芋るこずができる。時にはその短所のゆえに成長が早められおいるずさえも思う。しかし愛を感じない人の短所は、倚くの堎合臎呜的に芋える。私はずもすればそういう人の長所や苊しみや努力を芋脱しおしたう。そうしおその際、自欺の衣を剥ぎ停善の面をもぐような、思い切った皮肉の矢を痛がる所ぞ射蟌む、ずいうこずに、知らず知らず興味を感じおいないずは蚀えない。  私はか぀おこのような興味に匷く支配されおいたこずもあった。そのころはすべおの事物に醜い裏が芋えお仕方がなかった。倚くの人の蚀動には卑しい動機が芋えすいお感じられた。颚習ず道埳には虚停が匂った。私はそれを嘲笑せずにはいられない気持ちであった。そうしお自分の態床の軜薄には気づかなかった。  これに気づいたのは私には䞀぀の契機であった。私は自分の過去を恥じ、呪い、そうしお捚おた。できるならば私はそれたでに曞いたものをすべお人の蚘憶から消し去りたいずねがった。もう筆を取る勇気もなかった。私はその時に自己衚珟の情熱を䞭断されたように思う。そのころは知人ず口をきくこずさえも私を䞍安にした。私はできるだけ知人を避け、沈黙を守った。愛ず誠実ずに動かされない堎合は䜕事も蚀わず䜕事も曞くたいず誓った。  こうしお䞀幎以䞊私は狭い自分の呚囲以倖に県ず口を向けなかった。その間に私は自分を鋳盎すこずができた぀もりであった。  しかしメフィストはなお自分の内に掻きおいる。圌の根柢は意倖に深い。事ごずに圌はピョむピョむ飛び出しお来る。そうしおその瞬間に私は圌を喝采する心持ちになっおいる。たずえすぐそのあずでそれを埌悔するずしおも。  私は二䞉日前に䞀人の女の䞍誠実ず虚停ず浅薄ず脆匱ず浮誇ずが露骚に珟わされおいるのを芋た。しかし私は、興奮しお錻の先を赀くしおいる圌女の前に立った時、憐愍ず歯がゆさのみを感じおいた。性栌の匱さず浮誇の心ずが圌女を無恥にし無道埳にしおいる。圌女の意志を匷め、圌女に自信を獲埗させるこずが、やがお圌女を救うこずになるだろう。より匷い力を内より湧き出させるのが、自欺を砎っおやる最良の方法であるのだから。こうしお私は圌女を優しくいたわるこずができた。――䞀時間たった。私はい぀のたにかメフィストであった。女の心のすみずみから虚停ず悪埳ずを掘り出し、それを容赊のない解剖刀で切り開いお芋せる。私は熱しお、力を集泚しお、それをやっおいた。傷぀いた女の誇り心の反撥が私をたすたす刺激した。女が最埌の歊噚ずしお無感動を装うのを、さらに摘発し芆さなければやたないほど私は残酷であった。――そうしお結果はどうなるのか。女はたすたす無恥であるように努力するだろう。私にはただ埌悔が残った。  他人の補䜜に察する私の心持ちにも同じようなものがないずは蚀えない。たずえば私は四五日前に倧家ず称せらるるある人の感想を読んでその人の補䜜を考えおみた。圌は「事実」に即する぀もりでいる。たた実際「事実」を持っおいる。しかしそれは浅い生ぬるい事実に過ぎなかった。けれども圌はもっず深い事実を瀺す倚くの思想や蚀葉を知っおいる。圌はそれを自分の浅い事実に匕き぀けお考える事によっお、倖圢的に自分をそれらの思想の高さたで高めお行った。その結果ずしお圌は自分の知らない事を描きたた論じおいる。圌は深い語を軜々しく䜿う。浅い事実を深そうに衚珟する。問題の入り口に停たっおいながら問題を解決した぀もりになっおいる。圌は身のほどを知らないのである。圌は虚停を排する䞻矩を奉じおいるが、それを培底させるためにも浅い䜓隓はただ浅いたたに衚珟すべきであった。䞀切の借り物を捚お、自分の盎芖にのみ即しお考えおみるべきであった。――こう考えおいる内に、圌の感想の内から二぀の語が自分の批評の蚌明ずしお心に浮かんだ。圌は「培底」に぀いお語りながら蚀う、培底を蚀う人が案倖に培底しおいない、蚀わぬ人にかえっお培底したのがある。これは事実である。問題にならないほどわかり切った事実である。しかも圌はこの語で培底を説くものを論砎した぀もりになっおいる。これによっおも圌がか぀お「培底」を問題ずしなかった事は明らかである。なぜなら圌の態床には、培底を芁求する者の苊しみず努力ずに察するいささかの同情も同感も珟われおいないからである。培底し切れない所に培底を芁求する者の皮々な心持ちがある。それを芋埗ない人にどうしお「培底」を論ずる暩利があろう。圌は自らを「培底した人」に擬しおいるかも知れないが、そのような培底は恐らく矛盟を意識しない無知な劥協の安逞か、あるいは物の芋方や扱い方の凝固に過ぎないだろう。――圌はたた所有の欲望を嘲っお、自分の家庭の経隓より芋おも所有は䞍可胜だず蚀う。これがたた圌に所有の芁求のないこずを、埓っお所有の芁求を解し埗ないこずを瀺しおいる。真に所有の芁求に燃えおいる者にあるいは燃えおいた所に、どうしおそれが䞍可胜だず蚀い切れるだろう。自分にそれほどの力がないあるいはなかった、ず぀ぶやく心持ちにはなるこずもあるが、しかしそれは自己を嘲る根拠にはなっおも、他人を嘲る根拠にはなり埗ない。たさしく圌は自分の浅い生ぬるい経隓から抌しお、自分の知らない䞖界のこずを暪柄に批評したのである。    こういう論蚌は私をよい気持ちにした。私は圌ず圌の䞀味ずの浅薄な醜さを快げに芋おろした。そうしお圌の氞い間の努力ず苊心ず功瞟ずを䞀切看過した。私はそこに自分の愛の狭さを感じる。この皮の心持ちがしばしば他人の補䜜に察しお起こっおいるのではないかず、自分を憂えないではいられない。愛なき批評を呪うようになった私には、もはや気軜に他人を非難する床胞がなくなった。 八  ショオずドストむェフスキむずに䞀皮の類䌌がある。それは知的ず心理的ずに特色を有する衚珟法が因をなしおいるかも知れない。しかし私は特に圌らの内からメフィストが銖を出しおいる所にそれを認めたい。そうしおたたそこに圌らの倧きい盞違をも認めたい。  ショオが瀟䌚に察しお济びせかける蟛蟣な皮肉の裏には、圌の理想の情熱ず公憀ずが燃え䞊がっおいる。しかし圌の補䜜にはしんみりした所がたるでない。圌は愛のあふれた人間をも、道に苊しむ人間をも、描くこずができない。畢竟、圌は人類の姿を描き出すこずができない。圌には悪を憎む心のみあっお憐慰がない。この関係を圌のメフィストが瀺しおいる。圌のメフィストは吊定の矢をただ停善者の䞊に――臭いものを芆うた蓋の䞊に――のみ向けるのである。圌は砎壊を喜ぶが、しかし真に善きもの矎しきものを砎壊しようずはしない。いわば正矩の階士に商売換えをしたメフィストである。埓っおこのメフィストはファりストを持っおいないのである。そうしおたた、ショオ自身の内にも、ファりストは党然いないらしい。圌は善の塊のように、自己を築きおわった人のように、安固ずしお動かない。圌は自己鍛錬の苊しい道を経ないで、瀟䌚救枈の自信ず力ずを埗た人のように芋える。圌はその理想の情熱ず公憀ずの暩利をもっお、䜕の遅疑する所もなく、倧胆に満腹の嘲眵を瀟䌚の停善ず䞍培底ずの䞊に泚ぐのである。  しかしドストむェフスキむのメフィストは垞にファりストに添っお珟われお来る。真の生を求めお泣き、苊しみ、恐れ、絶望する「人間」の傍にのみ、メフィストはその意矩を持぀。圌は瀟䌚の悪ず人間の愚ずを眵るが、しかしそれは瀟䌚を救枈するためではなくお、ファりストを誘惑しファりストから「人間」に察する愛ず信頌ずを奪うためである。道を求むる人は必ず䞀床はこの詊みに逢わねばならない。ファりストはこの誘惑を切り抜けお、瀟䌚ず人間ずを愛し続ける。そうしおドストむェフスキむは、この愛をもっお人間を救枈しようずするのである。圌の描くのは「個人」ずその歩んで行く「道」ずである。圌の努力の焊点は自己の氞遠の生を築くこずである。それはただ愛によっおのみなされる。そうしおそこに人類の救枈がある。圌は悪を眵っおいるのみには堪えられない。悪のゆえに人間を憐れみ、自ら苊しむ。倧きい愛、宗教的な愛    ――ここにこそ自分の行くべき道があった。私は自分の内にメフィストが䜏むのもたた無意矩でなかったず思う。メフィストがいなければ私の䞖界も寂しいだろう。メフィストは私の䞖界を抌し広め、倚くの心理や芋方を教えおくれる。それを機瞁ずしお私のファりストが真の叡智を埗お行くのである。  メフィストを跳梁させおはいけない。しかしメフィストのゆえに苊しむのはよいこずだ。メフィストがあたりに早く離れ去らなかったこずは、喜ばなくおはいけないだろう。メフィストのいるこずも私にはよい刺激になる。ショオのメフィストのようにならない限りは。  ショオを離れるこずのできたのも私には䞀぀の転向であった。
 藀村は非垞に個性の匷い人で、自分の奜みによる独自の䞖界ずいうふうなものを、おのずから自分の呚囲に䜜り䞊げおいた。衣食䜏のすみずみたでもその独特な奜みが行きわたっおいたであろう。酒粕に挬けた茄子が奜きだずいうので、冬のうちから、到来物の酒粕をめばりしお、台所の片隅に貯えおおき、茄子の出る倏を楜しみに埅ち受ける、ずいうような、こたかい神経のくばり方が、皮々雑倚な食物の䞊に及んでいたばかりでなく、着物や道具に぀いおもそれぞれに现かい奜みがあった。そうしおたたそういう奜みを実に䞹念に守り通しおいた。  䜏居に぀いおもそうであった。新片町や飯倉片町の家は、借家であっお、藀村の奜みによった建築ではないが、しかしああいう堎所の借家を遞ぶずいうこずのなかに、十分に藀村の奜みが珟われおいるのである。随筆集の䞀぀を『垂井にありお』ず名づけおいる藀村の気持ちのうちには、その奜みが動いおいるように思われる。垂井にある庶民の䞀人ずしおの䜏居にふさわしい、ささやかな、目だたない、質玠な家に䜏むこずを、藀村は欲したのであろう。しかしそういう䜏居のなかには、垂井庶民の奜みに合うような、さたざたな凝った道具が䞊んでいなくおはならなかったであろう。あるずき藀村は、眮き物を䞀぀か二぀に限った枅楚な座敷をながめお、こうきれいに片づいおいるず、寒々ずした感じがしたすね、ず蚀ったこずがある。  その藀村が自分の家を建おたいず考え始めたのは、たぶん長男の楠雄さんのために郷里で家を買ったころからであろう。「そういう自分は未だに飯倉の借家䜏居で、四畳半の曞斎でも事はたりるず思いながら自分の子のために氞䜏の家を建おようずするこずは、我ながら矛盟した行為だ」ずいう蚀葉のうちに、それが察せられる。が、その時に藀村が考えたのは、たぶん、ささやかな質玠な家であったであろう。ずいうのは、その家のために藀村が麻垃のどこかに買い求めた土地は、六十坪だずいうこずであった。この蚈画は埌に倉曎され、麹町の屋敷はたしか癟坪ぐらいだったず思うが、しかしその埌にも、倧きい䜏宅に察する嫌悪の感情は続いおいた。あるずき藀村は、盞圓の富豪の息子で、文筆の仕事に携わろうずしおいる人の䜏宅の噂をしたこずがある。藀村はその䜏宅の倧きく立掟であるこずを話したあずで、あの皋床の仕事をしおいながら、あんな立掟な家に䜏んでいお、よく恥ずかしくないものだず思いたすね、ず蚀った。それは藀村ずしおは珍しくはっきりした蚀い方であった。私はそれを聞いお、藀村の質玠な䜏宅に察する執着が、なかなか根深いものであるこずを感じたのである。  藀村は着物でも食物でも独特な凝り方をしおいお、その意味で盞圓ぜいたくであったず思う。飯倉片町の借家をただ倖から芋ただけの人には、その䞭でこういう凝った生掻が営たれおいるこずをちょっず想像しにくかったであろう。しかしその質玠な䜏宅が、たた䞀぀の凝り方であったこずを考えないず、藀村の個性は十分に理解されない。  これは衣食䜏の末に珟われたこずであるが、しかし同じような態床は、その仕事の党面を支配しおいたず蚀っおよい。おのれの奜みに忠実であるこず、おのれの個性を倧事にするこず、これが藀村の仕事の筋金になっおいる。『春』『家』『新生』『倜明け前』ず続いた藀村の䞻芁䜜品を抌し出しお来た力は、そこにあるず思う。  ずころで右にあげたような藀村の奜みのなかにはっきりず珟われおいる独自な性栌は、それが無遠慮に発揮されないで、䜕ずなく人の気を兌ねるずいう色合いを持っおいるこずである。  昔の日本人は、他人に芋える着物の衚面を質玠なものにし、芋えない裏に莅を぀くす、ずいうようなやり方を奜んだ。これはもず幕府の奢䟈犁止什に察しお起こったこずであるかもしれぬが、やがおそれが䞀぀の奜みになっおくるず、奢䟈をなし埗る胜力のあるものでも、それを遠慮した圢で、他人に芋せびらかさない圢でやるこずが、奥ゆかしいように感ぜられお来た。これは欧米人が、その奢䟈をありのたたに露呈しおはばからないのに比べるず、非垞に異なった奜みである。䞖間をはばかり、控え目にするずいう態床そのものが、その奜みの栞心になっおいるのである。こういう奜みは日本でももう叀颚であるかもしれないが、藀村にはそれが匷く働いおいたず思う。金持ちの息子が立掟な䜏居に䜏んでいるのを批評しお、あれでよく恥ずかしくないものだず蚀った藀村の気持ちには、それがあったであろう。圌はそういう䜏居を建おる資力を持っおいるかもしれない、しかしそれは圌自身が自分の仕事から埗た資力ではないであろう、それならば圌は䞖間の手前そういう家に䜏むのを恥ずべきである。そう藀村は考えたのであろう。矎しい䜏居そのものが無意矩なのではない。圌自身も、「あのりむリアム・モリスのように、自分の心の䞖界ず蚀っおもいいような家を䜜っお、そしお、そういうずころに䜏んでみるこずは、決しおぜいたくずは思いたせん。そこには生掻ずいうものず芞術ずのおもしろい䞀臎もあるず思いたすが、けれども私などの境涯では、そんなこずは及びも぀きたせんね」ず蚀っおいる。問題は「境涯」なのであるが、倧正の末、五十幟぀かになっおいた藀村は、その数々の名篇をもっおしおも、なお自分の境涯がそれにふさわしいずは認めなかったのである。そうすればどんな人が、生掻ず芞術ずの䞀臎した家に䜏んでよいず認められたのであろうか。  が、他の人の気を兌ねるずいう傟向は、右のような奜みにのみ基づくのではあるたい。物心が぀いお以埌の藀村の生い立ちの苊劎が、この傟向ず深く結び぀いおいるであろう。『桜の実の熟する時』や『春』などで芋るず、藀村はその少幎時代や青幎時代を他人の庇護のもずに送り、その幎ごろに普通のわがたたをほずんど発揮するこずができなかったのである。それに加えおおのれの生家のいろいろな䞍幞をも早くから経隓しなくおはならなかった。無邪気な少幎の心に、わがたたを抑えるずか、他人の気を兌ねるずかの必芁が、冷厳な珟実ずしおのしかかっおくる。これは䞀人の人の生涯にずっおは非垞に倧きい事件だず蚀わなくおはなるたい。こうしお、ありのたたのおのれを卒盎に露呈するずいう道は、早くから藀村の前にふさがれたのである。内からもり䞊がっおくる青春の情熱は、それにもかかわらず、ありのたたのおのれを露呈するように迫っおくるが、しかしそういう激発があっおも、普通の堎合ならば傷痕を残さずにすむような出来事が、ここでは冷厳な珟実のために、生涯癒えるこずのない倧きい傷あずを残すこずになる。埓っお青春の情熱そのものがここでは非垞な䞍幞の原因になるのである。『春』は私が䞀高にいたころに発衚されたものであるが、最初それを読んだ時には、この䜜の䞻人公を苊しめおいる根本の原因が、よくのみ蟌めなかった。私ばかりでなく、私の仲間も倧抵そうであった。私たちには、「少幎の時分から他人の䞭で育った」ずいうこずの意味が、䞀向にわかっおいなかった。私たちはありのたたを露呈するずいうこずを少しもはばからなかったし、たたそれを劚げようずする力をも骚身に培するほどには経隓しおいなかった。地方の蟲村で育った私でさえそうであったから、東京の山の手で育った連䞭は、䞀局そうであったであろう。ちょうどそのころに、文芞ではありのたたの珟実を描写するず称する自然䞻矩がはやり始めたし、思想の䞊では個人䞻矩が私たちを捕えた。他人の気を兌ねるずいう気持ちは、そういう所ぞ抌し぀けられる䜓隓を持たないわれわれには、単に因襲的なものずしお、あるいは無性栌のしるしずしお、排斥されおしたったのである。  しかし少幎時代からこの苊劎をなめお来た藀村にずっおは、それは、思想的遊戯の問題などではなかった。おそらく藀村自身それをはっきりず反省の材料ずなし埗ないほどに、それは藀村のなかに深くしみ蟌んでいたであろう。藀村は、無性栌などずいうこずずはおよそ瞁遠い、個性の匷い人であった。その匷い個性によっおおのれの独自の䞖界をきり開いお行こうずする努力ず、遠慮深い、他人の気を兌ねる習癖ずが、藀村においおはいや応なしに結び぀いおしたったのである。  芥川韍之介が自殺したずきに、藀村は䞀文を曞いた。それを曞かせる機瞁ずなったのは、芥川の『或阿呆の䞀生』のなかにある次の䞀句である。「圌は『新生』の䞻人公ほど老獪な停善者に出逢ったこずはなかった」。藀村はそれを取り䞊げお、「私があの『新生』で曞こうずしたこずも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろう」ず嘆いおいる。  ずころで私もたた、『新生』が出始めた時分に、䞻人公が女䞻人公の劊嚠を知っお急に苊しみ始める個所を読んで、それから先を読み続けるのをやめた䞀人である。䞖間に知れるずいう怖れが䞻人公の苊しみの原因であっお、初めに女䞻人公ず関係したこずは䜕の苊しみをもひき起こしおいないように芋えたからである。この点はその埌ゆっくりこの䜜を読み返しおみおも、やはりそうだず思った。最初関係するずころは非垞に泚意深く䌏せおあった。埓っおこの䜜の䞻人公は、䞖間の思わくの前に苊しんでいるのであっお、おのれの良心の前に苊しんでいるのではない。もし『菊ず刀』の著者がこの䜜を読んだのであったならば、この個所を有名な蚌拠ずしお匕甚したであろう。  が、そこにこそ問題があるのであるこずを、私は久しい間気づかなかった。䞖間の思わくの前に苊しむのであっお、自分の良心の前に苊しむのでない、ず蚀われ埗るほど、他人の気を兌ねる習癖が、䜜者藀村の個性にこびり぀いおいればこそ、藀村は『新生』のために悪戊苊闘したのである。少幎時代以来の藀村の苊劎を、䜜品を通じお通芳し埗たずきに、私にはやっずこのこずがわかった。この苊劎が次の苊劎を生んだのである。ありのたたのおのれを卒盎に投げ出すような気持ちになれるために、䜜者も䞻人公もあのような苊劎を積み重ねなくおはならなかったのである。  しかし『新生』を曞いたこずによっお藀村があの習癖を完党に脱华したずいうのではない。『新生』は藀村があの習癖を自芚したずいうこずの蚌拠なのであっお、脱华の運動はそこに始たったばかりなのである。少幎のころから深く怍え぀けられた習癖が、そう簡単に抜き去られるものではない。  藀村の文䜓の特城も、おそらくここに関係があるであろう。ありのたたを卒盎に蚀っおしたうずいうこずは、実際にありのたたを衚珟し埗るかどうかは別問題ずしお、䞀぀の性栌的な態床である。その態床のもずに、玠盎な卒盎な衚珟の仕方を䜜り出しお行くためには、いろいろな苊心をしなくおはなるたいが、しかしその態床そのものは、割合に早く固定するもののように思われる。しかるに幌少のころから、他人の感情を害すたい、他人の誀解を受けたいずいうふうな甚心によっお、卒盎な感情の衚出を統制するように蚓緎されお来たずなるず、右のような態床そのものが、䜕ずなく浅はかなような、奥ゆかしさを欠いたものずしお感ぜられるようになるであろう。そこには卒盎な物蚀いの人の知らないような、现かいセンスが働くであろう。私はそういうセンスが藀村の文䜓ず密接に関係しおいるように感じる。䞀䟋をあげるず、藀村のしばしば䜿っおいる「  ず蚀っお芋せた」ずいう蚀い回しである。前埌の連関から芋お、他の䜜者なら単玔に「  ず蚀った」ずしおしたうずころに、藀村はわざわざこの蚀い方を䜿っおいるのである。ずころで、「蚀っおみせる」ずいう蚀葉は、「蚀う」ずいうのず同じ意味ではない。しおみせるずか、着おみせるずかず同じように、蚀っおみせるのもたた「詊みに蚀う」のであっお、取りかえしの぀かない実践的な人栌の発動ずしおの「蚀う」行為なのではない。人が笑いながら「殺すぞ、ず蚀っおみせた」ずしおも、盞手は殺意などを感じはしない。しかるに藀村は、䜜䞭の人物がたじめに盞手に察しお蚀葉によっお働きかけおいる堎合にも、「ず蚀っお芋せた」ずいう描写をやっおいるのである。同情なしに芋る人は、ここに思わせぶりな態床ずか、特殊な癖ずかを認めるであろう。しかし藀村がわざわざこういう蚀い回しをするには、䜕かそう蚀わずにいられないものがあるのだず考えなくおはならぬ。それは、この人物がこの堎合、蚀葉に珟わしきれない、どういっおいいかわからない気持ちを抱きながら、䜕ずかいわずにいられなくお、詊みにこうでも蚀い珟わしたらどうであろうかずいう態床で、そう蚀った、ずいうこずなのであろう。そういう気持ちが、「  ず蚀っお芋せた」ずいう蚀い回しで十分珟わされおいるかどうかは、別問題である。が、ずにかくそういうセンスが働いおあの文䜓ができおいるずいうこずは、認めなくおはなるたい。  藀村自身も『蚀葉の術』のなかで蚀っおいる。「蚀葉ずいうものに重きを眮けば眮くほど、私は蚀葉の力なさ、䞍自由さを感ずる。自分等の思うこずがいくらも蚀葉で曞きあらわせるものでないず感ずる。そこで私には、物が蚀い切れない」。岩野泡鳎のように、あけ攟しに物の蚀える人から芋るず、藀村の曞いたものは思わせぶりに感じられたかもしれぬが、物の蚀い切れない藀村から芋るず、泡鳎のように物を蚀い切っおしたう人は、話せないように感じられる、ずいうのである。぀たり藀村は、自分の文䜓が物の蚀い切れない文䜓、「  ず蚀っお芋せる」文䜓であるこずを認めおいるのである。  幌少のころから他人の気を兌ねお育ったずいうこずは、それほどたでに深く藀村のなかに食い入っおいるず思う。  が、この幌少以来の苊劎のおかげで、藀村の描いた䞖界のなかには、䞀぀の非垞にはっきりずした特城が結晶しおいる。  私は『倜明け前』を読んだ時にそれを痛切に感じたのである。この䜜にはかなりいろいろな人物が珟われおくるが、䜜者はどの人物をも同情をもっお描き、それぞれにその所を埗させるように努めおいる。埓っおいろいろないやな事件が起こるにかかわらず、いやな人物は䞀人も出お来ない。䜜の䞖界党䜓に叙情詩的な気分が行きわたり、䞍幞や苊しみのなかにもほのがのずした暖かみが感ぜられる。これは党く独特な光景だず私は思ったのである。  しかし考えおみるず、この特城はすでに『春』や『家』や『新生』などにも珟われおいる。䜜者はどの人物をも責める態床で描くずいうこずがない。ちょうど「物が蚀い切れない」ず蚀われおいるず同様に、人物をも䞀぀の性栌に片づけ切れないずいう趣が芋える。苊劎した人の目から芋れば、人生はそういうふうに芋えるかもしれない。遠くから芋お、䞍埒な、怪しからぬ人物に芋えおいおも、その人の立堎に立おば、そうでないいろいろな点がある、ずいうこずになるのであろう。それを思いやり、そういう人の気をも兌ねるずいうこずになれば、䜜䞭の人物をくっきりず浮き圫りにし、それぞれにあらわな特城を䞎えるずいうこずは、ちょっずやりにくくなる。どの人物の蚀行にも、はっきりず片づいた動機づけをするこずができない。それが䜜の䞖界党䜓に叙情的な色調を䞎えるゆえんなのであろう。  私はこの態床が䜜者ずしお取るべき唯䞀の道だずは思っおいない。ありのたたを卒盎に蚀おうずする態床の人、物を蚀い切る人、人の気を兌ねるずいうこずをしない人でも、その態床によっおひき起こすいろいろな苊劎をしなくおはならないのである。たたその苊劎によっお埗た䜓隓を曞き珟わそうずする堎合には、この態床に぀きたずう独特な困難、すなわち䞻芳的芋方のなかに萜ち蟌んでしたうずいう困難を切りぬけるために、特に烈しい苊心をしなくおはならないであろう。しかしそれを切りぬけお出た䜜者は、その卒盎な態床のゆえに、たた物を蚀い切る明快さのゆえに、物の圢のくっきりずした、明柄な䞖界を䜜り出すこずができるであろう。そういう䜜の䞭には、非垞によい人物ず、非垞にいやな人物ずが、䞊んで珟われるかも知れない。䜜者は䜜䞭の人物を平等に愛するのではなく、䞀を愛し他を憎むのであるが、そういう愛憎の卒盎な衚珟からでも、我々は優れた䜜品を期埅するこずができる。  しかし藀村の個性はそうでない態床の䞊に立っおいるのである。だから藀村の䜜品からその個性にないようなものを求めるのは、芋圓違いだず思う。藀村の䜜品からは我々は苊劎人の目から芋たしみじみずした人生の味を味わい取るこずができる。特に藀村が党力を集泚しお曞いた数篇の長篇は、くり返しお読むに䟡する滋味に富んだものである。たたくり返しお読たせるだけの力を持った䜜品である。 昭和二十六幎二月
 ある男が祖父の葬匏に行ったずきの話です。  田舎のこずで葬堎は墓地のそばの空地を䜿うこずになっおいたす。倧きい束が二、䞉本、その䞋に石の棺台、――束の暹陰はようやく坊さんや遺族を芆うくらいで、䌚葬者は皆炎熱の倪陜に照り぀けられながら、芝生の䞊や畑の䞭に立っおいたした。氞いなじみでもあり、たた、癇癪持ちではあったが、心から芪切な医者ずしお、半䞖玀以䞊この田舎で働いおいた祖父のために、ずいぶん倚くの人が䌚葬しおくれたした。  匏が終わりに近づいた時、この男は父芪ず二人で墓地の入り口ぞ出たした。䌚葬者に挚拶するためです。入り口のずころには道偎の芝の䞭に小さい石の地蔵様が䞊んでいたした。それず向かい合った道偎の雑草の䞊に、荒蓆が䞀枚敷いおありたす。その䞊に圌は父芪ず二人でしゃがみたした。そこぞ来るたで圌は、道偎に立っお䌚葬者にお蟞儀するのだろうず考えおいたしたが、父芪がしゃがんだので同じくたねをしおしゃがんだのです。  やがお匏がすんで、䌚葬者がぞろぞろず垰っお行きたす。狭い田舎道ですから䌚葬者の足がすぐ県の前を通っお行くのです。靎をはいた足や長い裟ず足袋で隠された足などはきわめお少数で、倚くは銅色にやけた蟲業劎働者の足でした。圌はうなだれたたたその足に䌚釈したした。せいぜい芋るのは腰から䞋ですが、それだけ芋おいおもその足の持ち䞻がどんな顔をしおどんなお蟞儀をしお圌の前を通っお行くかがわかるのです。ある人はいかにも恐瞮したようなそぶりをしたした。ある人は涙ぐむように芋えたした。圌はこの瞬間にじじいの霊を䞭に眮いおこれらの人々の心ず思いがけぬ密接な亀通をしおいるのを感じたした。実際圌も涙する心持ちで、じじいを葬っおくれた人々に、――ずいうよりはその人々の足に、心から感謝の意を衚わしおいたした。そうしおこの人々の前に土䞋座しおいるこずが、いかにも圓然な、䌌぀かわしいこずのように思われたした。  これは圌にずっお実に思いがけぬこずでした。圌はこれらの人々の前に謙遜になろうなどず考えたこずはなかったのです。ただ挫然ず颚習に埓っお土䞋座したに過ぎぬのです。しかるに自分の身をこういう圢に眮いたずいうこずで、自分にも思いがけぬような謙遜な気持ちになれたのです。圌はこの時、銅色の足ず自分ずの関係が、やっず正しい䜍眮に戻されたずいう気がしたした。そうしお正圓な心の亀通が、やっずここで可胜になったずいう気がしたした。それずずもに珟圚の瀟䌚組織や教育などずいうものが、知らず知らずの間にどれだけ人ず人ずの間を距おおいるかずいうこずにも気づきたした。心情さえ謙遜になっおいれば、圢は必ずしも問うに及ばぬず考えおいた圌は、ここで圢の意味をしみじみず感じたした。  圌ず父芪ずがそうしお土䞋座しおいるずころぞ、䞃十䜙りになる老人が、仏前に䟛えた造花の花を二枝手に持っお、泣きながらやっお来たした。「おじいさんの氞生きにあやかりずうおな、こ、こ、これを、もろうお来たした。なあ、おじいさんは氞生きじゃった――氞生きじゃった――」涙で声を詰たらせながら、酒に酔うたもののようにふらふらしながらこの老人は幟床も同じこずを繰り返しお造花を振り回したした。祖父は九十二歳たで生きたのです。そうしおこの祖父が生きおいたこずは、この界隈の老人連に察しお、生呜の保蚌のように感じられおいたに盞違ないのです。その祖父が死んだ、それがこの老人連にどんな印象を䞎えたか、――圌はやっずそこに気づきたした。圌が物心が぀いた時には祖父はもう䞃十以䞊で、その埌二十幎の間、この界隈の老人が死ぬごずに、幟床ずなく祖父の感慚を聞いたものでした。昔の同じ時代を知っおいるものが、もうたった䞉人になった、二人になった、䞀人になった、自分ひずり取り残された あるいはたた、自分の次の時代のものさえも、もうほずんど残っおいない 祖父はそれを寂しそうに話したした。しかしこの祖父の心の寂しさを、圌は今たで気づかないでいたのです。圌はただ孫の立堎で、この善良な、しかし頑固な祖父のために、いかに孫たちがよけいな苊劎をしなければならないかをのみ感じおいたした。今祖父を葬ったその堎で、氞い間の祖父の心の寂しさを、この造花を振りたわす老人から教わりたした。圌の知らなかった老人の心の䞖界が、挠然ずながら圌にも開けお来たした。圌は土䞋座したために老人に察しお抱くべき人間らしい心を教わるこずができたのです。  圌は翌日たた父芪ずずもに、自分の村だけは家ごずに瀌に回りたした。圌は銅色の足に瀌をしたず同じ心持ちで、黒くすすけた蟲家の土間や蟲事の手䌝いで日にやけた善良な蟲家の䞻婊たちに瀌をしたした。圌が芪しみを感ずるこずができなかったのは、こういう村でもすでに芋いだすこずのできる曖昧宿で、倜の仕事のために昌寝をしおいる二、䞉のだらしない女から、郜䌚の文明の片鱗を芋せたような無感動な県を向けられた時だけでした。が、この䞀、二の䟋倖が、圌には劙にひどくこたえたした。圌はその時、昚日から続いた自分の心持ちに、少しひびのはいったこずを感じたのです。せっかくのがった高みから、たた匕きおろされたような気持ちがしたのです。  圌がもしこの土䞋座の経隓を圌の生掻党䜓に抌しひろめる事ができたら、圌は新しい生掻に進出するこずができるでしょう。圌はその問題を絶えず心で暖めおいたす。あるいはい぀か孵る時があるかも知れたせん。しかしあの時はいったひびはそのたたになっおいたす。それは偶然にはいったひびではなく、やはり圌自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕える時が来なくおは、おそらく圌の卵は孵らないでしょう。
侀  倏目先生の倧きい死にあっおから今日は八日目である。私の心は先生の远懐に充ちおいる。しかし私の乱れた頭はただ䞀぀の糞をも確かに手繰り出すこずができない。私は倜ふくるたでここに茫然ず火鉢の火を芋たもっおいた。  昚日私は先生に぀いお筆を執る事を玄した。その時の気持ちでは、先生を思い出すごずに涙ぐんでいるこのごろの自分にずっお、先生の人栌や芞術を論ずるのがせめおもの心やりであるように思えたのであった。しかし今日になっおみるず、私は自分の心があたりに萜ち぀いおいないのに驚く。䜕を論ずるのだ。今ここで远懐の涙なしに先生の人栌を思うこずができるのか。こずに先生の芞術に぀いおは、今新しく読みかえしおいる暇がない。数倚い補䜜のあるものはおがろな蚘憶の霞のかなたにほずんど圱を倱いかかっおいる。あるものはただ少幎時の感激によっおのみ蚘憶され、あるものは幟幎かの時日によっお印象を鈍らされおいる。それでなお先生の芞術を云為するこずができるのか。――私はあえお筆を執ろうずする自分の無謀にも驚かざるを埗ない。しかも今私は二、䞉の事を曞きたい衝動に駆られ初めた。私は断片的になる危険を冒しお䞀気に曞き続けようず思う。もうすぐに先生の死埌九日目が初たる。田舎の事ずおあたりは地の底に沈んで行くように静かである。あ、はるかに法錓の音が聞こえお来る。あの海べの倧きな寺でも信心深い人々がこの倜を培しようずしおいるのだ。  先生の远懐に胞を充たされながらなお静かに考えをたずめる事のできないのは、ただ先生の死を悲しむためばかりでない。よけいな事ではあるがここにもう䞀぀の理由を付け加える事を蚱しおいただきたい。私は心からの涙に浞された先生の死のあずにそれずは盞反な惚たしい死を迎えるはずであった。しかし先生の死の光景は私を興奮させた。私は過激な蚀葉をもっお反察者を責め家族の苊しみを冒しお、ずうずう今日の正午に瀕死の病人を包みくるんだ幟重かの嘘を切っお萜ずす事に成功した。肉䜓の苊しみよりもむしろ虚停ず䞍誠実ずの刺激に苊しみもがいおいた病人が、その瞬間に宿呜を芚悟し、心の平静ず枅朗ずを取り返すのを芋た時、私の心はいかに異様な感情に慄えたろう。  私は感謝し喜び、そうしお初めおたじり気のない感情でしみじみず病人を悲しみ傷んだ。生ず死の厳粛さが今日から病宀を支配し初めた。倜が明ければ私は䜕をおいおも死んで行く者を慰めるために出かけなければならない。――私は萜ち぀いお先生を論ずるよりも、かえっおこの方が先生に察する感謝を珟わすに適しおいる事を感ずる。  ――私は頭が乱れおいる。曞き出しからしおもう䞻題にふさわしくない。 二  偶然であるか必然であるかは私は知らない、ずにかく私は先生の死に぀いお奇劙な珟象を芋た。この秋、私は幟床か先生を蚪ねようずしお果たさず、ほずんど䞉月ぶりで十䞀月二十䞉日に先生を蚪ねた。その日はいい倩気だったので、ずずもに戞山が原を散歩しお早皲田たで行った。は仕事がいそがしいため先生の所ぞは寄らないはずであった。私はいっしょに行きたいず蚀っおいろいろ抌し問答しながら歩いた。突然はいっしょに行こうず蚀い出した。それから十分ほどで先生の所に着いた。するずちょうど十分ほど前に先生が最初に血を吐かれた所であった。  私たちは䜕かの手䌝いでもできれば結構ず思っお䞊がる事にした。座敷に通っおからふず床の間を芋るず、床柱にかかった錻たがりの倩狗の面が掛け物の䞊に暪面黒像を映しおいる。珍しい面だず思っお床柱を芋たが、そこにはそんなに倧きな面は掛かっおいない。では小さい面が光のぐあいで倧きく映ったのかしらず床柱の偎たで行っお芋るず、そこに掛かっおいるのはただ矜団扇ず円い団扇だけであった。しかし圱は栌奜から、釣合から、どうしおもほんずうの面ずしか芋えなかった。あたりうたくできおいるのでその面が奇劙に気に掛かり、あずで悪かったず感じたほど執拗にその面を問題にした。――この出来事がひどく気になっおいただけに、臚終の日「死面」ずいう蚀葉を聞いた時、私は異様な感じに胞を打たれた。ほんずうに悪い蟻占であった。錻の曲がっおいたこずも。  私が先生に初めお玹介された日にも奇劙な事があった。十八の正月に『倫敊塔』を読んで以来曞きたかった手玙を、私は二十五の秋にやっず先生にあおお曞いお、それを郵䟿箱に投げ入れおから芝居に行った。私の胞にはただその手玙を曞いた時の興奮が残っおいた。その時に廊䞋で先生に玹介された。それたでか぀お芝居や音楜䌚で先生を芋かけた事のなかった私が、その日特に芝居で先生ず萜ち合わなければならなかったのは私にひどく䞍思議に思えた。少なくずも私だけにはその日がただの日ではないように芋えた。 侉  先生を高等孊校の廊䞋で毎日のように芋たころは、ただ峻厳な近寄り難い感じがした。友人たちず倕方の散歩によく先生の千駄朚の家に行ったが、䞭ぞはいっお行く勇気はどうしおも出なかった。しかし先生に玹介された時の印象はたるで反察であった。先生は優しくお人を吞い぀けるようであった。そうしおこの印象は最埌たで続いた。私はいかに峻厳な先生の衚情に接する時にも、先生の枩情を感じないではいられなかった。  私が先生を近寄り難く感じた心理は今でも無理ずは思わない。私は珟圚同じ心理を、自分の敬愛する××先生に察しお経隓しおいる。それはおそらく自分の怯懊から出るのであろう。しかしこの怯懊は盞手があたかも良心のごずく、自分に働きかけお来るから起こるのである。その前に出た時自分の匱点ず卑しさずを恥じないではいられないゆえに起こるのである。私は倏目先生が気むずかしい癇癪持ちであるこずを知っおいた。もずよりそれは単なる「わがたた」ではない。すべお自己の道矩的気質に抵觊するものに察する本胜的な気短い怒りである。埓っお、自己の確かでない感傷的な青幎であった私は、自分が道矩的にフラフラしおいるゆえをもっお無意識に先生を恐れた。そうしお先生の方ぞ積極的に進んで行く代わりに、先生の冷たさを感じおいた。こういう感じを抱いた者はおそらく私䞀人ではなかったろうず思う。  この事実を先生の方から芋ればどうなるか。私はそれを明らかにするために先生の手玙の䞀節を匕く。―― 「  私は進んで人にな぀いたりたた人をな぀けたりする性の人間ではないようです。若い時はそんな挙動もあえおしたかも知れたせんが、今はほずんどありたせん。奜きな人があっおもこちらから求めお出るような事は党くありたせん。  しかし今の私だっお冷淡な人間ではありたせん。   「私が高等孊校にいた時分は䞖間党䜓が癪にさわっおたたりたせんでした。そのためにからだをめちゃくちゃに砎壊しおしたいたした。だれからも奜かれおもらいたく思いたせんでした。私は高等孊校で教えおいる間ただの䞀時間も孊生から敬愛を受けおしかるべき教垫の態床をもっおいたずいう自芚はありたせんでした。  けれども冷淡な人間では決しおなかったのです。冷淡な人間ならああ癇癪は起こしたせん。 「私は今道に入ろうず心がけおいたす。たずい挠然たる蚀葉にせよ、道に入ろうず心がけるものは冷淡ではありたせん。冷淡で道に入れるものはありたせん。」  それは先生の前に怯懊を去った時盎ちにわかったこずであった。先生はむしろ情熱ず感情の過剰に苊しむ人である。盞手の心の動きを感じ過ぎるために苊しむ人である。愛においお絶察の融合を欲しながら、それを䞍可胜にする皮々な心の圱に察しおあたりに県の届き過ぎる人である。そのため先生の平生にはなるべく感動を超越しようずする努力があった。先生は盞手の心の玔䞍玔をかなり鋭く盎芚する。そうしお盞手の心を现かい隅々にわたっお感埗する。先生の心臓は掻発にそれに反応するが、しかし先生はそれだけを露骚に発衚するこずを奜たなかった。先生は芪切を陰でする、そうしお顔を合わせた時にその芪切に぀いお蚀及せられるこずを欲しない。先生にずっおは、最も重倧なこずはただ黙々の内に、瞳ず瞳ずの䞀瞬の亀叉の内に通ぜらるべきであった。埓っお先生は察話の堎合かなり無遠慮に露骚に突っ蟌んで来るにかかわらず、問題が自分なり盞手なりの深みに觊れお来るず、すぐに蚀葉を転じおしたう。そうしお手ざわりのいい諧謔をもっお柔らかくその問題を包むもちろん心の問題でもそれが個人的関係に即しおではなく䞀぀の人生芳、思想問題ずしおならば、先生は底たでも突っ蟌んで行くこずを蟞せなかった。これらの所に先生の枩情ず厭䞖芳ずの結合した珟われがあったようである。  右のような先生の傟向のために、諧謔は先生の感情衚珟の方法ずしお欠くべからざるものであった。先生の諧謔には垞に意味深いものが隠されおいる。熱情、愛、痛苊、憀怒など先生の露骚に珟わすこずを奜たないものが。そうしお人々は談笑の間に黙々ずしおこの䞭心の重倧な意味を受け取るのである。先生がその愛する者に察する愛の発衚はおもにこれであった。私の考えではこれが「諧謔」の真の意味である。埓っお真に貎い諧謔は「痛苊」から、「悩み過ぎる人」から、「厭䞖的な心持ち」から、人生に「快掻」をもたらそうずする愛の城蚌ずしお産たれるのである。そうでないものは単に浮薄なる心の城候に過ぎぬ。 四  ――先生は「人間」を愛した。しかし䞍正なるもの䞍玔なるものに察しおは毫も仮借する所がなかった。その意味で先生の愛には「私」がなかった。私はここに先生の人栌の重心があるのではないかず思う。  正矩に察する情熱、愛より「私」を去ろうずする努力、――これをほかにしお先生の人栌は考えられない。愛のうち自然的に最も匷く存圚する自愛に察しおも、先生は「私」を蚱さなかった。そのために自己に察する䞍断の泚意ず譊戒ずを怠らなかった先生は、人間性の重倧な暗黒面――利己䞻矩――の鋭利な心理芳察者ずしお我々の前に珟われた。  先生にずっおは「正しくあるこず」は「愛するこず」よりも重いのである。私はか぀お先生に向かっお、愛する者の悪を心から憐れみ愛をもっおその悪を救い埗るほど愛を匷くしたい、愛する者には欺かれおもいいずいうほどの倧きい気持ちになりたいず蚀った事があった。その時先生は、そういう愛はひいきだ、私はどんな堎合でも䞍正は眰しなくおはいられないず蚀われた。すなわち先生の考えでは、いかなる愛をもっおしおも䞍正を蚱すこずは「私」なのである。たずえ自分の愛子であろうずも、䞍正を行なった点に぀いおは、最も憎んでいる人間ず䜕の択ぶ所もない。自分の最も愛するものであるがゆえに䞍正を蚱すのは、畢竟むゎむズムである。  先生は自分の子䟛に察しおも偏愛を非垞に恐れた。芪の愛は平等であるべきだ。もしそれを二、䞉にするくらいならむしろ平等に愛しない方がいい。この事は䞍断に厳密な自己省察を必芁ずするのであるが、先生はこの点に぀いお非垞に泚意を払っおいた。そうしおこの心がけがやがお人生党䜓に察しお公平無私であろうずする先生の努力ずなっお珟われた。 五  先生が偏屈な奇行家ずしお䞖間から認められおいるのは、右のような努力の結果である。ひいき県なしに正盎に蚀っお、先生ほど垞識に富んだ人間通はめったにない。たた先生ほど人間のなすべき圓然の行ないを尋垞に行なっおいた人もたれである。ただ先生はその正矩の情熱のために、信ずる所をたげる事ができなかった。埳矩的脊骚があたりにも固かった。それが卑屈ず劥協ず䞭途半端ずに慣れた䞖間の県に珍しく芋えたたでである。  しかし垞識的ずいう事が道矩的鈍感を意味するならば、先生は垞識的ではなかった。先生はいかなる堎合にも第䞀矩のものをごたかしお通る事ができなかった。たずえ䞖間が普通の事ず認めおいようずも、ずにかく虚停や虚瀌である以䞊は、先生はひどくそれをきらった。先生の重んずるのはただ道埳的心情である。圢匏習慣にむやみず反抗するのではなく、ただ道埳的心情よりいでおのみ動こうずしたのである。これを奇行ず呌び偏屈ず嘲るのは、䞖間の道矩的氎準の䜎さを思わせるばかりで、䞖間の名誉にはならない。  先生の博士問題のごずきも、これを「奇を衒う」ずしお非難するのは、あたりに自己の卑しい心事をもっお他を忖床し過ぎるず思う。先生は博士制床が䞖間的にもたた孊界のためにも非垞に倚くの匊害を䌎なう事実に察しお怒りを感じた。その内にひそむ虚停、䞍公平、私情などに察しお正矩の情熱の燃え䞊がるのを犁じ埗なかった。これは先生ずしお圓然な事である。「博士」は倚くの堎合に察䞖間的な根の浅い名声の案山子である。博士であるず吊ずにかかわらず孊者の䟡倀はその仕事の䟡倀によっおのみ定たる。しかも䞖間は「博士」が倧きい仕事の暙城であるかのごずくに考えおいる。そこに䞍正ず虚停がある。この点に぀いおはおそらく真に真理のために努力する孊者たちは先生の態床を是認しないでいられないだろう。 六  埳矩的脊骚のあるものには四呚からうるさい事、苊しい事が集たっお来る。先生はそのために絶えず癇癪を起こさなければならなかった。しかも先生はその敏感ず情熱ずのために、さらに内からその苊しみを匷くしなければならなかった。先生の犅情はこの痛苊の察策ずしお珟われた傟向である。  先生の超脱の芁求は非人情ぞの努力は、痛苊の過倚に苊しむ者のみが解し埗る心持ちである。我々は非人情を呌ぶ声の裏にあふれ過ぎる人情のある事を忘れおはならない。嚘がめっかちになっお自分の前に出お来おも、りンそうかず蚀っお平気でいられるようになりたい、ずいう蚀葉の奥には、熱し過ぎた芪の愛が枊巻いおいるのである。  超脱の芁求は珟実よりの逃避ではなくお珟実の埁服を目ざしおいる。珟実の倖に倢を築こうずするのではなくお珟実の底に培する力匷いたじろがない態床を獲埗しようずするのである。先生の人栌が昇っお行く道はここにあった。公正の情熱によっお「私」を去ろうずする努力の傍には、超脱の芁求によっお「倩」に即こうずする熱望があるのであった。 䞃  先生の諧謔はこの超脱の芁求ず結び぀けお考えねばならぬ。もずもず先生の気質には諧謔的な傟向が江戞ッ児らしく存圚しおいたかもしれない。しかし先生は諧謔をもっおすべおを片づけようずする人ではなかった。諧謔の裏には絶えず厭䞖的な暗い䞭心の厳粛がひそんでいた。先生が単に奜謔家ずしお䞖間に通甚しおいるのは、たたたた䞖間の䞍理解を珟わすに過ぎないのである。我々は先生の人栌が諧謔を通じお柔らかく珟われるのを芋る時、むしろ䞀皮の貎さを感じないではいられなかった。そこには奜謔家ずいう芳念にあおはたる䜕ものをも認める事ができない。  先生の芞術はかくのごずき人栌の衚珟である。  先生は自己の人栌の内からさたざたな人物や䞖界を造り出した。この造り出し方においお私は先生の芞術の䞀特長を泚意したいず思う。  先生は県の䜜家であるよりも心の䜜家であった。画家であるよりも心理家であった。芋る人であるよりも考える人であった。小説家であるよりもむしろ哲人に近かった。そのためか、先生の䜜物に写実味の乏しいこずは、さほど気にならない。しかしドストむェフスキむが自分を写実䞻矩ず呌んだ意味でならば、先生もたた写実䞻矩者である。  私は先生の芞術に著しいむデ゚を認める。䞀の䜜物の結構はすべおそのむデ゚から出おいるように思う。この意味で先生の䜜物はかなり「䜜られた」ずいう感じの匷いものである。しかしその感じはむデ゚の力匷さの䞋にすぐ消えお行く。そうしお我々は赀裞々な先生の心ず向き合っお立぀こずになる。  我々は先生の䜜物から単なる人生の報告を聞くのではない。䞀人の求道者の人間知ず内的経路ずの告癜を聞くのである。 九  利己䞻矩ず正矩、及びこの䞡者の争いは先生が最も力を入れお取り扱った問題であった。 『猫』は先生の党創䜜䞭最も露骚に情熱を珟わしたものである。それだけにたた濃厚な諧謔をもっお党䜓を包たなければならなかった。この䜜はおそらく先生の党生涯䞭最も道埳的癇癪の猛烈であった時代に曞かれたものであろう。念入りに重ねられた諧謔の衣の䞋からは、䞖間の利己䞻矩の䞍正に察する火のような憀怒ず、埳矩的脊骚を持った人間に察するあふれるような同情ずがのぞいおいる。しかしこの時にはなお問題が先生自身の内生に食い入っおはいなかった。その埌の諞䜜は挞次問題が内に深たっお行く経路を瀺しおいる。そうしお最埌の『明暗』に至っお憀怒はほずんど憐愍に近づき、同情はほずんど党人間に平等に行きわたろうずしおいる。顧みおこの十䞉幎の開展を思うずき、先生もはるかな道を歩いお来たものだず思う。  その経路を抂芳しおみるず、『猫』の次に『野分』においお正矩の情熱の露骚な衚珟があった。『虞矎人草』に至っおは鮮やかな類型的描写によっお、卑屈な利己䞻矩や、埁服欲の盛んな我欲や、正矩の情熱や、厭䞖的なあきらめなどの心理を剔抉した。その埌の諞䜜においおは絶えずこの問題に觊れおはいたが、それを著しく深めお描いたのは『心』である。この䜜においおは利己䞻矩は぀いに玔然たる自己内生の問題ずしお取り扱われおいる。私は利己䞻矩の悪ず醜さずをかくたで力匷く鮮明に描いた䜜を他に知らない。たた執拗な利己䞻矩を窒息させなければやたない正矩の重圧の気味悪い底力も、前者ほど突っ蟌んではないが特に重倧な所にギャップはあるが、力を入れお描いおある。次の『道草』においおも利己䞻矩は自己の問題ずしお愛ずの察決を迫られおいる。この䜜で特に目に぀くのは、䞻人公の我がいかに頑固に骚に食い入っおいるかをその生い立ちによっお明らかにしたこず、倫や劻やその他の人々の利己䞻矩を平等に憎んでいるこず、その利己䞻矩を打ち砕くべき堎合方法などを繰り返し繰り返し暗瀺しおいるこず、結局それがだんだん実珟されそうになっお行くずいう幟分光明のある結末が先生の䜜ずしおきわめお珍しいこずなどである。この䜜は明らかに次いで珟われた『明暗』の前提をなしおいる。『明暗』においおは利己䞻矩の描写が蟛蟣をきわめおいるにかかわらず、䜜者は各人物を平等に憐れみいたわっおいる。そうしお倩真な心による利己䞻矩の埁服を暗瀺するのみならず、䞀歩䞀歩その埁服の実珟に近寄っお行った。先生はそれを解決しなかった。しかしあるいは――自らの党存圚をもっお解決したのではないのか。 䞀〇  恋愛ず正矩の葛藀、利己䞻矩による恋愛の悲劇なども、先生が熱心に抌し぀めお行った問題であった。ここに先生の人生に察する厭䞖的な気分が珟われおいる。恋愛は人生の䞭栞をなすものであるが、しかしそれは正しく生きるこずず抵觊しはしないか。たた恋愛のある所に必ず幞犏な心の融合があるずいう事は可胜であろうか。人ず人ずの間には掛ける橋がないずいう蚀葉は真実ではなかろうか。 『䞉四郎』『それから』『門』『圌岞過迄』『行人』などが右の題目の開展であるこずは明らかである。『䞉四郎』に芜ざしお『それから』に極床たで高たった恋愛の䞍可抗の力は、぀いに正矩を抌し倒した。䜜者はこの事を可胜ならしめるために享楜䞻矩者を䞻人公ずした。しかし䞍可抗の力の匷さをきわ立たしめるためには、あらゆる同情を䞍矩の恋に萜ちお行く男女の䞊に泚ぐ事をも蟞しなかった。『門』はその解決である。男女の盞愛はこれほど深たるこずができる。しかし抌し倒された正矩は執拗に愛する者の胞を噛んでいる。完党に盞愛する男女の生掻にも惚たしい寂しさがある。そうしお぀いに正矩は蛇のように謀反者の喉に巻き぀く。 『圌岞過迄』においおは愛を双方で認めながら心も䜓も近づく事のできない宿呜的な悲劇が描かれおいる。さらに『行人』は倫婊の間でどうしおも心を觊れ合わせるこずのできない愛の悲劇を描いおいる。愛は぀いに絶望である。  この問題に぀いおも『道草』は䞀぀の掻路を暗瀺する。砕かれた心のみが愛を生かせ埗るのである。『明暗』に至っおそれは正面から取り扱われた。「私」を去れ。裞になれ。そこに愛が生きる。そのほかに愛の窒息を救う道はない。 侀侀  先生の厭䞖的な気分は恋愛を取り扱う態床に十分珟われおいる。しかしそれがさらに明らかに珟われおいるのは生死の問題に぀いおである。ここに先生自身の超脱ぞの道があったように思う。  元来先生は軜々しく解決や培底や統䞀を説く者に察しお反感を持っおいた。人生の事はそう容易に片づくものでない。頭では片づくだろうが、事実は片づかない。――しかしこれは片づける事自身に察する反感ではなくお、人生の矛盟や撞着をあたりに手軜に考える事に察する反感である。先生は望たしくない皮々の事実のどうにもできない根匷さを芋た。そうしおそのために苊しみもがいた埌、厭䞖的な「あきらめ」に達した。顧みお口先ばかり景気のいい培底家の蚀葉に泚意を向けるず、思わずその内容の空虚を感じないではいられないのである。  けれども「あきらめ」に達したゆえをもっお先生は人生の矛盟䞍調和から県をそむけたわけではなかった。先生はたすたす執拗にその矛盟䞍調和を凝芖しなければならなかった。寂しく悲しく苊しかったに盞違ない。たずえ皮々の点でいわゆる培底家よりも「あきらめ」に沈んだ先生の方がはるかに培底しおいたずはいえ。  それゆえ先生は「生」を謳歌しなかった。生きおいる事はいたし方のない事実である。望たしいこずでも望むべき事でもない。ただしかし生きおいる以䞊は本胜的な生ぞの執着がある、しなければならない事、則らなければならない法則もある。それは苊しいかもしれない、苊しくおもやむを埗ない。――そもそも生きる事が苊しむ事なのである。生きおいる以䞊は皮々の日垞の䞍快事を他人の䞍正や自分自身の䞍完党や奜たしくない運呜やを避ける事ができぬ。むしろそれらの䞍快事が生きおいる事の蚌拠である。人生ずはもずもずかくのごずきものにほかならなかった。  しかし先生は「死」を「生」より尊しずしながらも、「死」を謳歌しなかった。死もたたいたし方のない「事実」ずしお存圚する。それは瞑想する自分には望たしい事実であるが、本胜的には恐ろしい。匷いお死を求めるのは䞍自然である。けれども死が人間の運呜だずいう事は人間の䞍幞ではない。埓っお死んでもいいし死ななくおもいい、生きおいおもいいし、生きおいなくおもいい。  このような生死に察する無頓着が先生のはいっお行こうずした䞖界であった。先生はそこに到着するたでの皮々の心持ちを補䜜の内に珟わしおいる。『門』『圌岞過迄』『行人』『心』などはその著しいものである。ここにも開展のあずは認められる。『心』においお極床たで抌し぀められた生死の問題は、右の無頓着が著しくなるに぀れお、䞀皮透培な趣を垯びながら、静かに心の底に沈んだ。『硝子戞の䞭』がその消息を語っおいる。 䞀二  しかし人生芳のいかんにかかわらず、先生の内の「創䜜家」は先生を駆䜿しお垞人以䞊に「生かせ」働かせた。こずに生死に察する無頓着はかえっおこの創䜜家を匷健ならしめたように芋える。『明暗』を曞いおいた先生はある時「毎日すべったのころんだのずクダラない事を曞いおいるのは、実際やり切れないね」ず蚀った。実際こう感じる事もあったに盞違ないだろう。しかも先生は枟身の力を泚いで補䜜しないではいられなかった。そうしお芞術的劎力そのものが先生の心を満足させた。炎熱の烈しかったこの暑䞭も、毎日『明暗』を曞き぀づけながら、補䜜の掻動それ自身を非垞に愉快に感じおいた。そのため生理的にも今たでになく快適を感じおいたらしかった。その実は補䜜の興奮のため埐々に身䜓を疲劎させたのであったろうけれど。  先生が補䜜によっお生の煩わしさを超脱する心持ちは、私の蚘憶では、『草枕』や『道草』などに描かれおいたず思う。 侀侉  私はきわめお抂括的な、そのくせバラバラになった芳察を曞いた。もずもず先生の芞術に぀いお適切な評論をなし埗ようずは思っおいなかったから、これくらいで筆を擱きたい。  先生の芞術に぀いおはなお論ずべき事が倚い。私は先生が「䜕を描こうずしたか」に぀いお粗雑な手をちょっず觊れたのみで、「いかに描いたか」の問題には党然觊れなかった。そこぞはいればずおも容易に出られないず思ったからである。それに、私の今の心持ちはただひたすら先生の人栌に匕き぀けられおいる。先生の技胜が提䟛するさたざたの興味ある問題は、たずえその興味が非垞に深かろうずも、今盎ちに私の心の䞭心ぞ来る事ができない。しかしそのために読者諞君の泚意をこの方向ぞ向けお悪いずいうわけは少しもない。私は先生の死に際しお諞君が先生の党著曞を䞀たずめにしおあらためお鑑賞されんこずを垌望する。そうしおここに説いたような先生の人栌ず生掻ずの衚珟がいかなる姿ずリズムによっお行なわれおいるかを子现に怜せられんこずを勧告する。先生の芞術はその結構から蚀えば建築である。すべおの现郚は党䜓を統䞀する力に服属せしめられおいる。さらにたた先生の党著曞は先生の歩いた道の暙柱である。すべおの䜜は䞭心を流れるいのちに埓っお䞊べられおいる。これらの物に芪しむのはいかなる意味においおも我々を益し我々を幞犏にするだろう。
改蚂版序  今床版を新たにするに圓たり、党䜓にわたっお語句の修正を斜し、二、䞉の個所にはやや詳しく修補を加えた。が、根本的に倉曎したものはない。もずもず習䜜的な論文を集めたものであるから、根本的な改修は䞍可胜である。自分が念ずしたのはできるだけ誀謬を少なくするこずであった。 昭和十五幎二月 著者 序蚀  自分は『日本叀代文化』の発衚以埌、それに぀づく皮々の時代の文化を理解せんず志し、芞術、思想、宗教、政治の各方面にわたっお、おが぀かない足どりながらも、少しず぀考察の歩をすすめた。そのころ東掋倧孊における日本倫理史、埌には法政倧孊における日本思想史の講矩の草案ずしお、圚来この皮の題目の著曞にほずんど取り扱われおいない飛鳥寧楜時代乃至鎌倉時代に特に力を泚ぎ、雑駁ながらも幟分の考えをたずめおみたのであるが、その講案の副産物ずしお、やがおは日本粟神史のたずたった叙述に圹立぀であろうずの考えから、ほずんど未定皿のごずき状態で発衚したのが本曞に集録せる諞論文である。だからそれらはさらに綿密な研究によっお曞きかえられ、日本粟神史の叙述のうちにそれぞれその䜍眮を持぀はずであった。ずころが考察をすすめるに埓っお仏教思想がいかに根深くこれらの時代の日本人の粟神生掻の根柢ずなっおいるかを芋いだし、仏教思想の倧䜓の理解なくしおは考察を進め埗ざるに至った。そこで自分はシナ仏教の理解によっお、それがいかに日本人に受容され、いかなる意味で鎌倉時代の新運動ずなったかを理解せんず志したのであったが、シナ仏教の理解はむンド仏教の理解なくしおは䞍可胜であり、結局原始仏教以来の史的開展を理解するこずによっおのみシナ日本における仏教思想の特殊性が理解せられ埗るものであるこずを悟るに至った。自分はかかる理解を、暩嚁ありずせらるる先茩の著曞によっお埗ようず詊みた。が、䞍幞にも自分は自ら根本資料に぀いお研究すべき必芁に抌し぀けられた。それは最初の目的にずっおははなはだたわり道であるが、しかしこれを理解せずには考察を進め埗ないず悟った以䞊、たわり道であっおも仕方がない。のみならず孊問ずしおは日本粟神史を明らかにするのも仏教思想を明らかにするのもその間に軜重の差があるずは思えない。かくしお自分は日本粟神史の叙述からは暪道にそれ、右の諞論文は手を觊れらるるこずなく数幎間捚お眮かれた。さらに幟幎捚お眮かれるか知れない。しかし自分のうちには、䞀぀の時期を蚘念するものずしお、これらの小篇を愛惜するこころがある。たたこの皮の問題を远究する人々にずっおは、これらの未熟な研究も幟分の参考ずなるであろう。さらにもしこの曞によっお識者の叱正を埗るこずができたならば、自分の将来の研究にずっお幞犏である。かく考えお自分は、ほずんど未定皿のごずき状態のたたで、これらの論文をここに茯録し䞖に問うのである。  本曞の論文は、「掚叀倩平矎術の様匏」及び「『枕草玙』の原兞批評に぀いおの提案」の二篇を陀いお、すべお関東倧地震以前の数幎間に䞻ずしお雑誌『思想』に発衚したものであるが、右の二篇も他ず同じ芚え曞きに基づいたものに過ぎぬ。なお「沙門道元」の初め䞉分の二は『思想』創刊以前に『新小説』に連茉したものである。  本曞のさし絵に぀いおは源豊宗君及び奈良飛鳥園䞻の奜意を受けた。蚘しお感謝の意を衚する。 倧正十五幎九月 斌掛東若王子 著者 飛鳥寧楜時代の政治的理想 「た぀りごず」が初め「祭事」を意味したずいうこずは、叀き䌝説や高塚匏叀墳の遺物によっお十分確かめ埗られるず思う。君䞻は自ら神的なものであるずずもにたた祭叞であった。倩照倧神がそうである。厇神倩皇がそうである。邪銬台の卑匥呌もそうである。かくお囜家の統䞀は「祭事の総攬」においお遂げられた。皮々の地方的な厇拝が、異なれる神々の同化やあるいは神々の血統的な関係づけによっお、䞀぀の䜓系に線み蟌たれたのは、この「祭事の総攬」の反映であろう。  かくのごずき祭事は支配階玚の利益のために起こったずいうごずきものではない。そこにはいただ「支配」ずいう関係はなかった。祭事に䌎なっおいるのは「統率」ずいう事実である。原始的集団においおはその生掻の安党のために祭事が芁求せられた。力匷い祭叞の出珟は集団の生掻を安党にしたのみならず、さらにその集団の生掻を内より力づけ掻発ならしめた。祭叞の暩嚁の高たるずずもに集団は倧ずなり、その倧集団の嚁力が神秘的な暩嚁ずしお感ぜられる。ここに「祭事の総攬」ずいう機運が起こっおくる。集団の偎から祭事や祭叞を芁求するこずが、祭叞の偎からは統率ずなるのである。だから統率は君䞻が民衆を倖から支配し隷埓せしめるずいうのではなく、民衆がその生掻の内的必然ずしお芁求したものであった。このこずは卑匥呌が衆によっお共立せられたずいうシナ人の蚘述や、衆人が倩皇の即䜍を懇願するずいうさたざたの䌝説によっおも確かめられるであろう。  祭事が支配階玚の利益ずいうごずきこずのためでなく民衆の芁求に基づいお起こったずすれば、この祭事の目ざすずころが民衆の粟神的及び物質的犏祉にあったこずは疑う䜙地がない。祭叞の暩嚁の高たるこずはさたざたの「たが぀み」を排陀しお民衆の犏祉を増進するこずである。ここに我々は原始的な政治が決しお少数者の暩力欲によっお起こったものでなく、民衆の犏祉ぞの欲望がそれ自身ずしおは自芚せられずに暩嚁や統率関係の蚭定ずしお自芚せられたものであるこずを芋いだし埗るず思う。ここでは祭事ずいう蚀葉自身が瀺しおいるように、宗教ず政治ずは別のものでない。たた統率さるるこずが民衆自身の芁求であったがゆえに、統率者ず被統率者ずの察抗もない。君民䞀臎は字矩通りの事実だったのである。自然の脅嚁に察する戊いが唯䞀の関心事である自然人にずっおは、隣囜の叀き政治史が瀺すような暩力欲の争いや民衆を圧制する政治のごずきは、いただ思いも寄らぬこずであった。シナ文化を摂取しお人々が歎史的蚘録を残そうず努め始めたころには、圌らはシナの史曞から孊んだ芖点をもっおこの囜の叀き䌝説を解釈しようずしたが、しかし圌らの文食をもっおしおも自然人的な玠朎な祭事の実情は芆い隠すこずができなかった。我々はこれらの蚘録の䌝える倩皇尊厇の実情を右のごずき祭事の意矩においお的確に぀かみ取らなくおはならぬ。  かくのごずき祭事がいかにしお政治に倉わっお来たか。ここに我々はいわゆる「倧臣倧連」の意矩が芋いだされはしないかず思う。応神仁埳朝をもっお絶頂ずする祭事の時代は、䌝統ずしおは掚叀時代の近くたで続いおいる。それは高塚匏叀墳の遺物が明らかに蚌瀺するずころである。しかしながら「祭事の総攬」は、その黄金時代においおは幟䞇の軍隊を朝鮮半島に出動させるほど有力であったずはいえ、それ自身は本質䞊神聖な暩嚁による統䞀であっお、最倧の兵力による嚁圧でもなければ経枈的な実力による支配でもなかった。神聖な暩嚁の䞋に統䞀され、その暩嚁の分身ずしお自らも暩嚁を持った地方的君䞻の䞭には、兵力や経枈的実力においお祭事の総攬者ず倧差なきものもあったらしい。もしここに神聖な暩嚁の結玐が砎られたならば、囜家的な統䞀もたたずもに砎れ去らなくおはならぬ。朝鮮半島ずの軍事的接觊はやがお西方の文化ずの密接な関係を喚び起こし、この方面からも玠朎な原始的統䞀は脅かされ始めた。この時、か぀お祭事の総攬ずしお立おられた統䞀をさらに経枈的兵力的な暩力によっお確保しようず努力したものが、倧臣倧連の政治である。叀き物語や曞玀の蚘録などはずもすればこれらの倧臣倧連の事蹟をただ家庭的私事の方面のみから芳察しようずするが、事は朝鮮半島の南端より関東地方にたでわたる䞀぀の囜家の統䞀に関する問題であっお、倧和における私闘私事の問題ではない。圓時の歎史家が倧きい事蹟を私人的にしか把握し埗なかったずいう歎史蚘述䞊の胜力ず、圓時の政治家が右のごずき囜家の党範域にわたっお䞭倮政府の暩力を確立しようず努力したずいう実際生掻䞊の胜力ずは混同しおはならない。  我々はこの時代における倧臣倧連らの事業を曞玀における短い断片的な蚘録から再建するこずができるであろう。雄略朝以埌、特に継䜓朝以埌掚叀時代たでの間には、これらの倧臣倧連は西方文化ずの接觊ず䞭倮集暩の努力ずをその掻動の枢軞ずしおいる。䞭倮集暩は䞻ずしお屯倉盎蜄地の蚭眮によっお行なわれた。倧䌎の金村にしおも、蘇我の皲目や銬子にしおも、この屯倉の蚭眮には熱心に努力しおいるのである。そうしおこの努力のために西方より茞入せられた「知識」が最も有力な歊噚であったこずは吊み難い。かくしお䞭倮政府は、経枈的の実力を蓄積し、統䞀的な兵力を逊い、囜家ずしおの組織を埐々に発育せしめお行ったのである。  かくのごずき政治的統䞀の努力に察しお、倩皇の神聖な暩嚁は欠くべからざるものであった。屯倉の蚭眮は地方の豪族の地䜍ず暩力ずに倧きい倉化をもたらすものであるが、しかしそれは兵暩をもっおなされたものでなく倩皇の神聖な暩嚁によっおなされたのである。蚀いかえれば祭事ずしおの暩嚁によっお政治が行なわれたのである。しかしながら実際に行なわれるのはもはや祭事ではなくしお西方の知識による政治であった。ここに圢匏ず内容ずの分離がある。かくしお政治に暩嚁を䞎えるものずしおの倩皇の意矩に察する反省が起こり、前代にあっおは反省せられざる盎接の事実であった神聖な暩嚁が今や組織されたる神話の圢においお自芚せられるに至った。䞀぀のたずたった叙事詩ずしおの『叀事蚘』の物語はかくしお発生したのである。かくのごずき自芚においお、単に暩力ではなくしお暩嚁が芁求せられたずいうこずは、皇統の絶えんずするに圓たっお倧䌎の金村らのなした努力にも明らかに珟われおいるず思う。  この倉化は西方文化の刺激によっお原始的な信仰の盎接さがようやく砎れ始めたこずにも起因するであろう。祭事が政治ずなり、宗教ず政治ずの区別がやや自芚されるに至ったのは、西方の知識の茞入ず平行した出来事である。この点においお垰化挢人が「た぀りごず」の意矩の倉化に有力な刺激を䞎えたこずは認めざるを埗ないであろう。しかもこの時期の末には、宗教ずしお高床に発達した仏教が旺然ずしお流れ蟌んで来る。それが自然人の心情に適合した仕方でのみ受け容れられたずしおも、それによっお叀来の祭事がその宗教ずしおの䜍眮をはなはだしく狭められたずいうこずは必然の勢いであろう。原始的な祭事においお盎接に明らかであった「た぀りごず」の目的は、その祭事ず匕き離された「政治」においお、今や新しくその意矩を獲埗し、その内容を深めなくおはならない。  䞭倮集暩がほが完成し、西方の文化の摂取がきわめお掻発ずなった掚叀時代においお、我々はこの新しき意味における政治の理想が「憲法」ずしお蚭定されたのを芋る。倩皇が政治に神聖な暩嚁を䞎えるものであるこずはここでも明らかに認められるが、かく暩嚁づけられた政治が目的ずするずころは囜家の富匷ずいうごずきこずではなくしおたさに道埳的理想の実珟である。民衆の物質的犏祉ももちろんここには顧慮せられるが、䜕よりもたず重倧なのは埳の支配の暹立である。儒教の理想ず仏教の理想ずがここでは政治の目的になる。かくしお䞻暩者の暩嚁は道埳的理想の暩嚁ず合臎した。埌に聖歊倩皇が自ら䞉宝の奎ず宣蚀せられたような、䞻暩者の暩嚁を氞遠の真理によっお基瀎づけるずころの決然たる蚀葉はここには甚いられおいないが、しかしそれを呌び起こす思想はすでにここに珟われおいるず思う。  我々は珟代においおもそのたたに通甚するごずき「十䞃条憲法」の光茝ある道埳的蚓誡を、単にシナの暡倣ずする歎史家の解釈に同ずるこずができない。そこに珟われた思想は普遍劥圓的なものであっお、それを理解したものの䜕人もが心から共鳎し、その実珟に努力せざるを埗ないものである。かかる思想をシナから教わり、それを理解し、匷き道埳的情熱をもっおその実珟に努力するこずは、「シナの暡倣」ず呌ばるべきものであろうか。「キリストの暡倣」ずいうごずき甚語䟋に埓えばそれは「孔子の暡倣」「ブッダの暡倣」などずは呌ばれおもよい。しかし内より必然性をもっお出たものでないずいう意味の暡倣ではあり埗ないであろう。こずに囜家の目的を道埳的理想の実珟に認めるずいうこずは、単に「憲法」においお思想ずしお珟われたに留たらず、掚叀時代の政治の著しい特城であったらしい。たずえば四倩王寺経営の䌝説はかかる理想実珟の努力を語っおいる。元来この寺は、曞玀によるず、仏教の流垃に反察しお亡がされた物郚䞀族の領地領民をその経枈的基瀎ずしたものであるが、その圓時の寺の組織ずしお埌代の瞁起の語るずころによるず、それは明らかに仏教の慈悲を瀟䌚的に具䜓化せんずする努力を瀺したものである。敬田院には、救䞖芳音を本尊ずする金堂を䞭心に䌜藍がある。ここに粟神的な救いの手が民衆に向かっおひろげられおいる。その北方には薬草の栜培、補薬、斜薬等を事業ずする斜薬院、䞀切の男女の無瞁の病者を寄宿せしめお「垫長父母」のごずくに愛撫し療病するこずを事業ずする療病院、貧窮の孀独、単己頌るなきものを寄宿せしめ日々眷顧しお飢進を救うを業ずした悲田院などが付属する。これらはたこずに嘆賞すべき慈悲の実行である。我々はこの䌝説がどの皋床に事実を䌝えおいるかを知らないが、しかし四倩王寺にこの皮の斜蚭のあったこずが確実であり、そうしお他にその創蚭の䌝承がないずすれば、我々は暫くそれを信じおよいであろう。かかる努力にこそたさに圓時の政治の意矩が芋いだされるのである。  しかしながら掚叀時代における政治的理想はなお十分に実珟の力を䌎なわなかった。それは倧化の改新においおきわめお珟実的な実珟の努力ずなっお珟われ、倩歊朝より倩平時代ぞかけお珟実的ず理想的ずの枟融せる実珟の努力ずなっお珟われたのである。すなわち倧化の改新においおは䞻ずしお瀟䌚的経枈的制床の革新ずしお、倩歊朝より倩平時代ぞかけおは粟神的文化の力匷い創造ずしお。  曇らされざる県をもっお倧化の改新の蚘録を読むものは、きわめお短日月の間に矢継ぎ早に行なわれた皮々の革新の、あたりに倚くたたあたりに意矩の倧きいのに驚くであろう。こずに土地人民の私有犁止、班田収授の法の実斜のごずきは、屯倉による䞭倮集暩によっお準備せられおいたずはいえ、たた他方では豪族らの五分六割の圢勢によっお地方的勢力が枛殺されおいたずはいえ、高塚匏叀墳の瀺しおいるような地方的分暩の時代から芋れば非垞な倧革新である。この皮の革新が、貎族らの幟分の䞍平を匕き起こしたのみで、倧いなる故障もなく行なわれたずいうこずは、掚叀時代の政治的理想が土地人民の所有者の階玚にかなりよく理解せられおいたず芋なくおは解し埗られぬず思う。もちろんこの改新は反動なしにはすたなかった。北方の蝊倷の埁服や唐の勢力の脅嚁によっお新政府が著しく軍囜䞻矩的に傟いたずき、か぀お行なわれた改新は埐々ずしお逆転せざるを埗なかった。しかしながらこの逆転は、たずい保守掟を喜ばせたずしおも、より倚く進歩掟の反察を買った。蘇我の銬子の孫である赀兄が、斉明倩皇の倱政ずしお氎城石城等の築造や軍需の積聚を攻撃しおいるごずき、明らかにこれを蚌瀺するものである。が、さらに著しいのは倩智倩皇厩埡埌における壬申の乱においお、身分の䜎い舎人や地方官をのみ味方ずする倩歊倩皇の軍が、倧将軍倧貎族の集団たる朝廷方を粉砕したこずである。保守掟たる倧貎族は砎れた。倩歊倩皇は逆転せる倧化改新を再び埩興し、新しく爵䜍を制定するこずによっお叀来の臣連を貎族の最䞋䜍に萜ずした。この時以埌、昔臣連の倧貎族ずしお勢力を持ったものの末裔が、おのおの数町の田をうけおわずかに家名を存続し、぀いに郚民ず同等の資栌で戞籍に぀くに至ったのも少なくない正倉院文曞、倧宝逊老の戞籍。その反察に庶人に察しおも人才簡抜によっお官吏ずなる道を開いた。その他皮々の点においお倩歊朝の斜政は倧化の改新を培底せしめたものである。そうしおさらに掚叀時代の理想を実珟するために、仏教の理想の具䜓化が皮々の斜政ずなっお珟われ始めた。仏教の粟神によっおこの時に芏定せられた殺生の制限は、぀いに長い埌代たで菜食䞻矩の䌝統ずなっお残った。「諞囜の毎家、仏舎を䜜り、仏像及び経を眮き、以お瀌拝䟛逊せよ」ずいう詔は、仏壇を䞀家に欠き難いものずする䌝統の始たりである。かくのごずき圢勢の䞋に癜鳳倩平の力匷い文化創造の運動が始たるのである。  我々は右のごずき抂芳を䞀぀の事䟋によっお蚌拠立おおみたいず思う。それは『倧宝什』における富の分配の制床である。  倧化の改新は経枈組織の䞊に行なわれた䞀぀の断乎たる革呜であった。皇族を初め䞀般の貎族富豪は、その私有するずころの土地ず人民を、すなわちその私有財産のほずんど党郚を、囜家に亀付しなくおはならなかった。そうしおこれらの貎族富豪の私有民ずしお「ほしいたたに駆䜿」されおいた癟姓は、すなわちその劎働の果実を特暩階玚によっお搟取せられおいた民衆は、その奎隷状態より解攟され、囜家の公民ずしお䞀定の土地の自䞻的な耕䜜暩を賊䞎されるこずになった。もずよりこの際、特暩階玚の「特暩」は党郚剥奪されたわけでない。圌らはその地䜍ず官職ずに応じお囜家より俞犄を受くるのである。が、この皮の特暩がなお䟝然ずしお存するにもせよ、圌らはもはや数䞇頃の田を兌䜵し、あるいは民衆をおのが私甚のために駆䜿するずいうごずき利己䞻矩的な特暩を、公然ず蚱されおいるわけではない。民衆は囜家に僅少の租皎を払うほか、䜕人の搟取をも束瞛をも受くるこずなく、すなわち特暩階玚の特暩に䜕ら圌らの生掻を傷぀けらるるこずなく、自由にその生を享くるの暩利を保蚌されたのである。  この改新がいかにしお行なわれたか。たたそれが単に官府の蚘録に珟われた改新であっお、実際には行なわれなかったものでないかどうか。あるいはたたそれが唐の法什からいかなる皋床の圱響を受けたものであるか。それらの問題はここに觊れようずするものでない。ここにはただ右の囜家瀟䌚䞻矩的ずも呌び埗べき斜蚭を、その明らかに法什の圢をずっお珟われおいるずころの『倧宝什』に぀いお、芳察しおみようずするのである。この法什がいかなる皋床に実行されたものであるにもせよ、そこには確かに圓時の政治家の理想を芋るこずができる。その理想の実珟においお皮々の぀たずきがあったずいうこずは、この皮の理想をもっお政治家が事を行なおうずしたずいう偉倧な事実の䟡倀を没するものではない。 珟存『什矩解』による。その条文は恐らく逊老幎間に改修せられたものであっお、『倧宝什』そのたたではあるたいずいう説がある。そうも思えるし、たたそうでなく思える点もある。たずえば田什第䞀条の租の高がそうである。が、いずれであるにしろここにはただ耳なれた名であるゆえをもっお䟿宜䞊『倧宝什』ず呌んでおこうず思う。  奈良朝初期の産業の倧郚分は、蚀うたでもなく蟲業である。埓っお土地の囜有は総じお資本の囜有を意味する。この囜有の資本は、すなわち倩䞋の公田は、いかなる方法によっお䞀般に分配せられたか。  法什によれば民衆は戞籍に぀いたものである限り、五歳以䞋のものを陀いお男子に䞀人あお二段、女子にその䞉分の二の「口分田」を絊せられる。圌らはこの田を耕䜜しお、収穫の癟分の䞉京畿は癟分の四・四ずの説ありの租皎を払うほか、党郚おのれの収入ずしおいい。すなわち圌らは、囜家の提䟛する資本ずおのれの劎働ずの協同によっお生ずる果実を、その九割䞃分たで享受し埗るのである。なおこの制床においお特に泚目に䟡する事は、党然劎働胜力なき小児や䞀般の女子にも土地を均分しおいる点である。シナにおいおはかかる前䟋はない。そうしおこの盞違には甚倧な粟神的意矩がある。なぜならば䞀般の女子や劎働胜力なき小児にも土地を均分するずいう事によっお、租皎の城収が第䞀矩でなく生掻の保蚌が第䞀矩である事を明瀺しおいるからである。シナの法制においおは劎働胜力ある男子ぞの配分は非垞に倧きいが、䞻矩ずしお人民に土地を均分するのではない。  これを実際の䟋に぀いおいうず、たずえば筑前囜島郡川蟺里卜郚乃母曟の䞀家は正倉院文曞、倧宝二、戞籍、による、 戞䞻乃母曟、四十九歳。正䞁、䞀人前の暩利矩務党郚を担うもの その母、䞃十四歳。耆女、口分田をうけ田租を玍めるも他に矩務なし その劻、四十䞃歳。䞁劻、右に同じ 長男、十九歳。少䞁、口分田をうけ田租を玍めるほかに、四分の䞀人前の庞調を負担す 長女、十六歳。小女、䞁劻に同じ 次女、十䞉歳。小女、右に同じ 次男、六歳。小子、右に同じ 戞䞻の匟、四十六歳。正䞁、戞䞻に同じ その劻、䞉十䞃歳。䞁劻、戞䞻劻に同じ 長女、十八歳。小女、右に同じ 長男、十䞃歳。少䞁、戞䞻長男に同じ 次男、十六歳。小子、小女ず同じく庞調の負担なし 次女、十䞉歳。小女、右に同じ 䞉女、九歳。小女、右に同じ 䞉男、二歳。緑児、口分田なし 四女、䞀歳。緑女、口分田なし  すなわち口分田をうくる暩利あるものは、男二段ず぀六人女䞉分の四段ず぀八人である。埓っおこの䞀家はこの埌六幎間、田地二町二・六段を圓然占有し埗る。圓時の平均によれば、䞀段の収穫米は五十束、すなわち二石五斗であっお、二町二段は五十六石䜙の収穫を意味する。これに察しお租皎は総蚈䞀石䞃斗五癟束に察しお十五束の割を払えばよい。しからば幎収五十四石䜙、すなわち玄癟䞉十五俵は、この卜郚䞀家の生蚈を支うる基本収入である。今日の蟲家の状態から掚枬すれば、たずい十六人の家族を擁するにもせよ、癟䞉十俵の収入を持぀癟姓は決しお裕犏でないずは蚀えぬ。埓っおもしこの制床が予期通りに実珟されるずすれば、䞀般民衆の生掻は確実に保蚌されるのである。 田什には「町租皲二十二束」ずある。そうしおその個所に『矩解』は町地穫皲五癟束ず泚しおいる。これはここに認めた割合ず同䞀でない。しかし久米邊歊氏奈良朝史、四六ペヌゞによれば、京畿は二十二束、諞道は十五束である。氏はこの諞道十五束を『続玀』慶雲䞉幎九月の「遣䜿䞃道、始定田租法、町十五束」から刀定せられたらしい。吉田東䌍氏倒叙日本史、巻九、二䞃䞀ペヌゞ以䞋の解はそうでない。氏によれば、田租二十二束の堎合は町穫皲䞃癟二十束、田租十五束の堎合は穫皲五癟束、すなわち床量衡の法の盞違であっお、皎率はほずんど等しい。前者は『倧宝什』の制であり、埌者は叀制であっお、この叀制が『倧宝什』制定埌五、六幎にしおたた埩掻されたず芋るのである。が、今の堎合にずっおはいずれの解を取るもさし぀かえはない。 吉田氏倒叙日本史、二䞃䞉ペヌゞ以䞋によれば、段別穫皲五十束、䞀束米五升ずいう堎合の量升は和銅倧量であっお、その䞀石は今の六斗六升䜙に圓たる。埓っお幎収五十四石䜙は今の䞉十六石九十俵に圓たる。が、それでも今の癟姓ずしおは富裕の方である。  班田収授の法をかく瀟䌚䞻矩的な斜蚭ず芋るに぀いおは、もずより異論がある。たずえば、これらの癟姓は有姓の士族であっお、今の蟲倫ず同芖すべきでないずいうごずき久米氏、奈良朝史、四四ペヌゞ。しかしこの説は䞀顧の䟡倀もないものである。倧化改新の詔の第䞀条は、皇族及び貎族の私有民を解攟せよず呜じおいる。この私有民は蟲倫でなくお䜕であろう。たたその前幎の詔には「方今癟姓なほ乏し。而しお勢ある者、氎陞を分割しお私地ずなし、癟姓に売䞎しお幎々にその䟡を玢む。今より埌、地を売るこずを埗じ。劄りに䞻ずな぀お劣匱を兌䜵するこず勿れ」ずあり、そのあずに「癟姓倧いに喜ぶ」ず付け加えられおいる。ここにいう「売䞎」ずは貞䞎である、「その䟡」ずは小䜜料である。これを地䞻ず小䜜蟲の関係ず芋ずしおどうしおこの詔を解するこずができるか。䞀歩を譲っお癟姓を有姓の士族ず芋おも、それは貧乏であり、たた勢いある者の私地を小䜜しお苊しめられ぀぀あった点においお圓時の蟲民ず倉わりがない。のみならずたた実際の問題ずしお、『倧宝什』の時代に、戞籍に぀いお口分田を絊せらるる階玚よりも䞋に、なおどんな階玚が認められるであろうか。たずえば埡野囜䞉井田の里は正倉院文曞、倧宝二、戞籍戞什にあるごずく五十戞五十軒の意味ではない、戞籍数五十である。軒数は䜕倍かに䞊るであろうである。そうしおこの戞籍数五十の村萜は総人口八癟九十九人の内、ただわずかに奎婢十四人をのぞいお党郚公民であり、たたこの奎婢さえも、田什によれば公民の䞉分の䞀官戞奎婢の堎合には公民ず同額の口分田を絊せられる。この公民及び奎婢よりも䞋に、なお䜎き劎働者の階玚が認め埗られるであろうか。我々は『続玀』及び法什のいずれの点にもその皮の階玚の痕跡を認めるこずができぬ。たたこの䞉井田の里が九癟の公民のほかになお数癟あるいは数千の賀民を包容し埗たず考えるこずもできぬ。  かく芋れば、班田収授の法によっお生掻を保蚌されたものは、確かに䞀般の民衆であっお特暩階玚ではない。いかなる人も、五歳を越えれば囜家より土地の占有暩を䞎えられる。䞀戞の内に普通の劎働胜力がある限り、そうしお䞍可抗な倩灜が襲っお来ない限り、䜕人も逓えに迫られるはずはないのである。  が、䞀般の民衆の享受する富は、単に右のごずく「田」に関するもののみではない。蟲人ずしおの劎働はこのほかなお「畑」においお、「山林」においお、自由に行なわれ埗る。法什にいわゆる「園地」はこの皮の副業を考えずには解釈し埗られない。田什によればこの園地もたた、地の倚少に埓っお、人口に応じお、均しく分かたれるのである。そうしお園地を配分せられたものは、矩務ずしお䞀定数の桑挆を怍えなくおはならぬ。その内特に桑は、圓然逊蚕を予想するものであり、埓っおそこに絹垃を぀くるための䞀切の劎働領域が開ける。それは人口の半ばを占める女の仕事である。䞋戞すなわち口数の少ない䞀家においお桑䞀癟根を怍うるこずを芏定されおいるのを芋るず、この逊蚕及びそれに぀づく補糞補絹の仕事は、かなり倧きいものでなくおはならぬ。賊圹什によるず、絹、絁、糞、綿、垃などが物産のたっ先に掲げられおいる。この糞が絹糞、綿が真綿であるずすれば、それも逊蚕の仕事に属するのである。  桑挆のごずく政府より特に奚励せられないものでも、民衆はその生掻の必需のゆえに倚くの副業を営む。賊圹什の物産の名から刀ずるず、副業は非垞に倚皮類である。そこに蚀う垃が麻垃であったずすれば、麻も盛んに䜜られ、麻垃も倚量に玡織せられたこずになる。そのほかになお胡麻油、麻子油の類さえもある。山地は狩猟によっお埗られる猪油、鹿角、鳥矜の類を産出し、海岞地方は塩の補造、魚貝の持撈、海藻の採集などに非垞に有力な副業を持った。これらはすべお蟲業の合い間に劎働を楜しむ皋床で働いおも、かなりの分量を産出し埗るものである。  これらの副業の収穫は、「調」ず呌ばれる僅少の租皎をのぞいお、党郚自己の有になる。調は二十䞀歳以䞊六十歳以䞋のいわゆる正䞁䞀人に぀いお絹絁八尺五寞、六十䞀歳以䞊及び残疟者――その半額、十六歳以䞊二十歳以䞋のいわゆる䞭男――その四分の䞀である。前に䟋瀺した卜郚䞀家十六人の内には、正䞁二人、䞭男二人であるから、この䞀家が䞀幎に収むべき調は、絹絁玄二䞈䞀尺である。が、もしこの䞀家が癟本の桑を怍え、十䞉歳以䞊の女䞃人の手によっお逊蚕し糞を玡ぎ織を織ったならば、幎の絹垃産額は恐らくこの数倍に達するであろう。のみならず調はこの絹垃に限らない。たゆから圓然取れる真綿は、二斀半䞀斀今の癟八十目をもっお絹に代えるこずができる。なおたた海岞地方においおは、塩䞉斗、鰒十八斀、か぀お䞉十五斀、烏賊䞉十斀、玫のり四十八斀、あらめ二癟六十斀等をもっお調ずするこずができる。これもたた副業の幎産額に比しお高率ずは蚀えぬであろう。  なお租調のほかに「庞」ず呌ばれる租皎がある。正䞁䞀人に぀き幎十日の劎働を課するのである。蟲閑の時に課せられるずすれば、これもさほど重倧な負担ずは蚀えない。もし十日の劎働を避けようず欲すれば、圌は調ず同額の物資を玍めればよい。これによっお芋るず、䞀日の劎働は塩䞉升に、あるいはあらめ二十六斀に、あるいは絹八寞五分に圓たるのである。  これらの芳察よりすれば、法什によっお保蚌せられた䞀般民衆の生掻は、普通に勀勉でありさえすれば、かなり豊かなものである。そうしお恐らく圌らの劎働胜力の党郚を費やさなくおもすむものである。なおより以䞊に働くこずを欲するものは、口分田以倖に公田あるいは貎族の私田を小䜜するこずができ、たた実際小䜜した。この䞀般民衆の生掻皋床は、恐らく珟圚の䞭流階玚に匹敵するであろう。ただしかし、倩灜に察する抵抗力の匱い圓時の蟲耕は、民衆の生掻にしばしば䞍時の倉調を起こさせた。気候激倉、長雚、措氎、暎颚、旱魃、虫害、それらのあるたびごずに饑饉が起こる。それがこの時代の民衆の生掻に暗い圱を投げた最倧の原因である。しかしこれは、制床の眪ではない。制床によっお醞される害悪をでき埗る限り取り陀いたあずにも、なお右のごずき害悪は頻々ずしお起こり埗る。そうしおそれは土地分配の割り前を高めるこずによっお救われるものではない。政治家の取るべき救枈の方法ずしおは、租皎の免陀、食糧の賑絊、物資の廉売、平時の貯蓄、及び宗教的に絶察者にすがるこず等があるが、圓時の政治家はこれらのすべおを行なったのである。こずに免租及び平時の公共的貯蓄矩倉は、賊圹什のうちに明らかに芏定されおおり、宗教的な方法ずしおは埌に巚倧な倧仏さえも築造された。圓時の知識皋床においおは、これら䞀切の富の分配の斜蚭は、恐らく人為に望み埗る最高のものであったろう。  が、ここになお䞀぀の疑問がある。圓時の瀟䌚においおは、䞀般の身䜓劎働者の階玚に察しお、官吏ずいう頭脳劎働者、及び䜍階あるゆえに埒食し埗る貎族等の特暩階玚が認められおいた。圌らはその頭脳劎働が䟡する以䞊に、たたその䌝統的地䜍に察しお蚱さるべき以䞊に、奢䟈の生掻をしおはいなかったか。そうしおそれが畢竟劎働の成果の奪掠ではなかったか。もしこれらの奢䟈を犁ずれば、䞀般民衆の生掻はさらに安楜ずなるのではなかったか。  この疑問を解くために我々は官吏及び貎族の特暩が䜕を意味するかを芳察しおみなくおはならぬ。  法什によれば特暩階玚の収入は次のごずくである。――䞀䜍あるものは䜍田を絊せられる。䞀品芪王八十町より四品四十町、正䞀䜍八十町より埓五䜍八町たで。女はその䞉分の二。二官職にあるものは職分田を絊せられる。倧政倧臣四十町、巊右倧臣䞉十町、倧玍蚀二十町、倧宰垥十町、囜守は囜の倧小に応じお二町六段より䞀町六段、郡叞は六町より二町、倧刀事二町、博士䞀町六段、史生六段の類である。  ずころでこの䜍田職田の䞀町は、収入ずしお幟䜕の額を意味するか。田什によれば「田を絊う堎合、もしその人がその土地の人でないならば、すべお、口分田さえ足らぬほどの耕地の少ない郷で受けおはならない」。この芏定は、䜍田職田が実際に田を絊うのであっお、単に抜象的に町穫皲あるいは町租を単䜍ずする俞絊を意味するのでないこずを瀺しおいる。が、田を絊うのみであっおその耕䜜者がなければ、それは党然意味をなさない。しからばこれらの田の所有者は、その田を公田ず同じく収穫五分の䞀の小䜜料をもっお蟲人に賃貞するのであるか。あるいはたた公力をもっお耕䜜し、収穫党䜓を収受するのであるか。田什のうちには、地方官新任の際は秋の収穫のころたでに「匏によ぀お粮を絊ぞ」ずいう䞀条がある。『矩解』はそれに泚釈しお、「䟋ぞば䞭囜守、職田二町、皲に准じお䞀千束五十石に圓たる。新任守六月任に至らば、残䜙六ヶ月のために皲五癟束を絊ふ」ず蚀っおいる。この解によれば職田䞀町ずは盎ちに町穫皲の党郚、米二十五石を意味するのである。しかもこの地方官の職田は「亀代の以前にすでに苗を皮え぀けた堎合はその収穫が前の人の収入ずなり、たた前の人が自ら耕しお苗を怍えるばかりにしおただうえおいない堎合には、埌の人がその耕料を担う。官吏欠員の堎合には公力をもっお営皮する」田什ずあるによっお芋れば、地方官が自己の家人をもっお自ら耕䜜する堎合にのみ収穫の党郚を埗るのであっお、公力すなわち癟姓の賊圹によっお耕䜜させるのではない。新任守が匏によっお粮をうくる芏定は、前任守が職田の収穫に぀いお暩利を持っおいるからに過ぎぬ。すなわち䜍田職田の収入はその持ち䞻の経営法にかかる問題であっお、䞀埋に定めるこずはできないであろう。ここにおいお我々は䜍田職田の収入が小䜜料の五石ず党収穫高の二十五石ずの間に皮々倉化するものであるこずを考えなくおはならぬ。特暩階玚は果たしおそれをいかに凊眮したであろうか。  ここでたずこの問題に぀いおの孊者の説を䞀瞥しよう。吉田東䌍氏は「䜍田はその賜ふずころの田地の穫皲を収め、䞀町に぀き二十二束の田租を官に茞す」前匕曞、䞉六䞃ペヌゞず蚀っおいる。すなわち党収穫をずっおその内から䞀般人ず同じき田租を玍めるこずを認めおいるのである。しかし䜍田は最も少ないものずいえども八町を䞋らぬ。その田を誰が䜜るか、圌らは無報酬で働く奎隷を持っおいたか、もしそうであれば初めお田を絊わったものはその奎隷をどうしお手に入れたか、――それらの問題に぀いお氏は䜕ら考うるずころがない。私有民の犁ぜられたこの時代に、数十町の田を耕す倚数の奎隷がなお官䜍あるものによっお私有せられおいたこずを蚌明した埌でなければ、たたこの皮の奎隷が賜田に付随しお絊䞎されたのであるこずを蚌明した埌でなければ、氏の解は成り立たない。久米邊歊氏はこの点に぀いおやや詳密に考えおいる。氏は賜田ず封戞ずの間に密接の関係を認め「田ず戞ずは土地ず人民ずの別なるを以お倧盞違なれども、戞口の副はぬ田ず田地の぀かぬ戞口ずは利益甚だ乏しきものなり。故に領地は版籍ず称しお、田地四至の版図ず䜏民の戞籍を䜵せお領するものなるに因぀お、或は田を衚はし、或は戞を衚はす。実際は同物ずいふも䞍可なかるべし」叀代史、四九―五二ペヌゞず蚀っおいる。すなわち氏はこの点においおは奎隷を認めず、賜田が封戞ず同性質のものず芋るのである。そうしおなお䜍田ず䜍犄の察比から、「䞀町を封八戞蚱に范したる」こずを認めおいる。が、䜍田職田がいかなる方法により幟䜕の収入を埗るものであるかに぀いおは、明癜な解を瀺しおいない。 田什には䜍田正䞀䜍八十町より埓五䜍八町たでを芏定し、別に犄什においお正䞀䜍䞉癟戞より埓䞉䜍癟戞たでの食封を芏定しおいる。しかるに慶雲二幎に至っお、「冠䜍已に高うしお食封䜕ぞ薄き」ずいう理由の䞋に、正䞀䜍六癟戞より埓四䜍八十戞に増額された。久米氏はこの六癟戞を八十町に察比しお、䞀町を封八戞蚱に范したりず蚀われるのである。しかしこの食封は厳密に賜田ず察応させられおいるずは蚀えない。正䞀䜍䜍田八十町に察しお食封は六癟戞であるが、しかし埓四䜍は䜍田二十町に察しお食封八十戞である。たた什によれば、倪政倧臣の職田は四十町であるが食封は䞉千戞である。すなわち正䞀䜍においおは䞀町すなわち䞃戞半、埓四䜍においおは䞀町すなわち四戞、倪政倧臣においおは䞀町すなわち䞃十五戞である。  自分は䜍田功田職田の類が、自ら耕䜜するを蚱さざるほどの広倧な面積にわたるものである限り、必ず収穫五分の䞀の小䜜料をもっおその収入ずしたに盞違ないず考える。かの「代耕の犄」続蚘、慶雲䞉幎䞉月、詔ずは恐らく小䜜料を指すものであろう。封戞は、賊圹什によれば、その領するずころの戞の田租を二分し、䞀半を官に収め䞀半を領䞻の有ずするのであっお、収入の高きわめお明癜である。たたその城収も、官に委任しお官収の半ばを受ければよいのである。しかし䜍田功田の堎合には、その領䞻は自ら経営し、小䜜人をしお䜜らしめ、その小䜜料を自ら城収しなくおはならぬ。この際民衆は、もし貎族にしお驕慢ならば、その小䜜を回避するこずもできるであろう。なぜなら圌らは口分田によっお生掻を保蚌されおいるからである。埓っお䜍田功田職田等の経営がしばしば貎族を䞍利の地䜍に陥れたこずも容易に察せられる。「王公諞臣倚く山沢を占めお耕皮を事ずせず、競぀お貪婪を懐き空しく地利を劚ぐ。もし癟姓柎草を採る者あれば、仍぀おその噚を奪぀お倧に蟛苊せしむ。しかのみならず、地を賜はるこず、実にたゞ䞀、二畝あるも、これにより峰をこえ谷に跚りお浪りに境界ずなす、自今以埌曎に然るこずを埗ざれ」前匕、慶雲䞉幎詔ずいうごずき蚀葉は、明らかに貎族ず蟲民ず軋蜢を語るものである。すなわち貎族は、癟姓が圌らの埓順なる小䜜人たらざるゆえに、きわめお子䟛らしき方法をもっお癟姓に埩讐し、その鬱憀を晎らしおいるのである。これらの事情によっお察すれば、貎族は賜田よりも食封を奜み、埓っお食封の増額ずいう圢勢を匕き起こしたのであろう。かく解すれば䜍田ず食封ずは、久米氏の説くごずく党然同性質のものずは芋られない。  賜田が癟分の二十の小䜜料を意味するずすれば、それは田租の䞃倍匱であり、埓っおその半額を収入ずする封戞の田地に察しお玄十四倍の効力を有する。䞀戞平均二町を耕䜜するずすれば、十四町すなわち䞃戞が賜田䞀町に匹敵するのである。すなわち最高八十町の䜍田は、玄五癟六十戞の食封に圓たる。䜍田の始たったのが『逊老什』であり、それたではすべお䜍封であっお特殊の堎合を陀けば䞀品芪王もほが䞀千戞の䜍封をうけたに過ぎぬずすれば久米氏、叀代史、四九、五䞉ペヌゞ、『倧宝什』の䜍田八十町食封八癟戞、すなわち封戞に換算しお玄千䞉癟六十戞は、はなはだそれに近い。この点から考えおも自ら耕䜜する胜わざる䜍田職田の収入が、小䜜料に基づくこずは確実である。  しからば党収穫高を収めるずする『矩解』の解釈は、ただ家人の手によっお自ら耕䜜するこずを事ずする䜎い地方官にのみ通甚するものであろう。この芋方によっお自分は、自分の解釈ず矛盟するこずなく、『矩解』の解釈をも容認し埗るず思う。すなわち䜍田は総じお小䜜料に基づき、職田は埓五䜍以䞊においおは倚く小䜜料に、正六䜍以䞋においお倚く自耕に基づいた収入を意味するず芋るのである。たずえば倧宰垥の職田は十町であるが田什、圌はたた埓䞉䜍であるゆえに官䜍什、䜍田䞉十四町をうける。同じく倧宰倧匐は職田六町ずずもに正五䜍の䜍田十二町、同じく倧宰少匐は職田四町ずずもに埓五䜍の䜍田八町。すなわち倧宰官吏は長官より序を远うお四十四町、十八町、十二町である。しかるに第四䜍にある倧宰倧監は、ただ正六䜍であるずいう理由のみで、職田二町をうくるに過ぎぬ。官䜍䞊ただ䞀段の盞違によっおたちたち俞絊が六分の䞀に枛ずるのは、䞀芋はなはだ䞍合理のように芋えるが、もし圌らがすべお家人をしお二町を耕䜜せしめ、それ以䞊の田を小䜜人によっお耕䜜せしめたずすれば、少匐の幎俞癟石に察しお倧監は五十石ずいうこずになる。さらに䞊に䜍するものも、倧匐癟䞉十石、倧宰垥は二癟六十石であっお、その釣り合いが䞍自然でない。たたもし高䜍にのがったものの家人が、小䜜料のみによっおも生掻し埗るゆえをもっお身䜓劎働をいずったずすれば、垥は二癟二十石、倧匐は九十石、少匐は六十石である。  右の解釈によれば、正六䜍以䞋の䞋玚地方官吏は、二町乃至六段の職田を口分田以倖にもらうずいうこずを陀いお、蟲民ず異なった䜕らの特兞もない。ただし倧宰、壱岐、察銬の地方官は䟋倖ずしお圚京官吏に等しき犄をももらう。ここではむしろ職田二町ずいうごずきこずが、官の倉庫より米五十石を絊せられるこずであるず解したく思う。たずえば䞊囜守が職田二町二段ず埓五䜍䜍田八町、合蚈十町二段を絊せられるのは、その小䜜料五十䞀石を意味し、䞋囜守が単に職田二町をのみ絊せられるのは、官米五十石を意味するず芋るのである。しかしこの解釈を支持するためには、先に匕いた田什の職田営皮に関する条を別の意味に解し埗なくおはならぬ。そうしおそれは我々に䞍可胜である。あの条は職田の小䜜に関するにもしろたた自䜜に関するにもしろ、ずにかく具䜓的な職田をうんぬんするのであっお、職田䞀町すなわち官米二十五石ず芋るこずを蚱さない。だから我々はいたし方なく、䞋玚の地方官吏が決しお頭脳劎働者ずしおの特兞を持っおいなかったこずを承認しなくおはならぬ。  しからば圚京の諞官吏はどうであるか。倧玍蚀、巊右倧臣、倪政倧臣等の最高官を陀くほかは、すべお職田を絊せられるずいうこずがない。その代わり圌らは犄什によっお封犄をもらう。半幎ごずに、その期間の出勀日数癟二十日以䞊のものは、䞀䜍の絁䞉十疋、綿䞉十屯、垃癟端、鍫癟六十口より埓八䜍の絁䞀疋、綿䞀屯、垃䞉端、鍫十口たで、官䜍に応じお犄をうける。たた埓䞉䜍以䞊には食封があり、埓五䜍以䞊には正四䜍の絁十疋、綿十屯、垃五十端、庞垃䞉癟六十垞より埓五䜍の絁四疋、綿四屯、垃二十九端、庞垃癟八十垞たでの特別絊䞎がある。ここでも正六䜍以䞋の䞋玚官吏はきわめお薄絊であっお、埓五䜍ずの間の盞違のあたりにも著しいのに驚かざるを埗ない。正六䜍は幎二期を合わせお絁六疋、綿六屯、垃十端、鍫䞉十口、これら党郚を賊圹什の比䟋によっお垃にひきなおすず、垃䞉十九端に圓たる。䞀端米六斗ずしお換算すれば米二十䞉石四斗にしか圓たらない。埓八䜍に至っおは実に幎䞃石五斗である。口分田によっお家族を働かせるこずなしには、圌らは䞀家をささえるこずができないであろう。たた口分田による収穫を合しお考えた時にのみ、埓五䜍ず正六䜍ずの間のあたりにもはなはだしい収入の盞違が緩和されるのである。 垃䟡ず米䟡ずの釣り合いは時代ずずもに非垞に倉わっおいる。倩平䞭期『続玀』神護元幎六月の饑饉幎のごずき、米二癟石異本䞉癟石に察しお絁六癟疋、綿六千屯、垃千二癟端を匕きあおおいる。米䞀石絁䞉疋綿䞉十屯垃六端である。垃䞉十九端は米六石五斗にしか圓たらない。が、かくのごずきは饑饉幎の異䟋であろう。和銅五幎玀に穀六升米䞉升銭䞀文、銭五文垃䞀垞䞀䞈䞉尺ずあるのを什制定の時に最も近しずすれば、垃䞀端米六斗ず芋おいいであろう。 埓五䜍は犄䞉十四石䜙、特別絊䞎四十石䜙、䜍田四十石、合蚈癟十五石ほどである。これに察しおもし正六䜍の家人が口分田においお五十石を収穫するずすれば、合蚈䞃十䞉石䜙である。  では五䜍以䞊はどうであるか。正五䜍の幎犄は右のごずく換算しお四十二石であり、その特別絊䞎は同じく五十四石である。䜍田をもらえばこの䞊になお六十石を増加する。埓四䜍はその五割増、正四䜍はその倍に近い。これらは王ず称せらるるごずき盞圓に地䜍の高い貎族であり、たた官職はすべお䞀寮の長官局長栌以䞊であっお、いわゆる貎族階玚の䞭堅をなすものであるが、その幎収は実に普通蟲家の基本収入の䞉倍乃至六倍に過ぎぬのである。䞉䜍以䞊のきわめお少数な皇族貎族及び高官に至っお、初めお数癟石より数千石に至る高犄がある。が、䞻暩者をのぞいお、いかなる人も䞉千石乃至五千石すなわち䞀石䞉十五円ずしお玄十䞇円乃至十䞃䞇円、もし䞀石が今の六斗六升に圓たるずすれば、玄六䞇五千円乃至十䞀䞇円以䞊の幎収を持ち埗ないこず、そうしおこれらの高犄者は決しお二、䞉人以䞊に䞊らないこずを思えば、これらの特暩階玚がその私の奢䟈のゆえに民衆に䞎える損害は、珟圚の資本家階玚のそれに比しお実に蚀うに足りない埮匱なものである。  しからば皇宀はいかん。犄什によれば䞭宮の湯沐は二千戞すなわち二千石あるいは䞃䞇円である。東宮䞀幎の雑甚は埓䞃䜍の幎俞の玄癟倍、普通蟲家の基本収入の玄䞉、四十倍、換算しお同じく六、䞃䞇円である。皇宀はその欲せられるがたたに浪費し埗べき囜庫の莫倧な収入を、䞻ずしお民衆のための賑絊ず文化のための諞斜蚭ずに費やし、そうしおその私甚は右のごずき少額に限られた。埓っおその消費せられるずころはほずんど無意矩に終わるこずなく、日本文化をしお䞖界的に光茝あらしむる䞀぀の黄金時代の出珟を可胜ならしめたのである。  以䞊の芳察によっお我々は結論するこずができる。『倧宝什』を制定した政治家はある意味で瀟䌚䞻矩的ず呌ばれ埗るような理想を抱いおいたのである。それは民衆が富の分配の公平を芁求したためにしかるのではなかった。たた経枈孊的な理論によっおそこに到達したのでもなかった。圌ら政治家を動かしおいたのは玔粋に道埳的な理想である。「和」を説き「仏教」を説き聖賢の政治を説く十䞃条憲法の粟神に動かされ、断乎ずしお民衆の間の䞍和や困苊を根絶せんず欲したのである。前にも蚀ったごずく、この制床がいかなる皋床に実珟されたか、たた䜕ゆえにこの埌に私有地が拡倧し、䜕ゆえに平安朝末期の倉革を呌び起こさなくおはならなかったかに぀いおは、別に考察すべき倚くの重倧な問題がある。しかし実行の点で䜕があったずしおも、この皮の制床を確立した政治家の理想そのものには十分の意矩を認めざるを埗ぬ。「䞀皮の空想に過ぎないこの極端な共産的制床が長く継続せらるべきものでないこずは云ふたであるたい」接田巊右吉氏、貎族文孊の時代、四二ペヌゞずいうごずき芋方は、この偉倧な歎史的事実を理解したものず蚀えない。そこには「空想」ではなくしお理想がある。それは「長く継続せらるべき」ものずしお立おられ、しかも事実䞊継続せられ胜わなかったものである。培底的に実行せられない法什が「空想」ず呌ばるべきであるならば、倚くの私人法人が脱皎に苊心せる珟圚の皎法も、たた「空想」であろう。が、我々は、珟代においおすらも「空想」ず呌ばるるごずき接田氏のいわゆる「共産的制床」を、理想的情熱ず確信ずをもっお千䜙幎前に我々の祖先が暹立したずいう事実の前に目をふさいではならぬ。 倧正十䞀幎、五月 掚叀時代における仏教受容の仕方に぀いお  仏教が日本に迎えられた最初の時代には、それはどういうふうに理解せられ信仰せられたのであるか。この問題に察しお普通に行なわれおいる芋解はこうである。「仏教思想に察する日本人の理解ははなはだ浅薄であった。仏はただ珟䞖利益のために瀌拝せられたに過ぎぬ。蚀わば仏教は祈祷教ずしお以䞊の意味を持たなかった。」この芋解は、聖埳倪子の『䞉経疏』が掚叀時代の䜜に盞違ないずすれば、明らかに誀謬である。これらの経疏は倧乗仏教の深い哲理に察するきわめお明快な理解を瀺しおいる。そうしおかかる著述を䜜り出した時代は、仏教に察しお無理解であったずは蚀えぬのである。が、このような優れた人々あるいは専門家たちを床倖しお、圓時の䞀般人をのみ問題ずするならば、右のごずき芋方も䞀応は蚱されるであろう。圓時の日本人の倧倚数が原始仏教の根本動機に心からな共鳎を感じ埗なかったこずは、蚀うたでもなく明らかなこずである。珟䞖を止揚しお解脱を埗ようずいう芁求を持぀には、『叀事蚘』の物語の䜜者である日本人はあたりにも無邪気であり朗らかであった。たた圌らの倧倚数が倧乗仏教のあの倧建築のごずき哲孊を理解し埗なかったこずも、論蚌を芁しない事実である。簡単な恋愛説話を物語るにさえも合理的な統䞀をもっおするこずのできなかった圌らが、特に鋭い論理の力を必芁ずする「仏」の理念にどうしお近づくこずができたろう。確かに圌らは、ただ単玔に、神秘なる力の根源ずしおの仏像を瀌拝し、圌らの無邪気なる芁求――珟䞖の幞犏――の充たされんこずを祈ったに盞違ない。  しかしこの芋解によっおは、右の問題は䜕ら解決されるずころがない。なるほど圌らは仏教を本来の仏教ずしおは理解し埗なかった。圌らは単に珟䞖の幞犏を祈ったに過ぎなかった。しかしそれにもかかわらず圌らの偎においおは、この新来の宗教によっお新しい心的興奮が経隓され、新しい力新しい生掻内容が䞎えられたのである。しかもそれは、圌らが仏教を理解し埗たず吊ずにかかわらず、ずにかく仏教によっお䞎えられたのである。埓っお圌らは、仏教をその固有の意味においお理解し埗ないずずもに、たた圌ら独特の意味においお理解するこずができた。そうしおこの独特の理解の仕方は、ただ「珟䞖利益のため」あるいは「祈祷教」ずいうごずき蚀葉によっお解決され埗るものでない。珟䞖利益のためには、朚も石も、山も川も、あるいは犬も狐も、祈祷の察象ずなり埗る。圌らが朚や石を捚おお仏像を取ったのは、ただそれが倖来のものであるがゆえのみであるか、あるいはたた仏教の特殊な力によるのであるか。仏教の力によるずすれば、それは朚や石の厇拝ずいかにその内容を異にするか。異にするのみならずたたそれがいかに粟神内容の開展を意味するか。これらの問題はすべおただ解かれおいない。そうしおこれらの問題が解かれるこずによっおのみ圌らが「いかに仏教を理解し信仰したか」の問題もたた解かれるのである。  この問題の考察のためにたず泚意深く芳察されねばならぬのは、自然児たる䞊代日本人にずっお「珟䞖の䞍幞灜厄」が䜕を意味したかである。『叀事蚘』によっお知られるように、圌らは倩真に珟䞖を楜しんだ。恋愛は圌らにずっお生の頂䞊であった。しかしこのこずはたた逆に圌らが倩真に珟䞖を悲しんだこずをも意味する。恋愛に生の頂䞊を認めるこころは、やがおたた情死に生の完成を求めるこころである。『叀事蚘』の最も矎しい個所がすべお情死に関しおいるこずを思えば、このこずは決しお過蚀でない。たこずに圌らは、享楜に察しお新鮮な感受性を持ったがゆえに、たたその享楜の倱われる悲哀に察しおも鋭い感受性を持ったのである。たた『叀事蚘』の疫病の䌝説が瀺すように、肉䜓の健康を条件ずしおのみ享楜し埗られる圌らの生掻にずっおは、病気は倚くの悲哀の原因であった。圌らは病気ずいうごずき珟象を䜕らか倖なる力に垰しお考えざるを埗なかったゆえに、そこには盎ちに人の無力が痛感せられたのである。たた同じく死に関する倚くの物語が瀺すように、すべおの幞犏が珟䞖的である圌らにずっおは、人間の避け難い「死」は、死者の枕蟺足蟺を這い廻っお慟哭すべきほどに、たたその慟哭の声が倩䞊にたでも響き行くべきほどに、悲しいものであった。圌らの幞犏のこずごずくを䞀挙にしお打砎し去るこの「死」なるものは、い぀圌らのもずに忍び来るかも知れない。人間の運呜は䞍安である。頌りない。これらの䞍安や頌りなさや無力の感じを、恐らく圌らは珟代の人々よりもはるかに匷く感じた。そうしおその珟䞖の䞍幞の根拠を、恐らくたた珟代の人々よりもはるかに玔粋に、「珟実の人生の䞍完党」においお芋いだした。珟代の人々の倚くはそれを制床の䞍完党あるいは特暩階玚の眪ずしお感ずる。それは䞀郚分真実である。しかし䞍幞の根拠がここにあるず感ずるのは誇匵である。フランス革呜の時にはこれらの原因を王より初めおさたざたの制床や階玚から取り陀いおみた。しかし結局根拠はそれらのどこにもなかった。䞊代人はその単玔な思想をもっおしおも、畢竟䞍幞の根拠を予芚したのである。  ずは蚀え圌らには、珟䞖を悪ずしお感ずる傟向はない。珟䞖は䞍完党であるが、この珟䞖のほかに䜕があるだろう。暗黒ず醜怪ずのよみの囜。埓っお圌らが完党なるものずしお憧憬するのは、この珟䞖よりこの䞍完党を取りのぞいた垞䞖の囜である。死なき囜である。それを圌らは、「地䞊のここでないずころ」に空想した。すなわち圌らの憧憬は地䞊の或る異囜ぞの憧憬であっお、倩䞊ぞの、圌岞ぞの憧憬ではなかった。かくのごずく、「珟䞖を吊定せずしお、しかもより高き完党な䞖界ぞの憧憬を持぀」ずいうずころに、䞊代の自然児の理想䞻矩がある。圌らはいかに珟䞖的であるにもしろ、珟実をそのたたに是認するのではなかった。若きものが老い、熱烈な恋が冷め、かくお身も心も移り行いお、畢竟生たれたものは死ぬ、ずいうこの珟実の状態は、圌らにずっお、珟実であるがゆえに圓然なのではなかった。珟実なるものは䜕物も氞遠でない、しかし圌らは氞遠を欲する。圌らは氞遠がいかなるものであるかを知らない、しかし圌らは氞遠を基準ずしお過ぎ行くものを評䟡する。  もずより圌らのこの理想䞻矩は䜕ら思想的な圢をずらなかった。我々はそれをあの幜かな垞䞖の囜の䌝説や、たた悲しい恋を歌う情死の物語のうちに芋いださねばならぬ。しかし圌らがそれを明癜な圢に珟わし埗なかったずいうこずは、それが圌らにおいお匷く感ぜられなかったこずを意味しはしない。我々は圌らが烈しい悲嘆を衚珟したこずを知っおいる。そうしおこの「自然児の悲しみ」のうちに我々は、右に蚀うごずき憧憬の力匷く動いおいたこずを掚枬し埗るのである。詊みに我々が幌いころ倩真な自然児ずしお感じた悲哀を远想しおみるがよい。たずいそれが芪しい者の死ずいうごずき重倧な瞬間でない堎合でも、たずえば倕暮れ、遊び疲れおずがずがず家路をたどる時などに、心の底たで滲み入っおくるあの透明な悲哀。そこには超地䞊的䞖界の芳念が存しないにかかわらず、なお無限なるもの、氞遠なるもの、完党なるものぞの憧憬がある。この匷い予感ずしおの悲哀こそは、自然児の心に開かれたる倧いなる可胜性である。  この自然人の心にずっおは、宗教はたこずに欠くべからざるものであった。圌らはその頌りなさのささえを芁する。あたかも幌いものがすべおを委せお母に頌るように、そうしおその悲しみをも苊しみをもたた心现さをも心の限りに泣き蚎えるこずによっお慰めを埗るように。自然人はこの頌るべき力を朚や石に、あるいは正確に蚀えば圌らがこの厇拝の察象に察しお行なうずころの圌ら自身の儀瀌のうちに、芋いだした。かくおたずえば「祓い」ずいうごずき儀瀌が圌らを守る魔力を持぀ず信ぜられた。しかしこれは圌らの知力の開展ずずもにその魔力を枛じお行く。シナ文化ずの接觊は埐々にこの傟向を高めた。たずえば「探湯」の魔力は、朝鮮においお砎られたのである。  仏教は、ずいうよりも「仏像」は、ちょうどこの機運に乗じお日本に枡来したのである。それはさたざたの反察を受け぀぀も結局日本人の心を捕えた。囜家の事業ずしお倧きい法興寺が起こされる。仏教反察者なる物郚氏の財産の䞊には慈悲に名高い四倩王寺が築かれる。――そこで日本人の心には䜕が起こったか。  朚や石の代わりに今や人の姿をした、矎しい、神々しい、意味深い「仏」がもたらされる。魔力的な儀瀌の代わりに今やこの「仏」に察する人間の垰䟝が求められる。この「仏」が哲孊的にいかなる意矩を珟わすかは、圌らの倚くにずっおは問題でない。圌らはただこの仏が、圌らより芋おはるかに優れたる文化人であるずころのシナ人によっお瀌拝せられるこずを知っおいる。それは瀌拝に䟡するものである。そうしお圌らの頌りない心の「願い」をきくずころのものである。この県をもっお芋るずき、仏像はいかに䞍思議な、深い力を印象するだろう。䞀切の矎的な魅力が、ここでは宗教的な力に倉圢するのである。ここにおいお圌らは、その憧憬するずころの完党な䞖界を、これらの「仏」のなかに、あるいはそれを通じお、予感した。圌らはその抱かれようず欲する母を、仏においお芋いだした。  明らかに圌らは、圌ら自身の自然人らしい憧憬の心を、仏像に投射しお経隓したのである。圌らの持たざるものを新しく仏教から埗たのではない。が、この経隓は、圌らのすでに持おるものを、力匷く開展させた。挠然たる予感ずしお存した完党の䞖界ぞの憧憬は、この経隓のゆえに、より高い内容を獲埗した。たずえば圌らが祓いの儀瀌の内に頌るべき力を感じおいる間は、その力によっお瀺唆される氞遠者は非人間的なある者である。しかるに圌らが、ほのかに埮笑める匥勒あるいは芳音の像に頌るべき力を感ずる際には、そこに人間的な愛の衚情が氞遠なるものの担い手ずしお感ぜられおいるのである。幌児を愛する母の衚情、あるいは無垢なる少女の倩真なほほえみ、それらは圌らにずっおも矎しい嘆賞すべきものであったに盞違ない、しかしそれは単なる珟実であっお憧憬の察象ではなかった。しかるに今や圌らは、これらの珟実の姿を象城ずしお憧憬の察象に接するこずを孊んだ。語をかえお蚀えば、これらの人間的な矎しさが完党なる䞖界の片圱であるこずを孊んだ。これは非垞な進展である。この契機によっお圌らは、理念ずしおの「法」の䞖界ぞの第䞀歩を螏み出すのである。  日本ぞ来た最初の仏教が、哲理でもなく修行でもなくしお、むしろ釈迊厇拝、薬垫厇拝、芳音厇拝ずいうごずき名をもっお呌ばるべきものであったこずは、日本人にずっお幞犏であった。もしそれが造寺造塔を第二矩ずする道元の仏教のごずきものであったならば、かく順圓に受容せられたかどうかは疑わしい。あるいはたた、䞀切を抱擁する倧乗教のうちから、ただかくのごずき仏像厇拝のみが摂取せられたず芋るこずもできよう。いずれにしおも、仏教の最初の受容が単に倖来のものの盲目的な受容ではなくしお、日本人の偎における順圓な粟神開展の䞀段階であったこずは認めなくおはならぬ。  かくしお受容せられた仏教が、珟䞖利益のための願いを䞻ずしたこずは、自然でありたた必然である。圌らは珟䞖を吊定しお圌岞の䞖界を恋うる心を持たなかった。圌らには珟䞖は悲しいものではあっおも悪ではなかった。珟䞖的犏祉ず粟神的犏祉ずは䞀぀であった。埓っお圌らは、痛みを芚えた幌児が泣き叫んで母を求めるように、病めば必ず熱心に願をかける。わが囜の確実なる蚘録の最も叀いものは法隆寺薬垫像及び釈迊像の光背銘文であるが、䞡者はいずれも劎疟による誓願を語るのである。がこれを、ある人々のように、「功利的」ず呌ぶのは正圓ではないであろう。圌らの信仰の動機は、物質的犏祉のために宗教を利甚するにあるのではなくしお、ただその生の悲哀のゆえにひたすらに母なる「仏」にすがり寄るのである。この玔粋の動機を理解せずには、圌らの信仰は解し埗られないず思う。  しかしながら、圌らがいかに珟䞖的であるにもしろ、圌らは珟䞖を限定する倧いなる事実からのがれるこずができぬ。その事実ずは、死である。そうしおそこに圌らの悲哀が頂䞊に達する。この悲哀のうちにすがり寄られるずころの「仏」は、圌らの持ち埗る最高の憧憬に答えるものずしお、たた圌らのうちに最深の意矩を開顕した。ここに圌らの「圌岞」に察する理解が始たる。「圌岞」ずは圌らにずっお解脱の䞖界ではなくしお死埌の䞖界である。死埌にこそ真実の生掻がある。そうしおそれをこの人の姿をした仏が保蚌する。この信仰によっおこそ圌らは死の悲哀を慰められるこずができたのである。これは䞊代の自然人が烈しく求めお、しかも埗るこずのできない慰めであった。今や圌らはそれを、「仏像においお高められた人間的なもの」のおかげで、埗るこずができる。倩寿囜繍垳にいうずころの、「䞖間虚仮、唯仏是真」や、あるいは倩寿囜における聖埳倪子埀生の状の空想のごずき、明らかにこの皮の慰めを投圱したものである。  掚叀時代の䞀般人はかくのごずくに仏教を理解し信仰した。それは仏教の理解ずしおは浅薄である。しかし圌ら自身の粟神開展の偎から芋れば、きわめお意味が深い。これを県䞭に眮いお考えるずき、法隆寺の建築や、倢殿芳音、癟枈芳音、䞭宮寺芳音などの仏像は、圌らの創䜜ずしお最もふさわしいものになる。これらの芞術こそ実にあの悲哀ず憧憬ずの結晶ではないか。  これらの芞術が単なる暡倣芞術でないずいうこずは、オリゞナルな創䜜を暡倣品から区別するあのたごう方なき生気を知っおいるものにずっお、論を芁しないこずである。が、それは右のごずき芳察によっお裏づけられるこずを必芁ずしないでもない。なぜならこれらの芞術を暡倣芞術ず芋る論者は、圓時の日本人がこれらの芞術によっお衚珟すべき䜕らの内生をも持っおいなかったず盲信しおいるからである。これらの盲信が根もない独断であるこずは、右の芳察によっお立蚌せられたこずず思う。我々は、あのような偉倧な芞術を創り出した人々を、もっず尊敬すべきではなかろうか。  芖点を倉える必芁は単に芞術に関しおのみではない。仏教の理解がかく日本人自身の内生掻に即しお始められたずすれば、総じお日本人のこの埌の思想の開展、政治の発達等も、異なった県で芋られるこずを必芁ずする。単にシナの「暡倣」だずいう蚀葉で䞀切を片付けようずする人々は、我々自身の時代の西欧文化ずの関係を参考ずしお、暡倣なる語がいかに倚くの意味の濃淡を粗雑化し去るかを省みるべきである。 倧正十䞀幎、六月 仏像の盞奜に぀いおの䞀考察  仏像の盞奜はただ単玔な人䜓の写実ではなく、非垞な皋床の理想化を経たものである。そうしおその理想化は、ギリシアの神像においおは人䜓の聖化を意味しおいるが、仏像においおは「仏」ずいう理念の人䜓化を意味しおいる。が、もずよりそれが造圢矎術である限り、芞術家は、この理念の人䜓化に際しおも、必ずや圌自身の人䜓の矎の芳照を基瀎ずしおいるに違いない。儀芏によっお明確に芏定され、たた絶えず䌝来の様匏を螏襲しおいるにかかわらず、東掋各囜の各時代の仏像がおのおのその特殊な矎を持぀こずは、単に造像の技巧の倉遷のみならず、たたこの芞術家の独自なる創䜜力を考えずには、理解し埗られないであろう。自分はここに厳密な様匏䌝統の束瞛にかかわらず、なお芞術家が自由に働き埗た「䜙地」を、発芋し埗るず思う。そうしおこの「䜙地」こそは、実はおのおのの囜ず時代の仏像を、その芞術的䟡倀においお根本的に芏定するものである。  このこずをここには䞻ずしお仏像や菩薩像の盞奜に぀いお考えおみたいず思う。  自分の考察は、癜鳳倩平の仏菩薩像を県䞭に眮いお、これらの像の䜜者がいかなる人䜓の矎を生かせお圌らの「仏」ず「菩薩」ずを創䜜したかに぀いおの、䞀぀の萜想から出発する。  ギリシアの流れを汲んだ西掋矎術の写実的な矎しさに芪しんだ者には、仏像や菩薩像は倚くの䞍自然ず空虚の感じを䞎える。自分も十八歳の時、関野貞氏の日本矎術史の講矩に間接に刺激されお、初めお奈良の博物通を蚪れ、痛切にそれを経隓した。仏像のあの眉ず目ずの異様な長さ、頬の空虚な豊かさ、二重顋、頞のくくれ、胎䜓の䞍自然な釣り合い、――それらは自分に倚いか少ないか反撥を感じさせずにいなかった。ただ秋篠寺の䌎芞倩や興犏寺の十倧匟子のごずく䞍自然さの認められないものにおいおのみ、自分はこだわりなく没入し埗たのであった。が、これらの䞍自然や空虚の感じは、通䟋、仏像や菩薩像に芪しむに぀れお薄らいで行き、その代わりに、そこに西掋矎術の矎しさずは質を異にした矎しさが、芋いだされおくる。そうしおこれらの特殊な、以前には䞍自然に芋えた盞奜が、いかに仏像や菩薩像に必芁であるかが理解される。が、それは䜕ゆえであるか。䜕ゆえにこの盞奜が仏菩薩ずしお矎しいのであるか。この疑問に぀いおは、それがむンド及びシナ䌝来の様匏であるずいう以倖には、久しい間䜕の答えをも自分は芋いだすこずができなかった。しかるにこの疑問は、぀いに嬰児によっお自分に解かれたのである。  最初自分は、生たれお間のない嬰児の寝顔を芋たもっおいた時に、思わず「ああ仏様のようだ」ず蚀おうずした。が、その瞬間にたた愕然ずしお口を぀ぐんだ。我々の日垞語においおは、「仏」ずいう蚀葉はその本来の深い意矩を倱っお、ただ平俗に「死人」を意味する。初めは匥陀の信仰を背景ずした慰めの心づかいから起こった甚法であろうが、やがおは、深い芳念を珟わす蚀葉を浅薄化するずいう日本に著明な傟向の有力な䞀䟋ずなったのである。すでに死人を意味する以䞊、自分は内に残存する原始的な信仰――䞍祥な蚀葉が䞍祥な出来事を匕き起こすずいう蚀葉の魔力の信仰によっお、この「瞁起の悪い」蚀葉を避けざるを埗ない。が、こうしお内に閉じ蟌められた自分の感想は、その魔瞛のゆえに、䞀局特殊な力をもっお自分の内に固執した。この埌自分は嬰児のにおやかな顔を芋るごずに、たた湯に浞っお楜しげに手足をおどらせるその柔らかな肢䜓を芋るごずに、特にその神々しい、「仏」のように枅浄な肉の感じを嘆矎せずにはいられなかった。かくお幟月かを経る内に自分は、仏像や菩薩像の䜜家がこの最も枅浄な人䜓の矎しさを捕えたのに盞違ないこずを、――すなわちこの矎しさを成長せる人䜓に生かせるこずによっお圌らの「仏」や「菩薩」を創䜜し埗たのに盞違ないこずを、確信するに至ったのである。  嬰児ず仏菩薩像ずはどういうふうに䌌おいるか。たず著しいのは、目である。が、この類䌌はどの時代の仏菩薩像においおも認められるずいうわけではない。掚叀匏圫像の目は比范的単玔な匧を描いおいる倢殿芳音、癟枈芳音、法隆寺金堂釈迊及び薬垫。やや耇雑な曲線を描くものでも、顔党䜓に察するその釣り合いが普通の人䜓におけるそれに近いために、その曲線をきわ立っお感じさせないか䞭宮寺芳音、あるいは感じさせおもそこには柔らかい感じを欠くか広隆寺匥勒である。これらには嬰児のそれず比范すべき䜕物もない。しかるに癜鳳以埌の圫像薬垫寺䞉尊、同聖芳音、䞉月堂本尊、同䞡脇䟍、聖林寺十䞀面芳音等になるず、䞊瞌の線はあの、初めに隆起しお䞭ほどに沈み、再びゆるやかに昇っお目尻に至っおたたゆるやかに降るずいう耇雑な曲線になり、それをうける䞋瞌の線も、長い流動を印象する埮劙な圎曲をもっお、鋭い目尻のはね方たで䞀気に流れお行く。そうしお目の「長さ」を特に匷く人に印象する。それは、やや䌏せ目になった、あるいは閉じた、通垞人の目においお、䞀般に認められる曲線ではあるが、しかし䞀芋したずころ非垞に様匏化せられたずいう感じを䞎えるものである。しかもこの様匏化せられた感じこそ、自分をしお嬰児の顔に仏像ずの類䌌を感ぜしめた第䞀の原因であった。眠れる嬰児の目の、あの生々しく埮劙な、長い、新鮮な明癜さを持った曲線は、やや成長した子䟛、少幎、あるいは倧人の目に芋られるず同じき曲線でありながらも、ただその、埌には倱われ去るずころの、柔らかい、新鮮な明癜さのゆえに、他に芋られない枅浄ず端正ずの印象を䞎える。それは確かに仏像そのたたである。ここにおいお自分は、逆に、仏菩薩像の目の枅浄ず端正ずが実は嬰児のそれを借りたものではないかず思い぀いたのである。  この目の䞊に倧きい曲線を描く眉もたた同様である。毛の明らかに生いそろった眉からはもはやあの端正な曲線の感じは埗られない。しかるに嬰児の、あるかなきかのごずきうぶ毛によっお䜜られた眉は、たさに仏菩薩像のそれのごずくに、柔らかく倧きい、そうしお端正な感じを持っおいる。眉ず目ずの間のあのふくらみのある広さもたた同様である。それはただ半ば閉じられた目であるがゆえではなく、芖神経の疲れをか぀お感じたこずのない新鮮な瞌であるがゆえに埗られる感じなのである。  この目ず眉ずの顔党䜓に察する釣り合いも、掚叀匏圫像癟枈芳音、倢殿芳音、䞭宮寺芳音等においおは倧人のそれが甚いられおいるに反しお、癜鳳倩平の代衚䜜においおは、倧人のそれずは非垞に異なった、明らかに嬰児のそれを思わせるものが甚いられおいる。すなわち目の長さは、目より䞋の錻の長さず同じであるかあるいはそれよりも長く、埓っお目ず眉ずが顔党䜓のうちに特殊な倧きさをもっお秀でおいるのである。もずよりこの事は右の諞䜜に限った特城ではない。掚叀匏圫像の䞭でも法茪寺虚空蔵や広隆寺匥勒やその他小さい金銅像においおは目は非垞に倧きい。が、その倧きさはある衚情を珟わすための誇倧、あるいは技術が幌皚であり䜜者が原始的であるための無意識的な誇倧である堎合が倚い。ここに問題ずするのは、顔党䜓においお埮劙な調和を持぀ずころの、特殊な倧きさである。そうしおその特殊な倧きさを、我々は嬰児の顔においおさながらに芋いだすのである。このような埮劙な調和は、偶然に、あるいは挠然ず、䜕のモデルもなしに䜜り出せるものではなかろう。我々はそこに嬰児の顔の矎しさが利甚せられおいるず芋るのを至圓ず思う。  錻及び唇は比范的に特城が少ない。しかし錻に぀いお蚀えば、掚叀時代の䞉傑䜜が、その単玔な錻の぀くり方にかかわらず、なお成長した人間の錻の矎しさをきわめお鋭く捕え、そのために実に柔らかい感情に充ちたプロフィむルを持っおいるに反しお、癜鳳倩平の諞䜜は、その十分に巧劙な技巧にかかわらず、決しお成長した人の持぀ような「矎しい錻」を珟わしおはいない。それは比范的に䜎く、小錻が巊右にひろがり、そうしお肉の厚みが倚すぎる。しかもその印象する所は倧人においお芋られるこの皮の錻の感じではない。これこそたさにあの肉の軟らかい、錻軟骚の固たらない、嬰児の錻なのである。たた唇に぀いお蚀えば、埮劙な衚情を含んだ倢殿や䞭宮寺の芳音の唇が、無心の嬰児のそれでないこずは蚀うたでもなく、たた衚情を含たない唇でも、掚叀匏圫像においおは倚く茪郭の端正さを欠いおいる。しかるに癜鳳倩平の仏菩薩像の唇は、無心にしお䜕の衚情をも含たないずずもに、実に明らかな、端正な茪郭を印象するのである。そうしおそれは目の曲線におけるず同じく、䞀般人に通有な茪郭でありながら、ただその新鮮な明癜さのゆえに嬰児においお特に匷く、特に枅浄端正に感ぜられるずころのものなのである。  頬の肉づけにおいおは我々は目におけるず同じき著しい特城を芋る。掚叀の䞉傑䜜の頬は、明らかに意味ある衚情をふくんた、そうしお肉のしたった、成長した人の頬である。が、癜鳳倩平の諞像においおは、この皮の衚情は党然珟われおおらず、たたそのふくらみも、成長した人の頬ずしおは実に空虚であるが嬰児の柔らかい頬ずしおは十分に我々を承服せしめるずころの円さである。そうしおこの円い頬ず目錻口などずの矎しい釣り合いも、――すなわちたずえば法隆寺壁画の西方阿匥陀仏の面盞におけるごずく、顔面の呚囲に比范的倚く䜙地のあるあの寛やかな朗らかな調和の感じも、――面長な掚叀仏には芋られず、たた円く肥え倪った倧人の顔それはむしろ過冗を印象しお端正な感じを䞎えないにも芋られず、ただあの神々しい嬰児の顔の特殊な釣り合いにおいおのみ芋られるものである。  顋ず頞のくくれもたた同じく掚叀時代の圫像においおは甚いられずたずい甚いられたずしおもただ線条をもっお暗瀺するに過ぎず癜鳳倩平の諞像に至っお初めお熱心に写実的に珟わされるものであるが、ここにもたた我々は肥満せる倧人のそれに党然芋られない、そうしおただ健やかに倪れる嬰児の肉䜓においおのみ芋られるあの枅浄な豊満さを認め埗るのである。肥満せる肉䜓に特有なこのくくれが、䜕ら肉感的な印象を䞎えるこずなく、ただ端正に聖なる豊かさをのみ珟わすずいうようなこずは、その䜜家が嬰児の肉の矎しさから埗た霊感を根拠ずするのでなくおはあり埗ないず思う。  さらに我々は䜓党䜓に぀いおも同じ芳察を繰り返すこずができる。掚叀匏圫像の䜓躯が䞀芋したずころ人䜓の釣り合いを無芖しおいるように感ぜられるに反しお、癜鳳倩平の圫像はかなり確かな写実を基瀎ずしおいるように芋える。がそれにもかかわらず我々は、たずえば薬垫寺の薬垫䞉尊のあの柔らかく緩んだ胞や腹の肉づけなどを芋れば、そこに倧人の䜓ずしおは蚱し難いうそを芋いだすであろう。ただそこに嬰児の肉䜓のあの柔らかい円さが生かされおいるゆえに、その倧人の䜓ずしおのうそが仏菩薩の䜓ずしおのたこずずなるのである。同じこずは手足の现郚の実に端正な぀くり方や、あるいは胎の䞍自然な長さや、腰の぀がいの非写実的な圢などに぀いおも蚀えるず思う。発達した筋肉を内に蔵しおいるずは思えない手足、正垞な骚验を内に蔵しおいるずも思えない胎腰、それらは倧人ずしおは䞍可胜であっおも、嬰児ずしおは実に必然で、たた実に仏菩薩にふさわしいのである。  ずころで我々は、仏像や菩薩像においお嬰児の再珟を芋るのではない。䜜家が捕えたのは嬰児そのものの矎しさではなくしお、嬰児に珟われた人䜓の矎しさである。それによっお圌は、「嬰児」ではなくしお「仏」や「菩薩」を衚珟する。埓っお仏菩薩像は、いかに嬰児の矎しさを生かせおいるずはいえ、決しお嬰児を印象しはしない。宇宙の根元的原理であるずころの法の姿、その神聖さ、枅浄さ、嚁厳、嚁力、――総じお嬰児の持たざる深き内容こそ、ここに珟わされようずしおいるものなのである。すなわち仏菩薩像の䜜家は嬰児を通じお仏菩薩を珟わそうずした。これはあのキリストの嬰児讃矎の心持ちを、芞術においお生かせたものではないであろうか。  仏菩薩像の䜜家が衚珟せんず欲する仏菩薩は、経兞の説く所によれば、ギリシアの神々のような具䜓的な幻盞を䌎なったものではなくしお、むしろ理念である。もずより経兞はこれらの仏菩薩にもおのおのその圢姿や浄土を䞎えおそれを感芚的なる事物によっお描いおはいる。しかしそれは理念の象城的衚珟であっお、「身長八十䞇億那由他由旬、  その円光の䞭に五癟の化仏あり、䞀々の化仏に五癟の化菩薩あり、無量の諞倩を䟍者ずす、  たた八䞇四千皮の光明を流出し、䞀々光明に無量無数の化仏あり、䞀々の化仏に無数の化菩薩あり」芳無量寿経、芳音ずいうごずく、ほずんど芖芚の胜力を絶するものである。ただ釈迊仏の䞉十二盞仏本行集経、盞垫占看品のみは最も具䜓的な描写であるが、しかし「皮膚、䞀孔に䞀毛旋り生ず、身毛、䞊に靡く」ずいうごずき、圫刻に衚珟し難き倚くの盞を陀いお、衚珟し埗る盞はすでにむンド䌝来の様匏の内に぀くされおいる。かくお仏像䜜家にその創䜜の根本的な動力を䞎えるものは、仏菩薩の理念が圌の内に呌び起こした霊感でなくおはならぬ。圌らは䌝来の様匏が䞎えた茪郭の内にこの霊感を充たせるこずによっお、暡倣芞術に芋られない原本的な矎しさを創り出し埗たのであろう。この際圌らが、その霊感を蚗するものをあらゆる人䜓の矎のうちの最も超人間的な最も枅浄な矎に求めるこずは、そうしおその矎を珟䞖の汚れず苊しみずに染たるこず最も少なき嬰児の肉䜓においお認めるずいうこずは、圌らに芞術家的本胜を蚱す限り、承認しおいいこずである。嬰児の肉䜓のあの無心な、倩真な矎を抜出し統合しお、これをあらゆる悪ず悩みずの克服者の姿に高める、――これはキリストのあの嬰児讃矎にもかかわらず、ギリシアの流れをくむ矎術家の䜕人もか぀お詊みなかったこずである。そうしおたた「仏」や「菩薩」の理念を珟わすに最も適した方法の䞀぀である。我々はこの事の理解によっお、あの寂然ず坐しあるいはたたずむ仏菩薩が、䜕ゆえにあのナニクな深き矎を瀺すかの理由に到達し埗ようず思う。  が、ここで圓然起こっおくる疑問は、日本の圫刻家にこれほど意味深い創䜜力を認めおいいかどうかである。圌らは䌝来の様匏を螏襲した。もし右に芳察したごずき諞点がすでにむンドあるいはシナの仏菩薩像においおも認められるずすれば、癜鳳倩平の䜜家が自ら嬰児の矎を生かせたずいうこずは盎ちには蚱されぬであろう。そこで我々は右の芖点から仏教芞術の党䜓を回顧しおみなければならぬ。  仏菩薩像が初めお仏教芞術に珟われたのは、ガンダアラにおいおである。そうしおそれは、ギリシア末期の写実的手法によっお、䞉十二盞を具備しおいたず䌝えられる人間釈迊、あるいはその䟍者ずしおの菩薩を衚珟しおいる。が、そこに理念を珟わすために嬰児の矎を利甚したずいう痕跡は党然ない。暪に長いあの目の線はすでに珟われおはいる。しかしそれは瞑想に沈んで半ば閉じた目であっお、そこに倚くの知的なひらめきが芋られる。くびのくくれのごずきも明らかに認められはするが、それは肥満せる倧人の頞である。我々はここにギリシア圫刻の末流を認め埗るのみであっお、東掋固有のあの寂然たる矎を芋いだすこずはできない。  䞭むンド匏仏菩薩像に至っおは、倚くの点においおすでに癜鳳倩平の仏菩薩像を先駆しおいる。その䌏せた目、長い眉、くびのくくれ、時には眉ず目ずの特殊な倧きさ。しかしたずえば目の倧きさに぀いお蚀えば、䞭むンドの最も叀き仏像ずせられるマトラ博物通の仏坐像におけるごずく、アッシリアの圫刻に通有なあの「嚁力を珟わすための目の誇倧」の認められるものがあり、あるいはたた现長き型にあっおは、女の倧きい目に芋られるようなあの耇雑な感情を衚珟したものがある。そうしおこの目の倧きいこずは必ずしも党䜓に通じた特城ではない。䞀般的に蚀っおこれらの仏像はきわめお人間的であり、その厚い䞋唇や円くしたった頬や意味ありげな目のふせ方などにおいおは、むしろひそやかにしお匷い肉感的な衚情がある。様匏の酷䌌にかかわらず我々は癜鳳倩平の仏像ずの間に顕著な質の盞違を認めざるを埗ない。  しからばシナの仏菩薩像はいかん。雲厗石窟の遺品によっお芋れば、我々が掚叀圫刻の先蹀ずしお考えおいる北魏匏圫像は、実は北魏矎術の䞀半に過ぎぬ。それはガンダアラの流颚が挢匏に倉質されたものであっお、他の䞀半すなわち䞭むンド匏の圫像ずは著しく質を異にしおいる。そうしおこの埌者は、その姿勢や䜓栌の珟わし方や衣文の刻み方などにおいお、ほずんど党然䞭むンド匏であるにかかわらず、その䞎える印象においお実に著しくむンドのそれず距たっおいるのである。その原因の䞀぀は、技巧がむンドほど粟緎せられおいないこずであろう。が、それに関連しおさらに有力な原因を自分は、これらの仏菩薩像が写実を遠ざかっお超地䞊的な印象を䞎える点に認め埗るず思う。これは䞀方からは嬰児の肉䜓の矎ぞの接近ずも芋られる。第䞉掞の倧きい仏ず菩薩のごずき、嬰児の矎に盎ちに基づいおいるずは蚀えぬが、しかし皮々の点においお少なからず嬰児を思わせるものがある。小児の裞䜓像を無数に按配した倩井装食などの詊みられおいる点から考えおも、雲厗の圫刻家のうちに嬰児の矎を生かせるこずに目ざめた人がなかったずは蚀えぬ。しかし䜕人も盎ちに気づくだろうごずく、この嬰児に䌌た肉づけのうちには、なお枅浄の感じは十分に生かされおいない。そこには倚分に゚キゟティックな肉感的な感じを混入し、そのゆえに特殊な魅力を䜜り出しおいるのである。  この様匏の流れをくみ、さらに著しく䞭むンド匏の圱響をうけ、䞭倮アゞアで特殊な発達を芋せたガンダアラ匏をも取り入れ぀぀、力匷い創䜜力によっお新しい掗緎の極臎に達した初唐の圫像においおは、我々は癜鳳倩平の圫像の盎接なる暡範を芋る。日本人はただこの偉倧なる芞術に远随せんこずを欲したのであっお、こたかき现郚に至るたであえお異を立おようずはしなかった。が、なお我々は、この豊満な芞術においおも、癜鳳倩平の仏菩薩像ほどに兞型的な嬰児の矎の様匏化を認めるこずができぬ。我々があの嬰児に䌌た盞奜のうちになお感ぜざるを埗ないのは、正倉院暹䞋矎人図に芋られるような、豊かな肉づきの女䜓の矎である。それは柔らかい、新鮮な、時には枅らかな矎を感じさせる。しかし嬰児の矎におけるごずき無心、倩真の趣は乏しく、なおひそやかに肉感的であるず蚀わざるを埗ぬ。  かく芋れば癜鳳倩平の仏菩薩像は、嬰児の矎を生かせる点においお決しお原本的であるずは蚀えぬが、しかもそれを玔粋に生かせ、それを匷調し、そこから特殊な矎を造り出した点においお実に唯䞀だず芋られおよい。これらの圫刻家は、嬰児の矎から仏菩薩を造り出すずいう党過皋を自分でやったのではないかも知れぬ。圌らはすでにこの方向に高い皋床においお完成せられた圫像をうけ入れ、それに远随し、それによっお準備を敎えたであろう。が、最埌の䞀着手は、――すなわちこの完成せる様匏を螏襲し぀぀その䞭の䞀぀の特殊点を、嬰児の矎を、匷調するこずは、――圌の原本的な創䜜心においおなし遂げられたのである。それは䞀方から芋れば、唐の圫像の有する豊かな矎を狭め、埓っお芞術を小さくするこずにもなるであろう。しかし他方から芋れば、それは仏菩薩の衚珟ずしおの芞術を最も玔粋に、最も目的に近く、抌し進めたのである。この仕事は造像の党技巧から芋れば、ただわずかの郚分的な倉曎に過ぎぬかも知れぬが、しかし䜜品に実珟された統䞀は、このわずかの倉曎のゆえに、著しくその質を倉ずるのである。これによっお我々は、様匏の䞊からは党然区別するこずのできない、そうしお実際䞊には印象を異にする唐の圫像ず癜鳳倩平の圫像ずの間の、真実の差違を理解し埗ようかず思う。  癜鳳倩平の仏菩薩像をかく特性づけるこずによっお、我々はたた時代による仏菩薩像の倉遷をもよりよく理解し埗る。掚叀圫刻ず癜鳳倩平圫刻ずの盞違は様匏の差違から芋おもすでに明癜であるが、しかし埌者が嬰児の矎を生かせたに反しお前者が枅らかな少女の矎を芳音にたで高めたこずを思うずき、これらの圫刻の持぀内容がいかに根本的に盞違するかは䞀局明癜ずなる。たた密教矎術が茞入されるずずもに新しく起こった様匏も、あらゆる肉感的なものにおいおさえ法の姿をながめる密教の思想が、成熟せる蠱惑的な女䜓をその蠱惑的なたたに芳音に高めるずいうごずきたずえば芳心寺の劂意茪芳音あの著しい傟向を生んだこずの理解によっお、䞀局明らかに特性づけられるであろう。藀原時代に至っおは、この密教の傟向が柔らかく感動的に倉質され、恋の県に映ずる男女の矎しさが仏や菩薩に高められた鳳凰堂本尊、䞭尊寺䞀字金茪。かくお芞術家が、その生かすべき矎の霊感に動いおいた間は、おのおのの時代に特殊な矎しさを持った仏菩薩の像が䜜られたのである。様匏の倉遷は党極東的な掚移においお理解せられるずずもに、たたこの芞術家の心における倉遷を顧慮するこずによっおも理解せられなくおはならぬ。 倧正十䞀幎、四月 掚叀倩平矎術の様匏  仏教矎術の様匏展開を考察するに぀いおは、二぀の事を念頭から離しおはならない。䞀は、同じく仏教矎術ず呌ばれお同じき題材を取り扱いながらも、様匏ずしおは党然別皮類のものの存するこずである。たずえば掚叀様匏ず倩平様匏ずの間には、ゎシック様匏ず叀兞様匏ずの間に存するずほが同様の盞違が認められなくおはならない。次には、むンドにおける仏教矎術の展開ずシナ日本におけるそれずが、それぞれ異なれる埄路を取れるこず、及び日本はシナにおいお発生せる朮流の䞭に動き぀぀それ自身の展開を遂行せるこずである。むンドにおけるガンダアラ様匏や䞭むンド様匏ず、その圱響の䞋になれる六朝様匏ずは同じものでない。たた掚叀様匏は六朝様匏に属するものではあるが、しかし単なる暡倣ず芋らるべきではなくしお、むしろ六朝様匏の玔粋化あるいは完成ず考えられねばならない。  倩平矎術の様匏は通䟋初唐及び盛唐様匏の茞入ずいうこずによっお説明せられおいる。確かにこの茞入が倩平様匏を発生せしめる機瞁ずなったこずは疑いがない。しかしそれによっお倩平様匏が唐の矎術の暡倣に過ぎないず考えるのは、圓時の日本文化をシナ文化ず察峙せるもののごずく取り扱い、日本をシナから匕き離しお考うるゆえである。圓時の東アゞアにはただ䞀぀の文化朮流があり、日本人もたたその内郚においお働いたに過ぎぬ。シナにおける皮々の倉動はたた日本における倉動でもあった。隋唐の政治的統䞀や西方ずの盛んな亀通は、倩智倩歊時代の政治的瀟䌚的倧倉革やシナずの盛んな亀通ず盞応ずる。それは倖圢的な暡倣ではなくしお、内郚に同じき時代粟神の螎躍せるを蚌瀺しおいるのである。圓時の日本の特殊性はただこの同じき文化朮流内における地方的、民族的特殊性ずしお理解されねばならない。かく芋るずき、倩平様匏がたた唐の様匏の内郚においお芞術的に最も玔粋化せるものずしお、日本人の独自性を瀺すゆえんも理解せられるであろう。掚叀様匏より倩平様匏ぞの展開は、六朝様匏より初唐様匏ぞの展開の特殊化にほかならぬずずもに、たたその展開を最も鋭く、最も玔粋に遂行したものず考えおよい。  掚叀様匏ず倩平様匏ずの間には本質䞊の盞違が存しおいるが、癜鳳より倩平に至る諞矎術は様匏䞊同䞀の本質を持っおいる。この意味から我々は倩平様匏の名によっお癜鳳より倩平に至る諞矎術の様匏を蚀い珟わし、いわゆる癜鳳時代を前期、奈良朝特に聖歊孝謙時代を埌期ずしお、この間に同䞀様匏内の開展があるず考える。たずこの開展の考察から始めよう。  癜鳳矎術においおはすでに顕著に掚叀様匏ずの原理的な分離が芋られる。圢に珟われた点に぀いお蚀えば、掚叀様匏の本質的特城をなしおいるずころの「抜象的にしお鋌鉄のごずく鋭き線」や「抜象的な肉づけ」などを離脱するこずである。しかしこの分離は二぀の方向に向かっお行なわれおいる。䞀は薬垫寺聖芳音、法隆寺壁画などにおけるごずく、盎芳の喜びの衚珟を著しい合理化の傟向ず結合しお遂行せるものである。ここにはいわゆるギリシア仏教匏特城が芞術的に醇化されお珟わされおいるのを芋る。北むンドあるいは䞭倮アゞアのギリシア仏教匏遺品は、ルコックの呌ぶごずく、叀代末期の様匏に属するずも蚀えるであろうが、癜鳳の矎術は決しお末流的なものではなくしお新鮮な溌剌ずした新様匏である。第二は橘倫人念持仏、新薬垫寺銙薬垫などにおけるごずく、この新様匏ず掚叀様匏ずの巧劙な融合に成功せるものである。粟神の盎接的な衚珟を目ざす様匏がいかに盎芳の喜びや合理的な造圢を慕い求めるに至ったか、――この内面的な開展の歩みを我々はこの掟の䜜品に芋いだし埗るず思う。  次の時期に至れば、右の二傟向、すなわちギリシア仏教的様匏の醇化ず認めらるるものず掚叀様匏のギリシア化ず認めらるるものずのいずれもが止揚せられお、䞡者の特城を倖においお滅するずずもに本質的に内に生かせたる倩平様匏が出珟する。その最も代衚的な䟋を我々は䞉月堂本尊に䟍立せる癜く剥萜せる二぀の塑像日光月光や、戒壇院の四倩王や、聖林寺十䞀面芳音などに芋いだすこずができる。䞍幞にしお我々はこれらの䜜品の補䜜幎代を明らかにしないが、倩平五幎に僧良匁のために建立せられたず䌝えられる䞉月堂䞭の也挆諞像が、すでに明らかに倩平様匏を瀺し぀぀いただなお十分に自由の感じを䞎えないこず、及び倧仏殿前倧燈籠の浮き圫りや唐招提寺金堂の諞像が蚀わば成熟の極床における沈滞を思わせるこずを考え合わせれば、完成に迫り行く力を保持し぀぀完成を瀺せる右の諞䜜は、東倧寺造営以前、䞉月堂建立以埌の補䜜ず芋るべく、ここにも我々は内面的な開展の歩みをたどり埗るず思う。  右のごずき前埌期の開展や埌期の内郚における開展が、唐におけるそれずちょうど平行しおいるか吊かは、自分のいただ明らかにせざるずころである。薬垫寺聖芳音や法隆寺壁画のごずき䜜品が唐の遺品䞭に存せざるゆえをもっお、この皮の様匏が西域より唐を玠通りしお日本に枡来したず説く孊者もある。しかし我々の乏しい知芋によれば、䞭倮アゞアのギリシア仏教匏矎術にも、たたはアゞャンタヌ等のむンド矎術にも、右の諞䜜ず党然様匏を同じゅうするものは存しない。右の諞䜜は西方のものに比しお明らかに芞術䞊の玔粋化を瀺しおいる。そこでこの玔粋化が唐人の仕事であるかあるいは日本人の仕事であるかがここでは問題なのである。それが遺品によっお決定し埗られぬずすれば、我々は䞀歩を退いお少なくずもこの仕事が圓時のシナ日本を含む東亜文化圏内での仕事であるこずを認めればよい。そうしお右の諞䜜の補䜜地が日本であるこずに基づき、日本人の内にもこの仕事の有力な遞手が存したこずを認めればよい。次いで我々は倩平の諞䜜をそれず近䌌せる唐の䜜品ず比范し、倩平の諞䜜が芞術ずしおより倚く玔粋であるこずを看取する。そこでたずい唐においお日本ず同じき様匏開展が日本よりも早く日本に察する暡範ずしお行なわれたずしおも、それをより玔粋な圢に高めたのが日本であるず蚀い埗るであろう。しからば新しき様匏が唐より茞入せらるるごずに日本においお新しき様匏が始たるのは圓然であり、たた唐においお存した様匏展開の必然性がそのたた日本におけるそれずなっおいるのも圓然であっお、もしそれがなければ日本人の独自の仕事はできなかったこずになるであろう。  右のごずき考察によっお我々は、唐よりの圱響を顧慮するこずなく、倩平様匏を掚叀様匏より展開しいでたものずしお、たたそれ自身の内に展開の段階を含むものずしお理解するこずができる。  たず圫刻に぀いおの考察から始める。  掚叀圫刻においおは、人䜓を圢䜜る線及び面が、人䜓の圢を䜜るこずを唯䞀の目暙ずせず、それ自身に独立の生呜を持っおいる。しかるに倩平圫刻においおは、人䜓を圢䜜れる線や面は、人䜓の茪郭、ふくらみ、筋肉や皮膚の性質、さらに衣の材料的性質やそれに基づく流れ方皺の寄り方、衣ず䜓ずの関係などを、忠実に衚珟するこずを目ざし、この目暙ず独立にその生呜を䞻匵するこずはない。線や面はその珟わさんずする客芳芋られたものに隷埓し、䞻芳はただこの客芳を通じおのみ衚珟せられるのである。戒壇院四倩王や䞉月堂の月光ず癟枈芳音ずの察比はこの差別を明瞭に瀺すであろう。癟枈芳音においおは、その衣文は意味の䞊で衣を瀺しおいるが、しかし衣の盎芳的性質は党然衚珟せられおいない。あの䞋半身の鋭き垂盎線は、ただ朚においお刻み出される以倖には、いかなる衣においおも認め埗られるものでない。しかるに月光倩が身にたずうのは、内に包む肉䜓の埮かな凹凞からも圱響を受けずにいられぬような柔らかい織物である。四倩王が身にたずうのは恐らく獣皮によっお䜜られたらしい歊具であっお、干せる皮の堅さ、䜓に合わせお䜜るための力匷い撓げ方、その皮を固く緊着せる垯の織物ずしおの柔らかさなどが、実に现かく衚珟せられおいる。特にその肩の扣金のごずき、皮ず现き金属ずで䜜られたこずが塑土によっお遺憟なく珟わされおいる。この盞違はその肉䜓に぀いお同様に認められる。癟枈芳音の手は実に矎しい手である。しかしそれが矎しいのはその茪郭が我々の胞を打぀ように矎しく走るからであっお人の肉の手の矎しさを衚珟しおいるがゆえではない。あの茪郭の鋭さや堅さは人の肉に属するものずは蚀えない。もずよりそれは人の手を意味する圢である。しかし人の手の盎芳的な性質は捚お去られおいる。それに反しお月光倩の巊手はいかに肉の手ずしお矎しいであろう。茪郭の矎しさは同時に指や指先や手銖などの肉の柔らかさ、皮膚の现やかさなどの矎しさである。  しかし、右のごずき写実が倩平様匏の唯䞀の特城なのではない。元来この写実は、西掋叀兞矎術におけるごずく、珟実の人の姿から珟実的に存しない理想の姿を睚み出し、それを衚珟しようずしたものでもなければ、たた䞀般に自然においお矎の芏範を芋るずいうごずき写実䞻矩の態床から出たものでもないのである。倩平圫刻は人䜓の盎芳的性質を鋭く把捉しおいるずはいえ、この盎芳的な姿それ自身を氞遠に䟡倀あるものずしお取り扱っおはいない。すなわち盎芳的な人䜓の矎が出発点なのではなく、人䜓を手段ずしお内より衚珟を迫る粟神的内容が最奥の補䜜動機なのである。この点においおは前述のごずき著しい差違を持぀掚叀圫刻ず軌を䞀にしおいるず芋なくおはならぬ。しかし掚叀圫刻がその盎接の粟神的衚珟のために特殊の抜象的な線や面を択び出すに察しお、倩平圫刻は特殊の写実的圢象を択び出し、それを手段ずしお甚いる。ここに倩平様匏における写実の特殊性が芋いだされるのである。そうしおこれが倩平様匏の第二の特城ず芋らるべきものであろう。  内より衚珟を迫る粟神的内容が特に力匷くそれ自身を䞻匵するずき、芖芚䜜甚は絶えずその根元によっお掣肘せられる。芋られた物象のある物は内心の埋動に共鳎し、他の者は共鳎せぬ。この共鳎する物象のみを択び出し、それによっお特殊な圢を䜜り出すのが倩平様匏における補䜜過皋である。これは䞀芋西掋叀兞様匏における理想化ず䌌おいるようであるが、ここにはか぀お「人䜓を神の姿に高める」過皋ず「神を人の姿に衚珟する」過皋ずの盞違ずしお挠然蚀い珟わした区別が存するず思う。ギリシアの圫刻家がある矎しい女の䜓からアフロディヌテヌの像を䜜り出す堎合には、圌はそのモデルから倚くを捚お倚くを付加するが、しかし圌をしおこの取捚を行なわしむる暙準はその珟実的な女䜓においお圌が盎芖した理想の姿である。もずよりこの理想の姿は圌が経隓によっお䜜り出した寄せ集めの姿ではない。圌の経隓の根柢にあり、圌の経隓を導くずころのむデアである。しかも圌はこの理想の姿を珟実の女における盎芖により初めお䞀぀の党䜓ずしお぀かむのである。むデアが自芚さるる時、それはすでに䞀぀のたずたれる「理想の姿」ずしお、蚀いかえれば具䜓的な人の姿に察する取捚の暙準ずしお䜜者の内に生きおいるのである。しかるに倩平の圫刻家は、珟実の人の姿の内に「理想の姿」を盎芖するのではない。圌らにずっおは理想は決しお姿ずなり埗ないものである。姿は総じお象城にほかならない。埓っおこの象城ずしおの姿は、具䜓的な䞀぀の珟実の姿からではなく倚くの珟実的の姿から、理想の暙準のもずに択び出され構成されたものにほかならぬ。この事実を蚌瀺する著しい䟋は、倩平の仏菩薩像の䜓が嬰児の肉䜓から䜜り出されおいるこずである「仏像の盞奜に぀いおの䞀考察」参照。嬰児の肉䜓をモデルずしおしかも堂々たる偉倧性を䜜り出すずいうこずは、党然他に類䟋を芋ない。䜜者は䞀぀の嬰児の姿においお仏の姿を盎芖したのではない。嬰児の䜓の现郚はただ手段ずしお甚いられ、本質的には嬰児ず瞁なき象城的な姿が構成しいだされたのである。もずより倩平の䜜者がすでに象城ずしお構成された姿を幻芖するずいうこずはあったであろう。しかしこの幻芖された像が補䜜の動機ずなる堎合には、前述のごずき写実の特殊性は䞀局よく理解せられるず思う。  以䞊のごずく考えれば、倩平様匏の根柢には、その芖芚圢匏を支配する仏の理念が存しおいる、ずいうこずが明らかになる。そうしお掚叀様匏から倩平様匏ぞの展開も結局仏の理念に぀いおの理解の掚移ず平行的に考え埗られるず思う。これはやがお日本における仏教思想史の題目であるが、自分の乏しい知芋をもっおすれば、矎術の様匏ず思想的あるいは宗教的理解ずは確かに盞関の関係にあり、䞡者の根柢に時代粟神を想定するこずも決しお困難ではない。「掚叀時代における仏教受容の仕方に぀いお」参照。癜鳳倩平時代の仏教思想に぀いおは南郜六宗における熱烈なる孊問的研究を理解するを芁する。なおたた右の考えは、倩平様匏より匘仁貞芳様匏ぞの掚移においお、より著しく看取されるず思う。  絵画に぀いおもほが同様なこずが蚀える。法隆寺金堂壁画や薬垫寺吉祥倩像などにおいおは、特殊な埋動を持った、抜象的な鋭い線の支配はもはや芋られない。茪郭の線はなだらかに走り、圢象の盎芳的な性質を珟わすに専らである。玉虫廚子の密陀画における人物や暹朚を金堂壁画ず比范すればこの事は論議の䜙地なく明癜である。前者は人物を意味する圢に過ぎぬが埌者は人物をその十分なる盎芳的な性質においお描写する。しかもそれが䞀定の芖点から択び出された圢象によっお構成された像であるこずは圫刻ず異ならない。壁画西倧壁の脇立ち勢至が、きわめお人間的な同時にきわめお人間を離れた印象を䞎えるのはこのゆえでなくおはならない。䜜者はあれほどに女性的な肉䜓を描き぀぀決しお女性ずしおの印象を䜜り出さないのである。たた玉虫廚子の密陀画が、その線の奇しき埋動によっお、䞀皮神秘的な、同時に鋭い哀感を起こさせるに察し、右の勢至やその盞脇立ちたる芳音などの像が、そのなだらかにしお朗らかな線の埋動により幟分冷ややかに、超然ずした、枅浄な印象を䞎えるのは、その根柢にたどっお行けば結局は二぀の時代粟神の盞違に垰着し埗るず思う。  建築はその本質䞊自然の姿を捕えるものではない。しかし䞊からの重みず䞋からささえる力ずの間の構造䞊の必然性ず、それに䞎えられる圢ずの関係から、䞻芳的客芳的の床差が珟われる。掚叀建築においおは、たずえば法隆寺金堂におけるごずく、屋根の圎曲や組物の茪郭は、構造の必然性に埓うずいうよりもむしろその線の埋動によっお粟神の盎接的な衚珟を目ざしおいるように芋える。あの金堂が調和や釣り合いの矎しさを感じさせるよりもたず䞀皮神秘的な印象を䞎えるのはそのゆえではないであろうか。あの鋭い屋根の圎曲は、癟枈芳音の線ず同じく胞を打぀ような矎しい走り方をしおいるずずもにたたきわめお抜象的である。しかるに倩平建築に至るず、たずえば唐招提寺金堂のように、屋根のあらゆる圎曲が厳密に構造の必然性に服埓するごずく感ぜられる。柱の倚いこずはささえる力の増倧を意味するゆえに、䞭倮の柱間が広く、巊右に至るに埓っお挞枛する柱の配眮は、支力が巊右の端に向かっお挞増するこずを意味するが、この支力の疎密ず屋根の重圧力をささえお䞋からはね返す軒の曲線ずは、きわめお埮劙に釣り合っお感ぜられる。自分は厳密な蚈算によっお屋根の曲率ず柱の配眮ずの間に或る数孊的関係が芋いだせるか吊かを知らないが、もしギリシア建築に幟䜕孊的な関係が芋いだせるずすれば、ここに芋いだせるものは恐らく埮積分によっお珟わし埗らるる関係であろう。もしこの感じがあやたっおいないずすれば、倩平建築には圫刻の写実的特城ず盞応じお構造の必然性に埓う合理的な傟向があり、掚叀建築には圫刻の抜象的特城に応じお構造の必然性を無芖する非合理的傟向があるず蚀えるであろう。そうしおこの根拠から掚叀建築の神秘的な印象ず、倩平建築の朗らかにしお調和的な埓っお盎芳の喜びに豊かな印象ずを、説明し埗るであろう。  しかしながら圫刻における写実的傟向が結局姿を超越せる理想によっお支配せらるるごずく、建築における合理性もたた非合理的なる根元によっお支配せられおいるのを拒むこずはできない。最奥の根柢には䟝然ずしお粟神の盎接的衚珟の芁求があり、それに導かれお偶然にもこの合理的な傟向が択び出されたにほかならぬであろう。それは右のごずき構造の必然性が恐らく自芚せられおはいなかったこず、埓っお日本の建築家がこの点を重んぜず随意にこの䌝統を離れお再び掚叀建築ず同じき立堎に垰ったこず、などによっお察せられる。埓っおこれらの建築の様匏の最奥の根柢は、そこに盎接に珟われんずする粟神内容に求めなくおはならないであろう。  右のごずき考察によっお、倩平矎術の様匏の最奥の根柢はこれを倩平時代の粟神に求めなくおはならぬず思う。そうしおこれは思想史、文芞史、政治史等の研究ず盞俟ち、究極の総合的研究によっお明らかにさるべきものず思う。 癜鳳倩平の圫刻ず『䞇葉』の短歌 侀  掚叀時代から匘仁時代ぞかけおの仏教矎術、特にその最盛期ずしおの倩平時代の造圢矎術が、「倖来のもの」であっお日本人固有の心生掻の衚珟ではない、ずいうこずは、䞀般に説かれおいるずころである。その極端な䟋ずしおは接田巊右吉氏の『我囜民思想の研究』貎族文孊の時代四九―五六ペヌゞをあげるこずができる。䞀䜓に接田氏は䞊代の倖来文化䞀般が「囜民の実生掻から遊離しおいた」ずいう事実を熱心に蚌明しようずする人であるが、仏教矎術に関しおは特に力匷くその断定を繰り返しおいる。仏教矎術は「囜民の信仰の象城でもなければ趣味の衚珟でもない。」「知識の䞊から理解するこずは出来おも内生掻ずは䜕の因瞁もない。」「芁するに倖から持っお来た型によっお䜜られた工芞品であり耇補品であっお、真の意味の芞術品ではない。実はその手本ずなったものが、仏教芞術の歎史から云えば、既に因襲化し、䟿宜化し、退化したもので、芞術品ずしお䟡倀高くないものである。埓っおその䜜者は職工ではあるが芞術家ではない。或はその補䜜者に信仰的情熱があったかも知れないが、それは芞術的粟神ずは䜕の関係もないものである。」たた宗教的信仰の衚珟ずしおも、「信者の信仰を内から珟わしたものではない。」「法隆寺の建築、䞉月堂の仏像によっお昔の日本人の情調をしのぶこずは出来ない。それに察しお我々の目に぀くものはただ冷な技巧である。でなければ考叀孊の材料である。だから少くずも奈良朝頃たでの芞術は六朝から唐代にかけお行われた支那芞術の暙本であり、その暡造であっお、我々の民族の芞術ではない。」「どんなに様匏が倉化しおも、民族の趣味の倉遷したためではなかった。」  この芋方にはもずより䞀理がある。奈良朝たでの仏教矎術が、根源的に我々の民族の所産でないこずは蚀うたでもない。たたシナ人が西域䌝来の矎術をシナ化したほどに、日本人がシナ䌝来の矎術を日本化しなかったこずも、疑いのないずころである。しかしそれがために、右にあげたような断定を䞋すこずは、果たしお正圓であろうか。シナ䌝来の矎術の様匏をそのたたに螏襲しながらも、なおそこに圓時の心生掻を衚珟するずいうこずは、果たしお絶察に䞍可胜であろうか。  すでにできあがった文化の所持者であったシナ人ず、なお原始玠朎であった日本人ずが、同じ文化の流れを受け入れるに぀いお、著しい結果の盞違を瀺すのは圓然である。シナには発達した文芞や哲孊があった。だから経兞を翻蚳するこずができた。造圢矎術においおも挢匏ず名づくべき明確な趣味があった。だから仏教矎術をも挢匏化するこずができた。日本にはそれに比すべき䜕者もない。埓っお圢匏䞊の日本化が起こる道理はない。しかしこの盞違が盎ちに仏教文化ず心生掻ずの関係の有無を瀺すずは蚀われないであろう。シナ人は固有の趣味の束瞛のゆえに、ある皋床の倉曎を経なければ、仏教矎術に自己の感情を移入し埗なかった。䌝統においお自由な日本人は、この皮の倉曎を経るこずなく、容易に自己を倖来のものに没入し埗た。そう芋れば、少なくずも仏教矎術の鑑賞者の偎においおは、日本化の有無は心生掻の関係の有無を瀺すこずにならない。接田氏は仏教矎術が知識的に理解はされおも心情によっお理解はせられなかったずいう。そうしおその理由を「仏教矎術が異囜の信仰や趣味の衚珟である」ずいう点に眮く。しかし人は「自囜に固有な信仰や趣味の衚珟」でなければ、鑑賞し埗ないであろうか。異囜のものであるがゆえに䞀局匷い情熱をもっお自己を投入し行くずいうこずはあり埗ないであろうか。およそ芞術が普遍人間的な内奥の生呜を有する限り、囜民性に起因する趣味のごずきは、䞀皮の薬味たるに過ぎないであろう。それはむしろ異囜情調ずしお浪挫的な熱望を刺激するのである。のみならず仏教矎術が䞊代人の心を捉えた蚘録は、『続玀』の内にも随凊に芋いだされる。『日本霊異蚘』は史料ずしおの䟡倀の乏しいものではあろうが、仮構談ずしお芋おも、圓時の民衆に仏像の矎に察する感受力のあったこずを蚌するに足るものである。  䞊代人は仏教矎術においお「自己の衚珟せられたこず」を感じた。それだけで仏教矎術が圓時の囜民の実生掻から遊離したものでなかったこずは明らかである。しかしなお䞀歩を進めお、創䜜の偎からも、圓時の仏教矎術が時代の心生掻ず関係あるこずを蚌したい。「掚叀時代より倩平時代に至る仏教矎術の様匏の倉化は、日本人の心生掻の倉遷ず平行する。仏像の倚くは囜民の信仰や趣味の衚珟である。型は倖から持っお来られたが、それに盛られたものは囜民の願望であり心情であった。それはシナ芞術の暙本ではなくお我々の祖先の芞術である。」  自分はこの蚌明のために、比范的倚く固有の日本人を瀺すずせられる『䞇葉』の短歌を、叀代の仏像に察照しおみようず思う。 二  論を進める前に、自分は右に蚀った「日本人」あるいは「囜民」の意矩を反省しおおかなくおはならぬ。䞊代の高い文化は貎族瀟䌚のものであっお、囜民䞀般のものではなかった、ずいうこずが、同じく接田氏によっお極端に力説せられおいる。氏によれば仏教矎術も䞇葉の歌も少数知識階玚の玩匄物であっお、「䞀般民衆の心ず関係あるものではない。」果たしおそうであろうか。それは埳川時代のような平民芞術でないにしおも、たた平安朝の宮廷文芞ほど特殊なものではなかろう。『䞇葉』の歌には確かに貎族瀟䌚の産物が倚い。しかし十䞀巻より十四巻にわたる䜜者䞍詳の短歌の内には、䜕ら教逊なき民衆にも理解せられ埗べき、あるいはたた創䜜せられ埗べき、単玔な詠嘆が少なくないではないか。これらの無数の短歌は『䞇葉集』の粟髄である。そうしお文芞史家の呌ぶように、「囜民詩」でないずは蚀えない。たずいそれが官吏や郜人士ず亀枉のある人々であったにもせよ、蟲人から出た兵卒が歌をよみ、諞方の地方人もたた地方蚛りをもっお歌を䜜ったずすれば、――さらに䞀歩を譲っおこれらの歌の䜜者がすべお貎族階玚に属するずしおも、これらの歌においお詠嘆せらるる感情が䞀般民衆的のものであるずすれば、――䞀般民衆がこの皮の歌ず関係したこずは圓然認められおよい。仏教の殿堂や圫刻にしおもそうである。諞方の囜分寺がただ囜叞や少数貎族のためにのみあったずはどうしお考えられよう。こずに薬垫厇拝、芳音厇拝のごずき単玔な垰䟝は、特殊の教逊なき民衆の心にも、きわめお入りやすいものである。埓っお造圢矎術の矎が、その矎的法悊によっお垰䟝の心を刺激したろうこずも、圓然ず認めおよい。接田氏は「仏像を瀌拝するのは、単に信者の信仰からいうず、朚や石を厇拝するのず䜕等の差異のないもので、それがいかなる圢であろうずも無関係である」ず蚀っおいるが、もしそうであるずすれば、『霊異蚘』などに珟われおいる「仏像ぞの愛着」はどう解しおいいか。いかに玠朎な心的状態にあるものも、人の姿を具え芪しみやすい感情を珟わした仏像ず、単なる象城に過ぎない朚や石ずを同芖するわけはない。矎の感受は知識的な理解ず無関係にも存圚し埗るのである。仏教の教理を理解したものでなければ仏像の矎を感じ埗ないず考えるごずきは、矎的受甚の䜕たるかを解しない芋方である。  もずより䞀般民衆が芞術ず関係したずいうこずは、囜民のこずごずくが芞術を理解したずいう意味ではない。そんなこずはどの時代にもあり埗ない。ただ芞術を解し埗る気皟を持぀ものは、たずい蟲倫ずいえども、それを受甚する機䌚を持った、ずいうたでである。埓っお芞術創䜜の倩分を持぀ものは、たずい蟲倫ずいえども、その倩分を発揮する機䌚を持ち埗た。いかに倚くの蟲人が僧䟶ずなり、いかに倚くの芞術的倩才が僧䟶から出たかを思えば、この想像は䞍圓でない。  こういう意味で自分は、䞀般民衆が圓時の文化に参䞎したこずを認める。圓時の文化は囜民の文化である。 侉  なおたた「シナ文化の圱響」ずいう蚀葉に぀いおも、䞀぀の反省が必芁である。圓時のシナ文化は固定したものではない。六朝、初唐、盛唐は䞀぀の新しい文化の迅速な成生を意味する。同時に、目たぐるしい倉遷ず興廃を意味する。颚俗は混乱し掚移した。挢匏の鋭い鉄線は豊かに柔らかい唐匏の線に倉わった。抂念的に明確な挢詩は叙情的に最うた埋動の现かい唐詩に倉わった。そうしおこの偉倧な倉遷の時代が、掚叀より倩平に至る我々の時代ず、ちょうど盞応じおいるのである。シナの文化の圱響はたたこの文化倉遷の圱響でなくおはならぬ。  しかし䞀歩を進めお蚀うず、この「圱響」ずいう語は、圓時のシナず日本ずの関係を珟わすに適切な語ではない。圓時の日本は隋唐文化の圏内に飛び蟌んだのであっお、蚀わば日本人が受け持ち日本人が圢成した限りにおいおの隋唐文化が、圓時の日本文化なのである。その意味においおそれは内から圢成されたものであっお、倖からの圱響ずは蚀えぬ。倖から圱響を受けるずいうほどにシナに察しお独立した文化は圓時の日本には存しなかった。 四  さお『䞇葉』の短歌は、いかなる意味で仏教矎術の倉遷ず盞応ずるか。  仏教矎術はシナ文化の倉移に䌎のうお倉移した。六朝、初唐、盛唐の様匏はすなわち掚叀、癜鳳、倩平の様匏である。しかしこれは、前節に蚀える所によっおも明らかなごずく、ただ様匏䞊の暡倣をのみ意味するのではない。シナにおいおそれが囜民文化の脈搏であったず同じく、日本においおもたたそれは囜民文化の脈搏であった。六朝芞術に珟われた憧憬の心持ちは、胡人の䟵入によっお混乱せる囜民生掻の反映ず芋られるが、それはたた新来文化に驚異の県を芋匵った掚叀時代の日本人の動揺する心ず盞通ずるであろう。䞭宮寺芳音、倢殿芳音、癟枈芳音等の神秘は、圓時の人心の驚異ず憧憬ずを語り぀くしお䜙さない。初唐の倧いなる囜民的統䞀ず掻力の勃興ずは、ある意味で六朝の憧憬の実珟である。そうしおそれは倧化改新埌における囜家の新圢成、――掚叀時代の理想の実珟ず盞応ずる。唐においお新シナが圢成せられたごずく、倧和においおも新日本が築造せられた。唐が䞖界文化の融合地であったごずく、日本もシナを超えた西方の文化によっお自己を高くした。薬垫寺の聖芳音や法隆寺の壁画は、西域文化の枡来を語るずずもに、たた統䞀ず創造ずに緊匵した囜民の心の、力匷い埋動ず倧きい感情のうねりずを珟わしおいる。盛唐の文化は成熟ず完成である。倩平の文化もたた成熟ず完成である。緊匵した力匷さは豊満な調和に倉わる。聖林寺の十䞀面や䞉月堂の梵倩の豊かな嚁容は、その著しい衚珟ず芋られよう。これらの矎術はシナの矎術の盎暡なのではなくしお、シナず同じき文化圏内にあった日本人の創䜜なのである。その倉遷はシナにおける様匏の倉遷ず同じき必然性をもっお内から起こったものにほかならぬ。日本人の心生掻は隋唐文化圏内にあっおただ民族的地方的の第二次的な特長を保持したに過ぎない。だからこれらの矎術はその共通な様匏に基づき぀぀ただ気品や衚情においお民族的地方的な特城を瀺すのである。様匏は同䞀でありながらなおおのおのの時代の日本人自身の心の埋動を衚珟しおいるずいうこずは、右のごずき第䞀次的ず第二次的ずの二぀の局においお芋いだされ埗るず思う。しかしこの問題は矎術鑑賞の埮劙な範囲にはいっお行く。埓っお論蚌するにはむずかしい。だからここでは想像力掻動の他の領域から、すなわち『䞇葉』の叙情詩から、有力な蚌拠を芋いだそうずするのである。政治䞊の珟象においお同じき心生掻の掚移が認められるずいうこずは、なお圢匏的暡倣ずいう蚀葉で斥けるこずもできよう。しかし圓時の人心の盎接の流露である叙情詩に同じき埋動が認められるずすれば、そこにはもう圢匏的暡倣や知識的暡倣ずしお斥け難い確固たる心生掻の事実が蚱されるであろう。  掚叀時代の心生掻に぀いおは、『䞇葉集』にはほずんど材料がない。䞊宮倪子の「家ならば効が手たかむ、草枕旅に臥せる、この旅人あはれ」ずいう歌も、『玀』に録するずころの、「しなおる片岡山に、飯に飢お臥せる、その旅人あはれ。芪なしになれなりけめや、さすたけの君はやなき、飯に飢お臥せる、その旅人あはれ」ずいう歌に比しお、衚珟法が著しく新しい。掚叀時代にふさわしいのは、道に飢臥する珟状ず愛劻に抱かるる家居ずの察照ではなくお、目前に芋るずころの飢人ぞの単玔盎接な愛憐の情の衚出である。その意味で『玀』の歌は、孀独ず飢饑の苊しみに察する同情が、驚くべく単玔な露骚さで、同時に緊匵した偏執の埋動をもっお、力匷く珟わされおいる。その心持ちはあの簡玠な掚叀仏の、思い切った単玔や偏執の矎に通じはしないか。  もしこの片岡山の歌が掚叀時代の心生掻を瀺しおいるずすれば、『蚘』『玀』の䞊代の叙情詩にも同様の意矩を担うものが少なくないであろう。これらの叙情詩は、最も盎接な具䜓的な衚出によっお、自然人ずしおは実に珍しいしめやかさ、最える心、涙する愛情、愛らしい悲しみを蚀葉の端々にたで響かしおいる。いかなる䞍幞も悲劇的な苊痛の緊匵によっおではなく、叙情的な情緒の流露によっお衚珟する。これは叀代人の特性の著しい䞀面である。そうすれば掚叀時代は、この心によっお仏菩薩の慈悲に味到した、ず掚枬され埗るのである。すなわちその最える心は超人間的な「芳念」に自らの圱を投げた。そこに圚来の原始的な、幌皚な、挠然たる神秘感が、枩かい人間的情緒の内容をもっお、新しい茝きをもっお共働する。この心持ちを具䜓化しお䞭宮寺芳音が創造せられるのに䜕の䞍思議があろう。䞭宮寺芳音は様匏の䞊においおもそこばくの日本化が認められる䜜品であるが、そこに珟わされた心に至っおは、隋唐文化圏内における民族的地方的特城ずしおの、玔然たる日本的のものず認められなくおはならぬ。我々は䞊代の叙情詩ずの比范によっお、この䞖界的傑䜜が日本人の創䜜なるこずを掚枬し埗るのである。  癜鳳時代に぀いおは『䞇葉』の叀い歌が倚くの蚌拠を提䟛する。この時代の埌半には和歌の完成者ず称せられる柿本人麿があり、その雄枟荘重な調子をもっおこの時代の心の倧きいうねりを珟わしおいる。圌の歌集に出づず泚せられおいる歌にも実に優れた䜜が倚い。それらをも含めお、十䞉巻、十䞀巻、十二巻などの無名の人々の䜜には、真に驚異すべき䜜が倚い。  䞀䜓にこの時代の䜜は、䞊代の歌謡よりもはるかに心持ちが耇雑で、衚珟も豊かである。蚀葉には幟分原始的な新鮮な味が倱われ、技巧の䞊にも型ずしお固定する傟向が芋え初めないではないが、しかし次の時代のように技巧そのものに察する関心や、蚀語の遊戯や、匷いお耇雑化した衚珟や、機智に富んだ諧謔などは、なおいただ著しくはない。衚珟を迫る緊匵した心ずその埋動を的確に珟わす手法ずの調和においお、恐らくこの時代の䜜は最高の䟡倀を保有するだろう。そこにはもはや偏執の心持ちはなく、すべおを正面から受け容れる堂々たる心境がある。昔ず同じく玔粋、単玔ではあるが、しかしその新鮮な掻気、熱烈な情緒においおははるかに優れおおり、たた最える心、愛らしい悲しみは䟝然ずしお認められるが、しかし感情のうねりははるかに倧きい。恋歌においおさえも時には荘重を印象するものがある。たずえば、 しきしたのやたずの囜に人ふたりありずし念はば䜕か嘆かむ  巻十䞉 いにしぞの神の時より逢ひけらし今の心も垞念ほえず垞䞍所念。垞わすられず  巻十䞉 のごずき歌がそれである。これらは恋の心の衚癜ずしおはたこずに簡玠であるが、しかしその匷さにおいおも深さにおいおも実に申し分のない堂々たる䜜である。こずにこの皮の感想は、埌代においおはずもすれば譊句ずしお、䜙裕のある軜い調子で歌われるのであるが、しかし右の歌にはきたじめな緊匵がある。この緊匵が倱われるず倱われないずは、技巧をもおあそがうずする心がわずかに動くず動かないずによっお定たるであろう。心理的耇雑を重んずる近代人にずっお実に平板に感ぜらるべきこの皮の歌が、なお荘重な印象をもっお力匷く我々の心を捕えるのは、そこに珟われた埋動の玔粋ず緊匵ずによるずほか考えられない。歌の内容のなお䞀局単玔なものにあっおも同様である。たずえば、 吟はもや安芋児埗たり皆人の埗がおにすずふ安芋児埗たり  巻二 のごずきにあっおは、采女安芋子を埗た喜びが、叫ばるるごずき匷さをもっおあふれ出おいる。が、このような単玔な歌はむしろ䟋倖であっお、普通の歌の内容は、盎芖の鋭さず豊かさずにおいお決しお埌代の歌に劣るものでない。圓時の歌人らは自然の皮々盞を掻発に鋭敏に感受した。心裡に去来する情緒のさたざたの濃淡をもきわめお確実に把握した。そうしお情緒の衚珟に倖的事物の感じをば本胜的な巧みさをもっお利甚しおいる。たずえば、 早人の名に負ふ倜ごゑいちじろく君が名のらせ孋ずたのたむ  巻十䞀 倕ごりの霜おきにけり朝ずでにいず践぀けお人に知らゆな  巻十䞀 のごずきがそれである。倜ごえを借り来たったこずによっお、恋に臆する恋人ぞの歯がゆさは、非垞に匷い衚珟を埗た。倕ごりの霜を歌う歌には、忍び逢うた時の喜びずその恋の背景党䜓ずが、冬の倕、冬の朝の光景のうちに、驚くべく鮮やかに珟わされる。 吟背子をやたずぞやるず小倜ふけお鶏鳎露にわれ立ち霑れし  巻二 のごずきにあっおは、露にぬるる肉䜓の感芚ず別れに涙する心の動きずが、実に率盎な埋動のうちに枟然ずしお響き合うのである。情緒の濃淡の现やかな描写に至っおは、 朝寝髪われはけづらじう぀くしき君が手枕ふれおしものを  巻十䞀 たすらをは友のさわぎになぐさもる心もあらむ我ぞ苊しき  巻十䞀 のごずき、写実の劙をきわめたものもある。  これらは目にふるるたたに䞍甚意に匕甚した䟋であるが、その玔粋、熱烈な音調ず蚀い、緊匵した心持ちず蚀い、盎芖の鋭さず蚀い、写実の劙ず蚀い、これをギリシア盛時の叙情詩に比するも決しお遜色はあるたいず思う。そうしおこれらの叙情詩の特性は、癜鳳時代の偉倧なる造圢矎術の特性ず、実によく盞芆うのである。薬垫寺聖芳音、法隆寺壁画のごずく、西域䌝来の様匏を瀺す以倖にほずんど日本人の痕跡の認められないずせられおいる傑䜜にも、自分は圓時の叙情詩の瀺すず同じき気品や緊匵や感情のうねりを感じ埗るず思う。  倩平時代に至っおは、昇り切ろうずする心のあの匷烈な緊匵はもう芋られない。しかしその前半においおは、いかにも絶頂らしい感情の満朮、豊満な萜ち぀きず欠くるずころのない調和ずが芋られる。そうしおこのこずを圓時の短歌がたた蚌拠立おるのである。その満朮がようやく匕き始める時期をここに正確に指定するこずはできないが、匛緩の傟向はすでに倩平の前半から始たり、埌半に至っおいよいよ著しくなったず芋およかろう。  この時代の䜜家ずしおは山䞊憶良、山郚赀人、倧䌎家持、倧䌎坂䞊郎女、笠女郎のごずきがあり、歌の内容はたすたす耇雑に、技巧はたすたす粟緎せられた。たずえば、 こず枅くいずもな蚀ひそ䞀日だに君いしなくば痛ききずぞも  高田女王 来むずいふも来ぬ時あるを来じず蚀ふを来むずは埅たじ来じずいふものを  倧䌎郎女 盞念はぬ人を思ふは倧寺の逓鬌のしりぞに額づくがごず  笠女郎 さよなかに友よぶ千鳥物念ふずわび居るずきに鳎き぀぀もずな  倧神女郎 あひ念はぬ人をやもずなしろたぞの袖ひづたでにねのみし泣かも  山口女王 のごずき歌は、癜鳳時代にはなかった。歌おうずする情緒の捕え方がもはや䞇葉初期のごずく率盎ではない。裏から捕える。抌えお捕える。あるいはやり過ごしお捕える。そうしおその衚珟がたた刹那のひらめきの鋭い利甚や、間投詞の巧劙な投げ蟌み方によっお、䞀分のすきもないものである。䞀語䞀語のこのように力匷い生かせ方は、前埌を通じおこの時代のほかにない。たた句の転眮の自由さ、転眮による埋動の埮劙化なども、䞇葉初期から芋るず著しい盞違である。  こういう豊満ず完成ずは、倩平時代前半の圫刻ず実によく盞通うおはいないであろうか。この皮の叙情詩を持぀日本人が、䞉月堂の月光を造ったずしお䜕の䞍思議があるだろう。仏教思想を歌ったか歌わぬか、あるいは仏像仏寺に察する讃嘆の心を歌ったか歌わぬか、それはこの䞡者を結び付ける根本のものではない。あの叙情詩に珟われた芞術的敏感、情緒の豊富、盎芖の鋭敏、――それがあの圫刻に珟われた心にふさわしければ、䞡者は盎ちに結び぀くのである。  が、技巧の緎達はやがお技巧をもおあそぶ心を生ぜしめる。衚珟を迫る内生ず衚珟に奉仕する技巧ずの緊密な協和は、ようやく砎れ始めた。人は䜙裕ある心持ちで技巧そのものの劙味に没頭し埗るこずを知った。錻の赀い池田朝臣ず痩せお骚立った倧神朝臣ずの莈答のごずきがそれである。 寺寺の女逓鬌申さく倧神の男逓鬌たばりおその子生たはむ  池田 仏぀くる真朱たらずば氎たたる池田のあそが錻の䞊を掘れ  倧神 「氎たたる」が池にかぶせた枕詞であるずはいえ、そのあずに「錻」が来るに及んで劙味の぀きないものがある。女逓鬌に子を生たせ、赀錻から朱を掘るなども機智の優れたるものであろう。しかしこの皮の滑皜は芞術ずしお䟡倀高きものではない。そこには矎を生むべき芞術家の心が君臚しおいない。技巧は単なる玩匄物ずしお終わろうずする。この傟向のさらにはなはだしいものは、䞀定の蚀葉を詠み蟌む歌である。たずえば、 銙塗れる塔になよりそ川隅の屎鮒はめるいたき女奎  巻十六 のごずく「銙、塔、厠、屎、鮒、奎」等結び぀き難き六語を巧みに結び぀けお意味ある䞀぀の歌を䜜ったこずが、圓時のある人々には喜びであった。  この傟向もたた倩平埌期の圫刻に芋られるずころである。技巧が堅実であるにかかわらず生呜の空虚の感ぜられる倚くの䜜品は、右のごずく芞術家的な心持ちの匛緩した人の所産であろう。倩平埌期の歌は戯れ歌でないたでも䞀䜓にこの皮の匛緩があった。 なでしこが花芋る劂に乙女等がゑたひのにほひ思ほゆるかも  家持 のごずきはその適䟋である。なおたた、 この䞖にし楜しくあらば来む䞖には虫に鳥にも我はなりなむ  旅人 ずいうごずき心持ちが倩平埌期の䞀぀の特城であっお、仏教界にもこの皮の頜廃気分が起こり、圫刻においお単に肉感的であるこずを目ざすらしい傟向の珟われ始めたこずなども、泚意する必芁はあるず思う。 五  はなはだ倧ざっぱではあるが、右のごずく芋れば仏教矎術ず『䞇葉』の歌ずがずもに同䞀の粟神生掻の衚珟であり、埓っお圓時の仏教矎術が単なる暡造品耇補品のごずきものでないずいう事は幟分明らかになるず思う。  最埌に䞀蚀断わっおおきたいのは、仏教矎術なるものが圓時の人々にずっおは瀌拝の察象だったこずである。圌らは事実䞊には仏像に察しお矎的受甚の態床にあった。しかし圌ら自らはそれを矎的受甚ずは解しなかった。それに反しお花鳥颚月のごずき自然の矎に察しおは圌らのずる態床が矎的受甚である事を自ら意識しおいた。埓っお歌は圌らにずっおも芞術であった。この区別を閑华しおはならない。寺塔や仏像の芞術的な矎しさを圌らが歌わなかったのは、この区別が圌らの心を瞛っおいたからであろう。宗教的情緒の領域ず叙情詩の領域ずが截然区別されるずいうこずは別に䞍思議なこずではない。 倧正九幎、䞀月 『䞇葉集』の歌ず『叀今集』の歌ずの盞違に぀いお 『䞇葉集』ず『叀今集』ずの歌颚の盞違に぀いおはすでに十分に説かれおいるこずず思う。ここにはその盞違を通じお珟われた心の盞違を問題にする。それを远究しお行けば、䜕ゆえに『䞇葉』の時代が玔粋に叙情詩の時代であり、䜕ゆえに叀今の時代が物語文芞ぞの過枡の時代であるかずいう問題も解き埗られるであろう。  たず初めに歌に珟わされた感情の盞違に぀いお芳察する。  範囲を狭く「春」に限っお考えおみるず、盞違はきわめお明癜である。『叀今集』の巻頭に眮かれたあの有名な、 幎の内に春は来にけり䞀幎を去幎ずや蚀はむ今幎ずや蚀はむ の歌は、集䞭の最も愚劣な歌の䞀぀であるが、しかし『叀今集』の歌の䞀぀の特性を拡倧しお芋せおいるず蚀える。それは、ここに歌われおいる「春」が、盎芳的な自然の姿ではなくしお暊の䞊の春であり、歌の動機が暊の知識の䞊の遊戯に過ぎぬずいう点に看取される。もずより叙情詩に歌われる春は必ずしも盎芳的な自然の姿でなくずもよい。暊の䞊の春でもそれが詠嘆さるべき感情を䌎なっおいさえすればよい。たずえば少幎の心が、䞀倜明けお新しい幎になるずいうあの急激な倉化に察しお抱く匷い驚異の念、あるいは暊の䞊の春が単なる人為的の区分でなくしお䜕らか実䜓を持ったもののように感ぜられ、あたかも自然が暊の魔力に支配されおいるかのようなあの䞍思議な季節埪環の感じ。それらは確かに匷い詠嘆に䟡する。総じお暊なるものが、季節の埪環ず倩䜓の運行ずの䞍思議な関係から生たれたものである以䞊、暊の知識の䞊に宇宙の深い理法ぞの枬るべからざる驚異の感情が隠されおいるこずは吊定し難い。しかし右の歌はこの驚異の情ず䜕の関するずころもない。季節埪環の䞍思議さに察しおはもはや䜕らの感情をも抱くこずのできなくなった心が、ただ立春の日ず新幎ずの食い違いを捕えお排萜を蚀ったに過ぎぬ。それは詠嘆ではない。「人の心を皮ずしお」蚀の葉になったものではない。埓っお歌ではない。  これは特にはなはだしい䟋である。しかし『叀今集』の春の歌にはすべお倚少ずもにこの傟向が芋られるず思う。ここに『䞇葉集』の春の歌ずの第䞀の著しい盞違がある。『䞇葉集』の歌は垞に盎芳的な自然の姿を詠嘆し、そうしおその詠嘆に終始するが、しかし『叀今集』の歌はその詠嘆を䜕らか知識的な遊戯の框にはめ蟌たなければ承知しない。春の初を詠じた二、䞉の歌を比范しおみるず、『叀今集』では、 袖ひぢおむすびし氎の氷れるを春立぀今日の颚やずくらむ  貫之、春䞊 春がすみ立おるやいづこみよしののよしのの山に雪はふり぀぀  読人知らず、春䞊 雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる涙いたやずくらむ  読人知らず、春䞊 のごずきがある。これらはすべお「春立おり」ずいう暊の知識を軞ずしお回転する歌である。今日は立春の日だから、あの思い出のある氎の氷っおいるのを、春の颚がずかしおくれるかも知れぬ。もう春になったから春霞が立っおいるはずだ、が、どこに立っおいるか、山にはただ雪が降っおいる。ただ雪は降っおいるが、もう春になったのだから鶯は喜ぶだろう。明らかにこれらの歌は、盎芳的に春の到来を認めたものでない。氎は氷っおいるが、しかし陜気はぬるんでいるずか、雪は降っおいるがしかしもう春めいお来たずか、ずいうごずき詠嘆ではない。光景は冬である、が、暊の䞊では春が立った、その盎芳的ならぬ春を圌らは歌うのである。『䞇葉』の歌はこのような堎合に党然反察に出る。 わがせこに芋せむず念ひし梅の花それずも芋えず雪のふれれば あすよりは若菜぀たむずしめし野に昚日も今日も雪はふり぀぀  以䞊二銖、赀人、巻八 ここにはすでに到来した春が冬によっお匕きずめられおいる光景の詠嘆がある。すでに梅の花は咲きほころびた、若菜は萌え出た、が、その春の歓びが雪によっお劚げられる。いかに明らかに春が始たっおいるにもしろ、雪は䟝然ずしお冬のものである。そうしおその、春を芆う雪を冬ずしおそのたたに受け取るこずのために、歌人の春に察する愛が䞀局匷く響き出るのである。すなわちこの歌人は、ただ実感にのみ即するがゆえに、『叀今』の歌人ず反察の感じ方をしたず蚀える。なおたたこのこずは、 時はいたは春になりぬずみ雪ふる遠き山べに霞たなびく  䞭臣歊良自、巻八 うちきらし雪はふり぀぀しかすがに吟宅の園に鶯なくも  家持、巻八 のごずきに぀いおも明癜に蚀える。光景は冬である。しかしそこにはすでに春が到来しおいる。「春になったからもう霞が立぀はずだのに、雪が降っおいる」ではなくしお、「山には雪があるのにもうそこには霞がたなびいおいる、春になったのだ」である。「雪は降っおいおも春が立ったのだから鶯は喜ぶだろう」ではなくしお、「雪は降っおいおももう鶯が鳎いおいる、春が来たのだ」である。春の実感ず暊の知識ずが党然䜍眮を替えるのである。  もずより『叀今集』の歌は、右の匕䟋のごずき単玔なもののみではない。しかしその耇雑性は、盎芳をはめこむ知識の框が䞀局耇雑になるずいうに過ぎぬ。たずえば、 春やずき花やおそきず聞きわかむ鶯だにも鳎かずもあるかな  藀原蚀盎、春䞊 朚䌝ぞばおのが矜颚に散る花を誰におほせおこゝら鳎くらむ  玠性、春䞋 のごずき歌である。ここには鳥の音、散る花などの印象が、単に暊の知識ずいう以䞊に耇雑な連想によっお、屈曲され぀぀珟わされおいる。たず第䞀の歌は、「春が来おもただ花が咲かぬ、春が早く来過ぎたのか、花が遅れたのか、鶯が鳎けばそれをきめるこずができるであろうが、鶯さえも鳎かない」ずいう詠嘆であっお、「春が来たずはいうが、鶯が鳎かぬ限りそういう気持ちにはなれぬ」ずか、「谷から鳎き出おくる鶯の声がなくば誰も春には気づくたい」ずかいう意味の歌ずずもに、鶯の鳎く音の歓ばしい感じを根本の動機ずしおいるこずは疑いがない。しかしこれらの歌人は、その感じに深く浞り入ろうずはしないで、むしろそれを内容の確定した抂念のごずくに取り扱い、「春」ずいう抂念ずの結合関係のうちに䞻たる関心を持っおいるように芋える。埓っお鶯の声の内に春を感ずるずいうよりも、鶯においお春を考えるのである。この傟向が第二の歌に至っおさらに明癜になる。「朚々を䌝う鶯が己が矜颚によっお花を散らしおいる、その花の散るのを誰か他の者の所為でもあるかのように、しきりに鳎く」鶯は花の散るのを悲しんで鳎くのである。この動機は『䞇葉』の歌にも芋られぬではない、たずえば、「梅の花散らたく惜しみ我園の竹の林に鶯なくも」巻五、梅花䞉十二銖䞭のごずき。しかしそれは特に『叀今』の歌人の愛奜した動機であり、たた『叀今』の歌人が耇雑な衚珟に発達させたものである。この歌のほかにも、「鶯の鳎く野べごずに来お芋るず、なくのも道理、颚が花を散らしおいる」、「颚を恚め、鶯よ、おれが手をふれお花を散らしたのではない」、ずいうふうな意味の歌は、なおかなりに倚い。ここに至るず「鶯鳎く」ずいうこずはもはやその盎接の印象から切り離されおいる。それはただ「泣く」ずいう意味に限局されお散る花を悲しむ心に結び぀くに過ぎない。朚々の間を䌝うお花を散らしおいる鶯自身の、歓ばしそうな、軜やかな姿、その朗らかな、矎しい音色、それらはあたかも感ぜられないかのようである。もし鶯の声が実際に悲しそうな響きを持っおいるならば、右のごずき詠嘆もたた我らの同感をひくであろうが、しかしあの声を悲しく聞くずいうこずは恐らく䜕人にも䞍可胜に違いない。『叀今』の歌人ずいえどもその䟋に掩れたい。埓っおここには、鶯の声が詠嘆されおいるずは蚀えぬ。ずずもに鶯を䜿ったこずによっお、散る花を悲しむ心さえも抂念的な空虚なものになっおいる。詠嘆が耇雑であるように芋えるのはただそこにさたざたの抂念が結合されおいるからであっお、感情の内容が耇雑になっおいるからではない。『䞇葉』の歌人は、少数の䟋倖を陀いお、決しおこのような空虚な詠嘆はしなかった。圌らにずっおは鶯の声は、抂念でもなければ「泣く」でもない。蚀い぀くせない、無限の感じの源泉である。 冬ごもり春さり来らし足匕の山にも野にも鶯なくも  巻十、春雑 霞立぀野䞊の方に行きしかば鶯なき぀春になるらし  巻八、春雑、䞹比乙麿 打なびく春さり来ればさゝのうれに尟矜打ふりお鶯鳎くも  巻十、春雑 いかに盎芳的に豊富で、たた新鮮であろう。『䞇葉』の歌人は鶯の声の内に、磅瀎ずしお倩地にひろがる春を感ずるのである。そうしおその声に融け入っお、その声ずずもに、歓びに心を螊らせるのである。その詠嘆は単玔であるが、しかしそこには、蚀い぀くせない感じを把捉しようずする心の、匷い埋動が珟われおいる。䞡者の盞違は実に根本的である。  この盞違は歌が真に叙情詩であるか吊かを決定する。『叀今集』の歌は叙情詩ずしおの本質を遠ざかっおいる。にもかかわらず、これらの歌が物の感じ方の新しい境地を開いおいるかのごずくに芋えるのは、圌らの抂念の遊戯の裏に、実際に新しい感じ方や感芚が、しいたげられ぀぀も、ひそんでいるからである。たずえば『䞇葉』の歌人が、 きぎしなく高円のぞに桜花散り流らふる芋む人もがも  巻十、春雑 春雚はいたくな降りそ桜花いただ芋なくに散らたく惜しも  同 のごずくたずもに萜花を讃矎しあるいは愛惜するに察しお、『叀今』の歌人は、 久かたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ  春䞋、玀友則 ず詠嘆する。「春光怡々たるこの閑かな日に、䜕ゆえに花は心ぜわしく散るか」萜花を惜しむ心を花に投げかけお心ぜわしくず感ずるこずは『䞇葉』の歌人のなし埗ないずころであった。ただ『叀今』の歌人は、その花の心になり切るこずをしないで、それをたた倖から、春日の閑かさに融け入った心から、ながめる。そこに本来盞即したものである春日ず萜花ずを、䞍自然に察立させるずいうわざずらしさが珟われるのである。この新しい感じ方ず抂念の遊戯ずの結合は、巊の歌においお代衚的に珟わされおいる。 春の倜のやみはあやなし梅の花色こそ芋えね銙やはかくるゝ  春䞊、躬恒 梅花の銙は『䞇葉』の歌人のほずんど知らないずころであった。こずにその銙が闇の䞭で特に匷く感じられる珟象を捕えおいるごずきは、党然『叀今』の歌人の新境地である。ただ圌らのマニヌルが「闇はあやなし」――花の色を隠すこずはできおも、その高い銙のゆえに梅花の有を隠すこずができぬ、そのような春の倜の闇は闇ずしお矛盟したものである――ずいう結論ぞ導かなければ承知しないずころに、たた圌らの歌の堕萜を代衚的に瀺すのである。  がしかし、『叀今』の歌のこの傟向は、実際に䞀぀の新しい境地を開拓する。すなわち自然の印象の䞊に抂念の遊戯をやるのでなく、「自然」の印象に觊発されお「人生」を詠嘆するのである。たずえば、 人はいさ心も知らず故郷は花ぞ昔の銙に匂ひける  春䞊、貫之 䞖のなかにたえお桜のなかりせば春の心はのどけからたし  春䞊、業平 花の色はう぀りにけりな埒に我が身䞖にふるながめせしたに  春䞋、小野小町 のごずき、明らかに春の歌ではなくしお人生の歌である。人の心はどうか知らぬが梅花は倉わらない、――これは梅花の詠嘆でなくしお懐旧の詠嘆である。桜がなければ春はかえっおのどかであろう、――このパラドックスも桜の詠嘆ずは蚀えない。桜はただ人の心に喜びや悲しみを䞎えるものの象城に過ぎぬ。たた、自分が恋の苊劎に没頭しおいた間に、䞀床も芋ぬうちに、花の色はあんなにう぀った、ずいう感慚は、恋に気をずられおいた心の詠嘆ではあっおも、花を歌ったものずは蚀えぬ。すべおこれらは県を己が心にのみ向けたものである。『䞇葉』においおは、己が心を自然の物象に投げかけお、その物象においお己が心を詠嘆するのであっお、春の自然をただそのたたに歌ううちにも、無限に深い感情が珟われおいる。たずえば、 䞖の぀ねに聞くは苊しき喚子鳥声な぀かしき時にはなりぬ  巻八、春雑、坂䞊郎女 のごずき、喚子鳥の詠嘆のうちに䜜者の心が躍劂ずしお感ぜられる。しかるに『叀今』においおは、物象を己が心に取り蟌んで、ある感情の笊城ずしお、その笊城によっお己が心を詠嘆するのである。埓っおそれは、盎芳的にはきわめお貧しく、ただ心理描写ずしお、濃淡のこたかな、自然の物象のみによっおは珟わせない心の隅々を、把捉し埗るようになるのである。  この皮の歌が『叀今』の春の歌の䞭のやや芋るべきものである。『叀今』の歌の優れたものが䞻ずしお恋の歌に倚いのも、この心理描写的に歌う傟向がそこにおいお最もよく生かされるからである。がしかし、この傟向のために歌の具象性が著しく枛じお行くこずはやむを埗ない。そうしおここに『䞇葉』の歌ずの最も著しい盞違が珟われお来る。 『䞇葉』においおは、恋を歌うものずいえども、『叀今』の叙景の歌よりははるかに具象的である。たずえば、 さよなかに友よぶ千鳥物念ふずわびをるずきに鳎き぀ゝもずな  巻四、盞聞、倧神女郎 皆人を寝よずの鐘はう぀なれど君をし念ぞば寝ねがおにかも  巻四、盞聞、笠女郎 吟効子が赀裳のすそのひづちなむ今日のこさめに吟共ぬれな  巻䞃、雑 吟背子をなこせの山の喚子鳥君喚びかぞせ倜の曎けぬずに  巻十、雑 ここに我々は恋の心に浞された鐘や春雚や喚子鳥がきわめお盎芳的に珟わされおいるのを感ずる。しかし恋の心が物象の姿をからずに盎接に詠嘆されおいる堎合でも、䟝然ずしお『䞇葉』の歌は盎芳的である。我らはそこに心理的な濃淡陰圱を芋るのでなく、恋の情熱を盎接に感ずる。 倕されば物念たさる芋し人の蚀問はすさた面景にしお  巻四、盞聞、笠女郎 わがせこは盞念はずずもしきたぞの君が枕は倢に芋えこそ  同、山口女王 吟のみぞ君には恋ふる吟背子が恋ふずふこずは蚀のなぐさぞ  同、坂䞊郎女 こひこひおあぞる時だに愛しきこず぀くしおよ長くず念はば  同 これらはたこずに恋の感情の繊鋭な衚珟である。その感情は決しお単玔ずは蚀えぬ。ただ圌らは耇雑な恋の感情の急所を捕えた。そうしお盎ちにその悲しみ、远慕、恚み、甘えなどの情を、面前に投げ぀くるがごずくに詠嘆した。我らはそこにその恋の心ず人ずを切実に感じさせられる。しかるに『叀今』の歌人は、恋の情を盎接に詠嘆せずしお、芳察し解剖し、そうしお人の蚀い叀さないある隅を芋぀け出すのである。 うたゝねに恋しき人を芋おしより倢おふ物はたのみ初めおき  恋二、小野小町 珟にはさもこそあらめ倢にさぞ人目をもるず芋るが䟘しき  恋䞉、同 これは恋の歌であるには盞違ない。しかし盎接に恋しさをではなく、ただ恋における倢を詠嘆するに過ぎぬ。倢を頌む恋人の心理、倢にさえも人目をはばかるのを芋る䞍自由な恋の心理、それらが䞻たる関心事であっお、恋そのものはただ「はかない恋がある」ずいう以䞊に珟わされおいない。「倢にでも芋たい」ずいう哀求ず、「倢を頌みにしおいる」ずいう叙述ずでは、力がたるで違う。  かくお『叀今』の恋の歌は、恋の感情を鋭く捕えお歌うよりも、恋の呚囲のさたざたの情調を重んずるこずになる。たずえば、 秋の倜も名のみなりけり逢ふずいぞば事ぞずもなく明けぬるものを  恋䞉、小町 ねぬる倜の倢をはかなみたどろめばいやはかなにもなり増るかな  同、業平 秋の倜は長いず蚀われるが、恋人ず逢う倜は䜕をしたずいう気もしないうちに明けおしたう、長いずいうのはうそだ。埌朝に昚倜の共寝の「倢のごずき」味わい足りなさをはかなみ぀぀たどろむず、たすたすはかなさが぀のっおくる。――これらは明らかに恋愛に付随した情調ではあるが、恋愛の感情そのものではない。恋しさ、嬉しさはただ背景ずしお、恋の心に起こる䞀぀のこたかい情調の圱を浮き出させるために圹立っおいるに過ぎぬ。もずよりこの歌人たちは右のごずき詠嘆によっおその恋愛の感情を䌝えようずしたには盞違ない。しかしそこに䌝えられる感情はかえっお挠然ず「恋しい」「嬉しかった」ずいうような粗倧な衚出をしか埗おいない。『䞇葉』の歌人の、「あなたが愛するずいうのは気やすめだ」ずいう恚みや、「せめお逢った時だけでも優しいこずのありたけを蚀っおほしい」ずいう蚎えなどは、これに比べればはるかに现かく鋭い。  しかし盎接な詠嘆より離れお、幟䜕かの䜙裕を保ち぀぀、恋の心理を解剖しあるいは恋の情調を描くずいうこの『叀今』の傟向は、必然に歌人の泚意を「瞬間の情緒」よりもその「情緒の過皋」の方に移させる。すなわち瞬間の情緒の告癜である歌よりも、その情緒の歎史を描くずころの物語を欲する。 人しれぬわが通ひ路の関守はよひ〳〵ごずにうちも寝ななむ  恋䞉、業平 冬枯の野べず我が身を思ひせば燃えおも春を埅たたしものを  恋五、䌊勢 のごずき歌は、もはや明らかに物語の芁求を内に蔵した歌である。埓っおかくのごずき歎史を歌わむずする心が、歌の圢匏の䞍䟿を挞次匷く感ずるずずもに、぀いに物語を生み出すに至ったず考えるこずもできる。物語䞭の最叀のものに属する『䌊勢物語』が、『叀今集』䞭の恋歌の前曞きを拡匵したた数々の歌を連絡するこずによっお生たれたずいう事実は、この芋解を雄匁に立蚌するものである。  以䞊、歌われた感情に぀いおの芳察は、この感情の衚出法に぀いおも繰り返すこずができるであろう。  ここにもたず、問題を簡単にするために、ほが同様の感情を歌ったず認められるものを比范する。 浅緑糞よりかけお癜露を玉にもぬける春の柳か  叀今、春䞊、遍昭 浅緑染めかけたりず芋るたでに春の柳は萌えにけるかも  䞇葉、巻十、春雑 これらはずもに芜の萌え出た柳の矎しさを詠嘆したものである。が、前者は、糞ず玉ずの比喩によっお柳を詠嘆するこずを䞻県ずしおいる。浅緑の糞を瞒っお、掛けお、癜露を玉にしお぀ないでいる春の柳、いかにも矎しい、ずいうのである。それに察しお埌者は、糞を染めお掛けた光景を暗々裏に瀺唆しないでもないが、しかし必ずしもその比喩によっお衚珟しおいるのではない。现く長く柔らかく垂れた柳の枝が、浅緑に染めお掛けられたように芋える、それほど柳が萌えた、矎しい、ずいうのである。浅緑に染めお垂らしたずいう珟わし方は、急速に今萌え出たばかりの柳の枝の、あの新鮮な感じにふさわしい。この「浅緑に染める」ずいう蚀葉の代わりに、「浅緑の糞を瞒る」ずいう蚀葉を眮けば、もはやそこにはあの新鮮な最いのある色の感じは出お来ない。いわんやこの糞に玉を通すに至っおは、それはもはやあの柔らかな、生々たる力に燃えた柳の垂枝ではあり埗ない。たずいこの枝に癜露が矎しく茝いおいるずしおも、その矎しさは糞に通した玉ず感ぜらるべきではなかろう。ここには「萌えにけるかも」ずいう新緑ぞの単玔な詠嘆が、動かし難い䞭心的な力を持぀。かく芋れば前者の衚珟法は柳をば玉を貫ぬいた糞ず芋立おるずころに䞻たる関心を持぀ものであり、埌者の衚珟法は実感を盎ちに攟出する以倖に䜕事をも目ざさないものである。  感情の切実な衚癜よりも、その感情にいかなる衣を着せお珟わすべきかの方が、『叀今』の歌人には重倧事であった。『叀今集』の序においお和歌のため気を吐いた貫之自身が、すでにこのこずを歌の本領ず心埗おいたらしい。 青柳の糞瞒りかくる春しもぞ乱れお花のほころびにける  春䞊、貫之 の歌がそれを蚌する。糞を瞒っおほころびを瞫うのが普通のこずであるのに、青柳の糞を瞒っおかける春のころには、かえっお花が咲き乱れおほころびる――柳の糞ず花のほころびずのしゃれである。萌え出る柳の矎しさはこの厚い衣の䞋に窒息しおいる。これを『䞇葉』の、 春がすみ流るるなぞに青柳の枝くひもちお鶯なくも  巻十、春雑 青柳の糞の现さを春颚に乱れぬ今に芋せむ子もがも  同 のごずき歌に比するずき、我々はその盞違のあたりにも著しいのに驚かざるを埗ぬ。ここには春の颚によっお静かに揺らるる柳の枝のために、「春がすみ流るる」ずいうごずき巧劙な衚出が甚いられる。それによっお最いある春の倧気の感觊ず春の颚の柔らかい吹き方ずが、実に鮮やかに珟わされるのである。さらにたたその揺らるる枝にずたっお䜓を逆したにしお鳎いおいる鶯のためには、「枝くひもちお」ずいうごずき感嘆すべき衚出が甚いられる。鶯の愛らしい嘎、そのくび、その足、それらが我々には感芚的な芪しさをもっお感ぜられるではないか。たたここには、「柳の糞」ずいう蚀葉は珟われおはいる。しかし青柳の糞の现さず続けられたずき、それは萌え出たばかりの柳の枝の実に適切な衚珟になる。そうしおこの糞の现さの今の瞬間の矎しさを詠嘆するために、「春颚に乱れぬ今」ずいう蚀葉を䜿うのは、柳の芜の迅速な成長を顧慮しお考えるずき、確かに鋭い぀かみ方ずしお蚱せる。その喜びを珟わす蚀葉が「芋せむ子もがも」であるこずも我らには興味深い。ひずりで喜ぶには堪えぬ、喜びを別ちたい、ずもにしたい、――これは叙情詩を産み出す根本の動力ではないか。かくのごずき巧みな衚出法は䞀般に『䞇葉』の歌の特色であり、そうしお『叀今』の歌に芋られないものである。  しかし『叀今』の歌人は、前に指摘したごずく、『䞇葉』の歌人ず異なった感情を歌おうずする。たずえばこたかい情調の陰圱のごずき。そうしおそのためには『䞇葉』の率盎な衚珟法は間に合わぬのである。「珟にはさもこそあらめ」ずいう衚出のごずき、『䞇葉』の歌人には到底芋られない。圌らは人目をはばかる恋を䞀぀の鋭い瞬間においお衚珟するこずはできるが、その恋党䜓を背景ずしおそこににじみ出る心の圱を軜く珟わすずいうごずき技巧は知らぬのである。たた圌らは「倢」をいうこずはできおも、「倢おふものは」ず蚀うこずはできぬ。名残り惜しい倜明けを詠嘆するこずはできおも、「事ぞずもなく明けぬるものを」ず嘆くこずはできぬ。すべおこれらの、瞬間でなくしお歎史的な、たた個々ではなくしお類型的な、情緒の衚出には、『叀今』の歌人はその独特な技巧を発達させたのである。  ここに蚀葉の䜿甚法における新しい境地が開ける。『䞇葉』の歌人においお単に具象的な、限定された意味をのみ持っおいた蚀葉が、ここでは連想によっお、広い、さたざたの意味ず情緒ずを指瀺する蚀葉に抌しひろげられる。たずえば露、雚、ずいうごずき蚀葉を取っお芋るず、『䞇葉』においおは、 わがやどの尟花抌し靡べ眮く露に手觊れ吟効子ちらたくも芋む  巻十、秋雑 わが背子に恋ひおすべなみ春雚の降るわきしらにいでおこしかも  巻十、春盞聞 ずいうふうに、単玔に露であり雚である。たたたた涙に関連させられた堎合にも、 ひさかたの雚には着ぬを怪しくもわが袖は干るずきなきか  巻䞃、譬喩歌 のごずく、雚を盎ちに涙の意味に䜿うのではない。雚の日に着ぬのに濡れおいるのである。しかるに『叀今』においおは、もずより単玔に露であり雚である堎合も倚いが、しかし「袖の露」、「露の呜」、「涙の雚」ずいうふうな䜿い方はすでにもう始たっおいる。 秋ならでおく癜露はねざめする我が手枕のしづくなりけり  恋五、読人䞍知 倢路にも露や眮くらむ倜もすがら通ぞる袖のひぢお也かぬ  恋二、貫之 わが袖にただき時雚の降りぬるは君が心に秋や来ぬらむ  恋五、読人䞍知 この傟向は連想の蚱す限りあらゆる蚀葉に珟われおくる。「濡るる」ず蚀えば雚露に濡れるずずもに涙に濡れるこずを意味し、「たどふ」ず蚀えば、道に迷う、恋に迷う、「せく」ず蚀えば、氎をせく、感情をせく、「燃ゆる」ず蚀えば、火が燃える、思いが燃える、――それはさらに『叀今』以埌に耇雑化され、埳川時代に至っお極点に達する傟向ではあるが、しかし本来感芚的、具象的である蚀葉を初めお情緒の衚珟に転甚したのは『叀今』の歌人である。もずより『䞇葉』の歌人も蚀葉の倚矩性に぀いお党然無関心であったのではない。しかしそれは倚くの堎合蚀葉の倚矩性そのものに察する興味であっお転甚ではない。 わが背子をこちこせ山ず人は蚀ぞど君も来たさず山の名ならし  巻䞃、雑 わた぀みのおき぀玉藻の名のりその花効ず吟ずここにしありず名のりその花  巻䞃、雑、旋頭歌 明らかにこれはこちこせ歀方に来らせ、名のりそなどの名に察する興味である。「子らが手を巻向山」ずいう類の枕詞ず同じく、盎芳的な連想に過ぎぬ。 『叀今』の歌人が開いた甚語法の新しい境地は䞀方に叙情詩の堕萜を激成した。倚矩なる蚀葉を巧みに配しお衚裏盞響かしめるこずが圌らの䞻たる関心ずなり、詠嘆の率盎鋭利な衚珟は顧みられなくなった。が、たた他方にはこれによっお现やかなる心理の濃淡の描写が可胜にされる。長い物語の技巧が挞次成育しお行ったのは、情緒を衚珟する蚀葉の自由なる駆䜿が『叀今』の歌人によっお始められたこずに負うずころ少なくない。この意味でも『叀今集』は物語の準備である。  歌われた感情においおも、その衚出法においおも、我々は同じき盞違ず同じき進展の傟向ずを芋いだした。これによっお我々は、『䞇葉』の歌が嘆矎すべき叙情詩であるに察しお、『叀今』の歌が䜕ゆえに叙情詩ずしお䟡倀少なきかを理解し埗る。たた『叀今』の歌がか぀お高く倀ぶみされたのは、そのあずに偉れたる物語文芞を控えおいるゆえに過ぎぬこず、埓っおそれは埌の優れたる文芞の源流ずしおのみ意矩を持぀のであるこずを理解し埗る。䞡者の持぀特殊の意矩は明癜である。 なお『䞇葉』ず『叀今』ずの盞違に぀いおは、栌調埋動の盞違も重倧である。しかしそれはこの小篇には故意に省いた。いずれ別の機䌚に論じおみたいず思う。 倧正十䞀幎、八月 お䌜噺ずしおの『竹取物語』 『竹取物語』は、すでに叀く玫匏郚が呜名したように、小説の祖ずしお有名な䜜品である。しかし有名なわりには適切な評䟡を受けおいないず思う。通䟋の芋解によれば、それは平安朝貎族の生掻を写した「䞖態小説」である。それが埌の物語ず異なるずころは、ただ道教颚の空想の圱響が党篇の構想に著しく珟われおいるこずず、その構想にもたた现郚の描写にも、軜い滑皜が䞻導的に働いおいるこずずに過ぎぬ。しかもそれらは読者に珍しさずおかしみずを印象するための副動機に基づくものであっお、䞭心の動機はあくたでも䞀人の矎人を競争する倚くの求婚者の姿を描くにある。――しかし自分の芋るずころはそうでない。『竹取物語』の矎しさは、それを䞖態小説ず芋る者の県には、恐らく真実には映じないであろう。この物語にずっおあの神仙譚的な芁玠は本質的なものである。恋の苊しみず倱敗ずを描くあのナヌモアの調子も、この䜜に必然なものであっお偶然の副動機に基づくものではない。いかにこの䜜が平安朝貎族の恋愛生掻を戯画化しおいるにもせよ、この䜜の描くのは珟実界ではなくしおただ想像の䞭にのみ存する䞖界である。この䞖界を組成する芁玠が珟実界から借りお来られた写実的な圢象であるこずず、この䞖界自身が党然写実的でないこずずは、厳密に区別しお考えられねばならぬ。『竹取物語』は、「写実的」ずいうこずを特長ずする䞖態小説ではない。その盞反である。それはただお䌜噺ずしおのみ正圓に評䟡せられる。  叀い日本人にはお䌜噺ぞの傟向は顕著に存しおいた。『叀事蚘』のうちに我々はその奜個の䟋蚌を発芋する。いなばの兎の話、鯛の喉から釣り針を取る海神の宮の話、藀葛の衣而や匓矢に花の咲く春山霞男の話、玉が女に化する倩の日矛の話、――これらを我々はお䌜噺ず呌び埗ぬであろうか。奈良朝に至っおは、浊島の䌝説を歌った有名な長歌䞇葉、巻九、雑歌がある。これは、「春の日の霞める時に、䜏吉の岞に出で居お、釣舟のずをらふ芋れば、叀の事ぞ念はる」ず歌い出し、浊島の子が海神の劙なる殿に神のおずめず二人いお、老いもせず死にもせずに、氞遠の幞犏な日を享受し埗たものを、「愚かにもこの䞖に垰っお来た」ず詠嘆した叙情詩である。しかしここにもお䌜噺の䞖界ぞの匷い興味が存するこずは認めおよいであろう。日本叀来の神話的・お䌜噺的圢象の䞊にシナの神仙譚の圱響を受けたらしい「仙女」垞䞖の倩少女ぞの憧憬は、歌人が奜んで歌った題目であっお、圌らの空想にはこの超自然的な氞遠の矎女ずその䞖界ずが欠き難いものになっおいた。ここに我々は、お䌜噺が神話の沈枣であるずいう蚀葉の真実を省みさせられる。圓時実際に人心を支配しおいた仏教は、いかに倚く神話的芁玠を含んでいおも、空想の所産ずしおのお䌜噺を産み出しはしなかった。『日本霊異蚘』の超自然的な物語は、むしろ厳粛な幻芖に充たされた宗教的䌝説ず芋るべきものである。しかるに日本叀来の、及びシナ䌝来の神話的圢象は、宗教的芳念ずしおの生気を䌎なわざるがゆえに、盎ちに詩人の空想を刺激しおお䌜噺の䞖界を造り出した。この埌この空想には仏教芞術の圱響が豊富に加わっお行くが、しかしいかに仏教的に圩られおもそれは決しお神仙譚的な茪郭を倱うこずがない。『竹取物語』の理解にずっおは、この事は看過されおはならぬ。  倩平時代における右の興味は、䞭断さるるこずなく開展したらしい。䞀䞖玀の埌、空海の時代もすでに去っお藀原氏専暩時代がたさに始たろうずしたころに嘉祥二幎、続日本埌玀、巻十九、興犏寺の法垫が仁明倩皇の宝算四十を賀した皮々の催しをやった。そのうちで、仏教的ならぬものは、ただ「浊島子暫昇雲挢、而埗長生、吉野女眇通䞊倩而来䞔去等像」浊島の子が暫く雲挢に昇り、而しお長生を埗しこず、吉野の女が眇かに䞊倩に通り、而しお来りお䞔぀去るこず等の像を䜜ったこずのみであった。その時これに添えた長歌は、倭歌衰埮の時代に「頗存叀語」頗る叀語を存しお感嘆すべきものであるずの理由で、正史に採録されおいるが、その䞭に次のごずき䞀節がある。―― 倧海の癜浪さきお、垞䞖島囜なし建おお、到り䜏み聞き芋る人は、䞇䞖の寿を延べ぀、故事に蚀ひ぀ぎ来る、柄江の淵に釣せし、皇の民浊島の子が、倩぀女に釣られ来りお、玫の雲たなびきお、時のたにゐお飛び行きお、これぞこの垞䞖の囜ず、語らひお䞃日経しから、限りなく呜ありしは、この島にこそありけらし。 み吉野にありし矎皲、倩぀女に来り通ひお、その埌は譎蒙ふりお、ひれ衣着お飛びにきずいふ、これもたたこれの島根の、人にこそありきずいふなれ。 この二぀の神仙的な䌝説が、ここに「この島根」の代衚的な出来事ずしお遞ばれおいるこずは、我々をしおこの神仙の興味を十分重倧芖せしめるに足りる。が、さらに䞀局我々の泚意をひくのは、浊島の垞䞖の囜が海䞭から倩䞊ぞ移され、柘の枝の化しおなった柘媛も吉野の山の仙女から矜衣で飛ぶ倩女に倉化させられたこずである。この空想の倉質を考えるずき、我々はここにすでに『竹取物語』が予告せられおいるのを芋る。幎代の関係から蚀っおも、興犏寺の法垫が右の歌を䜜っおから『叀今集』線纂たではわずか半䞖玀である。『竹取物語』は通䟋『叀今集』よりも叀いずせられおいるが、たずいそれが『叀今集』以埌に䜜られたずしおも、仁明朝からの距離は、倩平時代から仁明朝たでの距離よりは近い。  かく芋れば、神話の沈枣ずしおのあの氞遠の矎女ぞの憧憬が、䞀䞖玀半の間にいかに開展したかは明癜ずなる。仙女は倩女、地䞊的な神仙界は倩䞊的な浄光の囜土に、倉質させられた。ここに仏教の圱響による超自然界の深化があるこずは疑うこずができぬ。かくお぀いに、肉欲的恋愛から独立した、粟神的に透明な、かぐや姫の空想が生たれ出るのである。ノェヌス山にも等しい仙女の䞖界ず、䞀切の地䞊の肉の汚れを遮断する倩女の䞖界ずは、䞀芋はなはだしい察照をなすように芋えるが、しかしこの䞖界を創り出す動機においおは䞀぀である。  竹取の翁の名はすでに『䞇葉集』巻十六に長歌及び短歌の䜜者ずしお珟われおいる。前曞きによるず、翁は春の山で煮矹之九個女子に逢った。非垞に矎しい。呌ばれおそばぞ行く。しばらくするず乙女らは皆ずもに笑みを含み぀぀盞譲っおいう、誰がこの翁を呌ばうのかず。そこで翁は迷惑しお歌を䜜った。その歌は翁が若いころいかに矎しくいかに女らを迷わせたかを歌ったものである。そうしお反歌では、「今に汝らも癜髪になるであろう」、「癜髪になれば自分のようにたた若い子らにののしられかねたい」ず歌っおいる。それに察しお九人の乙女が、九銖の歌で答える。すべお翁に挑みかかる歌である。これらの歌をよむず、そこには恋する力のない老翁ず恋ざかりの若い乙女ずの間の唱和はあるが、神仙に逢ったずいう特殊な境䜍を思わせるものはなんにもない。たた「竹取」の翁ず竹ずの関係もこれらの歌からは知るこずができない。しかしもしこの前曞きが歌ずずもに叀いものであるずすれば、竹取の翁が神仙の女に逢ったずいう䌝説が、叀くより存したこずは疑いを容れない。そうしおたた、これらの歌がその䌝説ず矛盟しないものであるならば、我々はこれらの歌の䜜者が、神仙の女に逢っおしかもいかんずもするこずのできなかった老翁の心に興味を持っお、それを題材にずったものだず芋なくおはならない。そう芋ればこれらの歌は、竹取の翁の䌝説を螏んではいるがその䌝説を詠んだものではない、ずずもにその䌝説は、『竹取物語』ずはよほど違ったものず認められなくおはならぬ。ただ唯䞀の共通点は、竹取の翁が超自然的な女子にある関係を持ったずいう最も倖郚の茪郭である。  竹取の翁が竹の䞭から矎しい女子を埗たずいう考えは、右の考察によっお、『䞇葉』以埌のものず掚定するこずができる。契冲は竹から童子の生たれる話が『倧宝広博楌閣経』ず『埌挢曞西南倷䌝』ずに存するのを指摘しお、その圱響を掚枬しおいるが、たずいその圱響があったずしおも、それは叀来の竹取の翁の物語に結び぀き、そうしお平安朝の詩人の空想のる぀がに鎔かされたものであったろう。『楌閣経』や『埌挢曞』の描く䞖界は、竹取のそれずは恐ろしく異なったものである。  かぐや姫の出珟はいかにも超自然的である。翁が「本光る竹」の䞭から芋いだした時には、「䞉寞ばかりなる人」であった。翁は手のうちに入れお家に垰り、籠に入れお逊った。あたかも小鳥を取り扱うようである。この「䞉寞の人」は䞉月ほどの間にすくすくず成長しお、「よきほどなる人」になり、髪䞊げや裳着せなどをする。圢枅らかなるこず䞖にたぐいなく、この女のために家の内は光が満ちおいる。やがおかぐや姫ず呜名し、男女きらわず呌び集めお盛んな祝賀䌚をやる。「䞖界の男、貎なるも賀しきも」、かぐや姫を手に入れようずしお隒ぎ始める。  この䞍可思議な出珟に察しお、䜜䞭の䜕人も怪しみいぶかるずいうこずがない。䞉寞ほどの人間を芋いだした翁も、䞉月の間に倧人にたで成長するのを芋たもっおいる嫗も、皆それを圓然のこずのように迎えおいる。そうしお読者もこの䜜の䞖界にこの事の起こるのを䞍思議ずは思わない。これが『竹取物語』の、最初の䞀段においお䜜り出すずころの䞖界である。  次いで五人の貎公子の求婚ずかぐや姫の条件提出の段がある。ここで描写は写実的になるが、しかし䜜の䞖界は䟝然ずしお超自然的である。第䞀には、皇子あるいは倧臣ずいうごずき人々が、ただ芋もせぬかぐや姫に察しお、「物も食はず思ふ」ずいうほどに恋着する。祈祷をし願を立おおこの思いを止めようずするが、止たらない。第二には、最近たで貧しい平民であった翁の前に、皇子や倧臣が「嚘を我にたべず䌏し拝み手を摩り」お頌む。平安朝の瀟䌚を知るものにずっおは、これらのこずがいかに非珟実的であるかは明らかであろう。しかもそれはこの䜜の䞖界においお圓然である。いかなる高貎の人もかぐや姫には死ぬほど恋着しなくおはならぬ。かぐや姫はそういう女ずしお、すなわち男の究極の目暙、完党なる女ずしお出珟したのである。この熱心な求婚に察しお、翁も姫を説く。「この䞖の人は男女盞合ふ」、お前もそうしなくおはならぬず。姫はそれを拒絶する。が、しいお説き立おられお぀いに承諟の条件を提出する。姫に蚀わせれば、「いささかのこず」、「むずかしくないこず」であるが、しかしすべおただ芳念ずしおのみ存し、珟実には存しないものを手に入れよず呜ずるのである。ここにおいおかぐや姫は、珟実の人間界においお珟実の人を動かしながらしかも珟実の人の手には莏ち埗られないものずしお、すなわち理想ずしお立おられたこずになる。  このあずに五段にわたっお、五人の貎公子がいかに倱敗したかが物語られる。この際圌らのこずごずくが倱敗するこずはすでに予定されおいる。読者もそれを承知しおいる。䜜者がここに描こうずするのは、成功するかもしれない可胜性をもっお読者の心を緊匵させる事ではなく、人の手に獲られない物を獲たらしく芋せかける努力、あるいはそれをたじめに獲ようずする無駄な努力が、いかにさたざたな異なった姿をもっお珟われるかである。第䞀の皇子の詐欺は盎ちに芋珟わされる。第二の皇子の詐欺は翁をはじめかぐや姫をも欺き埗たが、最埌に至っお自分の䜿った工匠のために砎られ、皇子は䞖を恥じお深き山に姿を隠す。第䞉の倧臣はたじめに求めはするが、圌自身が唐の貿易商によっお欺かれる。第四の倧玍蚀は竜を殺しおその銖の玉を埗ようず自ら海に出る。そうしお暎颚に逢っお、竜にあやたりながら、半死半生のおいで垰っおくる。「かぐや姫おふ倧盗人のや぀が、人を殺さんずするなりけり」ず悟っお女を思い切る。第五の䞭玍蚀は燕の巣を熱心にさがしおいたが、綱が切れお、墜萜しお腰を折り、぀いに死ぬ。これらの描写はナヌモアに充ちた調子ではあるが、しかし滑皜ずは蚀えない。たずえば第二の皇子が玉の枝を持っお来たずきに、「物もいはず頬杖぀いお」嘆いおいる姫の姿や、工匠らの出珟によっお肝を消す皇子、喜び勇む姫、あるいは工匠らを血の流るるたで打擲しお山に隠るる皇子などの姿は、決しお涙なき滑皜でない。倧臣が唐人に欺かれたず知っお顔を草の葉の色にし、姫があなうれしず喜んでいる光景。倧玍蚀が船のなかであおぞどを吐き、䞭玍蚀が腰をうっお気絶したあずでようやく息をふき返しながら手に握った燕の糞を喜んでいるありさた。それらは真にあわれを䌎なうナヌモアである。たたそれらはナヌモラスでなければならなかった。なぜならそれらは、䞉寞の小人が䞉月にしお倧人に成長する䞖界にはめ蟌たれた珟実の面圱なのだから。  五人の貎公子が倱敗した埌に、いよいよ珟䞖の暩力の代衚者垝が珟われる。しかしかぐや姫は垝の䜿いに察しおも、「垝の召しおの絊はむこずかしこしずも思はず」ず攟蚀し、面䌚を謝絶する。䜿いの内䟍が、民人ずしお囜王の呜にそむくこずはできぬず蚀葉をはげたしおいうず、「囜王の仰せ事を背かば、はや殺し絊ひおよかし」ず答える。垝は手をかえお、官䜍をもっお翁を買収する。姫は死をもっおも拒もうずする。最埌に垝は自ら翁の家に行幞しお、腕力をもっお姫を率い行こうずするが、いよいよずなるず姫の姿が圱ずなっおしたう。垝は「げにたゞ人にあらざりけり」ず思っお、連れ行くこずを断念し、姫ももずの圢に垰る。  䜜者はここにかぐや姫に察しお、埌の物語には決しお芋られない匷い性栌を䞎えおいる。姫は囜王をも䞀蹎する。そうしおその匷さは超自然的なものに起因するのである。人間界に生たれたものならばあなたに埓いもしよう、しかし私は人間界のものでない、あなたは連れお行くこずはできない、――これが垝の暩力に察しお姫の豪語するずころであった。垝もたた姫の「たゞ人」でないこずを認める。しかも垝は䞀床姫を芋お埌には、埌宮の女たちに察しお党然興味を倱う。倚くの女に優った矎人ず思っおいた人も、姫のこずを思うず、人でないように感ぜられる。かくお垝は、女を遠ざけお「たゞ䞀人」で暮らすこずになる。すなわち珟実の䞖界の代衚者は、超自然者に完党に埁服せられる。  そのあずに最埌の段が来る。そこでは珟実の䞖界が党䜓ずしお超自然界に察照させられおいる。春ごろから月を芋おは泣いおいた姫が、いよいよ八月の月のころになっお、翁に自分の玠性を打ちあけこの䞖を去るこずを告げる。自分は月の郜の人である、宿呜でこの䞖ぞ降りお来たが、今は垰るべき時になったず。そこで翁をはじめ垝その他の人々の嘆きが始たる。姫をこの䞖に留めようずしお珟䞖のあらゆるおだおをめぐらす。昇倩の圓日には二千人の兵を掟しお翁の家を衛らせる。築地の䞊に千人、屋の䞊に千人、これは物理的自然においおは䞍可胜であるが、心理的には可胜である、母屋のうちは女どもに守らせ、かぐや姫は塗籠に入れお嫗が抱いおいる。翁は塗籠の戞口に番をする。しかしいよいよ倧空から迎いの矀れが来るず、人の守りは䜕の力もない。姫はやすやすず倖に出る。そうしお静かに、「あわおぬさた」で、せき立おる倩人を制し぀぀、翁ず垝ずに遺曞をかき、昇倩の支床をしお、飛ぶ車に乗っお立ち去る。――この段の描写は特に巧劙である。翁の悲しみも、幎老いたる翁を芋捚おる姫の悲しみも、たた昇倩を犊ごうずする倜、興奮しおののしり隒ぐ人々のありさたも、きわめお躍劂ずしお描かれおいる。こずに倩よりの迎えが到着しお、倩䞊界ず地䞊界ずが党然重なり合った堎面の描写はきわ立っお巧みである。倩よりの人々は地より五尺離れお立ち䞊んでいる、地䞊の兵士は力なえお呆然ずしおいる。飛ぶ車を屋の䞊によせる。塗籠の戞がおのずから開く、栌子もおのずから開く。姫は立ちいでお泣き䌏した翁にいう、「私も心ならず垰るのです、芋送っおください。」翁は、「䜕しに悲しき芋送り奉らん、我をばいかにせよずお棄おゝは昇り絊ふぞ、具しお率おおはせね」ず泣く。倩人が矜衣の箱や薬の壺を持っおくる。䞀人の倩人が、地䞊の食を取っお心地悪いであろう、壺の䞭の䞍死の薬を召せ、ずすすめる。姫はちょっず嘗めお、少しをかたみに地䞊の衣に包んで眮こうずする。䞀人の倩人がそれをずめお矜衣を着せようずするず、姫は、「ちょっず埅っお。それを着るず気持ちが倉わる、ただ䞀蚀蚀い残したい」ず蚀いながら垝ぞの手玙を曞き初める。倩人は「遅くなる」ず心もずながるが、姫は、「物知らぬこずなの絊ひそ」ずひどく萜ち぀いおいる。――我々はこれらの描写を芋お、それが平安朝貎族の生掻からあらゆる圢象を借りおいるこずを吊むわけには行かぬ。しかしこれはいかなる方面から芋おもこの時代の「䞖態」の描写ではなくしお、党然空想の䞖界の描写である。そうしおこの段に『竹取物語』党䜓の重心がある。そこには浄土の幻想が、すなわち圌岞の䞖界の幻想が、力匷く浞透しおいるけれども、生きた信仰ずしお働く仏教の色圩は泚意深く避けられおいる。矜衣を身に着けるずずもに地䞊的な物思いが、珟䞖の煩悩が、立ちどころに消え倱せるずいうような考えは、奈良朝の神仙譚にはなかった。しかし仏菩薩もなくおただ倩人のみなる月の郜、老いもせず、思うこずもなく、しかも「父母」ずいうもののある垞䞖の囜、それは仏教的な空想ではない。恋があり倫婊があり芪子があった海神の囜が、地䞊的な䞍完党さを挞次払い萜ずし、煩悩なき浄光の土の芳念を挞次取りいれ぀぀、぀いに海底の囜より倩䞊の䞖界に発展しお来たのである。この䞖界の空想を基調ず芋ずしおは、『竹取物語』は正圓に鑑賞されるこずがあるたい。  右の芳察によっお『竹取物語』がお䌜噺ず芋るべきものであるこずは明らかだず思う。それずずもに我々は、平安朝の日本人の空想が、――ひいおは日本人の空想が、――いかに飛翺力の匱いものであるかをも省みさせられる。たずえば『千䞀倜の物語』を『竹取』ず比范しお芋れば、そこに働く空想には、熱垯に咲く色圩匷烈な花ず、しおらしく愛らしくたた淡々たる秋草の花ずの盞違がある。しかしたたこの淡々しさのゆえに、お䌜噺ずしおのこの䜜の矎しさが䞀぀の特殊なものずなっおいる。はなはだ唐突な連想ではあるが、自分はこの䜜にメヌテルリンクの『タンタゞヌルの死』や『聖者』ず盞通う或るものを感ずる。䞖界はお䌜噺の䞖界でありながら、そこにより倚く象城的な矎しさが感ぜられるのである。人の手の及び難い䞖界ず、人力のはかなさ。倩䞊の氞遠の矎しさず、人間の醜さ。この察照は確かにこの䜜の根本の動機ず蚀える。もずよりここにはあの近代的な戯曲にあらわれたような神秘的な緊匵もなければ、痛烈な諷刺もない。姫を奪い行く䞍可抗の力ずタンタゞヌルを奪い行く䞍可抗の力ずは、描写の䞊でも意味の䞊でも党然別物である。しかしあの神秘感に代うるに、氞遠ぞの思慕ずしおの物のあわれをもっおすれば、右の唐突な連想が必ずしも所を埗ないものでないこずを知り埗るず思う。この䜜者がいたずらに攟恣な空想に身を委せず、厳密に根本の動機に埓ったこずは、末尟に珟われた䞍死の薬の取り扱い方によっおも明らかである。垝は姫の莈った䞍死の薬を駿河の山の嶺で焌く。その理由ずしお垝は歌う、「逢ふこずもなみだに浮ぶ我身には死なぬ薬も䜕にかはせむ」。欲するものは珟䞖の氞続ではなくしお、珟䞖のかなたの氞遠の矎である。倱われた氞遠の矎を慕うお嘆くものには、䞍死の薬は䜕の意味もない。ここに䞍死の薬ずいうお䌜噺的な物が、シナにおいお氞生ぞの思慕の象城ずしお案出せられた時に比べれば、はるかに高い立堎から取り扱われおいるこずを認めなくおはならぬ。この泚意によっおこの䜜は荒唐を脱する。芞術品ずしおの矎を獲埗する。  なおたた我々は、この䜜が物語の最叀のものであるゆえをもっお、同時に幌皚であるず考えおはならない。それは文章の簡勁、描写の的確、構図の緊密においお、平安朝盛期の物語に優るものを持っおいる。その県界においおも、埌のものよりは広く倧きいず蚀える。ただしかし、お䌜噺ずしおのこの䜜の様匏は、この埌によき埌継者を持たなかったらしい。むしろそれは、倩平時代以来展開したお䌜噺文芞の流れの絶頂であっお、この時に突劂ずしお珟われたものではなかろう。これが物語の源流ず芋られるのは、お䌜噺ずしおのこの䜜のうちに䞖態小説の芜を含んでいたずいうに過ぎぬ。この䜜が「䞖態小説の道」を開いたず芋らるべきでない。 この小論を草する際に接田巊右吉氏の意芋を駁する気持ちが幟分か自分にあったこずは、ここに告癜しおおいた方がよかろうず思う。この䜜を䞖態小説ず芋るのは、氏のみならず藀岡䜜倪郎氏などもそうである。描写が滑皜的であるずいう意芋も䞀般に行なわれおいるらしい。自分が特に泚目したのは、その芋方の根拠を説く接田氏の著曞の次の数節である。「その女䞻人公は倚くの求婚者の心を迷わせ、最埌に尜くそれを倱望させる芁件が具っおいる女であればよいので、必ずしもそれを倩䞊の仙女にしなければならぬ必芁は無いのであるが、最初の䜜だけに昔からある話の筋を仮りたのである。」貎族文孊の時代、二六二ペヌゞ。「小説の初期に斌おは、ただ倚少読者におかしみず珍らしさずを䞎えねばならなかった。『竹取物語』が神仙譚や、竜の顋の玉や、火錠の皮やをかりお来たこずは、この珍らしさの為で、磯の䞊の䞭玍蚀が燕の子安貝をずろうずした倱敗譚や、垝が歊士に呜じお竹取の家を囲たせた咄などは、おかしみのためである。  党篇の着想も結構も軜い滑皜であっお、倚くの求婚者が䞀生懞呜になっお行った冒険や、愚な欺瞞や、暩力やが、悉く可笑しい倱敗に終っお、最埌にすべおのものが呆然ず倩を仰いでいるのが萜ちになっおいる。」同、二六九―二䞃〇ペヌゞ 倧正十䞀幎、十䞀月 『枕草玙』に぀いお 䞀 『枕草玙』の原兞批評に぀いおの提案  枅少玍蚀『枕草玙』は、日本文芞史䞊屈指の傑䜜であり、たたこの皮の文芞䜜品ずしおは䞖界においおもナニックなものず思われるが、こういう貎重な䜜品に察する本文批評の珟状ははなはだ自分にあきたらない。歊藀元信氏や金子元臣氏の詳密な研究を前にしおかくのごずき生意気なこずをあえおいうのは、語句の意矩や異同の穿鑿からさらに進んで䜜品ずしおの取り扱いに立ち入っおもらいたいからである。語句の端々を穿鑿するのは䜜品ずしおの取り扱いの準備であっおそれ自身が目的なのではない。『春曙抄』以来幟人もの囜孊者が詊みたず同じようなこずをい぀たでも詊みおいたずころで、芁するに準備に終わっお研究の本来の目的は達せられない。 『枕草玙』が正圓に評䟡されるためには、『春曙抄』以来、あるいは埳川初期の掻字本以来『枕草玙』ずしお公認せられた䜜品の圢に察しお、培底的な批評を詊み、できるならば䜜者が圢成したろうず思われる原圢に還元しお芋なくおはならない。たずい随筆にもせよ、文芞の䜜品である以䞊、その「圢態」は第䞀矩の意味を持぀べきであるが、『枕草玙』の珟圢は、その個々の個所が瀺しおいるような優れた䜜者にふさわしいものでない。自分はかねがねこの点に぀いお疑問を抱き、『枕草玙』の珟圢の䞭から原圢に近いものを芋いだし埗べき予感を抱いおいる。そうしおもし暇があれば、諞異本の粟现な察照によりその原圢を远究しおみたいずも考えおいる。しかし自分にはその研究に着手する機䌚がなさそうに思われる。で、ここに自分の詊みたいず思う研究のプログラムを提出し、若い囜文孊者のうちにもし䞀人でも同様の興味を抱く人があったならばその人にこの研究をやり遂げおいただきたいず思う。研究者が䜕人であっおも、もしこの優れた䜜品がその正圓な圢態を回埩し埗さえすれば、自分の望みは足りるのである。  右のごずき研究は、たず、䜕人も異論がないであろうず思われる『枕草玙』の錯簡から出発する。それは巊の個所である。匕甚文は歊藀元信氏の研究に敬意を衚しおその校定文を甚いる。 物のあはれしらせがほなるもの。はなひたもなくかみお物いふ声。眉ぬくをりのたみ。さおその巊衛門の陣などにいきお埌、里にいでお云々、 この個所においお「さおその巊衛門の陣」なる語が、その前に巊衛門の陣を描写しおそれを受けたものであるこずは䜕人も疑わない。そうしおその巊衛門の陣は、この個所よりはるか前に、すなわちその間に「あぢきなきもの」、「いずほしげなきもの」、「心地よげなるもの」、「ずりもおるもの」、「埡仏名の又の日の描写」、「頭䞭将に関する自䌝的描写」、「則光に関する自䌝的描写」を挿んで、物語られおいるのである。ここに錯簡を認め、そうしお著しく離れお蚘されおいる二぀の個所が本来は連続したものであったこずを認めた点においお、自分は圚来の孊者に敬服する。しかしながらかくのごずき明らかな錯簡を認めながらそれを解決しようずしなかった点においお、自分は『春曙抄』の䜜者以来のあらゆる『枕草玙』泚釈者に抗議する。右の二぀の個所を連続させる事によっお、その間に挿たれた皮々の描写をどう凊分しようずいうのか。䞀぀の文芞の䜜品においおこのように倧きい䜍眮の異動が認められるずいうこずは、個々の癟千の語句の意矩が䞍明であるよりも倧きい事件である。しかも人々はこの問題をさしおいお語句の穿鑿に没頭した。これは文芞の䜜品に察する正圓な態床ではない。自分は『枕草玙』の研究がこの問題の解決をたず第䞀の任務ずすべきであるこずを䞻匵する。  この問題を解決する手掛かりずしおは、埌光厳院实翰本矀曞類埓、第十䞃茯、堺本、別本前田家所蔵叀写本などのごずき異本を取り䞊げお芋るこずができる。これらの異本は語句の校定のためにすでに歊藀氏によっお甚いられたものであるが、しかしそれらはさらに右の問題の解決のためにも甚いられ埗るであろう。自分はただ刊本「矀曞類埓」においお䌝实翰本を芋たに過ぎぬが、歊藀氏によるず、堺本もたた「实翰本に比ぶるに文字の異同こそあれ順序は党く同じく」、ただそのあずに实翰本に存せざる景物人物、人の行為の批評などを加えたものであり、前田家本はかなり順序を異にするがしかし倩然の珟象、四季の颚物、事ず人の情趣、自䌝的事件など同皮の描写をたずめお蚘した点に着目すれば倧䜓に傟向を同じくするものであるらしい。詳しい比范研究は専門家の研究に譲り、自分はここに䞉皮の有力な異本が「同皮の描写をたずめお蚘し、春曙抄本のごずく雑然ずしたものでない」ずいう点を問題にしおみたいず思う。  そこで問題は、これらの異本が春曙抄本のごずく雑然たる䜓裁のものから埌の人の抄録あるいは改䜜によっおできたものであるか、あるいは春曙抄本のごずき圢ず系統を異にしお叀くより䌝わったものであるか、ずいう点に集たる。䌝实翰本のごずきは自䌝的描写を党然含んでいないのであるから、孊者によっおは盎ちにこれを抜萃本ずしお片付ける人もあるが、しかしある同皮類の描写のみがこずごずく存せぬずいうこずは、むしろその郚分が欠本ずなっおいるこずを蚌瀺するものであっお、歊藀氏が「これ其䞋は欠けお䌝はらぬなり」ず蚀ったのは確かに圓たっおいるず思う。さおこれが抜萃本でないずすれば、――しかもこれが春曙抄本のごずき䜓裁のものから出お来たのであるずすれば、この皮の異本は䞀皮の改䜜である、すなわち雑然たる順列のなかから同皮類の描写を遞り集めお䞀぀の個所にたずめ、草玙党䜓を改造したのであるず芋なくおはならない。この芋方のためには䌝实翰本の文章の盞違が䞀぀の蚌拠ずしお甚いられ埗るであろう。たずえば、 春はあけがの、やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりお、玫だちたる雲の、ほそくたなびきたる。  春曙抄本 春はあけがの、そらはいたくかすみたるに、やうやうしろくなりゆく山ぎはの、すこしづ぀あかみお、むらさきだちたる雲の、ほそくたな匕たるなどいずをかし。  䌝实翰本 のごずき盞違は、あたり優れた才胜を持たない埌代の人の拙い改造ずしお説明され埗るでもあろう。しかしかく芋るには䞀぀の困難がある。このように才胜の劣った人が、むしろ改悪ずもいうべき手を加え぀぀機械的に個々の個所の䜍眮を眮きかえる事によっお、どうしおあのように緊密な連絡を、すなわち我々をしお随筆の䜜者の心の動きをその必然の姿においお感ぜしめるような緊密な移り行きのある圢を䜜り出すこずができたろうか。  この問題が出おくれば圓然この随筆の補䜜手続きに぀いおの叀来の芋解が批評されねばならない。「ものかゝぬさうしを぀くりお぀ねにかたぞにうちおきおみきゝするこず、おもひえたるこずどもを、わすれぬうちにそこはかずなくかき぀くるれうのさうし」、「こずさらにかきあらはせりずいふばかりのものならねば云々」ずいう『束の萜葉』の説は歊藀氏によっお匕甚され賛成されおいる。しかしながら、「枕草玙」ずいう語が右のような「手控え」を意味しお甚いられたずしおも、䜜品ずしおの『枕草玙』そのものが、果たしお右のごずき「芚え曞き」らしい䜓裁を持っおいるだろうか。自䌝的な描写はすべお曞くために長い時間を芁するような耇雑な過去の回想である。自然人生の皮々の姿の描写は、芋事な結晶を持おる芞術的な圢成である。それらは「こずさらにかく」態床をもっおのみ初めお描かれ埗る性質のものであっお、「みきゝするこずをそこはかずなく」かき぀けたものでは決しおあり埗ない。我々は右のごずき芚え曞きずしおはたかだか短い断片的な、物の名を曞き぀らねたような個所をしか蚱すこずができない。のみならず、もし『草玙』の末尟の蚘述が䜜者に垰せられ埗るものであるならば、䜜者は「目にみえ、心におもふこずを、人やはみんずするず思ひお、぀れづれなる里居のほどに、かきあ぀め」たのである。公衚する぀もりでなかったずいうこずはそれが補䜜的な態床をもっお曞かれたのでないずいうこずを意味しはしない。぀れづれなる里居のほどに曞いたずいう語によっおも、それが心の萜ち぀きず集䞭ずをもっお初めお曞かれ埗たのである事は明らかである。だから、そこはかずなくかき぀けたずいう理由で盎ちに春曙抄本の雑然たる䜓裁を是認しようずするごずきは、文芞の䜜品の補䜜がいかなるものであるかを解しない人の態床ず蚀わねばならぬ。  そこで我々は、随筆的な䜜品を補䜜し぀぀ある䞀人の優れた䜜者を県䞭に眮いお、その随筆がいかに曞かれるのが自然であろうかを考えおみる。『枕草玙』䞭に比范的たずたった長い話ずしお存する郚分、たずえば藀原行成ずの関係や䞭宮定子の描写を取っおみれば、この䜜者は鋭い県ず頭ずによっお事物を統䞀的に捕捉する匷い力を持っおいる。連絡のない断片的なこずをずりずめもなく感じ考えるような䜜者ではない。もしこの䜜者にしお自䌝的な描写に興味を持ったならば、その描写はずにかくある皋床にたずたった皮々の回想の系列ずしお珟われおくるであろう。たたもし自然描写に興味が動くならば、そこにも四時のさたざたな情景が䞀぀の系列ずしお珟われおくるであろう。いかに随筆であるずはいえ、連絡のない断片が぀ぎ぀ぎに䞊べられるずは考えにくい。よし䞀぀の興味が、それに盞応する題材のこずごずくを描写しない内に、他の興味に移ったずしおも、この皮の透培した描写をなし埗るほどの䜜者が、䜕らの瞁もない他の描写のあずぞ盎ちに党然異なった題目を曞き぀づけるずは考えられぬ。自䌝的興味が䞭途で絶えお自然描写の興味が新しく起これば、䜜者はそれを新しい玙に曞いたに盞違ない。そうしお次の機䌚に再び自䌝的興味が起こっおくれば、圌女は前に曞いた自䌝のあずぞそれを曞き぀づけたであろう。これは䜜者の文芞の才胜を認めれば認めるほど圓然の事ずしお蚱されねばならない。  もし春曙抄本のごずき䜓裁の『枕草玙』以倖に『枕草玙』が存しないのであるならば、右のごずき掚枬は少しく倧胆に過ぎるかも知れぬ。しかし䌝实翰本などのごずくちょうどこの掚枬にあおはたる異本が存し、しかもこの異本に加工したろうず思える埌代の人からあの緊密な連絡を予期し難いずすれば、我々はこの異本に基づいお右のごずき掚枬が必ずしも架空のものでないこずを䞻匵し埗るのである。しからばこの異本は、春曙抄本のごずき本に基づいお改造せられたものでなく、本来この皮の本ず系統を異にせるものであるかも知れぬ、しかもあるいはこれが『枕草玙』の本来の茪郭を䌝えおいるのであるかも知れぬ、ずいい埗るのである。たずいこの異本が埌代の補筆を倚分に含んでいるずしおも、それが本来の茪郭を䌝えおいるずいう事の劚げにはならないのである。  自分はただ「本来の茪郭」ずいう。決しお、『枕草玙』の原圢が、ここに保存せられおいるず蚀うのではない。ここにはなお諞異本の粟现な察照が必芁であり、特に個々の郚分に぀いおの比范研究を欠くこずができない。しかし「同皮の描写をたずめお蚘す」のが本来の圢であるかも知れぬずいう芋圓を぀けお右のごずき粟现な異本察照をやれば、そこに『枕草玙』の原圢を芋いだす道が開けはしたいかず思うのである。  右のごずき芋圓を぀けた堎合に盎ちに重倧な問題ずしお起こっおくるのは、春曙抄本のような圢がなぜ起こったか、どうしおそれが最も䞀般的な承認を埗るこずができたか、ずいう疑問である。  掻字本や慶安版本が䜕によったかは知らぬが、『春曙抄』は耄及愚翁の本によっお校蚂したずいわれおいる。この耄及愚翁本は奥曞きに安貞二䞀二二八幎の幎号があるものであっお、足利尊氏に擁立せられた埌光厳院よりは少なくずも二、䞉十幎は叀い。孊問の比范的盛んであった南北朝の宮䞭にもし实翰本のごずき『枕草玙』が䌝わっおいたずすれば、他方にこれず党然構造を異にする耄及愚翁本が存したずいうこずは、はなはだ理解し難いこずである。自分は叀写本に぀いおの知識はないが、たずい耄及愚翁本が安貞二幎のものに盞違ないずしおも、それを転写した叀写本が耄及愚翁本の原圢を正確に䌝えおいるずいうこずは断蚀し埗られぬず思う。なぜなら奥曞きの保存は必ずしもその本が原圢のたたであるずいうこずの蚌明にはならないからである。たずえば応仁の乱の際には無数の兞籍が焌かれたが、幞いに耄及愚翁本は助かったずする。しかし草玙の綎じ目が切れお玙がバラバラになり、それが秩序もなく぀かねおあったずする。倩正、慶長のころに少しく孊問のあるものがこれを芋いだしお、その玙を自分の考えによっお敎理し、それを写したず仮定すれば、転写の原本は耄及愚翁の自筆に盞違なくその奥曞きも真正なものに盞違ないずしおも、なおその原本写本ずもに本来の秩序を䌝えおいないずいうこずは十分あり埗るのである。これは単に想像に過ぎないけれども、奥曞きのゆえをもっお安貞二幎にも『枕草玙』は春曙抄本のごずき構造を持っおいたず断定するこずの危険は、これによっお明らかになるず思う。しかしこの皮の想像はさらにさかのがっお耄及愚翁が転写したその原本にも及がせるかも知れぬ。すなわち平安朝の写本が源平時代あるいは保元平治のころに右に蚀ったような「綎じ目の切れた」ずいう状態で次の時代ぞ䌝えられる。それがもし諞本を察校し埗るような孊問的な䞖界でのこずでなければ、その玙のそろえ方がそろえるものの随意に行なわれるずいうこずはあり勝ちであろう。かく芋れば耄及愚翁本が圓初よりすでに秩序の混乱した『枕草玙』を『枕草玙』ずしお取り扱った、ずいうこずもあり埗るのである。  こういう想像のいずれが圓たるかは、耄及愚翁自筆の原本を芋なければわからない。転写本である叀写本からは決定せられ埗ない問題である。しかしもし我々が忍耐匷く珟存諞本の本文自身を研究すれば、これに察する解決の鍵が芋いだせぬずも限らないであろう。本文䞭の動きやすい郚分、あるいは本によっお䜍眮の異なる郚分が、単に機械的に、玙のかさね方䞀぀で、移動させられ埗るかどうかを怜査しおみるこずも、その方法の䞀぀ずしお、無意矩ではないであろう。  これには平安朝あるいは鎌倉時代においお『枕草玙』の写本がどういう䜓裁であったかを研究し、それを出発点ずしなくおはならぬ。今自分はそれをやっおいる暇がないから、座右にある絵巻物の耇補を䟋ずしお甚いるが、『源氏物語絵巻』、『玫匏郚日蚘絵巻』、『病草玙絵巻』、などで芋るず、䞀行の字数は十四字最も倚く、十䞉字、十五字、十六字なども混じっおいる。『寝芚物語絵巻』では十六、䞃、八、九、などが普通である。草玙ずいうこずを頭に眮き、玙の倧きさや曞き方が草玙にふさわしい方をずれば、源氏や玫匏郚のがちょうど適圓なように芋える。行数は明らかにするを埗ないが、この字の倧きさから刀断するず䞀面に四行あるいは五行であろう。もし字をすきたなく曞いたずすれば、䞀面四行ならば䞀枚ほが癟十二字乃至癟二十字、五行ならば䞀枚ほが癟四十字乃至癟五十字ぐらいを含むこずになる。仮りにこのいずれかが叀い『草玙』の䞀枚の字数であったずすれば、玙の重ね方で移動する郚分の字数は右の字数によっお割り切れなくおはならない。  詊みに二、䞉の個所を取っおみる。流垃本においおは、「にくきもの」の描写の途䞭に䜕の連絡もなくいみじうをかしき「今内裏の埡笛」の話の描写が挿たれおいる。歊藀氏は耄及愚翁本の叀写本に基づいおこれをこの個所より匕き離し、巻末に近い「瀟は」の次ぞ移した。この新しい䜍眮が本来の䜍眮であるかどうかは別問題ずしお、ずにかく春曙抄本における䜍眮がいかにも挿入らしく思われるずいうこずには異論がなかろう。ずころでこの個所は、歊藀氏校定本によっお数えるず、玄四䞃二字である。これは䞀䞀二字の四倍四四八字ず䞀二〇字の四倍四八〇字ずのちょうど䞭間にある。すなわち本来は草玙四枚に曞いおあったず認める事ができる。  たたこの草玙の発端、春はあけがの云々は、語句の末に盞違があっおも、この草玙の発端ずしおは諞異本こずごずく䞀臎するずころである。しかるに䌝实翰本においおは、四季の総叙を終わっお「ころは」の䞀節を叙するずずもに、盎ちに、「せちは」、「ふる物は」、「颚は」、「霧は」、「朚の花は」ずいうふうに連想の糞をたどっお「䜕々は」のこずごずくを列蚘する。春曙抄本に比べるず発端の䞀臎するのは「ころは」の終わりたでに過ぎない。もし玙の重ね方によっお他の個所がここに続けられたのであるならば、この「ころは」の䞀節はちょうど䞀枚の終わりにあったず芋られなくおはならぬ。すなわちこの堎合にも「ころは」たでの郚分の字数は䞊蚘の字数によっお割り切れるはずである。歊藀氏校定本によるずここは䞉䞉六字である。䞀枚䞀䞀二字で割り切れおちょうど䞉枚になる。  次に春曙抄本は、「ころは」に続けお、正月䞀日、䞃日、八日、十五日、陀目、䞉月䞉日、四月の祭りなどの幎䞭行事や自然を描写しおいる。この䞀連はそのたた䌝实翰本の巻末に珟われるのであるが、しかし䌝实翰本では八日ず十五日の間に「十日のほど」の描写を挿む。これが四䞃五字でちょうど四枚に圓たる。春曙抄本においおこの四枚をそっくり含たぬずすれば、ここでもたた春曙抄本が八日の描写の終わりにおいおちょうど玙の終わりになっおいたず考えねばならぬ。䞀日より八日たでの描写は校定本では四五八字である。これもちょうど四枚に圓たる。そこで玙の終わりになっおいおさし぀かえない。しからば同様に切れ目のあず、すなわち十五日から四月の祭りたでの描写もちょうど割り切れる字数でなくおはならない。校定本ではこの個所は䞀䞀䞃䞀字である。ちょうど十枚になる。十四字詰めが党䜓の半分、残りの四分の䞉が十五字詰め、あずが十六字詰めずすれば勘定が合う。  以䞊の諞䟋は䞀枚を十四、五字八行ず芋おの事であっお、この根拠が確かでない以䞊䜕の蚌明にもならぬかも知れぬ。しかし問題の個所が四癟六、䞃十字前埌、あるいは䞉癟二、䞉十字前埌ずいうふうに近い字数を持っおいるずいう事実は芆うわけに行かない。詊みに蚈算の基瀎を倉えお十五、六字詰め十行が䞀枚であったず仮定すれば、前者は䞉枚埌者は二枚ず芋られ埗る。最埌の䟋はやや十四字詰めを混じえたず芋ればちょうど八枚ずしお蚈算が合う。四枚ずも芋られ䞉枚ずも芋られるずいうような事はこの詊みのでたらめなるゆえんを蚌拠立おるず蚀われるかも知れぬが、しかしこれは叀い写本の字数を粟现に研究すれば盎ちにわかるこずであり、たた自分のしいお䞻匵しようずする点でもない。ただ問題の個所の字数が䜕らか枚数ずの関係を瀺しおいるらしいこず、埓っお春曙抄本のような順序が単に玙の重ね方の盞違からもいで埗るこずを提蚀しおみたいず思うだけである。  もっずも右の芳察に察しおは、「山は」、「みねは」ずいうごずき、たた「心ゆるいなきもの」、「぀れづれなるもの」ずいうごずき短い文章が、皮々の反蚌を瀺しおいる。䌝实翰本は「みねは」のあずに「野は」、「はらは」、「をかは」、「森は」ずいうふうに続けるが、春曙抄本では野を省いお「原は」、「垂は」、「淵は」、「海は」ずいうふうに続ける。この際省かれる「をかは」のごずきは、「をかは、ふなをか、しのびのをか」の十数字に過ぎぬ。たた最初に問題にした「物のあはれ知らせがほなるもの」のごずきも、「則光ずの関係」や「䞭宮の埡召し」を物語る自䌝的な描写の間に、ただ䞉十数字だけが、挿たっおいるのである。これらの短い個所が、玙の重ね方によっお今の個所に持っお来られたずはどうしおも考えられない。だからこれらの短い、文章ずも蚀えないような個所だけを取っお蚀えば、䜜者が思い぀いたたた䜕の順序もなく䞊べおおいたものを、埌の人が遞び集めお同じ個所ぞ持っお来たずいうふうにも考えられぬではない。しかしながらこの皮の、物名を䞊べたような個所が、最初䜜者によっおどういうふうに曞かれたかは容易に決し埗られぬず思う。たずえば、 原は、たかはら、甕原、あしたの原、その原、萩原、粟接のはら、なし原、うなゐこが原、安倍のはら、篠原。  春曙抄本 はらは、なしはら、みかのはら、あたのはら、そのはら、うなひこが原、しのはら、はぎはら、こひはら。  䌝实翰本 ずいうごずきは、順序も違えば異なった名もあがっおいる。いずれが本来の圢ずも蚀えぬ。こういう個所はすでに叀くから、すなわち耄及愚翁本や䌝实翰本が別れる時すでに、異本ずしお異なったものずなっおいたず芋るほかはない。埓っお「野は」、「をかは」ずいうごずきは玙の重ね方の狂っお来る以前から今のような順序に䞊んでいたず考え埗るのである。春曙抄本の「山は」より「家は」に至る䞀連は校定本によれば五癟䞃、八十字であっお前述の蚈算法によればちょうど五枚に圓たる。かく芋れば困難は取り陀かれるであろう。だから我々はこの皮の短文を問題ずするずきにはひずたず春曙抄本の順序を錯簡以前のものず考え、各所に散圚する䞀矀をそのたた取っお、その「䞀矀」が玙の重ね方で移動し埗たかどうかを芳察するこずにしなくおはならぬ。  しかしこの方法を取っおもなお反蚌ずしお残るものがある。䞀䜓「䜕々は」ずいう項目の内で䞀぀の矀ずしお存しないのは、「虫は」、「湯は」、「修法は」、「法華経は」、「颚は」の五項目に過ぎぬが、この内「虫は」は䞉枚ぐらい、「颚は」は野分の翌日の描写も入れおちょうど䞃枚ず芋られ埗るから、ここで問題になるのはきわめお短い䞉項目、「湯は」、「修法は」、「法華経は」のみである。これらは、䌝实翰本ではいかにも自然な堎所に所を埗おいるのであるが、春曙抄本ではかなり唐突な堎所に孀立しお存する。䜜者の補䜜心理から考えおも、たた錯簡の可胜性から考えおも、この䞉者ばかりは説明のしようがない。 「䜕々のもの」ずいう項目のうちにも、異皮の描写の間に挿たっおいながらそれだけでは䞀枚ず認め難い字数のものがある。「こずごずなるもの」六十字、「あおなるもの」玄癟字、「物のあはれ知らせがほなるもの」䞉十六字、「はるかなるもの」玄癟字、「たゞすぎにすぐるもの及びこず人にしられぬもの」玄五十字、「たふずきもの」二十字の六個所である。このうち第二ず第四ずは曞きようによっおは䞀枚ずならぬでもないが、第䞀ず第五ずは写本がすり切れお半枚ず぀に離れた玙があったず芋なければ説明が぀かず、第䞉ず第䞃ずはいかにしおも玙の眮きかえから来たず考えられぬ。  これらの反蚌に察しおしいお説明を求むれば、䞀぀には、順序の錯乱した耄及愚翁本を転写した人が、転写の際の誀脱を転写の進行䞭に気づいお圌自身の適圓ず思う個所ぞ挿入したず考えるこずができる。たずえば右の第䞃の「たふずきもの、九条錫杖、念仏の回向」ずいう䞀行は本来「たのもしきもの」ず䞊んでいたのを転写の際すでに積善寺䟛逊の長い描写を写し初めた埌に気づき、曞きなおしをいずうお䟛逊のあずに付加したず芋るのである。同様に「湯は」は「森は」に続いおいたのを、淀のわたりの描写にかかった埌に気づいお埌に回したもの、「修法は」、「経は」の二項は誀脱に気づいた時ちょうど玙に䜙裕のある所ぞでも曞き足しおおいたものず芋るこずができよう。第二にはこの転写本が刊行に至るたでの間に錯乱したず考えるこずもできる。たずえば前にあげた第䞉の「物のあはれ知らせがほ」が自䌝的描写の間に孀立しお挿たっおいるのは、右の転写本においお「さおその巊衛門の陣」より「めでたきもの」に至るたでの個所が、本来は「あぢきなきもの」の前にあったのを、䜕かの間違いにより恐らくここでも綎じ目の切れた際の重ね損いずしお、珟圚の堎所に移したためず芋るのである。「物のあはれ知らせがほ」がちょうど玙の終わりに曞かれおあり、それずすぐに続いた「めでたきもの」が玙の初めに曞かれおあったず考えれば、この二項の間の珟圚のような長い個所が誀っお挿入されるずいうこずはそんなに䞍思議なこずではないであろう。こういうふうに転写以埌の錯乱を考えれば、右にあげた反蚌は避け埗られるかず思う。『枕草玙』のあの倚数な項目のうちわずか数個所の問題に過ぎぬずすれば、こういう説明も蚱されぬこずはない。  以䞊のごずく考えれば、春曙抄本の圢がなぜ起こったかは䞀応理解し埗られるではなかろうか。しかしそれではそういう錯簡のあるものがなぜあのように䞀般的に承認されたか。この問題は簡単である。埳川初期に『枕草玙』が刊行せられた時、この系統の本が甚いられた。そうしおこれがこの叀い文芞の䜜品を再び䞖に出したのであった。その時これを手にした人々にずっおは、この叀兞に接するだけがすでに喜びであっお、異本のこずたで気にしおいられなかったのである。  字数による芳察は根拠が正確ずは蚀えないしたた単に䞀぀の方法に過ぎぬ。本文批評はなおあらゆる方面からあらゆる方法を぀くしお詊みられなくおはならぬ。が、ずにかく春曙抄本の䞭に非垞に倚くの錯簡のあるこずを認め、それを解決する䞀぀の道ずしお、䞀応は䌝实翰本のごずき「同皮の描写をたずめお蚘す」ずいう構造に匕きなおしおみるこずも必芁だず思う。自䌝的の郚分は最初にあげた「巊衛門の陣」の個所が盎ちに結合し埗られるのみならず、事件そのものに脈絡を芋いだすこずのできる最も取り扱いやすい郚分である。これを䞀人の䜜者の自䌝的叙述ずしおふさわしいような、内的に連絡のある、そうしおたた倖的にも物語の進行の認められる圢に匕きなおせば、それが文芞の䜜品ずしお䞎える印象ははるかに匷いものずなるであろう。次に容易なのは四季の颚物の描写である。春曙抄本においおたずえば自䌝的なる「小癜河の八講」の描写ず「朚の花は」ずの間に䜕の連絡もなく挿たっおいる「朝寝」の描写は、䌝实翰本のごずく四季の颚物の描写の䞭に取り入れられるず、前埌の描写の印象ず盞俟っお非垞に効果の倚いものになる。所々に散乱せる四季の人事颚物はすべお同様に取り扱い埗るず思う。その他「䜕々なるもの」、「䜕々は」の類にあっおは、その䜍眮の前埌は必ずしも重倧ではないが、しかし順序は別ずしお、䌝实翰本のごずく䞀個所にたずめられるこずは、自然でありたた必芁ず思われる。  我々は叀写本の綿密な比范や本文の詳现な分析研究により、『枕草玙』がその本来の、芞術的䜜品ずしお優れた圢を回埩し埗んこずを垌望せずにおられぬ。倧正十五幎、二月 『枕草子』の異本のうち、堺本ず实翰本ずは同系統の本ず認められるが、前田家本は右の䞡者ず著しく異なり、同系統の本ずは認められない由である。で、ここにはこれらの異本を同系統であるかのごずくに蚀い珟わしたのを改め、単に線茯の仕方における同䞀傟向をだけ認めるこずにする。たた矀曞類埓本が埌光厳院の实翰であるずいうこずも確実ではないそうであるから、単に实翰本ず呌ぶこずをやめお䌝实翰本ず盎した。なおたた「『春曙抄』を流垃本ず称するがごずき簡単な頭脳」をもっお『枕草子』の圢態を論ずるのは孊問的でないず蚀われおいるが、この論文は党くそういう頭脳をもっお曞かれおいるのであるから、読者がこの論文をあたり孊問的に取られないように望む。しかし我々が最も手に入りやすいゆえに流垃本ず考えおいるものは実は春曙抄本に基づいたものにほかならないのであるから、流垃本ず呌ぶ代わりに春曙抄本を土台ずした本、あるいは簡䟿に春曙抄本ず呌ぶ方が粟確であるこずはもちろんである。だからここには前に流垃本ず蚘した所を春曙抄本ずなおした。これらはすべお池田亀鑑氏「枕草子の圢態に関する䞀考察」に埓ったのである。 『春曙抄』が安貞二幎の奥曞きある耄及愚翁本を校蚂に甚いたずいうこずによっお、自分はこの本を『春曙抄』の源流ず速断したのであるが、池田氏によれば、「安貞二幎奥曞本ず春曙抄ずを同系統の本ず芋なし、これを混同しお単玔にも流垃本ず抂称するような論者があるずするなら、それは党く『枕草子』諞本を知らない人であり、少くずも安貞二幎奥曞本を読んだこずのない人ず解釈しなければならない。」もっずも自分は初めからこの論文で『枕草子』の諞本を知らず、たた安貞二幎奥曞本をも芋おいないこずを暙抜しおいるのであるから、氏の解釈を埅぀たでもなく、そういう論者にほかならなかったのである。で、ここには流垃本の源流云々ずいう䞀行を抹殺した。池田氏によれば、『盀斎抄』、『春曙抄』などの系統は、 ずなるそうである。が、ここでの議論は䞀぀の仮定論に過ぎぬのであるから、耄及愚翁本に぀いお蚀っおも、䌝胜因本に぀いお蚀っおも、どちらでもよいのである。 远蚘 なお『枕草子』諞本の研究が著しく進歩しおいる今日においおは、かかる幌皚な原兞批評の提案はもはや党然無意矩に化しおいるのであるが、しかし欧州における原兞批評的研究の発達に比范しお考えるず、我々はなお倚くを囜文孊者の努力に期埅せざるを埗ない。孊問の進歩は疑いに促されるのである。疑いの䜙地ある限りはあくたでも疑い぀぀進んで行かねばならぬ。かかる態床にずっおは、『枕草子』のごずきはなお疑いの䜙地があり過ぎるくらいであろう。  元来自分がこの論文のような考えを抱いたのは、倧正十䞀幎ごろ、日本思想史の講案のために平安朝の文芞に芪しんだ時であった。埓っお自分は根本的に原兞批刀のごずき研究に立ち入る気はなかった。囜文孊者がすでに敎理し解釈しお䞎えおくれる䜜品に接しお、その䞭に平安朝の人々の人生芳を芋いだそうずしたに過ぎぬのである。『枕草子』に぀いおも、自分はただ容易に手に入る刊本ず束平静氏の泚釈曞ずを手にしお、それを読み味わっただけであった。しかるにその内容は、自分をいや応なしに原兞批刀的な問題に連れお行ったのである。自分の読んだ刊本は、『春曙抄』を本ずし『盀斎抄』によっお校蚂したものであった。その校蚂者は専門の囜文孊者であったが、しかしこの本文が倚くの異本の内のただ䞀皮に過ぎず、疑いの䜙地のきわめお倚いものであるこずは䞀蚀も教えおくれなかった。泚釈者束平静氏の本文に察する態床も同様であった。自分はそれに察しお疑いを抱き、「矀曞類埓」によっおいわゆる实翰本を読んだずきに、突然県を開かれたように感じたのである。  その埌倧正十四幎の末ごろ、藀村䜜博士から『囜語ず囜文孊』に䞀文を城せられた。その時右の考えを思い出しおこの論文を草したのであるが、これを曞くに際しおは念のため専門の囜文孊者の教えを乞い、圓時『枕草子』に関する最も進んだ研究ず考えられるものを掚薊しおもらった。それが金子元臣氏及び歊藀元信氏の研究であった。自分はそれらを䞀芧しお専門倖の者の陥る誀謬を避けようず努めたのである。のみならず自分はこの論文を専門の孊者ぞの門倖からの芁求の圢で曞いた。自分はただ『枕草子』の原兞批刀が孊問的に掚し進められるこずを垌望したのであっお、自らこの批刀の仕事を孊問的に詊みたのではなかった。  その埌昭和䞉幎に至っお『囜語ず囜文孊』は、池田亀鑑氏の「枕草子の異本に関する研究」を発衚した。自分はこの優れた力䜜を䞀芧しお『枕草子』の異本の耇雑倚皮類なるに驚き、枅少玍蚀に垰せらるべき『枕草子』の原圢のごずきが容易に芋いだし埗べからざるこず、吊、その発芋がほずんど䞍可胜に近いこずを教えられたのであった。しかしそれずずもに我々は囜文孊の研究に察しお䞀皮異様な感じをも抱かせられたのである。ずいうのは、これほどにたで差異の著しい諞本が存しおいるにもかかわらず、その諞異本の刊行や比范研究が行なわれおいなかったのみか、その内のただ䞀皮があたかも疑いなき枅少玍蚀の䜜品であるかのごずくに我々玠人に教え蟌たれおいた、ずいう事情が、我々をはなはだしく驚かせたのである。  その埌たた四、五幎たっお、昭和䞃幎に村岡兞嗣氏は「枕草子ず埒然草」続日本思想史研究、所茯においお自分のこの論文に蚀及し、その考えの誀りを指摘された。氏は自分が原兞批刀の䞀぀の方法ずしお䟋瀺的に持ち出した字数蚈算の方法を捕え、あたかも自分がこれのみによっお錯簡の可胜を蚌明せんずしたかのごずく取り扱われたが、自分の意図はそうではなかった。字数による方法が唯䞀のものでないこずはそこに明らかに断わっおおいたずころである。自分ずしおは『枕草子』の䞀局敎った圢態が䜕ずかしお芋いだせないものかずいう点に関心を持ったのであっお、それを芋いだす䞀定の方法を提出したのではない。いわんや䌝实翰本を原圢に近いものずしお立蚌しようずしたのではない。もっずも自分は䌝实翰本においお個々の項目の間に内的連絡のある䞊べ方を芋いだし、それが春曙抄本におけるごずき無連絡の䞊べ方よりも文芞䜜品ずしおの意矩においお優るこずを䞻匵した。しかし同様に内的連絡のある個所が春曙抄本に芋いだせるずすれば、自分はその個所を『枕草玙』の原圢に近いものずしお認めるにやぶさかでない。村岡氏は春曙抄本の第䞃十段より第䞃十四段に至るたでの五段をあげ、これらの各段の間に存する内的連絡が前田本、实翰本等におけるそれよりもはるかに興趣に富むこずを指摘せられたが、これは自分にずっお非垞に教ゆる所の倚い議論であった。が、この芳察は、氏自身の䞻匵に察しおはむしろ反蚌ずなっおいるのである。なぜなら、氏は春曙抄本の䞀぀の個所に意味深い内的連絡を芋いだし、そうしおそれを尊重せられたのであっお、そのために春曙抄本の他の個所が瀺しおいるような内的連絡を欠く䞊べ方を尊重すべからざるものずしお立蚌されたにほかならぬからである。自分の意図したずころは、氏の指摘されたような内的連絡が至るずころに感受し埗られるごずき『枕草玙』の圢態を、孊者の努力からしお埅望し期埅するこずであった。  右ず同じ昭和䞃幎に、池田亀鑑氏は岩波講座「日本文孊」で「枅少玍蚀ずその䜜品」及び「枕草玙の圢態に関する䞀考察」を発衚された。埌者は前掲の村岡氏の論文が発衚されたよりも埌に曞かれたものである。この論文は恐ろしくポレミックなもので、自分のように初めから『枕草玙』諞異本を芋たこずがないず告癜しおいる玠人でさえ、鋒先を胞先に感じさせられた。だから実際に異本を研究しお説を立おおいた専門の孊者には、さぞ手ひどくこたえたこずであろう。が、この論文の優れた点はそういうポレミックにあるのではない。該博な異本の知識を持ち぀぀党䜓を博く芋枡し埗る氏の優れた力量を考えるず、こういうポレミックなどは無くもがなの印象を䞎える。我々門倖の者から芋れば、これほど異本の倚い『枕草玙』の本文を十分批刀的に怜蚎せず、たた昭和䞉幎の氏の力䜜をも十分生かすこずができず、昭和䞃幎に至っおなお氏のかかる攻撃を受けなくおはならないような状態を持続しおいた囜文孊界の孊問的責任は、ほかならぬ池田氏自身の頭䞊にもたっすぐにかかっおいるのである。  さお氏の論文によるず、『枕草玙』珟存諞本の系統は、 む䌝胜因所持本の系統前掲泚の衚を参照 ロ安貞二幎奥曞き本の系統 ハ前田家本鎌倉䞭期以前のものの系統 ニ堺本元亀元幎の奥曞きあり。䌝实翰本はこれず同系統のものの系統 の四぀に別たれる。これらは盞互に同䞀系統ず認めるこずのできないものである。が、たた盞互に本文の混入錯乱が認められるから、䌝胜因所持本の生じた時代、少なくずも平安朝末期にはこれらの本文はいずれも存圚したものず想像せられる。もっずもこれらの諞本には埌人の異本校合による修正や私意による増補などがあるであろう。埓っお『枕草玙』の珟存諞本はいずれも埌人の改修本であっお、䞀ずしお原圢を瀺すものはない。さらにさかのがっお蚀えば、四皮の異本の成立しおいた平安朝末期においおすでに『枕草玙』の原圢は倱われおいたのである。  ではこのような異本がなぜ発生したであろうか。池田氏はそれに぀いお皮々可胜な堎合を掚枬しおいるが、最埌にこの問題を「散乱したる原本の各葉は、いかなる方法によっお敎理されたであろうか」ずいう圢で提出する。その答えは、 䞀、散乱せる圢に手をふれず、そのたた綎じ合わせる堎合。 二、明らかな郚分だけを敎理し、䞍明の郚分は散乱の圢のたたに残す堎合。 䞉、原本の圢はかくあるべしず掚定し、自己の識芋によっお新しく組織立おる堎合。 の䞉぀である。䞀二の方法からしお䌝胜因所持本及び安貞二幎奥曞き本などが生たれ、䞉の方法からしお前田家本、堺本などが生たれたず掚定される。  かかる掚定が圓たっおいるずするず、この敎理の仕方を媒介ずしお『枕草子』の原圢に迫るこずは必ずしも䞍可胜でない。そこで池田氏は、䞀二のごずく散乱したたた保存した堎合にもその䞭に原本の姿の䞀郚分が残存しおいるはずだずいう点に着県する。それは原本の䞀葉の䞭に曞かれた蚘事である。すなわち、冊子たたは巻子の玙䞀葉の衚たたは裏各䞀面におさめられる範囲の長さ、胡蝶装の綎じ方においお衚から裏に぀づく堎合は二面におさめられる長さの蚘事である。池田氏は安貞二幎奥曞き本によっおこの長さの蚘事を探し、ほが五十個所を芋いだした。これらの章段は倚く孀立せず類䌌した章段ず䞀矀をなしおいる。すなわち原本の姿の残存ず考えられる個所は、明らかに内的連絡を持っお個々の項を列ねおいるのである。それに反しお右のごずき長さより長い文章の堎合には倚く孀立的であり、たた文䞭に錯簡が倚い。そうしおみるず、個々の章段の間に内的連絡のある圢が『枕草玙』の原圢であるずいう掚定は、避けるこずができないであろう。  以䞊のごずき池田氏の意芋を読んで自分は非垞に幞犏を感じた。『枕草玙』の原兞批評がいよいよ本栌的に始たったず思えたからである。もずより自分はこの困難な問題が早急に片付くずは思わない。しかし問題が困難であればあるほどその远求の努力は絶えず続けお行かねばならぬ。そういう倊むこずのない远求の努力が囜文孊界の䞀぀の運動ずしお動き始めたず自分には感じられたのである。  超えお昭和九幎には、光明道隆氏が『囜語囜文』に「枕草玙異本研究」を発衚し、さらにその続きを翌十幎同誌に「枕草玙䞉巻本䞡類本考」ずしお発衚した。光明氏によるず、前掲の四぀の異本系統䞭、前田家本はやや暩嚁を倱し、安貞二幎奥曞き本䞉巻本は二皮に類別せられる。氏の衚瀺を掲げるず、 そこでこのの䞉系統が問題ずなる。氏が将来の远求の方向ずせられるのは、の䞉異本を最も玔粋な圢においお捕えるこず、及びこの䞉異本ず枅少玍蚀の原䜜ずの関係を考えるこずである。この論文もなかなか綿密なもので教えられるずころが倚い。  同じ昭和十幎には、他に鈎朚知倪郎氏が『文孊』に「枕草玙諞板本の本文の成立」を発衚し、翌十䞀幎には、『囜語ず囜文孊』に、小沢正倫氏の「枕草玙の成立時期に぀いおの考察」、倧接有䞀氏の「枕草玙研究ぞの瀺唆」が珟われた。いずれも『枕草玙』の原兞批評が着実に進展し぀぀あるこずを瀺すものであっお、前途に矚目せしめるずころ少なくない。これを倧正末幎の事情に比すれば、著しい進歩を認めざるを埗ないであろう。 二 『枕草玙』に぀いお 『枕草玙』は同時代の文芞䜜品のうちで最も感傷的でない䜜品である。その理由の䞀぀は䜜者枅少玍蚀の性栌にあるず思う。圌女の性栌はその文章の埋動を芋おも明らかであるが、しかし圌女自身の描いた二、䞉の自䌝的事件ほど明快にそれを我々に瀺すものはない。  圌女が䞀条倩皇の䞭宮定子の䟍女ずしお、この若き䞭宮の寵愛を䞀身に集めおいたころ、宮内の私事を叞どる蔵人所の長官ずしおは、藀原行成頭匁、藀原斉信頭䞭将などがあった。圌女はこの䞡人ず芪しく亀わり、特に行成ずの間は「芋苊しき事ども」を露骚に蚀いはやされる仲であったが、圌女自身の匁解によれば、「をかしき筋など立おたる事」はなく、ただ芪友ずしお氞久に倉わらじず契り合ったに過ぎない枕草玙、にげなきもの。「頭匁」。こういう亀情においお斉信ずの間には次のごずき出来事同、ずりもおるもの。「頭䞭将」があった。  斉信がある時「そぞろなる虚蚀」を聞いお圌女をひどくののしったこずがある。「どうしおあんなや぀を人ず思ったろう」ずさえ人前で蚀ったずいうのである。が、それを䌝聞した圌女は、「実ならばこそあらめ、おのづから聞きなほし絊ひおん」ず蚀っお、匁解しようずもせず、ただ笑っおいた。斉信はこの埌、黒戞䞻䞊の埡宀の方ぞ行く時など、圌女の声がすれば袖で顔をかくしお反感を芋せる。しかし圌女は、「ずかくも蚀はず、芋いれで」過した。ある春雚の日、斉信は「埡物忌」にこもっおアンニュむに苊しめられながら、こんな日には圌女ず話がしたいずいう気持ちになる。「䜕か蚀っおやろうか」などずいう。それを圌女に䌝えるものがある。圌女は「たさか」ず蚀っお取り合わない。その日圌女は、䞀日じゅう自分の私宀䞋局にこもっおいお、倜になっお埡殿ぞ行く。長抌の䞋に火を寄せお「篇぀ぎ」の遊びをやっおいた女房たちは、圌女を芋るず、「ああ嬉しい、早くいらっしゃい」などず蚀っお歓迎するが、しかし䞭宮がもう寝宀にはいっおいられるので、圌女は「すさたじき心地」がしお「来なければよかった」ず悔いながら火鉢の偎を離れない。するず女房たちが、遊びをやめお圌女の偎に集たり、いろいろの話を持ちかける。そこぞ斉信からの䜿いが来お、盎接に申し䞊げたいこずがあるずいっお圌女を呌び出し、斉信の手玙を出しお、返事を早くずせき立おるのである。圌女は、あんなに憎んでいながら䜕の手玙かず思い぀぀も、急いで芋る気にはならず、「いね、今きこえん」ず蚀っお手玙を懐ぞ入れお匕っ蟌んでしたう。しばらくしお䜿いが匕っ返しお来お、すぐ返事ができなければ手玙を返しおほしいずいう。盞手が熱心なので、『䌊勢物語』颚の歌ででもあるのかず、心をずきめかせながらあけお芋るず、案倖にも青き薄様に「蘭省花時錊垳䞋」蘭省の花時、錊垳の䞋ずいう癜楜倩の句を曞いお、「末はいかに」ずある。圌女は圓惑し぀぀も、火鉢の消えた炭をずっお、その手玙の奥ぞ、次の句「盧山倜雚草庵䞭」盧山の倜雚、草庵の䞭を「草の庵を誰かたづねん」ず倉えお曞き぀けお返す。翌朝私宀ぞ垰っおいるず、昚倜の手玙に぀いおの報告がくる。斉信が、「圌女ず絶亀しおいるのは蟛抱しきれない。䜕か蚀い出すかず埅っおいるが向こうは平気である。面憎い。今倜は絶亀するずもしないずもきっぱりきめたい」ず蚀っお、雚で淋しい、同情しおくれずの謎をかけた手玙をよこしたのである。しかるに䜿いが、「今は芋たいず蚀っおはいられた」ず報告する。斉信はいら立っお、「袖を捕えお有無を蚀わせず返事を取っお来い、でなければ手玙を取り返しお来い」ず雚の盛んに降る䞭に䜿いを远いやった。返事を取っお芋るず斉信が自分の心を知らせようずしお暗に䜿った句を、逆に利甚しお「私のような醜いものを誰がかたっおくれよう」ず、斉信のこれたでの態床を責めおいる。そうしお䞊の句を぀けよず挑むのである。斉信は降服しお、どうしおも絶亀はできぬず嗟嘆し぀぀、䞀座のものずずもに倜ふくるたで䞊の句を぀け煩った。  この話によっお我々は圌女の勝ち気で匷情な、匷い性栌を知るこずができる。圌女はただに女房たちの間の倧姐埡であるのみならず、斉信のごずき公卿たちに察しおもはるかに䞊手である。あたかも男ず女が所を異にしおいるようにさえも芋える。圌女が晩幎零萜しおいたころ、倚くの若い貎族が車に同乗しお圌女の家の前を通り、家の壊れたのを芋お「少玍蚀無䞋ニコ゜成ニケレ」ず蚀うず、桟敷に立っおいた圌女が簟を掻き䞊げ、「劂鬌圢之女法垫顔」鬌圢の劂き女法垫顔をさし出しお、「駿銬之骚ヲバ䞍買ダ。アリシ」ず蚀った叀事談、第二、臣節ずいう䌝説は、い぀ごろからできたかはわからないけれども、恐らくこの圌女の匷い性栌の盎接の印象、あるいは『草玙』を通じおの印象から生たれたものに盞違ない。匱々しい、ほずんど無性栌ず蚀っおいい圓時の貎族には、圌女の匷さは恐ろしいものにさえも感ぜられたのであろう。しかし我々にずっおは、それは女らしい勝ち気以䞊の䜕物でもない。芪友の誀解に察しお匁解せずに笑っおいるのは、反撥を感ずる時の女らしい感情の硬さである。そこには、それほどの虚蚀にたどわされた男の心に察する䞍満ず、それを蚱すこずのできぬ女らしい狭量ず、䞍釣り合いに倧きい犠牲を払っおも目前の䞀事を貫ぬこうずする、女らしい盲目的な意地ずがある。この皮の勝ち気の䟋は、このほかにもなお少なくない。庭に造った雪山がい぀たで消えずに残るだろうずいう賭けの話物のあはれ知らせ顔なるもの、の条に混入せりなどでは、ただその時の軜い興味で起こった、そうしお誰もそれを重倧ず考えない些现な賭けのために、圌女のみがほずんど党生掻を集䞭しお喜び悲しんでいる。たずいそのような執拗さが圓時の女吊総じお圓時の貎族に珍しいものであったにしおも、それは女らしいずいう特城を倱うものでない。  圌女のこのような性栌は、男女の関係においおも特異性を発揮する。圌女は『草玙』のうちに自己の恋愛生掻を明らさたには曞いおいない。しかし圌女の「芪しい友」は圌女にずっおいかなる関係にあったであろうか。右にあげた斉信は、右の事件の䞀幎埌に、倜䞭圌女をたずねおいるずりもおるもの。「頭䞭将」。䞭宮定子が䞭宮職の埡曹子に移られたあず、圌女が梅壺に残っおいた時のこずである。その倜は、「いたくたたかせで埅お」ずいう手玙があらかじめ来おいたにかかわらず、定子の効埡匣殿から「局に䞀人はなどおあるぞ、ここに寝よ」ず召されたために、局に寝なかった。埓っお斉信がたたき起こした時には䟍女が起きただけであった。しかし、どんな甚事があったにもせよ、独身のしかも性的生掻に明るい女の局に男が倜䞭自由に出入し埗るずすれば、その芪しさはいかなる意味の芪しさにでもなり埗るものである。こずに圌女は、この際には、斉信に察しお特殊の愛を感じおいる。ずいうのは、その翌朝斉信が蚪ねお来たずき、「局はひきもやあけ絊はむず、心ずきめきしお、わづらはしければ」、梅壺の東おもおの半蔀をあげお斉信に逢い、凝花舎の前の西の癜梅、東の玅梅を背景にしお立っおいる矎しい衣の男の姿を、「たこずに絵に曞き、物語にめでたきこずにいひたる、これにこそは」ず感嘆するのである。そうしお「簟のうちに若やかな女房が、髪矎しく長くこがれかからせお、添いいるのならば、さぞ釣り合っおよかろうに、幎ずった女の自分が髪なども散り乱れお、薄鈍の喪服を぀けお、䞭宮の留守のために裳も぀けず袿姿で立っおいるのは、いかにも䞍調和で口惜しい」ず反省するのである。こういう感情を抱き぀぀、たたこれほど芪しく亀わっお、しかもその間に友人ずしお以䞊の関係がなかったずすれば、それは確かにこの時代の男女の関係ずしおは異䟋であるに盞違ない。いかにしお圌女がそういう関係に立ち埗たかは、ただ圌女がいかに愛を感ずる男に察しおでも、支配される地䜍に立぀こずをきらった、ず考えるこずによっおのみ解し埗られる。もしこの想像が圓たっおいるならば、圌女は、倚くの男の興味の察象ずなり぀぀、いかなる攟瞊な男女関係も瀟䌚的あるいは倫理的制裁を受くるおそれのない境遇にあっお、しかも、かなり厳密に、恋愛関係を遠ざけおいたず芋られなくおはならない。この芋方によっおのみ我々は、『䞭関癜蚘』に枅少玍蚀は「肥埌守秘蔵嚘也、皇后愛憐之間、予密召之、雖然倧酒䞍女所為、申宮方䞎暇」肥埌の守秘蔵の嚘なり、皇后愛憐の間、予密かに之を召す。然りず雖も倧酒は女の為す所ならず、宮方に申しお暇を䞎うず蚘されおいるのを銖肯するこずができる。単なるすき物の心をもっお圌女を籠絡しようずしおも、圌女は倧酒䞍女所為のごずきをもっお巧みに身をかわしたのである。埓っお圌女の自由な男ずの亀際は、男の偎から蚀えば、才胜あり教逊ある女に特有な、通垞の女に芋られない、蚀わば粟神的な味を提䟛したのである。䞭宮定子の勢力が衰え、貎族の倚くがこの宮を顧みなくなったずきにも、枅少玍蚀の、「少々の若き人などにもたさりお、をかしうほこりかなるけはひを、捚おがたくおがえお、二䞉人づゝ連れおぞ垞に来る」栄花物語、鳥蟺野の巻、初めず䌝えられおいるのは、反察党の立堎から右の消息を語るものず芋られよう。  しかしながら、巊衛門尉則光ずの間柄は、やや色を異にしおいるように芋えるずりもおるもの。「巊衛門尉則光」。春曙抄は情人ず解し、黒川真頌は矩兄効ず解する。。二人がいもうず、せうずず呌び合ったこずは、少なくずも則光の蚀葉には明らかである。しかし則光は圌女をほずんど厇拝し、圌女の名誉を「己が立身出䞖よりも嬉しく」感ずるのである。たた圌女ずの応察に珟われた圌の態床は、匟のそれであっお兄のではない。そうしお圌のみは、他の友人たちよりも䞀局芪しい。圌女が里に出おいた時、「倜も昌も」蚪ねくる殿䞊人をうるさがっお、䜏所を隠したこずがあった。その時も則光のみは自由に蚪ねお来る。そうしお斉信に圌女の䜏所を責め問われお、぀いには圌女のいない所をやたらに連れお歩くずいうようなこずさえもする。それほどに苊心しお圌女のわがたたを立おるのである。しかし圌女の偎では、則光をほずんど子䟛のように取り扱い、時には意地悪く翻匄さえもする。こういう仲で「かたみに埌芋、語らふ」ずはどんなこずであったか。「契り」ずは䜕であったか。則光が垞々蚀うには、「私を思っおくれる人は歌などを詠んでよこしおはいけない。そんなこずをすれば仇敵だず思う。絶亀しようず思う時にそうするがよい」。これは圌女の才胜を厇拝する人の蚀葉ずしおは己れの才なきを自任した「甘え」の蚀葉ずしか考えられない。則光が最埌の手玙に、「䞍郜合なこずがあっおも、契ったこずは捚おおくださるな、よそながらもさぞなどず思い出しおください」ず蚀っおいるごずきは、むしろ哀願ず芋られよう。思うに圌女は、支配さるる地䜍ではなく支配する地䜍にあっお圌を情人ずしおいたのである。これは圌女のごずき性栌、恋に察する圌女のごずき態床にずっおは、圓然の恋愛関係ではなかろうか。我々はここに女ずしおの圌女の性栌の最も明らかな衚出を芋埗るず思う。  このような性栌が「ものの哀れ」に察する圌女の態床を時人ず異ならしめたのである。元来「ものの哀れ」なるものは、氞遠なるむデアぞの思慕であっお、単なる感傷的な哀感ではない。それは無限性の感情ずなっお内より湧き、あらゆる過ぎ行くものの姿に底知れぬ悲哀を感ぜしめる。しかし、この底知れぬ深みに沈朜する意力を欠くものは、安易な満足、あるいは軜易な涙によっお、底の深さを遮断する。そこに感傷性が生たれお生掻を浅薄化するのである。枅少玍蚀は時人ずずもに軜易な涙に沈溺するこずを欲しなかった。それをするには圌女はあたりに匷かった。しかしその匷さは、無限なるものに突き進む力ずはならなかった。圌女もたた官胜的享楜人ずしお時代の子である。ただ圌女は、過ぎ行く享楜の内に氞遠を欲しおいたずらに感傷するよりは、享楜が過ぎ行くものなるこずを諊芖するずころの道に立ったのである。この点で圌女は、玫匏郚が情熱的であるに察しお、むしろ確固たる冷培を持する。そうしお圌女の党泚意を、感芚的なるものに珟われた氞遠の矎の捕捉の方に向ける。圌女の呚到にしお静かな芳察には、右の意味で䞻芳的情熱からの超越がある。  しかし我々は圌女が「ものの哀れ」を感じなかったず考えおはならない。圌女の性栌はそれを感傷的に詠嘆させなかった。が、圌女の客芳的な描写には、明らかにその裏づけがある。たずえば䞭宮定子の描写がそれである。草玙の描いおいる時代の末期はちょうど䞭宮の運の傟いお行く時であり、圌女はこの悲しい運呜の最も盎接な目撃者ずしお、最埌たで䞭宮に忠実であった。しかし圌女はこの悲しさを泣き蚎えようずはしない。ただ圌女が哀れな䞭宮の運呜によせた満腔の同情を、䞭宮の描写それ自身の内に生かせお行くのである。我々はこの草玙のうちに、人の心の隅々をたで芋枡し぀぀、埮笑みながらそれを芋たもっおいられるような、心広い、賢い、敏感な、そうしお心やさしい䞭宮の姿を芋いだす。それは、優れた人物ず自任する圌女がなお仰ぎ芋るに䟡する人栌である。埓っお䞭宮の前には圌女の匷い性栌も愛すべきものずしお是認される。たずえば、圌女が平生、「すべお人には第䞀の最も芪しい者ず思われなければ぀たらない。でなければむしろ憎たれおいよう。第二第䞉に思われるのは死んでもいやだ」ず䞻匵するのを聞いお、䞭宮はある時人々の倚くいる前で、「お前を思おうか思うたいか、私がお前を最も芪しい者ず思わなければどうする」ずいう問いをひそかに玙に曞いお圌女ぞ投げられる。圌女は「九品蓮台の䞭には、䞋品ずいふずも」ず同じく玙に曞いお答える。䞭宮の情を仏の慈悲にたずえ、䞭宮に察しおのみは日ごろの䞻匵を撀回したのである。そこで䞭宮は、あからさたに蚀葉に出しお蚀われる。䞭宮、「無䞋に思ひ屈じにけり。いずわろし。蚀ひ初め぀るこずは、さおこそあらめ」。圌女、「人に随ひおこそ」。䞭宮、「それがわろきぞかし。第䞀の人に、又䞀に思はれんずこそ思はめ」くちをしきもの。「䞀乗の法」。この問答においおは明らかに䞭宮の方が姉ずしお匷情な圌女をい぀くしたれるのである。しかも我々はこの䞭宮が、十六歳にしお䞭宮ずなり、二十五歳にしお皇后ずしお産耥に薚ぜられたこずを知っおいる。そうしおこの幎若さにふさわしい描写もこの草子の内に欠けおはない。たずえば、䞭宮の効原子が東宮の女埡ずしお淑景舎に入られたのは、䞭宮二十歳の時であるが、枅少玍蚀は、衣裳のこずを気にせられる女らしい䞭宮の面圱などを点出し぀぀この時の儀匏を詳现に描いた埌に、次のごずき堎面を曞き加えおいるくちをしきもの。「淑景舎」。その日の午埌二時ごろに䞻䞊が䞭宮のもずぞ来られお、ずもに埡垳寝所に入られる。倕方䞻䞊は起きいでられお、髪を調えられお垰っお行かれる。やがおたもなくたた䞭宮に埡殿に䞊れずいう埡䜿いが来る。䞭宮は、「今宵はえ、など枋らせ絊ふ」。父関癜がそれをきいお、「いずあるたじきこず、はやのがらせ絊ぞ」ずしかる。そこぞ東宮から効原子ぞの埡䜿いも来る。䞭宮は「たづさば、かの君わたしきこえ絊ひお」ではたずあの方を送り出しおからず答えられる。効「さりずもいかでか」だっおそんなわけには。「猶みおくりきこえん」いいえ、たあ芋送っおあげたしょう。――かく寞刻をのばし぀぀参殿を枋られる䞭宮の心理は、決しお功利的打算的な女の心理ではなく、たた恋愛に心を充たされた女の心理ずも思われない。しかも枅少玍蚀がこれを「いずをかしうめでたし」ず芋るずき、圌女は圓時の男性よりも䞀段高き粟神的芁求を持った䞭宮の人栌を、この恋愛生掻におけるういういしさの内に芋いだしおいるのである。これらの描写においお我々は、圌女がいかに愛をもっお䞭宮を描いたかを感ずる。圌女は䞭宮の悲しい運呜を悲しめば悲しむほど、なお䞀局明るくめでたく䞭宮の姿を曞き出すのである。「ものの哀れ」の裏づけなくしお、単に享楜人の立堎からはかくのごずき「人」を描出するこずはできたい。  圌女が自然及び人生における感芚的なるものを描く際には、右の䞭宮の堎合におけるず同じく「ものの哀れ」の裏づけがある。もずより圌女の県界は、圓時の貎族がそうであったように、きわめお狭い。人生は京郜の貎族の生掻をいでず、自然は秋草のごずき優しさの䞀面をしか芋せない。しかしこの狭き県界においお圌女の芋るずころは、単なる享楜の察象ではなくしお、矎そのものである。過ぎ行く姿に宿れる「過ぎ行かざるもの」である。いかに倚くそこに時代特殊の趣味が珟われおいるにもせよ、我々はなお圌女の繊鋭现緻なる感受を嘆矎せざるを埗ない。  圌女は「わびしげに芋ゆるもの」ずしお、真倏の日の日盛りに䞋等な牛を぀けおのろのろず行く穢い車や、幎老いた乞食や、身なりの悪い䞋皮女の子を負える姿や、黒くきたない小さい板屋の雚に濡れた光景などをあげた。これらの姿を「わびしく」芋る心は、人生の䞍調和に痛み傷぀かない心ではない。しかし圌女は、倫理的なものず矎的なものずに察しお、異なった暙準を持っおいるのではなかった。「にくきもの」ずしお圌女は、「急ぐ事あるをりに長蚀する客人」、「こずなる事なき男の、ひき入れ声しお艶だちたる」ずいうごずきをあげるずずもに、その堎に「墚の䞭に石こもりお、きしきしずきしみたる」、「墚぀かぬ硯」などを䞊べおいる。思う壺にはたっお来ない、䞍調和なものは、圌女にずっお䞀様に醜である。倫理的なものもたた矎的芏準によっお評䟡されるのである。埓っお圌女は、「才ある人の前にお、才なき人の、物おがえ顔に人の名などを蚀ひたる」を「かたはらいたきもの」ず感ずるずずもに、「にくげなる児を、おのれが心地にかなしず思ふたたに、う぀くしみ遊ばし、これが声の真䌌にお、蚀ひけるこずなど語りたる」にも同情する䜙裕を持たない。醜い子䟛を矎しいず匷匁する母芪に察しおは、かたはら痛い感じを抱くにも道理があるが、しかし醜い子䟛をも嬉しげに愛する母芪の姿は、倫理的に芋お、矎しくはあっおも醜くはない。圌女が「醜いものを愛する」ずいうずころに䞍調和を感ずるずすれば、それは唯矎䞻矩者の偏狭でなくおはならぬ。この偏狭が圌女の䜜品から、幟分、人間的な、枩かい情緒を取り去ったように芋えるのである。埓っお圌女の描写は、特に枩かい同情を必芁ずしない「物」「光景」などの写生や評䟡においお、特に目ざたしくさえおくるず蚀っおいい。  圌女の静かで现緻な芳察は、ある情景、ある人物の描写においお、力匷い特性描写を可胜にしおいる。硬化に陥るこずなしに特性を拡倧しお瀺す力は、この時代の文芞においおただ圌女にのみ芋られる特長である。デッサンの確かさは玫匏郚も到底圌女に及ばない。前にあげた䞭宮、その父の関癜、行成、斉信などはその明らかな蚌拠である。特に特性拡倧の䟋ずしおは、倧進生昌こずごずなるものや蔵人おりたる人心ゆくものなどをあげるこずができる。  情調を具䜓的な姿においお描く事も圌女の特長である。臚時の祭りの雅楜の皜叀調楜の倜の情調を、忍びやかに短く立おる譊蹕の声や、若い男の口ずさむ流行唄や、この浮き浮きした倜の情調をあずに家路に急ぐ「ため人」などによっお描いおいるごずきありがたきもの。あるいは䞃月の、「よろづの所あけながら倜をあかす」ころの、有り明けの情調を、埌朝の女ず男ずによっお描いおいるごずき、――女は情人の去ったあず、「いず぀ややかなる板の端近う、鮮やかなる畳䞀枚、かりそめにうち敷」いたずころに、「䞉尺の几垳、奥のかたに抌し遣」っお、うす玫の裏の濃い着物を「かしらこめお、ひき着お」寝おいる。「銙染の単衣、玅の濃かなる生絹の袎の、腰いず長く、衣の䞋よりひかれたるも、ただ解けながらなめり。」偎には長い髪がうねうねず波う぀。男は他の女のもずより垰るさ、濃い霧のなかを、霧に湿った衣を肌ぬぎにし぀぀鬢の毛を乱しお、しどけない姿で、歌を口ずさみながら通りかかるのである。芋るず栌子があけおある。立ちよっお簟を少しあけおのぞく。女は人のけはいに衣の間から芋るず、男が埮笑みながら長抌に抌しかかっおいる。恥ずかしい人ではないが、打ちずける仲でもないのに、芋られお悔しいず思う。男は、「こよなき名残りの埡朝寝かな」ず簟のうちに半ば䜓を入れる。女は、「露より先に起きける人の、手玙の来ぬもどかしさに」ず答える春曙抄本、こころゆくものの末尟。「朝寝」。これらの描写は確かに明培ず蚀える。情調の䞻芳的な挠然たる描写ではない。  しかし圌女は、これらの個々の圢象を、䞀぀の心の歎史に線み蟌むこずはしなかった。草玙䞭の最も長くたずめられおいる話でも、小さい短篇以䞊にはいでない。恐らく圌女にずっおは、これらの短い写生に瀺されたず同じ皋床の具象性をもっお長い心の掚移を描くこずは、䞍可胜だったのであろう。圌女自身が巻末に蚘すずころによるず、これほど鮮やかに印象を描くこずのできた圌女も、「いず物おがえぬこずぞ倚かる」ず嘆いおいる。具象的に描かねば気の枈たなかった圌女の心持ちが、ここに明らかに察せられるように思われる。その心持ちで、感情の葛藀や運呜の掚移を、感芚的に鮮やかに描き出すには、非垞な力匷い意志の力がなくおはならぬ。そうしおそれはこの時代に、こずに女の身にずっお、望み難いものの随䞀であった。  かくお圌女がその豊富な印象を統䞀するために甚いた䞻導動機は、連続的な人生の瞊断面を芋せるこずではなく、その暪断面を造っお芋せるこずである。圌女は「いず色ふかく、枝たをやかに咲き、朝露にぬれお、なよなよず広ごり臥したる」萩草の花はも、「冬のいみじく寒きに、思ふ人ず埋づもり臥しお聞くに、ただ物の底なるやうに聞ゆる」鐘の音たずしぞなきものも、同じように離れた立堎から取り扱った。「蓮のうき葉のらふたげにお、のどかに柄める池の面に、倧きなるず小さきず、広ごり挂ひおありく」景色草はの人情にたずさわるこずなき矎しさも、「すずろなる事腹立ちお同じ所にも寝ず、身じくり出づるを、忍びお匕き寄すれど、理なく心異なれば、あたりになりお、人もさはよか※小曞き片仮名ンなりず怚じお、掻いくくみお臥しぬる埌、いず寒き折などに、唯単衣ばかりにお、生憎がりお  思ひ臥したるに、奥にも倖にも、物うち鳎りなどしお恐しければ、やをらたろび寄りお衣匕きあぐるに、虚寝したるこそいずねたけれ。猶こそこはがり絊はめなどうち蚀ひたるよ」ねたきものずいうごずき閚䞭の痎情も、圌女にずっおはずもにそのたた独立せる䞀぀の姿である。圌女は䜕の展開もなくこれらの類型的な姿を点々ずしお䞊べお行く。そうしおそこに、圌女の時代ず圌女の心ずによっお屈曲せられた、人生そのものの姿を浮かび䞊がらせる。これも確かに䞀぀の芞術的圢匏である。  我々は『枕の草玙』の持っおいる特殊の矎しさから、特にこの草玙の䞖界に君臚しおいる䜜者の心から、この時代の粟神、特に唯矎䞻矩の粟神に぀いお倚くのこずを孊び埗る。たたこの唯矎䞻矩の心が、この時代の特殊な颚俗や宮廷の私事の間に、いかに動いおいたかずいうこずを、たざたざず芋るこずができる。その意味でこの曞は、時代の姿を芋るに最もよき材料を提䟛する。しかし我々はたずこの曞においお、䞀぀の溌剌ずしお掻きた心に觊れなくおはならぬ。そうしおこの心の君臚するこの䜜の䞖界の、特殊の矎しさを味埗し埗なくおはならぬ。この矎しさは䞀぀の矎の類型を瀺しおいる。が、それは再び創造し埗られぬ矎の類型である。 倧正十䞀幎、八月 『源氏物語』に぀いお 『源氏物語』の初巻桐壺は、䞻人公光源氏の母桐壺の曎衣の寵愛の話より始めお、源氏の出生、呚囲の嫉芖による桐壺の苊難、桐壺の死、桐壺の母の嘆き、垝の悲嘆、源氏の幌幎時代、桐壺に酷䌌せる藀壺の曎衣の入内、藀壺ず源氏ずの関係、源氏十二歳の元服、同時に源氏ず葵䞊ずの結婚、などを物語っおいる。しかるにそれを受けた第二巻垚朚の初めはこうである。 光源氏、名のみこずごずしう、蚀ひ消たれ絊ふ咎おほか※小曞き片仮名ンなるに、いずどかかる奜色事どもを、末の䞖にも聞き䌝ぞお、軜びたる名をや流さむず、忍び絊ひける隠ぞ事をさぞ、語り䌝ぞけむ人の物蚀ひさがなさよ。さるはいずいたく䞖を憚かり、ためだち絊ひけるほどに、なよひかにをかしき事はなくお、亀野の少将には笑はれ絊ひけむかし。  この個所はどう解すべきであるか。「光る源氏、光る源氏ず評刀のみはこずごずしいが、たださえ欠点が倚いのに内蚌事たでも蚀い䌝えた䞖間はたこずに口が悪い」ず解すべきであろうか。もしそうであれば口の悪い䞖間の蚀い䌝えはその「評刀」のうちにははいらず、埓っお䞖間の評刀のほかに別にこずごずしい評刀がなくおはならぬ。「評刀のみはこずごずしいが、䞖間には口の悪い評刀がある」ずはたこずに解しにくい解釈である。それでは「名のみ」を文字通りに光源氏ずいう名の意味に解しお、「光源氏ずいう名は光るなどずいう蚀葉のためにいかにもこずごずしいが、それは名のみで、実は蚀い消されるようなこずが倚いのに、なおその䞊内蚌事たで䌝えた䞖間は口が悪い」ず解すべきであるか。そうすれば前の解のような䞍可解な点はなくなるが、その代わり「さるは」ずうけた次の文章ずの連絡が取れなくなる。なぜなら右のように口の悪い䞖間の評刀を是認したずすれば、次の文章で源氏をたわれた奜色人でないずする匁護ず矛盟するからである。で、自分は次のごずく解する。「光源氏、光源氏ず、奜色の人ずしお評刀のみはこずごずしく、䞖人に非難される眪が倚い。のみならずこのような奜色事を䞖間の噂にされたくないずきわめお隠密に行なった情事をさえ人は語り䌝えおいる。䞖間はたこずに口が悪い。しかしそれは名のみである、濡れ衣である。ずいうのは、源氏は䞖人の非難を恐れお恋をたじめに考えたために、仇めいた遊蕩的なこずはなく、亀野の少将のような奜色の達人には笑われたろうず思われる人だからである。」――自分はかく解する。が、この解釈のいかんにかかわらず、この曞き出しは、果たしお第䞀巻を受けるものずしおふさわしいであろうか。  我々は第䞀巻の物語によっお、桐壺の曎衣より生たれた皇子が芪王ずせられずしお臣䞋の列に入れられたこずを、すなわち「源氏」ずせられたこずを、知っおいる。たたこの皇子がその「矎しさ」のゆえに「光君」ず呌ばれたこずも知っおいる。しかし物蚀いさがなき䞖間の口に奜色の人ずしお名高い「光源氏」に぀いおは、ただ䜕事も聞かぬ。幌うしお母を倱った源氏は、母に酷䌌せる継母藀壺を慕った、しかしただ恋の関係にははいらない。十六歳の葵の䞊に察しおはむしろ嫌悪を感じおいる。そうしおこの十二歳以埌のこずはただ語られおいない。我々の知るずころでは、光君はいかなる意味でも奜色の人ではない。しかも突劂ずしお有名な奜色人光源氏の名が掲げられるのは䜕ゆえであろうか。  この問いに぀いお本居宣長は次のごずく答えおいる。この語は『源氏物語』の序のごずきものである。源氏壮幎の情事を総括しお評した語である。埓っお人に非難される眪、隠密の情事ずは、埌の巻々に描けるこずであり、「語り䌝ぞけむ」ずはこの物語、この埌の巻々のこずである玉の小櫛。党集五の䞀二六䞉。かく宣長がこの発端の語に特に泚意すべきものを芋いだし、これを党篇の「序」ずさえも認めた事は、圌が叀兞孊者ずしおよき掞察力を持っおいたこずを明蚌するものであるが、しかし圌はこの掞察を果実倚きものずするだけの远求の欲を欠いおいた。右の発端の語は、どの解釈をずっおも、䞖の口さがなき噂に察する抗議を含んでいる。䞖人は圌を奜色人ずいうが、しかし実は「なよひかにをかしき事はなく」、奜色人ずしお類型的な亀野の少将には冷笑されるだろうず思える人なのである。圌の密事も「軜びたる名を流さむ」こずを恐れお忍び隠したのであっお、実はたじめな事件なのである。この密事をさえ誀解し぀぀語り䌝えた人は「物いひさがなし」ずいう非難に䟡する。この抗議は第䞀巻の物語からは党然出おくるわけはない。埓っおそれは、読者がすでに「奜色人ずしおの光源氏」を他の物語あるいは䌝説によっお知っおいるか、あるいは䜜者がその䞻人公を、「奜色人ずしお有名でありながら実はたじめであった人」にしたいず考えたか、いずれかでなくおはならぬ。しかしそれがいずれであるにしおも、ずにかく䜜者はここで光源氏を恋の英雄ずしお党䜓的に提瀺した。これは宣長も指摘したごずく、䞀぀の物語の発端ずしおの曞き方である。そうしおここに我々は、䜕ゆえに突劂ずしお有名な奜色人光源氏の名が掲げられたかの疑問を解くべき緒を芋いだす。宣長はそれを远求しなかったが、この発端の語は、もずもず桐壺の巻を受くるものずしお曞かれたのではなかろう。桐壺の最埌には、「光君ずいふ名は、高麗人の感で聞えお、぀け奉りけるずぞ、蚀ひ䌝ぞたるずなむ」ずいう䞀句がある。それを受けお垚朚は、いきなり、光源氏、ず曞き出しおいる。蚀葉の䞊では぀ながりがあるように芋える。しかし高麗人の名づけたのは幌児光君である。それに反しお光源氏は有名な奜色人である。のみならず右の䞀句は、唐突に桐壺の巻末に付加せられたものであっお、前文ず䜕の脈絡もない。たた、少し前に曞かれた「  譬ぞむ方なく、矎しげなるを、䞖の人光君ず聞ゆ」ずいう蚀葉にも矛盟する。確かにこの䞀句は最も浮動的なものずしお厳密な批評を受くべきものである。が、この䞀句を削り去っおみおも、なお桐壺の巻ず垚朚の巻ずの間には、必然の脈絡が認められない。桐壺の巻末に描かれるのは、劻ず定められた葵の䞊をきらっお䞀途に継母を恋い慕う十二歳の源氏である。圌は葵の䞊のために建おられた新邞をながめお、「かかる所に思ふやうならむ人をすゑお䜏たばや」ず嘆く。この描写に呌び起こされお垚朚の発端の語が出お来たずは䜕人も信じ埗ないであろう。垚朚の発端は、埌に来る物語を呌び起こすべき匷い力を持っおいるが、それに先行する䜕の描写をも必芁ずするものでない。かくお我々は、垚朚が曞かれた時に桐壺の巻がただ存圚しなかったこずを掚定しなければならぬ。  そこで我々は、この発端の第䞀語ずしお珟われる「光源氏」が、果たしお党然䜜者創出の人物であるか吊かの考察に移る。読者の䜕人も知っおいない人名を、あたかも有名な人であるかのように取り扱っお突然読者の前に投げ出すこずは、巧みな䜜者の時おり䜿う手法である。他の物語䞭の仮構の人物である亀野の少将を拉し来たっお源氏ず察照させた䜜者の腕から芋れば、この事はあり埗ぬこずずも思えぬ。しかしもし光源氏なる奜色人の䌝説あるいは物語がすでに存圚しおいたのを利甚しお、この光源氏に関する䞀般の解釈にいきなり抗議を提出するこずによっお物語を曞き始めたずすれば、その方が䞀局巧劙であり、たた䞀局端的に読者の心に具䜓的な幻圱を呌び起こす方法ではないであろうか。この䜜者の描く光源氏はこの䜜者の独創の人物であるにしおも、この人物を創造するためにすでに存した光源氏を材料ずしお䜿甚するずいうこずは、描写を簡䟿にし容易にするゆえんである。すでに倚くの物語や奜色䌝説が産み出された埌に、その絶頂ずしお出珟する『源氏物語』が、䜕ら過去の䌝説を利甚するこずなくしお珟われたずは信じ難い。我々はこの発端を、「読者がすでに光源氏を知れるこずを前提ずしお曞かれたもの」ず認むべきではなかろうか。  読者が光源氏を知っおいるこずを前提ずするには、二぀の堎合がある。䞀぀は玫匏郚がすでに光源氏に぀いお倚くのこずを曞き、その埌に垚朚の巻を曞く堎合である。宣長は右の発端が埌の巻々を暗瀺するこずを説いおいるが、それは党篇の構図をすでに知っおいる者の心に浮かぶこずであっお、埌の物語を党然知らない者が初めお垚朚の巻を読む時にはこの暗瀺には䜕の内容もない。埓っお圌の芳察は垚朚が埌に曞かれたずいう所にたで持っお行かなければ培底しない。この堎合には、䜜者が自分のか぀お描いた光源氏に察しお自ら抗議を提出するずいうこずになりはしないかずいう疑問が起こるが、しかしそうは芋られない。埌の巻々においおは、䜜者は光源氏をたじめな、人情に富んだ人ずしお描き、たわれた人ずしおは描かなかった。だから䜜者は自分の描いた光源氏に察しお䜕ら抗議の必芁を芋ない。むしろ䜜者は、自分の描いた光源氏が倚くの読者によっお誀解され非難されたのに察しお抗議を提出したのである。かく芋れば『源氏物語』の成立に぀いお䜕ほどかの事情を察するこずもできるであろう。もしこの仮定を蚱せば、最初に曞かれたのは恐らく継母藀壺ずの姊通や、六条の埡息所ず葵の䞊ずの争いや、埡息所の生霊が葵の䞊を殺す話や、初々しい玫の䞊ずの関係や、朧月倜ずの恋などであったに盞違ない。  が、我々はもう䞀぀の堎合を考えるこずができる。光源氏に぀いおのあるいは少なくずも「源氏」に぀いおの物語が、すでに盛んに行なわれおいお、玫匏郚はただこの有名な題材を䜿ったに過ぎぬず芋るのである。臣䞋の列に䞋る皇子がすべお源氏であったずすれば、源氏は垞に恋の英雄たるべき地䜍にいる人であっお、このころにはすでに二癟幎の䌝統を負っおいた。かの恋の英雄ずしお有名な業平のごずきも二䞖の源氏皇孫にしお臣䞋の列に䞋った人である。ここに「源氏」の重ね写真がいく぀かの䌝説的な姿ずしお結晶するこずはきわめお自然だず蚀われなくおはならぬ。『河海抄』に、「いにしぞ源氏ずいふ物語数倚ある䞭に光源氏物語は玫匏郚が䜜ずいふ」ずいう説を匕甚しおいるが、これはいきなり斥くべき説ではなかろうず思う。もししかりずすれば玫匏郚は呚知の題材の䞊に圌女自身の芞術を刻み出したのである。  この二぀の堎合は同時に蚱されるかも知れない。すなわち呚知の題材の䞊にたず短い『源氏物語』が䜜られ、それに埌からさたざたの郚分が付加せられたず芋るのである。が、いずれであるにしおも、ずにかく珟存の『源氏物語』が桐壺より初めお珟圚の順序のたたに序を远うお曞かれたものでないこずだけは明らかだず思う。  右の芳察を支持すべきよき蚌拠は、『源氏物語』の初めの十篇における構図の䞭にも認められる。『源氏物語』党篇の䞭でかなり重倧な地䜍を占むべき葵䞊、藀壺、特に六条埡息所の取り扱い方がそうである。倕顔の巻の初めの「六条あたりの埡忍び歩きのころ」は六条埡息所ずの関係を初めお暗瀺したものず蚀われおいる。たたそうでなくおはこの句はほずんど冗句である。しかし読者は、この「六条あたりの埡忍び歩き」ずいう䞀語で、それが「前坊の北の方」なくなられた前の春宮の北の方、今は寡婊であり、矎しい嚘の母君であり、たた八歳幎䞊であるずころの、六条の埡息所ずの情事を暗瀺するず悟り埗るであろうか。珟圚の『源氏物語』を珟圚の順序のたたで読んで来た読者は、ここでそういうこずを悟り埗るわけは絶察にない。しかし䜜者の曞きぶりは読者の知識を予想しおいる。しからばこの情事は、䞻人公の生涯の有名な事件ずしお䜜者がすでに曞いたか、あるいは䌝説ずしお呚知のこずであるか、いずれかでなくおはならない。倕顔の巻は䞻ずしお倕顔の女ずの恋を描いたものであるにかかわらず、右の曞き出しによれば、この恋が「六条あたりの埡忍び歩きの頃」の䞀挿話に過ぎぬずの印象を䞎える。そうしお倕顔ずの恋から目を攟しお䞻人公の生掻党䜓に目をやる時には、そこに藀壺ぞの恋ず六条埡息所ずの関係ずが䞻人公の生掻の基調ずしお暗瀺されるのである。倕顔の巻の初めの方に、 六条わたりにも、解け難かりし埡気色をおもむけ聞え絊ひお埌、ひきかぞしなのめならむはいずほしかし。されどよそなりし埡心惑ひのやうに、あながちなる事はなきも、いかなる事にかず芋えたり。女はいず物をあたりなるたで思ししめたる埡心ざたにお、霢の皋も䌌げなく、人の掩り聞かむに、いずどかく぀らき埡よがれのねざめねざめ、思ししをるる事いずさたざたなり。 ずしお、埡息所のもずにおける朝の別れの䞀情景を描いおいる。䞀方空蝉や倕顔ずの恋は、源氏がいかに蚀い寄り女がいかに答えたかをきわめお詳现に描いおいるにかかわらず、この重倧な埡息所ずの恋は、右のごずくただ、「源氏が蚀い寄っおしいお関係した、だから冷淡になるのは気の毒であるのに冷淡になった、女は自分の幎䞊を気にしお苊しんでいる」ず簡単に報告するのみである。そうしおそれが「埡息所」であるこずを思わせる䜕の描写も説明もない。もし『源氏物語』が今のたたの順序で曞かれたずすれば、この事は最も理解し難いものずなるであろう。源氏の最初のアノァンテュヌルずしお描かれるのは䞀地方官の若き埌劻空蝉ずの姊通であり、第二は芪友がか぀お関係し今は陋巷に身を隠しおいる倕顔ずの恋であるが、この二぀の恋の間に挿たる埡息所ずの恋は、その重倧さにおいお、かくのごずき軜き取り扱いに䟡するものでない。埓っお我々は、この軜き取り扱いもたた十分な暗瀺の力を持っおいたこずを掚枬しなくおはならぬ。読者はすでに埡息所の車争いや生霊の話を知っおこの個所を読むのである。  藀壺ずの情事に぀いおも同様のこずが蚀える。垚朚の雚倜の品定めのあずには、「君は人ひずりの埡有様を心の䞭に思ひ続け絊ふ」ずあり、空蝉に蚀い寄る倜には、女房たちが自分の情事の噂をするのを聞いお、「おがす事のみ心にかかり絊ぞれば、たづ胞朰れお」ずある。倕顔ずの挿話を描く途䞭には、「人やりならず心づくしに思ほし乱るる事どもありお、」葵の䞊のもずぞ熱心に通わなかったこずが断わっおある。幌い玫の䞊に察しお愛着を感ずるのも、「限なう心を尜し聞ゆる人に、いず奜う䌌奉れる」ためである。これらはすべお藀壺ずの恋を暗瀺するものず解せられる。しかし桐壺の巻の末尟に描かれた十二歳の源氏の恋心のみでは、これらの暗瀺は利かない。若玫の巻に至っおは、「我埡眪のほど怖ろしう、あぢきなきこずに心をしめお、生ける限りこれを思ひなやむべき」を思うお、出家の芁求をさえも感ずるのである。果たしおこの巻においおは、藀壺ず源氏ずの恋が盎写される。しかもそれは、二人の関係の最初でない。すでに「あさたしかりし」こずがあっお、藀壺はそれを苊しんでいる。そうしお、「さおだに止みなむ」ず決意し぀぀も、なお匕きずられお行くのである。぀いに藀壺は眪の皮を宿しお「あさたしき埡宿䞖の皋」に苊しみ悩む。この道ならぬ恋もたた読者はすでにあらかじめ知っおいるのである。でなければ若玫の巻以前に珟われるさたざたの暗瀺は力を持぀はずがない。  もし我々が、六条埡息所や藀壺や葵の䞊などを䞭心ずする源氏の物語を、䌝説ずしおあるいは䜜者が前に曞いたものずしお、すでに存したものず認め埗るならば、垚朚の曞き出しはきわめお自然であり、そのあずに地方官の劻や陋巷にひそむ女ずの情事が挿入されるのも䞍思議はないず肯くこずができよう。我々は右の物語の既存を認めなければ理解し難い点があるこずを指摘した。そうしおそれを認めれば『源氏物語』の構造が明らかになる。我々はそれを認めおよいではなかろうか。  右のごずき芳察は『源氏物語』党篇に及がすこずができるであろう。それによっお我々は、本文自身の䞭から、『源氏物語』成立の事情を芋いだし埗るであろう。その時に初めお『源氏物語』本文批評の仕事は䜓をなすのである。叀来の泚釈家はこの点でほずんど仕事をしおいない。ただ『源氏物語』に関する鎌倉時代以埌の䌝承に埓っお、この問題を䞍問に付し去ろうずするに過ぎぬ。 『源氏物語』に぀いおの最叀の蚘録は、䜜者玫匏郚の日蚘の数節である。 うちのうぞの源氏の物語人に読たせ絊ひ぀぀聞しめしけるに、この人は日本玀をこそよみ絊ぞけれ、たこず才有べしずのたたはせけるを   源氏の物語おたぞにあるを、殿の埡芧じお、れいのすずろこずどもいで来たる序に、梅の枝にしかれたる玙に曞かせ絊ぞる。 すき者ず名にし立れば芋人の折らで過るはあらじずぞ思ふ 巊衛門督。あなかしこ、このわたりに若玫やさふらふずうかがひ絊ふ。源氏に䌌るべき人芋え絊はぬに、かのうぞは、たいおいかでものし絊はむず聞ゐたり。 宣長はこれによっお『源氏物語』は玫匏郚の䜜なりず断定する。しかし右の日蚘は、珟存の『源氏物語』が『源氏の物語』ず同䞀のものであるか吊かに぀いお䜕事をも語らない。この『源氏の物語』が恐らく珟存の蛍の巻ず若玫の巻ずを䜕ほどかの皋床に含んだものであったろうこずは掚枬するに難くないが、単玔に『源氏の物語』ず呌んだずころから芋るず、非垞に倧郚なものであったず思えない。 『源氏物語』に぀いおの次に叀い䌝承は、道長の奥曞きである。『河海抄』四蟻善成著足利初期によるず、 法成寺入道関癜の奥曞に云、歀物語䞖に玫匏郚が䜜ずのみ思ぞり。老比䞘筆を加る所也云々 しかしこの奥曞きは信じ難い。この皮の奥曞きの必芁が生じたのは、『源氏物語』が叀兞ずしお尊重せられるに至った埌のこずであっお、同時代たる道長の時代に問題が起こるはずはないからである。それよりも泚意すべきは、やや時代が䞋っお、『花鳥䜙情』䞀条兌良著足利䞭期に匕くずころの、『宇治倧玍蚀物語』の䞀節である。 今は昔越前守為時ずお才有お䞖にめでたくやさしかりける人は、玫匏郚が芪なり。歀為時源氏は぀くりたる也。こたかなる事どもを嚘にかかせたりけるずぞ。后の宮歀事をきこしめしお、むすめを召出しける。歀源氏䜜たる事様々に申䌝ぞたり。参りお埌぀くりたるなりずも申、いづれかたこずならん。  これによるず玫匏郚を䜜者ずする䌝説は存しおいたが、しかし䜜者に぀いおの確説は立っおいなかったこずがわかる。『玫匏郚日蚘』に芋おも、圌女が才を包もうずしたのはただ「挢文孊の知識」に぀いおのみであっお、和文の物語の䜜者であるこずはさほどの誇りでもなくたた名誉でもなかったらしい。埓っお物語の䜜者に぀いおは、䞖人はさほど厳密に蚘憶しようずはしなかったず考えられる。たたこの物語が玔然たる圌女の独創であるか、あるいは以前の物語によったか、あるいは埌人が加筆したか、ずいうようなこずも詳しくは泚意せられなかったのであろう。かく芋れば玫匏郚はいかなる意味の䜜者であるかは疑わしくなる。こずに院政の初期たで䞀䞖玀の間に、いかに本文が倉化し増倧したろうかを考えれば、鎌倉時代の䌝承の盎ちに信ずべからざるは明らかである。 『源氏物語』の芞術的䟡倀に぀いおは、自分は久しく焊点を定め惑うおいた。しかしこの物語の成立を右のごずき方針によっお明らかにするこずができれば、焊点の定め方もたた埓っお指瀺されるこずず思う。もし珟圚のたたの『源氏物語』を䞀぀の党䜓ずしお鑑賞せよず蚀われるならば、自分はこれを傑䜜ず呌ぶに躊躇する。それは単調である、繰り返しが倚い。埓っお郚分的に矎しい堎面も、党䜓の鈍い単調さの内に溺らされおしたう。叀来この䜜が人々の心を捕えたのは、ここに取り扱われる「題材」が深い人性に関䞎するものなるがゆえであり、たた所々にきわめお矎しい堎面があるからであっお、必ずしもその描写党䜓が傑れおいるゆえではなかろう。我々はこの物語を読み行く際に、絶えず転換しお珟われおくる堎面の倚くが、描写においお䞍十分であるこずを感ずる。どれか䞀぀をでも、もう䞀歩突き蟌んで曞いおほしいず思う。たずえば桐壺の曎衣の愛ず苊しみず死ずが、もっず深く、十分に、描かれるならば、この䞀人の女の姿によっお象城されるずころは、同じような境遇の女が同じような䞍十分さでもっお十人二十人ず描かれた堎合よりも、さらに䞀局豊富であろう。その時に圢匏は䞀局簡玠ずなり、意味は䞀局深たるであろう。しかるにこの䜜は、芞術の象城的な機胜を解せずしおすべおを語ろうずしいたずらに面を塗り぀ぶすのである。題材が倧きいずいうこずは、この題材の取り扱い方が拙いずいうこずを、救う力は持っおいない。しかしもしこの物語からある郚分を抜き出しお鑑賞するならば、すなわちこの物語のうちに或る短篇を読むならば、事情は倉化する。描写の䞍十分も、繰り返しから切り攟たれた時には、著しくその眪を枛ずる。が、この堎合に我々は、『源氏物語』党篇のうちに、描写の比范的巧劙な巻ずたた著しく拙劣な巻ずが混圚するこずを泚意しなくおはならぬ。  森鎎倖氏は、『源氏物語』の文章がある抵抗に打ち勝たずしおは理解せられないものであるこずを説き、「源氏物語は悪文だ」ず蚀った束波資之氏の語をあげおいる鎎倖党集、䞀九、四䞉八ペヌゞ。鎎倖氏はこの語が必ずしも『源氏物語』を謗ったのではないこずを蚀っおいるが、ずにかく叀来の孊者の内にこの物語を悪文だず蚀った人があるこずを知るのは自分にずっお心匷い。確かに『源氏』の文章の晊枋は、䜜者の責任であっお、我々が語孊の力の䞍足のゆえにのみ感ずるのではない。このこずは『枕草玙』ずの比范によっおも明らかである。自分はこの晊枋の原因の重倧な䞀぀を描写の芖点の混乱に認め埗るず思う。たずえば「橋姫」のごずきは、この混乱のために、䞍快な抵抗を感ぜずには読むこずができない。䜜者は䞻栌を省いお曞きながら、䜜者の感想ず、薫䞭将の心をもっお芋た情景ず、姫君の心をもっお芋た情景ずを、盞接しお䞊べるのである。早朝の庭に忍んで薫䞭将が姫君たちの様子に感嘆しおいる。我々は薫の心持ちになっおこの情景を感ずる。しかるに突劂ずしお䜜者がこの心持ちを批評する。我々は䞀床浞った心持ちからたた連れ出されねばならぬ。次いで薫に芋られるずも知らないでいる姫君たちの恥ずかしがる気持ちが姫君の偎から描かれる。我々は姫君の心持ちに匕き入れられる。ず、たた䜜者が第䞉者ずしおの蚀葉を入れる。再び我々は匕き戻される。この段取りを頻々ずしお繰り返し぀぀描写は進むのである。我々はこの䞉぀の立堎のいずれかに自分の䜍眮をずるこずなくしおは、統䞀ある䞀぀の䞖界を持぀こずができぬ。この点においおは、『枕草玙』の䞭の写生文は、䞀぀の芖点によっお芋られた明快な䞖界の描写であるがゆえに、我々をしお盎ちにその矎を感ぜしめるのである。  しかしこの物語の党䜓がすべお右のごずき調子で曞かれおいるずいうのではない。巻ごずに、ある時はすべおを超越する客芳的な立堎が優越し、ある時は䞀぀の堎景党䜓が䞻人公の県をもっお芋られるこずもある。そうしおその立堎のずり方によっお描写の技巧にも巧拙があるず思う。客芳的な立堎から描かれるずきは、ずもすれば説明に堕ちお具䜓的な姿が浮かばない。桐壺などはそのよき䟋である。曎衣がいかに人々に苊しめられたか、いかに悲しく死んで行ったかは、説明はされるが描かれおはいない。たた玅葉賀の詊楜なども、「䞊達郚、皇子だちも皆泣きぬ」ず曞かれおはいるけれども、䜕ゆえ泣いたかを肯かせるような描写は䜕もない。『枕草玙』の詊楜の倜の描写などで補っお芋なくおは、この堎の情景は明らかに浮かんで来ないのである。しかしこういう説明の間にはめ蟌たれた短い堎景で、ある人物の芖点から描写されるずきには、かなり掻き掻きずした姿が浮かび䞊がっおくるず思う。若玫、花の宎、葵、賢朚などの巻のうちには、そういういく぀かの堎面がある。もずよりこれらの描写にも芖点の混乱がないずは蚀えぬが、それは比范的に軜埮だず蚀っおよかろう。『源氏物語』の最も矎しい郚分は、筋を運ぶ説明によっお連絡せられたこれらの個々の情景である。  もし我々が綿密に『源氏物語』を怜するならば、右のごずき巧拙の皮々の局を発芋し、ここに「䞀人の䜜者」ではなくしお、䞀人の偉れた䜜者に導かれた「䞀぀の流掟」を芋いだし埗るかも知れない。もしそのこずが成功すれば、『源氏物語』の構図の匱さが䜕に基づくかも明らかずなり、玫匏郚を䜜者ずする「原源氏物語」を捕えるこずもできるであろう。䜕人も認めるごずく、この物語に珟われる䞻芁な女の倚くは、愛人の独占を欲するものである。そこから圌らの苊しみも生ずる。いかに倚劻が公認せられる時代でも、恋に内圚するこの独占の芁求はいかんずもし難い。埓っお䞻人公源氏は、その恋人のおのおのに察しお、この独占の芁求に応ずる態床を取らなくおはならぬ。しかも䜜者はこの䞻人公を、口先だけ優しい女たらしずしおではなく、真心から恋する男ずしお描こうずする。埓っお恋人の数をふやすずずもに、䞻人公の描写はたすたす困難の床を加える。珟圚の『源氏物語』は、この困難に抌し぀ぶされおいる。源氏は䞀぀の人栌ずしお描かれおいない。その心理の動き方は䜕の連絡も必然性もない荒唐無皜なものである。しかし我々は「原源氏物語」に想到するずき、そこに幟人かの恋人に心を匕き裂かれながらもなお䞀぀の人栌ずしお具䜓的な存圚を持った䞻人公を芋いだすこずができそうに思われる。それは自己を統埡するこずのできぬ匱い性栌の持ち䞻である。しかしその感情は倚くの恋にたじめに深入りのできるだけ豊富である。埓っおここに人生の歓びずその䞍調和ずが廓倧しお珟わされる。この皮の䞻人公が怜出せられたずき、『源氏物語』の構図は初めお芞術品ずしお可胜なものずなるであろう。  以䞊は『源氏物語』を研究するに぀いおの䞀぀の方針であっお、研究された結果ではない。綿密な研究の埌にもあるいは、『源氏物語』が、叀来蚀われおいる通り、玫匏郚䞀人の䜜であるず結論されるかも知れない。しかし少なくずもそれが、䞀時の䜜ではなくしお埐々に増倧されたものだ、ずいう事だけは、蚌明されそうに思う。が、いずれにしおも、珟存の『源氏物語』をそのたたに䞀぀の芞術品ずしお芋るべきであるならば、それは傑䜜ではない。䜜者はここに取り扱われた皮々の倧きい題材を、正圓に取り扱う力を持たない人である。これだけは明らかに断蚀しおいいず思う。 倧正十䞀幎、十䞀月 「もののあはれ」に぀いお 「もののあはれ」を文芞の本意ずしお力説したのは、本居宣長の功瞟の䞀぀である。圌は平安朝の文芞、特に『源氏物語』の理解によっお、この思想に到達した。文芞は道埳的教誡を目的ずするものでない、たた深遠なる哲理を説くものでもない、功利的な手段ずしおはそれは䜕の圹にも立たぬ、ただ「もののあはれ」をう぀せばその胜事は終わるのである、しかしそこに文芞の独立があり䟡倀がある。このこずを儒教党盛の時代に、すなわち文芞を道埳ず政治の手段ずしお以䞊に䟡倀づけなかった時代に、力匷く圌が䞻匵したこずは、日本思想史䞊の画期的な出来事ず蚀わなくおはならぬ。  しからばその「もののあはれ」は䜕を意味しおいるのか。圌はいう源氏物語玉の小櫛、二の巻、宣長党集五。䞀䞀六〇䞋、「あはれ」ずは、「芋るもの、聞くもの、ふるゝ事に、心の感じお出る、嘆息の声」であり、「もの」ずは、「物いふ、物語、物たうで、物芋、物いみなどいふたぐひの物におひろくいふ時に添ふる語」同䞊䞀䞀六二䞊である。埓っお、「䜕事にたれ、感ずべき事にあたりお、感ずべき心をしりお、感ずる」を「物のあはれ」を知るずいう同䞊䞀䞀六二䞊。感ずるずは、「よき事にたれ、あしき事にたれ、心の動きお、あゝはれず思はるゝこず」である、『叀今集』の挢文序に「感鬌神」ず曞いたずころを、仮名序に「おに神をもあはれず思はせ」ずしたのは、この事を蚌明する同䞀䞀六䞀―六二。埌䞖、「あはれ」ずいう蚀葉に哀の字をあお、ただ悲哀の意にのみずるのは、正確な甚法ずは蚀えない。「あはれ」は悲哀に限らず、嬉しきこず、おもしろきこず、楜しきこず、おかしきこず、すべお嗚呌ず感嘆されるものを皆意味しおいる。「あはれに嬉しく、」「あはれにをかしく、」ずいうごずき甚法は垞に芋るずころである。ただしかし、「人の情のさた『〵に感ずる䞭に、うれしきこず、をかしきこずなどには、感ずるこず深からず、たゞ悲しきこず憂きこず恋しきこずなど、すべお心に思ふにかなはぬすぢには、感ずるこずこよなく深きわざなるが故に、しか深き方をずりわきお」、特に「あはれ」ずいう堎合がある。そこから「あはれ」すなわち「哀」の甚語法が生たれたのである同䞀䞀六䞀䞋。  宣長の甚語法における「物のあはれ」がかくのごずき意味であるならば、それは我々の甚語法における「感情」を察象に即しお蚀い珟わしたものず芋るこずができよう。埓っお圌が、これを本意ずする文芞に察しお、哲理の䞖界及び道埳の䞖界のほかに、独立せる䞀぀の䞖界を賊䞎したこずは、時代を抜んずる非垞な卓芋ず蚀わなくおはならぬ。  しかし圌は、文芞の本意ずしおの「物のあはれ」が、よっおもっお立぀ずころの根拠を、どこに芋いだしたであろうか。それは䜕ゆえに哲理及び道埳に察しおその独立を䞻匵し埗るのであるか。圌は文芞の兞型ずしおの『源氏物語』が、「特に人の感ずべきこずのかぎりを、さた『〵に曞き珟はしお、あはれを芋せたるもの」であるず蚀った同䞀䞀六二䞋。そうしおこの物語をよむ人の心持ちは、物語に描かれた事を「今のわが身にひきあお、なずらぞお」物語䞭の人物の「物のあはれをも思ひやり、おのが身のうぞをもそれに比べ芋お、物のあはれを知り、憂きをも思ひ慰むる」にあるず蚀った同䞀䞀四䞃䞊。すなわち衚珟されたる「物のあはれ」に同感し、憂きを慰め、あるいは「心のはるゝ」同䞀䞀五二䞊䜓隓のうちに、矎意識は成立するわけである。が、衚珟された「物のあはれ」は、いかなる根拠によっお「心をはれ」させ、「うきを慰める」のであるか。たた晎れた心の枅朗さ、慰められた心の和やかさは、憂きに閉じた心よりもはるかに高められ浄められおいるず芋およいのであろうか。よいずすれば、衚珟された「物のあはれ」は、䜕ゆえに読者の心を和らげ、高め、浄化する力を持぀のであるか。これらの疑問を解くこずなくしおは、「物のあはれ」によっお文芞の独立性を確立しようずする圌の詊みは、無根拠に終わるず蚀われなくおはならぬ。  圌がここに根拠づけずしお持ち出すものは、「物のあはれ」が「心のたこず」「心の奥」であるずいう思想である。圌は、「道々しくうるはしきは皆い぀はれる䞊面のこずにお、人のたこずの情を吟味したるは、かならず物はかなかるべき」ゆえん石䞊私淑蚀䞋。党集五。五九〇―九䞀を説いお、人性の根本を「物はかなくめゝしき実の情」に眮いた。すなわち圌にずっおは、「理知」でも「意志」でもなくおただ「感情」が人生の根柢なのである。埓っお、衚珟された「物のあはれ」に没入するこずは、囚われたる䞊面を離れお人性の奥底の方向に垰るこずを意味する。特に圌が兞型ず認める䞭叀の物語は、「俗の人の情ずははるかにたさりお」、「こよなくあはれ深き」、「みやびやかなる情」のかぎりを写しおいる玉の小櫛、党集五。䞀䞀九八―九九。ゆえに、これを読む人の心には、その日垞の情よりもはるかに高い、浄められた、「物のあはれ」がう぀っおくるのである。  かくしお前の疑問は、圌の「人情䞻矩」の立堎から解かれおいる。が、かく「物のあはれ」を根拠づけるずずもに、「物のあはれ」をば単に感情を察象に即しお蚀い珟わしたものずのみ芋るこずは蚱されなくなる。もずより「物のあはれ」はその領域ずしおは「人の感ずべき限り」を、すなわち広さにおいおは、単に官胜的のみならず道埳的宗教的その他䞀切の感情を、――たずえば人の品䜍に感じ仏心の貎さにうたれるずいうごずきこずをも、――たた深さにおいおは、およそ人間の感受力の胜う限りを、包括しなくおはならない。しかし最初に定矩したごずくいかなる感情も盎ちにそのたたに「物のあはれ」ず芋らるべきであるずすれば、右のごずき「物のあはれ」の浄化䜜甚は解き難いものずなるであろう。そこで圌は、ここに説くごずき論理的必芁によっおではないが、「物のあはれ」に性質䞊の制限を加える。  䞀 人ずしおは感情なきものはない。しかし圌は「物のあはれ知らぬもの」を認める。その䞀䟋は法垫である。出家の道は「物のあはれを知りおは行ひがたきすぢなれば、匷ひお心匷く、あはれ知らぬものになりお、行ふ道」党集五。䞀䞀六五であるゆえに、法垫が真に法垫である限り、圌は「あはれ」知らぬものである。この意味では、「物のあはれ」は䞖間の人情に即するものず解せられなくおはならぬ。たた他の䞀䟋は倫たる垝が悲嘆に沈たれおいるにかかわらず、お偎にも䟍らで、月おもしろき倜に倜ふくるたで音楜をしお遊ぶ匘埜殿のごずき人である同䞀䞀六四。もずより圌女は喜びあるいは苊しむ心を持たぬ人ではない。圌女が垝の悲嘆に同情せぬのは、その悲嘆が圌女の競争者たる他の女の死に基づくゆえである。しかしたずい、その悲嘆さえもが圌女の嫉劬を煜るにしろ、その嫉劬のゆえに心を硬くしお、倫の苊しみに心を湿らさぬ女は、「物のあはれ」を知るずは蚀えない。この䟋によっお芋れば、「物のあはれ」は単に自然的な感情ではない。たずえば嫉劬のごずき。むしろある皋床に自然的な感情を克服した、心のひろい、倧きい、同情のこころである。  二 「物のあはれ知り顔を぀くりお、なさけを芋せむ」ずするのは、たこずに「あはれ」を知るのではない同䞀䞀六六䞊。すなわちここでは感情の誇匵を斥ける。感情が玔でなくおは「物のあはれ」ず蚀えぬ。  䞉 「物のあはれを知り過す」のも「物のあはれ」を知るのでない同䞀䞀六六䞋。この「知り過す」ずいうのは、深く知る意ではなく、さほどに感ずべきでないこずにもさも感じたようにふるたっお、そのために、深い䜓隓を䌎なうべきこずも軜易に、浮か浮かず経隓しお通るこずである。埓っおその経隓は倚岐であっおも、内容は浅い。たずえば移り気に倚くの女を愛するものは、「なさけあるに䌌たれども然らず。たこずには物のあはれ知らざるなり。  これをもかれをもたこずにあはれず思はざるからにこそはあはれ」同䞀䞀䞃〇䞋。䞀人を愛する心の深さを知らぬものが、すなわちたこずに「物のあはれ」を知らぬものが、倚くの人に心を移すのである。これは感傷や享楜的態床を斥けた蚀葉ず芋られるであろう。埓っお「物のあはれ」は、感傷的でない、真率な深い感情でなくおはならぬ。  これらの制限によっお、「物のあはれ」は、䞖間的人情であり、寛い humane な感情であり、誇匵感傷を脱した玔な深い感情であるこずがわかる。埓っお「物のあはれ」を衚珟するこずは、それ自身すでに浄められた感情を衚珟するこずであり、それに自己を没入するこずは自己の浄められるゆえんであるこずもわかる。かくお圌が叀兞に認める「みやび心」、「こよなくあはれ深き心」は、我らの仰望すべき理想ずなる。  しかし圌は果たしお理想䞻矩を説いおいるであろうか。「物はかなきたこずの情」が人生の奥底であり、そうしお「物のあはれ」が玔化された感情であるずすれば、その玔化の力は人性の奥底たるたこずの情に内圚するのであるか。すなわち人性の奥底に垰るこずが、浄化であり玔化であるのか。蚀い換えれば、圌のいわゆる人性の奥底は真実の Sein であるずずもに Sollen であるのか。圌はこの問題に答えおおらぬ。圌が「物のあはれ」を玔化された感情ずしお説く兞拠は、『源氏物語』に散芋する甚語䟋である、埓っお結局は玫匏郚の人生芳である。しかし圌は玫匏郚の人生芳がいかなる根拠に立぀かを芳察しようずはしない。玫匏郚は圌にずっお究竟の暩嚁であった。圌はただ玫匏郚に埓っお、『源氏物語』自身の䞭から『源氏物語』の本意を導き出し、それをあらゆる物語や詩歌の本意ずしお立おた。我々はここに圌の究竟の、圌の内に内圚しお圌の理解を導くずころの、さらに進んでは玫匏郚を初め倚くの文人に内圚しおその創䜜を導いたずころの、䞀぀の「理念」が反省せられおいるのを、芋いだすこずはできぬ。  かくのごずく圌自身はこのこずを説いおいないのであるが、しかし圌の蚀葉から我々は次のごずく解釈し埗る。圌のいわゆる「たごころ」は、「ある」ものでありたた「あった」ものではあるが、しかし目前には完党に珟われおいないものである。そうしお珟われるこずを芁請するものである。埓っおそれは十分な意味においお理想ず芋られおよい。圌が人性の奥底を説くずき、それは真実圚であるずずもにたた圓為である。そのゆえに、あの「みやび心」は、――「たごころ」の芞術的衚珟は、――珟わされたる理想ずしおの意矩を持぀のである。  我々はこの宣長の矎孊説に盞圓の敬意を払うべきである。ある意味では、掚叀仏のあの玠朎な神秘䞻矩を裏づけるものは、宣長の意味での「物のあはれ」だず蚀えなくはない。癜鳳倩平のあの叀兞的な仏像やあの刹那の叫びたる叙情詩に぀いおも同様である。鎌倉時代のあの緊匵した宗教文芞、哀感に充ちた戊蚘物、宀町時代の謡曲、埳川時代の俳諧や浄瑠璃、これらもたた「物のあはれ」の䞊に立぀ず蚀えよう。しかし我々は、これらの芞術の根拠ずなれる「物のあはれ」が、それぞれに重倧な特異性を持っおいるこず、そうしお平安朝のそれも他のおのおのに察しお著しい特質を持぀こずを芋のがすこずができない。これらの特異性を県䞭に眮くずき、特に平安朝文芞の特質に芪瞁を持぀「物のあはれ」ずいう蚀葉を、文芞䞀般の本意ずしお立おるこずは、あるいは誀解を招きやすくはないかず疑われる。  我々は宣長が反省すべくしおしなかった最埌の根拠を考えおみなければならぬ。宣長は「もの」ずいう蚀葉を単に「ひろく蚀ふ時に添ふる語」ずのみ解したが、しかしこの語は「ひろく蚀ふ」ものではあっおも「添ふる語」ではない。「物いう」ずは䜕らかの意味を蚀葉に珟わすこずである。「物芋」ずは䜕物かを芋るこずである。さらにたた「矎しきもの」、「悲しきもの」などの甚法においおは、「もの」は物象であるず心的状態であるずを問わず、垞に「或るもの」である。矎しきものずはこの䞀般的な「もの」が矎しきずいう限定を受けおいるにほかならない。かくのごずく「もの」は意味ず物ずのすべおを含んだ䞀般的な、限定せられざる「もの」である。限定せられた䜕ものでもないずずもに、たた限定せられたもののすべおである。究竟の Es であるずずもに Alles である。「もののあはれ」ずは、かくのごずき「もの」が持぀ずころの「あはれ」――「もの」が限定された個々のものに珟わるるずずもにその本来の限定せられざる「もの」に垰り行かんずする䌑むずころなき動き――にほかならぬであろう。我々はここでは理知及び意志に察しお感情が特に根本的であるず䞻匵する必芁を芋ない。この䞉者のいずれを根源に眮くずしおも、ずにかくここでは「もの」ずいう語に珟わされた䞀぀の根源がある。そうしおその根源は、個々のもののうちに働き぀぀、個々のものをその根源に匕く。我々がその根源を知らぬずいうこずず、その根源が我々を匕くずいうこずずは別事である。「もののあはれ」ずは畢竟この氞遠の根源ぞの思慕でなくおはならぬ。歓びも悲しみも、すべおの感情は、この思慕を内に含む事によっお、初めおそれ自身になる。意識せられるず吊ずにかかわらず、すべおの「詠嘆」を根拠づけるものは、この思慕である。あらゆる歓楜は氞遠を思う。あらゆる愛は氞遠を慕う。かるがゆえに愛は悲である。愛の理想を倧慈倧悲ず呌ぶこずの深い意味はここにあるであろう。歓びにも涙、悲しみにも涙、その涙に湿おされた愛しき子はすなわち悲しき子である。かくお我々は、過ぎ行く人生の内に過ぎ行かざるものの理念の存する限り、――氞遠を慕う無限の感情が内に蔵せられおある限り、悲哀をば畢竟は氞遠ぞの思慕の珟われずしお認め埗るのである。それは必ずしも哲孊的思玢ずしお珟われるのみでない。恋するものはその恋人においお魂の故郷を求める、珟実の人を通じお氞遠のむデアを恋する。恋に浞れるものがその恋の氞遠を思わぬであろうか。珟実の生においお完党に充たされるこずのない感情が、悲しみ、あえぎ、恋し぀぀、絶えず迫り行こうずする前途は、きわたるこずなき氞遠の道である。人生における䞀切の愛、䞀切の歓び、䞀切の努力は、すべおここにその最深の根拠を有する。「もののあはれ」が人生党般にひろたるのは、畢竟このゆえである。  かく芋るこずによっお我々は、「物のあはれ」が䜕ゆえに玔化された感情ずしお理解されねばならなかったかのゆえんを明らかに知るこずができる。「物のあはれ」ずは、それ自身に、限りなく玔化され浄化されようずする傟向を持った、無限性の感情である。すなわち我々のうちにあっお我々を根源に垰らせようずする根源自身の働きの䞀぀である。文芞はこれを具䜓的な姿においお、高められた皋床に衚珟する。それによっお我々は過ぎ行くものの間に過ぎ行くものを通じお、過ぎ行かざる氞遠のものの光に接する。  が、たた右の理解ずずもに我々は、「物のあはれ」ずいう蚀葉が、䜕ゆえに特殊のひびきを持぀かのゆえんをも理解するこずができる。氞遠ぞの思慕は、ある時代の粟神生掻党䜓に芏定され、その時代の特殊の圢に珟われるものであっお、必ずしも「物のあはれ」ずいう蚀葉にふさわしい圢にのみ珟われるずは限らぬ。愛の自芚、思慕の自芚の皋床により、あるいは、愛の察象、思慕の察象の深さいかんにより、ある時は「物のあはれ」ずいう蚀葉が、率盎で情熱的な思慕の情の盎接さを芆うおそれがあり、たたある時は、匷烈に身をもっお远い求めようずする思慕のこころの実行的な胜動性を看過せしめるおそれがある。「物のあはれ」ずいう蚀葉が、その䌎なえる倍音のこずごずくをもっお、最も適切に衚珟するずころは、畢竟平安朝文芞に芋らるる氞遠の思慕であろう。  平安朝は䜕人も知るごずく、意力の䞍足の著しい時代である。その原因は恐らく数䞖玀にわたる平和な貎族生掻の、県界の狭小、粟神的匛緩、享楜の過床、よき刺激の欠乏等に存するであろう。圓時の文芞矎術によっお芋れば、意力の緊匵、剛匷、壮烈等を讃矎するこころや、意力の匱さに起因する䞀切の醜さを正圓に評䟡する力は、党然欠けおいる。意志の匷きこずは圌らにはむしろ醜悪に感ぜられたらしい。それほど人々は意志が匱く、しかもその匱さを自芚しおいなかったのである。埓っおそれは、䞀切の䜓隓においお、反省の䞍足、沈朜の䞍足ずなっお珟われる。圌らは地䞊生掻のはかなさを知っおはいる、しかしそこから充たされざる感情によっお远い立おられ、哲孊的に深く思玢しお行こうずするのではない。たた圌らは地䞊生掻の愉悊を知っおもいる、しかし飜くこずなき楜欲に远われお、飜くたでも愉悊の杯をのみ干そうずする倧胆さはない。圌らは進むに力なく、ただこの䞡端にひかれお、䜎埊するのみである。かく培底の傟向を欠いた、衝動远迫の力なき、しかも感受性においおは鋭敏な、思慕の情の匷い詠嘆の心、それこそ「物のあはれ」なる蚀葉に最もふさわしい心である。我々はこの蚀葉に、実行力の欠乏、停滞せる者の詠嘆、ずいうごずき倍音の䌎なうこずを、正圓な理由によっお肯くこずができる。  かくお我々は「物のあはれ」が、平安朝特有のあの氞遠の思慕を珟わしおいるのを芋る。我々はそれを特性づけお、「氞遠ぞの思慕に色づけられたる官胜享楜䞻矩」、「涙にひたれる唯矎䞻矩」、「䞖界苊を絶えず顧慮する快楜䞻矩」、あるいは蚀い珟わしを逆にしお、「官胜享楜䞻矩に囚われた心の氞遠ぞの思慕」、「唯矎䞻矩を曇らせる涙」、「快楜䞻矩の生を圩る䞖界苊」等ず呌ぶこずができよう。  本居宣長は「物のあはれ」を文芞䞀般の本質ずするに圓たっお、右のごずき特性を十分に掗い去るこずをしなかった。埓っお圌は人性の奥底に「女々しきはかなさ」をさえも芋いだすに至った。これはある意味では「絶察者ぞの䟝属の感情」ずも解せられるものであるが、しかし我々はこの衚出にもっず匱々しい倍音の響いおいるのを感ずる。氞遠の思慕は垞に「女々しくはかなき」ずいう蚀葉で適切に珟わされるずは考えられない。『䞇葉』におけるごずき朗らかにしお快掻な愛情の叫び、悲哀の叫び。あるいは殺人の血にたみれた歊士たちの、あの心の苊闘の叫び。あるいはたた、犅の深い圱響の埌に生たれたあの「寂び」のこころ。それらを我々は「女々しくはかない」ず呌ぶこずはできぬ。もずよりここにも「物のあはれ」ず通ずるもののあるこずは明らかである。なぜならそれらはずもどもに氞遠の思慕の珟われであるから。しかし力匷い苊闘のあずを芋せぬ、鋭さの欠けた、内気な、率盎さのない、優柔なものずしお特性づけられる「物のあはれ」は、――すなわちこの意味での本来の「物のあはれ」は、厳密に平安朝の粟神に限られなくおはならぬ。 「物のあはれ」をかく理解するこずによっお、我々は、よき意味にもあしき意味にも、平安朝の特殊な心に察しお、正圓な評䟡をなし埗ようかず思う。それは党䜓ずしお芋れば、粟神的の䞭途半端である。求むべきものず求むる道ずの混乱に苊しみ぀぀、しかも混乱に気づかぬ痎愚である。培底し打開するこずを知らぬ意志匱きものの、煮え切らぬ感情の暪溢である。我々はいかにしおもここに宣長のいうごずき理想的な「みやび心」を芋いだすこずができぬ。しかしたた我々は、この䞭途半端の珟実を通しお、熱烈に完党を恋うる心のたじめさをも疑うこずができぬ。圌らの県界の狭小、実行力の匱さは、蚀わば圌らにずっおは宿呜であっお、必ずしも圌らに責任を負わすべきものでない。この宿呜の範囲内においおは圌らは、その现やかな感受性をもっお、感ずべき限りを感じ、恋うべき限りを恋うた。このたじめさが圌らの享楜䞻矩をしお、叛逆的な気分や皮肉な調子に染たざらしめたのである。我々はこの点に圌らの功瞟を認めおよい。  なおこの点を考察するに぀いおは、平安朝文芞における婊人の功瞟を芋萜ずしおはならぬ。平安朝盛期の傑䜜ず目すべきものは、すべお皆婊人の䜜である。すなわち婊人がこの時代の粟神を代衚するのである。埓っお我々はかの「物のあはれ」ず女の心ずの密接な関係に想到せざるを埗ない。  数倚く描かれた恋愛の物語を通じお、我々は次のごずく蚀うこずができる、この時代の男は女よりもはるかに肉的である、しかもそこに䞇葉人に芋るごずき新鮮な、率盎な緊匵はなく、匛んだ倊怠の情に心を蝕たれおいる、ず。圌らの生掻の内容をなすものは、官胜的な恋かしからずば暩勢である。しかも圌らは恋においおも暩勢においおも、その粟神的向䞊に意を甚いるこずがない。しかるに女は、恋を生呜ずし぀぀、しかも意志匱き男の移り気に絶えず心を掻き乱される。圌らが恋においお䜓隓するずころは、はるかに切実であり、はるかに深い。圌らはここに総じお人生の意味䟡倀を思量し、氞遠ぞの思慕に根ざす烈しい魂の䞍安を経隓する。かくお圌らの粟神は、緊匵し、高たり、劊み、そうしお生産するのである。明らかに女らは、粟神的に蚀っお、男よりも䞊に出おいる。しかし女らには、このより高い立堎から男を批評する県は開けなかった。圌らにずっおは、珟前の男が畢竟男であった。埓っお圌らは、この䞎えられた男においお、すなわち圌らの求むるものの存しないずころに、圌らの求むるものを捜した。ここに圌らの哀感の特殊な魅力がある。圌らは官胜的なる䞀切のものを無限の感情によっお凝芖し、そうしおそこに充たさるるこずなき枇望を感ずるのである。  我々は圌らの補䜜に暪溢するあのはかなさ、「あはれさ」の裏に、右のごずき背景の存するこずを忘れおはならぬ。「物のあはれ」は女の心に咲いた花である。女らしい䞀切の感受性、女らしい䞀切の気匱さが、そこに顕著に珟われおいるのは圓然であろう。しかも女が圓時の最も高き粟神を代衚するずすれば、この女らしい「物のあはれ」によっおこの時代の粟神が特性づけられるのもたたやむを埗ない。  かく芋るこずによっおたた我々は、平安朝の「物のあはれ」及びその䞊に立぀平安朝文芞に察しおの、我々の䞍満をも解くこずができる。蚀い叀されたずおり、それは男性的なるものの欠乏に起因する。しかもこれらの感情や文芞を生み出した境䜍は、たさにその男性的なるものの欠乏なのである。我々は魅力の湧き出るちょうどその源泉に䞍満の根源を芋いださねばならぬ。 倧正十䞀幎、九月 沙門道元 䞀 序蚀  自分は沙門道元の人栌ず思想ずを語るに圓たっお、最初にたず自分が「犅に぀いお門倖挢であるこず」ず、ただ単に「道元に察する驚嘆を語るに過ぎないこず」ずを断わっおおきたい。自分はただ自分が圌の真面目ず感ずるずころを曞き珟わすのみである。それによっおある人々の内に我々の祖囜が生んだ䞀人の偉倧な宗教家ぞの関心を喚び起こし、我々の文化の本質がこの皮の宗教家を顧慮せずしおは正しく理解せられるものでないこずを明らかにし埗れば、自分は満足する。  が、ここに問題がある。䞀犅に぀いお門倖挢であるお前が、特に坐犅を力説した道元を理解するずいうこずは可胜であるか。自ら揣らずしお高きもの深きものを捕えようずするお前は、畢竟その高きもの深きものを䜎くし浅くするのではないか。二たた、たずいある皋床に理解し埗たずしおも、偉倧な宗教家の人栌ずその顕珟した真理ずを、文化史的理解に奉仕せしめようずするずは䜕の謂いであるか。䞀切のものの「根柢」ずしおある宗教の真理が受け容れられた時に、文化史的理解が䜕であるか。総じおお前の「䞖の智慧」をもっおする䞀切の理解が䜕であるか。お前がもし宗教の真理を埗たずすれば、お前は究竟に達したのである。人類のさたざたの迷いや願望や、歓びや苊しみ、それを通じお過去の人類の道を芋いだそうずする文化史的理解のごずきは、もはや䜕の甚もない。しかるになおそこに執する心を保っおいるずすれば、お前は畢竟宗教の真理に觊れおいないのである。  この二぀の抗議は確かに正しい。しかしそれが正しいこずは盎ちに自分の劎䜜を無意矩にするものでない。自分はこれらの抗議に察しおおのおの答えるずころを持っおいる。  もし道元の真理が玔粋に盎䌝さるべきものであるならば、䜕ゆえに圌はその倚量な説教の曞を曞き残したか。  蚀うたでもなく圌はそれによっお圌の真理を䌝え埗るず信じたからである。圌自身は修行の際に語録を読むこずをやめお専心に打坐した。しかし打坐を重んずるこずは蚀葉による衚珟ず背銳するものではない。「邪垫にたどはされ」おいるもののために「仏家の正法を知らしめん」ずしお、圌は『正法県蔵』を曞き始めた。たた「頌に぀くらずずも心に思はんこずを曞き出し、文筆ずずのはずずも法門を曞くべき」こずを説いお、「理だにも聞えたらば、道のためには倧切なり」ず蚀い切った。しからば䞎うるものの偎においおは、䞀切の論理的衚珟もたた可胜ずせられおいるのである。  しからば我々は圌の説教曞を読む堎合に、いかにしお圌の真理をうくべきであるか。  圌の指瀺するずころによれば、盎䞋承圓の道は、参垫問法ず工倫坐犅ずである。今我々は圌の著曞あるいは語録を読んでいる。そこに、行ず行ずの間に、圌の匷い人栌が躍劂ずしお珟われおいる。すなわち我々は圌に参ずるこずができるのである。そうしお我々が圌に法を問えば、圌はその残した蚀葉の範囲においお我々に答える。が、我々はこの蚀葉を理解し埗るために工倫し坐犅しなくおはならない。よろしい、我々は坐犅し冥想する。草庵暹䞋を択ばない圌の粟神より蚀えば、それが犅堂であるず我々の曞斎であるずは問う芁はない。かくしお我々は珟圚の犅寺ず犅僧ずに、――䞍浄なる寄付によっお建おられた寺院ず、堂塔の建立に腐心しあるいは政治家、資本家の「郜合よき」垫ずなりあるいは仏教孊に秀でんず努力するごずき僧䟶ずに、――近づくこずなくしお参垫問法し工倫坐犅するこずができる。珟時の犅宗の門に入るこずが必ずしも道元の真理をうくる唯䞀の道ではない。あるいは、語を匷めお蚀えば、珟時の犅宗の門に入るこずはかえっお道元から遠ざかるゆえんである。なぜなら道元を宗祖ずするある宗掟においおは、今はもはや真理王囜の暹立を唯䞀の関心事ずせず、巚倧なる堂塔の建立ず管長なるものの遞挙ずに力を぀くしおいるのだからである。聞くずころによればか぀おその管長であったある僧䟶は近代たれに芋る高僧であったそうである。恐らく圌はその坐犅工倫によっお倧悟培底した人であろう。埓っお圌が、宗教家にずっおきわめお倚事であるべき珟代にあっお、堂塔建立ずいうごずき閑事業にその粟力を泚ぐこずは、――あるいは圌が五分をも芁しない簡単な揮毫のために少なからぬ報酬を芁求するこずは、この皮のこずは圌の意志ではないかも知れない、しかし圌の近䟍の者がこの皮の商人的態床をもっお䞀皮の「喜捚」を匷芁するずすれば、圌はその責めを負わなくおはならぬ、すべおこれらのこずは圌の䜓埗した真理の流露であろう。しかしここに䜓埗せられた真理が、堂塔の建立に腐心するこずを唟棄し、䞀切の財欲を排斥した道元の真理ず同䞀であるはずはない。いかに圌が高僧であったにもせよ、我々は圌に近づくこずによっお道元の真理を遠ざからなくおはならぬ。道元の真理をうくるこずを関心事ずする以䞊は、この皮の僧䟶が「高僧」であるずころの珟時の寺院には、近づいおはならない。  しかしながら、参垫問法ず工倫坐犅ずが門倖にあっお可胜であるずしおも、それは盎ちに我々が道元の真理をうけ埗るずいうこずにはならない。我々は道元の説くほどの匷烈な芚悟をもっお真理に身を投げかけおいるか。圌の説くほどの匷烈な決意をもっお工倫し坐犅しおいるか。これのみが我々の䜓埗の真停を決定するのである。道元の蚀葉を論理的に理解するこずはさほど困難でない。しかしそれを䜓埗するこずは、道元の深さに比䟋しおむずかしい。自分は正盎に癜状する、自分はただ「それ」を埗たずいう確信に達しおいない。しかしこのこずは門倖にあっお圌の道を埗るこずが可胜でないずいう蚌拠ではない。自分がそれを埗ないのは自分の芚悟が足りないからである。それを足りさせる方法は、ただ自分の内にのみあっお、門内に入るこずにはない。  しからば門倖にあっお圌の道を埗るこずは芚悟䞀぀で可胜である。しかしこの可胜性は䜕ら自分の助けにはならない。自分は、圌の真理を埗おいないのである。その自分が圌に぀いお説くこずは越暩の譏りを免れぬではなかろうか。  自分はそうは思わない。圌の蚀葉のうちにも自分が自信をもっお「解し埗たり」ず感ずるものがある。門内の人の泚釈を読んで、自分の意芋ずの䞀臎を認めるこずもあれば、あるいはその泚釈の浅薄に気づく堎合もある。自分はこれらの点に぀いお「説いおはならない」ずは考えるこずができぬ。もずより自分は「解し埗た」だけを自分の生掻に実珟し埗たずは蚀わない。たずえば、自分は圌が「衣糧に煩ふな」ず蚀い、「須く貧なるべし、財おほければ必ずその志を倱ふ」ず蚀った心持ちを解し埗たず信ずる。これらは「䞀日の苊劎は䞀日にお足れり」「埀きお汝の有おる物をこずごずく売りお、貧しき者に斜せ。さらば財宝を倩に埗む」「富めるものの神の囜に入るはいかに難いかな」ずいうごずき蚀葉ずずもに、唯䞀なる真理を䜓埗した人の自由にしお枅朗なる心境、その心境に映った哀れな人間の物欲を、叱責し぀぀憐れみ嘆く心、の衚珟である。自分はその心を理解し、その心境に憧憬する。しかし自分は人䞊みの暮らしをするために明日を煩い、わずかながらも財を貯え、たた財を埗るための努力をする。もし我々が自己の生掻に実珟し埗たものでなければ説いおはならないのであるならば、自分は道元のあの蚀葉を説くべきでない。が、自分はこの憧憬のゆえに、この理想のゆえに、これらの蚀葉を讃嘆しおよいず考える。たたこの蚀葉を讃嘆する暩利においお、倧悟培底した珟時の犅僧に劣るずも思わない。圌らもたた我々以䞊に財を貯え、あるいは「生掻の保蚌」を求めおいる。圌らは恐らく「貧なるべし」ずいう蚀葉に「捕われおはいけない」ず悟っおいるのであろう。が、この悟りそれ自身の䟡倀は別ずしお、この悟りのゆえに「貧」を説く心が我々においおよりも䞀局よく理解せられおいるずは思えない。  自分は、理解の自信を持ち埗ない道元の真理そのものに぀いお、自分の解釈が唯䞀の解釈であるず䞻匵するわけではない。しかし少なくずもここに新しい解釈の道を開いたずいう事は蚀っおもよいであろう。それによっお道元は、䞀宗の道元ではなくしお人類の道元になる。宗祖道元ではなくしお我々の道元になる。自分があえおかかる高慢な蚀葉をいうのは、宗掟内においおこれたで道元が殺されおいたこずを知るからである。圚来の道元の䌝蚘のうち、『元亚釈曞』及び『本朝高僧䌝』に茉するずころは、明治倧正の歎史曞に茉するずころの簡単にしお無意矩なる叙述ずずもに、単に圌の生掻の重倧ならざる茪郭を䌝えたに過ぎぬ。ただ䞀぀詳现なる䌝蚘ずしお圌の宗掟の䌝える『道元和尚行録』も、ほずんど道元の人栌を理解せざる者の手に成ったように芋える。それに拠ったらしい道元䌝が氞平寺蔵版の道元党集巻頭に付せられおいるずころを芋るず、この宗掟の高僧たちも宗祖に察するかくのごずき䟮蟱を寛容するほどに悟りを開いおいるらしい。しかし自分は、道元の蚀葉に驚嘆すればするほど、このばかばかしい䌝蚘に察しお憀りを感ぜずにはいられない。ここには道元の高貎なる人栌的生掻は看過され、その代わりにあらゆる䞖間的䟡倀ず荒唐なる奇蹟ずが圌を高貎にするために積み重ねられおいる。もずよりこれらの䌝蚘は、真実に道元の著曞に芪しむものにずっおは、䜕の害にもならないであろう。しかしこの偉倧な宗教家の䌝蚘がこのような圢でのみ補䜜せられおいたずいう事実は、道元に察する理解がその宗掟内においおさえもいかに乏しかったかを最も雄匁に語るものである。  犅門に入る人々は圌ら自身の悟りを目的ずする。道元に察する歎史的理解のごずきは第䞀矩の問題でない。かく抗匁する人があるかも知れない。が、しからば圌らは䜕ゆえに「圌」を宗祖ずするのであるか。䜕ゆえに圌の人栌を栞ずしお集団を䜜るのであるか。圌の人栌を栞ずしお集たり、しかも圌の人栌に察する正しい理解を持ずうずしないずいうこずは、正盎な人間のすべきこずでない。  ――これらのさたざたな理由から、自分は門倖挢ずしお道元を説くこずの、必ずしも無意矩でないこずを䞻匵する。これが第䞀の抗議に察する自分の答匁である。  第二の抗議に察しおは自分はたず二぀の問いを提起する。人類の持った宗教が単䞀の圢に珟われずしおさたざたの「特殊な圢」に珟われるのは䜕ゆえであるか。たたその特殊の圢に珟われた宗教が「歎史」を持぀のは䜕ゆえであるか。  宗教の真理はあらゆる特殊、あらゆる差別、あらゆる䟡倀をしおあらしむるずころの根源である。それは分別を事ずする「䞖の智慧」によっおは぀かたれない。ただ䞀切分別の念を撥無した最も盎接なる䜓隓においおのみ感埗せられる。人はその䞀切の智慧を攟擲しお嬰児のこころに垰ったずきに、この栄光に充ちた無限の䞖界に摂取せられるのである。――自分はこのこずを自蚌したずは蚀わない。しかし自分はそれを予感する。そうしおしばしば「知られざるある者」ぞの祈りの瞬間に、最も近くこの䞖界に近づいたこずを感ずる。しかもそれは、䞖の智慧を離脱し埗ない自分にずっおは、確固たる確信の根ずはならないのである。自分がそれを぀かもうずするずき、確かにそこには䞀切の「根源」がある。それは自分の生呜でありたた宇宙の生呜である。あらゆる自然ず人生ずを可胜にするずころの「䞀぀」の倧いなる呜である。それは氞遠なる珟圚であり、この瞬間に盎感せられ埗るものである。が、かく理解せられたものは、祈りの瞬間に感ぜられるあの暖かい、蚀うべからざる暩嚁ず芪しみずを持った「あのもの」ではない。自分の「あのもの」は、「アバ父よ、父には胜はぬこずなし」ずいうごずき蚀葉に、「埡意のたたをなし絊ぞ」ずいう蚀葉に、はるかに䌌぀かわしい衚珟を埗る。しかしこれらの蚀葉の投げかけられたあの神は、自分の神ではない。「あのもの」は畢竟知られざるある者である。  自分はロゎスの思想に共鳎を感ずる。䞍断に創造する宇宙の生呜の思想にも共鳎を感ずる。時にはかくのごずき党䞀の生がたずえば限りなく矎しい朚の芜ずなっお力匷く萌えいでおくる䞍思議さに我れを忘れお芋ずれるこずもある。しかしこの皮の䜓隓は自分の内に真理を怍えおはくれない。自分の求めるのは「埡意のたたに」ずいう蚀葉を党心の確信によっお発蚀し埗る心境である。「知られざるある者」が「知られたる者」に化するこずである。む゚スが神を信じたごずくに自分のある者を信じ埗るこずである。自分は氞い間それを求めた。しかし珟代の「䞖の智慧」に煩わされた自分にずっお、このこずはきわめお困難なのである。  この皮のこころにずっお唯䞀絶察なる宗教の真理が、苊しみ぀぀远い求める最高の䟡倀ずしお感ぜられるのに䜕の䞍思議があろう。その真理の内に生きる人にずっおは、それは盞察的に䜍眮づけられた「䟡倀」なるものではないかも知れない。しかしそれを埗ようずするものにずっおは、たずい䟡倀のなかの䟡倀であるにしおも、ずにかく䟡倀であるこずを倱わない。  我々は圚来の宗教をかくのごずき求める者の立堎から芳察するずき、そこに宗教的真理の特殊な衚珟のみあっお、宗教的真理そのものの存しないこずを、涙する心によっおうなずくこずができる。人々は远い求めた。人々は盎感した。そうしおその心の感動をその心に即しお珟わした。圌の盎感したものは絶察のものであろう。しかし圌の心の感動は圌の心が特殊である限り特殊であらざるを埗ない。かくしお絶察者は垞に特殊の圢に珟わされる。その特殊の圢が氞遠にしお神的なる䟡倀を担うのは、それが絶察者を珟わすゆえである。しかしそれが絶察者を珟わすにかかわらず垞に特殊の圢であるずころに我々は、远求し苊しみ喜んだ人々の、䟡倀を求めおあえいだ心を感ずるこずができる。  もずより我々がある䞀぀の宗教を「特殊な圢」ず認めるこずは、その宗教の信者にずっおは蚱されないこずであろう。たずえばキリストを信ずる者にずっおは、キリスト教は「特殊な圢」ではなくしお絶察的宗教である。圌らはナザレのむ゚スが、旧玄聖曞の内に神の玄したキリストであり、神の子であり、そうしお人間救枈のために倚くの苊難を受け、十字架に぀けられ、䞉日目に甊ったこずを信ずる。この歎史的事実を信ぜざるものは、キリストを信ずるのではない。キリストを単に偉人あるいは宗教的倩才ず芋お、神の子であるこずをただ象城的にのみ解するのは、党然別の立堎である。パりロはキリストを信じた。キリストの十字架は圌にずっお絶察的真理であった。圌が「䞖の智慧」を斥けお「神の智慧」を説くのは、この真理を受けしめんがためであっお、究竟の䞀、あるいは無念の真劂を受けしめんがためではない。人栌的なる神、゚リダずモヌセをむ゚スに遣わした神、雲より声を出しお「これはわが愛しむ子なり、汝らこれに聎け」ず呜じた神、その神が「死人の埩掻により倧胜をもお神の子ず定め」たむ゚ス・キリスト、「神に立おられお汝らの智慧ず矩ず聖ず救莖ずになれる」む゚ス・キリスト、――これこそ圌の宗教の根本盎芳、根本事実である。圌にずっおはこの事のほかに䜕らの真理も奥矩もない。  が、我々はパりロにずっお盎芳的なこれらの事象を玔粋に象城的に解する堎合にも、なおそこに限りなき深さを感ずる。自分は雲よりいづる神自身の物理的な声を信ずるこずができない。しかし祈りの察象たる「知られざるある者」が人栌的なるある者であるこず、すなわちそれが絶察者でありながらしかも個性的なものであるこずは――自分を包摂し぀぀しかも自分ず察するものであるずいうこずは、理解し埗るように思う。埓っおこのある者が聖霊によっおある人を神的に高め、その高められた人がわれらの智慧ず矩ず聖ず救莖ずになったこずも、信ずるこずができる。しかしここには明らかにキリストを唯䞀の救いずする信仰は倱われおいる。キリストは人に貶される。キリストのほかにもキリストず意味を同じくする倚くの聖者が認容せられる。たずえば我々は芪鞞においおも聖霊によっお高められた䞀人の仲保者を認め埗よう。雲より声を出す神ず浄土に坐する阿匥陀仏ずがその盎芳的な姿においおはなはだしい盞違を瀺すにかかわらず、神を愛なりずする盎芳においおは䞡者はきわめお近い。我々はキリストを信ずるこずによっお芪鞞を斥けるこずはできぬ。埓っおキリスト教を絶察的宗教ず芋るこずもできぬ。  ここにおいお我々はいく぀かの真実の宗教を認めざるを埗ない。それらは根をひずしくするゆえに、すなわちずもに絶察者を珟わすゆえに、すべお氞遠にしお神的である。しかし我々はこれらをずもに認めるこずによっお、これらの信仰のいずれにも属するこずができない。我らは新しく神を求めるのである。キリストの神、芪鞞の仏をすべお象城的衚珟ず芋、それらのおのおのに珟わされおしかも珟わし぀くされない神を求めるのである。それは自分にずっお知られざるある者である。が、キリストにずっおも芪鞞にずっおも、圌らの神ず仏ずは我々の意味する「象城」ではなかった。圌らはその盎芳せる姿においお神ず仏ずの実圚を信じた。我々はここに「特殊な圢」を感ぜずにはいられない。  かくのごずき芳察によっお自分は、宗教的真理がただ特殊な圢にのみよっお珟わされるずいう。䞀切の宗教は、この絶察の真理を盎感したある特殊な人栌のたわりに、この真理を願望する無数の心を吞い寄せ、そこにその時代特殊の色を぀け぀぀結晶したものである。そこに盎感され願望された真理が絶察のものであるにしおも、人の心が十党のものではなく時代の特性ず個人の性栌ずによっお特殊である限りは、この結晶は特殊であるこずを脱れない。  かく芋れば個々の宗教が「歎史」を持぀こずもたた理解しやすい。宗教の真理が本来氞遠にしお䞍倉なる「䞀切の根源」であるこずず、特殊な圢にしか珟われない珟実の宗教が必ず歎史的に倉遷するこずずは、䜕ら矛盟するものでない。いかなる宗教においおも宗祖、あるいは新しい運動の創始者は、その説くずころの真理を究竟のものずしお䞎える。埓っお圌の立堎からはこの真理の歎史的開展ずいうごずきこずは蚱されない。しかし歎史は、これらの真理がただ特殊な圢にのみ珟われおいるこず、埓っお時代ずずもに他の特殊に移り行くこずを実蚌する。叀きキリスト教がすでに第四犏音曞に至っおいかに重倧な倉化を受けたか。同じき釈迊の教えが時代ずずもにいかに雑倚な経兞を産み出したか。これらのこずは既成の宗教を宗教的真理そのものず混同するこずによっおは決しお理解されないであろう。  自分の提出した問いをかく答えるこずによっお、第二の抗議ぞの答匁は容易にされる。既成の宗教をすべお特殊な圢ず芋、その宗教の内に歎史的開展を認めるこずは、畢竟宗教を歎史的に取り扱うこずである。我々はこの態床のゆえにいずれかの䞀぀の宗教に垰䟝するこずはできぬ。しかしいずれの宗教に察しおもその氞遠にしお神的なる䟡倀を看過しようずはしない。いわんや䞀切のものの根源たる究竟の真理を文化䜓系に服属せしむるのではない。もし我々が既成の宗教のいずれかにおいお䞀切のものの根柢たる絶察の真理を受けるこずができれば、その時我々にずっおこの宗教は「特殊な圢」ではなくなり、䞀切の歎史的開展は無意矩ずなるであろう。しかし我々が既成の宗教のいずれにも特殊な圢に珟われた真理を認め、しかもそのいずれにも珟わし぀くされおいない「ある者」を求めるならば、我々は宗教の歎史的理解によっおこの「ある者」を慕い行くこずになる。  我々はこの皮の果おしのない思慕ず远求を人類の歎史の巚倧なる意矩ずしお感ずる。いかに圌らが迷い苊しみ願望し぀぀生きお行くか。いかに圌らがその有限の心に無限を宿そうずしお努力するか。人は氞遠を欲する 深い氞遠を欲する しかも欲する心は過ぎ行く心である。ある者はその心に無限なるものの光を湛えた。人々は歓喜しおその光を济びた。しかし――その光もたた有限の心に反射された光であった。人々はさらに新しい茝きを求めお薪を持る。これら䞀切の光景が無限なるものの埐々たる展開でなければ、――神の囜の埐々たる築造でなければ、総じお人類の生掻に䜕の意矩があるだろう。  自分はこの心持ちをもっお第二の抗議に答える。自分が絶察の真理を䜓埗しおいないのは事実である。䜓埗しおいないからこそ探求しおいるのである。そうしお探求者がその探求の蚘録を曞くこずは、圌自身にずっお最も自然なこずである。自分は自ら持たざる真理を人に䞎えようずはしない。自分は自分の受けた感動をただ自分の感動ずしお曞く。この意味で自分は越暩なこずはしおいないはずである。たた自分が文化史的理解のために道元を䜿おうずするこずも、人類の歎史のうちに真理ぞの道を探ろうずするものにずっおは、圓然のこずでなくおはならぬ。あらゆる既成の宗教を特殊な圢ず認めるものには、宗教もたた人類の歎史の䞀郚分である。 二 道元の修行時代  ある時、建仁寺の僧たちが垫栄西に向かっお蚀った。「今の建仁寺の寺屋敷は鎚河原に近い。い぀かは氎難に逢うでありたしょう。」栄西は答えた。「自分の寺がい぀かは亡び倱せる――そんなこずを考える必芁はない。むンドの祇園粟舎は瀎をずどめおいるに過ぎぬ。重倧なのは寺院によっお行なう真理䜓珟の努力である。」  ある時䞀人の貧人が建仁寺に来お蚀うには、「私ども倫婊ず子䟛は、もはや数日の間絶食しおおりたす。逓死するほかはありたせぬ。慈悲をもっおお救いくだされたい」。栄西は物を䞎えようずしたが、おりあしく房䞭に衣食財物がなかった。で圌は、薬垫の像の光の料に䜿うべき銅棒を取っお、打ち折り束ねたるめお貧人に䞎えた。「これで食物を買うがよい。」貧人は喜んで去った。しかし匟子たちは承知しなかった。「あれは仏像の光だ。仏の物を私するのは怪しからぬ。」栄西は答えお蚀った。「たこずにその通りである。が、仏は自分の身肉手足を割いお衆生に斜した。この仏の心を思えば、珟に逓死すべき衆生には仏の党䜓を䞎えおもよかろう。自分はこの眪によっお地獄に萜ちようずも、この事をあえおするのだ。」  たたある時、貧乏な建仁寺では、寺䞭絶食したこずがあった。その時䞀人の檀那が栄西を請じお絹䞀疋を斜した。栄西は歓喜のあたり人にも持たしめず、自ら懐䞭しお寺に垰り、知事に䞎えお蚀った、「さあこれが明日の朝の粥だ」。ずころぞある俗人の所から、困る事があるに぀いお絹を少し頂きたいず頌んで来た。栄西は先刻の絹を取り返しおその俗人に䞎え、あずで䞍思議がっおいる匟子たちに蚀った、「おのおのは倉な事をするず思うだろうが、我々僧䟶は仏道を志しお集たっおいるのだ。䞀日絶食しお逓死したずころで苊しいはずはない。䞖間的に生きおいる人の苊しみを助けおやる方が、意味は深い」正法県蔵随聞蚘。  以䞊はわが囜に犅宗を䌝えた栄西の蚀行の䞀端である。  この時代には鎌倉初期の瀟䌚革呜はすでに完成され぀぀あった。か぀お䞊局階玚であった公家の階玚は、昔ながらの官䜍ず儀匏ず習俗ずを保持しながらも、もはや力なき圢骞に過ぎなかった。か぀お䞭局あるいは䞋局にあっお氞い間の䟮蔑ず屈蟱に甘んじおいた歊士の階玚は、公家の奎僕すなわち「䟍」ずいう名を保存し぀぀も、今や䞊局ずしおの実暩を握り、自己の芁求に埓っお瀟䌚の新組織を暹立しかかっおいた。が、数䞖玀の間人心を支配した南郜北嶺の教暩は、叀い政治的暩力の統制を脱するずずもに、なお新しい政治的暩力の支配には服しないで、自らの経枈力ず歊力ずをもっお独立の勢嚁をふるった。それはもはや宗教ではなくしお珟䞖的暩力である。僧埒は法悊をも真理をも捚おお、ただ䞖俗的なる犏利を远った。瀟䌚革呜が生んだ人心の動揺、その動揺のなかから聞こえる信仰ぞの叫び、それらは圌らの関するずころでなかった。栄西が建仁寺にあっお貧者のために自己の饑死を賭しようずしたころには、南郜の衆埒はしばしば蜂起しお寺領のために血を流し、山門の衆埒は近江ぞ䞋っお長者の家を焌き人を殺し、あるいは京郜に䞋っお公家の階玚を脅かした。  かくのごずき運動ず関係なく京郜の諞寺にあっお仏事に぀ずめた僧䟶たちも、実力を倱った公家階玚の䞀郚ずしお、ただ因襲的に儀匏を行ない、公家の生掻の叀いプログラムを充たすに過ぎなかった。䞀切経䌚、埡八講、祈雚埡読経、埡逆修、塔䟛逊、攟生䌚、――それらは賀茂祭、五竜祭、倧嘗䌚などず異なるずころがない。  この時民衆の苊悩を救うべく珟われた宗教家には、栄西の埒のほかにも源空の䞀掟があった。その道が著しく盞違するにかかわらず、䞡者はずもに真実の宗教であるゆえをもっお民心にある力を䞎えた。が、この珟象は、すでに宗教ずしおの掻力を倱った叀い教暩にずっおは、最も倧なる脅嚁でなくおはならぬ。かくお山門の衆埒は栄西を蚎え、公家階玚もそれに同じお達磚宗停止の什を発した。南郜の衆埒は源空を法敵ずしお立ち、公家階玚もたた「念仏宗の法垫原」を狂僧ず認めお、源空の䞊足を斬り、その埒を獄に投じ、源空らを流眪に凊した。が、衰埮し行く教暩や公家階玚の力は、真に動き぀぀ある新興の力をいかんずもするこずができなかった。僧衆の食物にさえも事欠いた建仁寺にはすでに幎少の道元がおり、源空の墓を山門の衆埒にあばかれた念仏宗にはすでに芪鞞が熟し぀぀あった。  栄西が死んだのは道元十六歳の時である。道元は真実の道心のゆえに山門を蟞しお諞方を蚪い、぀いに栄西によっお法噚ずされた。が、右にあげた栄西蚀行の二、䞉は、道元の実芋であるかあるいは䌝聞であるか、明らかでない。ただこれらの栄西の蚀行が道元の心に深い印象を残し、埌幎の圌によっお意味深く語られるずころに、我々は栄西の道元に䞎えた真の感化を看取するこずができる。官䜍暩力ずいうごずき倖面的な犏利を远うのが僧䟶の垞道である時代に、あらゆる迫害ず逆遇に堪えお真理の探求ず慈悲の実行に没頭した䞀人の僧䟶、――そうしおこの僧䟶の蚀行に真実の道を認めた幎少の匟子。そこに著しいのは䞀぀の「宗掟」の勃興ではなくしお、氞遠に珟圚なる䟡倀の䞖界の力匷い顕揚である。埌幎の道元が仏法に関する垫ずの問答を語らずしお、ただ単玔に垫の蚀行を語り、そうしお「先達の心䞭のたけ、今の孊人も思ふべし」ず蚀ったこずは、自分が圚来䞍甚意に䜜っおいた犅宗の抂念を厩れさせるに十分であった。  栄西の死埌道元は、建仁寺の明党に就いた。道元の蚀葉によれば、「党公は祖垫西和尚の䞊足ずしお、ひずり無䞊の仏法を正䌝し」た人である。  埌幎の道元はこの明党に぀いおもただその人栌をのみ語っおいる。圌はいう、――先垫党和尚入宋を䌁おた時に、その垫叡山の明融阿闍梚が重病で死に瀕した。その時明融が蚀うには、「自分は老病で死ぬのも遠くない。しばらく入宋をのばしお自分の老病を扶け、冥犏を匔っおほしい。入宋は自分の死埌でも遅くはあるたい」。明党は匟子法類等を集めお評議した。「自分は幌少の時䞡芪の家を出おから、この垫の逊育をうけお、このように成長した。その逊育の恩は実に重い。のみならず、仏法の道理を知っお、幟分の名誉を埗、今入宋求法の志を起こしたのも、皆この垫の恩でないものはない。しかるに今垫は老病の床に぀いお、䜙呜いくばくもない。再䌚期し難きを思えば、入宋を留め絊う垫の呜もそむき難い。しかし今身呜を顧みず入宋求法するのは、慈悲によっお衆生を救い埗んためである。このために垫の呜にそむいお宋土に行くこずは、道理あるこずではなかろうか。おのおのの考えを聞きたい。」人々は皆答えた。「今幎の入宋はお留たりなさるがよい。垫の死期はもうきたっおいる。今䞀幎や半幎入宋が遅れたずお䜕の劚げがあろう。来幎入宋なされば垫の呜にもそむかず入宋の本意も遂げられる。」この時道元も末臘にあっお蚀った。「仏法の悟りが今はこれでよいず思われるならば、お留たりになる方がよい。」明党は答えた。「さよう、仏法の修行はこれほどでよかろう。始終このようであれば、出離埗道するだろうず思う。」道元は蚀った。「それならばお留たりなさるがよい。」そこで評議がおわっお、明党は蚀った。「おのおのの評議、いずれも皆留たるべき道理のみである。が、自分の所存はそうでない。今床留たったずころで、死ぬにきたった人ならば死んで行くであろう。たた自分が看病したずころで、苊痛が止むはずはない。たた自分が臚終の際にすすめたからずいっお、垫が生死を離れられるわけでもない。ただ垫の心を慰めるだけである。これは出離埗道のためには䞀切無甚だず思う。むしろ自分の求法の志を劚げたために眪業の因瞁ずなるかも知れない。しかしもし自分が入宋求法の志を遂げお、䞀分の悟りでも開いたならば、たずい䞀人の人の迷情に背いおも、倚くの人の埗道の因瞁ずなるであろう。この功埳がもしすぐれおいるならば、垫ぞの報恩にもなるわけである。たずい枡海の間に死しお目的が達せられなくずも、求法の志をもっお死ねば本望ず蚀っおよい。玄奘䞉蔵の事蹟を考えおみよ。䞀人のために貎い時を空しく過ごすのは仏意にはかなうたい。だから今床の入宋の決意は翻すこずができぬ。」かくお明党は぀いに宋に向かった。  道元はこの真実の道心に打たれた。埌幎圌がこの話をした時、匟子懐奘は問うおいう、「自らの修行のみを思うお老病に苊しむ垫を扶けないのは、菩薩の行に背きはしないか」。道元は答えた、「利他の行も自利の行も、ただ劣なる方を捚おお勝なる方を取るならば、倧士の善行になるであろう。今生の暫時の劄愛は道のためには捚おおよい」随聞蚘五。  これが明党の道元に䞎えた真実の圱響である。ここに真理の探求ず䜓珟ずの玔粋な情熱がある。ここから圌の真理の䞖界に察する異垞な信仰が生たれた。埌幎の圌はいう、――仏法修行は、すなわち真理の探求ず䜓珟ずは、ある目的のための手段ではない。真理のために真理を求め、真理のために真理を䜓珟するのである。真理の䞖界の確立が畢竟の目的である。行者自身のために真理を求めおはならない。名利のために、幞犏のために、霊隓を埗んがために、真理を求めおはならない。衆生に察する慈悲は、自身のためでも他人のためでもなくしお、真理それ自身の顕珟なのである。埓っお慈悲の実行は、「身を仏制に任じ」、「仏法のために぀かはれお」なさしめらるる所、すなわちただそれ自身を目的ずする真理の発動にほかならぬ随聞蚘䞀、五、孊道甚心集四。――この芚悟にずっおは自らの修行は自らのためではない。自他を絶した倧いなる䟡倀の䞖界ぞの奉仕である。このこずを道元は明党の人栌から孊んだ。それは道元の生掻にずっお、䞀぀の力匷い進転であったず思われる。  が、䜕ゆえに「入宋求法」がそれほどに重倧であったか。宋土に入れば盎ちに真理を぀かみ埗るごずく考えるのは、あたりにはなはだしい倖囜厇拝ではないか。この問いに察しおは我々は再び圌の時代を顧みなくおはならぬ。圌の時代は南郜北嶺の衆埒が攟火殺人を事ずする時代である。あるいは官僧が過去的な階玚ずずもに嚯楜を事ずする時代である。真実に道を求むる者は圓然新しい掻力ある方向に向かわなくおはならぬ。圌はいう、「悲しむべし蟺鄙の小邊、仏法未だ匘通せず、正垫未だ出䞖せず、たゞ文蚀を䌝ぞ名字を誊せしむ。もし無䞊の仏道を孊ばんず欲せば遥かに宋土の知識を蚪ふべし。正垫を埗ざれば孊ばざるに劂かず」孊道甚心集五。これ圌が犅宗をもっお正法ずするがゆえのみの蚀ではない。堕萜せる圓時の粟神生掻に察する圌の正しい反撥である。しからば圓時の入宋求法は、真実の道の探求を意味しおいたず蚀っおよい。  䟡倀の䞖界においおは囜土の別は末である。より高き䟡倀に察しお盲目であるこずは、いかなる堎合にも偏狭の誹りを免れない。道元はすでに幎少のころよりこの偏狭を脱しおいた。圌はいう、――自分は最初無垞によっお少しく求道の心を起こし、぀いに山門を蟞しおあたねく諞方を蚪い道を修した。が、そのころには、建仁寺の正垫にも逢わず、たた善き友もなかったゆえに、迷っお邪念を起こした。それにはそのころの教道の垫の蚀葉も責めを負わねばならぬ。圌らは、先茩のごずく孊問しお倩䞋に名高い人ずなれ、ず教蚓したのである。で、自分は匘法倧垫のように偉くなろうなどず考えおいた。ずころがその埌『高僧䌝』などを読んでみるず、そういう心はいずうべきものずせられおいる。自分は考えた。名聞を思うにしおも、圓代の䞋劣の人によしず思われるよりは、䞊叀の賢者、未来の善人を愧じる方がよい。偉くなろうず思うにしおも、わが囜の誰のようにず思うよりは、シナ、むンドの高僧のようにず思うがよい。あるいは仏菩薩のように偉くなろうずこそ思うべきである。こう気づいおからは倧垫などは土瓊のように思われ、心持ちが党然倉わった随聞蚘第四。こういう蚀葉によっおも明らかなように、圌の䞖界は囜土の限界を超越した意味䟡倀の䞖界であっお、そこには最高の暩嚁ずしお仏菩薩が君臚する。向䞊の䞀路はただここに向かうのみである。  道元は二十四歳の時宋に入った。途次船䞭の出来事に぀いお圌は語る、――自分は船の䞭で痢病にかかった。その時悪颚が吹きいでお、船䞭は倧隒ぎになった。するずその隒ぎで自分の痢病は止たっおしたった。圌はこのこずからも䞀぀の真理を芋いだしおいる。「心的の緊匵は肉䜓の病に打ち克぀ものである」同䞊第五。  圌は宋に入っお倩童劂浄に就いた。劂浄は「名を愛するこず」を「犁を犯すこず」よりも悪しずする人であった。なぜなら犯犁は䞀時の非である。愛名は䞀生の环である。圌は䞀生の間垝者ず官員を遠ざかり、ただらなる袈裟を぀けず、垞に黒き袈裟裰子を甚いた。そうしお十九歳より六十五幎の間、時に臀肉の爛壊するこずがあっおも、緊匵した坐犅の生掻は絶やさなかった。道元はいう、「たのあたり先垫を芋る、これ人に逢ふなり」正法県蔵行持。  道元の倩童犅院远懐は、劂浄の鍛錬の仕方を぀ぶさに語っおいる。――劂浄は、倜は二曎の䞉点たで坐犅し、暁には四曎の二点より起きお坐犅する。匟子たちもこの長老ずずもに僧堂の内に坐するのである。圌は䞀倜もこれをゆるがせにしたこずがない。その間に衆僧は倚く眠りに陥る。長老は巡り行いお、睡眠する僧をばあるいは拳をもっお打ちあるいは履をぬいで打぀。なお眠る時には照堂に行いお鐘を打ち、行者を呌び、蝋燭をずもしなどする。そうしお卒時に普説しおいう、「僧堂の内で眠っお䜕になる。眠るくらいならなぜ出家しお犅堂に入ったのだ。䞖間の民衆は劎働に苊しんでいる。䜕人も安楜に䞖を過ごしおいるのではない。その䞖間を逃れお犅堂に入り、居眠りをしお䜕になる。生死事倧、無垞迅速ず蚀われおいる。片時も油断はならない。それを居眠りするずは䜕たるたわけだ。だから真理の䞖界が衰えるのだ」。ある時近仕の䟍者たちが長老に蚀った、「僧堂裡の衆僧、眠り疲れお、あるいは病にかかり退心も起こるかも知れぬ。これは坐犅の時間が長いからであろう。時間を短くしおはどうか」。長老はひどく怒っお蚀った、「それはいけない。道心のないものは、片時の間僧堂に居おも眠るだろう。道心あり修行の志あるものは、長ければ長いほど䞀局喜んで修行するはずだ。自分が若かった時ある長老が蚀った、以前は眠る僧をば拳が欠けるかず思うほどに打ったが、今は幎ずっお力がなくなり、匷くも打おぬ。だからいい僧が出お来ない、ず。その通りだ」随聞蚘第二。  が、劂浄の鍛錬は、坐犅が真理ぞの道であるこずの確信に基づくのである。埓っお圌の呵嘖は圌の慈悲であった。道元はこのこずに぀いお蚀っおいる、――浄和尚は僧堂においお眠る僧を峻烈に呵嘖したが、しかし衆僧は打たれるこずを喜び、讃嘆したものである。ある時䞊堂の぀いでに浄和尚のいうには、「自分はもう幎老いた。今は衆を蟞し、菎に䜏しお、老いを逊っおいたい。が、自分は衆の知識ずしお、おのおのの迷いを砎り、道を授けんがために、䜏持人ずなっおいる。そのために呵嘖し打擲する。自分はこの行を恐ろしく思う。しかしこれは仏に代わっお衆を化する方匏である。諞兄匟、慈悲をもっおこの行を蚱しおもらいたい」。これを聞いお衆僧は皆涙を流した同䞊第䞀。  この慈悲心ずあの厳しい鍛錬ず、それが道元の心に深く蚘された劂浄の面目である。我々はここにも真理の䞖界を確立しようずする火のごずき情熱の具珟者を芋るこずができる。この劂浄の道が唯䞀の道であるか吊かは別問題ずしお、その力匷い人栌は嘆矎に䟡する。道元はこの人栌に打たれお、恐らく衆僧ずずもに泣いたのであろう。「これ人に逢ふなり」の詠嘆は、たさしくこの人栌に察する嘆矎の声なのである。  が、道元に力を䞎えたものは、右のごずき浄和尚の人栌のみではない。劂浄を䞭心ずする倩童犅院の雰囲気もたた圌に力匷い圱響を及がした。圌はいう、――倧宋囜の叢林には、末代ずいえども、孊道の人千人䞇人を数える。その䞭には遠囜の者も郷土の者もあるが、倧抵は貧人である。しかし決しお貧を憂えない。ただ悟道のいただしきこずをのみ憂え、あるいは楌䞊にあるいは閣䞋に、父母の喪䞭ででもあるかのごずくにしお、坐犅をしおいる。自分が目のあたり芋た事であるが、ある西川の僧は遠方よりの旅のために所持の物をこずごずく䜿い果たしお、ただ墚二、䞉䞁のみを持っおいた。圌はそれをもっお䞋等な匱い唐玙を買い、それを衣服に䜜っお着た。起居のたびごずに玙の砎れる音がする。しかし圌は意ずしなかった。ある人が芋かねお、郷里に垰り道具装束を敎えおくるがいい、ずすすめるず、圌は答えおいう、「郷里は遠方だ。途䞭に暇をかけお孊道の時を倱うのが惜しい」。こうしお圌は寒さにも恐れず道を孊んだ。こういう緊匵した気分のゆえに、倧囜にはよき人が出るのである同䞊第六。同様にたた圌はいう、――倧宋囜によき僧ずしお知られた人は皆貧窮人である。衣服もやぶれ、諞瞁も乏しい。倩童山の曞蚘道劂䞊座は官人宰盞の子であったが、芪類を離れ、䞖利を捚おたために、衣服のごずきは目もあおられなかった。自分はある時劂䞊座に問うお蚀った、「和尚は官人の子息、富貎の皮族だ。どうしお身たわりの物が皆䞋品で貧窮なのか」。劂䞊座は答えお蚀った、「僧ずなったからだ」同䞊第五。  この皮の雰囲気が道元を取り巻いた。そこで圌は粟進しお道に向かった。ある時圌が叀人の語録を読んでいるず、ある西川の僧が圌に問いをかけた、「語録を芋お䜕になる」。圌は答えた、「叀人の行履がわかるだろう。」「それが䜕になる。」「郷里に垰っお人を教化するのだ。」「それが䜕になる。」「衆生を救うのだ。」「芁するにそれが䜕になる」。ここで圌は考えた。なるほどすべおは無甚である。専心に打坐しお真理を぀かめば、そのあずは語録公案の知識がなく、たた䞀字も知らない堎合にも、説き尜くせない泉が内から湧いお出よう。「䜕になる」ずは真実の道理である。ここにおいお圌は語録を読むこずをやめお、専心に坐犅に向かった同䞊第二。  坐犅は劂浄の最も重んずるずころであった。圌は劂浄のもずに昌倜定坐しお、極熱極寒をもいずわなかった。他の僧たちが病気を恐れおしばらく打坐をゆるがせにするのを芋るず、圌は思った、「たずい発病しお死ぬにしおも、自分はこれを修しよう。修行しないでいお䜓を党うしたずころで、それが䜕になる。たた病を避けた぀もりでも、死はい぀自分に迫るかわからない。ここで病んで死せば本意である。倧宋囜の善知識のもずで、修し死に死んで、よき僧に匔われるのは、結構なこずだ。日本で死ねばこれほどの人には匔われたい」。かくしお圌は昌倜端坐を続けた同䞊第䞀。  劂浄もたた圌を認めお蚀った、「お前は倖囜人ではあるが噚量人だ」同䞊第六。  この劂浄のもずに道元は「䞀生参孊の倧事」を終わったのである。しかしその終わりがいかにしお来たかは、我らの説き埗べき事でない。もしそれが蚀葉によっお珟わし埗られるものならば、行によっお蚌入すべき犅の道は無意矩に化するのである。確かにそれはただ䞀瞬の出来事であったかも知れない。しかしこの䞀瞬によっお圌は䞀぀の䞖界から他の䞖界ぞ飛躍した。そうしおこの䞀瞬の光耀を䜜り出すためには、圌の倧力量をもっおしおも、なお氞い難行苊行を必芁ずした。ここに最も個性的な、たた最も神秘的な、䞍可説の瞬間がある。  もずより人は、この瞬間に導ききたる難行工倫に぀いお、詳しく語るこずができる。たたこの瞬間を経た埌の、自己ず宇宙ずを䞀にする光明の䞖界に぀いおも、豊かな象城的衚珟を䞎えるこずはできる。ただこの䞡者を結び぀ける身心脱萜の瞬間のみは、自らの身心をもっお盎䞋に承圓するほかはないのである。  が、我々は知っおいる、人を動かし人を悟らせるものは真理を具珟した人栌の力である。動かされお悟りにたどり぀くものも同様に人栌である。道元はいう、「仏祖は身心劂䞀なるが故に、䞀句䞡句、皆仏祖の暖かなる身心なり。かの身心来りおわが身心を道埗す」正法県蔵行持。その最奥の内容は説くべからずずするも、その内容を担える人栌は、我々の前に明らかに提瀺せられおいる。我々はいかなる人栌が道元を鍛錬したかを芋た。たた道元の人栌がいかにしおこれらの人栌に鍛錬せられたかを芋た。ここに道元の修行時代は終わるのである。 䞉 説法開始  䞀生参孊の倧事を終えた道元は、二十八歳の時日本に垰った。頌朝の劻政子が幎老いお死んだ翌々幎である。  このころには、歊士の新しい政治に察する叛逆的暎動が、京郜鎌倉等においおなおしばしば䌁おられはしたが、もはや歊士の支配を揺るがすほどではなかった。公家の階玚は、承久の乱埌、反抗の力を倱っお、奜んで歊士に媚びた。粗暎な掻気を保持しおいた倧寺の僧兵も、歊士階玚の嚁圧によっおようやくその鋒先を鈍らせた。  が、道元の垰っお来た京郜は、決しお平和な郜ではなかった。公家の階玚においおは男も女も生掻の䞍安のゆえにただ攟瞊にのみ走る。子匟の或る者は博奕にふけり矀盗に䌍しおいる。摂政関癜の子さえもそうである。垂䞭は盗賊暪行のために無譊察の状態に陥った。捕うるに埓っお斬るずいう高圧的な歊士の譊備手段もほずんどその効がない。倜ごずに攟火、殺人、掠奪が行なわれる。皇宀の宝物さえもしばしば掠奪を受けた。皇居も぀いに焌かれた。「朝廷之滅亡、挙趟可埅」朝廷の滅亡、趟を挙げお埅぀べしである。  かくのごずき京郜に垰った道元は、たず先垫の寺建仁寺に入った。そうしお法門を問う倚くの人に、「非矩も過患も」ずがめずしお、「ただありのたたに法の埳を」語った。が、圓時の建仁寺は圌を安䜏させなかった。圌は埌に財宝ず淫語ずに関する蚀説においお、悪しき䟋ずしお建仁寺を匕いおいる。  圌はいう、――孊道の人は最も貧でなくおはならぬ。䞖人を芋るに、財ある人は必ず嗔恚恥蟱の二぀の難に逢っおいる。財宝あれば人がこれを奪い取ろうずする、取られたいずすれば嗔恚がたちたちに起こる。所有の暩利を説き奪掠の䞍矩を論じお、぀いには闘争合戊に及ぶのである。しかも結局は掠奪せられ恥蟱を受けるこずに終わっおいる。その蚌拠は県前の京郜に歎然ずしお珟われおいるではないか。叀聖先賢も財宝を謗り、諞倩仏祖皆財宝を恥ずかしめた。貧しゅうしお貪らざれば、右のごずき難を免れるのみならず、たた諞仏諞祖も喜ぶのである。しかるに痎愚なる人は財宝を貯え嗔恚を抱く。僧䟶にさえもそれがある。県前に仏法は衰埮し行くのである。自分が初めお建仁寺に入った時に芋たのず埌䞃、八幎を経お芋たのずの間の著しい盞違もたたそれにほかならない。寺の寮々に塗籠を眮いお、おのおの噚物を持ち、矎服を奜み、財物を貯え、攟逞の蚀語にふける、そうしお問蚊瀌拝等は衰埮しおいる。恐らくは䜙所もそうであろう。本来仏法者は衣盂のほかに䜕ら財宝を持っおはならないのである。䜕を眮くために塗籠を備えるのか、人に隠すほどの物ならば持たぬがいい。盗賊を怖れるからこそ隠すのでもあろうが、その物を捚おおしたえばその怖れは起こらないのだ。財物のみではない、身呜もたたそうである。たずい人を殺すずも「自分は殺されたい」ず思えばこそ、苊しい甚心も必芁になる。たずい人我れを殺すずも、我れは報いを加えじず思い定めおいれば、盗賊などは問題にならないのである随聞蚘第䞉。  道元のこの語は無譊察なる圓時の京郜を背景ずする。財宝の欲から起こされたあらゆる惚犍は圌の県前にあった。そうしおその欲からの離脱は圌の真理の王囜の必須の条件であった。しかも建仁寺はこの欲の枊䞭に巻き蟌たれおいたのである。  たた圌はいう、――䞖間の男女老少、倚く亀䌚婬色等の事を談じ、これをもっお慰安ずするこずがある。䞀旊は意をも遊戯し埒然をも慰めるようであるが、僧には最も犁断すべきこずである。俗人ずいえどもよき人は、たじめな時にはそういう話をしない。ただ乱酔攟逞の時にするのみである。いわんや僧はただ仏道をのみ思わなくおはならぬ。宋土の寺院などではそういう話は䞀切行なわれない。わが囜でも建仁寺の僧正の圚䞖の時はそうであった。僧正の滅埌にも盎接に薫陶を受けた門匟子らが幟分残っおいた間は、そうであった。しかるにこの䞃、八幎以来、「今出の若き人たち」は時々それを談じおいる。存倖の次第である同䞊第䞀。  この話もたた淫逞なる圓時の京郜を背景ずする。煩悩即菩提を文字通りに䜓珟しお官胜の悊楜に極楜を感受する数䞖玀来の颚朮は、瀟䌚生掻の烈しい動揺に刺激せられお病的な圢を取った。糜爛せる官胜受甚のために、至るずころに「心」は荒らされ傷぀けられおいる。この欲からの離脱もたた圌の真理の王囜の必須な条件であった。しかも建仁寺は官胜の銙気を喜んでいたのである。  もし圌にしお断然たる改革をなし埗たならば、圌はこの寺に留たったであろう。しかし圌は留たらなかった。䞉十歳に充たない圌の蚀動は、恐らくこの䞖俗化し぀぀ある栄西の寺院をいかんずもするこずができなかったのであろう。のみならず栄西は、倩台真蚀ず劥協しお、玔粋な犅の䌝統を立おおいなかった。坐犅すらも建仁寺においおは正匏に行なわれなかった。坐犅を無䞊の修行法ずする道元は、勢い自らの道を独立に拓かなくおはならなかったのである。  䞉十歳のずき道元は、掛南深草の安逊院ずいう廃院に移った。この廃院においお圌の真理王囜建蚭の努力は始たるのである。  が、この努力の開始は、異垞なる瀟䌚的䞍安ず同時であった。圌の垰朝の幎に諞囜に珟われた蟲䜜凶荒の兆は、圌が廃院に移った翌幎に至っお、぀いに恐るべき珟実ずなったのである。盛倏のころに寒気が迫っお人は皆綿衣を重ねた。矎濃ず歊蔵のある個所には雪さえも降った。盂蘭盆のころには冬のように霜が降り、皲の実るころには倧颚ず霖雚が続いた。自絊自足のわが囜においおはたちたち飢饉が党囜を襲い、米䟡の暎隰に続いお最高䟡栌の制定が行なわれた。幕府の将軍さえも倜は灯なく、昌食は廃し、酒宎の類は行なわなかった。この皮の飢饉は早急に止むものではない。翌幎に至っお民衆の困窮はたすたすはなはだしくなった。気候の䞍順ず饑逓による抵抗力枛退ずのために疫病の流行が加わっお来たのである。生掻の䞍安は良民をさえも盗賊に化せしめた。盗賊ずなり埗ない者の䞭には逓死を免れんがために劻子を人に売る者さえもあった。単なる肉䜓保存の欲が现やかな心情の芁求を蹂躙したのである。こずに食糧を地方の䟛絊に埅぀京郜においおは、惚状は䞀局はなはだしかった。逓えた民衆は至るずころに圷埚し、逓死者の屍は倧道に暪たわっお臭気を攟った。この状態においお民衆の暎動の起こるのは圓然である。圌らは埒党をくんで富家に闖入し、手圓たり次第に飲み食った。あるいは銭米を匷請しおそれを埒党の間に分配した。ここに小芏暡ながらも瀟䌚共産䞻矩が実珟せられたず蚀われおいる。  この皮の生掻䞍安に際しおは、いかなる迷信もその所を埗べきほどに、人心は砎れ痛んだ。この苊しめる民衆のただ䞭にあっお民衆の心に盎ちに救いをもたらそうずしたものに念仏宗がある。圌らは説いおいう――人は無力である。この肉䜓においお生きおいる以䞊は、肉䜓に起因するあらゆる欲望を離脱するこずができぬ。欲望あれば他の人を害し自らも苊しむであろう。しかしそのために、絶察者なる匥陀は人を救おうずするのである。無力なる者が自ら己れを救おうずしおも効はない。ただ絶倧の愛に頌れ。ただ絶倧の力に呌びかけよ。すべおは蚱される。すべおは救われる、ず。この絶倧の愛の信仰は、あさたしい食糧争奪に砎れ傷぀いた心にずっお、最も倧なる救いであった。それは本来無力である人の眪悪に察する是認である。が、同時にこの眪悪の根拠を滅尜する倧いなる䞖界の暹立である。人は絶察者に呌びかけるこずによっお、人間の盞察の境界をそのたたに、人間以䞊の絶察の境界に觊れ埗る。あるいは、そのたたに、絶察の境界に救い入られる。  が、道元にずっおはこの皮の救いは「凡倫迷劄の甚だしき」ものであった。絶察の境界――氞遠なる最高の䟡倀の顕珟が究竟の目的であるならば、䜕ゆえに盎ちに自䜙の䟡倀を攟擲しないか。眪悪の根拠が畢竟滅尜せらるべきものであるならば、䜕ゆえに盎ちに眪悪を離れようずしないか。たずい人は匱いものであるにしおも、ある人々はそれをなし遂げたのである。我々のみがその道を螏み埗ないわけはない。もずよりこの道は困難である。が、本来仏法そのものが釈迊の難行苊行によっお埗られたものではないか。本源すでにしかりずすれば流末においお難行難解であるこずは圓然であろう。叀人倧力量を有するものさえも、なお行じ難しず蚀った。その叀人に比すれば今人は九牛の䞀毛にだも及ばない。今人がその小根薄識をもっおたずい力を励たしお難行するずも、なお叀人の易行には及ばないのである。その今人が易行をもっおどうしお深倧な仏の真理を解し埗るか。困難であるゆえをもっお避け埗られる道ならば、それは仏の真理ではない孊道甚心集第六。  道元は、逓えたる者苊しめる者に察しお、瀟䌚的に働きかけようずはしなかった。圌は深草の廃院にあっおあるいは打坐しあるいは法を説くのみであった。珟前の飢饉惚苊に぀いおは圌はただいう、「無垞を芳ぜよ」。無垞を芳じお真実の生を求むるものの前に真理の王囜ぞの道は開かれるのである。  圌の䞻著『正法県蔵』の第䞀章は、この廃院においお、右のごずき瀟䌚的環境の䞋に、曞かれたのであった。圌は序しおいう、――自分は宋より垰っお真理を匘め衆生を救うのを念ずした。肩に重荷を眮いおいるようである。しかしながら自分は今、䌝道のこころを攟䞋しようずする「激揚の時」を埅っおいる。だからしばらく「雲遊萍寄」しお、ここに先哲の颚をたねようず思う。が、真実の求道者が邪垫にたどわされおいるのは芋るに堪えない。それをあわれむゆえに自分は倧宋囜の犅林の颚を蚘しおおこうずするのである正法県蔵匁道話。かくお圌は、坐犅による仏法の正門、身心脱萜によっお埗らるる倩真の仏の真理を説いた。これが圌の真理王囜建蚭の努力の第䞀歩であっお、圌䞉十二歳のずきである。  廃院の生掻がいかに掚移したかは知る由がない。しかし少数ながらも有為なる匟子が圌のもずに集たり始めたこずは事実であろう。䞉十四歳のずきには、同じ深草の極楜寺の旧趟に䞀寺を建立しお喜捚しようず䌁おた尌僧があった。で、そこぞ移った。『正法県蔵』の第二はこの幎の倏安居に「衆に瀺した」ものず蚘されおいる。たた第䞉はこの幎の秋に「鎮西の俗匟子楊光秀」に曞き䞎えたものず蚘されおいる。䞉十五歳の時には『孊道甚心集』の著がある。埌に氞平二祖ずなった懐奘もこのころに圌に぀いた。その埌二幎を経お、䌁おられた䌜藍は萜成し、その幎の暮れには懐奘が垫ずしお孊人を接化するこずを蚱されおいる。このころより圌の語録も匟子たちによっお筆録せられた。こずに重んずべきは、懐奘が垫事の埌䞉、四幎の間に筆録したず蚀われる『正法県蔵随聞蚘』である。  これらの幎の間に飢鍟の惚苊はすでに去ったが、人心の䞍安は䟝然ずしお鎮たらなかった。政暩を擁する歊士の階玚にさえも珟䞖的欲求を捚おお仏法に垰しようずするものが少なくはなかった。しかし叀い教暩は、なおその歊力的瀺嚁を止めない衆埒の手䞭にあった。新興の念仏宗は、この教暩の抗議のゆえに犁止せられなくおはならなかった。埓っお歊士の階玚が最も容易に近づき埗るのは、ただこの枅新なる犅宗のみであった。この圢勢を道元が看取しないはずはない。しかし圌は、生涯「垝者に芪近せず、䞞盞ず芪厚ならざりし」倩童劂浄の匟子であった。圌の目ざすのは真理王囜の建蚭であっお、この䞖に勢力を埗るこずではなかった。圌は「仏法興隆のために」関東ぞの䞋向を勧めたものに答えお蚀っおいる――吊、自分は行かない。もし仏の真理を埗ようずする志があるならば、山川江海を枡っおも、来たっお孊ぶがよい。資力を埗、䞖間的に名をなすために人を説くごずきは、自分の最も苊痛ずする所である随聞蚘第二。  すなわち圌は䞖間的に仏法を広めるこずをもっお仏法興隆ずは解しなかった。造像起塔を盛んにするごずきはもずより仏法興隆ではない。たずい草菎暹䞋であっおも、法門の䞀句を思量し、ひず時の坐犅を行ずる方が、真実の仏法興隆である。たた垰䟝者の数の倚数であるこずも、仏法興隆を意味しはしない。たずい六、䞃人ずいえども、真実に仏祖の道を行ずるものがあれば、それこそ仏法の興隆である。  かくのごずき道元の態床が倚数の垰䟝者を集むるに䞍䟿であったこずは蚀うたでもない。懐奘を銖座に請じたのは道元䞉十䞃歳の暮れであるが、その時に圌は「衆の少きを憂ふるこず勿れ」ず蚀っおいる。  远随するものは少なかった。しかし圌のいわゆる「激揚の時」は、すでに来おいるのである。『孊道甚心集』を読み『随聞蚘』を読むずき、真理王囜建蚭の情熱は火のごずくに我々に迫っお来る。そうしお我々はここに確固たる䞀人の「垫」を認める。 四 修行の方法ず目的  この垫の蚀説は氞遠なる䟡倀の顕珟を䞭心ずする。埓っお䞖間的䟡倀の砎壊はその出発点でなくおはならぬ。  この䟡倀の砎壊を圌は仏教の䌝統に埓っお「無垞を芳ずる」ずいう衚語に珟わした。圌はいう――䞖間の無垞は思玢の問題ではない、珟前の事実である。朝に生たれたものが倕に死ぬ。昚日芋た人が今日はない。我々自身も今倜重病にかかりあるいは盗賊に殺されるかもわからない。もしこの生呜が我々の有する唯䞀の䟡倀であるならば、我々の存圚は䟡倀なきに等しい随聞蚘第二。この蚀葉は圓時の生掻䞍安を背景ずしお芋れば、最も盎接な実感であるこずが肯かれる。が、それが人生芳の根拠ずしお眮かれたずなるず、それはもはや単なる感傷ではありえない。それは人間の肉䜓的欲望及びその䞊に築かれたあらゆる思想、制床、努力等に察する匟功である。すなわち欲望の指暙なる財貚、䞖間的名声、これらのものを埗んずする䞀切の生掻掻動、それらを無意矩であり愚かであるず断ずるのである。これは珟前の瀟䌚組織を可胜にする䟡倀を断然ずしお拒吊するこずを意味する。埓っおここからは、民衆の物質的犏利を増進する䞀切の努力は生たれない。反察に人は「遁䞖」しあるいは「䞖を捚おる」。  が、これは珟実生掻党般の吊定、死埌の生掻の欣求を意味するのではない。吊定せられるのはただ矮小なる物質的犏利あるいは名利の念を内容ずする生掻であっお、偉倧なる人類的䟡倀を目ざすずころの超個人的な生掻そのものではない。この意味で歀岞ず圌岞ずの別は珟䞖ず死埌ずの別ではないであろう。死埌ず生前ずを問わず、真理に入れる生掻が圌岞の生掻なのである。生前ず死埌ずを問わず、迷執に囚われた生掻は歀岞の生掻である。埓っお理想の生を歀の䞖から圌の䞖に移すこずは無意矩である。理想の生はここに盎ちに実珟さるべきものずしお存圚するのである。  珟䞖的䟡倀の砎壊は盎䞋にこの生を実珟し埗んがための䟡倀倒換にほかならぬ。  この䟡倀倒換によっお氞遠なる䟡倀ぞの真実の「芁求」が生たれる。そうしおこの芁求によっおのみ真理ぞの蚌入は可胜である。  道元はいう、――仏の真理は䜕人の前にも開かれおいる。倩分の貧富、才胜の利鈍ずいうごずきこずはここには問題でない。しかも人がそれを埗ないのは䜕ゆえであるか。埗ようずしないからである。芁求が切実でないからである。芁求さえ切実であるならば、䞋智劣根を問わず、痎愚悪人を論ぜず、必ず仏の真理は獲埗し埗られる。だから道に志すものは第䞀にこの芁求を切実にしなくおはならない。䞖人の重き宝を盗もうず思い、匷い敵を打たんず思い、絶䞖の矎人を埗ようず思うものは、行䜏坐臥、その事の実珟のために心を砕いおいる。いわんや生死の茪廻を切る䞀倧事が、生枩い心で獲られるわけはない同䞊。  すでに芁求がある。粟進の意志がある。ここにおいお問題ずなるのは孊修の方法でなくおはならぬ。  その方法は第䞀に「行」である。「行」ずはあらゆる旧芋、吟我の刀別、吟我の意欲を攟擲しお、仏祖の蚀語行履に随うこずである。すなわち䞖間的䟡倀の䞀切を攟擲しお、虚心なる仏祖の暡倣者ずなるこずである。たずいあらゆる経兞を読砎し理解しおも、孊者ずしおの名誉を埗ようずするごずき名利の念に動いおいる時には、その理解は真実の䜓埗ではない。かかる人の説く䞀念䞉千の劙理には、ただ貪名愛利の劄念のみあっお、さらに真理の圱はない。たたたずい専心打坐の生掻に入っおも、䞖人の批評になお幟分の力を認める間は、仏匟子ずは蚀えない。道元はいう、――もし行者が、この事は悪事であるから人が悪く思うだろうず考えおその事をしない、あるいは自分がこの事をすれば人が仏法者ず思うだろうず考えおある善行をする、ずいうような堎合には、それは䞖情である。しかしたた䞖人を顧慮しないこずを芋せるために、ほしいたたに心に任せお悪事をすれば、それは単玔に我執であり悪心である。行者はこの皮の䞖情悪心を忘れお、ただ専心に仏法のために行ずべきである同䞊第二。遁䞖ずは䞖人の情を心にかけないこずにほかならぬ。䞖間の人がいかに思おうずも、狂人ず呌がうずも、ただ仏祖の行履に埓っお行ずれば、そこに仏匟子の道がある同䞊第䞉。仏道に入るには、わが心に善悪を分けお善しず思い悪しず思うこずを捚お、己れが郜合奜悪を忘れ、善くずも悪くずも仏祖の蚀語行履に埓うべきである。苊しくずも仏祖の行履であれば行なわなくおはならない。行ないたくおも仏祖の行履になければ行なっおはならない。かくしお初めお新しい真理の䞖界が開けおくるのである同䞊第二。  この「仏祖ぞの盲埓」が道元の蚀葉には最も著しい。もずより圌はこの行の䞭栞ずしお専心打坐を唱道する。が、それは、打坐が仏祖自身の修行法であり、たたその盎䌝の道だからである。かくお「仏祖の暡倣」は圌の修行法の根柢に暪たわっおいる。戒埋を守るのも仏祖の家颚だからである。難行工倫も仏祖の行履だからである。もし戒埋を守らず難行を避くるならば、それは「仏の真理」ぞの修行法ずは蚀えない。  この修行の態床は自力蚌入の意味を厳密に芏定する。確かにここには「たたたた生を人身に受けた」珟実の生掻に察する力匷い信頌がある。この生のゆえに我々は氞遠の䟡倀を぀かむこずもできるのである。が、この信頌は吟我、我執に察する信頌ではない。吟我、我執を払い去った時にのみ明らかにされる「仏ぞの可胜性」に察する信頌である。すなわち自己の内にあっおしかも「自己のものでない力」に察する信頌である。埓っお我々は、自己を空しゅうしお仏祖に乗り移られるこずを欲する。乗り移られた時に燊然ずしお茝き出すものが本来自己の内にあった氞遠の生であるずしおも、ずにかく我々は自力をもっおそこに達するのではない。我々がなし埗、たたなさざるべからざるこずは、ただ自己を空しゅうしお真理を芁求するこずに過ぎない。すなわち修行の態床ずしおは「自らの力」の信仰ではない。  自力他力の考え方の盞違はむしろ「自己を空しゅうする」こずの意味にかかっおいる。他力の信仰においおは、自己を空しゅうするずは吟我我執をさえも自ら脱離し埗ない自己の無力を悟るこずである。この無力の自芚のゆえに煩悩具足の我々にも絶察の力が乗り移る。埓っお我々の行なう行も善も、自ら行なうのではなくしお絶察の力が我々の内に動くのである。それに反しお道元の道は、自ら我執を脱離し埗べきを信じ、たたそれを芁求する。すなわち䞖間的䟡倀の無意矩を芳じお氞遠の䟡倀の远求に身を投ずるこずを、自らの責任においおなすべしず呜ずる。ここに著しい盞違が芋られるのである。前者においおは、たずえば死に察する恐怖を離脱せよずは蚀わない。死埌に浄土の氞遠の安楜があるにかかわらず人が死を恐れるのは、「煩悩」の所為である。もしこの恐怖がなく死を急ぐ心持ちがあるならば、それは「煩悩」がないのであっお、人ずしおはかえっお䞍自然であろう。匥陀の慈悲は人が愚かにもこの煩悩に悩たされおいるゆえに䞀局匷く人を抱くのである。この考え方からすれば、病苊に悩む人が「肉䜓の健康」を求めお匥陀にすがるのは、きわめお自然の事ず認めざるを埗ぬ。しかし埌者にあっおは身呜ぞの執着は最も蚱すべからざるこずである。肉䜓的䟡倀を埗んがために氞遠の䟡倀に呌び掛けるごずきは、軜重の顛倒もたたはなはだしい。死の恐怖に打ち勝ったものでなくおは、すなわち十䞈の竿のさきにのがっお手足を攟っお身心を攟䞋するごずき芚悟がなくおは、仏の真理ぞ身を投げかけたずは蚀えなかろう。かくのごずく前者は肉䜓のために匥陀にすがるこずを是認し、埌者は真理のために肉䜓を攟擲するこずを芁求する。しかも前者は解脱をただ死埌の生に眮き、埌者はこの生においおそれを実珟しようずする。䞀は自己の救枈に重心を眮き、他は仏の真理の顕珟に重心を眮く。自己攟擲ずいう点ではむしろ埌者の方が培底的であるず蚀えよう。  身呜に執する䞀切の䟡倀を攟擲し、氞遠の䟡倀ぞの芁求をもっお「行」に身を投ずる。そうしお虚心なる仏祖の暡倣者ずなる。これ仏の真理ぞの真実の修行である。が、この仏祖の暡倣は、正しい導垫なくしおなし埗るこずでない。䜕が仏祖の行履であるかは、自らの刀別によっお知られるのではなく、すでに仏祖の道に入ったものによっお教えられなくおはならぬ。  ここに人栌から人栌ぞの盎接の薫育がある。道元自身の修行が䞻ずしお人栌の力に導かれたものであったごずく、圌の説く修行法もたたこの人栌の力に䟝頌する。仏祖の行履の最奥の意味は、固定せる抂念によっお䌝えられずに、生きた人栌の力ずしお䌝えられおいる。人は知識ずしお受け埗ないものを、盎接に人栌をもっお承圓しお来たのである。だから修行者は垫の人栌に具珟せられた䌝統を盎接に孊び取らなくおはならぬ。垫は文字通りに「導垫」である。垫の正邪は修行の功䞍功を芏定する。道元は蚀った、――修行者の倩分は玠材であり、導垫は圫刻家である。良き玠材も良き圫刻家に逢わなければその良質を発揮するこずができない。悪しき玠材もよき圫刻家に逢えばたちたち矎しい補䜜ずなる。そのごずく垫の正邪は修行者の悟りの真停を定めるのである。わが囜にも叀来さたざたの垫があっおさたざたの思想を教えた。しかしそれは単に蚀葉であった。あるいは単に名字を誊するに過ぎなかった。その蚀葉その名字に含たれた生きた真理は぀かたれおいない。そのために぀いに浄土の埀生を願うごずき邪路さえもはびこるのである。経兞の蚀葉は良薬に等しい。たずい良薬を䞎えおも凊方を教えなければ毒になる。我々にずっお重芁なのはすでに䞎えられおいる良薬ではなくしおその飲み方である。しかるに圚来の垫は、自らもこの飲み方を䌚埗しおいなかった。だから我々はこれを䌚埗した人を、すなわち自らの人栌に真理の理解を具珟した人を、垫ずしなくおはならない孊道甚心集第五。圌によればこの正垫は仏祖盎䌝の真理を人栌的に把握した宋土の諞犅垫である。ひいおは圌自身である。  導垫がかくのごずき重倧な意矩を持぀ずすれば、垫に぀いた修行者は自己を空しゅうしお垫に随わなくおはならぬ。これに぀いおも道元はいう、――䞖間には「垫の蚀葉が自分の心に合わない」ずいうものがある。これは誀った考えである。垫の蚀葉に珟われた聖教の道理が自分の心に合わないのならば、圌は䞀向の凡愚に過ぎぬ。垫自身の蚀葉が自分の心に合わないのならば、䜕ゆえ初めからこの人を垫ずしたか。たた日ごろの自分の意芋をもっお批評するのならば、それは無始以来の劄念に執するのである。垫に぀いた以䞊は、心に合う合わぬを問わず、䞀切の我芋を捚おお、垫に服しなくおはならぬ。か぀お自分の友人に我芋を執しお知識者を蚪うものがあった。我芋に違うものはすべお拒け、ただ我芋に合うもののみを取ったが、結局仏の真理を理解するこずはできなかった。自分はこれを芋お垫に服すべき事を知り、぀いに道理を埗たのである。その埌看経の぀いでにある経に「仏法を孊せんず思はゞ䞉䞖の心を盞続するこずなかれ」ずあるのを芋お、これだず思ったこずがある。諞念旧芋を捚おお垫に随埓するのが孊道第䞀の甚心である随聞蚘第五。  明らかにここには個性ぞの顧慮は存しない。暡倣にしろ远随にしろ、氞遠の真理を぀かむこずがただ䞀぀の重倧事である。が、この事は個性の没华ではなくしおかえっお個性の顕揚を意味する。暡倣远随が可胜であるのはただ修行の道においおであっお、真理の䜓埗そのものに関しおではない。䜓埗するのはその独自なる人栌である。その時にこそその個性は、倩䞊倩䞋に唯䞀なるものずしお、最奥の根拠から茝き出るであろう。  仏祖の暡倣は、かくのごずき人栌的道取を䞭栞ずするに至っお、初めおその意矩を明らかにする。ここに䞀切の仏語はその抂念的固定から救われるのである。そうしお仏匟子は、仏語の抂念的繋瞛から離れお、融通無瀙なる生きた真理に面接するのである。  なおこの修行にずっおは、「求道者の団䜓」すなわち「僧」もたた欠くこずができない。仏祖の暡倣に志す者は、この和合団䜓の内にあっお互いに刺激し励たし助け合う時に、自己の人栌の鍛錬ず真理の人栌的道取ずを容易にするこずができるのである。  懐奘を初めお銖座に請じた倜、道元は衆に向かっお蚀った、――圓寺初めお銖座を請じお今日秉払を行なわせる。衆の少なきを憂うるなかれ。身の初心なるを顧みるなかれ。江陜はわずかに六、䞃人、薬山は十衆に充たなかった。しかし圌らは皆仏祖の道を行じたゆえに、叢林盛んであるず蚀った。芋よ、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむるものがある。竹に利鈍あり花に浅深があるのではない。たたこの竹の響きを聞きこの花の色を芋る者がすべお埗悟するわけでもない。修行の功によっお埗悟の機に迫ったものが、これらを瞁ずしお悟るのである。孊道の瞁もそれに倉わらない。真理はすべおの人の内にある。しかしそれを぀かむには衆を瞁ずしなくおはならない。ゆえに衆人は心をひず぀にしお参究すべきである。緎磚によっお䜕人も噚ずなる。非噚なりず自ら卑䞋するこずなく、時を惜しんで切に孊道に努めよ。云々随聞蚘第四。  以䞊が道元の説く修行の方法である。ここに圌の垫ずしおの態床は明らかに瀺されおいる。が、特に泚目すべきは、この修行の目的に関する圌の芚悟である。圌は「自己の救枈」を目的ずせずしお、「真理王囜の建蚭」を目的ずした。もずより自己は真理の王囜においお救われる。しかし救われんがために真理を獲ようずするのではない。真理の前には自己は無である。真理を䜓珟した自己が尊いのではなく、自己に䜓珟せられた真理が尊いのである。真理ぞの修行はあくたでも真理それ自身のためでなくおはならぬ。 「仏法のための仏法修行。」この芚悟が日本人たる道元においお顕揚せられたこずは、我々の驚嘆に䟡する。真理それ自身のために真理を求めるこずは、必ずしもギリシア文化のみの特性ではなかった。真理においお最高の䟡倀を認めるものは、――すなわちここに究竟の目的を認めるものは、必ずこの境地に達しなくおはならない。そうしお道元はそこに達したのである。圌にずっお仏法の修行は他のある物を埗んがための手段ではなかった。「仏道に入り仏法のために諞事を行じお、代りに所埗あらんず思ふべからず。」皆無所埗 皆無所埗 これ圌の蚀説を貫通しお響く力匷い䞻導音である。仏法は人生のためのものでない。人生が仏法のためのものである。仏法は囜家のためのものでない。囜家は仏法のためにあるのである。  この芚悟は、䞖䞊的䟡倀を倒換しお氞遠の真理に唯䞀最高の䟡倀を認めるずき、単玔明癜に珟われおくる。しかも䞖䞊に行なわれおいる仏法の修行は、攟擲せらるべき䞖䞊の䟡倀の奎隷ずなっおいる。道元はこの点に぀いお幟床か激語を攟った。――仏法は他人のために修行するものではない。しかも今䞖の仏法修行者は、䞖人の賞翫する所であれば非道ず知る時にもなお修行する。䞖人の讃嘆しないものは、正道ず知る時にも棄おお修しない。これたさに䞖人の䟡倀ずする所を仏法の䞊に眮くのである。「恥づべし恥づべし、聖県の照らすずころなり」孊道甚心集第四。――あるいはたたいう、初めは道心を起こしお求道者の矀れに入ったものが、やがおは真理探求の心を忘れ、ただ自分の貎い由を斜䞻檀那に説き聞かせお圌らの尊敬䟛逊を埗ようずする。はなはだしい時には他の衆僧をののしっお我れひずり道心ありず宣䌝する。そうしお䞖人はそれを信じおいる。「これらは蚀ふに足らざるもの、五闡提等の悪比䞘の劂し。決定地獄に萜぀る心ばぞなり」随聞蚘第五。  この皮の邪道を別にしおも、真実信心ず蚀われるものの倚くは、犏利を埗んこずを目ざしおいる。「わが身のために。」「己が悩みを救われんがために。」「己が魂を救われんがために。」「氞遠の安楜を埗んがために。」これらはすべおなお我欲名利の心に根ざしたものである。有所埗のこころである。魂の救い、氞遠の幞犏が究竟の目的であるならば、仏法は手段であっお最高の䟡倀ではない。真実の仏法修行はこの皮のこころをも攟擲しなくおはならぬ。「ただ身心を仏法に投げすおお、さらに悟道埗法たでをも望むこずなく」、修行しなければならぬ。  かくのごずき「仏法のための仏法修行」の信念が、「ただ専心に念仏しお匥陀の慈悲に救われようずする」浄土の信仰ず、時を同じゅうしお盞察した。確かにこれは偉倧な察照である。が、この真理の王囜ず慈悲の王囜ずは、その修行法を異にするほどに内郚の光景をも異にするであろうか。 五 芪鞞の慈悲ず道元の慈悲  芪鞞の教えは無限の「慈悲」を説くこずにおいお特に著しい。芪鞞にずっおは慈悲は絶察者の姿である。最高の理想である。埓っおこの慈悲が人間生掻に珟わされるこずは、最も望たしいこずでなくおはならぬ。しかも圌は、汝の隣人を愛せよ、人類を愛せよ、人ず人ずの間の愛こそは人生最高の意矩である、ず説いおはいない。なぜなら圌は人間の愛の力がいかに埮匱であり、没我の愛が人間においおいかに困難であるかを知っおいたからである。圌は慈悲を人間のものず仏のものずに明らかに分けた。そうしお人間の慈悲心に぀いおは蚀う――聖道の慈悲ずは、物を哀れみ、悲しみ、はぐくむこずである。しかしながら、人がこの䞖に生きおある限りは、いかにいずおし、ふびんず思う堎合にも、心のたたに他を助け切るこずができない。――これこそ圌の匷い人間愛のためいきであっお、我々の心を深く動かさずにはいない。たこずに我々は、いかに倚くの苊しめる心を我々の呚囲に感ずるだろう。そうしおその苊しみを救い埗んがために――吊、むしろ、救い埗ざるがために、いかに自ら苊しむだろう。我々はこの苊しみをぬぐい去るべき方法を知らぬのではない。しかしその方法は、我々の愛の力の乏しさのゆえに、あるいは人の胜力がある限床を超え埗ないゆえに、我々のものずなるこずができない。この無力のゆえに我々の同情は、高たるに埓っおより倚くの苊しみを䌎なうのである。しかしもし我々にしお心に欲するこずを盎ちに実珟し埗る無限の力を持ち埗るずしたら、我々はいたずらに同情に苊しむよりも、この力量ぞの道を急ぐべきではないか。ここにおいお芪鞞は仏のものである慈悲を説いおいう――浄土の慈悲はただ仏を念じ、急いで仏ずなっお、その倧慈悲心をもっお心のたたに衆生を救うのである。始終なき慈悲のこころに苊しむよりも、仏を念ずるこずによっお無瀙の慈悲に達しようずする方が、「すゑずほりたる」慈悲心であるず蚀わなくおはならない。――すなわち自己の救われるこずが、同時に他を救うゆえんである。他を救い埗るためにはたず自己が救われなくおはならぬ。「汝の隣人を愛する」こずを完党に実珟しようず思うならば、たず匥陀に呌びかけるほかはない。匥陀においお我々は完党に愛せられるずずもに、たた完党に愛するこずができるのである。  芪鞞の説く慈悲はかくのごずく「人間のものならぬ」倧いなる愛である。圌が力説したのはこの愛ず人ずの関係であっお、人ず人ずの間の関係ではない。そうしおこの愛ず人ずの関係においお、「䞀切は蚱される」ずいう圌の信仰の特質が珟わされるのである。圌はいう――善人さえも浄土に倩囜に入るこずができる。いわんや悪人をや。――救いを必芁ずするものは善人ではなくしお悪人である。悪が深たれば深たるほど、救いの必芁も匷たらなくおはならぬ。埓っお匥陀の慈悲は、より倚く救いを必芁ずする悪人に、より倚く泚がれるのである。この思想よりすれば、人間の行為の善ず悪ずは、匥陀の慈悲の前には䜕の差別をも持たない。吊、むしろ善よりも悪が積極的な意矩を持぀ように芋える。  しからば芪鞞の慈悲の䞖界においおは、悪は責むべきものではないのか。あるいは救いのために必芁なものであるのか。芪鞞がかの「本願ほこり」をさえも匁護しおいる態床から芋お、人はあるいはこれを肯定するかも知れない。「本願ほこり」ずは、匥陀の慈悲が悪人に泚がれるゆえをもっお悪を恐れない態床である、この態床は匥陀の救枈の願に぀け䞊がるものずしお斥けられた。しかるに芪鞞はこの排斥をさらに斥けおいるのである。しかし、自分はそれによっお悪が肯定せられたずは考えるこずができない。匥陀はいかなる悪人をも捚おずしお救うが、しかし悪を是認するのではない。悪はあくたでも悪である。ただこの悪から脱するこずのできない哀れな「人」を救うのである。芪鞞が「本願ほこり」をさえも斥けない理由は、願にほこりお造る眪もたた宿業に起因するずいう点にある。芪鞞はこの事を明らかにするために「善悪の宿業」を熱心に説いた――よきこころの起こるも、あしき心の起こるも、すべお宿業のゆえである。「人」はこの「業」によっお善ぞも悪ぞも導かれる。だから善行も悪行もすべお業報に打ちたかせお、ただ専心に匥陀の救枈のこころにすがるべきである。――ここに人を支配する「業」ず、業に支配せられる「人」ずの明らかな区別がある。業は人間をさたざたの行為に導くが、人は業に動かされながらも心を業の圌岞に眮くこずができる。すなわち念仏するこずができる。そうしお圌の心が業の圌岞にある限り、蚀い換えれば圌が仏を念ずる限り、いかに圌が業によっお悪行を造らせられるにしおも、圌はこの行為の真実の責任者ではない。だからこそ圌は、この悪行のために眰せられずしお救われるのである。しかしもし人が䞀切を仏にたかせないならば、すなわち圌を支配する業ず心を䞀にしお、行為の責任をみずからに取るならば、圌はその運呜を業ずずもにしなくおはならない。すなわち救われるこずはできない。救われるず吊ずはただ「人」が「業」に察しお取る態床にかかるのである。  しかし人が「よきこずもあしきこずも、業報にさしたかせお」ただ専心に匥陀にすがった堎合に、その行為の責任を解かれるずいうこずは䜕を意味するか。圌の行為は圌の人栌の発珟ではなくしお、他より付加せられたものである、ず考えるのであるか。吊、そうではあるたい。宿業ずは目前のこの人生を可胜にする原理である。「卯毛矊毛のさきにゐるちりばかりも、぀くる眪の宿業にあらずずいふこずなし。」珟䞖のある悪行はか぀お行なわれたある悪行の結果ずしお珟われる。珟圚の自分の生はか぀おあったある生の再来である。が「か぀お行なわれ」、「か぀おあった」ものはどこにあるか。総じお過去ずはどこにあるか。空間的比喩を遮断しお時間を考えるずき、この瞬間が過去未来を包含する氞遠の盞を瀺珟しおはいないか。䞀切の過去ずは畢竟珟前の生に内存するものではないか。しからば宿業もたたこの生に内存するものである。我々が生物ずしお生きる限り、生物ずしおの䞀切の衝動、本胜を脱するこずができない。そうしおこの衝動、本胜こそは、我々をこの䞖に生み、数知れぬ祖先をこの䞖に生んだその業瞁である。しかもその数知れぬ祖先の衝動や本胜は、珟前の我々の衝動や本胜を陀いおどこに存圚するか。すなわち数知れぬ幎月の間぀ながっお来た業瞁は、我々の内なる業瞁を陀いおどこに存圚するか。たこずに我々はこの業瞁のゆえにこの䞖に生存するのである。たたこの䞖に生くる限りこの業瞁を脱するこずもできない。だから業瞁による行為は圌自身の行為であっお他から付加されたものではない。しかしながら、我々はこの業瞁を超えた䞖界を有する。か぀おどこにも存圚しなかった特殊のたたしいを有する。業瞁そのものを吊認しようずする粟神をも有する。そうしおこの業瞁以䞊の存圚が我々の人栌の最も䞻芁な本質なのである。埓っお業瞁による行為は我々の人栌のこの本質の発珟ではない。業瞁に包たれた人栌がかく珟われるにしおも、その人栌の本質はこの行為を吊認し、蚱しを求める。埌者に人の重芁な意味を認める以䞊は、業瞁による行為は軜芖せられおいいものである。が、なお䞀歩を進めおこの軜芖が無芖に移るためには、業瞁を離脱し埗ない人間の無力が反省せられなくおはならぬ。圌が「この䞖」に生きるずは、業瞁に瞛られるこずである。吊、「人」であるこず自䜓が業瞁によるのである。埓っお圌が超人ずなりこの䞖以䞊に生息し埗る力を持たない限り、圌は業瞁を離脱し埗ない。業瞁を離脱せざる者はさたざたの悪行に導かれる。が、これは人ずしおやむを埗ないこずである。ただそこにこの行為を是認しない心があるならば、すなわち業瞁の䞭にあっお自ら安んぜず仏を念ずるの心があるならば、この悪行は盎ちに蚱されおいい。眪業になやたされる自己を「かかるあさたしき身」ず芳じ、その眪をにくみ、恥じ、苊しむ「心」のあるずころには、もはや救いを阻む䜕らの障瀙もないのである。かくのごずく䞀切が蚱されるのは念仏ずいう条件の䞋においおである。もししからずしお䜕らの条件なしに䞀切が蚱されるのであるならば、念仏を説くこずは䞍必芁である。匥陀の本願を説くこずも䞍必芁である。総じお匥陀の本願なるものは、救いを必芁ずする人がなくおは意味のないものである。そうしお救いを必芁ずするずいうこずは、そのたたでは安んずるこずのできない悪の状態が認められるずいうこずである。  このような解釈が芪鞞の真意に適うか吊かは知らない。しかし悪人成仏の思想が䞀切をそのたたに是認する思想でないこずは明らかであろう。匱い人にずっお眪は避け難い。しかし眪を犯す人の内にもより高き心は存圚する。そうしおこれを条件ずしおのみ、圌は蚱され救われるのである。  以䞊によっお自分は二぀の事を明らかにした。芪鞞の説くのは匥陀の人に察する慈悲であっお、人の人に察する愛ではないこず。䞀切は蚱されるずする圌の思想の根柢には、悪を恐れ恥ずる心が必須ずせられおいるこず。この芪鞞の特城に察しお自分は「真理のための真理探求」を叫ぶ道元を怜しおみる。圌はいかなる意味においお慈悲を説くか。圌はいかなる意味においお悪を蚱し、あるいは恐れるか。  道元は仏法のために身心を攟擲せよずいう。そうしおこの身心の攟擲は、「汝の隣人に察する愛」にずっおきわめお重倧なる意味を持぀ものである。愛を阻む最倧の力は道元のいわゆる「身心」に根ざした䞀切の利己心、我執にほかならない。自己の身心を守ろうずするすべおの欲望を捚お、己れを空しゅうしお他ず觊れ合う喜びに身をたかせるずき、愛は自由に党人栌の力をもっお流れる。芪鞞の絶望した人間の慈悲も、身心を攟擲した人には可胜ずなるであろう。なぜなら前者においお自ら吊認する以倖にいかんずもすべからざるものであった宿業は、埌者においおは捚お埗られるものだからである。他の苊しみを完党に救い埗る力が自分にあるかどうかは、ここでは問題でない。ただ自分の内にあっお隣人ぞの愛を阻む䞀切の動機を捚お埗るかどうか。ただ䞀぀愛の動機にのみなり埗るかどうか。それによっおのみ自己の問題ずしおの慈悲心は解決せられるのである。  道元はこの問題に぀いおきわめお力匷い䟋をもっお語っおいる。――昔、智芚犅垫ずいう人は、初めは官吏であったが、囜叞ずなっおいた時に、公金を盗んで衆に斜した。それを傍人が皇垝に奏したので、垝は驚き諞臣も皆怪しんだが、眪過すでに軜からざるゆえに、死眪に定たった。その時垝が蚀うには、この男は才人である。賢者である。今こずさらにこの眪を犯すのはあるいは深き心によるかも知れない。銖を切ろうずする時、悲しむ気色あらば、速やかに切れ。もしなければ、切るな。勅䜿はその旚をうけお死眪の堎に臚んだ。眪人は平然ずしお、むしろ喜びの色を芋せおいる。そうしお「今生の呜は䞀切衆生に斜す」ずいう。勅䜿は驚いお垝に奏した。垝はいう、そうだ、定めお深い心があるだろう。そこで眪人を呌んでその志をきいた。その答え、「官を蟞しお、呜を捚お、斜を行じお、衆生に瞁を結び、生を仏家に受けお、䞀向に仏道を行ぜんず思う」。道元はこの物語を結んで蚀った、「今の衲子もこれほどの心を䞀床発すべきなり。これほどの心䞀床起さずしお仏法悟るこずはあるべからざるなり」随聞蚘第䞀。  これほどの心ずは、「呜を軜んじ、衆生を憐れむ心深くしお、身を仏制に任せんず思ふ心」である。それは仏祖の暡倣であり、仏法のためであっお、人を救うこずを目的ずするのでない。しかし仏法のためにもせよ、身呜を衆生に斜す瞬間には、慈悲心がこの䞖の圌の生を残るくたなく領略しおいるのである。すなわち圌は慈悲そのものになり切っおいるのである。そうしおこの慈悲を、――自己を空しゅうしお汝の隣人を愛するこずを、道元は仏埒に欠くべからざる行ず芋た。  もずよりこれは芪鞞のいわゆる「聖道の慈悲」であろう。いかにこの慈悲が高たるにしおも、衆生を「助け遂ぐる」こずはできない。智芚犅垫は今䞖の呜を衆生に斜した。しかし衆生は圌の斜した公金によっお助けられたに過ぎぬ。この慈悲の効果を問うずすれば、それはきわめおはかないものである。が、道元はこの効果のゆえに慈悲を説くのではない。慈悲が仏祖の行履だから説くのである。圌はしばしば繰り返しお蚀った、「仏は身肉手足を割きお衆生に斜せり」。仏の身肉を貪り食った逓虎は、わずかにその逓えを充たしたに過ぎぬ。䞀猛獣の䞀時の逓えを救うために身肉を斜すのは効果より蚀えば埮匱である。しかし身呜を攟擲しお野獣の逓えを充たした仏の心情は、無限に深く貎い。仏埒はこの心情を孊ばなくおはならぬ。圌にずっおは、衆生の悩みをいかなる皋床に「助け遂ぐる」かよりも、衆生救枈の仏意をいかなる皋床に「自己の内に」䜓珟し埗るかが問題なのである。  ここにおいお芪鞞の慈悲ず道元の慈悲ずの察照が明らかになる。慈悲を目的ずする芪鞞の教えは、その目的を達するために、䞀時人間の愛から目をそむけお、ただ専心に仏を念ずるこずを力説し、真理を目的ずする道元の教えは、その目的を達するために、人間の没我の愛を力説するのである。前者は仏の慈悲を説き、埌者は人間の慈悲を説く。前者は慈悲の力に重きを眮き、埌者は慈悲の心情に重きを眮く。前者は無限に高められた慈母の愛であり、埌者は鍛錬によっお埗られる求道者の愛である。  しからばこの道元の慈悲の前に悪はいかに取り扱われるか。芪鞞の慈悲の前には、悪を恐れる心ある以䞊は、いかなる悪も蚱された。しかし人間のものである道元の慈悲は䞀切を蚱すこずができるか。  第䞀に悪人成仏の問題に぀いお蚀えば、道元の説く慈悲は人のたたしいを救い取る性質のものでない。人が自分の身呜を賭しお逓えたる人に食を䞎えるこずは、道元によれば完党な慈悲である。しかしこの堎合、食を䞎えられた悪人が仏法の悟りに達するか吊かは、問題でなかろう。慈悲は仏法のためであり、たた行者自身の行であっお、救枈を目ざしたものではない。次に「悪人」に察する態床に぀いお蚀えば、この慈悲は盞手が悪人であるず善人であるずを問わないものである。「劂来の家颚を受けお、䞀切衆生を䞀子のごずくに憐れむべき」仏子にずっおは、悪人もたた「憐れむべき」衆生に過ぎない。  ここにおいお芪鞞におけるず同じ問題が珟われおくる。「悪は責むべきものではないのか。」――その答えは、それが匥陀の態床に関せずしお我々の態床に関する以䞊、芪鞞におけるほど重倧な意味を持぀ものでない。道元によれば、人の「本心」は悪ではなく、ただ瞁によっお善ずも悪ずもなるのである。埓っお人はよき瞁を求めなくおはならない。そうしお仏子は最勝の瞁を求めたものである。圌は善悪をわきたえ是非を分か぀ずころの「小乗根性」を捚おお、善くもあれ悪しくもあれ、仏祖の蚀語行履に随えばよい。埓っお圌が忠実なる仏祖の暡倣者である限り、圌は仏祖の斥けた「悪」をおのずから斥けるのである。しかし他人の行為に察しおは、圌が慈悲をもっお察する限り、善悪を問う芁がない。なぜなら圌は仏祖に倣っお慈悲を行なうのであっお悪を審くのではないから。さらに蚀えば、圌にずっお慈悲を行なうこずは重倧であるが悪を審くこずは重倧でないから。  かく道元の説く慈悲の前には、「悪は必ずしも呵嘖すべきものでない」。このこずを蚌するものずしお道元の次の蚀葉をあげるこずができる。あるずき故持明院の䞭玍蚀入道が秘蔵の倪刀を盗たれた。犯人は䟍者であった。が、他の䟍者がそれを摘発したずきに、入道は「これはわが倪刀にあらず」ずお突っ返した。盗んだ䟍者の恥蟱を思うお返したのである。このために䟍者は身を誀らず子孫も繁昌したずいう。俗人さえもこの心がある。出家人はもちろんでなくおはならない随聞蚘第四。これによっお芋るず、圌は窃盗を眪するより盗者の心を劎わるこずを重しずするのである。  もずよりこれは「悪は是認すべきものである」ずいう意味ではない。悪は仏祖の斥けたごずく斥くべきものである。しかし悪瞁によっお䞀時の悪に萜ちたこずのために、いかなる善にも向くべきその「本心」を斥けるこずは、慎むべきだずするのである。この「本心」のゆえに眪を責めようずしない道元の態床は、悪を恐れるこずを条件ずしお䞀切の眪を「蚱される」ずする芪鞞の態床ず、倚分に盞通ずるものを持぀ように芋える。が、芪鞞においおは「蚱す」ものは匥陀であった。道元においおは人である。絶察者の慈悲はすべおを蚱しおしかも自ら傷぀かないであろう。しかし人間の慈悲は悪を蚱すこずによっお正矩を蹂みにじる過ちに萜ち入りはしないか。たずえば慈母の偏愛におけるごずく、かえっお悪を助長する結果になりはしないか。  慈悲が単に人間の自然的な愛を意味するならば、恐らくこの危険を脱れるこずはできたい。しかし道元の説く慈悲は身心を攟擲したものの慈悲である。我執名聞を捚おたものの慈悲である。それは仏の真理のために、――正矩や善に充たされた䞖界のために、行なわれるのであっお、珟䞖的な効果のために行なわれるのではない。埓っおそれは、いかなる悪を蚱す堎合にも、悪そのものを蚱すのではなくしお人を憐れむのであるこずを忘れない。この芚悟ある以䞊は、いかなる手が助力を求めお差し出されようずも、䜕の躊躇もなくそれを充たすこずができるのである。道元はこのこずに぀いお日垞の些事を䟋に匕いおいる、――たずえば人が来お、他の人に物を乞うずか、あるいは蚎蚟するずかのために、手玙を曞いおくれず頌むずする。この堎合に、自分は䞖捚お人である。珟䞖的な利を远うこずに関䞎するのは柄でない、ず蚀っお断わるずする。それは䞖捚お人の法にかなっおいるように芋えるが、しかしもし䞖人の非難を思うお断わるのであるならば、それは我執名聞に動いおいるのである。頌む人に䞀分の利益をも䞎える事ならば、自己の名聞を捚おお頌たれおやるがいい。仏菩薩は人に請われれば身肉手足さえも截った。この道元の蚀葉に察しお、懐奘は問うおいう、――たこずにそうである。しかし人の所垯を奪おうずする悪意のある堎合ずか、あるいは人を傷぀ける堎合などにも、助力しおいいかどうか。道元は答える、――双方のいずれが正しいかは、自分の知ったこずではない、ただ䞀通の状を乞われお䞎えるだけの話である。その際蚀うたでもなく正しい解決を望むず曞くべきであっお、自分が審くべきではないであろう。たたたずい頌み手の方が正しくないず知っおいる堎合でも、䞀埀その望みをきいお、手玙には正しい解決ぞの望みを披瀝しおおけばよい。「䞀切に是なれば、かれもこれも遺恚あるべからざるなり。かくの劂くのこず、人に察面をもし、出来るこずに぀きお、よく〳〵思量すべきなり、所詮は事にふれお、名聞我執を捚぀べきなり」随聞蚘第䞀。  以䞊のごずく道元は、名聞我執を捚おた透明な䞖界においお、䞀切に是なる広い愛の可胜を説くのである。この愛の救枈の「力」を床倖に眮けば、それは人間に実珟せられた匥陀の慈悲ずも芋られるであろう。  芪鞞は「信」においお仏祖先達に盲埓する。「芪鞞にをきおは、たゞ念仏しお匥陀にたすけられたいらすべしず、よき人の仰せをかうふりお、信ずるほかに別の子现なきなり。念仏は、たこずに浄土に生るゝたねにや䟍るらん。たた地獄にお぀る業におや䟍るらん。総じおもお存知せざるなり。たずひ法然䞊人にすかされたいらせお、念仏しお地獄におちたりずもさらに埌悔すべからずさふらふ。」――これに察しお道元は「行」においお仏祖先達を暡倣する。善くずも悪しくずも、圌はただ埓うのである。我芋を攟擲しお「埓う」ずころに䞡者の䞀臎があり、「信」ず「行」ずに焊点の別れるずころに䞡者の著しい盞違がある。もずよりここに信ず行ずを別぀のは、ただ匷調の盞違を認めるのであっお、根本的な盞違を意味するのではない。芪鞞はその匥陀ぞの信を自己の生掻に具珟する意味においお、培底的な行者であった。そうしおその信の匷い力はこの行の䞭から茝き出た。たた道元はその仏暡倣の行を玔粋に仏ぞの信の䞊に築いた意味においお、培底的な信者であった。そうしおその行の深い意味はこの信の䞭から流れ出た。かく芋れば䞡者は根本においお䞀である。が、それにもかかわらず䞡者はおのおの異なった特殊性をもっお珟われる。我々はその特殊性に泚目するのである。  この䞀臎ず盞違ずは䞡者の内容に垞に繰り返しお珟われるように芋える。䞀臎するものは垞に色圩を異にし぀぀䞀臎し、盞違するものは垞に根を䞀にし぀぀盞違する。釈迊の説いた「慈悲」が䞡者に生かされる方法もたたそれである。「慈悲」の前に善悪の軜んぜられるこずもたたそれである。芪鞞においおは慈悲は匥陀のものであった。埓っお人間の道埳はその前に意矩を倱う。道元においおは慈悲は人間のものであった。埓っお人間の道埳は慈悲によっお䞀局その意矩を深められる。芪鞞は人の善悪ず匥陀の慈悲ずの関係を説くのみであるが、道元は人ず人ずの間の関係に深く立ち入っおいる。しかもたたたた䞡者が同じき埳の問題に説き及ぶず、䞡者の説くずころはその䞭栞においお垞に䞀臎するのである。たずえば芪鞞は「孝」に぀いおいう――自分は「父母の孝逊」のためにか぀お仏を念じたこずはない。なぜなら、第䞀に自分は自分の力で父母を助けるこずができない。第二に、䞀切の有情はすべお皆䞖々生々の父母兄匟である。――すなわち圌は、珟䞖においお、人ずしお、父母の氞遠の幞犏を祈るのを無意矩ずするのである。道元もたた同じく「孝」に぀いおいう――圚家の人は『孝経』等の説を守るがよい。しかし出家は恩をすおお無為に入ったものである。出家の䜜法ずしおは、恩を報ずるに䞀人に限らず䞀切衆生をひずしく父母のごずくしなくおはならない。今生䞀䞖の父母を特別に扱い特別に廻向するのは仏意であるたい。父母の恩の深きこずは真実に知らなくおはならないが、しかしたた䜙の䞀切も同様であるこずを知らなくおはならない随聞蚘第二。――すなわち慈悲の前には、特に「孝」ず名づけられる埳の存圚は蚱されないのである。  が、この皮の䞀臎は倚く数えるこずができない。なぜなら芪鞞の埳に関する蚀説はきわめお少ないからである。埓っお我々は匥陀の慈悲に裏づけられた道埳を知るこずができない。それに反しお我々は、人間の慈悲を説く道元においお、熱烈なる道埳の蚀説を芋いだすこずができる。民衆に盎ちに觊れ、その生掻を盎接に動かした芪鞞が、その「信」のゆえに人間の道を説くこず少なく、山林に隠れおただ真理のために努力した道元が、その「行」のゆえに人間の道に情熱を持぀。この察照は興味深いものである。 六 道埳ぞの関心  もずより道埳ぞの関心は、絶察者ずの合䞀を目ざす宗教にずっお、第䞀矩のものではない。芪鞞に道埳の蚀説が少ないのはむしろその絶察者ぞの情熱の熟烈を語るものであろう。が、たたここには、匥陀の浄土を珟䞖のかなたに眮く教えず、この生をもっお盎䞋に絶察の真理を䜓珟しようずする教えずの、必然の盞違も認められる。芪鞞においおは人はその煩悩のたたに「浄土」に救い取られるのである。絶察界の光明の前には矮小なる人の煩悩は䜕らの陰をも投げない。しかし道元においおは煩悩の克服が真理䜓珟の必須の条件である。矮小なる人の内界も䞀床煩悩が埁服せらるる時無限なる自由の境地を珟じ埗るのである。ここにおいお前者は僧に肉食劻垯を蚱しお僧俗の区別を緩やかにし、埌者はこの間に最も厳栌な区別を立おる。前者はただ悪の蚱されるこずを説き、埌者は戒埋による力匷い自己鍛錬を力説する。この意味で道元は、「煩悩即菩提」の思想のうちに生掻ず理想ずの或る調和を造り出しおいた日本の仏教ぞ、再びあの原本的な「あれかこれか」を力匷く匕き戻したのである。  が、道元は戒埋をそのたたに䞀切の人に課しようずするのではない。仏の暡倣者ずなったものは、すなわち僧は、仏家の颚ずしお戒埋を守らなくおはならぬ。しかし俗人にずっおは、それは必ずしも必芁でない。仏は「䞀切有呜の者故らに殺すこずを埗ざれ」ずいう。「汝等沙門圓に愛欲を捚぀べし」ずいう。しかし俗人が魚鳥を殺し愛欲に生くるこずは䜕の眪ずも認められない。このこずは戒埋から「䞇人の螏むべき道」ずしおの普遍的な意味を奪う。ずすれば、それは道埳ずしおの暩嚁を倱いはせぬか。この疑問は僧尌の心にも起こった。ある時䞀人の比䞘尌が道元に問うお蚀う――䞖間の女房などにも仏法を孊んでいるものがある。比䞘尌に「少々の䞍可」があっおも、仏法にかなわぬはずはない。いかん。道元は答えた――圚家の女人は愛欲に生き぀぀仏法を孊んで、なお埗るこずがあるかも知れない「たゞこれ志のありなしによるべし。身の圚家出家にはかゝはらじ」。しかし出家の女人に出家の心がなければ、圌女は絶察に埗るこずができたい。圚家の女人に仏法の志がある堎合は、その生掻がいかに戒埋に合わないものであろうずも、なおプラスである。出家の女人に圚家の心があれば、たずいその仏法の志が圚家の女人よりも優れおいるずしおも、なおマむナスである、「二重のひがこず」である随聞蚘第䞉。蚀い換えれば、圚家の女人は愛欲肯定の立堎にあるゆえに、愛欲によっお煩わされない。しかし比䞘尌は愛欲吊定の立堎にあるゆえに、愛欲によっお甚倧の害をうける。立堎の盞違が同䞀のものの意矩を異ならしめるのである。しからばこの盞違は䜕を意味するか。䞀は仏を慕い぀぀も仏祖の暡倣をあえおし埗ない立堎である。䜕がゆえに愛欲が断ぜらるべきであるかは、ここでは十分に理解せられおいない。他は身をもっお仏祖の暡倣を志した立堎である。愛欲を断たなくおはならなかった仏祖の心境は、ここでは十分に理解せられおいなくおはならぬ。仏の真理を暙準ずしお考えれば埌者ははるかに前者よりも高い。が、この「より高い」こずのために、埌者は「より厳栌な」埳を芁求せられるのである。  道元はこの意味で僧の埳ず俗の埳ずを明癜に区別する。「孝順に圚家出家の別あり。圚家は孝経等の説を守぀お、生に぀かぞ死に぀かふるこず、䞖人皆知れり、出家は恩をすおゝ無為に入る故に、恩を報ずるこず䞀人に限らず」ずいうごずきそれである。圚家はただその「芪」に孝順であればよい。しかし出家は䞇人に察しおその芪に察するず同じくふるたわなくおはならない。すなわち「孝」ずいうごずき特殊の人に察する埳に拘泥しおはならない。圚家にずっおは芪のために自己を犠牲にするこずは埳の䞭の埳である。しかし出家にずっおは、芪のためにその道心を捚おるずいうごずきは、私情に迷っおその本分を傷うこずである。圚家は利己心のために芪を捚おおはならない。しかし出家は道心のために芪を逓死せしめおもよい同䞊第二。  道元は求法のために瀕死の垫を捚おた明党和尚を讃矎しおいる。その心持ちが圌をしお「孝」をも斥けしめた。「孝」ずは本来芪子の間の深い愛である。それは人間的情愛の玔なるものずしお、䜕人も承知しおいるずころである。ただ自然の傟向が芪の子に察する愛を子の芪に察する愛よりもはるかに匷からしめる。埓っお芪の子に察する愛は埳ずしお力説せられずに、ただ子の芪に察する愛のみが埳ずしお力説せられたのである。しかしもし孝が捚離し難い特殊の力を持぀ずすれば、それは孝が埳であるゆえではなくしお愛情であるゆえでなくおはならない。この愛情は圚家にずっおは矎しい。しかし出家にずっおは障瀙である。  ある僧が道元に問うお蚀った――自分には老母があっお、ひずり子である自分に扶持せられおいる。母子の間の情愛もきわめお深い。だから自分は己れを枉げお母の衣糧をかせいでいる。もし自分が遁䞖籠居すれば母は䞀日も掻きお行けないであろう。が、そのために自分は仏道に専心するこずができない。自分はどうすればいいのか。母を捚おお道に入るべきであるのか。道元は答えおいう――それは難事である。他人のはからうべき事でない。自らよくよく思惟しお、たこずに仏道の志があるならば、どんな方法でもめぐらしお母儀を安堵させ、仏道に入るがよい。芁求匷きずころには必ず方法が芋いだされる。母儀の死ぬのを埅っお仏道に入ればすべおが円く行くように思えるが、しかしもし自分が先に死ねばどうなるか。老母は真理ぞの努力を劚げたこずになる。これに反しお「もし今生を捚おお仏道に入りたらば、老母はたずひ逓死すずも、䞀子をゆるしお道に入らしめたる功埳、豈埗道の良瞁にあらざらんや」同䞊第䞉。  真理の前には母子の愛は私情である。もし母がその愛を犠牲ずしおもその子の真理ぞの努力を助けるこずができれば、それは母ずしお以䞊の倧いなる愛であろう。これ真理王囜の䜿埒ずしおの道元にふさわしい蚀葉である。が、それは圌の説く慈悲ず矛盟しはしないか。仏は請わるればその身肉をさえも䞎えた。この僧は逓えたる母に圌の党生掻を䞎うべきでないのか。しかり。圌は請わるれば䞎うべきである。が、それは「母」なるがゆえではない。圌は䜕人に察しおも同じき培底をもっおその党所有を䞎えねばならぬ。しかるにここに問題ずせられるのは、「母なるがゆえ」の苊心である。埓っおここに答えられるのもたた「母なるがゆえ」の特殊の情を捚おるこずである。すなわち「孝」は「慈悲」に高たらなくおはならない。「子」は「仏匟子」に高たらなくおはならない。かくしお実珟せられる愛の行は、「母のため」ではなくしお「真理のため」である。  僧の埳ず俗の埳ずの右のごずき区別は、畢竟圌が珟䞖的䟡倀ず仏法ずの間に眮いた「あれかこれか」に起因する。圌の蚀葉で蚀えば、「仏法は事ず事ずみな䞖俗に違背」するのである。圌はその仏法を遞んだ。そうしおその仏法は圌にずっお唯䞀無䞊の䟡倀であった。それならば、䜕ゆえに圌は䞖俗の埳を認めるのであろうか。仏法ず違背する䞖俗の立堎は、それ自身すでに斥けらるべきものではないのであろうか。  この点に぀いおは道元は明らかに培底を欠いおいる。圌は仏埒の䞖界に察しお俗人の䞖界の存立するこずを是認する。そうしおこの俗人の䞖界にもたた貎ぶべき真人のあるこずを、僧埒ぞの蚓誡のために、しばしば指摘しおいる。この二元的な態床は恐らく圌が仏法に察しお儒教を認めおいたこずに起因するのであろう。圌は絶察の真理の䜓埗に関しおは、仏法以倖の䜕物にも暩嚁を認めない。しかし人間の道や、道に察する情熱などに関しおは、圌は倖兞の蚀葉にも匷く共鳎するのである。「朝に道を聞けば倕に死すずも可なり」ずいうごずき蚀葉は、圌がその真理ぞの党情熱を蚗しお匕甚するずころである。  この儒教ぞの信頌恐らくは道に察する孔子の情熱ずの共鳎が、圌をしお暗々裏に俗人の䞖界の道埳原理を認めしめ、぀いに右のごずき䞍培底な立堎に立たしめたのであろう。が、この䞍培底のゆえに圌はたた仏儒䞡教を通じお存する䞀぀の倫理を、――僧俗を通じおあらゆる人間に通甚すべき倫理を、把捉するに至ったずも考えられる。圌が「俗なほかくのごずし」ずしお僧䟶に蚓える矎埳は、すべお儒教の埳なのであるが、圌はそれを仏埒にもふさわしいず芋るのである。そうしおこれら䞀切の矎埳に共通な点は、それが我執や私欲を去るずいうこずである。「俗は倩意に合はんず思ひ、衲子は仏意に合はんず思ふ。」「身を忘れお道を存する。」畢竟これが――絶察者の意志に合うように「私」を去っお行為するこずが、――あらゆる人間に共通な道埳の原理ずしお道元の暗瀺するずころである。  道元の道埳の蚀説には、もう䞀぀著しい特城が認められる。内面的意矩の匷調がそれである。圌は説く――人がある埳を行なうのは自ら貎くあらんがためであっお、人に賞讃せられんがためではない。悪を恥ずるのもたた自らの卑しさを自ら恥ずるのであっお、人に謗られるゆえではない。行為はそれ自身に貎く、あるいは卑しい。人は密宀であるず衆人の前であるずによっお行為を二䞉にしおはならない。䞖人の賞讃するず謗るずは、行為それ自身の䟡倀には䜕の関係もない。埓っお人は、「仁ありお人に謗せられば愁ひずすべからず。仁無うしお人に讃せられば、是れを愁ふべし。」「真実内埳なうしお人に貎びらるべからず」。道元はこのこずを特に「この囜の人」に察しおいう。この囜の人は「真実の内埳」を知らず、倖盞をもっお人を貎ぶ。埓っお無道心の孊人が魔道に匕き萜ずされやすい。たずえば「身を捚おる」ずいう事を顕著にするために、雚にぬれおも平気で歩くずいうごずき奇異な行ないをするず、䞖人は盎ちに「貎い人だ、䞖間に執着しない」ず認めおしたう。孊人自らも貎い人のごずくに構える。この皮の「貎い人」がこの囜には倚いのである。しかしこれは魔道ずいうほかない。倖盞は䞖人ず倉わらず、ただ内心を調え行く人こそ、真の道心者ず呌ばるべきであろう随聞蚘第二。  道元はこれらのこずを「孊人」に察する蚀葉ずしお残しおいる。しかし圌のこの粟神は、孊人を通じ孊人を超えお、広く歊士時代の粟神に圱響を䞎えたであろう。埌幎圌を越前に招いたのは京郜譊護の任にあった歊士波倚野矩重である。鎌倉に犅寺を興した北条時頌が最初に招聘しようずしたのもたた圌であった。もし圌の内面的道埳の匷調が、䜕らかの圢においお歊士の思想に圱響を䞎えたずすれば、歊士の道埳の䞀面たる尊貎の道埳は、圌の粟神ず結び぀けお考うべきものずなるであろう。 䞃 瀟䌚問題ずの関係  道元は俗人の䞖界を認め俗人の埳を認めた。しかし圌は、この俗人の埳もたた培底する時僧の埳に䞀臎すべきものであるこずを、――「私欲」を去っお「倩意」に即くこずが畢竟「煩悩」を断じお「仏意」に埓うこずに垰着すべきであるこずを、説こうずはしない。なぜなら「私欲」を去るこずは、必ずしも肉欲や食欲を克服するこずではないからである。俗人が私欲を去っお道を存する、それによっお実珟せられようずする理想の䞖界は、䞀切の民衆がその欲するたたに肉欲を充たし食欲を充たしお、しかも争いなく䞍公平なき䞖界である。しかし圌にずっおはこの皮の欲望の充足は䜕らの䟡倀をも意味するものでない。欲望そのものがすでに苊悩の因であり、欲望の充足はさらに新しき苊悩の因である。それらは単に克服せらるべきものに過ぎない。人が真実に目ざすずころは、これらのものを越えた倧いなる䟡倀である。  このために道元は俗䞖界における生掻䞍安を俗䞖界の埳によっお救おうずはしない。生掻䞍安の根源は畢竟人の欲望にある。この䞍安を救うものはこの根源を断ずる仏祖の道のほかにはない。ここにおいお圌はただ仏祖の道の顕珟にのみ努力する。そうしおその顕珟は、たずい少数であっおも、その匟子に最もよく仏法を䜓珟させるこずである。  このような立堎に立った圌は、その時代に著しい荘園のための争いや、新しく暩力を埗た地頭の癟姓に察する苛斂などを、批評しようずはしない。数次の戊争によっおおのが力を自芚した倚数の歊士が、その恩賜をすなわち所領を、財産を芁求するのは圓然である。限られた土地に察する制限なき欲望が争いを起こすのもたた圓然である。これはこの時代の人々には嘆かわしい珟実であったかも知れない。しかし道元にずっおは人間ずずもに叀い珟象である。圌の蚀うべきこずはただ「財欲を捚およ、衣食に心を煩わすなかれ」の䞀語に぀きる。しかも圌はこれを俗人に向かっお蚀うのではない。「孊道の人」、「衲子」にのみ蚀うのである。生掻の䞍安を陀华するためではなくしお、ただ「真理」の建蚭のために。  しかし道元の時代にずっおは僧は実に人生の本道を代衚するものであった。公家も歊士も癟姓も、男も女も、痛苊のどん底に沈めば僧ず寺院に頌っお来たのである。そうしお圌を苊しめたさたざたの欲望、情熱、憎悪などは、「十悪五逆」ずしお仏の前に懺悔せられたのである。道元の時代に䜜られた『平家物語』によれば、倧仏殿を焌いた平重衡は、囚われた埌に「生身の劂来」ず蚀わるる法然房に懺悔しお蚀う、――平家が暩力を持ったころには自分はただ「䞖の望み」にほだされお驕慢の心のみ深かった。いわんや運尜き䞖乱れおからは、「是に争ひ圌に争ふ、人を滅がし身を助けんず営み、悪心のみさぞぎりお、善心はか぀お起らざりき」。これこそこの時代の争闘の心が畢竟垰着するずころの嘆息であろう。圌らが「呜を捚お軍をする」のも、熊谷の蚀葉をかりお蚀えば、おのが子の「末の䞖を思ふ故」である、すなわち家族の生掻を保蚌するためである。これだけの動機で人の呜を絶ずうずする際に、生呜の貎さに打たれお「俄に怚敵の思ひを忘れ、応ち歊意の気を抛぀」たものは、単に熊谷のみには限るたい。これらの苊しめる心が結局傟いお行くずころは、仏門のほかにはなかったのである。埓っおここに真実の僧䌜和合団䜓を築き䞊げるこずは、最も本質的な意味で人生を指導するこずにほかならない。たずい䞀人ずいえども真実仏埒の名に䟡するものを造れば、やがおそれは人生問題解決の暙匏を暹立するこずになる。  この意味で道元は財欲の攟棄ず乞食の生掻ずを「僧䟶」に向かっお力説した。それは土地を所有し裕犏に暮らすに慣れた圚来の僧䟶にずっおは、確かに新しい道であった。僧䟶の生掻がもし仏の真理の䜓埗にあるならば、檀那倖護の扶持をうけお「衣糧に煩ふこずなく」仏道を行ずるのが、畢竟目的にふさわしいではないか、ず人はいう。しかし道元にずっおは、極少の財ずいえども、貯えるこずによっお道心を害する。檀那の信斜を明日の食のために取っおおくのは、財を貯えるこずである。「衣糧に煩ふこずなく」ずは明日の準備をあらかじめしおおくこずではなくしお、明日の食を党然念頭に眮かないこずでなくおはならぬ。もずよりこのこずは、寺院に垞䜏物なく、乞食の儀もたた絶えお䌝わらないわが囜においおは、特に困難であるかも知れない。しかしそれにもかかわらず仏埒はあらかじめ食を思うべきでない。絶食するに至っお初めお方䟿をめぐらすべきである。「䞉囜䌝来の仏祖、䞀人も飢ゑ死にし寒え死にしたる人ありずきかず。」䞖間衣糧の資は「生埗の呜分」があっお、求めおも必ずしも埗られない。求めずずも必ずしも埗られぬのではない。道元自身は「䞀切䞀物を持たず、思ひあおがふこずもなうしお」十䜙幎を過ぎた。わずかの呜を生くるほどのこずは、いかにず思い貯えずずも、倩然ずしおあるのである。「倩地これを授く。我れ走り求めざれども必ず有るなり。」ただ任運にしお心を煩わすなかれ。たずい逓え死に寒え死にするにしおも仏教に随っお死ぬのはこれ氞劫の歓びである随聞蚘第䞀、第䞉。  かくお道元はその埒に察しお絶察に「貧」を説く。「孊道の人は先づ須く貧なるべし。財おほければ必ずその志を倱ふ。圚家孊道のものなほ財宝にたずはり、居凊をむさがり、眷属に亀はれば、たずひその志ありず云ぞども、障道の因瞁倚し。」韐公は俗人であるが僧䟶に劣らなかった。それは圌が財宝を捚おる勇気を持ったからである。圌がその財宝を海に沈めようずしたずき、人は諫めお蚀った、貧人にも䞎え仏事にも甚いられよ。圌は答えお蚀った、自分は有害のものず認めお捚おるのである、すでに有害ず知っおどうしお人に䞎えられよう。かくお圌は貧人ずなり、笊を䜜っお掻蚈を立おた。この芚悟が圌の内生を深めたのである。「俗すらなほ䞀道を専らに嗜むものは、田苑荘園等を持するこずを芁せず。」「我身も田園等を持たる時もありき。亊財宝を領せし時もありき。圌の時の身心ずこのころ貧うしお衣盂にずもしき時ずを比するに、圓時の心すぐれたりず芚ゆる、これ珟蚌なり」同䞊第䞉。  かく道元は衣食䜏の欲からの脱離を真理ぞの道の必須の条件ずする。埓っお日本圚来の仏教、――王䟯貎族がその奢䟈の生掻のたたに仏道に入るこずを認めた日本圚来の仏教を、圌は力匷く吊認する。釈迊は䜕ゆえに倪子の䜍眮を捚おお乞食ずなったか。財宝を分かち䞎え所領を均分するこずによっお䞀切の問題が解かれるならば、圌は王ずなっおそれを実行したはずである。王䟯が仏に垰する第䞀歩は乞食ずなるこずでなくおはならない。これが道元の道であった。 八 芞術ぞの非難  この道元の考え方はやがお仏教の芞術的劎䜜を吊認するこずになる。  聖埳倪子ず法隆寺ずによっお掚枬せられる掚叀時代の仏教、光明后ず倧仏殿ずによっお想像せられる倩平時代の仏教、降っおは貎族の矎的生掻に調和した藀原時代の仏教、これらを通じお著しいのは、圌らの法悊がいかに匷く芞術的恍惚に圩られおいるかの䞀点である。そうしお我々もたたこれらの時代の宗教芞術を、その深い、枅浄な、神秘的な矎しさのゆえに、宗教それ自身よりも重んじようずする。仏祖の教えに合わないにもせよ、これらの芞術は人類の偉倧な宝である。仏祖の行道に違うにもせよ、この芞術を宗教的に瀌拝した心には、豊かにしお寛やかな矎しい信仰が認められる。  しかし原始仏教の原本的な「あれかこれか」を蘇らせた道元にずっおは、仏像堂塔の類は真理ぞの道に䜕の益するずころもない。「圓䞖の人、倚く造像起塔等のこずを仏法興隆ず思ぞり。是れ非なり。たずひ高堂倧芳玉をみがき金をのべたりずも、これによ぀お埗道のものあるべからず。ただ圚家人の財宝を仏界に入れお善事をなす犏分なり。たた小因倧果を感ずるこずあれども、僧埒のこのこずをいずなむは仏法興隆にあらざるなり。たずひ草菎暹䞋におもあれ、法門の䞀句をも思量し、䞀ず時の坐犅をも行ぜんこそ、誠の仏法興隆におあらめ。」仏像舎利を恭敬しお埗悟するず思うのは邪芋である。「倩魔毒蛇の所領ずなる」因瞁である。もずより仏像舎利は劂来の遺像遺骚であるゆえに軜んじおはならない。特にその矎醜のゆえに恭敬の念を二䞉にしおはならない。「たずひ泥朚塑像の麁悪なりずも仏像を敬ふべし。」しかしそれは「法の悟り」ず関するものではない随聞蚘䞀、二。これは明らかに「矎」の力を無芖するものである。そうしおこの無芖は、官胜的なる䞀切のものに察する䞍信の衚癜である。宗教心の緊匵に際しおはこの傟向はいずれの囜いずれの時にも珟われる。パりロはギリシアの圫刻家ず戊った。サノォナロラはメディチの勢力ず戊った。芞術の歓びが官胜の歓びを䌎なうずすれば、芞術がこの皮の信仰に察しお「あれかこれか」の秀にかかるのは圓然であろう。  道元が斥けるのは単に仏教矎術のみではない。「文筆詩歌」等もたた「詮なき事なれば捚぀べき」ものである。法の悟りを埗んずするものに矎蚀䜳句が䜕の圹に立ずう。矎蚀䜳句に興ずるごずきものは「ただ蚀語ばかりを翫んで理を埗べからず」。自らの内生を衚珟する堎合にも、重倧なのはその内生であっお、蚀語文章ではない。「近代の犅僧、頌を䜜り法語を曞かんがために文筆等をこのむ。是れ䟿ち非なり。頌に぀くらずずも心に思はんこずを曞出し、文筆ずゝのはずずも法門をかくべきなり。」「思ふたゝの理を顆々ず曞きたらんは、埌来も文はわろしず思ふずも、理だにも聞えたらば、道のためには倧切なり」同䞊第二。  ここにも道元は、「法門」「理」などの衚珟ずしお以倖に、文芞の意矩を認めおいない。この道元が経兞の芞術的結構に無関心であったのは圓然である。圌は断片的に経兞の句を匕甚する以倖、䞻ずしお唐宋の犅僧、あるいは王䟯官人の蚀行を匕いた。それはすべおある「理」を珟わせば足るのである。これに比べれば、念仏宗の朮流には幟分文芞に察する寛容があった。もずよりそれも勧善懲悪であるがゆえに「法門の意」にかなうずせられるのではあるが、「諞法実盞の理を按ずるに、かの狂蚀綺語の戯、かぞりお讃仏乗の瞁なり」ずする思想は、単に『十蚓抄』の著者「蓮の台を西土の雲に望む翁」のみならず、䞀般に戊蚘文芞の蚘者を動かしおいた思想であろう。この察立はやがお矎術文芞の朮流の内に王朝の流颚を远う衚珟法ず極床に官胜的芁玠を没华する衚珟法ずの察峙ずなっお珟われるのである。 九 道元の「真理」  以䞊説くずころの道元の思想は、すべお圌の根本の情熱――身心を攟䞋しお真理を䜓埗すべき道ぞの情熱に基づいおいる。自分はこれらの思想を明らかにし぀぀もなお絶えず圌の「真理」の倖郭に留たった。そもそも圌のいわゆる「仏の真理」ずは䜕であるか。  ここに我々は最も重芁な、しかも最も困難な問題に逢着する。  我々が取り扱った道元説法の初期、すなわち圌が䞉十䞃、八歳に至るたでの数幎間においおは、圌はわずかに『正法県蔵匁道話』、『正法県蔵摩蚶般若波矅蜜』、『正法県蔵珟成公案』の䞉篇によっおこの問題に觊れおいるのみである。『氞平広録』に茉するずころの圌の語録も、この時代に属するものはきわめお少ない。しかるにこの埌四十四、五歳に至るたでの数幎間においおは、圌は実に䞃十篇以䞊の『正法県蔵』を草しお圌の真理を説いおいる。圌の思想はたさにこの時期に至っお昂揚の極に達するのである。この間に圌は六波矅に招かれお歊士の前に法を説いた。六波矅の評定衆波倚野矩重が請うたたに、四十四の歳の倏越前吉峰の叀粟舎に移り、翌幎の䞃月に倧仏寺すなわち氞平寺を開いた。吉峰粟舎に移った䞃月より翌幎の䞉月初めに至る八か月間のごずきは、䞉十篇の『正法県蔵』を矢継ぎ早に草しおいるのである。著䜜の量をもっお圌の心生掻の緊匵の床を掚察し埗るずすれば、四十二歳より四十四歳に至るたでの䞉幎間は、圌の生涯に特殊の意味を持぀らしい。  が、『正法県蔵』の党䜓にわたっお圌の思想を組織的に叙述するこずは、到底今の自分の力の及ぶずころではない。ここにはただ䟋瀺的に二、䞉の問題に぀いお圌の思想を考察し、その片鱗を䌺うに留めよう。 む 瀌拝埗髄  道元の『正法県蔵』のうちに「瀌拝埗髄」ず題せられる䞀篇がある。そのなかに含たれおいる興味深い問題をたずここに取り出しお芋ようず思う。  道元によれば、真理を修行䜓埗しようずするものにずっお、第䞀に重倧なのは導垫である。正しい垫に面接し、「人を芋る」のでなければ、求道者は氞遠の理想を把捉するこずができない。第二に重倧なのはこの垫に埓い、䞀切の瞁を投げ捚お、寞陰を惜しんで粟進匁道するこずである。垫を疑い粟進を欠くものは同じく真理を䜓埗するこずができない。しかしかくのごずく迷蒙を断じお仏の真髄を䜓埗した堎合に、圌をしお䜓埗せしめた畢竟のものは、他の䜕人でもなくしお圌の自己である。圌の人栌の底よりいづる至誠信心である。「髄を埗るこず法を䌝ふるこず、必定しお至誠により信心による。」しからばこの至誠信心ずは䜕であるか。それは倖より䞎えられるものではない。が、たた自分の心よりいづるものでもない。自ら欲し、自ら努めお至誠信心を぀くり出すこずはできぬ。「たゞたさに法を重くし身を軜くするなり。䞖をのがれ道をすみかずするなり。いさゝかも身を顧みるこず法よりも重きには法䌝はれず、道埗るこずなし。」すなわち真理䜓埗の究極の契機は、法を重くし身を軜くするこずである。 「身心はうるこずやすし。䞖界に皲麻竹葊の劂し。」ただこの身心をもっお法の容噚ずするずきにのみ、我らの身心は皲麻竹葊よりも䟡倀あるものずなる。我らにしお自己の生掻に䟡倀あらしめんず欲するならば、この䟡倀なき身心を「あふこずたれなる法」の担い手ずしお、党然、法に奉仕せしめねばならぬ。  この信念から、ものの䟡倀に察する䞀぀の確固たる暙準が生たれおくる。倧法を保任し真髄を埗たものは、それが露柱、灯籠、諞仏、野干、鬌神、男、女、貎族、賀民、の䜕であろうずも、瀌拝すべき貎さを担っおいる。その物その人が貎いのではなくしお、そこに具珟せられた法が貎いのである。その物その人を敬うのではなくしおその埗法を敬うのである。だから人間にあっおも人は、その保任するずころの法に応じお䟡倀を獲埗する。この䟡倀の暙準の前には、䞖䞊の䞀切の尊卑の差別は暩嚁を持たない。「われは倧比䞘なり、幎少の埗法を拝すべからず。われは久修緎行なり、埗法の晩孊を拝すべからず。われは垫号に眲せり、垫号なきを拝すべからず。われは法務叞なり、埗法の䜙僧を拝すべからず。われは僧正叞なり、埗法の俗男俗女を拝すべからず。われは䞉賢十聖なり、埗法せりずも比䞘尌等を拝すべからず。われは垝胀なり、埗法なりずも臣家盞門を拝すべからず」ずいうごずきは、「䞍聞仏法の愚痎のたぐひ」である。䞖間的な階玚秩序は、法の暩嚁によっおこずごずく芆されねばならぬ。  この芋地から道元は䞖䞊に行なわれる䞀切の差別に察しお痛撃を加えた。特に圌が熱心に攻撃するのは、仏教界に著しい女の差別埅遇である。圌は暖かい同情をもっお、宋の末山尌了然がいかに志閑犅垫を教化したか、たた仰山の匟子劙信尌がいかに十䞃僧に痛棒を喰らわせたかを語った。そうしお女流もたた男子ず同じく埗道するこずを説いた埌に、淫欲の誘惑ずしお女を斥けるものを痛眵しおいる。女が染汚の因瞁であるならば男もたた女にずっお染汚の因瞁であろう。それを嫌わば男女は氞久に敵である。のみならず染汚の因瞁ずなるのは女人のみでない。倢も倩日も神鬌も、あるいは仏像さえも、その因瞁ずなるこずがある。「女人なにのずがかある。男子なにの埳かある。悪人は男子も悪人なるあり。善人は女人も善人なるあり。聞法をねがひ出離をもずむるこず、かならず男子女人によらず。もし未断惑のずきは男子女人おなじく未断惑なり。断惑蚌理のずきは男子女人、簡別さらにあらず。」女人の枈床を拒むのは人類の半ばを捚おるのである。それは慈悲ずは蚀えぬ。――かくお道元は「日本囜にひず぀のわらひごずあり」ずしお、女人犁制の道堎あるこずをあげおいる。釈迊仏圚䞖の時の集䌚には倚数の女人が混じおいた。「劂来圚䞖の仏䌚よりもすぐれお枅浄ならん結界をば、われらねがふべきにあらず。」仏匟子の䜍は第䞀比䞘、第二比䞘尌、第䞉優婆塞、第四優婆倷である。仏匟子第二の䜍は転茪聖王よりも貎い。「いはんや小囜蟺土の囜王倧臣の䜍にならぶべきにあらず。」かくのごずく貎い比䞘尌をさえも入るべからずずいう道堎を芋るず、田倫野人、囜王倧臣が自由に出入するのみならず、そこに䜏む僧䟶は十悪十重を犯しお恥じない。たこずにこの小囜に初めお芋る堕萜である。  この道元の攻撃はただ僧䟶にのみ向けられたものであるが、しかし我々はここから人間党䜓に察する圌の態床を透芋するこずができる。道を埗た比䞘尌の存するこずは女人党䜓の「道ぞの可胜性」を立蚌する。か぀お悪人であったものが道を埗たこずは、䞀切の悪人の「道ぞの可胜性」を立蚌する。単に淫婊であり悪人であるゆえをもっお、道堎に入る暩利を奪わるべきでない。䞀切の人は、その皲麻竹葊のごずき身心を法の容噚ずなし埗るがゆえに、平等に埅遇さるべきである。人ずしおこの䞖に生を享けたずいうこずは「あひがたき法」に逢っおそれを埗るずいう幞犏な機䌚が䞎えられたこずを意味するのであっお、䜕人もこの機䌚を遮げる暩利は持たない。  我々はここに二぀のこずが説かれおいるのを芋る。䞀぀は䞖䞊の䟡倀の差別を撥無するこずである。皮姓も矎醜も、階玚の貎賀も、官䜍も長幌も、すべお人の貎さには関するずころがない。人は平等である。皲麻竹葊のごずき䟡倀なき身心においお平等であるずずもに、この身心が法の容噚であり埗る点においおも平等である。が、第二は、法を重んずるこずによっお人間に真実の䟡倀の階段を䞎えるこずである。人は埗髄を瀌拝せねばならぬ。人ずしおは平等であっおも、法を担うものずしおは平等でない。法の貎さを認めるものは、やがおこの䞍平等を認め、䟡倀高きものを尊ぶこずを知らねばならぬ。ここに明らかな貎族䞻矩がある。瀌拝埗髄はこの䞇人平等の䞊に立぀粟神的貎族䞻矩の暙語である。  歎史的背景から芋れば、道元の時代はこの平等の思想が匷く䞻匵さるべき時であった。平安朝の貎族䞻矩は今やその根柢においお芆えされおいながら、なお䌝統ずしお力を保っおいる。歊士階玚も衚面においおはこの䌝統に逆らわない。しかし新しい瀟䌚の意識はこの䌝統に昔ながらの暩嚁を認めるこずを拒む。道元の蚀葉にもこの䌝統に察する反抗の痕は明らかに認められる。「小囜蟺土の囜王倧臣」を比䞘尌よりも賀しずし、あるいは「わが囜には垝者のむすめ、或は倧臣のむすめの后宮に準ずるあり、たた皇后の院号せるあり、これら髪を剃れるあり髪を剃らざるあり。しかあるに貪名愛利の比䞘僧に䌌たる僧䟶、この家門にはしるに、頭をはきものにうたずずいふこずなし。なほ䞻埓よりも劣るなり」ずいう。圓時の戊蚘文芞が公家階玚を描く堎合のうやうやしい蚀葉䜿いに比べれば、非垞な盞違である。ここではもはや公家階玚のみが人間なのではない。公家たちが「野蛮人」のごずく取り扱っお党然その県䞭に眮かなかった䞋局の歊士や蟲民は、今や人ずしおの党暩利を䞻匵する。公家階玚の繊现な趣味や煩瑣な孊問に通じないこずは、もはや恥ずしおは感じられない。道元によれば、それらはむしろ法に努むるものにずっおの邪道である。かくお数䞖玀来の豊かな遺産を担った文化、及びその文化によっお築き䞊げられた巚倧な瀟䌚的差別は、新しい粟神的創造の前に䜕の暩嚁をも持たないものずなる。  しかしこの階玚砎壊の努力は、道元においお、ただ公家階玚ぞの反抗にのみ留たらなかった。総じお䞖䞊の䟡倀の差別は、それが歊士階玚に関するにせよ、たた仏教界に関するにせよ、すべお吊定されねばならなかった。新しい支配階玚の頭領たる鎌倉幕府の将軍も、圌の県にはいっこう貎くない。矎しい法衣に官䜍を誇る僧䟶に至っおはむしろ唟棄すべきものである。人の䟡倀はこれらの䞀切の倖衣をはぎ去った赀裞々の姿においお認められなくおはならぬ。その䟡倀の暙準は、人生の深い根柢よりいで、人栌の内奥の栞を貫ぬき、その意志の方向を党䜓ずしお、統䞀ずしお芏定するそのものである。人は、その人類性を倱わぬ限り、無垞迅速なる珟䞖を超えお、氞遠の法を慕う。埓っお圌は、䞖䞊の差別に煩わされるこずなく、それ自身の貎い魂を持぀ず蚀える。孊問なきこずも、戒埋を守らざるこずも、この魂の貎さを消し去る力は持たない。戒埋は仏祖の家颚ずしお圓然僧䟶の守るべきものであっお、それを守るこずは䜕の誇りにもならぬ。かくお道元においおは、䞀切の䞖䞊の階玚の打砎のあずに、明らかに人間の平等が提瀺されるのである。  この点においお我々は、圌が釈迊の平等の思想を生かせ、キリスト教の「神の前での䞇人の平等」の思想ず倚分に盞通ずるものを持぀こずを、吊むわけに行かない。しかし圌はただこの平等の思想にのみ停たらなかった。そこに停たりそれを培底せしめたのは、むしろ同時代の念仏宗である。それもたた叀き階玚の打砎の運動に䌎なっお起こった新宗教であっお、階玚闘争の血なたぐさい苊悶のなかから、総じお䞖䞊の階玚を無意矩ずする自芚を呌び醒たした。公家階玚を抌し倒すために生呜を賭しお働いた歊士たちの或る者は、この自芚のために、新しく埗られた圌らの階玚の優越なる地䜍を惜しげもなく捚おたのである。そうしお矮小な人の間に存するあらゆる差別が、倧いなる匥陀の前に、人類救枈を本願ずする仏の前に、跡圢もなく消倱するこずを喜んだのである。この念仏宗の立堎に立おば、匥陀仏の前での人の平等の䞊に、さらに䟡倀の段階を持ち来たすごずきこずは、思いも寄らない。匥陀の倧いなる慈悲を思うずき、人間に保持する埮少な䟡倀が䜕の暩嚁を持ち埗よう。救われるために仏を念ずるか、吊か、それのみが問題である。䟡倀を䜜り出すための䞀切の努力は䜕の意味も持たない。高き䟡倀を䜓珟した人が自分の前にあるずいうこずも顧みるに足らず、埗髄を瀌拝するずいうごずきこずも䞍必芁である。人はただ倧いなる匥陀仏を念ずればよい。  しかし道元は別の道を歩いた。圌にずっお「法ず人ずの関係」は「匥陀ず人ずの関係」のごずきものではない。法は匥陀のごずき人栌的存圚者ではなくしお、人間に保任せられるものである。人に憑くこずによっお、珟われ働くものである。釈迊仏はその暡範であるが、しかし唯䞀の仏ではない。あらゆる人は、釈迊仏に埓っお、自己においお法を珟われしめねばならぬ。すなわち人の真正の任務は自己の掻働によっお法を実珟するこずである。救いずは赀児が母のふずころに抱き取らるるがごずく䜕物かに抱きずらるるこずではなくしお、自己を仏にするこずである。法を我々においお具珟するこずである。  この立堎に立おば、法ず人ずの間には、人々盞互の間の䟡倀の距たり以䞊に倧きい差違は存しない。瀌拝せらるべきは超越的な仏ではなくしお、仏ずなれる人である。法を埗たる人である。もずよりこの瀌拝の察象は「人」でなくしお、人に担われた「法」である。しかしその「法」は、人から人ぞず盎接に䌝えられるものであっお、人を離れた独立の圢而䞊的なるものずはならない。法を瀌拝するこずは必然に法を埗たる人を、その埗法のゆえに、瀌拝するこずになる。ここにおいお法を暙準ずする人栌的䟡倀の段階が、再び平等なる人の䞊に打ち建おられなくおはならない。すでに䟡倀の段階がある。そうしお人生の意矩は「あひ難き法」に逢っおそれを埗るこずに認められる。しからば法を目暙ずしお䟡倀の段階を昇らんずする我々の努力が我々の生掻の最倧の意矩ずならざるを埗ない。  ここに道元の思想の優れたる特城がある。圌の「脱萜身心」が䜕を意味するにもせよ、ずにかく圌は、氞遠の理想法を自己の党人栌によっお把捉せんずする人間の努力に、十分な意矩を䞎えた。それによっお歀岞の生掻が再び肯定せられる。絶えざる「粟進」が人生の意矩になる。粟進を斥け文化の展開を無意矩ずした匥陀厇拝に察しお、これは明らかに人類の文化ぞの信頌の回埩である。「瀌拝埗髄」は文化の䞊昇を可胜にする重倧な契機ず芋るこずができる。 「法を重くし身を軜くすべし」ずいう道元の暙語は、かくしお、「努めおやたざるものは぀いに救われる」ずいう思想に接近する。それは生掻を氞遠の理想に奉仕させるこずである。人類の健やかな生掻は、この粟神に導かれるこずを措いおほかにないであろう。  道元のいわゆる「法」が、人類の文化の根源でありたた目暙であるずころの䞀぀のものを、䜙蘊なく意味しおいるか吊かは別問題である。しかしその究極の意矩に察する止み難い根本的芁求――珟䞖のいかなるものをもっおしおも結局満たし切られるこずのない心は、ここに欠くこずができない。それは瀟䌚の組織に察しお働けば、䞀切の特暩の打砎や人間の暩利の平等ぞの芁求ずなっお珟われるであろう。人間生掻に察しお働けば、愛ず調和ずの芁求ずしお珟われるであろう。しかしこれらのものを通じお働く際にも、それは人類の生掻を意矩づける最埌の目暙を忘れおはならない。道元の道はこの目暙を端的に぀かむにある。我れらは圌の道を歩む力を持たないにしおも、埗髄ずしおの圌を瀌拝し、圌の蚀葉に錓舞されお「粟進」の道にいで立぀こずはできる。瀌拝すべきものを持ち埗るこずは我れらの幞いである、――平等の埌にさらに非平等を、䟡倀の段階を、認め埗るこずは。かくお我々は、高き意味における貎族䞻矩が、経枈的政治的及び宗教的の平等䞻矩よりもさらに根本的であるこずを認めざるを埗ない。 ロ 仏性  教祖の暩嚁に察しお敬虔であった道元は、仏教思想史䞊重倧な論議を生んだ「仏性」の問題に論及するに圓たっおも、䞻ずしお歎史的な顧慮の䞊に圌の論をきずいた。すなわち圌は十四段にわたっお歎史的に有名な仏性の蚀説を泚解し評論するのである。しかし圌の目ざすのは、それらの蚀説がその説者によっお実際にどう意味せられたかではなく、圌の立堎より芋おそれがいかなる意味を持぀べきかである。埓っお歎史䞊の諞蚀説は圌自身の思想の組織に化せられた。圌にずっおは論理的の真以倖に歎史的の真はあり埗ない。  圌が『正法県蔵仏性』においおたず考察するのは、「䞀切衆生、悉有仏性、劂来垞䜏、無有倉易」ずいう涅槃経巻二十五、垫子同菩薩品の䞀の蚀葉である。「䞀切衆生、悉有仏性」は、通䟋、「䞀切衆生、悉く仏性有り」ず読たれる。そうしお涅槃経の文巻二十五から察するず、この仏性は「仏ずなる可胜性」である。「䞀切衆生、未来の䞖にたさに菩提を埗べし、これを仏性ず名づく。」心ある者はすべお菩提を成じ埗る。䞀闡提極悪人も成仏し埗る。そのゆえに圌らに仏性があるのである。しからば「䞀切衆生悉有仏性」は、「珟圚煩悩に捕われおいる䞀切の衆生にも、悉く、解脱しお仏ずなる可胜性がある」ずいう意味でなくおはならない。しかし道元にずっおは、この語が涅槃経においおいかに解せらるべきかは問題でなかった。圌はこの仏語を経から独立させ、盎ちにその䞭を掘り䞋げお行く。圌はいう、「悉有は仏性なり。悉有の䞀分を衆生ずいふ。正圓恁麌時は、衆生の内倖、すなはち仏性の悉有なり」。ここに道元は「䞀切衆生悉有仏性」を党然異なった意味に読んでいるのである。悉有は、「衆生に悉く仏性が有る」、あるいは「衆生が悉く仏性を有する」ずいうごずく、衆生ず仏性ずの関係を瀺す蚀葉ずしおではなく、独立に、「悉く有るこず」、すなわち「普遍的実圚」を意味するず解せられおいる。悉有すなわち All-sein である。埓っおそれは䞀切を包括する。衆生も仏もずもに「悉有」の䞀郚分に過ぎない。そうしおこの「悉有」が仏性なのである。だから悉有仏性はたた仏性の悉有仏性の遍圚でなくおはならぬ。かくのごずく道元は悉有の語矩を涅槃経の知らざる方向に深めた。もはやここでは衆生の内に可胜性ずしお仏性が存するずいうごずき考え方は成り立぀こずができぬ。逆に仏性の内に衆生が存するのである。衆生の内心も倖肉䜓もずもに同じく悉有であり仏性であっお、この仏性に察立する䜕物もない。  ここにおいお道元は、「悉有」の「有」を絶察的な有ずしお、あらゆる盞察的な有の䞊に眮く。有無の有、始有、本有、劙有などは、限定せられた有ずしお皆盞察的である。しかし悉有は、「心境性盞にかゝはらず」、ただ有である。因果性に瞛られない。時間を超越し、差別を離れる。「尜界はすべお客塵なし、盎䞋さらに第二人あらず。」すなわち、我に察する客䜓も、我に察する圌、汝もない。埓っお我が悉有を認識する、ずいうごずきこずは党然䞍可胜である。仏性を波矅門の「我」のごずくに解するものは、仏性の芚知を説く点においお、右の消息を知らない。圌らは「颚火の動著する心意識」を仏性の芚知ず誀認しおいるのである。仏性は悉有であっお芚知を絶する。「たさにしるべし、悉有䞭に衆生快䟿難逢なり。悉有を䌚取するこずかくの劂くなれば、悉有それ透䜓脱萜なり。」  道元がかく仏性をアヌトマンずする解釈を排し、「仏性の蚀をきゝお孊者おほく先尌倖道の我のごずく邪蚈せり。それ人にあはず、自己にあはず、垫を芋ざるゆゑなり」ずいうずき、我々はここに仏教の根本的思想に察する道元の深い掞察を認めざるを埗ぬ。そもそも仏教はアヌトマン思想の吊定に始たり、倧乗仏教の根柢もたたその立堎においお築かれた。しかるに倖道の哲孊におけるアヌトマン思想の優勢は぀いに仏教の内に特にこの涅槃経においお我の思想の浞入を匕き起こした。シナに来たっおはこの傟向が特に匷く珟われる。おおくの孊者が仏性を我のごずく邪蚈するずはたさにシナにおけるこの傟向を指摘した語であろう。道元が涅槃経を捕えながらこの解釈を排するこずは、圌の経の解釈がわがたたなるにもかかわらず、圌がいかによく倧乗哲孊を理解しおいたかを語るものである。  道元は悉有仏性の䞀語を右のごずく解釈するがゆえに、この語を䞭心思想ずする涅槃経は、党䜓にわたっお圌独特の意矩づけを埗たず蚀っおよい。しかし涅槃経の新解釈は圌の目ざすずころではなかった。圌はただ圌の悉有仏性の意矩を確立しようずするのみである。そこで圌はあの倧巻の䞭から、「欲知仏性矩、圓芳時節因瞁」仏性の矩を知らんず欲わば、たさに時節因瞁を芳ずべしの䞀句を遞んだ涅槃経垫子同品の二のこの句は時節圢色であっお、時節因瞁ではない。しかしこの品においおは因瞁に぀いおの長い説明がある。時節因瞁がこの品の論題である。そうしおそのあずに「時節若至、仏性珟前」の䞀句を添加しお第二段の論題ずした。涅槃経は衆生の内の成仏可胜性を説く立堎に立っお時節因瞁をいう。そこに甚いられた比喩をずっお蚀えば、乳が乳である時にはそれは酪でない、酪が酪である時にはそれは乳でない、しかし酪を䜜ろうずする人は氎を甚いずしお乳を甚いる。乳は乳でありながらすでに酪ず離し難き因瞁を有する、すなわち乳の内には酪ずなる可胜性酪性が存するのである。「乳の䞭に酪あり、衆生の仏性も亊かくの劂し、仏性を芋んず欲せば、たさに時節圢色を芳察すべし。」この経文の意矩は動かし難く明癜である。しかし道元にずっおは乳の䞭に酪性が、すなわち衆生の䞭に仏性が、あるのではない。そこで圌は「圓芳時節因瞁」を新しく読み倉えた。圓芳は、圓に時節因瞁を芳ずべしではなくしお、独立した「圓に芳ずべし」Schauensollenである。すなわち、胜芳、所芳、正芳、邪芳のごずき経隓的な「芳」ではなくしお、芏範ずしおの、圓為ずしおの「芳」である。埓っお「圓芳」には自他の差別はない「䞍自芳なり、䞍他芳なり」。たた特殊態にも瞛られない。䜕々を芳ずる芳ではない。かく芋れば圓芳の内容は、ある特殊な時節因瞁ではなくしお、「時節因瞁聻」時節因瞁そのものである。「超越因瞁」因瞁䞀般である。仏性そのものである。時節因瞁すなわち仏性、それが圓芳である。他の蚀葉をもっお蚀えば、「いはゆる仏性をしらんずおもはば、しるべし時節因瞁これなり」である。かくしお涅槃経が特殊の契機を指した時節因瞁は、䞀切の特殊性を超えた悉有の矩に転ぜられる。埓っお「時節若至仏性珟前」もたた、「時節若し至らば仏性珟前せむ」の意に解せられおはならない。仏性の珟前する時節を未来に期埅する者は、「かくの劂く修行しゆく所に、自然に仏性珟前の時節にあふ、時節至らざれば、参垫問法するにも匁道工倫するにも珟前せず」ず考えるが、これは非垞な謬芋である。「時節」は悉有であっお、時を超越しおいる。およそ時節でない時凊はどこにも存しない。「時節若至ずいふは、すでに時節至れり、なにの疑著すべきずころかあらんずなり。」「およそ時節の若至せざる時節いただあらず、仏性の珟前せざる仏性あらざるなり。」  かくお道元は諞法実盞の思想を培底させる。「この山河倧地みな仏性海なり。」山河倧地はそのたたに「仏性海のかたち」なのである。山河を芋るはすなわち仏性を芋るのであり、仏性を芋るずは驢銬の顋、銬の口を芋るこずである。ここに珟象ず本䜓ずの区別は党然撥無される。䞖俗諊シナにおいおはこの語は自然的態床における真理の矩に解されたず、勝矩諊あるいは第䞀矩諊ずの区別もない。有るものはただ仏性のみである。吊、「有るものは」ず蚀うこずもできない。ただ「仏性」である。ただ「悉有」である。  しかしながら、我々はこれを䞀぀の認識の論ず目すべきではない。悉有仏性は、道元によれば、仏教の䞭心の真理である。釈迊の説いた真理であるばかりでなく、「䞀切諞仏、䞀切祖垫の、頂𩕳県睛なり。参孊しきたるこず、すでに二千䞀癟九十幎、正嫡わづかに五十代。西倩二十八代、代々䜏持しきたり、東地二十䞉䞖、䞖々䜏持しきたる。十方の仏祖ずもに䜏持せり」。すなわちそれは倧力量の士たる「仏祖の児孫」のみが、嫡々盞䌝しお䜏持するずころの、什麌物Wasである。理論的にいかに粟现に思惟されようずも、それはこの真理の把捉でない。「諞阿笈摩教阿含及び経論垫のしるべきにあらず。」かくお悉有仏性の真理は、ただ少数の倧悟者に限られた奥秘ずなる。「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず。成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏ず同参するなり。この道理よくよく参究功倫すべし。二䞉十幎も功倫参孊すべし」仏性、第五段。ここに恐らく犅宗ずしおの特殊の立堎があり、そうしお道元の解する「悉有」が単なる諞法実盞の思想でなくなる契機も存するのであろう。驢銬の顋を芋お仏性を芋るのは、驢銬の顋を驢銬の顋ずする䞖俗諊を超脱しお第䞀矩諊に立぀ゆえでない。たた䞖俗諊すなわち第䞀矩諊ずいう実圚論的な立堎を取るがゆえでもない。認識をより高き立堎の「行」においお掻かせ、行の暩利によっお認識するがゆえである。「悉有仏性ず道取する力量ある」がゆえである。すなわち、悉有仏性ず知っお解脱成仏するのでなく、解脱しお悉有仏性ず知るのである。道元はこの点に仏法参孊の正的を眮き、「かくのごずく孊せざるは仏法にあらざるべし」ずいう。我々は道元の説く悉有仏性をかくのごずき真理䜓埗の指暙ずしお解せねばならぬ。  悉有仏性がかくのごずきものであれば、「無仏性」の語も自ら解かれるであろう。無仏性を道砎したのは四祖倧医であっお、やがおこの無仏性の道は「黄梅に芋聞し、趙州に流通し、倧朙に挙揚」した。道元はこれらの諞祖に぀いお䞀々その語を評釈する。圌に蚀わせれば、「芋仏聞法の最初に難埗難聞なるは、衆生無仏性なり」。しかしながら、それが難埗難聞であるのは、䞀切衆生悉有仏性を「䞀切衆生悉く仏性有り」ず解しお、それに「䞀切衆生仏性無し」を察せしめるからである。乳に酪性あり、乳に酪性なし、ずいうず同じき意味においお、仏性の有無を問題ずするからである。これは仏性の意矩を䜓埗せざるに起因する。もし悉有仏性を道元の説くがごずくに䜓埗すれば、そこに有無の論は起こらない。悉有、すなわち仏性は、有無を超絶した絶察の有である。その仏性の意矩は、無仏性ずいうずきにも倱われるのではない。埓っお無仏性の語は、「衆生の内に仏性なし」ずいうごずき意に解されおはならない。悉有仏性の仏性は、無仏性の仏性である。無仏性は無悉有である。無は悉有である。「悉有の有、なんぞ無無四祖の無ず五祖の無ずの無に嗣法せざらん。」悉有が絶察的であるごずく、この無もたた絶察的であっお、䞡者別物ではない。  もずより道元の匕く諞祖の問答が、道元の解する意味においお行なわれたかどうかは別問題である。六祖が黄梅山に参したずき、 五祖ずふ、なんぢいづれのずころよりかきたれる。六祖いはく、嶺南人なり。 五祖いはく、きたりおなにごずをかもずむる。六祖いはく、䜜仏をもずむ。 五祖いはく、嶺南人無仏性、いかにしおか䜜仏せん。六祖いはく、人有南北なりずも、仏性無南北なり。 ずいう問答があった。これを、 「どこから来た。」「嶺南人だ。」「䜕がほしい。」「解脱したい。」「嶺南人には仏性解脱の玠質がない、どうしお解脱するか。」「人間には南北の差別があっおも、仏性には南北の差別はない。」 のごずき意味に解しおならないわけはない。たた実際にはこういう意味で行なわれた問答であるかも知れない。なぜなら、こう解しなければ六祖の答えは生きお来ないからである。しかし道元の立堎からはそういう解は蚱されない。圌の祖垫が口にした無仏性の語は、必ず、圌の解するごずき意味でなくおはならぬ。埓っおこの問答の嶺南人無仏性も、圌によれば、「嶺南人は仏性なしずいふにあらず、嶺南人は仏性ありずいふにあらず、嶺南人無仏性ずなり」である。すなわち、仏性の有無を問題ずした蚀葉でなく、仏性が成仏の埌に具足するずいう立堎に立っお、いただ成仏せざるもののために仏性の真矩を解いお無仏性ず道砎したのである。六祖は今専心に䜜仏を求めおいる、五祖は六祖を䜜仏せしむるに他の蚀葉を知らない、だからただ無仏性ず蚀う。「しるべし無仏性の道取聞取、これ䜜仏の盎道なりずいふこずを。」道元はかく解した。埓っお六祖の答えは十分でない。道元は批評しおいう、「このずき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功倫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性ず問取すべし。  いたの人も仏性ずきゝぬれば、さらにいかなるかこれ仏性ず問取せず、仏性の有無等の矩をいふがごずし、これ倉卒なり」。――恐らくこれは、道元が、圌自身の解釈に基づいお五祖六祖の問答に䞎えた批評である。しかしそれによっお無仏性の語に察する圌の芋解は明らかに珟わされおいるず思う。  狗子還有仏性也無狗子にたた仏性有りや無やの問答に぀いおも同様の事が蚀える。「犬は仏性があるかないか」、趙州曰く「無」、「䞀切衆生は皆仏性があるのに犬はなぜ無いか」、趙州曰く「為䜗有業識圚」䜗に業識の圚るこず有るが為なり。――これも衚面の意味通りに取るのが必ずしも間違いずは蚀えない。しかし道元は次のごずく解しおいる。この僧はもずもず犬に仏性が有るか無いかを問うおいるのではない、仏性は犬の内に有無を論ぜらるべきものではないのである。圌はただ「鉄挢たた孊道するか」ず問うおいる。すなわち犬に事よせお、仏性は所圚を有぀かどうかの問題を考えおいるかずきくのである。ずころで仏性は悉有である、埓っお所圚を有たない、そこから趙州の「無」ずいう答えが出る。僧はさらにこの「無」に匕っかけお、䞀切衆生が無であるならば仏性も狗子も無であるだろう、その意矩いかんず問う。「犬や仏性は、もし無であるならば、お前が無ず蚀わなくずも存圚し無いはずだ」ずいう意である。趙州は答えおいう、為䜗有業識圚。為䜗有盞察的有は業識である、業識有、為䜗有であっおも、狗子無、仏性無である。――ここには無明業識の「有無」を超えた絶察的な「無」が含意される。かくお道元は、この問答をも「仏性の有無」の問題ではなくした。悉有の別名が無である。無が仏性である。  かく芋ればこの無仏性もたた、成仏ず同参する仏性の道理にほかならないであろう。「無仏性の正圓恁麌時、すなはち䜜仏なり。」無仏性ず道取する力量あればこそ、無仏性の意矩は把捉される。そうしおそれが把捉されたずきには、把捉者はすでに解脱しおいる。これもたたただ行によっお、自らの生掻党䜓に実珟さるべき真理なのである。  もずより道元は、有仏性無仏性の意矩をただ右のごずくにのみ説いたのではない。塩官斉安の「䞀切衆生有仏性」や、倧朙倧円の「䞀切衆生無仏性」などを解釈する堎合には、「衆生なるが故に有仏性なり」ず蚀い、たた「仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もずより仏性を具足せるにあらず、たずひ具せんずもずむずも仏性はじめおきたるべきにあらず。  もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず、すでに衆生あらんは、぀ひに仏性にあらず」ずもいう。これらの堎合には衆生ず仏性ずは盞察せしめられ、その間の関係が問題ずなる。仏性あり、仏性なし、の有無であっお、絶察的な悉有あるいは無ではない。埓っお道元自身も、癟䞈の語をひいお、有仏性ず蚀い無仏性ずいうもずもに仏法僧を謗るのであるこずを認めおいる。しかもなお圌は、「謗ずなるずいふずも、道取せざるべきにはあらず」ず䞻匵する。有仏性も無仏性も、ずもに仏性を珟わす蚀葉だからである。有無の差別に執すればそれは仏性を毒するであろう。しかしその毒はたた抜象知を砎する良薬ずもなる。有無を蚀うはやがお有無を超越せんがためである。珟象ず本䜓ずの区別を焌尜せんがためである。  仏性の意矩はかくのごずく悉有あるいは無においお珟わされる。しかしそれは単に思惟さるべきものではなくしお、倧力量によっお䜓埗され、䜏持さるべきものである。埓っお、いただ成仏せざる立堎にあっお仏性を知ろうず思うならば、それを思玢するのではなくしお、それを䜏持せる「人」においお芋なくおはならぬ。この消息を道元は竜暹の䌝説によっお語っおいる。竜暹が南倩竺に行っお劙法を説いた時、犏業を信ぜる聎衆がいうには、「人には犏業があればそれに越した事はない、いたずらに仏性などず蚀っおも誰がそれを芋埗るのか」。竜暹がいうには、「仏性を芋ようず思うならば、先須陀我慢」先ず須らく我慢を陀くべし。問者、「仏性は倧か小か」。竜暹、「倧でもなく小でもない、広でもなく狭でもない、犏もなく報いもない、䞍死䞍生である」。問者はこの語に動かされお垰䟝した。竜暹は座䞊においお満月茪のごずき自圚身を珟わす。聎衆はただ法音のみを聞いお垫の盞を芋なかった。衆䞭に迊那提婆があっお蚀った、「尊者は仏性の盞を珟じお我らに芋せおくれるのだ」。「どうしおわかるのか。」「無盞䞉昧、圢満月の劂くなるを以お、仏性の矩廓然ずしお虚明なり。」蚀いおわるず茪盞が消えお竜暹は元の座に坐しおいる。偈を説いおいうには、「身珟円月盞、以衚諞仏䜓、説法無其圢、甚匁非声色」身に円月盞を珟じ、以お諞仏の䜓を衚す、説法其の圢無し、甚匁は声色に非ず。――道元はこの䌝説を解いおいう。竜暹がかりに化身を珟わしたのを円月盞ずいうず思うのは、仏道の䜕たるかを知らない愚者である。人である竜暹が円い月に化けたなどずいうばかな話はない。竜暹はじっず坐しおいただけである。今の人が坐せるごずく坐しおいたのである。しかもそのたたに諞仏の䜓を衚珟した。円月盞ずは感芚的の盞ではなくお粟神的の盞である。竜暹はそこにいない、なぜなら我慢を陀いお仏ずなっおいるから。すなわち竜暹は、その肉䜓をもっお、肉䜓にあらざる仏を衚珟しおいるのである。その身珟盞を芋お、提婆は、「仏性なり」ず道取した。仏法は今広く流垃しおいるが、しかしここに着県したのはただ提婆のみである。䜙の者は皆、「仏性は県芋耳聞心識等にあらず」ず考えおいる。身珟は仏性なりずは知らない。だから、竜暹の法嗣ず自称するものがいかにあっおも、提婆の所䌝でなければ竜暹の道ず考えおはいけない。  道元のこの解釈は、䌝説を党然象城的に解したず蚀うべきである。しかしそれによっお、道元が、人における仏性の具珟をいかに考えたかは、明癜に珟わされおいる。圌が石頭草庵歌の欲識菎䞭䞍死人、豈離只今這皮袋菎䞭䞍死の人を識らんず欲わば、豈只今のこの皮袋を離れんやを匕いお、肉䜓の䞻人たる䞍生䞍滅者は、たずい誰の釈迊や匥勒のそれであっおも、決しおこの皮袋肉䜓を離れるこずはない、ず説いおいるのを芋おも、仏性を最も具䜓的に、人栌においお珟わるるものず芋たこずは確かである。そうしおここに我々は、圌の悉有ず、差別界に䜏する我々の生掻ずの、盎接な接觊点を芋いだすのである。  悉有仏性あるいは無仏性の真理は、ただ解脱者にのみ開瀺せられる。逆に蚀えば、この真理の䜓埗者はすなわち解脱者である。そうしおそこに達する道は、道元に埓えば、ただ専心打坐のほかにない。単に思惟によっおは、人はこの生きた真理を把捉する事ができぬ。もし我々が道元を信ずるならば、圌の宗教的真理は哲孊的思玢の埒倖にあるものずしお、思玢によるその远求を断念せねばならぬ。しかし䞀切の哲孊的思玢が結局根柢的な盎接認識を明らかにするにあるならば、我々はかかる盎接認識が䜕であるかをこの堎合においおも思玢するこずができよう。圌によれば仏性は人栌に具珟する。仏性を具珟せる人は仏性ず我々ずの間の仲介者である。我々は「人」を芋るこずによっおその真理に觊れ埗る、たた觊れねばならぬ。圌の堎合に぀いお蚀えば、悉有仏性あるいは無仏性の真理は、圌の人栌を通じお我々に接觊する。この真理を䜓埗した圌は、真理を真理のために远求する熱烈な孊埒、生掻の様匏においお教祖ぞの盲目的服埓を唱道する熱烈な信者、無私の愛を実行する透明な人栌者、真理の王囜を建蚭するために䞀切の自然的欲望を克服し埗た力匷い行者、ずしお我々の前に珟われる。我々はこの人栌を通しお圌の「悉有」の認識を思玢せねばならぬ。その時にこの悉有の内的光景が幟分かは圷圿せられるであろう。思うにそれは、最も深き意味における「自由」である。圌の「身心脱萜」の語も、恐らくこれを指瀺するのではなかろうか。  仏性が悉有であり無の無であるずせられるずき、「即心是仏」の思想もたたその特殊な解釈を受けるのは圓然である。  即心是仏に぀いお圌が力匷く斥けおいる思想はこうである。――われわれの心は宇宙の本䜓たる霊知のあらわれであっお、そこに凡ず聖ずの区別はない。差別の䞖界の䞇象は去来し生滅するにかかわらず、霊知本性は氞遠にしお䞍倉である。それは䞇物に呚遍しお存し、迷ず悟ずにかかわらず我々の生呜の根源である。たずい我々の肉䜓は亡びおも、我々に宿った霊知は亡びない。この我々の本性をさずるこずがすなわち垞䜏に垰るこずであり、たたほずけずなるこずである。そのずき我々は真理に垰り、䞍生䞍滅の氞遠の生に蚌入する。  道元はこの皮の汎神論的思匁を斥けおいう。仏祖の保任する即心是仏は、倖道の哲孊のゆめにもみるずころでない。ただ仏祖ず仏祖ずのみ即心是仏しきたり、究尜しきたった聞著、行取、蚌著がある。ここにいう「心」ずは䞀心䞀切法、䞀切法䞀心である。宇宙の䞀切を䞀にしたる心である。かくのごずき心を識埗するずき、人は倩が墜萜し地が砎裂するごずくに感ずるであろう。あるいは倧地さらにあ぀さ䞉寞をたすごずくに感ずるであろう。かくのごずき打開によっお人栌的に享取せられた心は、もはや昔の心ではない。山河倧地が心である。日月星蟰が心である。しかもその山河倧地心はただ山河倧地であっお、波浪もなく颚煙もない。日月星蟰心はただ日月星蟰であっお、霧もなく霞もない。この極床に自由にしお透明なる心、――自ら生くるほかには説明の方法のない心、――その心こそすなわち仏である。だから即心是仏は発心、修行、菩提、涅槃ず離しお考えるこずができない。䞀瞬間、発心修蚌するのも、たた氞劫にわたっお発心修蚌するのも、ずもに即心是仏である。長幎の修行によっお仏ずなるのを即心是仏でないず考えるごずきは、いただ即心是仏を芋ないのである、正垫にあわないのである。「釈迊牟尌仏、これ即心是仏なり。」  かくのごずく悉有あるいは無の無がすなわち心であり、この絶察的な意識においお山河倧地がそのたた心でありたた山河倧地であるずいう思想には、我々は䞀぀の深い哲孊的立堎を芋いだし埗るず思う。 ハ 道埗  道元の著䜜には絶えず二぀の思惟動機が働いおいる。䞀぀は圌の説かんずする真理を抂念的に把定しようずする動機であり、他はその真理がただ仏ず仏ずの間の面授面受であるこずを明らかにしようずする動機である。この䞡者の盞互䜜甚によっお、圌はその蚀説が抜象的固定的に堕するこずをでき埗るだけ防ごうずする。ず同時に圌の真理の抂念的衚珟をもでき埗るだけ可胜ならしめようずするのである。もずより圌はかくのごずき蚀語による衚珟のみをもっお胜事おわれりずしたのではなかった。しかし圌が蚀語による衚珟を重んじたこずは、「頌に぀くらずずも心に思はんこずを曞出し、文筆ずゝのはずずも法門をかくべきなり」正法県蔵随聞蚘二ずいう蚀葉によっお明らかである。これは近代の犅僧が頌を䜜り法語を曞かんがために文筆を緎るのを斥けお、矎蚀秀句に心を捕えられるこずなく盎接端的に自己の粟神を衚珟すべきこずを奚めた蚀葉である。もし圌が曞くこずによる真理衚珟の可胜を信じなかったずすれば、圌が日本文をもっおあの倧郚な『正法県蔵』を曞いた情熱は理解し難いものずなるであろう。  犅宗は䞍立文字教倖別䌝を暙抜し、坐犅ず公案ずを特に重んずる。道元もたた坐犅を力説した。しかしながら圌は、犅宗のこの皮の特城を認めない人なのである。犅宗ずいう名称をさえも圌は力匷く斥ける。諞仏諞祖は必ずしも犅那をもっお蚌道したのではない、犅那は諞行の䞀぀に過ぎぬ、犅那は仏法の総芁ではない、仏々正䌝の倧道をこずさら犅宗ず称するずもがらは仏道を知らないのである。諞仏祖垫の䜕人も犅宗ずは称しなかった。「しるべし犅宗の称は魔波旬の称するなり、魔波旬の称を称しきたらんは魔党なるべし、仏祖の児孫にあらず」正法県蔵仏道。圌によればこの事は圓時倧宋囜においおも理解する人が乏しかった。犅宗ず称し、たたその内に五宗を別぀ごずきは、仏法が柆薄ずなり、「人の参孊おろかにしお匁道を芪切にせざる」がためである。埓っおたた圌は教倖別䌝の暙抜をも斥ける。教倖別䌝を説くものの䞻匵はこうである、釈迊は䞀代の教法を宣説するほかに、さらに拈華瞬目のずき砎顔埮笑した摩蚶迊葉に正法県蔵涅槃劙心を正䌝した、それを嫡々盞承したのが犅宗である。教は機に臚んでの戯論に過ぎぬ、その教以倖に正䌝した劙心こそ「理性の真実」であっお䞉乗十二分教の所談ず同日に論ずべきものでない、この䞀心が最高の真理であるゆえに盎指人心芋性成仏なのである。道元はこの䞻匵を謬説ず呌ぶのみならず、たた「仏法仏道に通ぜざるもの」、「仏をしらず、教をしらず、心をしらず、内をしらず、倖をしらざるもの」正法県蔵仏教ず呌んだ。䜕ずなればそれは、仏の教ず仏の心ずを別のものず考えおいるからである。教の倖に劙心があるずいうならばその教はただ仏教ではない。劙心の倖に教があるずいうならばその劙心は釈迊の正䌝した涅槃劙心ではない。もし涅槃劙心が教倖別䌝であるならば、教は心倖別䌝でなくおはならないであろう。しかし釈迊が心なき教を説いたず考えられようか。心ず教ずは䞀である。釈迊は仏法でない教を説いたのではなかった。涅槃劙心ずは䞉乗十二分教である、倧蔵小蔵である正法県蔵仏教。かくのごずく道元は、䞀方に仏ず仏ずの単䌝を䞻匵するにもかかわらず、蚀語による衚珟を決しお拒吊しなかった。蚀語文字によっお劙心が説かれ埗ないずするのは、固定的に堕した犅宗においおのこずであっお、道元の生ける仏法の関知するずころでない。  しかしながらたた道元にあっおは、蚀語による衚珟がただそれだけのものずしお独立に通甚するこずも蚱されなかった。真理は蚀語によっお衚珟せられおはいる、しかし仏ず仏ずの面授面受によらずしおはその真理を受けるこずができぬ。それはここに甚いられた衚珟が文芞的であっお思惟するよりも盎芳するこずを必芁ずするゆえのみではない。道元の文章は自圚に文芞的衚珟を掻甚するずはいえ、倧䜓ずしお抂念による論理的衚珟である。が、論理的に珟わされた真理ずいえども、ただ抜象的に抂念の掚理によるのみでは捕捉され埗ない。そこにはこの真理の生きた力を捕捉すべき知的盎芳が必芁である。この契機を力説するために道元は仏ず仏ずの面授面受を説く正法県蔵面授。真理を䜓埗し実珟せる人を目のあたりに芋、たた芋られるこずによっおのみ、真の捕捉理䌚が可胜になるずいうのである。もずよりここにいうずころの「芋る」は、心県をもっお芋るのであっお、単にただ感芚的に芋るのではない。霊山䌚䞊に釈迊が優曇華を拈じお目を瞬くのを芋たのはたさに癟䞇衆であった、が、この時真に芋たのはただ摩蚶迊葉䞀人である。他の癟䞇衆は芋お芋なかった。けれどもたた、心県をもっお芋た迊葉尊者ずいえども、感芚的に芋なかったのではない。感芚的に芋るこずによっお心県で芋るこずが可胜になるのである。かくのごずく知的盎芳が「感芚的に芋るこず」ず結合させられる点に、恐らく「人栌に具珟せられた智慧」の真矩が瀺されおいるのであろう。知識は人栌においお実珟されなければ真に䜓認された智慧ずはならない。そうしお知識が智慧ずなる掻機は、ただその掻機を経た人栌からのみ盎接に䌝受せられる。垫を芋るずは自己を芋るなりずいう圌の蚀葉は、この消息を指瀺するものであろう。ここに「垫」ずいうこずの最も正しい意矩が存するのである。  このこずはただに犅宗においお説かれるのみではない。が、道元が䞀方に論理的衚珟を蚱し぀぀、他方に垫を芋るこずによっお埗られる知的盎芳を力説しお、抂念の固定を防ぐずずもに盎芳に豊富な抂念的内容を賊䞎するのは、犅宗においお特に重んずる以心䌝心あるいは正垫の印可ずいうごずき䞻芳的事実を哲孊的に掻かせたずいうべきであろう。それは抜象的思匁に陥らず、たた挠然たる神秘䞻矩を避ける。仏の真理は面授面受によらずしおは把捉されないが、しかも面受された真理はすでに仏々祖々の蚀葉に衚珟されおいるものであっお、それ以倖の䞍思議な䜕ものでもない。もずより道元は、諞仏諞祖の蚀説を説くずき、垞に圌自身の解釈によっお新しくその内容を開展させる。しかもその開展には気づかない。埓っおいかに新しく開展させられおも、それは垞に仏祖の蚀説である。が、たさにこのずころに、圌が抂念の固定を砎した趣を看取すべきであろう。叀き抂念は絶えず新しく改造され、そうしお垞に仏法を開瀺する。ただ圌は仏法よりいづる「開展」に着目せずしお、すべおの開展がいでくるずころの「仏法」に着目するのである。かくお圌においおは、䞀々の新しい開展である面授面受が、垞に䞀぀の仏法の具珟ずしお解せられおいる。もちろんこれは圌のみに芋られる傟向ではない。䞀般には宗教の閟内における思玢、特に東掋の思想においお、開展の自芚の乏しいのは著しい事実である。このために歎史的理解は遮断され、思想の順圓な開展は阻害された。が、それにもかかわらず、圌の思想が生々ずしお力を持぀のは、無意識的な開展によっお絶えず抂念の固定を砎したからである。埓っお圌が「すでに仏々祖々の蚀説に衚珟された」真理をいうずき、実は圌自身の新しく開展した思想を意味しおいる。面授面受によっお圌は仏祖の蚀説の内に自己を芋いだす。ずいうよりも仏祖の蚀説を自己の組織に化する。面受は重倧な契機であるが、それは思想的衚珟を斥けるものではなくかえっお可胜にするものである。面受によっお埗られた仏法は、圌の語を甚いれば、「道埗」の真理であっお、無蚀、沈黙、超論理の真理ではない。  右のごずき道元の芋地は、圌の「道埗」の論正法県蔵道埗に十分瀺されおいるず思う。  道埗の語矩に぀いおは圌は䜕の説明も䞎えおいない。が、圌の甚語法から芋るず、この語の意矩はかなり倧きい振幅を持っおいる。道ずはたず「蚀う」である、埓っおたた蚀葉である、さらに真理を珟わす蚀葉であり、真理そのものである。菩提すなわち悟りの蚳語ずしおもこの語が甚いられた。道元はこれらのすべおの意味を含めおこの語を䜿っおいるらしい。その点でこの語はかなり近く Logos に察等する。道埗ずは「道い埗る」こずである。進んでは菩提の道を道い埗るこずである。埓っお真理の衚珟、真理の獲埗の意味にもなる。ここでも道元は、これらのすべおの意味を含めおこの語を䜿った。  さお道元はいう、「諞仏諞祖は道埗なり」。この堎合圌が仏祖を「道埗する者」ず呌ばずしお単に道埗ず呌んだずころに我々は深き興味を感ずる。諞仏諞祖は菩提を衚珟せる人栌である、しかるに圌は、人栌なくしおあり埗べからざるこの衚珟の䞭からその人栌を抜き取っお、ただ菩提の衚珟のみを独立せしめる。そうしおそれを道埗ず呌ぶ。そこに圌がこの道埗の語によっお珟わそうずした特殊の意矩が看取されるず思う。それは単に菩提あるいは仏の真理のみを意味するのではない。そのさし瀺すのは、菩提あるいは真理の衚珟である、それを道い埗るこずである。しかもそれは特殊の人栌から匕き離されお、いわば「道い埗るこず䞀般」ずしお立おられおいる。埓っお諞仏諞祖をその倧甚珟前の偎より芋れば道埗にほかならない。もずより仏祖の倧甚珟前は単に蚀語によるのみでなく、瞬目、埮笑、匟指、棒喝等、人間の衚珟手段の䞀切によっお行なわれる。それらもたた意味を䌝える限り道埗である。しかしこずさらに「道う」ずいう語を遞んだずころに、我々は蚀語による衚珟の重んぜられおいるこずを看取しなくおはならぬ。道元が趙州の「儞若䞀生䞍離叢林、兀坐䞍道、十幎五茉、無人喚䜜儞唖挢」儞若し䞀生䞍離叢林なれば、兀坐䞍道ならんこず十幎五茉すずも、人の儞を唖挢ず喚䜜するこず無からんを論じたなかに、「唖挢は道埗なかるべしず孊するこずなかれ。  唖挢たた道埗あるなり。唖声きこゆべし。唖語きくべし」正法県蔵道埗ず蚀っおいるのを芋おも、道埗はたず第䞀に蚀語をもっお道い埗るこずである。この道埗に右のごずき所を䞎えたこずを、たず我々は泚意しなくおはならぬ。  さらに䞀歩進んでこの道埗は、それ自身独立の掻動ずしお芏定される。修行者が他人に埓っお、あるいは「わがちからの胜」によっお、道埗を埗るのではない。「かの道埗のなかに、むかしも修行し蚌究す、いたも功倫し匁道す。仏祖の仏祖を功倫しお仏祖の道埗を匁肯するずき、この道埗おのづから䞉幎八幎䞉十幎四十幎の功倫ずなりお尜力道埗するなり」同䞊道埗。すなわち䞀切の修行は道埗のなかに動くのである。道埗が功倫ずしお掻動し、努力しお道埗するのである。道埗自身の自己道埗である。修行者その修行が道埗のなかにある意味においおすでに仏祖であるが数十幎の修行は、道埗がそれ自身を実珟する過皋にほかならない。ここに道埗は、䜕人かが道い埗る道埗ではなくしお、䞻栌を抜き去れる道い埗るこず、すなわち道の胜動的な掻動ずしお立おられる。ロゎスの自己展開である。  道埗をかく芏定するこずによっお、道埗が功倫ずなり道埗ずなる掻動は、きわめお論理的な姿を埗おくる。数十幎の修行功倫によっお道埗した堎合、その数十幎の功倫はその道埗にずっお必須のものであり、埓っおその道埗は数十幎来間隙なく持続しおいたず蚀える。修行の䞭途に埗た芋解はただ道埗ではないが、道埗した時その䞭に生きおいる。今の道埗が右の未道埗の芋解を内に具えおいるずすれば、その芋解なくしおは今の道埗は起こり埗ない。しからばその未道埗の芋解は、すでに今の道埗を内にそなえおいたのである。いわばこの到着点たる道埗が、すでに出発点に存し、䞀切の修行、䞀切の芋解を導き぀぀、結局それ自身に還ったのである。「道埗おのづから功倫ずなり尜力道埗す」ず蚀い、「いたの道埗ずかのずきの芋埗ず䞀条なり、䞇里なり」ずいうのは、確かに右のごずき意味を瀺す蚀葉に盞違ない。かく道埗がむデヌのごずき働きをするものずすれば、この道埗の働きずしお珟われる功倫は、道埗が内より産み出す開展の過皋であるほかはない。「いたの功倫、すなはち道埗ず芋埗ずに功倫せられゆくなり」ずいう蚀葉は、恐らくそう解すべきものであろう。達せらるべき道埗を内に具えた䞀぀の芋解が、その道埗に呌び出されお珟われおくる。しかしそれはただ道埗でない。埓っおそこに疑団が生ずる。この芋解ず疑団ずの察立のために功倫が必芁ずなるのである。ずころでこの疑団もたた右の芋解に内具する道埗が呌び出したものであるゆえに、この功倫は道埗ず芋埗ずに功倫せられるず芋られなくおはならぬ。かくお䞀切の功倫は、人が任意に取り䞊げるものではなく、道埗自身の内より必然に開展しいづるものず解し埗られるのである。そうしおそれは、䞀぀の疑団が解けお新しい芋解に達しおも、その芋解が道埗でない限り決しお止むこずがない。新しい芋解はさらに新しい疑団を産む。「道埗ず芋埗ずに功倫せられゆく」ずいう蚀葉がこの事を含意するず芋られるであろう。やがお぀いに、「この功倫の把定の月ふかく幎おほくかさなりお、さらに埓来の幎月の功倫を脱萜するなり。」脱萜ずは恐らく aufheben に圓たる蚀葉であろう。いたの道埗はかの時の芋埗をそなえたるものであり、䞀切の功倫は今の道埗の内に生かされる。脱萜は滅华ではなくしお、より高き立堎に生かせるこずである。ここに道埗は、䞀切の芋解䞀切の功倫をそれぞれその立堎においお殺し、より高き䞀぀の立堎においお党䜓的に生かせたものずしお珟われおくる。  かくお぀いに道い埗るずいうこずが実珟せられるのである。しかしそれは、前に説いたごずく、䞀切の功倫の原動力であっお、努力ず独立に自存する目暙なのではない。䞀切の功倫の脱萜を「究竟の宝所」ずしお到達しようず努力する、その努力自身が究竟の宝所の珟出である。道埗ぞの努力の䞀歩䞀歩が道埗の珟出である。埓っお道埗は、目ざした目暙に到達する時のごずき心持ちで到達されるのではない。が、たた䞍思議な新䞖界に突劂ずしお入り蟌むずいうふうにしお達せられるのでもない。「正圓脱萜のずき、たたざるに珟成する道埗あり、心のちからにあらず身のちからにあらずずいぞども、おのづから道埗あり。すでに道埗せらるゝに、めづらしくあやしくおがえざるなり。」  道埗の䞀語、意味するずころは以䞊のごずくである。面授面受によっお正法の䌝受せられるずき、「道い埗る」こずもたた成就する。もずより道埗の語に捕われるのは仏祖の面目ではない。䞍道もの蚀わずしおしかも正法䌝受の実を衚珟するこずはできる。しかしそれは蚀語以倖の衚珟の手段をも是認するずいうたでであっお、蚀語による衚珟を斥けるのではない。いわんや抂念的把捉を斥けるのではない。無蚀、沈黙にしお衚珟し埗る人も、その䜓隓の内容には抂念的把捉の過皋が存するであろう。道埗が自ら開展しお修行功倫ずなるずいうずき、䞍離叢林兀坐䞍道もたた道埗の開展である。むデヌが自らを実珟するために䞍離叢林兀坐䞍道ずなっお珟われるのである。兀坐䞍道者は䜕ら思惟を働かせるこずなく、挠然ずしお神秘的盎感を埅ち受けおいるのではない。究竟の道埗に導かれ぀぀、その道埗を内に蔵するずころの差別的な芋解を、その党身心によっお、間隙なく思惟し぀぀あるのである。我々はこの道埗の掻動においおロゎスの開展を芋、道元の思想における論理的傟向を理解しなくおはならぬ。が、たたこの開展のあらゆる段階に知的盎芳の契機を織り蟌んでいるこずにおいお、圌の思惟法は玔論理的でもない。しかもその知的盎芳は、党身心による思惟を、すなわち修行蚌究を、前提ずするものである。道元にずっおは、絶察粟神の創造的な自己掻動は、単に匁蚌法的必然性ずしお珟われるのではなく、䞍玔な芁玠の䞀切を包括する生掻党䜓をもっおの匁蚌法的開展ずしお――しかもその開展の䞀歩䞀歩が非合理的な契機によっお抌し進められるものずしお、珟われるのである。そうしおこの開展を導くものはこの開展の根源でありたた目的であるずころの道埗であるがゆえに、右の非合理的契機はたたこの道埗に内具するものず考えられなくおはならない。道元はその道埗を玔論理的なものに仕䞊げる芁求は持たなかった。圌においおは修行功倫によっお実珟せられる蚌悟は、動かし難い事実であった。しかしもし圌の思想を哲孊的に远究しお行くならば、䞀条䞇里なる道埗の開展に欠き難い契機ずしお入り来たるこの非合理的なるものは、さたざたに発展させらるべき問題ずしお残るであろう。それが修行者ず垫ずの間の面授面受ずいうごずき個人的問題である限り、我々はそこに心理的説明を挿んで困難を陀去するこずもできる。が、修行者ず垫ずを抜き去っお道埗をそれ自身に開展する掻動ずしお考えるずき、それはもはや心理的説明を蚱さない。この点が道元の思想においお残されたる暗点である。そうしお道元の説くずころが哲孊にあらずしお宗教であるこずの唯䞀の契機である。 ニ 葛藀  我々は道元の「道埗」がロゎスの自己開展を説くものであるこずを芋た。「かの道埗のなかに、むかしも修行し蚌究す。いたも功倫し匁道す。仏祖の仏祖を功倫しお仏祖の道埗を匁肯するずき、この道埗おのづから䞉幎八幎䞉十幎四十幎の功倫ずなりお尜力道埗するなり」ずいう圌の蚀葉は、「道」が垞に修行功倫においお珟われ仏々祖々の真理盞䌝が道埗自身の開展であるこずを意味しおいる。しかしながらこの堎合には、いかなる修行功倫も、たた仏ず仏ずの盞䌝も、すべお䞀なる道埗の掻動である、ずいう点にのみ匷調を眮き、その道埗がいかにさたざたの異なった圢に珟われるかには蚀及しおいない。この点を明らかにするものは『正法県蔵』「葛藀」である。  達磚がある時門人たちに向かっお、「時将に至らむずす、䜕ぞ所埗を蚀はざるや」ず蚀った。門人道副は、「文字に執せず文字を離れずしお道甚を為す」ず答える。達磚いう、「汝埗吟皮。尌総持は「慶喜の阿閊仏囜を芋、䞀芋曎に再芋せざるが劂し」ず答える。達磚いう、「汝埗吟肉」。道育は、「四倧本空、五陰有に非ず、我芋る凊、䞀法埗べきなし」ず答える。達磚蚀う、「汝埗吟骚」。最埌に慧可は瀌䞉拝埌、䟝䜍而立。達磚云、「汝埗吟髄」。果たしお達磚は慧可を二祖ずなし䌝法䌝衣した。この䌝説を捕えお道元は次のごずく蚀っおいる、――正䌝なきずもがらは、この四人の匟子の解するずころに芪疎あるによっお達磚の評蚀もたた皮、肉、骚、髄ず深浅を区別するのだず考える。すなわち最も衚面的な解を皮、やや深きを肉、さらに深きを骚、䞭心に培したのを髄ず評したのであっお、慧可の䞍蚀の答えは芋解すぐれたるがゆえに埗髄の印を埗たのだず解するのである。しかしながら、門人が祖垫を埗た際に、皮肉骚髄の差異あるゆえをもっお、祖垫を埗るこずそれ自身に深浅の別があるず蚀えるであろうか。「祖垫の身心は皮肉骚髄ずもに祖垫なり。髄はしたしく皮はうずきにあらず。」達磚の皮を埗るのは達磚の党䜓を埗るのである。それは達磚の髄を埗るこずによっお達磚の党䜓を埗るのず䜕ら異なるずころはない。もずより皮を埗るこずによっお党䜓を埗るず髄を埗るこずによっお党䜓を埗るずは、その圢を異にするであろう。しかし、「たずひ芋解に殊劣ありずも、祖道は埗吟なるのみなり」。達磚の道の真意は汝吟を埗たりずいうにある。埓っお四人の匟子のために蚀った蚀葉は、初めより同等であり䞀である。けれどもたた、達磚の評蚀が四人に察しお同等であるこずは、盎ちに四人の芋解が同等であるこずを意味しはしない。四人はおのおの異なった、たた優劣のある解を提出しおいる。その異なった解が、優劣のあるたたに、それぞれ達磚によっお是認せられたのである。これは単に四぀の解ず限られたわけではない。たたたた匟子が四人であったゆえにそこに四解があった。「もし二祖よりのち癟千人の門人あらんにも、癟千道の説著あるべきなり、窮尜あるべからず。」すなわち同じく面授面受によっお達磚を埗るにも、そこに無限の道著が可胜なのである。個性の異なるごずく道を異にするこずができるのである。  この道元の説明によっお我々は、道埗が千差䞇別の圢に珟われるものであるこずを、確かめ埗るず思う。しかしもし道埗がかく倚様な圢に珟われるずすれば、矛盟し撞着する道に出逢った堎合我々はどこに究極の仏法を認むべきであるか。道元は答えおいう、さたざたの異なれる芋解が盞錯綜するこずそれ自身の䞊に仏法が珟われるのであるず。この思想を衚瀺するものが圌の「葛藀」の語である。  葛藀ずはかずらやふじである。蔓がうねうねずからたり぀いお解き難い纏繞の盞を芋せる。そこからも぀れもめるこずの圢容ずなり、ひいおは争論の意に甚いられる。ずころで人間の芋解は人ごずに盞違し、もし䞀぀の芋解に達せんずすれば必ずそこに争論を生ずる。すなわち思惟は必ず葛藀を生む。埓っお神秘的認識に執する犅宗にあっおは、思惟は葛藀であるずしお斥けられる。しかるに道元は、この葛藀こそたさに仏法を真に䌝えるものだず䞻匵するのである。圌はいう、――釈迊の拈華瞬目がすでに葛藀の始たりである。迊葉の砎顔埮笑が葛藀の盞続である。垫ず匟子ずが盞続面授嗣法し行くその䞀切が葛藀である。地䞊に有限の生をうくる限り、䜕人も仏法究極の道理を葛藀なきたでに䌚埗し尜くすずいうこずはあり埗ない。しかし葛藀は葛藀のたたに、葛藀が葛藀を纏繞し぀぀、それぞれに仏法の道理を䌚埗しお行く。「葛藀皮子すなはち脱䜓の力量あるによりお、葛藀を纏繞する枝葉華果ありお回互䞍回互なるがゆゑに、仏祖珟成し公案珟成するなり。」葛藀はただ葛藀を皮子ずする、葛藀そのものが無限の葛藀を生ぜしむべき皮子である。その葛藀皮子が解脱の力量を持っおいる。その力のゆえに葛藀を纏繞する枝や葉や花や果があっお、葛藀に即し、葛藀より産出され぀぀、葛藀を超脱せる境地を珟ずる。そこに仏祖が珟成するのである。  ここに展開せられた葛藀の意矩は、我々の蚀葉に蚳すれば、むデヌの匁蚌法的展開ずいうに最も近いであろう。それは矛盟の纏繞を通じお䌞びお行く。だから䞍断に抗立吊定の動きを呌び起こしおいる。かかる論争は無限に論争を生ぜしむべき皮子である。そうしおその論争皮子は解脱の力量を持っおいる。その力のゆえに吊定の纏繞たる論争においおむデヌの自己還垰が芋られるのである。  葛藀をかく解すれば、仏々祖々がおのおの圌自身においお解脱せるにかかわらず、仏法が絶えざる葛藀ずしお存するゆえんは明らかずなるであろう。そうしお千差䞇別に珟われる道埗が、そのたたに仏法を瀺珟するゆえんも明らかずなるであろう。埓っお、この葛藀を回避するこずは、道に達するゆえんでない。道元はこの点に぀いおも明快に論じおいる。曰く、――䞀般の参孊者は、「葛藀の根源を截断する」ずいう参孊には向かっおいるが、「葛藀をもお葛藀をきるを截断ずいふず参孊せず。葛藀をもお葛藀をた぀ふずしらず。いかにいはんや葛藀をもお葛藀に嗣続するこずをしらんや。嗣法これ葛藀ずしれるたれなり。きけるものなし。道著せるいただあらず」。ここに道元は実に明癜に匁蚌法的展開の意矩を把捉しおいるず芋られる。仏法ずはたさに矛盟察立を通じお展開する思想の流れなのである。無限なる葛藀の連続なのである。埓っお理論的に綿密な反駁、蚎論、䞻匵などに入り蟌むこずなしには嗣法するこずはできないのである。  道元のこの思想は、犅宗を䞀抂に神秘説ずのみ考えるこずに察しお我々を譊戒する。道元自身はすでにこの譊戒を圌の時代の犅僧に䞎えた。たた圌の法孫のうちにもその時代の犅僧に向かっお同じき譊戒を繰り返したものが少なくない。今䞀䟋ずしお『匁蚻』の著者倩桂慶安元―享保二〇、䞀六四八―䞀䞃䞉五が「葛藀」の泚䞭に蚘した蚀葉を匕こう。「葛藀纏繞の䞊に斌お無瀙なる道著珟成す、荊棘林䞭に自圚を埗るの矩なり。今時の垫孊倶に生死岞頭に斌お遊戯し、荊棘林䞭に倧自圚を埗る等ず、圓土なしの虚蚀を吐お、又傍には䞍立文字䞍圚蚀句䞊、無矩無味無文無句、公案は参ずるのみ、矩解しお講ずべからず、ず云ふ。これを尻口䞍合虚蚀ず云ふ。叀仏の葛藀纏繞葛藀の句倢にも芋ざる故なり。」「今時の垫孊倶に文字を葛藀ず云ふお、甚嫌択する、実に怪笑に堪たり。」これらの語は道元を祖垫ずするものの圓然口にせざるを埗ないものである。「参犅しお知るべし、矩解しお講ずべからず」ずいう暙語の䞋に、あたかも秘密結瀟のごずき排他的団䜓を䜜るのは、道元の哲孊的思玢の深さを知っおいる所行ずは蚀えない。  道元自身の語によっお察すれば、犅宗の神秘䞻矩的な非論理的傟向に察する圌のこの反抗の思想は、その垫倩童劂浄に受けたものであるらしい。圌は蚀っおいる、――「先垫叀仏云、胡蘆藀皮纏胡蘆。この瀺衆か぀お叀今の諞方に芋聞せざるずころなり。先垫ひずり道瀺せり」葛藀。たた盎指人心芋性成仏、教倖別䌝䞍立文字等の暙抜によっお犅宗を立おんずするものを排する論議䞭にも、「近代の庞流、おろかにしお叀颚をしらず、先仏の䌝受なきやから、あやたりおいはく、仏法のなかに五宗の門颚ありずいふ。これ自然の衰埮なり、これを拯枈する䞀個半個いただあらず。先垫倩童叀仏はじめおこれをあはれたんずす」仏道ずいう。なおこのほかにも倩童劂浄のこの独立の地䜍は繰り返しお説かれおいる。もしこの先垫ひずり、先垫はじめおずいう事が事実であるならば、倩童劂浄は犅宗における革呜児であったず蚀わなくおはならない。たたたずいこれが歎史的事実に盞違するずしおも、少なくずも道元にずっおは先垫ひずりが始めおこの正しい䞻匵をなしたのである。しからば道元が劂浄のこの䞻匵に圱響せられたこずは、圌が意識しおシナの犅宗党䜓に察する抗議に同じたこずでなくおはならない。このこずは我々にずっおはなはだしく興味ある事実である。道元は日本においおただ犅宗の䌝統の確立されない時にシナに枡った。真に犅宗の思朮に没入し埗た日本人は、圌が最初であったず蚀っおよい。しかるに圌は、すでに六、䞃癟幎の䌝統を有する末期のシナ犅宗の䞭に飛び蟌むずずもに、敢然ずしお、このただひずりなる劂浄を正しずしたのである。すなわち圌は、犅宗の䌝統よりも、劂浄䞀人を択んだのである。圌の埌にいかなる犅宗がシナ人によっお日本ぞ導き入れられたにもせよ、ずにかく最初に力匷くそれをなしたこの日本人は、その犅宗に察する抗議者ずしお「犅宗」なるものを吊定し぀぀それをなしたのであった。この点から芋おも、犅宗の非論理的傟向に察する圌の反抗の思想が、圓時のシナの流行思想をそのたた茞入したものでなかったこずは明らかであろう。ここに我々は、圌の道埗や葛藀の思想の特に重倧芖せらるべきゆえんを芋るのである。 倧正九幎―十二幎 远蚘 この䞀篇は、道元の哲孊の叙述を䌁お぀぀途䞭で挫折したものであっお、その事情はすでに序文に述べおおいた通りである。自分はこの未熟な叙述が孊界を益し埗るずは期埅しかねおいたのであるが、近ごろ田蟺元氏の『正法県蔵の哲孊私芳』に接しお、この䞀文が同氏の道元ぞの接近の機瞁ずなったこずを知り、非垞に歓びを感じた。道元の哲孊がこのように生きた問題ずしお蘇生しお来たこずは、道元のためのみならず、たた日本の粟神史にずっお意矩の倚いこずず思われる。 歌舞䌎劇に぀いおの䞀考察  我々の時代の芞術のうち、時代特有の様匏をもっお過去に打ち克ち埗ない状態にあるものは、音楜ず挔劇である。西掋音楜ず埳川時代の音楜、西掋劇ず埳川時代の挔劇。そのほかに我々の時代の生んだ音楜や挔劇で我々が新しい様匏ずしおの䟡倀を認め埗るものは䞀も存しない。矎術及び文芞においおはすでに我々の時代が始たっおいるにかかわらず、音楜ず挔劇ずのみが䜕ゆえに「我々の」ず蚀い埗る様匏を産出し埗ないのであろうか。  この問いに答えるためには、たずこれらの衚珟手段の特殊性が考えられなくおはならぬ。次いでこの特殊なる手段を甚いる芞術家の環境、思想、生掻等が考えられなくおはならぬ。自分の考えによれば、音楜及び挔劇においおは䜜家ず挔技者ずの二重の関係がこれらの芞術の新しい創造を困難にする。挔技者が「叀き芞術」あるいは「異囜の芞術」を挔出し぀぀、芞術家ずしおの存圚を䞻匵し埗るからである。この関係は文芞及び矎術には存しない。この困難に打ち克ち埗るためには、才胜ある挔技者が新しき䜜家ず同じき粟神的雰囲気に䜏むか、あるいは同䞀人にしお䜜家ず挔技者ずを兌ねなくおはならぬ。歌舞䌎劇の様匏が初めお創造せられた時代には、確かにこの䞡者の䞀臎が芋られた。しかるに明治以埌の挔技者は、新しき䜜家ず党然異なった粟神的雰囲気に䜏み、たた単に「過去」「異囜」等の芞術を挔出するこずに満足しおいる。そうしお鑑賞者もたたそれに満足するか、あるいはそれを䜙儀なき事ずしお看過しおいる。かくのごずき環境から新しき様匏が生たれるはずはないのである。珟圚においおは西掋の様匏の咀嚌がやがお我々の様匏を生むだろうず考えられおいる。颚習の束瞛少なき音楜は恐らくそうなるであろう。しかし挔劇は、そうは行かぬ。西掋の戯曲が挔ぜられるにしおも、なお我々は日本人の颚俗による新しいしぐさず日本語による新しいせりふ回しを発明せねばならぬ。  自分はここに、挔劇の新しい様匏に察しお歌舞䌎劇が䜕を意味するかを芋るために、歌舞䌎劇の様匏及び䟡倀に぀いお考えおみようず思う。  自分もか぀おは無条件に歌舞䌎劇に陶酔するこずができた。しかし今はそうでない。歌舞䌎劇䞭の絵画的舞螊的芁玠に察しおは、自分はあたかも浮䞖絵に察するごずき気持ちをもっお――すなわち埳川時代が造り出した䞀぀の特殊なそうしお同時に氞遠な矎を味わう気持ちをもっお、十分快く没頭するこずができる。が、その戯曲的な芁玠に察しおはある反撥を感ぜずにはいられぬ。そうしおしばしば醜悪をさえも感ずる――圹者がそれを奜んで挔じ、芋物がそれに満足するらしく芋える劇に察しおも。  䜕ゆえに歌舞䌎劇のある者は醜悪であるか。この問題に答えるために自分はたず歌舞䌎劇をその醜悪な方面のみから照らしお芋る。同じ劇が他の方面から芋おある矎しさを持぀ゆえに、党䜓ずしおさほど醜悪に感じられないずいうこずは、この堎合問題倖にする。  劇そのものの醜悪はたず第䞀に戯曲の醜悪に起因する。䞀䟋ずしお近束半二䜜『䌊賀越道䞭双六』をあげよう。この戯曲は党䜓ずしお統䞀のない、䞍自然な、「こしらえもの」に過ぎない。埓っお䞊挔の際にはその䞀郚分、特に「沌接」ず「岡厎」ずが、独立せる䞀幕物のごずくにしお遞ばれる。そうしお実際それらは、おのおの䞀人の䞻人公を持った䞀぀のたずたった䜜品である。が、これらの䜜品ずいえども、果たしお矎しいず蚀えるであろうか。ここに我々は唐朚政右衛門を䞻人公ずする岡厎の段を取っおみる。この段は、䞊挔の際に初めの四分の䞀を削り取られるこずによっお、かえっお統䞀を高め緊匵を匷めるのであるが、なお我々はその内にあらゆる䞍自然を感ぜざるを埗ない。たず初めに剣道の達人政右衛門が、倧小を雪に埋めお、「䞞腰の某を、関所を砎りし浪人ずは、身に取っお芚えぬ難題」ずいうふうに捕人に抗匁する。が、先を急ぐ政右衛門が䜕ゆえにこの堎所で䞞腰の策略を䜿わねばならぬかは、党然理解するこずができぬ。真圱流の柔道の極意をふるっお捕人を投げずばす圌が、ただ䞞腰であるゆえに町人たるこずを蚌し埗るであろうか。しかし圌がここで、幞兵衛の家の前で、この策略を甚いたのは、幞兵衛に「危うき堎所」これがすでに剣道の達人に矛盟するを救われるためである。䞞腰は幞兵衛に仲裁の口実を䞎えるためであり、柔道は幞兵衛をしお政右衛門の技量に目を぀けしむるためである。すなわち䞻人公政右衛門は圌自身の内的必然によっお動くのではなく、ただ䜜者の䌁画によっお動かされるに過ぎぬ。  この「䜜者の䌁画の専制」は党篇を通じお著しい。政右衛門の「危うき堎所」を救った幞兵衛は、実は政右衛門の垫匠であり、そうしおこの垫匠の嚘お袖は実は政右衛門の敵河合股五郎の蚱嫁である。䜜者はこの珍しき因瞁の錯綜をもっお看者の心を捕えんずし、たず十䜙幎ぶりの垫匟の再䌚をきわめお「柔らかく感動的」な堎面で描いたのちに、この満足の感情を砎るものずしお、敵持぀政右衛門の自己韜晊や、垫匠が実は敵の内瞁者であるこずの珟わしを、立お぀づけに描いお行く。かくしお政右衛門は、昔の幞兵衛の匟子庄倪郎ずしお、河合股五郎の敵のうちの最も恐るべき唐朚政右衛門に、すなわち自分自身に、察抗すべく懇願されるのである。この垫恩ず敵蚎ちずの二぀の矩理の察立は、政右衛門の性栌には䜕の関するずころもなく、ただ単に運呜――しかもきわめおたれなる偶然によっお、導き出された。しかも驚くべきこずには、この䞍思議な因瞁の錯綜を芋いだした䞻人公が、その心に䜕の驚異をも感じない。十幎ぶりの再䌚をあれほど匷く感じ埗る心をもっお、どうしおこの「垫匠を敵たらしめた」運呜の悪戯に感動せずにいられたろう。このような奇異なる偶然があたかも家垞茶飯事のごずく取り扱われるこの戯曲の䞖界は、我々にずっお実に䞍可解である。  さお右の二぀の矩理の察立は、政右衛門には䜕の苊悩をももたらさない。即座に圌は垫を欺いお敵を蚎぀こずを決心する。が、ここにはさらにたれなる偶然が付加されおいる。垫匠が関砎りの詮議に出お行ったあずで、匟子は垫の劻ず語り぀぀煙草を刻む、――その堎に政右衛門の劻が、嬰児を抱き぀぀雪の倜道に悩んで宿を求めお来るのである。この唐突な偶然は、䜜者の䌁画による以倖に䜕らの必然性をも持たない。䜜者のいうずころによれば、劻はこの嬰児を倫に芋せたいがためにこの苊しい旅をするのである。そうしお倫や匟が敵を尋ねる艱難を思えば、雪は愚か剣の䞊にも寝るのが女房の圹ずいうふうに考えおいるのである。しかし我々はこのような動機づけを是認するこずはできぬ。劻は「嬰児を倫に芋せたい」ずいう願望のために、産埌玄十日の身に期埅さるべき䞀切の冬の旅の苊しさず倫の足手たずいになる危険ずを冒しお倫のあずを远うのであるか、あるいは倫の艱難を思い敵蚎ちの成就を祈るために、足手たずいずなる危険を恐れお、右の願望を犠牲にするか、――すなわち倫ぞの愛を生呜ずする激情的な女であるか、あるいは情を抑えるこずを埳操ずする賢い歊士の劻であるか、いずれかであるはずであろう。もし玔粋に前者であるならば、我々は「぀ひに䞀倜さも家の䞋で寝たこずのない」、そうしお産埌幟日も経ずしお「雪の蒲団に添乳する」この旅の女に、拘りなく同感するこずができるであろう。しかしその堎合には䜕よりもたずこの激情的な倫ぞの愛が、圌女の䞀切の苊悩の原因ずしお、匷く前景に抌し出されねばならぬ。そうしおそれはこの䜜者のほずんど顧みないずころである。圌はただこの堎合政右衛門の足手たずいずしお劻ず子ずを必芁ずした。足手たずいの意味を匷めるために圌は、その劻を、雪の倜道に倒れお癪に苊しむ女ずしお描いた。総じお䞀人の母芪が、このような境䜍においお、その嬰児のために苊しむだろうず思える最も根源的な苊悩を描いた。䜜者にずっおは、この苊悩の正圓な動機づけは問題でなく、ただその苊悩によっお政右衛門の犠牲のこころを深めれば足りるのである。埓っお政右衛門は、ここでもたたこの䞍思議な偶然に察しお、䜕らの驚異をも感じない。劻がどうしおこんな倜道に旅しおいるかの原因をさえも聞こうずしない。あたかも敵蚎ち以倖には党然重倧なこずが起こり埗ないかのごずくに、――すなわちこの䞍思議な劻の出珟が、䜕らか非垞に重倧なこずを告げ知らせんためであるかも知れぬずいう可胜性が党然ないかのごずくに、ただ敵のありかを知るこずのみに焊心し、包むわが名の顕われるのを恐れお、匷情に劻の苊悩を傍芳する。劻の苊悩が匷く描かれれば描かれるほど、矩理のために堪える圌の苊悩も深い。かくおここに䜜者の䌁画によっお、劻子の生呜の貎さず矩理の貎さずが察立させられるのである。が、我々は敵を蚎たねばならぬずいうこずが䜕ゆえに劻子を芋殺しにさせるほどの力を持぀かを理解するこずができぬ。もし圌の埩讐心が非垞に力匷い力ずしお描かれおいるならば、その埩讐心のために劻子を芋殺しにする心持ちはあるいは理解し埗られるかも知れぬ。しかし䜜者は党篇を通じお埩讐心の根源的な力を描いおはいない。圌が敵を蚎぀のはあくたでも矩理である。しかもこの矩理は正矩の意味ではない。幞兵衛は股五郎を「悪人」ず認めるが、しかし䞀床嚘ず瞁組みした䞍運のゆえに、この悪人をも助けねばならぬのである。そうしおそれも同じく矩理なのである。すなわちこの矩理は敵蚎ちずいう颚習、及び双方の瞁者はおのおのその圓事者を助けねばならぬずいう颚習に基づいたものに過ぎない。もっずも䜜者はこの颚習に道埳的意矩を付加するため股五郎をできるだけ悪人ずしお描き、颚習に埓っお動く政右衛門に「悪人を眰しようずするもの」ずいう倖芳を䞎えようず努めおいるが、しかしこの悪人を眰する仕事が今ここで二人の生呜を犠牲ずしおもなお実珟せらるべきほど急を芁するものであるずの蚌明は党然しおいない。颚習である以䞊政右衛門が敵を蚎ずうずするのは圓然である。しかし今ここに劻子が死に瀕するずいう重倧事件が起こった。この母子二人の生呜を救うこずは、悪人を眰するこずよりも、いわんや颚習を守るこずよりも、はるかに急を芁するこずである。政右衛門がここで二人の生呜を救うために敵のありかを知ろうずする意志を䞀時攟棄したずしおも、すなわち敵蚎ちを埌日に延ばしたずしおも、圌は䜕ら非難さるべきでない。吊、人ずしおはむしろそうすべきである。かくお我々は煙草を刻み぀぀苊しむ政右衛門の苊悩に、䜕らの劥圓性をも芋いだすこずができぬ。我々の感ずるのはただ醜悪である。  劻が気絶した埌に嬰児が救われる。぀いで政右衛門はひそかに戞倖ぞ忍び出お、雪の䞊に倒れた劻を呌び生ける。前段の苊悩によっお䞍圓に緊匵させられた心が、ここにおいおややく぀ろぐ。しかしこの堎面の倫劻の昂揚した情緒は、前段の䞍自然な苊悩によっお鋭くされおいるがゆえに、断片的には根源的な力をもっお人に迫るにかかわらず、なお䟝然ずしお我々の心に反撥を感ぜしめる。  次に描かれる嬰児殺しの堎面に至っおは、醜悪はその頂点に達する。肌に぀けた守りの䞭の曞付によっお、嬰児は政右衛門の子ず知られた。幞兵衛は人質が手に入ったず喜ぶ。政右衛門はその苊悩の絶頂においお己が子を刺し殺す。が、この子殺しの苊悩は䜕のために忍ばれるのか。かくのごずき倧いなる犠牲が払われねばならぬものを、我々は党然ここに芋いだすこずができぬ。䜜者のいうずころによればそれは「手ほどきの垫匠ぞの蚀い蚳」である。が、政右衛門は偶然にその劻子が珟われくる以前に、すでに垫匠を欺こうず決心し埗たのであっお、この決心のためにかほどの犠牲を芁する人ではなかった。劻子の苊悩を傍芳した前の堎面ず同じく、ここにも我々を玍埗させるような重倧な動機は存しない。我々の心は圌の苊悩に同感するこずを拒絶する。  これらの䞀切の苊悩の埌に、幞兵衛の芋珟わしず告癜ずによっお因瞁の錯綜が解かれ、幞兵衛の倉心ず嚘のお袖の尌姿ずによっお幟分の和解が成立する。が、我々は前の苊悩が空虚であっただけにこの結末にもたた䞍愉快な空虚を感ぜざるを埗ぬ。これらの人々は、わかり切った小さい和解に達するために、実に䞍盞圓な倧きい苊しみを苊しむのである。ここに我々は人間性の䞍圓な虐埅を芋る。そうしおさらに驚くべきこずには、䜜者はこの人間性の虐埅をもっお看者の心を釣ろうず䌁画しおいるのである。圌は虐殺された嬰児を抱いお嘆く母芪に蚀わせた、「前生にどんな眪をしお、䟍の子には生たれしぞ」。すなわち䟍の瀟䌚を支配する颚習は非人間的であっお、人間的な母子は、吊総じお人間性は、その䞋に苊したねばならぬ。この特殊な瀟䌚の事情は党然我々の同感を呌び埗べきものでない。そうしお䜜者がこの特殊な颚習の底に普遍人間的な根拠を瀺唆するか、あるいはそれを非人間的な颚習ずしお力匷く拒吊するか、いずれかの態床を取らざる限り、この䜜はその特殊な颚習ずずもに滅ぶべきものである。  この皮の醜悪な戯曲を歌舞䌎劇は喜んで採甚する。しかもその醜悪さをさらに匷調し぀぀挔ずる。いかにその挔技が粟緎されおあるにもせよ、我々はそこに矎を感ずるこずはできぬ。右に説いた戯曲に぀いお蚀えば、最初の捕人の堎では、圹者が「真圱の極意をきわめた達人」を衚珟するこず巧みであればあるほど、圌が倧小を雪に隠す動䜜はたすたす䞍自然である。たた垫匟再䌚の堎では、圹者がこの喜びを巧みに珟わせば珟わすほど、実際吉右衛門はこの堎の挔技によっお自分に涙を催させた、それほどたすたすこの埌の率盎でない、小さい卑しい詭蚈が、この無邪気で善良らしい剣道の達人に矛盟するように芋える。さらに煙草切りの堎に至っおは、圹者が巧劙な芞を挔ずれば挔ずるほど我々はたすたす醜悪の感を深くするのである。  自分はこの皮の苊悩の衚珟が、その誇匵のゆえに排斥せらるべきものだずは思わぬ。煙草を刻み぀぀胞を噛む人間性の苊悶を枟身の力によっお抑圧し忍び耐えようずするあのしぐさは、苊悩の衚珟の䞀぀の様匏ずしおかなり高く評䟡されおいいものである。たた門倖に雪になやみ぀぀、寒気ず病苊の脅嚁に察しお嬰児を守ろうずする母芪のしぐさも、母性の苊悩の衚珟ずしお䞀぀の完成された様匏ず芋るこずができる。しかし我々はただ苊悩の衚珟のみを喜び埗るものではない。この苊悩が避くべからざるものであり、この苊悩に堪えるこずが生の肯定を意味するずき、初めお我々はこの苊悩に同感しお自らの高められたこずを感ずるのである。しかるに圹者は、苊悩の衚珟にのみ苊心しお、この苊悩の普遍人間的な根拠を瀺すこずを知らない。苊悩においお高められた人栌を衚珟せずしお、苊しむ芁なき苊悩を単にそれ自身ずしお衚珟する。埓っお圹者が舞台䞊に瀺すものは、颚習の奎隷たる小さい卑しい人物の、内容においおは空虚な、しかも倖面においおは倧きい烈しい苊悩である。圹者の芞の巧劙さは内容の空虚をたすたすきわ立たせるに過ぎない。  実際自分は吉右衛門がこの劇を挔じた時に、その芞の巧劙を認め぀぀も、嘔吐感を犁ずるこずができなかった。こずに圌が嬰児を殺しおその死骞を床に投げた時、――ある重さを感じさせる鈍い響きが自分の耳に達したずき、――自分は猛烈な䞍愉快を感じた。このような醜悪な感じは、珟実の生掻においおほずんど感ずるこずのできないものである。  以䞊のこずは単に「岡厎」に぀いお蚀えるのみでない。「沌接」の平䜜の犠牲も同様に人間性の虐埅である。が、同じこずはさらに歌舞䌎劇党䜓に぀いお蚀えるであろうか。歌舞䌎劇の挔ずる戯曲は必ずしも『䌊賀越道䞭双六』のようにあくどいものばかりではない。もし右の芳察が倚くの他の戯曲にあおはたらないずすれば、これをもっお歌舞䌎劇党䜓の醜悪を論ずるのは䞍圓ではないか。  確かにそうである、もし「あおはたらない」ずすれば。しかし自分は「岡厎」においお拡倧しお芋せられた醜悪が、䜕ほどかの皋床に必ず他の戯曲にも存するこずを䞻匵し埗る。同じ近束半二の䜜のうち今なお愛奜せられおいるお染久束の「野厎村」は、なるほど「岡厎」や「沌接」ほど醜悪ではない。が、我々は「野厎村」においお情死を決心するお染ず久束の苊悩に、我々の玍埗の行くほどな重倧な動機を認め埗るであろうか。たたこの二人の情死を慮り、自分の恋を断念しお尌になるおみ぀の犠牲の苊しみにも、我々の承服し埗べき内的必然性を認め埗るであろうか。もずよりこの䜜の䞻題は二人の女ず䞀人の男ずの恋愛関係であっお、そこに存する苊悩の栞は最も容易に普遍人間的たり埗るものである。しかし䜜者はこの比范的容易な題材においおすらも、恋愛そのものの含む根源的な䞍調和に突き入らずしお、あたりにも倚く「矩理」に、「習俗的偏芋」に、その所を䞎えおいる。しかもこの矩理によっお道矩の嚁力を珟わし、あるいはこの偏芋によっお固定せる颚習の非人間的な害悪を瀺し、それを苊悩の原因ずするのでもない。たず初めにお染ず久束ずを情死の芚悟にたで抌し぀けるものは、久束の䞻人ぞの「矩理」である。しかも䜜者は、この矩理がいかなる力をもっお、いかなる苊しみを通しお、久束に恋愛を断念させるか、たたその断念し切れない恋愛のゆえに矩理に察しお戊うべきその戊いが、いかなる意味で䞍可胜であり絶望的であるかを描こうずはしない。あたかも玄束であるかのごずくに、矩理が出れば盎ちに圌は屈服する。明らかに圌は矩理の盲目的な奎隷である。埓っお圌の「船車にも積たれぬ埡恩、仇で返す身のいたずら」ずいうごずき蚀葉もきわめお空虚にしか響かない。お染の䞀途な恋情の前に「死ぬ気」になるずいう厳粛な事実は、実はこのような空虚な動機づけしか持っおいないのである。我々は久束が匱い無性栌な人ずしお描かれおいるこずには必ずしも反察するものでないが、それを死の芚悟にたで導く動機が根源的な嚁力を持぀恋愛の苊しみでもなければ個人を抌し぀ぶす瀟䌚の道矩的芁求でもなく、ただ単に圌の無性栌、圌のでたらめな気分に過ぎぬこずを䞍愉快に感ずるのである。さらにこの二人の死の芚悟を芋お己が恋を犠牲にするおみ぀も、最初はただ初々しい無邪気な田舎嚘ずしお描かれ、その恋もたたきわめお率盎な、あからさたな嫉劬によっお珟わされる。しかるに次の堎面では圌女は、お染ず久束の「底の心」を芋砎り、母芪の心を劎わるために己が悲しみに耐え、二人を「殺しずむないばっかりに」尌になるずいう耇雑な心の䞻に倉化しおいる。そうしおこの倉化を匕き起こした圌女の心の苊闘に぀いおは䜕の描かれるずころもない。自分を犠牲にした女の姿は、なるほどよく描かれおいる。が、この犠牲を導き出す必然性は、ほずんど認める事ができぬ。最埌にお染が幟床か自害しようずする興奮した動䜜も、適圓な動機づけを欠くゆえに、ただ䞊ずった神経的な隒ぎずしおしか印象を䞎えない。圌女は己が母芪の悲しみには顧慮せず、ただ䞀途に久束に逢いに来た無邪気な嚘である。たた自分ず久束ずの恋が蚱嫁のおみ぀にいかなる苊痛を䞎えるかずいうこずにさえもか぀お気づかなかった単玔な心の持ち䞻である。それがおみ぀の母芪の悲しみを芋お自分の責任を感じ、「蚀い蚳」のために死のうずする。それほど急激に他の心に同情し埗る女に倉化したのならば、おみ぀の犠牲の心にもどうしお同情しなかったか。我々は死を䞭心にしお動くこれらの心持ちの倉遷に、深いたたしいの動きを予想せずにはいられぬ。しかし䜜者はただ倖面の興奮のみを描いお、それが意味すべき魂の動きを描かない。我々にはお染の行動もたたでたらめに芋える。  近束の䞖話浄瑠璃のごずきはここにはしばらく別問題ずしお、普通歌舞䌎劇堎が奜んで䞊挔する倚くの劇には、「劇」ずしお右のごずき醜悪が芋いだせるず思う。「野厎村」をもっお代衚せしめ埗べき䞀列の心䞭物、「岡厎」をもっお代衚せしめ埗べき䞀列の敵蚎ち物、その他歊士階玚に察する平民階玚の反抗心を䞻題ずする喧嘩物、颚習の圧抑ぞの反抗心を䞻題ずする癜浪物、――すべおそれらにおいお劇の葛藀を生み出す根拠は、垞に瀟䌚の䞀時的なる颚習である。埩讐心、反抗心のごずき自然的原始的な動機すらも、その自然的原始的な力においおは぀かたれずに、倖面的䞀時的な関心に垰しお考えられる。埓っお矩䟠的にふるたう人物ずいえども、自敬の念に動く人ずしおは珟わされずに、ただ圓時の䞖間の物笑いずなるを恥じる人ずしおのみ珟わされるのである。たれには䞀身を犠牲にしお民衆の犏祉のために苊しむ人物や、あるいは自己の眪悪のために死よりも烈しい苊悶に陥る人物が描かれぬでもないが、そういう䜜においおも、苊痛に堪える力の貎さや眪悪の意矩や人類的な理念やなどに察する䜜者の無理解ず、倖面的にのみ熱心な苊悶の衚珟ずのゆえに、我々は玠盎に矎を感ずるこずができない。もし我々にしおこれらの歌舞䌎劇のうちにただその戯曲的芁玠をのみ芋るならば、我々はそれを芞術ずしお鑑賞するに堪えない。  が、我々はたた歌舞䌎劇のあるものにおいお、その「戯曲」ずしおの醜悪を感じながらも、なおわずかの自己制埡によっお、その䞖界に入りその矎を感ずるこずができる。同じく近束半二の䜜に䟋を匕けば、『二十四孝』の「十皮銙」の段は、総じお「人栌の葛藀」を描いたものずは蚀えない。その䞖界のうちに動くものはただある䞀぀の感情を持った人圢に過ぎぬ。そうしおこの䞖界の茪郭は荒唐無皜な䜜者の䌁画によっおできあがっおいる。しかし我々はこの劇においお、その戯曲的芁玠ぞの泚意を遮断し去った時に、䞀぀の矎しい倢幻境ぞ誘い入れられるのである。我々はもはや劇䞭の人物の「人栌的行為」を芋るを芁しない。氞い䌝統を負った舞台装眮や圹者の衣裳の装食的絵画的効果、同じく氞い䌝統によっお蚓緎された圹者の䜓の圫刻的及び舞螊的効果、及びその埮劙なせりふ回しの音楜的効果。それらによっお我々はここに玔粋の劇ず区別すべき別皮の劇を芋いだすのである。この劇においおは戯曲はただ絵画的圫刻的舞螊的及び音楜的効果に郜合よき茪郭でありさえすればよい。ここに䜜り出される矎はただ圢ず線ず色ずの亀錯、その動きの埮劙なリズム、それに䌎なう旋埋的な声音などに盎接に基づくのであっお、これらの動䜜に珟わされる倫理的意味に基づくのではない。  ここに圹者の「芞」が䞻䜍を占めるずころの歌舞䌎劇の他の方面がある。そうしお歌舞䌎劇の矎はたさにこの方面に存するのである。埓っおこの矎は戯曲的芁玠の少ないものにおいおほど䞀局玔粋に珟われる。『暫』ずか『狐忠信』ずか『車匕』ずかのごずく、絵画的舞螊的効果のために写実的な芁求や戯曲の制玄を党然攟擲しお顧みないもの、あるいはさらに『関兵衛』、『田舎源氏』、『鷺嚘』などのごずく、玔粋に舞螊であるもの、――それらにこの芞術の最もよき代衚者がある泚䞀。我々はここに埳川時代の特殊な情調より生たれた特殊な矎を、――その意味で䞖界に比類がなく、たた絶察に「再びすべからざるもの」であるずころの独特な矎を、芋いだすのである。もずよりそれは我々の珟圚の心を䜙蘊なく充たし埗るものではなかろう。我々の心は自由にしお奔攟なロシア舞螊により深く満足するに盞違ない泚二。しかしたずえばあの鷺嚘が、真癜き装いをしお、薄い傘をさしお、「しょんがりずかあいらしく」たたずんだあの䞍思議に艶な姿は、いかなるロシア舞螊の傑䜜にも芋られない特殊な矎しさを印象しはしないか。そうしおあの頞の、静かな、柔らかな、そうしおきわめおわずかなうねり方は、ロシア舞螊に満足するず党然異なった方向においお、我々の心に鋭い顫動を呌び起こしはしないか。自分はアンナ・パノロヌノァの螊りを芋たのちにも、粂八の鷺嚘の印象が決しお自分の心に薄らがないのを感ずる。  この皮の矎を持った歌舞䌎劇は、埳川時代の音楜やあるいはたた浮䞖絵などず同じく、その著しい時代色を超えお普遍人間的に通甚するものである。それは雄倧な、あるいは力匷い芞術ではない。ただ小さく、哀れに愛らしいものに過ぎぬ。しかしその比類なき濃淡のこたやかさは、雄倧な芞術の前にもなお自らを䞻匵し埗べき䟡倀をこの芞術に䞎える。  歌舞䌎劇の倚くのものにおいおは、この皮の矎が、戯曲的の醜悪を包んでいるのである。圹者は「岡厎」のごずき醜悪な劇を挔ずる際にも、おどりの蚓緎によるしぐさの矎しさや音楜的蚓緎によるせりふ回しのうたさを䜿う。埓っお郚分的な衚珟においおのみこれらの「芞」を味わう人には、劇党䜓の醜悪は看過し埗られるものになる。たずえば雪の倜道に苊しむお谷のしぐさは、前埌ず切り攟しお、ただ母の苊しみを珟わす䞀皮の舞螊ずしお味わうこずもできる。そうしお舞螊ずしおの苊しみの衚珟には、苊しみの動機ずしお寒気の嚁力や死の恐怖以䞊に䜕物をも芁しない。この「人物」が䜕ゆえに「この」苊しみを苊しむかはこの堎合問題ずはならない。かくのごずき立堎に立おば、この本原的な感情の類型的衚珟にはかなりの矎しさが芋いだせるであろう。  これが戯曲ずしお匱い歌舞䌎劇に匷い魅力を持たしめるゆえんである。すなわち歌舞䌎劇の長所はあくたでも「歌舞䌎」であっお「劇」にあるのではない。歌舞䌎劇においお圹者が優䜍を占め脚本䜜家がその奎隷の地䜍におずされおいるのはもずより圓然のこずである。  歌舞䌎劇が右のごずきものであるずすれば、それはすでに埳川時代に完成したものであっお、内より開展し埗べきものではない。それがおのずからなる開展の歩みを止めおからすでにもう半䞖玀の幎月がたった。そうしおその間の時代の倉遷はあたりに烈しい。今や歌舞䌎劇は胜楜ず同じき地䜍に陥った。圹者はただ過去の様匏の忠実な保存者であればよい。そうしおこの過去の様匏のうちの䜕が氞遠の䟡倀を持぀かを理解しおいればよい。  しかし胜楜が忠実に保存されたず平行しお、その䌝統を巧みに利甚し開展し぀぀歌舞䌎劇を䜜り出したあの埄路は、我々の時代においおも繰り返されぬであろうか。すなわち歌舞䌎劇の忠実な保存ず平行しお、その䌝統を利甚した新しい様匏は生たれ埗ぬであろうか。  それに察しお我々は䞉぀の堎合を考え埗る。䞀は旧来のしぐさやせりふ回しの原理を我々の時代の颚俗や蚀葉に掻甚しお、新しくしぐさやせりふ回しを創造するこずである。二は旧来のしぐさやせりふ回しをそのたた利甚しお、真に戯曲らしき戯曲の挔出法を創造するこずである。ギリシアの悲劇の巧みな翻案ずその挔出法の工倫ずはこの創造によき暗瀺を䞎えるであろう。䞉は圚来の舞螊が日本人の䜓栌ず動䜜ずにおいお芋いだした矎しさを我々の時代の趣味ず情調ずの内に倉質させ再生させるこずである。これらの䞉぀はいずれも倩才の出珟によっおのみ可胜なこずであろう。が、新しい様匏の創造が倩才を埅぀のは圓然である。我々はこの倩才を枇望するこずによっおこの倩才を呌び出さねばならぬ。 倧正十䞀幎、䞉月 泚䞀 舞螊劇の問題に関連あるものずしおか぀お「唄ず螊り」ず題しお曞いた短文をここに付加する。䞉䞃二ペヌゞ参照  さる名人の長唄をきいたあずで、ふず心に浮かんだこず。  自分は長唄を十分理解し埗るずは思っおいない。しかし柔らかな、円い、艶っぜい唄であれば、自分はいきなりその濃い雰囲気のなかぞ匕き入れられお行くように感ずる。そこにみなぎっおいる情緒が、自分の日垞生掻ずかなり瞁の遠いものであるこずは、いささかもこの没入を劚げない。だから自分はこの皮の旋埋にある匷い力を認めるこずを躊躇しない。  が、ここに唄われる歌は、詩ずしおどういう䟡倀を持っおいるか。たずえば、『座頭』ずか、『傟城』ずか、『汐くみ』ずか、『鷺嚘』ずかずいうふうのものは、読む詩ずしおもある情調を印象するには盞違ないが、「叙情詩」ずしお優れたものず蚀えるであろうか。自分はそうは思わない。惻々たる感情の流露を問題ずするならば、埳川初期の小唄類の方がはるかに優れおいる。長唄の歌詞は䞀぀の感情を歌うずいうよりも、むしろ「䞀぀の情調」を印象掟の手法によっお描いたものである。そこには、さたざたの衚象が点々ずしお䞊べられる。たずえば『傟城』においおは、傟城なるものを連想させる皮々の衚象――「鐘は䞊野か浅草か」、「初桜」、「玠足の八文字」、「間倫」、「結び文」、「床ぞさし蟌む朧ろ月」、「櫺子」、「胞づくし」、「鶏の啌くたで」、「手管」、「口舌」、「宵の客」、「傟城の誠」、「抓る」、「廊䞋をすべる䞊草履」、「櫛簪も䜕凊ぞやら」、「倏衣」、「初音埅たるる時鳥」、「閚の戞叩く氎鶏」、「蚊屋の䞭」、「晎れお逢う倜」、「芋返り柳」、などの刺激の匷い衚象が、春倏秋冬にはめお䞊べられおいる。そうしおこれらの衚象を結び぀ける手段は、「解けお思いの皮ずなる鐘は䞊野か浅草か」ずいうふうの、単なる蚀語遊戯に過ぎない。埓っおここに歌われるのは、ある䞀぀の心に起こった特殊な感情の動きではない。遊蕩児に共通なさたざたの情調を、断片的に点綎しお、そこに非個人的な䞀぀の生掻情調を描き出しおいるのである。だからこの皮の歌には、ある心の深い悲しみ、苊しみ、喜び、あるいは湿やかな愛の情緒、などは珟われお来ない。ただ矀集のざわめきの䞭にあるような、感情の衚面の亀響のみがある。「叙情詩」を唄うずいうこずから離れおいないこの音曲が、叙情詩ずしお優れたものよりも、むしろこの皮の情調詩を択ぶに至ったこずは、䜕を意味するだろうか。  音楜はそれ自身の性質ずしお玔粋になろうずする傟向を持぀。蚀葉の必芁はそれに䌎なっお枛少するものである。が、長唄においおは、蚀葉はなおその力を倱っおいない。蚀葉を無芖しおただ旋埋のみを聞いおいる時よりも、蚀葉を知っおそれを聞いおいる時の方が、旋埋は匷く響く。それほどに蚀葉の力が働いおいるずすれば、点描的な歌詞を䜿甚するこずにも、䜕らかの根拠がなくおはならない。  自分はこの原因を探っおふず螊りずの関係に思い至った。点描的な歌詞は音楜のためよりもむしろ螊りのためではないだろうか。  たずえば『鷺嚘』の、「せめお哀れず倕暮れにちらちら雪に濡れ鷺のしょんがりずかあいらし」ずいうような文句を、ただ唄で聞く堎合ず、唄に぀れお「しょんがり」ずたたずむ癜い矎女の姿を芋ながら聞く堎合ずでは、その印象が著しく異なっお来る。螊り手の姿や、その螊りの埋動に結合すれば、断片的な文句は盎ちに具象的な䞭心を埗お、単なる情調詩以䞊のある深さを感じさせる。  この芖点をもっお長唄の歌詞に向かったずき、自分には右にあげた疑問が解けるように思えた。䞀぀の情緒を筋立おお歌った叙情詩は、螊りにずっおは䞍利であろう。なぜなら特殊な心の感情の動きを衚珟するためには、挔劇的な衚情がはいりやすいからである。そうしお挔劇的になるこずは、螊りの特殊な衚珟胜力を枛殺するこずになるからである。音楜に近い螊りにはその自身の象城的な衚珟法がある。螊りがその特有の矎を発揮するためには、歌詞の束瞛はできるだけ匱たらなくおはならない。  ここに螊りの発達ず、螊りが音楜から離れるこずのできない性質ずが亀叉する。もし日本に噚楜が発達したならば、螊りはそれず結び぀いたであろう。しかし噚楜のない日本では螊りは唄から離れるこずができない。そこで歌詞の束瞛の最も少ない唄――歌詞がむしろ螊りに奉仕する唄が求められる。意味の連関の匱い、点描的な情調詩は、ちょうどこの芁求にあおはたる。かくしお詩ず音楜ず螊りずの枟融した芞術ができあがっおくる。こう芋れば、長唄だけを離しお唄うのは、この芞術の矎点をそぐものである。  が、我々はこの枟融した芞術が音楜ず螊りずの二方面に玔化しお行くこずをもたた望たなくおはならない。ただその堎合には、単なる分離でなくしお進化が必芁である。長唄はリむドずしお、より玔粋になるこずを芁する。すなわち音調の矎ず狭斜の情調ずを䞭心にする歌から、――螊りのための歌から、――より深い感情を珟わした歌に移り、そうしおそれにふさわしい旋埋の深化ず解攟ずを芁する。たた螊りは、蚀葉ずの密接な関係を離れお――すなわち蚀葉を身ぶりに翻蚳する圚来の方法から離れお、玔音楜を䌎奏ずするより象城的なものに進たなくおはならない。自分はこの進化が可胜であるこずを信ずる。たた圚来の様匏が驚嘆すべき新芞術の玠地ずなり埗るこずをも信ずる。ただ欠けおいるのは革呜の倩才である。 泚二 ロシア舞螊の問題に関連せるものずしおアンナ・パノロヌノァの舞螊の印象蚘を巊に付加する。䞉䞃二ペヌゞ参照  アンナ・パノロヌノァの螊りを日本で芋るこずができるずは、䞍思議なたわりあわせである。䞃、八幎前にはそんなこずは思いも寄らなかった。パノロヌノァは遠いあこがれの䞀぀であった。䜕が起こるかわからぬずいう気がしみじみずする。ずころでこのパノロヌノァの螊りを芋お、たた思いがけぬ気持ちに出逢った。自分はあの螊りに、予期しおいたほどの驚異の情を感ずるこずができなかったのである。  この前来たスミルノヌノァは確かにパノロヌノァよりも拙かった。座員も今床のよりは悪かった。しかしパノロヌノァを芋た埌にもスミルノヌノァの印象は䟝然ずしお薄らがない。ずいうのは、最初の時自分は舞螊のあの様匏に驚異したのであっお、そのためにはスミルノヌノァほどの巧さでも十分だったのである。埓っおスミルノヌノァの印象にはあの皮の舞螊に察する最初の驚異の情が混じおいる。しかるに今床は、スミルノヌノァよりもはるかに優れた、別皮の芞術を芋る぀もりでパノロヌノァに察し、そうしお案倖にも同皮の芞術を芋いだしたのであった。䞡者の盞違は技術の盞違であっお様匏の盞違ではない。それに気づかずに予期すべからざるものを予期したのは、自分の芋圓違いであった。  我々はパノロヌノァ個人の芞ず、圌女の螊る舞螊の様匏ずを、別々に考えなくおはならない。パノロヌノァは巧劙である。その螊りは、ずいうよりもその姿は、矎しい。しかしあの「舞螊劇」なるものは、党䜓ずしお、矎しいず思えない。自分の芋た『アマリラ』が特にそうなのかも知れぬが、あの劇的な動䜜は舞螊の玔粋性をそこなう。舞螊はあのように劇的動䜜の代甚物であっおはならない。それは独立にその特殊の衚珟法をもっお、すなわち運動のリズムをもっお、盎ちに魂の蚀葉を語らなくおはならない。  ショパンの曲を舞螊に移した『ショピニアナ』は、右の芁求を充たすものずしお予期しおいた。しかしその予期もはずれた。そこには䞀぀の䜜曲ずしおの統䞀ある感じがない。矀集の各個の螊りがただ亀響楜にたで仕䞊げられおいない。手ず足が単調である。  舞螊小品ず呌ばれる短い螊りになるず、自分は初めお心の充たされるのを感じた。玠朎にしお快掻な『オヌベルタス』、奔攟に動く『ピ゚㇜ロヌ』、静かに矎しき『春の声』、矀集の螊りずしお巧みな統䞀のある、そうしおギリシアの圫刻ず絵の姿を巧みにずり入れたギリシア舞螊。パノロヌノァの『癜鳥』は盎線的な䞋半身ず柔軟に曲がる䞊半身ずの䞍思議に矎しい舞螊であった。荒々しい『バッカナヌル』においおパノロヌノァは、我々東掋人の枇望する自然力の党解攟を螊った。自分ずしおはこの最埌の螊りに最も深い恍惚を感じた、パノロヌノァずしおは特に埗意ずするずころではないであろうが。  もしパノロヌノァが、あの䌑止せる矎しい型から次の矎しい型ぞず飛ぶような螊りを埗意ずするならば、自分は圌女のために取らない。あの玠早い曲線の動きには、ほずんど现やかな濃淡が芋られない。也燥である、神経的である。ああいう螊りを芋るず、日本の叀い埳川時代の螊りが、たずいあの『バッカナヌル』のごずき方面の矎しさを党然欠いおいるにもせよ、なお曲線の動きの耇雑な、濃淡の现やかな矎しさにおいお、かなり高く評䟡されおいいものであるこずがわかる。  パノロヌノァの芞は芋るたびごずに味の深たっお行くのを感じさせたが、しかし結局最初の印象の通りに、舞螊小品ず呌ばれるものがこの芞術の本質を瀺したものであるこずを知った。ここにその二、䞉の螊りに぀いお、やや詳しい印象を蚘しおみたいず思う。  自分は最初パノロヌノァの『バッカナヌル』を芋お、深い恍惚を感じた。しかしその圢匏を特性づけおみろず蚀われれば、ただディオニュ゜ス的であるずいうほかに答えを知らなかった。そこで自分は、どうにかしおこのディオニュ゜ス的なものの、流動し奔湧する圢を捕捉したいず思った。二床目に芋た時には前よりもさらに匷い印象をうけお、日垞の生掻の静かな心の萜ち぀きが党然芆されるのを感じた。心があえぎながら、あの、留たるこずなく流れ行く圢を远った。その倜は遅くたで眠れなかった。が、䟝然ずしおその圢は自分にずっお挠然たるものであった。䞉床目に四階の壁偎から芋おろした時、ややその圢を捕えた気持ちになれた。しかしそれはただ有機的な党䜓ずしお、自分のうけた感動を隅々たで充たすこずはできない。  半裞の男ず女ずが、䞊んで、肩をそろえお、手をうしろで組み合わせお、前かがみになっお、そろえた足を高く螏み䞊げ぀぀、急速に躍進しお来る。そうしお舞台を斜めに、巎圢の進路をずり぀぀、枊巻のように䞭心たで䞀瞬間に迫っお行く。これは非垞な力を印象する動きであるが、しかしその荒々しい動きのうちに偶然的な気たたな圱は党然なく、奔攟そのものでありながら同時にそのたたに必然である。自分は数えおはみなかったけれども、ここに螏む足の数は厳密に確定しおいるのであろう。そうしおこの厳密な圢匏に服し぀぀䜕らの拘束をも感じさせない自由な動きが、すなわち芏矩に完党に合臎しお透明ずなったずころから生ずる自由が、この動きにあの溌剌ずした矎しさを䞎えるのであろう。  この最初の動きが枊巻の䞭心に至っお烈しく旋回した埌に、螊りは次の運動ぞ移ったように思う。男女はパッず離れた。それが胞を打぀ほど印象の匷い新生面であった。そのあずに離れおは合い、旋回しおは離れる、飛躍的な、狂おしい螊りが぀づいた。向き合っお、䞡手を぀ないで、二人ずも倖ぞ䞊身をそらせお、くるくるずたわる枊巻があった。互いに向きを反察にしお片腕を組み、※「卍」を巊右反転したもの字圢に旋回する運動もあった。これらの手は、順序をよく芚えおいないが、ずにかく最初の巎圢の行進に匕き぀づいお、次の瞬間に猛烈に螊られたものである。ここにも䞀芋枟沌のごずく思われる動きのうちに、厳密な必然のあるこずが感ぜられる。あの力の流れかたは、ただ䞀点においお栌を離れおも、盎ちに運動党䜓の有機的関係を解䜓するようなものであった。そうしおそれは、最初の比范的単玔な、うねりの倧きい線に察しお、その必然の開展ずしお珟われおくる。  この緊匵した、黄金点をのみ通っお行くような動きのあずに、息を吐く間もなく、バッカントがバッカンティンを远うような動きが始たる。二人の離合によっお造られおいた力の枊巻が、今やたた䞀぀の方向ぞ流れる。狂おしく螊りながらバッカンティンは逃げる。が、そこぞ時々小さな䌑止がはいり始める。女は舞台の巊の角に立ち留たっお、䞊䜓をうしろにそらせ、頞をできる限りうしろにのばしお、䞀瞬間、圢を凝固させる。぀いでたた烈しく逃げながら、赀い花をたき散らす。が、たた巊右に離れお、二぀の力の平衡を感じさせながら、「ちぎり捚おる」ずいう蚀葉にふさわしいような、あるいは「身心を攟擲する」ずでも圢容すべきような、心ゆくばかり矎しい、烈しい動きがある。そうしお女は぀いに花の撒かれた地䞊に倒れる。やや倧きい䌑止がはいる。  この䞉段の開展によっお最初の䞀節が終わったように自分は感じた。運動の旋埋の蚘憶が自分には確かでないから、自信をもっお確蚀するこずはできぬが。そこで第二節が同じテヌマを、旋埋の䞊ではやや高次的に、動きの䞊では前よりも小仕掛けでたた集䞭されお、新しく展開される。初めの出ず同じ行進が、前よりも小さい巎圢の進路の䞊を、前よりも短く螏たれた。※「卍」を巊右反転したもの字圢の猛烈な旋回もあった。バッカンティンの逃げる圢もあった。やがお捕たったかず思うず、舞台の䞭倮で、くるくるず回るうちに、バッカンティンはバッカントの腕の䞭でパタず倒れた。胎の䞭ほどを背郚でささえられお。女の䜓は胜うかぎり、匓なりに䌞匵する。斜め䞋ぞそらせた肩から、䞡腕が、同じ圎曲線に添うお、地に届かんばかりに垂れる。反察の偎では腿から足ぞの圎曲がこれに察応する。それで䜓はほずんど半円を描く。こうしお凝固した圢は、第䞀節の終わりの䌑止よりもはるかに倧きい䌑止ずしお、力匷い効果を持った。あの激烈な埋動の間にはいる䌑止が、突劂ずしお、この結晶せるごずき矎しい姿態ずしお珟われるこずは、その埋動の矎しさず䌑止せる圢の矎しさずを、ずもどもに高めるのである。  この䌑止から第䞉節ぞのう぀り方もきわめお効果の倚いものである。埐々に、静かに、婉曲に、凝固せる圢が動き出す。女の裞圢の腕が男の頞ぞたき぀く。たた静かに女の䞊身がもたげられお、匓圢の線はこずごずく解䜓する。ず、突然に、匟かれたように、二人はパッず離れる。このあずにたた同じテヌマが、もっず急調にもっず集䞭されお展開する。二人が肩をそろえお手をうしろで組み合わせたあの烈しい行進。旋回。远い远われる運動。そうしおその動きが舞台の䞭倮で枊巻いたかず思うず、バッカントは手をふる、バッカンティンはその手に投げ぀けられたかのように、パタず倒れる。実にパタッず。ここでも烈しい埋動の切り䞊げ方は、前の䌑止の際ず同工ではあるが、しかしさらに䞀局力匷い。第䞀次の䌑止よりも第二次の䌑止が、第二次の䌑止よりもこの終末が、それぞれ明らかに匷められきわ立たされおいる。それがちょうど䞉぀の節における、挞次高たっお行く展開に盞応ずるのである。  ああいう緊匵した、䞀ぶの隙もない螊りが、あれほど枟然ず螊れるずいうこずは、パノロヌノァの技がいかに驚嘆すべきものであるかの明癜な蚌拠だず思う。肉䜓の隅々たでも粟神に充たされおいるようなあのパノロヌノァの肉䜓をもっおでなければ、ああいう芞術は造れない。あれはディオニュ゜ス的なる芞術の䞀぀の極臎である。我々は圌女によっお䞀぀のこずを力匷く反省させられた。ディオニュ゜ス的なるものもたた芏矩に完党に合臎せる所の自由によっお実珟されるのであるずいう事を。攟恣ず奔攟もたた、芏矩を捚離した境地においおではなく、芏矩を拘束ずしお感じないほどに芏矩を己れのうちに生かせた境地においお、初めお矎しく生かされるのであるずいうこずを。 『瀕死の癜鳥』も䞉床芋た。これは静かな、盎線ず曲線ずのからみ぀いた、矎しい螊りである。パノロヌノァの姿態の特城を十分掻甚させた意味で、やはり最も優れたものの䞀぀に数えおよかろうず思う。  この螊りもやはり䞉段に分かれおいる。たず初めに舞台の巊奥の隅から、軜く、きわめお軜く、ふうわりず浮き出おくる。爪先で立った䞋肢が、盎線的に䞊䜓をささえ぀぀爪先の力ずは思えぬほどに優雅に滑っお行く。しかし爪先で立っおいるずいうこずが、この䞋肢の盎線にきわめお動的な、デリケヌトな、他に類䟋のない感じを賊䞎しおいるのである。この点から芋れば爪先で立぀ような螊り方を盎ちに䞍自然ずしお斥けるこずはできぬ。しかしたた爪先の利甚はこの螊りにおいお極点に達する。これ以䞊に出る䜙地はない。この盎線にささえられた䞊身が、最初は巊右ぞ䌞べ開いた䞡腕の繊矎なうねりず頞のかすかな傟け方ずで曲線を描いおいる。やがお静かに䞊䜓が婉曲しお、倒れそうな圢になる。胞は反り、頞は斜めうしろぞ曲げられお、片頬が䞊面になる。これを癜鳥の苊痛の衚情ずしお芋れば、螊りずしおは䞍玔なものになるが、我々はただこれを曲線的な運動においお珟わされる旋埋ずのみ芋るこずができる。倒れそうな圢はたたもずぞ垰るが、再びたた曲がり方が高たっお行っお、倒れそうになる。䞉床目には぀いに倒れる。右の足を前に出し、䞊身ず䞡腕ずをその䞊に䌏せお。その堎所は、舞台の巊奥の隅から右前の隅ぞ匕いた察角線の、出口から芋おちょうど䞉分の䞀ぐらいのずころである。ここで第䞀段が終わる。  起き䞊がっおたた初めのように䞡腕を繊矎にうねらせながら泳ぐ。動いお行く茪が前よりも広い。䞊身も初めよりは倚く曲がりくねる。たた幟床か倒れそうになる。぀いに倒れる。䞀床目よりはやや長く。その堎所は右の察角線の䞉分の二ぐらいのずころである。ここで第二段が終わる。  再び起き䞊がっお泳ぎ始める。今床は動き方もさらにひろくさらに急調である。䞊身のくねらせ方もさらに烈しい。぀いに二床目ず同じ堎所で倒れる。右足をできるだけ前ぞのばし、巊足を぀き、䞊身を前ぞ折りたげ、䞡腕をさらにその先ぞのばす。ここたでは前に倒れたずきずほが同様であるが、さらに䜓を巊ぞ捩っお、顔を右斜め向こうに頭を地に぀け、初め前ぞ出しおいた右手をうしろぞのばしお、初めは宙宇にやがおパタず腰の䞊に、やがおぐなりず䜓に添うお䞋ぞ萜ちる。――これも癜鳥の死の衚珟ずしお芋るよりは、あの柔らかな曲線のうねりの旋埋にどういう結末を䞎えるかの方面より芋るべきである。からみ぀いおいた盎線ず曲線ずは、最埌たでからみ぀いたたた、吊䞀局匷くからみ぀き぀぀、あたかも墚色をかすめお静かにはねた線のように、なだらかに終わるのである。  我々はこの螊りにおいお、肩や頞や二の腕や手銖などの、䜕ずも蚀えず矎しい圢ず、その矎しい動きずを芋る。ここにはアポロヌン的な芁玠がよほどはいっおいる。が、特に目立぀のは肩、なかんずく背䞭、及び肩から腕ぞの移行郚などによっお珟わされた、胎䜓の矎しい、くねり方である。すなわちこれらの「動く圢」である。  が、『蜻蛉』及び『カリフォルニアの県粟』もたたそれに劣らず矎しいものであった。題目が螊りの振りや螊り手の心持ちずどう関係するかは知らない。しかしずにかくそれぞれの運動の旋埋が、それぞれの物象の矎しさず䜕らかの関係を持぀こずは、認めおよいであろう。たずえば癜鳥が頞をうねらせ぀぀静かに氎䞊を動くあの運動の矎しさは、『癜鳥』の螊りの旋埋の基調ずなっおはいないだろうか。県粟の花の薄い花びらが埮颚に吹かれおひらひらず動くあの繊现な矎しさが、『県粟』の螊りの情調を基瀎づけおはいないだろうか。蜻蛉が蒌空のもずに぀うい぀ういず飛んで行くあの運動の自由さが『蜻蛉』の螊りのあの快掻な枅爜さを産み出したのではなかろうか。そうしおそれがそうであるにしおも、螊りずしおの独立が害せられるずは蚀えないず思う。癜鳥や県粟や蜻蛉を珟わすこずは、螊りの目的でない。しかし螊りは、癜鳥や県粟や蜻蛉から、ある矎しい運動の旋埋をかりお来るこずができる。それを動機ずしお螊り自身の䞖界においお特殊な開展を詊みるこずは、螊りを自然の物象に服埓せしめるずいうこずにはならない。  自分は『蜻蛉』の螊りにおいお、あの空色の着぀けず癜い肌ずの枅楚な調和を忘れるこずができない。右足の爪先で立っお、巊足を高くうしろにあげ、䞡手をのびのびず空の方ぞ䌞ばした、あの倧気のうちに浮いおいるような、矎しい自由な姿をも忘れるこずができぬ。たた䜓をかがめお蜻蛉の矜を䞡手にかいこむ愛らしいしぐさや、その矜を巊右に䌞ばした䞡腕で抌え぀぀、流るるように螊っお行くあの姿も忘れ難い。『県粟』の螊りでは、花片の぀がんで行く最埌のあの可憐な姿が、こずに匷く目に残っおいる。これらのさたざたな螊りを詳しく芳察すれば、それらのすべおに共通な構造ず、その䞊に築かれた䞀々の螊りの個性ずが、十分に捕捉されるかずも思うが、それを詊み埗るほど詳しくは芚えおいない。  以䞊は舞螊に぀いお党然玠人である自分の印象である。いろいろ間違った個所もあるかず思うが、ずにかく印象の薄らがない内に曞き぀けおおく。これらの舞螊に比しお日本の舞螊は決しお䟡倀の劣るものずは蚀えないであろうが、しかしそのこずのゆえにこれほど皮類の異なった矎しさを軜芖するのは間違いである。皮類の異なる矎に察しおは我々は䞀々別皮の暙準をもっお臚たなくおはならぬ。
 野䞊豊䞀郎君の『胜面』がいよいよ出版されるこずになった。昚幎『面ずペル゜ナ』を曞いた時にはすぐにも刊行されそうな話だったので、「近刊」ずしお付蚘しおおいたが、それからもう䞀幎以䞊になる。網目版の校正にそれほど念を入れおいたのである。それだけに出来ばえはすばらしくよいように思われる。ここに集められた胜面は実物を自由に芋るこずのできないものであるが、写真版ずしお我々の前に眮かれお芋るず、我々はずもどもにその矎しさや様匏に぀いお語り合うこずができるであろう。この機䌚に自分も䞀぀の感想を述べたい。  今からもう十八幎の昔になるが、自分は『叀寺巡瀌』のなかで䌎楜面の印象を語るに際しお、「胜の面は䌎楜面に比べれば比范にならぬほど浅たしい」ず曞いた。胜面に察しおこれほど盲目であったこずはたこずに慚愧に堪えない次第であるが、しかしそういう感じ方にも意味はあるのである。自分はあの時、䌎楜面の矎しさがはっきり芋えるように県鏡の床を合わせおおいお、そのたたの県鏡で胜面を芋たのであった。埓っお自分は胜面のうちに䌎楜面的なものを求めおいた。そうしお単にそれが無いずいうのみでなく、さらに反䌎楜面的なものを芋いだしお萜胆したのであった。その時「浅たしい」ずいう蚀葉で蚀い珟わしたのは、病的、倉態的、頜廃的な印象である。䌎楜面的な矎を暙準にしお芋れば、胜面はたさにこのような印象を䞎えるのである。この点に぀いおは自分は今でも異存がない。  しかし胜面は䌎楜面ず様匏を異にする。胜面の矎を明癜に芋埗るためには、ちょうど胜面に適したように県鏡の床を合わせ倉えなくおはならぬ。それによっお前に病的、倉態的、頜廃的ず芋えたものは、胜面特有の深い矎しさずしお己れを珟わしお来る。それは䌎楜面よりも粟緎された矎しさであるずも蚀えるであろうし、たた䌎楜面に比しおひねくれた矎しさであるずも蚀えるであろう。だからこの矎しさに味到した人は、しばしば逆に䌎楜面を浅たしいず呌ぶこずもある。胜面に床を合わせた県鏡をもっお䌎楜面を芋るからである。  もし初めからこの䞡者のいずれをも正しく味わい埗る人があるずすれば、その人の県は生来自由に床を倉曎し埗る倩才的な掻県である。誰でもがそういう掻県を持぀ずいうわけには行かない。通䟋は䜕らかの仕方で床の合わせ方を先人から習う。それを自芚的にしたのが様匏の理解なのである。  では胜面の様匏はどこにその特城を持っおいるであろうか。自分はそれを自然性の吊定に認める。数倚くの胜面をこの䞀語の䞋に特城づけるのはいささか冒険的にも思えるが、しかし自分は胜面を芋る床の重なるに埓っおたすたすこの感を深くする。胜面の珟わすのは自然的な生の動きを倖に抌し出したものずしおの衚情ではない。逆にかかる衚情を殺すのが胜面特有の鋭い技巧である。死盞をそのたた珟わしたような翁や姥の面はいうたでもなく、若い女の面にさえも急死した人の顔面に芋るような肉づけが認められる。胜面が䞀般に䞀味の気味悪さを湛えおいるのはかかる吊定性にもずづくのである。䞀芋しおふくよかに芋える面でも、その開いた県を隠しおながめるず、その肉づけは著しく死盞に接近する。  ずいっお、自分は顔面の筋肉の生動した胜面がないずいうのではない。ないどころか、胜面ずしおはその方が倚いのである。しかし自分はかかる筋肉の生動が、自然的な顔面の衚情を類型化しお䜜られたものずは芋るこずができない。むしろそれは䜜者の生の動きの盎接的な衚珟である。生の倖珟ずしおの衚情を媒介ずするこずなく、盎接に䜜者の生が珟われるのである。そのためには衚情が殺されなくおはならない。ちょうど氎墚画の溌剌ずした筆觊が描かれる圢象の芁求する線ではなくしお、むしろ圢象の自然性を吊定するずころに生じお来るごずく、胜面の生動もたた自然的な生の衚情を吊定するずころに生じおくるのである。  そこで我々は胜面のこの䜜り方が、色圩ず圢䌌ずを捚お去った氎墚画や、自然的な肉䜓の動きを消し去った胜の所䜜ず同䞀の様匏に属するこずを芋いだすのである。胜に぀いおほずんど知るずころのない自分が胜の様匏に蚀及するのははなはだ恐瞮であるが、玠人にもはっきりず芋えるあの歩き方だけを取っお考えおも右のこずは明らかである。胜の圹者は足を氎平にしたたた擊っお前に出し、螏みしめる堎所たで動かしおから急に爪先をあげおパタッず䌏せる。この動䜜は人の自然な歩き方を二぀の運動に分解しおその䞀々をきわ立おたものである。埓っお有機的な動き方を機械的な動き方に倉質せしめたものず芋るこずができる。この衚珟の仕方は明癜に自然的な生の吊定の䞊に立っおいる。そうしおそれが䞀切の動䜜の最も基瀎的なものなのである。が、このように自然的な動きを殺すこずが、かえっお人間の自然を鋭く衚珟するゆえんであるこずは、胜の挔技がきわめお明癜に実蚌しおいるずころである。それは色圩ず圢䌌を殺した氎墚画がかえっお深く倧自然の生を衚珟するのず等しい。芞術におけるこのような衚珟の仕方が最もよく理解せられおいた時代に、ちょうど胜面の傑䜜もたた創り出されたのであった。その間に密接な連関の存するこずは察するに難くないであろう。  のみならず顔面のこのような䜜り方は無自芚的になされ埗るものではない。顔面は人の衚情の焊点であり、自然的な顔面の把捉は必ずこの衚情に即しおいるのである。こずに胜面の時代に先立぀鎌倉時代は、圫刻においおも絵画においおも、個性の衚珟の著しく発達した時代であった。その䌝統を前にながめ぀぀、ちょうどその点を殺しおかかるずいうこずは、䜕らかの自芚なくしおは起こり埗ぬこずであろう。もちろん胜面は胜の挔技に䜿甚されるものであり、謡ず動䜜ずによる衚情を自らの内に吞収しなくおはならなかった。この条件が胜面の制䜜家に皮々の掞察を䞎えたでもあろう。しかしいかなる条件に恵たれおいたにもせよ、人面を圫刻的に衚珟するに際しお、自然的な衚情の吊定によっお仕事をするこずに思い至ったのは、驚くべき倩才のしわざであるず蚀わねばならぬ。胜面の様匏はかかる倩才のしわざに始たっおそれがその時代の芞術的意識ずなったものにほかならない。
 麊積山の調査が行なわれたのは四幎ほど前で、その報告も、すぐその翌幎に出たのだそうであるが、わたくしは぀いに気づかずにいた。だから名取掋之助君が撮圱しお来た写真の䞀郚を芋せられた時には、突然のこずで、どうもひどく驚かされたのであった。それは麊積山そのものが思いがけぬすばらしさを持っおいたせいでもあるが、たたそのすばらしさを突然われわれの目の前に持っお来おくれた名取君の手腕、ずいうのは、あたり前觊れもなしにたった䞀人で出かけお行っお、たった䞉日の間にあの巚倧な岩山の遺蹟を、これほどたでにはっきりず、捕えおくるこずのできた名取君の手腕のせいであるず思う。  それに぀いお思い起こされるのは、この麊積山の遺蹟ず奜い察照をなしおいる雲岡石窟の写真を初めお芋た時のこずである。それは東京倧孊の工孊郚の赀煉瓊の建物があったころで、もう四十幎ぐらい前になるかず思うが、朚䞋杢倪郎君にさそわれお、䜐野利噚博士を研究宀に蚪ね、䌊藀忠倪博士が撮圱しお来られた雲岡石窟の写真を芋せおもらったのである。圓時䜐野博士はただ若々しい颯爜ずした新進建築孊者であったし、朚䞋杢倪郎君はもっず若い青幎であった。たた䌊東博士の雲岡の報告も、フランスのシャノァンヌのそれずずもに、雲岡に぀いおの知識の暩嚁であった。ずころで、その時に芋せおもらった雲岡の写真は、朊朧ずした出来の悪いもので、あそこの石仏の䟡倀を掚枬する手づるにはたるでならなかったのである。  朚䞋杢倪郎君が自ら雲岡を蚪ねお行ったのは、その埌たもなくのこずであったように思う。同君ず朚村荘八君ずの共著『倧同石仏寺』が出たのは関東震灜よりも前である。これでよほどはっきりしお来たが、しかしただ雲岡の党貌を䌝えるには足りなかった。その埌二十幎くらいたっお、奈良の飛鳥園が撮圱しに行き、『雲岡石窟倧芳』ずいう写真集を出した。氎野粟䞀君たちの粟密な実地螏査が始たったのもそのころで、その成果『雲岡石窟』十五巻の刊行が終わったのは、぀い数幎前のこずである。これで雲岡遣蹟の玹介の仕事は完成したずいっおよいが、しかしそれは䌊東博士が撮圱しお来られおから、半䞖玀たっおのこずである。  麊積山はその雲岡に劣らない䟡倀を持った遺蹟だず思われるが、それをわれわれに玹介する仕事は、名取君によっお䞀挙にしおなされたように思う。もずよりその詳现な枬定や蚘述の仕事は、今埌に残されおいるでもあろうが、しかしわれわれのような玠人が、掚叀仏の源流を求めおいろいろず考えおみるずいうような堎合には、これで十分である。寞法が粟確に枬定されおいながら、写像ががんやりしおいるよりも、像の印象が粟確に捕えられおいお、寞法のがんやりしおいる方が、われわれにはずっずありがたい。  さおそのような芳点から麊積山の写真をながめおいお、たず痛切に感ずるずころは、ここにある魏の時代の仏像がいかにも掚叀仏の源流らしい印象を䞎えるこず、そうしおそれが塑像であるこずず䜕らか密接な関連を持っおいるらしく芋えるこずである。  雲岡の数倚い石仏は、その手法の䞊から掚叀仏の源流であるこず疑いがないずいえるであろうが、しかしその䞎える印象においおは掚叀仏ずだいぶ違うものである。その豊満な肢䜓や、西方人を連想させる面盞や、それらを取り扱う堎合の感芚的な興味などは、掚叀仏にはほずんどないものず蚀っおよい。掚叀仏の特城は肢䜓がほっそりした印象を䞎えるこず、顔も现面であるこず、それらを取り扱う堎合に意味ある圢を䜜り出すこずが䞻芁なねらいであっお、感芚的な興味は二の次であるこずなどであるが、そういう特城を持぀ものが雲岡の石仏の䞭に党然ないずは蚀いきれないにしおも、䟋倖的にしかないずは蚀えるであろう。だからわたくしには掚叀仏の源流は謎であった。で、わたくしは、雲岡の石像が瀺しおいるような、西方から来た様匏ず、挢代の画像石などの瀺しおいるような、流麗な線、现い肢䜓を䞻にするあの様匏ずが、盞混じお䞀぀の特殊な様匏を䜜り、それが掚叀仏の源流ずなったのではなかろうかず空想したりなどしおいたのである。  しかるに麊積山の塑像のうちの最も叀い時代のものは、実によく掚叀仏に䌌おいる。写真ペヌゞ䞃からペヌゞ䞉五たで、ペヌゞ五四からペヌゞ六䞀たでは皆そうであるが、䞭でもペヌゞ䞃、九、䞀六のごずき、あるいはペヌゞ五五、五六、六䞀のごずき、実に感じがよく䌌かよっおいる。そのほかになおペヌゞ䞃䞀、䞃四、䞃六、䞃九、八〇、ペヌゞ八二からペヌゞ八五などに぀いおも同様にいうこずができるであろう。これらの塑像における面盞や肢䜓の取り扱い方は、雲岡の石像の堎合ずはたるで違う。ここでは意味ある圢を䜜るこずが䞻芁関心事であっお、感芚的な興味は二の次である。埓っお面盞に珟われた衚情がたるで違っおいるように、肢䜓の姿、衣文の匷調の仕方などもたるで違う。この塑像の様匏がどういう道筋を通っお掚叀仏の様匏ずしお珟われお来たかに぀いおは、わたくしは䜕をいう暩利も持たないのであるが、しかし蚌拠はなくずも、ここに掚叀仏の源流を認めおよいのではなかろうか。  ずころで、そうなるず、どうしおこういう様匏が麊積山に珟われお来たかずいうこずが、新しく問題になっおくる。それに぀いおわたくしは、麊積山の仏像が塑像であるこずに今さらながら気づいたのである。挢代の様匏感が西方の仏像の様匏に結び぀くずしおも、石像においおよりは塑像においおの方が容易であろう。ここにこそ掚叀仏の源流が出珟しお来たこずの秘密が隠されおいるのではなかろうか。䞀䜓この塑像のやり方はどこで始たったか。たたその塑像の補䜜はどこで栄えたのであるか。  元来仏像はギリシア圫刻の圱響の䞋にガンダヌラで始たったのであるが、初期には䞻ずしお石圫であっお、挆喰や粘土を䜿う塑像は少なかった。がこの初期のガンダヌラの矎術は、䞉䞖玀の䞭ごろクシャヌナ王朝の滅亡ずずもにいったん䞭絶し、䞀䞖玀䜙を経お、四䞖玀の末葉にキダヌラの率いるクシャヌナ族がガンダヌラ地方に勢力を埗るに及んで、今床は塑像を䞻ずする矎術ずしお再興し、初期よりずっず優れた䜜品を䜜り出したずいわれおいる。しかもこの補䜜䞊の発展は、挆喰や粘土のような扱いやすい材料を䜿ったこずに垰せられおいるようである。この時期にはガンダヌラ地方からアフガニスタンにかけおの党域に塑像が栄えたので、特にアフガニスタンのハッダなどからすばらしい遺品を出しおいる。シナぞのガンダヌラ矎術の圱響を考えるずすれば、芞術的にあたり優れおいるず蚀えない初期の石像圫刻によっおよりも、むしろ芞術的に優れたこの期の塑像によっおであるこずは、ほが間違いのないずころであろう。  四䞖玀の末葉から五䞖玀の初めぞかけおの時期ずいえば、雲岡や麊積山の石窟ができるころよりも、半䞖玀ないし䞀䞖玀前である。そのころは䞭むンドの方でもグプタ朝の最盛期で、カリダヌサなどが出おおり、シナから法顕を匕き寄せたほどであった。だからそのむンド文化を背景に持぀むンド・アフガニスタンの塑像矎術が、カラコルムを超えおカシュガル疏勒ダルカンド莎車ホタン和闐あたりぞ盛んに入り蟌んでいたこずは、察するに難くない。敊煌たでの間にそういう郜垂は、ずいぶん倚く栄えおいたであろう。そうしおそういう郜垂は、仏教を受け入れ、それをその独自の立堎で発展させるこずをさえも䌁おおいたのである。仏教矎術がそこで䜜られたこずももちろんであるが、朚材や石材に乏しいこの地方においお、挆喰ず泥土ずを䜿う塑像のやり方が特に歓迎せられたであろうこずも、察するに難くない。ずすれば、タリム盆地は、アフガニスタンに次いで塑像を発達させた堎所であったかもしれない。  麊積山は敊煌からはだいぶ遠い。ホタンから敊煌たで来れば、倧䜓タリム盆地を西から東ぞ突っ切ったこずになるが、その距離ず敊煌から麊積山たでの距離ずは、あたり違わないであろう。それを思うず、麊積山が、タリム盆地の文化圏に非垞に近かったずも蚀えないのであるが、しかしタリム盆地で発達した芞術や宗教がシナの本郚の方ぞ入り蟌んで来る際に、敊煌から蘭州を経お長安や掛陜の叀い文化圏に来たこずは確かであろうし、蘭州ず長安ずの䞭ほどにある麊積山がこの文化流入の通路にあっお、いち早くその感化を受けたであろうこずも、疑う䜙地がない。そう考えるず、麊積山の塑像の瀺しおいるずころは、枭氎流域の圫塑の技術ずか、䜏民の䜓栌面盞ずかであるよりも、むしろはるか西方、タリム川流域に栄えおいた諞郜垂における圫塑の技術、䜏民の䜓栌面盞などであるであろう。  四十䜕幎か前に、スタむンの『叀代ホタン』を芋お、䞭倮アゞアの砂挠のほずりに残っおいる叀い郜垂の残骞から、いろいろな堎面を空想したこずがある。砂の䞭に埋もれおわずかに䞋半身だけを残しおいた塑像なども、それの奜い材料であった。今名取君の撮圱しお来た写真を芋おいるず、あの時の空想がすっかり実珟されお来たような気持ちになる。麊積山の創始の時代、すなわち五䞖玀から六䞖玀ぞかけおの時代には、䞭倮アゞアはただあたり荒廃せず、盛んな文化創造をやっおいたはずである。埓っおあの地方の諞郜垂に、ちょうどそのころガンダヌラからアフガニスタンぞかけお栄えおいた塑像の技術が䌝わっおいたろうこずも、疑う䜙地がない。ずころでこのむンド・ギリシア的な圫刻の様匏が、初期のガンダヌラ仏像のように、䞻ずしお石圫ずしお䌝わっおくるのず、この堎合のように塑像ずしお䌝わっおくるのずでは、これらの諞郜垂における反応はよほど違ったであろう。タクラマカンの砂挠のあたりには、よい石材などはありそうに芋えない。石圫の技術を朚圫に移そうにも、よい朚材などは䞀局ありそうにない。ただ挆喰ず泥土ずだけは、お手のものである。そうなるず、塑像の技術が䌝わっお来たずいうこずは、ちょうどこの地方に栄え埗る技術が䌝わっお来たこずを意味する。それはたた塑像の技術が自由な創造の働きず結び぀くこずをも意味するであろう。かくしおこれらの諞郜垂に、ガンダヌラ・アフガニスタンの塑像ずは著しく異なった、䞭倮アゞア独特の塑像の様匏が出珟したずしおも、少しも䞍思議なこずはないのである。  麊積山の塑像は、この䞭倮アゞアの塑像の様匏を反映しおいるらしい。それは、ここで䞻ずしお問題ずしたような、掚叀仏の源流を思わせるあの仏像の様匏に぀いお蚀えるのみならず、たた戒壇院の四倩王などのような倩郚像に぀いおも蚀えるであろう。衚情を恐ろしく誇匵しお珟わしながら、しかも嘘に陥らず珟実性を倱わない面盞や肢䜓の独特な䜜り方は、やはり䞭倮アゞアの創始したものではないかず思われる。  わたくしはこういう点が専門家の着実な研究によっお明らかにされる日を埅ち望んでいる。もしこの問題が、連鎖反応匏に䞭倮アゞアのいく぀かの遺蹟の発掘をひき起こしたずしたら、やがお千四癟幎前の䞭倮アゞアの偉芳がわれわれの前に展開しおくるであろう。
 わたくしが初めお西田幟倚郎ずいう名を聞いたのは、明治四十二幎の九月ごろのこずであった。ちょうどその八月に西田先生は、孊習院に転任しお東京ぞ匕っ越しお来られたのであるが、わたくしが西田先生のこずを聞いたのはその方面からではない。第四高等孊校を卒業しおその九月から東京の倧孊ぞ来た䞭孊時代の同窓の友人からである。  その友人は岡本保䞉ず蚀っお、埌に内務省の圹人になり、暺倪庁の長官のすぐ䞋の圹などをやった。明治䞉十九幎の䞉月に䞭孊を卒業しお、初めお東京に出おくる時にも䞀緒の汜車であった。䞭倮倧孊の予備科に䞀、二か月垭を眮いたのも䞀緒であった。それが九月からは四高ず䞀高ずに分かれお䞉幎を送り、久しぶりにたた逢うようになったずきに、最初に話しお聞かせたのが、四高の名物西田幟倚郎先生のこずであった。日本には今西田先生ほど深い思想を持った哲孊者はいない。先生はすでに独特な䜓系を築き䞊げおいる。圢而䞊孊でも倫理孊でも宗教孊でもすべお先生の独特な原理で䞀貫しおいる。僕たちはその講矩を聞いお来たのだ。よく解ったずはいえないけれども、よほど玠晎らしいもののように思う。しかし自分たちが敬服したのは、その哲孊よりも䞀局その人物に察しおである。哲孊者などずいえばずかく人生のこずに迂遠な、小難かしい理屈ばかり蚀っおいる人のように思われるが、先生は決しおそんな干からびた孊者ではない。それは先生が藀岡東圃の子䟛をなくしたのに同情しお、自分が子䟛をなくした経隓を曞いおいられる文章を芋おも解る。哲孊者で宇宙の真理を考えおいるのだから、子䟛をなくした悲しみぐらいはなんでもなく超越できるずいうのではないのだ。実に人間的に率盎に悲しんでいられる。亡きわが児が可愛いのは䜕の理由もない、ただわけもなく可愛い。甘いものは甘い、蟛いものは蟛いずいうず同じように可愛い。ここたで育おお眮いお亡くしたのは惜しかろうず蚀っお同情しおくれる人もあるが、そんな意味で惜しいなどずいう気持ちではない。たた女の子でよかったずか、ほかに子䟛もあるからずかず蚀っお慰めおくれる人もあるが、そんなこずで慰たるような気持ちでもない。ただ亡くしたその子が惜しく、ほかの䜕を持っお来おも償うこずのできない悲しみなのだ。亡き子の面圱が浮かんでくるず、無限にな぀かしく、可愛そうで、どうにかしお生きおいおくれればよかったず思う。死は人生の垞で、わが子ばかりが死ぬのではないが、しかし人生の垞事であっおも、悲しいこずは悲しい。悲しんだずお還っおは来ないのだから、あきらめよ、忘れよずいわれるが、しかし忘れ去るような䞍人情なこずはしたくないずいうのが芪の真情である。悲しみは苊痛であるに盞違ないが、しかし芪はこの苊痛を去るこずを欲しない。折にふれお思い出しおは悲しむのが、せめおもの慰めであり、死者ぞの心づくしである。そういう点からいえば、芪の愛はたこずに愚痎にほかならないが、しかし自分は子を亡くしお芋お、人間の愚痎ずいうもののなかに、人情の味のあるこずを悟った。人栌は目的そのものである。人には絶察的䟡倀があるずいうこずが、子を亡くした堎合に最も痛切に感じられた。人間の仕事は人情ずいうこずを離れおほかに目的があるのではない。孊問も事業も究竟の目的は人情のためにするのだ。そういう意味のこずが実に達意の文章で曞いおある。あれを読んでわれわれは実に打たれた。ああいうふうに人生のこずのよく解っおいる人ならば、あの哲孊もよほど深いずころのあるものに盞違ない。そういう意味のこずを岡本保䞉がわたくしに説いお聞かせたのである。  それは明治四十二幎の九月ごろであった。その時たでに西田先生の論文は二床ぐらい哲孊雑誌に出たかず思うが、䞀高の生埒であったわたくしたちの県には觊れなかった。だからわたくしは非垞に驚いお岡本の話を聞いたのである。しかし四高では、すでに前々から先生の存圚が倧きく生埒たちの県に映っおいたようであるし、岡本が入孊した䞉十九幎ごろには先生の講矩案も印刷になったずいわれおいるから、岡本の話したこずは岡本個人の意芋ではなく、四高で䞀般に行なわれおいた意芋ではないかず思われる。䞀高の方ではちょうどそれに圓たるような教授ずしお岩元犎先生がいられたが、しかしそのころの岩元先生はただドむツ語を教えるだけで、講矩はされなかった。論理孊、心理孊、倫理孊など、哲孊関係の講矩は、速氎滉さんの受持であった。埓っお岩元先生の哲孊には党然ふれる機䌚がなかったのであるが、それでも先生は哲孊者ずしお評刀であった。それくらいであるから、埌に『善の研究』ずしおたずめられたような思想を、いろいろ苊心しお育おおいられた時代の西田先生は、その講矩によっお盞圓に深い感銘を生埒に䞎えられたこずず思われる。それを考えるず、右にあげたような意芋が四高の生埒の間に行なわれおいたずしおも、少しも䞍思議はないのである。  そういうふうにしお初めお名を知った西田幟倚郎は、わたくしにずっおは初めから偉い哲孊者であった。四高で行なわれおいた意芋はそのたたわたくしにも移っお来たのである。そういう事情は明治の末期の䞀぀の特城であるかも知れない。ずいうのは、そのころ有名な孊者や文人には、あたり高霢の人はなく、四十歳ずいえばもう老倧家のような印象を䞎えたからである。倏目挱石は西田先生の戞籍面の生幎である明治元幎の生たれであるが、明治四十幎に朝日新聞にはいっお、続き物の小説を曞き始めた時には、わたくしたちは実際老倧家だず思っおいた。だから明治四十二幎に正味の幎が四十歳であった西田先生も、同じく老倧家に芋えたのである。先生の凊女䜜が『善の研究』であり、その刊行がこの幎よりもなお二幎の埌であるずいうようなこずは、あずになっお考えるこずであっお、その圓時はすでに四高における長い教歎を持った哲孊者、すでにおのれの䜓系を築き䞊げた哲孊者ずしおわたくしどもの県に映ったのである。  これは決しおわたくしの䞻芳的な印象に過ぎないのではあるたい。圓時ただ二十歳で、初めお倧孊生になったわたくしなどには、党然事情は解らなかったが、専門の哲孊者の間では、あるいは少なくずも䞀郚の哲孊者の間では、先生の力量はすでに認められおいたのであろう。哲孊者の先生に察する態床にしおも、少し埌のこずではあるが『善の研究』に察する高橋里矎君の批評にしおも、圓時のそういう雰囲気を反映しおいるように思われる。先生が四高から孊習院に移り、わずか䞀幎でさらに京郜倧孊に移られたこずも、そういう雰囲気ず無関係ではあるたい。東京転任に先立぀数か月、四十二幎四月に䞊京せられた際には、井䞊哲、元良などの「先生」たちを蚪ねおいられるし、たた井䞊、元良䞡先生の方でも、田䞭喜䞀、埗胜、玀平などの諞氏ずずもに、孊士䌚で西田先生のために䌚合を催しおいられる。田䞭、埗胜、玀平などの諞氏は、圓時東京倧孊の哲孊の講垫の候補者であったらしい。西田先生はその八月の末に東京に移られたが、九月には井䞊、元良、䞊田などの諞氏ずしきりに接觊しおいられる。そうしお十月十日の日蚘には「午前井䞊先生を蚪う。先生の日本哲孊をかける小冊子を送らる。  元良先生を蚪う。小生の事は今幎は望みなしずの事なり」ず蚘されおいる。倚分東京倧孊での講矩のこずであろう。この孊期から初めお講垫になっお哲孊の講矩を受け持ったのは玀平氏であった。わたくしたちは新入生ずしおこれを聞いた。事によるず玀平氏の講矩の代わりに西田先生の講矩が聞けたかも知れないずいうような事情が圓時あったずいうこずは、この日蚘を読むたでわたくしは知らなかったのである。なお日蚘には、右のこずから䞀か月も経たない十䞀月六日に、山本良吉氏からの手玙で、京郜倧孊に぀いおの話があったず蚘されおいる。この話の内容はよくは解らないが、京郜倧孊ぞの転任の話が京郜の教授䌚で確定したのは、翌幎四月のこずである。だからこの話が前幎の十䞀月ごろに始たったず考えおも差し支えはあるたい。いずれにしおも先生は、この圓時倧孊での講矩を予期しおいられたのである。京郜ぞ移る前、䞃月に、孊士䌚で送別䌚が催された。来䌚者は井䞊、元良、䞭島、狩野、姉厎、垞盀、䞭島埳、戞川、茚朚、八田、倧島正、宮森、埗胜、玀平の諞氏であったずいう。これらの䞭の䞀番若い人でも倧孊生から芋るず先生だったのであるから、こういう出来事はすべお別䞖界のこずであっお、わたくしたちには知る由もなく、たた関心もなかった。  倚分先生が日蚘に、「小生の事は今幎は望みなしずの事なり」ず曞かれたころであろう。わたくしは友人の岡本の蚀葉に刺激されお、藀岡䜜倪郎著『囜文孊史講話』の序文を読んだ。そうしお非垞に動かされた。しかしそのなかに「ずにかく䜙は今床我が子のあえなき死ずいうこずによりお、倚倧の教蚓を埗た。名利を思うお煩悶絶え間なき心の䞊に、䞀杓の冷氎を济びせかけられたような心持ちがしお、䞀皮の涌味を感ずるずずもに、心の奥より秋の日のような枅く枩かき光が照らしお、すべおの人の䞊に玔朔なる愛を感ずるこずができた」ずいう個所のあるのに察しお、特別の泚意をひかれるこずはなかった。名利を思うお煩悶するずいうようなこずに特別の内容が感じられなかったのである。しかし珟圚のように、『善の研究』を凊女䜜ずしおその埌に倧きい思想的展開を芋せた哲孊者ずしお西田先生を考える堎合、埓っお明治四十䞉幎の先生がか぀おその名を聞いたこずのない哲孊者ず呌ばれおいる堎合、右のような蚀葉はかえっお率盎に理解せられ埗るかも知れない。右の文章を曞いた、先生は戞籍面四十歳、実幎霢䞉十八歳であった。その幎霢の先生に、名利を思うお煩悶絶え間なき心があったずしおも、少しも、䞍思議ではない。実際そのころの先生は、力量盞応の埅遇を受けおはいなかったのである。
 わたくしは東京倧孊の名誉教授ではない。ずいうよりも、わたくしには東京倧孊の名誉教授ずなる資栌はないのである。しかるに近ごろわたくしは時々東京倧孊の名誉教授ず間違えられる。間違えられたずころで、それによっおわたくしが䜕か利益を埗るわけでもなければ、たた間違えた人がそれによっお䜕か損をするわけでもないのであるから、そんなこずはどうでもよいこずなのであるが、しかし事実ず盞違しおいるこずはちょっず気持ちの悪いものであるし、たた人によるず和蟻はおのれの䟡しない「名誉」を䞍圓に享受しおいるず考えないものでもない。そういう誀解を受ければ、わたくしは名誉教授ず間違えられるこずによっお「名誉」を䞍圓に享受するどころか、逆に䞍圓な「䞍名誉」をうけるこずになる。暑さで仕事のできないのを幞いに、名誉教授にあらざるの匁を匄するゆえんである。  たず初めに、なぜわたくしが名誉教授ず間違えられるに至ったかを考えおみるず、䞀般の䞖間のみでなく、倧孊ず密接な関係を有する方面でも、倧孊の名誉教授がどういうものであるかをいっこう知らないように思われる。わたくしが最初名誉教授ず間違えられたのは、昭和二十四幎の䞉月に東京倧孊を定幎で退職しおから二月目か䞉月目のころである。そのころ吉田銖盞が文教審議䌚ずいうものを発案し、それにわたくしも匕き出されるこずになっお、初めおの䌚合に出垭した。垭䞊配られた謄写版刷りの名簿を芋るず、わたくしの名に東京倧孊名誉教授ずいう肩曞きが぀いおいる。たずいわたくしに名誉教授ずしお掚薊される資栌があったずしおも、その手続きには教授䌚ずか評議䌚ずかの審議がいるのであっお、通䟋は退職しおから半幎以䞊も埌に発什されるのである。退職しおから二䞉か月で名誉教授になっおいるなどずいうこずは、通䟋はないこずである。いわんやわたくしはその資栌のないこずを知りぬいおいるのであるから、この名簿が間違いであるこずは䞀目しおわかった。しかしこの名簿を䜜成したのは、内閣審議宀か文郚省か、どちらかである。文郚省なら倧孊のこずをよく知っおいるはずであるから、こんな間違いはしないであろう。しかし内閣の方は、名誉教授の任呜などを叞どっおいる堎所であるから、そういう蟞什が出たかどうかを䞀局よく知っおいるはずである。どうもおかしい。この名簿はたぶんあたり名誉教授のこずなどを知らない䞋僚が䜜ったのであろう。それにしおも、内閣で䜜った文曞にこういう間違いがあるのは困る。そう思っおいる時にちょうど隣の垭ぞ、圓時の増田官房長官がすわった。これは具合がいい。官房長官はこういう文曞の責任者に盞違ないから、早速蚂正を申し蟌んでおこう。そう思い぀いおわたくしは、名簿のわたくしの名のずころを官房長官の前で指さしお、これは間違っおいたす、わたくしは名誉教授ではないのです、ず蚀った。ずころがちょうどその時、官房長官は䜕かに気をずられお䌚議の垭を芋たわしおいた。そのせいかわたくしの誀謬の指摘がいっこうに心に響かない様子であった。事は小であっおも、誀謬を指摘されお緊匵しないのは、政治家ずしお頌もしくない、ずわたくしは思った。もっずもわたくし自身も、その堎限りでこの問題を忘れおしたっお、䌚議のあずで事務の人に同じ蚂正を申し蟌むこずをしなかった。  そういう類のこずはこの埌にも起こった。平和問題懇談䌚が結成されたのは同じ幎の暮れであったず思うが、その時の名簿にもわたくしの名に東京倧孊名誉教授ずいう肩曞きが぀いおいたのである。わたくしはこの䌚の䞖話をしおいた吉野源䞉郎君にこれは間違いだずいうこずを申し入れた。その垭には他の人もいたように思う。だからこの名簿はたしか蚂正されたはずである。しかし吉野君が重圹をしおいる岩波曞店の線集郚の人々にはこのこずは培底しなかったず芋えお、昚幎の初めに改版を出した『人間の孊ずしおの倫理孊』の衚玙の包み玙の裏偎に印刷されたわたくしの略䌝には、東倧名誉教授ず蚘されおいる。実はわたくしは本ができたずきにはそういう個所に泚意せず、それに気づいたのはごく最近のこずなのである。たずい包み玙であるにしおも、ずにかくわたくしの著曞のなかにそういうこずが印刷されおいるずなるず、それを芋た人がわたくしを東倧名誉教授ず思い蟌んでも、これは無理のない次第である。わたくし自身にそういう意図が党然ないにかかわらず、間違っお思い蟌んでいる人がわたくしにそういう肩曞きを぀け、それが印刷されお倚くの人の県にふれるずなるず、この間違いはたすたす拡たるばかりである。  以䞊の䟋によっお芋るず、誀解のもずは案倖に少数の人々の勘違いであるかも知れない。しかしそれが内閣ずか文郚省ずか、あるいはわたくしの著曞を少なからず出版しおいる岩波曞店ずかにあるずすれば、名誉教授が䜕であるかを圓然知っおいそうな堎所で、案倖それが知られおいないずいうこずになる。実際に事務を取っおいる若い人々は、教授が定幎で退職すれば圓然名誉教授になるずでも思っおいるのかも知れない。しかしそうではないのである。  名誉教授ずいうものは、孊術䞊の功瞟があったずか、圓該倧孊においお功瞟があったずか、ずにかく功瞟を衚地する意味を含んだものである。ずころでその功瞟を䜕によっお量るかずいう段になるず、なかなか容易なこずではない。倧孊は孊問の府であるから、孊術䞊の功瞟などは粟確に量れるであろうず思う人があるかも知れないが、しかし教授たちも人間であっお、さたざたの感情に支配されおいる。客芳的に公平な批刀をする人もあれば、䞻芳的な傟向の匷い人もある。そういう人々が集たっお功瞟を評䟡するこずになるず、機械でものを量るようなわけには行かない。今はもうないかも知れないが、昔芪分子分の関係が濃厚であった孊郚などでは、勢力のある教授に察する阿付の傟向もなくはなかった。そういう関係が功瞟の評䟡のなかに入り蟌んでくるず、公正な評䟡は到底望めない。そこで、そういう匊害を阻止しようず考えた先茩たちが、機械でものを量るような客芳的暙準を立おた。それが圓該倧孊における勀続幎数によっお名誉教授の資栌をきめるずいうやり方である。東京倧孊などではそれが二十幎以䞊ずいうこずにきたっおいる。助教授の時代の幎数は半分に数える。講垫や助手の幎数も䜕分の䞀かに加算されるはずである。このやり方はほかの叀い倧孊でも採甚しおいるず思う。  このやり方だず、䞀郚の教授の我執や感情が入り蟌む䜙地はない。その代わり、研究をそっちのけにしお内職ばかりやっおいる教授でも、勀続幎数が二十幎以䞊でさえあれば、名誉教授に掚薊され埗る。これは孊術䞊の功瞟や倧孊に察する功瞟を本来の理由ずしおいる名誉教授の制床からいうず、少し困るこずになるかも知れないが、それでも前に蚀ったような匊害に比べれば、害がはるかに少ないのだそうである。こういう事情をわたくしに説明しおくれたのは、なくなった今井登志喜君であるが、同君はその意味で固く幎数制を支持しおいた。名誉を衚地するものであったはずの䜍階勲等が官吏の勀続幎数によっお自動的に䞎えられおいた時代にあっおは、これは圓然のこずであったかも知れない。  倧孊教授の倧郚分は、このこずをちゃんず承知しおいたのである。䜍階勲等が勀続幎数の衚瀺であるように、名誉教授もたたそうであった。もちろん人によっおは、このこずを承知しながらも䜍階勲等の高いこずを喜び、それず同じように名誉教授ずなるこずを熱望したでもあろう。しかしわたくしの知っおいる範囲では、そういう人は少数であった。そうしおたたそういう点がその少数の人々の性栌的特城であるように思われおいた。  わたくしは䞉十歳を超えたころから、東京の私立倧孊で五幎、京郜倧孊で九幎、東京倧孊で十五幎、講矩生掻を送った。このうち囜立倧孊に勀務したのは、教授ずしお十八幎、助教授ずしお六幎であるから、勀続幎数二十幎以䞊ずいう条件にはちょっず合うように芋えるが、しかし名誉教授はそれぞれの倧孊に即したものであっお、勀続幎数もたたそれぞれの倧孊だけで勘定するのである。埓っおわたくしの堎合には、東京倧孊に転任した時から、名誉教授の資栌のないこずが確定しおいた。こういう䟋はわたくしばかりではない。東北倧孊から転任しお来た宇井䌯寿君でも、倪田正雄君でも、みな同じである。しかしわたくしたちは䞀床もそれを問題ずしたこずはなかった。名誉教授が勀続幎数を衚瀺する制床である以䞊、事実は事実なのであっお、問題ずする䜙地は党然なかったのである。  それを今になっお問題ずせざるを埗ないのは、わたくしを䞍圓にも名誉教授ず呌ぶ人があるからである。わたくしは決しお東京倧孊の名誉教授ではない。すなわち東京倧孊に二十幎以䞊勀務したこずはない。わたくしの勀続幎数は、満十五幎に䞉か月ほど足りない。わたくしの知っおいる限りでも、勀続幎数が十九幎䜕か月ずか十八幎䜕か月ずかで、もうあずわずかのずころだからず蚀っお、特別の取り扱いを孊郚から芁求し、それが通った䟋はある。しかし十五幎未満では党然問題にならないのである。  名誉教授をそういうものず知らなかったから、間違えるのも無理はないだろう、ずいう人があるかも知れない。それではそういう人は名誉教授をどういうものず考えおいるのであろうか。名誉教授はおおやけに任呜され、指定された倧孊の䞀人の成員ずなるのであるから、瀟䌚的な身分を珟わすこずにはなるかも知れぬ。宿垳などには、無職ず曞く代わりに䜕々倧孊名誉教授ず曞くこずができるかも知れない。しかしこれが䞀぀の職業であるずいうのは嘘である。名誉教授はその倧孊においお公的なこずは䜕もしない、あるいはしおはならないからこそ名誉教授なのである。倧孊に定幎制のできたおもな理由は、老教授の発蚀暩を封じ、新進に道を開くためであった。名誉教授も入孊匏ずか卒業匏ずかのような匏兞にはたぶん招かれるのであろうず思う。しかしそれだけで䞀぀の職業が成り立぀ずいうわけには行かない。孊郚によるず、名誉教授宀を蚭けお研究の䟿宜を蚈っおいるずころもあるらしい。しかしそういうずころでも、名誉教授には䟿宜を蚈るが、名誉教授に任ぜられなかった前教授に察しおはそれを拒むずいうのではないであろう。䜙裕さえあれば、名誉教授にも非名誉教授にも等しく䟿宜を蚈っおいるであろう。そういう意図を明瀺するために、名誉教授宀を前教授宀ず改称した孊郚もある。倧孊がか぀おの教授の研究に察しお䟿宜を蚈っおくれるのは、孊者ずしおの個人に察する情誌であっお、名誉教授に察する矩務なのではない。宀が足りなくなれば、名誉教授宀などはどしどし撀回しおしたうであろう。そのように名誉教授は、倧孊においお䜕の暩利も矩務もないのである。  ず思っおいたずころが、敗戊埌教職远攟の問題が起こり、各孊郚に審査委員䌚が蚭けられたずき、驚いたこずには、名誉教授もたたその審査察象ずなったのであった。名誉教授は、その地䜍から远攟すべきか吊かを慎重審議すべきであるような、れっきずした「教職」なのであった。それなら宿垳に、無職ずかく代わりに名誉教授ず曞き蟌んでよいはずである。わたくしはこの時になるほどず思った。欧米の瀟䌚のように瀟亀の盛んなずころ、埓っお教授などが孊問の䞖界ずはたるで違った方面の人々に接する機䌚の倚いずころでは、名誉教授ずいう肩曞きがなるほど物をいうであろう。人を呌ぶのにプロフェッサヌ䜕々ず肩曞きを぀けお呌ぶ習慣のあるずころで、倧孊を退職しお急にプロフェッサヌでなくなれば、ちょっず困るであろう。ゆえあるかなずわたくしは思ったのである。  しかしそうなるず、瀟亀界ずいうもののあたりはっきり存圚しおいない日本でも、肩曞きの効甚は盞圓にあるではないかずいうこずになる。その蚌拠には、肩曞き付きの名刺を持っおいる人が日本には非垞に倚い。ずいうこずは、自分の名を自分の地䜍や身分ず䞍可分なものずしお盞手に印象しようずいう意図が、䞀般的に存しおいるずいうこずの蚌拠である。これは䞀般に日本人が、未知の人を䞀個の人栌ずしお取り扱うずか、その人品骚柄に目を぀けるずかいうこずをしないで、ただその肩曞きに応じお取り扱うずいう習性を持っおいるせいであろう。そうなるず䜕々倧孊名誉教授などずいう肩曞きも、毎日その効甚を発揮し埗るかも知れない。  こういう肩曞きの効甚を県䞭に眮いお、わたくしに東倧名誉教授ずいう肩曞きを぀けおくれたのであるずするず、その奜意に察しおはわたくしは感謝すべきであるかも知れぬ。しかしわたくしの動いおいる瀟䌚では、名誉教授も盞圓にいるにはいるが、それを名刺の肩曞きにしおいる人はどうもいないように思う。わたくしどもは肩曞きの効甚などにあずかりたくないのである。そのため時には暪柄な態床で迎えられるこずもあるであろうが、しかし肩曞きを芋お急に暪柄な態床を改めるような人たちから、どれほど匷い敬意を衚せられたずころで、それを喜ばしく受け容れるわけには行かない。未知の人に察しおも、䞀個の人栌ずしお、盞圓の敬意や芪切をもっお接するような人が、おのずからに衚明する敬意こそ、われわれもたた等しい敬意をもっお、喜ばしく受け容れるこずができるのである。暪柄な態床はいわゆるむンフェリオリティヌ・コンプレックスの珟われで、むしろ憐れむべきものである。それに察抗するために肩曞きを甚いるなどは、同じくむンフェリオリティヌ・コンプレックスの珟われであるかも知れない。 昭和二十䞃幎十月『心』
 日本文化協䌚の催しで文楜座の人圢䜿いの名人吉田文五郎、桐竹王十郎諞氏を招いお人圢芝居に぀いおの講挔、実挔などがあった。竹本小春倪倫、䞉味線鶎沢重造諞氏も参加した。人圢芝居のこずをあたり知らない我々にずっおはたいぞんありがたい催しであった。舞台で芋おいるだけではちょっず気づかないいろいろな点をはっきり教えられたように思う。  あの人圢芝居の人圢の構造はきわめお簡単である。人圢ずしお圫刻的に圢成せられおいるのはただ銖ず手ず足に過ぎない。女の人圢ではその足さえもないのが通䟋である。銖は棒でささえお玐で仰向かせたりう぀向かせたりする。物によるず県や眉を動かす玐も぀いおいる。それ以䞊の運動は皆銖の棒を握っおいる人圢䜿いの手銖の働きである。手は二の腕から先で、指が動くようになっおいる。女の手は指をそろえたたたで開いたり屈めたりする。䞉味線を匟く時などは個々の指の動く特別の手を䜿う。男の手は五本の指のパッず開く手、芪指だけが離れお開く手など幟分皮類が倚い。しかし手そのものの構造や動きかたはきわめお単玔である。それを生かせお䜿う力は人圢䜿いの腕にある。足になるず䞀局簡単で、ただ膝から䞋の足の圢が䜜られおいるずいうに過ぎない。  これらの䞉぀の郚分、銖ず手ず足ずを結び぀ける仕方がたた簡単である。銖をさし蟌むために掋服掛けの扁平な肩のようなざっずした框が䜜っおあっお、その端に糞瓜が匵っおある。銖の棒を握る人圢䜿いの巊手がそれをささえるのである。その框から玐が四本出おいお、その二本が腕に結び぀けられ、他の二本が脚に結び぀けられおいる。すなわち人圢の肢䜓を圢成しおいるのは実はこの四本の玐なのであっお、手や足はこの玐の端に過ぎない。埓っお足を芋せる必芁のない女の人圢にあっおは肢䜓の䞋半には䜕もない。あるのは衣裳だけである。  人圢の肢䜓が玐であるずいうこずは、実は人圢の肢䜓を圢成するのが人圢䜿いの働きだずいうこずなのである。すなわちそれは党然圫刻的な圢成ではなくしお人圢䜿い的圢成なのである。この圢成が人圢の衣裳によっお珟わされる。あの衣裳は胎䜓を包む衣裳ではなくしおただ衣裳のみなのであるが、それが人圢䜿い的圢成によっお実に掻き掻きずした肢䜓ずなっお掻動する。女の人圢には足はないが、ただ着物の裟の動かし方䞀぀で坐りもすれば歩きもする。このように人圢䜿いは、ただ着物だけで、優艶な肉䜓でも剛匷な肉䜓でも珟わし埗るのである。ここたでくるず我々は「人圢」ずいう抂念をすっかり倉えなくおはならなくなる。ここに䜜り出された「人の圢」はただ人圢䜿いの運動においおのみ圢成される圢なのであっお、静止し凝固した圢象なのではない。埓っお圫刻ずは最も瞁遠いものである。  たぶんこの事を指摘するためであったろうず思われるが、桐竹王十郎氏は「狐」を持ち出しお、それが䜿い方䞀぀で犬にも狐にもなるこずを芋せおくれた。そうしおこういう話をした。ある時西掋人が文楜の舞台で狐を芋お非垞に感心し、それを芋せおもらいに楜屋ぞ来た。人圢䜿いはあそこに掛かっおいたすず蚀っお柱にぶら䞋げた狐をさした。それは胎䜓が䞭のう぀ろな袋なので、柱にかかっおいる所を芋れば子䟛の玩具にしか芋えない。西掋人はどうしおも承知しなかった。舞台で芋たあの掻き掻きずした狐がどんなに粟劙な補䜜であろうかを問題ずしお圌は芋に来たのであった。そこで人圢䜿いはやむなく立っお柱から狐を取りそれを䜿っお芋せた。西掋人は驚喜しお、それだそれだず叫び出したずいうのである。西掋人は圫刻的に完成せられた驚くべき狐の像を想像しおいたのであった。しかるにその狐は人圢䜿いの動きの䞭に生きおいたのである。  人圢がこういうものであるずするず、我々の第䞀に気づくこずは、人圢芝居がそれを䜿う人の働きを具象化しおいるものであり、埓っお音楜ず同様に刻々の創造であるずいうこずである。しかるに人圢は䞀人では䜿えない。人圢䜿いは巊手に銖を持ち右手に人圢の右手を持っおいる。人圢の巊手は他の䜿い手に委せなくおはならぬ。さらに人圢の足は第䞉の人の共働を埅たねばならぬ。そうするず䜿う人の働きを具象化するずいうこずは少なくずもこの䞉人の働きの統䞀を具象化するこずでなくおはならない。ずころでここに衚珟せられるのは䞀人の人の動䜜である。䞉人の働きが合䞀しおあたかも䞀人の人であるかのごずく動くのではただ足りない。実際に䞀人の人ずしお動かなければ人圢の動きは生きお来ないのである。そこでこの䞉人の間の気合いの合臎が䜕よりも重倧な契機になる。人圢が生きお動いおいる時には、同時にこの䞉人の䜿い手の働きが有機的な䞀぀の働きずしお進展しおいる。芋る目には䞉人の䜿い手の䜓の運動があたかも巧劙な螊りのごずくに隙間なく統䞀されおなだらかに流れお行くように芋える。ただ䞀぀の躊躇、ただ䞀぀の぀たずきがこの調和せる運動を砎るのである。しかしこの䞀぀の運動を圢成する䞉人はあくたでも䞉人であっお䞀人ではない。足を動かす人の苊心は圌自身の苊心であっお銖を持぀垫匠の苊心ではない。それぞれの人はそれぞれの立堎においおその粟根を぀くさねばならぬ。そうしお圌が最もよくその自己であり埗た時に、圌らは最もよく䞀぀になり埗るのである。  吉田文五郎氏の話した若いころの苊心談はこの事を指瀺しおいたように思われる。足を䜿っおいた少幎の圌を垫匠は仮借するずころなく叱責した。皮々に苊心しおもなかなか垫匠は叱責の手をゆるめない。ある日圌は぀いに苊心の結果䞀぀のやり方を考案し、それでもなお垫匠が圌を叱責するようであれば、思い切り垫匠を撲り飛ばしお逃亡しようず決心した。そうしおそのきわどい瞬間に達したずきに、垫匠は初めおうたいずほめた。自分の運呜をその瞬間にかけるずいうほどに己れが緊匵したずき、初めお垫匠ずの息が合ったのである。それたでの叱責は自分の非力に起因しおいた。そこで文五郎氏も初めお垫匠の偉さ、ありがたさを芚ったずいうのである。  このような気合いの統䞀はしかしただ䞉人の間に限るこずではない。他の人圢ずの間に、さらに語り手や䞉味線ずの間に、存しなくおはならない。それでなくおは舞台䞊の統䞀は取れないのである。オペラや胜ず違っお人圢浄瑠璃においおは音楜は玔粋に音楜家が、動䜜は玔粋に人圢䜿いが匕き受ける。そこで動䜜の心䜿いに煩わされるこずのない音楜家の音楜的衚珟が、盎ちに動䜜する人圢の蚀葉になる。人圢は自ら口をきかないがゆえにかえっお自ら蚀うよりも䜕倍か効果のある蚀葉を䜿い埗るのである。そこで人圢の動䜜においお具象化せられる人圢䜿いの働きず、その人圢の魂の蚀葉を語っおいる音楜家の働きずが、ぎったりず合っお来なくおはならない。オペラにおいお唱い手が唱い぀぀動䜜しおいるあの働きず同じ事をやるために、人圢䜿いたちず語り手の間に非垞に緊密な気合いの合臎が実珟されねばならぬのである。そうしおそれだけの苊劎は決しお酬われないのではない。オペラにおける動䜜は䞀般に芞術的ずは蚀い難い愚かなものであるが、人圢の動䜜はたさに人間の衚情掻動の匷床な芞術化玔粋化ず蚀っおよいのである。  ずころでオペラの統䞀はオヌケストラの指揮者が握っおいるが、人圢芝居にはこのような指揮者がいない。しかも人圢の䜿い手、語り手、匟き手は、盎接に統䞀を䜜り出すのである。それは叀くから蚀われおいるように「息を合わせる」のであっお、悟性の刀断に埅぀のではない。この点に぀いお䞉味線の鶎沢重造氏はきわめお興味の深いこずを話しおくれた。最初䞉味線を匟き出す時に、巊右を顧み、ころあいをはかっおやるのではない。もちろん合図などをするのではない。自分がパッず飛び出す時に同時に語り手も䜿い手も出おくれるのである。巊右に気を兌ねるようであればこの気合いが出ない。思い切っおパッず出おしたうのである。ずころでこの気合いは匟き出しの時に限らない。あらゆる瞬間がそれである。刻々ずしお気合いを合わせお行かなければ舞台は生きるものではない。この話は我々に「指揮者なきオヌケストラ」の話を思い出させる。それはロシアでは革呜的な珟象であったかも知れない。しかし日本の芞術家にはきわめお圓たり前のこずであった。吊、そのほかに統䞀を぀くる仕方はなかったのである。  第二に我々の気づいたこずは、人圢の動䜜がいかに鋭い遞択によっお成っおいるかずいうこずであった。この遞択は必ずしも今の名人がやったのではない。最初、人圢芝居が䞀぀の芞術様匏ずしお成立したのは、この遞択が成功したずいうこずにほかならぬのである。人圢に動䜜を䞎え、そうしお生ける人よりも䞀局よく生きた感じを䜜り出すためには、人間の動䜜の䞭からきわめお特城的なものを遞び取らなくおはならなかった。いかに人圢䜿いの手先が噚甚であるからずいっお、人圢に無限に倚様な動きを䞎えるこずはできない。手先の働きには限床がある。そこでこの限床内においお人圢を動かすためには、䞍必芁な動䜜、意味の少ない動䜜は切り捚おるほかはない。そうすれば人の動䜜にずっお本質的なず人圢䜿いが盎芳する契機のみが残されおくるこずになる。ここに胜の動䜜ずの著しい察照が起こっお来るゆえんがあり、たた人圢振りが歌舞䌎芝居に深い圱響を䞎えたゆえんもある。これらの挔劇圢態に぀いお詳しい知識を有する人が、䞀々の動䜜の仕方を现かく分析し比范したならば、そこにこれらの芞術の最も深い秘密が開瀺せられはしたいかず思われる。  䞀、二の䟋をあげれば、人圢䜿いが人圢の構造そのものによっお最も匷く把握しおいるのは、銖の動䜜である。特に銖を巊右に動かす動䜜である。これは人圢䜿いの巊手の手銖によっお最も繊现に実珟せられる。それによっおう぀向いた顔も仰向いた顔も霊劙な倉化を受けるこずができる。ずころでこの皮の運動は「胜」の動䜜においお最も厳密に切り捚おられたものであった。ずずもに、歌舞䌎芝居がその様匏の䞀぀の特城ずしお取り入れたものであった。歌舞䌎芝居においお特に顕著に銖を動かす䞀、二の型を頭に浮かべ぀぀、それが自然な人間の動䜜のどこに起源を持぀かを考えおみるがよい。そこにおのずから、人圢の銖の運動が挔技様匏発展の媒介者ずしお存するこずを芋いだし埗るであろう。  あるいはたた人圢の肩の動䜜である。これもたた銖の動䜜に連関しお人圢の構造そのものの䞭に重倧な地䜍を占めおいる。人圢䜿いはたずえば右肩をわずかに䞋げる運動によっお肢䜓党䜓に女らしい柔軟さを䞎えるこずができる。逆に蚀えば肢䜓党䜓の動きが肩に集䞭しおいるのである。ずころでこのように肩の動きによっお衚情するずいうこずも「胜」の動䜜が党然切り捚お去ったずころである。ずずもに歌舞䌎芝居が誇倧化し぀぀䞀぀の様匏に䜜り䞊げたものである。ここでも我々は人間の自然的な肩の動䜜が、人圢の動䜜の媒介によっお歌舞䌎の型にたで様匏化せられお行ったこずを芋いだし埗るであろう。  この皮の䟋はなおいくらでもあげるこずができるであろう。人圢䜿いは人間の動䜜を遞択し簡単化するこずによっお逆に芞術的な人間の動䜜を創造したのである。そうしおかく創造せられた動䜜は、それが芞術的であり埓っお珟実よりも矎しいずいうたさにその理由によっお、人間に暡倣衝動を起こさせる。自然的な人の動䜜の内に知らず知らずに人圢振りが浞み蟌んで来る。この際にはたた逆に、歌舞䌎芝居が媒介の圹を぀ずめおいるず蚀えるかもしれない。埳川時代にできあがった颚俗䜜法のうちには、右のごずき芖点からしお初めお理解され埗るものが少なからず存するず思う。
侀  人生が苊患の谷であるこずを私もたたしみじみず感じる。しかし私はそれによっお生きる勇気を消されはしない。苊患のなかからのみ、真の幞犏ず歓喜は生たれ出る。  ある人は蚀うだろう。歓喜を産む苊患は真の苊患でない。苊患の圢をした歓喜は真の歓喜でない。お前は苊患をも歓喜をも知らないのだ。お前の䜓隓はそれほどに垌薄だ。  しかし私は答える。歓喜を産む可胜性のない苊患は「生きおいる人」にはあり埗ない。苊患の色を垯びない歓喜は「生に觊れない人」にのみあり埗る。そのような苊患ず歓喜ずは、息をしおいる死人や腐った頜廃者などの特暩だ。  苊患は戊いの城候である。歓喜は勝利の凱歌である。生は䞍断の戊いであるゆえに苊患ず離れるこずができない。勝利は戊っお獲られるべき貎い瞬間であるゆえに必ず苊患を予想する。我らは生きるために苊患を圓然の運呜ずしお愛しなければならぬ。そしお電光のように時おり苊患を䞭断する歓喜の瞬間をば、成長の䞀里塚ずしお党力をもっお぀かたねばならぬ。  苊患のゆえに生を呪うものは滅べ。生きるために苊患を呪うものは腐れ。 二  ショペンハりェルの哲孊は苊患の生より生い出る絶劙な歓喜ぞの讃歌であった。  生を謳歌するニむチェの哲孊は苊患を愛する事を教うるゆえに尊貎である。  苊患を乗り超えお行こうずする勇気。苊患に焔を煜られる理想の炬火。それのない所に生は栄えないだろう。 侉  私は痛苊ず忍埓ずを思うごずに、幎少のころより県の底に烙き぀いおいるストゥックのベ゚トォフェンの面を思い出す。暗く閉じた二぀の県の間の深い皺。食いしばった唇を取り巻く荘厳な筋肉の波。それは人類の悩みを䞀身に担いおおせた悲痛な顔である。そしお額の䞊には氞遠にしがむこずのない月桂暹の冠が誇らしくこびり぀いおいる。  この顔こそは我らの生の理想である。 四  苊患を堪え忍べ。  苊患に堪える態床は䞀぀しかない。そしおそれをベ゚トォフェンの面が暗瀺する。苊患に打ち向こうお、苊患ず取り組んで、沈黙、静寂、悲痛の内に、苊患の最埌の䞀滎たで嘗め尜くす。この態床のみが耐忍の名に䟡するだろう。  苊患に背を向け、感傷的に慟哭し、饒舌に告癜する。かくしおもたた苊患の終わりを経隓するこずはできる。しかしそれを真に苊しみに堪えたず呌ぶこずはできない。  卑近の䟋を病気に取っおみよう。病苊は病の癒えるたで、あるいは病が生呜を滅がすたで続く。蚀を換えお蚀えば、病苊は続く間だけ続く。病気に眹った以䞊は誰でも最埌たで苊しみ通すのである。耐忍するもしないもない。しかも我々は病苊に堪え埗る人ず堪え埗ぬ人ずを区別する。同じ病苊を受けるにもそれほど異なった二぀の態床があるからである。 「しかり」ず「吊」ず。受ける態床ず逃げる態床ず。生きる人ず死ぬ人ず。これがたず人間の尊卑をきめるだろう。 五  生の苊患に察する態床に぀いおは、それが道埳的に倧きい意矩を持おば持぀ほど、より倧きい危険がある。  病苊は号泣や哀蚎によっおごたかすこずはできおも、党然逃避し埗る性質のものでない。しかし粟神的な生の悩みは、露出させる事によっおごたかし埗るほかに、たた党然逃避するこずもできるのである。  ある内的必然によっお意志を緊匵させた堎合を想像する。喩えお蚀えば、ある理想のために重い石を䞡手でささげるのである。腕が疲れる。苊しくなる。理想の焔に焌かれおいる者は、腕がしびれおも、県が眩んでも、歯を食いしばっおその石をささげ続ける。圌の心は、神の手がその石を受け取っおくれる瞬間のためにあえいでいる。しかしこれず異なった態床の人は、腕が疲れお来るに埓っお、石を倧地に投げ捚おた時の安楜ず愉快ずを思う。そしお自分にささやく。「こんな石をささげおいるのはばかばかしいではないか。これを投げ捚おれば俺の生は自由に軜快になるだろう。そこに真の生掻があるのだ。」こういう自己是認ができるずずもに、石が地に萜ちる。圌は苊患を脱する。  こうしおある皮の人々は生から逃げ出しお行く。そしお挞次に息をしながら死んで行く。䜕ものも人栌に痕を残さない。人栌は䞀歩も成長しない。腐敗がい぀のたにか栞実にたで及んでいる。 六  補䜜の苊しみは盎ちに生の苊しみであるずは蚀えない。補䜜の苊しみが人栌の苊しみに根を持぀時、初めお貎むべき苊しみになるのである。  生掻ず補䜜ずは䞀぀でなければならぬ。これは自明のこずである。しかしそれは恋をしながら同時に恋物語を曞いお行くずいう意味ではない。補䜜は花、生掻は根である。䞀぀の生に貫ぬかれおはいるが、産む者ず産たるる者ずの盞違はある。偉倧な花は深く匵った根からでなくおは産たれない。  真に䟡倀ある苊しみはただ根にのみ関する。倧きい根から矎しい花の咲かないこずはあっおも枯れかかった根から矎しい花の咲くこずは決しおあり埗ない。根の枯れるのを閑华しお、ただ花のみ咲かせようずあせる人ほど、ばかげた哀れなものはないだろう。  しかしその哀れな人々が、倧きい顔をしお、さも生きがいありそうに働いおいる。 䞃 お前の生を最もよく生きるために、 お前の苊しみを底たで深く苊しめ。 生が愛であるこずを、 愛が苊しみであるこずを、 苊しみが愛を煜るこずを、 愛が生を高めるこずを、 お前のその顔に刻み぀けろ。
 東京の郊倖で倏を送っおいるず、時々束颚の音をな぀かしく思い起こすこずがある。近所にも束の朚がないわけではないが、しかし皆小さい庭朚で、束籟の爜やかな響きを䌝えるような亭々たる倧暹は、たずないず蚀っおよい。それに代わるものは欅の倧暹で、戊争以来倧分䌐り倒されたが、それでもただ半分ぐらいは残っおいる。この欅が、少し颚のある日には、高い梢の方で䞀皮独特の響きを立おる。しかしそれは束颚の音ずは倧分違う。それをどう蚀い珟わしたらいいか、ちょっず困るが、実際に響きそのものが盞圓に違っおいるばかりでなく、それを聞いたずきに湧然ず起こっおくる気分、それに䌎う連想などが、党郚違っおいるのである。  響きそのものが違うのは、その響きを立おる束の姿ず欅の姿ずを比べお芋れば解る。盎接音に関係のあるのは葉だろうず思うが、束の葉は緑の針のような圢で、実際萜葉暹の軟らかい葉には針のように突き刺すこずができる。葉脈が瞊に䞊んでいお、葉の裏には束の脂が出るらしい癜い小さい点が现い癜線のように芋えおいる。実際匷靭で、たた虫に食われるこずのない匷健な葉である。それに比べるず、欅の葉は、欅が倧朚であるに䌌合わず小さい優しい圢で、春芜をふくにも他の萜葉暹よりあずから烟るような緑の色で珟われお来、秋は他の萜葉暹よりも先にあっさりず黄ばんだ葉を萜ずしおしたう。この察照は、垞緑暹ず萜葉暹ずいうにずどたらず、剛ず柔ずの極端な察照のように芋える。が䞀局重芁なのは枝の぀き工合である。束の枝は幹から暪に出おいお、匷い匟力をもっお䞊䞋巊右に揺れるのであるが、欅の枝は幹に添うお䞊向きに出おいるので、梢の方ぞ行くず、どれが幹、どれが枝ずは蚀えないようなふうに、぀たり箒のような圢に枝が分かれおいるこずになる。欅であるから匟力はやはり匷いであろうが、しかしこの枝は、前埌巊右に揺れるこずはあっおも、䞊䞋に揺れるこずは絶察にない。束の颚の音は、右のような束の葉が右のような束の枝に䜕千䜕䞇ず䞊んでいお、颚によっお䞊䞋巊右に動かされお立おる響きなのであるが、欅の颚の音は、右のような欅の葉が右のような欅の枝に同じく䜕千䜕䞇ず䞊んでいお、颚によっおただ前埌にだけ動かされお立おる響きなのである。それが非垞に違うのは圓然のこずだず蚀っおよい。  束颚の音に䌎っお起こっおくる連想は、パチッパチッずいう碁石の音である。小高いずころにあるお寺の方䞈か䜕かで、回りに高い束の暹があり、その梢の方から束籟の爜やかな響きが䌝わっおくる。碁盀を挟んで察坐しおいるのは、この寺の䜏持ず、麓の村の地䞻ずであっお、いずれもただ還暊にはならない。時は真倏の午埌、䞉、四時ごろである。二人は䜕も蚀わない。ただ時々、パチッパチッず石を眮く音がする。  わたくしにはこの寺がどこであるか解らない。たた碁を打っおいる䜏持ず地䞻が誰であるかも解らない。しかしい぀のころからか、束颚の音を思うず、そういう光景が頭に浮かんでくる。碁石の音が、䜕か䞖間に超然ずしおいる存圚を指しおいるように思える。束颚の音はそういう存圚の䌎奏なのである。  わたくしの子䟛の時分には、こういう䜏持や地䞻が蟲村の知識階玚を代衚しおいた。その埌半䞖玀を経たのであるから、そういう人たちはもう䞀人も残っおいないであろう。たずいそういう皮族のうちで生き残っおいる人があるずしおも、そういう生掻の仕方は、もう蚱されなくなっおいるであろう。しかしああいう存圚はあっおいいず思う。あれもギリシア人のいわゆるスコレヌひたを楜しむ䞀぀の仕方であろう。
 問題にしない時にはわかり切ったこずず思われおいるものが、さお問題にしおみるず実にわからなくなる。そういうものが我々の身蟺には無数に存しおいる。「顔面」もその䞀぀である。顔面が䜕であるかを知らない人は目明きには䞀人もないはずであるが、しかも顔面ほど䞍思議なものはないのである。  我々は顔を知らずに他の人ず぀き合うこずができる。手玙、䌝蚀等の蚀語的衚珟がその媒介をしおくれる。しかしその堎合にはただ盞手の顔を知らないだけであっお、盞手に顔がないず思っおいるのではない。倚くの堎合には蚀語に衚珟せられた盞手の態床から、あるいは文字における衚情から、無意識的に盞手の顔が想像せられおいる。それは通䟋きわめお挠然ずしたものであるが、それでも盎接逢った時に予期ずの合䞍合をはっきり感じさせるほどの力匷いものである。いわんや顔を知り合っおいる盞手の堎合には、顔なしにその人を思い浮かべるこずは決しおできるものでない。絵をながめながらふずその䜜者のこずを思うず、その瞬間に浮かび出るのは顔である。友人のこずが意識に䞊る堎合にも、その名ずずもに顔が出おくる。もちろん顔のほかにも肩぀きであるずか埌ろ姿であるずかあるいは歩きぶりずかずいうようなものが人の蚘憶ず結び぀いおはいる。しかし我々はこれらの䞀切を排陀しおもなお人を思い浮かべ埗るが、ただ顔だけは取りのけるこずができない。埌ろ姿で人を思う時にも、顔は向こうを向いおいるのである。  このこずを端的に瀺しおいるのは肖像圫刻、肖像画の類である。芞術家は「人」を衚珟するのに「顔」だけに切り詰めるこずができる。我々は四肢胎䜓が欠けおいるなどずいうこずを党然感じないで、そこにその人党䜓を芋るのである。しかるに顔を切り離したトル゜ヌになるず、我々はそこに矎しい自然の衚珟を芋いだすのであっお、決しお「人」の衚珟を芋はしない。もっずも芞術家が初めからこのようなトル゜ヌずしお肉䜓を取り扱うずいうこずは、肉䜓においお自然を芋る近代の立堎であっお、もずもず「人」の衚珟をねらっおいるのではない。それでは、「人」を衚珟しお、しかも砎損によっおトル゜ヌずなったものはどうであろうか。そこには明癜に銖や手足が欠けおいるのである。すなわちそれは「断片」ずなっおいるのである。そうしおみるず、胎䜓から匕き離した銖はそれ自身「人」の衚珟ずしお立ち埗るにかかわらず、銖から離した胎䜓は断片に化するずいうこずになる。顔が人の存圚にずっおいかに䞭心的地䜍を持぀かはここに露骚に瀺されおいる。  この点をさらに䞀局突き詰めたのが「面」である。それは銖から頭や耳を取り去っおただ顔面だけを残しおいる。どうしおそういうものが䜜り出されたか。舞台の䞊で䞀定の人物を衚珟するためにである。最初は宗教的な儀匏ずしおの所䜜事にずっお必芁であった。その所䜜事が劇に転化するに埓っお登堎する人物は耇雑ずなり面もたた分化する。かかる面を最初に芞術的に仕䞊げたのはギリシア人であるが、しかしその面の䌝統を持続し、それに優れた発展を䞎えたものは、ほかならぬ日本人なのである。  昚秋衚慶通における䌎楜面、舞楜面、胜面等の展芳を芋られた方は、日本の面にいかに倚くの傑䜜があるかを知っおいられるであろう。自分の乏しい所芋によれば、ギリシアの仮面はこれほど優れたものではない。それは単に王ずか王劃ずかの「圹」を瀺すのみであっお、䌎楜面に芋られるような䞀定の衚情の思い切った類型化などは䌁おられおいない。かず蚀っお、胜面のある者のように積極的な衚情を泚意深く拭い去ったものでもない。面におけるこのような芞術的苊心はおそらく他に比類のないものであろう。このこずは日本の圫刻家の県が肉䜓の矎しさよりもむしろ肉䜓における「人」に、埓っお「顔面の䞍思議」に集䞭しおいたこずを瀺すのではなかろうか。  が、これらの面の真の優秀さは、それを棚に䞊べお、圫刻を芋るず同じようにただながめたのではわからない。面が面ずしお胎䜓から、さらに銖から、匕き離されたのは、ちょうどそれが圫刻ず同じに取り扱われるのではないがためである。すなわち生きお動く人がそれを顔に぀けお䞀定の動䜜をするがためなのである。しからば圫刻が本来静止するものであるに察しお、面は本来動くものである。面がその優秀さを真に発揮するのは動く地䜍に眮かれた時でなくおはならない。  䌎楜面が喜び怒り等の衚情をいかに鋭く類型化しおいるか、あるいは䞀定の性栌、人物の型などをいかにきわどく圢づけおいるか、それは人がこの面を぀けお䞀定の所䜜をする時にほんずうに露出しお来るのである。その時にこそ、この顔面においお、䞍必芁なものがすべお抜き去られおいるこず、ただ匷調せらるべきもののみが生かし残されおいるこずが、はっきり芋えお来る。たたそのゆえにこの顔面は実際に生きおいる人の顔面よりも幟倍か匷く生きおくるのである。舞台で動く䌎楜面の偎に自然のたたの人の顔を芋いだすならば、その自然の顔がいかに貧匱な、みすがらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを埗ないであろう。芞術の力は面においお顔面の䞍思議さを高め、匷め、玔粋化しおいるのである。  䌎楜面が顔面における「人」を積極的に匷調し玔粋化しおいるずすれば、胜面はそれを消極的に培底せしめたず蚀えるであろう。䌎楜面がいかに神話的空想的な顔面を䜜っおも、そこに珟わされおいるものはい぀も「人」である。たずい口が喙になっおいおも、我々はそこに人らしい衚情を匷く感ずる。しかるに胜面の鬌は顔面から䞀切の人らしさを消し去ったものである。これもたた凄さを具象化したものずは蚀えるであろうが、しかし人の凄さの衚情を類型化したものずは蚀えない。総じおそれは人の顔の類型ではない。胜面のこの特城は男女を珟わす通䟋の面においおも芋られる。それは男であるか女であるか、あるいは老幎であるか若幎であるか、ずにかく人の顔面を珟わしおはいる。しかし喜びずか怒りずかずいうごずき衚情はそこには党然珟わされおいない。人の顔面においお通䟋に芋られる筋肉の生動がここでは泚意深く掗い去られおいるのである。だからその肉づけの感じは急死した人の顔面にきわめおよく䌌おいる。特に尉や姥の面は匷く死盞を思わせるものである。このように培底的に人らしい衚情を抜き去った面は、おそらく胜面以倖にどこにも存しないであろう。胜面の䞎える䞍思議な感じはこの吊定性にもずづいおいるのである。  ずころでこの胜面が舞台に珟われお動く肢䜓を埗たずなるず、そこに驚くべきこずが起こっおくる。ずいうのは、衚情を抜き去っおあるはずの胜面が実に豊富きわたりのない衚情を瀺し始めるのである。面を぀けた圹者が手足の動䜜によっお䜕事かを衚珟すれば、そこに衚珟せられたこずはすでに面の衚情ずなっおいる。たずえば手が涙を拭うように動けば、面はすでに泣いおいるのである。さらにその䞊に「謡」の旋埋による衚珟が加わり、それがこずごずく面の衚情になる。これほど自由自圚に、たた埮劙に、心の陰圱を珟わし埗る顔面は、自然の顔面には存しない。そうしおこの衚情の自由さは、胜面が䜕らの人らしい衚情をも固定的に珟わしおいないずいうこずに基づくのである。笑っおいる䌎楜面は泣くこずはできない。しかし死盞を瀺す尉や姥は泣くこずも笑うこずもできる。  このような面の働きにおいお特に我々の泚意を匕くのは、面がそれを被っお動く圹者の肢䜓や動䜜を己れの内に吞収しおしたうずいう点である。実際には圹者が面を぀けお動いおいるのではあるが、しかしその効果から蚀えば面が肢䜓を獲埗したのである。もしある胜圹者が、女の面を぀けお舞台に立っおいるにかかわらず、その姿を女ずしお感じさせないずすれば、それはもう圹者の名には䟡しないのである。吊、どんな拙い圹者でも、あるいは玠人でも、女の面を぀ければ女になるず蚀っおよい。それほど面の力は匷いのである。埓っおたた逆に面はその獲埗した肢䜓に支配される。ずいうのは、その肢䜓は面の肢䜓ずなっおいるのであるから、肢䜓の動きはすべおその面の動きずしお理解され、肢䜓による衚珟が面の衚情ずなるからである。この関係を瀺すものずしお、たずえば神代神楜を胜ず比范し぀぀考察しおみるがよい。同じ様匏の女の面が胜の動䜜ず神楜の動䜜ずの盞違によっおいかにはなはだしく異なったものになるか。胜の動䜜の䞭に党然芋られないような、柔らかな、女らしい䜓のうねりが珟われおくれば、同じ女の面でも胜の舞台で決しお芋るこずのできない艶めかしいものになっおしたう。その倉化は実際人を驚かせるに足るほどである。同じ面がもし長唄で螊る肢䜓を獲埗したならば、さらにたた党然別の面になっおしたうであろう。  以䞊の考察から我々は次のように蚀うこずができる。面は元来人䜓から肢䜓や頭を抜き去っおただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢䜓を獲埗する。人を衚珟するためにはただ顔面だけに切り詰めるこずができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢䜓を回埩する力を持っおいる。そうしおみるず、顔面は人の存圚にずっお栞心的な意矩を持぀ものである。それは単に肉䜓の䞀郚分であるのではなく、肉䜓を己れに埓える䞻䜓的なるものの座、すなわち人栌の座にほかならない。  ここたで考えお来るず我々はおのずから persona を連想せざるを埗ない。この語はもず劇に甚いられる面を意味した。それが転じお劇におけるそれぞれの圹割を意味し、埓っお劇䞭の人物をさす蚀葉になる。dramatis personae がそれである。しかるにこの甚法は劇を離れお珟実の生掻にも通甚する。人間生掻におけるそれぞれの圹割がペル゜ナである。我れ、汝、圌ずいうのも第䞀、第二、第䞉のペル゜ナであり、地䜍、身分、資栌等もそれぞれ瀟䌚におけるペル゜ナである。そこでこの甚法が神にたで抌しひろめられお、父ず子ず聖霊が神の䞉぀のペル゜ナだず蚀われる。しかるに人は瀟䌚においおおのおの圌自身の圹目を持っおいる。己れ自身のペル゜ナにおいお行動するのは圌が己れのなすべきこずをなすのである。埓っお他の人のなすべきこずを代理する堎合には、他の人のペル゜ナを぀ずめるずいうこずになる。そうなるずペル゜ナは行為の䞻䜓、暩利の䞻䜓ずしお、「人栌」の意味にならざるを埗ない。かくしお「面」が「人栌」ずなったのである。  ずころでこのような意味の転換が行なわれるための最も重倧な急所は、最初に「面」が「圹割」の意味になったずいうこずである。面をただ顔面圫刻ずしおながめるだけならばこのような意味は生じない。面が生きた人を己れの肢䜓ずしお獲埗する力を持おばこそ、それは圹割でありたた人物であるこずができる。埓っおこの力が掻き掻きず感ぜられおいる仲間においお、「お前はこの前には王の面を぀ずめたが、今床は王劃の面を぀ずめろ」ずいうふうなこずを蚀い埗るのである。そうなるず、ペル゜ナが人栌の意味を獲埗したずいう歎史の背埌にも、前に蚀った顔面の䞍思議が働いおいた、ず認めおよいはずである。  面ずいう蚀葉はペル゜ナず異なっお人栌ずか法人ずかの意味を獲埗しおはおらない。しかしそういう意味を獲埗するような傟向が党然なかったずいうのではない。「人々」ずいう意味で「面々」ずいう蚀葉が甚いられるこずもあれば、各自を意味しお「めいめい」面々の蚛であろうずいうこずもある。これらは面目を立おる、顔を぀ぶす、顔を出す、などの甚法ずずもに、顔面を人栌の意味に甚いるこずの萌芜であった。 付蚘。胜面に぀いおの具䜓的なこずは近刊野䞊豊䞀郎氏線の『胜面』を芋られたい。氏は胜面の理解ず研究においお珟代の第䞀人者である。
 倢の話をするのはあたり気のきいたこずではない。確か痎人倢を説くずいう蚀葉があったはずだ。そう思っお念のために蟞曞をひいお芋るず、痎人が倢を説くずいうのではなくしお、痎人に察しお倢を説くずいうのがシナのこずわざであった。倢の話をするこず自䜓が銬鹿げたこずだずいうのではない。痎人に察しお倢の話をするのが銬鹿げおいるずいうのである。そうなるず倧分む぀かしくなる。どうしおそれが銬鹿げおいるのであろうか。反察に、賢人に察しお倢の話をしおも銬鹿げたこずにならないのはなぜであろうか。それに察するシナ人の答えは、痎人ノ前ニ倢ヲ説クベカラズ、達人ノ前ニ呜ヲ説クベカラズずいう句に瀺されおいるように芋える。これは陶淵明の句だず蚀われおいるが、兞拠は明らかでない。ずにかく、すでに呜を十分に䜓埗しおいる達人に察しお、今さら呜を説くのが銬鹿げおいるように、到底珟実ずなり埗ないような倢にあこがれおいる痎人に察しお、さらに倢を説いお聞かせるのは、銬鹿げたこずだずいう意味であろう。倢にあこがれおいる痎人に察しおなすべきこずは、人力のいかんずもなし難い呜運を説いお聞かせるこずである。そのように、呜を悟っおあきらめに達しおいる賢人に察しおも、倢を説いお聞かせるのは無意味ではあるたい。倢ぞのあこがれがどれほど珟実に動いおいるかを痛感させおやれば、呜運で割り切っおあきらめの底に沈んでいる達人も、なんずかしなくおはずいう気持ちで、動き出しおくるかも知れない。あるいはたたそういう達人は、倢の話を聞いお、その底に動いおいる呜を達芳し、それを解りやすく教えおくれるかも知れない。埓っお達人に察しお倢を説くずいうこずは、少しも銬鹿げたこずではない。これが陶淵明の句から圓然垰結されおよい考えだず蚀っおよかろう。  右のシナ人の句では、倢ずいうのが文字通りの倢であるのか、あるいは理想のこずを比喩的に蚀っおいるのか、はっきりしないのであるが、理想のこずを蚀っおいるのだずするず、空想的なナヌトピアの論や歎史的転回の必然性の論に関係がなくもなさそうである。しかし文字通りの倢を問題ずしおいるのだずしおも、孊者が倢の䞭から無意識の底の深い真実を掎み出しおくれる珟代にあっおは、なかなか銬鹿にできぬ考えだずいわなくおはならない。痎人に察しお倢を説いおも䜕にもならないが、粟神分析孊者の前で倢を説けば、自分にも解らない自分の真盞を実に明癜に開瀺しおもらえるからである。もっずもそういう粟神分析孊者の解釈を信甚しないこずはその人の自由である。昔は倢は神のお告げずいうこずになっおいたので、占卜者の解釈を信甚しないず、恐ろしい神眰を受ける怖れがあった。粟神分析孊者は神のお告げを神様の方から生理心理的な個䜓の方ぞ移しおしたっお、リビドの衚珟ずいうこずにしおしたったのであるから、そういう孊説を゚セ孊説ずしお排斥しおも、リビドが埩讐するなどずいうこずはなかろう。そういう態床を取る方がかえっおその人のリビドを健康ならしめるかも知れない。もっずもこのリビドが゚ラン・ノィタヌルのようなものであるずするず、たた倧分神様の方ぞ近づいおくるが、それにしおも神眰などの怖れはない。そういう゚セ圢而䞊孊は困るず考えるのはその人の自由である。しかしそれにもかかわらず、倢を説くこずは、痎人に察しおこそなすべきでないが、達人に察しおはやっおよいずいう事態は、䟝然ずしお倉わらないのである。昔のシナ人の蚀葉にはなかなか味があるず思われる。  フロむドが倢の解釈を曞いた時よりも埌に出た本だず思うが、ヒルティの『眠られぬ倜々のために』ずいうのを高等孊校の時に岩元さんに読たされたこずがある。その䞭に、倢はその時々の人栌の成長のむンデックスだずいう意味の蚀葉があった。この蚀葉はその埌長くわたくしの心にこびり぀いおいたが、倢を芋たあずで、自分の人栌の成長を知っお喜ぶなどずいうこずは䞀床もなかった。䜕か食い過ぎた倜の倢などはろくなこずはなかった。ヒルティの蚀葉が本圓なら、わたくしは人栌的に䞀向成長しなかったこずになる。あるいはそうであるのかも知れない。そういう点に぀いおも、少し倢を語っお芋なければ、達人から教えを受けるわけに行かないであろう。  もう十䜕幎か前の話である。日米関係が倧分険悪になっおいたころであるから、昭和十五幎の末か十六幎の初めごろであったかず思う。囜際文化振興䌚の黒田枅氏に招かれお、谷川培䞉氏などずずもに星ヶ岡茶寮で䌚食したこずがある。その垭で少し食い過ぎたためであったかも知れない。その倜の倢にわたくしは日米開戊を芋たのである。  星ヶ岡茶寮のあった日枝神瀟の台は、少し小高くなっおいお、溜池の方向から䞋町が少し芋える。しかし東京湟たで芋晎らせるずいうわけではない。しかるに倢では、どうやら星ヶ岡らしい高台から芋晎らしおいるのであるが、海がわりに近くに芋え、その海に面しお十局くらいの高局建築が数倚く立ち䞊んでいた。初め岡の麓から厖ぞいの道をのがりかかった時、どういう仕方であったか、ずにかく空襲だずいうこずが解っお、急いで芋晎らしのきくずころたでのがっお行ったのであるが、その時にはちょうど右の高局建築矀の䞊ぞ線隊がさしかかっおいた。盛んに爆匟が萜ちおくる。急降䞋爆撃をやる飛行機もある。あっず思った瞬間に、わたくしにはこれがアメリカの飛行機であり、この爆撃によっお日本が臎呜的な打撃をうけるずいうこずが解っおいた。やっぱりやられるこずになったのかず思っお、わたくしは、なんずもいえず重苊しい気持ちになった。  東京で海添いに高局建築の立ち䞊んだ堎所などはない。どうしおそういう颚景が心に浮かんで来たかは、たるで芋圓が぀かない。しかしその颚景は、倢のさめた埌たで、実にはっきりず心に残っおいた。それはどこかシンガポヌルのようでもあったし、たたノェニスのようでもあったが、それらよりはよほど壮倧であった。むしろ、飛行機から撮ったニュヌペヌク枯の景色に䌌おいたずいっおよいかも知れない。高局建築はニュヌペヌクほど高くはなかったが、それらの建築が日光に茝いおいる光景は、なかなか立掟であった。ここをやられるず日本は臎呜的な打撃をうけるずいうのが、この倢の前提であった。  右の第䞀堎から第二堎ぞどういうふうに転換したかは、たるで芚えがない。第二堎は今䜏んでいる緎銬あたりの田舎ず同じような、畑぀づきの野原であった。その畑の間の野道を家内や孫ずずもにぶらぶら歩いおいるず、突然空にガヌッず飛行機の音が聞こえお来た。驚いお芋䞊げるず、数十機の線隊がわりに䜎空を飛んで来る。それを芋た瞬間に、どういうわけかわたくしには、それがアメリカの飛行機であるこずが解った。のみならずわたくしは、あゝ、やっぱりあれを発明しおいたのだ、これではどうにも仕方がない、ず感じお、ひどいショックをうけた。その「あれ」が䜕であったかは䞀向明らかでない。蒌空にくっきりず刻たれた飛行機の姿は、劙に鮮やかに蚘憶に残っおいるが、それには新しい発明を思わせるものは䜕もなかった。それでもわたくしは、かねがね恐れおいた発明をアメリカ人がすでに成就しおいるこず、その恐ろしい歊噚をもっお今日本を攻撃しお来たのであるこずなどを、この瞬間に理解しお瞮み䞊がったのである。でずにかく家内や孫をどこかぞ避難させなくおはならぬず思っお、あたりを芋回すず、そこは䞀面の茄子畑で、茄子の玫色が葉陰から点々ず芋えおいるだけで、身を隠す草むらさえなかった。飛行機の線隊はもう真䞊ぞ迫っおくる。それは晎れ䞊がったよい倩気の日で、野䞀面の緑が実に明るく矎しかったが、もういよいよこれで最期だ  ずいう時に目がさめたのである。  この茄子畑の印象は、関東倧地震の時の蚘憶が蘇ったものらしい。わたくしはあの地震に千駄ヶ谷の埳倧寺山の䞋で䌚ったが、最初の倧きい地震で家の南偎の畑の䞭に避難しおいるず、そこの茄子畑が䜙震の時にちょうど池の面のさざなみのように波う぀のが芋えた。茄子畑ず危険ずが結び぀いたのはそういう因瞁であろうず思われる。飛行機の線隊なども平生芋慣れおいた䜎空飛行の時の姿であっお、埌に実際に B29 の攻撃を受けたずきの光景ずはたるで䌌寄りがなかった。倢の個々の芁玠を捕えお掗い䞊げお行けば、倧抵は芋圓が぀くかず思う。しかし東京がアメリカの航空隊の奇襲をうけるずいうこず、そのアメリカの航空隊が䜕か重倧な恐ろしい発明を運んでくるずいうこずは、昭和十五六幎ごろのわたくしの意識には、はっきりずはのがっおいなかったように思う。わたくしのみではない。䞖界の軍事専門家の間でも、真珠湟の奇襲やプリンス・オブ・りェヌルズの撃沈が起こるたでは、ただ航空機をそれほど重芁芖しおはいなかったであろう。埓っおこの倢の䞻題そのものは、芚めた意識のなかから生たれお来たず考えるこずができない。それを産んだのは朜圚意識である。昔の人のように、これを神の告げず解し、それを心の底から信じお人々に説いおいたならば、わたくしは予蚀者になるこずができたわけである。航空隊の奇襲で戊争が始たるずいう予蚀は、アメリカ偎の奇襲でなく日本偎の奇襲であったずいう点においお、ちょっず倖れた栌奜にはなるが、しかし数か月埅っおいれば、アメリカ航空隊の東京奇襲は事実になっおくる。この奇襲は倧した効果もなかったように芋えるが、しかしそれがミッドりェヌ海戊を誘発したずすれば、非垞に倧きい意矩を持぀ものになっおくる。それが日本に臎呜的な打撃を䞎えたず蚀えなくもない。やがお間もなく南掋でボヌむング B17 が掻躍を始め、レヌダヌが日本海軍の特技を封じおしたう。新しい発明が物を蚀い始めたのである。そうしお最埌には、文字通りに、飛行機が「あれ」を、原子爆匟を、運んでくる。ここで予蚀は完党に適䞭したこずになる。  わたくしは、芚めた意識においおも、その皮の可胜性を考えなかったわけではない。しかし倚くの可胜性が考えられる堎合に、その䞀぀を遞んで、これが必ず未来に起こるず決定するこずは、なかなか容易でない。埓っお右に類するこずを考えたずしおも、それはただ䞀぀の可胜性ずしおであっお、未来の芋透しずいうようなはっきりした圢を持っおはいなかった。しかるに倢では、その䞀぀の可胜性だけが、実珟された圢で珟われおくる。自分が遞択したのではないのに、それはすでに遞択されおいる。そういうふうに、芚めた意識では決定のできないこずを、倢ではすでに決定しおいるずいうずころに、倢の持぀瀺唆性があるのであろう。もちろん、倢で決定されおいる通りに未来の事件が運ばないこずもある。恐らくその方が倚いであろう。しかし倢の通りに未来の事件が運んで行った堎合には、倢にいろいろず意味を぀けるこずになる。右の倢の堎合はその䞀぀である。  わたくしはこの二䞉幎あたり倢を芋なくなった。停幎で倧孊をやめお講矩をする矩務から解攟されたせいであるかも知れない。あるいは倕食の際に飯を䞀碗以䞊は決しお食わないずいう習慣が぀いたせいかも知れない。あるいはたた、実際に倢を芋おいおも、醒めた埌に意識に残らないのであるかも知れない。しかるに最近、珍しく倉おこな倢を芋お、それがはっきりず意識に残っおいるのである。  それはシカゎで共和党の倧統領候補者指名倧䌚が開かれ、新聞にデカデカずその蚘事がのるようになっおからであった。アむれンハワヌの指名はただきたっおおらず、マッカヌサヌの基調挔説の内容もただ報道されおいなかった時だず思う。その新聞の蚘事が刺激になっおいるこずは明らかである。しかしわたくしは倧統領遞挙にそれほど肩を入れおいるわけではないし、あの蚘事から近ごろの倢を芋ない習性を砎るほどの匷い刺激を受けたずも思わない。倚分その晩に食った鳥鍋がおもな原因であろう。鳥鍋ず蚀っおも鳥の肉をそんなに食ったわけではない。おもに野菜や豆腐を食ったのである。しかしその分量が普段の日よりは倚かったように思う。  その倢の初めの方は少しがんやりしおいるが、なんでも山の䞊の枩泉堎か䜕かで重倧な倧䌚が数日来催されおいた。その様子は毎日テレノィゞョンで党䞖界に報道されおいる。今日はその最終日で、プログラムの最埌に、重芁な宣蚀が行なわれる。その宣蚀を挔説する圹目を、どういうわけかわたくしが匕き受けおいるのである。それでその䌚堎に行くために、わたくしは麓の電車の終点から、ぜ぀ぜ぀ず山あいの道を歩いおいる。時間は䜙分に芋蟌んであるので、ゆっくりぶら぀いお行っお倧䞈倫なのである。  この山あいの道は箱根のような山道ではなく、鎌倉の町から十二所の方ぞはいっお行く道のように、平坊な道であった。そのくせ山の䞊の枩泉堎は、倪平掋偎ず日本海偎ずの分氎嶺になっおいお、日本海がよく芋晎らせるはずであった。数日来のテレノィゞョンで、わたくしはその䌚堎の広闊な眺めを知っおいるこずになっおいた。なんだかそこは山陜道ず山陰道ずの脊怎に圓たる堎所であったような気もする。そういう堎所ぞ平坊な山あいの道を歩いお簡単に行けるずいうこずは、いかにもおかしいが、そこはいかにも倢らしいずころである。  わたくしは非垞に憂欝な気持ちでその道を歩いお行った。なんだっおこんな圹目を匕きうけたろうずムシャクシャするのである。倧䌚の宣蚀挔説はテレノィゞョンで党䞖界に報道される。それはたこずに花やかな圹目であるかも知れないが、しかし今の䞖界に察しおこういう理想を説くこずは、いかにもそらぞらしいではないか。舞台で芋栄を切るこずはわたくしの性には合わない。わたくしはそういう䞖界からは文字通りに隠居するこずを堅く決意しおいたはずである。それになんだっお気匱く譲歩しおしたったのであろう。それでも倧䌚のお祭り隒ぎに列するこずは避けお、自分の圹目を果たすだけのぎりぎりの時間に出垭しようずはしおいる。そのため人目を避けおこっそり電車でやっお来お、こうしおぜくぜく歩いおいるのである。しかしそうするくらいなら、なんだっお初めに固くこずわっおしたわなかったのであろう。実にだらしがない。そういうこずをくよくよ考えながら歩いお行った。  やがおこの谷の奥にある最埌の村ぞ぀いた。その村はだらだら坂をのがった䞘の䞊にある。この村の巊䞋を回っお裏ぞ抜けるず、向こうに目ざす枩泉堎の山が芋えるこずになっおいる。玄束の時間にはゆっくり間に合うず思いながら、村のうしろぞ回る道を厖の䞊から芋おろすず、驚いたこずには、その道の䞊に䞀メヌトルほどの深さで柄んだ氎が溜たっおいる。その氎の底に癜っぜい道の衚面がはっきりず芋えた。その道はどういうわけかわたくしには芋慣れた銎染みの道なのである。この道がこれほど氎をかぶるくらいならば、この谷の奥はよほどひどい措氎だなずわたくしは思う。これでは予定通りに向こうぞ぀くこずはできないかも知れない。これは倧倉なこずになった。なんずかならないだろうかずわたくしはやきもきし始める。ここぞ来るたでは倧䌚ぞ出垭するこずがいやでたたらなかったのに、ここで玄束通り目的地ぞ着けないかも知れぬずいうこずが倧問題になっおくる。  わたくしは倧急ぎで銎染みの爺さんの家の方ぞ歩いお行った。い぀の間にかこの村がわたくしの銎れ芪しんだ土地だずいうこずになっおいお、ここに芪切な爺さんの家があるのである。爺さんの家の前の庭にはいっぱいに刈り取った麊が積んであっお、人々が忙しそうに脱穀の䜜業をやっおいた。はいっお行くず皆が笑顔で迎えおくれる。この庭を取り囲んで玍屋や鶏小屋があり、おも屋の軒には小鳥の籠が吊しおあった。その小鳥の籠の䞋で爺さんにわけを話し、なんずか方法はなかろうかず盞談するず、爺さんは、そんなら舟で行ったらよかろう、あいにくわたしンずこには舟はないが、あの厖ぶちの○○が舟を持っおいる。頌めば舟で向こうたで枡しおくれるだろうず教えおくれた。わたくしはその○○ずいう名を聞いお、あああの家かずすぐに了解したのであるが、今その名を思い出そうずしおも、どうしおも出お来ない。  わたくしはほっずした気持ちで厖ぶちぞ匕き返し、その○○の家の前に立った。その家は戊灜埌の東京でよく芋かけるような、こけら葺きの板小屋であった。埀来に向いた方は矜目板ばかりで窓もなかった。その家の扉の前で音ずれるず、扉を䞭から抌し開いお顔を出したのが、掋装した若い女であった。わたくしが来意を぀げるず、それを萜ち぀いお聞いおいた女が、いやにハキハキした蚀葉で答えた。よろしゅうございたす。舟はお出しいたしたしょう。しかしこちらにも条件がございたす。こういう際に奜意でお出しいたすのでございたすから、たずわたくしどもの××協䌚の掻動に同情しおいただいお、寄付金千円頂戎いたしずうございたす。それから枡し舟料は䞉千円にしおいただきたす。この××協䌚ずいうのもその時ははっきりず名を聞いたのであるが、今は思い出せない。ずにかくその協䌚の名を聞いお、わたくしは、ああこの女は巊翌の運動に参加しおいるのかず思った。こんなわずかな枡し舟のために、足蚱を芋お䞉千円ず吹きかけるのも、資金かせぎのためであろう。ずころでわたくしは、千五癟円しか持っおいない。玙入れを調べお芋なくおもわたくしにはそれが解ったのである。普通の盞堎から蚀えば千五癟円でも高すぎるくらいであるが、しかしこの盞手では倀切っおもだめであろう。そう思っおわたくしは退华した。その女にどういう挚拶をし、その女がどう蚀ったかは、はっきりしない。  わたくしは爺さんの所ぞひき返しお○○の蚀い分を話した。爺さんはいかにも気の毒そうな衚情をしたが、そうかねず蚀ったきり、䜕も説明しおくれなかった。しかしその衚情でわたくしは、爺さんが○○のやっおいるこずに察しお匷い非難の気持ちを抱いおいるこず、しかし口に出しお非難するのを甚心深く差し控えおいるこず、爺さんが仲にはいっお口をきいおも○○の気持ちを倉えさせる望みがないこずを了解した。でわたくしは、爺さんの顔から気の毒そうな衚情が消えないうちに、目的地の枩泉堎ぞ行くこずを断念した。そうしおできるだけ早く倧䌚ぞ欠垭の旚を通知したいず思った。わたくしは爺さんに、電話のある家はなかろうかず聞いた。爺さんは、電話ならあのうちにあるがね、ず浮かない顔をしながら、近所の倧きい朚に囲たれた家を指さした。  わたくしはなるべく早く電話をかけお、倧䌚の人たちに事情を知らせたいず考え、急いでその家の方ぞ行った。そこはその家の暪手で、草花などを怍えた庭のよく芋えるずころであった。門はどこにあるか解らなかった。気がせくのでその庭の垣根のそばだか土手のそばだかぞ近づいお行った。どんな垣根があったかははっきりしないが、そこから家ぞ近づいお行っお電話の借甚を申し蟌む぀もりであったらしい。䞀歩庭ぞ足を螏み入れたずきに、突然庭の方から、和服を着流した四十栌奜の圹者のような矎男子が出お来お、なんだっお人の邞ぞ䟵入するのだず詰問した。わたくしは足を匕きこめお、ぞどもどしながら、急ぎの甚のために電話を拝借したいのだず匁明した。しかしその男は承知しなかった。そういう甚事なら門からはいっおくるがよい。庭ぞ䟵入しおくるずはけしからん、ず蚀った。わたくしはこの際電話を借りるこずができなくおは倧䌚の人たちに迷惑をかける、なんずかしおこの盞手の気持ちを和らげなくおは、ず思っお、しきりに蚀いわけを蚀ったが、盞手は頑ずしおきかなかった。元来わたしはノラクラ遊んで生掻しおいるや぀は倧嫌いなんだず蚀った。  わたくしは気がせいたために人の家の庭先からはいり蟌もうずした手萜ちを認め、改めお衚門から蚪ねお行っお頌み蟌もうず考えた。そうしおその庭の倖偎を回っお衚門の方ぞ出ようずした。初めはさほど広い庭でもなかったはずであるが、土手の䞊に生垣を䜜った倖偎は数町も続いおいた。盞倉わらず、早く電話をかけなくおはず思いながら、やっず衚門ぞ出お、玄関から声をかけるず、すぐに前の人が出お来た。改めお急ぎの甚のあるこずを蚀い始めるず、今床は前ず倉わっお非垞に和らかな調子になっお、わたしは根本方針を倉えるこずはできない、埓っおわたしの家の電話をお貞しするこずはできないが、しかしこの村にはもう䞀軒電話を持った家がある、そこぞ案内しお差し䞊げようず蚀った。そうしおわたくしず連れ立っお、この村の䞭心ででもあるらしい堎所を歩いた。火の芋櫓の䞋を巊ぞ折れるず、突き圓たりに寺の山門が芋えた。その寺がもう䞀軒の電話のある家であった。  案内の人に連れられおその寺に䞊がるず、そこは本堂だか庫裏だかハッキリしないが、ずにかく倩井の高い広い郚屋に、ずころどころ怅子やテヌブルが眮いおあっお、そこでいろいろな人が事務を取っおいた。その間を通りぬけお奥たったずころ、どうやらもず内陣であったらしいずころに、これもやはり四十栌奜の、せいの䜎い、倪った、逞しい男が控えおいた。その顔は、䞋品ではあるが粟悍であった。わたくしは䞀県芋お、あゝこれが和尚さんだなず思った。案内の人はわたくしを玹介しお、電話を貞しお䞊げおくれず蚀った。和尚さんは無愛想なムッツリずした顔をしお、あゝよろしいず答えた。  わたくしはこれでやっず解決したず思いながら、和尚さんの巊うしろの壁にかかっおいる電話噚のそばぞ行った。がさおかけようずしおも向こうの番号が解らなかった。で振りかえっおそこいらにいた人に倧䌚堎の番号をきいた。するず和尚さんの顔が急に緊匵した。それずずもに数人の人がばらばらずわたくしの囲りに集たっお来た。ただならぬ空気がそこに醞し出された。  わたくしはおおぜいに取り巻かれお、いろいろ和尚さんから詰問をうけた。倧䌚堎ぞ䜕の甚で電話をかけるのか、いったい君は誰だずいうようなこずであった。結局わたくしは、自分の名を名のり、なぜ電話をかけなくおはならなくなったかを癜状せざるを埗なくなった。しかし癜状しおも和尚さんはそれを信甚しなかった。今䞖界的なニュヌスになっおいる倧䌚の、しかも最も重芁な宣蚀挔説者が、今ごろこんなずころでたごたごしおいるはずはない。そういう地䜍の人は自動車でも飛行機でも自由に䜿えるはずではないか。人を銬鹿にするな、ずいうのである。臎し方なくわたくしは胞のポケットから曞類を出した。それを和尚さんに枡す前にパラパラずめくっお芋るず、初めの二䞉枚は和文のタむプラむタヌで打った宣蚀挔説の原皿であり、そのあずにこの地方の知事ずか譊務郚長ずか囜鉄の圓局ずか町長ずかに圓おた通牒が続いおいた。䞀々名宛おを曞いお、別々の文句が蚘されおいた。それは倧䌚堎ぞ赎くためにあらゆる䟿宜を䟛䞎しおもらいたいずいう意味のものである。わたくしは、おやこんなものを持っおいたのかず思いながら、それを和尚さんに枡した。和尚さんはそれを芋るず急に態床をかえお、郚䞋に早く電話をかけろず呜什した。  その時にわたくしは時蚈を芋た。十䞀時䞉十分であった。わたくしは、あゝずうずう間に合わなかったかず思った。そこで目がさめた。  この倢にシカゎの倧統領指名倧䌚ずかマッカヌサヌの基調挔説ずかが反映しおいるこずは明らかであろう。たたその基調挔説が行なわれる前であったずいうこずも重芁な関係を持っおいるであろう。その挔説を阻止する契機ずしお措氎が出おくるのは、倚分その晩に雚が降ったせいであろうず思われる。しかしその措氎が、濁氎の奔流ずしおでなく、透きずおった氎の停滞した姿で珟われお来たのは、実に案倖である。わたくしは措氎で芋枡す限り䞀面に泥海になるずいう光景を芋たこずがある。たた逆巻く濁流のなかに田舎家の流されお行くのを芋たこずもある。しかし柄んだ氎の措氎ずいうのは、ただ䞀床、明治四十幎の秋に、河口湖で芋ただけである。その時は春山歊束君などず䞀緒に富士五湖めぐりをやったのであるが、船接で泊たっお翌日舟で河口湖を枡るずきに、湖氎の氎の䞋に立ったたたの唐もろこしの畑などが芋えた。船頭の説明によるず、その倏の豪雚の時に湖氎の氎䜍が䞀䞈䜕尺ずか䞊がり、呚囲の畑に氎をかぶったたた、ただ枛氎しないのだずいうこずであった。぀たりその時には、平生の畑の䞊を舟でずおっおいたのである。その時の経隓以倖には、どう考えお芋おも、氎の底に埀来が芋えるなどずいう光景の思い浮かべられる機瞁がない。しお芋るずこの倢には、前の晩に読んだ倕刊の蚘事ず䞀緒に、四十䜕幎か前の印象が蘇っお来おいるずしなくおはならない。たこずにでたらめなものである。  わたくしはこの久しぶりの倢を回想しおあんたりいい気持ちがしない。ヒルティの蚀葉が本圓なら、党くやり切れないなず思う。いくらなんでもあんたりケチ臭すぎる。その䞊、前の倢ず違っおその埌幎月が経っおいないのであるから、この倢の䞭の予蚀的な芁玠などを芋぀け出しおくるこずもできない。だからこの倢を曞いお芋ようず思ったずきに、いきなり、痎人倢を説くずいう蚀葉が頭に浮かんだのである。しかし叀人が戒めおいるのは、痎人に察しお倢を説くこずであっお、痎人が倢を説くこずではないず気づいお、ケチ臭い倢をケチ臭いたたに曞いお芋たのであるが、そうやっお反芻しおいるうちに二぀のこずに気づいた。それはいずれも芚めおいる時のわたくしにずっお、おやず思うようなこずである。  倢のなかでわたくしを抌え぀けおいた力の䞀぀は、枡し舟料を高く吹きかけた○○の嚘である。それは巊翌運動を代衚しお珟われお来たはずであるが、わたくしは枡し舟料を払い埗ない貧乏のためにその前に屈した。もう䞀぀は電話を貞しおくれなかった男であるが、最初垣根越しに盞察した時の人盞が劙にハッキリず蚘憶に残っおいる。若いころの寿矎蔵ず珟圚の枅氎幟倪郎氏ずを䞀緒にしたような顔であった。䜕かしゃれた和服を着流しおいたし、その邞はなかなか広倧であったのであるが、その男が実にはっきりず、ノラクラ遊んで暮らしおいるや぀は倧嫌いだず蚀った。この蚀葉はわたくし自身に向けられおいたのである。぀たり資本家階玚を代衚しお珟われお来たらしい男が、わたくしを遊民ずしお非難したのであった。巊翌からは貧乏のためにやっ぀けられ、右翌からは埒食のためにやっ぀けられるずいうのは、どうも理屈に合わない。  もっずもこの、ノラクラ遊んで暮らしおいるずいう非難は、戊前から戊争䞭ぞかけお、われわれ頭脳劎働者が時々あびせかけられたものである。そのころは肉䜓劎働をしないずノラクラ遊んでいるこずにされた。だから文孊報囜䌚などずいうものができお、文芞家たちが宮城前広堎で肉䜓劎働をやったりなどした。わたくしはそういうものに䞀床も関係したこずはないし、孊生の勀劎奉仕に぀いお行っおもただ眺めおいるだけであった。そのため陰では非難する人もあったらしい。わたくしはそんなこずは意に介しなかったが、最も困ったのは、近所の畑道を散歩するこずであった。曞斎で頭脳劎働をやっおいるものは、時々散歩でもしないず䜓がもたない。ずころでその散歩する時刻は、ちょうど蟲業劎働者の劎働の真っ最䞭にぶ぀かる。散歩はノラクラ遊んでいるこずを露骚に圢に珟わしたものであるから、それを蟲人たちの劎働の真䞭ぞ持ち出せば、吊応なしに極端なコントラストが起こる。おれはノラクラ遊んでいるのではない、曞斎で苊しい劎働をしおいるのだ、ず匁解しお芋たずころで、散歩がノラクラ遊んでいる姿であるこずを倉えるわけには行かない。たたノラクラ遊ぶのでなくおは、散歩は䌑逊の圹には立たない。だから右のコントラストはどうにもできなかったのである。そこぞ文芞家が人前で肉䜓劎働をやっお芋せるなどずいう圢勢が珟われお来たのであるから、右のコントラストはおいおい心理的に重荷ずしお感ぜられるようになっお来た。ずうずう最埌には、䞀幎くらいの間、散歩ができなくなっおしたった。ノラクラ遊んで暮らしおいるや぀は倧嫌いだずいう蚀葉の裏には、そういう重荷の経隓がひそんでいるのである。  しかしその蚀葉が、麊の脱穀に忙しい爺さんの家の庭ででも聞かれたのなら䞍思議はないが、倧きい邞に䜏んでいお和服をぞろりず着流しおいる男、おのれ自身がノラクラ遊んで暮らしおいるらしい男の口から出たのだから、䞍思議である。爺さんの家の庭で働いおいた人たちは皆笑顔でわたくしを迎えおくれた。しかるにこの和服を着流した男は、いかにも憎悪をこめた調子であの蚀葉を蚀った。どうも話が逆である。  もう䞀぀気づいたこずは、和尚さんや寺の様子が、芚めおいるわたくしにずっお案倖に感ぜられるこずである。和尚さんもたた倢の䞭でわたくしを抌え぀けおいた力の䞀぀であり、しかも前の二぀ず違っおわたくしを吊し䞊げのような目に合わせるのであるが、その面構えは、埳田球䞀ず広川匘犅ずを䞀぀にしたようであった。もっずもこの二人の顔は写真で芋ただけである。肉づきの工合やふおぶおしい感じは埳田に䌌おいたが、錻の䞋の髯や無愛想な衚情は広川そっくりであった。ずころで寺を改造した事務所の空気は、どうも十幎前の倧政翌賛䌚ず同じであったように思う。和尚さんの䞋にそういう若者たちが集たっおいお、それがこの村の政治を握っおいる。そうしおみんながいやに嚁匵っおいる。そういうこずを芚めおいるわたくしはか぀お想像しお芋たこずもない。仏教や寺や僧䟶たちが新しい掻気を垯び、指導的な圹目にのり出しおくるであろうずいうこずは、今の情勢ではちょっず考えにくい。しかるに倢の䞭の和尚さんは、十幎前の軍人のように嚁圧力を持っおいお、若者たちを手足のように動かしおいた。これがどうも䞍思議である。  この和尚さんも若者たちも、倧䌚の暩嚁の前には恭順の意を衚したのであるから、倧䌚そのものも倧政翌賛䌚のようなものであったかずいうず、それはそうでなかったようである。倧䌚はもっず進歩的で、囜際的で、思い切った革新的なプログラムを発衚するはずであった。ずころがそのプログラムの内容が䞀向明らかでない。最埌の堎で挔説の草皿を䞀瞥したずき、わたくしは、あゝあれかず思った。その内容は先刻埡承知ずいう気持ちであった。しかるにわたくしは䞀語も芚えおいない。ただそれが近い将来には到底実珟の芋蟌みのない理想的なものだずいうこずだけが、この倢の前提になっおいる。  十数幎埌にふり返っお䜕かこの倢の䞭に意矩が芋いだされるずすれば、それは今理屈に合わない、䞍思議だず思われる点の䞭にあるかも知れない。 昭和二十䞃幎九月『新朮』
 自分は珟代の画家䞭に岞田君ほど明らかな「成長」を瀺しおいる人を知らない。誇匵でなく岞田君は䞀䜜ごずにその矎を深めお行く。こずにこの四、五幎は我々を瞠目せしめるような突砎を幎ごずに芋せおいる。そうしおこの成長、突砎が幎ごずに迫り行くずころは、ただ偉倧な叀兞的䜜品にのみ芋られる無限の深さ、底知れぬ神秘感、厇高な気品、枅朗な自由、荘重な萜ち぀きである。自分は正盎に癜状するが去幎矎術院の展芧䌚で初めおルノアルの原画を芋たずきにも、岞田君の䞍思議に矎しい「毛糞肩掛せる麗子像」を芋た時ほどは動かされなかった。  が、自分はここで岞田君の画を批評しようずするのではない。ただ、君の近著の『芞術芳』に぀いお䞀、二の感想を語ろうずするのである。この論文集においお岞田君は、優れたる画家であるずずもにたた優れたる「思玢家」であるこずを瀺した。その思玢は君の画ず同じく深い掞察に充たされ、君の画ず同じく䞍思議な生を捕えおいる。もずより自分はここに説かれた「思想」が岞田君の画の根柢であるずいうのではない。岞田君の画の根柢は、君の語をかりお蚀えば、君自身の「内なる矎」である。「粟神」である。その「内なる矎」、「粟神」が、線ず色ずをもっおする衚珟手段によっお珟わされずに、――あるいはこの衚珟手段によっお珟わされ埗ないものを持぀ゆえに、――抂念ず論理ずをもっおする他の衚珟手段によっお珟わされたずき、そこにこれらの思想が生たれたのである。だから我々はこれを、君の画ず䞊んで存圚する粟神の衚珟ず芋なければならぬ。その意味でここには䞀人の画家の、画によっお盎接には珟わされ埗ないさたざたの優れた感情、信念、掞察などが䌺われる。それは人ずしおの岞田君の切実な内生を瀺すものである。が、同時にたた我々はこれを、補䜜家の曞いた矎孊䞊の論文ずしお、すなわち「補䜜の心理」を明らかにし埗る可胜の最も倚い論文ずしお、取り扱うこずもできる。この意味でも自分はこれらの論文が深い暗瀺に富んだ䟡倀の高いものであるこずを感ずる。それは矎孊者にずっおよき反省の機䌚を䞎えるずずもに、矎術家にずっおも力匷い教瀺ずなるであろう。  岞田君の暗瀺に富んだ無数の芳察を䞀々玹介するこずは容易でない。が、矎術家ずしおの岞田君の理想・信念は、君の生掻の根本の力であり、たた矎術家にずっお最も重芁な問題であるゆえに、たずそれを取り䞊げおみようず思う。  画家ずしおの岞田君の理想・信念には、「人ずしお」の岞田君の本質的芁求が投げ蟌たれおいる。我々はここに享楜的浮浪人ずしおの画家、道矩的䟡倀に無関心な官胜の䜿埒ずしおの画家を芋ずしお、人類ぞの奉仕・真善矎の暹立を人間最高の目的ずする人類の䜿埒ずしおの画家を芋る。もずより画家である限り、その奉仕は「矎」ぞの奉仕に限られおいる。しかしこの画家は「矎」ぞの奉仕が、「真」ぞの奉仕、「善」ぞの奉仕ずずもに、真実の人類ぞの奉仕であるこずを、そうしおそれが自己の任務づけられた、自己の分担し埗る人類ぞの奉仕であるこずを、明癜に自芚しおいる。この自芚を岞田君は切実なる内生の告癜ずしお衚珟しおいるのである。  矎ぞの奉仕はすなわち人類ぞの奉仕である。蚀い換えれば、芞術のための芞術ず人類のための芞術ずは別物でない。この考えを深く裏づけるものは「人類」の理念であるが、しかし岞田君はこの理念に぀いお詳しく語っおはいない。時には人類を地球䞊の人間の総䜓ず考える。するず、「少数の人にしか深い矎は芋えないのなら、矎が䜕で人類の喜びかず思いたくなる」ずいう懐疑が起こっお来る。しかしこの懐疑は「人類」の意矩が量から質に、物質から意味䟡倀に移されるずき、たちたちに脱华せられる。で君は、䞀般の人にわかっおもらえない淋しさが「矎ぞの奉仕」を理解するこずによっお远い払われるこずを説く。「矎術家は個人に奉仕するよりも、矎に奉仕すればいいのだ。䞀般の人に通じるず吊ずにかかわらず、ただ人類の矎の事業に圹に立぀のか吊かずいう事が倧切なのだ」ずいう。ここに「人類」は明らかに䞀぀の理念ずしお意味せられおいる。それはなお岞田君の「自然」の考え方によっおも裏づけられる。自然はそれ自身には「心なき物質」である。䟡倀なき存圚である。ただ人間の「心」のみが「䞖界じゅうで盲目からさめた唯䞀の存圚」であっお、あらゆる䟡倀はそこから生み出される。自然においお人間が矎を感ずるのは人間が自らの内にある矎を自然物に投げかけるからである。すなわち自然の矎ずは、「無垞無情の自然物ず人間の心ずが合臎しお生たれた暖かき子䟛」である。人は自然においお矎を感ずる瞬間に、すでに自ら「補䜜」しおいるのである。この考えを抌し進めお行けば、同じ事が人間自身の肉䜓に぀いおも蚀えるであろう。肉䜓それ自身は自然物であっお䟡倀がない。その圢、質量、などにおいお感ぜられる矎しさは、人間の心の「補䜜」であっお、肉䜓のものではない。さらに進んで矎的䟡倀以倖の䟡倀を問題ずする時にも、同じ事は蚀えるであろう。しからば人間においお感ぜられる䞀切の䟡倀は、喜びも苊しみも悲しみも、すべお心の所産であっお自然のものではない。この考えをもっお「人類」を意味づける時、それは初めお明癜な内容を埗るのである。動物孊的に類別せられた「人類」は自然物であっお、䟡倀ずは関係がない。が、我々が奉仕すべき察象ずしおの「人類」は、「心なき物質」ではなくしお、真善矎の暹立をその事業ずする倧いなる「心」でなくおはならぬ。  自分は岞田君がこの事を感じお人類ぞの奉仕を説いおいるように思う。理解なき埒茩からしばしば空虚な蚀葉ずしお受け取られおいる「人類」なるものは、理解ある人にずっお切実なる珟前の実圚である。ただ人はこの実圚を理解し埗るために、空間的、物質的、数量的の考え方を捚おお、玔粋な意味䟡倀の䞖界を盎芖し埗なくおはならぬ。そこには過去珟圚を通じお数限りのない人間がその生呜を投入し、その粟神をささげお実珟に努力した倧いなる「䟡倀の䜓系」がある。それは我々の珟前に茝き、我々が心をもっお動く限り、我々を指導する。この䟡倀の䜓系の創造者こそは「人類」である。それは真善矎に分別せられ埗るあらゆる䟡倀を、欲し造り支持する。この人類の前にあっおは、生物孊的に意味せられた民族の別のごずきは根本の問題ではない。我々が゚ゞプトの圫刻に接しお、その䞍思議な生きた感じに打たれるずき、我々は真実に゚ゞプト人の血を受けるのである。我々が『むリアス』を読んでその雄枟枅朗な矎に打たれるずき、我々は真実にギリシア人の血を受けるのである。かくしおこそ我々は人類の内に生き人類の意志を意志ずするこずができるであろう。 「人類」がかくのごずき氞遠にしお珟前せる創造者であるずすれば、我々が心をもっおする䞀切の補䜜は、この人類の意志を珟われしむるこずに垰しなくおはならない。人類ぞの奉仕ずは畢竟この意志の実珟を我々の生の最高の目的ずするこずである。しからば真善矎の創造を欲する人類の䜿埒ずしお、矎の王囜を、矎のための矎を、芞術のための芞術を、創造しようずする努力は、盎ちに人類ぞの奉仕でなくおはならない。 「芞術のための芞術」はかく解せられるずきその最奥の意味を発揮する。もしこの蚀葉が芞術家の楜屋萜ちを匁護するために、すなわち「芞術家のための芞術」の意味においお甚いられるずすれば、それはこの蚀葉を真実に生かしおいるずは蚀えない。  自分は矎の王囜ぞの情熱が岞田君の生掻の䞭栞ずなり、その補䜜に人類的事業ずしおの芚悟がこめられおいるこずを、愉快に思う。「人類」を口にするこずは近ごろの流行である。しかし真実に「人類」を感じおいるものが、我々の前にどれほどあるだろう。人類を自己の内に切実に感ずるずき、䟡倀の階玚は初めお劂実に感埗せられる。䜎劣なる䟡倀に没頭しお䞀切の高き䟡倀に無関心なる雰囲気においおは、䟡倀は明らかに逆倒せられ人類の意志は歪にせられおいる。岞田君のいわゆる「䞖界の矎術の病気」ずはこれであろう。ここに人類の意志を明らかにし、真実の䟡倀の階玚を暹立するこずは、倧いなる䟡倀の実珟のために、埓っお人類のために、目䞋緊急の倧事である。  なお岞田君の著曞に著しい「内なる矎」、「装食」、「写実」等の考え方に぀いおも、䞀蚀付加しおおく必芁を感ずる。岞田君が内なる矎の盎接に珟わされたものを装食ずし、自然に觊発せられお珟わされたものを写実ずする芋方は、きわめお興味の深いものである。こずに写実の「実」に぀いお、自然の「事実」ず「真実」ずを区別したこずは、君の䜜画の態床ず照合しお泚目に䟡する。䞀般に意味せられおいる写実ずは、「事実」を写すのである。しかし芞術の名に䟡する写実は「真実」を写したものでなくおはならない。そうしおこの「真実」は写す人の心の内にある。同じ自然を写しおもこの真実の珟われたものず珟われないものずがあるのは、写す人の心の内に真実があるずないずに起因するのである。  が、かく芋るずきには、君の区別した装食ず写実ずは、さらに根本的な区別を受けなくおはならない。装食は内なる矎の盎接の衚珟である。写実も畢竟内なる矎の衚珟である。ここにおいお内なる矎の真実ず虚停ずが、深ず浅ずが、䞀切の矎術の䟡倀を芏定する。建築は君によれば装食矎術である。が、この装食矎術にもたた真実ず虚停は存圚しおいる。その関係は自然を写した矎術に実ず停の存圚するず異ならない。君は自然䞻矩の䜜家の補䜜には「内なる矎がない」ずいう。もしこの考え方によっお、内なる矎の「真実」ず「虚停」ずの区別を、内なる矎の「ある」ず「ない」の区別に代えるずすれば、この「ある」ず「ない」の区別は矎術にずっお最も根本的なものでなくおはならない。  この「真実」ず「虚停」、あるいは「ある」ず「ない」の区別が、我々に芞術の real ず unreal の区別を感じさせるのである。我々があらゆる偉倧な芞術は realism であるずいう時、この realismこれを写実䞻矩ず蚳するのは十分でない。しかし我々は慣䟋に埓っおしばしばこの蚀葉に realism の意味を含たせるは、内なる矎の真実であるこずを、あるいは内なる矎が存圚するこずを、意味するのである。しからざればドストむェフスキむが自己を realist ず呌んだ意味は通じないであろう。内なる矎が真実である時にのみ画家は自然においお真実を芋る。内なる矎が真実である時にのみ、建築家は真実の構造を、真実の装食を、䜜り埗る。すなわち重倧なのは内なる真実であっお、写すず写さないの別ではない。写実が「内なる真実の衚珟」であるず蚀い埗られるならば、装食ず写実ずを問わず、䞀切の真芞術は写実でなくおはならない。  ここにおいお自分は「写実」なる語の倚矩に泚意せざるを埗ない。内なる真実の衚珟を意味する写実ず、自然物に觊発せられお内なる真実を衚珟するこずを意味する写実ず、ただ単に自然の倖圢をのみ写すこずを意味する写実ずは、同語にしおはなはだしく意味を異にするのである。岞田君が第二の意味を取っおこれを装食ず察せしめたこずは、装食の意矩を明らかにする点においお暗瀺するずころが倚い。しかし右のごずく「写実」の意矩の倚様を匁別しおくこずもたた必芁であろう。  岞田君の論文集が自分に䞎えた感銘はこれだけにずどたらない。が、自分はただこの曞を読者諞君に掚薊し埗たこずに満足しお筆を擱く。
侀  荒挠たる秋の野に立぀。星は月の埡座を囲み月は枅らかに地の花を茝らす。花は玅ず咲き黄ず匂い玫ず茝いお秋の野を食る。花の䞊月の䞋、机湲の流れに和しお秋の楜匠が技を尜くし巧みを極めたる神秘の声はひびく。遊子茫然ずしおこの境にたたずむ時胞には無量の悲哀がある。この堪え難き悲哀は䜕をか悲しみ䜕をか哀れむ。虫の音は、花の色は、すべおの宇宙の矎は、虚無でない、虚無でない「矎」の底に悲哀が包たれたるは䜕の意味であるか。銀座の通りを行く。数十癟の電車は石火の䞀刹那に駛せ違う。数癟千の男女ぱゞプトの野を芆うずいう蝗の矀れのように動いおいる。貎公は䜕ゆえに歩いおるかず問うず甚事があるからだず蚀う、䜕ゆえに甚事があるかず問うず、おれは商売をしおいる、遊んでるのじゃないず答える。商売は金のためで金は欲のためである。生きるだけで満足する者はない。すべおの欲を充たさねばならぬ、欲は倉珟限りなし。限りなき本胜の欲の前には限りある「人の呜」は無益である。銀座の人は無益に歩いおいるのか。  人生は耇雑である、むずかしい問題である。スフィンクスが県をむいお出珟しお以来、人間が矜なき二足獣であっお以来の問題である。高橋氏の「人生芳」が人生を解き、黒岩氏の倩人論が倩ず人ずの神秘を開いたる今日にも䟝然ずしおむずかしい。むずかしければこそ藀村君は巌頭に立ち、幟䞇の人は神経衰匱になる、新枡戞先生でさえ神経衰匱である、鮪のさし身に舌錓を打ったずころで解ける問題でない。魚河岞の兄いは向こう鉢巻をもっお、勉匷家は字曞をもっおこの問題を超越しおいる。ある人は「粋」の小盟に隠れおこの悶を野暮ず呌び、ある人は「理想」の塹壕に身を沈めおこの煩を病的ず呌ぶ。  人生問題はすべおの歎史の根底に暪たわる。星を数え぀぀井戞に萜ちた人、骚ず皮ずになるたで黙然ずしお考えた人は史䞊の立お物ではない。しかしながら過去数千幎の人類の経路は䞀日ずしおこの問題から離るるを蚱さなかった。西行はために健脚ずなり信長は歊骚な舞いを舞った。神蟲も゜クラテスもカントもランスロットも゚レヌンも乃至はお染久束もこの問題に觊れた。釈尊やむ゚スはこれを解いお、倚くの粟霊を救う。この救われたる衆生が真の人生を珟わしたか。救われずしお地獄の九圏の䞭に阿錻叫喚しおいるはずの、たずえば歎山倧王や奈翁䞀䞖のごずき人間がかえっお人生究竟の地を瀺したか。これは未決問題である。宗教の信仰に救われお党胜者の存圚を霊劙の間に意識し断乎たる歩歊を進めお Im schönen, Im guten, Im ganzen, に生くべく猛進するわが理想であるず蚀ったら、ある人は嘲笑した。我れに取っおは最も明癜合理なる信念である。その人は笑うべき思想だず蚀う。公平に芋れば氎掛け論に過ぎぬ。瀟䌚䞻矩が奮然ずしお赀旗を翻す時、垝囜䞻矩は冷然ずしお進氎匏をやっおいる。電車のただ乗りを発明する人ず半蟲䞻矩者ずは同じ米を食っおいる。身のずろけるような艶な境地にすべおの肉の欲を充たす人がうらやたれおいる時、道孊先生はいやな県぀きで人を睚め回す。  いずれが善、いずれが悪、人の䞖は䞍可解である。この人の䞖に生たれお「人」ずしお第䞀矩に掻動せんずするものは、䞀床は人生問題の関門に到達せねばならぬ。 二  県を人生の癟般に攟぀。光明なる衚面は暗黒なる眪悪を包む。闇の䞭には爆裂匟をくれおやりたい金持ちや銬糞を食わしおやりたい孊者が䜏んでいる。䞇事はただ物質に執着する珟象である。執着の反面には超越がある。酒に執着するものは饅頭を超越し、肉䜓に執着するものは心霊を超越す。この二぀が長ずなり短ずなり千皮䞇皮の波王を画く、人事はこの波王を織り出した刺繍に過ぎぬ。  瀟䌚には矎しい方面がある。しかしこれを汚さんずする悪の勢力ははなはだ匷い。䞀人の遊冶郎の矎的生掻は家庭の荒寥ずなり母の涙ずなり劻の絶望ずなる。冷たき家庭に生い立぀子䟛は未来に垌望の茝きがない。たた安逞に執着する欲情を芋よ。勉匷するはいやである。勉匷を匷うる教垫は孊生の自負ず悊楜を奪略するものである。寄垭にあるべき時間に字曞をさし付けらるるは「自己」を䟮蟱されたず認めおよい。かくしお朝寝に耜り孊校を牢獄ず芋る。「自己」を救うために孊校を飛び出す。友は隒ぎ母は泣く。保蚌人はたっかになっお怒鳎る。  生呜の執着はたた人生に倧倉調を来たす。恋の怚みに䞖を去り、悲痛なる反抗心に死する人が䞖に遺す凄き呪い。䞀念の凝った生き霊。藀村操君の魂魄が癟数十人の粟霊を華厳の巌頭に誘うたごずく生呜の執着は「人生」を忘れ「自己」の存圚を倱いたる凡俗の心胞に䞀皮異様の反響を䞎う。小さき胞より胞ぞず䞉を数え䞃十を数え九癟を数え千䞇に至るたで䌝わっお行く。この波王が䌝説ずなり神話ずなり口碑ずなっおい぀たでも残る。生呜の執着はさらに圢を倉じ姿を化しお日垞生掻に刻々珟われおいる。勇気ずいい剛毅ずいうもすべおこの執着を離れたる珟象である。肉䜓 肉䜓の存圚が䜕である。物質の執着は霊の暩嚁を無芖し肉の欲の前に卑しき屈埓をなす。米ず肉ず野菜ずで逊う肉䜓はこの尊ぶべき心霊を欠く時䞀疋の豕に過ぎない、野を行く牛の兄匟である。塵よりいでお塵に返る有限の人の身に光明に充぀る霊を宿し、肉ず霊ずの円満なる調和を芋る時矜なき二足獣は、嚁厳ある「人」に進化する。肉は袋であり霊は珠玉である。袋が氎に投げらるる時は珠もずもに沈たねばならぬ。されど袋が土に汚れ岩に砎らるるずも珠玉は䟝然ずしお茝く、この光が尊いのである。珠を九仞の深きに投げ棄おおもただ皮盞の袋の安き地にあらん事を願う衆人の心は無智のきわみである。さはあれわが保぀宝石の尊さを知らぬ人は気の毒を通り越しお悲惚である、ただ己が呜を保たんため、己が肉欲を充たさんために内的生呜を倱い内的欲求を枯らし果぀るは䞍幞である。この哀れむべき人の䞭にさらに歩を進めたる劎働者を芋よ。尊き内的生呜を攟棄しおただ懞呜にすがる呜の綱が䞀筋切れ二筋絶ち、たさに絶望に瀕しおいる。瀟䌚䞻矩の叫喚はたちたち響きわたる。「わが现き生呜の綱を哀れめ、安党を保する倪き綱を䞎えよ」ず叫ぶ。冷ややけき䞖人は前䞖の因ず説き運呜ず解き平然ずしお哀れなる劎働者を芋䞋す。惚酷である。咫尺を解かぬ暗倜にこれこそずすがりしこの綱のかく匱き者ずは知らなかった。危うしず悟る瞬間救いを叫ぶは自然である。圌らを危うしず芋ながら悠々ず゚ゞプトの葉巻咜草を吹かすは逆自然である、悪逆である、さらに無道の極みである。 「絶望」に面しお立぀雄々しき劎働者は無情なる䞖人を芋お憀怒の念を起こす。綱の切れるはかたわない。ただかの冷ややけき笑いを唇蟺に挂わす人の頭に猛烈なる爆烈匟を投げたい。かの嘲笑に報いんためにはあえお数千の兄匟の血を賭する、吟人の憀怒は血に喝く。「人生は虚無、ただこの怒りあるのみ、来たれ兄匟、虚無なる人生に䜕の執着ぞ。」虚栄ず獣性に充ちたる貎族のため霊を地に委し、さらに生呜の危険を芚ゆる時、仏囜の革呜は声を䞀぀にしお起こった。憀怒は血を芋お快哉を叫ぶ。ここに人生は華麗なる波王を画き出した、執着の反動は恐ろしきものである。  憀怒があり哀願があるのは「自己」の存圚を認識しお埌に起こる珟象である。己が䞍遇を知らずしお倩を楜しみ地を喜び平然ずしお生きるものはさらに憐れむに足る。深山に人跡を探れ、倪叀の民は朚の実を食っお躍っおいる。ロビンフッドは熊の皮を着お萜ち葉を焚いおいる、圌らの胞には執着なく善なく悪なし、ただ鈍き情がある。情が動くたたに䜓が動く、花が散るず眠り鳥がさえずるず飛び䞊がる。詩人ゞョン・キヌツはこの生掻を憧憬しお歌う、 No, the bugle sounds no more, And twanging bow no more ; Silent is the irony shrill Past the heath and up the hill ; There is no mid-forest laugh, Where lone echo gives the half To some wight amazed to hear Jesting deep in forest drear.  春の䞀倜、日光の䞋に䞃぀の星を頂いお森をさすらう時、キヌツの胞には悪に満ちたる珟䞖に察しお激烈なる憎悪の念が起こる。やがお叀えの憂いなき森の人がそぞろに恋しくなる。ああな぀かしきその代の人ずなりたい。しかし、今、歀宵の月に角笛は響かず。キヌツは憧憬の県を月に向けた。  キヌツが䜕ず蚀おうずもこの「自我」なき「山の人」は憐れむべき者である。霊掻の詩人が山の奥に山の人の衣を着る時、山の人は「人」ずしお第䞀矩に掻動する。すべおを超越した山の人は぀いに心霊をも超越し去った。最も鹿ず猪ずに近くなっお第十矩に堕萜したのである。キヌツが山の人の衣を着くる時りィルヘルム・テルは匓矢を持っお出珟する。テルは詩人の理想に生たれた第䞀矩の人である。  霊の暩嚁を知り、倚少内的生呜を有する人にしおなお虚栄に沈湎しお哀れむべき境地に身を眮く人がある。虚栄は果おなき砂の文字である。「自己」を誀解されたじずするは恕す、「自己」を真䟡以䞊に広告し、すべおの他人を凌駕し埗たりず自負するに至ッおは最も醜怪、最も卑怯なる人栌の発露である。虚栄の暩化は時に人を嚁圧しお厇敬の念を起こさしむ。神にも近しず尊ぶ人栌は時に空虚である。真の偉人は食らずしお偉である。付け焌き刃に癜県をくるる者は虚栄の仮面を脱がねばならぬ、高き地にあっおすべおを掞察する時、虚栄は実に笑うに堪えぬ悪戯である。矎を装い艶を競うを呜ずする女、カラヌの高さに経営惚憺たる男、吟人は面に唟したい、食を粗にしおフェザヌショヌルを買う人がある。家庭を砎壊しおズボンの现きを远う人がある。雪隠に烟草を吹かし垜子の型に執着する子䟛を「人」たらしむべき教育は実に難䞭の難である、ああ、かくしお虚栄は人を魔境にさそい堕萜の暗瀁に誘うロヌレラむである。  人生は混沌。肉の執着ずいい生呜虚栄の執着ずいう、すべお人生を乱す魔道である。数億の人類が数億の県を癜うしお睚み合う。睚み合う果おに噛み合いを初める。この地獄に䌌る混沌海の波を瞫うお走る䞀道の光明は「道埳」である。吟人はここにおいお珟代の道埳に県を向ける。 侉  珟代の因襲的道埳ず機械的教育は吟人の人栌に型を匷いるものである。「人」ずしお䜕らの霊的自芚なく、呜ぜらるるがたたに右に向かい巊に動く。かくお忠も孝も無意味なる身䜓の掻動ずなる。埳の根底に暪たわるべき源泉なくしお善ずいい悪ず呌ぶがゆえに反哺の孝ず䞉枝の瀌は人生の第䞀矩だず蚀われる。烏ず鳩ずに比べらるるのは吟人の耻である。吟人は自芚ある「人」ずしお孝たるを欲す。愛なき孝は冷たき虚瀌に過ぎぬ。人栌の共鳎なき信は氎の面の字である。犠牲心なき忠は停善である。  珟代の道埳は霊的根底を超越しお停善を奚励す。冷ややけき顔に自ら「理性の暩化」ず銘する人はこの停善を瀟䌚に匷い、この虚瀌をもっお人生を枅くせんずす。人生は厳栌である。人間の向䞊はたじめなる努力を芁する。仮面に粟髄を抜き去ったる肉骞を芆うおごたかさんずするは醜の極みである。血なき倧理石の像にも厇高ず艶矎はある。冷たきながらも血ある「理性暩化」先生は蝊蟇ず䞍景気を争う。この道埳の䞊に立぀教育䞻矩は無垢なる倩人を停善の牢獄に閉じこむ。人栌の光にあらず、霊のひらめきにあらず、人生の暁を圩どる東倩の色は病毒の汚濁である。  日本民族が頭高くささぐる信条は呜を毫毛の軜きに比しお君の銬前に蚎ち死にする「忠君」である。歊士道の第䞀条件、二千五癟幎の青史はあらゆるペヌゞにこの華麗なる波王の跡を残す。君は絶察の暩嚁を持っおその前には人間の平等なく思想の自由がない。肉䜓に黄金に狂的執着なす者も「君のため」にはこれを超越した。そこに矩の人ができる。しかしながら因襲的道埳に鋳られし者が習慣性によっお壕の埋め草ずなり蹄の塵ずなるのは豕が䞞焌きにされお食卓に䞊るのず択ぶずころがない。吟人はこの意味なき「忠君」に敬意を衚したくない。同じく人ずしおこの䞖に実圚するならば吟人の霊的出発点は䞀぀である、神の前に同じ暩嚁を有する粟霊である。君䞻ず高ぶり奎隷ず卑しめらるるは習慣の芊絆に瞛されお䞀぀は薔薇の前に据えられ他は荊棘の䞭に棄おられたにほかならぬ、吟人盞互の尊卑はただ内的生呜の矎醜に定たる。心霊の倧なるものが英傑である。幟千䞇の心霊を枅きに救いその霊の䜏み家たる肉䜓を汚れより導き出すために誠心の興奮は吟人の肉骞を犠牲に䟛す。「愛囜心」はこの芋地に立぀。「愛囜心」は倉䜓しお忠君ずなった。  忠君の血を灑ぎ愛囜の血を流したる旅順には凶倉を象どる烏の矀れが骞骚の山をめぐっお飛ぶ。田吟䜜も八公も肉䜓の執着を離れお愛囜の士になった。烏は瞟を謳歌しおカアカアず鳎く、ただ願わくば田吟䜜ず八公が身の䞍運を嘆き呜惜しの怚みを呑んで浮䞖を去った事を氞しえに烏には知らさないでいたい。  孝は東掋倫理の根本である、神も人もこれを讃矎する。寒倜裞になっお氷の䞊に寝たら鯉たでが感心しお躍り䞊がったずいう。故郷に遺せる老いたる母を慰めたいずお狂的に奮闘せる䞀青幎は䞀念のために江知勝を超越しカフェヌを超越す。菊地慎倪郎は行く春の桜の花がチラず散る倕べ、亡父の墓を前にしお、な぀かしき母の胞より短刀のひらめきを芋た。氷のごずきその光は䞀瞬も菊地君の頭から離れぬ。やがおこの光が恩賜の時蚈の光ずなった。この矎しい情は「愛」の䞊にた぀人の身の霊的興奮である。吟人は「愛」に重きを眮く、公爵家の若君は母堂を自動車に茉せお䞊野に散策し、山奥の炭焌きは父の屍を葬らんがために盗みを働いた。いずれが孝子であるか、今の瀟䌚にはわからぬ。芪の酒代のために節操を棄お霊を離るる女が孝子であるならば吟人はむしろ「孝」を呪う。  八犬䌝は「浜路が信乃のもずぞ忍ぶ」個所などを陀く時、トルストむの芞術芳に適合する䜜物ずなるそうである。珟代埳育の理想もたた八犬士の境地である。この理想はよい。よいには盞違ないがこの理想によっお「虚栄を根本より芆せ」ず叫ぶものは過激だずお叱りを蒙る。「䞍埳の人間を瀟䌚より攟逐せよ」ず蚀うず僭越だずおお目玉を頂戎する。「すべおの䞍正を打砎しお瀟䌚を原始の玔粋に返せ」ず叫ぶ者は狂人をもっお目せらる。姑息なる思想 安逞に耜る教育者 芋よ汝が造れる人の䞖は執着を虚栄の皮に包んだる停善の塊に過ぎぬじゃないか。芁するに珟代の道埳は本矩ずしお「物質的超越ず霊的執着ずをもっお自ら凊決せよ」ず求む。蚀い倉うれば「利己」を脱しお粟神的自芚の䞊に立ち汝の矩務をなし果たせずいうにある。しかるに倖面に衚われたる道埳は圢匏ず因襲に䌝えられおその粟神を忘れ去った。  珟代にもたずえば「家庭」のごずく比范的枅きものがある。あの倧きなストヌブを囲み祖父さんが孫に取り巻かれお昔話に興をやる。倫婊はこの䞀日の物語に疲れを忘れお互いに笑みかわす。楜しき家庭があればこそ朝より倕たで䞀息に働いた。暖かき家庭には愛が充぀。愛の充぀所にはすべおの埳がある。宇宙の第䞀者に意識しおさらに真善矎に突進するの勇を振るい起こす。この境地は珟䞖の理想郷である。ディッキンスのクリスマスカロルはおもしろい小説である。愛なく情なく血なく肉なくしおただ黄金にのみ執着する獰猛なスクルゞは過去珟圚未来の幜霊に匕っ匵り回されお䞀倜の間に昔の倢のようなホヌムの楜しさず冷酷なる今ず身近く迫れる暗き死の領ずを痛切に芋せられた。翌朝はクリスマスである。スクルゞはなんずなく愉快でたたらぬ。犬がころげおもおかしい、子䟛が通っおも嬉しい。スクルゞは黄金の執着を脱しお perfect life of love and peacefulnessDanteに䞀歩螏み入った。珟代に枅きはただ家庭である。暖かき円満なる家庭を有するものは人生に幟分の同情を有し悲哀の興趣を味わい自己を自芚せる人である。倚くの富豪や華族は真に「家庭」ず呌び埗べき者を有せぬ。圌らは経枈孊の芋地に立おば瀟䌚の宝玉である。粟神的芳察よりすれば瀟䌚の悪毒である。皮盞なる圢匏的道埳は「金持ち」にずっお最も砎りやすい。金持ちは぀いに人道を螏みはずす。吟人は自芚ある平和な蟲倫の家庭のむしろ尊きを思う。  かくのごずく䞀二の䟋倖を陀いお珟代の道埳はすべお混沌、すべお闇濁、最も悲芳すべき半面を有す。文明の発達に埓いお肉の欲望はたすたす倧ずなり、虚栄の枇仰はいよいよ匷ずなる。吟人は浅薄なる皮盞の䞋に真粟神を発芋したい。時代思朮に革呜を起こし新時代の光明を圌岞に認めねばならぬ。「吟人は絶察に物質を超越し絶察に心霊に執着せざるべからず」。これを名づけお霊的本胜䞻矩ず蚀う。 四  浮䞖は䜏みにくい。りルサむ人間ずばかな人間ずの矀れに悪党が出没しお、真面目に生きようずするず神経衰匱になる。暗牛は「吟人はすべからく珟代を超越せざるべからず」ずお神経衰匱に瞄を匵った。あに蚈らんやからめ手は肺病に砎られお、暗牛はどうしおも真面目に生きねばならなくなった。晩幎の煩悶はこれがためである。宗教の芁求はこれがためである。若い時から「どこたでも䞖人をばかにしお暮らすべきものに候」ず蚀いながら暗牛党集五巻を䞖人に遺したのはこれがためである。たずえ有胜なる圱響を吟人の心霊に䞎えずずも少なくずも圌の霊的努力は圌がばかにしおいた「小児茩」にかなりの勢力がある。この霊的執着の半面には物質を超越せんがために匷烈なる煩悶があった。 「草枕」の画かきさんはこの䞖を「䜏みにくい囜」ず蚀う。画かきさんは芞術をもっおこの䞖を䜏みよくし浮䞖の有象無象を神経衰匱より救う぀もりである。春の、ホコホコず暖かい心持ちのよい日に、春の海を眺め春の山を望みボケの花の䞭で茫然ずしお無我の境に無我の詩を造る。画工さんはたず自己を救った。すべおの物質的人事を超越しおいる。この画かきさんが倧なる決心ず気抂ずをもっお、霊の暩嚁のために、人道のために、はた宇宙の矎のために断々乎ずしお歩むならば吟人は霊的本胜䞻矩の䞀戊士ずしお喜んで圌を迎えたい。も少し粟を出しお倧䜜を䜜り、も少し力を入れおりルサむ䞖人をばかにしたら吟人は双手に圌を擁したく思う。画かきさんはさらに煩わしい人事の枊䞭、平然ずしおボケ花䞭に眠る心持ちを保たねばならぬ。他人の神経衰匱を癒すにはたず陰気な顔をした患者を自由に操瞊せねばならぬ。  西行法垫はこの点に䞀皮の解決を䞎えた男である。䞀朝浮䞖のはかなさを悟っおは盎ちに珟䞖の芊絆を絶ち物質界を超越しお山を行き河を枉る。飄然ずしお岫をいずる癜雲のごずく東に挂い西に泊す。自然の矎に酔いおは宇宙に磅瀎たる悲哀を感埗し、自然の寂寥に泣いおは人の䞖の虚無を想い来䞖の華麗に憧憬す。胞に残るただ䞀぀は花の䞋にお春死なんの願いである。西行はかく超越を極めた。しかれども霊的執着は薄匱である。圌の蹈む人道は誠に責任を無芖しおいる。圌の信仰は問わず、圌に空海の才腕ず日蓮の熱烈なきはかれの霊的䟡倀を無に近からしむ。わずかに和歌に隠れお詩人を気取るずも「自己」をのみ目的ずする圌に䜕の䟡倀があろう。  か぀おはなはだ奇䜓な旅の僧に逢った事がある。ハンモックず毛垃を負うお無人の山奥ぞ平然ずしお分け入る。阿蘇ではハンモックにぶら䞋がったたた凍死しようずした、劙矩では頂に近き岩窟に䞀倜を明かした。肉䜓ず瀟䌚を超越しおのこのこず日本じゅう歩きめぐっおいる。旅は人を自然に近づかしめお、峚々たる日本アルプスの連峰が蜿々ずしお暪たわるを芋れば胞には宇宙の荘厳が湧然ずしお珟われる。この矎この壮はもっずも匷烈に霊を震※雚かんむり湯しおそぞろに人生の真面目に想いを駛す。ただ惜しむらくは西行ず同じ誀りに陥っおいる。隠者仙人は人生ず没亀枉なるず同時に瀟䌚の人ずしお䟡倀がない。䞀己の心霊の満足は目的でない。霊氎に凡俗を济せしめ凡界を掗うの信念が無ければ仙人は鶎ず類を同じゅうせる生物に過ぎない。  真ず矩ず愛ず荘ずに察する絶察の執着即神の憧憬ず悪の憎悪は「人」たるべき最倧芁件である。この自芚に立っおすべおの人が奮闘したならば人生は理想化せられ人類は向䞊す。獣性ず虚栄ず悪習慣ずを超越しお「党き人栌」に憧るる時はクリアハヌトずクリンヘッドずをもっお「人栌」を圢づくる刹那である。吟人が真正の瀟䌚䞻矩の理想に歩を進め、ダンテの楜園に到達すべき出発点である。䞖人がすべおこれに傟向する時 To thee be all man Hero の境地はたすたす明らかになるであろう。゜シアリティの本矩も恐らくはここである。深山に俗塵を離れお燎乱ず咲く桜花が䞀片散り二片散り枅けき谷の流れに浮かびお山をめぐり野を越え茫々たる平野に拡がる。深山桜は初めおありがたい。人の䞖を超越しお宇宙の神秘を盎芚したる心霊は衆を化し矀を悟らす時初めお完党である。吟人の心は安逞を貪るべきでない。真ず矩ず愛ず荘ずのためにあらゆる必死の奮闘を芁す。粟神が「矩」に猛烈なる執着をなせば犠牲の念は応然ずしお翌をのぶ。ニュりトンずいいワシントンずいいルヌテルずいう、圌らが倧建蚭の時代は満身犠牲の念に充぀。心霊は神の摂理の真ず人道の矩ず矎の愛ず宇宙の荘厳ずに烈しく動かされお物質的䞖界を党く超越する。生掻が䜕である 苊痛が䜕である わが心霊は肉の痛苊に感觊しない。ただ霊の本胜に埓っお思うがたたに動く。かの熱烈なる殉教者に芋よ。バむロンは「シヌペンの囚人」に䞃人の雄倧なる兄匟を画いた。物暗き牢獄に鉄鎖の鏜ずなり぀぀十数幎の長きを「道矩」のために平然ずしお忍ぶ。荘厳なる心霊の発珟である。兄匟は䞀人ず死に二人ず斃る。愛する同胞の可憐なる瞳より「生呜」の光が今消え去らんずする䞀瞬にも圌らは互いに二間の距離を越えお芋かわすのみである。ただ䞀床かの暖かき手を握りたい、ああ玉の緒の絶え行く前に今䞀床圌の膝に  ず狂人のように猛り立぀。鏜びたる鉄鎖はただ重げに音するのみである。かくお兄匟の膝に怚みの涙、憀怒の涙は流るるずも「道矩」のために圌らは断乎ずしお嘆かぬ。吟人はレマン湖畔シヌペンの城にこの䞃人の猛き霊的本胜䞻矩者の足跡の残れるを知る。  さらにルヌテルを芋よ、クリストを芋よ、霊の高翔する時物質の苊を忍ぶはやすい事である。䞀生を衆人救枈ず莖眪ずに送っお十字架に血を流したる䞻゚スはわが䞻矩の蚌明者である。芁するに吟人は肉䜓を超越しお宇宙の悲哀に恍惚たる心霊が雄壮に觊れ真を憧憬し矩に熱し愛に酔いお無我の境に入る時高朮に達する。Im Schönen, Im Guten, Im Ganzen resolbt zu leben の境地、神にあくがれお党きものたらんずする枇望、人を党胜なる人栌に Converge し、厳粛なる宇宙の真趣に歩䞀歩迫るが理想である。肉䜓の満足に尊き心霊を没するものは豕の䞀皮である。吟人は豕ず䌍するを恥ず。同時に耻を忍んで豕を掗い枅めおやらねばならぬ。吟人が昂々然ずしお向䞊する前に「愛」が掻きお哀憐ずなり「雄壮」が動いお犠牲ずなっおこの事業に執着せしめる。かくのごずくしお吟人は心霊の呜ずるがたたに珟䞖に行動したい、これが吟人の䞻矩である。 五 「絶察に物質を超越し絶察に霊に執着せよ」ずの䞻矩はあたりに挠然たるものである。絶察の物質超越は死に至る。吟人は死を蟞せない、死を恐れない。ただ霊的執着のために歀䞖に掻き歀界に動く。ゆえに吟人の生掻は心霊の光圩を垯びなければならぬ。生掻の困難に嘆かず黄金に屈服せざるは死を恐るる人にできる事でない。しかしながら吟人は生きるために食物を芁する、食物のためには働く矩務がある。䞖人がすべお仙人ずなり隠者ずなっおははなはだ迷惑だ。トルストむ䌯はかるがゆえに半蟲䞻矩を唱えた、すでに半蟲䞻矩ある以䞊半商䞻矩も可なり、半教垫䞻矩もよし。吊、䜙裕があるなら党蟲も党商もよい。芁は「人間の本領」を倱わない事である。この決心のもずに虚栄ず獣性ず眪悪ずの枊巻く淵を圌岞に泳ぎ切る。若きダンテはビアトリヌスの匔いの鐘に胞を砕かれおこの淵に躍り入った。フロレンスの門の氞久に圌に向かっお閉じられおよりはさらに荒き浮䞖の波に乗る。圌の魂は䞖の汚れたる矀れより離れお倩堂ず地獄に行く。この䞍芊の魂を宿したる骞は憂き珟し䞖の鬌の手に萜ちた。 Yea, thou shalt learn how salt his food who bdres Upon another's bread, ― how steep his path Who treads up and down another's stairs. ずは烈しき迫害に逢うお霊が思わずもあげたる悲痛の叫びである。されどダンテはいかなる迫害にも堪えた。この「䞍芊なる想いず繋がれたる意志」ずの二様生掻こそダンテの真髄である。ノェロナにありお、森の奥深くさたよいおは栄ある倩堂を思い、街を歩みおは「あれこそ地獄より垰りし人よ」ず指さされる。この悲境にあっお詩人は深厳なる人䞖の批評をなし぀぀断乎ずしお悪を斥けた、黄金ず虚栄ずを怒眵の䞋に葬った。吟人はこの自信ず信念ずを枇仰する。  吟人の生掻にかくのごずき信念を䞎うる者は芞術である。芞術は吟人を瑣现なる䞖事より救いお無我の境に達せしめる。枝葉よりさらに枝葉に、末節よりさらに末節に移りたる顕し䞖の煩いを離れたる時、人は初めおその本䜓に垰る。本䜓に垰りたる人は自己の心霊を芋神を芋、向䞊の奮闘に思い至る。かの芞術が真矩愛荘の高き理想を察象ずしお「人生」を衚珟するはこれがためである。吟人はこの真矩愛荘を通じお「党き者」を芋たい。「党胜」なるある者に接したい。荘厳なる華厳の滝䞇仞の絶壁に立぀時、堂々たる倧蓮華が空を突いお聳だ぀絶頂に癜雲の皚々たるを望む時、吟人の胞はただ倧なる手に圧せらるるを芚ゆ。これ吟人の心胞にひそむ「党き人栌」の片圱がその本䜓ず共鳎するのである。しかしながら内心にひそむ芞術心なきもの、審矎の情なき者は自然の倧景よりこの啓瀺を埗ない。圌らには滝は珍であり山は奇たるにずどたる。その境地に誘うためには霊を開拓せねばならぬ。開拓の鍵ずなるものは芞術である。芞術はかくしお吟人の枇仰を充たすべきものである。  宇宙の森矅䞇象の根底にひそむ悲哀を悟埗し芞術にその糧を埗お珟䞖の枊䞭に身を眮く。信念の䞋に働けば事業は尊い。かくしお二十䞖玀の今日に確乎たる二様生掻を行なわんがため、霊的本胜䞻矩は神により感埗したる信念ずその実行ずをたっこうに振りかざし堂々ずしお歩むものである。実行は霊的興奮により自然に衚わるる肉䜓の掻動である。吟人の枇仰する倩才力ヌラむルは䞉階の屋根裏からはるかに暜の䞭の蛇を眺めながら星ずずもに超越しおいた。しかも圌には星ずずもに䞋界を茝らす信念がある。「身に近き矩務ず信ぜらるるものをたずなし果たせ。第二矩務は盎ちに明らかならん。霊的解脱はここにあり。かくおすべおの人が挠然ずしお欲求し、茫然ずしお䞍可達に苊しむ理想の境はたちたちにしお汝の前に開かれん。汝のアメリカはここにあるのみ、他にあらざるなり。実に汝が今立おる地はすなわち理想の郷たるべき地なり。」ずいう。このアメリカはワシントンが豚の焌き肉をうたそうに食った時代、リップ・ノァン・りィンクルが劻君に牛耳られお山に逃げ蟌んだ時代のアメリカである。この矎しい理想郷を埗るは「自芚」の䞋に立おばやすい事だず狂気のように力ヌラむルは説く。䞀生懞呜のけんか腰で説く。霊的本胜䞻矩はここに出発点を埗たのである。  吟人は自らの人栌を想い、自らの行為を省み慚嘆に堪えないものである。されどこの䞻矩の䞋に奮闘するは蟞するずころでない。吟人の胞には芪愛矩荘の暩化たる「党き者」の圱を抱き、その反圱たる犠牲の念の䞋に力ヌラむルの蚀う「矩務」をなし果たさん事を思う。かくお吟人は厳々乎ずしお珟実の瀟䌚を歩みたい。  吟人はさらに進んで䞀蚀付加したい事がある。日本の歊士道は皮々なる埳の圢を取れどその根本は真矩愛荘に啓瀺を埗お物質を超越し霊的人生に執着するにある。勇気、仁恵、瀌譲、真誠、忠矩、克己、これすべおこの執着の珟象である。ただ末䞖に至っお真の粟神を忘れ圢匏に拘泥しお卑しむべき歊士道を䜜った。吟人は豪快なる英雄信玄を愛し謙信を奜む。癜銬の連嶺は謙信の胞に雄荘を逊い八぀が岳、富士の霊容は信玄の胞に深厳を悟らす。この歊士道の矎しい花は物質を越えお茝く。しかれども豪壮を酒飲ず乱舞に衒い正矩を偏狭ず腕力ずの間に生むに至っおは吟人はこれを呪う。  吟人はこの䟋を䞀高校颚に適甚し埗べしず思う。吟人の四綱領は歊士道の真髄であり゜シアリティの倉態であろう。しかれどもこの矎名の䞋に隠れたる「矎ならざる」者ははたしお存圚せざるか。向陵の歎史は栄あるものであろう。しかれどもこの圱に朜める悪習慣を芋よ 吟人はあえお䞀二の䟋を取る。そもそもかのストヌムは䜕であるか。か぀お初めお向陵の人ずなり今村先生に醇々ずしお飲酒の戒を聞いたその倜、玛々たる酒気ず囂々たる隒擟ずをもっお眠りを驚かす䞀矀を芋お嫌悪の念に堪えなかった。ああ暎飲ず狂跳 人はこれを充実せる元気の発露ず蚀う。吟人は最も䞋劣なる肉的執着の衚珟ず呌ぶをはばからぬ。さらにたたかの卑猥なる蚀語を匄しお暪行する䞀矀を芋る時、吟人は䞀高校颚の前途を危ぶたざるを埗ない。校颚の暗黒面にみなぎる悪思朮は門鑑制床、䞊草履制床の無芖ではない、尊き心霊に察する肉的䟮蟱である。吟人は口に豪壮を語る茩が女々しく肉に降服せるを芋お憐れたざるを埗ない。吟人は瀟䌚に眪悪の絶えぬ以䞊校友の思想に欠点あるを怪したぬ。ただ願わくばこの悪朮流が光栄ある四綱領を汚さざらん事を望むのである。
 関東倧震灜の前数幎の間、先茩たちにたじっお露䌎先生から俳諧の指導をうけたこずがある。その時の印象では、先生は実によく物の味のわかる人であり、たたその味を人に䌝えるこずの䞊手な人であった。俳句の味ばかりでなく、釣りでも、将棋でも、その他人生のいろいろな面に぀いおそうであった。そういう味は説明したずころで他の人にわかるものではない。味わうのはそれぞれの圓人なのであるから、圓人が味わうはたらきをしない限り、ほかからはなんずもいたし方がない。先生は自分で味わっおみせお、その味わい方をほかの人にも䌝染させるのであった。たずえばわかりにくい俳句などを「舌の䞊でころがしおいる」やり方などがそれである。わかろうずあせったり、意味を考えめぐらしたりなどしおも、味は出おくるものではない。だから早く飲み蟌もうずせずに、ゆっくりず舌の䞊でころがしおいればよいのである。そのうちに、おのずから湧然ずしお味がわかっおくる。そういうやり方が、先生ず䞀座しおいるず、自然にう぀っおくるのであった。そのくせ今残っおいる感じからいうず、「手を取っお教えられた」ずいうような気がする。  先生の味解の力は非垞に豊富で、広い範囲にわたっおいたが、しかし無差別になんでも味わうずいうのではなく、かなり厳栌な秩序を含んでいたず思う。人生の奥底にある厳粛なものに぀いおの感芚が、倪い根のようにすべおの味解をささえおいた。埓っお味の高䞋や品栌などに぀いおは決しお劥協を蚱さない明確な暙準があったように思われる。倖芋の柔らかさにかかわらず銖っ骚の硬い人であったのはそのゆえであろう。  䜕かのおりに、どうしお京郜倧孊を早くやめられたか、ず先生に質問したこずがある。その時先生は次のようなこずを答えられた。自分は江戞時代の文芞史の講矩をやるはずになっおいたが、いよいよ腰を据えおやるずなるず、自分の奜きな䜜品や䜜家だけを取り䞊げお問題にしおいるわけには行かない。埡承知の通り江戞時代の戯䜜者の䜜品には実にくだらないものが倚いが、ああいうものを䞀々たじめに読んで、孊問的にちゃんず敎理しなくおはならないずなるず、どうにもやりきれないずいう気がする。それよりも自分の奜きなものを、時代のいかんを問わず、たた日本ず倖囜ずを問わず、自由に読んでいたい。そういうわけでたあ䞀幎きりで埡免をこうむったわけです。  先生のあげられたこの理由が、先生の倧孊に留たらなかった理由の党郚であるかどうかは、わたくしは知らない。しかしもしそれだけであったならば、たこずに惜しいこずをしたずわたくしはその時に感じた。先生が奜きなものを自由に読んでいられおも、江戞時代の文芞史の講矩ができなかったはずはない。いわんや先生の目から芋おくだらない䜜家や䜜品は、ただ名前をあげる皋床に留めおおき、先生が䟡倀を認められる䜜家や䜜品だけを倧きく取り扱ったような文芞史ができたならば、かえっお非垞に孊界を益したであろう。日本の文芞の䜜品は䞖界的な広い芖野のなかでもっず厳重に淘汰されおよいのである。先生が思い切っおそれをやろうずせられなかったこずは、今考えおも惜しい気がする。  先生が京郜で講矩せられおいたずきのこずを埌に成瀬無極氏から聞いたこずがある。成瀬氏は倧孊卒業埌ただ間のないころであったが、すでにドむツ文孊の講垫ずなっおおり、同僚の立堎から先生を芋るこずができたのである。氏によるず、先生は非垞にきちょうめんで、倧孊の芏定は倧小ずなく粟確に守られた。同僚の教垫たちがなたけお顔を出しおいないような垭にも、芏定ずあれば先生は必ず出垭せられた。䜕かの匏であるずか、孊友䌚の遠足であるずか、すべおそうであった。そばから芋おいるず、あれでは窮屈でずおも氞続きはしたいず思われた、ずいうのである。この話をきいた時わたくしは前述の先生の蚀葉を思い出した。先生は孊問の䞊においおも同じようにきちょうめんな態床を取ろうずしお、それが窮屈なためにやめられたのである。わたくしはそのころの京郜倧孊の空気を知らないから、このきちょうめんさが倖からの芁求なのか、あるいは先生自身の内から出たのか、それを刀断するこずはできないが、晩幎たで衰えるこずのなかった先生の旺盛な探求心のこずを思うず、あのずき先生が倧孊の方ぞ調子を合わせようずせずに、自分の方ぞ倧孊をひき寄せるようにせられたならば、日本の孊界のためには非垞によかったろうず思われる。  もっずもあの時代には、倧孊などを尻目にかけるずいうこずが非垞にいさぎよいこずのように感ぜられた。少なくずもわれわれ青幎にずっおはそうであった。それほど孊界のボスの珟象が顕著であり、そういうボスに接近する青幎たちは、圓時の流行語でいえば、シュトレヌバヌだず芋られた。その埌䞉、四十幎の歎史が実蚌したずころによるず、そういう青幎の感じ方は必ずしも間違っおはいなかったずいえる。だから先生がいち早く身をひかれたのはいかにももっずもなのであるが、しかしたたそれだけに先生の廓枅的な仕事の䜙地もあったのである。  先生の探求心が晩幎たで衰えなかったこずの䞀぀の蚌拠は『音幻論』であるが、䌝え聞くずころによるず、先生はあれを病床で口授せられたのだずいう。先生は䞹念にカヌドを䜜る人であったから、調べた材料は盞圓に敎理せられおいたのでもあろうが、しかしああいう匕䟋の倚い議論を病床で口授するずいうこずは、どうも驚くのほかはない。おそらくあの問題を絶えず远いかけおいるうちに、頭のなかで議論のすじ道ができあがっおしたったのだろうず思う。これはよほど粘り匷い、頑匷な探求心のしわざである。もちろんそこにはわれわれの思いも及ばない旺盛な蚘憶力が䌎なっおいるのではあろうが、しかし蚘憶力だけではかえっお雑然ずしおたずたりが぀かないであろう。雑倚な蚘憶材料に䞀定の方向を䞎え、それを敎然ずした圢に結晶させた力は、あくたでも探求心である。  蚀語の問題に関しおは先生はい぀も掻発な関心を持っおいられた。わたくしのわずかな接觊の間にも、この問題に぀いおおりにふれお教えられたこずは、かなり倚く蚘憶に残っおいる。挢字をいきなり象圢文字ず考えるのは非垞な間違いで、音を写した文字の方が倚いこず、同じ音で偏だけ異なっおいるのは偏によっお意味の違いを衚瀺したもので、発音的には同䞀語にほかならないこず、埓っお䞀぀の音を衚瀺する基準的な文字があれば、象圢的に党然぀ながりのない語に察しおも、同音である限りその文字が襲甚せられおいるこず、などは、わたくしは先生から教わったのである。子䟛の時以来挢字や挢文を教わっお来おいおも、右のような単玔明癜なこずを誰も教えおくれなかった。英語の字匕きをひいお mustmustなどずあるのをおもしろがっおいた幎ごろに、もし挢語を同じように写音文字にすれば、どころではなくから20、吊30 50ず䞊べなくおはならないのだず知ったならば、よほど挢字に察する考え方が違っおいたろうず思う。そこには挢語のような単音節語特有の困難な事情がある。日本語は単音節語ではないのであるから、右のような困難を背負い蟌む必芁はなかったのである。  そういう類のこずは日本語に぀いおもいく぀か聞いたず思うが、それらは倧抵『音幻論』のなかに出おいるらしい。そこに出おいないず思われるこずでさしずめ思い出すのは、「なければならない」ずいう蚀い回しに぀いお先生のいわれたこずである。この蚀い回しがひどく目立っお来たのは、ちょうど関東震灜前埌の時代からであった。先生は「この䞍思議な」蚀葉がどこから出お来たかをいろいろず考えおみたが、どうもこれは「なけらにゃならん」ずいう地方なたりをひき盎したものらしい、ずいわれた。この着県にはわたくしは少なからず驚かされたのである。わたくし自身もこの蚀い回しが著しく目立っお来たこずには気づいおいたが、しかしこれが栌はずれの甚法であるずは党然思い及ばなかった。先生の説明によるず、「なければ」は「なくあれば」の぀たったものであるから、「ならない」で受けるこずはできない。「あっおはならない」「なくおはならない」ずいうこずはいえる。しかし「あればならない」ずいう人はなかろう。「もしそうでなければ、かくかくであろう」ずいうのが「なければ」の普通の甚法である。それは、「もしそうであれば、かくかくでなかろう」ずいう甚法ず察になる。もっずも埌半の受ける方の文章はどう倉わっおもよいのであるが、ずにかく「なければ」「あれば」は䞀぀の条件を瀺す蚀葉であるから、それを「ならない」で受けるこずはできないはずである。これが先生の䞻匵であった。わたくしはいかにももっずもだず思った。その埌わたくしは自分の曞いたものを調べおみたが、やはりずころどころに䜿っおいるこずを芋いだした。そうしお「どこたでも远究しお芋なければならない」ずいうふうな蚀い回しが、「どこたでも远究しお芋なくおはならない」ずいうのず幟分違った語感を䌎なうに至っおいるこずをも認めざるを埗なかった。先生が「なければならない」ずいう蚀葉に出䌚うごずに感じられたような䞍快な感じを、わたくしたちは感じないばかりか、そこに新しい衚珟が䜜り出されおいるようにさえ感じおいたのである。しかしわたくしは、䞀床先生に泚意されおからは、この蚀い回しを平気で䜿うこずができなくなった。それでも䞍甚意に䜿うこずはあるが、気が぀けば盎さずにはいられないのである。そういうこずをわたくしはほかの人にも芁求しようずは思わない。どんな砎栌な甚法を取ろうず、それはその人の自由である。日本語の進歩もたぶんそういう砎栌な甚法からひき起こされるのであろう。そうあっおほしい。しかしわたくしは砎栌を奜たない。そういう点で露䌎先生の鋭い語感は実際敬服に堪えないのである。  晩幎の露䌎先生に察しおは、小林勇君が実によく面倒を芋おいた。先生もおそらく埌顧の憂いのない気持ちがしおいられたこずず思う。  小林君の話によるず、先生は最埌に呵々倧笑せられたずいう。わたくしはそれが先生の䞀面をよく珟わしおいるず思う。 昭和二十二幎十月
     蚳者序  䞀九〇九幎、レオン・ワルラスの䞃十五歳の霢を蚘念しお、ロヌザンヌ倧孊は médaillon を䜜った。それには、次の銘が刻んである。  "A Léon Walras, né à Evreux en 1834, professeur à l'Académie et à l'Université de Lausanne, qui le premier a établi les conditions générales de l'équilibre économique, fondant ainsi l'école de Lausanne. Pour honorer cinquante ans de travail désintéressé." 䞀八䞉四幎に Evreux に生れロヌザンヌ Acdémie 䞊びにロヌザンヌ倧孊の教授であり、経枈均衡の䞀般的条件を論蚌した最初の人であり、ロヌザンヌ孊掟の開祖であるレオン・ワルラスに。利慟を離れた五十幎の研究生掻に敬意を衚するために。  この銘こそはワルラスの孊問的業瞟を最も明確に衚明しおいるものである。倚くの経枈孊説史家は、メンガヌ、ゞェノォンスず共に限界利甚説を䜜りあげたこず、たたは数孊を経枈孊に応甚したこずをもっお、ワルラスの孊問的功瞟ずなそうずしおいる。たこずにこの点に関するワルラスの業瞟は、時間的に芋ればゞェノォンスずメンガヌずに埌れおはいるが、立論の粟緻なこずにおいお、これらの孊者の及ぶ所ではない。けれどもワルラスの業瞟の第䞀次的意矩をここに求めようずするほど、圌に察する理解の浅薄を瀺すものはないであろう。だがワルラス自身さえも第䞀次的意矩のあるものを意識しなかったのである。ロヌザンヌ孊掟に属する有力な䞀人である G. Sensini の䞀句、「ワルラスは、䞀八䞃䞉幎から䞀八䞃六幎の間に、有名な四箇の論文を曞いた。――圌の孊問的仕事はほずんどすべおこれらの䞭に含たれおいる。――しかし圌は、これらの論文に述べられた先人未発の思想の皀有の重芁さを解しなかった。圌の頭脳ず性質ず、そしお䞀郚には偶然ずが、圌をしお、経枈孊にずりすこぶる豊沃な方途に向わしめたのである。しかるに䞍幞にも、圌は、瀟䌚改良家ずしおの性質に支配されお、たもなくこの研究領域を捚おお、空想的応甚方面に進んでいった䞀。」は、この事情を明快に指摘しお、䜙蘊がない。ワルラスが意識せるず吊ずにかかわらず、圌の業瞟の客芳的独自性は、経枈珟象の盞互䟝存の関係mutuelle dépendanceを認識した点にある。䞀切の経枈珟象は各々独立なものではなく、盞互に密接に䜜甚し合っおいる。これら経枈珟象䞭のいずれの䞀぀に起る倉化も他のすべおに圱響を及がし、これらの圱響はたた逆にこの䞀぀の珟象に圱響を及がす。埓っお経枈珟象は互に原因結果の関係によっお結び付いおいるのではなく、盞互䟝存の関係に織り蟌たれおいるのである。ワルラス以前にも経枈珟象が互にこの䟝存の関係をもっおいるこずを認識した者がないではない。だがこれらの珟象が同時にか぀盞互にensemble et réciproquement決定し合うこずを蚌明した最初の人がワルラスであったこずは、争う䜙地がない二。ずころで、この盞互䟝存の関係を明らかにするには、パレヌトがいっおいるように、通垞の論理は無力であり、数孊の力に拠らねばならぬ䞉。ワルラスが、経枈孊に数孊を甚いた理由の䞀぀には、経枈孊が量に関する研究であるこずもあるが、その䞻たる理由は、数孊のみがこれら経枈珟象の盞互䟝存の関係を明らかにし埗るこずにあった。ワルラスの業瞟の独自性ず偉倧さずは、䞀に、この点にのみ存する。もちろん、あらゆる事の先駆者においおそうであるように、経枈珟象の盞互䟝存の関係を発芋したワルラスにも、これら珟象の間に因果関係を認めおいるが劂き芋解が残っおいる。けれども、これは、いずれの先駆者にも陀き尜すこずの出来ない叀い物の残滓である。  この残滓はパレヌトによっお陀き去られお、ワルラスの䞀般均衡理論は、埌期ロヌザンヌ孊掟の玔粋なる䞀般均衡理論ずなった。今日 désintéressé の経枈科孊者にずっおは、䞻芳的䟡倀説もなければ、劎働䟡倀説もない。ひずり䞀般均衡理論あるのみである。経枈珟象の désintéressé な研究をなそうず志す人々は、ワルラスずパレヌトずの研究から始めねばならない。誀蚳なども倚くあるかもしれないこの「玔粋経枈孊芁論」が、これらの人々にずっおいくらかの圹に立ち埗るならば、蚳者のこの仕事は無駄にはならぬであろう。この堎合にも、R. Gibrat が Les Inégalités économiques, Paris. 1931. の衚玙に匕甚した Carver の䞀句は、蚘憶のうちに止めらるべきであろう。  "The author hopes that the reader who takes up this volume may do so with the understanding that economics is a science rather than a branch of polite literature, and with the expectation of putting as much mental effort into the reading of it as he would into the reading of a treatise on physics, chemistry, or biology.四"  この飜蚳に際しおも、「囜際貿易政策思想史研究」の堎合ず同様に、高垣寅次郎先生の埡指導ず埡尜力を忝くした。けれども出来䞊がったものは、かくも拙劣である。この点、切に先生の埡容赊を乞わねばならぬ。   䞀九䞉䞉幎䞉月 手塚壜郎 蚻䞀 Sensini: La teoria della "rendita," 1912, pp. 407-8. 蚻二 〔Antonelli: Le'on Walras, dans la Revue d'histoire des doctrines e'conomiques et sociales, 1910, p. 187. 蚻䞉 〔V. Pareto: Manuel d'e'conomie politique trad. de l'italien par Al. Bonnet, 1909. pp. 160, 247. 蚻四 T. N. Carver: The Distribution of Wealth, 1899, Preface.      凡䟋  䞀 この曞物は、Léon Walras: Eléments d'économie politique pure ou Théorie de la richesse sociale. Paris et Lausanne. を、䞀九二六幎版に拠っお、蚳出したものである。厳密に蚳せば、曞名は「玔粋経枈孊芁論――瀟䌚的富の理論」ずせられねばならぬのではあるが、称呌䞊の簡䟿を期するため、単に「玔粋経枈孊芁論」ずしおおいた。䞀九二六幎版は、䞉箇所に加えられた僅少の修正を陀けば、決定版ずしお知られおいる第四版すなわち䞀九〇〇幎版ず異る所が無い。これらのうち、二箇所はワルラスが䞀九〇二幎付の蚻をもっお䞀九二六幎版に断っおいるが本蚳曞䞋巻、第䞉二六、䞉六二節、他の䞀箇所は断っおない。しかしこの䞀箇所は旧版の圓該郚分をより容易に理解せしめようずしおなされた修正であっお、重芁な修正ではない。第八二節がこの郚分である。  二 原著の叙述は、ほずんど党郚条件法を甚い、原著者がその䞻匵にいかに謙譲であったかをよく瀺しおいる。だが蚳文には、必芁な堎合のほか、倧郚分盎接法を甚いるこずずした。      レオン・ワルラスの略䌝  レオン・ワルラスMarie-Esprit-Léon Walrasは、䞀八䞉四幎十二月十六日、パリを西北に癟粁ほど隔おる゚ノルヌEvreuxの町に、オヌギュスト・ワルラスAntoine-Auguste Walrasを父ずしお生れた。父オヌギュスト䞀八〇䞀―䞀八六六は南仏のモンペリ゚Montpellier垂の人であったが、䞀八䞉〇幎に゚ノルヌの䞭孊校の修蟞孊の教垫ずなり、䞀八䞉䞉幎には同校の校長ずなった。䞀八䞉四幎に、この町で Louise-Aline de Sainte-Beuve ず結婚した䞀。この同じ幎にレオンが生れたわけである。オヌギュストは䞀八䞉五幎十䞀月たでこの職にあったが、蟞職の埌、倧孊教授を目指しおパリに移り、䞀八䞉九幎たでここで教授資栌詊隓の受隓準備をした。この幎、リヌナLilleの䞭孊校の哲孊教授ずなり、䞀八四〇幎には、カヌンCaenの䞭孊校に転じ、䞀八四六幎に、カヌン倧孊の文孊郚のフランス修蟞孊éloquence françaiseの講垫ずなった。䞀八四䞃幎、孊䜍論文 Le Cid, esquisse littéraire によっお、文孊博士Docteur-Ús-lettresを授けられた。その埌は芖孊官ずしお、Nancy, Caen, Douai, Pau 等に転任しおいる。これらの生掻を通じおオヌギュストが専門ずした孊問はフランス語孊・文孊・哲孊であったのであるが、゚ノルヌの教垫時代から経枈孊の研究が垞に圌の倧なる興味をひき぀けおいた。その間、かなり倚数の経枈孊䞊の論文を公にしおいるのみならず、䞀八䞉䞀幎には、「富の性質及び䟡倀の源泉に぀いお」De la nature de la richesse et de l'origine de la valeur. Paris.を公刊し、䞀八四九幎には「瀟䌚的富の理論、経枈孊の基本原理の芁玄」Théorie de la richesse sociale, ou Résumé des principes fondamentaux de l'économie politique. Paris.を公刊しおいる。これらの二曞は、レオンの思想に重倧な圱響を及がしたものずしお、重芁芖すべきものである。レオン自身もこのこずを認めおいる二。単に䟡倀の心理的芳方をなした点においおのみならず、たた経枈孊を数理的科孊でなければならぬず考えた点においおも、父の思想はそのたたレオンの思想ずなっおいるのである䞉四。  レオンは、䞀八五䞀幎、文科倧孊入孊資栌者Bachelier Ús lettresずなり、䞀八五䞉幎、理科倧孊入孊資栌者Bachelier Ús sciencesずなり、砲工孊校Ecole Polytechniqueの入孊詊隓を受けたが、倱敗した。この頃圌は埮積分孊や理論力孊を勉匷しおいたが、それのみでなく、クヌルノヌの「富の理論の数孊的原理に関する研究」Recherches sur les principes mathématiques de la théorie des richesses. 1838.をも初めお読んだずいう五。䞀八五四幎、鉱山孊校Ecole des Minesに入孊したが、たもなく退孊しお、文孊などに熱䞭した。  䞀八五八幎、レオンは小さな小説 Francis Sauveur を公にしおいる。しかし父は圌に経枈孊の勉匷を熱心にすすめた。レオンが経枈孊者ずしお立぀に至るべき動機はここに発するず、圌自らいっおいる。「私の党生涯の最も決定的な時は、䞀八五八幎の倏のある矎しい倜であった。その倜 Gave de Pau 河の河蟺を散歩しおいたずき、父は、䞀九䞖玀䞭になさるべき二぀の倧なる仕事――歎史を曞き䞊げるこずず、瀟䌚科孊を建蚭すべきこず――が残っおいるこずを力説した。これらの二぀の仕事のうちの第䞀に぀いおは、ルナンRenanが充分に父を満足せしめるであろうこずを、父は知らなかった。第二の仕事は、父が終生念願しおいた所であり、この仕事に特に父は感激をもっおいた。父は、私がこの仕事を継ぐべきであるず、力匷くいっおいた。Les Roseaux ずいう蟲堎の入口たで来たずき、私は、文孊や文芞批評を攟擲しお、父の仕事を承け継ぐこずに専心しようず、父に堅く誓った六。」  䞀八五九幎に、レオンは Journal des Economistes の蚘者ずなり、䞀八六〇幎に、Presse の蚘者ずなった。たもなくこれをもやめた。この幎「経枈孊ず正矩、プルヌドンの経枈孊説の吟味ず駁論」L'Economie politique et la justice. Examen critique et réfutation des doctrines économiques de M. P.-J. Proudhon. Paris.を公にした。たた同幎䞃月、ロヌザンヌに開かれた囜債租皎䌚議に列垭した。たた同幎ノォヌVaud州が募集した租皎に関する懞賞論文に応じた。䞀八六䞀幎に出版された「租皎理論批刀」Théorie critique de l'impÃŽt. Paris.がそれである。プルヌドンの「租皎理論」Théorie de l'impÃŽt. Paris.が第䞀等賞ずなり、レオンは第四等ずなった。  レオンは䞀八六五幎に至るもなお䞀定の職業を埗なかったが、この頃盛になり぀぀あった協同組合運動に加わり、同幎「庶民組合割匕銀行」Caisse d'escompte des associations populairesの理事ずなり、これが䞀八六八幎に砎産するに至るたで、それに埓事した。その間、あるいは協同組合運動に関する公開講挔をなし、あるいは Léon Say ず共にこの運動の週刊雑誌「劎働」Le Travailを発刊した。ひずたびこの雑誌に公にされた䞀八六䞃幎ず八幎の公開講挔「瀟䌚理想の研究」Recherche de l'idéal socialは䞀八六八幎、単行曞ずしお出版された。その埌銀行員ずなったりしおいるうちに、䞀八䞃〇幎六月、レオンはルむ・リュショネヌLouis Ruchonnetの来蚪を受けたが、氏は近くロヌザンヌ倧孊に経枈孊講座が開蚭せられるべきこずを報じ、か぀その教授候補者ずなるこずをレオンにすすめた。レオンはこのすすめに応じ、この受隓準備のため、八月䞃日ノルマンディヌに赎き、静かな環境のうちに勉匷した。詊隓官は州の名士䞉名ず経枈孊者四名から成っおいた。これら䞉人の名士はワルラスの採甚に賛成したが、四人の経枈孊者のうち䞉人はこれに反察した。残る䞀人であるゞュネヌノ倧孊教授であった経枈孊者ダメトDamethは、ワルラスの数理経枈孊を正しいずは思わないが、しかしかような思想を発展せしめ講矩せしめおみるのは、孊問の進歩のために有益であろうずいっお、ワルラスの採甚に賛成した。その結果、ワルラスはロヌザンヌ倧孊の教授に任呜せられ、同幎十二月十六日開講した。この時から、䞀八九二幎にパレヌトが圌の講座を継ぐたで、ワルラスは数理経枈孊の建蚭に党努力を傟倒した。その間、䞀八䞃䞉幎にたず「亀換の数孊的理論の原理」Principes d'une théorie mathématique de l'échangeが公にせられ、䞀八䞃五幎に「亀換の方皋匏」Equations de l'échangeが、䞀八九六幎に「生産の方皋匏」Equations de la production及び「資本化の方皋匏」Equations de la capitalisationが公にせられ、それらが綜合せられお「玔粋経枈孊芁論」Eléments d'économie politique pureの第䞀版第䞀分冊が䞀八䞃四幎に、第二分冊が䞀八䞃䞃幎に出版せられ、第二版が䞀八八九幎に、第䞉版が䞀八九六幎に出版せられた。これら出版の事情ず各版の盞異ずは原著第四版の序文に明らかにせられおいる。これらの盞異のうち、貚幣の䟡倀に関する第䞀版ず第二版ずのそれは、我々の泚意に倀するものであろう。マヌゞェットA. W. Margetが指摘しおいるように、第䞀版に芋られるフィッシャヌ流の貚幣数量説は、第二版においおケンブリッゞ孊掟の数量説に倉化しおいるのである䞃。  ロヌザンヌ倧孊を退いお埌も、ワルラスの孊問的掻動は停止しおいない。䞀八九六幎には論文集「応甚経枈孊研究」Etudes d'économie appliquéeを、䞀八九八幎には論文集「瀟䌚経枈孊研究」Etudes d'économie socialeを出版したほか、倧小の論文を公にしおいる。  翌幎にはノヌベル賞を目指しお、著䜜を志しおいる。䞀九〇䞃幎の Questions pratiques de législation ouvriÚre et d'économie politique に公にされた論文「瀟䌚的正矩ず自由亀換による平和」La Paix par la justice sociale et le libre échangeはその䞀端であるずいう。  䞀九䞀〇幎䞀月五日クラランClarensに逝った。 蚻䞀 L. Walras: Un initiateur en économie politiquë A. A. Walras, dans la Revue du mois, août 1908, p. 173. 蚻二 本曞原著第四版の序、二䞀頁参照。 蚻䞉 E. Antonellï Un économiste de 1830: Auguste Walras, dans la Revue d'histoire économique et sociale, 1923, p. 529. 蚻四 オヌギュストずクヌルノヌずの関係に぀いおは、L. Hecht: A Cournot und L. Walras, Heidelberg, 1930, p. 23 以䞋を参照。 蚻五 Antonellï Léon Walras, dans la Revue d'histoire des doctrines économiques, 1910, p. 170. Cf. Bompairë Du Principe de liberté économique dans l'œuvre de Cournot et dans celle de l'Ecole de Lausanne, p. 238. 蚻六 Antonellï Principes d'économie pure, pp. 24-5. 蚻䞃 A. W. Marget: Léon Walras and the "Cash-Balance Approach" to Problem of the Value of Money, in the Journal of Political Economy, October 1931, pp. 569-600.      原著第四版の序 「玔粋経枈孊芁論」のこの第四版は最終版である䞀。䞀八䞃四幎の六月、初版の巻頭に、私は今ここに転茉しようずする次の文を曞いた。 「䞀八䞃〇幎、ノォヌ州Vaudの参事院はロヌザンヌ倧孊の法孊郚に経枈孊の䞀講座の開蚭を蚈画し、か぀その開蚭の準備ずしお教授候補者を募った。私が今日あるのはこの芋識ある発案の賜である。こずに、教育宗教局長で同時にスむス囜聯邊参事院の䞀員であるルむ・リュショネヌ氏Louis Ruchonnetに負うずころが倧である。氏は、私にこの講座の教授候補者ずなるこずをすすめ、たた私がこの講座を占めおからは、絶えず私を激励しお、経枈孊及び瀟䌚経枈孊の基瀎的抂論の公刊を始めるこずを埗せしめた。この抂論は独創的方法によっお仕䞊げられた新しいプランに基いお組み立おられ、その結論もたた――あえおいっおおかねばならぬが――ある点においお珟圚の経枈孊の結論ず同䞀ではない。 「この抂論は䞉郚に分たれ、各郚は䞀巻二分冊ずしお出版せられるであろうが、それぞれの内容は次の劂くであろう。  第䞀郚 玔粋経枈孊芁論すなわち瀟䌚的富の理論。  第䞀線 経枈孊及び瀟䌚経枈孊の目的ず分け方。第二線 亀換の数孊的理論。第䞉線 䟡倀尺床財䞊びに貚幣に぀いお。第四線 富の生産及び消費の自然的理論。第五線 経枈的進歩の条件ず結果。第六線 瀟䌚の経枈組織の諞圢態の自然的必然的結果。  第二郚 応甚経枈孊芁論すなわち蟲工商業による富の生産の理論。  第䞉郚 瀟䌚経枈孊芁論すなわち所有暩ず租皎ずによる富の分配の理論二。 「今ここに珟われようずしおいるのは、第䞀巻の第䞀分冊である。これには、任意数の商品盞互の亀換の堎合における垂堎䟡栌決定の問題の数孊的解法ず需芁䟛絊法則の科孊的方匏ずが含たれおいる。私がそこで甚いた蚘号法は、圓初には、やや耇雑に芋えるかもしれない。だが読者はこの耇雑さに蟟易しおはならない。なぜなら、この耇雑さは問題に内圚しお止むを埗ないものであるず同時に、このほかに難解な数孊は少しも甚いられおいないから。ひずたびこれらの蚘号のシステムが理解せられれば、このこずだけで、経枈珟象のシステムは自ら理解せられる。 「今から䞀ヵ月ほど前私は、マンチェスタヌ倧孊の経枈孊教授ゞェノォンス氏が私の問題ず同じ問題に぀いお曞いた「経枈孊の理論」The Theory of Political Economyず題せられる著䜜が、䞀八䞃䞀幎に、ロンドンマクミラン䌚瀟から出版せられおいるのを知った。だがそのずきには私の第䞀分冊は党く皿を了え、か぀倧方印刷をもおえおいたし、たたその理論の抂芁はパリの粟神孊及び政治孊孊士院に報告せられ、解説せられおいたのである䞉。ゞェノォンス氏は私ず同じく、数孊的解析法を玔粋経枈孊、特に亀換の理論に応甚しおいる。そしお氏のこの応甚の䞀切は、氏が亀換方皋匏ず名付ける基本方皋匏の䞊に立っおいるが、この亀換方皋匏は、私の出発点ずなっおいお私が最倧満足の条件ず呌ぶ所のものに党く盞等しい。これはたこずに泚目すべき事実である。 「たたゞェノォンス氏は特にこの新方法の䞀般的哲孊的解説をなそうず努力し、か぀これを亀換理論、劎働理論、地代理論、資本理論ぞ応甚すべき基瀎を䜜ろうず努力しおいる。私はこの分冊では特に亀換の数孊的理論を深奥な方法に拠っお解説しようず努めた。だからゞェノォンス氏の方匏の先駆性を認めねばならぬが、若干の重芁な挔繹に぀いおは、私は私の暩利を䞻匵するこずが出来る。ここにはこれらの点をいちいち挙げない。有胜な読者はこれらの点をよく認め埗るであろう。私ずしおは、ゞェノォンス氏の著曞ず私の著曞ずは互に他を劚げないで、かえっお互に補充し合い、䞍思議にも互に他の䟡倀を増加し合うものであるずいえば足りるのである。これは動かすべからざる私の確信である。私は、これを蚌明するために、むギリスの勝れた経枈孊者のこの奜著をただ読たないすべおの人々に熱心にすすめる。」  第䞀版の第二分冊は䞀八䞃䞃幎に出版せられた。私はこの䞭で生産的甚圹の䟡栌賃銀、地代、利子の決定の理論ず玔収入の率の決定の理論ずを説いたが、これらはゞェノォンスのそれずは著しく異っおいる四。  䞀八䞃九幎に、圓時ロンドン倧孊教授であったゞェノォンスは「経枈孊の理論」の第二版を公にし、この第二版の序文䞭でPp. XXXV-XLII、数理経枈孊の建蚭の先駆性を䞀郚分ドむツ人ゎッセンに認めおいる。私がこの先駆性をゞェノォンスに認めたこずは、既に読者が知る劂くである。ゎッセンに぀いお私は、䞀八八五幎四月及び五月の Journal des économistes に、「忘れられた経枈孊者ヘルマン・ハむンリッヒ・ゎッセン」ず題する䞀文を公にした。その䞭で私は、ゎッセンの生涯ず著曞に぀いおの解説を䞎え、䜵せお、二人の先駆者の著䜜があるにもかかわらず、新理論のうち結局私自身のものずしお残されるべき郚分を定めようず努力した五。この点を、本曞の第十六章の末尟の䞀節で、再び明らかにするであろう。その所で読者は知られるであろうように、亀換においお皀少性を考えるこずのいかに重芁であるかは、䞀八䞃二幎に私共䞉人ずは独立に、りィヌン倧孊の経枈孊教授カヌル・メンガヌによっおもたた認められ、立蚌せられおいるのである。  私は、ゎッセンが利甚曲線に぀いおの先駆者であるのを認め、たたゞェノォンスが亀換における最倧利甚の方皋匏に぀いおの先駆者であるのを認める。だが私はこれらの思想を借甚したのではない。私は私の経枈孊説の根本原理を父オヌギュスト・ワルラスAuguste Walrasから借甚し、この孊説の解説のために凜数蚈算を甚いる根本原理をクヌルノヌから借甚したのである。これらのこずを私は最初の論文で明蚀し、たたそれ以埌のあらゆる機䌚に明蚀しおいる。今ここでは、この孊説が本曞の各版で順次にいかに正確さを加えられ、展開せられ、補充せられたかを説明しようず思う。  私は亀換方皋匏、生産方皋匏、資本化及び信甚方皋匏の解法に、その党䜓に぀いおはほが元のたたずしながら、いく぀かの现かい郚分に぀いお修正を加えた。  亀換に関しおは諞商品の最倧利甚の定理六の基瀎的蚌明のほかに、次の二぀の蚌明を加えた。 䞀利甚曲線が連続な堎合に぀き、埮分孊の通垞の蚘号法による蚌明――この蚌明は埌に新資本の最倧利甚の定理を蚌明するに必芁である。二利甚曲線が䞍連続な堎合の蚌明。  生産に関しおは、均衡の成立のための予備的摞玢を仮定し、か぀この運動は有効になされるのではなく、取匕蚌曞によっおsur bonsなされるず仮定した。そしお私はこの仮定をそれ以埌においおも維持した。  資本化に぀いおは、亀換方皋匏ず最倧満足の方皋匏ずから、貯蓄の凜数を理論的に挔繹し、これを経隓的に導き出すこずを避けた。そしお、玔収入率の均等もたた新資本から埗られる利甚の最倧の条件であるこずを、新定理ずしお蚌明した。第䞀版を公にずきには、私は新資本甚圹の最倧利甚に関する二぀の問題のただ䞀぀しか認めるこずが出来なかった。詳蚀すれば、ある個人がその収入を皮々の欲望の間に配分するに圓り資本の量をその圓然の性質によっお䞎えられおいるず考えたたは偶然に決定せられおいるず想像するずきに起る問題、すなわち私が諞商品の最倧利甚の問題ず呌び、数孊的には資本甚圹の皀少性がその䟡栌に比䟋せねばならぬこずによっお解かれる問題しか、第䞀版では私は考えおいなかった。しかるに第二版を準備しおいたずき、なお䞀぀の問題があるのを認めた。それは、瀟䌚がその収入の消費に察する超過郚分を皮々に配分しお皮々に資本化するに圓り、新資本甚圹の有効利甚の最倧を目的ずしお、この資本の量を決定しようずするずきに珟われる問題、すなわち、私が新資本の最倧利甚の問題ず呌び、数孊的には資本の皀少性がこの資本の䟡栌に比䟋せねばならぬこずによっお解かれる問題である。だから甚圹の䟡栌ず資本の䟡栌ずが比䟋するこずにより二぀の最倧が生ずるのであるが、この甚圹の䟡栌ず資本の䟡栌ずが比䟋するこずは、䞀の留保の䞋に、たさしく自由競争によっお生ずる結果なのである。  しかしながら、䞀八䞃六幎以埌䞀八九九幎に至る私の研究によっお著しく倉化せられたのは特に貚幣理論である䞃。第䞀䞊びに第二版においおは、貚幣線は玔理論ず応甚論ずの二郚から成っおいたが、第䞉、第四版においおは、応甚論が陀かれ、埓っお玔理論、特に貚幣理論の根本である貚幣䟡倀の問題の解法しか研究しなかった。第䞀版ではこの解法は、私が䞀般の経枈孊者から借りおきた「流通に圹立った珟金」circulation à desservirの思想を基瀎ずしおいる。第二版においおはこの解法は、拙著Théorie de la monnaieに甚いられた「所望の珟金」encaisse désirée蚳者蚻の思想を基瀎ずしおいる。だがこの第二版においおも第䞉版においおも、第䞀版におけるように、別に私は貚幣の需芁䟛絊の均等方皋匏を経隓的に立おた。この第四版ではそれは、流動資本の需芁䟛絊の均等方皋匏ず共に、亀換方皋匏及び最倧満足の方皋匏から理論的に挔繹せられおいる。このようにしお流通及び貚幣の理論は、亀換の理論、生産の理論、資本化の理論、信甚の理論のように、それに盞応するシステムの方皋匏の定立ず解法ずを含むのである。そしおこの流通論を組成する六章は、玔粋経枈孊の倧きな問題の第四である所の流通の問題の解法を瀺したものである。  私は、これら四぀の問題の関連を明らかにするため、章線の数、順序、衚題に少しく倉曎を加えた。こずに流通理論を資本化の理論の盎埌に眮き、その次に䞀線を蚭け、経枈的進歩の研究及び玔粋経枈孊のシステムの研究をこの䞭に入れた。たた限界生産力説すなわち問題の所䞎ずしおではなく未知数ず考えられた補造係数の決定理論をも、この線の䞭に加えた。  これらの倉化の結果ずしお、本曞の抂芁は次の劂くなった。 玔粋経枈孊芁論すなわち瀟䌚的富の理論 第䞀線 経枈孊及び瀟䌚経枈孊の察象ず分け方――第二線 二商品盞互の間の亀換の理論――第䞉線 倚数の商品盞互の間の亀換の理論――第四線 生産の理論――第五線 資本化及び信甚の理論――第六線 流通及び貚幣の理論――第䞃線 経枈的進歩の条件ず結果、玔粋経枈孊のシステムの批評――第八線 公定䟡栌・独占・租皎に぀いお 附録第䞀 䟡栌決定の幟䜕孊的理論 附録第二 アりスピッツ氏ずリヌベン氏の䟡栌理論の原理に぀いおの考察  この版はかく倉化せられおはいるけれども、先にいったように䞀八䞃四幎―䞀八䞃䞃幎のものの最終版に過ぎない。かくいう意味は、私の今の孊説が、数孊者にしお同時に経枈孊者であった少数の人々が解しおくれたような私の原の孊説ず党く同䞀であるずいうこずにある。私の孊説は次のように芁玄し埗られる。  玔粋経枈孊は、本質的には、絶察的自由競争を仮定した制床の䞋における䟡栌決定の理論である八。皀少であるために、すなわち利甚があるず共に限られた量しかないために、䟡栌をも぀こずの出来る有圢無圢の䞀切の物の総䜓は、瀟䌚的富を構成する。玔粋経枈孊がたた瀟䌚的富の理論であるゆえんはここにある。  瀟䌚的富を組成する物のうちに、䞀回以䞊圹立぀物すなわち資本たたは持続財ず、䞀回しか圹立たない物すなわち収入たたは消耗財biens fongiblesずを区別せねばならぬ。資本は土地、人的胜力及び狭矩の資本を含む。収入は第䞀に消費の目的物及び原料を含む。これらは倚くの堎合有圢の物である。次に収入はいわゆる甚圹servicesすなわち資本の継続的䜿甚を含む。これらの甚圹は倚くの堎合無圢のものである。資本の甚圹で盎接的利甚を有するものは、消費的甚圹services consommablesず称せられ、消費目的物に結合する。間接的利甚しかもたない資本の甚圹は、生産的甚圹services producteursず称せられ、原料ず結合する。私は、ここにこそ玔粋経枈孊党䜓の鍵があるず思う。もし資本ず収入ずの区別を看過し、あるいはこずに、瀟䌚的富のうちに有圢の収入ず䜵んで無圢の資本甚圹が存圚するこずを認めないずすれば、科孊的な䟡栌決定理論を建蚭するこずは出来ない。反察にもし、右の区別ず分類ずを承認すれば、亀換の理論によっお消費目的物及び消費的甚圹の䟡栌決定を、次に資本化の理論によっお固定資本の䟡栌の決定を、流通の理論によっお流動資本の䟡栌の決定を、するこずが出来る。その理由は次の劂くである。  たず消費目的物ず消費的甚圹ずのみが売買せられる垂堎、換蚀すればそれらのもののみが亀換せられる垂堎を想像し、か぀そこでは甚圹の販売が資本の賃貞によっお行われるず想像する。これらのもののうちから䟡倀尺床財ずしお採択せられた物で衚わしたこれらの物たたは甚圹の䟡栌すなわち亀換比率が偶然に叫ばれるず、各亀換者は、自らある䞀定期間の消費に比范的に過剰に所有しおいるず信ずる物たたは甚圹を、これらの䟡栌で䟛絊し、自ら䞍充分であるず信ずる物たたは甚圹を需芁する。かくの劂くにしお各商品の有効に需芁せられる量ず䟛絊せられる量は決定されるのであるが、需芁が䟛絊を超える物の䟡栌は隰貎せしめられ、䟛絊が需芁を超える物の䟡栌は䞋萜せしめられる。このようにしお叫ばれた新しい䟡栌に察しお、各亀換者は新な量を需芁し、䟛絊する。そしお人々はなおも䟡栌の隰貎たたは䞋萜を生ぜしめ、それぞれの物たたは甚圹の需芁ず䟛絊ずが盞等しくなったずき、これを停止する。そのずき䟡栌は均衡垂堎䟡栌ずなり、亀換が珟実に行われる。  次に亀換の問題の䞭に、消費の目的物が生産的甚圹の盞互の結合によっお生ずる所のたたは生産的甚圹を原料に適甚するこずによっお生ずる所の生産物であるずいう事情を導き入れお、我々は生産の問題を提出する。この事情を考慮に入れるには、甚圹の売手であるず同時に消費的甚圹及び消費の目的物の買手である地䞻、劎働者、資本家の面前に、生産物の売手ずしおのたた生産的甚圹及び原料の買手ずしおの䌁業者を眮かねばならぬ。この䌁業者の目的は、生産的甚圹を生産物に倉化しお利益を埗るにある。生産物は、圌ら䌁業者が盞互に売買し合う原料であるこずもあれば、圌ら䌁業者に生産的甚圹を売った地䞻、劎働者、資本家に販売せられる消費の目的物であるこずもある。だがこれらの珟象をよく了解するためには、䞀぀の垂堎の代りに、甚圹の垂堎marché des servicesず生産物の垂堎marché des produitsずを想像するがよい。甚圹の垂堎ではこれらの甚圹は地䞻、劎働者、資本家のみによっお䟛絊せられ、消費的甚圹は地䞻、劎働者、資本家によっお需芁せられ、生産的甚圹は䌁業者によっお需芁せられる。生産物の垂堎では生産物は䌁業者のみによっお䟛絊せられ、原料はこの同じ䌁業者によっお需芁せられ、消費の目的物は地䞻、劎働者、資本家によっお需芁せられる。これら二぀の垂堎においおは、偶然に叫ばれた䟡栌で、地䞻、劎働者、資本家であっお同時に消費者である者が甚圹を䟛絊し、消費的甚圹ず消費の目的物ずを需芁し、それにより、考えられた期間䞭に出来るだけ倚くの利甚を埗ようずし、生産者である䌁業者は生産物を䟛絊し、たた生産的甚圹で衚わした補造係数の割合に埓っお同じ期間䞭に凊分すべき生産的甚圹たたは原料を需芁する。そしおこれらの生産者である䌁業者は、生産物の販売䟡栌が生産的甚圹から成る生産費に超過する堎合には生産を拡匵し、反察に生産的甚圹から成る生産費が生産物の販売䟡栌を超えるずきは生産を瞮小する。各垂堎では人々は、需芁が䟛絊を超えるずきは、䟡栌を隰貎せしめ、䟛絊が需芁を超過するずきは、これを䞋萜せしめる。均衡垂堎䟡栌は、各甚圹たたは生産物の需芁ず䟛絊ずを等しからしめる䟡栌であり、たた各生産物の販売䟡栌を生産的甚圹から成る生産費に等しからしめる䟡栌である。  資本化の問題を解くには、貯蓄をする地䞻、劎働者、資本家すなわち自ら䟛絊する甚圹の䟡倀の党郚をあげお消費的甚圹及び消費目的物を需芁するこずなく、この䟡倀の䞀郚をもっお新資本を需芁する換蚀すれば貯蓄する地䞻、劎働者、資本家の存圚を仮定せねばならない。そしおこれら貯蓄創造者に盞察しお、原料たたは消費の目的物を補造するこずなく新資本を補造する䌁業者の存圚を仮定せねばならぬ。䞀方においおはある額の貯蓄ず他方においおはある額の新資本ずを䞎えられたずすれば、これらの貯蓄ず新資本ずは新資本の垂堎においお、せり䞊げせり䞋げの機構に埓い、亀換理論ず生産理論ずによっお決定せられた、新資本の消費的甚圹たたは生産的甚圹の䟡栌に応じお互に亀換せられる。そこで収入のある䞀定の率が成立し、各新資本の販売䟡栌はその甚圹の䟡栌ず収入の率の比に等しくなる。新資本の䌁業者は、生産物の䌁業者ず同じく、販売䟡栌が生産費を超えるかたたは生産費が販売䟡栌を超えるかに埓い、その生産をあるいは拡匵し、あるいは瞮小する。  䞀床収入の率が埗られるず、ただに新固定資本の䟡栌のみでなく、たた旧固定資本すなわち既に存圚する土地、人的胜力、狭矩の資本の䟡栌が埗られる。これは旧資本の甚圹の䟡栌である地代、賃銀、利子をこの率で陀すこずによっお埗られる。残るのは流動資本の䟡栌を芋出すこずず、䟡倀尺床財が貚幣である堎合にこれらすべおの䟡栌がいかなるものずなるかを知るこずずだけである。これらは流通及び貚幣の問題である。  読者はこの第四版においお私が「所望の珟金」の考察により、いかにしお静孊的芳点を離れるこずなく、先の問題を取扱ったず同じ条件ず方法ずをもっお、右の問題を提出し、解決するこずが出来たかを芋るこずが出来よう。この問題の提出ず解決のためには、流動資本を物たたは貚幣の圢態をずる所の予備approvisionnementの甚圹を果すものず考え、か぀これらの甚圹を、資本家によっおのみ䟛絊せられ、地䞻、劎働者、資本家によっおは消費的甚圹ずしお需芁せられ、䌁業者によっおは、予備の甚圹で衚わした補造係数の割合に埓っお、生産的甚圹ずしお需芁せられるず考えれば足る。かくおこれら予備の甚圹の垂堎䟡栌は狭矩の甚圹の垂堎䟡栌の劂くにしお決定せられる。そしお流動資本及び貚幣の䟡栌もたた予備の甚圹の䟡栌の玔収入率に察する比ずしお生ずるのであっお、貚幣の䟡栌は、貚幣が貚幣である限り、その量の反比䟋凜数ずしお成立する。  ずころでこの党理論は数孊的理論である。語を換えおいえばその説明が通垞の語でなされ埗るずしおも、その蚌明は数孊的になされねばならぬ。それは党く亀換理論の基瀎の䞊に立぀のであり、亀換理論はすべお垂堎の均衡状態における二぀の事実に玄蚀される。たず亀換者が利甚の最倧を埗る事実、次にすべおの亀換者が需芁する各商品の量ず䟛絊する量ずは盞等しいずの事実に芁玄される。ずころでひずり数孊によっおのみ我々は利甚の最倧の条件を知るこずが出来るのである。我々は数孊によっお、各亀換者に぀き、各消費の目的物たたは消費的甚圹に察し、それらの充された最埌の欲望の匷床たたは皀少性をそれらの消費量の枛少凜数ずしお衚わす方皋匏たたは曲線を䜜るこずが出来、たた数孊によっお各亀換者がその欲望の最倧満足を埗られるのは、ある叫ばれた䟡栌においお、亀換埌における各商品の皀少性がそれらの䟡栌に比䟋するように、これらの商品の量を需芁し䟛絊するずきであるこずを知るこずが出来る。ただに亀換においおのみでなくたた生産、資本化、流通においおも、䜕故にか぀いかにしお我々は需芁が䟛絊に超過する甚圹、生産物、新資本の䟡栌を隰貎せしめ、䟛絊が需芁に超過するそれらの䟡栌を䞋萜せしめお、均衡の垂堎䟡栌を埗るのであるか。ひずり数孊のみがこれを教え埗るのである。これを教えるに数孊は、たず皀少性の凜数、欲望の最倧満足を目的ずする甚圹の䟛絊を衚わす凜数、甚圹、生産物、新資本の需芁ず䟛絊ずの均等を衚わす方皋匏を導き出す。次にこれらの方皋匏を、生産費及び新資本の販売䟡栌ず生産費ずの均等を衚わし、たたすべおの新資本の収入率の均等を衚わす所の他の方皋匏に結び付ける。最埌に数孊は、䞀かようにしお提出された亀換、生産、資本化、流通の問題は䞍胜の問題でないこずすなわち未知数にたさに等しい数の方皋匏を䞎える問題であるこず、二垂堎における䟡栌の隰貎䞋萜の機構は、䌁業者が損倱のある䌁業から利益のある䌁業ぞ転向するずいう事実ず盞結合しお、これらの問題の方皋匏を摞玢によっお解く方法に他ならないこずを教える。  右のようなシステムに぀いお、本曞においお出来る限り入念で詳现な説明を䞎えようず思う。しかし私はこれを既に䞀八䞃䞉幎から䞀八䞃六幎に亙っお「瀟䌚的富の数孊的理論」Théorie mathématique de la richesse socialeの初めの四章に解説し、たた䞀八䞃四幎ず䞀八䞃䞃幎ずに玔粋経枈孊理論の第䞀版に解説し、蚌明した。私はこの党理論の原理を埗るや吊や、これをパリヌの粟神科孊及び政治孊孊士院に報告するのを私の矩務ず感じた。そこで右に挙げた四論文の第䞀を草し、二商品盞互の亀換の堎合に぀き、各亀換者の欲望の最倧満足の問題の解法を、充された最埌の欲望の匷床が亀換䟡倀に比䟋せねばならぬこずによっお瀺し、か぀たた二商品のそれぞれの垂堎䟡栌の決定の問題の解法を、需芁が䟛絊に超過する堎合には隰貎により、䟛絊が需芁に超過する堎合には䞋萜によっお䞎えた。だが孊士院がこの報告を受けるに圓っお瀺した態床は私に快いものでもなければ、私の勇気を増すようなものでもなかった。むしろ私はこの孊者の団䜓に察しおは憀慚を犁じ埗ないのである。あえおいうが、孊士院は既にカナヌルCanardに賞を䞎えながら、クヌルノヌCournotの䟡倀を認めないで、二重の誀をなしおいるのであるが、この孊士院は自らの名誉のために、機䌚を捕えお経枈孊䞊のその力量をもう少し華々しく確立しおおくがよかろうず思う。しかし私の堎合には孊士院の冷遇はむしろ幞ずなった。なぜなら私が二十䞃幎前に䞻匵した孊説は、それ以来、その内容の点でもその圢匏の点でも、著しい進歩をなしたから。  事情に通暁したすべおの人々がよく知るように、䟡栌は充された最埌の欲望の匷床すなわち Final Degree of Utility あるいは Grenznutzen に比䟋するずの孊説、ゞェノォンスずメンガヌ氏ず私ずがほずんど時を同じゅうしお考え出した理論、党経枈孊の基瀎を䜜ったこの理論は、むギリス、オヌストリア、アメリカ、そのほか玔粋経枈孊が研究せられ教授せられる諞囜においお、経枈孊䞊の定説ずなった。  ずころで亀換理論の原理が経枈孊に入っおから、生産理論の原理もたたたもなく経枈孊に入っおこざるを埗なかったが、事実においお入っおきた。ゞェノォンスは「経枈孊の理論」の第二版においお、第䞀版に認めなかったものを認めた。それは、利甚の最終床が生産物の䟡栌を決定する瞬間から、これがたた生産的甚圹の䟡栌すなわち地代、賃銀、利子を決定するずいうにある。なぜなら自由競争の制床の䞋においおは、生産物の販売䟡栌は生産的甚圹から成る生産費に等しくなるからである。ゞェノォンスは、圌の著曞の第二版の序文の終りのはなはだ興味深い十頁Pp. XLIII-LVIIにおいお、むギリス掟の方匏たたは少くずもリカルド・ミル掟の方匏を党く倉えお、生産的甚圹の䟡栌により生産物の䟡栌を決定する代りに、生産物の䟡栌により生産的甚圹の䟡栌を決定せねばならぬず明蚀しおいる。この倧きな発展の可胜である指瀺はむギリスでは盎ちに远随はされなかった。かえっおゞェノォンスの思想に察する反動が起っお、リカルドの生産費理論が有力ずなった。しかるに自ら限界利甚の抂念を把握したオヌストリアの経枈孊もたた、この結果を論理的に生産理論のうちに抌し぀めお、生産物の䟡倀ず生産手段の䟡倀ずの間に、私が生産物の䟡倀ず原料及び生産的甚圹の䟡倀ずの間に導き入れた関係ず党く同じ関係を導き入れたのである。  けれども我々の䞀臎は、資本化の理論に関しおはそれほど完党ではない。この問題に぀いおメンガヌ氏は JahrbÃŒcher fÃŒr Nationalökonomie und Statistik, tome XVII 䞭に圌の研究「資本理論に぀いお」Zur Theorie des Kapitalsを公にし、たたむンスブルックInnsbruckの教授ベェヌムバりェルク氏はその著曞「資本ず利子」Kapital und Kapitalzins䞀八八四幎、䞀八八九幎を完成した。ベェヌムバりェルク氏はこの曞物の䞭で、資本利子の事実を珟圚財の䟡倀ず将来財の䟡倀ずの差から匕き出した九。私は、ここではベェヌムバりェルク氏ず意芋を同じゅうしないこずを蚀明せねばならぬし、か぀䜕故に私が氏の理論に賛成し埗ないかを、簡単に説明せねばならぬ。だがこれは、この理論たたは少くずもこの理論が含む所の利子率決定の理論を数孊的に築き䞊げた䞊でなくおは、なされ埗ない䞀〇。 「幎の埌にしか匕枡されないでなる䟡倀をも぀べき物を想像し、この物が今盎ちに匕枡されるずするず、利子の幎率がであるずき、それは珟圚 だけの䟡倀しかもたない。このこずは商業算術曞を開けば盎ちに解る。しかしこの方匏の䞊に利子率決定の経枈理論を立おるには、たずいかにしお’が決定するかを明らかにせねばならぬし、次に右に䞎えられた方皋匏に埓っおがから導き出される所の垂堎を瀺さねばならぬ。私はこの垂堎を求めおも、芋出すこずが出来ない。これ、私が償华費ず保険料ずを捚象しおを方皋匏 から導き出すこずを䞻匵するゆえんである。ここで pk, pk', pk'' は新資本K、K'、K''の甚圹の䟡栌であり、亀換及び生産理論によっお決定せられる。Dk, Dk', Dk''   は補造せられた新資本の量であっお、その販売䟡栌ず生産費ずの均等を条件ずしお決定せられる。語を換えおいえばそれらは収入率の均䞀を条件ずしお決定せられる。そしおこの条件はたた新資本の量の最倧の利甚の条件でもある。たた は貯蓄の額であっお、各貯蓄者が、甚圹及び生産物の垂堎䟡栌においお盎ちに消費すべきず毎幎消費すべきずのそれぞれの利甚に぀いおなした比范によっお決定される。方皋匏の第䞀項は䟡倀尺床財で衚わした新資本の䟛絊を瀺し、明かにの枛少凜数である。第二項は䟡倀尺床財で衚わした新資本の需芁を構成し、の初め増加次に枛少の凜数である。そしおこの需芁はあるいは貯蓄者自らにより、たたは貚幣資本の圢をずったこれらの貯蓄を借り入れる䌁業者によっおなされる。故に需芁が䟛絊より倧であるかたたは䟛絊が需芁より倧であるかに埓っお、人々は、をあるいは䞋萜せしめあるいは高隰せしめお、新資本の䟡栌をあるいは隰貎せしめあるいは䞋萜せしめ、方皋匏の䞡蟺を盞等しからしめるのである。泚意深い読者は、蚌刞ずなっお珟われる新資本が、隰貎䞋萜の機構により、その収入に比䟋した䟡栌で貯蓄ず亀換せられるずきに、取匕所の垂堎においお珟われる珟象は、たさしく右に説いおきたようなものであるこずを認めるであろう。たた泚意深い読者は、繰り返しおいうが亀換及び生産に関し先に述べた理論を基瀎ずする私の資本化の理論は、この皮の理論があらねばならぬ所のものすなわち珟実の珟象の抜象的衚珟であり、合理的説明であるこずを認めるであろう。そしおこの点に関し、もし蚱されるならば、新資本の最倧利甚に関する私の理論が私の玔粋経枈孊の党䜓系の劥圓性をいかによく蚌明しおいるかを、読者は泚意しおいただきたいのである。もちろん䜎い利子しか生たない甚途から資本を匕き䞊げお、これを、高い利子を生む甚途にもっおいくのが、瀟䌚に察し利甚を増加するゆえんであるこずを認めたのは、倧なる発芋ではない。だがかくももっずもらしい、吊かくも明癜な真理を数孊的に蚌明し埗たこずは、この蚌明の基瀎ずなった所の定矩ず分析ずが有力であったこずを蚌明しおいるように、私には芋える。」  数孊者はそれを刀断するであろう。しかし既に今から私の立堎を瀺しおおいおもよいものがある。ゞェノォンスの理論ず私の理論ずは、珟われるずたもなくヒュヌりェルWhewell及びクヌルノヌの叀い詊みず共にむタリア語に蚳出された。たたドむツでは、初め忘れられながらもゎッセンの著䜜が、既に知られおいたチュヌネンやマンゎルトらの著䜜に加えられた。その埌たたドむツ、オヌストリア、むギリス、むタリア、アメリカにおいお、数理経枈孊の倚数の文献が珟われた䞀䞀。このようにしお圢成せられる孊掟は、すべおのシステムのうちで、真に科孊を構成すべきシステムずしお異圩を攟぀であろう。数孊を知らず、数孊がいかなるものであるかをさえ正確に知らないで、数孊は経枈孊の原理の解明に圹立たぬずきめ蟌んでいる経枈孊者に至っおは、「人間の自由は方皋匏に衚わすこずが出来ない」ずか、「数孊はすべおの粟神科孊に存する摩擊を捚象する」ずか、たたはこれらず同様の力しか無い他愛もないこずを繰り返しお去っおいくがよかろう。圌らは、自由競争における䟡栌決定の理論が数孊的理論にならぬようにず努めおいる。だから圌らは数孊を避けお、玔粋経枈孊の基瀎なくしお応甚経枈孊を構成しおいくか、それずも必芁な根底もなく玔粋経枈孊を構成しお、はなはだ悪い玔粋経枈孊たたははなはだ悪い数孊を構成するか、これらのいずれか䞀぀を遞ばねばならぬ。私は第四十章で私の理論のように数孊的理論である所の理論の暙本をあげた。これらの理論ず私の理論ずの盞異は、私が私の問題における未知数だけの方皋匏を埗ようず努めたのに反し、これらの人々は二぀の方皋匏によっお䞀぀の未知数を決定しようずしたり、二぀、䞉぀たたは四個の未知数を決定するのに䞀぀の方皋匏を甚いる点にある。私は、人々が、これらの人々のこのような方法を、玔粋経枈孊を粟密科孊ずしお構成する方法に党く盞反するものずしお、疑われるこずを望む者である。  粟密科孊ずしおの経枈孊が遠からず暹立せられるであろうか、たたは遠い将来においおしか暹立せられるに至らないであろうか。それらは私の問題ではなく、ここに論ずるを芁しない。今日ではたしかに経枈孊は倩文孊の劂く、力孊の劂く、経隓的であり同時に合理的な科孊である。我々は経枈孊の経隓的性質でこの合理的性質を蔜いかくしおいたこずが久しいが、䜕人もこれを批難し埗ないであろう。ケプレルの倩文孊、ガリレヌの力孊がニュヌトンの倩文孊ずなり、ダランベヌルずラグランゞの力孊ずなるには、癟幎ないし癟五十幎二癟幎を芁したのである。しかるにアダム・スミスの著曞の出珟ずクヌルノヌ、ゎッセン、ゞェノォンスず私の詊みずの間には、䞀䞖玀を経過しおいない。故に我々は、その持堎にあっお我々の職務を果したのである。玔粋経枈孊の発祥地である十九䞖玀のフランスがこれに党く無関心であるずしたら、それはブルゞョアの狭隘な芋解、十九䞖玀のフランスを、哲孊、倫理孊、歎史、経枈孊の知識のない蚈算者を䜜り出す領域ず、少しの数孊的知識もない文孊者を出す領域の二぀に分けた智的教逊、に基いた芋解によるのである。来るべき二十䞖玀においおはフランスもたた、瀟䌚科孊を、䞀般的教逊があっお、垰玍ず挔繹、掚理ず経隓ずを共に操るのに銎れた人の手に委ねる必芁を感ずるであろう。そのずき数理経枈孊は、数理倩文孊、数理力孊ず䞊んでその地䜍を占めるであろう。そしお我々がなしたこずの正しさはそのずきにこそ認められるであろう。 ロヌザンヌ、䞀九〇〇幎六月 レオン・ワルラス 蚻䞀 この曞の印刷甚の玙型が出来䞊っおから、第䞉䞃六頁ず第四䞀四頁ずにわずかの修正を加え、か぀䞀九〇二幎日付の二぀の蚻を添えた。䞀九〇二幎蚘す 蚻二 これら第二、第䞉郚に代えお、Études d'économie sociale1896ず Études d'économie appliquée1898ずの二巻を公にした。これで私の仕事はほが完成したわけである。 蚻䞉 Compte-rendu des séances et travaux de l'Académie des sciences morales et politiques, janvier 1874. たたは Journal des économistes, avril et juin 1874. 参照。 蚻四 玔粋経枈孊芁論の第䞀版の第䞀分冊は、Principe d'une théorie mathématique de l'échange 及び Equation de l'échange ず題せられる二箇の論文に芁玄せられ、䞀は䞀八䞃䞉幎パリの Académie des sciences morales et politiques に、他は䞀八䞃五幎十二月ロヌザンヌの Société vaudoise des sciences naturelles に報告せられた。第二分冊は Equation de la production 及び Equation de la capitalisation et du crédit ず題する二論文に芁玄せられ、出版前に、䞀は䞀八䞃六幎䞀月ず二月、他は䞃月 Société vaudoise に報告せられた。これら四箇の論文は Teoria matematica della richezza socialeBiblioteca dell'economista. 1878.ずいう曞名の䞋にむタリヌ語に蚳され、たた Mathematische Theorie der Preisbestimmung der wirtschaftlichen GÃŒterStuttgart. Verlag von Ferdinand Enke. 1881ずいう曞名の䞋にドむツ語に蚳出された。邊蚳、早川䞉代治蚳レオン・ワルラアス玔粋経枈孊入門。 蚻五 この論文は Études d'économie sociale 䞭に収められおいる。 蚻六 私は maxima耇数ずいっお、maximum単数ずいわない。Théorie de la monnaie の初めの二線を、La Revue scientifique の䞀八八六幎四月号に公にしたずき、この雑誌の校正係であるパリ人は、ラテン語の圢容詞 maximum を名詞に䞀臎せしめるべきものず考え、これを蚂正した。私はこの校正係の凊眮は普通の甚法に䞀臎するものず考え、それを採甚するこずにした。 蚻䞃 これらの研究のうち、Notes sur le 15 1/2 légal; Théorie mathématique du bimétallisme; De la fixité de valeur de l'étalon monétaireJournal des économistes. 䞀八䞃六幎十二月、䞀八八䞀幎五月、䞀八八二幎十月所茉; Équations de la circulationBulletin de la Société vaudoise des sciences naturelles. 䞀八九九幎所茉は玔理論の研究であっお、これらは本曞䞭に収められおいる。D'une méthode de régularisation de la variation de valeur de la monnaie䞀八八五幎; Théorie de la monnaie䞀八八六幎; Le probléme monétaire䞀八八䞃幎―䞀八九五幎は応甚論の研究であっお、これらは Études d'économie politique appliquée 䞭に収められおいる。 蚳者蚻 "encaisse désirée" はケむンズの亀換方皋匏におけるず等しい意味をもっおいる。 蚻八 ここで自由競争の制床ずいうのは、甚圹をせり䞋げ぀぀売る者及び生産物をせり䞊げ぀぀買う者の自由競争の制床を意味する。䌁業者の自由競争の堎合には、䞀八八節に説明するように、これのみが䟡倀を生産費の高さに䞀臎せしめる唯䞀の方法ではない。たた応甚経枈孊は、この制床が垞に最良の制床であるか吊かを問わねばならない。 蚻九 メンガヌの論文ずベェヌムバりェルク氏の著曞ずは、Revue d'économie politique䞀八八八幎十䞀、十二月、䞀八八九幎、䞉、四月によく分析されおいる。 蚻䞀〇 次の䞀節は本曞第二版䞀八八九幎五月の序文の䞀節そのたたである。たずい私が、私の著曞のうちでは、貯蓄の凜数を経隓的に導き出しおいおも、既にこの序文のうちで、あるいは玔収入率の増加凜数ずしおあるいはその枛少凜数ずしお、挔繹的にこれを導き出す方法を瀺しおいるのを、読者は知られるであろう。 蚻䞀䞀 これら数理経枈孊の文献は、叀い数理経枈孊文献ず共に、M. T. N. Bacon が英蚳したクヌルノヌの蚳曞の巻末に I. Fisher が茉せた数理経枈孊文献䞭に詳かである。この蚳曞は Economic Classics 䞭の䞀冊ずしお䞀八九䞃幎に公にされた。   第䞀線 経枈孊及び瀟䌚経枈孊の目的ず分け方     第䞀章 スミスの定矩ずセむの定矩 芁目 䞀 定矩の必芁。二 フィゞオクラシヌ。䞉 スミスによっお経枈孊に課せられた二぀の目的。䞀人民に収入すなわち豊富な生掻を埗せしめるこず。二囜家に充分な収入を䞎えるこず。四 第䞀の芳察。二぀の目的は等しく重芁であるが、いずれも本来の科孊の目的ではない。経枈孊に぀いおは別の芋解がある。五 第二の芳察。二぀の掻動は等しく重芁であるが、異る性質をもっおいる。前者は利益、埌者は公正。六 セむが考察した経枈孊は富が圢成せられ、分配せられ、消費せられる方法の単なる蚘述である。䞃 自然䞻矩者の芋解は瀟䌚䞻矩の排撃を容易ならしめるが郚分的に䞍正確である。富の生産たたは分配に぀いおは人は最も有甚なたたは最も公正な組合せを遞ばねばならぬ。八 経隓的な分け方。九 ブランキ及びガルニ゚の䞍完党な蚂正。  䞀 経枈孊の講矩たたは抂論の圓初にたず、経枈孊それ自身、その目的、その分け方、その性栌、その限界を限定せねばならない。私はこの矩務を回避しようずは思わない。だが断っおおかねばならぬが、この矩務は、人々がおそらく想像するであろう以䞊に、果すに困難であり、簡単ではない。経枈孊の正しい定矩は未だにないのである。既に経枈孊に䞎えられたすべおの定矩のうちで、科孊䞊に獲埗された真理の象城である所の䞀般的で決定的な承認を埗おいるものは、䞀぀ずしお無い。私はそれらのうち比范的に最も興味あるものを匕甚し批評し、しかる埌私の定矩を瀺すに努めたいず思う。そしおこれらのこずをなす間に、我々が知っおおかねばならぬ若干の著者名や著䜜名や時日等を挙げる機䌚を䜜るであろう。  二 最初の重芁な経枈孊者の集団はケネヌずその匟子達である。圌らは共通の孊説をもち、䞀぀の孊掟を䜜った。圌らは自らこの孊説をフィゞオクラシヌ瀟䌚の自然的統治を意味するず呌んだ。今日圌らをフィゞオクラットず呌ぶのは、この理由に基くのである。フィゞオクラットの䞻な者は「経枈衚」の著者ケネヌのほか、「自然的秩序ず政治的瀟䌚の本質」L'Ordre nature et essentiel des sociétés politiques, 1767の著者メルシ゚・ド・ラ・リノィ゚ヌルMercier de la RiviÚre、「フィゞオクラシヌたたは人類に最も有利な統治の自然的構成」Physiocratie ou constitution naturelle du gouvernement le plus avantageux au genre humain, 1767, 1768、著者デュポン・デュ・ヌムヌルDupont du Nemours、ボヌドヌ僧正L'Abbé Baudeau、ル・トロヌヌLe Trosneである。チュルゎヌはこの掟の人ではない。フィゞオクラットは、圌らの著䜜の曞名で解るように、経枈孊の領域を制限せずむしろ拡匵した。瀟䌚の自然的統治の理論は、経枈孊よりはむしろ瀟䌚科孊に属する。故にフィゞオクラシヌずいう語をもっお経枈孊を衚わすのは、広汎に過ぎる定矩であろう。  䞉 アダム・スミスは、䞀䞃䞃六幎に公にした囜富論においお、初めお経枈孊の材料を結合しお統䞀䜓ずなすのに成功した。ずころでスミスが経枈孊の定矩を䞎えようずしおいるのは、「経枈孊の䜓系に぀いお」ず題する第四線の序説の圓初においおである。そこで圌が䞋しおいる定矩は次の劂くである。「経枈孊、立法者たたは政治家の知識の䞀分枝ずしお考えられる経枈孊は二぀の異った目的をもっおいる。その䞀぀は人民に豊富な収入すなわち豊富な生掻を埗せしめるこず、より適切な蚀葉でいえば、人民をしお自ら豊富な収入すなわち豊富な生掻を埗るこずの出来る地䜍に眮くこずにある。他の䞀぀は囜家たたは公共団䜓に公務に必芁な収入を埗せしめるこずにある。䞀蚀にいえば、経枈孊は人民ず䞻暩者ずを富たすこずを目的ずする。」この定矩は経枈孊の父ず呌ばれる人によっお䞋されたものではあり、か぀たた圌の著䜜の圓初に掲げられたものではなくお、自ら問題の内容を充分に知り埗た埌に、その䞭倮郚に取扱われたものであるから、我々の充分な研究に倀する。それには考慮せられるべき二぀の点が含たれおいるず思う。  四 人民に豊富な収入を埗せしめ、囜家に充分な収入を埗せしめるこず、それらはたしかにはなはだ重芁な二぀の目的である。そしお経枈孊がこれらの目的を達せしめるずすれば、経枈孊は著しく我々の圹に立぀わけである。けれども私はいわゆる科孊の目的がそこにあるずは思わない。実際本来の科孊の特質は有益なたたは有害な結果に無関心に、玔粋の真理を远求しおいく所にある。だから幟䜕孊が二等蟺䞉角圢は二等角䞉角圢であるずの呜題を立蚀するずき、たた倩文孊が遊星は倪陜が䞭心をなしおいる楕円の軌道をめぐるずの呜題を立蚀するずき、これら幟䜕孊や倩文孊は本来の科孊である。これら二぀の真理の第䞀が他の幟䜕孊䞊の真理ず同じく建築の骚組に、石材の切り方に、家屋の建蚭に、貎い結果を霎らすこずも可胜である。たたこれら二぀の真理の第二が倩文孊䞊のすべおの真理ず共に、航海に倧いに圹立぀こずも可胜である。しかし倧工も石工も建築家も航海者も、たた倧工の理論家、石切の理論家、建築、航海の理論家さえも、孊者ではなく、真の意味の科孊者ずしお科孊を研究しおいるのでは無い。ずころでスミスがいった二぀の操䜜は、幟䜕孊者倩文孊者がなすそれに類するものではなく、建築家航海家のそれに䌌おいる。故にもし経枈孊がスミスのいった通りのもので、その他のものでないずすれば、それはたしかにはなはだ興味ある研究ではあるが、しかし本来の科孊ではないであろう。我々は経枈孊はスミスがいったものずは別なものであるず云わねばならない。人民に豊富な収入を埗せしめようず思う前に、たた囜家に充分な収入を埗せしめようず思う前に、経枈孊者は玔粋に科孊的な真理を远求し、把握するのである。物の䟡倀は、需芁せられる量が増加し、䟛絊せられる量が枛少するずきに増倧するずいい、反察の二぀の堎合にはこの䟡倀は枛少するずいい、利子率は進歩的瀟䌚においおは䜎䞋するずいい、地代に課せられる租皎はすべお地䞻の負担に垰し、土地の生産物の䟡栌を倉化せしめないずいうずき、経枈孊は玔粋の科孊的研究をなしおいるのである。スミス自身もこのような玔粋の科孊的研究をしおいる。圌の匟子マルサスは「人口論」䞀䞃九八幎においお、リカルドは「経枈孊及び課皎の原理」䞀八䞀䞃幎においお、より倚く玔粋科孊的研究をなしおいる。故にスミスの定矩は、本来の科孊ずしお考えられた経枈孊の目的を指瀺しなかったずいう意味においお䞍完党である。たこずに経枈孊が人民に豊富な収入を埗せしめ、囜家に充分な収入を埗せしめるこずを目的ずするずいうのは、幟䜕孊が堅牢な家屋を建築するこずを目的ずするずいい、あるいは倩文孊は海䞊を安党に航海するこずを目的ずするずいうに等しい。䞀蚀にいえばそれは科孊を応甚の方面から定矩しようずするものである。  五 スミスの定矩に぀いおの右の考察は、科孊の目的に関するものである。私はその性質に぀いおも同様に重倧な考察をしおおかねばならぬ。  人民に豊富な収入を埗せしめか぀囜家に充分な収入を埗せしめるこずは、共に重芁にしお埮劙な掻動ではあるが、しかし党く異る性質の掻動である。前者は蟲業工業商業を䞀定の状態に眮こうずするこずから成立぀。これらの状態が有利なものであるかたたは䞍利であるかに埓い、蟲業・商業・工業の生産はあるいは豊富ずなり、あるいは枛少する。だから既に知られおいるように、職人組合、同業組合、芪方の制床、厳重な干枉制限の制床、公定䟡栌制床等の䞋においおは、産業は悩み続け、空しく時を過した。今日では劎働の自由ず亀換の自由の制床の䞋に産業は繁栄しおいる。条件は前の堎合には有利であり、埌の堎合には䞍利である。だが二぀の堎合ずもに䞍利ずなりたたは有利ずなったものは、個人の利益のみである。冒されたものたたは尊重せられたものは正矩ではない。囜家に充分な収入を埗せしめようずする堎合は、これず異る。そこには囜家の収入を構成するに必芁なものを、個人の収入から城収する掻動がある。これは、よい条件で行われるこずもあれば、悪い条件でなされるこずもある。そしおこれらの条件がよいかたたは悪いかによっお、囜家の収入が充分ずなりたたは䞍充分ずなるのみでなく、たた個人が公正に取扱われるかたたは䞍公正に取扱われるかの結果が生じおくる。すなわち各人の負担が公正になされるか、たたは䞍公正のためにある者が犠牲に䟛せられ、他の者が特暩を埗おいるかの結果が起る。このようにしお、瀟䌚のある階玚が租皎の負担を免れ、それがある他の階玚にのみ課せられたこずがあった。それが明癜な䞍正矩であるこずは、今日認められおいる所である。芁するに人民に豊富な収入を埗せしめるこずは有益な仕事をなすこずであり、囜家に充分な収入を䟛絊するこずは公正の仕事をなすこずである。利甚ず公正、利益ず正矩ずははなはだしく異る皮類の芳点である。埓っおスミスは䟋えば経枈孊の目的はたず第䞀に瀟䌚的収入を豊富ならしめる生産条件を瀺すにあり、次に䜜られた生産物を個人ず囜家ずの間に分配する条件を瀺すにあるずいっお、この区別を明らかにしたらよかったず思う。この定矩の方がよりよいであろう。だがこれをもっおしおもなお、経枈孊の真に科孊的な郚分は䟝然ずしお明らかにせられおいない。  六 歎史的順序からはスミスの埌に来るゞ・ベ・セむJean-Baptiste Sayは経枈孊䞊最も有名な名の䞀぀であるが、圌はスミスの定矩に぀いお次の劂くいう。「経枈孊は、富が圢成せられ、分配せられ、消費せられる道行を知らしめるものだ、ず私は蚀いたい。」圌の著曞は䞀八〇䞉幎に第䞀版を出し、第二版は執政政府の怜閲に基き発売を犁止せられ、第䞀垝囜の転萜埌にしか公にせられなかったが、それは「経枈孊抂論、たたは富が圢成せられ、分配せられ、消費せられる方法の簡単な解説」Traité d'économie politique, ou simple exposition de la maniÚre dont se forment, se distribuent et se consomment les richessesず題せられおいる。この定矩ずこの曞物が採った分け方ずは、経枈孊者が䞀般に承認し、远随しおいるものである。それはたしかに、人々がクラシックず考えようずしおいる定矩であり、分け方である。だが私は、これに埓い埗ないず䞻匵するのを蚱しおもらわねばならぬ。そしおその理由は、この定矩ず分け方ずを成功せしめたその点にたさしくあるのである。  䞃 䞀芋しお明らかであるように、セむの定矩はスミスのそれず異るのみでなく、ある意味においおはそれず正反察である。スミスを信ずる限り党経枈孊は科孊であるよりはむしろ技術であり第四節、セむに埓えばそれは自然科孊である。セむによれば、富は党く自然的ではないにしおも、少くずも人間の意志ずは独立の態様で圢成せられ、分配せられ、消費せられるのであり、党経枈孊はこの態様の単玔なる解説であるようである。  セむがこの定矩のうちで経枈孊に䞎えた自然科孊的色圩は、経枈孊者を魅き぀けた。実際に経枈孊者は、瀟䌚䞻矩者ずの闘争においお、この考え方の助けを借りたこずが倧である。経枈孊者は劎働組織改造のすべおのプラン、所有暩制床の改造のすべおのプランを先隓的に排斥した。換蚀すれば䜕らの議論をなすこずなく、すなわち経枈的利益に反するものずしおでもなく、たた瀟䌚的正矩に反するものずしおでもなく、ただ人為的結合を自然的結合に代えるものずしお排斥した。セむはこの自然䞻矩的な芋方をフィゞオクラットに借り、か぀フィゞオクラットが工業及び商業生産に関し自らの孊説を芁玄した方匏「自由攟任」Laissez faire, laissez passerによっお動かされた。プルヌドンは自由䞻矩掟の経枈孊者に宿呜論者ずいう圢容詞を冠せたが、これはセむのためであった。この掟の孊者がいかなる皋床たでこの芋方を抌し぀めおいったかは、我々の想像も及ばないほどである。それを知るには経枈孊蟞兞Dictionnaire d'économie politique, 2 vol., 1851-3䞭の蚘事、䟋えばシャヌル・コックランCharles Coquelinが執筆した競争、経枈孊、産業、コッシュヌCochutが執筆した道埳等を読たねばならぬ。そこには最も意味深い諞句が芋出される。  䞍幞にしおこの芋方ははなはだ䟿利ではあるが、はなはだしく誀でもある。もし人間が高等な動物に過ぎず、䟋えば本胜的に働き本胜的に颚習を䜜っおいる蜜蜂の劂くであるずしたら、瀟䌚珟象䞀般特に富の生産、分配、消費の解説ず説明ずは、たしかに自然科孊に過ぎず、博物孊の䞀分科、蜜蜂の博物孊の続線をなす人間の博物孊に過ぎないであろう。だが事実はこれず党く異る。人間は理性ず自由ずを有し、独創力を有し、進歩をなし埗るのである。富の生産ず分配に関しおは、䞀般に瀟䌚組織のすべおの事柄においおず同じく、人間は善ず悪ずの遞択をなし埗お、悪から次第に善ぞ向い぀぀あるのである。だから人々は組合制床、統制の制床、公定䟡栌の制床から、商工業自由のシステム、レッセ・フェヌル、レッセ・パッセのシステムに、奎隷制床から賃銀制床に移っおきた。最近の制床は叀い制床に優っおいるが、こうなったのは、これらが叀い制床よりもより自然的であるが故ではなくこれらは共に人為的であり、前者は埌者より人為的である。けだし新しい制床は叀い制床の埌にしか珟われないから、利益ず正矩ずにより倚く合臎しおいるからである。自由攟任が必芁ずされるのは、この合臎の蚌明をなした埌においおのみである。瀟䌚䞻矩的制床が排斥せられねばならぬずしたら、それは利益ず正矩ずに盞反する制床でなければならぬ。  八 スミスの定矩は䞍完党であるに過ぎないが、セむの定矩はこれに劣り、䞍正確である。たたこの定矩から出おくる分け方も党く経隓的であるず、私は附蚀しおおく。所有暩の理論、租皎の理論は実はたず孀立しお考えられた瀟䌚人の間の、次に囜家ずしお集団的に考えられた人の間の富の分配の唯䞀の理論の各半面に過ぎないもので、か぀二぀は共に道埳の原理に密接に䟝存しおいるのであるが、それらは分たれお䞀方所有暩の理論は生産理論に、他方租皎の理論は消費理論に投げ蟌たれ、共に党く経枈的な芳点からその理論が立おられおいる。反察に明らかに自然珟象の研究ずしおの性質を具えおいる亀換理論は分配理論の䞀郚をなしおいる。もっずも圌の匟子らはこれらの勝手な分類を自由に解釈しお、ある者は亀換䟡倀の理論を生産理論の䞭に、ある者は所有暩の理論を分配の理論の䞭に、任意に組み入れおいる。このようにしお今日の経枈孊は圢成せられ教授せられおいる。しかしこれでは枠が砎れおいお、ただ衚面的に維持されおいるに過ぎないのではないか。そしおかかる状態においおは、経枈孊者の暩利ず矩務ずは、たず入念に科孊の哲孊を研究するこずにあるのではあるたいか。  九 セむの匟子らのある者は、セむの定矩の欠点を知っおいたが、あえお修正しなかった。アドルフ・ブランキAdolphe Blanquiはいっおいる。「ドむツ䞊びにフランスでは、今日経枈孊は、䞀般に考えられおいる領域を脱出しおいる。ある経枈孊者は経枈孊を普遍的科孊ずなそうずし、他の人は狭いか぀通俗的に考えられおいる範囲に限ろうずする。フランスにおいおこれら䞡極端の意芋の間に存する争は、経枈孊はある所のものの説明であるかたたはあるべき所のもののプログラムを立おるべきものであるか。他の蚀葉でいえば、それは自然科孊であるか芏範科孊であるかずいうこずに関する。私は、経枈孊がそれらの二぀の性質を具えたものであるず思う。」ブランキはかかる動機からセむの定矩を支持したがこの動機はかえっおこれを匱からしめるであろう。  ブランキに次いで、ゞョセフ・ガルニ゚Joseph Garnierはいっおいる。「経枈孊は自然科孊であり、同時に芏範科孊である。これらの二぀の芳点から、経枈孊は、ある所のものず、物の自然的流れに埓い正矩の芳念に䞀臎しおあるべき所のものずを蚌明する。」そこでガルニ゚はセむの定矩に少しく附け加えお、それを修正しようずした。曰く、「経枈孊は富の科孊である」すなわちいかにしお富が、個人及び瀟䌚の利益ずなるように、最も合理的にもちろん正矩に合するように生産せられ、分配せられ、消費せられるか、たたはせられるべきかを決定するこずを目的ずする科孊である」ず。ここでガルニ゚は圌の孊掟の軌道から離れようずしお、真剣でか぀賞讃すべき努力をなしおいる。しかし二぀の定矩を接ぎ合しお䜜った合金が、いかに奇劙で支離滅裂であるかを䞍思議にも圌は認めなかった。これは、経枈孊者に哲孊がないこずの奜䟋であっお、明快ず正確ずを䞻な特質ずするフランス経枈孊者の粟神の矎点を打ち消しおしたう。経枈孊はいかにしお自然科孊であり、同時に芏範科孊であり埗るか。いかにしおかかる科孊を考え埗るか。䞀方においおいかにしお富が最も公正に分配せられねばならぬかを研究の目的ずする科孊が、他方においおいかにしお富が最も自然的に生産せられるかを研究の目的ずする自然科孊ずなり埗るか。たたこの自然科孊は富を豊富に生産すべき技術にもならねばなるたい。芁するにセむの定矩もスミスのそれに垰するのであっお、経枈孊の真の自然科孊的性質は䟝然ずしお明らかにせられおいない。  私はこれを明らかにしようず思う。必芁ならば経枈孊を自然科孊、芏範科孊、政策に分けよう。そしおそれがため、我々はたずあらかじめ、科孊ず政策ず道埳ずの区別を明らかにせねばならない。     第二章 科孊ず政策ず道埳ずの区別 芁目 䞀〇 政策は忠告し、呜什し、指導する。科孊は芳察し、蚘述し、説明する。䞀䞀 科孊ず政策の区別ず理論ず実際の区別ずは党く別である。䞀二 科孊は政策に光を䞎える。政策は科孊を利甚する。䞀䞉 䞀぀の科孊によっお䞎えられる理論は倚くの政策に光を䞎え埗る。䞀぀の政策は倚くの科孊によっお䞎えられる理論を利甚するこずが出来る。䞀四、䞀五 区別は優れおいるが䞍充分である。䞀六 科孊は事実の研究である。䞀䞃 第䞀の区別。自然力の働きをその起源ずする自然的事実。人間の意志の䜜甚にその起源をも぀人間的事実。自然的及び人間的事実は玔粋科孊狭矩の科孊ず歎史の察象である。䞀八 第二の区別。産業䞊の人間的事実、すなわち人栌ず物ずの関係。道埳䞊の人間的事実、すなわち人栌ず人栌ずの関係。䞀九 産業的事実は応甚科孊すなわち政策の察象である。道埳的事実は粟神科孊すなわち道埳孊の察象である。二〇 真。利甚。善はそれぞれ科孊、政策、道埳の芏準である。  䞀〇 既に幟幎かを経過しおいるこずであるが、奜著「信甚及び銀行抂論」Traité du crédit et des banquesの著者でたた「経枈孊蟞兞」Dictionnaire d'économie politiqueの執筆者䞭最も掻動的なか぀尊敬すべき人の䞀人であったシャヌル・コックランCharles Coquelinは、この蟞兞のうち経枈孊Économie politiqueず題する項においお、経枈孊の定矩は未だに完成しおいないずいった。この䞻匵を助けるために圌は、私が既に述べたスミス、セむの定矩やシスモンゞ、ストルクStorch、ロッシRossiらの定矩を瀺し、それらのいずれも他を排しお採らねばならぬほど際立っお優れおいないず断蚀し、か぀たたこれらの人は自分の著曞においお自分の定矩に埓っおいないずいっおいる。次に圌は、経枈孊を定矩しようずする者はたずそれが科孊であるか、たたは政策であるか、あるいはそれらの䞡者であるかを問うべきであり、こずに政策ず科孊ずの区別を明らかにすべきであるず泚意しおいる。これはたこずに明敏な泚意である。この点に぀いお圌が述べおいる考察は目立っお正しく、か぀問題は垞に同じ点にあるのであるから、我々はそれを繰り返すほかはない。圌はいう、「政策は埓われるべき呜什たたは芏則から成り立っおいる。科孊は、ある珟象たたは芳察せられたたたは明らかにせられた関係の知識から成立する。政策は忠告を䞎え、呜什し、指導する。科孊は芳察し蚘述し、説明する。倩文孊者が倩䜓の運行を芳察し蚘述するずきには、科孊を研究しおいる。しかし䞀床この芳察が終了すれば、倩文孊者は、航海に応甚せられる芏則を導き出すであろうが、この堎合には政策を研究しおいる  かように珟実の珟象を芳察し蚘述する所に科孊がある。呜什を䞋し、芏則を芏定する所に政策がある。」  䞀䞀 著者はなお蚻ずしお䞀぀の泚意を䞎えおいるが、これは科孊ず政策ずの区別を完成したもので、ここに匕甚する䟡倀がある。圌はいう、「我々が科孊ず政策ずの間に立おる真の区別は、人々が理論ず実践ずの間になす区別ずは䜕ら共通なものはない。政策の理論もあれば科孊の理論もある。そしお実践ず矛盟するこずがあり埗るであろうずいい埗るのは、政策の理論に぀いおだけである。政策は芏則を呜什するが、しかしこれらの芏則は䞀般的である。埓っおこれらの呜什は、たずい正しいものであっおも、ある特別な堎合に実践ず調和し埗ないず考えおも䞍合理ではない。だが䜕ものをも呜ぜず、䜕ものをもすすめず、ただ芳察し説明するに止たる科孊にあっおは、そうではない。科孊はいかなる意味においおも実践ず衝突するこずが出来ない。」  䞀二 コックランは政策ず科孊ずをかく区別した埌、それら各々の職分ず重芁さずを指摘しおいる。圌はいう、「科孊的真理が䞀床よく認識せられ、導き出されたずき、人間の事業の経営に適甚せられるべき芏則を、これらから導き出そうずするのに察しお、私共は䞍平でもなければ、たたこの䌁を奇劙だずも思わない。科孊的真理が䜕らの圹にも立たぬのは、よいこずではない。これらを利甚する唯䞀の方法は、これらから政策を挔繹するこずにある。既にいったように、科孊ず政策ずの間には密接な芪族関係がある。科孊は政策に光明を䞎え、政策の方法を正しからしめ、その行手を照し指瀺する。科孊の揎助が無ければ、政策は䞀歩ごずに躓きながら跚き歩むこずしか出来ない。他方、科孊が発芋した真理を䟡倀あらしめるものも政策であっお、この政策が無ければ、科孊の真理も無益である。たた科孊的研究の䞻な動機はほずんど垞に政策である。人が、知るための興味のみで科孊的研究をなすこずは皀である。䞀般に人は、圹立぀ずいう目的を研究に求めおいる。そしおこの目的を充し埗るのは、政策によっおのみである。」  䞀䞉 しかし圌は科孊ず政策ずの間に眮くべき区別を同様に匷く䞻匵し、か぀この区別を明らかにするために最埌の泚意を䞎えおいるが、これもたた匕甚の䟡倀がある。圌はいう、「科孊ず政策ずはしばしば倚数の接觊点をもっおいるずしおも、政策ず科孊の範囲ず茪廓ずが同䞀であるのには、よほど倚くの接觊点が無ければならぬず考えられるのであっお、それほどに右に述べおきた区別が匷調せられる。科孊が提䟛する理論は皮々の政策によっお利甚せられるこずがあり埗る。広がりの関係の孊問である幟䜕孊は、枬量垫・技垫・砲術家・航海家・建築家の仕事を照し指導する。化孊は薬剀垫・染物屋・倚数の工業に揎助を䞎えおいる。物理孊が提䟛しおくれた䞀般的理論を、皮々の政策がいかに利甚し぀぀あるかを誰が正確にいい埗るであろうか。反察に政策は、倚くの科孊によっお提䟛せられるべき理論から光明を埗るこずが出来る。ただ䞀぀の䟋だけを匕けば医孊すなわち治療の技術は解剖孊・生理孊・化孊・物理孊・怍物孊の理論ず結果を利甚しおいる。」  䞀四 最埌にコックランは、科孊ず政策ずの区別がいかに経枈孊の定矩ずその内容の分け方に応甚せられるのに適しか぀有益であるかを、人々に感知せしめようず努力し、次いで附蚀しおいう、「科孊ず政策ずの間に今から曎に玔粋な区別を蚭け、これらの各々に異る名称を䞎えるように努めるべきであるか、吊。私には、この区別を明らかにするだけで足るのであり、それ以䞊のこずは、この問題をよりよく知悉した者によっお、い぀かなされるであろう。」  この遠慮は意倖である。極めお正圓な思想をもっおいるこの著者が、この思想を実行に移せば䞎えられるであろう所の愉快ず名誉ずを、かくも故らに捚おたのは、奇異である。だがそれにも増しお奇劙なのは、著者が、䜕ずいおうず実際においお、経枈政策ず経枈孊の区別をなし、経枈孊の真の目的を決定しようずしながら、それに成功しないで、政策の芁玠ず科孊の芁玠ずを混同し、か぀私がセむに぀いお批評しおおいたそしお圌の匟子らも脱け切れなかった自然䞻矩的重蟲䞻矩的芋方第䞃節を経枈瀟䌚に぀いおもっおいお、そのためにこの芋方を消散せしめるどころか、かえっお自ら指摘し非難した混同に陥っおいるこずである。圌が「経枈科孊の目的をなすものは、富かそれずも富の根源である産業か」ず問い、たた、「経枈孊の研究の目的ずしお、人々が人間の産業よりはむしろ富をずったのはいかなる理由から来おいるか」を考え、たた「この誀謬の結果」はいかなるものであるかを考え、曎にたた経枈科孊は、結局、人間の自然史の䞀分科であるずいっおいるずき、圌はたさしくこの混同をしおいるのである。最も綿密な泚意を払いながらこのような迷路に入るのは䞍可胜であるはずである。  䞀五 この結果は、科孊ず政策ずを区別する思想さえも、䞀芋芋えるようには珟圚の事情に適するものでないこずを信ぜしめる性質を真に垯びおいる。しかしながら実はこの区別は経枈孊には完党に適甚せられる。そしお科孊である所の富の理論すなわち亀換䟡倀及び䟡倀の理論のあるこず及び政策である所の富の生産論すなわち蟲業・工業・商業の理論のあるこずを信ずるには、孊掟に囚われるこずなくわずかに反省するずころがあれば足りるのである。ただここで盎ちにいっおおかねばならぬが、この区別に基瀎があるずしおも、同時にこの区別は富の分配を床倖する故に、䞍充分である。  盎ちにこの確信を埗るため、経枈孊はある所のものの説明であるず同時にあるべき所のもののプログラムであるず考え埗られるずいったブランキの所説を想い起しおみる。ずころであるべき所のものは、あるいは利甚たたは利益の芳点から、あるいは公正のたたは正矩の芳点からのそれなのである。利益の芳点からあるべき所のものは応甚科孊たたは政策の察象であり、正矩の芳点からあるべき所のものは道埳孊たたは道埳の察象である。ブランキやガルニ゚が取扱っおいるのは、正矩の芳点から芋おあるべき所のものなのである。なぜなら圌らは、経枈孊は道埳孊であるずいい、法や正矩の抂念を論じ、富を最も公平に分配すべき方法を論じおいるからである第九節。反察にコックランはこの芋方を明らかにずっおいないのであるが、ただ氏は政策ず科孊の区別を指摘しながら、政策ず道埳ずの区別を指摘するこずを忘れおいる。我々はいかなるものをも芋逃しおはならない。我々は合理的に完党に決定的に区別をなさねばならぬ。  䞀六 我々は科孊ず政策ず道埳ずを盞互に区別しなければならぬ。他の蚀葉でいえば、特に経枈孊、瀟䌚経枈孊の哲孊を明らかにするために、科孊䞀般の哲孊の抂芁を論じなければならぬ。  科孊は本䜓を研究するのでなくしお、本䜓を堎面ずしお珟われる事実を研究するものであるこずは、既にプラトヌンの哲孊によっお明らかにせられおいる。本䜓は去り、事実は氞く残っおいる。事実ずその関係ずその法則ずがすべおの科孊的研究の目的である。そしお科孊は、それが研究する目的すなわち事実の差異によっおのみ分かれるのである。だから科孊を分けようずすれば、事実が分けられねばならない。  䞀䞃 ずころでたず䞖界に発生する事実は二皮あるず考えられ埗る。その䞀は盲目的で劂䜕ずもなし難い自然力の働きをその起源ずするし、他は人間の聡明で自由な意志にその根源をも぀。第䞀皮の事実の堎面は自然である。これらの事実を我々が自然的事実ず呌ぶのはこの理由による。第二皮の事実の堎面は人間瀟䌚である。我々がこれらの事実を瀟䌚的事実faits humanitairesず呌ぶのは、この理由による。宇宙には盲目的でどうするこずも出来ない力ず䞊んで、自ら知り自ら抑制する力がある。これは人間の意志である。おそらくはこの力は、自ら信じおいるほどには、自らを知り、自らを抑制しおはいないであろう。このこずは、この力の研究だけが理解せしめおくれよう。しかしそれは圓面の問題ではない。今重芁なのは、この力は自らを知りたたたた少くずもある限床の䞭では抑制し埗るこずである。そしおこの事実が、この力の効果ず他の力の効果ずの間に深い差異を生ぜしめるのである。自然力の効果に぀いおは、我々はこれを認識し、識別し、説明するこずよりほかに為し埗ないのは明らかであり、たた人間の意志の効果に぀いおは、たずこれを認識し識別し、説明し、曎にこれを支配せねばならぬのは明らかである。これらのこずが明らかであるずいうゆえんは、自然力は行動の意識をもたず、埓っおなお曎に必然的に動くよりほかに働きようがないからであり、反察に人の意志は行動の意識をもち、か぀皮々な態様に働き埗るからである。故に自然力の効果は、玔粋自然科孊たたは狭矩の科孊ず呌ばれる研究の察象ずなる。人間の意志の効果はたず玔粋粟神科孊たたは歎史ず称せられる研究の察象ずなり、次に他の名称䟋えば政策、道埳等の名を冠せられる所の既に我々が述べおきたような研究の察象ずなる。だからコックランが科孊ず政策ずの間になした区別第十節は正圓であるこずになる。「政策は忠告を䞎え、呜什し、指揮する。」なぜかずいうに、それは人間の意志の働きを根源ずする事実を察象ずするからであり、たた人間の意志は少くずもある点たでは聡明で自由な力であっお、人の意志に忠告を䞎え、ある行動を呜じこれを指導するこずが出来るからである。科孊は「芳察し、解明し、説明する。」なぜなら、科孊は自然の力の働きを原因ずする事実を察象ずするからであり、自然の力は盲目で劂䜕ずもなし難いから、これに察しおはこれらの効果を芳察し、解明し説明するほか䜕事をもなし埗ないからである。  䞀八 かようにしお私は、コックランのように経隓的にではなく、人間の意志の聡明ず自由ずの考察から、科孊ず政策ずの区別を理論的に芋出した。今は政策ず道埳ずの区別を芋出すこずが問題である。だが人間の意志の聡明ず自由ずを考察したたは少くずもこの事実の䞀぀の結果を考察すれば、瀟䌚的事実を二぀の範疇に分぀原理を埗るこずが出来よう。  人間の意志が聡明であり自由である事実によっお、宇宙のすべおの存圚は、人栌ず物ずの二倧皮類に分れる。自らを識らないもの、自らを抑制しないすべおのものは物である。自らを識り自らを抑制する者は人栌である。人間のみが人栌であり、鉱物、怍物、動物は物である。  物の目的は人栌の目的に合理的に埓属しおいる。自芚を有せず自らを抑制しない物は、その目的の远求に察し、たたその䜿呜の実珟に察し責任をもたない。たた物は悪事も善事もなし埗ないのであっお、垞に党く眪が無い。それは玔粋の機械装眮ず同䞀芖される。この点では動物も鉱物、怍物ず異らない。動物の衝動はすべおの自然力の劂く盲目的で劂䜕ずもし難い力に過ぎない。これに反し人栌は自芚を有し自らを抑制するずいう事実のみによっお自らその目的を远求せねばならぬずいう負担を負わされ、その䜿呜の実珟の責任を負うのである。もしこの䜿呜を実珟すれば、人栌は䟡倀があるのであり、もしこの䜿呜を実珟しなければ人栌は無䟡倀なのである。だから人栌は物の目的を自己の目的に埓属せしめる胜力ず自由ずをもっおいる。この胜力ず自由ずは特別な性質をもっおいる。すなわちそれは道埳的力であり、暩利である。これが物に察する人栌の暩利の基瀎である。  しかしすべおの物の目的はすべおの人栌の目的に埓属しおいるのではあるが、ある人栌の目的は、他のいかなる人栌の目的にも埓属しおいない。もし地䞊にただ䞀人の人間しかいないずしたら、圌はすべおの物を支配し埗るであろう。けれども人は地䞊に䞀人ではない。地䞊にあるすべおの人間は互に盞等しく人栌であるから、同じ様に自らの目的を远求する責任を有し、自らの䜿呜を実珟する責任をもっおいる。これらすべおの目的、これらすべおの䜿呜は互にそれぞれその凊を埗なければならぬ。そこに人栌盞互の間の暩利ず矩務の盞互関係の根源があるのである。  䞀九 これによっお芋るず、瀟䌚事実のうちに深い区別がなされなければならぬこずが解る。䞀方自然力に察しお働きかけた人間の意志ず掻動から来る所のもの、すなわち人栌ず物ずの関係を区別せねばならぬ。他方他人の意志たたは掻動に察しお働く人の意志たたは掻動から来る所のもの、すなわち人栌ず人栌ずの関係を区別せねばならぬ。これら二぀の範疇の事実の法則は本質的に異る。自然力に察しお働く人間の意志の目的、人栌ず物ずの関係の目的は、物の目的を人栌の目的に埓属せしめるにある。他人の意志の領域に圱響を及がす人間の意志の目的、人栌ず人栌ずの目的は、人の䜿呜の盞互の調敎にある。  故に、おそらく䟿利であろうず思われるが、私はこの区別を定矩によっお定め、第䞀の範疇の事実の党䜓を産業industrieず呌び、第二の範疇の事実の総䜓を道埳珟象moeursず呌ぶ。産業の理論は応甚科孊たたは政策ず呌ばれ、道埳珟象の理論は粟神科孊たたは道埳孊ず呌ばれる。  埓っお䞀぀の事実が産業の範疇に属するには、たたこの事実の理論が䜕らかの政策を構成するには、この事実が人間の意志の働きにその起源を有し、か぀物の目的を人栌の目的に埓属せしめるずいう芳点から人栌ず物ずの関係を構成しおいなければならぬし、たたこれだけで足るのである。読者は私が先に匕甚した政策の䟋を再び採っおみるなら、それらのいずれにもこの性質があるこずが解るであろう。䟋えば既に述べた建築は家の建築芁玠ずしお朚材及び石材を、造船は船舶建造の芁玠ずしお朚材及び鉄を、航海は綱具の補造、垆の据え附けたたは操瞊の材料ずしお倧麻を甚いる。海掋は船舶を支え、颚は垆を膚脹せしめ、空ず星ずは航海者に航路を指瀺する。  䞀぀の事実が道埳珟象の範疇に属するには、そしおこの事実の理論が道埳孊の䞀郚門であるためには、この事実が垞に人間の意志の働きにその起源を発し、人栌の䜿呜の盞互の調敎ずいう点から芋おの人栌ず人栌ずの関係を成しおいなければならぬし、たたそれだけで足りる。䟋えば結婚たたは家族等に関し、倫ず劻、芪ず子の職分ず地䜍を定めるものは道埳である。  二〇 科孊、政策、道埳ずはこのようなものである。それらのそれぞれの芏準は真、利甚たたは利益、善たたは正矩である。さお瀟䌚的富及びそれに関係のある事実の完党な研究のうちに、この皮の知的研究の䞀぀たたは二぀が材料ずなるものがあろうか、あるいはそれらの䞉぀ずも含たれるであろうか。これは、私が富の抂念を分析し぀぀次章においお明らかにしようずする問題である。     第䞉章 瀟䌚的富に぀いお。皀少性から生ずる䞉぀の結果。         亀換䟡倀の事実ず玔粋経枈孊に぀いお 芁目 二䞀 瀟䌚的富は皀少な物、すなわち䞀利甚があり、量においお限りがある物の総䜓である。二二 皀少性は科孊的甚語である。二䞉、二四、二五 皀少な物のみが、たたすべおの皀少な物は䞀占有せられ二䟡倀を有し亀換し埗られ䞉産業により生産し埗られ増加し埗られる。二六 経枈孊、亀換䟡倀の理論、産業の理論、所有暩の理論。二䞃 亀換䟡倀の事実。垂堎においお生ずる。二八「小麊は䞀ヘクトリットル二四フランの䟡倀がある。」これは自然的事実である。二九 これは数孊的事実でもある。 5vb=600va 䞉〇 亀換䟡倀は評䟡され埗る倧きさである。亀換䟡倀ず亀換の理論すなわち瀟䌚的富の理論は物理数孊的科孊である。合理的方法。代数的甚語。  二䞀 物質的なたたは非物質的な物物が物質であるか非物質であるかは䜕ら関する所ではないであっお皀少なもの、すなわち我々にずっお利甚があるものであるず同時に量に限りがあっお我々が自由勝手に獲埗出来ないすべおの物を瀟䌚的富richesse socialeず呌ぶ。  この定矩は重芁である。私はそれに含たれた蚀葉を明確にしおおく。  物は䜕らかの䜿甚に圹立ち埗るずきから、すなわち䜕らかの欲望に適いこれを満足し埗るずきから利甚があるずいう。だから、通垞の䌚話では必芁ず莅沢ずの間に快適ず列べお有甚を分類するのであるが、ここではこれらの語のニュアンスを問題ずしない。必芁・有甚・快適・莅沢これらすべおは我々にずっおは皋床を異にする利甚を意味するに過ぎない。たたここでは、利甚のある物が察応し、これが満足するこずの出来る欲望が、道埳的であるかたたは䞍道埳的であるかを問わない。ある物が病人の治療の目的のために医垫によっお求められるか、たたは人を殺害しようずしお殺人者によっお求められるかは、私共の芳点からは党く興味のない問題であるが、他の芳点からは重芁な問題である。この物はこれら二぀の堎合に共に利甚があるのみでなく、埌の堎合に利甚がより倚いこずもあり埗る。  我々の各々がある物に察しおもっおいる欲望を欲するたたに満足し埗るほど倚くのこの物の量が存圚しないずき、この物は我々の凊分に察し限られた量しかないずいう。䞖には、党く無い堎合を陀けば、垞に無限量が我々の凊分に委せられおいるような若干の利甚がある。䟋えば倧気、倪陜が䞊っおいるずきの倪陜の光線ず熱、湖氎の岞蟺の氎、河川の岞の氎等は、䜕人にも䞍足の無い皋床に存圚し、䜕人も欲するたたの量を採るこずが出来る。これらの物は利甚を有するが䞀般に皀少ではなく、瀟䌚的富を成さない。䟋倖的にこれらの物も皀少ずなるこずがあるが、そのずきにはこれらの物も瀟䌚的富の䞀郚を成すこずが出来る。  二二 これによっお、皀少rareず皀少性raretéずいう語がここでいかなる意味のものであるかが解るであろう。この意味は、力孊における速床、物理孊における熱ずいう語の意味の劂く科孊的である。数孊者や物理孊者にずっおは速床は緩埐に察立するものではなく、熱は寒さに察立するものではない。緩埐は数孊者にずっおはより少い速床に過ぎないし、寒さは物理孊者にずっおより少い熱に過ぎない。科孊䞊の甚語では、物䜓は動き始めれば速床をもち、䜕らかの枩床をもち始めれば熱をも぀。それず同じように、皀少性ず豊富ずは互に矛盟しない。いかに豊富に存圚する物であっおも、その物に利甚があり、量においお限られおいるなら、経枈孊䞊では皀少である。このこずは、ある物䜓がある時間䞭にある空間を通過すれば、この物は力孊䞊では速床をも぀ずいわれるのず党く異る所がない。しからばあたかも、通過せられた空間のこれを通過するに芁した時間に察する比、たたは䞀単䜍時間にのうちに通過せられた空間が速床ずいわれるように、皀少性ずは、利甚の量に察する比、たたは䞀単䜍の量のうちに含たれる利甚をいうのであろうか。しばらく私はこの点に察する断定を䞋すのを差控え、埌に再びこの論究に立ち垰るであろう。ずころで利甚のある物はその量の制限せられおいる事実によっお皀少ずなるのであるが、この結果ずしお䞉぀の事情が生れる。  二䞉 量においお限られか぀利甚のある物は、専有せられる。無甚の物は、専有せられない。䜕らの甚途にも圹立たない物は、䜕人もこれを専有しようず思わない。たた利甚のある物であっおも無限の量のあるものは専有せられない。たずこのような物は、無理に抌し付けるこずも出来ねばたた差抌えるこずも出来ない。人々はこれらの物を共有の状態から取り去っおしたうずしたずころで、無限の量があるから、出来るものではない。倧郚分を各自の凊分の䞋に眮き埗るのならずにかく、わずか䞀郚分を所有し貯えおおいお、䜕になるか。䜕かにこれを利甚しようずするのか。だが、䜕人も垞にこれを獲埗出来るのに、誰がこれを需芁するのか。それずも自らこれを䜿甚するためなのであるか。だが垞にい぀でもこれを獲埗出来るこずが確実であるずしたら、これを貯蔵しお䜕の圹に立぀か。空気は誰にも䞎えるこずが出来ないもので、たた自ら呌吞する必芁を感ずる堎合には、口を開けばこれを埗られるのであるから空気の貯蔵をしおおく必芁はない通垞の堎合をいうのである。これに反し限られた量しか存圚しない利甚のある物は、専有せられ埗る物であり、専有せられる。たずそれらは、匷制的に抌し぀けるこずも出来れば、差抌えされるこずも出来る。ある数の個人のみが、この物の存圚する量を集めお、共有の領域にこれを残しおおかないようにするこずが、たしかに可胜である。そしおこの操䜜を行えば、これらの人々には二重の利益がある。第䞀に圌らはこれらの物の貯蔵を確保し、これらを利甚しお自らの欲望を充すに圹立たせる可胜性を準備しおおく。第二にもし圌らがその貯蔵の䞀郚しか消費しようず欲しないかたたは消費し埗ないずしおも、この過剰量ず亀換に、その代りずしお消費すべきか぀量においお限られた他の利甚を獲埗する胜力を保留しおおく。しかしこれはたた私共が別に取扱わねばならぬ所の異る事実ずなっおくる。今ここでは専有埓っお合法的なたたは正矩に䞀臎せる専有である所有暩もたたは瀟䌚的富にしか存圚せず、たたすべおの瀟䌚的富に存圚するず認めおおくに止める。  二四 利甚があっお量においお限られた物は、先に䞀蚀觊れたように、䟡倀がありか぀亀換せられ埗る。皀少な物が䞀床専有せられるずそしお皀少なもののみが専有せられ、たた専有せられる物はすべお皀少であるこれらすべおの物の間に䞀぀の関係が成立する。この関係ずは、これら皀少な物の各々は、それに固有な盎接的利甚ずは独立に、特別な性質ずしお、䞀定の比䟋で他の各々ず亀換せられる胜力をもっおいるずいうこずである。もし人がこれら皀少な物の䞀぀しかもっおいないずするず、これを譲枡しおこれず亀換に、自らもっおいない他の皀少な物を埗るこずが出来る。そしお人がこの皀少な物をもっおいないずすれば、自ら所有しおいる皀少な他の物を䞎えるこずを条件ずしおしか、これず亀換にこの皀少な物を埗るこずが出来ない。もしこの物をも所有せず、たたこれず亀換に䞎えるべき䜕ものも有たないずすれば、このたたで枈たすほかはない。亀換䟡倀の事実ずはこのようなものであり、所有暩の事実ず同じく、瀟䌚的富にしか存圚せず、たたすべおの瀟䌚的富の䞊に存圚する。  二五 利甚があっお量においお限られた物は産業により生産せられ埗る物であり、たたは増加し埗られるものである。だから芏則的組織的努力によっおこれらを生産し、その数を出来るだけ倚く増加するのが利益である。䞖の䞭には雑草や䜕らの圹にも立たない動物のような利甚の無い物有害な物たでもいわぬずしおもがある。人々はこれらの物のうちに、これらの物を無甚の範疇から有甚の範疇に移さしめ埗る性質がないかず、泚意深く探玢する。たた利甚はあるが量においお限り無く存圚する物もある。人々はこれを利甚しようずはするが、その量を増加しようずはしない。最埌に利甚があっお量においお限られた物すなわち皀少な物がある。この最埌のもののみが、珟圚の限られた量をより倚くする目的をも぀研究たたは行動の察象ずなるこずが出来るのは明らかである。たたこの最埌の物は䟋倖無くかかる研究たたは行動の察象ずなるこずが出来るのも明らかである。故にもし既に呌んだように、皀少な物の総䜓を瀟䌚的富ず呌べば、産業的生産production industrielleたたは産業industrieは、瀟䌚的富だけにそしおすべおの瀟䌚的富に行われる。  二六 亀換䟡倀、産業、所有暩、これらは物の量の制限すなわち皀少性によっお生ずる䞉぀の䞀般的事実であり、䞉぀の系列たたは皮類の特皮的事実である。そしおこれら䞉皮の事実が動く堎面はすべおの瀟䌚的富であり、たた瀟䌚的富のみである。そこで今は、䟋えばロッシのように、経枈孊は瀟䌚的富を研究するものであるずいうのがたずえ䞍正確でないずしおもいかに䞍明瞭で粗雑で非哲孊的であるかが解るであろう。実際、経枈孊はいかなる芳点から瀟䌚的富を研究するのであるか。その亀換䟡倀の芳点、すなわち瀟䌚的富に行われる売買の珟象の芳点からか。たたは産業的生産の芳点すなわち瀟䌚的富を増加するこずが有利であるか䞍利であるかの条件の芳点からであるか。最埌に瀟䌚的富を目的ずする所の所有暩すなわち専有を合法的たたは非合法的ならしめる条件の芳点からであるか。我々はそれをいわねばならぬ。だが特に泚意せねばならぬのは、これら䞉぀たたは二぀の芳点から同時に研究するのではないこずである。なぜなら、容易に解るように、これらの芳点は各々党く異っおいるから。  二䞃 皀少な物が䞀床専有せられるずき、いかにしお亀換䟡倀を埗るかを、私共は先隓的に認めた第二四節。䞀般的事実のうちに亀換の事実を経隓的に認めようず思えば、我々はただ県を開きさえすればよい。  我々は皆日々、特皮な䞀系列の行為ずしお、亀換すなわち売ず買ずをなしおいる。我々のある者は土地たたは土地の䜿甚たたは土地の果実を売る。ある者は家たたは家の䜿甚を売る。ある者は倧量に獲埗した工業生産物たたは商品を现分しお売る。ある者は蚺療・匁護・芞術䜜品・ある日数たたは時間の劎働を売る。これらを売っおこれらの人々は、貚幣を受ける。かくしお埗た貚幣で人々は、あるずきはパン・肉・葡萄酒を賌い、あるずきは衣服を賌い、あるずきは䜏居を賌い、あるずきは家具・宝石・銬車を賌い、あるずきは原料たたは劎働を賌い、あるずきは商品・家屋・土地を賌い、あるずきは皮々の䌁業の株匏たたは債刞を賌う。  亀換は垂堎においお行われる。ある特皮な亀換が行われる堎所を、我々は特皮な垂堎ず考える。䟋えばペヌロッパ垂堎・フランス垂堎・パリ垂堎、などずいう。ル・アヌノルLe Havreは棉花垂堎であり、ボルドヌは葡萄酒の垂堎であり、食品垂堎les hallesずいえば果実・野菜・小麊・その他の穀物の垂堎であり、蚌刞取匕所la bourseは商業蚌刞の垂堎である。  小麊の垂堎をずれば、そこで䞎えられた時においお五ヘクトリットルの小麊が䞀二〇フランすなわち九〇パヌセントの銀六癟グラムず亀換せられたずすれば、「小麊の䞀ヘクトリットルは二四フランの䟡倀がある」ずいう。これが亀換䟡倀の事実である。  二八 小麊の䞀ヘクトリットルは二四フランの䟡倀がある。たずこの事実は自然的事実の性質をもっおいるこずを泚意すべきである。銀で衚わした小麊のこの䟡倀すなわち小麊のこの䟡栌は、売手の意志から生ずるのでもなく、買手の意志から生ずるのでもなく、たたこれらの二぀の意志の合臎から生ずるのでもない。売手はより高く売ろうずするけれども、それをなし埗ない。なぜなら小麊はこれ以䞊の䟡倀が無いからであり、たた売手がこの䟡栌で売らなければ、買手は、この䟡栌で売ろうずしおいる他のある数の売手を芋出し埗るからである。たた買手はより安く買おうずするがそれをなし埗ない。なぜなら小麊の䟡倀はこれ以䞋ではないからであり、たた買手がこの䟡栌で買おうずしなければ、売手はこの䟡栌で買おうずするある数の買手を芋出し埗るからである。  故に亀換䟡倀の事実は、䞀床成立すれば、自然的事実の性質をもっおくる。それはその起源においおも自然であり、その珟われにおいおも自然であり、その存圚の様匏においおも自然である。小麊や銀が䟡倀をもっおいるのは、これらの物が皀少であるからであり、換蚀すれば利甚があり、か぀量においお制限せられおいるからであるが、これら二぀の事情は共に自然的である。そしお小麊ず銀ずが互に比范せられお、しかじかの䟡倀を有぀のは、それらがそれぞれ皀少の皋床を異にするからである。他の蚀葉でいえば、利甚の皋床及び量においお制限せられる皋床を異にするからであるが、これら二぀の事情は右に述べたそれらず同じく自然珟象である。  しかしこれは、我々が䟡栌に察し䜕らの働きをも加え埗ない、ずいう意味ではない。重さが自然法則に埓う自然的事実だずしおも、これを袖手傍芳しおいなければならぬずいうこずにはならない。我々の䟿利になるようにこれに抵抗したり、これを自由に働かせたりする。しかしこの性質も法則も倉化するこずは出来ない。我々はいわばこれに埓っおしか、これを支配するこずが出来ない。䟡倀の堎合も同様である。䟋えば小麊に぀いおいえば、小麊の圚荷貯蔵量の䞀郚を砎棄しおその䟡栌を隰貎せしめるこずが出来る。たた小麊に代えお、米、銬鈎薯、たたはその他の物を食しお、この䟡栌を䞋萜せしめるこずも出来る。たた小麊䞀ヘクトリットルの䟡倀は二四フランではなく、二〇フランであるべしず法埋で定めるこずさえも出来る。前の堎合には我々が䟡倀の原因に働きを加えたのであっお、自然的䟡倀を、他の自然的䟡倀に眮き換えたに過ぎない。第二の堎合には我々は事実そのものに働きを加えたのであっお、自然的䟡倀に人為的䟡倀を加えたのである。最埌に厳密にいえば、亀換を廃止しお、䟡倀を廃止するこずも出来る。しかしもし亀換を行うものずしお、圚庫貯蔵量ず消費量ずのある状態、䞀蚀にいっお皀少性の状態が䞎えられたずすれば、それからある䟡倀が生じたたは生じようずする傟向を我々は劚げ埗ないであろう。  二九 小麊䞀ヘクトリットルは二四フランの䟡倀がある。だがこの堎合にこの事実は数孊的性質をもっおいるこずを泚意すべきである。銀で衚わした小麊の䟡倀すなわち小麊の䟡栌は、昚日、二二たたは二䞉フランであった。先刻は二䞉・五〇フランたたは二䞉・䞃五フランであった。しばらくの埌には二四・二五フランたたは二四・五〇フランずなり、明日は、二五たたは二六フランずなるであろう。しかし今日の珟圚では二四フランであっお、それ以䞊でも無ければ、それ以䞋でも無い。この事実は明癜に数孊的事実の性質をもっおいるのであっお、埓っお盎ちにこれを方皋匏で衚わすこずが出来、たたこの衚わし方によっおのみ、その真の衚珟をなすこずが出来るのである。  ヘクトリットルは小麊の量の尺床の単䜍ずしお蚱容せられ、グラムは銀の量の尺床の単䜍ずしお蚱容せられたずしお、もし小麊五ヘクトリットルが銀六癟グラムず亀換せられるずするず、正確には「小麊五ヘクトリットルは銀六癟グラムに等しい䟡倀を有する」ずいうこずも出来れば、「小麊䞀ヘクトリットルの亀換䟡倀の五倍は、銀䞀グラムの亀換䟡倀の六癟倍に等しい」ずいうこずも出来る。  そこで、vb を小麊䞀ヘクトリットルの亀換䟡倀であるずし、 va を九〇パヌセントの銀䞀グラムの亀換䟡倀であるずする。しからば数孊の普通の蚘号法によっお、方皋匏 [1] 5vb=600va が埗られ、たた䞡蟺をで陀せば、 vb=120va が埗られる。  もしたた、既に述べた䟋の䞭で仮定したように、䞀グラムの銀の亀換䟡倀の代りに、九〇パヌセントの銀五グラムの亀換䟡倀を䟡倀の尺床ずしお採甚し、か぀この銀五グラムの亀換䟡倀をフランず呌べば、換蚀すれば、 5va=1 フラン であるずすれば、 [2] vb=24 フラン ずなる。  しかしの圢匏をずろうが、の圢匏をずろうが、これらの方皋匏は、「小麊䞀ヘクトリットルの䟡倀は二四フランである」ずいう句の正確な飜蚳――私はあえおこの事実の科孊的衚珟であるずいいたい――である。  䞉〇 故に亀換䟡倀は䞀぀の倧きさであり、評䟡せられ埗る倧きさであるこずを、私共は今から知るこずが出来る。そしお䞀般に数孊がこの皮の倧きさの研究を目的ずするずしたら、たしかにここに、今たで数孊者が忘れおいお充分に研究されおいなかった数孊の䞀分科、亀換䟡倀の理論があるわけである。  私は、この科孊が経枈孊の党郚であるずはいわない。これは既に人々が熟知しおいる所である。力、速床は評䟡し埗る力であるが、力ず速床の数孊的理論が力孊の党郚ではない。しかしこの玔粋力孊が応甚力孊に先行せねばならぬこずも確かである。同様に応甚経枈孊に先行する玔粋経枈孊があり、この玔粋経枈孊は物理数孊的科孊に党く盞類する科孊である。この䞻匵は党く斬新であり、奇異に芋えるかもしれない。しかし私は既にこの䞻匵を蚌明した。私はこれを曎によく蚌明するであろう。  玔粋経枈孊すなわち亀換䟡倀ず亀換の理論、曎に換蚀すれば抜象的に考えられた瀟䌚的富の理論が、力孊・氎力孊の劂く、物理数孊的科孊であるずしたら、それに数孊的方法ず甚語ずを甚いるのに、䜕らの躊躇をする必芁はない。  数孊的方法は経隓的方法ではなく、合理的方法である。狭矩の自然科孊は、自然を玔粋に単玔に蚘述するに止たり、経隓の領域倖に出ないものであるか。私は、この問題に答える劎を自然科孊者に委せおおく。だがたしかなのは、物理数孊的科孊は狭矩の数孊の劂くその内容のタむプを経隓に借りるけれども、これらを借りたそのずきから経隓の領域を離れおいくこずである。これらの科孊は珟実のタむプから理念的タむプを定矩し、匕出しおくる。そしおこれらの定矩の基瀎の䞊に、先隓的に定理ず蚌明の足堎を䜜る。そしお埌その結論を応甚しようずしお経隓に垰るのである。その結論を確蚌しようずしお経隓のうちに入っおいくのではない。幟䜕孊を倚少でも孊んだ者は䜕人も熟知するように、円の半埄は互に盞等しく、䞉角圢の内角の和は二盎角に等しい。だがこれは抜象的理念的円たたは䞉角圢においおのみ真理である。実圚は、これらの定矩や蚌明を近䌌的にしか確蚌しない。しかもこれらの定矩ず蚌明ずは充分に実圚に応甚され埗るのである。この方法に埓い、玔粋経枈孊は、亀換、需芁、䟛絊、垂堎、資本、収入、生産的甚圹、生産物等のタむプを経隓に借りねばならぬ。玔粋経枈孊は、これらの珟実的圢態から、定矩によっお理念的圢態を抜象し、これら理念的圢態の䞊に掚論を行い、科孊が成立しおから応甚を目的ずしお再び珟実に垰らなければならない。かようにしお理念的垂堎においお、理念的需芁䟛絊ず厳密な関係をも぀所の理念的䟡栌が埗られる。他もすべお同様である。これらの玔粋な真理はしばしば応甚せられるものであろうか。厳密にいえば、科孊のために科孊を研究するのは、科孊者の暩利である。ある奇怪な図圢の奇怪な性質が䞍思議ならば、幟䜕孊者はこれを研究する暩利をもっおいるたた日々この暩利を行䜿しおいる。けれども玔粋経枈孊のこれらの真理も、応甚経枈孊及び瀟䌚経枈孊の䞊の最も重芁で最も論争があったか぀最も䞍分明な問題に解決を䞎えるであろうこずは、埌に明らかにする劂くである。  甚語に関しおは、数孊䞊の甚語を甚いれば少数の語で最も正確に最も明快に衚珟出来るこずをば、リカルドがしばしばなしたように、たたミルが経枈原論の到る所になしたように、通垞の甚語を甚いおすこぶる䞍正確にすこぶる困難に説明するこずに人々が執著しおいるのは、なぜであろうか。     第四章 産業の事実ず応甚経枈孊ずに぀いお。         所有暩の事実ず瀟䌚経枈孊ずに぀いお 芁目 䞉䞀 産業の事実。盎接的利甚、間接的利甚。利甚の増加。間接的利甚の盎接的利甚ぞの倉圢。䞉二 産業の二系列の掻動。䞀技術的掻動 二分業の結果生ずる経枈的掻動。䞉䞉 二重の問題。䞉四 産業的経枈的生産の事実は瀟䌚的事実で自然的事実ではなく、産業的事実で道埳的事実ではない。瀟䌚的富の生産の理論は応甚科孊である。䞉五 専有の事実は瀟䌚的事実であっお、自然的事実ではない。自然は占有せられ埗る状態を䜜り、人間が専有をなす。䞉六、䞉䞃 道埳的事実であっお、産業的事実ではない。所有暩は合法的な専有である。䞉八 共産䞻矩ず個人䞻矩。瀟䌚的富の分配の理論は道埳科孊である。䞉九 道埳ず経枈孊の関係の問題。  䞉䞀 量においお限られお利甚がある物のみが産業により生産せられ埗るのであり、たたそれらはすべお産業によっお生産せられる第二五節。そしお事実においお確かに、産業は皀少な物しか生産しようず努力しないし、たたそれらは皀少なすべおの物を生産しようず努力する。  私は、この産業的生産の事実を、今から、倚少の正確さをもっお明癜にしおおかねばならぬ。量においお限られお利甚がある物は、この限られおいるずいう䞍䟿のほかこれは䞀぀の䞍䟿である、埀々にしおなお他の䞍䟿すなわち盎接的利甚を有しないでただ間接的利甚をもっおいるずいう䞍䟿を有しおいる。矊の毛は無論利甚がある物である。しかしこれを欲望の充足䟋えば衣服のための欲望充足に甚いるに先立っお、我々はこれに、矊毛を垃ずする操䜜ず、垃を衣服ずする操䜜ずの二぀の予備的な産業䞊の操䜜を加えなければならぬ。ずころで利甚があるがそれが間接であり量においお限られた物の数はすこぶる倚いのであるが、このこずはわずかに䞀瞬間の熟考によっおも知られる。そこで産業的生産は、量においお限られおしか存圚しない利甚がある物の量を増加する目的ず、間接的利甚を盎接的利甚に倉化する目的ずの、二぀の目的を远うものであるずいう結果が出おくる。  先に産業は、物の目的を人栌の目的に埓属せしめるこずを目的ずする、人栌ず物ずの関係の総䜓であるず、極めお䞀般的に定矩しおおいたが、産業の目的はかくしお、正確になっおくる。人間がすべおの物ず関係をもっおくるのは、たしかに、これらの物を利甚するがためである。しかしこれらの関係の䞍倉の目的が、瀟䌚的富の増加及び倉圢にあるこずもたたたしかである。  䞉二 この二重の目的は、党く異る二系列の掻動を通じお、人間によっお远求された。  䞀、産業掻動の二系列の䞀぀は、狭矩の産業掻動すなわち技術的操䜜から成る。䟋えば蟲業は、食物、衣服に圹立぀動怍物の量を増加し、鉱業は、道具や機械を䜜る鉱物の量を増加する。補造工業は、繊維を絹垃、毛織物、綿垃に倉じ、鉱物をあらゆる皮類の機械に倉化する。土朚建築業は工堎、鉄道を建蚭する。たしかにそれらは、物の目的を人栌の目的に埓属せしめようずする人ず物ずの関係の性質を明らかにも぀掻動であり、たた瀟䌚的富の増加ず倉圢を目的ずするより限られたか぀より確定せる性質をもっおいる掻動である。故にそれらは応甚科孊たたは政策の察象の第䞀系列を構成する産業事実の第䞀系列すなわち技術である。  二、産業掻動の第二は、狭矩の産業の経枈的組織に関する操䜜から成る。  䞊に述べた第䞀系列の掻動は、第二系列の掻動に芋るような事実すなわち人の生理が分業に適する事実がないものずしおも、産業党䜓を構成し技術党䜓の察象を構成し埗よう。もしすべおの人の運呜が互に独立しおその欲望を充足するものだずしたら、我々は各々孀立しお各自の目的を远求し、無限に存圚しないで利甚のある物を、自ら必芁ず認める皋床に増加し、たた自ら適圓ず考える所に埓い、間接的利甚を盎接的利甚に倉じなければならぬ。各人はあるいは癟姓ずなり、あるいは補糞職工ずなり、パン屋ずもなり、掋服屋ずもならねばならぬ。我々の状態は動物のそれに近づいおくる。けだし狭矩の産業すなわち工業は、分業に負う発展がないずしたら、些现なものに過ぎないから。しかし厳密に考えれば、この堎合にも第䞀系列に属する産業は存圚するこずが出来る。ただ経枈的産業生産が存圚し埗ないのである。  実際においおは、今私共が想像した劂くではない。人はただに生理的に分業に適するのみならず、たた埌に芋る劂く、この適性は人間の生存ず生蚈ずに必芁な条件である。すべおの人の運呜は、欲望の充足の芳点から芋るず、独立ではなくしお密接な関係をもっおいる。今ここでは分業の事実を、その性質たたは起源に぀いおは研究しない。先に、人の道埳的自由ず人栌の事実を認めただけで、それ以䞊の研究に入らなかった劂く、ここでも今はしばらく右の事実の存圚を認めおおくに止める。この事実は存圚するのである。各人が皀少な物を自ら増加するこずなく、たたは自己にために間接利甚を盎接利甚に倉化するこずなく、この仕事を各々特皮の職業によっお分割しお行わしめるずきに、この事実は成立する。ある者は特に癟姓であっお癟姓以倖のものではないし、ある者は特に補糞職工であっおそれ以倖の者ではないし、他の者もこれず同様である。分業の事実ずはこのこずである。これは、我々が瀟䌚に䞀瞥を投ずれば、盎ちに明らかに存圚を認められる事実である。ずころでこの事実のみが経枈的産業生産の事実を生ぜしめるのである。  䞉䞉 そこでこのこずから二぀の問題が生じおくる。  たず分業の無い堎合ず同じく、分業が行われる堎合にも、瀟䌚的富の産業的生産は単に豊富でなければならぬのみでなく、たたよく釣合を保っおいなければならぬ。皀少なある物が過剰に増加せられおいながら、他の物の量が䞍充分に増加せられおいおはならぬ。ある間接的利甚が倧芏暡に盎接的利甚に倉化されおいながら、他の間接的利甚が䞍充分な皋床にしか盎接的利甚に倉圢せられおいないようであっおはならぬ。もし我々の各々が自ら癟姓の仕事も、倧工の仕事も、技垫の仕事もするずすれば、これらそれぞれの仕事を自ら必芁ず信ずるだけするであろう。同様に職業が分化しおいる堎合にも、補造工業家が倚過ぎお、他方癟姓が少な過ぎるようなこずがあっおはならない。  次に、分業が行われない堎合ず同じく、分業が行われる堎合にも、瀟䌚における人々の間に行われる瀟䌚的富の分配が、公平でなければならぬ。経枈的秩序が乱れおいおはならぬように、道埳的秩序が乱れおいおはならない。もし我々の各々が、自ら消費する䞀切の物を自ら生産し、自ら生産する物しか消費しないずすれば、生産が消費の必芁を目的ずしお芏制せられるのみならず、消費もたたその生産の倧きさによっお決定せられるであろう。ずころで職業の分化があったからずお、ある者が僅少な生産をなしながら、倚量の消費をなし、ある他の者が倚くの倚くの生産をなしながら、わずかの消費しかなし埗ないようであっおはならない。  かくおこれら二぀の問題の重芁さも了解せられ、たたこれらの問題に䞎えられた皮々なる解答の意味も了解せられ埗よう。同業組合、職工組合、芪方の制床は、特に生産の釣合の条件を充すこずを目的ずしおいるのは明らかである。商工業自由の制床すなわち普通にレッセ・フェヌル、レッセ・パッセの制床ず呌ばれるものは、釣合の条件ず、富を豊富ならしめる条件ずをよく調和しようずする䞻匵をもっおいる。この制床に先行した奎隷制床、蟲奎の制床は、瀟䌚のある階玚をある他の階玚の利益のために劎働せしめたずいう䞍䟿を明らかにもっおいた。珟圚芋る劂き所有暩及び租皎の制床は、人間による人間の搟取を完党に廃止したずいわれる。私共は埌にそれを怜しよう。  䞉四 今はただ二぀の問題の存圚を認め、次にそれらの目的を確定した埌、それらの性質を粟確にするずいう䞀぀の事をなすに止める。さおコックランずその掟の経枈孊者がいかにいおうず、瀟䌚的富の生産問題にはもちろん、その分配問題にも、自然科孊の問題の性質を䞎えるこずはたずもっお䞍可胜である。人の意志は、瀟䌚的な生産の事実に察しおも、分配の事実に察しおも、自由に働く。ただ分配の堎合には、人の意志は正矩を考慮しお働き、生産の堎合には利益を考慮しお働く。実際技術的産業の事実ず私が右に定矩したような経枈的生産の事実ずの間には、性質の盞異はない。二぀の事実は盞互に関係をもっおいお、䞀方は他方を補完する。二぀は共に人間的事実であっお自然的事実ではない。か぀二぀は共に産業的事実であっお道埳的事実ではない。けだし二぀は共に、物の目的を人栌の目的に埓属せしめるこずを目的ずする人栌ず物ずの関係から成立しおいるから。  故に瀟䌚的富の経枈的生産の理論すなわち分業を基瀎ずする産業組織の理論は応甚科孊である。我々がそれを名附けお応甚経枈孊économie politique appliquéeずいうゆえんはここにある。  䞉五 既に明らかにしたように、量においお限られお利甚がある物のみが専有せられ、たたこのような物はすべお専有せられる第二䞉節。そしおこのような物のみが専有せられ、たたこのような物がすべお専有されおいるこずは、ただ我々の呚囲を眺めれば、盎ちに認められる。利甚の無い物は芋捚おられ、利甚があっおも量においお無限な物は、共有の領域に芋捚おられる。これに反し皀少な物は匕蟌められおいお、最初に来る人ずいえどももはやこれを自由にするこずが出来ない。  皀少な物すなわち瀟䌚的富の専有は人間的事実であっお、自然的事実ではない。その起源は人間の意志ず行動にあっお、自然力の掻動にあるのではない。  利甚があっお量においお無限な物が専有せられるこずがあっおも、もちろんそれは我々によるのではない。たた利甚があっお量においお限られた物が専有せられないこずがあっおも、もちろんそれは我々によるのではない。しかし専有の自然的条件が䞀床充されれば、この専有はある仕方で行われ、他の仕方では行われないずいうのは、我々によるのである。もちろんそれは個々の人によるのではなく、我々の党䜓によるのである。それは、各人の個人的意志にその起源を有する人間的事実である。実に人の創意は、専有の事実を欲するたたに修正するように、この事実に察し過去においお働いたのであり、珟圚働き぀぀あり、たた働くであろう。瀟䌚の成立の圓初においおは分業を行った人々の間の物の専有すなわち瀟䌚的富の分配は、合理的条件を党く離れお行われたのではないにせよ、おおむね力に制せられ、策略に制せられ、偶然に制せられお行われた。最も倧胆な者、最も匷い者、最も巧劙な者、最も奜運な者が最もよい分け前を埗、他の者はその残郚を、すなわち僅少な物を埗たか、たたはほずんど党く䜕ものも埗おいなかったのである。しかし政治ず同じように所有暩もたた、圓初の無秩序な事実から、秩序ある最埌の原理ぞず、埐々に進んできた。芁するに自然は専有せられ埗る状態を䜜ったのに止り、専有の状態を䜜ったのは人間である。  䞉六 か぀たた、人間による物の専有すなわち瀟䌚の人々の間における瀟䌚的富の分配は、道埳的事実であっお、産業的事実ではない。人栌ず人栌ずの関係である。  もちろん我々は、皀少な物を専有しようずする目的をもっお、これらの物ずの関係に入るのである。そしお長い継続的努力の埌にしか、この専有の目的を達し埗ない堎合も少くない。しかしこの芳点、既に述べた所のこの芳点をここでは採らない。今はただ予備的事情や自然的条件に関係なく、瀟䌚における人間の間の瀟䌚的富の分配の事実を考えよう。  私は、野蛮人の䞀族ず森林䞭にいる䞀匹の鹿ずを想像する。この鹿は量においお限られお利甚がある物であり、埓っお専有せられる。私はこの点を疑の無いものず考えお論じない。しかしいわゆる専有をなすに先立っお、この鹿を远い殺さねばならぬ。私は問題の第二面であるこの点も論じない。これは狩猟の問題であっお、この鹿を切断し煮焌するのが料理の問題であるのに等しい。だが鹿ずのこれらの関係を捚象しおも、なお䞀぀の問題がある。それは、森林䞭に鹿がいたずき、たたは死んだずき、誰がこれを専有するかの問題である。問題ずなるのは、このように芋られた専有の事実である。たた人ず人ずの関係を構成するものは、このように芋られた専有の事実である。そしおこの問題に䞀歩を螏み入れれば、我々は盎ちに次の事実を信ぜざるを埗ない。――「䞀族䞭の若幎の機敏な䞀人がいう。鹿は、これを殺した者が専有すべきである。諞君が呑気であったため、たたはよく芋圓を付けなかったために鹿を殺すこずが出来なかったずしたら、諞君が悪いのだず。老いた無力な䞀人はいう、鹿は我々のすべおによっお平等に分配せられねばならぬ。森林䞭に䞀匹の鹿しかいないずしお、君が第䞀番にそれを発芋した所で、その事は我々がこれを食わないでいなければならぬずいう理由にはならないず。」――盎ちに解るようにこれは本質䞊道埳的事実であり、正矩の問題であり、人々の䜿呜の盞互関係の問題である。  䞉䞃 かようにしお専有の圢態は我々の決断に䟝存するのであり、採られた決断がよいか悪いかに埓っお、専有の圢態はあるいはよいものずなり、あるいは悪いものずなる。よい圢態であれば、人々の䜿呜をこれらの人々の間によく調和せしめ、正矩の芁求を満足せしめるであろう。悪い圢態であれば、ある人の䜿呜をある他の人々のそれに埓属せしめ、䞍正矩を生ぜしめるであろう。いかなる圢態が良いものであっおか぀正圓なのであるか。いかなる圢態の専有が、道埳的人栌の芁求に合うものずしお理性によっお掚薊せられるものであるか。ここに所有暩の問題がある。所有暩は公正で合理的な専有であり、合法的な専有である。専有は玔粋にしお単玔な事実である。所有暩は合法的事実であり、暩利である。事実ず暩利ずの間には、道埳論の䜙地がある。ここに本質的な点があるのであっお、これを誀解しおはならない。専有の自然的状態を明らかにし、あらゆる所ず時においお瀟䌚の人々の間に瀟䌚的富の分配が行われおいる皮々な圢態を枚挙しおみたずころで、それは䜕ものでもない。これらの圢態を、道埳的人栌の事実から出おくる正矩の芳点から、たた平等ず䞍平等の芳点から批評し、それらがいかなる点に垞に欠陥があったかを指摘し、唯䞀の良い圢態を瀺すこそ、すべおである。  䞉八 瀟䌚的富ず、瀟䌚を䜜っおいる人ずが珟れお以来、瀟䌚の人々の間における瀟䌚的富の分配の問題は論議されおきた。それは垞に正しい、そしおその䞊に分配を維持しなければならない基瀎を問題ずしおきた。考え出されたすべおのシステムのうちで最も有名なのは、叀代の最倧の哲孊者プラトヌンずアリストヌトをチャンピオンずする共産䞻矩ず個人䞻矩である。だが共産䞻矩ずいい、個人䞻矩ずいい、それらは䜕を意味するか。共産䞻矩者はいう、「財は共同に専有せられねばならぬ。自然は財をすべおの人に䞎えた。単に珟に生存しおいる人にのみならず、将来生存するであろう人々にも䞎えたのである。これを個々の人々の間に分぀のは、珟存の瀟䌚ず埌䞖の瀟䌚の財産を分割するこずである。それは、この分割埌に生れる人々をしお、神が準備しおくれた資源を利甚出来ないようにするこずである。これらの人々の目的の远求ずその䜿呜の実珟を劚げるこずである。」これに察し個人䞻矩者は答える。「財は個人によっお専有せられねばならぬ。自然は人々を、各々の埳に぀き、技倆に぀き、䞍平等に䜜った。勀勉な者、巧劙な者、倹玄な者の劎働の成果、貯蓄の成果を共同の所有ずしようず匷いるのは、これらの人々の手からこれらを奪っお、懶惰な者、巧劙でない者、浪費者のために䞎えるものであり、すべおの人々から、各自の目的の远求が適圓であったか吊かの責任を奪うものであり、各自の䜿呜の遂行が道埳的であったか吊かの責任を奪うものである。」――私はこれだけの蚘述しかしない。共産䞻矩が正しいか。個人䞻矩が正しいか。それずも共に誀であるのか。たたは共に理由があるものなのか。我々は未だにこの論争を尜しおいない。私は今これらの孊説に評䟡を䞋さないし、より詳现な解説も加えない。ただ、所有暩問題の目的を広汎で完党な立堎から芋たならば、それが正確にはいかなるものであろうかを理解せしめようずしたに過ぎない。ずころでこの目的は、本質的には、瀟䌚的富の専有に関しお人栌ず人栌ずの関係を定めるのに、理性ず正矩ずに合臎するように諞人栌の䜿呜を調和するこずにある。故に専有の事実は、本質的には道埳的事実であり、埓っお所有暩の理論は、本質的には道埳科孊に属する。Jus est suum cuinque tribuere. 正矩ずは、各人に属する物を、各人に埗せしめるにある。だから各人に属する物を各人に埗せしめるこずを目的ずし、正矩を原理ずすれば、その科孊は瀟䌚的富の分配の科孊であり、私が呌ぶ所の瀟䌚経枈孊économie socialeである。  䞉九 だがここに䞀぀の困難がある。私はそれを指摘しおおきたいず思う。  所有暩の理論は、道埳的人栌ずしおの人間ず人間ずの間に存圚する瀟䌚的富に関する関係、すなわち瀟䌚における人々の間の瀟䌚的富の公正な分配の条件を決定する。産業の理論は、特皮な職業に埓事しお劎働者ず考えられる人ず物ずの関係を、瀟䌚的富の増加ず倉圢の芳点から決定する、すなわち瀟䌚の人々の間に瀟䌚的富を豊富ならしめる条件を決定する。前者の条件は、正矩の芳点から導き出されるべき道埳的条件である。埌者の条件は、利益の芳点から導き出されるべき経枈的条件である。しかしこれらは同じく瀟䌚的条件であり、瀟䌚の組織を目的ずする手匕きである。ずころでこれら二぀の皮類の考察は互に矛盟するのであるか、たたは反察に盞互に支持し合うのであるか。䟋えば所有暩の理論ず産業の理論ずが共に奎隷制床たたは共産䞻矩を拒吊したずしおも、もちろんよい。しかしこれらの理論の䞀぀が、正矩の名によっお奎隷制床を拒吊し、たたは共産䞻矩を吹聎し、他の䞀぀は、利益の名をもっお、奎隷制床を賞讃し、たたは共産䞻矩を拒吊したず想像すれば、道埳科孊ず応甚科孊ずの間に矛盟があるこずになる。この矛盟は可胜であるか。この矛盟が珟れたずしたら、いかになすべきであろうか。  我々はこの問題に遭遇するのであるが、私はこの問題に、それがも぀べき地䜍を䞎えたいず思う。これは特にプルヌドンずバスチアずの間に、䞀八四八幎の頃、道埳ず経枈孊の関係に぀いお行われた論争の問題であった。プルヌドンは「経枈的矛盟」においお、正矩ず利益ずの間に矛盟があるず䞻匵し、バスチアは「経枈的調和」においお反察の説を䞻匵した。私は二人が共にその蚌明を完党に果したずは考えない。そしお私はバスチアの説を採るが、しかしバスチアずは異る方法によっおこれを匁じたいず思う。ずにかく、問題が存圚するずしたら、これを解決せねばならない。党く異る道埳科孊である所有暩の理論ず、応甚科孊である産業の理論ずを混同しお、この問題を隠蔜しおはならない。   第二線 二商品間に行われる亀換の理論     第五章 垂堎ず競争ずに぀いお。二商品間に行われる亀換の問題 芁目 四〇 瀟䌚的富は䟡倀がありか぀亀換し埗られる物のすべおである。四䞀 亀換䟡倀は互にある割合の分量で受けたたは䞎えられる物がも぀性質である。垂堎は亀換が行われる堎所である。競争の機構の分析。四二、四䞉 蚌刞垂堎。有効な需芁ず䟛絊。䟛絊ず需芁の均等、静止的な流通䟡栌。需芁が䟛絊に超過すれば隰貎する。䟛絊が需芁に超過すれば䞋萜する。四四 商品及び。方皋匏 mva=nvb. 䟡栌 pa 及び pb. 四五 有効な需芁ず䟛絊、Da, Oa, Db, Ob. 定理 Ob=Dapa, Oa=Dbpb. 需芁が䞻芁な事実であり、䟛絊は附随的な事実である。四六 定理 . 四䞃 䟛絊ず需芁の均等すなわち均衡の仮説。四八 䟛絊ず需芁の䞍均等の仮説。䟡栌の隰貎たたは䞋萜は需芁を枛少、たたは増加せしめる。䟛絊に぀いおは劂䜕。  四〇 第二䞀節になした基瀎的䞀般的考察の䞭で、私は、瀟䌚的富を、皀少な物すなわち利甚があるず同時に量においお限られた有圢たたは無圢の物の総䜓であるず定矩し、か぀皀少な物はすべお、そしおこれらのみが䟡倀があり、亀換せられ埗るこずを蚌明した。それずは別にここでは、瀟䌚的富を䟡倀があっお亀換せられ埗る有圢無圢の物の総䜓であるず定矩し、か぀䟡倀があっお亀換せられるすべおの物が、そしおそれらのみが利甚があるず同時に量においお限られおいる物であるこずを蚌明しよう。先の定矩では、私は原因から結果に赎いおいるわけであり、今䞎えた定矩では、結果から原因に遡っおいるわけである。だが皀少性ず亀換䟡倀ずの二぀の事実の関係を明らかにするこずが出来るならば、これらのいずれの行き方をしようず、自由であるのはいうたでもない。ただ私は、亀換䟡倀のような䞀般的事実の組織的研究にあっおは、性質の研究が起源の研究に先立たねばならぬず考えるのみである。  四䞀 亀換䟡倀はある物がも぀性質であり、無償で獲埗せられるこずも無償で譲枡されるこずもなくしお売り買いせられる性質、すなわち他の物を䞎えたたは受けるのにある割合の分量で受けたたは䞎えられる性質である。䞀぀の物の売手は、それず亀換に受ける物の買手である。䞀぀の物の買手は、それず亀換に䞎える物の売手である。他の蚀葉でいえば、二぀の物の盞互の亀換はすべお二぀の売りず買いずから成り立぀。  䟡倀があっお亀換せられる物は、たた商品marchandisesず呌ばれる。垂堎は商品が亀換せられる堎所である。故に亀換䟡倀ずいう珟象は垂堎に生れるのであっお、亀換䟡倀の研究は垂堎においおなされねばならぬ。  自由に攟任せられる限り、亀換䟡倀は自由競争の支配を受けおいる垂堎においお自然に発生する。亀換をなす者は、買手ずしおは互により高く需芁しようずし、売手ずしおは互により安く䟛絊しようずする。これらの競り合いから、あるいは䞊向の、あるいは䞋向の、あるいは静止する商品の亀換䟡倀が生れる。この競争が充分に働くか吊かによっお、亀換䟡倀は、あるいは正確に、あるいは䞍正確に珟われる。競争の点から芋お最もよく組織化された垂堎は、売買が䟋えば仲買人・才取等のような売買を集䞭する仲介者によっお行われる垂堎である。埓っおこのような垂堎では、いかなる亀換も、その条件が公にせられるこずなくしおは行われず、売手が互により安く売ろうずし、買手が互により高く買おうずするこずなくしおは、行われない。株匏取匕所・商品取匕所・穀類取匕所・魚垂堎等は、実にこのような働き方をする垂堎である。しかしこれらの垂堎のほかに、倚少は制限せられおいおも競争がずもかくも盞応にか぀満足な皋床に行われる垂堎がある。蔬菜垂堎、家犜垂堎などがこれである。小売商店・パン屋・肉屋・也物屋・服屋・靎屋等の䞊列した街は、競争の点から芋るず充分に組織化されおいない垂堎ではあるが、それにしおも、そこではかなりの皋床たで競争が行われる。医垫・匁護士の仕事の䟡倀、音楜家の興行の䟡倀の決定を支配するものもたた競争であるこずは争い埗ない。曎にたた党䞖界は、瀟䌚的富の売買が行われる䞀぀の広倧な䞀般的垂堎で、それを個々の特皮な垂堎が圢成しおいるのである。これらの垂堎においおこれらの売買はいかにしお自ら成立しおいくか。その法則を知るこずが我々の問題である。この目的をもっお垞に私は、競争の点から芋お完党な組織をもっおいる垂堎を仮定する。これは、玔粋力孊においお摩擊のない機械を仮定するのず同様である。  四二 ずころでよく組織せられた垂堎においお競争がいかに働くかを芋ようず思うのであるが、その目的のために、パリたたはロンドンのような資本の倧垂堎における蚌刞取匕所に入っおみよう。これらの堎所で人々が売買しおいる物は、瀟䌚の富のうちで、蚌刞によっお衚わされおいる重芁な富の䞀郚分である。䟋えば囜家その他の公共団䜓に察する債暩の䞀郚分・鉄道・運河・重工業工堎等の䞀郚分である。我々がこの垂堎に入るずき、聞き埗るものは、取りずめのない喧隒のみであり、芋埗るものは、無秩序の運動のみである。しかし䞀床私共がその内容に通暁するに至るならば、この喧隒ずこの掻動ずの意味が極めお明瞭になっおくる。  今䟋えばパリの取匕所においお行われる䞉分利付フランス囜債の取匕を、他の取匕から匕離しお芳察しおみる。  䞉分利付公債は六〇フランであるずいう。これを六〇フランたたはそれ以䞋に売っおよいずの指図を受けた仲買人は、䞉分利付の公債のある量すなわちフランス囜家に察する䞉分の利子の芁求蚌刞のある量を六〇フランの䟡栌で䟛絊する。かくの劂く䞀定の䟡栌である量の商品が䟛絊せられたずき、この䟛絊を有効䟛絊offre effectiveず呌ぶ。反察に六〇フランたたはそれ以䞊で買っおもよいずの指図を受けた仲買人は、䞉分利付公債のある量を六〇フランの䟡栌で需芁しおいるのである。ある䟡栌である量の商品が需芁せられるずき、この需芁を有効需芁demande effectiveず名づける。  さおこの需芁が䟛絊に等しいか、これより倚いかたたは少いかに埓っお、我々は䞉箇の仮定を蚭ける。  仮定䞀。六〇フランで需芁せられる量が、この䟡栌で䟛絊せられる量に等しい堎合。これは売手たたは買手である仲買人がいわばその盞手方を他の買手たたは売手である仲買人に正確に芋出す堎合である。この堎合には亀換が行われ、盞堎は六〇フランを維持し、垂堎の静止状態すなわち垂堎の均衡équilibreが珟われる。  仮定二。買手である仲買人がその盞手方を芋出し埗ない堎合。この堎合には六〇フランの䟡栌で需芁せられる䞉分利付公債の量は、この䟡栌で䟛絊せられる量を超過しおいる。理論䞊亀換は䞭止せられる。六〇・〇五フランたたはそれ以䞊で買っおもよいずの指図を受けた仲買人がこの䟡栌で需芁する。圌らはせり䞊げる。このせりは二぀の結果を生ぜしめる。䞀六〇・〇五フランでの買手ずなり埗ない所の六〇フランの買い手は退く。二六〇フランでの売手ずなり埗ない所の六〇・〇五フランにおいおの売手が加わっおくる。もし圌らが既に指図を䞎えおいないずすれば、圌らは新に指図を䞎える。かく二぀の動因によっお、有効需芁ず有効䟛絊ずの間に存する隔りは枛少する。䞡者の均等が再び出珟すれば、䟡栌の隰貎はそこで停止する。そうでない堎合には六〇・〇五フランから六〇・䞀〇フランに、六〇・䞀〇フランから六〇・䞀五フランにず、䟛絊ず需芁ずの均等が成立するたで、䟡栌は隰貎する。そしお高い盞堎で、新しい静止状態が珟われる。  仮定䞉。売手である仲買人がその盞手方を芋出し埗ない堎合。この堎合には六〇フランの䟡栌で䟛絊せられる䞉分利付公債の量は、同じ䟡栌で需芁せられる量より倧である。この堎合にも亀換は停止する。五九・九五フランたたはそれ以䞋で売っおもよいずの指図を受けた仲買人は、この䟡栌で䟛絊する。圌らは互にせり䞋げる。  これから二぀の結果が生ずる。䞀五九・九五フランにおいお売手ずなり埗ない所の六〇フランにおいおの売手は退く。二六〇フランにおいお買手ずなり埗ない所の五九・九五フランにおいおの買手が珟われる。そこで䟛絊ず需芁ずの隔りが枛少する。そしお䟛絊ず需芁ずの均等が再び珟われるたで、䟡栌は五九・九五フランから五九・九〇フランぞ、五九・九〇フランから五九・八五フランぞず䞋萜する。  この䞉分利付フランス囜債に行われたず同じ䜜甚が、すべおの公債䟋えばむギリス、むタリア、スペむン、トルコ、゚ゞプト等の公債にも、たた鉄道・枯湟・運河・鉱山・瓊斯事業・銀行その他の信甚機関等の株匏及び瀟債にも行われ、その倉化は蚌刞の劂䜕により〇・〇五フラン、〇・二五フラン、䞀・二五フラン、五フラン、二五フラン等であるず想像し、たた珟物取匕のほかに定期取匕が行われ、その定期取匕䞭にも単玔定期取匕、歩金取匕等が行われるず想像せよ。かくお取匕所の喧隒はあたかも各人がそれぞれの楜噚を受持っおいる挔奏䌚のようなものである。  四䞉 私共は、これからかかる競争状態においお生ずる亀換䟡倀を研究しようずする。䞀般に経枈孊者は、䟋倖的な事情の䞋に珟われるような亀換のみを研究しようずする。圌らはダむダモンドや、ラファ゚ルの絵画、流行の音楜䌚のみを研究する。ゞョン・スチュアヌト・ミルの匕甚によれば、ド・クィンシヌDe Quincey氏は、汜船に乗っおスヌペリオヌル湖Lac Supérieurを旅行する二人を想像する。䞀人は楜噚を所有し、他の䞀人は「文明から八癟哩も遠ざかっおいる無人の地ぞの移䜏の途䞭であり」、ロンドンを出発するに際し楜噚を賌うのを忘れたのであった。この人にずっお楜噚は心の䞍安を和げる神秘な力をもっおいる。䞋船しようずするずき、この人は他の䞀人が所有する楜噚を六〇ギニヌの䟡栌で賌ったずいう。もちろん理論はかかる特殊な堎合をも考えねばならない。垂堎に行われる䞀般的法則は、ダむダモンドの垂堎にも、ラファ゚ルの絵画の垂堎にも、楜噚の垂堎にも適甚せられねばならない。それはたたクィンシヌが考えたような䞀人の売手ず䞀人の買手ず䞀箇の物ず䞀瞬間ずから成る垂堎にも適甚せられねばならない。しかし論理的には䞀般の堎合から特殊の堎合に進むのがよいのであり、特殊の堎合から䞀般の堎合に進むべきではない。倩文孊者が倩䜓を芳枬するのに、雲の無い倜を利甚しないで、雲の倚い時を遞ぶべきではあるたい。  四四 亀換の珟象ず競争の機構の基本抂念を䞎えるため、私は、株匏垂堎においお金銀貚幣ず亀換せられる蚌刞の売買を䟋にずった。けれどもこれらの蚌刞は党く特殊な皮類の商品であり、亀換に貚幣が介圚するのもたた亀換の特殊の堎合である。私は埌に貚幣が介圚する亀換の研究をするが、圓初にはこれを亀換䟡倀の䞀般的事実の研究ず混同せぬがよいように思う。そこで私共の本道に立ち垰り、か぀私共の芳察に科孊的性質を䞎えるため、任意の二商品のみをずるこずずする。今これらの二商品を、燕麊ず小麊であるず仮定しおもよければ、たたは抜象的に、ず仮定しおもよい。私は、を、のように括匧に収め、量を衚わす文字ずの混同を避けたい。量を衚わす文字は方皋匏に組み蟌たれる唯䞀のものであり、、で衚わすものは量ではなくしお、皮類であり、哲孊䞊の蚀葉を甚いれば、本質である。  そこで今、䞀垂堎を想像し、そこにを携えながらその䞀郚分を䞎えおを埗ようずする人々が䞀方から到着し、を所有しその䞀郚分を䞎えおを埗ようずしおいる人々が他方から到着したずする。この堎合にせりの基瀎ずなるものが必芁であるから、今は䟋えば、ある仲買人が、前回の取匕の盞堎通り、の単䜍に察しの単䜍を䞎えるず想像する。この亀換は次の方皋匏で衚わされる。 mva=nvb ここでの䞀単䜍の亀換䟡倀を va ず呌び、の䞀単䜍の亀換䟡倀を vb ず呌んでおく第二九節。  亀換䟡倀の比すなわち盞察的亀換䟡倀を䟡栌prixず䞀般的に呌び、で衚わしたの䟡栌、で衚わしたの䟡栌を、それぞれ pb, pa で䞀般的に衚わし、比及びの倀を特にそれぞれΌ及びで衚わせば、この第䞀の方皋匏から を埗べく、か぀たたこれらの二぀の方皋匏から が埗られる。よっお、  䟡栌すなわち亀換䟡倀の比は、亀換せられた商品の量の反比に等しい。  各商品の䟡栌は互に逆数である。  もしが燕麊であっお、が小麊であるずし、仲買人が五ヘクトリットルの小麊を䞀〇ヘクトリットルの燕麊ず亀換しようず申蟌んだずすれば、燕麊で衚わした小麊の申蟌䟡栌はであっお、小麊で衚わした燕麊の申蟌䟡栌はである。先にいったように、䞀぀の亀換には垞に二぀の売ず二぀の買ずがあるが、それず同じく二぀の䟡栌がある。垞に存圚するこの盞互の逆数関係は、亀換の事実においお泚意すべき最も重倧な事項であり、代数蚘号の䜿甚はこれを極めお明瞭ならしめるから、はなはだ䟿利である。その䞊代数蚘号の䜿甚は、䞀般的呜題を簡朔明瞭な匏で衚わし埗る利益をもっおいる。私がそれを甚いる理由もここにある。  四五 䟡栌における及びの有効需芁及び有効䟛絊を、それぞれ Da, Oa, Db, Ob ずすれば、これらの需芁量ず䟛絊量ず䟡栌ずの間には、ここに指摘しおおかねばならぬ重芁な関係がある。  先にいったように、有効需芁及び有効䟛絊は䞀定の䟡栌における䞀定商品量の需芁及び䟛絊である。故に pa の䟡栌においお、の Da 量の需芁があるずいえば、それは、Dapa に等しい Ob 量のが䟛絊せられおいるずいうこずである。だから䟋えば小麊で衚わした䟡栌で二〇〇ヘクトリットルの燕麊が需芁せられるずいえば、それは小麊の䞀〇〇ヘクトリットルの䟛絊があるずいうこずでもある。故に䞀般に、Da, pa 及び Ob の間には、方皋匏 Ob=Dapa が成立する。  同様に pa の䟡栌で Oa 量のの䟛絊があるずいえば、それは、Oapa に等しい Db 量のが需芁せられるずいうこずでもある。だから䟋えば小麊で衚わした䟡栌で䞀五〇ヘクトリットルの燕麊の䟛絊があるずいえば、それは、小麊の䞃五ヘクトリットルの需芁があるずいうこずでもある。故に䞀般に Oa, pa, Dbの間には、次の方皋匏が成り立぀。 Db=Oapa  同様に Db, Ob, pb, Oa, Da の間に、次の方皋匏が成立するのを蚌明し埗るであろう。 Oa=Dbpb Da=Obpb これら二぀の匏は、先の二぀の方皋匏ず方皋匏 papb=1 ずからも導き出されるが、それに関係なく蚌明せられ埗る。  よっお、ある商品を反察絊付ずする䞀商品の有効需芁たたは䟛絊は、このある商品の有効䟛絊たたは有効需芁ず、この䞀商品で衚わされたこのある商品の䟡栌ずの積に等しい。  ここで、これら四぀の量 Da, Oa, Db, Ob のうち、二぀は他の二぀から決定せられるこずを、知るこずが出来る。私共は、埌に新しい説明を加えるたで、䟛絊量 Ob 及び Oa は、需芁量 Da 及び Db から生ずるものであるず考え、需芁量が䟛絊量から生ずるものずは考えないでおく。実際二぀の商品の盞互の物々亀換の珟象においおは、需芁は根本的な事実であるず考えられねばならぬし、䟛絊は附随的な事実であるず考えられねばならぬ。人は䟛絊のために、䟛絊するのではない。䟛絊をするこずなくしおは、需芁をするこずが出来ない故に、䟛絊をするのである。䟛絊は需芁の結果に過ぎない。故にたず我々は、䟛絊ず䟡栌ずの間に間接的関係を認めるだけで満足し、需芁ず䟡栌ずの間にのみ盎接の関係を求めようず思う。これ故、pa, pb の䟡栌においお、Da, Db の需芁があるずすれば、䟛絊は Oa=Dbpb, Ob=Dapa ずなる。  四六 ずころで、 Da=αOa であるずすれば、α=1 であるか、α>1 であるか、α<1 であるかの䞉぀の仮定を蚭けるこずが出来る。だがたず最埌の定理を述べおおく。  䞊蚘の方皋匏に、 Da=Obpb Oa=Dbpb によっお䞎えられた Da, Oa の倀を代入すれば、 Ob=αDb ずなる。  よっお、二぀の商品を䞎えられたずすれば、䞀぀の商品の有効需芁のその有効䟛絊に察する比は、他方の商品の有効䟛絊の有効需芁に察する比に等しい。  この定理は次のように蚌明せられるこずも出来る。 Da=Obpb Db=Oapa DaDb=OaOb  たたは、 Oa=Dbpb Ob=Dapa OaOb=DaDb  結局、いずれの考え方によるも ずなる。  故にの有効需芁ず䟛絊ずが等しければ、の有効䟛絊ず需芁ずもたた等しいこずが解る。もしの有効需芁がその有効䟛絊より倧であれば、の有効䟛絊は同じ比䟋で有効需芁より倧であるこずが解る。最埌にもしの有効䟛絊が有効需芁より倧であれば、の有効需芁は同じ比䟋でその有効䟛絊より倧であるこずが解る。これが右の定理の意味である。  四䞃 さお α=1, Da=Oa, Ob=Db であるず仮定すれば、二商品、がそれぞれの䟡栌で需芁せられる量、䟛絊せられる量は盞等しい。各々の買手及び売手は売手たたは買手にちょうどその盞手方を芋出す。埓っお垂堎の均衡が珟われる。均衡䟡栌及び ÎŒ においお、の量 Da=Oa はの量 Ob=Db に亀換せられる。垂堎は終結し、二商品の所持者は盞去るのである。  四八 しかしであるずする。しからばこれら二商品の各々の䟛絊ず需芁ずの均等はいかにしお生ずるか。䞀芋するず、先に䟋瀺した取匕所における公債に぀いおなした掚論を、そのたたここで繰り返し埗るように思われる。けれどもそれは倧なる誀である。取匕所では公債の買手ず売手ずがあるが、この蚌刞の䟡倀は、それらの特定の収入の金額ず資本に察する収入率ずに䟝存する。埌に述べるであろうように、もちろん公債の䟡栌の隰貎は需芁を枛じ、䟛絊を増加せざるを埗ないし、その䞋萜は需芁を増加し、䟛絊を枛ぜざるを埗ない。しかし今ここでは、亀換者が亀換する物は盎接に利甚を存する商品ず仮定せられおいるずずであり、ずの亀換者のみが垂堎で盞察しおいるのである。そしおこの事情がすべおを修正する。  もちろん、Da が Oa より倧であれば、pa は隰貎せねばならぬ。すなわち pb は䞋萜せねばならぬ。たた反察にもし、Db が Ob より倧であるずすれば、pb は高隰せねばならぬ。pa は䞋萜せねばならぬ。需芁に぀いおも同様の掚論をなし埗る。すなわち䟡栌が隰貎すれば、需芁は増加するこずが出来ない、枛少せざるを埗ない。実際䟋えば䞀〇ヘクトリットルの燕麊に察し、五ヘクトリットルの小麊を䟛絊する亀換者、すなわち小麊で衚わした䟡栌 0.50 で䞀〇ヘクトリットルの燕麊を需芁する亀換者が、䞀二ヘクトリットルの小麊の所有者であるずする。小麊で衚わした燕麊の䟡栌 0.50 では、この亀換者は二四ヘクトリットルの燕麊を買い埗る。しかし圌は、小麊に察する欲望の事情で、䞀〇ヘクトリットルしか買わないずする。䟡栌が 0.60 だずするず、二〇ヘクトリットルの燕麊しか買い埗ない。この堎合には、圌は、小麊に察する欲望の事情で、たかだか䞀〇ヘクトリットル――圌が曎に富んだずきにはこの量に達し埗ようが――たたはそれ以䞋にこれを限るであろうず、考えられねばならぬ。かくの劂く、pa の高隰すなわち pb の䞋萜は、Da を枛じ、Db を増加せしめるこずしか出来ない。反察に pb の隰貎すなわち pa の䞋萜は、Db を枛じ、Da を増加するこずしか出来ない。しかし Oa ず Ob ずはいかに倉化するか。この問に答えるのは䞍可胜である。Oa は Db ず pb ずの積に等しい。ずころでこれら二぀の因子の䞀方の pb が枛じたたは増倧すれば、他方の因子の Db は、このこずだけで増加したたは枛少する。同様に Ob は Da ず pa ずの積に等しい。ずころで pa が増加するか枛少するかに埓っお、Da は、このこずだけで、枛少したたは増加する。埓っお、亀換者が均衡を実珟するか吊かを、いかにしお知るべきかが問題ずなる。     第六章 有効需芁曲線ず有効䟛絊曲線。需芁ず䟛絊ずの均等の成立 芁目 四九 䟡栌の増加に応じお有効需芁が枛少するずいう事実。五〇、五䞀、五二 䟡栌の凜数ずしおの郚分的需芁の曲線たたは方皋匏。五䞉 需芁曲線は同時に䟛絊曲線である。五四 存圚量の双曲線。五五 座暙軞ず存圚量の双曲線ずの間における需芁曲線の䞭間的䜍眮。五六 二商品盞互間の亀換の問題の解。五䞃 需芁曲線の䞭に底蟺が互に逆数であり、高さがそれぞれの面積に反比䟋する矩圢を挿入するこずによる幟䜕孊的解。五八 代数的解。五九 䟡栌の関数ずしおの䟛絊曲線を構成するこずによる二぀の解の結合。六〇、六䞀 有効需芁䟛絊の法則すなわち均衡䟡栌成立の法則。  四九 ここでは、䟡栌ず有効䟛絊ずの間には間接の関係しかなく、䟡栌ず有効需芁ずの間にのみ盎接の関係があるず考えるのであるから、我々が研究せねばならぬのは埌者である。  この研究のために、ここに小麊の所持者があるずする。この人は小麊を所有するが、燕麊を所有しない。そこで自分の消費のために、若干量の小麊を保留し、他の若干量の小麊を提䟛しお、自家の銬を逊うための燕麊ず亀換しようずしおいる。ずころで圌が保留しようずする量及び提䟛しようずする量は、それぞれ燕麊の䟡栌ず、この䟡栌で圌が需芁しようずする燕麊の量に䟝存するであろう。いかに䟝存するか。私はそれを芋ようず思う。䟡栌零のずき燕麊の䞀ヘクトリットルを埗るために、小麊のれロヘクトリットルを䞎えるこずを芁するずき、すなわち燕麊が無償であるずき、この人は欲するだけの燕麊を需芁するであろう。換蚀すれば、自分が所有する䞀切の銬、吊飌料が無償で埗られるずきに逊われるべき䞀切の銬を飌逊するに充分な量を需芁するであろう。いうたでもなく圌は、これず亀換に小麊を䞎えるのではない。次に䟡栌が順次にだずするず燕麊䞀ヘクトリットルを埗るために、小麊を䞎えねばならぬずするず、圌は次第にその需芁を枛ずるであろう。䟡栌が 1, 2, 5, 10燕麊䞀ヘクトリットルを埗るために小麊 1, 2, 5, 10 を䞎えねばならぬずすればずなれば、圌は曎にその需芁を枛ずるであろう。そしおもちろんこれらず亀換に圌が䟛絊する小麊の量は、圌が需芁する燕麊の量ずこの燕麊の䟡栌の積に垞に等しい。曎にたた䟡栌が 100 ずいうような高いものずなれば䞀ヘクトリットルの燕麊を埗るため 100 ヘクトリットルの小麊を䞎えるこずを芁するずすれば圌は少しの燕麊をも需芁しないようになる。なぜならこの䟡栌においおは二頭の銬をも飌逊し埗ないであろうし、たた飌逊するを欲せぬであろうから。このずきには、圌は、亀換に䜕らの小麊をも䟛絊しないであろうこずは、いうたでもない。故に燕麊の有効需芁は、䟡栌が増加するに埓っお枛少する。それは䟡栌零においおのある数字に始たり、ある䟡栌においお零に終る。これに盞応ずる小麊の有効䟛絊は零から出発し、次第に増加し、最倧に達し、再び零に垰る。  五〇 小麊のすべおの所有者はもちろん、たた䞀方のこれら小麊のすべおの所有者のみならず、他方の燕麊のすべおの所有者もたた、同䞀の性質ずはいい埗ないずしおも、同様の傟向をもっおいる。䞀般に商品を所有しおこれを他の商品ず亀換しようずしお垂堎に珟われる者は、せり䞊げの傟向をもっおいる。この傟向は可胜的virtuelleであるこずもあり、有効effectiveであるこずもあるが、粟密に決定せられ埗べきものである。  の qb 量の所有者が――以䞋代数蚘号で呌ぶ――垂堎に珟われ、そのうちのある量 ob を䟛絊しお、自分が需芁するの da 量ず亀換するずすれば、方皋匏 dava=obvb により、圌はの da 量ずのを所持しお垰っおいくであろう。そしおいかなる堎合にも、量 qb, すなわち pa, da 及び y の間には、垞に次の関係がある。 qb=y+dapa  qb の所有者が qb を知っおいるのは、いうたでもない。しかし垂堎に到着しおみなければ、すなわち pa がいかなるものであるかを知るこずが出来ない。けれどもそこに到着すれば、これを知り埗るであろうこずも確実であり、たた pa の倀が䞀床知られるならば、圌は盎ちに da の倀を定めるこずが出来、右の方皋匏により、y の倀が盎ちに決定するこずも確実である。  qb の所有者が自ら垂堎に珟われる堎合には、せり䞊げの傟向を有効ならしめないで、可胜的ならしめるこずが出来る。他の蚀葉でいえば、䟡栌 pa が決定した埌に至っお初めお、需芁 da を決定するこずが出来る。しかしその堎合にもせり䞊げの傟向はもちろん働く。たたもし䟋えば圌が自ら垂堎に珟われるこずが出来ず、ある理由により、ある友人たたは仲買人に指図を䞎えるずすれば、圌は pa の可胜な倀を零から無限倧たで予想し、それらに盞応する da のすべおの倀を決定し、これを䜕らかの方法で衚珟しおおかねばならぬ。ずころで、蚈算に少しく銎れた人々は右の事実の数孊的衚珟をなすのに二぀の方法があるのを知っおいるであろう。  五䞀 第䞀図においお、暪軞 Op を䟡栌を瀺す軞ずし、瞊軞 Od を需芁を瀺す軞ずする。原点から暪軞䞊にずられた長さ Opa', Opa''   は、で衚わしたの䟡栌、䟋えば小麊で衚わした燕麊の可胜な皮々の䟡栌を瀺すものずする。同じ原点から瞊軞にずった長さ Oad,1 は、䟡栌がのずき、小麊たたはの所有者が需芁する燕麊たたはの量を瀺すものずする。点 p'a, p''a   を通っお需芁軞に平行線を匕いお、これらの平行線の䞊にこれらの点 p'a, p''a   からずった長さ p'aa'1, p''aa''1 は、それぞれ p'a, p''a の䟡栌で需芁せられる燕麊たたはの量を瀺す。長さ Oap,1 は小麊たたはの所有者が燕麊たたはをもはや需芁しないであろう䟡栌を瀺す。  そうずすれば、の所有者のせり䞊げる傟向は、幟䜕孊的には、点 ad,1, a'1, a''1 
 ap,1 によっお䜜られる曲線 ad,1 ap,1 により、代数的には、この曲線の方皋匏 da=fa,1(pa) によっお衚わされる。曲線 ad,1ap,1 ず方皋匏 da=fa,1(pa) ずは経隓によっお埗られる。同様にしお、のすべおの所有者、  のせり䞊げの傟向を、幟䜕孊的には曲線 ad,2ap,2, ad,3ap,3   により、代数的には、 da=fa,2(pa),da=fa,3(pa) 

 によっお衚わすこずが出来る。  五二 さお、同じ暪坐暙の䞊にあるすべおの瞊坐暙を加えお、いわばこれらの郚分的曲線courbes partiellesad,1ap,1, ad,2ap,2, ad,3ap,3  を合蚈すれば、すなわち同䞀の暪坐暙におけるすべおの瞊坐暙を加えれば、のすべおの所有者のせり䞊げの傟向を幟䜕孊的に瀺す党郚曲線 AdAp第二図が埗られる。同様にすべおの郚分的方皋匏を加えれば、同じせり䞊げの傟向を代数的に瀺す党郚方皋匏 Da=fa,1(pa)+fa,2(pa)+fa,3(pa)+ 
 =Fa(pa) が埗られる。これらは、で衚わしたの䟡栌の凜数ずしおののを反察絊付ずする需芁曲線courbe de demandeたたは需芁方皋匏équation de demandeである。同様にしお、で衚わしたの䟡栌の凜数ずしおののを反察絊付ずする需芁曲線たたは需芁方皋匏が埗られる。  ここで、郚分的曲線 ad,1ap,1 たたは郚分的方皋匏 da=fa,1(pa) を初めずし、他の郚分的曲線及び方皋匏が連続であるこず、すなわち pa の無限小の増加が da の無限小の枛少を生ぜしめるこずを、䜕ものも瀺しおいない。吊反察に、これらの凜数はしばしば䞍連続である。䟋えば燕麊に぀いおいえば、小麊の所有者の第䞀人は䟡栌が隰貎するに埓っお、燕麊の需芁を枛ずるのではなく、たしかに、圌が畜舎に飌逊する銬を枛じようずするずきに、断続的にその需芁を枛ずるのである。故に圌の郚分的需芁曲線は、実際においおは、a 点を通る階段圢の曲線の圢第䞀図をずるのである。他のすべおの人の曲線もいずれも同様である。しかし党郚曲線 AdAp第二図は、いわゆる倧数の法則によっお、ほが連続であるず考え埗られる。たこずに、䟡栌の極めお小さい隰貎が起るずきには、倚数の人々のうちおそらく䞀人くらいは、今たで飌逊しおいた銬のうち䞀頭を手攟すような極限に立っおいお、需芁を枛ずるであろうが、この枛少は党需芁䞭の極めお小なる郚分の枛少に過ぎないであろう。  五䞉 このようにしお、曲線 AdAp は、の䟡栌の凜数ずしおのの有効に需芁せられる量を瀺す。䟋えば Am 点の暪坐暙 Opa,m によっお衚わされる䟡栌 pa,m における有効需芁は、同じ点 Am の瞊坐暙 ODa,m によっお衚わされる Da,m である。そしおをもっおするの有効需芁が、䟡栌 pa,m であるずき、Da,m であれば、ず亀換に提䟛せられるの有効䟛絊は、このこずだけで、 Ob,m=Da,mpa,m第四五節 ずなる。これは瞊坐暙 ODa,m ず暪坐暙 Opa,m によっお䜜られる矩圢 ODa,mAmpa,m によっお衚わされる。だから曲線 AdAp はで衚わしたの䟡栌の凜数ずしおのの需芁ずの䟛絊ずを同時に瀺しおいる。同様に曲線 BdBp はで衚わしたの䟡栌の凜数ずしおのの需芁ずの䟛絊ずを同時に瀺すのである。  五四 を所有する倚数者の手䞭にあっお垂堎に珟われた総量を Qb ずし、点 Qb を通る曲線を、xy=Qb を方皋匏ずする盎角双曲線であるずする。盎線 pa,mAm を、この双曲線ずの亀点 Qb たで延長し、軞すなわち䟡栌の軞に平行線 βQb を匕け。しからば矩圢 OβQbpa,m の面積 Qb は、垂堎に霎らされたの総量を衚わし、矩圢 ODa,mAmpa,m の面積 Da,m pa,m は、䟡栌 pa,m においおず亀換に提䟛せられる郚分を衚わす。埓っお矩圢 Da,mβQbAm の面積すなわち Qb-Da,mpa,m は、同じ䟡栌 pa,m においお垂堎から持ちかえっお所有者が保留するであろう郚分を瀺す。䞀般に、Qb, pa, Da 及びの間には、次の関係がある。 Qb=Y+Dapa そしお xy=Qb すなわち Qb 点を通る曲線は、の存圚量を衚わす双曲線であるから、AdAp は、で衚わしたの䟡栌の劂䜕によっお、このの量を、ず亀換に䞎えるべき郚分ず保留しおおくべき郚分ずに分ける曲線である。曲線 BdBp ず、 xy=Qa を方皋匏ずするの存圚量の双曲線ずの間にも、同様の関係があるのはもちろんである。  五五 故に需芁曲線は、量の双曲線のうちに包たれおいる。たたこれらの需芁曲線は䞀般に坐暙軞を切り、これらの軞ず挞近線をなさないずいうこずが出来る。  䞀般に需芁曲線は、需芁の軞を切る。なぜなら䟡栌零においおある個人によっお需芁せられるある商品の量は、䞀般に有限であるから。䟋えば燕麊が無償で䞎えられるずしたら、ある人は十頭、ある人は癟頭の銬を飌逊するかもしれぬ。しかし圌らは無限数の銬を飌逊せぬであろうし、埓っお無限量の燕麊を需芁せぬであろう。ずころで䟡栌零における需芁の総蚈は有限量の合蚈であるから、それ自身も有限量である。  需芁曲線は䞀般に䟡栌の軞を切る。実際䟡栌が無限倧に達しなくおも充分に高ければ、ある商品がその無限小量をも䜕人によっおも需芁せられないようになるであろうず、我々は想像し埗る。しかしこの点に぀いおは絶察的にはいい埗ない。がいかなる䟡栌ででも党郚䟛絊せられ埗お、埓っお需芁曲線 AdAp が Qb を通る双曲線ず合臎する堎合があり埗るし、たたの䞀郚がいかなる䟡栌ででも䟛絊せられ埗お、埓っお需芁曲線 AdAp が Qb を通る双曲線の内偎の双曲線ず合臎する堎合があり埗る。だから架空の臆説をしないように、需芁曲線が坐暙軞ず存圚量の双曲線ずの間のすべおの地䜍をずり埗るず考えおおく。  五六 かくお我々は、䞀぀の商品の有効需芁ず他の商品で衚わしたその䟡栌ずの間の盎接的関係を知り、たたこの関係の数孊的衚珟を知り埗たわけである。  䟋えば商品に぀いおいえば、この関係は幟䜕孊的には、曲線 AdAp により、たた代数的には、この曲線の方皋匏 Da=Fa(pa) によっお衚わされる第五二節。  商品に぀いおいえば、この関係は、幟䜕孊的には曲線 BdBp により、代数的には、この曲線の方皋匏 Db=Fb(pb) によっお衚わされる。  その䞊、我々は、ある他の商品ず亀換に提䟛せられる䞀぀の商品の有効䟛絊ず、埌者で衚わした前者の䟡栌ずの間に存する間接的関係の性質を知り埗たわけであり、たたこの関係の数孊的衚珟を知り埗たわけである。  䟋えばに぀いおいえば、この関係は、幟䜕孊的には曲線 BdBp で包たれた䞀連の矩圢により、たた代数的には、この曲線の方皋匏 Oa=Dbpb=Fb(pb)pb によっお衚わされる第五䞉節。  に぀いおは、それは幟䜕孊的には、曲線 AdAp に包たれた䞀連の矩圢により、代数的には、方皋匏 Ob=Dapa=Fa(pa)pa によっお衚わされる。  ずころで、これらの方皋匏から、各商品の有効䟛絊ず他の商品で衚わしたこの商品の䟡栌ずの関係を衚わす方皋匏を導き出すこずは容易である。すなわちこれら二぀の方皋匏においお、䟡栌 pb をにより、䟡栌 pa をにより眮き換えればよい。なぜなら papb=1 であるから。  よっお ずなる。  これらの芁玠をもっお私共は、二商品の亀換の䞀般的問題――二商品、を䞎えられ、たたこれら二商品盞互の需芁曲線たたはこれら曲線の方皋匏を䞎えられれば、それぞれの均衡䟡栌はいかに定たるかの問題――を、数孊的に解くこずが出来る。  五䞃 幟䜕孊的には、問題は、二぀の曲線 AdAp, BdBp の間に、それぞれの底蟺これらは互に逆数である䞊に矩圢 OdaApa, ODbBpb を䜜り、これら䞀方の高さ ODa が他方の面積 ODb × Opb に等しくなるように、たた反察にこの他方の矩圢の高さ ODa が䞀方の矩圢の面積 ODa × Opa に等しくなるようにするこずにある。これら二぀の矩圢の底蟺 Opa, Opb は均衡䟡栌を瀺す。けだしこれらの䟡栌のそれぞれにおいお、高さ ODa によっお衚わされるの需芁は、面積 ODa×Opa によっお衚わされるの䟛絊に等しいからである第四䞃節。  ここに甚いた「各䞀方の矩圢の高さが他方の矩圢の面積に等しくなるように」ずいう衚珟は、等質を衚珟したものではない。しかしこの堎合にはこの等質を必ずしも必芁ずしない。なぜなら底蟺が互に逆数を衚わしおいるこずが、これら二曲線の構成に圹立った共通な単䜍 O1 の存圚を予想しおいるから。だがもしこの単䜍を顕わさしめようずすれば、各矩圢の高さは、他方の矩圢の面積を構成しおいる単䜍数ず同数の単䜍数を含んでいるず考えるか、たたは各矩圢の面積は、他方の矩圢の高さず底蟺の単䜍によっお䜜られる矩圢の面積に等しいず考えねばならぬ。ずころでこの問題の䞎件においおは、圓然、各矩圢の底蟺は高さの反比に等しく、たた面積の比に等しいわけである。  五八 代数的には、問題は、二぀の方皋匏 Fa(pa)=Fb(pb)pb,  papb=1 における二぀の根 pa, pb を求め、たたは二぀の方皋匏 Fa(pa)pa=Fb(pb),  papb=1 における二぀の根 pa, pb を求めるこずにある。曎にいい換えれば、問題は、 Da=Oa を衚わす方皋匏 及び Ob=Db を衚わす方皋匏 の二぀の根 pa, pb を求めるこずにある。  五九 なおたた、これらの解法を䞀぀に結合するこずも出来る。我々は既に曲線 Da=Fa(pa),  Db=Fb(pb) を知っおいるが、これらはそれぞれ曲線 AdAp, BdBp である。今曲線 を䜜れば、それらはそれぞれ曲線 KLM, NPQ であっお、これらの曲線ず AdAp, BdBp ずの亀点及びは、先に述べた矩圢をちょうど䞎える。  これらの曲線 KLM, NPQ はいかなるものであるか、図に点線で衚わされたこれらの曲線の構造の圢状を知るこずは容易である。  たず曲線 KLM はの䟛絊曲線であっお、の需芁曲線ず混同しおはならない。なぜならの需芁曲線の坐暙によっお䜜られる矩圢の面積は、䟡栌 pb の凜数ずしおのの䟛絊を瀺しおいるのに反し、の䟛絊曲線の瞊坐暙の長さは、䟡栌 pa の凜数ずしおのの䟛絊を瀺しおいるから。  この曲線は、で衚わしたの䟡栌が無限倧であるずきすなわちで衚わしたの䟡栌が無限小であるずき、零の倀から出発し、埓っお䟡栌の軞に挞近線をなす。そしおそれは、原点に近づくに埓い、すなわちで衚わしたの䟡栌が枛少するに埓い、すなわちで衚わしたの䟡栌が増加するに埓っお、䞊向し、぀いに最高点に達する。この点の暪坐暙は、曲線 BdBp に包たれる矩圢の面積を最倧ならしめる Bm 点の暪坐暙 Opb,m によっお衚わされる pb,m すなわちで衚わしたの䟡栌の逆数、すなわちで衚わしたの䟡栌を瀺しおいる。次にこの曲線は、原点に近づくに埓い高さを枛じ、぀いに零ずなる。これが零ずなるのは、曲線 BdBp が䟡栌の軞を切る Bp 点の暪坐暙 OBp によっお衚わされるで衚わしたの䟡栌の逆数においおである、すなわち OK で瀺されるで衚わしたの䟡栌においおである。  同様に曲線 NPQ はの䟛絊曲線であっお、の需芁曲線ず混同しおはならない。の需芁曲線の坐暙によっお䜜られる矩圢の面積は、䟡栌 pa の凜数ずしおのの䟛絊を瀺しおいるのに反し、の䟛絊曲線の瞊坐暙の長さは、䟡栌 pb の凜数ずしおのの䟛絊を瀺しおいる。  この曲線は、で衚わしたの䟡栌が無限倧であるずきすなわちで衚わしたの䟡栌が無限小であるずき、零の倀から出発し、埓っお䟡栌の軞に挞近線をなす。そしおそれは、原点に近づくに埓い、すなわちで衚わしたの䟡栌が枛少するに埓い、すなわちで衚わしたの䟡栌が増倧するに埓い、䞊向し、぀いに最高点に達する。この点の暪坐暙は、曲線 AdAp に包たれた矩圢の面積を最倧ならしめる Am 点の暪坐暙 Opa,m によっお衚わされる pa,m の逆数すなわちで衚わしたの䟡栌を瀺す。次にこの曲線は、原点に近づくに埓い、高さを枛じ、぀いに零ずなる。これが零ずなる点は、曲線 AdAp が䟡栌の軞を切る Ap 点の暪坐暙 OAp によっお衚わされるで衚わしたの䟡栌の逆数においおである。すなわち ON によっお瀺されるで衚わしたの䟡栌においおである。  いうたでもなく、曲線 KLM, NPQ の圢状は党く曲線 BdBp, AdAp の圢状劂䜕による。BdBp, AdAp が図に瀺されたものずは異っおいるずすれば、KLM, NPQ もたた党く異ったものずなるであろう。それはずにかく、今私共に䞎えられた条件においおは、曲線 BdBp は最倧矩圢点 Bm を過ぎた埌、䞋向しお、点線 NPQ に亀わるのであるが、この亀点は、NPQ が零から最高点に向っお䞊向し぀぀ある所にある。埓っお、曲線 AdAp もたた、䞋向するずき、最倧矩圢点 Am を通る以前に点線 KLM に亀わるのであるが、この亀点は、この曲線がその最高点から零に䞋向する所にある。  六〇 だから、もし点においお二曲線 AdAp, KLM が亀わるずしたら、この点の右においおは曲線 AdAp は曲線 KLM より小であり、巊においおはより倧であるこずも明らかである。たた点においお二曲線 BdBp, NPQ が亀わるずすれば、この点の右においおは、曲線 BdBp は曲線 NPQ より小であり、巊においおはより倧であるこずも明らかである。  ずころで、䟡栌は、仮定によっお、Da=Oa, Db=Ob ならしめる䟡栌であるから、pa より倧なるすべおので衚わしたの䟡栌においおは、すなわち pb より小なるすべおので衚わしたの䟡栌においおは、Oa>Da であり、Db>Ob である。反察に pa より小なるすべおので衚わしたの䟡栌においおは、すなわち pb より倧なるで衚わしたの䟡栌にあっおは、Da>Oa であり、同時に Ob>Db である。前の堎合には pb の高隰すなわち pa の䞋降によっおしか、均衡䟡栌が珟われ埗ないし、埌の堎合には pa の高隰すなわち pb の䞋萜によっおしか、均衡䟡栌は珟われ埗ない。  そこで、二商品盞互の間の亀換における有効需芁䟛絊の法則loi de l'offre et de la demande effectivesすなわち均衡䟡栌成立の法則loi d'éstablissement d'équilibreを、次のように衚珟するこずが出来る。――二商品が䞎えられ、それらに぀いお垂堎の均衡すなわちそれぞれ䞀方の商品で衚わした他方の䟡栌の静止状態があり埗るためには、二商品の各々の有効需芁がその有効䟛絊に等しいこずを必芁ずし、たたこれだけの条件が充されるだけで充分である。この均等が存圚しないずするず、均衡䟡栌に達するためには、有効需芁が有効䟛絊より倧なる商品の䟡栌が高隰せねばならぬし、有効䟛絊が有効需芁より倧なる商品が䞋萜せねばならぬ。  この法則は、先に取匕所の垂堎の研究のすぐ埌で衚明しようず詊みたものであるが第四二節、しかしその厳密な蚌明が必芁であった第四八節。  六䞀 我々は今や、垂堎における競争の機構がいかなるものであるかを、よく理解し了えた。実際においおも亀換の問題は、䟡栌の高隰及び䞋萜によっお解かれおいる。私がここに瀺したのは、この問題の数孊的、玔理論的解法である。私の目的が、実際の解き方に、私の解法を眮き換えようずするにあるのではないのは、いうたでもない。実際の解き方は、理想通りに、迅速であり、正確である。䟋えば倧垂堎では、仲買人やせり売人がなくおも、その時々の均衡䟡栌は数分の間に決定し、䞉四十分の間に巚額の商品が取匕せられる。これに反し、理論的解法は、ほずんどすべおの堎合に、行われ難いものである。それ故に、亀換の曲線を画きたたはその方皋匏を䜜るこずは困難であるずいうのは、根拠のない批難を私共に加えようずする者である。ある商品の需芁たたは䟛絊曲線の党郚たたは䞀郚を䜜っお、ある堎合に利益が埗られるか吊か、これらの曲線をを䜜るこずが可胜であるか吊か、それらはここに問おうずするこずではない。今はただ亀換の䞀般的問題を研究するのであっお、我々にずっおは、亀換曲線の玔粋な抜象的な抂念が埗られれば充分なのであり、同時にその把握が欠くべからざるものなのである。     第䞃章 二商品盞互の間に行われる亀換の問題の解法の吟味 芁目 六二、六䞉 䟛絊曲線が唯䞀の極倧においお連続である堎合に論議を局限する。六四 䟛絊曲線は需芁曲線ず亀わらないこずもあり埗る。この堎合䟡栌は成立しない。六五 䟛絊曲線は需芁曲線ず䞉点においお亀わるこずもあり埗る。この堎合䞉぀の䟡栌があり埗る。六六、六䞃、六八 この内二぀の均衡䟡栌は安定であり、䞀぀の均衡䟡栌は䞍安定である。六九 二぀の需芁曲線の内䞀぀が存圚量の双曲線ず䞀臎する堎合。䞃〇 二぀共䞀臎する堎合。  六二 以䞊述べおきた所を芁玄すれば、二商品、が䞎えられ、その有効需芁ず䟡栌ずの関係が、方皋匏 Da=Fa(pa), Db=Fb(pb) によっお衚わされるずするず、均衡䟡栌は方皋匏 Dava=Dbvb によっお埗られる。そしお Da, Db にその倀を代入すれば、均衡䟡栌は方皋匏 Fa(pa)va=Fb(pb)vb によっお埗られる。だがしかし、pa を求めようずするならば、曎に右の方皋匏を次のの圢ずするこずも出来、たた pb を求めようずするならば、それをの圢ずするこずも出来る。 前者は Da=Oa を衚わし、埌者は Ob=Db を衚わす。  私は、これら二぀の圢の方皋匏を、曲線 の亀点により、たたは曲線 の亀点によっお解いた第五九節。今この解法を吟味しようず思う。  六䞉 けれども今は、可胜なあらゆる堎合に぀いおこの解法を吟味するのではない。あらゆる堎合に぀いおこの解法を吟味するのは、倚倧の時を芁し、たたここはその機䌚ではない。ただ瀺した図に関するような極めお簡単な䞀般的堎合のみを吟味する。第二図においおは、私は、曲線 AdAp, BdBp が連続であるず考え、か぀たた Da=OAd, pa=0 なる点ず pa=OAp, Da=0 なる点ずの間に、及び Db=OBd, pb=0 なる点ず     pb=OBp, Db=0 なる点ずの間に、これら曲線䞊のそれぞれの坐暙によっお䜜られる矩圢 Dapa, Dbpb がもち埗る極倧はそれぞれただ䞀぀であるず考えおおいた。のみならず第二図に぀いおは、正の坐暙が䜜る角のうちに含たれる曲線の郚分、しかもこの角のうちでも、点 Ad ず Ap ずの間に含たれた曲線の郚分ず、点 Bd ず Bp ずの間に含たれた曲線の郚分ずを考察すればよいのであった。もちろんこのこずは亀換ずいう事実の性質䞊圓然に出おくる。この仮定においおは、曲線 KLM, NPQ は連続曲線であり、それらのそれぞれの坐暙によっお䜜られる矩圢の面積は、ただ䞀぀の極倧を瀺すに過ぎない。だがかく限定せられた堎合においおも吟味せられるべき興味ある問題がある。  六四 私の掚論䞭では、䞀方 AdAp 及び KLM、他方 BdBp 及び NPQ は、それぞれ唯䞀点及びにおいおしか亀わらないず考えられた。けれどもたずこれらの曲線はどこでも亀わらない堎合もあり埗るこずを泚意すべきである。たこずに、もし曲線 BdBp が点の手前に䜍する点においお䟡栌の軞に達するずすれば、それは曲線 NPQ ずは亀わらない。か぀この堎合には曲線 KLM は Ap 点よりも遠い点においお䟡栌の軞を去り、曲線 AdAp には亀わらない。埓っお問題はこの堎合には解けない。  このこずは驚くに足らない。この堎合は、のいずれの所有者ものに察しおの Ap を、すなわちのに察しのを、䞎えるこずを欲しない堎合であり、他面からいえば、のいずれの所有者ものに察し、のを、すなわちの Ap に察しのを、䞎えようず欲しない堎合である。この堎合のせり䞊げが、垂堎に察し䜕らの圱響を生ぜしめ埗ないのは明らかである。で衚わしたの䟡栌ずしお Ap 以䞋の䟡栌すなわちで衚わしたの䟡栌ずしお以䞊の䟡栌を成立せしめれば、の需芁者すなわちの䟛絊者はあるであろうが、の需芁者すなわちの䟛絊者はないであろう。そしおたたもしで衚わしたの䟡栌ずしお以䞋の䟡栌を䜜れば、すなわちで衚わしたの䟡栌ずしお Ap より以䞊の䟡栌を成立せしめれば、の需芁者すなわちの䟛絊者はあるであろうが、の需芁者すなわちの䟛絊者はないであろう。  六五 次に、曲線の圢状を泚意しお芳察すれば、二曲線の間に倚数の亀点がある堎合があり埗るこずが解る。たこずにもし二商品、に぀いお、をもっおするの需芁が曲線 AdAp を瀺し、をもっおするの需芁が曲線 Bd'Bp' を瀺すずすれば、この曲線 Bd'Bp' は曲線 NPQ ず䞉぀の点 B, B', B'' においお亀わるであろう。この堎合には、ず亀換せられるの䟛絊曲線 KLM は、曲線 K'L'M' ずなるのであっお、これは䞉぀の点 A, A', A'' においお曲線 AdAp に亀わるであろう。A, A', A'' はそれぞれ B, B', B'' 点に察応する。この堎合には二商品、の盞互の亀換の問題に䞉぀の解があり埗る。なぜなら曲線 AdAp, Bd'B'p に包たれお互に逆数である底蟺をもちか぀高さが互に他方の面積に等しい二぀の矩圢の䞉組があり埗るからである。だがこれら䞉぀の解は、いずれも同䞀の䟡倀をも぀ものであろうか。  六六 䞉぀の組のうち、たず、点 A' ず B' の組、及び点 A'' ず点 B'' の組を怜蚎すれば、それらは、ただ䞀぀の解しかあり埗ない堎合における点及びの組ず同様の状態にあるこずが解る第六〇節。曲線 AdAp は A' 点すなわち二曲線 AdAp,K'L'M' の亀点の右方であるかたたは巊方であるかにより、曲線 K'L'M' より小であるかたたは倧である。同様に曲線 B'dB'p は、B' 点すなわち二曲線 B'dB'p ず NPQ ずが亀わる点の右方であるかたたは巊方であるかにより、曲線 NPQ より小であるかたたは倧である。たた曲線 AdAp は、 A'' 点の右方であるかたたは巊方であるかにより曲線 K'L'M' より小であるかたたは倧である。同様にたた曲線 B'dB'p は、B'' 点の右方であるかたたは巊方であるかにより、曲線 NPQ より小であるかたたは倧である。  これら二぀の堎合にあっおは、均衡点の圌方においお、商品の䟛絊はその需芁を超え、䟡栌の䞋萜すなわち均衡点ぞの埩垰を生ずる。たた均衡点の歀方においお、商品の需芁はその䟛絊を超え、䟡栌の隰貎すなわち均衡点ぞの前進が生ずる。だからこの均衡を、私共は、垂盎線䞊にある重心の䞊方に懞吊点を有する物䜓が、垂線䞊から離れるずき、重力によっお自ら均衡点に萜ち付く所の均衡に、比べるこずが出来る。この均衡は安定均衡équilibre stableである。  六䞃 点 A, B は同様ではない。点の右においおは曲線 AdAp は曲線 K'L'M' より倧であり、巊においおは小である。同様に点の右においおは、曲線 B'dB'p は曲線 NPQ より倧であり、巊においおはより小である。だからこの堎合には、均衡点の圌方においお、商品の需芁はその䟛絊より倧であっお、これは䟡栌の隰貎を生ぜしめる。換蚀すれば、均衡点を離れしめる。そしおこの堎合にもたた均衡点の歀方においおは、商品の䟛絊はその需芁より倧であり、これは䟡栌の䞋萜を生ぜしめる。すなわち均衡点を離れしめる。故にこの均衡は、支点が瞊線䞊の重心より䞋にある物䜓の均衡に比すべきもので、もし重心が瞊線を離れるずするず、たすたすこれを遠ざかり、これを支点の䞋に眮くのでなければ、自ら重力によっおは埩垰をしない。これは䞍安定均衡équilibre instableである。  六八 故に実のずころ、A', B' の組ず A'', B'' の組ずがこの問題の二぀の解法を成すものであり、A, B の組は、これら二぀の解法の各々のそれぞれの領域の分岐点ず極限ずを瀺すに過ぎない。pb=Όの圌方では、で衚わしたの䟡栌は、均衡䟡栌 p''b すなわち B'' 点の暪坐暙に近づいおいく。その歀方では、䟡栌 p'b すなわち B' 点の暪坐暙に近づいおいく。これず盞関的に、の歀方においおは、で衚わしたの䟡栌は、均衡䟡栌 p''a すなわち A'' の暪坐暙に近づいおいく。この圌方においおは、それは、䟡栌 p'a すなわち A' 点の暪坐暙に近づいおいく。  容易に認め埗るように、この事実は、商品の性質により、で衚わしたの䟡栌が小さいずき需芁せられる倧なる量のが、で衚わしたの䟡栌が倧なるずき需芁せられる小なる量のに等䟡であり埗るず同時に、たたで衚わしたの䟡栌が倧なるずき需芁せられる小なる量のが、で衚わしたの䟡栌が小なるずき需芁せられる倧なる量のに等䟡ずなり埗る堎合に珟われる。そこでせりが、で衚わしたの䟡栌の小なるものず、で衚わしたの䟡栌の倧なるものずをもっお始たるか、たたはで衚わしたの䟡栌の小なるものず、で衚わしたの䟡栌の倧なるものずをもっお始たるかに埓い、これら二぀の均衡の第䞀に終るかたたは第二に終るこずずなるのである。倚数の商品が䟡倀尺床財たたは貚幣の仲介により互に亀換せられる堎合にも、なおこの事実が可胜であるか吊か。私は埌にこれを考察しよう。  六九 以䞊の研究にあっおは、需芁曲線 AdAp, BdBp, B'dBp' は二぀の坐暙軞を切るず仮定せられおいる。けれども需芁曲線が存圚量の双曲線ず䞀臎し、これらの坐暙軞に挞近線をなす極端な堎合をも研究せねばならぬ。  䟋えば AdAp が双曲線 Dapa=Qb ず䞀臎し、はあらゆる䟡栌においおすべお䟛絊せられるずするず、方皋匏〔〕は、 ずなる。これは点 Qb を通る曲線ず曲線 KLM ずが亀点 πa においお亀わるこずを瀺す。ただし    すなわち pa=∞ なる堎合の解を考慮倖に眮く。  そしお、方皋匏〔〕は、 Qb=Fb(pb) ずなる。これは、曲線 BdBp ず、ON'=Qb の距離を保っお䟡栌の軞に平行に匕いた盎線 N'P'Q' ずの亀点が πb にあるこずを瀺す。  䞃〇 最埌に、もし二商品がすべおの䟡栌で䟛絊せられるずすれば、同時に ずなるべく、これらは pa,pb を次のような倀ずならしめるであろう。 だから、この最埌の堎合には、二商品は玔粋に単玔に存圚量に反比䟋しお亀換せられる。すなわち次の方皋匏に埓っお亀換せられる。 Qava=Qbvb そしお容易に認め埗られるように、存圚量ず亀換量ずが盞等しいのは、二商品の有効需芁ず有効䟛絊ずが盞等しいこずを衚わしおいる。     第八章 利甚曲線たたは欲望曲線。商品の利甚の最倧の法則 芁目 䞃䞀 郚分的需芁曲線の出発点を決定する事情。倖延利甚。䞃二 傟斜ず到達点を決定する事情。匷床利甚。䞃䞉 所有量の圱響。䞃四 利甚たたは欲望の枬定単䜍の仮説。利甚曲線たたは欲望曲線の構成。䞃五 それらは有効利甚及び皀少性を所有量の凜数ずしお衚瀺した曲線である。䞃六 亀換は欲望の最倧満足の芋地から行われる。䞃䞃 の量 Ob ずの量 da ずの亀換は、亀換埌においおの皀少性ずの皀少性ずの比が䟡栌 pa に等しいずきに有利である。䞃八、䞃九 この亀換は Ob 及び da より小なるかたたは倧なる他のすべおの二商品の亀換よりも有利である。八〇 それ故皀少性の比が䟡栌に等しいずきに、欲望の最倧満足が生ずる。八䞀 最倧満足の条件から導き出された需芁曲線の方皋匏。八二 無限小による解法。八䞉、八四 欲望曲線が䞍連続の堎合。  䞃䞀 ここたでは、亀換の事実の性質に぀いお研究をしおきたが、この研究により、たたこの事実の原因の研究も可胜ずなる。実際もし䟡栌が需芁の曲線から数孊的に出おくるずすれば、需芁曲線の成立及び倉化の第䞀原因ず条件ずは、たた䟡栌の成立及び倉化の第䞀原因ず条件であるべきである。  故に今、郚分的需芁曲線䟋えばの所有者のの察するせり䞊げの傟向を幟䜕孊的に瀺す所の ad,1ap,1第䞀図第五䞀節に立返り、たずこの曲線が需芁の軞を離れおゆく点 ad,1 の䜍眮を決定する事情を考察しおみる。長さ Oad,1 はの所有者がを、この䟡栌が零であるずきに、有効に需芁する量すなわちこの商品が無償で䞎えられるずきにこの人によっお消費せられる量を瀺す。この量は䞀般に䜕によっお決定せられるか。それは、商品の利甚の䞀皮であっお私がここで倖延利甚utilité d'extension たたは utilité extensiveず呌ぶ所のものによっお決定せられる。私がここで倖延利甚ずいう名蟞を甚いたのは、この利甚を有する皮類の冚によっお充足せられる欲望の普遍性ず数量ずが、この欲望を感ずる人々の倚少及び感ずる匷床の倧小によっお決定せられるからである。䞀蚀でいえば、獲埗のために䜕らの犠牲を提䟛する必芁が無いずすれば、その堎合にこの商品が倚量に消費せられるかたたは少量だけしか消費せられないかが、倖延利甚である。ずころでの倖延利甚はの需芁曲線にしか圱響を䞎えないずいう意味で、たた同様にの倖延利甚はの需芁曲線にしか圱響を䞎えないずいう意味で、この第䞀の事情は簡単であり、絶察的である。か぀倖延利甚は䟡栌零においお需芁せられる量であるから蚈量出来る倧いさであるずいう意味においお、この第䞀の事情は蚈量し埗られるものである。  䞃二 だが倖延利甚は利甚のすべおではない。それはこの䞀因子に過ぎない。このほかに、今曲線 ad,1ap,1 の傟斜を決定する事情ず、この曲線が䟡栌の軞に達する点 ap,1 の䜍眮を決定する事情ずを研究すれば、盎ちに明らかになっおくる他の利甚がある。ずころで曲線の傟斜は二぀の量すなわち䟡栌の増倧ずこの増倧によっお惹き起される需芁の枛少ずの比に他ならない。この比は䞀般に䜕に䟝存するか。それは私が匷床利甚utilité d'intensité たたは utilité intensiveず名附ける利甚の䞀皮に䟝存するのである。この利甚を匷床利甚ず名附ける理由は、この利甚を有する富によっお満足される欲望が、䟡栌が高いのにもかかわらず、倚くの人々の間に存するかたたは少数の人々の間に存するか、たた各人においおは匷く存圚するかたたは匱く存圚するかによっお、この利甚が匷いものであるかたたは匱いものであるかが明らかになるからである。䞀蚀でいえば、この商品を獲埗するために払う犠牲の皋床が、商品の消費量の倧小に圱響するのは、匷床利甚の結果である。この事情は、倖延利甚ず異り、の需芁曲線の傟斜が、の需芁曲線ず同じく、の匷床利甚及びの匷床利甚の双方によっお決定せられるずいう意味においお耇雑であり、盞察的である。だから需芁曲線の傟斜を、需芁の枛少の䟡栌の増倧に察する比の極限〔蚳者蚻、需芁を䟡栌に぀き埮分した埮分係数〕――これは数孊的に決定するこずの出来る事情であるが――ず定矩すれば、それは二商品の利甚の匷床の耇雑な関係に他ならないずいうこずになる。  䞃䞉 なおの需芁曲線 ad,1ap,1 の傟斜に圱響を有する他の事情がある。それは商品の所有者の手䞭に存圚するの量 qb である。䞀般に郚分的需芁の曲線が郚分的存圚量の双曲線より小さいのは、総需芁の曲線が党郚量の双曲線より小さい劂くである。故に郚分量の双曲線が原点に近づき぀぀、たたは原点を離れ぀぀倉化するかに埓っお、郚分的需芁の曲線もそれず同様に倉化し、あたかも匷床利甚の倉化の結果ずしお珟われるように芋える。これら二぀の堎合におけるこの必然的関係を、図は忠実に瀺しおいる。  䞃四 この分析は䞍完党でありながら、䞀芋これ以䞊にこの分析を䞀局深く抌し進めるこずは䞍可胜のように芋える。なぜなら絶察的匷床利甚は、倖延利甚及び所有量ず異り、時間にもたた空間にも、盎接のか぀蚈量し埗る関係を有しないため、枬定し埗られないずいう事実があるからである。けれどもこの困難は越え埗ないものではない。今私は、右のような関係が存圚するず仮定し、倖延利甚、匷床利甚、及び所有量がそれぞれ䟡栌に及がす圱響を正確に数孊的に説明しようず思う。  故に私は、欲望の匷床すなわち匷床利甚を蚈量し埗る所の、か぀同皮類の富のすべおの単䜍にのみならずあらゆる皮類の富のすべおの単䜍に共通な尺床の存圚を仮定する。今瞊軞 Oq 暪軞 Or を二぀の坐暙軞であるずする第䞉図。瞊軞 Oq 䞊に、原点 O から順次に長さ Oq', q'q'', q''q''',   をずり、これらをもっお、の所有者が自ら珟にこれらを所有するずすれば、ある時間のうちに順次に消費しおいくであろう所の単䜍数を衚わさしめる。か぀倖延利甚及び匷床利甚は、この時間䞭、各亀換者に察し䞀定であるず仮定する。これによっお、利甚ずいう衚珟のうちに、私は時間を暗黙のうちにだけ瀺しおおくに止めるこずが出来る。もし反察に、利甚が時間の凜数ずしお倉化するものであるず仮定するず、問題の䞭に時間が明瀺的に珟われおこなければならぬ。この堎合には経枈静態を離れお、動態dynamiqueに入るこずになる。  ずころでこれら順次の単䜍は、所有者に察し、充足芁求の最も匷い欲望を充すべき第䞀の単䜍から、消費すれば飜満を感ぜしめるような最終の単䜍たで、次第に匷さを枛じおいく匷床利甚をも぀ものであっお、私共はこの枛少を数孊で衚珟しなければならぬ。もし商品が、䟋えば家具、衣服のように、自然に単䜍ず぀消費せられるずすれば、暪軞 Or の䞊、及び点 q', q''   等を通っお暪軞に平行な線の䞊に、原点及びこれらの q', q'' から長さ Oβr,1, q'r'', q''r''' をずり、これらでそれぞれ、これらが衚わす単䜍の匷床利甚を衚わさしめる。たた矩圢 Oq'R'βr,1, q'q''R''r'', q''q'''R'''r''' を䜜る。かようにしお、曲線 βr,1R'r''R''r'''R''' を埗る。この曲線は連続ではない。反察にもしが、䟋えば食料品のように、埮分小量ず぀消費し埗られるずするず、利甚の匷床は、䞀単䜍から次の単䜍ぞず、枛少するのみでなく、各単䜍の第䞀郚分から最埌の郚分たで順次に枛少し、䞍連続曲線 βr,1R'r''R''r'''R''' は連続曲線 βr,1r''r''' 
 βq,1 に倉化する。同様にしお、に぀いお曲線 αr,1αq,1 を埗るこずが出来る。か぀曲線が䞍連続な堎合ず同じく、連続な堎合にも、利甚の匷床は第䞀単䜍たたはこの単䜍の第䞀郚分の匷床から、消費せられる最埌の単䜍たたはこの単䜍の最埌の郚分の匷床たで、逓枛する事実が認められる。  長さ Oβq,1, Oαq,1 は、所有者に察し商品及びがも぀倖延利甚すなわち所有者が商品及びに぀いおも぀欲望の倖延を瀺す。面積 Oβq,1βr,1,Oαq,1αr,1 は、商品及びが同じ所有者に察しおも぀可胜的利甚utilités virtuellesすなわち所有者が商品及びに぀いおも぀欲望の倖延及び匷床の合蚈を瀺す。故に曲線 αr,1αq,1,βr,1βq,1 は、所有者に぀き、及びの利甚曲線courbes d'utilitésたたは欲望曲線courbes de besoinsを瀺す。だがそれだけではない。これらの曲線はたた二面の性質をもっおいる。  䞃五 ある商品の消費せられた量により、倖延においおたた匷床においお、充足せられた欲望の合蚈を有効利甚utilité effectiveず呌べば、曲線 βr,1βq,1 は、の消費量の凜数ずしおのこの人に察する有効利甚の曲線を瀺す。䟋えば長さ Oqb によっお衚わされる消費量 qb のこの人に察する有効利甚は面積 Oqbρβr,1 によっお衚わされる。そしお商品の消費せられた量によっお充される最埌の欲望の匷床を皀少性raretéず呌べば、曲線 βr,1βq,1 はの消費量の凜数ずしおのこの所有者に察する皀少性の曲線courbe de raretéずなるであろう。だから長さ Oqb によっお衚わされる消費量 qb の皀少性は、長さ qbρ=Oρb によっお衚わされる ρb である。同様に曲線 ar,1aq,1 はの消費量の凜数ずしおの有効利甚の曲線たたは皀少性曲線。それ故に暪軞及び瞊軞を、それぞれ皀少性の軞axe des raretés、量の軞axe des quantitésず呌ぶこずが出来るわけである。繰り返しおいうが、皀少性は所有量が枛少するずきに増加するものであり、その逆もたた真であるこずを、我々は認めねばならぬ。  代数的には、有効利甚は、消費量の凜数ずしお、方皋匏 u=Ίa,1(q),u=Ίb,1(q) によっお䞎えられ、皀少性はその埮分係数 Ί'a,1(q), Ί'b,1(q) によっお䞎えられる。もしたた皀少性を、消費量の凜数ずしお、方皋匏 r=φa,1(q),r=φb,1(q) によっお衚わせば、有効利甚は 0 より q たでの定積分 によっお䞎えられる。故に u ず r のそれぞれの衚珟には、次の関係がある。  䞃六 かようにしお、の所有者に察するの倖延利甚及び匷床利甚は、幟䜕孊的には、連続曲線 αr,1αq,1 により、代数的には、この曲線の方皋匏 r=φa,1(q) によっお衚わされ、この同じ所有者に察するの倖延利甚及び匷床利甚は、幟䜕孊的には、連続曲線 βr,1βq,1 により、代数的には、この曲線の方皋匏 r=φb,1(q) によっお衚わされる。そしお長さ Oqb によっお衚わされる量 qb は、この所有者が所有するの量であるが、ある䟡栌が珟われたずき、この所有者がに察しおも぀需芁はいかなるものであるか。それを正確にし埗るか吊かを芋ようず思う。  欲望曲線を䜜った方法䞊びにこれらの曲線を䜜るずき認められたこれらの曲線の性質から明らかであるように、この人がの qb 量を所有し、そのすべおを消費するずすれば、面積 Oqbρβr,1 によっお衚わされる欲望の合蚈量が満足せられる。だがこの人は、䞀般に、このすべおを消費しないであろう。なぜなら䞀般に、この人は自分が所有するこの商品のただ䞀郚分のみを消費し、他の郚分を、垂堎の䟡栌で、のある量ず亀換しお、より倚い合蚈量の欲望を満足し埗るからである。䟋えばで衚わしたの䟡栌が pa であるずき、Oy で衚わされる y 単䜍数ののみを残し、yqb によっお衚わされる郚分すなわち ob=qb-y を、Oda によっお衚わされる da 単䜍数のず亀換すれば、この個人は、二぀の面積 Oyββr,1 及び Odaααr,1 によっお衚わされる欲望の合蚈を満足するこずが出来、この量は先の合蚈量より倧ずなるこずがあり埗る。亀換を行うに圓っおこの個人は出来埗る限り倚くの欲望の合蚈量を満足しようずするず仮定しおみるず、pa が䞎えられおいるのであるから、da は、二぀の面積 Oyββr,1,Odaααr,1 の合蚈が最倧ずなるような条件によっお決定せられるこずは明らかである。ずころでこの条件は、量 da 及び y によっお満足せられる欲望の最埌のもののそれぞれの匷さ ra,1 ず rb,1 ずの比すなわち亀換埌におけるそれぞれの皀少性の比が pa に等しいずいうこずである。  䞃䞃 いたこの条件が充されたず仮定し、 ob=qb-y=dapa ra,1=parb,1 であるずするず、この匏から pa を消去し、 dara,1=obrb,1 を埗べく、da, ob, ra,1, rb,1 を、これらを衚わす長さ Oda, qby, daα, yβ で眮き替えれば Oda×daα=qby×yβ それ故に二぀の矩圢 Odaαra,1, yqbRβ の面積は盞等しい。しかるに曲線 αr,1αq,1, βr,1βq,1 の性質によっお、䞀方においお 面積 Odaααr,1>Oda×daα であり、他方 qby×yβ> 面積 yqbρβ である。故に 面積 Odaααr,1> 面積 yqbρβ  このようにしお、の ob 量ずの da 量ずの亀換は我がの所有者にずっお有利である。なぜならこれによっお埗られる満足を衚わす面積は、この亀換を斥けるずきに埗られる満足を衚わす面積より倧であるから。だがこれだけの説明では足りない。ob より小なるず da より小なるずを亀換しおも、たたは ob より倧なるず da より倧なるを亀換しおも、いかなる他の亀換を行っおも、右に述べた亀換より有利でないこずを蚌明せねばならぬ。  䞃八 この蚌明をなすため、の ob 量ずの da 量ずの亀換の党過皋が、盞等しくおか぀順次に系列をなす個の郚分的亀換から成立しおいるず仮定する。しからば亀換方皋匏 により、の所有者は、のを回だけ順次に売枡し、のを囘だけ順次に賌入し぀぀、の皀少性を枛少し、の皀少性を増加する。初め䟡栌 pa より倧であった皀少性の比は、かくしお、この䟡栌に盞等しくなる。埓っお第䞀の郚分的亀換より最埌の番目の郚分的亀換ぞず、次第に有利の床は枛じおいくけれども、郚分的亀換はいずれも有利である。  Od'a を、の点より䞊方に向っお、Oda から切りずった長さずし、qby' を、qb より䞋方に向っお qby から切りずった長さずし、か぀これらの長さを、それぞれ第䞀の郚分的亀換においお亀換されるの量及びの量を衚わすものずする。この第䞀次の郚分的亀換を行った埌には、皀少性の比は枛少するけれども、なお仮定によっお䟡栌より倧である。これらの皀少性を ra, rb ず名づければ、 ra>parb である。故に前の方皋匏により、 である。, , ra, rb を、それぞれ長さ Od'a, qby', d'aα', y'β' で眮き換えれば、 Od'a×d'aα'>qby'×y'β' ずなる。だが欲望曲線の性質によっお、䞀方においおは、 面積 Od'aα'αr,1>Od'a×d'aα' であり、他方、 qby'×y'β'> 面積 y'qbρβ' である。故に 面積 Od'aα'αr,1> 面積 y'qbρβ' である。だからのずのずの第䞀亀換はの所有者にずり有利である。同様に、順次に行われおいく第二郚分以䞋の亀換は、皀少性の比を枛少するけれども、なおこの比は仮定によっお䟡栌より倧であるから、有利であるこずを蚌明し埗る。この利益が、皀少性の比の枛少に䌎い、枛少しおいくこずは明らかである。  曎に、dad''a を、da 点から䞋方に向っお daO から切りずった長さずし、yy'' を点から䞊方に向い yqb から切りずった長さずし、これらの長さは、それぞれ最埌の郚分的亀換においお亀換せられたの量及びのを衚わすものずする。この最埌の亀換が行われるず、皀少性の比は枛少し、぀いに、仮定により、䟡栌に盞等しくなる。よっお、 ra,1=parb,1 であり、亀換方皋匏により である。, , ra,1, rb,1 を、それぞれ長さ dad''a, yy'', daα, yβ で眮き換えれば、 dad''a×daα=yy''×yβ しかるに欲望曲線の性質により、䞀方においお 面積 d''adaαα''>dad''a×daα であり、他方 yy''×yβ> 面積 yy''β''β このようにしお、のずのずの最埌の亀換もなお有利である。ずころではいかほどにも倧きく仮定し埗るのであるから、すべおの郚分的亀換は、䟋倖なく、埓っお想像し埗られる限り小さい最埌の郚分的亀換も、有利である。ただ最初の郚分的亀換はより有利であり、番目の郚分的亀換たで、有利の皋床が次第に枛少する。だからの所有者は ob より小なるの量を䟛絊せぬであろうし、たた da より小なるの量を需芁もせぬであろう。  䞃九 同様にしお、ob より倧なるの量を䟛絊しないであろうこずも、たた da より倧なるの量を需芁しないであろうこずも、蚌明するこずが出来よう。なぜならこの限床を超える郚分的亀換は、いかに小なる郚分的亀換であっおも、たずい想像し埗る限り小さい最初の郚分的亀換であっおも、いずれも䞍利益であり、たた各郚分的亀換はたすたす䞍利益ずなるからである。そしおこの蚌明は先の蚌明ず党く同様である。たこずに亀換の限床すなわちの皀少性ずの皀少性ずの比が䟡栌 pa に盞等しくなった点を越えお曎に、のある量ずのある量ずを亀換し、の皀少性を枛少し続け、の皀少性を増加し続ければ、ra<parb ずなる。すなわち rb>pbra ずなる。だから先に行った蚌明によっお、極限 rb,1=pbra,1  すなわち ra,1=parb,1 に達するたで、のある量ずのある量ずを亀換すれば、満足の最倧に近づくこずは、確かである。  八〇 故にによっお衚わしたの䟡栌 pa においお、の所有者が䟛絊するであろうの量ず、需芁するであろうの量ずが、 ra,1=parb,1 の関係をもっおいるずすれば、これらそれぞれの量 ob ず da ずは、この䟡栌においお䟛絊せられるべき量に等しく、これらより少くもなければ、倚くもない。  䞀般に、垂堎においお二商品が䞎えられおいるずするず、欲望満足の最倧すなわち有効利甚の最倧は、各所有者にずり、充足せられた最埌の各満足の匷床の比すなわち皀少性の比が、䟡栌に等しくなったずきに珟われる。この均等が達せられない限り、亀換者は、皀少性が自らの䟡栌ず他方の商品の皀少性ずの積より小さい商品を売り、皀少性が、自らの䟡栌ず右の商品の皀少性ずの積より倧なる商品を買うのが、有利である。  だから、亀換者は、二商品のうち、自分が所有する䞀商品の党量を䟛絊するのが、利益であるこずもあり埗べく、たた盞手の商品を党く需芁せぬのが利益であるこずもあり埗るであろう。この点に぀いおは、埌に説明しよう。  八䞀 方皋匏 ra,1=parb,1 の䞭の ra,1 及び rb,1 に、それらの倀を眮き換えれば、この方皋匏は φa,1(da)=paφb,1(y)=paφb,1(qb-ob)     =paφb,1(qb-dapa) ずなる。この方皋匏は、pa の凜数ずしおの da を䞎える。䜕ずなれば、この方皋匏がこれら二぀の倉数の第二〔蚳者蚻、da〕に関しお解かれおいるずすれば、この方皋匏は da=fa,1(pa) ずいう圢をずるからである。これは、所有者がでを需芁する堎合の需芁曲線 ad,1ap,1 の方皋匏を、たさしく衚わしおいる。故に、方皋匏 r=φa,1(q) 及び r=φb,1(q) が数孊的に確定し埗られれば、前の方皋匏もたた数孊的に確定する。ただ右に蚘した方皋匏が数孊的には確定しおいないために、方皋匏 da=fa,1(pa) は経隓的に過ぎないものずなっおいる。  かくお、問題――二商品、ず各亀換者に察するこれら二商品の利甚曲線すなわち欲望曲線、たたはこれら曲線の方皋匏、及びこれら商品の亀換者の各々によっお所有せられる量を䞎えお、需芁曲線を決定する問題――は解けるのである。  八二 以䞊の解法の方匏を、既に甚いた埮分法の蚘号によっお衚わすこずは、無意矩ではあるたい。  で衚わしたの䟡栌が pa であるずき、需芁せられるべきの量を da ずし、䟛絊せられるべきの量を ob=dapa であるずし、埓っお保留せられるべきの量は qb-ob であるずする。そしお qb は、所有者が所有するの量であるから、 [1] dapa+(qb-ob)=qb  たた u=Ίa,1(q), u=Ίb,1(q) をそれぞれ及びが消費量の凜数ずしおこの人に察しおも぀有効利甚を衚わす匏であるずし、埓っお Ίa,1(da)+Ίb,1(qb-ob) は、最倧ならしめるべき有効利甚の合蚈であるずする。凜数Ίの埮分係数は本質的に逓枛するから、我が亀換者の求める最倧利甚は、二商品の各消費量によっお生ずる利甚の埮分増加量の代数和が零であるずきに埗られる。なぜならこれらの埮分増加量が互に盞等しくなく、か぀互に正負盞反しおいるずすれば、埮分増加量のより匷い商品をより倚く需芁しお、埮分増加量のより匱い商品をより少く需芁し、たたは埮分増加量のより匱い商品をより倚く䟛絊し、埮分増加量のより匷いものをより少く䟛絊するのが利益であるからである。故に欲望の最倧満足を䞎える条件は、次の方皋匏によっお衚わされる。 Ί'a,1(da)dda+Ί'b,1(qb-ob)d(qb-ob)=0  ずころで䞀方においお消費量の凜数ずしおの有効利甚の凜数の導凜数は、皀少性に他ならないし、他方においお方皋匏から生ずる方皋匏 padda+d(qb-ob)=0 により、二商品のそれぞれの消費量の埮分ず二商品のそれぞれの他方で衚わしたそれぞれの䟡栌ずの積の代数和は零である。  故に φa,1(da)=paφb,1(qb-dapa) 私は埮分法に通暁しない読者のためにこれを説明した。しかしその他の読者は次のようにしお盎ちに理解せられるであろう。次の二匏の䞀方たたは他方を da に぀いお埮分せよ。 Ίa,1(da)+Ίb,1(qb-dapa) そしおその導凜数をず眮けば、 φa,1(da)-paφb,1(qb-dapa)=0 すなわち φa,1(da)=paφb,1(qb-dapa) ずなる。そしおこの方皋匏の根は極倧を瀺し、極小を瀺さない。けだし、凜数 Ί'a,1(q) すなわち φa,1(q), Ί'b,1(q) すなわち φb,1(q) は本質的に枛少凜数であるから、第二次導凜数 φ'a,1(da)+p2aφ'b,1(qb-dapa) は必然的に負であるからである。  八䞉 右に䞎えた私の蚌明は、欲望曲線の連続を前提ずする。だが我々は、欲望曲線が䞍連続である堎合をも研究せねばならぬ。厳密にいえば、これらの堎合には、䞀連続曲線をも぀商品ず䞍連続曲線をも぀商品ずの亀換、二䞍連続曲線をも぀商品ず連続曲線をも぀商品ずの亀換、䞉䞍連続曲線をも぀商品ず、同じく䞍連続曲線をも぀商品ずの亀換の䞉箇の堎合があり埗よう。けれども、埌に明らかにするように、我々はすべおの商品の䟡倀をその䟡倀ず関係せしめそしおすべおの商品を賌い埗る商品、埓っお連続的な欲望曲線をもち埗るしもたねばならぬ所の䞀぀の商品を遞ぶのであるから、第䞀の堎合だけを研究すればよい。  垞䟋により、の所有者に察するの利甚曲線を βr,1βq,1第䞉図ずし、この人が所有するの量を qb ずする。そしお点 a 及び a''' を通る階段圢の曲線を、この亀換者に察するの利甚曲線であるずする。は単䜍ず぀によっおしか買い埗られないのであるから、そしお pa はで衚わしたの䟡栌であるから、は pa に等しい量によっおしか売られない。もし長さ dad''a 及び dad'''a がそれぞれの買われた最埌の単䜍ず買われない最初の単䜍ずを衚わし、たた長さ yy'' 及び yy''' がそれぞれの売られた最埌の量ず売られない最初の量ずを衚わすものずすれば、亀換者が最倧満足を埗るずきには、次の二぀の䞍等匏が成り立぀。 面積 yy''β''β<daa 面積 yy'''β'''β>d'''aa'''  今 m'' ず m''' ずで、それぞれ yβ ず y''β'' ずの䞭間の長さ及び yβ ず y'''β''' ずの䞭間の長さを衚わすこずずすれば、これらは、それぞれの売られた最埌の量の利甚の平均匷床及び売られない最初の量の利甚の平均匷床を瀺す。これらに yy''=yy'''=pa を乗ずれば、それぞれ yy''β''β 及び yy'''β'''β に等しい二぀の面積が埗られる。そこで盞合しおの需芁すなわち da を決定する二぀の䞍等匏を次の圢に立おるこずが出来る。 daa=pam''+ε'' d'''aa'''=pam'''-ε''' これら二぀の方皋匏から、容易に次の結果を導き出すこずが出来る。 ずころで、m''+m''' は 2yβ に極めお近い量であり、か぀ははなはだ小さい量である。故に容易に が埗られる。  よっお、連続的欲望曲線をも぀商品ず䞍連続的欲望曲線をも぀商品ずの亀換の堎合においお、最倧満足が珟われるずきには、買われた商品の充された最埌の欲望の匷床ず充されない最初の欲望の匷床ずの平均の、売られたる商品の充された最埌の欲望の匷床に察する比は、䟡栌にほが等しい。  私はほが等しいずあえおいう。なぜならで衚わしたの䟡栌ず、の充された最埌の欲望の匷床ずの積 pa×yβ は、の充された最埌の欲望の匷さず充されない最初の欲望の匷さの平均に等しくないこずがあり埗るのみでなく、たた、これら二぀の量各々より倧であるこずも、小であるこずもあり埗るからである。実際、必然的に 面積 yy''β''β<pa×yβ であり、 daa> 面積 yy''β''β であるけれども、必然的には daa>pa×yβ ではない。そしおもし反察に daa<pa×yβ であるずするず、daa 及びこの daa より小さい d'''aa''' は、いずれも pa×yβ より小である。同様に、必然的に、 面積 yy'''β'''β>pa×yβ であり、 d'''aa'''< 面積 yy'''β'''β である。しかし必然的には、 d'''aa'''<pa×yβ ではない。そしおもし d'''aa'''>pa×yβ であるずするず、d'''aa''' 及びこの d'''aa''' より倧なる daa は、いずれも pa×yβ より倧である。  八四 再び二぀の䞍等匏 面積 yy''β''β<daa 面積 yy'''β'''β>d'''aa''' を芋よう。pa が枛少するず、これら二぀の䞍等匏の最初の項は共に枛少する。これによっお、第䞀匏の䞍等関係には倉化は生じない。しかし第二匏の䞍等関係が反察ずなり、da が少くずも䞀単䜍だけ増加する時が来る。pa が増加するず、二぀の方皋匏の初項は増加する。これによっお、第二匏の䞍等関係は倉化しない。しかし第䞀匏の䞍等関係が反察ずなり、da が少くずも䞀単䜍だけ枛少する時が来る。故にの需芁曲線は逓枛しか぀䞍連続である。  解析的には、で衚わしたの任意の䟡栌 pa が叫ばれるずき、の所有者は、欲望匷床 r1, r2   を充す所のの䞀、二単䜍を需芁し、この同じ r1, r2   量で蚈量せられたの有効利甚を埗れば、保留せられるの量は、qb-pa, qb-2pa   ずなり、定積分 で蚈られるの有効利甚が捚おられる。そしお最倧満足を䞎える需芁 da は次の二぀の䞍等匏によっお決定せられる。  このようにしお、pa のすべおの倀に察応する da が数孊的に決定せられるであろうし、をもっおするの需芁――䟡栌の凜数ずしおの――の逓枛的な䞍連続曲線が構成せられるであろう。     第九章 需芁曲線論。二商品間における亀換の問題の数孊的解法の䞀般的方匏 芁目 八五 䟡栌零における需芁。それは倖延利甚に等しい。八六 の需芁が零の堎合の䟡栌。八䞃 の䟛絊が所有量に等しい堎合の䟡栌。八八 䟛絊が所有量に等しい条件、所有量の双曲線ず需芁曲線ずが亀わるこず。八九 双曲線は亀点の間では需芁曲線ずなる。九〇 所有量の枛少。九䞀 増加。九二 䞀般の堎合は二商品の所有者の堎合である。郚分的有効需芁の二぀の方皋匏たたは曲線。九䞉、九四、九五 各商品の需芁方皋匏、たたは曲線は同じ商品の䟛絊を䟡栌の凜数ずしお衚わす匏たたは曲線でもある。九六 二商品間の亀換の堎合におけるせり䞊げの傟向を衚わす方皋匏の䞀般䜓系。九䞃、九八 方皋匏の解法。  八五 郚分的需芁の方皋匏 da=fa,1(pa) は、 φa,1(da)=paφb,1(qb-dapa) を da に関しお解いたず仮定した方皋匏に他ならないから、我々は、郚分的需芁の方皋匏を、この埌の圢においお論究するこずが出来る。  たず、pa=0 ずすれば、この方皋匏は φa,1(da)=0 ずなり、その根は da=αq,1=Oad,1 ずなる。  よっお、二商品が垂堎に䞎えられ、それらの䞀方の䟡栌他方で衚わしたがれロであるずきは、他方の商品の各所有者によっお需芁せられるこの商品の量は、これらの人々が欲するたたに自分の党欲望を充足するに必芁な量すなわち倖延利甚に等しい。  これがそうでなければならぬこずは、第䞃䞀節の説明によっおもたた明らかである。曲線 ad,1ap,1 は点 αq,1 から出発するからである。  八六 次に、需芁の方皋匏においお、da=0 であるずすれば、需芁の方皋匏は φa,1(0)=paφb,1(qb) ずなり、その根は  ずなる。  よっお、二商品の䞀方の所有者によっお需芁せられる他商品の量は、この他商品の䟡栌が、この他商品に察する欲望の最倧なものの匷床ず䟛絊すべき商品の保留せられるべき量によっお充され埗る最埌の欲望匷床ずの比に等しければ、たたはこの比より倧であれば、れロである。  これは、もちろん、そうでなければならぬ。なぜなら、この堎合には、の所有者によっお消費せられるの最埌の郚分䟋えばによっお、この所有者はの満足を埗られるのに反し、この最埌の郚分を䟡栌 pa での量ず亀換すれば、前の堎合に等しいかたたはより小なる満足 しか埗られないからである。  八䞃 の所有者がを需芁しないために必芁な䟡栌の条件を知った私共は、曎にを保留しないために必芁な䟡栌の条件を研究しよう。それには、方皋匏 [1] φa,1(da)=paφb,1(qb-dapa) においお、 [2] dapa=qb ずおかねばならぬ。しかるずきは、 [3] φa,1(da)=paφb,1(0) ずなり、その根は である。  よっお、二商品のうち䞀商品の所有者によっお䟛絊せられるその商品の量は、需芁せられるべき商品の䟡栌が、この埌の商品により充されるべき最埌の欲望の匷床ず䟛絊すべき商品の欲望の最倧匷床ずの比に等しいかたたはこれより小なるずき、所有せられる量に等しい。  これも、たた、そうでなければならぬ。けだし、この堎合にはの所有者によっお消費せられるの最初の郚分䟋えばにより、この所有者はだけの満足しか埗られないが、これを䟡栌 pa でのず亀換すれば、同じによっお、前の堎合ず等しいたたはより倧なる満足 が埗られるからである。  八八 方皋匏、の各蟺を互に盞乗じ、pa を消去するため、それを pa で陀せば、 daφa,1(da)=qbφb,1(0) ずなる。qb ず φb,1(0)=βr,1 ずを、これらを衚わす長さ Oqb,Oβr,1 で眮き換えれば、 daφa,1(da)=Oqb×Oβr,1 ずなる。  この方皋匏は、次の蚀葉でいい衚わし埗る条件をもっおいる方皋匏である。――二商品のうちの䞀商品の䟛絊がこの商品の所有量に等しいためには、需芁せられる商品の欲望曲線のうちに、䟛絊すべき商品の所有量を高さずし、この商品の満足の最倧匷床を底蟺ずしお䜜られた矩圢の面積に等しい矩圢を䜜り埗なければならぬ。  ずころで、この条件は垞に必ずしも満足せられるものではない。私の䟋にあっおは、特にそうである。右の条件は、たた、この条件すなわちの所有量の双曲線 dapa=qb ずの郚分的需芁曲線 da=fa,1(pa) ずは盞亀わるこずを芁するずの条件によっお衚わし埗る。けだし、方皋匏ずずの二぀を満足するには、右の二曲線が亀わらねばならないからである。だがこれらの曲線は垞に必ずしも亀わらない。特に、私の䟋における所有者の堎合には、亀わらない。  八九 この芳察はたた他の重芁な結果を霎らす。今、条件の方皋匏が充されたずし、か぀需芁曲線が所有量の双曲線ず点 q'b 及び q''b第䞀図においお亀わるず想像しおみる。の䟛絊は、点 q'b 及び q''b の暪坐暙によっお瀺される䟡栌においお、所有量 qb に等しい。このこずは、これらの䟡栌の䞭間の䟡栌においおも、同様である。のみならず、方皋匏の組合せたたは曲線の組合せによるず、䞭間の䟡栌においおは、の䟛絊は所有量 qb より倧であるべきであるように芋える。しかし所有者は自ら所有する以䞊の量を䟛絊するこずが䞍可胜であるから、qb-dapa は負の量であり埗ないずいう制限を、導き入れねばならぬのはもちろんである。この条件は次のように衚わされる。――二商品䞭の䞀商品の䟛絊が所有量ず等しくあり埗るためには、この所有量の双曲線ず他方の商品の需芁曲線ずが亀わらねばならぬ。量の双曲線は、右の亀点の間にあっおは、需芁曲線ずなる。  九〇 もし、曲線 αr,1αq,1 及び βr,1βq,1第䞉図が倉化しないで、qb が枛少すれば、ρb は増加し、埓っおは枛少する。qb=0 ずなるずきは、ρb=βr,1 であっお、比はに䞀臎する。そのずきには、需芁曲線 ad,1ap,1 は、坐暙軞の䞀郚 ad,1Oπ ずなる。  よっお、二商品の利甚がその䞀方の商品の所有者にずっお倉化せず、か぀この所有量が枛少したずすれば、他方の商品の需芁曲線ず䟡栌の軞ずの亀点は坐暙の原点に近づく。この所有量がれロずなるずきは、需芁曲線は、需芁の軞にずられた需芁せらるる商品の倖延利甚ず、䟡栌の軞にずられた二商品の欲望の最倧の匷床の比に等しい長さずによっお䜜られる坐暙軞の郚分に䞀臎する。  九䞀 反察にもし、qb が増加するず、ρb は枛少し、埓っおは増加する。qb=βq,1 であるずきは、ρb=0 ずなり、比は無限倧ずなる。そのずきには、点 ap,1は点より無限に隔っおくる。  よっお、二商品の利甚がその䞀方の商品の所有者にずっお倉化せず、か぀この所有量が増加すれば、他方の商品の需芁曲線ず䟡栌の軞ずの亀点は、坐暙の原点から遠ざかる。この所有量が倖延利甚に等しくなれば、需芁曲線は䟡栌の軞に挞近線をなす。  そうならなければならぬこずは、完党に説明せられ埗る。たた党郚需芁の曲線の圢状に぀いお早蚈に䜕らの断定を䞋さなかった第五五節のが、充分の理由があったこずも解るであろう。今は、右の曲線は垞に需芁の軞を切るず断定するこずが出来る。いかなる商品も、無限な党郚倖延利甚をも぀ものでないからである。けれども右の曲線が䟡栌の軞に挞近線をなすこずは、普通でか぀頻繁な事実ず考えねばならぬ。なぜなら、このこずは、䞀商品の所有者の䞭に自由勝手に党欲望を充すに充分な量のこの商品をも぀人が、䞀人でもあれば、生ずるからである。ここで党䟛絊の曲線は原点から出発するこずが、しばしばあり埗る䞀。  九二 ここたで、私は、すべおの亀換者が䞀商品のみのすなわちたたはのみの所有者であるこずを仮定しおきた。しかし同䞀の人が二商品及びの所有者である特別の堎合を考え、この人のせり䞊げの傟向を数孊的に衚わさねばならぬ。すべおを取扱うずいう意味においお、この堎合を取扱わねばならぬのはもちろん、この堎合こそが䞀般的堎合であっお、第䞀の堎合は、二商品の所有量の䞀方がれロであるず想像せられた堎合に過ぎない。掚論が耇雑ずなるのを恐れお、私は、最初には右の堎合を、二商品の亀換の問題の䞭に入れなかった。だが今は、最倧満足の定理によっお、この堎合を簡単に容易に取扱うこずが出来る。  故に、の所有者が、欲望曲線 αr,1αq,1 及び βr,1βq,1 の二぀の方皋匏 r=φa,1(q),r=φb,1(q) によっお衚わされる及びに察する欲望を持っお、垂堎に珟われるずき、のれロ量ず、Oqb第䞉図によっお衚わされるの qb 量を持っおくる代りに、Oqa,1第四図によっお衚わされるの qa,1 量ず、Oqb,1 によっお衚わされるの qb,1 を持っおくるず仮定し、䟡栌 pb の凜数ずしおのの需芁ず、䟡栌 pa の凜数ずしおのの需芁ずを衚わしおみよう。  もし、で衚わしたの䟡栌 pb を長さ qb,1pb で衚わし、この䟡栌においおこの人が、長さ qb,1db によっお衚わされるの db 量を需芁するずすれば、長さ qa,1oa によっお衚わされるの oa 量で同時に pb, db, oa の間に方皋匏 oa=dbpb を成立せしめるであろう所の量を䟛絊せねばならない。  そしおこのずきには、の充された最埌の欲望の匷床は長さ dbβ によっお衚わされる rb であり、の充された最埌の欲望の匷床は長さ oaα によっお衚わされる ra であるから、最倧満足の定理により第八〇節、 rb=pbra である。rb ず ra ずにその倀を代入すれば [4] φb,1(qb,1+db)=pbφa,1(qa,1-oa)=pbφa,1(qa,1-dbpb) ずなる。これは、で衚わしたの䟡栌の凜数ずしおのの需芁を、軞 qb,1q, qb,1p の䞊に衚わした需芁曲線 bd,1bp,1 の方皋匏である。  同様にもし、で衚わしたの䟡栌 pa においお、この個人がの da 量を需芁すれば、pa, da, ob の間に方皋匏 ob=dapa を成立せしめるようなの量 ob を䟛絊せねばならぬ。そしおそのずきには、の充された最埌の欲望の匷床は ra であり、の充された最埌の欲望の匷床は rb であるから ra=parb であり、 [5] φa,1(qa,1+da)=paφb,1(qb,1-ob)=paφb,1(qb,1-dapa) である。これは、で衚わしたの䟡栌の凜数ずしおのの需芁を、軞 qa,1q, qa,1p の䞊に衚わした需芁曲線の方皋匏である。  九䞉 䟡栌がれロであるずきの需芁の堎合、需芁がれロであるずきの䟡栌の堎合、所有量に等しい䟛絊がなされる堎合、所有量が枛少した堎合、これが増加した堎合等に぀いお、、の二぀の方皋匏を吟味すれば、先になした論述ず党く盞䌌たものずなるであろう。だから私はそれをしない。ただ確定しおおかねばならぬ重芁な特別な点に぀いおのみ論じおおく。  もし、方皋匏においお、db=0 であれば、その方皋匏は φb,1(qb,1)=pbφa,1(qa,1) ずなる。そしお垞に papb=1 であるから、この方皋匏は φa,1(qa,1)=paφb,1(qb,1) の圢ずせられ埗る。方皋匏においお、da=0 であるずしお、埗られるのもたたこれである。  よっお、二商品のうちの䞀商品の需芁が、ある䟡栌においおれロであるずすれば、他の䞀方の商品の需芁は、同じ䟡栌に盞応するその䟡栌においおたたれロである。  九四 しかしこの呜題はより䞀般的な定理の系に過ぎない。 で衚わしたの䟡栌の凜数ずしおのの需芁の方皋匏を、で衚わしたの䟡栌の凜数ずしおのの䟛絊の方皋匏に倉化するためには、db を oapa によっお、pb をによっお眮き換えればよい。よっおそれは φa,1(qa,1-oa)=paφb,1(qb,1+oapa) ずなる。これは方皋匏に倖ならないのであっお、ただ da が -oa に眮き換えられただけである。よっおの需芁方皋匏は、da が負の倀をずるずきのの䟛絊方皋匏である。同様にしお、の需芁方皋匏は、db が負であるずきのの䟛絊方皋匏であるこずを蚌明し埗る。ずころで䟡栌は本質䞊正であるから、db が正であれば、oa=dbpb は正であり、埓っお da=-oa は負である。db が負であるずきは、oa=dbpb は負であり、埓っお da=-oa は正である。同様にしお、da が正であるずきは、db は負であり、da が負であるずきは、db は正であるこずも蚌明出来よう。  よっお、二商品の䞀方の商品の需芁がある䟡栌においお正であれば、同じ䟡栌に盞応する他方の商品の䟡栌におけるこの他方の商品の需芁は負である、すなわちその䟛絊は正である。  そしお二商品の所有者は、䞀方の商品を䟛絊するこずによっおしか、他方の商品を需芁するこずが出来ないのであり、たたその逆も正しい。だからもし、䞀方の商品を需芁もせず䟛絊もせぬずすれば、他方の商品を䟛絊もせねば需芁もしないこずずなる。容易に認め埗るように、これは、二商品の皀少性の比が、他方の商品で衚わした䞀商品の䟡栌にたさしく等しくお、亀換をしないで有効利甚の最倧が生ずる堎合である。  九五 故に曲線は、ad,1 から ap,1 たでは、たた bd,1 から bp,1 たでは、需芁曲線である。けだし点 ap,1 ず bp,1 ずは互に逆であるからである。たた曲線は、ap,1 から ao,1 たで、bp,1 から bo,1 たで、すなわち図に軞 qa,1p, qb,1p 以䞋に点線で瀺した郚分においお、䟛絊曲線である。それらを合しお、軞 Or 䞊にずれば、曲線の各々は、二商品の各々の保留せられ獲埗せられる合蚈量を䟡栌の凜数ずしお瀺す曲線である。それには最小量が存圚するが、これは他方の商品ず亀換に提䟛せられる䟛絊量最倧の堎合に盞圓する。  九六 芁するに、亀換者が、自ら所有する及びの量 qa,1, qb,1 に察し、䟡栌の劂䜕によっお附加するであろう所のこれら商品のそれぞれの量を、正負を問わず、簡単に x, y で衚わせば、この人のせり䞊げの傟向は、亀換方皋匏ず最倧満足の方皋匏の二぀ x1va+y1vb=0 から生ずる。これらのうちで、pa の凜数ずしお x1 を衚わすために y1 を消去するこずも出来、たた pb の凜数ずしお y1 を衚わすために x1 を消去するこずも出来る。そしおこれらを消去しお埗られる方皋匏 φa,1(qa,1+x1)=paφb,1(qb,1-x1pa) φb,1(qb,1+y1)=pbφa,1(qa,1-y1pb) は䞀般的方匏であっお、埓っお、埌に倚数の商品の間の亀換における同じ人のせり䞊げの傟向を衚わす堎合にも、私はこれらの方匏を適圓に展開するに過ぎぬであろう。  なお泚意を芁する重芁なこずであるが、右の方皋匏の第䞀は pa の倀が負の x1 を qa,1 より倧ならしめるものであるずきは、方皋匏 x1=-qa,1 によっお眮き換えられねばならぬ。このずきには、y1 は方皋匏 y1pb=qa,1 によっお䞎えられる。同様に第二方皋匏は、負の y1 を qb,1 より倧ならしめる所の pb の倀においおは、方皋匏 y1=-qb,1 によっお眮き換えられねばならない。この堎合には、x1 は方皋匏 x1pa=qb,1 によっお䞎えられる。  九䞃 これらの方皋匏を、x1 及び y1 に぀いお解き、先の条件を満足するように適圓に凊理すれば、次の圢をずる。 x1=fa,1(pa), y1=fb,1(pb) 同様に、亀換者、のせり䞊げの傟向を衚わすものずしお、 x2=fa,2(pa), y2=fb,2(pb) x3=fa,3(pa), y3=fb,3(pb)             を埗る。そしお二商品及び)の各々の有効需芁ず有効䟛絊ずの均等は、次の二方皋匏の䞀方たたは他方によっお衚わされる。 X=fa,1(pa)+fa,2(pa)+fa,3(pa)+ 

 =Fa(pa)=0 Y=fb,1(pb)+fb,2(pb)+fb,3(pb)+ 

 =Fb(pb)=0  ずころで䟋えば pa をこの方皋匏の第䞀から導き出し、pb を方皋匏 papb=1 から導き出せば、この pb の倀は、必ず、第二方皋匏を満足する。けだし、明らかに Xva+Yvb=0 であるから。そこで、もし pa がある倀をずったずき、Fa(pa)=0 ずなれば、この䟡栌に察応する pb の倀においお、Fb(pb)=0 ずなる。  この解法は解析的解法である。私共は、これに幟䜕孊的圢匏を䞎えるこずが出来る。正のの合蚈はの需芁曲線を䞎え、正のの合蚈はの需芁曲線を䞎える。これらの二぀の需芁曲線から、二商品の䟛絊の二曲線が埗られる。これらは、負の及びを正にずり、それぞれを合蚈したものに他ならない。垂堎䟡栌は、これらの曲線の亀点によっお決定せられる。  九八 以䞊が数孊的解法である。垂堎における解法は次の劂くになされる。  ある二぀の互に逆数の䟡栌 pa, pb が叫ばれるず、蚈算こそしないがしかし最倧満足の条件に䞀臎するように x1, x2, x3 

 y1, y2, y3   が決定せられる。それによっおたた、ずも決定せられる。もし X=0 ならば、Y=0 ずなり、䟡栌は均衡䟡栌ずなる。しかし䞀般にはであり、埓っおである。正のの合蚈を Da ず呌び、負のの合蚈を笊号を倉えお Oa ず呌べば、右の第䞀の䞍等匏はずなる。そしお Da ず Oa ずを等しからしめるこずが問題である。  Da に぀いおいえば、この量は、pa=0 であるずき、正であり、pa が増加すれば、無限に枛少しおいく。そしおそれは、pa が 0 ず無限の䞭間のある倀をずるずき、れロである。Oa に぀いおいえば、この量は、pa=0 ずなるずき、れロであり、pa が正のある倀をずっおもなお、れロである。しかしなお pa が増加すれば、この量も増加するけれども、無限には増加しない。それは、少くずもある最倧の倀に達し、pa がなお増加すれば、枛少する。pa=∞ ずなれば、それはれロずなる。だから、Oa がれロであるこずを止める以前に、Da がれロずなっお、解法䞍胜ずなるのでなければ、Oa ず Da ずを盞等しからしめる pa のある倀が存圚する。この倀を芋出すには、もし Da>Oa ならば pa を増加せねばならぬし、もしたた Da<Oa ならば、pa を枛少せねばならぬ。私共はここにも有効䟛絊及び有効需芁の法則を認める。 蚻䞀 需芁曲線及び䟛絊曲線のこの吟味を、利甚曲線の逓枛から挔繹せられた二぀の事実の説明によっお補充するのが䟿利であろう。これらの二぀の事実の䞀぀は、䞀皮の仮説ずしお採られたもので第四八節、需芁の曲線は垞に逓枛するずいうこずである。その二は、第䞀から挔繹せられたもので、䟛絊曲線は、䟡栌の増加するに䌎い、初めれロから逓増し、次に逓枛しおれロ無限遠点においおに垰るずいうこずである第四九節。私は、これら二぀の蚌明を、䞀般化しお、任意数の商品の所有者間の任意数の亀換の堎合に぀いお行っお、附録第䞀、䟡栌決定の幟䜕孊的理論、第䞀節、倚数の商品間の亀換に぀いお、のうちに述べおおいた。     第十章 皀少性すなわち亀換䟡倀の原因に぀いお 芁目 九九 二商品間の亀換の解析的な定矩。䞀〇〇 亀換䟡倀ず皀少性ずの比䟋性。欲望曲線が䞍連続な堎合に関する留保。䞀〇䞀 亀換䟡倀の原因ずしおの皀少性。亀換䟡倀は盞察的事実であり、皀少性は絶察的事実である。個人的皀少性しか存圚しない。平均的皀少性。䞀〇二 二商品の盞察的䟡栌の倉動。倉動の四原因。これらの原因を蚌明する可胜性。䞀〇䞉 均衡䟡栌の倉動の法則。  九九 かくの劂く、分析をおし詰めれば、利甚曲線ず所有量ずが垂堎䟡栌の成立すなわち均衡䟡栌の成立に必芁にしおか぀充分なる芁玠である。これらの芁玠から、たず郚分的䞊びに党郚需芁曲線が数孊的に出おくるが、その理由は、各人に自己の欲望の最倧満足を埗ようず努める事実があるからである。次に郚分的及び党郚需芁曲線から、垂堎䟡栌すなわち均衡䟡栌が数孊的に出おくるのであるが、その理由は、垂堎には唯䞀の䟡栌すなわち党郚有効需芁ず党郚有効䟛絊ずを盞等しからしめる䟡栌しかあり埗ない事実があるからである。換蚀すれば、各人は自ら䞎える所の物に比䟋しお受けねばならないしたた受ける所の物に比䟋しお䞎えねばならないずいう事実があるからである。  よっお、自由競争の行われる垂堎においお二商品の間に行われる亀換は、二商品のいずれか䞀方のすべおの所有者なりたたは双方のすべおの所有者なりが、共通にしお同䞀の比率で、売る所の商品を䞎え買う所の商品を受ける条件の䞋においお、各人の欲望の最倧満足を埗るこずの出来る行動である。  瀟䌚的富の理論の䞻な目的は、この呜題を䞀般化し、これがたた、二商品間の亀換ず同様に、倚数の商品間の亀換にも盞通ずるものであり、たた亀換におけるず同じく、生産の自由競争の堎合にも盞通ずるものであるこずを明らかにするにある。瀟䌚的富の生産の理論の䞻な目的は、この呜題から垰結を導き出し、蟲業工業及び商業の組織の法則がこの呜題からいかにしお出おくるかを瀺すにある。だから、この呜題は玔粋経枈孊、応甚経枈孊のすべおを貫くものであるず、いい埗よう。  䞀〇〇 va, vb は商品及びの亀換䟡倀であり、その比は均衡垂堎䟡栌を瀺し、ra,1, rb,1, ra,2, rb,2, ra,3, rb,3   は亀換者、、  における亀換埌の皀少性すなわち充足せられた最終の欲望の匷床であるから、最倧満足の定理により、亀換者にずっおは、 であり、亀換者にずっおは、 であり、亀換者にずっおは、 である。  故に である。これをたた次のように衚わすこずも出来る。   va:vb ::ra,1:rb,1 ::ra,2:rb,2 ::ra,3:rb,3 :: 

 

  なお泚意せねばならぬが、もし商品がある䞀定の単䜍で消費せられ、埓っお欲望曲線が䞍連続であれば、皀少性の衚の䞭に既に知ったように第八䞉節、充された最埌の欲望の匷床ず充されない最初の欲望の平均にほが近い比䟋項を特に目立぀ように蚘入せねばならぬ。  たた、皀少性の比のうち䞀぀たたは倚くにおいお、比の二項䞭の䞀方が欠けるこずも可胜である。䟋えば所有者は、䟡栌が pa であるずきは、の需芁者でないこずがあり埗よう。この堎合にはこの人にずっおの皀少性はあり埗ない。なぜなら ra,2 の項は、この所有者が感ずるの最初の欲望の匷床 αr,2 より倧なる項 parb,2 によっお眮き換えられねばならぬからである第八六節。たた䟋えば所有者が、pa の䟡栌においおはすべおを投じおを需芁する人である堎合があり埗る。すなわちの所有量たたは存圚の党量の䟛絊者である堎合があり埗る。この堎合には、この人にずっおは、の皀少性はない、充された欲望がないからである。項 rb,3 はこの所有者が感ずるの最初の欲望の匷床 βr,3 より倧なる項 pbra,3 によっお眮き換えられねばならぬ第八䞃節。もっずも parb,2, pbra,3 の項を括匧に入れお、䞊の衚の䞭に蚘すこずも出来よう。そのずきは皀少性は充されたたたは充されねばならぬ最埌の欲望の匷さず定矩されねばならぬ。  これら二぀の留保をすれば、私共は次の呜題を立おるこずが出来る。  垂堎䟡栌たたは均衡䟡栌は皀少性の比に等しい。他の蚀葉でいえば、  亀換䟡倀は皀少性に比䟋する。  䞀〇䞀 二商品の間に行われる亀換に関し、亀換の数孊的理論の研究の圓初に、私は䞀぀の目的を定めた第四〇節。それは、経枈孊及び瀟䌚経枈孊の目的ず分け方を取扱った第䞀線でなしたように、皀少性から出発しお亀換䟡倀に到らないで、亀換䟡倀から出発しお皀少性に到ろうずするこずであった。今私はここにこの目的を達した。実際、ここに芋るような皀少性すなわち充された最埌の欲望の匷床は、先に私が利甚ず限られた量ずの二条件をもっお定矩した皀少性第二䞀節に党く盞䞀臎する。もしある物に欲望が無く、倖延利甚も匷床利甚もなく、換蚀すれば、この物が利甚のない無益のものであるずしたら、充された最埌の欲望ずいうものはあり埗ない。たた物が利甚曲線をもっおいおも、倖延利甚より倧なる量においお存圚し、すなわち量においお無限であるならば、充された最埌の欲望の匷床はあり埗ない。だから、ここでいう皀少性は、先にいった皀少性に他ならない。そしお、このこずは、皀少性が評䟡し埗られる倧さず考えられ、たた亀換䟡倀がそれに䌎うのみでなく必然的にそれに比䟋するこずがあたかも重量が質量ず比䟋する劂くである堎合にのみ、あり埗るのである。ずころで皀少性ず亀換䟡倀ずが、同時に存圚し比䟋を保぀二぀の珟象であるこずがたしかだずしたら、たしかに皀少性は亀換䟡倀の原因である。  亀換䟡倀は重量のように盞察的事実であり、皀少性は質量のように絶察的事実である。二商品、があり、その䞀方が無利甚ずなり、たたは利甚があっおも量においお無限ずなれば、それはもはや皀少ではなく、亀換䟡倀をもたない。この堎合には、他方の商品も亀換䟡倀をもたなくなる。しかしこの商品は皀少でなくなりはしない。所有者である人々の各々においお皮々の皋床に皀少であり、それぞれ䞀定の皀少性をも぀のである。  私はここに所有者である人々の各々においおずいった。たこずに、商品たたは商品の皀少性ずいうような䞀般的なものはあり埗ない。埓っおの皀少性のの皀少性に察する䞀般的比、たたはの皀少性のの皀少性に察する䞀般的比なるものも、もちろんあり埗ない。たたはの所有者、、  に察するこれら商品の倚数の皀少性があり、これら所有者に察するの皀少性のの皀少性に察する倚数の比があるのみである。皀少性は個人的であり、䞻芳的である。亀換䟡倀は珟実的であり、客芳的である。だから、皀少性、有効需芁、所有量を速力、通過した空間、通過に芁した時間に察比し、たた速力をある空間を通過するに甚いられた時間に察する通過距離の導凜数ず定矩するように、皀少性をも、所有量に察する有効利甚の導凜数ず定矩し埗るのは、それぞれの個々の人に぀いおである。  もし商品の皀少性䞀般たたは商品の皀少性䞀般のようなものを考えようずすれば、亀換埌の各人におけるこれら商品の各々の皀少性の算術平均である平均皀少性をずるより他はない。この抂念はあたかも䞎えられた囜における平均身長、平均寿呜ずいうようなもので、少しも異垞なものではなく、ある堎合にははなはだ有益なこずさえある。これらの平均皀少性もたた亀換䟡倀に比䟋する。  䞀〇二 経枈孊の理論家が、均衡䟡栌の成立の法則を立おるに必芁な時間の間、䟡栌の芁玠を䞍倉であるず仮定するのは、理論家ずしおの暩利である。けれどもひずたびこの仕事が終れば、䟡栌の芁玠は本質的にはなはだしく倉化するものであるこずを想い起し、埓っお均衡䟡栌の倉化の法則を立おねばならぬこずは、理論家の矩務である。これはここになさねばならぬ残された問題である。か぀先の第䞀の仕事は盎ちにこの第二の仕事に導く。けだし䟡栌成立の芁玠はたた䟡栌倉動の芁玠でもあるからである。䟡栌成立の芁玠は商品の利甚ず、これら商品の所有量ずである。それ故にこれらはたた䟡栌倉動の第䞀原因であり、条件である。  同䞀の垂堎で、ずずの亀換が、たず、䞊述の垂堎䟡栌すなわちで衚わしたの䟡栌、で衚わしたの䟡栌 ÎŒ で行われ、次に、別な䟡栌すなわちで衚わしたの䟡栌、で衚わしたの䟡栌 ÎŒ' で行われたず想像すれば、この䟡栌の倉化は、次の四぀の原因の䞀぀たたは数箇、たたは党䜓から来おいるずいい埗よう。  䞀、商品の利甚の倉化。  二、商品の所有者の䞀人たたは倚数が所有するこの商品の量の倉化。  䞉、商品の利甚の倉化。  四、商品の所有者の䞀人たたは倚数が所有するこの商品の量の倉化。  これらの事情は絶察的であっお、正確に決定し埗られる。もちろん実際においおはこの決定は倚少困難であるが、理論的には、これを䞍可胜であるずいう理由はない。すべおの亀換者に぀き、その郚分的需芁曲線の芁玠の芳点から調査を行えば、問題は盎ちに解ける。そしお䟡栌倉動の䞻原因のみが、芳察者の泚意を匕く堎合もある。䟋えば商品のある著しい性質が発芋せられるず同時に、䟡栌が ÎŒ から ÎŒ' に隰貎するず想像し、たたはこの商品の存圚量の䞀郚がある偶然的事故によっお砎壊せられるず同時に、䟡栌が ÎŒ から ÎŒ' に倉化するず想像すれば、私共はこれら二぀の出来事の各々を突発的に来た䟡栌隰貎の原因ずなさざるを埗ないであろう。人々が欲しないで䜕事かをなすこずはあり埗るこずであり、䟡栌倉動の䞻原因ず条件の決定においおもしばしばかような堎合がある。  䞀〇䞉 均衡が成立し、各亀換者はで衚わしたの垂堎䟡栌、で衚わしたの垂堎䟡栌 ÎŒ においお、最倧満足を䞎える所のそれぞれの量の及びを所有しおいるずする。この状態は皀少性の比ず䟡栌ずが盞等しいこずによっお存圚するのであっお、これらが盞等しくないようになれば、存圚しない。だから最倧満足の状態がいかにしお利甚ず所有量の倉化によっお劚げられるか、たたこの劚害はいかなる結果を霎らすかを芋よう。  利甚の倉化は皮々な有様で行われ埗る。匷床利甚が増加し、倖延利甚が枛少するこずもあり埗れば、たたその反察もあり埗る。 この点に぀いお䞀般的呜題を立おるには、倚少の泚意を芁する。だから私共は、利甚の増加たたは枛少ずいう衚珟を、亀換埌における充された最埌の欲望の匷床すなわち皀少性の増枛の結果を生ぜしめる欲望曲線の移動を意味せしめるためにのみ甚いたいず思う。これだけを了知しお、ある亀換者達に察するの利甚の増加すなわちの皀少性の増加を生ぜしめるの欲望曲線の移動があったず想像する。このずきには、もはやこれらの亀換者にずり最倧満足ではない。そしおこれらの人にずっおは、互に逆な垂堎䟡栌及び ÎŒ においお、を䟛絊し、を需芁するのが利益である。先には䟡栌及び ÎŒ においお二商品の需芁ず䟛絊ずが等しかったのであるから、今はこれらの䟡栌においおは、の需芁は䟛絊より倧であり、の䟛絊は需芁より倧である。そこで pb は隰貎し、pa は䞋萜する。だがこのずきから、他の亀換者にずっおも最倧満足ではあり埗ない。これらの人々にずっおは、で衚わしたの䟡栌が ÎŒ より倧であり、で衚わしたの䟡栌がより小であるならば、を䟛絊しお、を需芁するのが有利である。均衡が成立するのは、Ό より倧なるの䟡栌においお、たたより小なるの䟡栌においお、二商品の需芁ず䟛絊ずが盞等しいずきである。よっお先のある人々に察するの利甚の増加はその結果ずしおの䟡栌を隰貎せしめる。  の利甚の枛少がその結果ずしおの䟡栌を䞋萜せしめるであろうこずは明らかである。  所有量の増加たたは枛少がその結果ずしお皀少性を枛少したたは増加するのを芋るには、欲望曲線を芋ればよい。そしお皀少性が枛少したたは増加すれば、䟡栌は䞋萜したたは隰貎するこずは既に述べた劂くである。だから所有量の倉化の圱響は、利甚の倉化の圱響に玔粋にか぀単玔に反察である。故に私共は、求める法則を次の蚀葉でいい衚わすこずが出来る。  垂堎においお二商品が均衡状態におかれ、か぀他のすべおの事情が同䞀に止たりながら、これら二商品の䞀方の商品の利甚が所有者の䞀人たたは倚数に察し増加したたは枛少すれば、他方の商品の䟡倀ずこの商品の䟡倀ずの比すなわちこの商品の䟡栌は高隰したたは䞋萜する。  もしたたすべおの事情が同䞀で、二商品の䞭の䞀商品の量が所有者の䞀人たたは倚数においお増加したたは枛少すれば、この商品の䟡栌は䞋萜したたは高隰する。  なお、他の問題に移るに先立っお泚意すべきこずは、䟡栌の倉化はこれら䟡栌の芁玠の倉化を必然的に瀺しおいるけれども、これず反察に、䟡栌に倉化がないのは䟡栌の芁玠に倉化がないこずを必然的に瀺すものではないずいうこずである。実際我々は、別に蚌明をするこずなく、次の二぀の呜題を立おるこずが出来る。  二商品が䞎えられ、もしこれら二商品の䞭の䞀方の亀換たたは所有者の䞀人たたは倚数に察する利甚及び量が倉化しおも、皀少性が倉化せぬずすれば、他の商品の䟡倀ずこの商品の䟡倀ずの比すなわちこの商品の䟡栌は倉化しない。  たたもし、これら二商品の亀換者たたは所有者の䞀人たたは倚数に察するこれら二商品の利甚ず量ずが倉化しおも、皀少性の比が倉化しなければ、二商品の䟡栌は倉化しない。   第䞉線 倚数の商品の間に行われる亀換の理論     第十䞀章 倚数の商品の間に行われる亀換の問題。          䞀般均衡の定理 芁目 䞀〇四 二商品間の亀換の堎合に関する蚘号の䞀般化。䞀〇五 䞉商品間の亀換。䞀〇六 郚分的需芁の方皋匏ず総需芁の方皋匏。䞀〇䞃 亀換の方皋匏。䞀〇八 商品間の亀換。需芁方皋匏。䞀〇九 亀換の方皋匏。䞀䞀〇 倚数商品間の亀換の問題は代数孊的に提瀺されるが、幟䜕孊的には提瀺されない。䞀䞀䞀 䞀般均衡の条件。䞀䞀二、䞀䞀䞉、䞀䞀四 及び α>1 の仮定。裁定、、、、、、、、。pa,b の䞋萜。pb,a の䞋萜。pc,a の隰貎。䞀䞀五 α>1、逆の操䜜ず結果。䞀般均衡方皋匏。䞀䞀六 他のすべおの商品を反察絊付ずする各商品の需芁ず䟛絊の均等の方皋匏を、他の商品の各々を反察絊付ずする各商品の需芁ず䟛絊の均等の方皋匏に眮き換えるこず。  䞀〇四 今、、二商品の間の亀換の研究から、、、、  等の倚数の商品の間の亀換の研究に移ろう。この研究のためには、たず、亀換者が䞀商品の所有者に過ぎない堎合を考え、次にこの堎合の方皋匏を適圓に䞀般化すればよい。  今埌、をもっおするの有効需芁を Da,b ず呌び、をもっおするの有効需芁を Db,a ず呌び、で衚わしたの䟡栌を pa,b ず呌び、たたで衚わしたの䟡栌を pb,a ず呌ぶこずずする。しからば四個の未知数 Da,b, Db,a, pa,b, pb,a の間に、有効需芁の二個の方皋匏 Da,b=Fa,b(pa,b) Db,a=Fb,a(pb,a) ず、有効需芁ず有効䟛絊の均等を瀺す二぀の方皋匏 Db,a=Da,bpa,b Da,b=Db,apb,a ずがあり埗るわけである。そしお前の二匏は、幟䜕孊的には、二぀の曲線によっお瀺され、埌の二匏は、これら二぀の曲線のうちに二぀の矩圢を画き、その底蟺を高さの比の逆比に等しからしめ、たたは面積の比に等しからしめるようにするこずによっお瀺される第五䞃節。  䞀〇五 さおこれら二商品、の堎合から、たず、、䞉商品の堎合に転じよう。このために私は、䞀方から商品を携え、その䞀郚を譲枡しお商品を埗ようずし、たた他の䞀郚を譲枡しお商品を埗ようずする人々が到着し、他方から商品を所有し、その䞀郚を譲枡しおを埗ようずし、たた他の䞀郚を譲枡しお商品を埗ようずしおいる人々が来り、曎に他の䞀方から商品を所有し、その䞀郚を譲枡しお商品を埗ようずし、たた他の䞀郚を譲枡しお商品を埗ようずしおいる人々が来る所の䞀぀の垂堎を考えおみる。  これだけを前提ずしお、倚くの人々のうち䟋えばの䞀所有者をずり、先になした掚論第五〇節を展開するず、ここでもたた、この個人のせり䞊げの傟向が厳密に確定せられ埗るずいい埗よう。  実際、の qb 量を所有し、このうちのある量 ob,a をのある量 da,b ず方皋匏 da,bva=ob,avb に埓っお亀換しようずし、たた他のある量 ob,c をのある量 dc,b ず方皋匏 dc,bvc=ob,cvb に埓っお亀換しようずしお垂堎に珟われる人は、の da,b 量ずの dc,b 量ずを埗るず共に、の量すなわち を残しお垰っおいくであろう。そしお量 qb, たたは pa,b, da,b, たたは pc,b, dc,b ず y ずの間には、垞に、 qb=y+da,bpa,b+dc,bpc,b の関係がある。  このの所有者は、垂堎に到着する以前には、すなわち pa,b 及びすなわち pc,b がいかなるものであるかを知らない。だが垂堎に到着するず同時にこれを知るようになるこずは確かであり、䞀床 pa,b 及び pc,b の倀が知られたずすれば、da,b, dc,b の倀が決定せられ、そこで先に瀺した方皋匏によっお、の倀もたた決定するこずは確かである。もちろん、pa,b のみでなく pc,b を知らなければ da,b を決定し埗ないし、たた pc,b のみでなく pa,b をも知らなければ dc,b を決定し埗ない。私共はこれを認めねばならぬ。しかしたた、pa,b ず pc,b ずが知られれば、これによっお、da,b ず dc,b ずが決定せられるこずも認めざるを埗ない。  䞀〇六 ずころで、ここでもたた、da,b 及び dc,b ずこれら商品の䟡栌ずの盎接関係、すなわちをもっおするの有効需芁及びの有効需芁ず pa,b, pc,b ずの盎接関係を、数孊で衚わすこずは容易である。この関係は、この人のせり䞊げの傟向に盞応するものであるが、それは二぀の方皋匏 da,b=fa,b(pa,b, pc,b) dc,b=fc,b(pa,b, pc,b) によっお厳密に衚わされる。同様にしお、の他の所有者の及びに察するせり䞊げの傟向を衚わす方皋匏を埗るこずが出来る。そしお最埌に、郚分的需芁のこれらの方皋匏を単玔に合蚈するこずによっお、のすべおの所有者のせり䞊げの傟向を瀺す総需芁の二぀の方皋匏 Da,b=Fa,b(pa,b, pc,b) Dc,b=Fc,b(pa,b, pc,b) が埗られる。  同様にしおの所有者の党郚のせり䞊げの傟向を衚わす総需芁の二぀の方皋匏 Da,c=Fa,c(pa,c, pb,c) Db,c=Fb,c(pa,c, pb,c) が埗られる。  同様にしお、最埌にの所有者の党郚のせり䞊げの傟向を衚わす総需芁の二぀の方皋匏 Db,a=Fb,a(pb,a, pc,a) Dc,a=Fc,a(pb,a, pc,a) が埗られる。  䞀〇䞃 その倖に、ずたたはずの亀換の二぀の亀換方皋匏 Db,a=Da,bpa,b Db,c=Dc,bpc,b が埗られる。  たた、ずたたはの亀換の二぀の亀換方皋匏 Dc,a=Da,cpa,c Dc,b=Db,cpb,c が埗られる。  最埌に、ずたたはずの亀換の二぀の亀換方皋匏 Da,b=Db,apb,a Da,c=Dc,apc,a が埗られる。  結局、䞉商品のそれぞれで衚わした䟡栌六個ず、盞互に亀換せられる䞉商品のそれぞれの亀換合蚈量六個ず合せお、十二個の未知数の間に、十二の方皋匏が成り立぀。  䞀〇八 いたある垂堎に、、、、  等皮の商品があるずする。この堎合にも、二商品及び䞉商品の堎合になしたず同じ掚論――これを繰り返し述べるのは無甚であろう――によっお、たずをもっおする、、  の有効需芁の方皋匏 m-1 個 Db,a=Fb,a(pb,a, pc,a, pd,a 

) Dc,a=Fc,a(pb,a, pc,a, pd,a 

) Dd,a=Fd,a(pb,a, pc,a, pd,a 

) 













 を埗るこずが出来る。たたをもっおする、、  の有効需芁の方皋匏 m-1 個 Da,b=Fa,b(pa,b, pc,b, pd,b 

) Dc,b=Fc,b(pa,b, pc,b, pd,b 

) Dd,b=Fd,b(pa,b, pc,b, pd,b 

) 













 を埗る。曎にたたをもっおする、、  の有効需芁の方皋匏 m-1 個 Da,c=Fa,c(pa,c, pb,c, pd,c 

) Db,c=Fb,c(pa,c, pb,c, pd,c 

) Dd,c=Fd,c(pa,c, pb,c, pd,c 

) 













 を埗るこずが出来る。曎にたたをもっおする、、  の有効需芁の方皋匏 m-1 個 Da,d=Fa,d(pa,d, pb,d, pc,d 

) Db,d=Fb,d(pa,d, pb,d, pc,d 

) Dc,d=Fc,d(pa,d, pb,d, pc,d 

) 













 が埗られる。このようにしお、総数 m(m-1) 個の方皋匏が埗られる。  䞀〇九 他方、新しい説明を加えるこずなく、ず、、  ずの亀換の亀換方皋匏 m-1 個 Da,b=Db,apb,a Da,c=Dc,apc,a Da,d=Dd,apd,a 






 を立おるこずが出来る。たたず、、  ずの亀換方皋匏 m-1 個 Db,a=Da,bpa,b Db,c=Dc,bpc,b Db,d=Dd,bpd,b 






 を立おるこずが出来る。曎にたたず、、  の亀換の方皋匏 m-1 個 Dc,a=Da,cpa,c Dc,b=Db,cpb,c Dc,d=Dd,cpd,c 






 を立おるこずが出来る。曎にたたず、、  の亀換の方皋匏 m-1 個 Dd,a=Da,dpa,d Dd,b=Db,dpb,d Dd,c=Dc,dpc,d 






 が埗られる。すなわち総数 m(m-1) 個の亀換方皋匏を立おるこずが出来る。  これら m(m-1) 個の亀換方皋匏ず m(m-1) 個の有効需芁の方皋匏ずを合せ、2m(m-1) 個の方皋匏が埗られる。ずころで未知数もたた 2m(m-1) 個である。けだし二぀ず぀互に亀換せられる皮の商品に察しおは、m(m-1) 個の䟡栌ず m(m-1) 個の亀換合蚈量ずがあるからである。  䞀䞀〇 亀換の特殊の堎合である二商品間の亀換の堎合及び䞉商品盞互間の亀換の堎合には、問題は、幟䜕孊的にも、代数的にも、解かれ埗る。なぜならこれら二぀の堎合には、需芁の凜数が幟䜕孊的に衚珟せられ埗るからである。二商品の亀換の堎合には、需芁凜数は䞀倉数の凜数であっお、二぀の曲線によっお衚わされ埗る。䞉商品の亀換の堎合には、需芁凜数は二぀の倉数の凜数であっお、六個の面積によっお衚わされ埗る。前の堎合の幟䜕孊的解法は、曲線のうちに単に矩圢を画くこずにあるし、埌の堎合のそれは曲面ず平面ずを亀わらしめお埗る曲線のうちに矩圢を画くこずにある。  しかるに䞀般的な堎合には、需芁の凜数は m-1 個の倉数の凜数であっお、空間のうちには衚わし埗られない。この堎合の問題が、幟䜕孊的にではなく、代数的に提出し、解かれなければならない理由はここにある䞀。しかしここでも忘れおはならないが、問題を提出し、これを解くこずは、䞎えられるいかなる堎合にも、問題を実際に解くのではなくしお、垂堎に経隓的に䞎えられか぀解かれおいる問題の性質を科孊的に解釈するずいうだけのこずである。この芳点から芋るず、代数的解法は幟䜕孊的解法ず同等の䟡倀があるずいう以䞊に、解析的解法を採甚すれば、傑れた䞀般的で科孊的な解法を採甚したずいうこずが出来よう。  䞀䞀䞀 このようにしお倚数の商品の間の亀換の問題は解けたように芋える。しかし実は半ばしか解けおいない。䞊に限定した条件の䞋では、垂堎に二぀ず぀の商品の䟡栌のある均衡があるわけである。だがそれは䞍完党均衡に過ぎない。垂堎の完党均衡équilibre parfaitたたは䞀般的均衡équilibre généralは、任意の二぀ず぀の商品の䞀方で衚わした䟡栌が、任意の第䞉の商品で衚わしたそれらそれぞれの商品の䟡栌の比に等しくなければ、実珟し埗ない。これを蚌明せねばならないが、そのために䟋えば倚くの商品の䞭の、、の䞉぀を採り、䟡栌 pc,b は、䟡栌 pc,a ず pb,a ずの比より倧であるかたたはより小であるず想像し、それからいかなる結果が生ずるかを芋よう。  掚論の正確を期するため、すべおの商品、、、  等の亀換が行われる垂堎ずしお圹立぀堎所が、二商品ず぀亀換せられる郚分的垂堎に分れるず想像する。他の衚珟をもっおすれば、垂堎が、亀換せられる商品の名称及び䞊に蚘した方皋匏のシステムによっお数孊的に決定せられる䟡栌を指瀺する暙識をもっお区別せられる個の特別の垂堎に分たれるず、想像する。しからば“互に逆数の䟡栌 pa,b, pb,a で行われるず、ずずの亀換”、“互に逆数の䟡栌 pa,c, pc,a で行われるず、ずずの亀換”、“互に逆数の䟡栌 pb,c, pc,b で行われるず、ずずの亀換”、があるわけである。これだけを前提ずし、もし、及びを欲するの各所有者が右の第䞀及び第二の特別垂堎で、このを及びず亀換するに止たるずすれば、たたもし、及びを欲するの各所有者が右の第䞀及び第䞉の特別垂堎で、このを及びず亀換するに止たるずすれば、たたもし及びを欲するの各所有者が第二及び第䞉の特別垂堎で、このを及びず亀換するに止たるずすれば、均衡はこれらの状態の䞋においお保たれる。だが容易に了解し埗るように、の所有者も、の所有者も、の所有者も、この亀換の方法を採甚しないであろう。圌らはいずれも、自分に最も有利であろう所の方法で亀換を行うであろう。  䞀䞀二 そこで、たず α>1 であるずし、 すなわち であるず仮定する。  この方皋匏から、で衚わしたの真の䟡栌は、pc,b ではなくしお、であるずいう結果が出おくる。なぜなら、商品、の垂堎においお、で衚わしたの䟡栌がであるずきには、ので、のが埗られるからであり、商品、の垂堎においお、で衚わしたの䟡栌がであるずきは、ので、のが埗られるからである。  たたで衚わしたの真の䟡栌も pb,a ではなくしお、であるずいう結果が出おくる。なぜなら、商品、の垂堎においお、で衚わしたの䟡栌がであるずきには、ので、のが埗られ、商品、の垂堎においお、で衚わしたの䟡栌がであるずきには、ので、のが埗られるからである。  最埌にはたた、で衚わしたの䟡栌も pa,c ではなく、である。なぜなら、商品、の垂堎においお、で衚わしたの䟡栌がであるずき、ので、のが埗られ、商品、の垂堎においお、で衚わしたの䟡栌がであるずき、ので、のが埗られるからである。  䞀䞀䞉 この点を具䜓的数字によっお明らかにするため、pc,b=4, pc,a=6, pb,a=2 であるず仮定すれば、α=1.33 ずなる。しからば匏 から、で衚わしたの真の䟡栌はではなく、であるずいう結果が出おくる。なぜなら、商品、の垂堎においおで衚わしたの䟡栌がであるずきは、ので、の 3×2=6 が埗られ、たた商品、の垂堎においお、で衚わしたの䟡栌がであるずきには、ので、のが埗られるからである。  なおたた、で衚わしたの真の䟡栌はではなく、であるずいう結果が出おくる。なぜなら、商品、の垂堎で、で衚わしたの䟡栌がであるずきは、の 1.50 で、のが埗られ、商品、の垂堎においお、で衚わしたの䟡栌がであるずきは、ので、のが埗られるからである。  最埌にたたで衚わしたの真の䟡栌はではなくしお、であるずいう結果が出おくる。なぜなら、商品、の垂堎においお、で衚わしたの䟡栌がであるずきは、ので、のが埗られ、商品、の垂堎においおは、で衚わしたの䟡栌がであるずきは、ので、のが埗られるからである。  䞀䞀四 そこで、、、の各所有者のある者は、ずずの盎接的亀換を、躊躇なく、ず及び、ずずの間接的亀換に代え、たたある他の者は、ずずの盎接的亀換を、躊躇なく、ず及びずずの間接的亀換に倉化せしめ、たた他のある者は、ずずの盎接的亀換を、躊躇なく、ず及びずずの間接的亀換に倉化せしめる。この間接的亀換は裁定arbitrageず呌ばれる。そしお圌らは、かくしお埗らるる節玄を、思うたたに皮々の欲望に配分し、出来るだけ最倧量の満足が埗られるように、ある商品を補足増加する。私共は、この最倧満足の条件を瀺すこずが出来る。それは、充された最埌の欲望の匷床の比が、裁定から生じた真の䟡栌に等しいずいうこずである。しかしこの考察に入るこずなく、この補充的需芁は䞻たる需芁のようになされるものであるこずを泚意するので足るであろう。すなわちこの補充的需芁の堎合にも、の所有者は、ず、ずずを亀換し、ずずを亀換しない。の所有者は、ず、ずずを亀換し、ずずを亀換しない。の所有者は、ず、ずずを亀換し、ずずを亀換しない。このようにしお、、の垂堎では、垞にの需芁ずの䟛絊ずがあるが、の需芁ずの䟛絊ずはない。そこで pb,a は䞋萜する。、の垂堎では、垞にの需芁ずの䟛絊があるが、の需芁の䟛絊はない。そこで pc,a は隰貎する。、の垂堎では、垞にの需芁ずの䟛絊ずがあるが、の需芁ずの䟛絊ずがない。そこで pc,b は䞋萜する。  䞀䞀五 それで解るように、である堎合には、垂堎の均衡は決定的すなわち䞀般的ではない。だから裁定が行われ、その結果 pc,b は䞋萜し、pc,a は隰貎し、pb,a は䞋萜する。たた同時に解るように、である堎合には、垂堎においお裁定が行われ、その結果 pc,b は隰貎し、pc,a は䞋萜し、pb,a は隰貎する。実際この堎合には α<1 ずすれば、 すなわち αpb,cpa,bpc,a=1 である。そこで次の結果が生ずる。で衚わしたの真の䟡栌は、ずずを亀換し、ずずを亀換するこずを条件ずしお、αpb,c であり、で衚わしたの真の䟡栌は、ずずを亀換し、ずずを亀換するこずを条件ずしお、αpa,b であり、で衚わしたの真の䟡栌は、ずずを亀換し、ずずを亀換するこずを条件ずしお、αpc,a である。そしお、、の䟡栌に぀いお述べたこずは、任意の䞉商品の䟡栌に぀いおもいい埗るこずは明らかである。故にもし、裁定が起らないこずを欲し、垂堎における二぀ず぀の商品の均衡が䞀般的均衡ずなるこずを欲すれば、任意の二぀ず぀の商品の䟡栌は、任意の第䞉の商品で衚わしたそれぞれの䟡栌の比に等しいずいう条件を入れおこなければならぬ。換蚀すれば、次の方皋匏を立おるこずが出来なければならぬ。 このようにしお、合蚈 (m-1)(m-1) 個の䞀般均衡の方皋匏がある。それには、逆数の䟡栌の方皋匏個が陰䌏的に含たれおいる。このようにすべおの䟡栌を衚わす所の商品は䟡倀尺床財numéraireである。  䞀䞀六 条件の方皋匏 (m-1)(m-1) 個を導き入れれば、先に述べた需芁方皋匏ず亀換方皋匏の䜓系から、導入方皋匏に等しい数の方皋匏を枛ぜねばならぬのは、もちろんである。これは、特殊の個々の垂堎に䞀般的垂堎を換えた堎合に、各々の商品の間の個々の盞互の需芁ず䟛絊ずの均等を瀺す亀換方皋匏に、他のすべおの商品を反察絊付ずする各商品の需芁たたは䟛絊を瀺す次のような方皋匏を換えるこずによっお、たさしく珟われるこずである。 Da,b+Da,c+Da,d+ 

 =Db,apb,a+Dc,apc,a+Dd,apd,a+ 

 Db,a+Db,c+Db,d+ 

 =Da,bpa,b+Dc,bpc,b+Dd,bpd,b+ 

 Dc,a+Dc,b+Dc,d+ 

 =Da,cpa,c+Db,cpb,c+Dd,cpd,c+ 

 Dd,a+Dd,b+Dd,c+ 

 =Da,dpa,d+Db,dpb,d+Dc,dpc,d+ 

 



























 すなわち代っお珟われる方皋匏は個である。しかしこれら個の方皋匏は、瞮枛すれば、m-1 個ずなる。すなわち、䞀般均衡から匕出した䟡栌の倀をそこに導き入れ、か぀簡単に、で衚わした、、  の䟡栌を pb, pc, pd   で瀺せば、右の個の方皋匏は ずなる。そしおこれらの方皋匏の終りに䜍する m-1 個の方皋匏の䞭の第䞀の䞡蟺に pb を乗じ、その第二の䞡蟺に pc を、その第䞉に pd   を乗じた埌、これら m-1 個の方皋匏を加算し、䞡蟺から同䞀の項を省略すれば、右のシステムの䞭の最初の匏ず同じ方皋匏が埗られる。だからこの最初の匏は切り捚おられ埗るのであり、埓っお右の方皋匏の䜓系は m-1 個の方皋匏の䜓系ずなる。これらの方皋匏は m-1 個の亀換方皋匏ずしお存圚し、これらず、m(m-1) 個の需芁方皋匏ず (m-1)(m-1) 個の䞀般均衡の方皋匏ずが加わっお、合蚈 2m(m-1) 個の方皋匏ずなる。その根は、皮の商品盞互で衚わした䟡栌 m(m-1) 個ず、盞互に亀換せられる皮の商品の亀換合蚈量 m(m-1) 個である。需芁方皋匏が䞎えられたずき、䟡栌が数孊的にいかに生じおくるかは、これによっお明らかになった。蚌明が未だ残っおいるのは、このような理論的解法を䞎えられた亀換問題は、実際においおもたた垂堎においお自由競争の機構によっお同様に解決せられるずいうこずである。この点ははなはだ重芁である。だがこの蚌明をするに先立ち、亀換者が倚数の商品の所有者である堎合を考察しおみよう。この堎合もたた、最倧満足の定理で簡単に容易に取扱い埗る䞀般的堎合である。  蚻䞀 しかしこの幟䜕孊的解法を私は附録、䟡栌決定の幟䜕孊的理論に瀺しおおいた。     第十二章 倚数の商品の間の亀換の問題の数孊的解法の䞀般的方匏。商品の䟡栌の成立の法則 芁目 䞀䞀䞃 倚数の商品の所有者の䞀般の堎合。䞀䞀八 亀換量の均等の方皋匏、極倧満足の方皋匏、郚分的需芁たたは䟛絊の方皋匏。䞀䞀九、䞀二〇、䞀二䞀、䞀二二 䟛絊が所有量に等しい条件、その結果。䞀二䞉 党郚需芁及び䟛絊の均等方皋匏。䞀二四 垂堎における倚数商品の亀換。䞀二五 叫ぶ䟡栌、䟡倀尺床財による䟡栌は䞀般均衡を含む。最倧満足の条件に適合する郚分的需芁たたは䟛絊の蚈算によらない決定。䞀二六、䞀二䞃 党郚需芁たたは䟛絊の䞍均等。䞀二八 䟡栌が零から無限倧たで倉化するずきの党郚需芁たたは䟛絊の倉化。䞀二九、䞀䞉〇 需芁が䟛絊を超過するずき䟡栌を匕䞊げ、䟛絊が需芁を超過するずき䟡栌を匕䞋げねばならぬ。  䞀䞀䞃 二商品盞互間の亀換の堎合ず同じく、いかなる数の商品間の亀換の堎合においおも、郚分的需芁の方皋匏は、欲望の最倧満足の条件によっお、数孊的に決定せられる。ずころでこの条件はいかなるものであるか。それは、垞に、任意の二商品の皀少性の比が、これら二商品の䞀方で衚わした他方の商品の䟡栌に等しいずいうこずである。もしこれが盞等しくないずしたら、この䞡者を亀換すれば利益が埗られる第八〇節。だが各亀換者がただ䞀぀の商品のみを所有し、か぀裁定をさせる目的で、人々が m 個の商品の二぀ず぀の m(m-1) 個の䟡栌を叫んだずし、もしこれらが䞀般均衡の条件に適ったものでないならば、それらの䟡栌においおは、各亀換者に最倧の満足は生じない。各亀換者に最倧の満足が生ずるのは、各亀換者が需芁する商品の皀少性の自分が所有する商品の皀少性に察する比が、裁定によっお埗られる真の䟡栌に等しいずきである。しかしもし、亀換者が倚数の商品の所有者であり、裁定が発生しないこずを欲し、䟡倀尺床財ずしお採択せられた第番目の商品で衚わした m-1 個の商品の䟡栌 m-1 個を叫ぶずすれば、任意の二商品の䞭の䞀方で衚わした他方の䟡栌は、䟡倀尺床財で衚わした二商品のそれぞれの䟡栌の比に等しくなければならないから、各亀換者に察し最倧満足が生ずるのは、䟡倀尺床財以倖の商品の各々の皀少性ず、この䟡倀尺床財の皀少性ずの比が、叫ばれたそれぞれの䟡栌に等しいずきであるこずは明らかである。  䞀䞀八 そこで、亀換者は、の qa,1 量、の qb,1 量、の qc,1 量、の qd,1 量  の所有者であるずする。たたこの亀換者に察する、ある期間における商品、、、  の利甚曲線すなわち欲望曲線は、それぞれ r=φa,1(q), r=φb,1(q), r=φc,1(q), r=φd,1(q)   であるずする。で衚わした、、  の䟡栌は、それぞれ pb, pc, pd   であるずする。そしお䟡栌が pb, pc, pd   であるずき、この亀換者が自分で所有しおいた量 qa,1, qb,1, qc,1, qd,1  に加える所の、、、  のそれぞれの量を、x1, y1, z1, w1   ずする。この加えられた量は正である堎合がある。そのずきには、それらは需芁量を瀺す。たたそれらは負であり埗るが、その堎合には、䟛絊量を瀺す。そしおこの亀換者がある商品を需芁するには、等䟡量の他の商品を䟛絊せねばならないから、x1, y1, z1, w1   等の量のうちで、あるものがであれば、他はであるこず、たたこれらの間に䞀般的に方皋匏 x1+y1pb+z1pc+w1pd+ 
=0 が成立するこずは、明らかである。  たた最倧満足の状態が仮定せられおいるから、これらの量の間には、次の䞀組の方皋匏が明らかに存圚する。 φb,1(qb,1+y1)=pbφa,1(qa,1+x1)     φc,1(qc,1+z1)=pcφa,1(qa,1+x1) φd,1(qd,1+w1)=pdφa,1(qa,1+x1) 













 すなわち m-1 個の方皋匏があり、これらは、前匏ず合せお、個の方皋匏の䞀組ずなる。これらの方皋匏の䞭で、未知数 x1, y1, z1, w1   の m-1 個を順次に消去し、第番目の未知数を諞䟡栌の凜数ずしお瀺す方皋匏だけを残すこずが出来る。ずころで、亀換者によるの需芁たたは䟛絊は、方皋匏 x1=-(y1pb+z1pc+w1pd 

) によっお䞎えられ、たた、右のようにしお、この亀換者によっおなされる、、  の需芁たたは䟛絊の次の劂き方皋匏が埗られる。 y1=fb,1(pb, pc, pd 

) z1=fc,1(pb, pc, pd 

) w1=fd,1(pb, pc, pd 

) 









  同様に亀換者、  によっおなされるの需芁たたは䟛絊は、方皋匏 x2=-(y2pb+z2pc+w2pd 

) x3=-(y3pb+z3pc+w3pd 

) 












 によっお䞎えられ、たた、これらの亀換者によっおなされる、、  の需芁たたは䟛絊の次の方皋匏が埗られる。 y2=fb,2(pb, pc, pd 

) z2=fc,2(pb, pc, pd 

) w2=fd,2(pb, pc, pd 

) 









 y3=fb,3(pb, pc, pd 

) z3=fc,3(pb, pc, pd 

) w3=fd,3(pb, pc, pd 

) 









  このようにしお、すべおの亀換者のせり䞊げぞの傟向は、諞商品のこれらの人々の各々に察する利甚ず、これらの人々によっお所有せられるこれら商品の量ずから導き出される。それはずにかく、私共の研究を進行せしめるに先立っお、ここにはなはだ重芁な解説をしおおかねばならぬこずがある。  䞀䞀九 䟡栌 pb, pc, pd   がある倀をずるずき、y1 が負であるこずがあり埗る。これは、亀換者が商品を需芁しないで、䟛絊する堎合である。たた y1 が -qb,1 に等しいこずさえもあり埗る。これは、この亀換者が商品を残しおおかない堎合である。y1 のこの倀を、最倧満足の m-1 個の方皋匏の䜓系に入れるず、これらの方皋匏は、 φb,1(0)=pbφa,1(qa,1+x1) φc,1(qc,1+z1)=pcφa,1(qa,1+x1) φd,1(qd,1+w1)=pdφa,1(qa,1+x1) 













 ずなる。そしおこれらの方皋匏及び方皋匏 x1+y1pb+z1pc+w1pd+ 

 =qb,1pb から、pb, pc, pd  を消去すれば、方皋匏 x1φa,1(qa,1+x1)+z1φc,1(qc,1+z1)+w1φd,1(qd,1+w1)+ 

 =qb,1φb,1(0) が埗られる。  この方皋匏は、次の蚀葉に飜蚳し埗べき条件方皋匏である。――倚数の商品の䞭の䞀商品の䟛絊がこの商品の所有量に等しいためには、需芁せられる諞商品の欲望曲線の包む面積の郚分で、既に所有せられる量によっお充された欲望を衚わす郚分より䞊方にある郚分のうちに、矩圢を画き、これら矩圢の面積の合蚈が、䟛絊せられる商品の所有量を高さずし、この商品の最倧の欲望の匷床を底蟺ずしお䜜られた矩圢の面積に等しくなければならぬ。  この条件は、充されるこずもあれば、充されないこずもある。もしそうであるずすれば、亀換者によるの䟛絊は、ある堎合には、自分が所有する量 qb,1 に等しいこずが可胜である。だが、この䟛絊は決しおこの量より倧ではあり埗ない。故に、の需芁たたは䟛絊の方皋匏においお、pb, pc, pd   が、負の y1 を qb,1 より倧ならしめるようないかなる倀をずるずきも、この方皋匏は、方皋匏 y1=-qb,1 によっお眮き換えられねばならぬこずを泚意すべきである。  䞀二〇 だがこれのみではない。たず、pb, pc, pd   が負の z1, w1   を qc,1, qd,1   より倧ならしめる倀をずる堎合の、、  の需芁たたは䟛絊の方皋匏にも、同じこずがいわれ埗る。次に、これらの方皋匏が、方皋匏 z1=-qc,1, w1=-qd,1 によっお眮き換えられねばならぬ堎合にもたさしく、の需芁たたは䟛絊の方皋匏は、右の結果ずしお修正せられねばならぬ。  よっお、䟋えば z1=-qc,1 である堎合には、亀換者によるの需芁たたは䟛絊の方皋匏の䜓系は次の劂くである。 x1+y1pb+w1pd+ 

 =qc,1pc φb,1(qb,1+y1)=pbφa,1(qa,1+x1) φd,1(qd,1+w1)=pdφa,1(qa,1+x1) 













 すなわち党郚で、m-1 個の方皋匏がある。これらの方皋匏の䞭で、x1, w1   等の m-2 個の未知数を順次に消去し、y1 を pb, pc, pd   の凜数ずしお瀺す方皋匏しか残らないようにするこずが出来る。w1=-qd,1 の堎合も、同様である。最埌にたた、商品、  等の䞭の䞀商品のみでなく、二個、䞉個、四個  等、䞀般に任意の倚数の諞商品の䟛絊が所有量に等しい堎合にも同様であるこずは、この䞊の解説を俟たないで理解し埗られよう。  䞀二䞀 私は、䟡倀尺床財である商品の需芁及び䟛絊の方皋匏に぀いおは、䜕もいわなかった。これは特殊な圢をずる。だがたず明らかなこずは、この方皋匏もたた、pb, pc, pd   の倀が負の x1 を qa,1 より倧ならしめるものであるずきは、方皋匏 x1=-qa,1 によっお眮き換えられねばならず、か぀この堎合には、亀換者によるの需芁たたは䟛絊を瀺す方皋匏の䜓系は次のようなものずなるこずである。 y1pb+z1pc+w1pd 

 =qa,1 pbφc,1(qc,1+z1)=pcφb,1(qb,1+y1) pbφd,1(qd,1+w1)=pdφb,1(qb,1+y1) 














 すなわち m-1 個の方皋匏があるこずに倉りはない。これらの䞭で、z1, w1   等の m-2 個の未知数を順次に消去し、pb, pc, pd   の凜数ずしおの y1 を䞎える方皋匏しか残らないようにするこずが出来る。  䞀二二 需芁たたは䟛絊方皋匏がこれらの制限を満足するように、これらの方皋匏を組み立おるこずが倚少困難であるこずはもちろんである。けれどもで衚わした、、  のある䟡栌 p'b, p'c, p'd   が叫ばれたずき、すべおの商品の需芁量ず䟛絊量ずは、䟛絊量ず所有量ずが等しいずの事実の䞋に、完党に䞀定しおいるこずも明らかである。このこずははなはだ重芁である。私はこの点を明らかにしようず思う。  q=ψa,1(r), q=ψb,1(r), q=ψc,1(r), q=ψd,1(r)   を亀換者に察する、、、  の利甚方皋匏であっお、量に関しお解かれ、皀少性に関しお解かれおいないものであるずする。しからば、亀換の埌には、次の匏が埗られる。 qa,1+x'1=ψa,1(r'a,1) qb,1+y'1=ψb,1(r'b,1) qc,1+z'1=ψc,1(r'c,1) qd,1+w'1=ψd,1(r'd,1) 








 その他亀換せられる量の等䟡倀の条件及び最倧満足の条件第䞀䞀八節の結果ずしお、方皋匏 qa,1+p'bqb,1+p'cqc,1+p'dqd,1+ 

 =ψa,1(r'a,1)+p'bψb,1(p'bψb,1(p'br'a,1)+p'cψc,1(p'cr'a,1)+p'dψd,1(p'dr'a,1)+ 

 が埗られる。この最埌の方皋匏は r'a,1 を䞎える。r'a,1を甚いお、r'b,1, r'c,1, r'd,1   が埗られ、埓っお x'1, y'1, z'1, w'1   が埗られる。保留せられたたは獲埗せられる商品は、充されるべき最初の欲望の匷床が、䟡栌ず r'a,1 ずの積より倧なるものである。  もし r'a,1 がの最初の欲望の匷床より倧であれば、亀換者は䟡倀尺床財である商品を需芁もせねば、保留もしない。  䞀二䞉 亀換者、、  による、、、  の需芁たたは䟛絊の方皋匏は仮定によっお右の制限を満足するために適圓に組み立おられおいるから、x1+x2+x3+   の合蚈、y1+y2+y3+   の合蚈、z1+z2+z3   の合蚈、w1+w2+w3+   の合蚈を、それぞれ X, Y, Z, W   で衚わし、凜数 fb,1, fb,2, fb,3   の合蚈、凜数 fc,1, fc,2, fc,3   の合蚈、凜数 fd,1, fd,2, fd,3   の合蚈を、それぞれ Fb, Fc, Fd,   で衚わそう。商品、、、  の需芁ず䟛絊ずの均等条件は、私共が問題ずしおいる䞀般の堎合には、方皋匏 X=0, Y=0, Z=0, W=0   によっお衚わされおいるから、均衡䟡栌の決定に察しお、次の方皋匏 Fb(pb, pc, pd 

)=0 Fc(pb, pc, pd 

)=0 Fd(pb, pc, pd 

)=0 









 すなわち m-1 個の方皋匏がある。ずころで、pb, pc, pd   は本質䞊正であるから、もしこれらの方皋匏が満足せられるず、すなわち Y=0, Z=0, W=0 であるず、明らかに X=-(Ypb+Zpc+Wpd+ 

)=0 である。  䞀二四 このようにしお、商品の䞭の第番目の䟡倀尺床財ずしお採甚せられた商品で衚わした m-1 個の商品の m-1 個の䟡栌は、次の䞉぀の条件によっお数孊的に決定せられる。䞀各亀換者は、圌のすべおの皀少性の比が䟡栌に等しくお、欲望の最倧満足を埗るこず、二䟡倀尺床財で衚わした各商品の䟡栌で、有効党需芁を有効党䟛絊に等しからしめるものは、ただ䞀぀しかないのであるから、各亀換者は䞎えるものに比䟋しお受けずらねばならぬし、受けずるものに比䟋しお䞎えねばならぬこず、䞉二商品の互に他方で衚わした均衡䟡栌は、ある第䞉の商品で衚わしたそれぞれの均衡䟡栌の比に等しいから、裁定が起る䜙地がないこず。そこで今は、既に科孊的解法を芋出した倚数の商品間の亀換のこの問題が、たた垂堎においおは競争の機構によっお経隓的に解かれおいるが、それがいかようにしおであるかを芋ようず思う。  䞀二五 たず、䟡倀尺床財を採甚すれば、垂堎においお、個の商品の盞互間の䟡栌 m(m-1) 個は、枛じお、番目の商品で衚わした m-1 個の商品の䟡栌 m-1 個ずなる。この番目の商品は䟡倀尺床財である。そしお他の商品盞互の間の䟡栌 (m-1)(m-1) 個は、それぞれ、䞀般均衡の条件によっお䟡倀尺床財で衚わしたこれら商品の䟡栌の比に等しいず考えられるべきである。p'b, p'c, p'd   がで衚わした、、  の䟡栌 m-1 個であっお、か぀偶然に叫ばれたものであるずするず、かく叫ばれたこれらの䟡栌においお各亀換者は、、、、  の䟛絊たたは需芁を決定する。このこずは、各亀換者が別に蚈算するこずなく、ただ反省をなすこずによっお行われるのであるが、それでありながら、需芁量ず䟛絊量ずが盞等しいこずを瀺す方皋匏及び最倧満足の方皋匏の䜓系により、たた先にいったような制限によっお補充せられた䜓系により蚈算したのず、党く同じように行われる。いた、正たたは負の x'1, x'2, x'3, 
 y'1, y'2, y'3, 
 z'1, z'2, z'3 
 , w'1, w'2, w'3  を䟡栌が、p'b, p'c, p'd   であるずきの郚分的需芁たたは䟛絊であるずする。もし各商品の総需芁ず総䟛絊ずが盞等しければ、すなわち盎ちに明かであるように Y'=0, Z'=0, W'=0 ずなり、埓っお X'=0 ずなれば、亀換はこれらの䟡栌においお行われ、問題は解かれるであろう。だが䞀般に各商品の総需芁ず総䟛絊ずは盞等しくなく、であり、埓っおであろう。かような堎合には、人々は垂堎においおいかに行動するか。需芁が䟛絊より倧であれば、䟡倀尺床財で衚わしたこの商品の䟡栌を隰貎せしめるであろうし、䟛絊が需芁より倧であれば、䟡栌を䞋萜せしめるであろう。しからば理論的解法ず垂堎の解法が同䞀であるこずを蚌明するにはいかなる蚌明を芁するか。その答は簡単である。すなわち垂堎における䟡栌の隰萜が、需芁ず䟛絊の均等方皋匏の䜓系を、摞玢によっお解く方法であるこずを蚌明すればよい。  䞀二六 ここで思い起さねばならぬのは、方皋匏 X'+Y'p'b+Z'p'c+W'p'd+ 

 =0 の存圚である。ずころで䟡栌 p'b, p'c, p'd   に察応する正の x, y, z, w   のそれぞれの合蚈を D'a, D'b, D'c, D'd   ず呌び、負のそれぞれの合蚈の笊号を倉えたものを O'a, O'b, O'c, O'd   ず呌べば、右の方皋匏は次の圢ずするこずが出来る。 D'a-O'a+(D'b-O'b)p'b+(D'c-O'c)p'c+(D'd-O'd)p'd+ 

 =0 そしお p'b, p'c, p'd   は本質䞊正であるから、量 X'=D'a-O'a, Y'=D'b-O'b, Z'=D'c-O'c, W'=D'd-O'd   のあるものが正であれば、あるものは負であり、その逆も真である。換蚀すれば、䟡栌が p'b, p'c, p'd   であるずき、ある商品の総需芁が総䟛絊より倧であれば、他の商品の総䟛絊は総需芁より倧であり、その逆もたた真である。  䞀二䞃 今、䞍等匏 をずり、これを次の圢ずする。 ここで凜数 Δb は正の y の合蚈すなわち Db を衚わし、凜数 Ωb は負の y の合蚈の笊号を倉えたものすなわち Ob を衚わすものずする。pc, pd   を捚象しお、これらを䞀定ずし、pb のみを決定すべき䟡栌であるずしお、の需芁ず䟛絊ずが盞等しくなるには、pb をれロず無限倧ずの間にいかに倉化せしめるこずを芁するかを求めおみよう。私共は凜数 Fb も、凜数 Δb も凜数 Ωb も知らない。しかし、これらの凜数に関しお、今の問題ずする操䜜においお、いかにしお pb が Fb をしおれロを通らしめ、たたは凜数 Δb ず Ωb ずを等しからしめる倀――もしありずすれば――をずるに至るかを瀺すに充分な指瀺を、私共は、既に研究した亀換の事実の性質から匕出すこずが出来る。  䞀二八 たず凜数 Δb に぀いお芋るに、、、  をもっおするの需芁の凜数は、pb=0 であるずきすなわち、、  で衚わしたの䟡栌がれロであるずき正である。実際に、これらの䟡栌がれロであるずきには、の有効総需芁は、総倖延利甚が所有総量に超過する量に等しい。この超過する量は、商品が皀少であっお瀟䌚的富の䞀郚を成しおいるものならば、垞に正である。pb が増倧し、それず共に、、  で衚わしたのすべおの䟡栌もそれに比䟋しお増倧すれば、凜数 Δb は枛少する。けだしこれは枛少凜数の合蚈であるからである。この堎合には、商品は、商品、、  ず比范的にはたすたす高隰するわけである。実際にこの仮定においお、他のすべおの事情を同䞀であるずすれば、この需芁が増加するであろうこずは、蚱し難い。この需芁は枛少せざるを埗ないのである。そしおこの需芁がれロずなるには、pb はかなり倧であるが、堎合によっおは無限倧でもあるず想像し埗られる。換蚀すれば、、、  で衚わしたの䟡栌がかなり高いずきにしか、Δb はれロずはならぬであろうず想像せられる。  次に凜数 Ωb すなわち、、  ず亀換せられるの䟛絊の凜数は、pb=0 であるずきはもちろん、pb が正のある倀をずるずきでも、換蚀すれば、、  で衚わしたの䟡栌がれロであるずきはもちろん、正のある倧きさをずるずきでも、れロである。実際、商品の需芁がれロであるためには、、、  で衚わしたの䟡栌がかなり高いず垞に想像し埗たず同じく、、、  に察する需芁がれロずなり埓っおの䟛絊もれロずなるには、で衚わした、、  の䟡栌がかなり高いず想像するこずが出来る。pb が増倧し、これず比䟋しお、、  で衚わしたのすべおの䟡栌が高くなるずきには、凜数 Ωb は、初めに増倧し、次に枛少する。けだしこの凜数は初め増倧し、次に枛少する凜数の合蚈であるからである。この堎合には、商品、、  は商品ず比范的には次第に安くなるわけであり、そしおこれらの商品の需芁は、これらの需芁に䌎うの䟛絊ず同時に順次に珟われおくるのである。だがこの䟛絊は無限には増加しない。少くずもそれは所有党量より倧なるこずの出来ない䞀぀の最倧を通過し、次に枛少し、pb が無限ずなればすなわち、、  が無償ずなれば、぀いにれロに垰る。  䞀二九 これらの条件のうちに、そしお Ob がれロであるこずを已める以前に Db がれロずなっお、解法䞍胜ずなるのでなければ、――この堎合は亀換者の間に倚数の商品を所有する者がある堎合には珟われ埗ないのであるが―― Ob ず Db ずを盞等しからしめる pb のある倀が存圚する。この倀を芋出すには、もし䟡栌が p'b であるずき、Y'>0 ならば、すなわち D'b>O'b ならば、p'b を増倧せねばならぬし、もしたた䟡栌が p'b であるずき Y'<0 ならばすなわち O'b>D'b ならば、p'b を枛ぜねばならぬ。かようにしお次の方皋匏が埗られる。 Fb(p''b, p'c, p'd 

)=0  この操䜜が行われるず䞍等匏 は、 ずなる。しかし䟡栌が p'c であるずき、Z'>0 であれば、すなわち D'c>O'c であれば、p'c を増倧し、たた䟡栌が p'c であるずき、Z'<0 であれば、すなわち O'c>D'c であれば、p'c を枛少しお、方皋匏 Fc(p''b, p''c, p'd 

)=0 を埗るこずが出来る。  同様にしお、方皋匏 Fd(p''b, p''c, p''d 

)=0 が埗られ、以䞋同様である。  䞀䞉〇 これらのすべおの操䜜を行えば、 が埗られる。ここでこの䞍等匏が、圓初の䞍等匏 より等匏に近いこずを蚌明せねばならぬ。ずころで、p'b から、右の最埌の䞍等匏を等匏たらしめる p''b ぞの倉化は盎接的圱響を生じ、少くずもの需芁に぀いおはすべお同䞀方向の盎接的圱響を生ずるこずを思い、たた反察に p'c, p'd から、先の䞍等匏を等匏より遠からしめる p''c, p''d ぞの倉化は間接的圱響を生じ、少くずもの需芁に぀いおは、互に反察の方向をずり぀぀ある点たで盞殺する圱響をも぀ものであるこずを想えば、右の䞍等匏が圓初の䞍等匏より均等により近いこずは、確かであろう。この理由によっお、新しい䟡栌 p''b, p''c, p''d   の䜓系は旧䟡栌 p'b, p'c, p'd   の䜓系より均衡に近いのであり、同じ方法を連続すれば、いよいよこれに近づくのである。  よっお、䟡倀尺床財を仲介ずしお倚数の商品の間に行われる亀換の堎合における均衡䟡栌の成立の法則を、次の劂く衚珟するこずが出来る。――倚数の商品が䞎えられ、それらの亀換は䟡倀尺床財の仲介によっお行われるずしお、これらの商品に関し、垂堎の均衡があるべきためには、換蚀すれば䟡倀尺床財で衚わしたこれらすべおの商品の静止的䟡栌が存圚するためには、これらの䟡栌においお、各商品の有効需芁ずその有効䟛絊ずが等しくなければならず、たた等しければ足るのである。この均等が存圚しない堎合に、均衡䟡栌に達するためには、有効需芁が有効䟛絊より倧なる商品に䟡栌の隰貎がなければならぬし、有効䟛絊が有効需芁より倧なる商品に䟡栌の䞋萜がなければならぬ。     第十䞉章 商品の䟡栌の倉動の法則 芁目 䞀䞉䞀 倚数商品間の亀換の解析的定矩。䞀䞉二 䞀般均衡状態における任意の二商品の皀少性の比率がすべおの亀換者に぀いお等しいこず。䞀䞉䞉、䞀䞉四 亀換䟡倀ず皀少性の比䟋性、欲望曲線の䞍連続性の堎合に関する留保、需芁がれロの堎合、たたは䟛絊が所有量に等しい堎合に関する留保。䞀䞉五 平均皀少性。䞀䞉六 亀換䟡倀が䞍定か぀恣意的な条件。䞀䞉䞃 利甚の倉化及び量の倉化による䟡栌の倉化、利甚及び量の同時的倉化による䟡栌の固着性。䞀䞉八 䟛絊ず需芁の法則に぀いお。  䞀䞉䞀 以䞊に述べおきた所によっお明らかなように、倚数の商品があるずきも、二商品しか存圚しないずきず同じく、垂堎䟡栌たたは均衡䟡栌の成立の必芁にしおか぀充分な芁玠は、所有者が所有する商品の量ず、亀換者に察するこれらの商品の利甚方皋匏たたは欲望の方皋匏ずであっお、これらの方皋匏は垞に曲線に衚わされ埗る。そしおこれらの構成芁玠から、䞀郚分的及び総需芁たたは䟛絊の方皋匏、二垂堎䟡栌すなわち均衡䟡栌が出おくる。ただ、䞀方最倧満足の条件ず、他方任意の二商品間の䟡栌がただ䞀぀であっおか぀総需芁ず総䟛絊ずが盞等しくなければならぬずいう条件ずの二条件に、䟡栌の䞀般均衡の条件を附け加えねばならぬ。  だから――自由競争によっお支配される垂堎における倚数の商品盞互の間の亀換は、これら商品の䞀皮たたは倚皮たたはすべおの皮類の所有者のすべおが欲望の最倧満足を埗るこずの出来る行動である。ただしこの欲望の最倧満足ずは、任意の二商品が共通で同䞀なる比率で互に亀換せられるのみでなく、たたこれら二商品が他の任意の第䞉の商品ず亀換せられお、これらの亀換比率の比が最初の二商品間の亀換比率に等しくなければならぬずいう条件の䞋における欲望の最倧満足である。  䞀䞉二 もし䟡栌を䟡倀尺床財で衚わしお叫ぶずするず、䞀般均衡の条件はこの事実によっお充される。換蚀すればこの䞀般均衡の条件が裁定の方法によっお充されるわけである。今これらの行動の正確な結果を説明するのが䟿利であろう。  亀換者をの所有者ずし、亀換者をの所有者ずし、亀換者をの所有者ずし、ra,1, rb,1, rc,1, rd,1 

 ra,2, rb,2, rc,2, rd,2, 

 ra,3, rb,3, rc,3, rd,3,   をこれら䞉亀換者に察する商品、、、、  の皀少性ずし、か぀しばらくこれらの皀少性は䟡栌の倉化に応じお倉化する皀少性であるずする。裁定が起り埗ないずの仮定の䞋においおは、最倧満足の条件は次の劂く衚わされる。  次に裁定が可胜であるず仮定し、ただ䞉぀の商品、、ず䞉人の亀換者、、のみを考えおみる。䟡栌は互に逆数であるから、裁定前には次のような関係がある。 裁定埌、䞀般均衡状態においおは次のような関係が珟われる。  だから、䞉商品、、及び䞉亀換者、、に぀いおの掚論が、すべおの商品ずすべおの亀換者にも拡匵し埗るこずを知れば、次のこずがわかる。垂堎が䞀般均衡状態にあるずきは、任意の二商品の皀少性の比は、䞀方の商品で衚わした他方の䟡栌に等しいが、この比はこれら二商品のすべおの所有者においおも同䞀である。  䞀䞉䞉 va, vb, vc, vd   を商品、、、  の亀換䟡倀ずし、ra,1, rb,1, rc,1, rd,1 

 ra,2, rb,2, rc,2, rd,2 

 ra,3, rb,3, rc,3, rd,3   を亀換者、、に察する亀換埌におけるこれら商品の皀少性であるずすれば、亀換埌には、 である。これをたた次のように衚わすこずも出来る。  va:vb:vc:vd: 

 ::ra,1:rb,1:rc,1:rd,1: 

 ::ra,2:rb,2:rc,2:rd,2: 

 ::ra,3:rb,3:rc,3:rd,3: 

 :: 










  ここたでは、亀換方皋匏を䜜り、か぀解くに圓っお、無限小の量ず぀消費するこずの出来る商品、すなわち連続的な利甚曲線たたは欲望曲線をも぀所の商品しか考えなかった。けれども、性質䞊ある単䜍ず぀しか消費され埗ない商品、すなわち䞍連続な利甚曲線たたは欲望曲線をも぀商品の堎合も考えねばならない。かかる堎合はすこぶる倚い。䟋えば家具、衣服の堎合などである。第䞀のベッド、第䞀の衣服、第䞀足の靎等の利甚ず、同じ性質の第二の物の利甚ずの間、たたはこれら第二の物の利甚ず第䞉の物の利甚ずの間には、垞にかなりの匷床の差がある。この差は時には著しく倧である。跛者にずっおの第䞀察の束葉杖、近芖県者にずっおの第䞀察の県鏡、職業音楜家に察する第䞀のノァむオリンはいわば欠くこずの出来ないものである。第二察の束葉杖、第二察の県鏡、第二のノァむオリンは、いわば、䜙分のものである。これらのすべおの堎合にあっおは、二商品しか無かったずきず同じく、倚数の商品に぀いおも、皀少性の衚の䞭に、充された最埌の欲望の匷床ず充されない最初の欲望の匷床ずの平均にほが等しい比䟋項を、特に泚意線を匕いお、蚘入せねばならぬ。  その䞊に、ここでもたた、䞀個たたは倚数の項が、䞎えられた亀換者の諞皀少性のうちに欠けおいるこずがあり埗る。これは、この亀換者がある商品を所有しおいないのではあるが、垂堎䟡栌ではこれを需芁しない堎合に、たたはこれを所有しおいるが、所有する量の党郚を䟛絊する堎合に、垞に起るこずである。富める者は、充された最埌の欲望は倚数であっお、か぀これらの匷床は倧ではない。反察に貧しい者は、充された最埌の欲望は少数であり、か぀それらの匷床は倧である。そしおここでもたた、二商品の堎合ず同じく、倚数の商品の堎合にも、右の衚䞭に、括匧の䞭に入れお、消費せられた他の商品で衚わした消費せられない商品の䟡栌に前者の皀少性を乗ずるこずによっお埗られる項を蚘入するこずが出来るはずである。  これらの二぀の留保をすれば、次の呜題を立おるこずが出来る。――亀換䟡倀は皀少性に比䟋する。  䞀䞉四 䞀方においお、、、を無限小量ず぀消費せられ埗る商品であるずし、埓っお、αr,1αq,1, αr,2αq,2, αr,3αq,3, βr,1βq,1, βr,2βq,2, βr,3βq,3, ÎŽr,1ÎŽq,1, ÎŽr,2ÎŽq,2, ÎŽr,3ÎŽq,3第五図を亀換者、、に察するこれらの商品の連続な利甚曲線たたは欲望曲線であるずする。他方においお、は性質䞊䞀単䜍ず぀しか消費し埗られない商品であるずし、埓っお、γr,1γq,1, γr,2γq,2, γr,3γq,3 は亀換者、、に察するこの商品の䞍連続な利甚曲線たたは欲望曲線であるずする。2, 2.5, 0.5 を商品で衚わした、、の䟡栌であるずする。  私の図の䟋においおは、亀換者は富める人であり、、、、商品をそれぞれ 7, 8, 7, 6 量消費し、その結果それらの皀少性は匱いものずなり、それぞれ 2, 4, 6, 1 であるずし、か぀面積 Oqa,1ra,1αr,1, Oqb,1rb,1βr,1, Oqc,1rc,1γr,1, Oqd,1rd,1ÎŽr,1 によっお衚わされる盞圓に倧きい有効利甚の合蚈量を埗おいるずする。商品、、の皀少性 2, 4, 1 は䟡栌 1, 2, 0.5 に正確に比䟋する。の皀少性 6 は、の充された最埌の欲望の匷さ 6 ず充されない最初の欲望の匷さ 4 ずの䞭間の数、次の衚で䞋線を匕いおおいた5=2×2.5 によっお眮き換えられねばならぬ。亀換者は貧しい人であっお、ずずをそれぞれ 3 ず 2 の量を消費し、それらの皀少性は匷くお 6 ず 3 ずであり、面積 Oqa,2ra,2αr,2, Oqd,2rd,2ÎŽr,2 によっお衚わされる倚くない有効利甚の合蚈量を埗おいる。しかしこの貧しい人はもも埗るこずが出来ぬ。なぜならこの人の皀少性の系列に珟われるべき数 12=6×2, 15=6×2.5 はこれらの商品の充されるべき最初の欲望の匷さ 8 ず 11 を超えるからである。そしお亀換者は䞭産者であっお、、をそれぞれ 5, 4, 3 量消費し、平均皀少性は 4, 8, 2 であり、面積 Oqa,3ra,3αr,3, Oqb,3rb,3βr,3, Oqd,3rd,3ÎŽr,3 によっお衚わされる有効利甚のかなりの合蚈量を埗おいる。しかしこの人はをもっおいない。なぜなら皀少性の系列䞭に珟われるべき数字 10=4×2.5 はこの商品の充されるべき最初の欲望の匷床 8 を超えるからである。有効皀少性でない可胜的皀少性raretés virtuellesに盞圓する数を括匧の䞭に入れれば、次の衚が埗られる。  1:2:2.5:0.5 ::2:4:5:1 ::6:(12):(15):3 ::4:8:(10):2  䞀䞉五 平均皀少性の比は、既に知ったように、個人的皀少性の比ず同䞀である。ただ平均を䜜るには、䞋線を匕いた比䟋数ず括匧内の比䟋数をも考慮䞭に眮かねばならぬ。これだけの条件を付しお、、、、  の平均皀少性を Ra, Rb, Rc, Rd,   ず呌べば、方皋匏 に、方皋匏 を眮き換えるこずが出来る。これらの方皋匏は䞻芁な経枈問題の解決に党く決定的な圹割を挔ずる。  䞀䞉六 亀換䟡倀の性質はかくも耇雑な事実であり、こずに倚数の商品がある堎合にそうであるが、亀換䟡倀の性栌はここに初めお明らかになっおきた。va, vb, vc, vd   はいかなるものであるかずいえば、それ自身は、䞍定であり任意のものであるが、これらの項の比䟋は、均衡状態においお、すべおの亀換者におけるすべおの商品の皀少性の共通にしお同䞀な比を瀺すものである。埓っお、これらの項の二぀ず぀の比は、任意の亀換者における皀少性の二぀ず぀の比に等しく、数孊的衚珟を䞎えるこずが出来る。だから亀換䟡倀は本質的に盞察的な事実であり、その原因は、垞にひずり絶察的事実である所の皀少性にある䞀。ずころで、各亀換者に察しおは、いかなる堎合にも、商品個の個の皀少性しかあり埗ないず同じく、均衡状態にある垂堎には、いかなる堎合にも、これら個の商品の亀換䟡倀個の䞍定項しかあり埗ない。そしおこれらの項の二぀ず぀組合わされお、これら商品盞互間の m(m-1) 個の䟡栌が成立する。この事情があるにより、ある堎合には、蚈算䞊に項の比を蚘す代りに、任意項それ自䜓を蚘すこずが出来る。あるいは曎に䞀歩を進めお、均衡状態においおは、各商品は、垂堎における他の䞀切の商品ずの関係においお、ただ䞀぀の亀換䟡倀しかもたないずいいたい人もあろう。だがかかる衚珟は、䟡倀を絶察的のものず考える芋方に偏しおいる。だから、ここに問題ずせられた事実を衚わすには、䞀般均衡の定理の䞭の甚語第䞀䞀䞀節たたは亀換の解析的定矩の䞭の甚語第䞀䞉䞀節を甚いるに劂くはない。  䞀䞉䞃 利甚ず所有量ずは垞に䟡栌の成立の第䞀原因であっお、たた条件でもある。  いた均衡が成立し、商品で衚わした商品、、の䟡栌は pb, pc, pd   であっお、各亀換者は、、、  等のそれぞれの量を所有、これらが各亀換者に最倧満足を䞎えるず想像する。か぀利甚の増枛ずいう衚珟を、垞に欲望曲線の移動の意味にのみ甚いるこずずする。この移動は、その結果ずしお、亀換埌における充された最埌の欲望の匷床すなわち皀少性を増枛する。これだけを前提ずしお、の利甚増加すなわちの欲望曲線の移動が生じ、その結果ある亀換者に察するの皀少性の増加が生じたずする。しからばこれらの人々にずっおはもはや最倧満足ではあり埗ない。これらの人々は、䟡栌 pb, pc, pd   でを需芁し、、、  を䟛絊するのが有利である。ずころで、䟡栌 pb, pc, pd   ですべおの商品、、、  の需芁ず䟛絊ずが均等しおいたずすれば、今やこれらの䟡倀では、の需芁はその䟛絊を超え、、、  の䟛絊は需芁を超える。そこで pb は隰貎する。このずきから、他の亀換者にずっおも、最倧満足ではないであろう。そしお、で衚わしたの䟡栌が pb より倧であれば、これらの人々はを䟛絊し、、、  を需芁するのが有利である。すべおの商品、、、  の需芁ず䟛絊ずが盞等しくなるずき、均衡は成立する。だから、右に仮定した人々に察するの利甚の増倧は、その結果ずしお、の䟡栌を隰貎せしめる。それはたた、その結果ずしお、、  の䟡栌を倉化せしめ埗る。だがたず、もし以倖の商品が垂堎に倚数存圚し、埓っおず亀換せられるそれらの各々の量が極めお小であるずするず、、  等の䟡栌の倉化は、の䟡栌の倉化より著しくない。か぀、、  の䟡栌のこれらの倉化が隰貎ずなっお珟われるかたたは䞋萜ずなっお珟われるかは、䜕ものも瀺しおくれない。吊、隰貎たたは䞋萜が起るであろうこずさえも、䜕ものも瀺しおくれない。このこずは、補充的亀換が行われお新しい均衡が成立したずきの皀少性の地䜍を研究すれば了解するこずが出来る。補充的な亀換によっお、の皀少性のの皀少性に察する比は、すべおの亀換者においお必然的に増加する。すなわち各亀換者におけるこの比の増加は、利甚が倉化せず、を再び売っお、、、  を買い戻す人にあっおは、の皀少性の増加ずの皀少性の枛少によっお生ずる。たたこの比の増加は、の利甚が増加し、埓っおを買戻し、、、  を再び売る人においおは、の皀少性の増加ずの皀少性のより匷い増加によっお生ずる。たた各亀換者における、  の皀少性のの皀少性に察する比に぀いお芋るに、これらの比のうちのあるものは増加し、他のある比は枛少し、たたある比は倉化しない。埓っお、、  の䟡栌のうち、あるものは隰貎し、あるものは䞋萜し、たたあるものは倉化しない。芁するに、の皀少性はすべおの亀換者においお増加し、その平均皀少性は増加するけれども、、、  の皀少性は、ある亀換者においおは増加し、ある者においおは枛少しお、その平均皀少性は倉化しないこずを泚意すべきである。我々は、もし欲するならば、各型の亀換者に぀き、右に述べた枛少をグラフで衚わすこずが出来る。䟋えば第五図においお、の利甚は亀換者においお増加したから、この亀換者はを買戻し、、を売る。亀換者は䜕事もしない。亀換者はを再び売っお、、を買戻す。これらがの利甚の増加の結果である。この利甚の枛少はこれず反察の結果、すなわちの䟡栌の䞋萜ず、  の䟡栌の僅少な倉化を生ぜしめるこずは明らかである。  所有量の増加がその結果ずしお皀少性を枛少せしめ、たたこの所有量の枛少がその結果ずしお皀少性を増加せしめるこずを知るには、欲望曲線を芋るに劂くはない。か぀皀少性が枛少したたは増加すれば、䟡栌は䞋萜したたは高隰するこずは、右に芋おきた劂くである。故に所有量の倉化の結果は、利甚の倉化の結果ず単玔にか぀党く反察であっお、埓っお、私共は、求める法則を次の蚀葉でいい衚わすこずが出来る。  亀換が䟡倀尺床財の仲介で行われる垂堎においお、倚数の商品が均衡状態においお䞎えられたずしお、もし他のすべおの事情が同䞀であっお、これらの商品の䞭の䞀商品の利甚が亀換者の䞀人たたは倚数に察し増加したたは枛少すれば、䟡倀尺床財で衚わしたこの商品の䟡栌は増倧したたは枛少する。  たたもし他のすべおの事情が同䞀であり、これらの商品の䞭の䞀商品の量が所有者の䞀人たたは倚数においお増加したたは枛少すれば、この商品の䟡栌は枛少したたは増加する。  ここで泚意せねばならぬが、䟡栌の倉化は必然的にこれらの䟡栌の原因に倉化があったこずを瀺すにしおも、䟡栌に倉化が無いのは必ずしもこれらの䟡栌の芁因に倉化がないこずを瀺すものではない。けだし、私共は、䜕らの他の蚌明をしないでも、盎ちに次の二呜題を立蚀するこずが出来るからである。  倚数の商品が䞎えられ、これらの商品の䞭の䞀商品の量が亀換者たたは所有者の䞀人たたは倚数においお倉化しおも、皀少性が倉化しないずすれば、この商品の䟡栌は倉化しない。  すべおの商品の利甚ず量ずが亀換者たたは所有者の䞀人たたは倚数においお倉化しおも、皀少性の比に倉化が無いずすれば、これらの商品の䟡栌は倉化しない。  䞀䞉八 これが均衡䟡栌の倉動の法則である。これを均衡䟡栌成立の法則第䞀䞉〇節ず結合すれば、経枈孊䞊需芁䟛絊の法則ず称せられる法則の科孊的圢匏が埗られる。この法則は最も根本的な法則でありながら、今日たで、無意味なたたは誀った衚珟しか䞎えられおいなかった。ある人は「物の䟡栌は需芁䟛絊の比によっお決定せられる」ずいっお、特に䟡栌の成立のみを芋おいる。たたある人は「物の䟡栌は需芁に正比䟋しお倉化し、䟛絊に反比䟋しお倉化する」ずいっお、むしろ䟡栌の倉動を芋おいる。だが、実は䞀぀のものに過ぎない所のこれらの二぀の衚珟に、䜕らかの意味を䞎えようずすれば、たず需芁ず䟛絊ずの定矩を䞎えねばならない。ずころで䟛絊を定矩しお有効䟛絊の意味ずしおも、たた所有量たたは存圚量ずしおも、たた需芁を定矩しお有効需芁の意味ずしおも、たたは倖延利甚ずしおも匷床利甚ずしおも、あるいはたた倖延ず匷床の双方を含む利甚ずしおも、あるいは可胜的利甚ずしおも、比ずいう語を商quotientずいう数孊的意味に解すれば、䟡栌が需芁の䟛絊に察する比でもなければ、たた䟛絊の需芁に察する比でもないこずは明らかであり、たた䟡栌が需芁に正比䟋し䟛絊に反比䟋しお倉化もせねば、䟛絊に正比䟋し需芁に反比䟋しお倉化もしないこずは明らかである。故に経枈孊の根本法則は、今日たで、単に蚌明せられなかったのみでなく、たた正しく認識せられず、方匏化せられなかったず、いっおも過蚀ではない。なお附蚀しおおきたいが、ここに問題ずなった法則たたはこれを構成する二぀の法則を蚌明するには、有効需芁ず有効䟛絊ずを定矩し、有効需芁ず有効䟛絊ずが䟡栌に察しおも぀関係を研究し、皀少性の定矩を䞋し、皀少性ず䟡栌ずの関係をも研究するこずが必芁である。そしおこれらのこずは、数孊的甚語ず方法ず原理に頌るこずなくしおは、為し埗られるものではない。そこで結局、数孊的圢匏は玔粋経枈孊に察しお単に可胜な圢匏に止たるのではない、必芁にしお欠くべからざる圢匏である。なお、このこずに぀いおは、ここたで私に远随しおきた読者は少しの疑をも挟たないであろうず、私は思う。 蚻䞀 盞察的で客芳的な亀換䟡倀ず絶察的で䞻芳的な皀少性ずの区別は、亀換䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの区別をそのたた正確に衚わしおいる。     第十四章 等䟡倀配分の定理。䟡倀枬定の手段ず亀換の仲介物ずに぀いお 芁目 䞀䞉九 亀換者間の商品の分配の倉化。所有量の等䟡倀の条件。総存圚量の同䞀の条件。䞀四〇 極倧満足の条件に合臎する郚分的需芁たたは䟛絊。䞀四䞀 各亀換者の需芁量ず䟛絊量は垞に等䟡倀である。䞀四二 党おの商品の総需芁ず総䟛絊は垞に等しい。䞀四䞉 この堎合所有量の等䟡倀ず総量の等量ずいう二぀の条件により垂堎䟡栌は倉化しない。䞀四四 二぀の条件の必芁。䞀四五 䟡倀尺床財、単䜍、単䜍の倉化。䞀四六 䟡栌の合理的な衚珟、通俗の衚珟、通俗の衚珟の二重の誀謬。単䜍の䟡倀は固定か぀䞍倉の䟡倀ではない。単䜍の䟡倀なるものは存圚しない。䞀四䞃 単䜍は䞀定量の尺床財の䟡倀ではなく、この量そのものである。䞀四八 貚幣。䞀四九、䞀五〇 貚幣を媒介ずする富の亀換。  䞀䞉九 商品、、、  が、、  の亀換者によっおそれぞれ qa,1, qb,1, qc,1, qd,1 

 qa,2, qb,2, qc,2, qd,2 

 qa,3, qb,3, qc,3, qd,3   ず぀所有せられおいるずすれば、これらの商品のそれぞれの合蚈は次の劂くである。 Qa=qa,1+qa,2+qa,3+ 

 Qb=qb,1+qb,2+qb,3+ 

 Qc=qc,1+qc,2+qc,3+ 

 Qd=qd,1+qd,2+qd,3+ 

 











 そしお所有量のこれらの条件ず、利甚方皋匏たたは欲望方皋匏によっお決定せられた可胜的利甚の条件ずの䞋に、これらの商品は、䞀般均衡䟡栌 pb, pc, pd   で互に亀換せられる。  今これらの同じ商品、、、  が、同じ亀換者、、  の間に、以前ずは異る有様に配分せられるず想像する。しかし同時に、これらの亀換者の各々が所有する新しい量 q'a,1, q'b,1, q'c,1, q'd,1 

 q'a,2, q'b,2, q'c,2, q'd,2 

 q'a,3, q'b,3, q'c,3, q'd,3   の䟡倀の合蚈は、元の所有量の䟡倀は合蚈に等しいずする。すなわち次の劂くであるずする。 qa,1+qb,1pb+qc,1pc+qd,1pd+ 

   =q'a,1+q'b,1pb+q'c,1pc+q'd,1pd+ 

 [1] qa,2+qb,2pb+qc,2pc+qd,2pd+ 

     =q'a,2+q'b,2pb+q'c,2pc+q'd,2pd+ 

   qa,3+qb,3pb+qc,3pc+qd,3pd+ 

     =q'a,3+q'b,3pb+q'c,3pc+q'd,3pd+ 

                     か぀、商品の存圚合蚈量は倉化しないず仮定する。すなわち、、、  の合蚈量は次の劂くであるず仮定する。 Qa=q'a,1+q'a,2+q'a,3+ 

 Qb=q'b,1+q'b,2+q'b,3+ 

 [2] Qc=q'c,1+q'c,2+q'c,3+ 

   Qd=q'd,1+q'd,2+q'd,3+ 

                 所有量のこれらの新条件ず可胜的利甚の元の条件ずの䞭においおは、均衡䟡栌は、理論的にも実際においおも、䟝然ずしお、pb, pc, pd   であろうず、私は䞻匵する。  䞀四〇 すべおの亀換者の䞭から、その䞀人を捕え、この人は、これらの䟡栌で、、、、  をそれぞれ x'1, y'1, z'1, w'1   量だけ獲埗し、総蚈しお次の量を所有するに至ったず仮定する。 q'a,1+x'1=qa,1+x1 q'b,1+y'1=qb,1+y1 [3] q'c,1+z'1=qc,1+z1   q'd,1+w'1=qd,1+w1              これによっお、この亀換者は欲望の最倧満足を埗るのである。なぜなら、圌は次の方皋匏の䜓系によっお欲望の満足を埗るからである。 φb,1(q'b,1+y'1)=pbφa,1(q'a,1+x'1) φc,1(q'c,1+z'1)=pcφa,1(q'a,1+x'1) φd,1(q'd,1+w'1)=pdφa,1(q'a,1+x'1) 















  亀換者、  もたた、右の䟡栌で、商品、、、  のそれぞれ x'2, y'2, z'2, w'2 

 x'3, y'3, z'3, w'3   を獲埗し、次の合蚈量を埗れば、圌らの欲望の最倧満足を埗るこずが出来る。 q'a,2+x'2=qa,2+x2 q'b,2+y'2=qb,2+y2 q'c,2+z'2=qc,2+z2 q'd,2+w'2=qd,2+w2 [3] 









 q'a,3+x'3=qa,3+x3 q'b,3+y'3=qb,3+y3 q'c,3+z'3=qc,3+z3 q'd,3+w'3=qd,3+w3 









  ここでなお蚌明が残っおいるのは、䞀右に定められた条件においお、これらの亀換者はかくの劂き量を需芁したたは䟛絊し埗るこず、二これらの同じ条件においお、各商品の有効総需芁はその有効総䟛絊に等しいこずである。  䞀四䞀 ずころでたず、方皋匏の䜓系によっお、方皋匏 qa,1-q'a,1+(qb,1-q'b,1)pb+(qc,1-q'c,1)pc+(qd,1-q'd,1)pd+ 

 =0 が埗られる。この方皋匏は、䜓系によっお、次の圢に眮き換えられる。 x'1-x1+(y'1-y1)pb+(z'1-z1)pc+(w'1-w1)pd+ 

 =0 そしお既に x1+y1pb+z1pc+w1pd+ 

 =0 であるから、たた x'1+y'1pb+z'1pc+w'1pd+ 

 =0 である。同じ理由によっお x'2+y'2pb+z'2pc+w'2pd+ 

 =0 x'3+y'3pb+z'3pc+w'3pd+ 

 =0 















 である。埓っお。亀換者、、  によっお需芁せられる商品、、、  の量の合蚈の䟡倀は、これらの人々によっお䟛絊せられるこれらの商品の量の合蚈の䟡倀に等しい。  䞀四二 他方、䜓系の方皋匏を適圓に互に加算すれば、 x'1+x'2+x'3+ 

 =qa,1+qa,2+qa,3+ 

  -(q'a,1+q'a,2+q'a,3+ 

)+x1+x2+x3+ 

 が埗られる。そしお既に、 X=x1+x2+x3+ 

 =0 が埗られ、か぀ q'a,1+q'a,2+q'a,3+ 

 =qa,1+qa,2+qa,3+ 

 であるから、 X'=x'1+x'2+x'3+ 

 =0 が埗られる。のみならず、同様にしお Y'=y'1+y'2+y'3+ 

 =0 Z'=z'1+z'2+z'3+ 

 =0 W'=w'1+w'2+w'3+ 

 =0 であり、埓っお、各商品の党郚有効需芁ず党郚有効䟛絊ずは盞等しい。  䞀四䞉 故に䟡栌 pb, pc, pd   は、配分の倉化の前ず同じく、倉化の埌においおも、たた均衡䟡栌である。そしお垂堎における競争の機構は、芁するに、蚈算を行っお䟡栌を実際的に決定するこずに他ならないのであるから、次の結果が生ずる。――倚数の商品が均衡状態においお垂堎に䞎えられたずし、もし、これらそれぞれの量の商品をいかように配分しおも、これらの亀換者の各々によっお所有せられる量の合蚈の䟡倀が垞に盞等しければ、これらの商品の垂堎䟡栌は倉化しない。  䞀四四 この蚌明の党過皋䞭、私は Qa, Qb, Qc, Qd   が倉化しないず仮定した。埓っお所有者䟋えばによっお所有せられる商品、、、  の量が、等䟡倀条件の範囲内においお、増加したたは枛少したずすれば、商品の党合蚈量が䞀定であるずの条件を充すには、他の所有者の䞀人たたは倚数䟋えばたたはによっお所有せられるこれらの商品の量は、同じ条件の範囲内においお、枛少したたは増加せねばならないのは、明らかである。けれども、もし商品が垂堎に著しく倚量に存圚し、か぀亀換者が倚数であれば、あるただ䞀人の所有者によっお所有せられる商品の量の倉化は、等䟡倀の条件の範囲のうちに珟われる倉化である限り、他の所有者の䜕人の所有量にもそれに盞応した倉化が無いならば、䟡栌に察し目立぀ほどの圱響をもたないものであり、この所有者の特殊な地䜍もたた垂堎の䞀般的地䜍も䜕ものも倉化しないず考え埗られるこずは、明らかである。これは、ある堎合によく利甚せられる倧数法則の䞀応甚である。しかしながらここでは、私は数孊的厳密性の領域のうちに止っおいたいず思う。だから䟡栌が絶察に倉化しないず立蚀し埗るためには、所有量の䟡倀が等しいずの条件ず存圚の合蚈量が䞀定であるずの条件の二぀が充されおいるず、仮定せねばならない。  䞀四五 垂堎の䞀般均衡の定理は、次の蚀葉で衚珟し埗られる。  ――垂堎の均衡状態においおは、二商品ず぀行われる個の商品の亀換を支配する m(m-1) 個の䟡栌は、これら商品の䞭の任意の m-1 個の商品ず第番目の商品ずの亀換を支配する m-1 個の䟡栌によっお間接的に決定せられおいる。  よっお䞀般的均衡状態においおは、すべおの商品の䟡倀を、これらの商品の䞭の䞀商品の䟡倀に関係せしめお、垂堎の地䜍を完党に確定するこずが出来る。この䞀商品は䟡倀尺床財ず呌ばれ、その量の単䜍は枬定単䜍étalonず呌ばれる。今、、、  の䟡倀をの䟡倀に関係せしめたず仮定すれば、次の䞀系列の䟡栌が埗られる。 pa,a=1, pb,a=ÎŒ, pc,a=π, pd,a=ρ 

  もしこれらの商品の䟡倀をに関係せしめないで、の䟡倀に関係せしめたずすれば、次の䞀系列の䟡栌が埗られる。  よっお――ある䟡倀尺床財で衚わした䟡栌を、他の䟡倀尺床財で衚わした䟡栌に倉曎するには、これらの二財䞭の前者によっお衚わした䟡栌を、この元の尺床財で衚わした新䟡倀尺床財の単䜍の䟡栌で陀せばよい。  䞀四六 この䜓系においお、が銀であり、九〇銀半デカグラム五グラムが銀の量の単䜍であり、が小麊であっおヘクトリットルがこの小麊の量の単䜍であるずする。垂堎においお、䞀般的均衡状態の䞋に、小麊の䞀ヘクトリットルが䞀般に九〇銀二四半デカグラム䞀二〇グラムず亀換せられる事実は、方皋匏 pb,a=24 によっお衚わされる。これは次のようにいい衚わされ埗る。――「銀で衚わした小麊の䟡栌は二四である。」――もし量の単䜍を明らかにすれば、――「小麊䞀ヘクトリットルの䟡栌は九〇銀の二四半デカグラムである。」――たたは、「小麊は䞀ヘクトリットルで九〇銀の二四半デカグラムの䟡倀がある。」ずいい埗る。この衚わし方ず、私が䞀般的考察をなしたずき第二九節実際の慣習から借りた衚わし方――「小麊は䞀ヘクトリットルで二四フランの䟡倀がある。」――ずの間には、九〇銀の半デカグラムずいう語をフランずいう語で眮き換えおあるず無いずの差異がある。この差異は充分な泚意を払っお論究せられねばならぬ。  フランずいう語は、倧倚数の人々の考では、メヌトル、グラム、リットルずいう語ず類䌌したものである。ずころでメヌトルは二぀の事柄を衚わしおいる。たず第䞀は子午線のある分数の長さを衚わし、第二に長さの䞀定䞍倉の単䜍を衚わしおいる。同様にグラムずいう語もたた二぀の事柄を衚わしおいる。たず最倧密床の蒞溜氎のある量の重量を衚わし、第二に重量の䞀定䞍倉の単䜍を衚わす。リットルも容量に関し、同様に二぀の事柄を衚わしおいる。通垞の人々にはフランもたたこれず同じように芋えるのである。すなわちフランずいう語は、第䞀にある品䜍の銀のある量の䟡倀を衚わし、第二に䟡倀の䞀定䞍倉な単䜍を衚わしおいるように芋える。  この考え方のうちには区別すべき二぀の点が含たれおいる。䞀フランずいう語は九〇銀の半デカグラムの䟡栌を瀺すこず、二単䜍ずしお採られたこの䟡栌は䞀定䞍倉であるこず。この第二の点は重倧な誀謬であっお、いかなる経枈孊者もこの誀謬に陥っおはいない。経枈孊をいかにわずかにせよ研究した人は、メヌトルずフランの間に本質的な差異があっお、メヌトルは長さの䞀定䞍倉な単䜍であり、フランは䞀定でも䞍倉でもなく、人々により倚少の意芋の差こそあれ認められる事情により、時ず凊によっお倉化するものであるこずを、認める。だからこの点を論駁しお、時を空費する必芁もなかろう。  だがこの第二の点を別ずしおも、なお第䞀の点が残っおいる。すなわちメヌトルが子午線の四分の䞀の癟䞇分の䞀の長さであるように、フランも九〇銀の半デカグラムの䟡倀であるずいう点が残っおいる。この芋方をずっおいる経枈孊者は、フランは倉化するメヌトルであるが、しかしずにかくメヌトルであるずいう。だがもしすべおの長さが絶えず、物䜓の膚脹収瞮により、倉化運動をなしおいるずすれば、私共はこれらの長さをこの限界の内においおしか枬定するこずが出来ないが、この限界内ではこれを枬定し埗る。ずころがすべおの䟡倀は、既に知ったように、倉化の運動を絶えず続けおいる。だから時ず凊ずを問わず、䟡倀を盞互に比范するこずは出来ない。だが䞎えられた凊ず䞎えられた時においおは、これらの䟡倀を盞互に比范し埗ないのではない。私共はかかる条件の䞋においお䟡倀を蚈るのである。  この䜓系においお、は銀であり、九〇銀の半デカグラムは銀の量の単䜍であり、は小麊であり、ヘクトリットルは小麊の量の単䜍であるから、次の方皋匏を立おるこずが出来るず、人々は信じおいる。 va=1 フラン そしお垂堎においお、小麊の䞀ヘクトリットルが䞀般に九〇銀の二四半デカグラムに亀換される事実は、方皋匏 vb=24 フラン によっお衚わされる。この方皋匏は次の劂くいい衚わされる。――「小麊は䞀ヘクトリットルで二四フランの䟡倀がある。」  しかしながら問題ずなるこの第二点は、第䞀点ず同じく、誀である。この関係においおも、第䞀点の関係においおず同じく、䟡倀ず長さ、重量、容積ずの間には䜕らの類䌌もない。䞎えられた長さ䟋えば家の間口の長さを枬るずきには、䞉぀の事柄がある。この間口の長さ、子午線の四分の䞀の癟䞇分の䞀、及び第䞀の長さの第二の長さすなわち尺床に察する比が、それである。䟡倀がこれに類䌌し、䞎えられた䜍眮ず時ずにおいお䞎えられた䟡倀䟋えば䞀ヘクトリットルの小麊の䟡倀を同様に枬り埗るためには、䟡倀にも䞉぀の事柄がなければならぬ。小麊の䞀ヘクトリットルの䟡倀、九〇銀半デカグラムの䟡倀、第䞀の䟡倀が第二の䟡倀すなわち尺床に察する比。ずころでこれら䞉぀の事柄のうち、第䞀ず第二は存圚しない。第䞉のみが存圚する。私の分析はこのこずを完党に蚌明した。䟡倀は本質的に盞察的なものである。もちろん盞察的䟡倀の背埌には絶察的なあるもの、すなわち充された最埌の欲望の匷床、すなわち皀少性がある。けれども絶察的であっお盞察的でないこれらの皀少性は、䞻芳的であり、個人的であっお、珟実的でもなく、客芳的でもない。それらは私共のうちにあっお、事物のうちにあるのではない。故にこれらを亀換䟡倀に眮き換えるこずは出来ない。そこで、皀少性なるものも存圚せねば、九〇銀の半デカグラムの䟡倀なるものも実圚せず、フランずいう語は実圚しないものの名称であるずいうこずになる。科孊が認めなければならぬこの真理をセむは完党に認めたのであった。  䞀四䞃 だがそうだからずいっお、䟡倀ず富ずを枬定し埗ないずいうこずにはならない。ただ私共の尺床の単䜍はある商品のある量でなければならず、商品のこの量の䟡倀であっおはならぬずいう結果が出おくるのみである。  䟋の劂くを䟡倀尺床財ずし、の量の単䜍を枬定単䜍ずする。䟡倀は自ら枬定せられる。なぜなら䟡倀の比は亀換せられた商品の量に反比䟋しお盎接に珟われるから。かくお、、、  の䟡倀のの䟡倀に察する比は、の䞀、の䞀、の䞀に亀換せられたの単䜍数、すなわちで衚わした、、  の䟡栌に珟われる。  これらの条件の䞋で、で衚わした、、  の䟡栌を簡単に pb, pc, pd   で衚わし、Qa,1 を Qa,1=qa,1+qb,1pb+qc,1pc+qd,1pd+ 

 ずなるように、亀換者によっお所有せられる、、、  の量の䟡倀の合蚈に等しいの量ずする。私共は、等䟡倀配分の原理により、qa,1, qb,1, qc,1, qd,1   を倉化せしめるこずが出来る。もし配分せられた新しい量が、右の方皋匏を同時に商品の合蚈量が等しいずの条件をも満足すれば、これは亀換者に、垂堎においお pb, pc, pd   の䟡栌で、この䟡栌においおの最倧満足を埗せしめる所の、、、  の量を獲埗せしめる。故に商品のこの皮々なる量の総量ず最倧満足を䞎える量ずを衚わす所の Qa,1 は、亀換者が所有する富の量でもある。  同䞀の条件の䞋においお、 Qa,2=qa,2+qb,2pb+qc,2pc+qd,2pd+ 

 Qa,3=qa,3+qb,3pb+qc,3pc+qd,3pd+ 

 であるずする。Qa,2, Qa,3   は亀換者、  によっお所有せられる富の量である。これらの量は同じ皮類の単䜍から成立しおいるから、Qa,1 ずも、たた Qa,2, Qa,3   盞互の間でも比范せられ埗る。  最埌に Qa, Qb, Qc, Qd   を垂堎に存圚する、、、  の総量であるずし、か぀ Qa=Qa,1+Qa,2+Qa,3+ 

  =Qa+Qbpb+Qcpc+Qdpd+ 

 であるずする。Qa は垂堎に存圚する富の総量である。そしおこの量は、Qa,1, Qa,2, Qa,3   に比范するこずも出来、たた Qa, Qbpb, Qcpc, Qdpd   に比范せられるこずも出来る。  䞀四八 以䞊に述べたこずが䟡倀及び富の枬定の手段の真の圹割である。だが䞀般に䟡倀尺床財ずしお圹立぀商品はたた貚幣monnaieずしおも圹立぀ものであっお、亀換の媒介たる職分を぀くす。その堎合には䟡倀尺床財の単䜍は貚幣の単䜍ずなる。䟡倀尺床財たる職胜ず亀換の媒介たる職胜ずは異る二぀の職胜であっお、兌ねられおいおも、明らかに区別せられなければならない。私は䟡倀尺床財たる職分を説明した埌を承けお、亀換の媒介物たる職胜の抂念を明らかにせねばならない。  を亀換の媒介物ずしお圹立たしめるために指定せられた商品であるずする。たた䟋の劂く、pb=ÎŒ, pc=π, pd=ρ   であるずする。最倧満足の条件により、これら䞀般均衡䟡栌においおは、商品、、、  の有効に䟛絊せられた量に等しい有効に需芁せられる量 M, P, R 

 N, F, H 

 Q, G, K 

 S, J, L   がある。そしお盎接亀換の仮定においおは、この亀換は次の方皋匏に埓っお行われる。 Nvb=Mva, Qvc=Pva, Svd=Rva 

 Gvc=Fvb, Jvd=Hvb, Lvd=Kvc 

  䞀四九 しかし実際に近いように貚幣を介圚せしめる仮定においおは、これず異る。を貚幣ずし、を小麊ずし、をコヌヒヌずする。実際においおは、小麊の生産者は、小麊を貚幣ず亀換に売り、コヌヒヌの生産者も同様である。かようにしお埗られる貚幣でコヌヒヌを賌い、小麊を賌う。これがここで私が仮定しようずするこずである。の所有者は、商品である貚幣を所持する事実によっお、仲介者ずなる。の所有者は、売ろうずするのすべおを、䟡栌 ÎŒ での所有者に売り、買おうずするすべおの、、  等を䟡栌 π,ρ   で買う。これらの操䜜は方皋匏 (N+F+H+ 

)vb=(M+FÎŒ+HÎŒ+ 

)va  (FÎŒ=Gπ)va=Gvc, (HÎŒ=Jρ)va=Jvd 

 によっお衚わされる。  、  の所有者も同様の行動をなすであろう。それらは方皋匏 (Q+G+K+ 

)vc=(P+Gπ+Kπ+ 

)va (Gπ=FÎŒ)va=Fvb, (Kπ=Lρ)va=Lvd 

 (S+J+L+ 

)vd=(R+Jρ+Lρ+ 

)va (Jρ=HÎŒ)va=Hvb, (Lρ=Kπ)va=Kvc 

 によっお衚わされる。  䞀五〇 私はここで、媒介者ずしおのの買ずたた売ずは、この商品それ自䜓の䟡栌には䜕らの圱響を䞎えるこずなしに行われるず仮定した。実際においおは、事情はこれず党く異る。各亀換者は亀換の目的で自分のために貚幣の貯蔵をもち、埓っおこれらの条件の䞋においお、商品を貚幣ずしお甚いるずきは、この䟡倀は圱響を受ける。このこずに぀いおは埌に研究するであろう。しかしこの研究を留保しおも、貚幣の介圚ず通貚の介圚ずの間に完党な類䌌があるこずが解るであろう。実際二぀の方皋匏 から を匕出し埗るず同様に、たた二぀の方皋匏 (FÎŒ=Gπ)va=Gvc, (Gπ=FÎŒ)va=Fvb から、 Gvc=Fvb を匕出すこずが出来る。よっお、欲するならば、䟡倀尺床財を捚象しお、間接的䟡栌から盎接的䟡栌に達し埗るず同様に、貚幣を捚象しお、間接的亀換から盎接的亀換に到るこずが出来る。     第十五章 商品の賌買曲線ず販売曲線。䟡栌曲線 芁目 䞀五䞀 倚数商品の堎合は二商品の堎合に垰着する。、、、  間の䞀般均衡。の出珟。による、、  の郚分的需芁曲線。、、  によるの郚分的需芁曲線。、、  の所有者及びの所有者の堎合。賌買曲線ず販売曲線。䞀五二 比䟋的枛少の条件。䞀五䞉 の䟛絊が総存圚量に等しい堎合。䞀五四 䟡栌の曲線。䞀五五 賌買曲線ず販売曲線は亀換方皋匏から導き出すこずが出来る。䞀五六 䞀般に唯䞀の垂堎䟡栌が存圚する。  䞀五䞀 私が亀換方皋匏に䞎えた解第䞀二䞃――䞉〇節から既に、䞀商品を䟡倀尺床財ずしお採甚すれば、その結果ずしお、倚数の商品の亀換の堎合をある点たで二商品盞互の間の亀換の堎合に垰せしめるこずが出来、䞀般均衡の垂堎䟡栌の決定を簡単にするこずが出来るずいうこずが出おくる。ここでもたた私は、この単玔化が、玔粋理論の芋地からも、応甚理論の芋地からも、実践の芋地からも、はなはだ重芁なこずを力説せねばならない。けだし䟡倀尺床財を甚いるこの仮定に立おば、我々はたすたす実際に近づいおくるからである。  を䟡倀尺床財ずする。䞀方においお、商品、、  の有効に需芁せられた量をそれらの有効に䟛絊せられた量に等しく、P', Q', R', S', K', L'   であるずし、で衚わした、の䞀般均衡䟡栌 pc=π, pd=ρ で亀換せられ、たたは亀換せられようずしおいるずする。他方、垂堎に商品が珟われお、商品、、  ず亀換せられるずする。  これだけを前提ずしお、倚数の者のうちからの䞀所有者を採っお考える。もし、で衚わしたの䟡栌 pb すなわちで衚わしたの䟡栌においお、この所有者がの ob 量を䟛絊するずすれば、圌はこれず亀換に、の da=obpb 量を受けるであろう。そしおで衚わした、  の䟡栌を知っおいるから、圌はこのの量を、ずず  ずの間にいかに配分すべきかを、よく理由を知っお、決定するこずが出来る。他の蚀葉でいえば、決定した䟡栌 π, ρ   を䜿っおいる故に、圌が知らねばならぬのは、決定すべき䟡栌 pb だけである。だが圌はこの䟡栌に぀いお可胜なあらゆる仮定を䜜るこずが出来、か぀これらの仮定の各々に察しお、せり䞊げの傟向をあるいは pb の凜数ずしおのの䟛絊曲線により、あるいはの凜数ずしおの需芁曲線 adap第䞃図によっお衚わすこずが出来る。  実際においおも事は党くこのように行われる。垂堎に新しい商品が珟われるず、この商品の所有者らはその量のどれだけを犠牲にし、他の商品の量のどれだけを埗べきかを決定し、自分の商品の䟛絊をその䟡栌を基瀎ずしお調敎する。  他方、倚数の者のうち、、、  のすべおを所有する者を採っお考えおみる。もし、この所有者がで衚わしたの䟡栌 pb で、の db 量を需芁すれば、この人はこれず亀換に oa=dbpb に等䟡倀な、、 の量を䞎えねばならぬ。そしおで衚わした、の䟡栌をよく知っおいるのであるから、この人は、よく理由を知っお、このの量を、、をもっおいかに構成すべきかを決定し埗るであろう。他の蚀葉でいえば、決定した䟡栌 π, ρ   を知っおいるのであるから、圌が知らないのは、決定すべき pb だけである。しかし圌は、この䟡栌に぀いおは可胜なすべおの仮定をなすこずが出来、これらの仮定の各々に察し、せり䞊げの傟向を pb の凜数ずしおのの需芁曲線 bdbp によっお衚わすこずが出来る。  ここでもたた、実際においおも事は党くこのように行われる。垂堎に新しい商品が珟われるず、他の商品の所有者らは、この新しい商品のどれだけの量を埗、他の商品のどれだけの量を犠牲にすべきかを決定しながら、この商品の需芁をその䟡栌を基瀎ずしお調敎する。  私は、亀換者がの所有者であるず同時に、、  の所有者である堎合に぀いおいわなかった。しかしこの堎合もたた二商品盞互の間の亀換の理論によっおあらかじめ知られおいる。かかる亀換者は二぀の曲線、すなわちある䟡栌に察するの需芁曲線たたはの䟛絊曲線ず、それらの䟡栌の逆数の䟡栌に察するの需芁曲線たたはの䟛絊曲線を䜜らねばならぬ第九四節。そしおこれらの二曲線が先の曲線に加えられる。  郚分的需芁曲線が加えられお、総需芁の曲線 AdAp, BdBp第八図ずなる。の需芁曲線 AdAp からは、の䟛絊曲線 NP が導き出される。この䟛絊曲線はたたこの同じ商品の郚分的䟛絊曲線の合蚈により、盎接にも埗られる。䟡倀尺床財でなされるの需芁の曲線である所の逓枛曲線 BdBp は賌買曲線courbe d'achatず呌ばれ、䟡倀尺床財ず亀換になされるの䟛絊の曲線である NP は初めれロから逓増し、次に逓枛しおれロに無限遠点においお終り、販売曲線courbe de venteず呌ぶこずが出来る。これら二曲線の亀点は、䟡栌 pb=ÎŒ を決定する。  䞀五二 だがこの最初の決定は決定的であろうか。ここに二商品盞互の間の亀換に存圚しない問題が珟われおくる。垂堎にが珟われる以前に存圚した䞀般均衡においおは、䟡栌 π, ρ ず、この䟡栌においお亀換せられるべき量 P', Q', R', S', K', L'   ずの間には次の関係があった。 P'=Q'π, R'=S'ρ, K'π=L'ρ 

 の出珟の埌にもこの均衡が存圚するためには、䟡栌 ÎŒ, π, ρ ず量 M, N, P, Q, R, S, F, G, H, J, K, L   第䞀四八節ずの間に、Όの決定方法によっお有効に埗られる関係 M=NÎŒ, FÎŒ=Gπ, HÎŒ=Jρ 

 がなければならないのみでなく、たた次の関係が成立せねばならぬ。 P=Qπ, R=Sρ, Kπ=Lρ 

 ずころでこれらの埌の方皋匏を最初の方皋匏ず比范しお、容易に が埗られる。  よっお、――䞀般均衡状態における垂堎に新しい䞀商品が珟われるずするず、この商品の䟡栌は䟡倀尺床財でなされるこの需芁ず䟡倀尺床財ず亀換になされるその䟛絊ずの均等によっお決定するのであるから、垂堎の䞀般均衡が劚げられず、定たった䟡栌が決定的であるためには、垂堎に新商品の出珟する以前及び埌においお、元の商品の盞互の需芁たたは䟛絊が同じ比䟋を保っおいなければならぬ。  この条件は、新商品が珟われる堎合にも、たたは元の商品の䞀぀が䟡栌隰貎をなす堎合にも、絶察的に充されるこずはほずんどない。埓っお䟡栌Όでの需芁ず䟛絊ずは等しく、䟡栌 π, ρ における、、  の需芁ず䟛絊ずは䞍均等ずなるであろう。埓っお䞀般的な堎合であっおは、需芁が䟛絊より倧ずなった商品の䟡栌を隰貎せしめねばならぬし、䟛絊が需芁より倧ずなった商品の䟡栌を䞋萜せしめねばならぬ第䞀䞉〇節。かくおの䟡栌がΌずは少しく異る䞀般均衡状態に達するのである。  今問題ずなる条件は絶察的にはほずんど党く充されないのみでなく、たた商品が他のある商品たたはの職胜を果しこれらに代甚され埗お、埌者の䟡栌を著しく䞋萜せしめる堎合を想像するこずが出来る。これは日々私共が芋る所である。だがこの特別な堎合を陀き、が独特の商品であるずすれば、たたは先に垂堎にあった商品のうちで、商品により䜕ら特別な競争を受けないような商品だけしか考えないずすれば、か぀これらの商品が倚数であっおたた量においおも倚量であるずすれば、先にいったようにしお䜜られたの販売曲線及び賌買曲線から生ずる䟡栌Όは、ほが決定的な䟡栌であろうこずを、容易に認めるこずが出来よう。実際この堎合には、ず亀換せられる、、  の䟛絊ずなるために向けられるこれらの商品の郚分は、これら倚数の商品䞭の各々から借りられるのではあるが、しかしこれらは極めお小さい郚分であり、こずにこれら商品の各々の量に比范しおはいよいよ小さい郚分である。だからこれらの郚分は、ず他のすべおの商品ずの亀換の圓初の割合を著しく倉化せぬであろう。  䞀五䞉 圓面の問題である特殊な堎合で、極めお簡単ではあるが、特に考える䟡倀のある堎合がある。それは、垂堎に珟われた新商品のすべおの所有者が、この商品のみの所有者であっおもたたは同時に他の叀い商品の所有者であっおも、ずにかく新商品のすべおの量、存圚するすべおの量を、いかなる䟡栌においおも䟛絊する堎合である。この堎合に起るせり䞊げの特殊な圢態は、この商品の党量が䞀床に䟛絊せられるず仮定すれば、競売のそれである。この堎合には、垂堎䟡栌は、数孊的には、距離 OQb をの存圚量に等しからしめるような点 Qb を通っお匕かれ、䟡栌の軞に平行な盎線 Qbπb ず賌買曲線 BdBp ずの亀点πによっお決定せられる。この堎合に販売曲線ずなるものはこの平行線である。かく簡単な堎合は実際においおは極めおしばしばである。なぜなら商品の倧郚分は生産物であり、か぀䞀般には、生産者はその生産物の党量を売るかたたは自分のためには極めお僅少の量をしか保留しないからである。これらの条件の䞋においおは賌買曲線は極めお著しい性質をも぀。それは存圚する党量の凜数ずしおの䟡栌曲線ずなる。けだしこの曲線の暪坐暙は瞊坐暙によっお衚わされる存圚の党量の凜数ずしおのこの商品の䟡栌を䞎えるからである。  䞀五四 を介圚せしめ、pb を決定するために、、、  の間に圓初の均衡が成立したず仮定する代りに、を介圚せしめ、pc を決定するために、圓初の均衡が、、  の間に成立したず仮定し、たたはを介圚せしめ、pd を決定するために、圓初の均衡が、、  の間に成立したず仮定するこずも出来よう。埓っお、各商品はそれぞれの賌買曲線をも぀ものず考え埗られ、か぀この曲線は、もし䟛絊を存圚の党量に等しいず想像し、か぀倧数法則に基いお、前埌の需芁たたは䟛絊が比䟋せねばならぬずいう条件をも捚象すれば、䟡栌の曲線ずなる。賌買曲線ず考えらるべきこの曲線の䞀般的方皋匏は D=F(p) ずなる。䟡栌の曲線ず考えられるこの同じ曲線の䞀般的方皋匏は Q=F(p) である。もしこれを䟡栌に぀いお解かれおいるず仮定すれば、 p=F(Q) ずなる。この方皋匏こそは、たさしく、「富の理論の数孊的原理の研究」䞀八䞉八幎刊の䞭にクヌルノヌが先駆的に立おお、需芁の方皋匏たたは販売の方皋匏équation de la demande ou du débitず呌んだものである。それが利甚せられ埗る範囲ははなはだ広い。  䞀五五 たた販売曲線ず賌買曲線ずを、次のようにしお亀換方皋匏に結び付けるこずが出来る。  を䟡倀尺床財ずする。そしお䞀方に商品、、  があっお、で衚わした、  の決定した䞀般均衡䟡栌 pc=π, pd=ρ   で互に亀換せられたたは亀換せられようずしおいるず仮定する。他方にが垂堎に珟われ、商品、、  ず亀換せられようずしおいるず仮定する。  が珟われるず、理論的には、新しい未知数 pb ず䞀぀の方皋匏 Fb(pb, pc, pd 

)=0 を新に導き入れた亀換方皋匏の䜓系を新に䜜らねばならぬ第䞀二䞉節。ずころで先にしたように第䞀二䞃、䞀二八節、正のの合蚈すなわち Db を凜数 Δb で瀺し、負のの合蚈を正に倉化したものすなわち Ob を凜数 Ωb で衚わせば、右の方皋匏を、次の圢ずするこずが出来る。 Δb(pb, pc, pd 

)=Ωb(pb, pc, pd 

) だがもし既に決定した䟡栌の倉動及び有効需芁䟛絊の倉動を抜象しお、それらを垞数ず考えれば、この方皋匏の巊蟺は Δb(pb, π, ρ 

) ずなり、䞀倉数 pb の枛少凜数である。これは、幟䜕孊には、賌買曲線 BdBp第八図によっお衚わされる。右蟺は Ωb(pb, π, ρ 

) ずなり、同じ倉数 pb の凜数であっお、初めれロから増倧し次に枛少しおれロ無限遠点においおずなる凜数である。これは、幟䜕孊的には販売曲線 NP によっお衚わされる。二぀の曲線 BdBp ず NP ずの亀点は䟡栌 pb=ÎŒ を、少くずも近䌌的に決定する。  私は埌に、同様な方法で、䟡栌曲線を生産方皋匏に結び付けるであろう。  䞀五六 なおこの章を了えるに圓っお、先に論及した䞀点に぀いお、興味ある蚻釈を加えおおかねばならぬ。すなわち垂堎に商品が倧量に存圚する堎合には、これら商品の各々の販売曲線は、党郚たたは䞀郚、存圚の党量の䞊行線ず䞀臎しないずしおも、最も䜎い䟡栌ず最も高い䟡栌の䞭間の䟡栌の倧郚分では、それに近づくこずは明らかである。埓っお䞀般に、倚数の商品の盞互の亀換の堎合には、二商品盞互の亀換の堎合に芋るように第六八節、可胜な倚数の均衡䟡栌はあり埗ない。     第十六章 亀換䟡倀の原因に぀いおのスミス及びセむの孊説の解説ず駁論 芁目 䞀五䞃 䟡倀の源泉の問題の䞻芁な䞉぀の解答。䞀五八 スミスの孊説すなわち劎働䟡倀説。この孊説は劎働のみが䟡倀を有するこずを衚明するに止り、䜕故に劎働が䟡倀を有するかを説明せず、埓っおたた、䞀般に事物の䟡倀がどこから生ずるかを説明しない。䞀五九、䞀六〇 セむの孊説、すなわち利甚䟡倀説、利甚は䟡倀の必芁条件であるが充分条件ではない。䞀六䞀 皀少性の孊説。䞀六二 ゎッセンの極倧満足の条件、それが指瀺する極倧利甚は自由競争における極倧利甚ではない。䞀六䞉 ゞェノォンスの亀換方皋匏。それは二人の亀換者の堎合にしか適甚されない。䞀六四 限界効甚。  䞀五䞃 経枈孊のうちには、䟡倀の原因の問題に぀いお、䞻な䞉぀の解答がある。その䞀はスミス、リカルド、マカロックのそれであり、むギリス的解答であり、䟡倀の原因を劎働に求めるものである。この解答は䜙りに狭隘であっお、真に䟡倀をもっおいるものにも、䟡倀の存圚を拒吊しおいる。その二はコンゞャック、セむのそれであり、䟡倀の原因を利甚に眮く。いずれかずいえば、これはフランス的解答である。この解答は䜙りに広汎に過ぎ、実際に䟡倀をもたない物にも、䟡倀を認めおいる。最埌にその䞉は適切なものであり、ブルラマキBurlamaqui及び私の父オヌギュスト・ワルラスAuguste Walrasの解答であっお、䟡倀の原因を皀少性に眮く。  䞀五八 スミスはその孊説を囜富論の第䞀線第五章に、次の蚀葉でいい衚わしおいる。 「すべおの物の真の䟡栌、すべおの物がこれを獲ようずする人に真実に費さしめる所のものは、圌がこれを獲るために費さなければならぬ劎働ず苊痛ずである。すべおの物が、これを獲埗した人たたはこれを凊分しようずする人たたはこれをある他の物ず亀換しようずする人に察し倀する所は、この物の所有が圌をしお省くこずを埗させる苊痛ず面倒、たたは他の人に課するこずを埗させる苊痛ず面倒である。人が貚幣たたは商品で賌う物は、私共が私共の額に汗しお埗る所の物ず同じく、劎働によっお埗られる。この貚幣ず商品ずは実にこの苊痛を省くものである。それらは劎働のある䞀定量の䟡倀を含む。これを私共は、等しい量の劎働の䟡倀を含むず考えられる物ず亀換する。劎働は最初の貚幣であり、すべおの物の賌買に支払われる貚幣である。䞖界のいかなる富も、原本的には劎働をもっおしか賌い埗ない。これらを所有する者たたはこれらを新しい生産物ず亀換しようずする人に察しおのこれらの䟡倀は、これらが賌買し、支配せしめるであろう所の劎働量ずたさしく盞等しいのである。」  この理論に察しおは、倚数の論駁があったが、これらは䞀般に適切ではなかった。スミスの理論は、その本質においお、䟡倀があり亀換せられるすべおの物は、劎働が皮々な圢匏をずったものであり、劎働のみが瀟䌚的富のすべおを構成するず䞻匵するものである。そこで人々は、䟡倀があっお亀換せられる物でありながら、劎働によっお成立しおいない物を瀺し、あるいはたた、劎働以倖に瀟䌚的富を構成する物があるこずを瀺しお、スミスのこの理論を拒吊しようずする。だがこの論駁も合理的ではない。劎働のみが瀟䌚的富を構成するかたたは劎働は瀟䌚的富の䞀皮を構成するに過ぎないかは、私共には䜙り関係のない問題である。それらのいずれの堎合にも、䜕故に劎働には䟡倀があり、たた䜕故に劎働は亀換せられるのであるか。ここに私共の関する問題があるのであるが、スミスはこの問題を提出もしなければ、解決もしなかった。ずころで劎働が䟡倀あり、亀換せられるものであるずしたら、それは、劎働が利甚をもちか぀量においお限られおいるからである、すなわち劎働が皀少であるからである第䞀〇䞀節。故に䟡倀は皀少性から来るものであり、皀少なすべおの物は劎働を含むず吊ずにかかわらず、劎働のように䟡倀をもち、亀換せられる。だから䟡倀の原因を劎働であるずする理論は、䜙りに狭隘であるずいうよりは、党く内容の無い理論であり、䞍正確な断定であるずいうよりは、むしろ根拠のない断定である。  䞀五九 次に第二の解答に぀いお芋るに、セむは圌の著䜜の「経枈孊問答」Catéchisme d'économie politiqueの第二章においお、次のように曞いおいる。 「䜕故に䞀぀の物の利甚はこの物に䟡倀を生ぜしめるかずいえば、物がもっおいる利甚は、この物を望たしい物ずならしめ、か぀この物の獲埗のために人々をしお犠牲を払わしめるからである。䜕らの圹にも立たぬ物を獲埗するために、䜕らかの物を䞎えようずする人はない。これに反し、自分が欲望を感ずる物を獲埗するためには、人々は、自分が所有する物のある量䟋えば貚幣の䞀定量を䞎える。䟡倀を生ぜしめるものはこれである。」  これは、確かに䟡倀の原因の蚌明の䞀぀の詊みである。だがこの詊みは成功しおいないずいわねばならぬ。「物の利甚はこの物を望たしいものずならしめる」こずはもちろんである。か぀「この利甚は、人々をしお、この物を所有するためにある犠牲を払わしめる。」しかしこれは䞀様にはいわれ埗ない。利甚は、人々がこの利甚を埗るために犠牲を費さねばならないずきにのみ、人々をしおこれを払わしめるに止たる。「人は、䜕らの圹にも立たないものを埗るためには䜕ものも䞎えようずはしない。」これはもちろんである。「反察に、人は、欲望を感ずる物を埗るためには、自分が所有する物のある量を䞎える。」だがこれは、この物を埗るに䜕物かを亀換に䞎えねばならない堎合に、いわれ埗るこずである。だから利甚は䟡倀を創造するには足りない。䟡倀の創造には、曎に、利甚のある物が無限量に存圚せず、皀少であるこずを必芁ずする。この理論は事実によっおも蚌明せられおいる。呌吞せられる空気、垆船の垆を膚脹せしめる颚、颚車を廻転せしめる颚、䜜物果実を成長せしめ光沢を䞎えおくれる倪陜の光線、氎、熱せられた氎が提䟛しおくれる蒞気、その他倚くの自然力は、利甚があり、たた必芁でもある。けれどもこれらの物は䟡倀をもっおいない。なぜなら、それらが充分に存圚さえすれば、䜕ものも䞎えるこずなく、たた亀換に䜕らの犠牲を払うこずなく、欲するたたに埗られるからである。  コンゞャックずセむずは共にこの批難に遭遇した。そしお二人は各々異る圢でこれらに答えた。コンゞャックは空気、光、氎を非垞に利甚のあるものず芋、これらの物は実際においお䜕らかの費甚を芁するものであるず䞻匵しようず䌁おおいる。ずころでこの費甚ずは䜕か。これを埗るに必芁な努力であるずいう。コンゞャックによれば、呌吞の行動、物を芋るために県を開く行動、川で氎を汲むために屈身する行動等は、これらの財に察しお支払う犠牲である。この幌皚な議論は、我々の想像以䞊にはなはだしばしば䞻匵せられおいる。けれども、もしこれらの行動を経枈的犠牲ず呌ぶずしたら、本来の意味の䟡倀ずいう語に察しおは他の蚀葉を芋出さねばならぬこずは明らかである。私が肉を肉屋に求めるずき、衣服を掋服屋に求めるずき、私はこれらの目的物を埗る努力ず犠牲ずを提䟛する。しかしこのほかに、私は、これずは党く異る犠牲を払っおいる。すなわち貚幣の䞀定量を私のポケットから匕出しお、商人の利益ずなるようにしおいる。  セむは別な圢で答えおいる。空気、倪陜の光線、河川の氎は利甚がある、だからそれらは䟡倀をもっおいるのである。それらは無限の䟡倀をも぀ほど利甚があり、必芁であり、欠くべからざるものである。我々が䜕ものをも䞎えないで、それらの物を埗られるのは、たさにこの理由に基く。私共がこれらの物に察しお䜕物をも支払わないのは、これらの物に察しその䟡栌を支払うこずが出来ないからである。この説明は巧劙ではあるが、䞍幞にしお、空気、光線、氎が代償を支払われる堎合がある。それは、これらの物が䟋倖的に皀少な堎合である。  䞀六〇 私共は、スミスずセむのうちに、さほどの苊心をするこずなく、二぀の特城的な節を芋出すこずが出来た。けれども事実においお、これらの著者は、䟡倀の起源にわずかに觊れたに過ぎないで、共に、私共が指摘したような䞍充分な理論のうちに閉じこもっおいたずいわねばならぬ。先に匕甚した句の埌の方では、セむは利甚孊説に劎働䟡倀説を混えた。だがセむは皀少性孊説に巊袒しおいるようである。スミスは、むしろ幞なこずには、土地を劎働ず同じく富のうちに加えお、矛盟を犯しおいる。ひずりバスチアのみは、むギリス掟の理論を組織化しようずしお、実際的事実に反するような結論をも自ら承認し、たた他の人々をしお承認せしめようずした。  䞀六䞀 最埌に、ブルラマキが「自然法原論」Eléments du droit naturelの第䞉線第十䞀章に述べた皀少性理論があるが、これははなはだ優れたものである。 「物の固有の内圚的䟡栌prix propre et intrinsÚqueの基瀎は、第䞀に、この物が生掻䞊の必芁、䟿利、享楜に圹立぀適性、䞀蚀でいえばこの物の利甚ず皀少性ずである。 「第䞀に、物の利甚ずいうずき、私は、それによっお、珟実の利甚に限らず、宝石の利甚のように勝手気たたな利甚、奜奇心を充す利甚に過ぎない利甚をも意味せしめおいるのである。だから、䜕らの甚途のない物は䜕らの䟡栌を有しないず䞀般にいわれ埗る。 「ずころで利甚がいかに珟実に存圚しおも、利甚のみでは物の䟡栌を生ぜしめるに足りない。その物の皀少性もなければならぬ。すなわちこの物の獲埗の困難、人々が欲するだけの量を容易に埗るこずが出来ない困難さをも考えねばならない。 「なぜなら、人々が䞀぀の物に぀いおも぀欲望はその䟡栌を決定するどころか、人間生掻に最も必芁な物が、氎のように最も廉䟡であるこずは、普通に芋る所であるから。 「だがたた皀少性のみでも、物に䟡栌を生ぜしめるには䞍充分である。物に䟡栌があるには、この物にたず䜕らかの甚途がなければならぬ。 「これらが物の䟡倀の真の基瀎であるから、䟡栌を増加したたは枛少するものもたた、皮々に結合せられたこれらの同じ事情である。 「もしある物の流行が去り、たたは人々がこの物を重んぜぬようになれば、この物は、以前いかに高䟡であっおも、廉䟡ずなる。反察に、費甚がほずんどかかっおいないありふれた物も、皀少ずなれば、盎ちに䟡栌をもち始め、時にはすこぶる高い䟡栌ずなるこずは、䟋えば也燥した土地における氎、包囲䞋のたたは航海䞭のある堎合における氎に芋る劂くである。 「䞀蚀でいえば、物の䟡栌を高からしめるすべおの特殊事情は、この物の皀少性に関係がある。䟋えば補䜜の困難なこず、補品の粟緻なこず、補䜜者が名匠であるこずの劂きがこれである。 「自分が所有するある物に察し、ある特殊な理由により、䟋えばこの物がある人の倧きな危険を避けるずか、たたはそれがある顕著な事実の蚘念物であるずか、あるいはたた名誉の象城であるずかの理由により、この人が、普通に人々が䞎える以䞊の評䟡をなすずき、この䟡栌は奜尚の䟡栌たたは愛著の䟡栌prix d'inclination ou prix d'affectionず呌ばれるのであるが、この䟡栌もたた右の理由ず同じ理由に垰せられ埗る。」  これが皀少性孊説である。ゞェノベ゚ゞ僧正Abbé Genovesiは前䞖玀の䞭頃この孊説をナポリにおいお教え、シニオルN. W. Seniorは䞀八䞉〇幎頃これをオックスフォヌドにおいお教えた。しかしこれを真に経枈孊に導き入れた者は私の父である。父は「富の性質ず䟡倀の原因に぀いお」De la nature de la richesse et de l'origine de la valeur. 1831.ず題した著曞の䞭に、必芁なすべおの展開を加えながら、これを特別な方法で説明しおいる䞀。通垞の論理では、父がこの曞物でなした以䞊のこずを䜕人もなし埗ぬであろう。そしおより深い研究をなすには、私が甚いたように、父も数孊的分析の方法を甚いざるを埗なかったであろう。  䞀六二 だが同じ目的のために、この数孊的分析の方法を甚いたのは私のみではない。ある著者は私より先にこの方法に拠っおいる。たずドむツ人ヘルマン・ハむンリッヒ・ゎッセンは、䞀八五四幎に公にした著曞「人間亀通の法則の展開䞊びにこれにより生ずる人間行為の準則」Entwickelung der Gesetze des menschlichen Verkehrs und der daraus fliessenden Regeln fÃŒr menschliches Handelnにおいお、次にむギリス人ゞェノォンスは、䞀八䞃䞀幎に第䞀版を、䞀八䞃九幎に第二版を公にした「経枈孊の理論」Theory of Political Economyにおいお、この方法に拠っおいる。ゎッセンずゞェノォンスずは共に、か぀埌者は前者の著䜜を知るこずなくしお、利甚たたは欲望の逓枛曲線を䜜った。たたゎッセンは最倧利甚の条件を、ゞェノォンスは亀換方皋匏を、数孊的に導き出した。  ゎッセンは次の蚀葉で最倧利甚の条件を衚明しおいる。――二぀の商品は、亀換埌においお各亀換者が受けた最埌の分子が亀換者の䞀方及び双方に察し同じ䟡倀をも぀ように、二人の亀換者に分配せられなければならぬ前掲曞八五頁。今この衚珟を私共の方匏に飜蚳するため、二商品を、ず呌び、二亀換者を、ず呌ぶ。r=φa,1(q), r=φb,1(q) をそれぞれ亀換者に察する、の利甚曲線の方皋匏ずし、r=φa,2(q), r=φb,2(q) をそれぞれ亀換者に察する、の利甚曲線であるずする。qa を亀換者によっお所有せられるの量ずし、qb を亀換者によっお所有せられるの量ずし da, db をそれぞれ亀換せられる、の量ずする。この条件においお、ゎッセンの衚珟は二぀の方皋匏 φa,1(qa-da)=φa,2(da) φa,2(db)=φb,2(qb-db) によっお飜蚳せられ、これらが亀換者、に察する da, db を決定する。だがかくしお埗られる利甚の最倧は、自由競争を条件ずする最倧でないこずは明らかである。すなわちそれは、すべおの亀換者が共通で同䞀の比䟋で自由に二商品を互に䞎えたたは受ける条件ず盞容れる所の最倧ではないこずはいうたでもない。それは、垂堎においお䟡栌は垞に䞀぀であるずの条件、及びこの䟡栌においお有効需芁ず有効䟛絊ずの均衡があるずの条件を考量しない絶察的最倧であり、埓っお所有暩の存圚を考えない絶察的最倧である二。  䞀六䞉 ゞェノォンスは次のように亀換方皋匏を立おおいる。――二商品の亀換比率は、亀換埌においお消費せられるこれら商品の量の最終利甚の反比に等しい前掲曞第二版䞀〇䞉頁参照。そしお二商品を、ずし、二人の亀換者を、ずし、φ1, ψ1 でそれぞれ亀換者に察する及びの利甚凜数を瀺し、φ2, ψ2 でそれぞれ亀換者に察する及びの利甚凜数を衚わし、a を亀換者が所有するの量ずし、b を亀換者が所有するの量ずし、x, y それぞれ亀換せられる、の量ずすれば、ゞェノォンスは自ら右の呜題を飜蚳しお次の二぀の方皋匏ずしおいる。 これを私の蚘号で衚せば、 ずなり、これにより da ず db ずを決定し埗る。この匏は私の匏ず二぀の点においお異る。第䞀に、䟡栌は商品の亀換せられた量の反比であるが、この抂念の代りにゞェノォンスは、亀換量の正比でありか぀垞に da, db の二項によっお䞎えられる亀換比raison d'échangeずいう抂念を甚いおいる。第二に、ゞェノォンスは二人の亀換者の堎合をもっおすべお問題は解けるず考えおいる。氏は、これらの亀換者の各々取匕䞻䜓を、個々人の集団、䟋えば倧陞の党䜏民、䞎えられた囜における同じ皮類の産業に埓事する者の集団ず考える暩利を保留しおいる九五頁参照。しかし氏は、このような仮定は珟実を離れお、仮蚭的な平均を考えたものであるこずを、自ら認めおいる九䞃頁。私は珟実に即しようずするが故に、ゞェノォンスの方匏は、ただ二人の人のみが珟われる限られた堎合に劥圓であるずしか、考えない。この堎合には、ゞェノォンスの方匏は、亀換量を䟡栌ずいう抂念に代えれば、私の方匏ず等しくなる。だから、任意数の人がいお、たず互に二商品を、次に任意数の商品を亀換しようずする䞀般的な堎合を導き入れるべき仕事が未だ残されおいた。これは、ゞェノォンスが䟡栌を問題の未知数ずしないで、亀換せられる量を未知数ずするような䞍適切な思想をもっおいたこずによるのである。  䞀六四 ゞェノォンスが初めお「経枈孊の理論」を公にした頃䞀八䞃䞀――䞀八䞃二幎、りィン倧孊教授カヌル・メンガヌは「囜民経枈孊原理」GrundsÀtze der Volkswirtshaftslehreを公にした。これは、亀換の新理論の基瀎が、他ず独立にか぀独創的な圢で説かれた第䞉の著䜜であっお、私の著䜜に先行しおいる。メンガヌも、私共のように、亀換理論を匕き出す目的をもっお、消費量の増加ず共に欲望は逓枛するずの法則を立おお、利甚理論を説いおいる。氏は挔繹的方法を甚いたが、数孊的方法を甚いるこずに反察しおいる。しかし、氏は、利甚や需芁を衚わすのに、凜数や曲線を甚いおはいないが、少くずも算術的衚を甚いおいる。この事情により、ゎッセンずゞェノォンスを数行のうちに批評したように、メンガヌの理論をも簡単に批評し尜すこずは出来ない。私はただ、氏ずりィヌザヌやベェヌムバりェルクのように氏に远埓した著䜜者達ずが、ただ本質䞊数孊的な問題に数孊的方法ず甚語を率盎に甚いるこずを拒吊したのは、貎重にしおか぀欠くべからざる手段を抛棄したものであるずいいたい。しかしここで附蚀しおおくが、これらの著者達は、䞍完党な方法ず甚語ずを甚いたずはいえ、亀換問題の深い研究を遂げた。少くずも確かに、皀少性の理論すなわち圌らのいわゆる限界利甚の理論に経枈孊者の泚意を匷く促すのに成功しおいる。今やこの理論は経枈孊の䞭に珟われお、最も光茝ある未来を予想せられおいる。私は、この理論から、䟡倀尺床財で衚わした商品の䟡栌決定の抜象的理論を導き出した。私は、䞀生産物の䟡栌ず土地収入、人的収入、動産収入の同時的決定の理論、二玔収入率の決定の理論、土地資本、人的資本、動産資本の䟡栌決定の理論、䞉貚幣で衚わした䟡栌決定の理論を導き出そうず思う。これらの理論はいずれも抜象的ではあるが、互に関連しおいるから、組織的な綜合をすれば、珟実の説明ずなり埗るであろう䞉。 蚻䞀 特に第䞉章四䞀頁、第十六章二䞉四頁、第十八章二䞃九頁参照。 蚻二 Etudes d'économie sociale. Théorie de la propriété, §4 参照。 蚻䞉 すべおの誀解を避けるため、私は繰り返しおいっおおかねばならぬが、この章の最埌の䞉節は、この曞物の第二版においお附け加えられたのである。䞀八䞃四幎の第䞀版で、この曞物より先に著わされた右に挙げた䞉著䜜を匕甚しなかったのは、私がこれらの存圚を党然知らなかったからである。   第四線 生産の理論     第十䞃章 資本ず収入に぀いお。䞉぀の生産的甚圹に぀いお 芁目 䞀六五 生産物ずしおの商品。既に䟛絊ず需芁の法則を埗たが、次に生産費たたは原䟡の法則を求める。䞀六六 土地。劎働及び資本。䞍完党な衚珟。䞀六䞃 資本。䞀回より倚く䜿甚せられる瀟䌚的富の皮類。収入。䞀回しか䜿甚せられない瀟䌚的富の皮類。性質によるたたは甚途による資本及び収入。䞀六八 物質的たたは非物質的な資本及び収入。䞀六九 資本の継続的な甚圹は収入である。消費的甚圹。生産的甚圹。䞀䞃〇 土地ず地甚、すなわち土地資本ず土地甚圹。䞀䞃䞀 人ず劎働、すなわち人的資本ず人的甚圹。䞀䞃二 狭矩の資本ず利殖、すなわち動産資本ず動産甚圹。䞀䞃䞉 収入。䞀䞃四 土地。ほずんど䞀定量に存圚する資本。䞀䞃五 人、消費ず産業的生産の倖においお消滅したり、再珟したりする資本。䞀䞃六 狭矩の資本、生産せられる資本。䞀䞃䞃 既に生産物の䟡栌を埗おおるので、生産甚圹の䟡栌を求める。  䞀六五 珟象がいかに耇雑であろうずも簡単から耇雑に進むべしずいう準則を守るならば、それを科孊的に研究する方法が垞に存圚する。私は先に、二商品盞互の間に行われる亀換、䟡倀尺床財を甚いないで倚数の商品の間に行われる亀換、䟡倀尺床財を仲介ずしお倚数の商品の間に行われる亀換を順次に研究し、亀換の数孊的理論を明らかにした。それをするに圓り、私は、商品が土地、人、資本等の生産芁玠の結合から生ずる生産物であるずいう事情を看過しおおいた。今はこの事情を加え、生産物の䟡栌の数孊的決定の問題の埌を承けお、生産財の䟡栌の数孊的決定の問題を提出すべき時ずなった。亀換の問題を解いお、私共は、需芁䟛絊の法則の科孊的方匏を埗たのである。生産の問題を解いお、生産費の法則loi des frais de production たたは loi du prix de revientの科孊的方匏を埗るであろう。かくしお私共は、経枈孊の二倧法則を発芋したこずずなる。ただこれらの二぀の法則を䟡栌決定の点から互に競合せしめ矛盟せしめるこずなく、生産物の䟡栌決定を第䞀の法則を基瀎ずしお説明し、たた生産財の䟡栌の決定を第二の法則を基瀎ずしお説明するこずにより、私は、これら二぀の法則にそれぞれの地䜍を䞎えようず思う。倚くの経枈孊者が信じたように、たた今でも人々が信ずるこずを躊躇しないであろうように、たた私自身も完党にはこの考えから脱华しおいないように、正垞的理想的状態においおは、商品の䟡栌は、その生産費に等しい。この状態すなわち亀換ず生産の均衡状態においお、五フランに売られる䞀本の葡萄酒は、この生産のために、二フランの地代、二フランの賃銀、䞀フランの利子を芁する。問題は、二フランの地代、二フランの賃銀、䞀フランの利子を支払ったから、葡萄酒䞀本が五フランに売られるものであるか、たたは葡萄酒䞀本が五フランに売られるから、二フランの地代、二フランの賃銀、䞀フランの利子を支払うのであるかずいうこずにある。䞀蚀でいえば、問題は䞀般にいわれるように、生産物の䟡栌を定めるものは、生産財の䟡栌であるか、たたは生産費の法則によっお生産財の䟡栌を決定するものは、既に述べたような需芁䟛絊の法則によっお決定せられる生産物の䟡栌ではないかずいうこずにある。今、研究しようずする問題は、この問題である。  䞀六六 生産の芁玠の数は䞉぀である。これらを列挙するずき、孊者はこれらのそれぞれを、土地、劎働、資本ず呌ぶのが最も普通である。だがこれらの衚珟は充分に厳密なものではなく、合理的挔繹の基瀎ずするこずが出来ない。劎働travailは人の胜力の甚圹すなわち人的甚圹である。故に劎働ず䞊べお土地、資本を眮くべきではなくしお、地甚renteすなわち土地の甚圹ず、利殖profitすなわち資本の甚圹ずを眮かねばならぬ。私はこれらの語を厳密な意味に甚いようず欲するから、これらを泚意しお定矩せねばならぬ。この目的から、私はたず、資本及び収入に぀いお、普通に䞎えられるよりは遥かに狭い定矩を䞎え、以䞋それを甚いたいず思う。  䞀六䞃 私の父が「富の理論」Théorie de la richesse. 1849においおなしたように、すべおの耐久財、すべおの皮類の消費し尜されるこずの無い瀟䌚的富たたは長い間にしか消費し尜されない瀟䌚的富、人が第䞀回の䜿甚をなしおもなお残存する所のすべおの量においお限られた利甚、換蚀すれば䞀回以䞊圹立぀すべおの量においお限られた、䟋えば家屋、家具のようなものを、私は、固定資本capital fixeたたは資本䞀般capital en généralず呌ぶ。そしおすべおの消耗財すなわち盎ちに消費せられるすべおの瀟䌚的富、䞀床甚圹を尜せば消滅する皀少なすべおの物、換蚀すれば䞀回しか圹立たない財、䟋えばパン・肉のようなものを、流動資本capital circulantたたは収入revenuず呌ぶ。これらの収入の䞭に含たれるものは、私的消費財のほか、蟲業及び工業によっお甚いられる原料品、䟋えば皮子、織物原料等である。ここでいう富の持続ずは、物理的持続ではなくしお、経枈的持続すなわち利甚の持続である。織物の原料にあたる繊維は、物理的には織物のうちに持続しおいる。しかしそれらは原料ずしおは消滅しお、再び同じ甚途に甚いられない。反察に建物、機械のようなものは資本であっお、収入ではない。なお附け加えおおくが、ある皮の瀟䌚的富は圓然資本であり、他の瀟䌚的富は収入であるずしおも、たたその甚途により、たたは人々がそれに芁求する甚圹の皮類により、あるいは資本ずなり、あるいは収入ずなる倚数の富がある。䟋えば果暹などがそれであっお、果実が採取せられるずき、それらは資本であり、薪を䜜るためたたは加工するために䌐採せられれば、収入である。たた家畜などが、それであっお、䜿圹せられるずきたたは卵、牛乳を採取せられるずき、資本であり、食甚に䟛するため屠殺せられるずき、収入ずなる。ずころですべおの皮類の瀟䌚的富は、その性質により、その甚途により、䞀回以䞊甚いられるか、たたはただ䞀回しか甚いられないかであり、埓っお資本であるか、あるいは収入であるかである。  人々が資本を消費するずいう堎合には、これらの人々がたずその資本を収入ず亀換し、しかる埌この収入を消費するこずを意味する。同様に収入を資本化するには、これらを資本ず亀換せねばならない。  資本は貯蔵approvisionnementず混同しおはならない。貯蔵は消費の目的にあらかじめ甚意せられた収入の合蚈に過ぎない。穎倉に貯えられた葡萄酒、倉庫に貯えられた薪炭、織物の原料の劂きは貯蔵である。鉱山・石山の鉱物・石材もたた収入の合蚈であっお、資本ではない。  䞀六八 私は、皀少である、すなわち利甚があっおか぀量においお限られた有圢たたは無圢の物の総䜓を瀟䌚的富ず名づけたのであるから第二十䞀節、この瀟䌚的富を二぀に分類した資本ず収入も、あるいは有圢であり、あるいは無圢のものである。物の有圢無圢は、資本ず収入の堎合にも、重芁性をもたない。埌に資本が䜕故に収入を生ずるかを述べるであろうが、そのずきたた、有圢の資本も無圢の収入を生むこずが出来、たた無圢の資本が有圢の収入を生むこずが出来るのを芋るであろう。今からこの事実を述べおおくのは、資本ず収入ずの区別を明らかにしようず思うからである。  䞀六九 資本の本質は収入を生ぜしめるこずにある。収入の本質は、資本から盎接たたは間接に発生するこずにある。なぜなら資本は、定矩により、人々が第䞀回の䜿甚をなしおもなお残存するものであっお、埓っお匕続いお䜿甚せられ埗るものであるが、これらの䜿甚の継続は明らかに収入の連続であるからである。土地は幎々収穫を発生せしめる。家屋は春倏秋冬䞍順な気候を防いでくれる。土地のこの豊床、家屋のこの掩護は、これら土地及び家屋の幎々の収入を圢成する。劎働者は日々工堎に劎働し、匁護士・医垫は日々その蚺療に埓事する。この劎働、この蚺療は、これら劎働者の日々の収入である。同様に、機械・道具・家具・衣服の収入もある。倚くの孊者は、資本ず収入ずをかく区別しお考え埗なかったために、䞍明瞭ず混同に陥っおいる。  資本ず収入ずの区別を明らかにするため、資本の䜿甚によっお成立する収入に、甚圹servicesの名を䞎えよう。この甚圹のうちには、公私の消費によっお消費せられるものがある。家屋がなしおくれる掩護、匁護士の盞談、医垫の蚺察、家具衣服の䜿甚などがそれである。これらを消費的甚圹services consommableず呌ぶ。このほかに蟲業・工業・商業によっお、収入たたは資本すなわち生産物に倉化せられる甚圹がある。䟋えば土地の沃床、劎働者の劎働、機械道具等の䜿甚などがこれである。それらは生産的甚圹services producteursず呌ばれる。埌に私は流通の理論においお、収入の貯蔵は独特の䜿甚的甚圹service d'usageを䞎えるのであるが、同時にたた、消費的たたは生産的な貯蔵の甚圹service d'approvisionnementを䞎え埗るこずを蚌明するであろう。消費的甚圹ず生産的甚圹ずのこの区別は、倚くの孊者が䞍生産的消費ず生産的消費ずの間になす区別に等しい。ここで研究しようずするのは、特に、生産的甚圹の生産物ぞの倉圢である。  䞀䞃〇 資本ず収入ずの右の定矩に拠りながら、私共は、瀟䌚的富の党䜓を四぀の䞻な範疇――その䞭の䞉぀は資本であり、他の䞀぀は収入である――に分぀こずが出来る。第䞀の範疇には土地を属せしめる。公私の庭園・公園ずせられた土地、人畜の食料ずなる果実・蔬菜・穀物・牧草等を成長せしめ、朚材を成長せしめるすべおの土地、䜏宅・公共の建築物・鉱山の建蚭物・工堎・店舗等が建蚭せられる土地、道路・街路・運河・鉄路ずしお甚いられる土地などは、この範疇に属する。冬季䞭䌑止状態にある庭園も、公園も、倏にはたた緑色ずなっお、再び花が開く。今幎生産物を出す土地は、たた翌幎生産物を出す。今幎家屋や工堎を支えおいる土地は、翌幎もたたこれを支えおいるであろう。昚幎歩んだ道路、街路を、私共は明幎も歩むであろう。第䞀回の䜿甚をしおも存続し、その䜿甚の連続は収入を構成する。散策眺望から受ける愉快は、公園、庭園から埗られる収入である。生産力は生産甚の土地の収入である。建築物に䞎えられた䜍眮は建築甚地の収入である。亀通の䟿益は街路道路の収入である。故に第䞀範疇に属する資本ずしお土地資本capitaux fonciersたたは土地terresがある。その収入は土地収入revenus fonciersたたは土地甚圹services fonciersず呌ばれ、たた地甚rentesずも呌ばれる。  䞀䞃䞀 第二の範疇には人を属せしめる。旅行や享楜のほか䜕ものもしない人、他の人々のために甚圹をなす人、銭者、料理人、䞋男䞋女、囜家の甚圹をなす官吏、䟋えば行政官・裁刀官・軍人など、蟲業・工業・商業に埓事する劎働者、匁護士、医垫、芞術家、自由職業に埓事する者などは、皆この範疇に属し、資本である。今日遊楜に耜る閑人は、明日も遊楜に耜るであろう。䞀日の業をおえた鍛冶屋は、なお幟日もその仕事を続けるであろう。匁護をおえた匁護士は幟床か匁護を繰り返すであろう。かようにしお人々は、最初の甚圹をなした埌もなお持続するものであり、圌らがなす䞀連の甚圹は圌らの収入を構成する。閑人がなした享楜、職人がなした仕事、匁護士がなした匁護は、これらの人々の収入である。故に第二皮類の資本ずしお、人的資本capitaux personnelsたたは人personnesがある。この人的資本が生ずる収入は、人的収入revenus personnelsたたは人的甚圹services personnelsず呌ばれ、たた劎働travauxずも呌ばれる。  䞀䞃二 第䞉の範疇には、土地たたは人でなくしお資本である他のすべおの富を属せしめる。郜鄙到る所の䜏宅、公共の建築物、生産蚭備、工堎、倉庫、あらゆる皮類の建蚭物いうたでもなく、それを支える土地を含たせない、あらゆる皮類の暹朚草本、家畜、家具、衣服、曞画、圫刻、諞車、宝石、機械、道具等がこれである。これらの物は収入ではなくしお、収入を生ずる資本である。私共を居䜏せしむる家屋はなお氞く私共を居䜏せしめるであろう。私の曞画、宝石は垞に私の手䞭にある。今日近隣の郜垂から旅客貚物を運送した機関車、客車、貚車は、明日もたた同じ線路䞊に旅客ず貚物ずを運送するであろう。ずころで家屋が提䟛する居䜏、曞画宝石から埗られる装食、列車によっおなされる運送は、これら資本の収入である。故に第䞉皮の資本ずしお動産資本capitaux mobiliersたたは狭矩の資本があり、それらの資本が䞎える収入は動産収入revenus mobiliersたたは動産甚圹services mobiliersず称せられ、たた利殖profitsずも呌ばれる。  䞀䞃䞉 䞀切の資本はこれら䞉぀の範疇によっお尜されおいるから、瀟䌚的富の第四の範疇に属するものずしおは、収入しかない。小麊、麊粉、パン、肉類、葡萄酒、ビヌル、野菜、果実、消費者の甚に䟛する加熱甚・灯甚の燃料等の消費目的物、再び肥料、皮子、原料ずなる金属、朚材、加工せられる繊維、垃、生産の甚に䟛せられる加熱甚・灯甚の燃料、その他生産物ずなっお珟われるために原料ずしおは消倱すべきすべおの物すなわち原料品がこれである。  䞀䞃四 かくお明らかなように、土地、人、狭矩の資本は資本である。土地の甚圹すなわち地甚、人の甚圹すなわち劎働、狭矩の資本の甚圹すなわち利殖は収入である。故に正確で粟密であるためには、生産芁玠ずしお、䞉皮の資本ず䞉皮の甚圹、すなわち土地資本、人的資本、動産資本ず、土地甚圹、人的甚圹、動産甚圹、曎に換蚀すれば土地ず地甚、人ず劎働、資本ず利殖を認めなければならぬ。かように修正すれば、通垞の甚語は、事物の性質に基瀎を有するものずしお、蚱容するこずが出来る。  土地は自然的資本であっお、人為的資本でもなく、たた生産せられた資本でもない。たた土地は消費し尜されない資本であっお、䜿甚により事倉により消滅しないものである。だが岩石の䞊に土を運び、たたは排氎灌挑等により人為的に生産せられた土地資本がある。たた地震により河氎の氟濫により滅倱する土地資本もある。しかしこれらは少数であっお、埓っお少数の䟋倖を陀けば、土地資本は消費し尜すこずも出来ねば、生産するこずも出来ない資本であるず考えおよい。これら二぀の事情は各々その重芁性をも぀ものではあるが、しかしこれらの二぀の事情の同時的な存圚が、土地資本にその特有な性質を䞎えるのである。すなわちこれによっお、土地の量は厳密に䞀定䞍倉ではないにしおも、少くずも倉化の少いものずなり、埓っお土地のこの量は原始的瀟䌚においおは、すこぶる豊富であり、進歩した瀟䌚においおは、人及び狭矩の資本の量に比范しおはなはだ限られたものずなる。その結果、事実においお芋るように、土地は、原始瀟䌚においおは、皀少性も䟡倀もれロであり、進歩した瀟䌚においおは、高い皀少性ず䟡倀ずをも぀ものである。  䞀䞃五 人もたた自然的資本である。しかし消費され埗る資本すなわち䜿甚により砎壊せられ、事故により消滅せられ埗る資本である。そしお人は消滅するが、たた生殖によっお再び珟われおくる。その量もたた䞀定䞍倉ではなくしお、ある条件の䞋に際限なく増加し埗るものである。これに぀いお、䞀぀の解説を加えおおかねばならぬ。すなわち、人が自然的資本であり、生殖によっお再び珟われるずいっおも、䞀般に認められ぀぀ある瀟䌚道埳䞊の原理すなわち人は物ずしお売買せられるべきものではなく、たた家畜のように、蟲堎においお増殖し埗られるものでもないずいう原理を斟酌せねばならぬ。この理由によっお人々は、これを䟡栌の決定理論の䞭に入れるこずは無益であるず考えるであろう。けれども、たず、人的資本が亀換せられるものでないにしおも、人的甚圹すなわち劎働は、日々垂堎においお需芁し䟛絊せられるし、次に人的資本それ自身も評䟡せられるこずがしばしばある。その䞊、玔粋経枈孊は、正矩の芳点も利害の芳点も党く捚象し、人的資本をも土地資本・動産資本ず同様に、もっぱら亀換䟡倀の芳点から考察するのである。故に、私は、奎隷制床の是非の問題ずは無関係に、劎働の䟡栌ずいい、人の䟡栌ずさえいうであろう。  䞀䞃六 狭矩の資本は人為的資本すなわち生産せられた資本であっお、か぀消滅する資本である。おそらく、土地及び人のほかにも、自然的富で同時に資本であるものも、倚少はあるであろう。ある皮の暹朚、ある皮の家畜などがそれである。だが土地のほかには、消滅しない資本はほずんど無い。だから狭矩の資本は、人のように、砎壊せられ、消滅する。しかもそれらは、人のように自然的再生産によっおではないが、経枈的生産の結果ずしお珟われおくる。その量は人の量ず同じく、䞀定の条件においお無限に増加せられる。この資本に぀いおも、私は䞀぀の解説を加えおおかねばならぬ。すなわち資本は垞に産業特に蟲業においお、土地ず結合しおいるずいうこずが、それである。しかし私共が土地ずいう堎合には、䜏居、たたは生産甚の建造物、囲障、灌挑排氎の蚭備、䞀蚀にいえば、狭矩の資本から切り離しおいうのであるこずを忘れおはならない。たた肥料、皮子、収穫前の䜜物等、土地に䌎うすべおの収入から切り離しおいるのはいうたでもない。そしお、私共が地甚ず呌ぶのは、かく考えられた土地の甚圹をいうのであり、利殖ずいう名を䞎えられるのは、土地が結合した狭矩の資本の甚圹のみである。  以䞊述べおきたような諞性質は、土地、人、狭矩の資本の区別を説明し、か぀この区別の正圓なこずを蚌明する所の重芁なものである。しかしこの重芁性は、瀟䌚経枈孊においお、特に著しく珟われるのであっお、玔粋経枈孊においおは、次線に説明する資本化及び経枈的発展に関し、珟れるのみである。生産線においお予想するのは、土地資本、人的資本、動産資本が資本であり、収入ではないずいうこずだけである。  䞀䞃䞃 これだけを前提ずしお、亀換におけるず同時に、生産においおも、自由競争の制床の経枈瀟䌚においお、䜕故にか぀いかにしお土地の甚圹すなわち地甚に察し、人的胜力の甚圹すなわち劎働に察し、たた狭矩の資本の甚圹すなわち利殖に察し、数孊的量である所の垂堎䟡栌が成立するかを研究する。他の適圓な蚀葉でいえば、地代、賃銀、利子を根ずする連立方皋匏を求めねばならぬのである。     第十八章 生産の芁玠ず生産の機構 芁目 䞀䞃八  消費的甚圹に察する土地資本、人的資本及び動産資本。 生産的甚圹に察する土地資本、人的資本及び動産資本。 新動産資本。 消費目的物。 原料。10 新収入。111213 流通貚幣及び貯蔵貚幣。䞀䞃九 消費目的物。原料及び貚幣に぀いお新動産資本、新収入、貯蔵の捚象。䞀八〇、䞀八䞀、䞀八二 生産資本による収入及び動産資本の生産。䞀八䞉 資本のみが実物による貞䞎が可胜である。資本の貞䞎は甚圹の販売である。䞀八四 地䞻、劎働者、資本家、䌁業者。䞀八五 甚圹垂堎、地代、賃銀、利子。䞀八六 生産物垂堎。䞀八䞃 この盞異なる二぀の垂堎は互いに連絡しおいる。䞀八八 生産の均衡はこの二垂堎における亀換の均衡ず、生産物の売䟡ず原䟡の均等を想定し、䌁業者は利益も損倱も生じない。  䞀䞃八 生産物の䟡栌の数孊的決定の問題を研究したずき、亀換における自由競争の機構を正確に定矩しなければならなかったが、それず同じく、生産甚圹の䟡栌の数孊的決定の問題を研究するに圓っおも、生産における自由競争の機構の正確な抂念を埗るために、事実ず経隓ずに問わねばならない。ずころでもし、この分析のために、䞎えられた囜においお、経枈的生産の機胜が䞀時停止したず想像すれば、既に列挙した消費的甚圹ず生産的甚圹ずの区別第䞀六九節ず、資本ず収入第䞀䞃〇――䞀䞃䞉節ずを結合しお、この機胜の芁玠を次の十䞉項目に分類するこずが出来る。  資本ずしおは、  、、 消費的甚圹すなわち資本の所有者自らにより盎接に消費せられる収入、たたはこれら収入の所埗者により、たたは個々の人々により、あるいはたた公共団䜓・囜家によっお盎接に消費せられる収入を生産する土地資本、人的資本、動産資本。䟋えば土地資本は、公園、庭園、䜏居・公共の建築物を支える土地、街路、道路、広堎等。人的資本は、䟋えば閑人、僕婢、官吏など。動産資本ずしおは、䜏居、公共の建築物、嚯楜甚の暹朚草本、動物、家具衣服、芞術品等。  、、 生産的甚圹すなわち蟲業工業商業によっお生産物に倉化せられるべき収入を生産する土地資本、人的資本、動産資本。土地資本ずしお、䟋えば耕䜜地、及び生産甚の建蚭物や工堎や现工堎や倉庫等を支える地面など。人的資本ずしお、賃銀劎働者、自由職業に埓事する者等。動産資本ずしお、生産甚の建蚭物、工堎、倉庫、収入を生ずる暹朚、䜜業甚の動物、機械、道具等。   䞀時の間収入を生ぜず、生産物ずしお生産者によっお売られる新動産資本。䟋えば、新に建蚭せられお売られるべき家屋その他の建築物、店舗に陳列せられる動物怍物、家具衣服、芞術品、機械、道具等。  収入ずしおは、   消費者の手䞭にある消費目的物から成る収入の貯蔵。䟋えば、パン、肉、葡萄酒、野菜、油、薪炭等。   生産者の手䞭にある原料品から成る収入の貯蔵。䟋えば、肥料、皮子、金属、加工甚の材朚、加工甚の繊維、垃、工業甚の燃料等。  10 生産物ずなっお、生産者の手によっお売られる消費目的物及び原料から成る新収入。䟋えば、パン屋・肉屋にあるパン・肉、店舗に陳列せられる金属、加工甚朚材、繊維、垃等。  最埌に貚幣ずしお、  11、12、13 消費者の手䞭にある流通貚幣、生産者の手䞭にある流通貚幣、及び貯蔵せられる貚幣。  容易に知られるように、最初の六項目は、䞉皮の資本に、消費的甚圹を生産する資本ず、生産的甚圹を生産する資本ずの区別を導き入れるこずによっお埗られ、第䞃項目は、収入を生産しない狭矩の資本を独立せしめるこずによっお埗られる。ここに資本ず収入のほかに貚幣を独立せしめるのは、貚幣が、生産においお、混合した職胜を尜すからである。瀟䌚的芳点から芋るず、貚幣は䞀回以䞊支払いに圹立぀故に、資本である。個人の芳点からは、貚幣は収入である。なぜなら、それは、人が支払のために甚いれば倱われお、ただ䞀回しか圹立たないから。  䞀䞃九 右に、私は、経枈的生産の機胜が䞀時停止しおいるず仮定した。今この機胜が働き始めたず考えおみる。  最初の六項目に分類せられたものの䞭で、土地は砎壊し消滅せられるこずがない。人は、蟲業・工業・商業の生産ずは独立に――ただしこの経枈的生産ず䜕らの関係が無いわけではないがこの理由は埌に述べるであろう――人口の運動によっお、死滅し発生するであろう。たた䜿甚により砎壊せられ、事故により消滅する狭矩の資本は、消耗し消倱するが、第䞃項目の䞋に分類せられた新資本によっお補充せられる。かくお狭矩の資本の量は、この事実によっお枛少するが、生産によっお回埩せられる。問題を簡単にするため、今はしばらく、新動産資本は生産せられるず同時に第䞉及び第六項目に入るものず仮定しお、第䞃項目を捚象するこずが出来よう。  第八、九項目の䞋に分類せられた消費の目的物及び原料は、盎ちに消費せられるべき収入であっお消費せられるけれども、第十項目の䞋に分類せられる収入によっお代えられるものである。かくおこれらの量は、この事実によっお枛少するけれども、生産によっお回埩せられる。ここでもたた、新収入は、生産せられるず同時に、第八、九項目の䞋に入るものず仮定しお、第十項目を捚象するこずが出来よう。曎に消費目的物及び原料は、生産せられるず同時に盎ちに消費せられる貯蔵をしないずすればものず仮定しお、第八及び第九項目を捚象するこずが出来よう。  貚幣は亀換に参加するものである。流通貚幣の䞀郚が、貯蓄ずなっお吞収せられるずき、この貯蔵貚幣の䞀郚は、信甚によっお、流通界に出おくる。もし貯蓄ずいう事実を捚象すれば、貯蓄の貚幣を捚象するこずが出来る。なおたた流通貚幣をも捚象し埗るであろうこずは、埌に述べる。  䞀八〇 芁するに消費的甚圹は、第䞀、二、䞉項目の䞋に分類せられる土地資本、人的資本、動産資本によっお再生産せられるず盎ちに消費せられ、消費的収入は、第四、五、六項目の䞋に分類せられる土地資本、人的資本、動産資本によっお再生産せられるず、盎ちに消費せられる。収入は、定矩により、その最初の甚圹を尜せばもはや存圚しない。人々が収入に察しおこの甚圹を芁求すれば、収入は消滅する。専門語でいえば、それらは消費consommerせられる。パン、肉は食われ、葡萄酒は飲たれ、油、薪炭は燃焌せられ、肥料、皮子は土地に投䞋せられ、金属、朚材、繊維、垃は加工せられ、燃料は䜿甚せられる。しかしこれらの収入は、資本の䜜甚の結果ずしお再生産せられるのであっお、党く消滅するのではない。資本は、定矩により、人々が第䞀回の䜿甚をしおもなお存圚を続けるものである。人々がこれらの継続的䜿甚をすれば、それに圹立぀こずを続ける。専門語でいえば、資本は生産produireする。耕䜜地は耕䜜せられ、ある土地は生産蚭備を支え、劎働者はこの蚭備の䞭に劎働し、機械道具等を䜿甚する。芁するに、土地資本、人的資本、動産資本は、それぞれ地甚、劎働、利殖を提䟛し、蟲業・工業・商業はこれらの地甚、劎働、利殖を結合せしめお、消費せられた収入に代替すべき、新しい収入を埗るのである。  䞀八䞀 だがこれだけでは足りない。盎ちに消費せられる消費目的物及び原料のほかに、長い間に消費せられる狭矩の資本がある。家屋その他の建築物は毀損し、衣服、芞術品は消耗する。これらの資本は、䜿甚により、あるいは速かにあるいは埐々に砎壊せられる。たた事故により偶然に消滅こずもあり埗る。故に土地資本、人的資本、動産資本は新しい収入を生産するだけでは足りない。消耗せられる動産資本及び事故により消倱する動産資本の代りに、新動産資本を生産せねばならない。出来埗れば、珟圚の動産資本より倚い新動産資本を生産せねばならぬ。そしおこの芳点から、私共は、経枈的進歩の特色を今既に指摘しおおくこずが出来る。実際、ある時間の終りに、先になしたず同じく、再び経枈的生産の働きを停止したず考え、か぀このずき、動産資本が以前より倧であるならば、それは経枈的発展の象城である。かくお経枈的発展の特色の䞀぀は、動産資本の量の増加にある。次線ではもっぱら新資本の生産の研究をなすであろうから、私はこれを埌の研究に譲り、今は新収入すなわち消費の目的物及び原料の生産の問題の研究をなすであろう。  䞀八二 生産資本によっおの消費的収入及び動産資本の生産は、互に結合しお生産の働きをなす資本の䜜甚によっお行われる。土地資本が䞻に働く蟲業においおも、生産物は単に地甚を反映するのみならず、劎働及び利殖をも反映しおいる。たた反察に、資本の働きが支配的な工業においおも、劎働及び利殖ず共に、地甚が生産物の構成の䞭に入っおくるのである。おそらくはいかなる䟋倖もなく、生産のためには、劎働者を支えるべき土地ず、人的胜力ず、資本である道具がなければならぬ。故に土地ず人ず資本ずの結合協力は経枈的生産の本質である。先に生産芁玠の分類に圹立った資本ず収入ずの区別が第䞀䞃八節、たた生産の機構を瀺すに圹立぀であろう。  䞀八䞉 収入は、第䞀回の甚圹を尜した埌には存圚しないずいう性質があるこずによっお、売買せられるかたたは莈䞎せられるこずしか出来ない。それらは賃貞せられ埗るものではない。少くずも自然の圢においおは、いかにしおパンや肉を賃貞するこずが出来よう。しかるに資本は䞀回の䜿甚をなしおもなお残存するずいう性質があるこずによっお、有償たたは無償で、賃貞するこずが出来る。人々は䟋えば家屋什噚を賃貞するこずが出来る。そしおこの行為の存圚の意矩は䜕であろうか。それは、賃借人に甚圹の享受を埗せしめるこずである。資本の賃貞ずは資本の甚圹を譲枡するこずである。この定矩は党く資本ず収入ずの区別に基く基本的な定矩であっお、これなくしおは生産理論ず信甚理論ずは成立しない。資本の有償的賃貞は甚圹の売買であり、その無償的賃貞は甚圹の莈䞎である。この有償的賃貞によっお第四、五、六項目の䞋に分類せられた土地資本・人的資本・動産資本は生産のために結合せられる。  䞀八四 土地の所有者を地䞻propriétaire foncierず呌び、人的胜力の所有者を劎働者travailleurず呌び、狭矩の資本の所有者を資本家capitalisteず呌ぶ。そしお今、右の所有者ずは党く異り、地䞻から土地を、劎働者から人的胜力を、資本家から資本を借入れ、これら䞉぀の生産的甚圹を蟲業・工業たたは商業によっお結合するこずを職分ずする第四の人を䌁業者entrepreneurず呌ぶ。もちろん実際においおは、同じ人が右に定矩した二぀たたは䞉぀の職胜を兌ねるこずが出来る。吊四぀党郚さえも兌ねるこずが出来る。そしおこの結合が異るに埓っお、皮々の䌁業の圢態が生ずるのである。だがそれらの堎合にも、圌は異る二぀、䞉぀たたは四぀の職胜を果すのであるこずは明らかである。科孊的芳点からは、我々は、これらの職胜を区別し、それによっお䌁業者ず資本家ずを同䞀芖したむギリスの経枈孊者の誀や、䌁業者を䌁業の指揮の劎働をなす者ず考えたフランスの孊者らの誀を避けねばならない。  䞀八五 䌁業者の職分がこのように考えられた結果ずしお、二぀の異る垂堎を考えねばならない。その䞀は甚圹の垂堎である。そこでは、地䞻、劎働者、及び資本家が売手ずしお、䌁業者が生産的甚圹すなわち地甚・劎働・利殖の買手ずしお盞䌚する。しかしたた、甚圹の垂堎には、生産的甚圹ずしお地甚・劎働・利殖を買入れる䌁業者のほかに、消費的甚圹ずしお地甚・劎働及び利殖を買入れる地䞻、劎働者、資本家がある。これらの人々を、私は、時ず凊に応じお導き入れおくるであろうが、今しばらく䌁業者のみが生産的甚圹を賌う堎合を研究せねばならない。これらの生産的甚圹は、䟡倀尺床財を仲介ずする自由競争の機構によっお亀換せられる第四二節。人々は各甚圹に察し、䟡倀尺床財で衚わした䟡栌を叫ぶ。もしこの叫ばれた䟡栌においお、有効需芁が有効䟛絊より倧であれば、䌁業者はせり䞊げ、䟡栌は隰貎する。もし有効䟛絊が有効需芁より倧であれば、地䞻、劎働者、資本家はせり䞋げ、䟡栌は䞋萜する。各甚圹の垂堎䟡栌は、有効需芁ず有効䟛絊ずを盞等しからしめる䟡栌である。  このように掛匕によっお定たる地甚の䟡倀尺床財で衚わした垂堎䟡栌は地代fermageず呌ばれる。  䟡倀尺床財で衚わした劎働の垂堎䟡栌は賃銀salaireず呌ばれる。  䟡倀尺床財で衚わした利殖の垂堎䟡栌は利子intérêtず呌ばれる。  生産的甚圹ずそれらの垂堎ず、この垂堎における有効需芁ず有効䟛絊ず、そしおこの需芁ず䟛絊ずの結果ずしおいかにしお垂堎䟡栌が珟われるかの機構ずは、資本ず収入ず䌁業者の定矩ずによっお明らかになった。埌に、むギリス・フランスの経枈孊者が地代、賃銀、利子すなわち生産的甚圹の䟡栌を決定しようず努力しながら、これらの甚圹の垂堎を考えなかったために、䞍成功に終ったこずを述べるであろう。  䞀八六 垂堎の他の䞀぀は生産物の垂堎である。ここでは、䌁業者が生産物の売手ずしお、地䞻・劎働者・資本家は生産物の買手ずしお珟われる。これらの生産物もたた䟡倀尺床財を仲介ずしお、自由競争の機構に埓っお亀換せられる。人々はこれらの生産物の各々に察し、䟡倀尺床財で衚わされた䟡栌を叫ぶ。この叫ばれた䟡栌においお、有効需芁が有効䟛絊より倧であるならば、地䞻・劎働者・資本家はせり䞊げ、䟡栌は隰貎する。もし有効䟛絊が有効需芁より倧であるならば、䌁業者はせり䞋げお、䟡栌は䞋萜する。各生産物の垂堎䟡栌は、有効需芁ず有効䟛絊ずが盞等しくなるような䟡栌である。  かくお、他の䞀方に、生産物の垂堎ず、需芁ず、䟛絊ず垂堎䟡栌ずがいかにしお成立するかが明らかになった。  䞀八䞃 これらの抂念は、容易に認め埗られるであろうように、事実ず芳察ず経隓ずに、正確に䞀臎する。実に貚幣の仲介によっお行われる甚圹の売買垂堎ず生産物の売買垂堎ずは、経枈孊䞊においおず同じく、事実においおもたた、党く異るものである。それらの垂堎の各々においお、売買はせり䞊げずせり䞋げの機構によっお行われる。靎を買おうずしお靎屋に入れば、生産物を䞎えお貚幣を受領する者は、䌁業者である。この掻動は生産物の垂堎においお行われる。生産物の需芁が䟛絊より倚ければ、他の消費者は䟡栌をせり䞊げる。䟛絊が需芁より倚ければ、他の生産者がせり䞋げる。たた䞀人の劎働者は、䞀足の靎の手間賃の䟡栌を定める。䌁業者は生産的甚圹を受け、貚幣を䞎える。この掻動は甚圹の垂堎においおなされる。もし劎働の需芁が䟛絊より倧であれば、他の䌁業者は靎屋の賃銀をせり䞊げる。この䟛絊が需芁より倧であれば、他の劎働者はせり䞋げる。しかしこのように二぀の垂堎は、党く異っおいるずしおも、互に盞連絡しおいないわけではない。なぜなら消費者である地䞻・劎働者・資本家が、生産物の垂堎においお生産物を買い入れるのは、甚圹の垂堎においお圌らの生産的甚圹を売っお埗た貚幣をもっおであるからであり、䌁業者が甚圹の垂堎においお生産的甚圹を買い入れるのは、生産物を売っお埗た貚幣をもっおであるからである。  䞀八八 亀換の均衡状態を陰䌏的に含む所の生産の均衡状態は、今は、容易に定矩し埗られる。それはたず生産甚圹の有効需芁ず䟛絊ずが等しい状態であり、これらの甚圹の垂堎においお静止的な垂堎䟡栌が存圚する状態である。たたそれは生産物の有効需芁ず䟛絊ずが盞等しい状態であり、生産物の垂堎においお静止的垂堎䟡栌が存圚する状態である。曎にたたそれは生産物の売䟡が生産的甚圹より成る生産費に等しい状態である。そしおこれらの状態のうち、最初の二぀は亀換の均衡に関するものであり、第䞉は生産の均衡に関するものである。  生産の均衡のこの状態は、亀換の均衡の状態のように、理念的状態であっお、珟実の状態ではない。生産物の売䟡が生産甚圹から成る生産費に絶察的に等しいこずはないであろう。それは生産甚圹たたは生産物の有効需芁䟛絊が絶察的に等しい事がないのず同様である。しかしその均衡は、亀換に察しおず同じように、生産に察しお適甚せられた自由競争の制床の䞋においお、自ら萜付くであろう所の状態であるずいう意味においお、正垞の状態である。自由競争の制床の䞋においお、もしある䌁業のうちに生産物の売䟡が生産甚圹から成る生産費より倧であれば、利益が生じ、䌁業者の出珟を促し、たたは䌁業者はその生産を拡匵し、その結果生産物の量は増加し、䟡栌は䞋り、差益は枛少する。そしおもしある䌁業においお、生産甚圹から成る生産物の生産費が生産物の䟡栌より小であれば、損倱が生じ、䌁業者は枛じ、たたは䌁業者はその生産を枛少し、その結果生産物の量は枛少し、䟡栌は隰り、差損は枛少する。しかし䌁業者が倚数であるこずが生産の均衡を霎らすずしおも、理論的にはこれのみがこの目的を達する唯䞀の方法ではなくしお、生産甚圹をせり䞊げ぀぀需芁し、生産物をせり䞋げ぀぀䟛絊し、損倱があれば垞に生産を制限し、利益があれば垞に生産を拡匵する所のただ䞀人の䌁業者も同じ結果を䞎えるこずを、泚意すべきである。たた䌁業者によっおなされる生産甚圹の需芁ず生産物の䟛絊ずを決定する理由が、損倱を避け、利益をあげようずする欲望にあるこずを泚意すべきである。それは先に述べたように、地䞻・劎働者・資本家によっおなされる生産甚圹の䟛絊ず生産物の需芁ずを決定する理由が欲望の最倧満足を埗ようずする欲望にあるのず同様である。たた曎に亀換ず生産ずの均衡状態においおは、既に述べたように第䞀䞃九節、貚幣䟡倀尺床財を捚象出来ぬずしおも、少くずも貚幣を抜象するこずが出来、地䞻・劎働者・資本家及び䌁業者は、地甚・劎働・利殖の名をも぀生産甚圹のある量ず亀換に、地代・賃銀・利子ずいう名称の䞋に、生産物のある量受けたたは䞎える者であるず、考え埗るこずを泚意すべきである。この状態においおは、䌁業者の介圚をも捚象し、単に生産甚圹が生産物ず亀換せられ、生産物が生産甚圹ず亀換せられるず考え埗るのみでなく、たた結局においおは、生産甚圹ず生産甚圹ずが亀換せられるず考えるこずが出来る。か぀おバスチアもたた分析をおし぀めれば、人は甚圹ず甚圹ずを亀換するものであるずいったが、しかし圌はこれを人的甚圹に぀いおいっただけである。私は、土地の甚圹・人的甚圹・動産甚圹に぀いおも、かくいうのである。  だから生産の均衡状態においおは、䌁業者は利益も埗なければ損倱も受けない。この堎合には、䌁業者は䌁業者ずしお存圚するのではなくしお、自己のたたは他人の䌁業のうちに、地䞻・劎働者たたは資本家ずしお存圚するのである。故に私は思うに、合理的な䌚蚈をなそうずすれば、自ら耕䜜する土地の地䞻である䌁業者、自らの䌁業の経営に任ずる䌁業者、事業に投䞋した動産資本を所有する䌁業者は、䞀般的経費ずしお、地代・賃銀・利子を借方に蚘入し、たたこれらを䌁業者勘定の貞方に蚘入せねばならぬ。この方法をずれば、正確には、䌁業者ずしお利益も損倱も埗られない。実際、もし䌁業者が、自分の䌁業においお、自分の生産甚圹から、他の䌁業においお埗られるより高い䟡栌を埗られるずすれば、この䌁業者はその差だけの利益たたは損倱を受けるこずずなるのは、明らかではないか。     第十九章 䌁業者に぀いお。䌁業の䌚蚈ず損益蚈算 芁目 䞀八九、䞀九〇 消費者ず生産者の間における瀟䌚的富の分配。狭矩の資本は実物でなく、貚幣で貞付けられる。信甚。固定資本、流動資本。䞀九䞀、䞀九二 珟金勘定、借方、貞方、残高。䞀九䞉、䞀九四 金庫内の珟金の源泉ず行方。資本䞻たたはマルタン勘定。固定資本たたは固定蚭備費勘定。流動資本勘定商品及び営業費。耇匏簿蚘の原理。借方、貞方、元垳、日蚘垳。䞀九五 出資者勘定貞方。固定蚭備費勘定借方。商品勘定借方。営業費勘定借方。商品勘定貞方。䞀九六 営業費勘定の残高を商品勘定借方ぞ。商品勘定残高を損益勘定の貞方たたは借方ぞ。䞀九䞃 貞借察照衚。䞀九八、䞀九九 耇雑化。 蚘垳の詳现。 埗意先勘定借方。 受取手圢。 銀行勘定。 仕入先勘定貞方。 支払手圢。 棚卞商品。  䞀八九 以䞊の劂くであるから、䌁業者は、原料を他の䌁業者から賌い、地代を支払っお土地所有䞻から土地を賃借し、劎銀を支払っお劎働者の人的胜力を賃借し、利子を支払っお資本家の資本を賃借し、最埌に生産甚圹を原料に適甚し、埗られる生産物を自分の蚈算で販売する所の人個人たたは䌚瀟である。蟲業の䌁業者は皮子・肥料・痩せた家畜を賌い、土地・経営䞊の蚭備・耕䜜の機具を借り入れ、耕䜜劎働者・刈入人倫・召䜿を雇い、蟲産品・肥った家畜を売る。工業䌁業家は繊維・地金を買入れ、工堎・仕事堎・機械・道具を借り入れ、補玙工・鉄工・機械工を募集し、補品である綿垃・鉄補品を売る。商業䌁業者は商品を倧口に買入れ、倉庫・店舗を賃借し、店員・倖亀員を雇傭し、商品を小口に売る。そしおこれらの䌁業者がその生産物たたは商品を、原料・地代・賃銀・利子等に芁した費甚より高く売るずきには、圌らは利益を受け、反察の堎合には、損倱を蒙る。これらが䌁業者の職分を特色付けるそれぞれの珟象である。  䞀九〇 先に述べた生産芁玠の衚第䞀䞃八節ず䜵せお考えおみるず、この定矩は、先の衚を説明し、その衚が正しかったこずを蚌明するものであるこずが解るず思う。  第䞀・二・䞉項目の䞋に分類せられた資本すなわち消費甚圹を生産する資本は消費者である土地所有者・劎働者・資本家の手䞭にあるものである。第四・五・六項目の䞋に分類せられた資本すなわち生産甚圹を生産する資本は、䌁業者の手䞭にあるものである。だから、ある甚圹が消費甚圹であるかたたは生産甚圹であるかは、垞に容易に認定し埗られる。䟋えば公園の地甚・官吏の劎働・公共建築物の利殖は、生産的甚圹ではなく、消費甚圹である。けだし、囜家はその生産物を少くずも生産費に等しい売䟡で売ろうずする䌁業者ではなくしお、租皎によっお、土地所有者・劎働者・資本家ずしおの地䜍を埗おいる消費者であり、甚圹ず生産物ずを、これらの人々ず同じ地䜍に立っお買入れる消費者であるからである。  同様に、収入のうち第八項目の䞋に分類せられたものは消費者の手䞭にあり、第九項目の䞋に分類せられたものは䌁業者の手䞭にある。だがここに重芁な解説をしおおかねばならぬ。  土地資本ず人的資本ずは、珟物のたた賃借せられる。地䞻はその土地を、劎働者はその劎働を、あるいは䞀箇幎、あるいは䞀箇月、あるいは䞀日の間、䌁業者に賃借し、期限の満了ず共に、これらを取戻す。動産資本は、建物ずある少数の家具・道具を陀き、珟物のたた賃貞せられないで、貚幣の圢で賃貞せられる。資本家は継続的な貯蓄によっおその資本を圢成し、その貚幣をある期間に亙り、䌁業者に貞付ける。䌁業者はこの貚幣を狭矩の資本に倉圢し、期間の満了ず共に、貚幣を資本家に返還する。この操䜜は信甚créditを構成する。そこで第九項目の䞋に分類せられた原料から成る収入及び第六項目の䞋に分類せられた動産資本は、䌁業者が借入れる資本の䞀郚をなすこずが出来る。人々は動産資本に固定資本capital fixe たたは fonds de premier établissementの名を䞎える。これは、生産においお䞀回以䞊圹立぀すべおの物の総䜓である。たた人は、第䞃項目の䞋に分類せられた新動産資本及び第十項目の䞋に分類せられた新収入をも䜵せお、原料に流動資本capital circulant たたは fonds de roulementの名を䞎える。これは、生産においお䞀回しか圹立たないすべおの物の総䜓である。  第十䞀項目の䞋に分類せられる流通貚幣は消費者の手䞭にある。第十二項目の䞋に分類せられる流通貚幣は䌁業者の流動資本の䞀郚を成す。第十䞉項目の䞋に分類せられる貯蓄貚幣は、消費者の手䞭にあっお、収入の消費に察する過剰を正確に衚わす。  䞀九䞀 䌁業者が利益を埗おいる状態にあるかたたは損倱を受けた状態にあるかは、垞に、この人の垳簿及び倉庫䞭にある原料及び生産物の状態によっお定められる。故に今は䌁業の䌚蚈ず損益蚈算の方法を説明すべきずきである。この損益蚈算の方法は通垞の実践から導き出され、䞊に述べた抂念ず党く䞀臎し、私の生産理論が事物の性質をよく基瀎に眮いおいるこずを蚌明しおいる。私はたず簡単に耇匏簿蚘の原理を説明する。  䞀九二 䌁業者ずしお、私はたず金庫を所持し、貚幣を受け入れたずきはこの䞭に収容し、支払のために必芁なずきは、これから匕出す。かようにしお、この金庫のそずから䞭に、䞭から倖にず、貚幣の二重の流れがある。換蚀すれば到着する貚幣の流れず、出おいく貚幣の流れずがある。ずころで䞎えられたずきにおいお私の金庫にある貚幣の量は、入っおきた貚幣量ず、出おいった貚幣量ずの差に垞に等しくあるべきこずは、明らかである。この堎合に、もし私が垳簿の癜玙の䞀頁をずり、芋出しに珟金ず曞き、頁の䞡偎の䞀方䟋えば巊偎に金庫䞭に順次に入っおきた金額を䞊方から䞋方ぞ蚘入し、頁の他の䞀偎すなわち右方に順次に支払った金額を蚘入すれば、巊偎の合蚈ず右偎の合蚈ずの差は、金庫䞭にある珟金の合蚈を垞に瀺しおいる。これら二぀の合蚈が互に盞等しく、䞡者の差がれロずなるこずもあり埗る。このずきには、金庫は空である。けれども右偎の合蚈は決しお巊偎の合蚈より倧であるこずが出来ない。この二぀の欄党䜓は珟金勘定ず呌ばれる。巊欄の党䜓は珟金勘定の借方doit たたは débitず呌ばれ、右欄のそれは貞方avoir たたは créditず呌ばれる。借方ず貞方の差は珟金勘定の残高soldeず呌ばれ、正たたはれロであり埗るが、しかし負ではあり埗ない。  䞀九䞉 ここたでは、耇匏簿蚘に䌌た所は䞀぀もない。次に耇匏簿蚘がいかにしお珟われるかを説明しよう。  私の金庫の䞭に入る貚幣は、これを私に貞した資本家たたは私から生産物を賌った消費者から来り、出おいく貚幣は固定資本たたは流動資本に倉圢しおいく。ずころで、私は、金庫内に入っおくる金額を珟金勘定の借方に蚘入し、この金額がどこから来るかを瀺そうず欲し、たた同様に金庫から出る金額を珟金勘定の貞方に蚘入しお、この金額がどこに行くかを瀺そうず欲しおいるず想像する。この欲する目的を遂げるために、私は䜕をなすか。䟋えば私が最初に金庫䞭に入れる貚幣は私の友人マルタンが私に貞䞎した金額であるずする。私はマルタンに察し、二幎たたは䞉幎の内に䞀郚分の返枈を玄したずする。この堎合に、この金額がマルタンから来たこずをいかにしお瀺すか。その方法は極めお簡単である。珟金勘定の借方に金額を蚘入した埌、私は“資本䞻”たたは“マルタン”ず蚘す。だが事を充分に尜すには、それで止っおはならぬ。私は、垳簿の他の頁を採り、芋出に資本䞻たたはマルタンず蚘し、珟金勘定の借方にすなわちこの勘定の頁の巊方に金額を蚘入するず同時に、盎ちに同䞀の金額を資本䞻たたはマルタン勘定の貞方にすなわちこの勘定の頁の右偎に蚘入する。そしおこの金額を資本䞻たたはマルタン勘定の貞方に蚘入するに圓り“珟金”ず蚘す。これで蚘入が終ったのである。なお他の䞀぀の事があるのが予想せられるが、それは右ず反察に、私が、資本家であるマルタンに借入金の䞀郚を返還するため、金庫から貚幣を取出した堎合である。このずきには、この金額を、“資本䞻”たたは“マルタン”ず蚘しお、珟金勘定の貞方に蚘入し、資本䞻たたはマルタン勘定の借方に“珟金”ず蚘入する。その結果、珟金勘定の借方残高は、私が金庫に有する貚幣の有高を垞に瀺すように、資本䞻たたはマルタン勘定の貞方残高は、忘れおはならない他の重芁な点、すなわち我が資本家マルタンに負う所の貚幣額を垞に教えるのである。  私が金庫に入れたたは金庫から取り出す他の金額も同様にしお蚘入せられる。䟋えば私の工堎に機械を据え付けるために貚幣を取り出すずきは、この機械は固定資本――その重芁さに぀いおは私は既に簡単に述べおおいた――ず呌んだものの䞀郚を成すのであるが、この時私は、固定資本勘定を蚭け、珟金勘定の貞方に金額を蚘入し、か぀“固定資本”ず附蚘し、固定資本勘定の借方に“珟金”ず附蚘しお金額を蚘入する。流動資本に぀いおも同様である。もし私が原料を賌いたたは商品を仕入れ、家賃を支払い、賃銀を支払う等、䞀般に地代・賃銀・利子を支払っお、貚幣を金庫から匕出すずきは、珟金勘定の貞方ず、流動資本勘定の借方にこれを蚘入する。たた私の生産物の販売から生ずる貚幣を私の金庫に入れれば、私は珟金勘定の借方ず流動資本勘定の貞方に、その金額を蚘入する。珟圚の䌚蚈の慣習では、流動資本勘定の代りに、他の二぀の勘定科目を甚いる。その䞀は原料及び仕入商品を借方に蚘入する商品勘定、他は地代・賃銀及び利子を借方に蚘入する営業費勘定である。もし必芁があれば、この现別を曎に詳现な分類ずするこずが出来る。だが右に芋おきたように、䞀般的流動資本勘定を眮き換えたこれらすべおの特皮勘定は損益蚈算に圓っお、結合せられねばならぬ。  耇匏簿蚘はこのようなものである。その原理は、ある勘定の借方たたは貞方に金額を蚘入したずきは、必ず他の勘定の貞方たたは借方にこれを蚘入するこずである。この原理から、借方残高の合蚈すなわち資産は貞方残高の合蚈すなわち負債に垞に等しいずいう結果が出おくる。第䞀次的には勘定科目の順序に埓い、第二次的には日附に埓っお蚘入せられる垳簿は元垳grand-livreず称せられる。それに附属し、同じ蚘垳を日附の順序に埓い、第二次的に勘定の順序に埓っお蚘入せられる垳簿は、日蚘垳journalず呌ばれる。  䞀九四 珟金勘定は、あるずきは借方に、あるずきは貞方に蚘入せられる。資本䞻勘定は、貚幣の貞䞻である資本家の数に现分せられ埗る。固定資本勘定は䞀般に借方に蚘入せられる。流動資本勘定はあるずきは借方にあるずきは貞方に蚘入せられる。以䞊がすべおの䌁業の䞻芁な四぀の勘定である。固定資本勘定の借方は固定資本の額を瀺す。流動資本勘定の借方は、未だ生産物に具䜓化しない流動資本の額を瀺す。右に説明した耇匏簿蚘が、商工業、銀行業においおず同じく、蟲業においおも甚い埗られるか吊か。人々は珟に盛にこれを論じおいる。これは芁するに、蟲業は地甚・劎働・利殖を原料に適甚しお生産物を䜜り出す産業であるか吊かを問うこずに等しい。もし蟲業がかかる産業であるずすれば、耇匏簿蚘法が、商、工、金融䌁業においおず同じく、蟲業においおも甚い埗られないはずはなく、今日この䜿甚をなすに成功しおいないずしおも、これは合理的に諞勘定を蚭けるこずを知らないためである。私共はここに理論ず実際ずが互に盞揎け合う有様の著しい䟋を芋るわけである。けだし、たしかに、簿蚘によっお衚わされる産業の実際は生産理論の確立に倧いに圹立ち埗るからである。そしおたた確かに、この理論が確立せられれば、蟲業の実際を簿蚘䌚蚈によっお衚わすのに倧いに圹立ち埗るからである。  䞀九五 次に、䌁業の損益蚈算の方法を説明し、䌁業者の利益たたは損倱の状態がいかにしお成立するかを説明せねばならぬ。この説明のために、実際の簿蚘の慣習ず称呌ずに埓っお、䟋を䜜るのが適圓であろう。  私が指物建具屋であるずする。私は、貯蓄した䞉、〇〇〇フランず、私に関心を有し私を信甚する芪族友人から借り入れた䞃、〇〇〇フランで仕事を始めたずする。これらの人々ず私ずは契玄を結び、これにより圌らは十幎間䞃、〇〇〇フランを貞䞎する矩務を負い、私は圌らに幎利五分を支払う矩務を負う。そこで圌らは出資瀟員ずなる。私は、私自身に察する出資瀟員であっお、䞉、〇〇〇フランに察する五分の利子を私自身に支払わねばならぬ。私は䞀〇、〇〇〇フランを私の金庫に収玍し、これを珟金勘定の借方に蚘入し、たた出資瀟員勘定の貞方に蚘入する。もし出資瀟員が盎ちに払蟌をなさず、たたは䞀時に党郚の人が払蟌をしないずきは、これら出資者、、等の別々の勘定を蚭けなければならぬ。  これをなしおえた䞊で、私は、幎五〇〇フランで土地を賃借し、その䞊に工堎を建蚭し、機械、仕事台、旋盀等を据え付ける。それらのすべおで五、〇〇〇フランを芁し、それを貚幣で支払ったずする。私の金庫からこれらの五、〇〇〇フランを匕出したずき、珟金勘定の貞方に五、〇〇〇フランを蚘入し、固定資本勘定の借方に五、〇〇〇フランを蚘入する。  次に、材朚その他の材料を二、〇〇〇フラン賌入すれば、珟金勘定の貞方に二、〇〇〇フランを蚘入し、商品勘定の借方に二、〇〇〇フランを蚘入する。  たた次に、出資者に察し利子ずしお五〇〇フランを支払い、賃借した土地の地代ずしお五〇〇フランを、賃銀ずしお二、〇〇〇フランを支払ったずすれば、珟金勘定の貞方に䞉、〇〇〇フランを蚘入し、同時にこれを営業費勘定の借方に蚘入する。  ずころでこれらの出資をなしおえれば、私は泚文を受けた家具・什噚を補䜜し、これを売枡す。六、〇〇〇フラン珟金で売枡したずすれば、六〇〇〇フランを珟金勘定の借方に蚘入し、たたそれを商品勘定の貞方に蚘入する。  䞀九六 このずきに、損益蚈算を行っおみる。出来るだけ簡単にするため、商品・原料・生産物等の残䜙が存圚しないず仮定する。埓っお私は商品をもっおいないわけであるが、商品勘定に残高がある。商品勘定は、珟金勘定に察しお二、〇〇〇フランを負い、たたこれに察し六、〇〇〇フランを貞しおいる。差額は四〇〇〇フランである。これは、どこから来おいるのか。事ははなはだ簡単である。買った金額より高く売ったからである。実際、私がなさねばならなかったのは、このように高く売るこずであった。私は、材朚、その他の材料を賌い、補品である家具什噚を売った。ずころで補品の䟡栌のうちに、単に原料品の䟡栌のみでなく、劎働の賃銀を初めずし、他の䞀般的費甚及びある額の利益が含たれおいなければならぬ。四、〇〇〇フランの残高は䞉、〇〇〇フランの営業費を償い、䞀、〇〇〇フランの利益を残す。それが、私がたず第䞀に営業費を商品勘定の借方に移し、第二に商品勘定の残高を損益勘定の借方に移そうずする理由である。倉庫には商品が残存しおいないから、この商品勘定は締切らねばならぬ。この堎合損益勘定では䞀、〇〇〇フランの貞方ずなっお珟われる。もし損倱が珟われれば、損益勘定の借方に数字が珟われる。  䞀九䞃 以䞊の䞀切が終ったずき、私の勘定は次のようにしお決算せられる。  珟金勘定は䞀六、〇〇〇フランを受け、䞀〇、〇〇〇フランを支出しおいる。よっお六、〇〇〇フランの借方残高がある。  資本䞻勘定は、䞀〇、〇〇〇フランの払蟌みがあったのであるから、䞀〇、〇〇〇フランの貞方残高がある。  固定資本勘定は五、〇〇〇フランを受け入れおいる。よっお五、〇〇〇フランの借方残高がある。  商品勘定は六、〇〇〇フランを受け、六、〇〇〇フランを支出しおいる。故に差匕残高がない。  営業費勘定は䞉、〇〇〇フランを受け、䞉、〇〇〇フランを支出しおいる。故にここにも差匕残高がない。  損益勘定は䞀、〇〇〇フランを支出しおいる。よっお䞀、〇〇〇フランの貞方残高がある。  芁するに私の貞借察照衚は次の劂くである。  資産借方勘定の䞀切から成る 珟金勘定         6,000 固定資本勘定       5,000           蚈 11,000  負債貞方勘定の䞀切から成る 資本䞻勘定       10,000 損益勘定         1,000           蚈 11,000  私は䞀、〇〇〇フランの利益を埗た。そしお私は、第二期の営業を開始するのに、䞀〇、〇〇〇フランの代りに、䞀䞀、〇〇〇フランをもっおする。その内の五、〇〇〇フランは固定資本であっお、六、〇〇〇フランは流動資本である。  䞀九八 私は出来るだけ簡単な䟋を瀺した。だが実際においおは、ここに指摘しおおかねばならぬ所の正垞的で䟋倖でない幟らかの耇雑さがある。  䞀、蚘垳は総括的になされるのではなくしお、垞に詳现に行われる。たたそれは䞀回に行われるのではなくしお、幟回にも亙っおなされる。すなわち固定資本ずしお五、〇〇〇フランを支払い、原料の買入れに二、〇〇〇フランを支払い、営業費ずしお䞉、〇〇〇フランを支払ったそのたびに、たた商品を六、〇〇〇フランに売ったたびごずに、蚘垳をする。  二、私は䞀般に珟金で販売しないで、掛で販売する。掛で埗意先、、に販売したずきは、商品勘定の貞方ず珟金の借方に蚘入しないで、商品勘定の貞方ず、、勘定の借方に蚘入し、圌らが支払いをなすずきは、、、勘定の貞方ず珟金勘定の借方に蚘入をする。故に正垞の状態においおは、ある数の埗意先勘定借方が珟われる。  䞉、そればかりではない。埗意先、、は䞀定期間の信甚を受けた埌、珟金でこれを決枈しないで、私に宛おた玄束手圢、たたは圌らに宛お圌らが匕受けた為替手圢によっお決枈せられる。そしお私がこれらの手圢を受取ったずきは、これを、、の貞方に蚘入しか぀珟金勘定の借方に蚘入する代りに、、、の貞方に蚘入し、受取手圢勘定の借方に蚘入をする。故に正垞の状態においおは、受取手圢勘定の借方があるものである。この勘定は珟金勘定に類し、借方ず貞方ずの差は、私の金庫にある玄束手圢及び為替手圢の合蚈に垞に正確に䞀臎する。  四、なおそれだけではない。䞀般に私は、私の商業手圢を収受するのみでなく、これを銀行に譲枡しお、期限前の割匕を求める。かようにしおこれらの手圢を流通するずきは、受取手圢勘定の貞方に蚘入しか぀珟金勘定の借方に蚘入する代りに、私は受取手圢勘定の貞方に蚘入しか぀銀行勘定の借方に蚘入する。銀行が珟金で支払をなしたずきは、銀行勘定の借方に蚘入する代りに、珟金勘定の借方に蚘入する。利子に盞圓する割匕料は、もちろん、営業費勘定の借方に蚘入される。  五、私は、たた䞀般に、珟金で買入れをしないで、掛で買入れをする。そしお、、、等から掛で買入れるずきは、商品勘定の借方に蚘入し、珟金勘定の貞方に蚘入する代りに、商品勘定の借方に蚘入し、か぀、、勘定の貞方に蚘入をする。故に正垞状態においおは、私はある数の仕入先勘定貞方をも぀。  六、ここでもたた、私は䞀般に、、、に察し珟金で支払をしないで䞀定期間の信甚を受けた埌、私が振出す玄束手圢たたは圌らが振出し私が匕受ける為替手圢で支払をする。そしおこれらの手圢を䞎えれば、私は、、勘定の借方ず珟金勘定の貞方に蚘入をしないで、、、勘定の借方ず支払手圢勘定の貞方に蚘入をする。これらの手圢を支払ったずきは、支払手圢勘定の借方ず珟金勘定の貞方に蚘入をする。故に正垞状態においおは、私は支払手圢勘定の貞方をもも぀。  䞃、最埌に、貞借察照衚を䜜成するずき、倉庫に商品・原料・生産物が残存しおいないこずはほずんどあり埗ない。もしそれがあり埗るずしたら、それは、各営業期間の終りにおいおすべおの掻動が䞭絶したこずを意味する。この䞭絶は憂うべきこずであり、䞍必芁なこずである。ずころでこれず反察に実際には、私は家具を販売すれば、それに匕続いお材朚その他の原料を賌うのである。棚卞をするのは、これらの商品に぀いおである。私は垞に営業費を商品勘定の借方に移す。しかし商品勘定の差匕残高を求める代りに、棚卞された商品の正確な額だけが借方に残るように損益勘定によっおバランスするのである。その理由は次の劂くである。Md, Mc はそれぞれ商品勘定の借方ず貞方であり、は営業費の借方残高であり、は棚卞の額であるずすれば、利益がある堎合には、商品勘定の借方 Md+F にを加えお、 (Md+F+P)-Mc=I ずならねばならぬ。商品勘定は借方にを残し、損益勘定はを貞方に残す。損倱の堎合には、商品勘定の貞方 Mc に金額を加えお、 (Md+F)-(Mc+P)=I ずならねばならぬ。商品勘定は、この堎合にも、借方にを残し、損益勘定はを借方に残す。ずころで右の二぀のの額は、ただ䞀぀の方皋匏、 Md+F-I±P=Mc によっお䞎えられる。この方皋匏は、次のような考察から盎接に導き出すこずも出来る。すなわち、買入れた原料の金額に、支払われた営業費を加え、これから䜿甚せられなかった原料ず圚庫商品ずを控陀し、利益があればその額を加え、損倱があればその額を控陀すれば、差匕残高は販売金額に等しい。  以䞊のようにしお、資産を構成するものずしお、珟金及び固定資本たたは建蚭費の項目に、埗意先勘定、受取手圢、銀行勘定、棚卞商品が加わり、負債を構成するものずしおは、資本䞻、損益の項目に仕入先勘定、支払手圢等が加わる。これらを附け加えお、工業䌁業の普通の貞借察照衚が埗られる。蟲業・商業・金融業の貞借察照衚もこれに類䌌したものである。  䞀九九 䌁業者が、いかにしお貞借察照衚によっお、い぀でも損益の状態を、原理䞊知り埗るかは、右の説明によっお明らかになった。以䞊で、私の定矩は理論的にも実際的にも確立せられたのであるが、今は䌁業者が利益も埗ず、損倱も蒙らないものず想像し、たた既にいったように第䞀䞃九節、原料・新資本・新収入・金庫にある流通貚幣の圢態をずった䌁業者の流動資金及び収入の貯蔵・流通貚幣䞊びに貯蓄貚幣の圢態をずった消費者の流動資金を捚象し、生産物ず生産甚圹の垂堎䟡栌が、均衡状態においお、いかにしお数孊的に決定せられるかを瀺そうず思う。     第二十章 生産方皋匏 芁目 二〇〇 商品ず甚圹の利甚、所有量。二〇䞀 甚圹の䟛絊量ず生産物の需芁量ずの等䟡の方皋匏。極倧満足の方皋匏。甚圹の郚分的䟛絊ず生産物の郚分的需芁の方皋匏。二〇二  甚圹の総䟛絊の方皋匏。 生産物の総需芁の方皋匏。二〇䞉 補造係数。 甚圹の䟛絊ず需芁の均等の方皋匏。 生産物の売䟡ず原䟡の均等の方皋匏。二〇四 補造係数の固定性。二〇五 原料。二〇六 2m+2n-1 個の未知数に察する同数の方皋匏。二〇䞃 実際䞊の解法。  二〇〇 捚象し埗るものを捚象した埌、問題の本質的な䞎件ずしお残った最初の六項の甚圹第䞀䞃八節に立ち垰り、(T)、(T')、(T'')   及び (P)、(P')、(P'')   䞊びに (K)、(K')、(K'')   をそれぞれ䞀定の期間䞭に埗られる土地甚圹・劎働及び利殖ずする。そしおこれらの甚圹の量は、䞀自然的たたは人為的単䜍䟋えば土地のヘクタヌル・人の䞀人・資本の䞀単䜍など、二時間的単䜍䟋えば䞀日など、の二぀の単䜍によっお秀量せられるものず仮定する。故にそれぞれの土地の䞀ヘクタヌルの地甚のある日数の量、それぞれの人の劎働のある日数の量、それぞれの資本の利殖のある日数の量があるわけである。これらの甚圹の皮類の数をずする。  右に定矩せられた甚圹によっお、我々は、同じ期間䞭に消費せられる、、、  の生産物を補造するこずが出来る。この補造はあるいは盎接になされ、あるいは原料ず称せられお既に存圚する生産物を仲介ずしお行われる。換蚀すれば、この補造は、あるいは地甚・劎働・利殖の結合により、あるいは地甚・劎働・利殖を原料に適甚するこずによっお行われる。だがこの第二の堎合が第䞀の堎合に還元せしめられるこずは埌に述べる劂くである。かくしお補造せられた生産物の皮類の数をずする。  二〇䞀 生産物は、各個人に察し私が既に r=φ(q) の圢をずる利甚方皋匏たたは欲望方皋匏で衚わした利甚をも぀第䞃五節。けれども甚圹それ自身もたた、各個人に察し、盎接的利甚をも぀。そしお我々は随意に土地・人的胜力・資本の甚圹の党郚たたは䞀郚を賃貞するこずも出来れば、自分のために保留しおおくこずも出来るのみでなく、たた、地甚・劎働・利殖を、生産物に倉圢する䌁業者の資栌においおではなく、盎接に消費する消費者の資栌においお獲埗するこずも出来る。換蚀すれば、地甚・劎働・利殖を、生産甚圹ずしおではなく、消費甚圹ずしお埗るこずが出来る。私は先に第四・五・六項目の䞋に分類せられた甚圹を䞊べお、第䞀・二・䞉項目の䞋に分類せられた甚圹を䞀぀の範疇に入れお、これを認めた第䞀䞃八節。故に甚圹もたた商品であっお、各個人に察するその利甚は r=φ(q) の圢態をずる利甚曲線たたは欲望曲線によっお衚わされ埗る。  これだけを前提ずしお、ある人がの qt を、の qp を、の qk を凊分するずする。r=φt(q), r=φp(q), r=φk(q)   をそれぞれ甚圹、、  がこの個人に察しお䞀定時間䞭にも぀利甚たたは欲望曲線であるずし、r=φa(q), r=φb(q), r=φc(q), r=φd(q)   をそれぞれ生産物、、、  がこの同じ人に察しお䞀定時間䞭にも぀利甚たたは欲望曲線であるずする。たた pt, pp, pk   をで衚わした甚圹の垂堎䟡栌であるずし、pb, pc, pd   を生産物の垂堎䟡栌ずする。ot, op, ok   をこれらの䟡栌においお有効に䟛絊せられた甚圹の量ずする。これらの量は正であり埗、この堎合にはこれらの量は䟛絊せられた量を瀺す。たたそれらは負であり埗、その堎合には需芁せられる量を瀺す。最埌に da, db, dc, dd   を均衡䟡栌においお有効に需芁せられる生産物の量ずする。珟に存圚する狭矩の資本の償华及び保険ず新しい狭矩の資本の創造を目的ずする貯蓄ずは、これを次の線に述べるこずずしお捚象すれば、これらの諞量ずそれらの䟡栌ずの間に、方皋匏 otpt+oppp+okpk+ 

 =da+dbpb+dcpc+ddpd 

 が埗られる。いうたでも無く、最倧満足の条件が、甚圹の正たたは負の䟛絊ず生産物の需芁ずを決定するのであるが第八〇節、この条件によっお、これらの同じ量ず同じ䟡栌ずの間には、方皋匏 φt(qt-ot)=ptφa(da) φp(qp-op)=ppφa(da) φk(qk-ok)=pka(da) 








 φb(db)=pbφa(da) φc(qc)=pcφa(da) φd(qd)=pdφa(da) 






 が埗られる。すなわち n+m-1 個の方皋匏が埗られ、前の方皋匏ず合せお n+m 個の方皋匏の䜓系を成す。それらのうちで、未知数 ot, op, ok 

 da, db, dc, dd   䞭の n+m-1 個を順次に消去しお、䟡栌 pt, pp, pk 

 pb, pc, pd   の凜数ずしおの n+m 番目の未知数を䞎える方皋匏しか残らないように仮定するこずが出来る。かようにしお、、、  の次の需芁たたは䟛絊方皋匏が埗られる。 ot=ft(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) op=fp(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) ok=fk(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) たた、、  の次の需芁方皋匏が埗られる。 db=fb(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) dc=fc(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) dd=fd(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) 














 の需芁方皋匏は da=otpt+oppp+okpk+ 

 -(dbpb+dcpc+ddpd+ 

) によっお䞎えられる。  二〇二 同様にしお、甚圹の他のすべおの所有者による甚圹の郚分的需芁たたは䟛絊の方皋匏及び生産物の郚分的需芁の方皋匏が埗られる。今 Ot, Op, Ok   を甚圹の総䟛絊すなわち負の ot, op, ok   に正の ot, op, ok   が超過する量を瀺すこずずし、Da, Db, Dc, Dd   で生産物の総需芁を衚わし、Ft, Fp, Fk 

 Fb, Fc, Fd   で凜数 ft, fp, fk 

 fb, fc, fd   の合蚈を衚わせば、求める量の決定を目的ずする次のような甚圹の総䟛絊個の方皋匏を含む䜓系が埗られる。ただし䟛絊が所有量に等しい堎合に関する制限を満足するために凜数に䞎えられるべき性質に぀いおの留保をなさねばならぬこずは、亀換の理論においおず同様である第䞀䞀九――二䞀節。 Ot=Ft(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) [1] Op=Fp(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

)   Ok=Fk(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) たた次のような生産物の総需芁の個の方皋匏の䜓系が埗られる。 Db=Fb(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) [2] Dc=Fc(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

)   Dd=Fd(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) 















 Da=Otpt+Oppp+Okpk+ 

 -(Dbpb+Dcpc+Ddpd+ 

) すなわち党䜓で、n+m 個の方皋匏が埗られる。  二〇䞉 か぀たた、at, ap, ak 

 bt, bp, bk 

 ct, cp, ck 

 dt, dp, dk   を補造係数coefficients de fabricationすなわち生産物、、、  の各単䜍の補造に入り蟌む生産的甚圹、、  の各々の量ずすれば、求める量を決定するために、次の二組の方皋匏が埗られる。 atDa+btDb+ctDc+dtDd+ 

 =Ot [3] apDa+bpDb+cpDc+dpDd+ 

 =Op   akDa+bkDb+ckDc+dkDd+ 

 =Ok                     これらは、甚いられた生産甚圹の量が有効に䟛絊せられた量に等しいこずを瀺す方皋匏であっお、個ある。 atpt+appp+akpk+ 

 =1 btpt+bppp+bkpk+ 

 =pb [4] ctpt+cppp+ckpk+ 

 =pc   dtpt+dppp+dkpk+ 

 =pd                 これらは、生産物の販売䟡栌が生産甚圹から成る生産費に等しいこずを瀺す方皋匏であっお、個ある。  二〇四 䞀芋しお明らかなように、私は、補造係数 at, ap, ak 

 bt, bp, bk 

 ct, cp, ck 

 dt, dp, dk 

 が先隓的に決定せられるず仮定した。だが実際においおはそうではない。ある生産物の補造に圓っおは、ある生産甚圹䟋えば地甚をより倚くあるいはより少く甚い、他の生産甚圹䟋えば利殖たたは劎働をあるいはより少くあるいはより倚く甚いるこずが出来る。このようにしお、生産物の各䞀単䜍の補造に入り蟌む生産甚圹の各々の量は、生産物の生産費は最小でなければならぬずの条件によっお、生産甚圹の䟡栌ず同時に決定される。埌に私は、決定せられるべき補造係数の数だけの方皋匏の䜓系によっお、この条件を衚わすであろう。今は、簡単を期するため、それを捚象し、右の係数は䞎件に属しお、問題の未知数に属しないず仮定する。  この仮定をおくず共に、曎に私は、他の䞀぀の事情すなわち䌁業における䞍倉費甚ず可倉費甚ずの区別を無芖する。䌁業者は利益も損倱も受けないず仮定せられおいるから、圌らはたた等しい量の生産物を補造しおいるず仮定せられ埗る。そしおこの堎合には、あらゆる性質のあらゆる費甚は商品の量に比䟋するず考えるこずが出来る。  二〇五 既に述べおおいたように、生産甚圹を原料に適甚する堎合を、私は、生産甚圹の盞互の結合の堎合に分解し還元する。私共はそうしなければならない。なぜなら、原料はそれ自身あるいは生産甚圹盞互の結合によりあるいは生産甚圹を他の原料に適甚するこずによっお埗られ、しかもこの原料にも同じこずがいい埗られるからである。  䟋えばの䞀単䜍が、の βt 量、の βp 量、の βk 量  を原料の βm に適甚するこずによっお埗られるずするず、の生産費 pb は方皋匏 pb=βtpt+βppp+βkpk+ 

 +βmpm によっお䞎えられる。ここで pm はの生産費であるずする。しかし原料はそれ自身生産物であっお、その䞀単䜍はの mt、の mp、の mk   の結合によっお埗られるから、の生産費 pm は方皋匏 pm=mtpt+mppp+mkpk+ 

 によっお䞎えられる。pm の倀を先の方皋匏に代入すれば、 pb=(βt+βmmt)pt+(βp+βmmp)pp+(βk+βmmk)pk+ 

 が埗られる。この方皋匏は、 βt+βmmt=bt, βp+βmmp=bp, βk+βmmk=bk 

 ず眮いおみるず、組の第二方皋匏に他ならない。  原料が生産甚圹盞互の結合によっおではなく、生産甚圹をある他の原料に適甚しお埗られるずきに、いかにすべきかも、たたこれによっお盎ちに理解出来るであろう。  二〇六 かくしお総蚈 2m+2n 個の方皋匏が埗られる。だが、これら 2m+2n 個の方皋匏は 2m+2n-1 個に還元せられる。実際組の個の方皋匏の䞡蟺にそれぞれ Pt, Pp, Pk   を乗じ、か぀組の個の方皋匏の䞡蟺にそれぞれ Da, Db, Dc, Dd   を乗じ、各組の方皋匏を別々に加えれば、結局二個の方皋匏が埗られる。ずころでこれらの二方皋匏においおは、巊蟺は同䞀であっお、埓っお右蟺の間に方皋匏 Otpt+Oppp+Okpk+ 

 =Da+Dbpb+Dcpc+Ddpd+ 

 が成立する。これは、組のうち第番目の方皋匏に他ならない。故に組の第䞀方皋匏を省いお、組の第番目の方皋匏を残すこずも出来、たたはその反察をするこずも出来る。いずれにしおも、2m+2n-1 個の未知数すなわち䞀般均衡状態における䞀甚圹の䟛絊合蚈量個、二甚圹の䟡栌個、䞉生産物の需芁合蚈量個、四生産物䞭の第番目の物で衚わした m-1 個の生産物の䟡栌 m-1 個、を決定するのに、2m+2n-1 個の方皋匏が残る。ただ蚌明を芁するこずで残っおいるのは、亀換の均衡に関しおず同じく、生産の均衡に関しおもたた、私が既に理論的解決を䞎えた問題が、垂堎においお自由競争の機構によっお実際的にも解かれる問題であるずいうこずだけである。  二〇䞃 これは、既に私共が亀換の均衡を成立せしめたず同じようにしお、生産の均衡を最初から出発しお成立せしめるこずを問題ずする。すなわち問題のある䞎件をある期間倉化しないず仮定し、次にこれらの䞎件の倉化の圱響を研究するため、これらの䞎件を倉化するものず考えるのである。しかし生産の摞玢は、亀換の摞玢に存圚しない耇雑さを呈する。  亀換においおは商品の倉化はない。ある䟡栌が叫ばれ、この䟡栌に盞応ずる需芁ず䟛絊ずが盞等しくないずするず、人々は、他の需芁ず䟛絊ずが盞応ずる所の他の䟡栌を叫ぶ。しかるに生産においおは、生産甚圹の生産物ぞの倉化がある。甚圹のある䟡栌が叫ばれ、生産物のある量が補造せられおも、これらの䟡栌ずこれらの量ずが均衡䟡栌ず均衡の量ではないずするず、単に他の䟡栌を叫ばねばならぬのみでなく、諞生産物の他の量を補造せねばならない。亀換の問題においおず同じく、生産の問題においおも、厳密な摞玢を実珟するには、この事情を考量の䞭に加え、初め生産物の売䟡が偶然に定たり、次にそれがその生産費に等しくなるたで、この売䟡が生産費に超過すれば増加せられ、売䟡が生産費より小ならば枛少せられる生産物の皮々なる量を、䌁業家が取匕蚌曞で衚わしおいるず仮定すればよい。たた地䞻・劎働者・資本家は、同様に、たず叫ばれた䟡栌においおの甚圹の量、次にこの甚圹の需芁ず䟛絊ずが均等ずなるたで、この需芁が䟛絊に超過したたは䞍足するこずにより昂隰したたは䞋萜する䟡栌においおの甚圹の量を、取匕蚌曞で衚わしおいるず仮定すればよい。  しかるになお第二の耇雑が生ずる。亀換の堎合には、ひずたび均衡が原理䞊成立すれば、亀換は盎ちに行われる。しかるに生産はある期間を必芁ずする。私はこの期間を玔粋に単玔に捚象しお、この第二の困難を解決しよう。私は、第六線においお、流動資本ず貚幣ずを導き入れよう。この流動資本ず貚幣ずによっお、生産甚圹は盎ちに生産物に倉圢するこずが出来る。ただし消費者はこの倉圢に必芁な資本に察する利子を支払わねばならない。  このようにしお、生産の均衡はたず原理䞊成立する。次にこの均衡は、考察䞭の期間に問題の䞎件に倉化がなければ、この期間䞭に補造せられるべき生産物ず収穫せられるべき甚圹の盞互の匕枡によっお、有効に成立する。     第二十䞀章 生産方皋匏の解法。生産物の䟡栌及び甚圹の䟡栌の成立の法則 芁目 二〇八 䌁業者が生産甚圹を等䟡倀の分量だけ䜿甚しようずするずいう仮定。偶然に叫ばれた生産甚圹の䟡栌。二〇九 生産物の原䟡。偶然に補造せられた生産物の数量。二䞀〇 生産物の売䟡。䌁業者の損益。二䞀䞀、二䞀二 生産物の売䟡ず原䟡の均等のための摞玢。二䞀䞉 䟡倀尺床財の需芁。生産の均衡のために䟡倀尺床財の原䟡がに等しいこずの必芁。二䞀四 䌁業者が生産甚圹を等量ならしめようずするずいう仮定。二䞀五 甚圹の有効需芁及び䟛絊。䌁業者による需芁量、消費者による需芁量。䟡栌がれロず無限倧の間を倉化するに埓う需芁ず䟛絊の倉化。二䞀六、二䞀䞃 甚圹の䟛絊ず需芁の均等のための摞玢。二䞀八 䟡倀尺床財の需芁。二䞀九 䟡倀尺床財の原䟡がに等しいための摞玢。二二〇 生産物ず甚圹の均衡䟡栌の成立の法則。  二〇八 そこで我々は垂堎に行っお、そこで人々が偶然に甚圹の䟡栌 p't, p'p, p'k   の個、補造すべき生産物の量 Ωa, Ωb, Ωc, Ωd   取匕蚌曞によっお衚わされおいるず仮定するの個を決定したず仮定する。これに続いおいかなる掻動が起るかをよく捕捉するために、私はたず、䌁業者が生産物、、、  のある量を売り、消費者はこれを賌い、たた前者は生産甚圹、、  を賌い、埌者はこれらを売り、この買われる生産甚圹の量ず売られるそれずは等䟡倀ではあるが等量ではないず仮定し、この仮定の䞋に、䌁業者が利益も埗なければ損倱も受けないような Ωa, Ωb, Ωc, Ωd   を決定しよう。次に、䌁業者が賌う甚圹ず消費者が売る甚圹ずは等䟡倀であるず同時に等量であるず仮定し、この仮定の䞋に甚圹の有効需芁ず䟛絊ずが均等ずなるような p't, p'p, p'k   を決定しよう。この堎合に䞀芋しお明らかであるように、この研究方法は䟡倀尺床財たでも捚象しおいないにしおも、少くずも貚幣を捚象しおいる。  ここで、私共の䞎件ず条件ずなっおいるもののうちでは、狭矩の資本が珟物のたた貞し付けられるず仮定せられおいるこずを泚意するのは、無意矩ではあるたい。しかし既に説明したように第䞀九〇節、資本家はその資本を貯蓄によっお圢成するから、実際においおは、資本は貚幣で賃貞せられる。しかし資本の創造ず貚幣の圢態をずる資本の賃貞ずを同時に考えるこずは、埌にしようず思う。  二〇九 、、  の䟡栌 p't, p'p, p'k   は、右に述べたように、偶然に決定せられおいるのであるから、その結果ずしお、䌁業者に察しおは、䞀定の生産費 p'a, p'b, p'c, p'd   が、次の方皋匏から決定せられる。 p'a=atp't+app'p+akp'k+ 

 p'b=btp't+bpp'p+bkp'k+ 

 p'c=ctp't+cpp'p+ckp'k+ 

 p'd=dtp't+dpp'p+dkp'k+ 

 













  読者も認められるであろうように、p'a=1 ずなるように、p't, p'p, p'k   を決定するこずも自由である。私は、時ず凊に応じお、この自由を利甚しよう。ただし埌に至っお、䟡倀尺床財である商品の生産費は、自由競争の制床の䞋においおは、自らに等しくなろうずするものであるこずを瀺す機䌚があろう。今はの生産費がその販売䟡栌より倧であるこずも、小であるこずも、たたはそれらが等しいこずも出来るかのように掚論をしよう。  たた、、、、  の同様に偶然に決定せられた量 Ωa, Ωb, Ωc, Ωd   は、次の方皋匏によっお、、、  の量 Δt, Δp, Δk   を必芁ずする。 Δt=atΩa+btΩb+ctΩc+dtΩd+ 

 Δp=apΩa+bpΩb+cpΩc+dpΩd+ 

 Δk=akΩa+bkΩb+ckΩc+dkΩd+ 

 
















  これらの量 Ωa, Ωb, Ωc, Ωd   は自由競争の機構に埓っお、䌁業者によっお販売せられる。私はたず生産物、、  の販売の条件を研究する。次に䟡倀尺床財ずしお甚いられる生産物の販売の条件を研究する。  二䞀〇 、、  の量 Ωb, Ωc, Ωd   は、次の方皋匏に埓っお、販売䟡栌 πb, πc, πd   で売られる。 Ωb=Fb(p't, p'p, p'k 

 πb, πc, πd 

) Ωc=Fc(p't, p'p, p'k 

 πb, πc, πd 

) Ωd=Fd(p't, p'p, p'k 

 πb, πc, πd 

) 
















  実際に、垂堎は自由競争によっお支配せられる故に、生産物は、䞀欲望の最倧満足、二甚圹の䟡栌も生産物の䟡栌も垞に単䞀であるこず、䞉䞀般均衡の䞉぀の条件に埓っお販売せられる第䞀二四節。ずころで右の䜓系は、m-1 個の未知数ず m-1 個の方皋匏を含み、か぀これら䞉぀の条件をちょうど充すものである。  さお、販売䟡栌 πb, πc, πd   は䞀般に生産費 p'b, p'c, p'd   ず異るから、、、  を生産する䌁業者は、これらの差 Ωb(πb-p'b), Ωc(πc-p'c), Ωd(πd-p'd) によっお衚わされる利益たたは損倱を受ける。  しかし盎ちに解るように、Ωb, Ωc, Ωd   が πb, πc, πd   の凜数であるずしたら、この事自䜓によっお、これらの埌の量は前者の量の凜数であり、埓っお、、、  の補造量を適圓に倉化すれば、これらの生産物の販売䟡栌をその生産費に䞀臎せしめるこずが出来る。  二䞀䞀 凜数 Fb, Fc, Fd   がいかなる凜数であるかを、私共は知らない。しかし亀換ずいう事実の性質から、これらの凜数の内第䞀は pb の倀が枛少するかたたは増加するかにより、第二は pc の倀が枛少するかたたは増加するかにより、第䞉は pd の倀が枛少するか増加するかによっお以䞋も同様、増加するかたたは枛少するずいう結果が出おくる。だから䟋えば πb>p'b であるず仮定すれば、Ωb を増加しお、πb を枛少するこずが出来る。反察に πb<p'b であるず仮定すれば、Ωb を枛少しお、πb を増倧するこずが出来る。同様に、であるずすれば、Ωc, Ωd   を増加したたは枛少しお、πc, πd   を枛少したたは増加するこずが出来る。  、、の補造量を Ω'b, Ω'c, Ω'd   ずすれば、それを決定する方皋匏は次の劂くである。 Ω'b=Fb(p't, p'p, p'k 

 p'b, πc, πd 

) Ω'c=Fc(p't, p'p, p'k 

 πb, p'c, πd 

) Ω'd=Fd(p't, p'p, p'k 

 πb, πc, p'd 

) 
















  これらの量は摞玢によっお、Ωb, Ωc, Ωd   に代わるのであるが、それらは自由競争の機構に埓い、次の方皋匏によっお、䟡栌 π'b, π'c, π'd   で売られる。 Ω'b=Fb(p't, p'p, p'k 

 π'b, π'c, π'd 

) Ω'c=Fc(p't, p'p, p'k 

 π'b, π'c, π'd 

) Ω'd=Fd(p't, p'p, p'k 

 π'b, π'c, π'd 

) 

















  そしお説明を芁するのは、π'b, π'c, π'd   が、πb, πc, πd   よりも、p'b, p'c, p'd   に近䌌しおいるずいうこずである。  二䞀二 この時に行われる摞玢の条件においおは、甚圹の䟡栌は䞀定であっお、倉化しない。故に各亀換者は、䟡倀尺床財で衚わされた垞に同䞀の収入 r=qtp't+qpp'p+qkp'k+ 

 を埗、か぀、方皋匏 (qt-ot)p't+(qp-op)p'p+(qk-ok)p'k+ 

 +da+dbpb+dcpc+ddpd+ 

 =r に埓っお、この収入を甚圹の消費ず生産物の消費ずの間に配分せねばならない。  、、  のある䟡栌が、これらの商品のある量が補造せられた結果ずしお決定せられおいるずき、補造せられた量の䞀぀䟋えばが増加したたは枛少すれば、新しい均衡を成立せしめるためになすべき第䞀の事は、すべおの亀換者のに察する需芁を増倧せしめたたは枛少せしめお、それにより共通で同䞀の割合に皀少性を枛少せしめたたは増倧せしめ、同時に同じ割合での䟡栌を䜎䞋せしめたたは高隰せしめるこずである。これは、の䟡栌に関する第䞀次の最も重芁な結果ず称し埗べきものである。これだけのこずがなされ、各亀換者においおの消費に費されるべき金額 dbpb が倉化しなければ、均衡は回埩しよう。しかしこの金額は、疑も無くすべおの堎合にすなわちの補造量の増加の堎合にもたた枛少の堎合にも、ある亀換者においおは増加し、ある亀換者においおは枛少するから、前者はすべおの商品を売らねばならず、埓っおこれらすべおの商品の䟡栌は䞋萜するに至るであろうし、埌者はすべおの商品を買わねばならず、埓っおこれらすべおの商品の䟡栌を隰貎せしめるに至るであろう。これは、、、  の䟡栌に関する、第二次の、䞭䜍的な重芁さをも぀結果である。それには䞉぀の理由がある。䞀の消費に投ぜられるべき金額 dbpb の倉化は、二぀の芁因 db ず pb ずが反察の方向に倉化するずいう事実によっお、限定せられおいるこず、二すべおの商品の売ず買ずを生ぜしめるこの倉化は、この事実自身の性質によっお、これらの商品の埮少な量の売たたは買しか生ぜしめないこず、䞉売の圱響ず買の圱響ずが互に盞殺し合うこず。  右にの補造量の倉化の圱響に぀いおいったこずは、たた、、  の補造量の倉化の圱響に぀いおもいわれ埗る。故にたしかに、各生産物の補造量における倉化はこの生産物の販売䟡栌に盎接のか぀すべお同䞀方向をずる圱響を及がし、反察に他の生産物の補造量における倉化は、すべお同䞀の方向に行われたず想像しおも、右の生産物の販売䟡栌には間接的な互に盞反する方向のそしおある皋床たで互に盞殺し合う圱響しかもたない。だから、新しい補造量ず新しい販売䟡栌の䜓系はもずの䜓系よりは均衡に近いものであっお、そしおこれにたすたす近からしめるには、摞玢を続ければよい。  このようにしお、方皋匏 D't=atΩa+btD'b+ctD'c+dtD'd+ 

 D'p=apΩa+bpD'b+cpD'c+dpD'd+ 

 D'k=akΩa+bkD'b+ckD'c+dkD'd+ 

 

















 によっお、、、  のそれぞれの量 D't, D'p, D'k  を必芁ずする所の、か぀方皋匏 D'b=Fb(p't, p'p, p'k 

 p'b, p'c, p'd 

) D'c=Fc(p't, p'p, p'k 

 p'b, p'c, p'd 

) D'd=Fd(p't, p'p, p'k 

 p'b, p'c, p'd 

) 

















 によっお、販売䟡栌 p'b, p'c, p'd   で売られる所の、たた、、  の䌁業者が利益も埗なければ損倱も受けないような販売䟡栌で売られる所の、、  の量 D'b, D'c, D'd   を決定し埗る。  ずころで、生産物の垂堎においお、䌁業者が利益を受けるかたたは損倱を受けるかによっお、その生産を拡匵したたは制限するずき、この摞玢は自由競争の制床の䞋にたさしく珟実に行われるものである第䞀八八節。  二䞀䞉 䞀囜の垂堎においお、生産費に等しい販売䟡栌 p'b, p'c, p'd   で、、、  の有効に需芁せられる量 D'b, D'c, D'd   に察し、甚圹の総䟛絊量の方皋匏 O't=Ft(p't, p'p, p'k 

 p'b, p'c, p'd 

) O'p=Fp(p't, p'p, p'k 

 p'b, p'c, p'd 

) O'k=Fk(p't, p'p, p'k 

 p'b, p'c, p'd 

) 

















 に埓っお取匕蚌曞の圢の䞋に有効に䟛絊せられる、、  の量 O't, O'p, O'k   が盞察応しおいる。そしおこの甚圹の総䟛絊量の方皋匏は、生産物の総需芁の方皋匏ず合しお、最倧満足、䟡栌の単䞀及び䞀般均衡の䞉条件を充す亀換方皋匏の䜓系を圢成する。  たたこのずき、人々は方皋匏 D'a=O'tp't+O'pp'p+O'kp'k+ 

 -(D'bp'b+D'cp'c+D'dp'd+ 

) によっお決定せられたの D'a 量を有効に需芁する。  のみならず、生産物の生産費を生産甚圹の䟡栌の凜数ずしお䞎える方皋匏の䜓系の䞭に含たれおいる個の方皋匏第二〇九節にそれぞれ Ωa, D'b, D'c, D'd   を乗じ、たた生産甚圹の需芁量を補造量の凜数ずしお䞎える方皋匏の䜓系第二䞀二節に含たれる個の方皋匏にそれぞれ p't, p'p, p'k   を乗じ、かくお埗たものを各䜓系ごずに加えれば、各々の合蚈の右蟺は互に盞等しいから、右の方皋匏の二぀の䜓系から、次の匏が埗られる。 Ωap'a=D'tp't+D'pp'p+D'kp'k+ 

   -(D'bp'b+D'cp'c+D'dp'd+ 

)  よっおたた次の匏が埗られる。 D'a-Ωap'a=(O't-D't)p't+(O'p-D'p)p'p+(O'k-D'k)p'k+ 

  䟡倀尺床財である商品の生産量はなお未だ偶然にしか決定せられない。しかし䌁業者が䜕らの利益を埗ず損倱も受けないように、この量をも決定するのが䟿利である。ずころで、かく決定するためには、䟡倀尺床財の生産費がその販売䟡栌に等しいこずを芁するのは明らかである。これらは、もし私共が最初に p'a=atp't+app'p+akp'k+ 

 =1 ず眮くだけの泚意をすれば、成立するこずである。  この方皋匏以倖には、均衡はあり埗ない。この方皋匏が満足されたず仮定すれば、D'b, D'c, D'd   が既にいったように決定せられたずき、均衡が珟われる。実際䌁業者が借入れた生産甚圹の量ず、この䌁業者がその生産物ず亀換に受ける量ずは等䟡倀である。なぜなら p'a はに等しく、の䌁業者は、、、  の䌁業者ず同じく、利益も埗なければ損倱も受けないからである。故に、 (O't-D't)p't+(O'p-D'p)p'p+(O'k-D'k)p'k+ 

 =0 であり、埓っお D'a=Ωap'a=Ωa である。  かくお実際には、䟡倀尺床財である生産物の生産費がに等しいように甚圹の䟡栌が決定せられたずき、私共が求める郚分均衡を埗るには、既にいったように、、、  の䌁業者が利益も埗なければ、損倱も受けないように、D'b, D'c, D'd   を決定すれば足るであろう。の需芁量 D'a はもちろん偶然に補造せられた量 Ωa である。ずころで生産者は生産物の D'a+D'bp'b+D'cp'c+D'dp'd   だけを取匕蚌曞で売り、甚圹の D'tp't+D'pp'p+D'kp'k+   だけを賌い、消費者は甚圹の O'tp't+O'pp'p+O'kp'k+   だけを取匕蚌曞で売り、生産物の D'a+D'bp'b+D'cp'c+D'dp'd+   だけを賌い、生産甚圹の甚いられた量ずその䟛絊量ずの均等を瀺す生産方皋匏の組を陀き、生産方皋匏のすべおが満足される。  二䞀四 だがこれらの他の方皋匏を満足せしめたず同じく、陀かれたこの方皋匏の䜓系をも満足せしめねばならない。賌われた生産甚圹の量ず販売せられた生産甚圹の量ずは単に等䟡倀であるこずを芁するのみでなく、等量でなければならぬ。なぜならこの量がたた生産物の補造に入り蟌む所の量であるから。かようにしお、今や、甚圹の䟛絊ず需芁の均等を生ぜしめお、生産の問題を完了すべきずきずなった。  この均等は、もし D't=O't, D'p=O'p, D'k=O'k   ならば、成立し埗るであろう。そのずきには、垂堎の仲買人は、生産者に察しお甚圹の取匕蚌曞を匕枡し、生産物の取匕蚌曞を受け、消費者に察しおは生産物の取匕蚌曞を匕枡し、甚圹の取匕蚌曞を受け、かくお甚圹ず生産物ずの亀換、甚圹ず甚圹ずの亀換が有効に行われる。けれども䞀般に、である。だから、合理的に修正せられた甚圹の䟡栌を基瀎ずしお、摞玢を繰り返さねばならぬ。この堎合に p't, p'p, p'k   は本質䞊正であるから、p'a=1, Ωa=D'a が成立぀ずきには、もし、量 O't-D't, O'p-D'p, O'k-D'k   のうち、あるものが正であるずすれば、他は負であり、たたその逆も成り立぀こずを泚意すべきである。  二䞀五 凜数で正の ot の合蚈すなわち甚圹の有効に䟛絊せられた量を衚わし、凜数で負の ot の合蚈すなわち、、、  の生産のために䌁業者が有効に需芁する甚圹の量ではなく、消費者が商品ずしお有効に需芁する甚圹の量、他の蚀葉でいえば、生産甚圹ずしおではなく消費甚圹ずしお有効に需芁せられるこの甚圹の合蚈を衚わせば、凜数 O't は U-u の圢ずするこずが出来よう。よっお、䞍等匏は、 の圢ずするこずが出来る。  D'a は倉化しないず仮定する。すなわち pt, pp, pk   のいかなる倉化にもかかわらず、埓っお生産費 pa の倉化がいかなるものであるにもかかわらず、の䌁業者が垞に同䞀量を生産するず仮定する。しからば巊蟺には、可倉項 btD'b, ctD'c, dtD'd   が残り、これらは䟡栌 pb, pc, pd   の枛少凜数である。埓っお、それらは䟡栌 pt の枛少凜数でもある。けだしこの pt の生産費はたたそれ自身䟡栌 pb, pc, pd   の増加凜数でもあるからである。たた可倉項が残る。もたた䟡栌 pt の枛少凜数である。よっお、pt がれロから無限ぞず増倧し、p'p, p'k   が䞀定であるずするず、D't+u はある䞀定の倀かられロにたで枛少する。  䞍等匏の右蟺の唯䞀の項は、pt の倀がれロであるずきにれロであるのはもちろん、この pt が正のある倀をずっおもなおれロである。これは、甚圹の倀に比し諞々の生産物の䟡栌が著しく倧であっお、それがため、これらの生産物に察するこの甚圹の所有者の需芁がれロである堎合である。䟡栌 pt が増倧すれば、凜数はたず増加する。そのずきには、生産物は、甚圹に比し、比范的により安くなり、これらの生産物の需芁が、これに䌎う甚圹の䟛絊ず同時に珟われる。だがこの甚圹の䟛絊は無限には増加しない。それは少くずも最倧を通る。この最倧は所有せられる合蚈量 Qt より倧ではあり埗ない。次にそれは枛少し、の䟡栌が無限ずなればすなわち、、、  が無料ずなれば、れロずなる。よっお、pt はれロから無限たで増倧するずき、はれロから出発し、増倧し、埌枛少し、れロに垰る。  二䞀六 これらの条件の䞋で、がれロであるこずを止める前に、D't+u がれロずなる堎合――この堎合には問題は解けない――を陀けば、の有効需芁ず有効䟛絊を等しからしめる pt のある倀がある。この pt は、であるに埓っお、である。p''t をの有効需芁ず有効䟛絊を等しからしめる pt の倀ずし、π''b, π''c, π''d  を先に述べたようにしお埗られた、、  の生産費に等しい販売䟡栌ずし、Ω''t を需芁に等しいの䟛絊ずすれば、 Ω''t=Ft(p''t, p'p, p'k 

 π''b, π''c, π''d 

) が埗られる。  この操䜜が行われたずきは、凜数 O'p=Fp(p't, p'p, p'k 

 p'b, p'c, p'd 

) は Ω''p=Fp(p''t, p'p, p'k 

 π''b, π''c, π''d 

) ずなる。そしお甚圹のこの䟛絊はその需芁より倧ずなるかたたは小ずなる。しかしの有効䟛絊ず有効需芁ずを等しからしめる pp のある倀があり、これを、私共は p''t を芋出すに甚いたず同䞀の方法によっお、芋出すこずが出来る。p''p をこの倀ずし、π'''b, π'''c, π'''d   を既に述べたようにしお第二䞀䞀、二䞀二節埗られた、、  の生産費に等しい販売䟡栌ずし、Ω'''p を需芁に等しいの䟛絊ずすれば、 Ω'''p=Fp(p''t, p''p, p'k 

 π'''b, π'''c, π'''d 

) が埗られる。  同様にしお、 ΩIVk=Fk(p''t, p''p, p''k 

 πIVb, πIVc, πIVd 

) が埗られ、以䞋同様である。  二䞀䞃 これらすべおの行動を終えれば、 O''t=Ft(p''t, p''p, p''k 

 p''b, p''c, p''d 

) が埗られる。そしお蚌明せねばならぬこずは、䟛絊 O't が需芁 D't に近䌌しおいるよりも、より倚くこの䟛絊 O''t が需芁 D''t に近䌌しおいるこずである。ずころで、これはほがたしからしく芋える。けだし、䟛絊を需芁に等しからしめる所の p't から p''t ぞの倉化は盎接にその圱響を生じ、少くずもの需芁に察しおは圱響の党郚を同䞀方向に生ぜしめるのに反し、この䟛絊ず需芁ずを均等から遠ざける所の p'p, p'k   から p''p, p''k ぞの倉化は間接にしか圱響を生ぜず、少くずもの需芁に察しおは、反察の方向のか぀ある皋床たでは互に盞殺し合う圱響を生ずるからである。故に新しい䟡栌 p''t, p''p, p''k   の䜓系は、旧䟡栌 p't, p'p, p'k   の䜓系より均衡に近いのであっお、この均衡にたすたす接近するには、同じ方法に埓っお倉化を継続すればよい。  ずころでこの摞玢は、甚圹の垂堎においお自由競争の制床の䞋に自然的に行われるものである。けだし、この制床の䞋に需芁が䟛絊より倧ならば、人々は甚圹の䟡栌を隰貎せしめ、䟛絊が需芁より倧ならば、この䟡栌を䞋萜せしめるからである。  二䞀八 均衡が実珟されたず仮定すれば、生産物の䟡栌は、 p''a=atp''t+app''p+akp''k+ 

 p''b=btp''t+bpp''p+bkp''k+ 

 p''c=ctp''t+cpp''p+ckp''k+ 

 p''d=dtp''t+dpp''p+dkp''k+ 

 














 であり、他方、生産的甚圹の需芁量は、 D''t=atD'a+btD''b+ctD''c+dtD''d+ 

 D''p=apD'a+bpD''b+cpD''c+dpD''d+ 

 D''k=akD'a+bkD''b+ckD''c+dkD''d+ 

 



















 である。か぀量 D''b, D''c, D''d   は生産物、、  の需芁方皋匏を満足するものであり、量 D''t=O''t, D''p=O''p, D''k=O''k   は甚圹、、  の䟛絊方皋匏を満足するものである。これらの方皋匏においお、p''t, p''p, p''k 

 p''b, p''c, p''d   は独立倉数である。右の二組の方皋匏から、次の方皋匏が匕き出される。 D'ap''a=D''tp''t+D''pp''p+D''kp''k+ 

    -(D''bp''b+D''cp''c+D''dp''d+ 

)  この堎合には、次の方皋匏によっお、の D''a 量が需芁せられる。 D''a=o''tp''t+O''pp''p+O''kp''k+ 

   -(D''bp''b+D''cp''c+D''dp''d+ 

)  そしお D''t=O''t, D''p=O''p, D''k=O''k   であるから、 D''a=D'ap''a である。  これで解るように、問題の方皋匏のすべおは、ただ䞀぀の䟋倖を陀き、満足された。この䟋倖は、䟡倀尺床財である商品の需芁ず䟛絊ずの均等を生ぜしめるこの商品の生産費の方皋匏、たたはこの商品の販売䟡栌を生産費すなわちに等しからしめるこの商品の需芁方皋匏である。だからもし偶然に、p''a=1 であったずすれば、D'a=D''a であろうし、たたはもし偶然に D'a=D''a であったずすれば、p''a=1 であろう。そしお問題は党く解けるのである。しかし䞀般に、p't, p'p, p'k   が既に述べたようにしお、p''t, p''p, p''k に倉化した埌には ずなり、埓っお ずなる。  二䞀九 だから生産方皋匏の䜓系の解法を完結するには、なお、方皋匏 atp'''t+app'''p+akp'''k+ 

 =p'''a=1 に埓い、p'''t, p'''p, p'''k を決定しながら、換蚀すればのいずれかであるに埓っお、ならしめながら、すべおの摞玢を繰り返さねばならぬ。  この新しい点から出発しお、私共は、たず第䞀過皋ずしお、生産物の垂堎においお、方皋匏 D'''a=O'''tp'''t+O'''pp'''p+O'''kp'''k+ 

   -(D'''bp'''b+D'''cp'''c+D'''dp'''d+ 

) によっお D'''a を決定し、次に第二過皋ずしお、甚圹の垂堎においお、方皋匏 DIVa=D'''apIVa によっお、DIVa を決定する。ここで蚌明すべきこずは、pIVa が p''a よりもに近いずいうこずである。ずころで、このこずがほがたしかであるこずは、䟋えば p''a>1 である堎合には、p'''b<p''b, p'''c<p''c, p'''d<p''d   であり、埓っお、D'''b>D''b, D'''c>D''c, D'''d>D''d   であり、埓っおたた D'''a<D''a であるこずを考えおみれば、容易に解る。かくお、p'''a=1 ならば、p'''a は pIVa ずなるために、、、  の需芁の増加によっお増倧し、の需芁の枛少によっお枛少する。p''a<1 である堎合には、p'''a は、pIVa ずなるために、、、  の需芁の枛少によっお枛少し、の需芁の増加によっお倧ずなる。それらいずれの堎合にも、これらの傟向は反察の方向をずっおいるから、これらの圱響によっお、pa は、pt, pp, pk   の枛少たたは増倧の圱響によっおに近づくよりも、より倚くに接近する。そしお同じ方法を継続すれば、たすたすに近づく。぀いにこれに達し、pIVa=1 ずなったず仮定すれば、D'''a=DIVa が埗られ、問題は完党に解かれる。  ずころで、今たで私が蚘述しおきた摞玢は自由競争の制床の䞋に自然に行われるのである。実際 D''a=D'ap''a であるずきには、の生産者の負債は D'ap''a である。このずき圌らは、の需芁量 D''a を䟡栌で提䟛すれば、利益ずしお D'a-D''a=D'a(1-p''a) を埗る。この差は、もし p''a<1 であっお D'a>D''a であるならば、本来の意味の利益bénéficeである。しかしこの堎合には、圌らは生産を拡匵し、p''t, p''p, p''k   を増倧せしめ、埓っお p''a を増倧せしめ、p''a はに近づく。右の差は、もし p''a>1 であっお、D'a<D''a であるならば、損倱である。生産者はこの損倱を負担せねばならぬ。このずきには、圌らは生産を制限し、p''t, p''p, p''k   を枛少せしめ、埓っお p''a を枛ぜしめ、この p''a はに近づく。ここで泚意すべきこずは、の䌁業者は、䟡倀尺床財である商品の生産費が販売䟡栌すなわちより倧であっお、確かに圌らに損倱を生ぜしめるような堎合には、これを生産せず、ただ生産費がより小なるかたたはこれに等しい堎合にのみこれを生産し、損倱を䌎う地䜍を避け埗る自由をもっおいるこずである。いずれにせよ、結局の䌁業者は、、、  の䌁業者のように、販売䟡栌が生産費より倧なる堎合にはその生産を拡匵し、生産費が販売䟡栌より倧なる堎合にはこれを制限するよりほかはない。前の堎合には、圌らは、甚圹の垂堎においお、甚圹の䟡栌を隰貎せしめ、埌の堎合には、これを䞋萜せしめる。これら二぀のいずれの堎合にも、圌らは均衡を生ぜしめるに至るのである。  二二〇 この蚌明の党おの郚分を結合しお、垂堎䟡栌成立の法則すなわち生産の均衡䟡栌成立の法則を次のように定立するこずが出来る。  ――諞生産物の補造に甚いられか぀䟡倀尺床財の仲介によりこれらの諞生産物ず亀換せられる諞生産甚圹が䞎えられお、垂堎の均衡が珟われるには、換蚀すれば䟡倀尺床財で衚わされたこれらすべおの甚圹の䟡栌ずすべおの生産物の䟡栌が静止状態にあるには、䞀これらの䟡栌においお、各甚圹及び各生産物の有効需芁が有効䟛絊に等しく、二生産物の販売䟡栌が甚圹から成るその生産費に等しくなければならぬし、たたこれだけの条件が充されれば足るのである。これら二぀の均等が存圚しないずき、第䞀の均等を実珟するには、有効需芁が有効䟛絊より倧なる甚圹たたは生産物の䟡栌を隰貎せしめねばならないし、たた有効䟛絊が有効需芁より倧なる甚圹たたは生産物の䟡栌を䞋萜せしめねばならない。そしお第二の均等を実珟するには、販売䟡栌が生産費より倧なる生産物の量を増加せねばならぬし、生産費が販売䟡栌より倧なる生産物の量を枛少せねばならぬ。  以䞊が生産の均衡䟡栌の成立の法則である。この法則を、次に私が為そうずしおいるように、適圓に䞀般化された均衡䟡栌倉動の法則ず結合すれば、二重の法則である需芁䟛絊及び生産費の法則の科孊的方匏が埗られよう。     第二十二章 自由競争の原理に぀いお。生産物の䟡栌ず甚圹の䟡栌ずの倉動の法則。甚圹の賌買曲線及び販売曲線。生産物の䟡栌曲線。 芁目 二二䞀 生産の領域における自由競争の解析的定矩。二二二 自由競争の玔粋か぀単玔な事実たたは抂念は原理ずなる。二二䞉 「自由攟任」の蚌明は䞎えられおいない。認識されない䟋倖、公共事業、自然的必然的独占、瀟䌚的富の分配。二二四、二二五、二二六 甚圹の亀換䟡倀ず皀少性の比䟋性。二二䞃 生産物ず甚圹の均衡䟡栌の倉動の法則。二二八、二二九 甚圹の賌買曲線ず販売曲線。二䞉〇 生産物の䟡栌の曲線。  二二䞀 第二十䞀章になした蚌明によっお、生産の領域における自由競争こそ、第二十章の方皋匏の実際的解法であるこずが明らかになった。換蚀すれば䞀方、䌁業者が、利益があるずき生産を拡匵し、損倱を受けるずきこれを瞮少し埗る自由ず、他方、地䞻・劎働者・資本家が甚圹をせり䞋げ぀぀売り、生産物をせり䞊げ぀぀賌い埗る自由、䌁業者が甚圹をせり䞊げ぀぀賌い、生産物をせり䞋げ぀぀売り埗る自由こそが、第二十章の方皋匏の実際的解法である。飜っお、これらの方皋匏及びこれらの方皋匏がよっお立぀所の条件を回想すれば、蚘憶に甊っおくるものは次の劂くである。  ――自由競争によっお支配せられる垂堎における生産は、甚圹が、欲望の可胜的最倧満足を生ぜしめるに適圓な性質ず量ずの生産物に倉圢せられるために結合せられる操䜜である。ただしこの結合は、各生産物及び各甚圹が垂堎においおはそれぞれの需芁ず䟛絊ずを等しからしめる所の唯䞀の䟡栌しかもたないずいう条件ず、生産物の販売䟡栌は甚圹から成る生産費に等しいずいう条件のうちに、なされるものでなければならぬ。  二二二 最埌におそらく人々は、科孊的に䞹念に仕䞊げられた玔粋経枈孊の重芁さを知ろうず欲するであろう。私は、玔粋科孊の芳点に立っお、今たで自由競争を䞀぀の事実ずしお採らなければならなかったし、たた採っおきたのである。吊、これを䞀぀の仮説ずしおさえ採っおきたのである。これを私共が珟実に芋るか吊かは、さたで重芁ではない。厳密にいえば、これを思想のうちに考え埗るのみで足りる。私は、これらの䞎件の䞋で、自由競争の性質・原因・結果を研究した。今や、これらの結果を芁玄すれば、ある限界の䞭で利甚の最倧を生ぜしめるこずであるこずが明らかになった。これによっおこの自由競争の事実は利益の原理たたは利益の準則ずなる。これを蟲・工・商業に现密に適甚するこずが残されおいるだけである。かくお玔粋経枈孊の結論によっお、私共は応甚科孊の入口にたで運ばれおくる。ここで読者は、私共の方法に察するある反察論が自らいかにその力を倱うかを、芋られるであろう。ある者はたずいった、「自由競争における䟡栌の決定の芁因の䞀぀は人間の意志であっお、その決断を蚈算するこずは䞍可胜である」ず。だが私は、人間の自由による決断を蚈算しようず詊みたこずはない。ただその結果を数孊的に衚わそうず詊みただけである。私の理論にあっおは、各亀換者は自分の理解に基づいお、各自の利甚欲望曲線を圢成するず仮定せられおいる。ひずたびこれらの曲線が圢成せられれば、いかにしお曲線たたは䟡栌が絶察的自由競争の仮蚭的の制床の䞋に珟われるかを、瀺すこずが出来る。しかるにある人はいう、「だが絶察的自由競争はたさしく䞀぀の仮説に過ぎない。珟実においおは自由競争は、劚害をなす無数の原因によっお劚げられおいる。故に、いかなる方匏を甚いおも衚わし埗ない劚害芁因を取陀かれた自由競争それ自䜓のみを研究するのは、奜奇心を満足する以倖に䜕らの利益もあり埗ない」ず。この反察論の内容の空虚なこずは明らかである。今埌いかに科孊が進歩しおも、劚害原因を、亀換方皋匏及び生産方皋匏に導き入れお衚わし埗ないず仮定しおみおも、――これを䞻匵するのはおそらく軜率であり、たしかに無益である――私が立おた方皋匏は生産の自由ずいう䞀般的にしお優れた準則にだけは導き埗るのである。自由は、ある限界のうちで、最倧利甚を生ぜしめる。故にこれを劚げる原因は、最倧利甚の実珟を劚げる。そしおこれらの原因がいかなるものであろうずも、私共は出来埗るだけそれらを陀去せねばならぬ。  二二䞉 経枈孊者が既に自由攟任laisser faire, laisser passerを錓吹しながら述べおきたこずは芁するにこれであった。䞍幞にしお今日たでの経枈孊者は圌らのレッセ・フェヌル、レッセ・パッセを蚌明するこずをせず、ただ囜家の干枉をこれたた蚌明するこずなく䞻匵した新旧の瀟䌚䞻矩者に察抗しお、これを䞻匵するだけであった。かくいえば、感激しやすい人は盎ちにこれに反察しおくるであろう。しかし問うこずを私に蚱されたい、経枈孊者が自由競争の結果がいかなるものであるかを知らないずしたら、圌らはいかにしお、これらの結果がよいずか有利であるずかいい埗るかず。たた、定矩を䞋さず、たたそのこずに関係があり、そのこずを蚌明する法則を定立せずしお、自由競争が有利なこずをいかにしお知り埗るかず。これこそレッセ・フェヌル、レッセ・パッセが経枈孊者によっお蚌明されなかったず、私がいう先隓的理由である。なお次に述べるような経隓的な理由がある。ある原理が科孊的に定立せられたずき、なし埗る第䞀のこずは、これが適甚される堎合ず、適甚されない堎合ずを匁別するこずである。これを反察から考えおみるず、経枈孊者が自由競争を拡匵しおしばしばその限界を超えおいるのは、この自由競争の原理が充分に蚌明されおいないよい蚌拠である。これらを今䟋を挙げお説明しおみる。自由競争に぀いおの私の蚌明は、第䞀の基瀎ずしお、甚圹及び生産物に察する消費者の利甚の評䟡に䟝存する。故にそれは、消費者が評䟡し埗る個人的欲望すなわち私的利甚utilité privéず、これずは党く異る方法で評䟡せられる瀟䌚的欲望すなわち公的利甚utilité publiqueずの間の根本的区別を予想しおいる。故に私的利益に関する物の生産に適甚せられる自由競争の原理は、公共利益の物の生産に適甚せられるべきではない。しかるに、公共甚務を私的䌁業に委ねお自由競争に埓わしめようずする謬想に陥った経枈孊者もある。なお他の䟋を挙げる。私の蚌明は、第二の基瀎ずしお、生産物の販売䟡栌ず生産費ずの均等化に䟝存する。故にそれは、䌁業者が利益のある䌁業に集り、損倱のある䌁業を去り埗る可胜性を予想する。だから自由競争の原理は、自然的必然的独占の察象である物の生産には、必然的に適甚せられない。しかるに独占的産業に぀いおも、自由競争を絶えず䞻匵する所の経枈孊者がある。最埌に自由競争に぀いおの考察をおえるために、最埌ではあるが最も重芁な解説をしおおく。すなわち利甚の問題を明らかにしながら自由競争に぀いおなした私の蚌明は、正矩の問題を党く考慮倖に眮く。私の蚌明は、甚圹のある配分から生産物のいかなる分配が生ずるかの点に限られおいる。それは、甚圹の分配の問題には少しも觊れおいない。しかるに産業の問題に぀いお、レッセ・フェヌル、レッセ・パッセを高調するこずで満足せず、これを所有暩の問題にたで故なく劄りに適甚しようずしおいる経枈孊者がある。これこそ、科孊を文孊的に取扱うこずの危険である理由である。真ず停ずを同時に䞻匵する人があり、埓っお停ず真ずを共に吊定しようずする人がある。そしお、互に理由もあれば誀っおもいる所の反察者によっお、反察の方向に匕匵られながら、人々の意芋が決定せられる。  二二四 vt, vp, vk   は甚圹、、  の亀換䟡倀であり、これらず生産物の亀換䟡倀 va ずの比がこれらの甚圹の䟡栌を成すものであり、rt,1, rp,1, rk,1 

 rt,2, rp,2, rk,2 

 rt,3, rp,3, rk,3   はこれらの甚圹を盎接に消費するために保留したたは獲埗した人、、  における亀換埌のこれらの甚圹の皀少性すなわち充された最埌の欲望の匷床であるずするず、私共は䞀般均衡の衚第䞀䞉䞉節を次の劂く補足せねばならぬ。  va :vb :vc :vd :

:vt :vp :vk :

 ::ra,1:rb,1:rc,1:rd,1:

:rt,1:rp,1:rk,1:

 ::ra,2:rb,2:rc,2:rd,2:

:rt,2:rp,2:rk,2:

 ::ra,3:rb,3:rc,3:rd,3:

:rt,3:rp,3:rk,3:

 ::




















  盎接に消費せられる地甚・劎働・利殖は、あるいは時間で蚈量せられる無限小量ず぀、あるいは土地・人・資本の蚈量単䜍に盞応する量ず぀、消費せられるこずが出来る。故に衚䞭にこれらに関する郚分に、充された最埌の欲望の匷床ず充されない最初の欲望の匷床ずのおよそ䞭間に、䞋線を斜した皀少性の項を蚘入するこずが出来る。か぀たた甚圹に぀いおも、生産物に぀いおも、充されるべき最初の欲望の匷床より倧きい皀少性の比䟋項を括匧のうちに蚘入するこずが出来る。これらの二぀の留保をすれば、生産物に぀いおの次の呜題は、甚圹ぞず拡匵せられるこずが出来る。――亀換䟡倀は皀少性に比䟋する。  二二五 、、は無限小量ず぀消費せられ埗る土地甚圹・人的甚圹・動産甚圹であり、τr,1τq,1, τr,2τq,2, τr,3τq,3, πr,1πq,1, πr,2πq,2, πr,3πq,3, χr,1χq,1, χr,2χq,2, χr,3χq,3第六図は亀換者、、に察するこれらの甚圹の利甚たたは欲望の連続な曲線であるずする。0.75, 2.16, 1.50 を、で衚わした、、の䟡栌であるずする。この仮定せられた堎合においお、亀換者ず亀換者ずは䞉぀の甚圹を消費する。この仮定せられた堎合においお、亀換者は甚圹のそれぞれの量、、を消費し、それぞれの皀少性は 1.50, 4.33, 3 ずなったずし、亀換者はそれぞれの量、、を消費し、それぞれの皀少性は 3, 8.66, 6 ずなったずする。亀換者は地甚の量を消費し、その皀少性は 4.50 であるずする。しかるに圌においお、劎働、利殖のそれぞれの皀少性系列に蚘入せられるべき数字 13, 9 は、これら甚圹の充すべき最初の欲望の匷床 9, 6 より倧であるため、これら二぀の甚圹が欠けおいる。故に次の均衡の衚が埗られる。  0.75:2.16:1.50 ::1.50:4.33:3 ::4.50:(13):(9) ::3 :8.66:6  二二六 、、のそれぞれの平均皀少性を Rt, Rp, Rk ず呌び、これらの平均を算出するのに、䞋線を附した数字及び括匧内の数字を蚈算䞭に入れるこずを条件ずすれば、次の方皋匏を立おるこずが出来る。  二二䞃 䟡栌倉動の法則はたたこれを䞀般化しお第䞀䞉䞃節、次のような蚀葉でいい衚わすべきである。  ――亀換が䟡倀尺床財の仲介によっお行われる垂堎においお、諞々の生産物たたは甚圹が均衡状態においお䞎えられ、か぀他の事情が同䞀であっお、もしこれらの生産物たたは甚圹の䞀぀の利甚が亀換者の䞀人たたは倚数に察し増加したたは枛少すれば、䟡倀尺床財で衚わしたこの生産物たたは甚圹の䟡栌は隰貎したたは䞋萜する。  他の事情が同䞀であっお、もしこれらの生産物たたは甚圹の䞀぀の量がこれらの物の所有者の䞀人たたは倚数に぀いお増加したたは枛少すれば、この生産物の䟡栌は䞋萜したたは隰貎する。  諞々の生産物たたは甚圹の䟡栌が䞎えられ、これらの生産物たたは甚圹の䞀぀の利甚たたは量が亀換者たたは所有者の䞀人たたは倚数においお倉化しおも、それらの皀少性が倉化しなければ、この生産物たたは甚圹の䟡栌は倉化しない。  もしすべおの生産物たたは甚圹の利甚及び量が亀換者たたは所有者の䞀人たたは倚数に぀いお倉化しおも、それらの皀少性の比が倉化しないならば、これらの生産物たたは甚圹の䟡栌は倉化しない。  なおこれらに二぀の他の呜題を附け加えるこずが出来る。  ――すべおの事情が同䞀であっお、䞀人たたは倚数の人の所有するある甚圹の量が増加たたは枛少し、埓っお䟡栌が䞋萜したたは隰貎すれば、この甚圹を入れお補造せられる生産物の䟡栌は䞋萜したたは隰貎する。  他の事情が同䞀であっお、消費者の䞀人たたは倚数に察するある生産物の利甚が増加したたは枛少し、有効需芁が増加したたは枛少し、埓っお䟡栌が隰貎したたは枛少すれば、この生産物に入り蟌む甚圹の䟡栌は隰貎したたは䞋萜する。  二二八 第十五章においお、私は賌買曲線及び販売曲線を圢成した第䞀五䞀節。他の蚀葉でいえば、䞀般均衡状態においお亀換垂堎に最埌に達せられる需芁曲線すなわち䟡倀尺床財でなされる商品の需芁曲線及び䟡倀尺床財を受けおなされる商品の䟛絊曲線を圢成した。次に私は、䟛絊を所有量ず盞等しいず仮定し、賌買曲線を䟡栌の曲線に倉化した第䞀五䞉節。私はここで再びこの抂念に垰っお、これを甚圹及び生産物に関しお補充しなければならぬ。  二二九 を䟡倀尺床財ずする。か぀䞀方甚圹、  ず生産物、、、  ずが䞀定の䞀般均衡䟡栌 p'p, p'k, 

 p'b, p'c, p'd   で互に亀換せられ、たたは亀換せられようずしおいるずし、他方甚圹がその存圚を認められ、たたその所有せられおいる量を認められお、垂堎に珟われ、亀換及び生産の機構のうちに姿を出珟したずする。  理論的にはが出珟すれば、二぀の新未知数 pt, Ot ず二぀の補足的な方皋匏を導き入れられた生産方皋匏の四個の䜓系の成立を必芁ずする第二〇二、二〇䞉節。これらの二぀の補足的方皋匏の䞀぀はの需芁方皋匏 atDa+btDb+ctDc+dtDd+ 

 =Ot であり、他はの䟛絊方皋匏 Ot=Ft(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) である。先になしたように第二䞀五節、正の ot 及び負の ot をそれぞれ及びで衚わせば、これら二぀の方皋匏は、ただ䞀぀の方皋匏 atDa+btDb+ctDc+dtDd

+u=U ずなる。しかし、他の䟡栌の倉化ず他の有効需芁及び䟛絊の倉化を捚象し、これらを垞数ず考えれば、この方皋匏の巊蟺は、ただ䞀぀の凜数 pt の枛少凜数であっお、幟䜕孊的には賌買曲線 TdTp第九図によっお衚わされ埗る。右蟺は同じ倉数 pt の凜数であっお、初め増加凜数であっお、次いで枛少凜数ずなる。その倀はれロから出発しおれロ無限遠点においおに垰るのである。この右蟺は幟䜕孊的には販売曲線 MN によっお衚わされ埗る。二曲線の亀点が䟡栌 pt を決定する。  二䞉〇 を垞に䟡倀尺床財ずする。か぀䞀方甚圹、、  ず生産物、、  ずが䞀定の䞀般均衡䟡栌 p't, p'p, p'k 

 p'c, p'd   で互に亀換せられたたは亀換せられようずし、他方生産物の補造方法が発芋せられ、が公衆の領域に入っおき、垂堎に珟われお、亀換及び生産の機構のうちに姿を珟わしたずする。  理論的には、の出珟は、二぀の未知数ず二぀の補足的方皋匏を導き入れられた新しい生産方皋匏の四぀の䜓系を必芁ずする。これら二぀の補充的方皋匏の䞀぀はの需芁方皋匏 Db=Fb(pt, pp, pk 

 pb, pc, pd 

) であり、他はの生産費方皋匏 btpt+bppp+bkpk+ 

 =pb である。  だがもし他の䟡栌の倉化、他の有効需芁及び䟛絊の倉化を捚象し、これらを垞数ず考えれば、Db は唯䞀の倉数 pb の枛少凜数であっお、幟䜕孊的には䟡栌曲線 BdBp第十図によっお衚わされ埗る。暪坐暙 pb をも぀点の瞊坐暙は需芁 Db を衚わす。かくお私共は、既に瀺した幟䜕孊的衚珟に立ち垰るわけである。